夏が終っても〔甲〕(後)
今答を望めば、若杉葛はこの人の一番から確実に外れる。薄々悟れていた結果を知らさ
れるだけに終る。彼女の心の深奥を今誰が占めているのかは、彼女のここ数日を見ていて
悟れない方がおかしい。今は答を欲しくない。欲しい答は受容だけだ。それ以外の答なら
…。
応諾しかない状態で答を求めるのが葛流だ。その様に誘い導き追い込んだり、邪魔な想
い人を消したり忘れさせたり。時と人員と資材を注げば、己の心を鬼と化せば、方策はあ
る。
「わたしがこの様に人を望み求め願い欲したのは、この短い人生で2度目です。1度目は
手酷い失敗に終りましたけど。今度こそ…」
答は今でなければいつでもいーです。桂おねーさんが告げたく思った時で。わたしはあ
の人と違って年下なので、いつ迄も待てます。待てば待つ程わたしは大きくなって桂おね
ーさんに相応しくなれる。時間は葛の味方です。
「……怒っています、おねーさん……?」
恐る恐る上目遣いに愛しい人を窺うと。
柔らかな掌はこの手に伸びて軽く握り。
「……もう、葛ちゃんったら……行こう」
おねーさんは少し考えて応えてくれると。
わたしの想いは確かに受け取ってくれて。
たいせつに想っている事は確かだと肌身に伝え。わたしを光の中へ引っ張って、導いて。
欲得も考えず唯善意の侭に葛に関ってくれる。この人だけは喪いたくないと、改めて想っ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お帰りなさい。お疲れ様。お買い物、有り難う……お祭りは、楽しかった?」「うん」
「はい、十二分に楽しませて頂きました…」
帰り着いた桂おねーさんを、従姉は三和土で出迎えて。両手を両手で握り締め、容態を
確かめつつ労をねぎらい。幼子相手ならともかく、家族でもそこ迄はしない程親密な触れ
合いに。桂おねーさんも頬を染めていたけど。自然に寄り添う従姉の所作に、巧く包まれ
て。
彼女は続けて葛に対しても屈み込み、両手で両手を握り締め、わたしの労もねぎらって。
親密に過ぎる触れ合いに、思わず頬の血の巡りが良くなったけど。確かにわたしは幼子だ
ったけど。感触は滑らかで心地良かったけど。
「お風呂はこれから湧かすから、もう少し時間が掛りそう。お夕飯が先の方が良いわね」
この人はわたしの告白も知っている。屋敷の傍で為した故ではなく、この人にはどこで
為しても桂おねーさんに関る事はお見通しだ。
そもそも青珠を預って、わたし達を2人だけにして送り出した時点で、その位は想定可
能か。オハシラ様の深慮は中々読み切れないけど、特段咎め立てのない限り、わたしは許
容されたと見なして、己の所作を為すのみだ。泳がせている積りなら、その網を予測を食
い破られる事もあると、覚悟して置いて下さい。
「わ、これはすごい量の薪っ」「ですねー」
「薪位なら、夕刻になれば蝶を飛ばせて集められるし。ノゾミも手伝ってくれたから…」
そのノゾミは厨房の、天井近くに浮いた現身で、広げた食材を興味深げに見つめていた。
生前病で幽閉された姫だったノゾミには、食事とは出される物で、作る事などは想定外で。
形を為す前の材料など見た事もないのだろう。
「湯浴みの釜の下にも相応の量は置いたわ」
焚き付けをサクヤさんの車から借りたので、後は火を付け湯を沸かして入るだけ。でも
桂おねーさんは従姉の手伝いを強く望み、わたしも含め一緒に夕飯作りをする事に。オハ
シラ様の真意は桂おねーさんより、わたしが傍で調理の様を確認できるよーにとの配慮か
も。
「分ったわ。では軽めな作業からお願いね」
「うんっ、わたし、頑張る」「頑張るです」
ノゾミは何をして良いか分らず、入り込みすぎる事を憚る感じで問う事を躊躇い。わた
し達の作業を、興味深そーに見守っていて…。
「お姉ちゃん、これって……もしかして?」
何の予告もなく、渡された器は4人分だ。
それが何を意味するか、悟ったノゾミは、
「私は桂の血さえあれば、人の食物なんて」
「確かにあなたの霊体を保つのに人の食事は不可欠ではないわ。でも、あなたは桂ちゃん
のたいせつな人よ。生命を想いを重ね合わせて分ち合い補い合った、姉妹より濃い間柄」
浮いた侭で拒む姿勢には、施しは受けたくないとのプライドが見え隠れした。敵ではな
いけど完全に優劣の確定した間柄で、強がりの陰に己の立ち位置を探る不安を感じ取れた。
そんな人慣れない猫の子の様な鬼の少女を、青い衣の女人は両手で両手を握り引き寄せ
て。
「同じ釜の飯を食す事は、仲間である事の証なの。あなたも桂ちゃんがどんな料理を楽し
み喜び好むのかを、感じておいた方が望ましいのではなくて? あなたも桂ちゃんの日常
で共に生きるなら、人に慣れる必要があるわ。人の食事も、多少は『力』に出来るのよ
…」
「ノゾミちゃん。一緒にお夕飯食べようよ」
みんなで食べれば賑やかでお話しも弾むし。
葛ちゃんやお姉ちゃんにもより馴染めるし。
「お互い仲良くなるにはお食事からだよっ」
「食べ物の恨みが深いなら逆も又然りです」
桂おねーさんとわたしが左右から口を挟み。
正面間近で優しげなあの美貌に迫られては。
今のノゾミに突っぱね続ける事は叶わない。
「……どうしても食べて欲しいって願うなら、口に入れてあげても良いわ。人の食物なん
て千年以上口にした事もないけど、貴族の姫の口を満たす品だと期待しても良いのよ
ね?」
人里離れた一角で、文明の輝きの下、人と人にあらざる者が、同じ釜の飯を一緒に食す。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂おねーさん、湯加減はいかがですか?」
外から窓に声を掛けると、湯気と共に柔らかな声が『いー加減だよ』と答を返す。わた
しはオハシラ様とノゾミと尾花と、月夜の下で五右衛門風呂の火加減を見ていた。薪をく
べて風を送る作業は結構大変だけど、蒼い蝶が傍で数羽はためくと、思ったより強く風が
送り込まれ。わたし達は見ているだけで良く。
「桂ちゃんがあがったら葛ちゃんが入って」
わたしは洗い物をしてくるから。火加減も薪も、夜なら蝶に任せて心配は要らないわ…。
オハシラ様は従妹にも一言声を掛けて去り。尾花はわたし越しにノゾミを一瞥しただけ
で、目を瞑って座り込み。残されたノゾミとわたしは、どーして良いか惑う感じで互いを
窺う。でもこの僅かな気拙さは、まもなく間近の別のもっと大きく切実な気拙さに打ち消
された。
ざざん、ざざ、ざざっ。ぴちゃ、ちゃっ。
ここ迄届く水音は、窓を挟んで間近の桂おねーさんの入浴だけだ。お風呂場なら当然一
糸纏わず動いている訳で。湯に浸かってもあがっても、体を洗ってこするのも素肌の侭で。
「うぅーん……、極楽極楽。気持いいぃ…」
尾花は退屈そーに、欠伸をしたのみだけど。
わたしとノゾミはやや緊迫した気配を纏い。
桂おねーさんの一挙手一投足に心踊らせて。
相方の反応を表情を息遣いを、窺っていた。
温泉の様に一緒に入れば、見えてしまえば、ここ迄気にならず、妄想も憶測も浮ばない
のだろーけど。水音だけで姿が見えない状況に、心は騒ぎ。見上げたけどわたしには窓は
高く。
でもノゾミには、その窓も壁もあって無きが如しで。わたしの反応を見て気付いた様で。
壁も抜けられる霊体の彼女に躊躇はなかった。
「桂っ」「ひゃあっ、の、ノゾミちゃん!」
現身とは便利な物か。ノゾミの背丈でも手を届かせるのが精一杯な高さの小窓に、すう
っと空気の様に入り込み。桂おねーさんの驚きの声にも怯まず、その入浴中に押し入って。
「そんなに気持よい物なの、湯浴みって?」
「恥ずかしいよ。わたし今、素肌なんだよ」
余り見ないでよ。サクヤさんや烏月さんの様な素晴らしい体型は、持ってないんだから。
声は窓から流れ出て、この心を騒がせる。
「隠すのは見せるのが惜しい故ではなくて?
恥じらう程に見事な積りでいるの、桂は」
小さくても大きくても恥ずかしい物は恥ずかしいの。桂おねーさんの声はやや大きくて、
「大きくない事は自覚しているようなのね。
入れさせて貰うわよ。良いでしょう、桂」
『な……何をどこに、入れる積りですかっ?
