夏が終っても〔丁〕(後)
結果柚明の行いではない、柚明の責に依らぬ様々な困難を好んで被り。役立てる事に喜び。
柚明はどこ迄もあたしの知る柚明だった。
その愚かしい程の甘さ優しさを前に葛が。
算段や得失では把握しきれぬその応対に。
「なんでです……どーしてあなたは、そーやって他人の苦難迄、望んで背負いたがるので
す? そこ迄尽くしてあなたに何が返されるのです? あなたを傷つけ哀しませた鬼を」
相手は桂おねーさんではない。桂おねーさんをたいせつに想い、たいせつに想われた者
でも。数日前迄桂おねーさんの生命を脅かし、傷つけ涙させてきた張本人を。桂おねーさ
んに絆絶たれたその後迄、守り庇う必要なんて。
「……わたしが言う事でも、ありませんね。
あなたは全て承知でそう応えたのですし」
不要な事を言い募ってしまうのは、柚明の在り方を放っておけないから。ある意味柚明
は桂より無茶だった。葛は柚明の真意を察し、その結末を導くならもっと効率的に安全で
楽な方法があるのにと、つい口を挟んでしまい。敢てそうしない意図を悟って、我を取り
戻す。
それを待って烏月が柚明に正視を向けて。
「千羽や若杉の怒りも、観月の恨み憎しみも、情愛の深いあなたこそよく分る筈だ。その
償いや罰や報復が、どれ程の物になるか分って、あなたはそう応えているのですね」「は
い」
烏月も柚明の真意は承知でその覚悟を問い。既定の答を導く問と言うより、問う事で柚
明の真意を分っていると伝える方がその眼目か。
あたしも含めノゾミの暴発を気に掛ける者はいない。あたし達の想いの応酬をどう受け
止めているのか、視界の片隅で見もするけど。夜だから、贄の血を得て桂を人質にとって
抗う事態も、悪鬼なら考えられなくもないけど。誰もノゾミが今時点で暴れ出す等考えて
なく。
烏月は予測した、或いは期待した答を得た感じなのか。両目を閉じて、瞑想と沈思を兼
ねて沈黙し。あたしに喋る順番を回してきた。
烏月も葛も、この話しの本命はあたしだと分っている。術を掛けられ踊らされた若杉も
千羽も不快千万だろうけど。生きる場所と同胞を喪ったあたしの答が、今宵の決着を導く。
だからあたしは、容易に賛否は返さずに、
「それは、あたしや桂を敵に回しかねない答だよ。あたしがノゾミを絶対認めないと応え
れば、あたしとあんたの進む道が分れるんだ。桂がノゾミの処断を望んであんたが拒んだ
ら、桂とあんたの進む途が別れる。良いのかい?
ノゾミが桂を脅かさなくても、あんたが桂から絆を絶たれるかも知れない。そこ迄尽く
して守り庇う値はあるのかい? その鬼に」
柚明の覚悟を問うた、あたしへの即答は。
「……ノゾミは……わたしの、妹です…!」
烏月も葛も、ノゾミもあたしも息を呑んだ。
全員が驚きに固まる中、柚明は面を上げて。
一番ではなくても、柚明は生命を張ってノゾミを守ろうとしていた。それは柚明が白花
を庇い烏月の刃の前に立った様に。あたしが白花や柚明を庇い烏月の刃を身に受けた様に。
「わたしが生命を注ぎ込み、桂ちゃんの血と心が通ったたいせつな人。桂ちゃんの生命を
助け、わたしの生命も助けてくれた愛しい人。切り離せない。わたしと桂ちゃんの血や想
いを混ぜ合わせたノゾミは今や、羽藤望です」
わたしが一度たいせつに想った人は、いつ迄もたいせつな人。どの様に変り果てても愛
しい人。一度抱いた想いは果てる事も尽きる事もない。夏が終っても、秋を冬を迎えても。
「桂ちゃんは、ノゾミと深く心通わせました。サクヤさんの悲嘆を知って哀しみ涙し、ノ
ゾミとの絆を断っても。今度はその事に長く悔いを抱く。再度ノゾミとの絆を望むかも知
れない。もうノゾミはそれ程に桂ちゃんのたいせつな人になっています。そうさせたのは
桂ちゃんでありノゾミであり、わたしです…」
ノゾミが桂ちゃんに絆されたのが、始りだけど。そのノゾミをたいせつに想い庇い、絆
を繋ぎ続けたのは桂ちゃんです。拾年前を思い出して尚、その絆は切れなかった。そして
