夏が終っても〔乙〕(前)
それは目を逸らそうとすればする程、気力の尽きた時に不意に浮上して、心を苛む悪夢。
『見つけたぞ、人を喰らう鬼め!』
初めて奴に向けて、この様に維斗を振るったのは確か一年と少し前だった。身動き取れ
ず蹲り、無防備になった瞬間を逃さず。私は全身全霊の力を込めて、奴に向けて斬り掛り。
『危ない……白花っ、烏月っ』『兄さん?』
わたしは奴を庇って身を挟めた兄さんを。
敬愛し目指し続けてきた強く愛しい人を。
この世で一番たいせつな人を断ち切った。
血飛沫は、視界以上に心を塞ぎ。喪われたのは、過去の想い出以上に己が目指した未来、
希望で。兄さんに繋りたくて鍛えた鬼切りの業が、千羽の剣が、兄さんとの断絶を導いた。
血塗られた定め。剣に生きる者の真の業を、私はこの時漸く肌身に感じて震え出し。硬
直した体に思考停止する心。考えたくなかった。感じたくなかった。世界の全てから逃げ
出したかった。私は肉親を、一番愛した兄さんをこの手で殺めたのだ。兄さんに教わった
剣で。
その罪を業を正視できず、戦く私の前で。
兄さんは最期の瞬間迄、暖かな眼差しで。
斬られた事を理解してないのかと思える程、穏やかに涼やかな笑みを浮べ。微かに寂し
そうな様子が、私への申し訳なさを宿して見え。息さえも凍り付いた私の前で、やや苦し
げに、
『烏月、この悔いも抱えて、乗り越えて進め。
忘れるな。目を逸らすな。哀しみの欠片も踏みしめて、お前の想いと力に変え。お前は
やり通せる、辿り着ける、掴み取れる。お前は強くて賢くて優しい、俺の最愛の妹だから。
人を守れる鬼切りに、たいせつな人を守り通せる鬼切りに、お前なら、必ずなれる…』
烏月、俺の一番、たいせつなひと……。
「ああ、ああ、ああああ、あああああ!」
夢ならば終って欲しい。せめてこれ以上夢の中で迄私を苛まないで。そう望み願っても。
悪夢は終らない。永遠に終らない。それは千羽烏月が選び取った定めだ。現実はゲーム
や試合とは違う。始めてしまえば取り返しの利かない物も、やり直せない事もある。私は
そこに踏み込んでしまった。私自身の行いで。
明良兄さんは喪われた。もう取り返せない。羽藤白花は憎いけど、兄さんの仇だけど。
私は心の隅で分っていた。奴を討ち果たしても、兄さんは戻ってこない。兄さんを喪わせ
たのは奴ではなく私だ。敬い憧れ愛してきた人を。
「兄さん……明良兄さん、兄さあぁぁん!」
縋る何かを求めて私は、柔らかな肌触りに頬を埋めた。全てを受容してくれる、兄さん
とは違う種類の暖かさに己を委ね、心を預け。母上でもなければ、千羽の誰でもない胸元
に。
「私は兄を斬ってしまった。一番たいせつな人を。尊び敬い、目標にしてきた人を。斬る
積りはなかったのに。斬れとの使命は受けていたけど、最期の最期迄その積りはなかった。
私は兄を説得して奴を斬り捨て、或いは兄に斬らせ、兄と共に千羽の家に帰りたかった。
幼い日々に戻りたかった。唯兄の先に夕陽を明日を遙かに見つめ、その背を眺め鬼切部と
しての日々をいつ迄も歩み行きたかった…」
取り戻せない幼い日々を取り戻そうとして。
本当に喪ってはいけない物を喪ってしまい。
あの時も、最期迄兄は私を説き伏せようと。でも私はそれを聞き入れず。兄に戻り来る
事だけを欲して。兄や奴の想いを知ろうとせず。
「兄は奴の心に踏み込んで、奴の哀しみに分け入って、奴の想いを見て知った上で。その
鬼を、鬼の定めを、拾年掛けて、鬼切りの修行を通じて、何とか断ち切ろうとしていた」
そして奴も己の力の限り、己の定めを断ち切ろうとしていた。私だけが人の心に踏み込
めず、人の哀しみに分け入らず、人の想いを見る事も知る事もせずに。全て門前払いにし
て切り伏せようとしていた。その結果私は…。
己の望みを、己の願いを、己の想いを。
「私がこの手で……断ち切ってしまった」
私は鬼だった。私こそ鬼だった。己の為に、私の兄との幸せの為に、兄が他の途を進む
事を認めず許せず。己の物だと、兄の心を拒んで縛り、斬り捨てた。私こそ執着の鬼だっ
た。
後悔の涙が滲む。己の狭量が今更ながら憎く悔しい。頬の触れた柔らかな胸元の素肌が、
涙の粒を弾きつつ私の悔恨を受容してくれて。
「私は兄が千羽のみんなと進む途は喜べても、奴と共に進む途を喜べなかった。止める事
しか考えなかった。兄の幸せの枠を、私が勝手に決めていた。結局それが兄を失わせた
…」
千羽の大人衆は、先代も先々代も真の鬼切り役ではなかったと噂した。先々代に憧れ先
々代を目指した兄も、真の鬼切り役ではなかったと。私こそ、兄も斬り捨てた私こそが真
の鬼切り役だと。待ち望んだ鬼切りの鬼だと。
技量よりも在り方だと。人でも鬼でも命令が下れば殲滅する。どんな事情も斟酌しない。
敬い尊び愛し憧れた肉親でも迷わず躊躇わず斬り捨てられる。それこそ真の鬼切り役だと。
「私はそれを受け容れた……受け容れる事にした。そうせねば、その賞賛に背を向けては、
私の魂に居所がないから。兄を目指し兄を尊び兄の途を進んでいたわたしは、兄を斬る事
で進む途迄も断ち切った。行く先も戻る昔も失った。千羽の使命に沿い鬼切部の定めに従
い唯鬼を憎み斬る他、私に途は視えなかった。そう追い込まねば己を保てなかった。鬼を
憎む事を己に強い、人の心に触れる事を拒み」
本当は間違いだと感じていたのに。
桂さんに逢う迄、この人に逢う迄。
私は心の闇にいた。深い闇にいた。
「あの日以降、兄の想いにも己にも向き合えなかった。何が正しいのか応えられなかった。
だから唯目の前の敵を倒す事に、仇を取って役目を果す事のみに、己を追い込んでいた」
柔らかな両腕がこの肩を包み込んでくれる。
近親を殺めようと幾度も刃を振るった私を。
その首筋に繰り返し真剣を突きつけた私を。
心底案じて思い返させる為に彼女は問うて。
『どうかそれに気付いて。己を見つめ直して。
目を逸らしている事に、蓋をしている事に。
そうしなければ、この先幾ら鬼切りの業を究めても、心を閉ざし鬼の身体だけ斬って倒
しても、あなたが目指した先代や、先代が目指した先々代の鬼切り役には、近づけない』
強さの問題じゃない。それは在り方の問題。今の侭では、あなた以上に桂ちゃんが哀し
む。
鬼を憎む故に鬼を斬るのか、人を守る為に鬼を斬るのか。鬼切部の真の存在意義とは?
悪夢の底の底が見えた。その問こそが。
私が今迄向き合えなかった、答を導く。
兄を殺めた悔恨で、兄の進んでいた途も見失い。帰るべき想い出も、己の進むべき途も、
私は見失っていた。哀しみの大きさを理由に、私は今迄己の所行を見つめ返す事をせず。
兄が最期に、私に斬られた後で残してくれた想いに向き合う事を怠って。例え許されない
にしても、終生その罪と業に向き合わねばならないにしても。目を逸らしてはいけなかっ
た。
悪夢は終らない。永遠に終らない。それは千羽烏月が選び取った定めだ。現実はゲーム
や試合とは違う。始めてしまえば取り返しの利かない物も、やり直せない事もある。でも。
だからこそ、千羽の剣士として、鬼切り役を継いだ者として、兄さんに憧れた者として、
その生命と未来を断ち切った者として。私は全ての罪と業に向き合おう。終生この重い悔
恨を抱く故に、私は兄さんを愛し続けられる。兄さんの強さ、優しさ、賢さ、暖かさ、甘
さ。何もかも、その燃え尽きる瞬間迄を刻みつけ。
全ての過去を背負って至った、千羽烏月の今を正視しよう。兄さんの遺志に向き合おう。
そこにしか千羽烏月の悪夢に出口はなく。
そこにしか千羽烏月の想いに救いはない。
悪夢の夜は明けていた。私はまだ薄明るい日の差す布団の中で、一糸纏わぬ千羽烏月を、
同様に一糸纏わず抱き続けてくれた彼女を見上げる。受容の笑みはこの上もなく穏やかで。
柔らかな胸元は私の涙で濡れていた。私の頬も己の涙で濡れていた。それは良い。今更
この人に隠しても意味は薄い。彼女には全てを見られた。弱く脆い千羽烏月の情けなさも。
1年以上鬱屈し続けた慟哭と号泣を森の奥で。
私を身も心も抱き留めて、肌身に受け入れてくれた柔らかな人は、静かな正視で千羽烏
月を見つめ返し。彼女は私の悪夢の奥迄ご存じだ。双方一糸纏わぬ事も今や重大な障りで
はない。私達は最早、魂迄重ね合わせた仲だ。
「今なら応えられる。否、応えさせて下さい。聞いて欲しいのです、柚明さん……兄が望
み、あなたが導いてくれて漸く辿り着けた答を」
私の願いに彼女は全て承知の笑みで頷き。
唇が触れる程に間近で応える私を見つめ。
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役。人に仇なす怪異を討つのが、
我ら鬼切部の使命。千羽党当代の鬼切り役としての勤め。……人に仇為さぬ物は対象外」
私は終生この答を背負い続けねばならない。
そして私は生涯この答を背負い続けられる。
千羽明良を敬い目指した千羽烏月故にこそ。
兄さんの在り方を憧れ愛した妹の私だから。
「敬愛する兄をこの手で殺め、その未来を断った私は、兄が目指した在り方を、兄が作り
たかった千羽の未来を、兄が守りたかった人の世を、その想いを引き継がなければならな
い。否、引き継ぎたい。私は千羽烏月です」
「正解……それが烏月さんの真の想いなら」
溢れ出す涙を拭う手を、私は持ってない。
両腕は彼女の背に回して強く締めていて。
離せないのではなく、離したくなかった。
でも頬伝う涙を何とかせねばと思う私に、
「拭わなくて良いわ。止めなくても良い。溢れる侭に出させましょう。大切な、たいせつ
な物の為に流す涙は、止めるべきじゃない」
それは流して良い、流すべき、流さないといけない涙だから。あなたの真の想いだから。
その言葉は私の雫を一層溢れさせるけど。
彼女は烏月の脆さや弱さを責めず蔑まず。
「しっかりと悲しんで、心に刻んで、思い切り泣いて。明日に向き合い、微笑む為に…」
千羽烏月は、否、千羽の血筋は、代々羽藤の贄の血筋に、魂を奪われているのだろうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
一体どの位身と心を繋ぎ合っていただろう。柚明さんは奴の鬼切りで倒れた私を癒して
くれたのだ。鬼切りは魂に効く業で、肉体に与える衝撃は大きくない。生命に別状のない
私を癒すなら、手を握る程でも出来ただろうに。私の早い本復を望み、敢てその肌身を添
わせ。
「癒しの為とはいえ、諾否も問わず、勝手に肌身を添わせてしまって、ごめんなさい…」
同衾した布団の内で、朝日の眩しい室内で、間近な互いを見つめ合う。カーテンから漏
れ溢れる陽の光にも、彼女の霊体は揺らがずに。
その抱擁に既に力はない。私が羞恥や嫌悪で拒むなら、解き放つ積りで。今迄は意識を
失った私の癒しの為に心を込めて抱いたけど、意識を戻せば私の意思に任せ従うと。正視
してくる黒い双眸に、私の魂魄が打ち抜かれた。
「もう少し、もう少しの間だけで良いから」
この侭肌身を、合わせていて頂けますか?