おねーさんの操が危ない。奪われる前に』
慌てて左隣の相棒に視線を投げかけるけど。
尾花も窓枠に阻まれる肉の体である以上に。
炎を前に目を瞑って蹲り動く気配もなくて。
オハシラ様の蝶に介入の期待を繋いだけど。
釜に風を送っていた内の1羽が、窓枠の前迄向かうけど。静観する様に滞空するのみで。
「ちょ、ノゾミちゃんを入れるのは少しキツイよ、そんな大きくないんだし……湯船は」
届いた水音はノゾミが湯に浸かった音か。
「あーあ、ずぶ濡れになっちゃったね……。
せっかく綺麗な着物姿が。可愛い髪型も」
その声は相変わらずのんびりと愛らしく。
「わたしノゾミちゃんの着物姿、綺麗で好きなのに。……裾や袖から見える手足の細さや、
首筋やうなじの白さは、羨ましい程だなって。でも、濡れちゃったノゾミちゃんも、水遊
びしている子供みたいで可愛いよ」「桂……」
霊体の服は当人の意思次第で出すも消すも、色や生地やサイズを変えるのも自由自在だ
って、お姉ちゃんも言っていたから。お湯で濡れても乾かしても、特別問題ないと思うけ
ど。
微かな水音は、大きくない五右衛門風呂の湯の中で、2人肌身を絡み合わせた故なのか。
窓枠の外で、蝶ははたはた静かに佇むのみだ。
「そうだ。ノゾミちゃん、今の世のお風呂の入り方、知っている? 千年鏡の中だったし、
拾年前もすぐお母さんに切られたし。今回もミカゲちゃんと何度かさかき旅館に来たけど、
他のお客さんの入浴も見てないでしょう?」
今後一緒に暮らすなら、ノゾミちゃんも千年経った人の世に、馴れて貰う方が。入浴剤
とかボディソープとかシャンプーハットとか。
トンカチを持って殴り込むか、オハシラ様本体に急を告げるか。桂おねーさんの操の危
機を防ごーと、動きかけていた足が止まった。
桂おねーさんの無防備は、入浴して一糸纏わぬ姿になった今に始る事ではない。鬼のノ
ゾミにとっては、四六時中がそうなのだった。いつでも彼女は、桂おねーさんに押し入れ
る。
その中で桂おねーさんはやや恥じらいつつ、ノゾミの乱入を奇貨として。お姉さん目線
で今様の風呂を千年年上の妹に教えようとして。脳天気の極みだった。数日前迄生命を脅
かし、己の過去を家族を幸せを破壊した鬼を相手に。非常識な甘さには嫉妬より義憤を憶
えたけど。
それがこの2人には真の正解だったのか。
故に蝶も尾花も敢て挟まらぬ事を選んだ。
今更ノゾミは桂おねーさんの悲嘆を欲さないし、欲する様な鬼をオハシラ様や尾花が見
過ごす筈がない。彼女の所作が唯の好奇心か、欲情の故かはともかく。多少おねーさんを
困らせはしても、深刻な危機は最早招かないと。
「お風呂はね、体に付いた汚れを落としたり、体を温めて健康を増進したり、肌艶を増し
て綺麗の基礎を作ったり、心を安らげ落ち着かせもする、女の子の大事な儀式なんだよ
…」
行こう、尾花。わたしは桂おねーさんに聞き取られぬ様に、敢て声を低めて相棒を促し。
ノゾミとの関りに没入する愛らしい声を背に、屋敷の自室へ己の着替えを取りに引き上げ
る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふー、いい湯だったぁ」「お疲れ様です」
浴衣姿の桂おねーさんは数日ぶりの入浴で、心身共に磨かれて頗る上機嫌で。オハシラ
様は、ノゾミの桂おねーさんの風呂への乱入を、知らぬ筈はないけど咎め立てもせず微笑
んで、
「お疲れ様。ノゾミは少し、のぼせた様ね」
「の、のぼせてなんか、いないわよ……ところで桂、あなたもさっきから言っていた『の
ぼせる』って、一体どうゆうことなの…?」
夜になれば家庭の電灯程度なら、ノゾミ程に強い鬼なら、顕れても心配はない様だけど。
初めての入浴は強烈だった様で視線が虚ろだ。心ここにあらずと言う感じで、廊下頭上に
フラフラ浮いて。否、ノゾミがのぼせたのはお湯にではなく、桂おねーさんにだったのか
も。
オハシラ様は浮いたノゾミの現身に右手を伸ばし、軽く掴むと左手の青珠に軽く当てて。
それでノゾミはやや強制的に青珠に戻らされ。それは母が子をあやす様にも、猛獣使いが
獣を操る様にも、陰陽師が式神を扱う様にも似て。ノゾミは最早彼女の掌の上の存在らし
い。
「少し青珠で休んだ方が良いわ」「……っ」
指示されて従う事に若干の不本意が窺えたけど。ノゾミは逆らう事出来ず青珠に籠もり。
縁側に座り月を見上げて涼むおねーさんに従姉が添う様を横目に見つつ、わたしは風呂へ。
或いはノゾミとの混浴などより、この2人きりの方が遙かに危うい状況かも。桂おねー
さんが誤って人の道を外さない様に。尾花に視線で監視を頼んだけど。頼れる物かどーか。
ちゃぷん……。ぴちゃ、ちゃ、ちゃ……。
桂おねーさんの入ったお湯です、これは。
独り風呂に入ると、様々な絵図が脳裏に浮んで、心が千々に乱れる。青い衣の人が衣を
脱ぎ捨て、豊満なサクヤさんに肌を沿わせた図や。桂おねーさんがノゾミと、素肌を合わ
せてこの湯に一緒に浸かった図や。その末に桂おねーさんとオハシラ様が、縁側で夜風に
身を嬲らせつつ、月明りの下で素肌を合わせ吐息を交わす図迄が。瞼の裏に浮んで離れず。
一昨昨日には崖から落ちた桂おねーさんを、その生命を繋ぐ為にオハシラ様が素肌で抱
き留め温もりを交わし合う様に、わたしも立ち会った筈なのに。蠱惑的な美しさに心惹か
れても、ここ迄心を乱される事はなかったのに。
桂おねーさんへの思い入れが違っていた。
おねーさんを一番に想ってしまったから。
その愛を好み欲し望み願う葛は、彼女が他の者と触れ合い、視線が心がそちらに向いて、
わたしに向いて欲しい愛が逸れて行くのが気になって。知識では飢餓も欠乏も満たせない。
窓枠から外を覗くと、月明りを分けた様な青い光を帯びた蝶が数羽、風呂釜に薪をくべ、
はたはたとはためいて風を送り。届く音は夜風が草木を揺らす音と、虫の音と、薪の爆ぜ
る音位。蝶の動きにあの人の内心は窺えない。間近にいて言葉交わしても底の見えない人
だけど。蝶の在り方もそれに同じく粛々と働き。
監視されているのではない。そー分っている筈なのに、分っていても。わたしは心中を
見透かされている錯覚が拭えず。逆に桂おねーさんに添うオハシラ様を監視し牽制したく。
久々の湯に顔も浸かり、頭も体も清めて。
速攻で上がって、次の順番を促した結果。
「もう、良いの? 葛ちゃん」「はいです」
早すぎる帰着を桂おねーさんに心配された。
2人は縁側で並んで月夜を眺めていた様で。
しっとりと情を絡め合わせ肌身も添わせて。
でも近親の禁忌を犯すには至ってない様で。
本当は霊体が風呂に入る意味は希薄だけど。
わたしの無言の促しに彼女は素直に従って。
葛の促しと言うより桂おねーさんが従姉に『人の様に』あって欲しく望むので。ノゾミ
も言っていた通り、霊体には食事も睡眠も入浴も必須ではない。この人の所作は全て己の
為ではなく他者の為で。彼女の笑顔は己の喜びではなく、従妹の望みに応えられる喜びだ。
「ふうっ、漸く醒めてきた……この私が大人しく閉じこめられると思ったら、大間違い」
青い衣の人を見送ったタイミングで、ノゾミが再度顕れて。彼女はどーやら、のぼせて
ふやけた様を晒した恥じらいも、オハシラ様の手で青珠に戻された事にも、不納得らしく。
「ノゾミちゃん?」「見てなさい、ゆめい」
ノゾミはわたしや尾花はともかく、桂おねーさんさえ今は視界の隅で。様子を窺い足音
を潜め、オハシラ様の後を追って風呂場へと。
オハシラ様は、桂おねーさんの入浴に乱入したノゾミを、咎め罰した訳ではない。のぼ
せてふやけたノゾミを、案じて善意で青珠に戻したのに。でも自由の束縛をノゾミは嫌う
ので。仕返しに悪戯でも為そうと考えたのか。
瞳の奥から星が輝く音が聞えた気がした。
「ノゾミちゃん……」「気に掛りますねぇ」
敵対関係ではなくなったけど。桂おねーさんを巡って尚競合関係なノゾミとオハシラ様。
おねーさんはやや心配そーだけど。わたしはその企みに注目し。従妹と違いオハシラ様は、
簡単にノゾミに悪戯されそーな不用意な人に見えないけど。だからその成り行きが注目で。
尾花を挟んで、桂おねーさんと暫し視線でお話しを。言葉は不要だった。わたし達も様
子を窺い足音を潜め、後を追って風呂場へと。
脱衣所の前でノゾミは壁をすり抜けていき。
2人視線で最終確認を交わして踏み込むと。
脱衣所に入った時は既にノゾミは風呂場で。
ノゾミは不意打ちを狙って、拙速でも気付かれる前に風呂場へ入り込み。流石にそこ迄
踏み込めないわたし達は、脱衣所で壁越しに耳を澄ませ、経緯を音で探る他に方法がなく。
「……ん、ノゾミ?」「反応が、遅いわよ」
ひゃっ。オハシラ様の短い悲鳴が聞える。
抵いを制した様な水音が一度響き渡って。
他愛のない、あなた。勝ち誇った哄笑は。
「桂は守れても己の守りはおざなりなのね」
脱衣所には青い衣が置かれてあった。オハシラ様なら衣は何着でも作り放題だろーけど。
脱ぎ置かれた衣から、彼女は一糸纏わぬ姿だと推察できて。桂おねーさんの入浴に乱入し
た状況から、ノゾミは和服姿だと推察できて。
「そんな大きくない湯船に入れたと言う事は、あなたが小さいと言う事で良いのかし
ら?」
微かな水音は、大きな動きのない事を示す。答は薪の爆ぜる音に紛れて聞き取れなかっ
た。
ノゾミは桂おねーさんの湯船に乱入して驚かせたけど、その従姉は唯顕れても驚きは少
ないと推察出来る。力量が確実に上な相手の身動きを封じたなら、急所を抑えている筈だ。
女の急所と言えば胸か女陰か。オハシラ様は霊体だけど、水が器に従う様に、人の生き
方もモノの在り方も、形に縛られ易い。人の形になった以上、現身を取る間は彼女も人の
体と似た構造を持ち、人の理に縛られる筈で。
桂おねーさんと2人、壁に耳を当て続ける。向うは互いに集中しているから、こちら迄
は気付くまい。唯声は草木のざわめきや薪の爆ぜる音に紛れ。勝ち誇るノゾミの声や驚き
の叫びや、桂おねーさんの閃いた時の元気な声は拾えたけど。呟きや抑えた声音は拾い難
