夏が終っても〔甲〕(前)
爽やかな朝だったけど、目覚めは悪かった。身を撫でる風は清涼だけど、悪夢に魘され
寝汗をかいていた己を思い返す。2日続けて鬼の呪縛を受けた疲労以上に、鬱屈は心に蟠
り。
身動きせず、瞳を開かず。付近を窺いつつ、意識が落ちる迄を思い返す。周囲に同室に
目の届く範囲に誰かがいても、こちらを注視していても。若杉葛が目覚めたと悟られぬ様
に。
頭の奥に尚鈍痛が残っている。固い物で思い切りぶん殴られた様な印象が抜けきらない。
【へぇ、中々美味しそうな子供じゃない…】
姉鬼に呪縛を受けたのは、一昨日の夕刻少し前だった。尾花と仮住まいした片田舎の廃
屋が、数月も経ない内に、拾年訪れなかった家主を迎え入れた予想外がケチの付き始めで。
しかもその連れが若杉に因縁深い浅間や千羽で。その上鬼神を封じるオハシラ様や鬼の
諍い迄も伴って。鬼切りの頭の定めを嫌って若杉を逃げ離れたわたしには。皮肉の極みか。
【はぁ、それは運がなかったですけど、引き時を弁えなかったのが一番の敗因ですよねー。
この処この辺も騒がしくなってきたんですけど、中々心地良いもので、ついぐずぐずして。
早く逃げとくべきだったんですよねー】
一昨昨日この庭先で、サクヤさんに捕まった時の言葉が、これ程後々に響くと思わなか
った。あの時逃げ切れていたなら、とは思わないけど。騒擾の兆を感じたもー少し前の時
点で見切りを付けて、ここを離れていたなら。わたしは今も気侭なその日暮らしを続けて
…。
問答の間に姿を消していた桂おねーさんが、深手を負ってオハシラ様に抱かれて来て。
サクヤさんと手当を手伝う内に、成り行きでわたしは烏月さん迄含めて屋敷に居候する事
に。夜にはおねーさんの血を狙う鬼の姉妹が顕れ。
逃げ去る機会が全くなかった訳ではない。
一度はわたしもここを抜け出ようとした。
全てを捨てたわたしに未練などなかった。
でもそれが却って仇になってしまうとは。
屋敷を離れたわたしは鬼の手に落ち、操られる侭に桂おねーさんへ害を導いた。わたし
の行いは己以上に、他者へ害を及ぼしていた。目の前で、四肢を断たれた尾花が草藪に消
え、桂おねーさんが鬼の姉妹に喉を食い破られて。
己の人嫌いをエゴを通した為に、己が一時生命長らえた影響を、他者が被る。コドクの
最終勝者に相応しい呪われた素養か。鬼の手に落ちて尚生き長らえたのもその素養の故か。
「まだ起きている者は、いないよーですね」
半身を起こし辺りを見回す。足音も話し声も聞えない。屋敷の朝は静謐で。耳に届くは、
草木の風に靡く音と鳥の羽音で。桂おねーさんが朝寝坊でも、誰か起きている頃合だけど。
「この静寂は、果たして吉なのか凶なのか」
一昨日夜は何がどーなったか分らない内に、姉鬼が桂おねーさんに絆され、妹鬼と仲違
いして桂おねーさんを守り戦い。サクヤさん達の助けが間に合って、ついでにわたしも助
かった。でもだからと言って。だからと言って。
尾花の四肢を断って、その生命も奪いかけ。桂おねーさんの喉を食い破り、その生命も
奪いかけたあの姉鬼を。わたしを散々弄びこの血を啜ったあの姉鬼を。絶対許せる筈がな
い。
その憤懣に付け込まれた。桂おねーさんの強い願いを受けたオハシラ様の提案は、拒め
なかったけど。故に心の内に募った不満と鬱積を、妹鬼に見抜かれた。わたしは己の本物
の憎悪に紛らわされて、誘導に気付けずに…。
オハシラ様は鬼神を封じる『力』を流用し、ほぼ一昼夜かけて尾花の傷を塞ぐのではな
く、断たれた四肢を戻してくれた。その前夜には、誰に向けても不適当な定めへの憤激を、
強く優しく真摯に受け止め、想定を超える答をくれた。この女人に心を返さずにいる事が
わたしの心を重くする。逆らいたくない人だった。
桂おねーさんはわたしを若杉と分った後も、忌避せず暖かに抱きしめてくれた。たいせ
つな人だよと、肌を重ね頬を寄せて瞳を合わせ、
【やっぱりね、独りは駄目だよ、葛ちゃん】
温められて初めて分った。孤独とはこんなに心を冷やしていたのか。こんなに心を閉ざ
さねば耐えられない程に、追い詰められていたのか。それ迄の、耐えに耐え、抑えに抑え
ていた思いの丈が、吐き出せる相手を見つけて、沸き立っていた。心の氷壁が、崩れ行く。
【葛ちゃんはちょっと運が悪かったね。……でももう、一生分のハズレをひいちゃったか
ら大丈夫だよ】
彼女の言葉に何の根拠もない事は悟れていた。何も根拠なくてもわたしを力づけたくて、
必死に発した想い迄も。言葉より言葉に込めた想いが心の氷壁を崩した。わたしは本当は
こうなる事を、この人に逢える日を、夢見て生き長らえて来たのかも。人嫌いの壁も突き
抜け踏み込んでくれる、愛しい人に逢う為に。
漸く見つけたたいせつな人だった。心底喪いたくないと想う人だった。若杉葛の全てを
かけて、この人の笑みを守りたく望み願った。
だからこの人の想い願いは踏み躙れなくて。
踏み躙ったのは己の憎悪や憤懣だったけど。
内に抑えた想いには嫉妬迄が含まれており。
桂おねーさんが失った記憶を戻し、蔵で倒れた昨日夕刻。かつて幼い桂おねーさんにノ
ゾミが為した所行が思い返されて、倒れる程の衝撃を招いた。それは悲哀を心痛を苦悩を
招き、今後も延々と招き続ける。パンドラの壺は開け放たれた。二度と蓋は締められない。
ノゾミを放逐できると思った。その結末に喝采を叫ぶ葛が心の大多数だった。烏月さん
やサクヤさんも、好んで受容した訳ではない。桂おねーさんの願いでも、ノゾミを傍に置
くオハシラ様の判断は甘すぎた。ここ迄害を為した鬼を、封じもせず生かす事は異常だっ
た。
桂おねーさんはノゾミの所行で深い傷を負っている。声高に言い募らなくても。その傷
に再度倒れた姿を見れば、ノゾミを受容できる筈がない。排除のみが答だった。なのに…。
オハシラ様の言い分は分ったけど。その答もまた桂おねーさんをたいせつに想う故だと
悟れたけど。ノゾミを傍に置き続ける結論に、わたしは得心行かなくて。理屈ではなかっ
た。わたしのたいせつな人を深く傷つけ悲しませ、尾花も傷つけた者への憤懣は抑えよう
がなく。
『因果応報……過ちや罪には、罰が要る…』
烏月さんが追う鬼の少年が、屋敷に近づき。
全員が駆け出す中、取り残されたわたしに。
その声は、沸々と湧き出す様に耳に囁いて。
『正当な怒りを叩き返す事に、躊躇いは要らない。……まして、その相手はあなたのたい
せつな人を脅かし悲しませ、今も倒れさせた根源……これ以上の悲劇を防ぐ為には……』
たいせつな者を傷つけ喪わされるその前に。たいせつな人の涙が零れるその前に。わた
しの憎しみを込められるならそれも幸い。与えられた痛みと屈辱を、共々この手で返せる
と。
「あなた達は鬼切部。鬼を斬るのはその役目。だから観月の民もオハシラ様も、ノゾミも
その手で切らなくては。切って守らなくては」
後から考えれば、思考も感情も誘導されていた。己が募らせていた想いだから、気づけ
なかったけど。いつの間にか右手は凶器を握り。子供でも間近で振り下ろせば、血肉迸ら
せる鏃だった。気付いた時には、桂おねーさんが休んでいた部屋に足を踏み入らせていて。
部屋の奥、桂おねーさんのいる方が赤く暗いのは夕闇の為か。耳に届くおねーさんの声
がなぜか聞き取れない。愛しい人の声なのに。今は唯胸に満ちた敵意を吐き出す方が優先
で。
部屋のこちら半分はオハシラ様の蒼い輝きに満ち。奥に向け語りかけているけど、やは
り意味は汲み取れず。思索が解け散ってゆく。その背に並んで左隣に排除すべき姉鬼の背
が。
それでだけ充分だった。己が為す事は1つ。
促される侭その背に鏃を振り下ろした瞬間。
【ノゾミ、退けなさいっ】
前触れもなく、赤い少女が突き飛ばされて。
目に飛び込んで来たのは、鮮やかな蒼一色。
その瞬間迄姉鬼がいた処に、姉鬼を突き飛ばした彼女の左の二の腕に、振り下ろした己
の鏃がざっくり刺さり、蒼い衣が朱に染まる。
【葛ちゃんっ……!】【若杉の、鬼切り頭】
桂おねーさんと姉鬼の悲鳴が同時に響き。
わたしは己が一体何を為したのか悟った。
指示を完遂した為に傀儡の糸もやや緩み。
想いを発散して理性を冷静さを取り戻せ。
わたしは漸く、己が犯した取り返しのつかない過ちを悟る。桂おねーさんの生命を脅か
す妹鬼に、ミカゲにわたしは操られて。その救出の為に妹鬼と対峙していたノゾミを傷つ
けよーと、刃を振るい。彼女を守り庇ったオハシラ様に、桂おねーさんのたいせつな人に、
この手で深傷を与えていた。あの重大局面で。
「ああ……そーですね。呪縛や傀儡の残滓と言うよりも、わたしは己の失態を恥じて…」
廊下に出ても人の動く物音も息遣いもない。
鈍痛は錯覚だ。オハシラ様の蒼い力で障りは全て除かれた。この心痛はその彼女を害し
た故の。敵に操られ、桂おねーさんを助けようとする味方を危うくさせた、己への慚愧だ。
昨日夕刻のその後は、わたしも全てを把握できてない。遠く薄れ行く意識の中で、激し
い想いのぶつかり合いは、何とか悟れたけど。果たして一体、誰がどーなったのだろう
…?
わたしが今尚生きている以上、妹鬼は撃破されたのか。烏月さんやサクヤさんは、鬼の
少年とどんな決着を迎えたのか。尾花は無事かな? 桂おねーさん達は? まさか朝だか
ら姿隠しただけで、わたしは敵でもないから捨て置かれただけで、妹鬼の全面勝利とか?
