夏が終っても〔乙〕(後)
それだけではない。私がそうである様に。
葛様も柚明さんを好いたが故に、苦虫を。
桂さんを求め望む上では競合相手なのに。
彼女から見ても桂さんを巡る敵手なのに。
忌み嫌い憎んでくれればまだ理解できた。
でもあの人は我欲がないのかと思える程。
周囲の他の人迄をも想い気遣い愛おしみ。
時に桂さんと他の誰かの絆を繋ごうと迄。
仇だったノゾミも受け入れ助け支え守り。
己の届かぬ処で桂さんと紡ぐ愛迄受容し。
その情愛に包まれる心地よさに負けそうで。
桂さんという人が存在しなければ私とても。
「あの人に、戦いを挑んでしまいました…」
桂おねーさんの想いは確かめた。彼女を得るには、想い人の方を退かせる他に術はない。
彼女は白花さんと桂おねーさんの2人を強く想っている。わたしは桂おねーさん1人です。
「あの人の想いが幾ら深く強くても、一番に想っているにしても。2人に分けた想いなら、
半分の想いになら一途さで、葛が勝てる…」
とは思っていませんでしたよ、実際には。
彼女の想いの深さは尋常ではありません。
敗色濃厚と分っていて、総突撃してしまい。
予見通り敗退してしまいました。情けない。
『葛様は、挑んで敗れたかったのだろうか。
桂さんに残す未練に決着を付ける為に…』
「桂おねーさんの一番である以上に、己に返る報いを望まず、桂おねーさんの幸せだけを
一番に願えるあの人に、わたしは勝てない」
その悔しさも、嫉妬も憎悪もさらけ出して叩き付けたのに。一昨日夕刻に重大な局面で
彼女を傷つけ危うくさせた若杉葛に。策謀と呪詛の渦巻く世界の住人である鬼切りの頭に。
あの人は分って全幅の信を寄せて。愚かしい。
【わたしは桂おねーさんを愛したから、あなたが一番邪魔なんです。おねーさんの一番で
あるあなたが一番目障りで、除きたいんです。
この侭生かして若杉に戻せば、権力財力を使い放題なわたしが、今後どう出るか分りま
せんよ。鬼切部が贄の民の味方とは限らない。贄の血は鬼を呼び鬼に力を与えるのですか
ら。
わたしが一番に想うのは桂おねーさん独りです。だから葛は迷わない。あなたがおねー
さんの害になるなら、葛の想いに邪魔になるなら、いつでもどんな手段でも排除できる】
「と迄言ったんですけんどねー」「葛様…」
【わたしを始末しないと、その内わたしがあなたを排除します。いーのですか? 折角の
一番の人との日々が、潰える前に先にわたしを除いておかなくても】「それは為さないで
しょう。葛様は桂さんのたいせつな人です」
例え葛様が桂さんの一番を奪い取っても。
彼女はその様な行いはしないし出来ない。
それが彼女の強さでもあり弱みでもある。
私の返答に葛様は不機嫌を露わに見せて、
「通じ合っているのですね。羨ましーです」
彼女に、抱き留められました。あの人は発した問に答える以上に、問を発した人の想い
に応えてくる。問うてもなかった葛の傷心を、知らせる積りもなかった渇仰を、満たそー
と。
「わたしがミカゲに踊らされたのは、ノゾミへの憤懣だけではありません。桂おねーさん
の願いを受けて、ノゾミを傍に置く助けを為したオハシラ様への、彼女への憤懣も込みだ
ったのに。桂おねーさんの想いをどこ迄も受けて応えられる、真っ白な信への嫉妬でもあ
ったのに。それを込めた鏃を受けて彼女は」
その葛を抱き留めて肌身に愛しみを伝え。
わたしの心の光の面を褒め称え慈しんで。
毒虫の葛に真っ白な信を預けて悔いずに。
【有り難う。葛さんは、優しい子……。ノゾミに抱いた憎しみも、わたしに抱いた嫉妬心
も、ミカゲに唆される迄じっと堪えてくれていた。桂ちゃんをたいせつに想うから、桂ち
ゃんがたいせつに想った人達に、向けるべき想いを向けられず。辛かったでしょうに…】
柚明さんらしい極上の甘さだった。その立場に置かれても千羽烏月には、否他の誰にも、
許し受容する以上は考えつけなかっただろう。
「子供騙しでも、騙されたくなってしまう。
注がれる愛しさが、尋常ではないのです。
他の誰の言葉でも笑い飛ばせる中身なのに。果物ナイフも鬼切り役が持てば最強武具と
なる様に。あの人が発した時のみ、真実となる。一番でもない想いに葛が心揺らされるな
んて。桂おねーさん以外に、あってはならないのに。
桂おねーさんではないわたしに迄。一番ではなくむしろ競合相手の葛に迄。あの人は生
命を注ぐ如く、心の底からたいせつに想い」
敵対しない為に逆に相手に深く踏み込む。
そう言う対処がある事は私も知っていた。
敵意を抱かず故に相手にも敵意を抱かせぬ。
でも彼女の言動は処世術のレベルではなく。
一番に想った桂さんの大事な人だから、嫉妬や敵意や憤懣を抱かれても、それを行動に
移されても、身に害を受けても、生命脅かされてさえ、決して見捨てず支え助け守り庇う。
その結果、己とではなく、他の誰かが桂さんと深い絆を繋いでも。それが桂さんの幸せ
と守りになるのなら、喜んで受容し見送れる。その相手に迄も同等に近い情愛を注ぎ込め
る。
「その上でユメイおねーさんは唯甘い訳じゃない。想いがあれば何でも突き通せると過信
はしてない。むしろ想いを叶える為に広く深く長期に短期に、様々な思索を紡いでいて」
【葛さんが桂ちゃんを守る為に、必要と判断した時には、わたしを切り捨てて結構です】
「わたしの宣告の真意も、あっさり見抜かれました。オハシラ様の力なのか、彼女の感受
性や明晰さがそれらを読み解かせるのか…」
【鬼切部が葛さんの想いだけで動かせる組織ではない事は、承知しています。鬼切りの頭
の故に、どうにもならない時もあるでしょう。迷えば何もかも失う極限状態で、1つしか
救えない時も。桂ちゃんを守る為に葛さんが必要だと想う時には、わたしはいつでも己を
捧げます。その唇で告げて下さい。従います】
柚明さんは、桂さんを守る為には、あなたを囮や身代りや生贄にする事もあると。そう
告げた葛様の心情を逆に気遣って。躊躇なく処断して良いと。時に切られる事さえ望むと。
葛様が私に抱いた羨みが漸く理解できた。
葛様は正座したわたしに立った姿勢から。
「そーなった時は、わたしは烏月さんに命を下す積りです。その日が来ない事を祈るのみ
ですが。あなたと彼女が戦うなんて、桂おねーさんではないけど、考えたくもないです」
鬼切りの頭は常に最悪の事態を考えねばならぬ。一度人である事を失った存在が戻り来
る事が、人の世に与える影響は計り知れない。生贄になってから戻った者など、神話の時
代から例がないのだ。私が望まぬながらもその末の選択を考えねばならない様に、葛様も
又。
「その時は、桂さんに哀しまれるのは葛様一人ではありません。必ず烏月がお供致します。
心ならずそうせねばならない苦衷は私も共に。葛様は千羽烏月のたいせつな人。君臣の関
係以上に、私が心から支え守り助けたい人です。
この屋敷で身近に起居する日々が終っても、夏が終っても。この想いは終生変りませ
ん」
その想定を為す後ろめたさも。それで尚鬼切部でなければ、桂さん達を有効に守れない
から。己の定めを幸せと受け止めて。過酷な選択の時が来ない事を祈り願い作り上げつつ。
私はこの人の為に鬼切部の職責を全うしよう。
「あなたもわたしをたいせつに想ってくれますか? 桂おねーさんへの愛には及ばずとも、
二番目にはたいせつに想ってくれますか?」
葛様は私もたいせつに想って下さっている。
私が桂さんをたいせつに想う競合相手でも。
共々柚明さんに及ばなかった同士だからか。
むしろ私の想いを、欲しておられる様にも。
見上げた瞳は、私の内心を承知で問うている為か、微かに潤んでいた。平気さを幾ら装
っても切れそうな女の子の線の細さが見えて。心から助け支えたく、守り庇い抱き留めた
く。
「千羽烏月の一番たいせつな人は桂さんで。
二番目にたいせつな人は、柚明さんです。
2人とも心底支え助け守りたい愛しい人。
私の心の闇や痛みに迄踏み込んでくれて。
私の行くべき途を照し導き招いてくれた。
強く柔らかに愛しい私の心の太陽と望月。
この想いは変えられない、譲れない烏月の真の想いです。それをご承知頂いた上で…」
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「お許し頂けるなら、私は葛様を柚明さんと同着で二番目にたいせつに想いたい。主君に
対し無礼の限りではありますが、どうか…」
頭を下げて願うわたしに、葛様の溜息は多くの残念さと少しの安堵を混ぜ合わせていて。
「あの人とは引分ですか。3連敗は避けられた訳ですね……分りました。良いでしょー」
葛様は仕方ないという声音で、でも顔色は微かな笑みを隠せずに、面を上げる様に促し。
「千羽烏月は若杉葛のたいせつな人。君臣の隔てを超えて、この身も心も預けられる、清
く正しく美しい、涼やかに愛しい女性剣士…。
色々な面で、期待させて頂きますよ。強く賢く美しい千羽党の鬼切り役」「努めます」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「一段落付いた処で、烏月さんのデートの顛末を教えて下さい。その様子では烏月さんは、
桂おねーさんに告白しなかった様ですね…」
「つつ葛様っ。私と桂さんは女子同士です」
踏み込まれて私が再び慌ててしまうのに。
葛様は私の心中を楽しむかの様に微笑み。
「わたしは既に敗れました。悔しいから他人の敗報を聞いて心慰めたいです。他人の不幸
は蜜の味。烏月さんなら、想いを口に出来ず悶々するより、すぱっと白黒付けると思った
のですけどねー。一番ですとは、言わなかったのですか? 一番の想いを下さいとは?」
【羽藤桂は、千羽烏月のたいせつな人だ…】
私が今鬼を切るのは人を守る為、人の想いを守る為。桂さん、あなたを守る力になる為。
【私があなたを、生涯たいせつに想う事を許して欲しい。守り助け支えさせて欲しい…】
仮に桂さんに他に一番の人が出来たなら。
千羽烏月はその人も含めて助け支え守る。
力の限り、心の限り、私の全てを注いで。
【唯あなたの心の片隅のどこかに、千羽烏月の居所も空けておいて欲しい】「烏月さん」
葛様は私が大凡を語り終えた処で、もう聞いていられないと口を挟んで。微かな不満は、
「それを告白とは言いません。今後も宜しく、位の感じじゃないですか。折角桂おねーさ
んと半日2人きりを過ごして、男の子から守り庇って、温泉一緒して、のぼせた桂おねー
さんの素肌抱いて身を拭き取って、浴衣着せて寝せて寄り添う迄して、最後がそれです
か」
「……申し訳ありません」「そーじゃなく」
なぜか葛様に謝ってしまう私に、葛様も突っ込みを入れようとして、少し言葉に迷って。
「誰に遠慮しているのです? 桂おねーさんにあなたの真の想いを告げる事で、誰かを困
らせ哀しませると、怖れているのですか?」
ユメイおねーさんが一番と見え見えな桂おねーさんを困らせたくない? 或いは深く想
いを繋げたユメイおねーさんと競合したくない? 或いは、主君のわたしに遠慮して…?