桂ちゃんの願いを受けて、わたしもノゾミに生命を注ぎ、肌身も想いも重ね合わせました。
そうさせた責任、と言う言葉が思い浮んだ。
桂も4日前の深夜にこの部屋で、皆を前に。
【ノゾミちゃんには、生きて欲しいから!】
ずっと幸せも自由も得られずに、病と閉じこめられるだけの人生で、鬼に成っても千年
近く封印されて、たいせつな人に会えないで、その上今夜はそのたいせつな人に捨てられ
て。
【わたし分っちゃったから。ノゾミちゃんの辛さや哀しみを分ったから。捨てておけない。
その一部はわたしの所為、わたしがノゾミちゃんを主から引き剥がした所為でもある…】
桂も柚明も愛してはいけない者迄愛してしまう。それが羽藤の血筋なのか。笑子さんも、
六拾年前の新月の夜に山奥で、深傷を負った血塗れの見知らぬ女を怖れず。鬼と分って己
の血を与えて生命を助け。人外に贄の血がどれ程甘く香るか承知で。その孫達であるなら。
【ノゾミちゃんと分りあえた事、後悔してないよ。でもその所為で、ノゾミちゃんがミカ
ゲちゃんに絆を切られ、今のこの状況になった。ノゾミちゃんがわたしを選んだから。わ
たしを選ばせたから。わたしが誘ったから】
妹だと千年信じていたミカゲちゃんの真実。
慕っていた主に要らないと宣告された悲哀。
捧げ尽くす対象をなくし生きる目的を失い。
【わたしがそうさせちゃったから。一途で純真で強かったノゾミちゃんを、曲げさせたの
はわたしだったから。だからわたし責任を】
責任を取らないと、わたしがノゾミちゃんの人生を奪った事になっちゃう。大好きだっ
たのに、たいせつな人だったのに、その人を哀しませて滅ぼす事になっちゃう。嫌だよっ。
【わたし、ノゾミちゃんが好きだからっ!】
桂は、ノゾミを受け容れるかも知れない。
六拾年前の悲劇をノゾミの所行を全て知っても。あたしの悲嘆に深く共鳴してくれても。
葛や烏月との関りに困惑や悩みを抱えても尚。柚明がノゾミを庇う様を見ると、そう思え
て。
「ノゾミはわたしのたいせつな人。一番にも二番にも出来ないけど、だからこそその範囲
で叶う限りの想いを注ぎたい。ノゾミを生かす事については、わたしが責任を持ちます」
妹の犯した罪は姉が償う。家族が犯した罪は羽藤として償う。償いきれぬなら一層共に
償う者が必要です。罰も報復も分ち合いたい。たいせつな人が犯した罪で過ちならわたし
に償わせて欲しい。これはわたしの望みで願い。
柚明は子を庇う母の如き気合を滲ませて。
「わたしは桂ちゃんの捨てた想いも抱き締めたい。いつか桂ちゃんが拾いたいと想った時
に差し出せる様に。遂に拾われる事なく終えるにしても、一度でも桂ちゃんに大事に想わ
れた者・心繋いだ者を粗略に扱えない。桂ちゃんをたいせつに想う者は、捨ておけない」
「覆水を盆に戻す為に、溜めて置くですか」
葛の問に柚明はその通りと小さく頷いて、
「たいせつな人に尽くすと言う事は、常に傍に寄り添い、その指示に従う事とは違います。
時に耳に痛い諫言を為し、望まぬ所作も促し、守る為にその人を突き飛ばし刃を受ける事
も。涙流して拒まれても服せない事もあります」
心は変る。恋は冷める。想いは褪せる。
それは責めるべき事とは想わないけど。
でも例え一時でも真剣に心繋いだなら。
「わたしはその想いもたいせつにしたい」
柚明はノゾミの所行を永遠に許しはしない。
その上で尚桂のたいせつな人という以上に。
柚明自身のたいせつな人として愛し守ると。
気圧されたのは、烏月や葛だけではなくて。
ノゾミ迄が浮いた現身で沈黙し、固まって。
柚明の声は柔らかに静かにでも確かに強く。
「切れても切れ端を握っておけば、再び絆の糸を繋ぐ事も叶う。一度は切れた烏月さんと
の絆を、桂ちゃんが再度繋げられた様に…」
柚明はこの件で桂とノゾミが決裂しても尚。
それが桂の想いの全てではない事迄考えて。
「わたしは、桂ちゃんとノゾミに繋いだ絆を両方解かない。交わした想いは手放さない」
わたしにはサクヤさんも烏月さんも葛ちゃんもノゾミも、いつ迄もたいせつな人。己を