い。
「湯浴みがこんなに霊体に響くとは思ってなかった。桂に当てられた以上に熱にやられた。
でもそれは、一糸纏わぬあなたにこそ強く響く筈。私を子供扱いで青珠に放り込んでくれ
たけど、あなたも熱に揺らされればあの様に、情けない醜態を桂や鬼切りの頭の前で晒
す」
ノゾミはオハシラ様ものぼせさせよーと。
何とも子供っぽいけど効果的な仕返しか。
オハシラ様は己を律する事を好む人だから。ノゾミ以上に乱れる事もそれを晒す事も嫌
うだろーと。自由を一時封じられた仕返しにオハシラ様の自制を一時壊そーと。ノゾミが
一体どの様に、彼女の身動きを封じたか分らないけど。ノゾミがその気ならオハシラ様が
先にのぼせる体勢なのだろう。生命の危機ではないけど、彼女は困った状態に置かれた筈
だ。
「味方になっても困り弱るあなたを見るとなぜか溜飲が下がる。これは贄の血との相性か
しら? 桂やあなたを責め苛むのは愉しい」
「まだ離さないわ。あなたが本当に乱れる迄離さない。どこ迄その涼しい顔を保てるかし
ら。既に体が火照って堪らないのではなくて。頬が紅いのは恥じらいだけでないでしょ
う」
「私の『力』に今少し抑え付けられて大人しくなさい。あなたの方が『力』は大きくても、
技が決まったこの体勢から短時間で拘束は解けないわ。そして時間が経てば断つ程、あな
たは私よりも強く早く熱に犯されて行く…」
桂おねーさんは、心配とドキドキを兼ねた表情でわたしに相談の目線を向けてくるけど。
最早妨げに分け入る事が、羞恥の暴露になって拙いのではないかと、その瞳も語っていて。
「ううっ、ノゾミちゃん一体どんな体勢でお姉ちゃんに迫っているのかな?」「さて…」
考えるだけで脳裏には妄想が湧く。濡れた和服のはねショートヘアの女子中学生が、女
子高生の一糸纏わぬ滑らかな素肌に背後から抱きついて。両の胸を強く掴んで身動き封じ
る様が思い浮べられ。首筋に背後から唇を寄せ吸い付く様が思い浮べられ。あぁ、頽廃的。
「いい加減、気持良くなってきたでしょう。
そろそろ、視線が虚ろになってきたわよ」
心なしかノゾミの責める声が艶っぽい気が。
彼女も多少のぼせる覚悟はあった様だけど。
「幾ら辛抱しても、私の方が、長く辛抱できるのは、自明の理なの。もう諦めなさい…」
何か様子が違う。ノゾミの声が弱々しい。
期待したオハシラ様の嬌声は、聞えない。
「ほら、我慢しないで。熱いんでしょう…」
桂おねーさんの顔にも同じ疑念が兆した時。
前触れもなく、オハシラ様の声音が平静に、
「桂ちゃん、葛ちゃん。お願いがあるの…」
そこで見ているのでしょう、の確認もなく。
背筋に冷汗を感じて、硬直したわたし達に、
「青珠を持ってきて欲しいの。……ノゾミが再びのぼせてしまった様だから」「「え」」
ミイラ取りがミイラになった様だ。ノゾミの不用意さ以上に、やはりオハシラ様は簡単
に悪戯される様な不用意な人物ではなかった。でも、ノゾミがその積りで仕掛けて思い通
りに進めた形勢を、彼女は一体どう覆したのか。
疑問は残った侭だけど、今は所在を悟られたわたしも桂おねーさんもそれどころでなく。
頬を赤らめ、一緒に青珠を取りに駆けだして。風呂場の入口で桂おねーさんから渡された
青珠にノゾミを戻すオハシラ様は、少し頬紅く。
「有り難う。青珠は居間のちゃぶ台に戻して置いて」「ノゾミちゃんは、大丈夫なの?」
青珠を再度渡されて、問う桂おねーさんに。
その背後にいて、風呂場の入口で桂おねーさん共々その従姉の素肌を前にしたわたしに。
ええ、と素肌の彼女は頬赤らめつつ頷いて、
「少しのぼせただけだから、醒めれば大丈夫。癒しも若干注いだから。でも、わたしも少
し、お湯とノゾミにのぼせてしまったかも……」
彼女は風呂に入り直し、わたし達は居間に戻ったけど。わたしもおねーさんも、湯上が
り以上の諸々に、のぼせていたかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ノゾミも再び現身を取って出てきた夜更け。
桂おねーさんに疲労の色がない事を窺って。
わたしは後ろ手に隠し持っていたビニール製の手提げカバンを、中に棒状・筒状の物を
ぎっしり詰め込んだそれを、取り出して見せ。
「……花火?」意外そうな桂おねーさんに。
「しかもお徳用です」わたしははいと頷き。
手に持つ花火が多いけど、落下傘入り打ち上げ花火や、木や棒に吊す変り種の物もある。
屋敷にいては、桂おねーさんと従姉の昔語りに勝ち目がない。イベントを主導して関心
を引っ張り続けねば、最早わたしは三番手だ。
「やっぱり夏と言えば花火だと思ったんですよ。さっそく川原へれっつごーです」
「今から行く積りなの? 夜は鬼の刻限よ」
花火という物を理解してないノゾミの問に。
桂おねーさんは乗り気な声で応えてくれて。
「今からって、普通花火は夜にする物だよ」
「それに、こちらの庭はこの有様ですから」
庭と言うよりは一面の野原で。しかも燃え易そうな木造家屋に、隙間なく隣接している。
「確かに、庭でするのは止めておくべきね」
庭も蝶で雑草を刈っておけば良かったわ。
オハシラ様の同意は、桂おねーさんと外に出歩いて花火をする事への、許容でもあって。
「じゃみんなで行こうよ。ノゾミちゃんも」
「私は、別に構わないけど」「じゃ決まり」
わたしも不自然に他の人を除いて、桂おねーさんに違和感を与えたくない。まだ意識の
ないサクヤさんと烏月さんが気になったけど、オハシラ様が蝶を残す事で解決され。主の
分霊も妹鬼も消失した今、たいせつな人を脅かす者はいない。外出を躊躇う事情はなかっ
た。
月の瞬く夜の下、わたしは一番の人の隣で花火を愉しみ。ノゾミは花火が初めてなのか、
興味津々な顔色で浮いていて。オハシラ様がノゾミの問に、丹念に応えつつ傍に添うのは、
もしや桂おねーさんの隣をわたしに譲る為?
「わたし、こうやって花火をするのって、実は初めてなんです」「そうなの?」
頷きつつ間近のたいせつな人を見上げて、
「夜空に広がる大きいやつなら、何度も遠目に見た事あるんですけどね。……あれはあれ
で見事な職人芸ですけど、見ているだけの高嶺の花って感じです」「高そうだよねぇ」
「一尺玉でも5,6万円しますよ、確か。
二尺になると、その拾倍です」
「わ……宝くじ当たっても、一晩で使い切っちゃいそうだね。ちょっと勿体ないかも…」
「まあ、戦争用の花火に較べれば、安いもんですし、粋なお金の使い方って感じじゃない
ですか。……ですけどやっぱり、自分で火を付ける手持ち花火の方が、そこはかとなく風
情がありますね。……慎ましやかで、そのくせ一瞬と言う程短くはなく、良い感じです」
「あはは……庶民の暮らしって感じだよね」
「そこがいーんですよ。空の花火は自分が咲く事にのみ一生懸命で、他人の事はお構いな
しって感じじゃないですか」「そうかなぁ」
若杉の親族も身内も、己が輝く事にのみ一生懸命で、他人の事はお構いなしと言うより。
「ですよー。打ち上げた後の空って、煙りっぽいですから」「それじゃあ、次の花火は綺
麗に咲けないかもね」
隣の輝きを己の輝きの邪魔と見なして、綺麗に咲けない様に、互いを消し合い貶め合う。
「穿った見方ですけど、自分が一番綺麗に咲く為に、他の足を引っ張っている様な気がす
るんですよね。それに較べて……あ、おねーさん、火を貸して下さい」「うん、いいよ」
桂おねーさんは、先端から勢いよく噴き出るカラフルな花火を、わたしの花火に移して。
「こういうのって、なんかあったかい感じがして、憧れだったんですよ……独りじゃこー
ゆーこと出来ませんから」
こうして火を繋ぎ合い、分ち合う仲こそが。
時を共有し、お互いに輝き合う関係こそが。
企みも策謀も不要に心安らげる間柄こそが。
独りになる前のわたしが望み欲していた絆。
「そうだね。でもこうやって火を移すのって、聖火リレーみたいかも……あ」
桂おねーさんの持っていた花火の音が、しゅうと景気の悪い音に変ったかと思うと、尻
すぼみに消えてしまう。
「桂おねーさん、早く早く! 早くしないとわたしのも消えちゃいますよーっ!」
「あ、うん、ちょっと待って……」
おねーさんは次の花火を迷っている様で。
「おねーさん、何でも良いから早くー!!」
それからわたし達は、お互いの火を絶やさぬ様に。手持ちの花火が尽きる迄の暫く、千
変万化する火の色に見入っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
屋敷に帰着した直後、ノゾミが三度不調を訴え青珠に戻った。のぼせた訳でもないのに、
月も大きい夜に苦しげで。桂おねーさんが自身の体調不安を棚に上げ、従姉に瞳で問うと、
「……ノゾミは青珠に憑いて日が浅いから」
まだ繋りが弱くて安定度合が足りないの。
オハシラ様は伏し目がちに静かに答えて。
「今迄羽藤を害する側で反対属性だったから、順応に時が掛るの。わたしが癒しを及ぼす
わ。黙っていても、数週間で馴れると思うけど」
大丈夫、ノゾミは千年を経た強い鬼だから。桂ちゃんを想う気持も本物だから。必ず青
珠は受け容れてくれる。馴れれば夜なら電灯の光の下で、一晩中現身でいても障りない筈
よ。
「そうなる迄の少しの辛抱。不安定を抱えているから、夜でも長く出続けたり、気流水流
の渦巻く処は良くないと忠告したのだけど」
ノゾミは時折、オハシラ様の忠告に逆らう。従わされる様な流れを嫌う様だけど、その
度に自身が困る末を見て。今宵も一度桂おねーさんの入浴に乱入してのぼせたのに。オハ
シラ様をのぼせさせようとして自身がやられて。花火に付いてきたのは、わたしへの対抗
心か。
「花火に興味津々だったものね。無理していたのかな? あ、お姉ちゃんがノゾミちゃん
に添っていたのって、それを心配して…?」
蒼い衣の人は従妹の問に否定も肯定もせず。
「今宵はもうノゾミは出ない方が良いわね。
明日以降も少し気をつける様にしないと」