答は言葉ではなく、背に回る彼女の腕のやや強い締め付けで。両の胸が彼女と強く触れ
合う事で。体の癒しは終えていた。後は心の。
柚明さんは肌身触れ合わせた状況を活用し、私が奴の鬼切りに倒れた後の大凡を、感応
で伝えてくれた。それは朧な記憶や夢が整理され形を為していく様に、瞼の裏に光景が浮
び上がってきて。今は微かな罪悪感や背徳感は棚に上げ、好いた想いに心を預け、身を委
ね。
あの夜奴は大業の反動で一時的に疲弊して。結果彼の内に憑いた鬼が、主の分霊が裏返
りを欲して蠢き。蠢動は何とか防ぎ止めたけど。異常は既に進行していた。桂さんはミカ
ゲの最期の執念に心苛まれ、暗闇の繭に囚われて。
その侭では桂さんは意識を戻せず、やがて衰弱死に至る。ノゾミや柚明さんの夢に入り
込む力も拒まれ弾かれ。最も近しい双子の兄が、奴が桂さんの心に入り込む他に術はなく。
でも、鬼を内に抱えた奴が体を空けるという事は、その体に鬼だけが残るという事であり。
蒼い力が最大になるご神木の下で、桂さんは暗闇の繭を脱したけど。そこにいたのは双
子の兄ではなく主の分霊だった。ノゾミが敵う相手ではなく、サクヤさんは私が深傷を与
えていて、私は動く事能わず。私の行いが幾重にも彼女達に危機を招いていた。誰の助け
も望めぬ状況で。桂さんの血を欲した主の分霊に対し、柚明さんが戦い守る他に術はなく。
凄絶な戦いの末、贄の血の力の蒼い輝きで、彼の内に宿る主の分霊を、鬼の赤い力を相
殺し焼き尽くしたけど。でもそれは、彼女の霊体の核を為す想いの力を削り注ぐ行いだっ
た。
力を使い果たし還りかけた彼女を現世に引き留めたのは、桂さんの決意と覚悟とノゾミ
の癒しだった。3人は想いと生命を重ね合わせ補い合って、死も生も越えて今を掴み取り。
奴は柚明さんから封じの要を奪ってご神木に宿った。今の彼女は昨夜迄の通り、本質は
霊体でも陽光の下で崩れない濃い現身だけど。奴にその使命も戦場も奪われ戻る処を喪っ
て、既に一昼夜が経っていた。ノゾミも子狐もサクヤさんも、葛様も生命に別状はなく。
勿論私の一番たいせつな人も、この人がいる限り。
滑らかな肌触りに心迄浸して満たされつつ。
心を落ち着かせる甘い花の香りはご神木の。
「こんなに人に甘えるのは、生れて初めてかも知れない。私も堅苦しい千羽の人間だから、
男とも女とも服を纏って尚軽く抱き合う事さえ殆どなく。兄さんに最後に甘えて縋ったの
も相当前で、以降肌身を合わせたのは先日さかき旅館で同衾した桂さんと、あなただけ」
人肌って、柔らかく暖かい物なのですね。
否、あなただから心地良いのでしょうか。
「あなたにこうして抱かれて漸く、己が肌身の愛おしさに欠乏し渇仰していると気付けた。
桂さんを心から愛おしく守りたく想えたのも、魂削りに力を使い果たして無防備に倒れた
失陥の末に、桂さんの布団に同衾した故だけど。あの夜は久々に悪夢なしに目覚められた
…」
柚明さんは言葉なく、静かに見つめ返し。
私の発したい想いを、穏やかに見守って。
「誰も心の内に入り込ませぬ様に努めてきた。誰かを特別にたいせつに想う事は、弱みを
作り闘志を萎えさせると怖れていた。兄を切り捨てた私に、その様な想いを抱く資格はな
いと思っていた。私の様な者に心を開き受け入れてくれる者等いる筈がないと思ってい
た」
私の心は、枯れて凍てついていた。でも…。
桂さんが心を開いて踏み込んできてくれて。
あなたが心を開いて全て受け止めてくれて。
漸く兄にも自身にも向き合える様になれた。
あなた達のお陰で。私は漸く、辿り着けた。
「あなたを、愛してしまいました」
鬼切り役の私が、鬼のあなたに。
好ましい柔らかな肉感に再び頬を合わせて。
でも私はこの続きを彼女に告げねばならぬ。
この女人も既にそれを察しているのだろう。
「この様にあなたの素肌に素肌合わせるのは、今回限り。……そうでなければ、私は一番
たいせつな人への背信を、積み重ねてしまう」
あなたと睦み合っている最中に、あなたに甘え縋っている今、告げる事は申し訳ないが。
私の一番の人があなたではない事はご存じでしょう。あなたの一番の人が私ではない様に。
柚明さんは私を抱き留めた姿勢を変えず。
私に注ぐ柔らかな視線も気配も変えずに。
「あなたの一番たいせつな人が、わたしの一番たいせつな人である様に、ですね……?」
この人は心から嬉しそうな笑みを返した。
悔しさも落胆も嫉妬も兆しさえも見せず。
抱擁しながら一番ではないと告げたのに。
同じ人を一番に想うなら恋敵の筈なのに。
その私を承知で肌身に添って癒し治して。
この身も心も真剣に愛おしみ抱き包んで。
この人に一番の想いを返せない事が辛い。
一番の人への背信となる苦味に近い程に。
でも私は、告げない訳には行かなかった。
「桂さんが千羽烏月の一番たいせつな人です。
枯れて凍てついた私に踏み込んでくれた人。
私の闇を吹き払った優しく強く愛しい人」
他者と心通わせる事を嫌い怖れ、憎悪で鬼切りを為していた私を、日輪の如く照してく
れた。拒んでも隔てても刃向けても、赤子の様な信頼を寄せてくれた。無垢な善意で私に
肌身添わせ、心を繋ぎ止めてくれた魂の恩人。
「桂さんが私の一番です。申し訳ないが、あなたを一番に想う事は叶わない。だから桂さ
んへの背信になり、桂さんに抱いた己の想いへの背信になる、あなたとの睦み合いは…」
この一度限りとさせて頂きます、柚明さん。
桂さんを蔑ろに想う事はできない。だけど。
私の言葉は柚明さんにはどれ程酷い所行か。
ここ迄想いを注いで助け支えて貰えた人に。
自ら甘え欲し縋っておいて勝手に最後だと。
切り捨てられても当然な非礼だったけど…。
曖昧には出来なかった。そうせねば己の心を整理できぬ程、私は柚明さんを好いていた。
はっきりせねばならぬのはここ迄至った故だ。柔らかな温もりに心迄浸して、この優しさ
甘さを肌身に好いてしまった為だ。この侭では私は、柚明さんも桂さんも傷つけ哀しませ
る。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
私はせめて愛しい人には誠実でありたかった。その誠実が誰かの哀しみを呼ぶのなら、私
はその結果にも、向き合い正視せねばならない。
「既にこの状態が、充分桂さんへの背信である事は分っています。桂さんに想い寄せた己
への背信だとも。そう分ってこの肌触りを求め欲した己の弱さ、あなたへの非礼は、心か
ら謝ります。その上で、有り難うございます。私の様な者に心を注いでくれて。私の様な
者の求めに応えてくれて。本当に嬉しかった」
あなたは千羽烏月の2番にたいせつな人。
私の行く途を照し導いてくれた心の望月。
己の非礼にこの人からどんな報いが返されようと、謹んで全て受け止めよう。どんな敵
の一撃よりもこの人の怒りが怖い。この人の哀しみが怖い。この人を私が傷つけてしまう
事が怖い。心の震えを乗り越えて正視した間近の美しい人は、ゆっくり首を左右に振って、
「謝る必要はありません、烏月さん。わたしのたいせつな人。承諾も得ず勝手に肌身を添
わせたのはわたしです。先に非礼を為したのはわたし。そのわたしに、想いを込めた抱擁
を返して頂けた事は、大きな悦びでした…」
何一つ謝る事はしてないと彼女は明言し。
心迄蕩かす優しげに穏やかな笑みで応え。
「元々わたし程度の者が、烏月さんの様に強く賢く優しい方に、一番に愛されるとは思っ
ていません。そして申し訳ない事だけど、わたしの一番たいせつな人も烏月さんではない。
この身と心を尽くす事は当然として、どれ程愛しく恋しく想っても、わたしも烏月さんを
一番に想う事は叶わないの。ごめんなさい」
想いの不純はむしろわたしの方に。だから。
烏月さんは何一つ思い煩う事はないのです。
「ここ迄心開いて頂き、心を肌を寄せて頂き。
有り余る程の想いを、わたしは頂きました。
有り難うございます。わたしや桂ちゃんを傷つけまいと気遣ってくれて。嬉しい……」
千羽烏月は羽藤柚明の特別にたいせつな人。
清く正しく美しい、強く優しく愛しい女性。
その穏やかさ柔らかさは、微塵も揺らがず。静かな声音と抱擁で応え。拒絶も嫌悪も哀
しみもせず。この人は烏月の想いを心から喜び。私の桂さんに抱く想いが、競合すると承
知で。
「心おきなく、桂ちゃんに想いを届かせて」
彼女が微かに強めた抱擁を、振り解く力を体に込める事が、私には尚暫く叶わなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
尚未練を残しつつ、これ以上は甘えられないと、好ましい肉感と肌触りから己を剥がし。
互いに衣を身に纏う。既に戦いは不要なので、私は狩衣ではなく北斗の制服を。柚明さん
は蒼い力で織りなしたオハシラ様の衣を纏って。
「……烏月さん?」「あ、い……いえ」
先に身を剥がして着替え終えた私は、柚明さんが蒼い衣を纏う様に。見とれていたと彼
女の問で漸く気付き。穏やかに淑やかにたおやかに。拾年歳を取ってないので外見は桂さ
んと同年配。清楚に可憐な容姿は眩しい程で。
「本当に、凛々しく艶やか」「柚明さん?」
着替え終えた柚明さんは、正面間近に正座して向き合うと、両手で私の両手を軽く握り、
「桂ちゃんが恋焦がれる気持が、分ります。
こんなに綺麗で涼やかな人が、重たい剣を確かに振るい、鬼切りを為す強者でもあり」
見とれていたのは私の方だったのに。
いつの間にか彼女は私に惚れ惚れと。
「烏月さんの一番になろうとは、望みません。桂ちゃんの烏月さんに抱く想いも、桂ちゃ
んを好いてくれた烏月さんの想いも、尊いから。
でもお願いできるなら、わたしがあなたをたいせつに想う事を許して。桂ちゃんを一番
に想うわたしが、同じ桂ちゃんを一番に想うあなたに、失礼なお願いだけど。一番ではな
く好きなんて告白は非礼だけど。一番に想えないからこそ、叶う限りの想いを注ぎたい」