捧げて守り支えたい愛しい人。桂ちゃんをたいせつに想い、たいせつに想われた人だけど。
それ以上にわたしがたいせつに想い続けたい。
「夏が終っても、秋が冬が訪れても悠久に」
いつの間にか敵意も憎悪も鎮まっていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『わたしは、ノゾミを受け入れましたけど。
ノゾミの所行を許した事は、ありません』
『……肉の体を喪っても戻しても、わたしは過去に心を囚われた存在です。抱いた恨み憎
しみを、手放す事は叶いません……』
観月の聴覚は静かな田舎なら、屋敷内の物音を全て聞き分けられる。特段の措置をせず
話しをすれば、部屋を変えても意識を戻したあたしに声が届く事は、予期できただろうに。
葛の足音や青珠の転がる物音も聞えたけど。
柚明はあたしにも聞かせる積りだったのか。
『恨み憎しみの内訳を述べる事はしませんが、わたしが彼女に抱く憎悪の深さは、鬼の故
に身内を喪った烏月さんこそ、ご理解頂ける筈。わたしは未来永劫、ノゾミの所行を許す
事はないでしょう。それは、拾年前に喪ったたいせつな人達への、愛に由来する物ですか
ら』
叶うならこの手で握り潰したい。その想いは心の片隅に常に抱きつつ。桂ちゃんのたい
せつな人で、己自身がたいせつに想ったから。
確かに柚明はこの数日、桂の願いを受けてノゾミを受け容れる為に様々な思索を紡いで、
烏月や葛やあたしとも色々話し、時に対峙もしたけど。一度も許すと言ってない。むしろ。
【ノゾミのやった事は、決して許さない!】
【でも、桂ちゃんの想いがそれを望むなら】
ミカゲ達に囚われた桂を助けに山中を駆け、憔悴したノゾミを目前に見たあの夜も。己
の仇を柚明は体を張って守り庇い。肌身を抱いて力を注ぎ。尚霊体の崩壊を止め得ぬ様を
前に、ノゾミの唇に己の唇を繋いで生命も繋ぎ。でもそれはノゾミを信じた訳でも許した
訳でもなく。柚明の焦点は常に桂の想いにあった。
唯の一度でも、一番たいせつに想った桂に。
生かしてと、たいせつな人だと頼まれては。
柚明はどんなに内に憎悪を抱えても絶対に。
桂以上にノゾミを愛し守り続けるのだろう。
羽藤の頑固さは、太古の姫様から笑子さんの孫達に至る迄、幾度も見せつけられたけど。
「あなたの甘さ優しさに果てがないのは分っていた積りだが……桂さんもノゾミと絆を絶
つ事はないでしょう。あなたが羽藤である様に桂さんも羽藤だ。幾ら哀しみ怒り憎しみ恨
みを抱いても、愛を抱く限り絆を保つ人だ」
桂との数日で烏月はそれが骨身に沁みたと。
「これは主に観月の問題です。千羽はこの事案を以てノゾミの受容か拒絶かを判断はしま
せん。但しそれはノゾミを許し受け容れる事とは違う。明日桂さんの前で話す際に、この
話題を蒸し返す事はしない。それだけです」
この件を桂の前で明かす事もしないと応え。
鬼切り役の幼い主君はその脇で肩を竦めて。
「若杉はそれ程簡単な者ではありませんよ」
わたしの先祖はその詛いを承知で身に纏い、鬼を討つ力に転用していたのでしょー。観
月の民と敵対した時に使う為に温存したのかも。観月の里の襲撃はおじーさまの事情と意
思によります。言霊だけに左右される程生易しい人ではないです。影響はあったでしょー
けど。
「決定的な要素でもありません。若杉はこの件でノゾミさんを許せないとは、考えません。
わたしにはむしろ、葛の一番たいせつな桂おねーさんを傷つけ哀しませた事や、尾花の件
の方が遙かに大きいですよ。明日の話しでも、簡単に受け容れるとは思わないで下さい
ね」
葛も又桂にこの件を自ら明かす積りはなく。
所詮この件の主軸は観月であるあたしだと。
「柚明あんた、こうなる末を知っていたね」
答は不要だった。柚明の思惑は見えている。
後はあたしがその意図を受け容れるか否か。
「あたしが桂に観月の正体を伝える事を好まないと分って。だからこの事を理由にあたし
がノゾミを断固拒む事は、出来ないと分って。了承し難いノゾミの過去を、ここで明かし