葛様は、唯私が奥手で巧く告白できない訳ではないと察した様だった。確かに私は色恋
は不慣れで得意でないけど、それ以上に今日は己を抑制した。欲情に流されなかったのは
勿論だけど。桂さんの天衣無縫な信頼に背反して、哀しませられないのは当たり前だけど。
たいせつに想っていると伝えた時も烏月の一番とは告げず、桂さんの一番になりたい願
いも伝えなかった。それは敢て言わなかった。柚明さんには伝えたけど。桂さんが一番で
あなたが二番ですと告げたけど。葛様には見抜かれたけど。見抜かれた上で、私の口で改
めて桂さんが一番で、葛様と柚明さんを同着二番に想いたいと告げたけど。でも桂さんに
は。
「あなたは、桂おねーさんに抱いたあなたの一番の想いを、わたしに譲る積りですか?」
低く抑えた声が嬉しそうでない事は察せた。
私が譲っても柚明さんがいるという以上に。
譲れる程度の浅い想いかという強い憤りが。
それは想われた桂さんを貶める所作だから。
「いいえ、それは違います」
私は問いかける幼い主君にかぶりを振って。
葛様は私の次の言葉を待って沈黙している。
「千羽烏月が桂さんを好いた想いは、生命を賭けた真剣な物。譲れる物ではありません」
桂さんは千羽烏月の一番たいせつなひと。
葛様と競合しても、この想いは退けない。
「しかし、想いは譲れませんが、機会は譲れます。千羽烏月が桂さんをたいせつに想う気
持は、彼女の一番を望む気持は変らないけど。人には立場や役回りがあります。桂さんが
過去の悲痛に涙流した時に、その肩を抱き留めるのは私よりも、彼女の過去を共にしたサ
クヤさんや柚明さんの方が、適任である様に」
私は、柚明さんや葛様やサクヤさん達が皆、桂さんを大事に想っている事を知っていま
す。桂さんが今一番に想う柚明さんや、私のたいせつな葛様に、憚りを感じるのは事実で
す…。
「ですがそれを承知で私も、桂さんを一番に想っています。桂さんの一番を望む想いも譲
れない。最早譲りたくても譲れないのです」
葛様が一瞬だけ気圧されて、眼を開いた。
私はその瞳の黒目を深く強く、正視して。
「その上で私は、心底好いた葛様には願いを叶えて貰いたい。私が譲る事は出来ないけど、
葛様が掴む事は妨げない。桂さんが葛様を一番に選ぶなら、私は従います。今桂さんが柚
明さんを一番に想う様を、受け容れる様に」
それが私が一番に好いた桂さんの幸せなら。
それが私が二番に好いた葛様の、幸せなら。
私は紡がれる定めの侭に。桂さんに想いを告げなかったのは、桂さんの心に蟠りを残し
ては拙いから。私を気遣う故に、彼女が誰かを一番に想えなくなる様な事が、ないように。
「想いは譲れないけど、機会は譲れる…?」
はい。私は葛様の正面間近で短く頷いて、
「私は己から桂さんに告白はしない積りです。桂さんを一番たいせつに想っても。桂さん
の一番になりたいと望み、桂さんの一番にして欲しく願う烏月の真の想いを告げて、答を
求める事は致しません。その問は発しません」
葛様は是非一番の想いを、桂さんに問いかけ答を貰って下さい。出来る限り葛様が桂さ
んの傍で心触れ合える様に、私が導きますし、私は出来るだけ背後に退く様に致しましょ
う。
今日は買い物の為でも、2人きりで長時間、出すぎた行動になりました。以降は控えま
す。最後に桂さんの心を掴めたなら、葛様の成果です。私は、それを定めと受け容れまし
ょう。
葛様は訝しげな表情を声音を隠す事なく、
「わたしが桂おねーさんの心を掴み取れないと想うから、そー言った訳ではないですよね。
ユメイおねーさんがいるから、葛では到底届かないから、機会を譲っても障りがないとか。
わたしが次に挑む時は、烏月さんもユメイおねーさんも凌ぐ時です。機会を譲った末に
若杉葛が桂おねーさんの心を掴んだ結果を見て、あなたは後悔するかも知れないですよ」
「それを私の、葛様の、桂さんの定めとして受け止めるのみです。……私は、従います」
私は主君の愛した人を奪う事はしたくない。
主君が私の好いた葛様であるなら尚のこと。
柚明さんとも桂さんを奪い合いたくはない。
それは桂さんの心を乱し哀しませ涙させる。
そんな私に、葛様は尚正視して問を紡ぎ。
心に残る微かな浮動を見抜いているのか。
「あなたは本当に、それで納得できますか?
己の一番の人に自身の想いを確かに伝えない侭、不戦敗で、誰かが想いを繋ぐ様を見て。
それで尚微笑んで、見送れるのですか?」
私の心は完全に平静ではない。了承は完全に取れてない。それはこれから鎮めて整える。
「私の一番の望みは、一番の人の幸せです。
私の二番の望みは、二番の人の幸せです。
桂さんが葛様と想いを交わして、本当の想いで互いを求め合うなら、私は納得します」
その日が来る事を承知で、今から明日から、葛様と桂さんの仲を繋ぐ事に、烏月に迷い
はありません。私が今望むのはたいせつな人の幸せ。たいせつな人との幸せではありませ
ん。
胸に兆す苦味を噛みしめつつ私は続けて、
「私は己の為の愛を、己との幸せを追い求め、兄を死に至らしめました。兄の幸せではな
く、兄の想いではなく、兄を己に繋ぎたいが故に、最後にはこの手で兄を殺める事に。二
度とその轍は踏まない。私も含めた多くの人の情愛が絡むこの関係に、綺麗な答はないの
かも知れないけど。せめて己に出来る事は確実に」
桂さんに兄の末路は辿らせない。桂さんは何にも誰にも縛られる事のない幸せを掴み取
って欲しい。柚明さんでも葛様でも、他の誰でも彼女の選択なら、烏月の幸いです。私は
桂さんと葛様の想いを、全力で助け支えます。
「桂さんは千羽烏月の一番たいせつな人。
葛様は千羽烏月の二番目にたいせつな人。
柚明さんも同着で私の二番にたいせつな人。
後は愛した人の幸せを祈りその実現を助け支えるのみ。我欲は、叶う限り排除します」
「烏月さん、あなたは」「ですがしかし!」
私は敢て、葛様の言葉を遮って挟ませず。
この胸に燻る我欲の残り火が、滾る侭に。
「仮に桂さんから、私を一番に想うと告白された時には、私は誰にも許しは請いません」
己から求める事はしないのが限界だった。
もしその上で桂さんが私を、千羽烏月を。
心から愛して、一番に望んでくれたなら。
それこそ二度と喪ってはならない幸せだ。
女子同士でも、鬼切り役と贄の民とでも。
最早この想いを押し止める事は出来ない。
私は葛様の許しも柚明さんの許しさえも。
求めない。請わない。願わない頼まない。
「この手で美しい花を手折ります。誰が何と言おうとも、その幸せをこの手で叶えます」
暫くの間、沈黙が場を支配した。葛様は私の見上げた視線を受けて、暫く表情を変えず。
「いーですよ、その時は。そうなった末には、桂おねーさんも烏月さんを心底愛してしま
っているでしょーから。わたしは許容します」
でもそれで終りとは、限りませんけどね。
人の心が移ろうなら、更に移ろう事も又。
言い終えて緊張の解けた葛様は肩を竦め、
「ユメイおねーさんも、烏月さんの様にわたし達を想い気遣って、機会を譲ってくれてい
るのでしょーか? 想いは譲らず。でもわたし達の桂おねーさんに抱く想いを、桂おねー
さんのわたし達に抱く想いを、慮って…?」
「それは、分りかねます。私にもあの人の深慮は測り難いので。悟れなかった言葉の意味
が後々に分る。そう言う事も何度かありましたから。甘々な程に想いの深く、優しい人だ
とは悟れるのですが……申し訳ありません」
これでは、桂さんが彼女に抱く印象と同じですね。分析にも推測にもなってない。そう
言うと葛様は、深々と頷いて同意の苦笑いを。
「烏月さんも測り知れないと聞いて、ほっとしました。わたしだけが取り残された気分に
なる処でした。同時に、烏月さんにはまだ我欲が、抑えても消し得ずにあると分って…」
わたしにも目論見がない訳ではないのです。
葛様は敢て私にやや斜め向きで視線を向け。
「烏月さんに桂おねーさんを諦められてはわたしが困ります。わたしが見る処、桂おねー
さんの今一番の人はユメイおねーさんだけど、次点は烏月さんかノゾミさんです。次点が
頑張って本命を凌いでくれないと、正直言って三番手以下に勝ちの芽が出てこないので
す」
仮に桂おねーさんの一番が、他の誰かへと動くなら。その人に止まり続ける必然もない。
わたしの処に巡ってくる可能性も出てくると。ユメイおねーさんの処に、初恋の侭止まっ
ているというのは、一番堅固で崩し難いのです。烏月さんにはむしろ積極的に、桂おねー
さんを誘惑して欲しい位です。わたしとしては…。
葛様との話しが終った頃に、丁度桂さんの電話も終った様で。夜はすっかり更けていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんとノゾミを除く全員が、ちゃぶ台に顔を揃えたのは、日付も変る頃合だった。
ノゾミはまだ青珠に順応しきってない様で、夜でも出続ける事は負担らしく。柚明さん
が青珠に戻る様に促しており。桂さんが久々の電話に夢中で他を構う雰囲気でなかった事
も、無理を思い止まらせたのか。窓の外は月と星が照す鬼の刻限だけど、羽様の夜は平穏
で…。
「今日も桂ちゃんは、色々と疲れたでしょう。寝床の準備は出来ているわ」「「あっ
…」」
そこで桂さんと葛様はお互いを見つめ合い。
昨夜2人は柚明さんの勧めで同衾した様で。
今宵はどうするのか考える前に柚明さんが。
もう準備したとのみ言う事は昨夜に倣って。
桂さんと葛様が頬を染めて互いを窺い合うのに。柚明さんは従妹に、葛様との今宵の添