コドクの頃からの癖で、つい最悪の事態を想定してしまう。桂おねーさんにもしもの事
があった後に、何に備えても意味は薄いのに。彼女を喪った葛の人生に最早希望等ないの
に。独り生き残るのはもう大概にしたい。生きる目的のない人生なら、自ら断ってしまっ
ても。
纏い付く心の闇を、首を左右に振って追い払うけど。焦慮や不安は心の各所から黒く染
み出してきて。日頃好んでいた筈の孤独も静謐も、今は何の安らぎも与えてくれなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
尾花は一昨日夕刻前に、鬼の姉妹に瀕死の深手を負わされた。ミカゲと、今は桂おねー
さんのたいせつな人になったノゾミに。陽光も届かない森の暗がりで、彼女達はやや希薄
でも現身で顕れて。細いけど手足も断ち切れる程に強靱な紅い紐と、邪視の呪縛を扱って。
朧に揺らぐ姿は、可憐な少女2人だけど。
【主様のお導きね。頂きましょう、ミカゲ】
【はい……子狐、邪魔ですね。始末します】
尾花はわたしを守ろうと必死に抗ったけど。力の限り立ち向かったけど。妹鬼は表情も
変えぬ侭周囲に赤い紐を伸ばし。絡め取る動きから宙へ逃れた尾花へ生き物の様に網も飛
び。
【尾花ああぁぁぁ!】
白い毛に包まれた4本の足が、膝下から切断されて散って行く。血飛沫が草葉に飛んで、
悲鳴は響かず、胴体は茂みの向こうに消えて。わたしは助ける事も守る事も、守られ逃れ
て尾花の想いに応える事さえも、出来なかった。
わたしは姉鬼の呪縛で身動きできず、瞳も逸らせず。首筋に吸い付く姉鬼の為すが侭に
され、背に添う妹鬼の為すが侭にされ。肌を食い破られ血を吸われ、好い様に仇に貪られ。
即殺されなかったのは、日中彼女達の依代を持ち歩く、肉の体が必要だったからに過ぎぬ。
【ふふっ、震えている? 逃がさない。でも、私達の言いなりに大人しく従うなら、すぐ
には生命奪わないであげる。この子も、贄の血には及ばないけど、濃い血をしているわ
…】
【ううっ、尾花、おばな、おばなあぁっ…】
許せない。許せない。絶対に許せないっ!
あの恐怖が、あの無力感が、あの哀しみが、あの憤激が。心の内に堪って堪って溢れ出
て。昨日夕刻、己の意思でこの手が振り下ろした復仇の鏃は、取り返しの付かない結果を
招き。
桂おねーさんの生命が危うい緊急の時に。
わたしは己の憎悪に踊らされその妨げを。
今は味方であるノゾミを傷つけかけた上。
桂おねーさんのたいせつな人に害を為し。
「あなたが姉さまを庇うとは、意外でした」
妹鬼の静かな声は少しの驚きを宿しつつ。
表情には、自ら傷つき更なる劣勢を招いたオハシラ様への冷笑が。想いの侭に憎悪を導
かれ操られ踊らされたわたしへの侮蔑が窺え。
無表情は着実に優位を重ねる満足に満ち。
「姉さまに注ぎ込もうとした私の力、主さまへの想い、赤い力の結晶です。姉さまに及ぼ
して想いを塗り替え、こちら側へ戻す積りだったのですが。でもまあ良い。あなたにはそ
れは相反する力として働き内から身を灼く」
大量の濃い贄の血を取り込み、陽の下で揺らがぬ濃い現身を持てたオハシラ様も、本質
は霊体で。鬼の朱とぶつかれば、互いを燃やし滅ぼし合う。鬼の鏃が食い込めば、身の外
で蝶や蒼い力で防御相殺するのとは訳が違う。想いの核を為す現身を異物に内から灼かれ
る苦痛は想像を絶する。桂おねーさんを捉えられて、戦って助け出さねばならない非常時
に。
「突き刺さって食い込んで、その侭同化する作りです。あなたに入り込んで燃え尽きる迄、
中を灼き続けるでしょう。身の外で防ぐのと違い、内に入られると相殺以外に術がない」
あなたの腕一本位は持って行けそうですね。
桂おねーさんを紅い領域に捉えて絶対優位を保ち。最大戦力であるオハシラ様に、損傷
なく深傷を与え優位を重ね。主の分霊は百戦錬磨で。そして幾重の失態を犯したわたしは、
弾かれ突き放され見放されるべき存在だった。
でもオハシラ様の柔らかな肌身の感触は。
害を為した若杉葛を強く確かに懐に抱き。
弾きも突き放しも見放しもせず頬合わせ。
その蒼い力は癒しとしてこの身に注がれ。
わたしの内に浸透した鬼の力を拭い去り。
己の癒しより己を傷つけた者を優先して!
わたしを抱き留める彼女に添ったノゾミが。
蒼い衣の左二の腕に両手を伸ばし握るけど。
「抜けない……!」「良いわ、ノゾミ」
傍のわたしにも見えた。鏃はオハシラ様の衣の蒼に細腕に、生き物の如く自ら潜り行く。
誘導された葛の憎悪も込めて鮮血を噴きつつ。己の憎悪がこの人を染め変えて行く気がし
て。わたしの毒が彼女を塗り替えて行く気がして。気高く美しい物を穢した罪の意識に心
が竦み。
その鏃を彼女は止められないと言うよりも、止めようとせず。この身に肌身に蒼い癒し
を及ぼす方を優先して。あり得ない選択だった。
『害したわたしを癒すより、優先すべき事があるでしょーに。甘すぎます、甘すぎます』
桂おねーさんを助け出す為にも、彼女は早く鏃を引き抜き、痛手を軽減せねばならない
のに。傷口に蒼い力を集約させ、鏃に深く入られ抉られる事を防ぎ止めねばならないのに。
妹鬼がその気で用意した鏃なら、簡単に抜けないだろーけど。彼女の応対もそれを承知
でだろーけど。故にわたし等癒している場合ではなかった。妹鬼の朱を断たれてもわたし
は全く無力だ。ノゾミを助けて彼女が傷つくのは採算割れだけど。葛は現状、それ以下だ。
でもこの人はまず自身を傷つけた葛を案じ。
黒い双眸は間近で全て承知で尚優しく瞬き。
発される声は戦場に不似合いな程穏やかで。
「あなたは良く抗ったわ。わたしが気付く迄、矢尻を振り下ろすのを堪えてくれた。懸命
に、頭の中のミカゲと戦ってくれた。あなたのお陰で、ノゾミは傷つかなかった。有り難
う」
何でわたしを責めないのか。嫌わず憎まず突き放さないのか。この愚行は非難に値する。
害された側が抱く者ではない。わたしはコドクの最終勝者で、触るだけで手が腐る毒虫だ。
それを実証し、桂おねーさんのたいせつなノゾミを害しようとした葛を。その想いを踏み
躙りあなたを傷つけた若杉葛を。どうして!
『どうして迷いなく抱き留められるのです?
桂おねーさんもこの人も、羽藤の血筋は』
この人はノゾミの無事に安堵して、わたしの無事に安堵して。心底愛して抱き留め包み。
突き刺さる鬼の鏃や激甚な苦痛よりも優先に。桂おねーさんに抱かれた前夜を彷彿とさせ
た。彼女の愚かな迄の優しさ甘さはこの人から…。
「うっ……ぅううっ……お、おねーさん…」
この胸や喉が詰まったのは錯覚ではない。
想定を遙かに超えた底知れぬ強い情愛に。
わたしの心の枷は2日連続で抜け落ちて。
この想いも瞳の滴も弾けて溢れ零れ出た。
そんなわたしに蒼い光を帯びた慈愛の人は。
激甚な苦痛を露程も感じさせずに微笑んで。
「大丈夫。わたしは、全部受け止められる。
今は眠りなさい。後はわたし達に任せて」
拾年前主の分霊は白花ちゃんの怒りに乗じ、身体を乗っ取って桂ちゃんを殺めようとし
た。あの時は叔父さんがその身体で立ち塞がった。その生命で桂ちゃんを守り抜いた。あ
の様に。
「もう失わせない。わたしが必ず守るから」
優しい声に促され、瞼が意識が落ちて行く。
傀儡の術の影響で心身が疲弊している上に。
オハシラ様は疲れを拭う眠りや休息を促し。
許された安堵で緊張の糸が切れたわたしは。
滑らかな繊手にこの身は横たえさせられて。
蒼い光の蝶を数羽わたしの守りに滞空させ。
彼女は更に劣勢な戦いに、桂おねーさんを紅い領域に捉えた妹鬼に、向き合って。戦い
に臨む凛々しい容貌は、一瞬の怯みも見せず。この人は憎悪や恨みで戦いを為すのではな
い。憎くない者も戦い滅ぼす若杉の在り方とは似て非なる、わたしには倣う事も叶わぬ強
い人。
「そう言えば、昨夜夕刻の戦いは、結末を確かめてなかったです……夜が明けた今も尚」
状況打開の目処は見えてなかった。力量は尚オハシラ様の方が上だったけど、妹鬼は桂
おねーさんを即座に殺められた。中庭の烏月さん達がどんな結末を迎えても、意味は薄い。
桂おねーさんを守れるか否かが帰趨を決める。
その桂おねーさんを抑えられ。ノゾミは妹鬼の無数の分身(わけみ)の1つと互角位で。
最大戦力であるオハシラ様が傷つき疲弊して。左腕に食い込んだ鏃は順調に激痛と消耗を
彼女に強いて行く。時間はミカゲの味方だった。
おねーさんを囚われて手出しさえも憚られ。幾ら蒼い蝶を飛ばしても、紅い紐と紅い濃
霧に包まれた妹鬼の領域は守りが堅く。手も足も出せぬ上、敵方はやりたい放題好き放題
で。
客観的に見て形勢は絶望的だった。桂おねーさんを妹鬼が手放す筈なく、紅い紐を当て
れば守る術なくその生命は喪われる。彼女が欲しいのはおねーさんの生命ではなく鮮血だ。
桂おねーさんに残る血潮全てを得れば妹鬼は、オハシラ様も凌ぐ力を得て、単独で主の封
じも解ける様になり、わたし達を皆殺し出来る。
憶えている昨日夕刻が今の情景に繋らない。
誰の動く音も気配もない沈黙は心を焦がし。
ノゾミは陽光の下では出現できないだろーけど。桂おねーさんはともかく、サクヤさん
や烏月さん達は、朝寝坊とは反対属性の筈だ。靴の有無を確かめよーと歩み出した時、そ
の玄関に外から近づいてくる足音が微かに聞え。
条件反射で一度、反対側に視線を送って逃げ道を確かめてから、三和土へ様子を窺いに。
外から戸を開け放って、至近に現れたのは。
わたしが求め願い想い望む、たいせつな人。
「葛ちゃん! もう起きても大丈夫なの?」
「体調は良さそうね。よく眠れたかしら…」
桂おねーさんとオハシラ様は穏やかに笑み。即座にわたしに手を差し伸べて。2人とも
何の躊躇いもなく、わたしを抱き留め受容して。彼女達の肌の感触は、共に柔らかで心地
良い。そしてこの2人が穏やかに平常なら、安心だ。
「桂おねーさん、ユメイおねーさん。無事で良かったです。本当に、無事で良かった…」
このわたしを、尚忌み嫌う事なく受容して。彼女達に禍を招き傷を与えた若杉葛を。今
後も害になりうる毒虫を。この無条件の情愛が、陽の照す如く降り注ぐ今は、心の底から
幸せで。久方ぶりにわたしは涙を溢れさせていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
何分位、3人で身を添わせ合っていたのか。
わたしが傷つけた左二の腕も完治した様だ。
妹鬼に己の憎悪を操られ、その滑らかな腕にわたしは鬼の鏃を突き刺し。オハシラ様の
蒼い力と相反する故に、食い込めば傷つく以上に燃え尽きる迄身を灼き続ける激甚な悪意。
それを注いだわたしを2人は、分って抱き留め肌身合わせ、想いを重ね合わせてくれて。
「昨夜はあの後も色々あったんだよ、葛ちゃん……」「詳しいお話しは中でしましょう」
何をどー話して良いか惑う桂おねーさんに。実年齢は拾歳年上だけど、外見は女子高生
の桂おねーさんと同世代の従姉が、静かに促す。2人は山の中腹の、ご神木からの帰りの
様で。
行ったのは夜か。オハシラ様が添っても尚、鬼の脅威を受け続けた桂おねーさんを、大
けがや失血を重ね疲労も溜まっていた女の子を、夜に連れ出さねばならない事情があった
のか。
「起きてきたのは葛ちゃんだけ?」「はい」
おねーさんの言葉から察するに、サクヤさんも烏月さんも屋内か。そー言えば尾花は?