両手を握られた侭、間近で頭を下げられた。
親しみを込めつつ、でも全身全霊の告白に。
「許すも何も、あなたは私のたいせつな人だ。
あなた程の人にたいせつに想われるなんて、願い求めても得られない僥倖なのに。あな
たは聡明だが、自身の値だけは分ってない…」
顔を上げて下さいと、握った両掌に少し力を込めて求めると、艶やかな髪が揺れ。間近
で微かに見上げる姿勢になった真摯な美貌に、深い瞳に、私がどぎまぎさせられる。朝の
空気はまだ涼やかなのに、妙に体が熱かった…。
2人暫く掌を握り合った侭心を絡め合わせ。
互いの瞳を見つめ合いつつ幸せを感じ合い。
この2人だけの世界を背後から破ったのは、
「お姉ちゃん、烏月さん……」「たはは…」
起きてきたたいせつな人、桂さんと葛様だった。柚明さんもその気配は察していた様で、
驚く事もなく柔らかにこの掌を外してくれて。2人を視界に入れる為に、振り返る。葛様
が瞳を見開いたのは、柚明さんの美しさの故か。私の一番たいせつな人はその半歩間近に
いて。
「お早う桂さん。心配してくれて有り難う。
葛様。ご心配を掛けて申し訳ありません」
柚明さんが挨拶の言葉を発しなかったのは。
葛様が何一つ返事も問も挟めなかったのは。
「烏月さん……良かった。元気になって…」
桂さんが飛びついて来て両の腕で肩を抱き。
嬉し涙を溢れさせつつ柔らかな頬を当てて。
私を真剣に心配し本復を喜んでくれた為で。
暫くは桂さんの溢れ出た想いを仕草をこの身で受け止める他に術はなく。柚明さんも葛
様も見守ってくれる中。私は一番愛しい人の真摯な想いに心を打たれ、強い抱擁を返して。
千羽烏月の新しい朝が、今始った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「そろそろ朝ご飯にしましょう」「はいー」
柚明さんの促しに、葛様が元気よく応えて。
そこで桂さんも、漸く我に返って頬を染め。
厨房へ歩む、蒼い衣の女人に付き従うのは、
「お手伝いします、柚明さん」「お姉ちゃんわたしもっ」「わたしもさせて下さいです」
「嬉しい悲鳴ね。でも、余り手の込んだ品を作る訳ではないし、厨房に人が多すぎても」
「では、柚明さんが誰か1人選んで下さい」
私の提案に彼女はほんの少し考えてから。
私を指名してくれて手伝いする事になり。
桂さんと葛様は間近の椅子で見守る事に。
桂さんは従姉から片時も離れたくない様で、居間のちゃぶ台で待つ気になれず。葛様は
そんな桂さんに寄り添いたく、その傍を確保し。一見不自然ではない流れだけど。コドク
を勝ち抜いた者は大抵薬殺の罠を経ていて、人の調理には警戒を怠らないと聞いた。葛様
は彼女の調理を傍で見て、安全を確かめようと?
この幼さで裏切り裏切られ殺し殺されの世界を生き延びた葛様なら、やむを得ないけど。
私は千羽だから若杉の事情を理解できるけど。作り手を信用していませんと、受け取られ
て至当な仕草を、多分柚明さんは見抜いてくる。
彼女が不快に思わないか、傷つかないか。
葛様の真意を悪意にとってしまわないか。
桂さんの前で言葉にしては拙い問なので。
瞬間視線を向けて意向を伺ったのだけど。
彼女は私の視線の問に確かな頷きを返し。
了承していますと。言葉なく心は繋って。
「烏月さんもお料理できるの?」「ああ…」
私もこの答が軽やかに出たのは意外だった。
「上手と言う程ではないけどね。兄さんがいた私は千羽では、いつか嫁に出される予定だ
ったから。剣を振るう事ばかり憶えて、料理も出来ない猪武者になってはいけないと…」
兄さんにも何度か試食を頼むと持ち込んだ。
それを思い返して自然と笑みが零れる私に。
「それじゃわたし、猪武者にもなれないよ」
「桂さんは綺麗で優しい。それで充分だよ。
その柔らかな笑みに、敵う者はいないさ」
「ううっ、うっ、烏月さん。恥ずかしいよ」
そんな綺麗な目で正視されて真剣に言われたら、わたし信じてのぼせ上がっちゃうよっ。
頬を染めて恥じらう様もこの上なく可愛い。
私が心から、守らせて欲しく願う綺麗な人。
「私は嘘や冗談は苦手な方でね。桂さんは千羽烏月のたいせつな人。柔らかな笑みの可愛
らしい、勇気と優しさに満ちた愛しい人だ」
調理の手を止めて、桂さんを間近に見つめ両の手を握る。長く続ける気はなかったけど、
柚明さんは笑みを浮べた侭黙して自身の手を進め。敢て私の手を促す事はせずに見守って。
「わたしは鬼切部はエナジーメイト等の栄養補助食品に、頼っていると思っていました」
葛様が言葉を挟んだ意図は、悟れたので。
「千羽党は古風な集団で、年長者を中心に最近の品物である栄養補助食品には懐疑的です。
鬼切部の戦いは時に月も跨ぎます。山野で食せる物を捌いて血肉と為す術を知らねば、鬼
切りは為せない。味の自信はありませんが」
握った手は桂さんが望んでいるので放さず。
その侭視線を右斜めにずらせて答を返して。
「店頭で売られる品は、山奥や離島では手に入らない時もあります。そう言う時も食せる
草や肉を自ら峻別し、捌いて血肉と為す…」
「叔母さんも、桂ちゃんのお母さんもわたしと一緒に、笑子おばあさんやサクヤさんに料
理を教わったの。料理出来ない訳ではなかったのだけど、味や食べ易さに支障があって」
柚明さんと葛様の補足を得て、あの夜から昨夜迄を語り継ぐ、愛しい人の声に耳を傾け。
4人の朝食の後、柚明さんは桂さんと葛様に子狐の朝食と見舞を頼んだ。2人で皿洗いを
終らせると、居間で彼女は私に緑茶を淹れて、
「サクヤさんを看てきます。暫く場を外す失礼を、お許し下さい」「宜しくお願いします。
私が傷つけてしまった、たいせつな人を…」
彼女は今サクヤさんを癒そうとしている。
日中では彼女も肌身添わす他に術はなく。
私に少し前迄為した事をサクヤさんにも。
思い返すだけで羞恥で顔に血の気が回る。
サクヤさんの素肌に、少し前迄私の素肌に添うてくれた滑らかな細身が、柔らかな肉感
が与えられると想うと。なぜか己の血が滾り、サクヤさんを切り捨てたく想ってしまうけ
ど。
襖の奥に消える柚明さんを、その襖を背後に庇う姿勢で正座して、緑茶を頂く。彼女を
守ると言うより、背に回す迄しないと襖の向うに心も視線も釘付けになって、逸らせない。
己が為した過ちだけど、償う事は叶わず。
鬼切りしか為せぬ私に、助力の術はなく。
出来る事は黙して終了を祈って待つのみ。
桂さんと葛様が戻り来たのは少しの後で。
「柚明お姉ちゃ……、烏月さん……あ……」
桂さんはほぼ無自覚に、柚明さんを視線で追い求めてから、私の背後の襖の向うで何が
為されているかを察した様で。葛様も共々にいけない想いを見抜かれた様に、威儀を正し。
「折角のお茶です、頂きましょー」「うん」
3人で私の淹れた緑茶を呑みつつ、気温と湿度の高まり行く羽様の夏の朝を共に過ごし。
「……烏月さん。有り難うございます……」
柚明さんが背後の襖を開けて出てきたのは、参拾分位の後か。重篤なサクヤさんの癒し
に全力投入できず、一度離れざるを得ないのは。
「桂ちゃん。もう少し癒しを注ぎたいの…」
良いかしら? と願う様に求める従姉に。
私のたいせつな人は、微かに頬染めつつ。
何を為すか知らない者はこの場にいない。
「う、うん。その、よろしくお願いします」
桂さんが私達の反応を視線で窺うより早く。
柚明さんが正座の侭三つ指ついて額づいて。
「正午位迄掛ると思います。暫くの間、桂ちゃんをお任せ頂きたく」「承知しました…」
私は正午迄の暫く、葛様と2人きりになる。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「申し訳ありません。先の失態は私の未熟の故です」「それはいーです。終った事にやり
直しは利かないし、ほぼ丸く収まりましたし。失態はわたしも同罪な程大きかった。烏月
さんには今後の精進を期待します。ところで」
正面間近に佇む葛様を見上げる正座の私に。
やや不快そうでも抑制的な声で我が主君は、
「桂おねーさんを切れるか否かは尋ねません。
あなたはわたしの命令なら、オハシラ様を、ユメイおねーさんを切る事が出来ますか?」
私の器量や覚悟を測る問はやや声が硬く。
葛様もその想定を好んでない事が窺えた。
「鬼切り役は鬼切りの頭の命に従う者です」
でも最悪の事態も想定せねばならないのが鬼切部だから。私も心の揺れを極小に抑えて、
「まともな状態の葛様が、まともな状態の柚明さんを、切る命を発する筈がありません」
私は桂さんと対峙する時が来るかも知れぬとの怖れを抱き、一度はその絆を断ち切った。
実際桂さんの双子の兄が、我が仇と追い続けた羽藤白花で。柚明さんやサクヤさんが生命
を注いで助け護ろうとしていた。敵対せずに終えたのは、本当に僥倖だった。あり得ない
と言う事はあり得ない。この数日それを思い知らされた私は、重大な問だから答も慎重に、
「今の問は葛様か柚明さんのどちらか、或いは両方がまともではない状態で命が下された
場合、私がどう動くのかと言う問と受け止めてお答えさせて頂きます。宜しいですか?」
葛様のやや硬い頷きを正視で確かめ私は、
「想定したくない極みですが、もし仮に柚明さんが羽藤白花の様に正気を失い、己の意思
では止める事の出来ない殺戮を為す鬼と化し、生命を絶つ他に止める術が無くなったな
ら」
是非葛様には鬼切部の他の誰にでもなく。
千羽烏月に彼女を切る命をお与え下さい。
「桂おねーさんは哀しむでしょーね。何とか生命絶たないでと、必ず願うでしょーけど」
だからこそです。私は深々と頭を下げて。
即答を返すこの身は、微かに震えていた。
「桂さんの一番たいせつな人、私の特別にたいせつな人を、殺める者は許せない。それが
味方仲間の誰であっても、どんな事情があろうとも。断つ事が必須ならせめてこの手で」
そうなった時には既に、桂さんは深い絶望の淵にいます。広がり行く哀しみの大波を止