て実質呑み込ませてしまおうと……桂の為に」
柚明が申し訳なさそうな顔を見せるのは。
この憤りを発散する場を奪った結果への。
「これ以上、桂やあんたを余計に哀しませる事は、あたしに出来る訳がないじゃないか」
過去を理由に、ノゾミを拒む事はしないよ。
それで良いだろ。己の憤怒を悠久に諦める。
柚明も桂の為に、幾重に募る憤怒を抑えてノゾミを受け容れた。柚明の心中を慮るなら。
一番に想う桂の心を、あたしが余計に掻き乱せる筈がない。あたしの答は最初から決まっ
ていた。浅間サクヤの選択肢はこれ以外ない。柚明の読みは、忌々しい程に正鵠を射てい
た。
「サクヤさん……有り難うございます」
柚明は改めて三つ指突いて、あたし達に向けて額づいて、心を込めた短い答を。それは。
【……あんたは、良いんだね? 柚明】
桂の願いを受けて、条件付きでもノゾミの受容を、烏月や葛やあたしから取り付けた数
日前の夜も。柚明は己の想いには一切触れず。己の憤怒も抑え難かったけど、あたしはそ
れより柚明が自身の憤怒に耐えられるのか問い。
【あたしは、あんたが良いというならあたしの分も呑み込む用意がある。あんたの覚悟と
想いに免じて、ノゾミを受け容れても良い】
敢て訊くよ。一度だけだ。
あたしは長い人生で幾度も別離を経てきた。
あたしや烏月や葛は、訪れる事も未だ叶う。
桂や桂の血筋を支えて見守れば希望も残る。
今は堪え難くても、その内痛みは鈍磨する。
でも柚明こそ最大の悲痛を招いた仇を助け。
ノゾミが桂の傍に常に居続ける未来を招き。
悲痛以上にオハシラ様の未来に希望等ない。
ご神木で主を封じて衰滅の時を迎えるのみ。
耐えられるのか、本当に受容できるのか…。
全てを受容する柚明にあたしが納得出来ず。
【あんたはこの鬼の為してきた事を全て受け容れて、桂の近くにいる事を認めるんだね】
あんたではなく、ノゾミが桂の近くに居続ける未来を、あんた自身が選び取る事になる
んだよ。それにあんたは納得できるのかい?
柚明に些かの躊躇でもあればそこを突いて。
あたしがノゾミを拒み遠ざけたかったのに。
柚明は迷いもなくあたしの受容迄引き寄せ。
【どの様な結果になろうとも、桂ちゃんの日々に笑顔が残ればそれがわたしの幸せです】
どんな未来を招こうと、桂ちゃんの守りが叶うならそれがわたしの望みです。わたしが
鬼に成って迄あり続けるのはその為ですから。
【一度だけの問に、一度だけ答えます】
それがわたしの正解です。間違いなくそれがわたしの真の想いで真の願いで、真の望み。
あの時から、あの前から、柚明は躊躇いさえなく。桂の望みを、桂のノゾミを守り支え。
その想いがノゾミを真に桂のノゾミに変えた。桂と柚明が悪鬼のノゾミを、主の手下のノ
ゾミを、敵で仇のノゾミを。桂をたいせつに想い、桂にたいせつに想われたノゾミに変え
た。
今も本当に心から嬉しそうに頭を下げて。
今も本当に申し訳なさそうに頭を下げて。
ノゾミを想い、あたしを想い、烏月を葛を思いつつ。桂と桂のたいせつな人を深く想い。
己の欲求は常に後回しで、最後迄抱いている事さえも悟らせないで、表す事もせずに終え。
あたしの可愛い柚明。愛しくたいせつな。
幼い頃から見つめ続けてきた優しい乙女。
今は同じ桂を一番に想い合う競合関係で。
明言も不要に桂が一番たいせつに想う人。
深い愛は、尽きる事も終る事もないだろう。
羽様で過ごす日が終っても。夏が終っても。
あたし達の散会は、その少し後の事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今宵は生気の前借りの反動で苦しむ桂に柚明が添う。烏月と葛は別室に引き取り。あた
しは注がれた癒しと自己回復に任せ独り寝を。ノゾミが柚明との話しを望んでいた様だけ
ど。
「未だ寝てないのね。眠らずに大丈夫なの」
「あんたに心配される日が、来ようとはね」
ノゾミが襖をすり抜け、現身で浮いて顕れ。
何となく来そうな予感はあった。獣の勘か。