い寝も頼み。生命脅かされ心苛まれた2人が、不安や怖れを拭って安眠するには、誰かが
肌身に添うべきで。2人の添い寝は妙案だけど。
「不安や恐怖という物は、一度肌身に刻まれると、対象だった物が消えても心に残り続け
て拭い難いの。物理的な危険だけが、人を脅かす訳ではないわ。なるべく独りきりにせず、
ぴったり寄り沿い、或いは間近にいて安心させる。独りじゃないと肌身に感じさせる。不
安や怖れからも心を包み守る事が大事なの」
『……人を守ると言う事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。
その深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる
事』
でも己が添わず葛様に桂さんを導くのは。
柚明さんが夜に為すべき事を持つ以上に。
『想いは譲れませんが、機会は譲れます…』
葛様が私を、見つめてきた意味が悟れた。
柚明さんは他の人と桂さんの絆を望んで。
己は絶対に敗れないと、想っている故か。
私や葛様をも、愛おしんでいる故なのか。
「今夜もお願いしてしまっていーですか?」
葛様の不安そうに見上げる双眸を受けて。
嫌と断れる様な人物では、桂さんはなく。
「も、勿論っ。葛ちゃんなら大歓迎だよ…」
言い終えて私や柚明さんの視線を思い返し。
頬を染めても今更否定はしない愛しい人に。
無言で微笑み返して頷いて、了承を伝えて。
葛様にも視線を向けて頷いて、健闘を祈り。
柚明さんは正座の姿勢から、折り目正しく三つ指ついて。桂さんとの一夜を同意の上で、
葛様に譲渡したいと、頭を下げて真摯に頼み。
「葛ちゃん……桂ちゃんを、お願いします」
「桂おねーさんのことは、任されましたー」
「お姉ちゃん……お休みなさい」「お休みなさい、桂ちゃん。葛ちゃんの事をお願いね」
桂さんが手を差し伸べる前に、察した柚明さんは自ら進み出て、軽くその身を抱き包み。
左頬に頬を合わせ、耳に囁く様に言葉を注ぎ。その後で葛様の肩も軽く抱き包んで愛おし
み。
桂さん達は頬の朱が抜けきらない侭私に。
「烏月さん、お休みなさい」「お休みです」
「お休み、桂さん。葛様も、健やかな夜を」
私は瞳を見つめ返して2人に応えるに留め。
2人の歩み去る様を、2人で見送ってから。
彼女と2人きりになるとつい朝を想い返す。
柚明さんの素肌に、素肌で抱かれた感触を。
「今日は病み上がりなのに、色々頼み事が多くて、お疲れでしょう」「いえ、そんな…」
柚明さんの淹れてくれた緑茶は、なぜか私が淹れた物より旨い。風味も濃さも私が調整
しきれぬ領域で、完全に私好みで。でも桂さんも葛様も、本当に美味しそうに呑んでいた。
これは誰か特定の好みではなく、私が柚明さんを好ましく想う故に旨く感じると言う事か。
「わたしも屋敷もこの状態ですので、折角ご逗留頂いても、満足な持て成しも出来ず…」
穏やかな視線と声音が好ましい。柔らかな姿勢と気配が愛らしい。この人はいるだけで、
微笑むだけで、傍の人が誤解する程に好意を愛欲を生じさせてしまう。否これは、深く繋
った私だから勝手に妄想しているだけなのか。
「いえ、お構いなく。……私は、あなたさえいてくれれば……いや、その、失礼を……」
私は何を了見違いして応えているのだろう。
柚明さんは瞬時私の愚答に驚いた顔を見せ。
「烏月さんの様な艶やかで凛々しい方に、言って頂けるのは嬉しいけど。余りわたしを甘
えさせないで下さい。勘違いしてしまいます」
やや頬を染めつつ、静かな声に笑みを混ぜ。
慎ましやかに淑やかに。何と端正に美しい。
桂さんは見ていて微笑ましい可愛さだけど。柚明さんは心を落ち着かせる綺麗さで。手
を差し伸べない事が惜しく想われた。触れない方が罪な錯覚に心囚われ。肌身添わせず彼
女を独り寝させる事が、いけない事の様な気が。
守りたい。これは彼女の贄の血がそうさせるのか。私を誘い招くのか。この肌身を添わ
せて抱き留めて、闇から夜から隔て守りたい。誰にも脅かされぬ様に私が抱き留め保ちた
い。桂さんにもこんな感触を抱いた事があるけど。
男性が時折嵌る、色香に迷うとはこの事か。鬼切りの修行では男並みに扱われてきたけ
ど、一応女性の千羽烏月が、女性を欲し望むとは。否、この人の魅惑が女も虜にする程強
いのか。
蒼い衣の醸し出す淡い輝きに、引き寄せられる羽虫の様に。私が手を伸ばそうと、身を
寄せ掴もうと、微かに身動きした瞬間だった。
「今宵はごゆっくり、体をお休め下さい…」
彼女は軽く頭を下げてから場を外そうと。
「柚明さんは?」私は何を訊いているのだ。
私の愛しい人は静かに正視を返してきて。
「サクヤさんを看てきます。月の満ち欠けに伴い、わたしの癒しもサクヤさんの回復力も
今後は低下しますので、早く治さないと……。この涼やかな夜に心ゆく迄添う事の叶わぬ
失礼を、お許し下さい」「いえ、お構いなく」
わたしが倒れた夜を頂点として、月は既に欠け始めている。今宵よりも明日、明日より
明後日の方が、観月の回復力も柚明さんの癒しの力も低下する。生命の危機は脱したけど、
深手の癒しは一刻も急ぐべきだった。夜なら肌身添わせれば、その効果は一層強く顕れる。
私に昨夜為した事をサクヤさんにも為す。
今千羽烏月が彼女に求めようとした事を。
衣を全て脱ぎ捨て一糸纏わぬあの裸身を。
思い返すだけで羞恥で顔に血の気が回る。
サクヤさんの素肌に、昨夜私の素肌に添うてくれた滑らかな細身が、柔らかな肉感が与
えられると想うと。私が今手を伸ばそうとした艶やかな髪が、胸が腰が纏い付くと想うと。
なぜかサクヤさんを切りたくなってしまう…。
襖の奥に消える柚明さんを、その襖を背後に庇う姿勢で正座して、緑茶を頂く。彼女を
守ると言うより、背に回す迄しないと襖の向うに心も視線も釘付けになって、逸らせない。
己が為した過ちだけど、償う事は叶わず。
鬼切りしか為せぬ私に、助力の術はなく。
今は叶う限り早い完遂を祈って待つのみ。
羽様の夜は、静かに涼やかに更けて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「あなたが私に用なんて、どういう風の吹き回しかしら? 二組の添い寝を前にして、己
の肌身が寂しくなったから呼び出した、等の下手な冗談はお断りよ。千羽の鬼切り役…」
目の前に浮び上がるは中学生位の少女の姿。
はねショートヘアに華奢な現身は肌も白く。
袖が長く裾が短い和服姿は、左側が薄紅で。
右側が鳩羽鼠に花の染め抜きで、右足に鈴。
整った容貌に瞬く赤い双眸が鬼を感じさせ。
ノゾミだった。羽藤や鬼切部に因縁深い鬼。
「冗談でもその様な事を口にするのは、お前がその寂しさを感じている故ではないのか」
舶来の古鏡『良月』に宿りし齢千数百の鬼。
主の手先であり、人々に幾度も害を為して。
主の封じを外そうとミカゲと共々に暗躍し。
葛様の先祖である鬼切部に倒され封印され。
拾年前に幼い桂さんが解き放ってしまった。
一度は先々代に切られ消失して見えたけど。
彼女達の故に羽藤の家は瓦解して、桂さんは大きな喪失に心耐えきれなくて記憶を封じ。
柚明さんは喪われたハシラの代りに継ぎ手を担い。奴は心に主の分霊を宿して抑えきれぬ
侭に無辜の人を殺傷し。鬼切り役だった兄さんに討伐の命が下って、定めの糸を絡め合い。
ご神木に封じた鬼神の件から、桂さんや柚明さんの悲痛を招いた拾年前、更に近日の桂
さんの生命の危険に至る迄。彼女はその全てに関って。一度は殺めかけた桂さんの生命を
救い、柚明さんの消失を食い止め、2人と心通わせて、桂さんのお守りである青珠に宿り。
「私には桂がいるもの。あなたと違って今後も人肌寂しくなる心配は要らなくて結構よ」
青珠は贄の血の匂いを隠す。その範囲を外れれば、桂さんはいずれ血の匂いを嗅ぎ付け
られて、鬼にその身を狙われる。青珠に宿るノゾミは今後も、桂さんの傍に居続ける事に。
良月から青珠に依代を換えて間もないノゾミは、まだ呪物との繋りが弱く、夜でも現身
で顕れ続けていると消耗が激しい様で。繋りが確かになれば、夜なら家庭の電灯程度なら、
朝迄現身で顕れ続けても、障りはないらしい。
今宵は桂さんの帰りも遅く、夕食には顔を出したけど、食後は桂さんの長電話もあって。
大事を取ってというより、出続ける意味が薄いと青珠に籠もっていた様だけど。体も空い
た事だし、彼女とは一度話しておきたかった。軽口の応酬を、望んだ訳ではなかったけれ
ど。
「青珠が呪力を保つだけで良いなら、私が注ぐ事も、柚明さんに頼む事も出来るが…?」
「桂かゆめいに訊いてみなさいな。それで良いかどうか。答は訊く迄もないと想うけど」
「問題はお前の利用価値の有無ではない。お前の在り方だ。鬼切り役である私は、人を脅
かす鬼は切らねばならない。お前が桂さんや柚明さんや、他の人を害し生命脅かすなら」
最早維斗を抜く脅しも不要だった。数日前は真言を唱えつつ、生気の前借りを為した渾
身の魂削りでも尚、仕留められなかったけど。心の迷いを拭えた今、私の鬼を祓う力は格
段に増した。守るべき人を確かに抱き、鬼切部の在り方・己の在り方を心に定めた私は、
維斗も不要にノゾミを討てる。それは彼女も見て分る様で。微かに後ずさり、でも尚強気
に。
「威勢だけは良いのね。主様の器に敗れたから落ち込んでいるかと想ったら、相変らず」
浮べた笑みは私の敗北を嘲ると言うより。
まさかノゾミは私の本復を喜んでいる…?