められず、心を痛めているに違いありません。誰かが終止符を打たねばならぬなら、桂さ
んに心を隔てられる事は承知で、私が為さねば。
「柚明さんは一昨昨日の夜、最愛の羽藤白花を切ろうとしていた私に、こう言いました」
『彼の哀しみを分って欲しい。斬らざるを得ないなら、せめてその想いを分った上で…』
心の奥に分け入って情を交わし、大切に想っても尚、斬らなければならない時には斬る。
例えたいせつなひとでも、人に仇なす鬼なら斬らねばならないのが鬼切部。そうでしたね。
『己の身を断ち切る想いと共に、己の生命を断ち切る如き痛みと共に、その身も心をも』
そうする事が彼を救う事になると願って。
そうする事が彼を守る事になると想って。
そうする事が彼の望みでもあると信じて。
『彼を斬って下さい。その身体も生命も、心迄も。鬼の定めと哀しみと苦悩から、鬼の定
めに組み敷かれた辛い生から、彼を救って』
切る事が救いになると。憎しみや敵意の故ではなく、愛するが故に切る事もあるのだと。
私は柚明さんに教えられました。だからこそ、
「そうなり果てた末には、彼女は切られる事を望むと、生命断たれても悲嘆の渦を止める
事を願うと信じ、迷わず維斗を振るいます」
そして。私は正対した葛様を見上げつつ、
「葛様が鬼に憑かれる等して、まともではない状態で柚明さんを切る命を下された時は」
千羽の鬼切り役は先代も先々代も、若杉の先代と心通じ合えていませんでした。先々代、
桂さんのお母さんは、サクヤさんを討つ命を返上し、鬼切り役も返上し、信じた誠を貫き
ました。先代、私の兄は羽藤白花を討つ命を果たさず、討ったと偽り奴を匿い育てました。
「しかし、私千羽烏月は、桂さんを心からたいせつに想い、桂さんに心から愛しく想われ
た葛様に心服しております。心服した主君を捨てる真似は出来ず、裏切る真似も又然り」
今度こそ千羽は鬼切り頭への忠節を全うし。
生命懸けで葛様を正気に戻し申し上げます。
そうする事が葛様を救う事になると願って。
そうする事が葛様を守る事になると想って。
そうする事が葛様の望みでもあると信じて。
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽刀の鬼切り役。鬼切り役に仕えるのは宿命で
すが、それ以上に葛様は私のたいせつな人です。心を込めて仕える事をお許し頂きたく」
「……あなたは、強いですね。力や技だけではなく、心迄も……。冷徹に鎖すのではなく、
開いて人を受け入れて繋って尚、柔軟に強い。心繋げてしまった人に揺らがされても、受
け入れ逆に鎮めてしまうだけの度量がある…」
葛様は座した私に歩み寄って手を伸ばし。
私は拒まず小さな主君を肌身に受け入れ。
望まれる侭に頬を合わせ身を抱き合って。
「私を、支えて下さい。葛は、本当はそれ程強い存在ではありません。コドクを勝ち抜く
術はあっても、心は深い悔いに苛まれ、業の深い若杉を継ぐ事を厭い逃げ出した弱虫です。
でも、桂おねーさんを守る為に、私は若杉を継がねばならない。鬼切りの頭や財閥の長
に就かねばならない。中途半端に先が視える故に、葛は怯え竦むかも知れない。あなたも
桂おねーさんを好いて、好かれている事は承知で。その桂おねーさんを守り支える為に」
私は柔らかな感触を抱く腕にやや力を入れて、想いも込めて。勿論承諾ではあるけれど。
主君への配下の答ではない。今この人の真の求めに返すべき的確な答は。あの人に倣って、
葛様の左耳に唇を寄せ、親愛の想いを込めて、
「若杉葛は、千羽烏月のたいせつな人です」
柚明さんには漏らしてしまったけど。葛様が桂さんを一番に望む限り。私は一番の人に
この手を伸ばすべきではないのかも知れない。葛様を支えるという約束を、承諾した以上
は。
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少しの抱擁の後、葛様は桂さん達が起きる迄昼寝を望み。私は維斗を手入れして過ごし。
正午過ぎに起きてきた桂さん達と4人昼食を。
柚明さんは桂さんに、経観塚での食材購入を依頼した。桂さんはまだ本復に程遠いけど。
蒼い癒しと傀儡の術と生気の前借りの併用で、一昼夜以上は問題なく動ける様で。昨日も
葛様と2人で買い物に行き、祭りも見てきたと。
食事や睡眠で既に血も増え始めてきており。
少し動き回った方がリハビリにも良い様で。
腹が減っては血も増やせないけど、食材がなくば調理も出来ぬ。食材購入は必須だった。
柚明さんは尚本質は霊体で、人前に出る事は望ましくなく。拾年前迄はここの住人だった
ので、経観塚には顔見知りもいる。それにこの屋敷には尚人目を呼んでは拙い面々もいる。
昨日は葛様と2人だった為に、重さも考慮して余り多くは購入できなかったらしい。なら。
「分りました。桂さんに私が付き添います」
「葛ちゃんも来る?」「いえ、わたしは…」
葛様が遠慮したのは意外だった。特にこの組み合わせは、葛様が外せば、私が桂さんと
2人きりになる構図だけど、良いのだろうか。桂さんや柚明さんと共に葛様の真意を窺う
と、
「昨夜は少し夜更かししたので遠慮します。
わたしは桂おねーさん達が来る迄この家で、電気のない生活をしていました。陽が昇れ
ば起きて、日が沈むと眠る……ここ数日の生活サイクルに、体がまだ馴れてない様でし
て」
青い光の癒しを頂く迄の事はありません。
「漸く本復した尾花の相手も、したいので。
ユメイおねーさんと帰りを待ちますです」
どうやらここに残るべき事情がある様だ。
桂さんがいない方が望ましいと言う事か。
柚明さんの了承も貰えたので2人で町へ。
鬼の脅威は潰えたので維斗は置いて行く。
三和土迄葛様と見送りに来た柚明さんは、
「今日は経観塚のお祭り2日目だったわね。
桂ちゃんと2人、ゆっくり楽しんできて」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「今日は烏月さんと2人だね」「そうだね」
緑のアーチを一緒に歩み、強い日差しに手を翳す桂さんに瞳を細め。朽ちたバス停でダ
イヤへの若干の不安を抱えつつ、暫く待って。少し遅めに着いたバスには他に乗客も少な
く。
「やっぱり暑いねー……って、烏月さん、冬服で涼やかだけど、暑くない?」「暑いね」
「烏月さんはいつもぴしっと整っていて綺麗だから、ちっとも暑そうに見えないよぉ…」
「心の浮動を他者に見せない様に、躾けられてきたからね。でも私は、桂さんの様に心の
内を素直に出せる人も、好ましいと思うよ」
「そそっ、そうかな。わたしは、烏月さんの様に涼しげな感じが格好良くて好きだけど」
緩やかな運転に揺られつつ、町に着いて。
商店街に行くと賑やかな出店が見渡せて。
「お買い物を先にすると、荷物が邪魔になるから、先にお祭り歩こうよ」「そうしよう」
桂さんとこの様に2人並んで歩むのは数日ぶりか。前に経観塚の町を2人で歩いた時は、
初めて手に持ったクレープの食し方に戸惑い。倣おうと思って間近を見た所、美味しそう
に食べる桂さんに見とれ。でもその直後に奴の姿を見かけた私は、桂さんを置いて奴を追
い。
「クレープ、下さい。苺とチョコ1つずつ」
先日寄ったクレープ屋で私は、桂さんに見守られる中、ぎこちない仕草でそれを購入し。
「この前あのお店で買った種類と同じだね」
「あの時は、置き去りにして申し訳なかった。結局両方桂さんのお腹に入ったんだった
ね」
「あの、わたしも烏月さんを少し追いかけて町中を走って、いつの間にか握った掌に力が
入って、振り切られて諦めて気付いた時には、結局食用に適さない物に成り果てていて
…」
食べられたのは最初に口に運んだ数口だけ。
食べ物を握り潰した感触と勿体ない感を思い返して苦笑する桂さんに、なら丁度良いと。
「先日のやり直しの積りで、同じ組み合わせを買ったんだけど。違う方が良かったかな」
「ううん……ぜんっぜんいいです。烏月さんに奢ってもらえたクレープなら、どの銘柄で
も値打は千倍っ!」「喜んで貰えて嬉しいよ。……私の千羽に千倍を掛けた駄洒落だ
ね?」
「気付いてくれたの!」「ん、まあ、ね…」
瞳をきらきら輝かせ、桂さんは間近に更に踏み出してきて。柔らかに揺れるブラウンの
長い髪が愛おしい。人目に付く所なので私が見とれて衆の不審を招かぬ様に。チョコクレ
ープを渡して次の動きを促し。唯でも目立つよそ者で、女子同士近しすぎる図は拙いかも。
桂さんは唯でも可愛く綺麗で人目に付き易い。
「今回は苺クレープの方が良かったかい?」
私の手に残った片方に向く視線に気付き。
問うと私のたいせつな人は少し戸惑って。
「うん……その、烏月さんも前回は食べられてなかったし、今回は半分こできれば、2人
とも両方の味を楽しめるかなって。どう?」
私が微笑みと一緒に賛同の頷きを返すと…。
桂さんは頬を朱に染めつつ更に瞳を輝かせ。
互いのクレープの囓った処に口を合わせて。
己が囓った処に相方の唇が付くのに赤面し。
私達は人混みの中を姉妹の様に親友の様に。
或いは恋人の様に連れだって手を繋ぎ合い。
「昨日も葛ちゃんと歩いたけど、懐かしい。
わたし、このお祭りを何度も歩いていた」
こうやって手を繋いで、お母さんやお父さんやサクヤさんや、柚明お姉ちゃんと一緒に。
桂さんは自身の腰位の処に右手を置いて。
「あの時の目線はこのくらいだったけどね」
「柚明さんとお祭りを歩きたかったかい?」
うん……。桂さんは今祭りを一緒している私への配慮なのか、少し考え言葉を選びつつ、
「お姉ちゃんとはこれから毎日一緒だから」
烏月さんは一件も解決したし、夏休み終る前に千羽のおうちに、帰っちゃうのでしょう。
「学校が違うという以上に、烏月さんはお仕事がお仕事だから、中々逢う事も難しそう」
鬼切りを為すなら生命の危険は付き物だ。
今の逢瀬が今生の別れになる怖れは常に。