蒼い衣の人はこの顔色で問を察した様で、
「みんな、まだ起き出せる状態ではないわ。
尾花ちゃんも含めて、もう暫く安静が…」
その声が終らない内に、廊下を覗き込んだ桂おねーさんの、弾ける様な声が届いてきて、
「尾花ちゃん、ただいま。大丈夫だった?」
わたしに付いて来たのか、桂おねーさん達を迎えに来たのか。廊下に子狐は現れており。
桂おねーさんは、屈んで目線を尾花に合わせ、
「動ける様になってよかった。……昨日はわたしを守る為に、頑張ってくれてありがとう。
危険や痛い思いをさせちゃって、ごめんね」
尾花も昨日夕刻、妹鬼から桂おねーさんを守る為に、赤い領域に飛び込んだのだ。オハ
シラ様の癒しで落された四肢は復し終えたけど、失血と疲労で数日は絶対安静だったのに。
「……」「……尾花ちゃん?」「尾花……」
尾花は桂おねーさんの笑顔やお礼にも、特段嬉しそーでもない感じで、ぷいと顔を背け、
わたしの寝ていた部屋に去る。関りたくないから付いてくるなと気怠げな背が語っていた。
「我が相棒ながら、本当に愛想のない……」
追いかける事を躊躇って、後ろ姿を見送る桂おねーさんに、慰めよーと話しかけるのに、
「尾花ちゃんも疲れ切っているの。本当は起きて歩き出すだけでも大変だった筈よ。桂ち
ゃんを出迎えに、葛ちゃんの無事を確かめに、起きてここ迄出てきてくれた。昨日も一昨
日も葛ちゃんや桂ちゃんを守って必死に戦った、優しく強く賢い子。休ませてあげましょ
う」
彼女は尾花の現状もわたし以上にお見通し。
桂おねーさんの後ろ姿がうんと頷いた時に。
廊下を曲る尾花の横顔も微かに頷いた様な。
厨房迄付き従ったわたしは、桂おねーさんと椅子に座し。居間で待っていてと従姉は言
ったけど。おねーさんは親鳥に付き従う雛の様に、離れたくないと付き纏い。わたしもお
ねーさんに付き纏い。朝食作りを2人見守る。
烏月さんもサクヤさんも別室で休んでいて、生命に別状はない様で。戦える状態ではな
かったけど、もう戦う必要も敵も消失したから。
その凶悪な敵を鬼を撃退した、こちらも人を外れた存在であるオハシラ様が。陽光の下、
厨房で動く姿には違和感がなく。包丁を握り鍋を掴み。日常の主婦の作業をこなす姿は清
楚に可憐で、鬼と言われても実感が湧かない。
桂おねーさんもわたしもお手伝いを申し出たけど、手伝う迄もないとやんわり断られた。
確かに人数も使う食材も少なく調理も簡素で。彼女の慣れた手つきに掛ればあっという間
だ。不慣れな者が首を挟めば逆に足手纏いな程で。
あの鬼の少年は、どーなったのか? 一度口に上らせた処、蒼い衣の人はやや哀しげに、
「……心配頂いて有り難う。彼は今、ご神木にいます。暫くご飯の心配は要りません…」
手空きになった桂おねーさんは、同じく手空きなわたしに昨夜あの後、わたしが気絶し
た後の、嵐の様な一夜の概要を話してくれた。
オハシラ様がミカゲを倒し桂おねーさんを救い。白花さんは鬼を宿しつつ、危険を報せ
に助けに来たのだ。彼を敵と見なす烏月さんの刃を、サクヤさんが身に受けて諍いを止め。
オハシラ様の癒しで生命は繋げたけど本当は致命の深傷で。尚昏睡状態なのも無理はない。
桂おねーさんが寝静まった夜更け、彼はオハシラ様に立会を頼み、烏月さんを近くの河
原に呼び出して、一対一の果たし合いを望み。
彼は桂おねーさんの双子の兄で。拾年前彼女がノゾミ達を鏡から呼び出し、主の封じを
解れさせた夜。ユメイおねーさんが肉の体も人の生も死も捧げ喪い、封じの要になって主
を繋ぎ止めた夜。封じの隙間から漏れ出た主の分霊を宿していた。己の手足が為す殺戮に
震える彼に、彼の討伐に赴いた烏月さんの兄、千羽党の先代鬼切り役・明良さんは道を示
し。
『君が死より辛い修行に取り組めば、誰も殺さずに済むかも知れない。ここで楽になるか、
鬼を切る為の修行に取り組むかを選べ』と…。
彼は明良さんについて鬼切りの修行に励み。
全てに決着をつける為にこの地に戻り来た。
でも、その課程で主の分霊が暴走した彼は、鬼切部に生存を知られ。明良さんは鬼切り
役を解任された末に烏月さんに切られて絶命し。敬愛する兄が破滅に陥ったのは彼の所為
だと、烏月さんは彼を切る為にここへ来た。そして。
白花さんは千羽の奥義【鬼切り】を烏月さんに伝える為に。彼女を打ち倒し、ご神木と
お役目からユメイおねーさんを解き放つ為に。切る為に鬼神を解き放とうと、烏月さんと
戦って勝利した。外傷はないけど鬼切りの効果で烏月さんは、数日は意識が戻らないと言
う。
でも、気絶した烏月さんを連れ帰った深夜、異常は既に進行していた。桂おねーさんは
ミカゲの最期の執念で、暗闇の繭に心囚われて。
その侭では桂おねーさんは意識を戻せずに、やがて衰弱死に至る。ノゾミやオハシラ様
の夢に入り込む力も拒まれ弾かれ。最も近しい双子の兄が、彼女の心に入り込む他に手段
はなく。でも、鬼を内に抱えた彼が体を空けるという事は、その体に鬼だけ残るという事
で。
オハシラ様の力が最大になるご神木の下で、桂おねーさんは暗闇の繭を脱したけど。そ
こにいたのは双子の兄ではなく主の分霊だった。ノゾミは元々力量不足な上に、疲弊して
おり。サクヤさんや烏月さんの助けも望めぬ状態で。
桂おねーさんの血を欲した主の分霊に対し、
ユメイおねーさんが戦い守る他に術はなく。
凄絶な戦いの末、オハシラ様の蒼い輝きで、彼の内に宿る主の分霊を、鬼の赤い力を相
殺して焼き尽くしたけど。でもそれは、彼女の霊体の核を為す、想いの力を削り注ぐ行い
で。
力を使い果たし還りかけた彼女を現世に引き留めたのは、桂おねーさんの涙とノゾミの
癒しだった。3人は想いと生命を重ね合わせ補い合って、死も生も越えて今を掴み取った。
白花さんはユメイおねーさんから封じの要を奪ってご神木に宿り。今の彼女は昨日迄の
通り、本質は霊体でも陽光の下で動き回れる濃い現身だけど。彼にその使命も戦場も奪わ
れて戻れなくなって。ノゾミは青珠に宿っている。桂おねーさんは昨日迄より元気な位だ。
「うん。体が軽いって言うか、胸が爽やかって言うか。むしろ普段より調子が良いのっ」
でもそれは一時的な現象だ。桂おねーさんも分っている。彼女の失血は致死量を遙かに
超えている。通常なら死するべき身を保たせているのは、オハシラ様が千羽の業を盗用し、
おねーさんに『生気の前借り』をさせた故で。
意識のない桂おねーさんにそれをさせる為、彼女はノゾミの傀儡の技も盗用しその心身
を操っていた。それもおねーさんに疲労を残す。幾重に無理を重ねた訳で、反動や代償は
不可避だった。今は生気の前借りで元気そーでも、じきその効果が切れ、種々の反動が身
を襲う。
だから蒼い衣の美しい人が、今望むのは、
「ご飯を食べてしっかり休んで」「はぁい」
食事と睡眠か。健全な方法で身を保てる処迄、早く戻したいと。桂おねーさんの皿のほ
うれん草の盛りが違うのは気の所為ではない。
「葛ちゃんも昨日はお夕飯を食べてないから、お腹すいているでしょう?」「あ、はい
…」
人の手が加わった物は食べない基本方針で、生き延びて来たわたしだけど。オハシラ様
に悪意は窺えないし、作業を傍で見せて貰って安全は確かめた。彼女はその嫌疑を払拭す
る為に、敢て傍で見守られる事を選んだのかも。
ノゾミは顕れられないし、烏月さん達は未だ起きられないので。朝食はわたし達3人で。
「「「いただきます」」」3人同時に唱和し。
未だ涼やかな空気の中で一緒に箸を動かし。
昨夜の展開を、桂おねーさんは時折講談調を交えつつ、誰かの仕草の物まねも交えつつ。
「……そこでね、お姉ちゃんが主の分霊に左手をこう、すっと伸ばして『それだけはさせ
ません』って。凛々しく力強かったんだよ」
事実だから否定しないけど、強さを誇る性分ではない彼女は恥ずかしそう。慎ましやか
な仕草が幸せを実感させる。この人は元々戦う人ではない。厨房や食卓こそが良く似合う。
「ノゾミちゃんも、疲れ果てて青珠に戻った直後なのに、わたしを守る為に顕れてくれて。
『……桂、私とゆめいがあなたを守るから』って緊迫した顔で強く確かに言ってくれて」
烏月さんと白花お兄ちゃんの立ち合いもね、緊張感で周囲の空気迄ぴりぴりする感じで
…。
「って、あれ? わたし、昨日深夜の烏月さんの立ち合いや、白花お兄ちゃんの鬼切りを
揮う瞬間は、見てない筈なのに。あれれ?」
桂おねーさんが見てきた様に語る自身に首を傾げて考え込むのに、間近の蒼い衣の人が、
「生命も想いも重ね合わせてしまった為ね」
主の分霊と相殺し合って還りかけたオハシラ様を救う為に、桂おねーさんとノゾミは血