まだ全開で夜中出続けられる状態でないと。
青珠は何か言いたげに身動きしていたけど。
「もう寝静まっても良い刻限ね。……葛ちゃんも桂ちゃんも、今日は疲れたでしょう?」
そこでオハシラ様は従妹を向いて頭を下げ。
おねーさんに葛と添い寝して欲しいと頼み。
それはむしろわたしが望んでも望めぬ願い。
今は目の前の蒼い衣の女人のみが叶う筈の。
「ユメイおねーさん?」「お姉ちゃん…?」
「葛ちゃんは一昨日も昨日もミカゲの邪視を受け、生命の危険に晒されたわ。夜に独り置
かれれば悪夢に魘されるかも知れない。傍に肌身を合わせられる誰かがいるべきなの…」
無論この人は桂おねーさんにも、同種の懸念を抱いている。従妹だけを想うなら、午前
中にした様に、オハシラ様が添い寝すれば事は足りる。わたしは尾花を相棒に寝れば良い。
でもこの人は敢て、独り寝に不安を抱くわたし達を組み合わせ、双方を解決しようと考え。
幼子のわたしに『桂おねーさんを案じて』添い寝を頼むと、従妹の『年上のプライド』
に引っ掛る。だから結果は同じでも、おねーさんに『葛を案じて』添い寝を頼み。どっち
でもわたしが拒まないと見通してだろーけど。
「確かに今朝も爽やかな朝だったけど、寝覚めは悪かったです。ユメイおねーさんの癒し
のお陰で、鬼の影響は完全に拭えた筈なので、後は心理的な問題なのだと想いますけど
…」
「そこが大事なのよ。不安や恐怖という物は、一度肌身に刻まれると、その対象だった物
が消えても心に残り続けて、拭い難い。物理的な危険だけが、人を脅かす訳ではないわ
…」
なるべく独りきりにさせず、ぴったり寄り沿い、或いはいつでも寄り添える間近にいて
安心させる。独りじゃないと肌に感じさせる。不安や怖れからも心を包み守る事が大事な
の。
そー言えば一昨昨日夜に彼女は烏月さんに、
『……人を守ると言う事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。
その深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる
事』
この人は己の欲求で肌身添わす訳ではない。
わたしが葛ちゃんに添い寝出来れば良いのだけど。とオハシラ様の言葉が続くと、桂お
ねーさんの不安が顔色に出た。それはたいせつな従姉を盗られる事への不安か、葛と従姉
の添い寝で自身が独り寝になる事への不安か。桂おねーさんは従姉の意の侭に思索を導か
れ、
「わたしも、誰かと添い寝しないと少し不安な感じだったから、葛ちゃんさえ良ければ」
「ま、全く問題ないです。全然いーです!」
オハシラ様の心底は尚も読み切れないけど、わたしは与えられた物を拒む程遠慮深くな
い。桂おねーさんも望んでくれているなら尚の事。この身の全てで幸せに浸りきり、巧く
行けばあなたの一番の人の心を奪っちゃうかもです。
冗談ではなく。桂おねーさんを一番に定めた時から。わたしはその一番を目指し、本気
であなた達以上に深く繋りたく欲しています。わたしは若杉です。羽藤程甘くありません
よ。
勢い任せに桂おねーさんの夜を掴もうとするわたしに、この人は折り目正しく三つ指つ
いて。桂おねーさんの夜を同意して譲渡したいと、幼子のわたしに頭を下げて真摯に頼み。
「葛ちゃん……桂ちゃんを、お願いします」
「桂おねーさんのことは、任されましたー」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
部屋に布団は1つしか敷かれていなかった。
枕はしっかり2つ並べて置いて、あの人は。
桂おねーさんもわたしも互いの目線を窺い。
「……良いかな、同じ布団でも」「も勿論」
ややぎこちないけど並んで布団に横たわり。
外は雨もなく草木の枝葉の擦れる音も遠く。
雲もないのか窓から入る月光は清冽に蒼い。
「隣同士で身を横たえると、一緒に井戸に落ちた一昨日の夜を思い出すね」「たはは…」
右隣から軽やかな声が息吹が寄せてきて。
苦笑しつつ見つめ返すと美しい瞳は笑い。
久々にお風呂に入っておいて幸いでした。
「あの時は全てを喪ったと思いこんで、どーにでもなれと、唯全てから逃げ走ろーと…」
若杉の葛と知られ、桂おねーさんから心隔てられると思いこみ。この暖かに柔らかな心
地良さを、二度と手に入れられぬと思いこみ。連れ帰られて、鬼切りの頭に縛られると思
いこみ。桂おねーさん迄置き去りに、走り出し。
「全然葛ちゃんらしくなかったよ。元気で小回りが利いて良く気付く、いつもの葛ちゃん
らしさが欠片も見えなくて」「そーですね」
彼女に心配される程、葛は我を失っていた。そんな葛を彼女は心配し捨て置けず、追っ
てきてくれた。夜の山を、闇の森を。彼女はその直前、鬼の姉妹にかなりの量を吸血され
ていた。崖から落ちて瀕死の深傷を負ったのは前日だ。とても走れる状態ではなかったの
に。目の前で、消失し掛っていたノゾミを置いて。
「閉じこめられたらおしまいと、ずっと想ってきました。縛られたら、繋がれたら、身動
き取れなくなったら。この血が宿すコドクや鬼切りの頭の定めに、呑み込まれたくなくて。
もー二度と、流されたくなくて。人を傷つけ傷つけられ、裏切り裏切られ、貶め貶められ、
他人を禍に巻き込むのはもう厭で。でも…」
おねーさんはそんな葛を大事に想って抱き留めて。全て知って厭う事なく微笑みかけて。
己が宿す呪わしい血や定めは、本当にたいせつな人との絆を断たなかった。それどころか
贄の血を宿し鬼に狙われる桂おねーさんを守れるのは、正にその血や定めを宿す葛だった。
おねーさんは静かに次の言葉を待っている。
「定めに呑み込まれても良い、いえ、定めに飛び込んでも守りたい人が出来ました。縛ら
れる事、繋がれる事、身動き取れなくなる事が、心から求め望む必要な事になりました」
わたし1人ならどこ迄も逃げ続けていた。
誰も大切でなければ幾らでも巻き込んだ。
守りたい人がなければ唯の葛で良かった。
でも、おねーさんを特別にたいせつに想ってしまった時。鬼に深く関るおねーさんの笑
顔を己自身よりたいせつに想ってしまった時。
「鬼切り頭の定めが天恵に思えました。おねーさんの役に立ちたく想った時、その方法は
己の内にありました。今迄拒んで目を逸らしても追い縋って来た鬼切り頭の定めが、願っ
てもない幸せに思えました。たいせつな人を守れる事・尽くせる事を幸せというユメイお
ねーさんの言葉が、あの時漸く分りました」
細腕が伸びて来る。おねーさんは左向きになって葛を抱き寄せてくれた。右向きのわた
しは逆らわず首筋に頬を預け。静謐な夜の中、わたし達は世界で唯2人月明りに照らされ
て。肌身を添わせ言葉を交わし深く心を重ね合う。
こんな事は、おかーさん以外には、コドクの最中に唯1人の女の子にしか、為してない。
だからこそ為したかった。あの痛恨を乗り越える為にも、己の人嫌いの原点に決着を付け
る為にも、今度こそ確かな温もりを掴みたい。
「わたしはおねーさんを守りたいです。葛は子供で、烏月さんやサクヤさんの様におねー
さんを戦って守る事は叶わないけど。わたしは若杉の当主になれます。財閥の長と鬼切り
の頭を継いで、その力をもって一番たいせつな人を守りたい。桂おねーさんを、です…」
見上げた年上の人の顔はやや寂しげだった。
「……ごめんね、葛ちゃん……」「……?」
「わたし、葛ちゃんに辛い事に向き合う様に、勧めちゃったんだね……」「おねーさ
ん?」
「わたし、葛ちゃんの急変が心配で、葛ちゃんとの絆を解れさせたくなくて、自分のエゴ
で葛ちゃんを追いかけて、捕まえちゃった」
葛ちゃんが嫌ってきた、財閥の長や鬼切りの頭の定めに向き合う様に、わたしが促した。
それはこれから葛ちゃんに、辛い想いや苦い想いを長く強いる事になるのに。葛ちゃんは
わたしの為に、逃げずに引き受けようとして。
「ノゾミちゃんもそう。ひょっとしたら気持通じ合えるかもと思って関って、結果ミカゲ
ちゃんに絆を切らせる流れを導いて。ノゾミちゃんは千年一緒に過ごした妹と断ち切られ、
千年慕い続けた主に要らないと言われて…」
柚明お姉ちゃんも、お母さんも、白花お兄ちゃんもみんなそう。みんなわたしの所為で。
わたしの為に。わたしを大事に想うからって。
「葛ちゃん迄微笑んでわたしを守りたいって、ずっと嫌って拒み続けた鬼切りの頭を継ぐ
と、若杉財閥を継ぐと……何の力も取り柄もない、唯贄の血が濃いだけのわたしなんかの
為に」
こんなに小さくて元気で可愛い年下の子迄。
いいんだよ。そこ迄無理を背負わなくても。
葛ちゃんは、葛ちゃんの幸せに突き進んで。
罪悪感さえ宿す愛らしい瞳と声にわたしは、
「それが、わたしの幸せです。……桂おねーさんの笑顔を見たい、おねーさんの日常を支
えたい、おねーさんに健やかにのびのび日々を過ごして欲しい……それが葛の願いです」
両手でおねーさんの両の二の腕を軽く掴み。
こうして触れ合い語りかけられる今が幸せ。
裏切り裏切られ殺し殺されたコドクの闇も。
この人に逢えた今振り返れば意味はあった。
この人を守る事でわたしの生に意味は宿る。
唯生きる以上にこの微笑みの為に生きたい。
己の頑張りに今度こそ成果が返って欲しい。
「わたしの凍てついた心を溶かしてくれた人。
わたしを若杉と分って抱き留めてくれた人。
わたしの罪も過ちも許し受け入れてくれた。
わたしを心底たいせつに想ってくれて、わたしが唯一たいせつに思う、愛おしい人…」
「ありがとう、葛ちゃん……たいせつな人」
滑らかな首筋に当たっていた頬が、抱き寄せられるにつれて少しずれて、胸元に触れた。
でもその腕は柔らかに葛の肩を抱いて離さず。
「さっきの答を、返しても良い?」「……」
告白に答を返さないのは、おねーさんにとって気掛りだったのか。2人きりの場で告げ
れば2人きりの場で答があるのは自然だった。まさかオハシラ様が今宵わたしに2人きり
を設定したのは、おねーさんが心変りする前に、早めに答を返させ葛の望みに止めを刺す
為?