口に出せば不吉を招くと桂さんは案じて。
私との同伴の方が希少価値が高いと続け。
「そうでもないさ。こうして縁を繋げた以上、逢おうと思えば必ず逢える。強く想えば必
ず届かせられるのだと、私がごく間近に桂さんと柚明さんに見せられて、教えられたか
ら」
だから私が強く想えば必ず逢う事は叶うと。
私が強く想えばきっと届かせられるのだと。
応えた私に桂さんはうんうんと大きく頷き。
「わたし、烏月さんに逢いたいって強く想う。お屋敷で過ごす日が終っても、夏が終って
も、わたしの想いは終らないから。烏月さんをたいせつに想うこの気持は、ずっと続くか
ら」
正面間近でこの手を握り、正視して語る。
本当にこの人はどこ迄も愛しく好ましい。
清く優しく美しい、千羽烏月の心の太陽。
桂さんは無邪気に天真爛漫に、罪作りだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……桂さん……。……くっ……、……!」
経観塚名物の通り雨が舗装路面を叩き付ける中、私ははぐれた桂さんを探し求めていた。
暑さと人混みで疲れ気味の桂さんを、ベンチで休ませ、飲み物を買いに外したのだけど。
不意に空が暗くなって。急な豪雨に周囲の人達も一斉に動き出して視界を塞ぎ。ベンチに
駆け戻ったけど、桂さんは既にそこにいなく。
『近くの商店か喫茶店で雨宿りしている?』
闇に潜む達人の殺気は、察する事が出来る私だけど。雑踏に紛れた普通の人を探す力は、
私にはない。サクヤさんの様に鼻が利く訳でもなく、贄の血の気配を手繰る力も術もなく。
現状で桂さんを狙う脅威も危険もないのに。
見失っただけで己がこんなに取り乱すとは。
この通り雨が参拾分続かないと分っていて。
止むのを待てず驟雨に濡れる侭、私は近くの店先の窓や軒先を、虱潰しに確かめて回り。
蜘蛛の子を散らす様に雨宿りを探す人と。
諦めて雨に濡れるに任す人の合間を縫い。
商店街の空き店舗が転用された休憩所に。
複数の男子に言い寄られている女の子は。
「桂さんっ……!」体は疾駆を始めていた。
「……じゃあ、その連れの子も一緒で良いからさ。カラオケでも行こーよ。奢るから…」
桂さんは、通りに面した大きなガラス窓を背に、地元の男子高校生3人に言い寄られて
いた。桂さんの可愛らしさに心惹かれたのか。
後で考えれば悪意も窺えなかったし、誘い方もそれ程強引ではなかった。出会いを求め、
楽しい時を共に出来るなら、位の感覚だったのかも知れぬ。でも桂さんは元々男子をやや
苦手とする様で、この時も困惑や弱気が見え。誰かが挟まって、確かに断るべき状況だっ
た。
何より私が桂さんを見失い、この手の届かぬ処で不安を招いたかと想うと。数日前にこ
の商店街で、奴を追いかける内に深夜に至り、桂さんを放置してノゾミに付け入る隙を与
え、危うい目に遭わせた失陥が、思い起こされて。
『もう二度と危うい想いをさせはしない!』
休憩所に駆け込むと、一直線に窓際に走り寄り。桂さんの左肩に手を掛けようと伸ばし
ていた、一人の男子の手を払いのけ。驚きに瞳を見開く桂さんの前に割り込み、男子3人
には背中を向けた侭目もくれず。間近に暖かで柔らかな、彼女の両手を両手で確かに握り。
「う、烏月さん?」「はぐれて済まない…」
まだ驚きに丸いその双眸を覗き込み、私は心を込めて両手を握り締めつつ、言葉を発し。
「もう心配は掛けない。私が傍に添うから」
端から見れば妄想を誘う絵図だったかも。
でもこの時は、私には桂さんしか見えず。
「烏月さん……ずぶ濡れで。わたしを捜して、雨の中を走り回ってくれていたの……?」
「当然だよ。桂さんは私のたいせつな人だ」
心を尽くして守り助け支えたい一番の人。
私は愛したのは姿形や生命だけではなく。
柔らかに憂いなく微笑んでくれる心迄も。
『人を守るという事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。そ
の深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる事』
桂さんの喜びと安心の笑みを間近に見れて。
漸く私も落ち着き周囲を見渡す余裕を戻し。
置き去りにした男子高校生3人に向き直る。
「悪いが、私と彼女は別に予定があるので」
彼らが気圧されたのは私の気迫になのか。
桂さんとの近しすぎる触れ合いになのか。
脅す迄行かない程度の説諭で素直に諦めて。
休憩所の反対隅に移る彼らから視線を外し。
「済まなかった。今度こそ、しっかり守る積りでいたのに……不安を抱かせてしまって」
ううん。桂さんは柔らかな笑みを浮べて、
「烏月さんは悪くない。周りの人に流されて、雨宿りにベンチを離れたのはわたしだも
の」
窓の外は既に雨脚が衰え始めて来ていた。
「心配かけちゃってごめんなさい。びしょびしょになっちゃったね。この侭じゃ風邪引い
ちゃうよ」「私の事なら心配は要らないよ」
この程度で体調を崩していては、とても鬼切りはこなせない。桂さんも聡いので私の返
事の意味を分った上で、尚間近に顔を寄せて、
「それでもわたしは烏月さんを心配したいの。わたしのたいせつな人だから。わたしの為
にずぶ濡れになった侭、捨てては置けないよ」
まだ水が滴る私の制服の裾を、桂さんは心配そうな顔で見つめて、首を捻って考え込み。
「うーん、うーん、ん……そうだ!」「?」
妙案を思いついたらしい桂さんが、うんうん頷きつつ私の手を引いて外に歩み出した時。
通り雨は去って、空は青さを取り戻していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「いらっしゃい、羽藤さん。お元気そうで何よりだわ。それとお帰りなさい、千羽さん」
少しの後、私達は女将さんの出迎えを受け、さかき旅館の温泉に浸かっていた。桂さん
は崖から落ちた日にサクヤさんが精算して宿を引き払っていて。日帰り入浴と言う事にな
る。
昼3時過ぎの露天風呂は、通り雨の為に入浴客が途絶えた直後で、2人貸し切り状態で。
2人湯船に入って向かい合う。宿に来た2日目夕刻に、サクヤさんも交え浸かって以来か。
「これなら冷えた体も温まるし、暫くお風呂に入ってなかった烏月さんも、髪も体も洗え
て一石二鳥……」「確かに、妙案だったね」
休憩所に入る迄に、桂さんも多少雨に濡れ。私は良くても桂さんの体調を考えればこれ
は妙案だった。彼女は傍目に元気そうでも、全快にはまだ程遠い。無理は避けるべきだっ
た。
「それに、烏月さんがさかき旅館を借りた侭で、服や下着の替えもあるなんて一石三鳥」
私は羽様にいた間も、さかき旅館は借り続けていた。他に荷も多く、奴を追ってこちら
に戻る可能性もあり。あの時点では、奴を庇う柚明さんを敵に回す怖れも残っていた故に。
あの屋敷に全てを置く選択は危うすぎたのだ。
「世間的に見れば、泊らない数泊の宿賃は浪費だろうけど、若杉や千羽の、鬼切部の必要
経費として見るなら、高い部類ではないよ」
宿賃数日分で1日2日早く鬼を切れるなら、鬼の手に掛って生命を落す人が少なくて済
む。
「人の生命には、替えられないものねぇ…」
だから私は宿賃に付随するサービスなので、入浴料は不要で。部屋にある着替えを纏え
ば、私に問題は残らない。桂さんの服はずぶ濡れと言う程ではない上に、女将さんのサー
ビスで、ドライヤーで乾かしてくれる事になって。
「お風呂場で見ると一層綺麗だよね、烏月さんの黒髪……髪だけじゃなく、何もかも…」
桂さんが間近なのになぜか私を覗き見る様に溜息をつくのに。私は桂さんを見つめ返し。
湯の中でもタオルに身を包んだ肢体が、ほんのりと上気して可愛らしさを更に増していた。
「桂さんの可愛さには及ばないよ。私が女らしさにやや欠ける事は、承知しているから」
「そそっそんな事ないよ。烏月さん、わたしが見ても本当、惚れ惚れする位素敵だもの」
目を逸らすのは後ろめたい嘘の故ではなく。
私もなぜか目を逸らしてしまったので分る。
体を巡る熱は温泉の効用か恥じらいの故か。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、女の子という点では私は桂さんに敵わないよ。なぜ
なら桂さんは女の子なのに、女子を……私を、千羽烏月を、惚れさせてしまった程だ…
…」
桂さんの頬がより赤くなるのは長湯の所為ではなく。私の頬も染まっていたかも知れぬ。
「初めて見たあの夜から、経観塚の駅に降り立って向き合った時から、私千羽烏月は…」
お互い間近な相方を、正視出来ず窺い合う。
想いを告げて求め望むなら、正にこの時か。
勇気を出して(鬼を切り、時に人をも切ってきた私が、色恋には勇気を出さねばならぬ
とは、何とも……)たいせつな人を正視して。
「桂さん? ……桂さん!?」「ふぁ……」
そこで漸く、私は彼女の異変に気付いた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私の部屋の布団に寝せた桂さんの目覚めは、窓から差し込む陽が角度を低くした頃だっ
た。布団に寄り添い、座って見守る私の目の前で、
「……烏月さん」「桂さん、おはよう……ではないね。こういう時は、何て言うのかな」
まだ疲れが残っているなら、もう少し寝ていた方が良いかも知れないね。と数日前の様
に語りかける私に、桂さんはまだ寝ぼけ眼で、
「ん……どうしようか。……んん!?」
あの朝も桂さんはこんな反応だった。
「う、う、う、烏月さん……何で……。
何でわたしの寝顔なんて見てるの?」
驚きに眼を見開く彼女に私もあの時の様に。
「随分と気持良さそうに、安心しきった顔をして眠っているから、つい見とれてね……」
桂さんは長湯にのぼせて意識朦朧として。
私は雨に冷えた体を温められたのだけど。
桂さんは冷えてないのに私に付き合って。