と力を持ち寄って、互いの生命を繋ぎ止めた。結果3人は心も分ち合い、昨夜の記憶も一
部流入し合った様で。桂おねーさんは直接見てない深夜の立ち合いも、記憶に刻まれた様
で。
「じゃあ、ノゾミちゃんも」「多分そうね」
「この世にはそーゆー事もあるのでしょー」
わたしが時折短い問を挟み、オハシラ様が補足しつつ、おねーさんの語りが暫く続く中。
「あ、葛ちゃん。ほっぺたに米粒」「へ?」
不意に伸びてきた柔らかな右手が、この左頬に軽く触れ。気付いた時は桂おねーさんの
口の中にそれは入っており。生き生きした語りと、愛らしい身振り手振りに心を奪われた。
「すみませんです。少し、恥ずかしーです」
恥じらいは桂おねーさんにも伝播した様で。
今更の様に頬を染めて俯く姿は可愛すぎて。
それは満たされた食卓だった。食材は決して豊かでなかったけど。昨日昼以降ほぼ何も
口にしてない『空腹は最高の調味料』効果以上に。たいせつな人と憂いなく語り笑い合い、
楽しく過ごせるひとときは、得がたい宝物だ。
特に桂おねーさんは、昨日ノゾミに刃を向けて、たいせつな従姉を傷つけたわたしを嫌
わず拒まず。この毒虫を尚受け入れてくれて。その事実が、例えよーもなく嬉しく有り難
く。最愛の女人と近しく触れ合い語らうその様に。胸の奥に微かに針を刺した様な痛みを
感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「わたしは洗い物の後で、サクヤさんの様子をみるから。尾花ちゃんのお見舞をお願い」
「はあぁい」「尾花の事はお任せ下さいー」
オハシラ様は、やはり桂おねーさんを案じてなのか、皿洗いの手伝いはさせず。代りに
わたし達に尾花の朝食を委ねて、見舞を頼み。未だ元気溢れる桂おねーさんと尾花を訪ね
る。
窓から差し込む夏の日差しは強く眩しく。
車も通らない田舎の屋敷は静謐に包まれ。
耳に届くは草木の風に靡く音と鳥の羽音。
でもさっき迄の独り残された寂寞とは違い。傍にたいせつな人がいる。わたしをたいせ
つに想ってくれて、わたしが心底愛しく想う人がいる。同じ静寂でも独りの時とそうでな
い時とでは、受ける印象はここ迄違う物なのか。
「尾花ちゃん……?」「尾花、いますか?」
畳部屋の隅で重ねた座布団に座した尾花は、わたし達の来訪にも目を瞑った侭身動きせ
ず。
「眠っているのかな?」「尻尾を引っ張れば目を醒ましますよ。やってみましょーか?」
いいよいいよ。桂おねーさんは優しくて。
「わたしや葛ちゃんを守る為に、散々大変な想いを経たんだし。折角気持よさそうに眠っ
ているなら、ご飯を置いて引き上げようよ」
尾花の正面間近に餌を乗せた皿を置いた時。
声に応える様に尻尾だけがふさっと動いて。
瞳の奥で星が輝く音が聞えた様な気がした。
「……尾花ちゃん、起きていたんだー……」
『ううっ、もっとうにゃうにゃ触りたいな』
言葉に出す迄もなくその気持は見えたけど。
尾花は今『構わないでくれ』モードだった。
「朝ご飯だよー。食べて元気になってねー」
「あ、でもですね。桂おねーさん」「…?」
無造作に伸びる手を止めに声を掛けたけど、遅かった。桂おねーさんは右手をふさふさ
の頭に、間近に伸ばした状態でわたしを向いて。
「え……?」『ああ、間に合わなかったか』
尾花は既にすたんと後ろに飛んで、距離を大きく離して着地していた。桂おねーさんは
反射的に引っ込めた右手の指先へ視線を落し。生命線の皺に溜まる様に、朱が広がってい
た。
「たはー、やっぱりです。尾花ってかなり人見知りするタイプなんですよ」
すいませんです、桂おねーさん。
おねーさんも漸く噛まれたと気付いた様で。
感じた痛みに戸惑いつつも尾花に向き直り。
「ううん、こっちこそごめんね」
「かっ、顔を上げてくださーい」
桂おねーさんは悪くないです!
「追い出さないで下さっただけで、寝る時に足を向けられない大家様万々歳なのに。散々
守って許して頂いて、店子の飼い狐に手を噛まれるなんて。貧乏くじもいーとこですよ」
尾花に向き直り、握った拳を振り上げる。
桂おねーさんは何度も大量失血を繰り返し、今も瀕死の重態にある。オハシラ様の措置
は緊急避難だ。表向きは元気そーに見えるけど。血の一滴、掠り傷一つが死に直結しかね
ない。これで容態が急変しよー物なら例え尾花でも。
「このばか狐ー! こんこんちきー! やるなら鶴亀見習って、きちんと恩返ししろー」
木魚を叩いた様な音がした。拳にも結構な痛みが返る。でも尾花が逃げずに受けたのも、
拙いと思っている故か。尾花はわたしの仕打ちに、なぜか逃げず防がず反撃もしないけど。
「恩を仇で返すなんて、畜生にも劣る悪行だぁ! 尾花なんて狐以下のレッサーフォック
スだぁ! 白いからっていい気になるなぁ」
『むちゃくちゃ言っているなあ、葛ちゃん』
むしろ、それを見守る桂おねーさんの方が落ち着いていて。目が口程に物を言ってます。
「やめて、やめて。……びっくりしただけで、そんなに痛いわけじゃないんだから……」
見た感じ出血もごく微量だし、桂おねーさんに特段の変調は見られない。従妹が危うく
なれば飛び出してくるに違いない人も、呑気に台所で水音や食器の音を響かせているし…。
「そーなんですか?」「うん、平気」
気になる位には痛むけど、泣く程痛い傷ではないらしい。わたしを安心させよーと笑っ
て見せてくれるので。わたしも応えて腕を下ろす事にして。生命拾いしましたねえ、尾花。
「ごめんね、尾花ちゃん。高い視点からいきなりあんな事されたら、びっくりするよね」
さっきの様に屈み込んで視線を合わせる事もせず。可愛さに誘われ無造作に上から手を
伸ばした。それが小さな生き物や子供にどれ程恐ろしく映るかを、小柄な自分は今迄散々
感じてきたのに。桂おねーさんはそう言って。
「気持が落ち着いたら、朝ご飯を食べてね」
少し距離を置いて尾花に正座し語りかけ。
尻尾で頭を撫でていた尾花は、動きを止めていた。考え込む様な感じに見えなくもない。
「桂おねーさん、ホントに大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。こんなの舐めたら治っちゃうよ。ね?」
桂おねーさんが、尾花に同意を求めると。
尾花はとっとっとっと、無言の小走りで桂おねーさんに走り寄ってきて。戸惑う桂おね
ーさんの目の前まで来てもその動きを止めず、
「えっ? えっ? ええっ!?」
止まらずにジャンプした。思わず目を瞑り両手で顔を庇う桂おねーさんの、頭上に尾花
は飛び乗って。体重は軽いし力を込めた蹴り足ではないので、痛みはない筈だ。桂おねー
さんが安心して目を開き、両手を顔から外す。尾花は乗った頭上で器用にくるっと回れ右
し。
「うひゃっ?」気の抜けた悲鳴が可愛いです。
白いふさふさに首筋を撫でられ、くすぐったさに首を竦める。かなり不安定な足場でも、
尾花は平気な足取りで、桂おねーさんの頭から肩、肩から腕へと移動して、最後には彼女
の右掌に納まって。桂おねーさんは為される侭に興味深げに、尾花の動きを見守っている。
「……あれ? あれ? あのー?」
先程噛み付いた指を舐めていた。
「おねーさん、気に入られたみたいですね」
「尾花ちゃんに?」「はい」
「自分から人に近づく事だって滅多にないんですよ。一度噛み付いた相手に、謝られたか
らと言って、ここ迄心開くのは珍しいです」
「へー、そうなんだ……」
あはっ、ちょっとくすぐったいよ。
わたしはおねーさんの仕草が愛らしいです。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
桂おねーさんがそう言うと、するっとその手から飛び降りて、さっき置いた朝ご飯を食
べ始めた。尾花なりに気を遣っていたらしい。
「尾花ちゃんって本当に賢いんだね。わたしの言葉も、聞いて分っているみたいだし…」
「そー言えばそーですね。まあその辺は、わたしに似たとゆーことで」
「あはは。それ、自分で言うかなー?」
「言うべき事は言いますよー。謙譲の美徳が通じにくい世の中ですから……」
とりとめもない事を喋りつつ、尾花の食事を2人で眺め。腹が満ち、座布団の上で再び
目を瞑り『構わないでくれ』モードに入る尾花の前から皿を下げ。尾花も今暫くは桂おね
ーさんと同じく、食事と休息が仕事の状態か。
一つ任務を完遂して一段落するとやはり。
桂おねーさんは従姉の動向を気に掛けた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
追随して戻り来た厨房は既に無人だった。
洗い物は終った様だけど。オハシラ様は?