「今答を返さないと、当分答を返せなくなりそうだし。こうやって2人きりになれる事も。
夏休みが終る前には、葛ちゃんも若杉を継ぐ為に帰っちゃうでしょう。その後は暫く忙し
くて逢えなくなりそうだから」「……はい」
おねーさんが応えたい想いを阻む理由はなかった。あの場で応えないでとは願ったけど、
いつでも良いとも言ったのだ。少し経った今の答は拒めない。己の蒔いた種だ。葛は一番
の人の答に、向き合わなければならなかった。
「葛ちゃんは、羽藤桂のたいせつな人だよ」
元気で賢く物知りで、機敏で可愛い女の子。
サクヤさんやお姉ちゃんと同じ生命の恩人。
笑いも涙も一緒した、失う事の出来ない人。
「でも、ごめんね。わたしの一番たいせつな人は、葛ちゃんじゃない。……今わたしの一
番の人は、柚明お姉ちゃん。お母さんがいれば、どっちか迷っていたかも知れないけど」
わたしの頬を抱き寄せる腕の力がやや強く。
押しつけられた浴衣の胸元も柔らかだけど。
それはこの人のわたしに向けた贖罪なのか。
「お姉ちゃんは、幼いわたしの憧れだったの。毎日身近に肌身合わせて頬寄せて、語りか
けてお話し聞いてくれた。綺麗に優しく常に誰かを一生懸命想う強い人。なのに拾年、自
分の罪に恐れ戦いて、記憶を封じて忘れていた。何もかもわたしの、羽藤桂の所為だった
のに。
この拾年、ううん、この夏にここで逢えなければこの先も千年万年、未来永劫。全てを
忘れて己の為した事を知りもしない、禍の子のわたしを守る為に。何も誰にも報われぬ侭、
人の生も死も肉の体も想いの全ても、ご神木にわたしに捧げて、苦痛も悲哀も引き受けて。
この夏にはその想いさえも何度も削られ消えかけて。お姉ちゃんに何一つ咎はないのに」
サクヤさんも烏月さんもノゾミちゃんも葛ちゃんも、みんな掛け替えのないたいせつな
人だけど。失う事を許せない愛しい人だけど。
「わたしの人生の根に、お姉ちゃんがいる。
お母さんの様な人。二度と絶対失えない」
だから……ごめんね。おねーさんの唇は。
葛の額に触れて暫く止まってくれるけど。
「葛ちゃんを一番に想う事は、出来ないの」
「……たはは、肉親の情には叶わないです」
『本当は肉親の情と違うかも知れませんが』
痛みや悔しさを隠して、軽妙に受け答えする事は出来る。桂おねーさんが心配して瞳を
覗き込んでくれる前で、この上尚悩ませ困らせ哀しませては、この人を愛する資格を失う。
この人はわたしの真剣な問に真剣な答を返してくれた。小手先の嘘やごまかしではなく、
わたしを信じて本心を応えてくれた。問えば答は返る物だ。この問は今宵発さねば、葛の
小さな胸に抑え込めず、己が溢れ返っていた。己の為の告白にこの人は真摯に受けて応え
て。
この額から離れた唇は静かに言葉を紡ぎ、
「葛ちゃんは好きだよ。一番と言えないのはごめんねだけど、掛け替えのないたいせつな
人。自身の闇も怯えもさらけ出し、わたしに心を開いてくれた、優しく繊細で素直な子」
これからも葛ちゃんが許してくれるなら。
「お互いたいせつな人の仲でいて欲しいの」
贖罪なら受け流した。ハイと応えても心隔てる事は叶う。一番に出来ない罪の償いでつ
きあって貰うのは、わたしが辛い。でもこの人はそれ以上に、本当にわたしをたいせつに
想ってくれて。一番は逃しても、この人の想いは世の人が一番に抱く愛よりも、深く強い。
「わたしはそれでもいーですけど。わたしは桂おねーさんが一番だと告げてしまいました。
おねーさんが誰を一番に想うかはおねーさん次第ですけど。わたしはおねーさんの一番に
なる望みを諦めていませんから。昇格目指しますよ。ユメイおねーさんを超えて、桂おね
ーさんの一番の人になろーと企みますよ?」
わたしは敢て柔らかな胸の谷間に頬をすり込んで。両手を細身な脇から背中に回して張
り付いて。少し驚きつつ尚拒まない滑らかな感触を味わって。その困惑を暫し楽しみつつ。
桂おねーさんの諾否の答はもう求めない。
「次は答は求めません。わたしが問を貰う番です。桂おねーさんがわたしに恋を告げる様
に導きます。おねーさんが思わず告白してしまう程に、素晴らしー女に育って見せます」
時間はわたしの味方だ。再び告白して破れる醜態は晒さない。いつか必ず桂おねーさん
に『葛が一番』の想いを抱かせ、告白される様に事を導く。わたしが了承を返す側になる。
わたしが瞳を当てた、桂おねーさんの浴衣の胸元が、いつの間にか己の涙で湿っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
返されるべき答を返され、告げたかった想いを告げて。2人肌身を添わせて更けた深夜。
悪夢に寝汗を掻いて目が醒めて、傍におねーさんの肌を感じて胸を撫で下ろす。おねー
さんは眠りの園にいて、今は健やかな顔色だ。浴衣の胸元やうなじが月明りの青に照され
て、無意識の故に無防備な顔立ちが、可愛いというよりも綺麗に過ぎて。思わず胸が高鳴
った。起きている時は性格の闊達さが前面に出るけど、本当は黙っていてもこんなに美し
いのか。
「……ちょっと、用足しに」
自分が悪夢に魘された以上、おねーさんにもその怖れは巡る。早く戻るのは当然として、
僅かでもその場を外す事に申し訳なく。誰に言う必要もない言い訳を呟いて、廊下を進む。
そー言えばオハシラ様は今一体何をして?
用を足した後、蒼い光の漏れるサクヤさんの部屋を覗くと。仰向けな彼女の布団の上で
蝶ははためき。降り注ぐ鱗粉が癒しの効果を持つのか、顔色は朝よりやや良い様な気が…。
尾花の部屋でもやはり蒼い蝶が、蹲るその背で羽根をはたはた動かし。気持よさそーに
目を瞑る姿に、思わず尻尾を掴みたくなった。居間のちゃぶ台の上の青珠にも蝶ははため
き。
「では、ここですか……」
襖の隙間から真っ暗な廊下へ僅かに漏れる蒼い光。この人は今更逃げ隠れしないだろー
し、既に葛の動きは蝶達に察されている筈だ。それでも一応音を立てない様に、襖を開く
と。
それは果たして見て良かったのかどーか。
涼やかな月夜に相応しい緊密な交わりに。
暫しの間魂を抜かれ唯呆然と引き込まれ。
彼女は月明りの差し込む中、蒼い衣を傍に脱ぎ置き。まだ意識のない黒髪長く艶やかな
人の、引き締まって無表情な美貌に頬を重ね。輝きを纏わせつつ、烏月さんの両脇から繊
手を回し、その背を抱き寄せて胸合わせ。いずれ劣らぬ美人2人が、あたかも愛し合う如
く。
枕の位置がこちら側なので、朝のサクヤさんの時と同じく、2人の肩口や胸元は布団で
隠しきれず、素肌が窺え。視線を釘付けにされた。正視してはイケナイのではと感じつつ、
磁力に縛られた様に瞳を逸らす事が出来ない。
「んんっ……ぁっ……」「んっ……」
烏月さんは全く意識がない様だ。双眸を閉じた美貌は無心に整い。抱かれる侭に仰向け
に全てを受け入れ。いつも怜悧な烏月さんが、無防備に無意識に横たわる様は蠱惑的だけ
ど。
覆い被さっても身が細いので、殆ど負荷にならない印象を受ける。意識して肌身を摺り
合わせる様は背徳的で。潤んだ黒い双眸も静かに端正な表情も、見ている者迄蕩かす様で。
うっとりと満たされて見えるのは気の所為か。
月明り以上に、オハシラ様が纏う蒼い輝きで、室内も薄明るい。烏月さんの豊かな胸も、
オハシラ様の桂おねーさんよりは大きいけど、大きすぎない程で形の良い胸も。双方掴ん
でみたくさせられる。この角度と位置では、露出の大きいドレスの様に、布団の隙間から
肩口や首筋や乳房の上半分が窺える程度だけど。
双方共に柔らかな肉感が押し合い潰し合う様は、清冽というか鮮烈と言うか。理性も良
識も寄せ付けぬ力業に、暫く言葉を探せなかったけど。沸々と噴き出してくるこの憤りは、
『一体、何をやっているのです。あなたは』
烏月さんの深い痛手の癒しに、彼女が肌身を添わせねばならぬ事情は分る。分った上で、
一番の人を他人に委ね別人に添う事に、名状し難い憤怒が渦巻き。わたしが望んで手に入
れられぬ桂おねーさんの、一番と言った人が。悪夢に怯える夜も添わず、他の女に心を注
ぎ。
裏切りに想えた。桂おねーさんの想いと同時に、おねーさんを渇仰する葛の想い迄共々
に踏み躙られた様に感じ。自分が烏月さんに添う為に、葛をおねーさんにあてがったのか。
嫉妬を超える憎悪を義憤に混ぜて。彼女がわたしの所作を全て承知と分って。その性交
紛いの睦み合いを、凝視する事で弾劾に替え。どの位身動きもせず視線で嬲っていただろ
う。
「葛ちゃん。わたしを案じてくれる事は嬉しいけど、他の人を案じる優しさは尊いけど」
彼女の表情は、羞恥も高揚も怯みもなく。
彼女の声音は、いつも通り静かに優しく。
「あなたには桂ちゃんをお願いした筈です。
わたしの一番な以上にあなたの一番の人」
瞬間、体感気温が下がった様な気がした。
静かな声には怒気の欠片もなかったけど。
「他の人を気遣う事も大事だけど、あなたが今為すべき最優先は、あなたの一番の人では
ありませんか? 桂ちゃんは今あなたの肌触りを求めています。たいせつな人に尽くせる
幸せは、失敗した場合そのたいせつな人を哀しませ苦しませる怖れとも背中合わせなの」
失陥を悟ったわたしが、罪の意識に面した。
彼女に今抱いた憤りは、全て己に跳ね返る。
否、わたしを信じて一番の人を委ねた彼女に罪はない。委ねられた筈なのに、恋敵の動
向を気に病み、戦場を離脱した葛にこそ罪がある。憎悪は義憤は弾劾は、己にこそ値した。
この身の震えは、怖れであり怒りだけど。
目の前の彼女に抱く物ではなく、己への。
若杉葛の想いの不徹底への怒りで怖れだ。
「わたしを気遣って頂いて有り難う。わたしを通じて、桂ちゃんを案じてくれて有り難う。
でも今あなたの最優先は、わたしを通じてではなく、直接桂ちゃんの不安や怖れを、肌身