「柚明さんの癒しで既に体も心も復している。
もう一度戦えば、今度こそ打ち破る処だが。
お前の方こそ、まだ本調子ではない様だな。
下手に人の血を狙って蠢かない事だ。人に危害を加えたなら、次こそ見逃しはしない」
お前が桂さんのたいせつな人だから、私が手出しを控えると思っているなら、間違いだ。
私はノゾミの赤い双眸を間近から正視し、
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役。人に仇なす怪異を討つのが、
我ら鬼切部の使命。千羽党当代の鬼切り役としての勤め……葛様が桂さんの願いを受けて、
お前の処分をどの様に決めるかは未定だが」
その前にお前が人を傷つけ脅かしたなら。
私は葛様の命を待たず即座にお前を切る。
私は既に柚明さんを切る覚悟さえ抱いた。
例え桂さんを哀しませても、人を傷つけ脅かす悪鬼を見過ごしはしない。事がノゾミで
も柚明さんでも。そうなった時は放置しても、桂さんの哀しみは深まり行く一方なのだか
ら。悲嘆はこの身で心で生命で、私が食い止める。その報いも罪も罰も、購いも償いも己
に負う。
さかき旅館の夜に、桂さんに話した通り。
『もし彼女(柚明さん)が、人に害を為す悪鬼となるなら、私は何があろうと必ず斬る。
あの時の言葉に偽りはない。加えて、もしあなたの家族や友人が鬼となったなら、私はそ
れを絶対切り伏せる。良いかい、絶対にだ』
私は鬼を切る事でしか人の役に立てない。
「しないわよ、別にあなたに言われなくても。
桂の贄の血さえあれば、充分足りるもの…。
今更普通の血なんて飲めた物ではないし」
ノゾミは私の問の意味も覚悟も分っている。
今の彼女は人に害を為す悪鬼ではない様だ。
その答に私は闘志を和らげ、声音を整えて。
「私が切るべき悪鬼には、ならないで欲しい。
人を害する鬼を私は、見過ごす訳に行かぬ。
桂さんはお前を大事に想っている。お前と語らう時の桂さんは見ていて微笑ましい……。
お前を大事に想う桂さんの為にも。人を害しない鬼で、人を傷つけぬ鬼であって欲しい」
桂さんを哀しませない為には頼むしかない。
ノゾミを救うのはノゾミの在り方と行いだ。
夕飯時に私は、桂さんとノゾミの馴染み具合に驚かされた。ノゾミが桂さんの返事や問
の前提を問い返す等して混ぜっ返すのだけど。双方共にどこか焦点がずれていて、見てい
て飽きない。親友か姉妹の様に心開き。数日前迄生命を奪いに来ていた敵とは到底想えな
い。
青珠の影響なのか。柚明さんの癒しの副作用か。ノゾミが呑んだ桂さんの血に混じる心
の効果なのか。拾年前の記憶を全て取り戻して尚忌み嫌わぬ桂さんの受け入れ方も、剛胆
と言うか太平楽と言うか、とてつもないけど。
その笑顔が愛らしかった。困った顔も少し怒った顔も、恥じらって染める頬も愛おしく。
例え己に向かなくても、この笑みを守る値は充分だ。これを保つ為にノゾミが不可欠なら。
この日々を終らせる事は、哀しみに染め直す事は、本意ではない。その時が来たら刃を
迷わず振り下ろすけど。その時が来ない限り私は、桂さんの望みなら、ノゾミとの絆も…。
ノゾミは瞬時驚きに、両の瞳を見開いて。
やや恥ずかしそうに、ぷいと左を向いて。
「桂を哀しませるのは、私も望まないから。
少しは心に留めて、あげても良くてよ…」
心から彼女にはそうあって欲しいと願う。
強気を装う彼女の瞳が首は左を向いた侭。
私の反応を探る様にこちらにずれてきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
朝起きて動き出したのは私が最初だった。
桂さんや葛様の部屋に特に異常は感じず。
サクヤさんの部屋に微かな物音を感じた。
閉じた襖に耳を当て向うの様子を窺うと。
「柚明、あんた……」「サクヤさんっ…!」
漏れ聞える柚明さんの声音は涙混じりで。
私は滾る憤りの侭に襖を開け放っていた。
「この鬼め、柚明さんに一体何を……っ!」
それは、見てはいけない絵図だったのかも。
カーテンから漏れ入る朝日の眩しい一室で。
一糸纏わぬ女性が2人正面から身を合わせ。
布団の上で、朝日の差し込む窓を背に座した見事な裸身に。その見事に大きな胸に細身
の彼女は、こちらも何も纏わぬ侭頬を埋めて。サクヤさんの両腕が柚明さんの頭を抱いて
自身の胸を隠し、柚明さんは私に背を向けた状態なので、何もかも丸見えな訳ではないけ
ど。
サクヤさんが意識を戻しているとの事実認識は、頭を素通りしていた。私にとって彼女
は常に不敵に強気な起きて蠢く存在で。倒れて意識のない彼女の方が馴染みが薄く。故に
ケガが治ったとか意識が戻ったとかの認識は、怒りで頭に血が上った時には抜け落ちてい
て。
今はこの2人が一糸纏わぬ姿でひしと抱き合う様が許せなく。私の二番に愛しい人を涙
させた観月の鬼が許せなく。私の前でたいせつな人の清らかさを貪り奪う所行が許せなく。
考えるより早く感じた侭に体は動き出し。
サクヤさんに維斗を抜き放って突きつけ。
「……申し訳ないっ……。重ね重ねに…!」
数分後、冷静さを戻せた私は、ノゾミを除く全員の前でサクヤさんに、正座で平謝りを。
私の気合と騒ぎで目が覚めた葛様と桂さんは、夜着の浴衣姿で左に座し。柚明さんは右で
蒼い衣を身に纏い。サクヤさんは深傷に障ると浴衣は羽織っても帯は縛らず、布団に座し
て。
「柚明さんの嬉し涙を勘違いして。あなたを、癒しの恩義に欲情の仇を返して涙させる、
獣の所行と勘違いして。斬り掛ろうとして…」
乳房は隠しているけど、しっかり前を閉じてないので、胸の谷間は見えている。涼やか
な朝日に照されて、白銀の長い髪も以前に増して艶やかで。少し力強さに欠けるその声は、
「あぁ、その刃とは本当に因縁深いからねぇ、あたしは。真弓にもその刃で散々世話にな
ったし、その前の代の鬼切り役にも……っと」
サクヤさんが鬼で、巌の時を生きる観月の民だと言う事は、桂さんはまだ知らないので。
喋りすぎと言葉を濁すサクヤさんに桂さんが、
「もう動いて大丈夫? ご飯食べられる?」
「多少ならね。食べた方が回復にも良い筈だから。インスタントや脂っこい物はまだ少し
勘弁だけど。どうせ食い物は殆ど柚明の手料理なんだろう、このメンツなら」「たはは」
葛様の答を受けてからサクヤさんはふっと。
哀しいとも愛おしいともつかぬ遠い目線で。
「また、間に合わなかったんだね。白花の肝心な時に、桂と柚明の生命を左右する瞬間に、
あたしは助けも守りも出来なかったんだ…」
サクヤさんからは左側に座す柚明さんに、
「済まなかったね。桂の事といい、白花の事といい、何もかもあんたに任せっきりでさ」
柚明さんはサクヤさんにかぶりを振って、
「これはわたし一人で掴み取れた成果ではありません。この深傷も白花ちゃんを、わたし
を庇って、刃を受けた末ではありませんか」
この滑らかで艶やかな肌を肉を、刃に晒すなんて。サクヤさんには何一つ咎はないのに。
わたしなんかを庇って無茶を。何という酷い。
瞬間、柚明さんの怒りを感じた気がした。
サクヤさんを傷つけた行いへの、私への。
でも彼女はその気配を本当に瞬時で抑え。
たいせつな人への愛しみと励ましを注ぎ。
「この成果は、烏月さんや葛ちゃんやノゾミ、桂ちゃん白花ちゃん、サクヤさんの助けが
あっての物。完全に満足な結末ではないけど」
今はゆっくり身も心も休めて、掴み取れた・守り抜けた幸せを確かに感じ取りましょう。
「助かってくれると信じていたけど。嬉しい……起きて言葉を返してくれて、本当に…」
今にも嬉し涙が溢れ出そうな程に喜んで。
サクヤさんはその透き通った笑みに頷き。
左腕で寄り添う柚明さんを軽く抱きつつ、
「桂……済まなかったね。真弓の事、柚明の事、白花の事、正樹の事、笑子さんの事、そ
して幼い頃のあんた自身の事。今迄伝えてやれずに、肝心な時に役に立てずに、本当に」
手を伸ばす動きを察して傍に寄る桂さんに。
右腕を絡め取られ支えられてサクヤさんは。
俯いた頬に瞳から一筋の雫を伝わせていて。
「あんたや柚明に、何もしてやれなかった」
許しを請う資格さえ、ないと嘆く彼女に、
「そんな事ないよ……こんな酷いケガ迄して。生命がけで、お姉ちゃんと白花お兄ちゃん
を守ってくれたのに。すごく心配だったんだよ。お姉ちゃんが治してくれたから良かった
けど。生命落さずに済んで良かったけど。もしもの事があったらどうしようって。お母さ
んを亡くしたばかりなのに、サクヤさん迄なくしちゃったら、わたし、本当にっ……」
「桂…」
溢れる想いを溢れる涙を、桂さんは留める術を持たず、今は唯寄り添うのみで。サクヤ
さんは両手に花の状態で、互いの無事を喜び合い。暫くは私も葛様も見守る他に術がなく。
「サクヤさん……助かってくれて良かった。
今迄色々、ありがとう。たいせつな人…」
零れる朝日と3人の抱擁が、眩しかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私のサクヤさんへの謝罪は、数分の後で。
「あたしは、後悔してないよ……。例え生命を落しても、あの時白花を柚明を切らせる訳
には行かなかったから。危険は承知で、刃の振り下ろしに飛び込んだんだ。仕方ないさ」
互いに譲れない想いがあった。サクヤさんは流石に爽快とは言えないけど、平静に答え。
「あんたは白花を切らないと言ってくれた。
それで充分だよ。約束は、守っておくれ」
「サクヤさん……」「あたしの生命を賭けた約束だ。あんたも武士なら二言はなしだよ」
それと引き替えのこの深傷だ。それならあたしも文句は言わない。甘んじて痛み苦しん
でから、もう少し柚明に添って治して貰うよ。
「奴は、いや彼は、柚明さんの代りに槐のご神木に……」「分っているよ。それでもさ」
あたしのたいせつな人が、あたしの家族が。笑子さんの孫が、真弓と正樹の子が、桂の