否違う、私が付き合わせてしまったのだ。
もう少し早く湯から上がる様に促せば、或いは己が上がれば桂さんも連れだって一緒に。
でも私が、湯に隠されぬ桂さんの生れた侭を見る事に恥じらい固まって、今の状況を招き。
無防備な寝顔を傍で見つめるのも幸せだけど、失敗だった。私はこの人を守り支えたいの
に。
桂さんはすぐに身を起こさず考え込んで。
今ここに至る迄のいきさつを思い浮べる。
「じゃわたし、はだかの侭で、烏月さんに」
桂さんも私も沈む夕日より頬を赤くして。
温泉の中よりも血の巡りは良かったかも。
「その事については申し訳ない。湯の中から抱き上げたけど、歩みも危うかったから支え
抱く感じで。布団に寝せるには浴衣が良いと、勝手に私の部屋にあったのを着せてしま
い」
その、素肌の桂さんをお姫様だっこしたり、タオル纏わぬ桂さんの千鳥足を抱き支えた
り、脱衣所でバスタオルで湯や汗を拭き取ったり。
「勝手をしてしまった。許して欲しい…!」
「う、ううん。そういう、ことじゃなくて」
「その、決して邪な気持や不埒な行いは入ってないから。桂さんは確かに可愛くて滑らか
で放っておけない程魅力的だけど。私は恋した人には堂々と、想いを述べて答を貰いたい
と望むから。状況に流されて既成事実を作る様な無責任は、好いた人には為したくない」
女の子の恥じらう事を、重ねて強いた。
今日の私は失態続きで、情けない限り。
私はこの人に、喜んで欲しかったのに。
愛しい人の、笑顔を守りたかったのに。
人を守り支えるとは、何と難しい事か。
或いは、己が未熟に過ぎるのだろうか。
座した侭で深々と頭を下げる私に桂さんは。
布団の上で身を起こして傍の私を軽く包み。
「ごめんなさい。迷惑、かけちゃって……」
烏月さんは、悪くないよ。何も悪くないよ。
悪いのは己の状態を分らず長湯したわたし。
「ベンチを勝手に離れて雨の中を駆け回らせ。
男の子達の誘いにも挟まって断ってくれて。
温泉ではのぼせたわたしを助けてくれて」
本当にありがとう。嬉しかった。わたし。
桂さんは私の失態を責めず優しい声音で。
「烏月さんなら、他の人に見られて恥ずかしい事、されて困る事も、嫌じゃない。烏月さ
んに迷惑になっちゃうのはごめんねだけど」
額づいた私の間近で唇は動き続けている。
耳の上で、頬の近くで、触れ合う程近く。
「謝らないで。もしわたしの前で烏月さんが温泉にのぼせた時は、わたしが烏月さんに同
じ事をしていたと思う。だから、お互い様」
桂さんの頼む様な声に促されて、漸く私は面を上げる。今更取り返せぬ失態を謝りたい
のは己の想いだ。許されて己が楽になりたいからだ。それで桂さんが心痛めては、誰の為
の謝罪か分らなくなる。だから敢て面を上げ。
頬の朱は夕日の照射でも温泉の熱でもなく。
この胸を温め焦がすこの想いは間違いなく。
私は今迄ずっと桂さんにのぼせ続けていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
さかき旅館を出たのは、陽も没する頃合で。
買い物をしていては最終バスに間に合わぬ。
桂さんの体調も考えてタクシーを頼む事に。
買い物を終えたら店先へ来て貰う事にして。
「歩いて大丈夫かい?」「うん、全然元気」
むしろ一休みできて体調はいい感じだよ。
女将さんから渡された服を桂さんが纏い。
「ありがとうございました」「またどうぞ」
通り雨のあった事など忘れ去って賑わう夜店の並びを縦断し、向う端のスーパーへ歩む。
バス時刻に縛られなければ時間に余裕はある。
「わぁ、華やかできれい……」「そうだね」
日中並んで歩んだ露店の並びだったけど。
暮れかけた陽の薄暗がりに連なる灯火は。
桂さんの言う通り誘蛾灯の様に心を誘い。
頭上に下がる色とりどりの電球も提灯も。
綿飴屋もお神籤屋もぼうっと浮び上がり。
日常見かけぬ光景は妖しささえ感じさせ。
「通り過ぎるだけで気持がうきうきするね」
浴衣姿の女の子は華やかで。走り回る子供は元気そうで。露店の呼び込みや人の話し声
も賑やかで。桂さんはややゆっくり歩みつつ、左右を前を、声を気配を雑踏を視線で追っ
て。
「私はそんな桂さんを見ると気持が踊るよ」
そう答えた時には既に、桂さんの視線は別を向いていて。浴衣姿の二十歳前後の成人女
性と、同じ年頃の男性が手を繋いで歩く様に、
「恋人同士かな。2人並んで仲良さそう…」
笑みを浮べつつ、時に互いを見つめ合い。
この世の幸せをここに集めたという様な。
桂さんがふと我に返って私を見つめ直す。
何となく、桂さんが望みたい事を悟れた。
祭りの雑踏は賑やかだけど、多くは見知らぬ人達だ。心許せた人は今目の前にいるお互
いだけ。大勢の中にいる故に感じる寂寥や孤独もある。涼しくなった風に髪を靡かせつつ、
「手を繋ごうか」手を差し出して申し込むと。
「お願いします」少し恥ずかしそうな応諾が。
握り返してくれる柔らかな感触が愛おしい。
夜店の列を縦断してスーパーに入る。同じ電気の灯りでも、闇に浮ぶ色合いと日常のそ
れでは趣は相当違う。僅かな心残りを振り切って。私達は野菜や肉や魚や卵を買い込んで。
私は買い物に出向く事がそう多くないので、物の値段の見分けにやや疎い。籠を持って
桂さんの主導に従い、後ろから添う形になって。主婦役の桂さんに、荷物持ちの私は旦那
役か。桂さんの夫役なら男役も嫌う処ではないけど。
「すっかり暗くなっちゃったね……柚明お姉ちゃん、心配しているかな?」「桂さんが無
事なら喜んで許してくれるさ。私も謝るよ」
大伴酒店の主人が運転するタクシーに乗り込んだのは、残光も消え失せた頃で。町の灯
りが後ろに去ると、目に入る光は車のライトと星が降りそうな夜の空に、欠け始めた月と。
祭りの喧噪から離れれば、そこは千年変る事のない静かな木立が、月夜の元に佇んでいて。
経観塚の町で下ろしたお金からタクシー代を払い。車のライトが引き返すのを見送って。
地面に置いた荷物をよいしょと持って、屋敷に入ろうとする桂さんの手をこの手で止める。
「桂さん……少しだけ、良いかな?」「?」
数歩歩けば入り口だった。漏れる電灯の輝きに照し出されて、私達の顔立ちは陰影深く。
戸惑い気味に、動きを止めてくれた桂さんの、両手を握って胸の前に持ち上げ、瞳を覗い
て。
「羽藤桂は、千羽烏月のたいせつな人だ…」
にこやかに心を照す、千羽烏月の心の太陽。
柔らかさと優しさを備えた助け支えたい人。
「私に、今後もあなたを、守らせて欲しい」
うづき、さん? 桂さんはやや戸惑って。
私の言葉を想いを聞く為に、姿勢を改め。
「今日もこの前もさかき旅館で、あなたの寝顔の安らかさに、私は息を止められた。魂を
揺さぶられた。心底守らせて欲しく思った」
私はずっとあなたの兄を誤解して憎み、その討伐へと自身を追い立てていた。他の事は
考えない様に、他の人と繋りを持たない様に。心の内に誰も入れず、誰の心にも踏み込ま
ず。誰を助けると言うより、誰を守ると言うより、鬼を憎んで切る事にのみ、自身を追い
立てて。
「そんな私の殻を打ち破ってくれたのは、あなたの兄と柚明さんと桂さん、あなただ…」
その優しさと強さに、柔らかさと頑固さに。
千羽は結局、3代続けて羽藤に心囚われた。
「千羽烏月が今こうしてあれるのは、己自身の生き方を取り戻せたのは、間違いなくあな
たのお陰だ。それだけで私は生涯あなたに返さねばならない恩がある。でもそれ以上に」
桂さんは、一昨日深夜ご神木の前で、主の分霊と相殺して還りかけた柚明さんを繋ぎ止
める為に、ノゾミと共に生命を注いで補い合った。結果心も記憶も一部流入し、あの夜の
情景を桂さんも柚明さんの視点で知っている。
その少し前に私が奴の鬼切りに敗れた様も。
私が柚明さんの素肌に頬寄せ号泣した様も。
私が彼女に語った明良兄さんの事情も多分。
「私はあなたを心の底からたいせつに想ってしまった。守り支え助けたく願ってしまった。
この屋敷で一緒に過ごす日々が終っても、この夏が終っても、この想いは薄れはしない」
桂さんを守りたい。この手で守りたい。この人の守りに些かでも不安があるなら、私が
それを拭い去る。この人に迫る全ての脅威を退ける。例えそれが、鬼だろうと神だろうと。
私が今鬼を切るのは人を守る為、人の想いを守る為。桂さん、あなたを守る力になる為だ。
瞬間私は言葉を止めて深呼吸し腹に力を。
「私があなたを、生涯たいせつに想う事を許して欲しい。守り助け支えさせて欲しい…」
仮に桂さんに他に一番の人が出来たなら。
千羽烏月はその人も含めて助け支え守る。
力の限り、心の限り、私の全てを注いで。
「唯あなたの心の片隅のどこかに、千羽烏月の居所も空けておいて欲しい」「烏月さん」
ひたむきに返してくれる正視はまっすぐで。
その唇から発される声音は柔らかに滑らか。
その気配は顔色は姿勢は私を許し受け入れ。
「烏月さんは、羽藤桂のたいせつなひと…」
一目見た瞬間に運命を感じた凛々しい人。
黒髪艶やかに美しく、賢くて心優しい人。
わたしやわたしのたいせつな人を守り庇い。
何度も危険に踏み込み助けてくれた強い人。
そこで桂さんは、ふっと声を落して俯いて、
「拾年前に幼いわたしが呼び出した禍で、酷い目に遭わせてしまった、わたしの親戚…」
私達が絆を繋ぎ続けるには、彼女の兄と私の兄の関係を、素通りする訳に行かなかった。
桂さんは全ての記憶を取り戻し、私は全ての事情を把握した。傷つけ傷つけられた過去か
ら目を逸らさず、その上に未来を積み重ねる。私も桂さんもその様にありたく想うのだか
ら。
「その事も謝らねばならないと思っていた」
桂さんが勇気を持って切り込んでくれた。
ならその先は私が切り開き押し進めよう。
「私が奴に、あなたの兄に抱いた想いは八つ当りに近い物だった。本当の敵は奴ではなく、
奴の中にいた鬼だった。己の内に宿した狭量さや拘りや独占欲だった。怨恨憎悪に目の眩