目の前に浮び上がる姿形は中学生位の娘だ。
はねショートヘアに華奢な現身は白皙の肌。
袖が長く裾が短い和服姿は、左側が薄紅で。
右側が鳩羽鼠に花の染め抜きで、右足に鈴。
「心配しているのは私ではないわ。桂やゆめいが常に気に掛け続けているのが分るから」
布団の上に身を起こしたあたしの正面で。
浮いた現身でやや上から見下ろす感じで。
「2人とも他の者に心配を気付かれない様に振る舞っているけど。互いにあなたの快癒を
待ち望んでいるのが分る。あなたが元通りにならないと、桂にもゆめいにも本当の笑顔は
戻らない。今朝はそれを思い知らされた…」
ゆめいも桂も、鬼切りの頭も鬼切り役も。
揃ってあなたが起きて動いた事に喜んで。
「桂やゆめいの心には、あなたを慕い想う気持が根付いている。あなたには早く快癒して
貰わないと、煩わしくて見ていられないの」
ノゾミはあたしが羨ましかったのだろうか。
或いはノゾミもあたしの早い快癒を望んで。
「それを見て、悟れる程になったとはねぇ」
あんたも千年掛けて少しは大人になれた様だね。体型の方は変りようがないだろうけど。
混ぜっ返すと、ノゾミはぷうっと頬を膨らませた。子供扱いへの反発が正に子供だった。
柚明が言う通り、水が器に従う様に、人の生き方も物の在り方も、形に縛られ易いのか。
小娘の形を取ったノゾミが、物を知らぬ子供の様に禍を振りまき、畏れを知らぬ子供の様
に贄の血を求め。今は恥じらいを知らぬ子供の様に桂に添って戯れて、一緒に笑い合う…。
柚明は『桂を好き、桂が好いたノゾミ』の形を整えれば、鬼と人の隔ても越えられると、
桂とノゾミの和やかな時も安定して保てると、思っているのか。そんな都合良い話が簡単
に叶わないと、百も千も承知で。姫様や笑子さんや柚明が、あたしを受け容れてくれた様
に。
「あんたこそ、青珠との繋りが未だ完全じゃないんだろう。桂があんたに応えられない夜
に出て、疲れて身を危うくしないのかい?」
「私の心配は結構よ。子供でもあるまいし」
子供かどうかは別として、ノゾミも己の状態や力量に構わず無茶を為す。今は柚明がそ
れを抑えており、以前はその役をミカゲが担っていたのか。桂に似て、手綱を握る者がい
なければ危うい。実は今ノゾミの手綱を握る柚明にも、その傾向が見え隠れするのだけど。
思わず漏らした含み笑いに、ノゾミは更に頬を膨らませ、睨む視線を送ってくる。言い
募らせて弄ぶのも、烏月や真弓を弄るに似て愉しいけど。ここはノゾミの話しに応えるか。
「で、あたしに何の用事だい? 欠けた月を眺めて一杯やろう、なんて仲には未だなれそ
うにない千数百年の仇敵に、夜這い以外に」
話しを振ると、ノゾミは、桂以外の誰に夜這い等するものですかと、口を尖らせてから、
「あなたは、自身が観月だと桂に伝えなくて、本当に良いの? 私を心から憎み嫌う理由
を告げず、桂が私を傍に置く事を見送って…」
その憤懣を本当に抑えられるのか。我慢しきれず結局桂に明かす事になるのではないか。
抱いた懸念を問うてくる鬼の少女にあたしは、
「あんたの為じゃない。桂の為で柚明の為で、あたし自身の為だ。あたしは桂に自分が人
外の鬼だと、山神の眷属で化外の民だと、報せる積りはないからね……桂を不安に落した
り、心騒がせたり怯えさせたりは、したくない」
桂は柚明とは違う。この屋敷で笑子さんや正樹達の間で、古からの言い伝えや雰囲気を、
肌身に感じて育った柚明と。科学文明の世で都会で齢拾六迄育って、つい数日前に初めて
鬼という物に巡り会い、生命危うくした桂は。
「柚明はあたしを想ってくれるから、桂に抱くあたしの想いを察し、全て明かしてもっと
深い仲になるべきと、思っている様だけど」
あんたは最初から鬼として逢い、鬼の力で桂を助けたから。桂も受容してしまったけど。
あたしは今迄人として接してきた。隠した事はないけど、明かしてなかったから。鬼が鬼
として受け容れて貰うなんて、中々望めない。今回も決定的な場面では役に立てなかった