双子の兄で柚明の一番たいせつな古い馴染みが。血も繋った千羽に生命狙われ続けるって
のは。
「哀しく辛い事だろうさ。誰も幸せにならないよ。事後でも和解しないよりはした方が」
いつっ! サクヤさんが顔をしかめるのは。
傷口が開いた様だ。まだ長話は無理らしい。
私は頷きを返し、その憂いだけは除こうと、
「彼との関係は未精算ですが。もう一度立ち合いたいとは思っていますが。生命のやりと
りをする積りはありません。彼はもう仇ではない。いや、彼は元から仇ではなかった…」
私は、桂さんを哀しませる事は、しない。
記憶を取り戻し、奴を兄と思い出せた桂さんを哀しませないには、私の選択は限られる。
「その上で謝らせて下さい。私はあなたの生命を危うくさせて、桂さんや柚明さん達の哀
しみを招いた。あなたのたいせつな人達を」
サクヤさんはまだ気力が復してないのか。
或いは桂さん達が無事な結果を考えてか。
鷹揚に言葉短く頷いて、私の所行を許し。
その時、もう一人の桂さんが声を上げて。
「桂おねーさんなら、そろそろかなーと思っていました……丁度わたしもお腹が空き始め
ていましたので」「つっ……葛ちゃんっ!」
「朝ご飯にしましょう。サクヤさんは病み上がりなので別メニューを作りますね」「んっ
……その前に1つ、頼みがあるんだけどね」
柚明さんの促しに応えつつサクヤさんは、
「ご神木に、白花に逢いに、行きたいんだ」
「サクヤさん、そんな体で。まだ無茶です」
ご神木は逃げはしません。もう少し体調が復してからでも遅くはないわ。傷に障ります。
「同じ事をやろうとした、否、やったあんたに言われたくはないね……あんたの耐えてき
た痛みは、この比ではない筈だよ。柚明…」
生命に障る訳じゃない。誰かと戦う訳じゃない。ご神木に、白花に逢いに行きたいんだ。
「あんたなら、この気持は分るだろう…?」
意思を込めた双眸を向けられると、柚明さんは徹底して反対は出来ず。やや俯き加減に、
「分りました。朝ご飯を食べて一休みした後でご一緒します。午後は通り雨が来そうです
から、昼前にお屋敷に帰ってこれる様に…」
まだサクヤさんは完治してない。山登りに伴う動きや疲労は、傷に障り体に負担となる。
だから柚明さんが寄り添って癒しの力を流しつつ行くと。そこに声を挟んだのが桂さんで。
「わたしも、一緒して良いかな……。この拾年ずっと離ればなれで。近くにいるのに昨日
も一昨日も逢ってなくて。町に帰ってしまったら、白花ちゃんには暫く逢えなくなるし」
サクヤさんも柚明お姉ちゃんが添えば大丈夫だと思うけど、やっぱり心配だし。わたし
は生命の危険もなくなったし。水筒持ったり、少しは役に立てると思うよ。うん、少しな
ら。
「私も一緒しましょう。事の末を確かめる為にも、ご神木になった奴……彼には一度会っ
ておきたい。それに荷物持ちなら私の方が」
本当は機会が許せば意識を戻した直後から、ずっと行きたいと頭の隅では思っていたの
だ。
「分ったわ。では、みんなで行きましょう。
葛ちゃんも一緒して貰って良いかしら?」
「ユメイおねーさん。わたしも、ですか?」
ええ。葛様の問に柚明さんは即答で頷き。
サクヤさんも桂さんも当然の如く受容し。
「今このお屋敷にいる者はみんな関係者よ」
ご神木や奴に直接面識のない葛様は、この件では自分はやや部外者かと、深入りしすぎ
ぬ方が良いかと、立ち位置を探して寡黙だったけど。柚明さんはそんな葛様の惑いや気遣
いを、知って全て巻き込むと。関って貰うと。
「そして今ここにいる者はみんな桂ちゃんをたいせつに想い、桂ちゃんにたいせつに想わ
れた人達。桂ちゃんに深く関る事の末を見届ける権利があるし、立ち会って貰いたいの」
葛ちゃんは、わたし達のたいせつな人よ。
サクヤさんが苦笑を浮べる気持が悟れた。
この人は葛様の、若杉の過去を承知して。
葛様や私とサクヤさんの事情を分って尚。
私や葛様の桂さんへの想いを繋ぎたいと。
「お姉ちゃん、あのね……」「ええ、ノゾミにも来て貰うわ。青珠は桂ちゃんが持って」
懐から青珠を取り出して、桂さんに手渡す。喜ぶ桂さんの視界の両隅で、葛様とサクヤ
さんが視線で互いの反応を伺いつつ、肩を竦め。桂さんのたいせつな人は、全てたいせつ
な…。
もう一人の桂さんが再度抗議の声を上げて、朝食の後にみんなでご神木へ行く事になっ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。私の両手では抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る狭い道を、私達は前に進み行
く。
先頭を私が、次に青珠を持った桂さんが。
サクヤさんに添いつつ、柚明さんが続き。
葛様が最後尾だ。ふと後ろを振り返ると。
少し離れて開けた処に、瓦の並ぶ屋根が見えた。平屋の大きな日本家屋。六拾年前にサ
クヤさんの生命を救い、絆通わせた桂さん達の祖母の家。兄さんの憧れ目指した先々代が
嫁いだ、桂さん達の父の家。兄さんを最期迄慕いつつその想いに応えきれなかった奴の家。
桂さん達が、拾年前迄暮らしていた家だった。
離れに見える蔵は、葛様の先祖に封印されたノゾミとミカゲの宿る良月を所蔵していて。
桂さんの記憶をこの拾年間、封じていた様に。
「頭を厚く覆うこの葉っぱのお陰で、日差しもそこそこ和らげられて、ちょうど良いね」
拾年前の夜、桂さんはノゾミ達に操られて、この道を奴と2人ご神木迄歩かされ、主の
封じを解いたという。柚明さんは先々代達とそれを阻止すべくこの途を馳せて、再び戻れ
ず。
「緑のフィルターを通した光は爽やかだし、木々の香りを含んだ空気は清々しいし……」
「私は、桂さんの元気に歩く姿が嬉しいよ」
「ううっ、烏月さんっ! ……ありがとう」
私の率直な感想に桂さんが頬を朱に染める。
背中から葛様の声が挟まったのはその時で。
「爽やかですけど、暑いですねー。昨日の雨の所為でしょーか? むしむししますっ…」
不快さはないけど、羨みを込めたその声に。柚明さんとサクヤさんと青珠のノゾミの、
苦笑と親しみの気配が、なぜか鮮明に感じ取れ。
日が高くなるにつれ気温はぐんぐん上昇し。
地面から立ち上る蒸気で湿度も高くなって。
道の勾配が段々急になる。羽様の山の森を、山道を登っていく。獣道でもまだ道らしく
開けていた処を外れ、草を分ける様に進み行く。数日前に奴を追ってここで戦い、気配を
誤認して取り逃がし、桂さんに三度、刃を向けた。
『あはは、烏月さんに刀を向けられるのはこれで二回目……ううん、三回目かな。二度あ
る事は三度あるんだねぇ』『……あなたか』
一度は絆を断とうと維斗を振るった私に。
『わたし、ちゃんと目的があって来てるよ。
昨日はご神木を見ようと思って来たし、今日は烏月さんと会いたくて、話したくて』
『切られた縁をね、結び直したいんだよ』
澄んだまっすぐな瞳を信頼を注ぎ続けて。
『そんなことをして何になる。昨夜説明した筈だ。私は警告をした筈だ』
『鬼を引き寄せやすいわたしが、鬼切りの烏月さんと関わると、辛い思いをするって?』
『その通りだよ。唯の人とさえ関らない様にしているんだ。ましてやあなたは贄の血の持
ち主。それなら……』
『それでもっ!』遮る声を強く木霊させて。
その前夜、柚明さんを庇った桂さんの首筋に私は維斗を突きつけていた。追ってきた桂
さんの前で、私は縁の糸を断ち切って見せた。
贄の血の民と鬼切部は、利害が一致すると限らない。贄の血は鬼切部には何の得もない。
鬼に力を与えぬ為に予め切り捨てる選択も考えられた。逆に贄の民には、生命さえ脅かさ
れねば、鬼に血を与え共に生きる選択もある。
鬼を利用し、縋って生きる人も世にはいる。
なのに桂さんは、尚私を追い求めて山奥へ。
私との、切られた縁の糸を繋ぎ直したいと。
『わたしね、烏月さんみたいに強くないから、【今あれをしないと】とか思っても何も出
来ない侭時間切れになっちゃうタイプなんだ』
それで後になって『ああしていれば』『こうしていれば』って後悔するの。
最近だと、もっとお母さんのお手伝いをしとけば良かったって……そうしたらお母さん、
過労で死んじゃったりしなかったかもって…。
だからね、わたしはずっとそういうふうに生きてるんだから、後悔するかもしれない予
約が今更一つ位入ったって、全然構わないよ。
『それに烏月さんの話だって、やっぱり【もしも】の話だもん。そんな脅しに負けて逃げ
たら、わたし絶対後悔する』『どうして…』
私が断ち切れなかった。私が断ち切る意思を貫徹できなかった。桂さんを欲し求め願う
想いを、己の望みを絶ちきれず、食い込まれ。桂さんは己の想いに正直だった。とことん
正直だった。故に私の真意ではない拒絶を超え。
『わたしが烏月さんと仲良くしたいから』
『やっぱり、烏月さんは一人が良いの?』
『……わたしと友達になるのは嫌……?』
千羽烏月を、心から求めてくれる人がいる。
怖れられる鬼切部の己を求めてくれる人が。
鬼切部と分った上で、鬼に縁のある定めを持ち、場合によっては巻き込まれ、或いは敵
対さえあり得る贄の血の持ち主が、自身をそうと自覚して尚、千羽烏月を求めてくれると。
青空の様な笑みが、心を染めて吹き抜けて。
己に値を見いだせた、気付かされた。鬼を切る以外にも、千羽烏月はこの世に在る事を
認められるのだと、居て良いのだと。桂さんの近くに、その心の内に住んでも良いのだと。
感傷と物思いに浸りつつ、暫く歩き進むと。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。
鬼神を封じ還す為に、竹林の姫が千数百年宿ったご神木。ノゾミ達が拾年前に奴と桂さ
んを操って解かせた封じ。その綻びの繕いに、柚明さんが継ぎ手となって宿り続け、今は
奴がそれを継ぎ。通り過ぎるそよ風に、咲き誇る無数の白花が、ゆらりと揺れて幾つか散
る。
『白花にはあたし達の声は、聞えるのかい?