に添って鎮める事です。わたしを案じた故に、今あなたの一番の人は置き去りになってい
る。それはわたしの願いでもないし、あなたの願いでもない筈です。桂ちゃんを守り支え
て」
オハシラ様は葛の失陥を指摘しつつ責めず。
一刻も早く葛がそれを補い償う様に促して。
一番の人の為なら彼女が添っても良い筈だ。
もう任せられぬから自ら添うと言えば良い。
でも彼女はそれを選ばず尚も葛に任せると。
烏月さんに添う以上に葛に為させたいとの。
「あなたにはそれが叶う筈です。桂ちゃんを深く想い、深く想われた葛ちゃんになら…」
彼女は桂おねーさんを一番に想う葛を望み。
恋敵の葛が失陥を自覚し克服する事を願い。
愚かを超えて信じられない程の甘さだった。
何か別に企みでもなければ得心行かぬ程に。
「オハシラ様、あなたは一体何を考えて?」
今日一日、否、出会ってから数日募らせていた疑念を、正面から問いかけよーとした時、
「……桂ちゃんが魘されています。急いで」
その声にわたしは今度こそ最優先で、桂おねーさんに駆けつけなければならなく。結局
問は伝えきれず、答を貰う事も叶わなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
朝の光の差し込む中、風はまだ涼やかな中。
目覚めた桂おねーさんの問に事実を答えて。
付き従って一緒に烏月さんの部屋を訪れたわたし達の目の前で。溢れる眩しい光の中で。
蒼い衣の人と浴衣姿の鬼切り役は布団に座して手を絡め、頬も唇も正面間近に見つめ合い。
「お姉ちゃん、烏月さん……」「たはは…」
暫く2人の世界にいた様だけど。襖が開く前から既に来訪は悟られており。絡めた指を
解いた烏月さんは振り返って笑み。透き通って満たされた美貌に魂魄を貫かれた。冷静で
強い人だとは知っていたけど。ここ迄柔らかに包み込む強さを彼女は持っていただろうか。
朝日を浴びて輝き匂い立つ様な唇からは、
「お早う桂さん。心配してくれて有り難う。 葛様。ご心配を掛けて申し訳ありません」
オハシラ様が、わたし達への挨拶を思い止まったのは。わたしも声を挟めなかったのは。
「烏月さん……良かった。元気になって…」
桂おねーさんが、烏月さんに飛びついて。
頬に頬を合わせて、嬉し涙を溢れさせて。
心から本復を喜ぶ様を、誰も妨げられず。
烏月さんも暫くはおねーさんを受け止める他に術はなく。わたしもオハシラ様も見守る
他に術はなく。わたしは最早三番手でもなく。青珠が殊更輝いて動き回る気持が良く分っ
た。
「そろそろ朝ご飯にしましょう」「はいー」
オハシラ様の促しにわたしが元気よく応え、それで烏月さんよりも桂おねーさんが漸く
我に返り。厨房に向う蒼い衣の人に付き従うは、
「お手伝いします、柚明さん」「お姉ちゃんわたしもっ」「わたしもさせて下さいです」
「嬉しい悲鳴ね。でも、余り手の込んだ品を作る訳ではないし、厨房に人が多すぎても」
困惑気味なオハシラ様の裁定に委ねた結果、全快した烏月さんが手伝う事になって。わ
たしと桂おねーさんは厨房の椅子で見守る事に。おねーさんは烏月さんや従姉に少しでも
添いたくて、ちゃぶ台で待つ気になれず、わたしも同伴させて貰った。事を察した烏月さ
んは、オハシラ様の意向を伺う視線を見せたけど…。
桂おねーさんを心配させたくないと、烏月さんが言葉に出さぬ様に気遣ったのは分った。
わたしはおねーさんの気持に乗じ、尚調理の安全を確かめている。わたしはあなたを信じ
ていませんと言うに等しい応対を。オハシラ様は、多分知って咎めず受け止めて、烏月さ
んに頷いて。それに烏月さんも了承した様で。
「烏月さんもお料理できるの?」「ああ…」
桂おねーさんの興味津々な問に烏月さんは、
短く頷いた後でさらりと重大な単語を口に。
「上手と言う程ではないけどね。兄さんがいた私は千羽では、いつか嫁に出される予定だ
ったから。剣を振るう事ばかり憶えて、料理も出来ない猪武者になってはいけないと…」
出して苦味もなく柔らかに微笑んで。違う。
昨日迄の彼女とも違って、更に強く美しい。
「それじゃわたし、猪武者にもなれないよ」
「桂さんは綺麗で優しい。それで充分だよ。
その柔らかな笑みに、叶う者はいないさ」
「ううっ、うっ、烏月さん。恥ずかしいよ」
そんな綺麗な目で正視されて真剣に言われたら、わたし信じてのぼせ上がっちゃうよっ。
桂おねーさんが、頬を染める気持も分った。
でも今朝のこの人はそこで止まる事をせず。
「私は嘘や冗談は苦手な方でね。桂さんは千羽烏月のたいせつな人。柔らかな笑みの可愛
らしい、勇気と優しさに満ちた愛しい人だ」
手を止めて、おねーさんを間近に見つめ手を握る様は姫君と王子様で。オハシラ様はそ
の脇で笑みを浮べた侭黙して自身の手を進め。敢て烏月さんの止まった手を促さず見守っ
て。
「わたしは鬼切部はエナジーメイト等の栄養補助食品に、頼っていると思っていました」
仕方ない、わたしが口を挟んで妨げます。
「千羽党は古風な集団で、年長者を中心に最近の品物である栄養補助食品には懐疑的です。
鬼切部の戦いは時に月も跨ぎます。山野で食せる物を捌いて血肉と為す術を知らねば、鬼
切りは為せない。味の自信はありませんが」
烏月さんは、桂おねーさんと2人の世界に入り込む事を妨げたいわたしの意図を悟って、
わたしにその涼やかな瞳を移して丹念に応え。
「店頭で売られる品は、山奥や離島では手に入らない時もあります。そう言う時も食せる
草や肉を自ら峻別し、捌いて血肉と為す…」
「叔母さんも、桂ちゃんのお母さんもわたしと一緒に、笑子おばあさんやサクヤさんに料
理を教わったの。料理出来ない訳ではなかったのだけど、味や食べ易さに支障があって」
基礎修行は出来ているので、オハシラ様が味つけを主導する限り、差し障りはない様で。
4人で食卓を囲み、後片付けはお任せして。桂おねーさんとわたしは、尾花の朝食を部
屋迄持ってお見舞に。桂おねーさんとも打ち解けた尾花はすっかり全快した様で。もう次
からは食事は自ら食べに来て貰うべきでしょー。
戻り来たわたし達を居間で迎えてくれたのは烏月さんで。ちゃぶ台の向うの襖は、ぴっ
たり閉まっていたけど。烏月さんはそこで為されている事を承知で、それは人目に晒すべ
きでないと、姫の名誉を守る騎士の如く座し。
桂おねーさんは、殆ど無意識的にオハシラ様を追い求めてから、昨日の状況を想い出し。
そのドキドキを烏月さんの涼やかな瞳に見抜かれた錯覚に、反射的に威儀を正してしまい。
わたしはもう少し巧く内心を繕えた積りです。
「折角のお茶です、頂きましょー」「うん」
桂おねーさんもわたしもぎこちなさを漂わせつつ、敢て問わず烏月さんのお茶を頂いて。
爽やかな日が昇る羽様の夏の朝を共に過ごし。
「……烏月さん。有り難うございます……」
オハシラ様が蒼い衣を身に纏ってサクヤさんの寝室から出てきたのは、参拾分位の後か。
集中的に癒しを流し込み自然治癒を支えつつ、尚サクヤさんに添い続ける訳に行かないの
は。
「桂ちゃん。もう少し癒しを注ぎたいの…」
良いかしら? と願う様に求める従姉に。
わたしの一番の人は、微かに頬染めつつ。
何を為すか知らない者はこの場にいない。
「う、うん。その、よろしくお願いします」
桂おねーさんが、烏月さんとわたしに了承を求める視線を見せるより早く。蒼い衣の女
人は、正座の姿勢から三つ指突いて額づいて。
「正午位迄掛ると思います。暫くの間、桂ちゃんをお任せ頂きたく」「承知しました…」
わたしは烏月さんの涼やかで柔らかな答に追随して頷く事で、心の引っ掛りを表に晒す
事なく贄の姉妹の添い寝を見送る事が出来て。
烏月さんと2人きりで話す暫くの時を得た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂おねーさんを切れるか否かは尋ねません。
あなたはわたしの命令なら、オハシラ様を、ユメイおねーさんを切る事が出来ます
か?」
爽やかな日の差し込む中、若杉葛の心の闇を晒す問に。烏月さんは殆ど驚く様子を見せ
ず、逆にわたしの魂を見抜く様な正視を返し。この問答もオハシラ様には筒抜けだろーけ
ど。
「鬼切り役は鬼切りの頭の命に従う者です」
その様な想定を抱くわたしの心を問う様な答に、わたしは怯んだ心を隠して無言を保つ。
恐らく彼女はそんなわたしの心の内も承知で、
「まともな状態の葛様が、まともな状態の柚明さんを、切る命を発する筈がありません」
ですから……。あり得ない事だと拒絶するのかと思ったら、烏月さんは更に言葉を続け、
「今の問は葛様か柚明さんのどちらか、或いは両方がまともではない状態で命が下された
場合、私がどう動くのかと言う問と受け止めてお答えさせて頂きます。宜しいですか?」
この人は、想像を超えて強く柔軟だった。
あり得ないと言う処で硬直し思考停止するのではなく。そうなる場合がどういう状況か
想定し、自身がどう為すべきか瞬時で考える。単に賢いという以上に覚悟を心に抱いてい
る。その覚悟は自動的に、葛の覚悟も求めていた。答に覚悟が宿るなら問う側も覚悟が必
須だと。
わたしの短い頷きを確かめ、烏月さんは。
「想定したくない極みですが、もし仮に柚明さんが羽藤白花の様に正気を失い、己の意思
では止める事の出来ない殺戮を為す鬼と化し、生命を絶つ他に止める術が無くなったな
ら」
是非葛様には鬼切部の他の誰にでもなく。
千羽烏月に彼女を切る命をお与え下さい。
頭を下げて願う姿勢は凄絶な闘志を纏い。
この人は常に全身全霊なのか。あの人についてだから全身全霊なのか。わたしは続けて、
「桂おねーさんは哀しむでしょーね。何とか生命絶たないでと、必ず願うでしょーけど」