桂おねーさんが親鳥からはぐれた雛の様にそわそわし始める。数拾分も離れてないのに。
まぁ、拾年別れ別れだった上、漸く巡り逢えたこの数日も、何度も今生の別れになりかけ
たと言う。視界の内に手の届く処にいないと、安心できぬ心情は幾分理解できるけど。張
り付いて離れない程の渇仰は、少し羨ましく…。
向うの襖が少し開いていると、桂おねーさんに伝えるのを暫く待ちました。彼女はおね
ーさんが探しに掛ると察し『少し探せば気付く』位の足跡を残したのか。わたしが羨んで
教えるのを暫く待つ事迄計算ずくかも。わたしの羨み迄見通され、全て掌の上の様な気が。
ちゃぶ台の青珠が何かを語る様に光っていた。
「柚明おねぇ……わ」「これは、まあ何と」
それは果たして見て良かったのかどーか。
襖を少し開け首を挟んでからわたし達は。
爽やかな朝にしては相当濃密な交わりに。
言葉も毒気も抜かれて唯呆然と眺め見る。
彼女はカーテンを閉じた暗室の中、オハシラ様の衣を傍に脱ぎ置き。蒼い輝きを身に纏
わせ、布団の中で恐らく全裸のサクヤさんを抱き締め肌を重ね。いずれ劣らぬ美人2人が、
あたかも愛し合う如く、肉と肌を密着させて。
こっち側が頭なので、2人の肩口や胸元は布団で隠しきれず、素肌が窺え。というより
視線を釘付けにされた。これは正視してはイケナイのではと感じつつ、磁力に縛られた様
に瞳を外す事が出来ない。窘める気配もない事で桂おねーさんも同じ状態にあると悟れた。
「んんっ……ぁっ……」「んっ……」
サクヤさんは全く意識がない様だ。両の瞳を閉じた侭その美貌はやや辛そうな無表情で。
相方に抱かれる侭に仰向けに全てを受け入れ。いつも力強いサクヤさんが、無防備に無意
識に横たわる様はそれだけで扇情的だったけど。
オハシラ様はその細身をサクヤさんに絡みつかせ。両の腕をその背に回し、柔肌に吸い
付く様に己を重ね、頬を合わせ。その美貌がうっとりと満たされて見えるのは気の所為か。
覆い被さっても身が細いので、殆ど負荷にならない印象を受ける。意識して肌身を摺り
合わせる様は背徳的で。潤んだ黒い双眸も静かに端正な表情も、見ている者迄蕩かす様で。
その肩口や首筋は、布団の隙間からわたし達の視界に入っている。サクヤさんの豊満な
両胸も、オハシラ様の桂おねーさんよりは大きいけど、大きすぎない程で形の良い両胸も。
双方柔らかそーで、掴んでみたくさせられる。この角度と位置では、露出の大きいドレス
の様に、乳房の上半分が見える程度なのだけど。
双方共に柔らかな肉感が押し合い潰し合う様は、圧巻というか濃密と言うか。理性も良
識も吹き飛ばす破壊力に、暫く2人声もなく。
「桂ちゃん……葛ちゃん」「「は、はい」」
柔らかな声音に、2人揃って怖じ気づく。
見てはならぬとの約束を破り、鬼婆の包丁を研ぐ様を覗き見て、見た事を気付かれた旅
人はこんな気分なのか。逃げ出す気力も問い返す勇気もなく、視線も逸らせぬわたし達に、
「ごめんなさいね。もう少し、待っていて」
「いえ、こちらこそ」「お気になさらず…」
見ないでとか、見たのかとか。そう言う事は口の端にも乗せず。見られていると承知で
オハシラ様は平静で。唇をサクヤさんの頬に当て、瞳も間近な素肌に向けた侭。その方が
助かった。この状態で正視されたら逆に、わたし達が何をどー応えて良いか分らなかった。
2人で居間に戻ったのは、一体何分の後だっただろう。結局ほぼ最後迄、彼女達の交わ
りを間近でまじまじと凝視した。彼女は見られていると承知で、窘めも怒りも叱りもせず。
動揺もなく心を込めてサクヤさんを抱き続け。
桂おねーさんもわたしも、彼女が充分にサクヤさんを抱き終え、離れようとした時点で
漸く、慌てて隣室に退散した。彼女が身を起こし布団をはぐればその瞬間、わたし達は彼
女の全裸を前にする。見ないでと、見ないようにと、注意されるより早く、離れなければ。
何かのきっかけがなければ、身動きできなかった。美しさと濃密さに圧倒されて、2人
揃って冷やかし一つ挟めなかった。今更逃げても意味薄いけど、最後迄覗き見し続けてそ
の侭向き合う事は流石に後ろめたく。桂おねーさんとちゃぶ台に並んで正座で彼女を待つ。
「ごめんなさいね、見苦しい処を見せて…」
蒼い衣を纏い直したオハシラ様は、わたし達への窘めや叱責もなく。目の毒になったと
申し訳なさそうに頭を下げ。深傷を負ったサクヤさんを肌身に添って癒していた様だけど。
どの様に弁明し謝ろうか、脳内で種々予行演習していたわたしは、肩透かしを食らった。
彼女が謝る必要はどこにも1つも存在しない。不躾や無遠慮を諭され窘められ叱られる事
はあれど。応対の間違いを指摘しよーとした時。
「う、ううん。気にしないで……少しびっくりしたけど、お姉ちゃんの癒しの力は肌身に
分っているし、サクヤさんも酷い状態だし」
この人には、この状況では、この間柄では、彼女の応対は間違いではなかったと言う事
か。
応えつつ、桂おねーさんの頬が赤く染まる。それはついさっきの絵図を思い返してなの
か、彼女自身がオハシラ様に癒され治された時を思い浮べてなのか。声音は段々先細り。
そこでわたしも漸く桂おねーさんの心情を察せた。
「わたしは、気にしてないから、大丈夫…」
頭では分っているとの答に、賢い従姉は。
桂おねーさんの微かな羨みも、お見通し。
謝ると言うよりその仕草はあやすに近く。
その左隣に添って手を握り瞳を覗き込み。
「桂ちゃん。……本当に、ごめんなさい…」
理屈ではなかった。この人は桂おねーさんの誤解や嫉妬を招いた事を謝っている。この
謝りは近しく触れ合う口実で、心の蟠りを除く為で。実は桂おねーさんの欠乏を愛で満た
す行いで。教え諭し叱るのではなく、幼子の我が侭を受け入れる様な、信じられない甘さ。
オハシラ様は分っている。桂おねーさんが理屈でサクヤさんの癒しを了承しつつ、その
密な触れ合いに心平静でいられぬ事を。既に了承済の事情を諭し窘め叱っても意味薄いと。
それで尚騒ぐ心を鎮めるのは、理屈ではなく心情や感触だと。肌身に触れて、間近に見つ
め合い、優しい言葉で満たされなさを補って。ここにわたしの視線がなければ、2人は抱
き合って頬合わせ、唇繋げていたかも知れない。
もしやわたし、邪魔者だったでしょーか?
「葛ちゃんにも不快な思いをさせて、ごめんなさいね」「いーえ、お気になさらず。こっ
ちこそ眼福で、いー目の保養になりました」
その後で蒼い衣の人は、わたしにも柔らかに頭を下げ。必要なく謝られたわたしは、謝
るべきを謝らず許しを出す以上に、彼女の羞恥をつついてみた。見ていましたと応える事
で、見られていたと思い起こさせ。本当に平静に心乱さぬ人なので。綻びを探ってみたく。
「つ、葛ちゃんっ。あれはね、サクヤさんがおお、大けがを負ったから仕方なくでね…」
でも入れ食いに引っ掛ったのは、標的ではなくその近親者で。耳迄真っ赤に染めながら、
「お姉ちゃんの癒しの力は、葛ちゃんも知っているでしょう? わたしの大けがも治して
くれたから。昼は蒼い力も外に出せないから、サクヤさんを治すには、触れて注ぐ必要
が」
決して淫らな行いじゃないんだよ。大人同士で肌身を合わせる様は、一見衝撃的だけど。
他人の為の弁明か、己の言い訳か分らない。焦る様も愛らしいので、暫くフォローしな
いけど。オハシラ様は従妹の勢いに取り残されて静かにその動向を眺め。こちらは思惑外
れ。
「サクヤさんも、柚明お姉ちゃんも昔から」
羽様のお屋敷で家族の様に暮らしていたの。
大事に想い合っていた仲だから出来た訳で。
「決してそう言う関係では、ないんだよ…」
唯その弁明は、桂おねーさんがあの絡みをどう見ていたか明かす以上に。当事者ではな
い彼女が、サクヤさんとオハシラ様の関係をこーだと決めて、他者に納得を求める所作は。
幾ら近親でも踏み込み難い危険水域に思えて。
「葛ちゃんもケガした時や熱出た時に、お母さんに抱き留めて貰った事が、あるでしょう。
それに似た感じ。お姉ちゃんはわたしも抱き留めて治してくれたし、ノゾミちゃんも…」
「わたしはそんな事された経験ないですから良く分りませんけど、やっぱり少々違う趣な
のではないでしょーか?」
今度の問は桂おねーさんではなく従姉へと。
視線を向けると彼女は静かな正視で頷いて。
「そうね……。肌身を添わせたのは癒しを注ぐ為だけど。葛ちゃんや桂ちゃんにそう見え
て無理はないわ。愛しい想いを込めたから」
燦々と降り注ぐ陽の下で。この人は逃げるでもごまかすでもなく、穏やかな笑みを浮べ。
「浅間サクヤはわたしがこの世で二番目にたいせつな人。強く賢く美しいわたしの憧れ」
一度ならずわたしの心を救い支えてくれた。
白銀の長い髪が艶やかな心底愛しく想う人。
この生涯を生命を注いで尽くしたく願う人。
「サクヤさんは一番に想う人が別にいるから、わたしの想いなんて迷惑かも知れないけ
ど」
だからわたしも心を込めて癒しを及ぼす以上は為してないけど。想いを届かせようとは
欲さないけど。肌身を添わせてたいせつな人の力になれて、役立てる事は、わたしの喜び。
わたしの方が次に繋ぐ言葉を失いました。
正視して穏やかに声音静かに何とも凄い。
やや恥じらう感じは見せたけど、動揺や乱れは殆どなく。むしろ彼女が気に掛けたのは、
「サクヤさんは胸も大きいし髪も艶やかだし、人が羨む素晴らしいスタイルだけど。わた
しは貧弱で、人を魅了できる容姿ではないから。目の毒だったでしょう。ごめんなさいね
…」
贄の血筋は貧乳コンプレックスも宿すのか。確かに2人とも大きい方ではないけど。端
から見れば気に掛ける程小さくない。と言うより今ここでそれを気に掛けますか、あなた
は。気に病む順番が、違う気がするのですけど…。
「勿論葛ちゃんもわたしのたいせつな人よ」
両の手を握られて、胸元に持ち上げられた。
柔らかで細い指の感触が心迄も包み込んで。
深く潤むその双眸に視線も吸い寄せられた。
「若杉葛はわたしのたいせつな人。わたしの一番たいせつな桂ちゃんを大事に想い、心通
わせてくれた愛しい人。この身を尽くして守り支えたく想い願う、賢く元気に可愛い子」
理屈ではなかった。この人は理屈を超えていた。彼女はわたしにあの絡みを見られた結
果を謝って。見せようとした訳ではないのに。襖を開いて覗き見したのは、わたし達なの
に。彼女はサクヤさんの様子を看ると言っていた。
微かに襖を開けておいたのは、桂おねーさんの不安が鎮まらぬ時は、安心させる為に己