あたし達に答を返す事は、叶うのかい?』
出立前のサクヤさんの問に、柚明さんは。
『話しかければ声は届きます。中から外の情景を見る事も叶うので、傍に行けばわたし達
の到来は悟れます。ご神木に確かに馴染めば、繋りが深い人の気配なら、経観塚の町を越
えて所在も掴めますし、羽様に居れば心の表層を知る事も、顔色で機嫌を窺う様に可能で
す。でも彼から答を貰う事は、至難でしょう…』
ノゾミがそうである様に、依代との繋りがまだ不足らしい。ご神木への同化途上にある
彼は、外界に想いを届かせる事も難しい様で。
『お姉ちゃんの様に、現身を取る事は…?』
『夜でも贄の血を与えても、暫くは無理ね』
『そもそもオハシラ様が外に人形を為して顕れる事自体が、封じの想定外でしょーから』
『元々のオハシラ様も、封じの要を努めた千年の間、一度も姿を現さなかったしね。夢見
に蝶を送るのが精々で。笑子さんと出会った時に、寝付けず起きていた笑子さんの現に蝶
を送ったのが、無理に無理を重ねてだって』
『じゃ、お姉ちゃんがわたしを助けに顕れてくれたのは、やっぱり凄い事だったんだ…』
「白花、お兄ちゃん……」「……白花……」
ご神木を見上げつつ、桂さんとサクヤさんが声を発する。でも応える者はなく、微風の
中を槐の白花が揺れて散るのみで。葛様は黙して先祖が守った鬼神の封じを見つめて佇み。
確かに中に何者かが、宿っていると分る。
微かに気配が、奴に似ている様な感じも。
暫くは全員黙した侭、ご神木を見上げて。
瞼の裏に浮ぶのは、奴と交わした刃と詞。
『……だろうね。君は僕を許さないだろう。僕が僕を許せないように』
『……唯、僕は目的を果す迄は死ねない。だから今はまだ、大人しく切られもしない』
『大切な人を解き放つ事……唯その為だけに、明良さんを僕の運命に巻き込み、鬼に憑か
れた度し難い生命を繋ぎとめてきたんだ』
『違う! 僕は桂を狙ってここに来たんじゃなくて、桂を狙っているのは僕じゃなく…』
『この分らずや! 明良さんはそんなに疑り深くなかったぞ!』
『僕は君を倒す為に、鬼切りの業を習った訳じゃない。僕にはやらなければならない事が
ある。斬らなければならない鬼がいる。今の君の様に、憎しみの為に鬼切りの業を振るう
のと違う。僕が学んだ鬼切りの業は、守りたい人を守り、救いたい人を救う為にこそ…』
鬼切りの業はたいせつな人を助ける為に。
君も明良さんからそう教わっていた筈だ。
『いや……約束通り、僕が目的を果たしたらこの首をあげるよ。……僕の首が、君の物に
なる事を恨む人が出なければ、因果の輪はそこでおしまいさ。違うかい?』
『確かに僕の中には鬼が住み着いている。その鬼の所為で、僕は罪を犯した。そして僕を
切りにきた明良さんは、僕の中に別の魂があることを、それが鬼……主の分霊であること
を、見抜いてくれた』
『そして、明良さんは僕にこう言ったんだ。
【君が死より辛い修行に取り組めば、誰も殺さずに済むかも知れない。ここで楽になるか、
鬼を切る為の修行に取り組むかを選べ】と』
『ユメイさんを……彼女を、オハシラ様から解き放ちたかったんだ、僕は』
『ユメイさんをご神木から解き放つ為に。主を封じる定めに永劫繋がれ続ける彼女を解き
放つ為に。僕は明良さんに鬼切りの術を学びたく願った。僕達で綻ばせたハシラの封じを
保つ為に身を捧げた彼女を、取り戻す為に』
僕達の為に全てを失った彼女を、僕達の所為で全てを失った彼女を僕の全てで取り返す。
それが僕の唯一の望み。何があっても成し遂げなければならない、羽藤白花の最期の望み。
『この生命を注ぎ、主を解き放って斬る!』
『勝って、勝って絶対成し遂げる。明良さんの定め迄巻き込んだ。サクヤさんの生命迄危
うくさせた。この上最後の関門の直前で止めて引き返せはしない。僕に引き返す処はない。
居るべき処も行くべき処もない僕にあるのは、今為すべき事だけだ。進む他に途はな
い!』
『そう。向い挑めば必ず破れ、背にすれば必勝を約束されるという破軍星を象った構え』
『烏月さん、君は今破軍星に向かって挑んでいるんだ。君に勝ち目があると思うかい』
『信じないのなら見せてあげよう。千羽妙見流【鬼切り】を……』
『使い手の技量次第では、魂についた濁り……すなわち鬼のみを、切ることも出来る…』
こみ上げる想いは、複雑に心を乱すけど。
今は心整えて、千羽烏月の言うべき事を。
「色々あったが、今のお前は私の敵ではなく、兄の仇でもない。その手が為した罪は、そ
の手で償うと良い。ご神木は正にその為の場だ。お前のたいせつな人は、私のたいせつな
人でもある。今後は私が全身全霊で助け守るから、安心して己の努めに励むと良い、羽藤
白花」
最早切る事が出来なくなったけど。最早切るべき者でもなく。若杉からの命はまだ撤回
されてないけど。葛様の指示を待つ迄もなく、私に彼の生命を絶つ積りはなかった。彼が
オハシラ様になっていなくても、肉の体を持った侭だとしても、この判断は左右されない
…。
もう一度立ち合えればと思っていたけど。
剣士として再度挑みたい想いは隠さずに。
「有り難う、と言っておこう。最期迄兄さんを大事に想い続けてくれて。最期迄桂さんを、
柚明さんを気遣い案じ支え続けてくれて…」
蒼く澄み渡る空と涼やかに頬撫でる風の元。
彼の微笑みの印象が返された様な気がした。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ご神木から帰着したのはほぼ正午位だった。
朝食の様に私も手伝いつつ、柚明さんはサクヤさんの為の別メニューを、みんなの昼食
と平行して作り。朝食は柚明さんがサクヤさんの部屋に持って行って、一緒に食したけど。
私と葛様と桂さんは別室の故に気もそぞろで。
『柚明お姉ちゃん、サクヤさんにどうやってお粥とか食べさせているのかな?』『スプー
ンにご飯を載せて、あーんしてって感じでしょーか? それとも、もしや口移しとか…』
桂さんの想像は、怪我人だからあっても不思議ではないけど。葛様が具体的にその絵図
を描くと、新妻の甘やかな状況が妄想されて。なぜかサクヤさんに斬り掛りたくなって来
た。
昼食時、柚明さんはそれを桂さんに頼み。
「大丈夫なのですか?」「サクヤさんの容態のこと?」「あ、いえ、その、桂さんの…」
私は柚明さんに何を危惧して尋ねようと?
葛様の挟んでくれた問が私には助け船に。
「看護に慣れてない桂おねーさんでは、深傷のサクヤさんに、逆に負担になるのではと」
柚明さんは私や葛様の本心を、知って知らぬ振りなのか。陽の光の下で笑みを絶やさず。
「大丈夫よ。桂ちゃんが寄り添う事で、サクヤさんの気力も増すし。サクヤさんの治りが
早まる様を見て、桂ちゃんも力づけられる」
桂さんが食器を持ってサクヤさんの部屋から出てきたのは、1時間近くの後で。丁度通
り雨が、強く地を打ち付け始めた頃合だった。柚明さんが、まだ完調と言えぬサクヤさん
に添いに彼女の寝室に消え、私が皿洗いを担い。
雨も上がり、私の皿洗いが終えた頃、柚明さんはサクヤさんの部屋から引き上げてきた。
サクヤさんは余り濃密に交わると、桂さんの心を乱すと案じた様だ。柚明さんは少しの間
肌を重ね、癒しを集中的に注いで戻って来て。
照りつける日が再び戻り来た昼下がりに、
「今日は買い物もないから、のんびりだね」
そーですねー、と葛様が応える前に。既に桂さんはその瞳が意識が落ち掛ってきていて。
「午前中の山登りで疲れた様だね」「うん」
「生気の前借りも、切れてきたのではありませんか? 昨日のお話しではもーそろそろ」
ええ。柚明さんは葛様の問に頷きつつも、
「でもこれ以上生気の前借りは、止めるべき。桂ちゃんはその方法を知らないから、傀儡
の術で心と体を操る事になる。二重の負担になってしまう。桂ちゃんは食事と休息で、血
の量も復しつつあるわ。生気の前借りは必ず後に反動を招く。既に桂ちゃんは3回もそれ
を為した。1度目の反動は3度目の生気の前借りで相殺したけど、谷間はこの後2回来
る」
これ以上は弊害の方が大きくなる。借金を続ける限り借金体質は改善できない。後は少
し不調が続いても、蒼い癒しや休息・食事で補うべき。桂さんの体調はそれで保つ処迄復
してきた。食材はあるので暫く外出も不要だ。
「となれば、お昼ですし」「昼寝、ですか」
葛様と私の問に柚明さんは穏やかに頷き。
中庭を見渡す一室で4人並んで横たわり。
お堅い千羽の育ちの私には初体験だった。
桂さんの左隣に柚明さんが、右隣に葛様が。
私は葛様の右隣で、桂さんを左に眺めつつ。
この様にのどかで何もない時間は久しぶり。
葛様と桂さんが時を経ず疲れに熟睡するのは当然で。私も平穏な昼の日差しにまどろみ。
どの位経っただろう。愛らしい寝顔を眺める幸せに満たされつつ。ふと気付くと、柚明さ
んは眠っている桂さんに、身を添わせていた。
私の左隣の葛様も、桂さんの右胸辺りに額を当てて熟睡中だ。桂さんの右腕が無意識に
葛様の肩を頭を軽く抱き留めている。その桂さんの左半身を、蒼い衣は包み込む様に添い。
午後の陽光に紛れてぼんやりと、見えない位の薄さで、癒しの青の光を立ち昇らせて纏い。
癒しの力を注ぎ込んでいるのだとは分った。
彼女がそれを為す以上必要性に疑義はない。
それで尚心が微かに波立つのは己の未熟か。
柔らかな頬が合わされる様を思い浮べると。
滑らかな肌が合わされる様を脳裏に描くと。
その肉感や肌触りが思い起こされて心乱れ。
私は一体どちらに嫉妬し、羨んでいるのか。
逸らせず向けた視線が彼女の視線と合って。
「済みません。少し癒しを注ぎ足そうと思い。桂ちゃんも、心地よさそうに眠っていたの
で。長くは続かせません。今少しだけお許しを」
「いえ、お気にせず。私は分っています…」
葛様も桂さんも、目を覚ます様子はない。
桂さんの為の行いを、妨げる積りもない。