だからこそです。彼女は深々と頭を下げて。
即答だったけど、黒髪は微かに震えていた。
「桂さんの一番たいせつな人、私の特別にたいせつな人を、殺める者は許せない。それが
味方仲間の誰であっても、どんな事情があろうとも。断つ事が必須ならせめてこの手で」
そうなった時には既に、桂さんは深い絶望の淵にいます。広がり行く哀しみの大波を止
められず、心を痛めているに違いありません。誰かが終止符を打たねばならぬなら、桂さ
んに心を隔てられる事は承知で、私が為さねば。
「柚明さんは一昨昨日の夜、最愛の羽藤白花を切ろうとしていた私に、こう言いました」
『彼の哀しみを分って欲しい。斬らざるを得ないなら、せめてその想いを分った上で…』
心の奥に分け入って情を交わし、大切に想っても尚、斬らなければならない時には斬る。
例えたいせつなひとでも、人に仇なす鬼なら斬らねばならないのが鬼切部。そうでしたね。
『己の身を断ち切る想いと共に、己の生命を断ち切る如き痛みと共に、その身も心をも』
そうする事が彼を救う事になると願って。
そうする事が彼を守る事になると想って。
そうする事が彼の望みでもあると信じて。
『彼を斬って下さい。その身体も生命も、心迄も。鬼の定めと哀しみと苦悩から、鬼の定
めに組み敷かれた辛い生から、彼を救って』
切る事が救いになると。憎しみや敵意の故ではなく、愛するが故に切る事もあるのだと。
私は柚明さんに教えられました。だからこそ、
「そうなり果てた末には、彼女は切られる事を望むと、生命断たれても悲嘆の渦を止める
事を願うと信じ、迷わず維斗を振るいます」
そして。烏月さんは言葉を止める事なく。
息を呑むわたしに、正視を向け続けた侭、
「葛様が鬼に憑かれる等して、まともではない状態で柚明さんを切る命を下された時は」
千羽の鬼切り役は先代も先々代も、若杉の先代と心通じ合えていませんでした。先々代、
桂さんのお母さんは、サクヤさんを討つ命を返上し、鬼切り役も返上し、信じた誠を貫き
ました。先代、私の兄は羽藤白花を討つ命を果たさず、討ったと偽り彼を匿い育てました。
「しかし、私千羽烏月は、桂さんを心からたいせつに想い、桂さんに心から愛しく思われ
た葛様に心服しております。心服した主君を捨てる真似は出来ず、裏切る真似も又然り」
今度こそ千羽は鬼切り頭への忠節を全うし。
生命懸けで葛様を正気に戻し申し上げます。
そうする事が葛様を救う事になると願って。
そうする事が葛様を守る事になると想って。
そうする事が葛様の望みでもあると信じて。
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽刀の鬼切り役。鬼切り役に仕えるのは宿命で
すが、それ以上に葛様は私のたいせつな人です。心を込めて仕える事をお許し頂きたく」
私が心開く事は求めず、己が心開き仕えたいと願う。この柔らかな強さはオハシラ様の。
『でもそれは唯々諾々と命に従う訳ではなく、真に主君を想う故に痛みを伴う諫言も為
す』
唯々諾々と定めに従わされる訳ではなくて。
定めの中で為せる限りを尽くす彼女の様に。
この得難い人を部下に持てた喜びと、この人の心迄あの人に掴まれているとの悔しさが、
相半ばして。烏月さんの柔らかな強さに蒼い衣の人の面影を視るのは、むしろわたしの…。
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正午過ぎに起きてきた贄の姉妹は、烏月さんやわたしと昼食を囲み。オハシラ様は今日
も桂おねーさんに、食材の買い出しを頼んだ。昨日の買い出しは、幼子のわたしと非力な
桂おねーさんが持てる分量に限定していた様で、明日朝迄しか保たない見込みで。オハシ
ラ様が町に行けない事情は相変らずだ。もう少し多く荷を持てる人がいてくれればと言う
時に。
「分りました。桂さんに私が付き添います」
桂おねーさんは昨日の食事や休息と諸々の処置で、相当血液も復せており。午前に三度
為した生気の前借りの反動が来る明日、もう一度癒しを注ぐ必要があるけど。明日には危
機を脱する見込みで。昨日同様、見守る人がいる限り、少し歩く方がリハビリになる様で。
「葛ちゃんも来る?」「いえ、わたしは…」
烏月さんとの愛の営みには割り込めない。
嫉妬の炎に灼かれる以上に首を挟めない。
「昨夜は少し夜更かししたので遠慮します」
中身を明言しない事で、花火だけではなく、桂おねーさんとの寝物語も含めると示しつ
つ。
「わたしは桂おねーさん達が来る迄この家で、電気のない生活をしていました。陽が昇れ
ば起きて、日が沈むと眠る……ここ数日の生活サイクルに、体がまだ馴れてない様でし
て」
青い光の癒しを頂く迄の事はありません。
「漸く本復した尾花の相手も、したいので。
ユメイおねーさんと帰りを待ちますです」
わたしは蒼い衣の人と三和土で見送りを。
「今日は経観塚のお祭り2日目だったわね。
桂ちゃんと2人、ゆっくり楽しんできて」
そのセリフはいつかどこかで聞いた気が。
そーゆー訳で夏の陽が照りつける昼下がり。わたしはオハシラ様と居間にいた。彼女は
手揉みで洗濯した桂おねーさんやわたしの衣を畳み終えた処で。電気は通るけど洗濯機が
ないので。細くしなやかな手に、わたしの下着が揉み洗いされたと想うとドキドキするけ
ど。
それを再び身に纏うと想うと。彼女の指に触れられる錯覚に更にドキドキが増す。彼女
は今や、ここに起居する者の生殺与奪を握っていた。食も衣も、生命も羞恥も何もかも…。
尾花を傍に置いても勝ち目等ある筈がない。彼女は尾花の四肢を落した妹鬼を倒したの
だ。わたしの備えなど、最早悪あがきに過ぎない。むしろそう分るからわたしは己の思い
の丈を。
「白花さんを看に行かなくていーのですか」
突然急襲を仕掛けるわたしにこの人は尚。
驚きもなく柔らかに向き直って穏やかで。
彼女は昨日、わたしと桂おねーさんが外していた間に、ご神木の白花さんを訪れていた。
鬼神の封じの引継援助、と言うよりこの人は、ハシラの継ぎ手を己から奪ったたいせつな
彼が心配で堪らず、語りかけ力を注ぎ足そうと。少しでも寄り添ってその苦痛を共にした
いと。
「夜に行かなかったのは、烏月さんを癒す必要以上に、桂おねーさんが目覚めてあなたの
不在に気付くと、不安を抱かせてしまうから。おねーさんがわたしとお屋敷を外した昼な
ら、夕刻迄好きなだけ彼に寄り添えますしねー」
桂おねーさんはこの人を一番に想い、二度と喪いたくないと想っている。この人を縛り
続けたご神木は、おねーさんには従姉を奪う怖れと不安の源だ。この人は今尚封じの要の
資格を持つ。もし再度封じの要が交替すれば。
桂おねーさんが、双子の兄の話題を無意識に避けるのも。従姉が無闇にそれに触れない
のも。おねーさんの罪悪感と不安と怖れがそこだから。故に彼女は彼を想う内心を出さず。
昨日一杯おねーさんの前では屋敷の外に出ず、出たと匂わせもせず。不安も問も生じさせ
ず。
「夜ならあなたは蝶を飛ばせ、遠隔から彼を助ける事も心通じ合わせる事も叶う。サクヤ
さんや尾花やノゾミさんにした様に。昼間桂おねーさんが屋敷を外す様に事を導いたのは、
おねーさんのリハビリや食材調達より、烏月さんやわたしにも餌を与えて遠ざけ、あなた
が白花さんに寄り添う為だったのでしょー」
でもそれは桂おねーさんに気付かれずとも。
オハシラ様の一番の人への裏切りに当たる。
この人は桂おねーさんに一番に想われていながら。おねーさんを一番に想っていながら。
おねーさんへ寄せたに近い程深く強い想いを、白花さんにも注いでいる。おねーさんの不
安や怖れを招きたくない配慮と同じ程に、そこ迄して彼に寄り添いたい強く深い想いが窺
え。
「あなたのたいせつな人、なのでしょう?」
隔意を感じさせる語調で問を重ねる葛に。
蒼い衣の人は頷いてから首を横に振って。
「今は葛さんの想いに応える事が優先です」
桂おねーさんの前で多く使う、子供の葛に向けた『葛ちゃん』ではなく、真剣な葛を意
識した『葛さん』を。この人はわたしが今日、烏月さん達のお祭りに行かぬと応えた時点
で。わたしの意図を察して、応える積りでいたと。
急襲失敗と言うより、待ち構えた敵の前に突撃してしまった状態ですか。いーでしょー。
彼女はわたしの想いや問を待っている。わたしが事態の主導権を握る状態に、変りはない。
「では応えて頂きます。あなたの一番たいせつな人は誰ですか? あなたの行いはその人
に抱く想いへの裏切りになっていませんか」
罪悪感の源を復唱させる。事実を確かめ彼女自身にも確かめさせる。裏切りの根を言葉
にさせて表に晒す。わたしの低く抑えた声に、
「わたしの一番たいせつな人は、羽藤桂と羽藤白花。己の生命を生涯を捧げて尽くし守り
たい愛しい人。この世に唯1人と想える人」
心を込めた静かな答にわたしは更に強く、
「矛盾を承知で言っていますね、オハシラ様。
唯一の人が2人だなんて、複数一番なんて。
桂おねーさんとは女同士になる事はこの際棚上げします。近親の禁忌もとりあえず黙過
します。でも尚あなたは甚大な矛盾を抱えている。2人が幼子ならそれで良かったかも知
れない。唯好きで、守り支えたいで。でも」
返される想いを期待出来ぬ状態が、彼女を今迄矛盾からも遠ざけていた。忘れられた侭
ご神木に宿る限り、迷う事態は生じなかった。でも人に戻りつつある今。最愛の人の想い
を受けられる肉の体を取り戻す今後。彼女はそれに向き合わねばならない。矛盾はむしろ
今から始る。それはあなたが生んだ結果であり、おねーさんを哀しませる裏切りに繋るの
です。
「あなたは白花さんと桂おねーさんから同時に求愛された時、どちらを選ぶ積りですか?