の所在やあの行いを見られる事も、やむを得ないと考えての、従妹を慮っての措置であり。
甘々に過ぎた。桂おねーさんではないわたしに迄、気を遣う必要はないのに。この人は
サクヤさんが意識を戻せば『勝手に肌身重ねて癒し治してごめんなさい』と謝りかねない。
理屈は何も通っていない。なのに。この静かさ優しさ柔らかさが、好ましくて堪らない。
丸め込まれていると半ば分りつつ、丸め込まれる事を望み好む桂おねーさんの気持が分る。
「わたしはどんな葛ちゃんでもたいせつよ」
発する予定だった冷やかしや突っ込みを呑み込んで。この心地良い柔らかさに己を預け。
わたしは暫く桂おねーさんの羨ましげな視線を浴びつつ、この人の情愛に己を浸していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「確か、ここにあったと思うのだけど……」
廊下を進むオハシラ様に、桂おねーさんが付き纏い。更にわたしが付き纏い。辿り着い
たのは和室の隅の古い桐の箪笥だった。一番上の引き出しを開けて彼女が探し当てたのは。
「お姉ちゃん、これ?」「……へその緒よ」
小箱を2つ3つ、取り出し静かに床に置き。
3人座して蓋を取ると中には萎れた肉片が。
『サクヤさんの癒しはもういーのですか?』
『ええ……まとまった量の力は注いだから』
サクヤさんの容態は尚酷いので、本当はもっと蒼い力を注ぎ込まねばならなかったけど。
今ここには他にも癒さねばならない人がいる。彼女は最も重篤なサクヤさんを後回しにし
た。短時間で注げるだけ癒しを注ぎ、生命は確かに繋いで。急がねばならない人や症状の
軽い人を各個撃破すると。他の人の処置が終れば、その分サクヤさんの治癒に早く集中で
きると。
『わたしが血の力を使えればいいのだけど』
ノゾミちゃんも昼間は出てこられないし。
桂おねーさんの呟きに、従姉は穏やかに、
『贄の癒しは力加減が微妙だから、即憶えて使うと言う訳には行かないの。ノゾミも癒し
を実用に使うには、もう少し修練が必要ね』
今暫くは彼女一人に全て掛っている訳で。
そして次に何をするのかと思っていると。
「わたしのお母さんは難産で、わたしが生れたのは経観塚の病院だったけど。羽藤の家は
へその緒を、お守りに大事に残していて…」
これは桂ちゃん、これは白花ちゃん、これは叔父さんのね。これはわたしのお母さんの。
「わあ……みんな残っているんだ。すごい」
桂おねーさんは一般的な感想を返したけど。
わたしは彼女の意図が分ってしまいました。
「なるほど……流石はオハシラ様ですね…」
葛ちゃん? 桂おねーさんが未だ見抜けてない様子で、わたしの顔を見つめて来るのに、
「ユメイおねーさんを、見ていてください」
陽光の差し込む中、彼女はそれを両手に捧げ持つと。軽く口づけ暫し目を閉じ動かずに。
妙な色気を感じるのはわたしの視点の歪みか。
「柚明お姉ちゃん、何だかとても艶っぽい」
一分程口づけていただろーか。キスを終らせたへその緒を、元の小箱に戻して蓋をして。
桂おねーさんは未だその意味を、分ってない。
「ユメイおねーさんは今、肉の体を得たんですよ。自分自身から」「……葛ちゃん…?」
ユメイおねーさんの肉の体は、ご神木に宿った拾年前、槐に吸収されて消失した。今更
ご神木との繋りを断ち切れても、戻る体は存在しない。血や肉が霊の力になる以上、逆も
理論上成り立つけど。実際はレートが違って至難の業だ。白花さんと桂おねーさんの血で
濃い現身を取れたけど。この力で2人の血肉を戻せるかと問われれば、実質不可能な様に。
彼女にももう一段の飛躍は相当きつい筈だ。その在り方を根底から変えるには、尚膨大
な力が要る。彼女が人の身を取り戻すには更にもう一段の奇跡を必要とした。それがなけ
れば彼女はいつか力を使い果たして儚い現身に、昼に顕れられぬ状態に逆戻りする。霊体
はどこ迄濃密になっても霊体で、肉の体ではない。
ユメイおねーさんは癒しの力を持っている。その応用で、僅かでも血肉があれば、己を
作り直す事は可能だろう。クローン人間を例に出すのはどーかと思うけど、傷を癒すのも
毛根から人体を1つ丸ごと作るのも似た行いだ。
彼女は力の扱いも高度だし、今の力量ならそれは叶うかも知れない。問題は元になる肉、
最初の1だ。1さえあればそれを千にも万にもできる。でも0を1にする行いは、造物主
の奇跡の業で至難を極める。今の濃い現身を使い切っても、肉の欠片1つ作れるかどーか。
肉の欠片を作って力尽きては意味がない。
当分は桂おねーさんの血潮も望めないし。
彼女も己を取り戻す匙加減が難しかった。
他人等癒している状況ではなかったのに。
彼女は彼女なりに、方策を考えていた訳か。
ここは彼女の実家で肉の欠片が残っており。
己自身の肉を取り込む事で1は得られたと。
軽く触れれば充分だ。細胞1つあればいい。
「なるほど、そういうこと……」「ええ…」
桂おねーさんが事を呑み込む前で、蒼い衣の女人は頷きつつ、小箱を箪笥にしまい込み。
「この現身の中で力を及ぼし、時間を掛けて己の肉を作って増やして差し替えて行くの」
他の誰かを癒す間も、お料理をしてお食事してお話しして皿洗いする間も、二十四時間。
「1を得られた事でわたしの状態は相当進展したわ。小さな1だけど、重要な1なのよ」
「良かったね。へその緒が、残っていて…」
その時おねーさんの声が急に力を失って。
「生気の前借りの効果が、切れて来た様ね」
うん……。虚ろな視線で尚も自身を保とうとする桂おねーさんの返事に、間近の従姉は、
「傀儡の術の影響も出ているわね。前借りの反動は未だだけど、少し休んだ方が良いわ」
頷く桂おねーさんを抱き支え、布団を敷いてある別室に向かう。わたしもそれに追随し、
「生命に差し障りは、ないんですよね…?」
この人がそんな事態を招く筈が、放置する筈がないと、分って尚訊いてしまうわたしに。
「桂ちゃんの失血は未だ拭えてないの。肌身に添ってもう一度、傀儡の術と生気の前借り
を併用して今を保たせ、同時に癒しを及ぼして負荷を軽減して。食べたご飯が消化されて
桂ちゃんの血肉になる迄、もう少し掛るわ」
午前中は彼女が張り付いて癒さねばならない様だ。今桂おねーさんに不足で必要なのは、
休息だと。つまり彼女はおねーさんに今から、さっきサクヤさんに為した様な事を為す訳
で。
「ごめんなさいね。わたしの力不足で、辛い思いをさせてしまうけど。もう暫くの間、生
きる為に頑張って、桂ちゃん」「うん……」
オハシラ様の真摯に愛しく切ないお願いと。
桂おねーさんの全幅の受容が胸を騒がせた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「葛ちゃんも、良ければ一緒に添い寝を…」
傀儡の疲弊は完全に拭えてないでしょう?
オハシラ様の招きは魅力的だったけど。彼女達の間に挟まる程わたしの神経も太くない。
子供の特権で割込を望めば、2人は受け入れてくれただろーけど。わたしの理性が焼き切
れる。羞恥と嫉妬と悦びでこの精神が燃え尽きる。否、その様を思い浮べただけでもう…。
「では少しだけ癒しの力を注がせて。たいせつな葛ちゃんの役に立ちたい。わたし達の為
に気を遣ってくれて、有り難う。優しい子」
愛おしむ様に肌身に抱き留められた。滑らかな頬や柔らかな胸や腕の肉感が心地良くて。
身も心も許してしまいそーな己を漸く抑え。必死で添い寝への未練を断ち切って、2人
が休む奥の間の、襖もきっちり閉め切って。声音も物音も届かぬ様に、隣室からも遠ざか
り。
わたしは己が桂おねーさんの一番ではない事も、一番になれない事も分っている。そし
て一体誰が、わたしの一番たいせつな桂おねーさんの、最愛の人かと言う事もほぼ確実に。
「……?」そこでわたしの足に何かが触れる。
青珠だった。つけていた携帯は崖から落ちた時に壊れたので。以降おねーさんは単独で
持ち歩いていた。贄の血の匂いを隠せぬ彼女にその効用を持つ青珠は必須な品だ。オハシ
ラ様の結界が利く経観塚では意味も薄いけど。
それは意思を持つ如く、自らわたしの足下に転がってきて。確か青珠は一昨日夜から…。
「いーでしょう。わたしもあなたとは、お話ししなければならないと、思っていました」
屈んで青珠を右手に持つと、尾花の休んでいる部屋に行く。睡眠の障りにならない様に、
カーテンは閉じてあって室内は薄暗い。昨日夕刻前も桂おねーさんが倒れた時はこの様に。
「怯えず恐れず、私の話しの求めに応えてくれて、感謝するわ。鬼切りの頭」「いえ…」
中学生位のショートな黒髪がやや撥ねた。
赤と黒の和服に身を包んだ色白の少女は。
昼尚薄暗い室内の故に儚い現身で顕れて。
ノゾミだった。今は桂おねーさんを守る鬼。
桂おねーさんの大事な人で、生命の恩人で。
己が昨日傷つけかけた、尚多少蟠り残る鬼。
尾花がぴくと動いたけど、何もなかった様に微睡みに戻る。味方になったと分っている
様だけど。わたしと同様、無警戒ではいない。それはノゾミも承知で咎める積りもない様
で。
やや見下ろす感の抜けきらぬ鬼の少女に、
「昨日夕刻は……申し訳ありませんでした」
冒頭早速頭を深々と下げるわたしに対し。
ノゾミは快も不快も表に出さない表情で。
「ゆめいも桂も、あなたを許して頂戴と…」
ノゾミは贄の姉妹程甘くないけど。その生命やあり方を脅かし、桂おねーさんを危うく
させた葛の失態と謝罪を受け入れ許し。それはわたしへの寛容やノゾミの甘さと言うより、
桂おねーさんやオハシラ様への大甘なのかも。
「私の一番たいせつな桂と、私の身代りになってくれたゆめいの言葉だから仕方ないわ」
どこかで聞いた言い回しは、許しを出した経験が少ない中で、近くて自身に関る物を呼
び出した末か。お姫様の様に胸を反らして後、
「……私も、あなたに謝っておいた方が良いのよね、きっと。その前日にはあなたの大事
な子狐を殺めかけ、あなたの血潮を貪った」
あなたが私に恨みを抱くのも無理はない。
今なら私もあなたの憤怒を肌身に分るわ。
「あなたの鏃は、結局私を傷つけなかった」
私はゆめいに守られて苦痛もなく。でもあなたはわたしに歯を立てられて苦痛を受けた。
連れの子狐を傷つけられ生命迄奪われ掛けた。
「一昨日の夜はあなたにまともに謝る事も叶わなかったし」「謝られてもわたしが受け入