柚明さんの本来の在り方は、非常時に防ぎ守る戦いより、嵐が来る前に施す事前措置の
周到さにある。彼女は必要に迫られれば戦う技量も覚悟もあるけど。本来は日々の平穏の
中で、様々な事柄に配慮しつつ、それらが杞憂に終る事を祈り願う人だ。何でもないのど
かな日々を、平穏に微笑み語らい過ごす人だ。
鬼が顕れてから切りに行き、非日常を処理して平穏には関らぬ私達の在り方とは対極に。
柚明さんの処置は、参拾分も続かなかった。衣を脱いで素肌を合わせる事もせず。頬は
合わせたけど唇を繋ぐ事もなく。そこ迄せずとも良い処迄、桂さんの体調は復してきてい
る。
柚明さんは、処置が終ると起きて正座し、
「起こしてしまいましたね。済みません…」
「いえ、そんな事は。……桂さんの為です」
私もつい、その場に起きて正座して応えて。
その場に尚眠り続ける2人に、憚りを感じ。
「少し、2人でお話ししたいのですが…?」
彼女は頷いて、懐の青珠を取り出し睡眠中の桂さんに握らせ。私を別室へ招いてくれた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お恥ずかしい処をお見せして済みません」
癒しの力を身の内にのみ作用させ、直接触れた肌や衣から注ぎ込めば、その作用は中々
気付かれないのですけど。この程度の装いは、逆に烏月さんに気付いてと言う感じでした
ね。
「みんな心地良く眠っていたので、起こさない様に静かにと、心がけていたのですけど」
「いえ、あの間近にいて力の発動に、暫く気付けなかった。油断していたにしても、信じ
がたい程の緻密さだ。もしあの様にあなたに術を掛けられたなら……私もまだ未熟です」
やや狭い畳部屋で柚明さんと、正座で向き合う。今この屋敷で起きて動く者は私達だけ。
「あなたが為す事は、桂さんの為に不可欠な事だ。ここに誤解する者はいない。気配りは
嬉しいが、少なくとも私に陳謝は無用です」
柚明さんは、私の心が微かに波立った事迄悟っているのか。私は今後己の心をしっかり
抑え整えると誓いつつ、そう応え。柚明さんはそれに有り難うと、今度は感謝に頭を下げ。
本当に柔らかで穏やかで、愛らしい女性。
淑やかに賢く辛抱強く、常に誠心誠意な。
「青珠にも、力を注いでいたのですか…?」
経観塚にはご神木を中心に役行者が残した結界が、町を覆う規模で張り巡らされている。
その中にいる限り、青珠を持ち歩かなくても、修練も不要に、贄の血の匂いは鬼に悟られ
ぬ。
私が奴の鬼切りに倒れた翌朝以降、柚明さんは桂さんから、今はノゾミの宿る青珠を経
観塚では不要でしょうと、預っていた。それは私や葛様と桂さんの時を作るという以上に。
ノゾミを桂さんから引き離す目論見でもなく。
「ノゾミに……青珠との繋りがまだ弱いから、わたしの力を及ぼして馴染み易くなる様
に」
ノゾミは先日迄桂さんの生命を狙い、ハシラの封じを壊し主を解き放とうと千年暗躍し
続けてきた。羽藤を守る青珠とは反対属性で、簡単に馴染めない事は想定できた。柚明さ
んの助けが必要な事は分る。しかしそれ以前に、
「あなたは自身の体を作らねばならない筈だ。桂さんやそのたいせつな人を癒すのは良い
が、あなたが力に不足し困窮しては意味がない」
他人の事ばかり心配して。今屋敷にいる者は確かに疲弊し傷つき、あなたの力を必要と
しているけど。自身を蔑ろにして危うくしては元も子もない。語調が強くなる私に、柚明
さんは瞬時瞳を見開き、次に暖かな微笑みを、
「心配頂いて有り難う。わたしは、大丈夫」
この人の『大丈夫』は、自身に向けて使う時だけやや信頼度が低い。だから私は重ねて、
「桂さんや他の人を、私を心配させないで下さい。あなたは桂さんのたいせつな人です」
「気持は嬉しいわ……以後、そう努めます」
この人は答を返す以上、成算がある人だ。
なので私はこの求めは届いたと受け止め。
「やはりノゾミを、桂さんの町の家に伴う積りですか? 鬼と一つ屋根の下で暮らすと」
「……桂ちゃんの望みなので。烏月さんと葛さんの了承を是非貰って、そうしたいと…」
ノゾミはもう桂ちゃんのたいせつな人です。
引き剥がせないと柚明さんは正視して語り。
「ノゾミも桂ちゃんを心底たいせつに想ってくれて、生命を助けてくれました。あの夜に
はわたし迄たいせつに想って、生命を助け」
鬼切部が鬼を容易に信用せず、共に生きる事に懐疑的な背景は分ります。だからこそ鬼
切部の懸念を拭い、その了承の上で、桂ちゃんとノゾミが幸せを掴める途を、探したいの。
「後日正式にお願いする積りですが、烏月さん、知恵と力をお貸し下さい。お願いです」
頭を下げられた。この人は、たいせつな人の為なら何度でも頭を下げる事に躊躇がなく。
己の仇の助命や利益を、伏して願う事さえも。その願う様迄も、美しく整って清楚に可憐
で。
「それが桂さんの望みであり、柚明さんの心からの望みなら……最後は葛様の判断になり
ますが、出来るだけの協力はしたい。唯…」
柚明さんの願いには叶う限り応えたいし。
彼女に邪な意図がない事は疑う迄もない。
桂さんの願いは今更確認も不要だ。でも。
「柚明さんは本当にそれで良いのですか?」
状況は変っています。あなたはもう桂さんの家に一緒に住んで、その手で愛した人を護
れる筈だ。ノゾミに護って貰う必要などない。それで尚拾年前の遺恨を抱えた鬼を、羽藤
の家を瓦解させた鬼を、桂さんに結びつけると。
私の問にこの人の答は揺らぐ兆しもなく。
「桂ちゃんがノゾミをたいせつに想っている状況は、変っていません。それが肝要です」
「確かに、桂さんは拾年前の記憶を取り戻した末に尚、ノゾミと共に生きたく望んでいる。
その不可思議な程の甘さは、私も好いた物だ。でも今私が訊いているのは、その事ではあ
りません。あなたの気持の問題です」「……」
「あなたが桂さん並みの甘さで、ノゾミの拾年前の所行を許し受け入れるなら、私は良い。
ノゾミは桂さんの生命を助け、あなたの生命も助け、深く強く繋った。確かにノゾミは私
が数日前戦った悪鬼では、なくなっていた」
でも問題は。ノゾミも桂さんを深く想い。
桂さんの一番を、望み願っている事です。
「あなたは一昨日葛様に桂さんとの絆を繋ぐ様に促し、昨日は私との絆も繋ぐ様に促した。
鬼切部と贄の民である桂さんの関係は、繋いでおく方が今後も色々好都合、ではあるが」
ノゾミに利点は殆どない。あなたが桂さんの傍にいれば青珠に力を注げるし、大抵の鬼
は退けられる。人の血を呑まねば青珠に力を満たせぬノゾミは、最早不可欠な物ではない。
「鬼との絆を導いて、あなたはそれで良いのですか? あなたの所作が、ノゾミを桂さん
の一番に繋いでも。あなたの手から桂さんを、一番の人を逃がす未来に、怖れはない
と?」
私は葛様か柚明さんが桂さんの一番になるのなら、我欲を抑えて見送る事を心に決めた。
想いは譲れないけど、葛様の為に私は機会を譲る積りでもいる。この2人なら、私がたい
せつに想う人を桂さんが選ぶなら、私は……。
それでもこの心に波立つ事は抑えきれぬ。
桂さんの一番を望む想いは私も抱くから。
故に例え葛様でも柚明さんでも、桂さんに深く心寄せ、心寄せられる行いには心が乱れ。
この人は妬みや羨みを抱かないのだろうか。
桂さんをノゾミや他の誰かに奪われる事を。
怖れて心乱れたり、阻もうとはしないのか。
私が訊いてみたかった。羽藤白花の件が終わり、切るべき鬼もいなくなった以上。私は
夏の終りを待たずに千羽に戻る。学業の陰で鬼切り役をこなす日々が続き、中々桂さんに
逢う事も叶わないだろう。それは葛様も同じ。
平穏な日常を、桂さんはノゾミと共に過ごして、絆を深く結び行く。それでもこの人は、
柔らかに心静かに穏やかにあれるのだろうか。
ノゾミが桂さんのたいせつな人でも。柚明さん自身のたいせつな人でも。それで納得で
きるのだろうか。その心の内を知りたかった。問を終えて視線を向けた私に、彼女は静か
に、
「どの様な結果になろうとも、桂ちゃんの日々に笑顔が残ればそれがわたしの幸せです」
この人はあの深夜、葛様やサクヤさんを交えて、桂さんがノゾミを受け入れて欲しいと
願った時のあの受容を、再度正視を返しつつ、
「どんな未来を招こうと、桂ちゃんの守りが叶うならそれがわたしの望みです。わたしが
鬼に成って迄あり続けたのはその為でした」
それがわたしの正解です。間違いなくそれがわたしの真の想いで真の願いで、真の望み。
その表情は穏やかに確かな微笑みを湛え。
「たいせつな人が誰かの真剣な想いを受けて答を返す事を、望み願い応援するのは当然よ。
それがどこの誰への答でも、どの様な答でも。わたしの望みを断ち切る答でも。たいせつ
な人に誰かが抱く本当の想いがあるなら、届く様に導き助けるのは、たいせつな人の為
…」
私は己が両の眼を見開くのを感じていた。
「桂ちゃんの判断の下地を整えるのは、桂ちゃんを愛した者として当然の事。わたしが望
む答が出る様に、情報を止めたり加工したり、偽ったりするのは、桂ちゃんの為ではない
わ。わたしは桂ちゃんの真の想いを支え守りたい。
その上で、わたしのたいせつな烏月さんや、葛ちゃんやノゾミやサクヤさんが、桂ちゃ
んに抱く真の想いを届かせられる様に導きたい。導く助けになれれば、それはわたしの幸
せ」
暫く、問を発する事も忘れて黙していた。
「羨み妬みがない訳ではありません。わたしは妄執の塊です。この浅ましさ醜さは烏月さ
んがご覧になった通り。わたしの桂ちゃんに抱く愛は諸々の想いも全て込みです。唯…」
わたしがたいせつに想うのは桂ちゃんです。わたしとの絆ではありません。わたしの望
みは桂ちゃんの幸せと守り……桂ちゃんが、烏月さんや葛ちゃんやノゾミとの絆を望むな
ら、その幸せを繋ぎ保つ事が、わたしの望みです。
「もう桂ちゃんのたいせつな人だから、というだけじゃない。わたしにとって、葛ちゃん