んだ私は、それを疑う事も考える事もせずに。
真相を知らねば私は、あの侭奴を憎み恨み、切り捨てていた。奴を庇う柚明さんやサク
ヤさんにも刃を向けて、サクヤさんには実際に深傷を与え。憎悪に踊らされた侭、取り返
しの付かない過ちを、犯してしまう処だった」
あなたのたいせつな人を、殺めようとした。
女子同士で相手を想い合う事の困難以上に。
私達の間に、千羽と羽藤の間に、溝がある。
それでも私は彼女と心繋げたく想ったから。
「謝って許される事ではないが、謝らせて欲しい。あなたの哀しみの一端は確かに私の所
為だ。償いは千羽烏月のなし得る限りを…」
瞬間、桂さんの見上げた瞳に気圧された。
痛み哀しみに震えつつ、強く紡いだ声が。
「それは、烏月さんが謝る事じゃない。わたしが、羽藤桂が謝らなければいけない事…」
烏月さんのお兄さんの事は、烏月さんの所為でも、ケイ君=白花ちゃんの所為でもない。
全て幼い日のわたしが招いたこと。わたしが鬼の禍を招かなければ、お父さんも柚明お姉
ちゃんも、白花お兄ちゃんも。お母さんだって心労が少なければ、生命縮めなかったかも。
それは烏月さんのお兄さんにも、言える事で。
「……謝らなきゃって思っていた。謝って許される事じゃないけど、一度は向き合ってご
めんなさいと言わなきゃいけないって。たいせつに想った烏月さんに、悲しい想いをさせ
た原因はわたしです。羽藤桂ですっ……!」
全ての原因はわたしなのに。わたしにそれを取り返す術はなく。その所為で起きた禍か
らみんな必死に守り庇ってくれて。その上でわたしの痛み哀しみを気遣って庇ってくれる。
悪い子はわたしだったのに。許されない罪を犯したのはわたしなのに。みんな優しく強く
ありすぎて。わたしは何も返す事出来なくて。
「ごめんなさい。本当にごめんなさいっ…」
せめてこれからは、出来る事で償いたい。
想いを返す事は出来るから、全身全霊で。
「人の一生を狂わせたり、生命を失わせたりした。返しきれない事は分っているけど、償
いきれない事も分っているけど、だから!」
桂さんこそ、この人こそ心に深傷を負っていた。何の力も術もなく、唯守られる事がど
れ程辛いか。己を守り庇う為にたいせつな人が痛み苦しむ様を見て、手助けできない無力
がどれ程悔しいか。人を守れる強さを修行してきた私だから、哀しみの深さが垣間見える。
この人は幼い日の過ちの結果、多くの痛み哀しみに晒されてきた。ここ数日はその総決
算だったのだろう。心を壊す程の悲嘆に何度も向き合い、生命を失う程の危機に幾度も面
して。その上で尚、私の罪を責める事もせず。その首筋に刃も向けた千羽烏月に寄り添っ
て。
「たいせつに想わせて。烏月さんは羽藤桂の特別にたいせつな人。このお屋敷で一緒に寝
起きする日々が終っても、夏が終っても…」
生涯たいせつに想い続けたい大事なひと。
言葉は不要だった。答はお互いの行動で。
私達は相手の背中に腕を回し、頬合わせ。
体も心も確かに繋げ、暫くの時を過ごす。
月は既に欠け始めていたけど。欠けてもまた満ちる様に、沈んでもまた上る様に。私達
も心が繋っている限り、離れてもまた逢える。
風は涼やかだったけど、心は熱い程だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
屋敷の入口間近で為した私達のやりとりは、全てお見通しだったのか。葛様と柚明さん
は入口の向う側に居並んで、ノゾミはその斜め上に浮いて、引き戸を開けるのを待ってい
た。
「お帰りなさい、桂ちゃん。烏月さん……」
把握していた事は繕わず、問い糺しもせず。
柚明さんは柔らかに、私達を迎えてくれて。
「ご飯の用意が丁度出来た処です。どうぞ」
「おねーさんお帰りなさいです」「桂っ…」
私達の密な触れ合いに、触発されたのか。
葛様は桂さんの右手を取って中へと導き。
ノゾミは桂さんの左頭上に浮いた侭添い。
奪われたのになぜか不思議と微笑ましい。
「葛ちゃん、ノゾミちゃん……もうっ……」
幼子達に桂さんが、引きずられてゆく中。
桂さんの、残した荷を持った柚明さんに。
「通り雨に濡れたので、冷えた体を温めにさかき旅館の温泉に入ったのですが、私の不注
意で桂さんがのぼせてしまい。申し訳ない」
「温泉は程良い疲れの代りに新陳代謝を促し、体を温めてくれます。烏月さんも暫く湯浴
みをしてなかったので、丁度良かったですね」
桂ちゃんのお世話を看てくれて、有り難う。
柚明さんは私に柔らかに頭を下げて喜んで。
私が桂さんに何を為したのか、為せなかったのかはお見通しだろうに。この人は全く…。
食卓には何の予告もなく食器が5人分あり。
桂さんもそれが当然という感じで席につく。
葛様は私に向けて、一瞬肩を竦ませたけど。
私が桂さんの左に、葛様が右に、柚明さんとノゾミは向かいに座して、5人夕食を頂く。
今日買ってきた食材は、明日以降の必要量だ。でも私達は遅くなると連絡してなかったの
に。柚明さんはタクシーの到着時間に合わせて冷めない様に、できたての夕食を出してく
れて。
「「「「「いただきます」」」」」
5人で声を揃え、柚明さんの作った夕食を頂く。千羽では、剣士である私は原則日々の
調理には携わらず、癒し部等の作った料理を頂くのが常だけど。正直これは美味しかった。
「中々いけるわね、千年後の人の食物は…」
鬼のノゾミがまともに座して人の如く夕食を摂る絵図が、奇妙に想えたけど。彼女も桂
さんのたいせつな人なので、じろじろ無遠慮に見る失礼は避けて、自身の食事を頂く事に。
「烏月さんも桂ちゃんも、お腹空いているでしょう。お代りはありますから、遠慮なく」
「はぁあい」「わたしもお手伝いしたです」
「そうなの? うん、おいしいよ葛ちゃん」
「実際やっていた事は鍋の火加減を見る事と、味見の手伝い位だった様だけど」「たは
は」
青珠にいても封じられている訳でないので、外界の状況は見て聞えるのか。ノゾミの突
っ込みに葛様は苦笑いして。やはり葛様はまだ柚明さんを信じてないのか。信じられぬの
か。
「でも、初めてやってみたにしてはイモの皮むき、上手に出来ていたわよ。筋が良いわ」
桂ちゃんが今食べている、煮物のイモよ。
言われて視線を目の前に落した桂さんが、
「これ?」「はいっ。わたしの会心作です」
「あなたは一つ二つ切っただけで、その他の全ての行程をやったのは、ゆめいじゃない」
「たはは……そーなんですけどね」「うん。おいしい。とってもおいしいよ、葛ちゃん」
「もう少し慣れてくれば、もっと上手に出来る様になるわ。葛ちゃんは賢くて飲み込みが
早いから、きっとお料理上手になるわよ…」
「そー言って貰えると嬉しーです」「わわっ、わたしもおイモ切ってみる。お姉ちゃん
っ」
柚明さんの笑みに、妙な危機感を感じた桂さんが右の拳をぎゅっと握る。葛様が柚明さ
んと打ち解けている事に、なのか。葛様が柚明さんに習って料理上手になる事に、なのか。
「そうね。では、明日の夕ご飯の時にお願いしましょうか?」「うん、わたし頑張るっ」
「ユメイおねーさんがいるから大丈夫だとは想いますけど、刃物は危ないので、気をつけ
て下さいね?」「だだっ、大丈夫だよっ…」
わたしのお母さんは烏月さんの親戚で、元鬼切り役だったんだもの。刃物を扱う事にか
けては、きっと眠らせている素養がある筈で。
「野菜ごと指を切らない様にね、桂。鬼でも何でも切ってしまいかねないのよ、刃物や鬼
切部と言う物は」「うっ、そ、それはっ…」
ノゾミの不用意な言葉に、葛様が私を気遣う故に、瞬時拙いという表情を、見せたけど。
「大丈夫だよ、桂さん。刃物も鬼切部も時に誤って、切ってはいけない物迄切ってしまう
事もあるけど……しっかり気をつけて挑めば、桂さんなら必ず適正に扱える様になれる
よ」
葛様と柚明さんが穏やかに頷いてくれて。
桂さんとノゾミが別々にほっとした顔で。
「そ、そうだよねっ。きっと出来るよねっ」
「何度か失敗する事はあるかも知れないけど、私は桂さんを信じているよ。必ず出来る
…」
私は桂さんにも桂さんがたいせつに想ったノゾミにも、不快を与えたくはない。ノゾミ
の不穏当な言葉遣いは、何かの折に指摘すべきだろうけど。彼女と心を繋げていなければ、
説諭しても想いを届かせる事は難しいだろう。
それより私は柚明さんに、訊きたい事が。
呼びかけて私を向いた時には、この人は答を紡ぎ終えているのではないかと想える程に、
穏やかな美貌を、その双眸を、私は正視して、
「桂さんがのぼせて帰りが遅くなる事は予測不能だし、知る事も出来ない筈です。ダイヤ
のあるバスと違い、タクシーの到着時間も」
どうやって桂さんの帰りが遅い事を、この時刻である事を察せたのですか? 日中は蝶
を舞わせて察する事も出来ない筈。柚明さんに繋りが深い青珠を持ち歩いていれば、悟れ
たかも知れないが。今日も羽様に置いて来た。
鬼の、オハシラ様の力なのかも知れないが。
私の行動が、四六時中見通されている様で。
不快ではないけど、なぜ悟れたか問う私に。
「帰りが遅くなる可能性は、考慮の内でした。経観塚は田舎でバスの便数も少なく、最終
便を逃す怖れはあります。桂ちゃんは烏月さんとのお祭りやお買い物を楽しむでしょうか
ら。遅くなって大伴さんのタクシーに頼るか、さかき旅館に一夜泊めて頂く事もあるかと
…」
葛ちゃんとの時も今日も、翌日迄保つ様に癒しを及ぼしたのは、その備えでもあります。
「温泉でのぼせて倒れる事は、想定していませんでしたけど。烏月さんと一緒なら、大事
に至る事はないと想っていました。……桂ちゃんを看て下さり、有り難うございました」
「あ、いえ……その。当然の事をした迄です。私は桂さんを頼まれ、引き受けましたか
ら」
心から幸せそうに微笑むけど。その傍で今日の大凡を、悟られていたと思った桂さんは。
私に素肌の侭抱き上げられて身を拭かれ介抱された一部始終を思い返し。それ迄柚明さん