れませんでした。加害者になって、漸く過ちを犯した者の気持も分るのかも知れません」
あの時のわたしは、尾花や己や桂おねーさんの損失や苦痛や屈辱に拘って。相手を許す
と言う事を理屈では分っても、心情が伴わず。だから昨日夕刻の様な行いに走ってしまっ
た。相手の身になって考えるという事は、被害者の立場で考える事のみを指す訳ではない
様だ。
「わたしの一番たいせつな桂おねーさんと、尾花を救ってくれたオハシラ様の言葉です」
昨日未明に口にした言葉をわたしは再度。
今度はそれを願う人達の想いも噛み締め。
桂おねーさんのたいせつな人はわたしにとってもたいせつな人。守り助けたい大事な人。
「本当に心を開くのはもう少し先になると思いますけど、そうする様に努めます。同じ人
を一番に想う者同士、宜しくお願いします」
傷つけ合って痛みを知って、罪悪感迄感じて人は、漸く他者を理解できるのかも知れぬ。
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おねーさん達が起きてきたのは正午近くだった。回復の為には栄養補給も欠かせないし、
昼食を作りに間近の従姉が起きて動き出せば、桂おねーさんもほぼ同時に目覚めて動き出
す。
暗くしても日中に、霊体の鬼が顕れ続けるのは負担なのか。話しを終えるとノゾミは青
珠に戻り、わたしは尾花の間近で少し眠った。桂おねーさんの足音で起きたわたしは、オ
ハシラ様が作った昼食を、3人一緒に頂いて…。
「桂ちゃんと葛ちゃんに、お願いがあるの」
強い日差しから守られた屋内で、冷たい麦茶を頂きつつ、わたし達は蒼い衣の女人から、
「銀座通商店街のスーパーから、食材を買ってきて欲しいの。牛乳や卵、野菜にお肉も」
「結構食べたからね、わたし達も」「はい」
サクヤさんが一昨日仕入れた食糧は尽きかけている。昨日は買い物の余裕がなかったし。
オハシラ様の調理の腕が優れていても、食材がなければ技を揮えず、我々は唯飢えて行く。
「わたしはともかく、桂おねーさんは外歩きしても大丈夫ですか? 蒼い癒しや生気の前
借りの効果で、元気そーには見えますけど」
「癒しの力を明日朝迄効果が続く様に、大量に注いだわ。生気の前借りも同様に。傀儡の
反動は既に現れているけど、相殺されている。
桂ちゃんは朝食を消化して、血肉に変え始めている。今一段の後押しに、おやつも夕飯
もきちんと食べ、よく眠る事が大事なの…」
だから食材の入手が必要だと。適度な刺激は今の桂おねーさんには、リハビリの効果を
持つ。病み上がりなので、一人では絶対行かせられないけど。だからわたしにもお願いと。
お金はサクヤさんの財布から、オハシラ様が借りると抜いた。桂おねーさん達の為なら
サクヤさんも文句言うまい。烏月さんの食にもなると知れば、何か言うかも知れないけど。
妹鬼も主の分霊も倒された。桂おねーさんを脅かす者はいない。経観塚は田舎町で治安
も良い。わたしが付き添えば充分との判断か。
オハシラ様は陽光の下で動ける濃い現身を保っているけど、あくまでも霊体だ。人前に
出るのは望ましくない。蒼い衣は彼女の意思で洋服に替える事も可能だけど、容姿の美し
さが人目を引く。それも今は好ましくなくて。
「わたしは拾年前迄ここの住人で、銀座通にも顔見知りがいるわ。未だ人目に知られるの
は少し早いと想うの。騒ぎを招く怖れが…」
刀傷が深いサクヤさんや、尚霊体のオハシラ様、意識不明の烏月さんと、流浪生活の若
杉葛。好奇の視線を呼び込んでは拙い状況だ。わたし達が買い出しに動くのが、至当だっ
た。
「わたしも漸く、少しは役に立てるんだね」
「特売品の購入は、頭数も重要ですしねー」
「サクヤさんの車を使えないから、バスに頼る事になるけど。大凡のダイヤは分るから」
購入する品を書いたメモを渡され玄関で、
「確か今日から経観塚はお祭りだったわね。
桂ちゃんと2人、ゆっくり楽しんできて」
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経観塚では不要でしょうと、オハシラ様は桂おねーさんから青珠を預り。尾花はまだ休
養が必要なので寝せた侭。本当の意味でわたしは桂おねーさんと2人、経観塚の町へ赴く。
緑のアーチを一緒に歩み、強い日差しに同じタイミングで手を翳し。朽ちた様なバス停
でダイヤへの若干の不安を抱えつつ、暫く待って。乗り込んだバスには他に乗客も少なく。
「日陰でもやっぱり暑いねー」「はい……」
着いた駅前からお祭りの雰囲気は窺えた。
商店街に行くと既に賑やかな出店が並び。
「お買い物の後で、出店も見ていこうよっ」
そーですね。桂おねーさんの元気な笑みにわたしも頷いて。この田舎町でどこから湧い
たかと思う程の人混みに分け入り。スーパーは出店の列のこちら側の端にすぐ見つかった。
「桂おねーさん、わたし思うのですけど…」
スーパーで食材を買ってしまうと荷物になります。お祭りを楽しむには身重になります。
「荷物の出来る買い物は最後にするべきかと。先に出店を回りませんか?」「そうだね
…」
お姉ちゃんも、日没迄に帰って来れば問題ないって言っていたし。わたしは体も軽くて
気分も爽快だし。帰りのバスは後2便あるし。せっかくの葛ちゃんとの2人きりの時間だ
し。
「はぐれない様に手を繋ごうね」「はい…」
少しドキドキした事は葛だけの秘密です。
経観塚では羽藤家が瓦解して、神事を司る者が絶えた拾年前から祭りも途絶え。地域の
衰退もその所為かもと。なので今年は地域再生の為に、神事抜きでも祭りを再開しようと。
烏月さんも羽藤の遠縁で祭りの関係者とのふれこみで、祭具として維斗を怪しまれず持ち
歩けた。その神事を司る家の桂おねーさんが、全く来訪者な感じでわたしと出店を練り歩
く。
大仰な催しもなく、所詮田舎の祭りだけど。
それでも、と言うよりはそれ故に、なのか。
地元の人を中心に町はそれなりに賑わって。
「わたし、このお祭りに来ていた。こうやって出店を歩いた。おばあちゃんやお父さんお
母さん、サクヤさんや柚明お姉ちゃん、白花ちゃんと一緒に、綿あめを左手に持って…」
リンゴ飴をねだって金魚掬いに失敗して。
店先に並ぶヒヨコやウサギに目を輝かせ。
「風船を追う内にみんなからはぐれて、お姉ちゃんに探し出して貰った事もあったっけ」
わたし、小さかったんだよ。今の葛ちゃんより小さかった。お母さんやお父さんやお姉
ちゃんをずっと見上げて。手を引いて貰って、幼い幸せはいつ迄も、終らないと思ってい
た。
陽気に続いていた言葉がふと止まり。見ると美しい瞳が微かに潤んで、滴を溜めていた。
「おねーさん?」「う、うん……何でもないよ。大丈夫。ちょっと懐かしくなっただけ」
今も幸せで満たされているけど。幼い日のわたしも、幸せで満たされていたんだなって。
それを思い出せた事もとても幸せで。こうやって葛ちゃんと手を繋いで歩ける今も幸せで。
みんなに感謝だね。サクヤさんや烏月さんやノゾミちゃんにも、お父さんやお母さんや
おばあちゃんにも、白花ちゃんや柚明お姉ちゃんにも。勿論葛ちゃんと尾花ちゃんにも…。
「葛ちゃんはこうやって、たいせつな人とお祭りを出店を買い物して歩いた事はある?」
桂おねーさんは滲んだ涙を拭いつつ、意識を今に呼び戻し、わたしに問うて話題を変え。
「わたしは……一度だけあります。今です」
「葛ちゃん?」怪訝そうに問い返す双眸に、
「たいせつな桂おねーさんと手を繋いで歩ける今が、わたしの初めてで最大の幸せです」
若杉でも嫡出でないわたしの家は、庶民に近かったけど。わたしはおかーさんやおとー
さんとこの様に、出店を練り歩いた覚えはない。周囲の耳には届かない程度に声量を落し、
「コドクを終えた時点で、わたしにたいせつな人は残っていませんでした。その後若杉か
ら逃れたわたしにも、たいせつな人は現れませんでした。桂おねーさんに巡り逢う迄は」
今です。今が初めてです。桂おねーさんと歩けるこのお祭りが、最初です。わたしは…。
「今だけは本当に幸せですっ」「葛ちゃん」
やや強く繋いだ右手に力を込めると。細い左手もやや強く、わたしに心を返してくれて。
「今だけじゃないよ。今から、始るんだよ」
微笑みはお日様の如くわたしの心を照し。
幸せって、分ち合いたい人と一緒に作って保つ物だと思うの。そう言う人と巡り逢えて、
想いを確かめ合えたら、ずっと繋げてゆけるとも。祭りが終っても、夏が終っても、一緒
に寝起きする日が終っても、気持が繋る限り。
「葛ちゃんとわたしはそう言う関係だから」
見つめてくれる双眸は深く綺麗に輝いて。
わたしを光溢れる処に引っ張ってくれる。
この人こそわたしの特別にたいせつな人。
この手で守り庇い支え愛したい一番の人。
「おねーさん……」「もう少し見て歩こう」
おばあちゃんは植木が好きで、植木屋さんの出店の前では、根が張った様に動かなくて。
サクヤさんとお母さんは射的が上手で。次々に賞品をゲットして、お店の人を弱らせて。
金魚掬いはお姉ちゃんが得意なの。お姉ちゃんが構えると、金魚の方から寄ってくるの。
白花ちゃんと交代でお父さんに肩車されて。
みんなに手を引かれてくっついて歩いたの。
「はい。リンゴ飴、美味しいよ」「あ……」
ありがとーございます。受け取ってやや躊躇いつつ口に運ぶ。人の手が加わった物は食
べない基本方針で、生き延びて来たわたしだけど。この人の気持は受け取りたかった。例
え彼女が誰かに騙されて、中に毒が入っているにしても。おねーさんがわたしに毒を盛っ
たにしても。今この気持を拒むのは厭だった。
「おいしいでしょ?」「はい、嬉しーです」
賑やかさを楽しむ感じで反対側の端に達し。
手を繋いだ侭折り返して愛しい時を過ごし。
暑さに負けてトロピカルジュースにも口をつけた。否、負けた相手は桂おねーさんです。
大きなカップは飲みきれる量でなく、おねーさんにも余る程で。出店の品物は高いから、
おねーさんは一個だけ買って、2人で分ける。わたしの飲み口に桂おねーさんが口をつけ
て、桂おねーさんの飲み口にわたしが口をつけて。
懸念していたおねーさんの不調は兆もなく。
ベンチに2人腰掛けて行き交う人々を眺め。
とりとめもない事を語らって笑い合って後。
わたし達は出発地点近くのスーパーに入り。
「えーと、卵と牛乳と玉ねぎと豚肉鶏肉に」
「奥が鮮魚コーナーですね。あ、豆腐です」
「お一人様一点限り。2人で2つ買えるね」
「こっちの方が賞味期限、一日長いですよ」