もノゾミも烏月さんも、みんなたいせつな人。強く心繋った、幸せ掴んで欲しい愛しい
人」
一番にも二番にも、想う事は叶わないけど。
身を尽くして守り支えたい、たいせつな人。
瞳を閉じて穏やかな笑みで、この人は左手を自身の心臓にひたと当てて、静かな声音で、
「心に騒ぐ嫉妬や羨みは、わたしが桂ちゃんを愛すればこそ。この想いが強ければ強い程、
波風高く荒れるのも当然のお話し。桂ちゃんと誰かが心を繋いでいる証で、桂ちゃんが誰
かと幸せを紡いでいる証で、わたしの幸せ」
今後も保ち支え守りたいと、想えてきます。
そう想って笑む事が出来るのか、この人は。
「烏月さんと過ごす桂ちゃんも、葛ちゃんと過ごす桂ちゃんも、ノゾミと過ごす桂ちゃん
も、とても晴れやかで愉しそう。見ていて羨ましくなる位。大好きな人と過ごす桂ちゃん
の微笑みは、支え保ちたいわたしの幸せ…」
彼女は己に湧き出づる嫉妬を愉しんでいる。
羨む程桂さんを愛でる自身を、羨む程誰かを愛おしむ桂さんを、羨む程桂さんに愛され
る誰かを。この人は己が不動の一番だから安心して他者を繋げるのではない。鬼切部と利
害を繋げる為に、葛様や私を導くのでもない。心に幾ら波風が立たせても、微塵も漏らさ
ず。惑い悩み怖れ怯える筈の要素を喜びに変えて。
襖の外に、息を潜めた幼い気配を感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
気配の所在は少し前から感じていた。でも今は、問を発する方を優先に。柚明さんの答
は襖の外でも聞きたい内容だろうから。蒼い衣の女人もその気配には知って知らぬ振りか。
「柚明さんは、桂さんに答を求めないのですか? あなたは桂さんを一番たいせつと言い、
生命を捧げて守り続けてきた。あなたの想いの深さに及ぶ者は誰もいない。あなたこそ桂
さんの答を求む資格があると思うのですが」
私は葛様を慮って、自ら桂さんに答を求む事はしなかった。だが彼女と私の立場は違う。
想いは譲れなくても機会は譲れる。そこは私も理解できるけど。私や葛様やノゾミ迄た
いせつに想ってくれて。絆を繋ぐ場を設けてくれる事は嬉しく有り難い。でも彼女自身は。
肉の体を戻せば、彼女の想いを届かせる事を阻む要因はない。桂さんの想いを受け止め
る事を阻む要因も。彼女は答を求めないのか。
私は己の望みを摘み取る問を発している。
蒼い衣の人はやや困った様に弱った様に。
「わたしの願いは、桂ちゃんの幸せと守り」
わたしが桂ちゃんの一番になる事がそれを確かにするなら、桂ちゃんに求められるなら、
「わたしに否の答はないのだけど。でも…」
桂ちゃんは未だ心の傷を拭い切れてない。
その躊躇いは桂さんの心の傷を想う故か。
「桂ちゃんがわたしを愛してくれる事は嬉しいけど、それは望外の幸せ。わたしが求め欲
す物でないと思っています。近親であるという以上に、女の子同士であるという以上に」
桂ちゃんに今最も必要なのは、家族なの。
「拾年前の心の深手は、漸く切開できただけ。癒しも助けも励ましも、自己回復の後押し
でしかない。想いがあれば即治る訳ではないの。
お父さんを殺めるお兄さんを目の前で見た。その原因は己にある。血塗れの記憶は今も
桂ちゃんの奥に蟠っているわ。思い返せた故に、その重さは尋常じゃない。桂ちゃんの心
の傷は尚深い。心の出血を止めるには時が掛る」
元気を装うけど。人を気遣える賢く強く優しい子だけど。桂ちゃんは今漸く心の傷と戦
い始めた。その傍に今必要なのは、未来を語り合う恋人より、過去を抱き留める家族です。
この人はいつも自身の求めより桂さんを。
やや哀しげでも笑みを浮べて柚明さんは、
「烏月さんが一番たいせつに想う桂ちゃんは、わたしの一番の人です。だから心おきなく
烏月さんの真の想いを桂ちゃんに届けて、答を貰って下さい。それは今でなくても、町の
家に桂ちゃんが帰った後でも、夏が終っても」
烏月さんの意思と言葉と、タイミングで。
美しい双眸で正視して、そう願われると。
私が彼女に求められている様な、錯覚が。
穏やかに静かな声に、甘く香る花の匂いに。
心囚われ手を握りかけて、慌てて我に返り。
「葛様があなたを、猿公を掌で踊らせる釈尊と評していましたが、同意です。あなたがい
なければ、桂さんが願っても鬼を、ノゾミを許し受け入れて共に暮らす等、鬼切部は許せ
ない。ノゾミを御する技量の問題もあるが」
ノゾミが桂さんを哀しませる事はないとの絶対の信頼。それを導く為に惜しみなくまず
己からノゾミに、鬼に想いを注ぎ。今ノゾミを満たすのは、柚明さんの癒しや桂さんの血
に宿る想い。多くの人を殺め、千年敵対してきた鬼を、調伏ではなく諭し許して心通わせ。
「あなた程柔らかく穏やかに尚強く甘く優しい人を私は知らない。己の世界の狭さを思い
知らされます」「烏月さん達はわたしを高く評価しすぎです。誤解、と言いましょうか」
語調は尚も丁寧だったけど笑みが消えて。
柚明さんは心持ちその表情を真顔に変え。
「わたしは、ノゾミを受け入れましたけど。
ノゾミの所行を許した事は、ありません」
「柚明さん……?」「肉の体を喪っても戻しても、わたしは過去に心を囚われた存在です。
抱いた恨み憎しみを、手放す事は叶いません。そしてわたしがそうである様にノゾミも
又」
そう言えばこの数日、柚明さんは桂さんの願いを受けて。ノゾミを受け入れる為に様々
な思索を紡ぎ、私達やノゾミと色々話してきたけど。一度も許すとは言ってない。むしろ。
『ノゾミのやった事は、決して許さない!』
私とサクヤさんに、ノゾミを切らないでと求めた夜の山奥でも。この人はそう明言して、
『でも、桂ちゃんの想いがそれを望むなら』
以降も彼女は少なくとも私の前では一度も。
ノゾミの過去の所行を許すとは言ってない。
拾年前の悲劇を、桂さんは知らずに受け入れて後で報されて尚、ノゾミを受け入れ続け
たけど。この人は許す事ない侭に桂さんの願いを繋ぎ、自身のたいせつな人に受け入れて。
柚明さんの真顔は、綺麗に整っていたけど。
激情の所在など、欠片も感じさせないけど。
優しげな笑みが消えただけで真偽は悟れた。
穏やかに柔らかな日常の甘さは失せていた。
「柚明さん?」「わたしは仏の様に慈悲深い存在ではありません。執着の鬼です。過剰な
愛も、仏の教えでは執着で成仏の妨げと…」
尤も、わたしは仏ではなく鬼で良かったと想っています。仏では桂ちゃんを弔えても成
仏させられても、戦い守る事は叶わなかった。
「これはわたしの星回りなのでしょう。たいせつな人を守り通す為には、烏月さん程強く
ないわたしは、何かを引替にせねば届かなかった。いえ、届かせられた事がわたしの幸い。
桂ちゃんと白花ちゃんのいない世界で仏の平安を得ても、わたしには何の意味もないの。
そしてたいせつな人の幸せと守りが叶う限り。幾らこの心が張り裂け乱れ荒れ狂っても。
必ず守り支えます。相手が己の仇でも、一番たいせつな人を傷つけようとした相手でも」
私は今尚この人を、何も知っていなかった。共に戦い惚れ込み想いを交わし合い、素肌
添わせて尚、私はこの人の表層しか見えてなく。この人は唯甘く優しいだけではない。そ
の甘さ優しさの透徹は、私の及ぶ処ではないけど。その献身の美しさや覚悟は瞠目に値し
たけど。それらもこの人にとっては一面に過ぎぬのか。
「恨み憎しみの内訳を述べる事はしませんが、わたしが彼女に抱く憎悪の深さは、鬼の故
に身内を喪った烏月さんこそ、ご理解頂ける筈。わたしは未来永劫、ノゾミの所行を許す
事はないでしょう。それは、拾年前に喪ったたいせつな人達への、愛に由来する物ですか
ら」
叶うならこの手で握り潰したい。その想いは心の片隅に常に抱きつつ。桂ちゃんのたい
せつな人で、己自身がたいせつに想ったから。
この人はノゾミを庇ったあの夜も、確か、
『……わたしは、たいせつな人を守る為に形になりました。己の恨みを晴らす為に人であ
る事を止めた訳でもなければ、鬼に成った訳でもなく、この現身を取った訳でもない…』
この人は全て呑み込んで受け入れた。でも、その憎悪や悲嘆は愛に由来するから。喪わ
れた物は取り返せないから。許す事は叶わない。私の時と話しが違う。この人は至当な筈
の憤りを胸の奥に封印し、永劫抱き続ける積りか。桂さんにはその所在を、気付かれもせ
ぬ侭に。
「あなたの心には留めておいて、烏月さん」
なぜ柚明さんがその事実を私に話したのか。
この人は己の悲痛を嘆き愚痴る人ではない。
「……! 柚明さん、まさかあなたはっ…」
笑みを拭った真顔で彼女に正視されて私は。
羽藤白花の生命を狙っていた己を思い返す。
一昨日私は、サクヤさんを殺しかけていた。
それがどれ程桂さんを傷つけ哀しませるか。
そんな私に柚明さんがどんな想いを抱くか。
最早推察も不要に冷汗が背筋を駆け抜ける。
彼女は全てを承知で、私をたいせつに想ってくれたけど。それは真実だったけど。正に
その故に片鱗も見せない想いを、抱き続けて。
それを気付かせる為、彼女は敢てノゾミに抱く本心を私に。私にも同種の憤りを抱くと、
見誤らないようにとの静かな促し。慎ましやかに清楚に可憐でも、この切れ味には震えが
来た。今迄に感じた事のない類の凄味だった。
その穏やかさの奥底に。その笑みの裏側に。人を慈しむ想いの強さ故にこの人は、愛に
由来する激越な憎悪も哀しみも決して手放せず。肌身を添わせて私は気付く事も叶わなか
った。
その上で、その内心を知らしめた上で尚。
声音も気配も、仕草も表情も、視線さえも。
柔らかに穏やかに淑やかに、愛しさに満ち。
両手を両手で、胸元へと持ち上げられて。
「千羽烏月は羽藤柚明の特別にたいせつな人。
清く正しく美しい、強く優しく愛しい女性。
羽様で過ごす日が終っても、夏が終っても。
わたしが生涯、守り支え尽くしたい人…」
私はこの人に、終生敵わないかも知れない。