に悟られていたとの錯覚に、耳まで真っ赤に。
「日が落ちれば桂ちゃんの気配は経観塚にいても悟れます。こちらに向かってきている事
は分ったので、到着に合わせて調理を進め」
この人の力はどの範囲まで届くのだろう。
その状況予測と対応は正確な上に柔軟で。
彼女が敵だったらと思うと寒気を感じた。
「だったら、わたしも昨日桂おねーさんと温泉旅館に一泊してくれば、良かったです…」
そーすればわたしも烏月さんの様に、桂おねーさんとお風呂一緒して介抱も出来たのに。
「つつっ、葛ちゃんっ。今日のはね、あくまでも緊急避難で。通り雨に烏月さんが濡れて
体冷やしちゃって、それを暖める為にっ…」
そこで桂さんと葛様の間に声を挟んだのは、
「あなたは昨夜桂に添い寝して、身も心も暖められていたじゃない」「ノゾミちゃんっ」
慌てた桂さんの弁明が発されるよりも早く。
「ノゾミさんは昨夜桂おねーさんの五右衛門風呂に乱入して、身も心ものぼせさせられて
いた様ですけど?」「つ、葛ちゃんっ…!」
「ああっ、あれは。……のぼせてなんかっ」
「そー言えば、ユメイおねーさんの入浴にも乱入してのぼせさせられてもいましたねぇ」
困惑は、ノゾミ以上に桂さんの方が多く。
「葛ちゃん、ノゾミちゃん、お姉ちゃ…!」
妄想を呼ぶ絵図を幾つも同時に思い浮べてなのか、桂さんは箸を止め顔を真っ赤にして。
私もそれを前にして頬に血が巡るのを抑えられず。見ると柚明さんも頬を朱に染めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふぅっ、思ったより食べてしまったわね。
人の食物で満腹感なんて、千数百年ぶり」
それでも私や桂さんに較べれば半分に満たぬ食事量だけど、電灯の光の下でも揺らがぬ
現身でノゾミは箸を置き。葛様も桂さんも私も、女の子にしては結構な量を食べたと思う。
「皿洗いを手伝いましょう」「わたしもっ」
「わたしもさせて下さいですー」「私も…」
「嬉しい悲鳴ね。でも、人手が多すぎても」
「では、柚明さんが誰か1人選んで下さい」
私の提案に彼女はほんの少し考えてから。
最後に申し出たノゾミを助手に指名して。
「私……で、いいの? ゆめい」「ええ…」
お手伝いを申し出てくれた気持は嬉しいわ。
柚明さんは指名されて困惑気味なノゾミの。
正面間近に浮いた現身の両手を両手に握り。
柔らかな視線で正視し改めて手伝いを頼み。
「ノゾミさん、皿洗いななんてやった事あるのですか?」「別に、皿洗い位簡単よっ…」
葛様の念押しにノゾミの答は強気だけど。
語感や強弱が不確かで逆に危うさが漂い。
「ノゾミちゃん、本当に大丈夫?」「桂…」
考えてみれば御年千数百のノゾミにとって、周囲は全員年下だ。分らなくても、分らな
い教えてと聞きづらいのはお姫様の育ちの故か。でも桂さんも葛様も私も、ノゾミが皿洗
いなんて今迄やった事もなかろうと、感じていて。
柚明さんだけが危惧や不安と無縁そうに。
それは信の深さか羽藤のお気楽さなのか。
「大丈夫よ、ノゾミは聡い子だし、感応の力もあるから。すぐに慣れるわ……」「関係な
い者達はあっちへ行って。作業の邪魔よっ」
私達は居間に引き上げ、作業の終りを待つ事に。葛様が私の淹れた緑茶を受け取りつつ、
「そー言えば、おねーさん。確か、同級生のお友達に無事の連絡をしなきゃって、言って
いましたね。奈良よーこさん、でしたっけ」
「あ、そうだった。……忘れていたよ……」
昼食時に桂さんはそんな話しをしていた。
「経観塚の町なら携帯ショップもあると思うので、機種の取り替えとかも出来たでしょー
けど……」「……行けてなかったです……」
部屋の隅には、崖から落ちた時に壊れた桂さんの携帯がある。サクヤさんのを借りる話
しもしていた様だけど、人事不省の彼女から勝手に借りるのも躊躇われ。唯一の身内だっ
たお母さんを亡くした桂さんは今、携帯が繋らなければ行方不明扱いされておかしくない。
「私ので良ければ、使っても」「本当!?」
桂さんの他に携帯を持つ者は、サクヤさんと私だけだ。鬼のノゾミも流浪生活の葛様も、
オハシラ様だった柚明さんも、持っていない。
「ああ。奈良さんの電話番号が分れば……」
「ええっとね、確か、憶えていた筈っと…」
「通話の邪魔にならない様に、わたし達は別の部屋に外していますね」「あっ、うん…」
ありがとう、の言葉を背に私は葛様と別室に向かう。葛様は2人きりの話しをご所望だ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明さんとのお話しの首尾は?」「……」
葛様が私達と一緒に祭りに来なかったのは、柚明さんと話す為だ。それも桂さんに聞か
せては拙い話しを。屋敷にはノゾミも居たけど、鬼と話すなら桂さんが眠る夜の方が都合
よい。
暫く話しづらそうに、正座した私の正面間近で立って俯き沈黙するので。察して話しか
けてみたのだけど。桂さんは長話になると予測できたけど。柚明さんは気遣ってノゾミも
引き留めてくれると思うけど。一つ屋根の下で起居する私達に、余り2人きりの時はない。
「釈迦の掌の上の孫悟空でした。私は今迄に見た事のない相手を前にしている。そう思い
知らされました。話し自体は悪い結果ではなかったですけど、わたしには説明しがたいと
いうか、納得出来がたいというか、はぁ…」
葛様は悔しげと言うより、困惑の色が濃く。
恋煩いの様な深い溜息を、1つついてから。
「まず烏月さんの桂おねーさんとのデートの末を教えて下さい。告白はしたのですか?」
「つつ葛様っ。私と桂さんは女子同士です」
ずばりと踏み込まれて、私が慌てるのに。
葛様は私の心中を、既に承知済みだった。
「わたしは何の告白とは言っていませんが」
まあ、デートと言っちゃいましたからね。
「そうやって偶に動揺する処が可愛くて好きですよ。強く賢く優しく正義感に溢れ、若く
美しい鬼切り役。わたしよりは年上ですけど。あなたの様な人を努力もなく配下に出来て
しまう。鬼切りの頭とは本当に凄い制度です」
私の動揺を見て葛様はなぜか満足そうに。
つまり葛様の今迄の俯き加減な印象とは。
「柚明さんは葛様のいかなる言葉にも動じなかった、という事ですか?」「賢いですね」
人の本性を見極め人の本音を見定める為に。人の心を掻き乱す所作は、鬼切部では珍し
くない。動揺や激怒や油断が見せる人の真実もある。小さな体に武芸の憶えもない葛様が
過酷なコドクを勝ち抜けたのは。相手の心を掻き乱し、自滅させてきた故だろう。若杉の
面々はその面で百戦錬磨だ。その中を勝ち抜いた葛様の力量は、私には想像も及ばないけ
ど。
その葛様が苛々させられている。どこからどう取っ掛りを付けたら良いか分らない様に
見える。桂さんにではない。葛様は桂さんを愛おしんでいる。裏切られてもその刃を受け
入れる程に欲し願っている。なら残るは一人。
「桂おねーさんの一番の人は、オハシラ様……ユメイおねーさんだそーです」「葛様…」
「告白して、敗れちゃいました。負けず嫌いで負ける戦いは仕掛けず、戦い始めれば勝ち
を掴む迄、決して戦いを止めない若杉葛が」
頭を掻いて苦笑いでごまかそうとするけど。
悔しさに満ち溢れているのは見えて分った。
「桂おねーさんは若杉葛の一番の人ですと。
あなたの愛が欲しいです。あなたの一番になりたいですと。あなただけですと答を求め、
望み欲して。一番ではないと答を貰いました。
たいせつな人だけど一番には出来ないと」
桂おねーさんは、おかーさんが存命ならどちらか迷ったかも知れないけど、と言いつつ。
「年の差でもなく、女子同士だからでもなく、わたしが触れば手が腐る程の毒虫・若杉だ
からでもなく。その全てを隔てに感じない桂おねーさんが。わたしを心底たいせつに想っ
てくれて尚、一番にしないのは。わたしの一番ですとの想いに、一番の想いを返さないの
は。
他に一番の人が、いるからでした。いえ。
分っては居たのですけどね。見ていれば」
目の前で俯きつつ尚強気を保とうとして。
傷の軽さを装う葛様を、見ていられなく。
「桂さんが、亡くなった先々代が存命なら柚明さんとどちらが一番か迷うと言う事は……、
その、葛様の望みと、桂さんが柚明さんに抱く想いは、形が違う可能性もあるのでは?」
「わたしが桂おねーさんに抱く恋心と、桂おねーさんがユメイおねーさんに抱く肉親の情
愛は、形が違うから競合しないかも、と?」
同じですよ。葛様は、短く自問自答して。
「烏月さんも感じているのではありませんか。桂おねーさんもユメイおねーさんも、家族
の親愛も信頼も、憧れも友情も、恋愛も性愛も全て込みなんです。女の子同士への拒絶が
鈍いだけじゃない。近親の禁忌も年の差も人と鬼の隔てさえ、致命的に思ってないんで
す」
親愛と恋愛性愛の内訳比率は分らないけど。桂おねーさんもユメイおねーさんも、全て
込みで『一番たいせつな人』と言っている。わたしも烏月さんもそーなのではありません
か。
問い返されて、瞬時私が答に窮したのは。
驚きでも羞恥でもなく、その通りだから。
「故にサクヤさんもノゾミも、桂おねーさんの前では、わたしや烏月さんと横一線です」
現に鬼切り役の私は柚明さんを愛している。桂さんへの想いがなければ、私は彼女を望
み欲し求めていた。そこに女子同士への嫌悪はなく、9歳年上への忌避もなく、人と鬼の
隔ても又。守り支え助けたく願うこの愛しさが、男女の色恋や性愛と同じなら、の話しだ
けど。
「ノゾミを受け入れる程の人だから望みが出たけど、逆にその故にわたし位の想いでは届
かせよーのない人でした。桂おねーさんは」
葛様の苦虫に潜む真意を共有できるのは。
私が葛様と同じ敗者の列にいる故なのか。
葛様は桂さんの一番になれなかった以上に。桂さんにそこ迄の想いを注げなかった自身
を悔しがっている。それ程の想いを注げる人がいた事実に、私と同様に打ちのめされてい
る。