迷えばどちらも喪う極限状態で、片方しか救えない時、どっちを捨てられますか? 2
人の内、何れが真に最愛の唯1人ですか?」
どっちを外しても、双方に重大な裏切りだ。否、2人を一番にした時点で既に甚大な背
信だ。この人がそれを知らない筈はない。そこを敢て問うわたしは相当苛烈だけど。桂お
ねーさんの為と言うより、おねーさんを諦めきれぬ己の為に、問い質さずにいられなかっ
た。
この人が幾ら深く強い情愛を抱いていても。
一途さで超える。唯一無二の想いで優れば。
2人に分けた半分の想いになら葛も勝てる。
桂おねーさんではなく彼女を乗り越えれば。
この人は、想いの不純を悟れば恥じて退く。
この人の今迄の行いを見ればそうなる筈だ。
例えそうならずとも、想いが曲がっている、折れていると自覚させれば、方策は幾らで
も。
座した彼女を見下ろす為に、敢て間近に立って向き合う若杉葛に、蒼い衣の人は静かに、
「桂ちゃんも白花ちゃんも、2人ともわたしの一番たいせつな人。何れか1人は選べない。
どちらかへの想いが優り、もう片方への想いが劣ると言う事はありません。2人ともこの
生命を生涯を注いでも、尽くし助け守りたい、幸せを掴み取って欲しい愛しい子、いと
こ」
この人の答は答になってない。なってないにも関らず、その心情は強く胸に打ち寄せて。
理屈ではなかった。彼女は理屈を超えていた。訊かれた事を返すのみが答ではない。答は
選択肢の中にあると限らない。彼女は静かに穏やかにやや沈痛な表情の侭、葛の想定を超
え。
「迷えばどちらも喪う極限の場で、片方しか救えない時……わたしは結局、選べないでし
ょう。より遠く危うい片方を助けて後、再度手を伸ばす事に全力を注ぐと想います。及ば
ない結果が出る迄、諦めきれず。その末に」
及ばなかった結果は、終生受け止めます。
この人も硬直や思考停止とは無縁だった。
「羽藤桂と羽藤白花は双方一番たいせつな人。
わたしの生に光を当てて蘇らせてくれた人。
わたしに生きる値と目的を与えてくれた人。
漸く巡り逢えた、愛しさ限りない一番の人。
どちらか片方ではないの、わたしの心の太陽は。双方への裏切りになっても、この想い
は止められない。それが2人を哀しませるのなら。罪も罰も、責めも報いも身に受けます。
もし白花ちゃんと桂ちゃんが、真の想いでわたしを欲し求めてくれるなら……わたしは、
全身全霊で応えます。答が受容でも拒絶でも、真剣に考えて、この身と心の全てを注い
で」
まず相手の想いを受け止める。そして全身全霊の答を返す。当たり前の事だけど。この
人は心を注ぎ込む事で、当たり前を奥深い答に変えた。何の変哲もない答の筈が。鬼切り
役が揮えば果物ナイフも最強武具となる様に。
この人は理を超えていた。故に封じの要の縛りも超え、世の理も法則も超え、桂おねー
さんを助けに現身を取れた。一見静かに柔らかでも、この人の想いは苛烈を遙かに超える。
近親でも女同士でも、同時に複数愛し愛されても。彼女に何の障りもない。それどころか、
「そしてもし桂ちゃんと白花ちゃんが、別に一番の人を見いだしたなら。わたしはその願
いが叶う様に助け、その想いが届く様に支え、その求めが満たされる様を見守りたい。わ
たしとの今迄の経緯に囚われる事なく、自由に伸びやかに幸せな未来を掴み取って欲し
い」
彼女は己が一番になる事さえ必須ではない。
「あなたは桂おねーさんの、一番でなくても良いというですか! そこ迄愛していながら、
そこ迄尽くしておいて、一番の想いを一番の人から返されたいと、求めないのですか?」
この身を駆け抜ける震えは、己が手に入れ損なった桂おねーさんの一番を、掴み取らず
手放す様な、軽んじる様な答への憤激以上に。この人の内心を見通せぬ事への未知への怖
れ。
この人が今迄自ら掴み取ろうとせず。烏月さんやノゾミやわたしと桂おねーさんの絆を
導き望んできたのは。羽様から離れられない、鬼神の封じの事情だけではない。この人の
得体の知れなさ、本性が漸く窺えて。わたしは問を促されていた。発さずにいられなかっ
た。葛を破り退けて、桂おねーさんの一番になったこの人の心を、見極めずにいられなか
った。
「その望みは、わたしの最優先ではないの。
わたしの願いは常に一番の人の幸せです」
わたしとの幸せではありません、と応え。
「仮に桂ちゃんが白花ちゃんがわたしを望んでくれるなら、その想いを受ける事がその幸
せに繋るなら、わたしは全身全霊で応えます。でもそれはわたしの幸せという以上に、た
いせつな人の望みだから。わたしがその願いを叶える事が先々たいせつな人の涙に繋るな
ら、幸せを紡げないのなら、わたしの答は1つ」
わたしの幸せは、たいせつなひとが日々を笑って過してくれる事。確かに明日を見つめ
て暮してくれる事。自身の生命を精一杯使い切って、悔いなく今を進み行く事。だから…。
桂ちゃんが誰を愛しようと、誰を一番に想おうと自由です。わたしは喜んでその人の為
に尽くします。その人もわたしのたいせつな人になるの。サクヤさんもノゾミも烏月さん
も。葛さん、あなたもわたしのたいせつな人。
「わたしは恩義で桂ちゃんの想いを縛る気はありません。過去で未来を繋ぎ止める積りも
ないの。桂ちゃんはわたしの独占物ではない。その心を掴みたければどうぞ。わたしは桂
ちゃんを愛する事とその身の幸せだけが必須」
わたしの望みは桂ちゃんの幸せ。桂ちゃんとの幸せではない。その幸せの相手が誰であ
っても良い。わたしは嬉しいし、心から祝う。今はあなたもその幸せの一部なの、葛さん
…。
「あなたは、桂おねーさんや白花さんの想いが返る事さえ、必須ではないと言うですか」
誰かと深く絆を結ぶ桂おねーさんを、喜んで見守り支え、想いが通じ合う様に助けると。
信じられなかった。わたしの短い人生で見聞きした愛の範囲を、この人は遙かに超えて。
愛させて欲しい、愛する事が願い、想いを注ぎたいだけと。返される想いを求めず愛す。
ご神木から解き放たれて、肉の体を取り戻し、一番の人の記憶が全て戻った今も尚変らず
に。
「わたしはたいせつな人である葛さんが、桂ちゃんに抱く想いを支えたい。葛さんだけで
はなく、烏月さんやノゾミやサクヤさんの想いも支えたく願う事は、申し訳ないけど…」
柔らかな繊手が葛の両手を包み込んで握り。
声音も視線も静かに暖かにわたしへ注がれ。
「わたしを口封じしなくて宜しーのですか」
わたしは崩れ怯む心を鎖す事で己を保ち。
未知な震えに包まれる自身に怯えていた。
「わたしが桂おねーさんに抱く想いはあなたも承知でしょう。同時にわたしが恋敵である
あなたに抱く想いも。……一昨日夕刻ノゾミを庇ったあなたに突き刺した鏃に込めたのは、
ノゾミへの憤りだけじゃない。おねーさんの願いを受けてノゾミを受容した、あなたへの
嫉妬も籠もっていた。桂おねーさんの心に一番近く寄り添うあなたへの堪え難い嫉妬が」
妹鬼に踊らされた葛の憎悪や嫉妬は、あなたを身の内から灼いて苦しめた。もうお分り
でしょー。わたしはコドクの最終勝者で触れば腐る程の毒虫です。幼子と甘く見て手を拱
いていると、次は腕では済まなくなりますよ。
わたしを見つめ返す彼女の視線は和やかで、発した言葉の意味を悟ってない様にも思え
た。
「わたしは桂おねーさんを愛したから、あなたが一番邪魔なんです。おねーさんの一番で
あるあなたが一番目障りで除きたいんです」
この侭生かして若杉に戻せば、権力財力を使い放題なわたしが、今後どう出るか分りま
せんよ。鬼切部が必ず贄の民の味方とは限らない。贄の血は鬼を呼び、鬼に力を与えるの
ですから。烏月さんが外した今は最後の機会。
「わたしが一番に想うのは桂おねーさん独りです。だから葛は迷わない。あなたがおねー
さんの害になるなら、葛の想いに邪魔になるなら、いつでもどんな手段でも排除できる」
特にわたしは、歳の近い従姉という存在に遺恨があります。痛恨の想いを味わわされた。
平将門や源頼朝が示す様に、身内にこそ敵が潜むのが世の常です。優しく甘く脳天気な桂
おねーさんの傍に唯一人の年長の身内。まな板に鯉を載せて出す様な物です。あなたはお
料理上手だ、捌くのもあっという間でしょー。わたしがそれを座して見過ごすと想います
か。
「わたしを始末しないと、その内わたしがあなたを排除します。いーのですか? 折角の
一番の人との日々が、潰える前に先にわたしを除いておかなくても」「それはわたしが望
まない以上に、桂ちゃんが望みませんから」
彼女は首を左右に振ってから、軽く握った侭だった繊手を解き、背中に回して頬合わせ。
「有り難う。葛さんは、優しい子」「っ!」
ノゾミに抱いた憎しみも、わたしに抱いた嫉妬心も、ミカゲに唆される迄じっと堪えて
くれていた。桂ちゃんをたいせつに想うから、桂ちゃんがたいせつに想った人達に、向け
るべき想いを向けられず。辛かったでしょうに。
「な、何を言っているのです、あなたっ!」
「鏃でわたしはあなたの想いを受けました」
だからあなたの辛さも少しは分る積りです。
あなたが抱いた憎悪はわたしの憎悪であり。
あなたが抱いた嫉妬はわたしにもあります。
それは桂ちゃんを心からたいせつに想う故。
そしてわたしやノゾミを、桂ちゃんを想う故に、表に出さない様に必死に堪え。弾け散
る迄受け止めてあげられなくてごめんなさい。鬼に踊らされた事も、わたしを傷つけた事
も謝る必要は何もない。子供の整理しきれない想いは、整えられる様に大人が導くべきな
の。それを成せなかったのは、わたしの落ち度…。
「突き刺された鏃で漸く、わたしは若杉葛の真の想いに向き合えた。分り合うきっかけを
貰えた。悔いる事は何もない、全て受け入れたから。あなたの桂ちゃんに抱く愛の強さも。
嬉しかった。心から有り難う。それがあなたに罪悪感を残したなら、逆にごめんなさい」
この人は葛の嫉妬心を愛おしみ。害した者に心から謝意を述べ、頭を下げて抱き留めて。
この人は理屈を超えていた。そして葛はその理屈を超えた情愛が、この上もなく好ましく。
「葛さんが桂ちゃんを守る為に、必要と判断した時には、わたしを切り捨てて結構です」
この人は葛の宣告の真意をも察していて。
優しい声音と柔らかな肌身を添わせた侭。
「鬼切部が葛さんの想いだけで動かせる組織ではない事は、承知しています。鬼切りの頭
の故に、どうにもならない時もあるでしょう。迷えば何もかも失う極限状態で、1つしか
救えない時も。桂ちゃんを守る為に葛さんが必要だと想う時には、わたしはいつでも己を
捧げます。その唇で告げて下さい。従います」
この人は自身の幸せの為に桂おねーさんに添うのではない。おねーさんの幸せの為に間
近で己を捧げるだけで。彼女は最初から最後迄、オハシラ様になってもやめても変らない。
己が輝く事にのみ一生懸命で、他人の事はお構いなしな若杉の身内に比べ。隣の輝きを
己の輝きの邪魔と見なして、綺麗に咲けない様に互いを消し合い貶め合う葛の身内に較べ。
「若杉葛はわたしのたいせつな人。わたしの一番たいせつな桂ちゃんを大事に想い、心通
わせてくれた愛しい人。この身を尽くして守り支えたく想い願う、賢く元気に可愛い子」
葛には若杉の身内がお似合いな様に、桂おねーさんの身内にはこの人がお似合いなのだ。
悔しさは、おねーさんに抱く愛の強さ深さで、葛はこの人に敵わないと思い知らされた事
に。羨ましさは、素晴らしい身内を持てた桂おねーさんに。桂おねーさんの一番を彼女が
占める事が悔しいのと同じ位、ユメイおねーさんが桂おねーさんを一番に想う事が惜しい。
この柔らかな声音も肌触りも、手放したくない。わたしは初めて桂おねーさんに嫉妬して
いた。
「わたしはどんな葛ちゃんでもたいせつよ」
この人は、桂おねーさんを守る為には、あなたを囮や身代りや生け贄にする事もあると。
そう告げた葛の心情を逆に気遣って。躊躇なく処断して良いと。時に切られる事も望むと。
ああ、烏月さんはこの人と通じ合えている。
その緊密な繋りも、好ましいより羨ましい。
【はぁ、それは運がなかったですけど、引き時を弁えなかったのが一番の敗因ですよねー。
この処この辺も騒がしくなってきたんですけど、中々心地良いもので、ついぐずぐずして。
早く逃げとくべきだったんですよねー】
数日前にこの庭先で、サクヤさんに捕まった時の言葉が、これ程後々に響くとは。あの
時に逃げ切れていたなら、とは思わないけど。もー少し前の時点で、ここを離れていたな
ら。
わたしは桂おねーさんにもこの人にも逢えていなかった。今はその定めの巡り合わせが
例えようもなく有り難く。溢れ出す幼心の侭に、柔らかな胸元に己を預けて暫しを過ごし。
「夏が終っても、羽様で過ごす日が終っても、わたしの想いは終らない。たいせつな人
…」
若杉葛は声にならない嗚咽の侭で、優しく静かに穏やかな、愛しい声音に同意を返した。