「ほうれん草とレバーが特筆されている…」
「羽様には血の気の不足な人が多いですし」
頼まれた物を買うと、結構な重さになった。それでも恐らく二日分、それもサクヤさん
や烏月さん達が食を摂れない想定での量だろう。オハシラ様はわたし達の腕力を考えて、
重い物や多量になり過ぎぬ様に品目を選んだ様だ。
「抱えた買い物袋の重さも体重も、幸せのバロメーターと思いたいけど……」「幸せって、
維持するのも結構大変で力が要るんですね」
桂おねーさんはわたしの答に頷いてから。
買い入れた食材で膨れた袋を持ち上げて。
「でも、これが次のみんなの笑顔に繋ると思うと、頑張りたくなっちゃうよね」「はい」
いつの間にか、陽は傾き始めていた。最終バスももう出る頃だ。わたし達の時間は終り
つつあった。桂おねーさんと2人で過ごせる、本当に満たされたひとときが。陽が沈み行
く。
もうこーして2人で過ごす時はないかも知れない。一人の女の子として、桂おねーさん
と憂いも気兼ねもなく向き合い触れ合う時は。この数日の後に、わたしに待っているのは
…。
そこで視界の隅に引っ掛った物があった。
『夏の想い出は、一般に花火か肝試しです』
桂おねーさんに気付かれぬ様に、素早く。
少し荷を増やすけど、幾つか籠に入れて。
「お姉ちゃん待っているかな。お夕飯が楽しみだね」「そーですね。わたしは桂おねーさ
んと一緒に頂く食事が、とても楽しみです」
手を繋ぎバス停迄の道を歩み。待つ内に周囲は赤く染められて。数人の客と共に乗り込
んだバスは、消え行く残光を追って走り出す。届かないと知って尚追い求めるわたしの様
に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
日が落ちると風も少し涼しい。空の青が濃さを増し、点在していた民家の灯りも途絶え。
バスの照明の届く狭い範囲のみが人の世界で、
「次で降りまーす!」
桂おねーさんの声が響いた頃には、周囲は夜に包まれていた。まだ丸い月と星空の下で、
ここは千年前から変る事なく静寂が支配して。心細さを感じないのは愛しい人が一緒な故
か。
停留所は乗り込んだ時と同じく、人里離れた田舎道の只中にあった。進行方向左手の屋
敷に続く深い森も静かに佇み。数拾分前迄の、弐拾キロ先の祭りの雑踏や喧噪と隔絶され
て。
漆黒の闇におねーさんに続いて降りたつ。
「改めて見るとすごい森だね」「ですねー」
それでもおねーさんの足が躊躇わないのは。この先に電気の通った羽様の屋敷があると
分る故か、彼女がたいせつに想う人がいる故か。月も星もない暗闇を、おねーさんはわた
しの先導を意識して、意図して元気良く歩み始め。
森を抜け、開けた空には大きな月が。
敷地を囲む森は鬱蒼としていたけど。
屋敷は文明の輝きが窓から漏れ出て。
唯一の希望の如く桂おねーさんを出迎えた。
繋いだ手が無意識に強く前へわたしを引く。
その喜びが、その渇仰が、明らかに過ぎて。
「……つ、葛ちゃん……? どうしたの?」
繋ぐ手を後ろに強く引いて、その足を止め。
彼女の意識を、わたしに向け直させていた。
「桂おねーさん。少しだけ、時間を下さい」
繋いだ手を解かない侭、わたしを背後を振り返って、陰になった桂おねーさんの彼方に。
文明の灯の漏れる屋敷を見つめつつわたしは、
「桂おねーさんは……わたしの、若杉葛の一番たいせつな人です」「つ、葛ちゃん…?」
ここでなければ言えないかも知れない。今を逃しては、告げる機会はないかも知れない。
その想いがわたしを急き立てた。光を前にしてわたしは闇の深さを実感した。己の想い
を抑えきれず、抑えたくなく、解き放ちたく。闇の端に踏み止まって、愛しい人を引き留
め、
「わたしの凍てついた心を溶かしてくれた人。
わたしを若杉と分って抱き留めてくれた人。
わたしの罪も過ちも許し受け入れてくれた。
わたしを心底たいせつに想ってくれて、わたしが唯一たいせつに思う、愛おしい人…」
この人が手に入るならもう何も要らない。
この人を手に入れる為なら鬼にもなろう。
この人だけで良い。他は何も望まないから。
どうか葛の人生2度目の、心からの願いを。
「わたしは桂おねーさんを手に入れたいです。おねーさんの愛が欲しいです。おねーさん
の一番になりたいです。毒虫でも若杉でも手が届かないと分っても、おねーさんを望む気
持が抑えられません。いえ、抑えたくない…」
おねーさんが微かに息をのむ感じは分った。
無言は話しを促す姿勢と信じて言葉を継ぐ。
「わたしは今迄独りでした。今後も独りです。若杉に戻っても、鬼切りの頭を引き継いで
も。コドクを勝ち残ったわたしを、若杉は当主に迎えるでしょーけど。多くの者が傘下に
入るでしょーけど。彼らは家族でも友達でも恋人でもない。わたしにとって、葛にとって
たいせつな人はもう、この世のどこにもいない」
おねーさんだけです。桂おねーさんだけが、若杉葛の掛け替えのない人です。他には誰
も要りません。わたしが欲しいのはあなたです。
「……葛ちゃん」「これからわたしは……」
若杉に戻って財閥の長と鬼切りの頭を継ぎます。羽様の屋敷で過ごせる日々はあと僅か。
共に寝起きして、一緒に食事して、お話しして笑い合い、手を握って見つめ合うこの幸せ
も、所詮長く続かない。終りは見えています。
屋敷に戻ればオハシラ様が待っている。ノゾミも現身で出られるだろう。烏月さんもサ
クヤさんもいずれ回復して起きてくる。わたし達だけの時間は、2人だけの時は殆どない。
目一杯楽しんだけど、心浸して堪能したけど。故にその幸せは、使い切られよーとしてい
た。
若杉に戻れば葛には財閥会長の日々が待つ。鬼切りの頭の日々が待つ。おねーさんと逢
うどころか、声を聞く事も叶わない図は見えた。繁忙の中で、彼女との心の間合は開いて
ゆく。
桂おねーさんの帰る場所は光に満ちている。行き先は未来は希望に溢れている。鬼切り
の頭という世間の闇に属するわたしは、この侭では幾ら強く手を握っても繋ぎ止められな
い。財閥を継いだ葛が、たいせつな人の住む日常に入り込んで幸せを共にする事は、叶わ
ない。
この位置は闇と光の境界線だ。わたしと桂おねーさんの、2人だけの時間が終る位置だ。
だからここでわたしは踏み込んだ。今この時しかわたしが想いを届かせるチャンスは巡ら
ない。それが限りなく低い可能性であっても。わたしにこの人を諦めて生きる人生はもう
…。
「おねーさんはわたしに言ってくれました。
この身を抱き留めてその瞳で覗き込んで」
『やっぱりね、1人は駄目だよ、葛ちゃん』
1人だと悪い考えがぐるぐる回っちゃって、全部がそういう風に見えてくるから。世の
中にはひどい人もいっぱいいるけど、いい人だっていっぱいいるんだよ?
「いっぱいは要らないです。沢山のいい人なんて要らないです。欲しいのはたった一人で
いい、掛け替えのないたいせつな人です…」
光を背にして陰になったおねーさんの表情はよく見えないけど。触れた手の感触はわた
しを嫌っていない。愛しい息遣いは気配は仕草は、若杉葛の告白を真剣に受け止めている。
「わたしを独りにしないで下さい。わたしを捨てて行かないで。この闇に独り残さないで。
わたしはおねーさんに、人の温もりと優しさを再度教わりました。一度は諦めた人肌の心
地よさも。導いてくれたのはおねーさんです。わたしはもう独りでいる事に耐えられな
い」
この想いを伝えて答が欲しい。あなたはわたしの一番たいせつな人。そしてわたしはあ
なたの一番たいせつな人に、なりたいのです。
「この先ずっと、お屋敷での日々が終っても、この夏が終っても、わたしはあなたと共に
時を刻みたい。あなただけです、おねーさん」
答を下さい。桂おねーさんの真の想いを。
葛ではダメですか? 手が届きませんか?
若杉では、毒虫では相応しくないですか?
「年下では魅力足りないですか。女の子では資格なしですか。それともおねーさんには別
にもう、一番に定めた人がいるのですか?」
葛ではおねーさんの一番になれませんか!
「葛ちゃん……」困惑の声音に畳み掛けて。
「葛は葛の本心をさらけ出しました。桂おねーさんも桂おねーさんの本心を応えて下さい。
遠慮も忌憚もない真の想いを、今夜今ここで。どーかお願いします! ……なんちゃっ
て」
なんちゃって? 最後で力を抜いたわたしの問に、おねーさんがオウム返しに問い返す。
「答は要りません。応えないで下さい……」
困らせて済みませんでした。縋り付いていた身を離して、ぺこりと正面から頭を下げる。
豹変に付いて来れず、目が丸いおねーさんに、
「ちょっとおねーさんを驚かせ、困らせてみたく思ってしまいまして。困って弱ったおね
ーさんも、放っとけない程可愛らしーので」
悪ノリしてしまいました。ごめんなさい。
漸く目の前の人は驚きが抜けて事を悟り。
「つ、葛ちゃん……ったら、もうっ……!」
わたし、びっくりしたんだからね。本当に本気で、求愛されたのかと、思ったんだから。
両手を左右斜め下に伸ばし、両足開いて踏ん張って、怒った桂おねーさんも可愛いです。
これは天性の素養でしょーか。やや本気で怒っているのに、愛らしさが半端じゃないです。
本気で怒られる事が、嬉しくなって来る程に。
「年上を、からかうものじゃありませんっ」
「全部が冗談で嘘偽りという訳でもないです。わたしが桂おねーさんに抱く想いは今お話
しした通りです。なんちゃっては、最後の部分だけです。今ここで応えて下さいという
…」
桂おねーさんに抱く想いは、心に満ち溢れていた。伝えないと小さな胸がはち切れそう
な程に。告げた想いは衝動以上に、今迄募らせた若杉葛の集積だ。伝えた事に悔いはない。
望んだ答はほぼ貰えないと見通せていても。
何も為さず後で悔いるよりましだったから。
「伝えた想いは本当です。答も本当は欲しかったけど、それは今はいーです。答を強いれ
ば困らせる事になるし。わたしも負けず嫌いなので。今は勝ち目、殆どないですから…」
桂おねーさんには烏月さんやノゾミやサクヤさんがいる。葛より近しく絆の強いたいせ
つな人が沢山。財閥総帥で鬼切りの頭という、傍に寄り添い難い事情以上に、わたしの桂
おねーさんとの赤い糸は、彼女達程に太くない。
わたしは彼女達の様に桂おねーさんを守れない。人を遣わし守らせるだけ。どこ迄行っ
てもわたしは彼女の何番目か。わたしの一番が彼女でも、彼女の一番をわたしは望めない。