し。桂に鬼だと明かせる程の者じゃあないんだよ。
「あんたは幸せ者だよ、ノゾミ。たいせつに想った人の運命を左右する重大局面で、その
場に居合わせて役に立てたなんて」「……」
六拾年前の新月の夜を招いたのは、あんたの所為だけじゃない。桂がたいせつに想った
あんたを拒む為に、これを明かす気はないよ。烏月や葛や真弓の事迄絡んで、桂を困らせ
る。そんな事をしたら桂の保護者代理も返上さね。
「そこ迄してあんたを受け容れ、守り庇った柚明の気持を踏み躙るしね。何日か前に桂も
交えて話したあの夜に、答は出し終えていたんだよ。柚明があたしの受容迄引き寄せた」
ノゾミは黙した侭あたしを見つめている。
「あたしは、後悔してないよ。例えこの傷み哀しみを未来永劫引きずっても。桂や柚明の
終焉迄、数拾年隠し通せれば良い。その後にあんたを滅ぼそうなんて想っちゃいないさ」
桂も柚明も烏月も葛も居なくなった後で。
あんたを滅ぼしても一体何が残るんだい。
「直近には、と言ってももう弐拾年近く前だけど、観月の里を虐殺した当事者である千羽
の血筋で、あたしの生命を奪おうとして真剣の争いを経た真弓とも、あたしは和解した」
あたしを世を騒がし人に害を為す鬼と思いこんでいた真弓の誤解が解け、六拾年前の真
相を知り、諍い合う事情が消失した故だけど。ノゾミも同じだ。もう諍い合う事情は失せ
た。真弓の様に肝胆相照す仲になれるかどうかは、これからだけど。それは烏月も葛も同
じ事…。
胸に抱く怒りや恨みは消せないけど。未だ見ただけでぶちのめしたくなる衝動があるけ
ど。抑える様に努めるよ。あんたを、桂や柚明が受け容れた今のあんたを受け容れる様に。
「あんたも、たいせつな人の為に一生懸命だったんだろう。互いに譲れない想いがあった。
たいせつな人に尽くしたい気持は分るから」
桂をたいせつに想った者として、桂にたいせつに想われた者として、柚明の信に応えら
れる様に。あたしの事迄考えなくて良いから。あたしには改めて謝罪も償いも要らないか
ら。
「桂をこれ以上哀しませないでおくれ。桂の幸せを、守りを保っておくれ。柚明を支えて。
それで充分だよ。確かに、頼んだからね」
過去は良い。未来を、委ねるよ。桂達の。
心の痛みを堪える代りにそれが叶うなら。
ノゾミは人に頼まれる経験が希少なのか。
照れとも困惑ともつかぬ感じで左を向き。
「どうしてもと頼むなら、聞いてあげても」
良くてよと、応えるノゾミの視線のみが。
あたしの反応を窺う様に、右へとずれて。
「長い付き合いになれたら、幸いだねぇ…」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ノゾミは青珠に、あたしは独り寝に戻り。
拾年前迄は何度も寝転がって見上げた羽藤の天井を、今更の様に独りで眺め夜を過ごし。
外は微風が微かに草木を揺らす音の他には。
車の通る音もなく静謐を保つ田舎の夜更け。
今更ながら拾年前やその前が思い出される。
瞳を開いても閉じてもこの魂は過去を視て。
『良いかな姫様、笑子さん……姫様がオハシラ様の千年を強いられる因になったノゾミだ
けど。姫様の宿るご神木や主の封じを脅かし続け、千年の末に姫様を還したノゾミだけど。
拾年前には正樹の生命を喪わせ、白花に過酷な運命を強いて。柚明の人生も喪わせ、桂
にも甚大な傷を負わせて記憶を鎖し、真弓に迄計り知れない心痛を与えたノゾミだけど』
『桂と柚明の願いなんだ。真の想いで願いで、望みなんだ。桂と柚明のノゾミなんだよ
…』
笑子さんと姫様には、裏切りに映るかも知れないけど。あたし自身にも裏切りだったけ
ど。過去を思い出した桂が絆を願い続けたんだ。過去を承知で柚明が絆を結ぶ積りなんだ。
あんた達の血と想いを受け継いだ2人の真の想いは。甘々な程優しい2人の真の願いは。
『断れないじゃないかい……あたしにはさ』
もうノゾミには危険は少ない。ノゾミに桂や柚明や、人の世を害する意図も動機もない。
これからについてなら柚明が居る限り安心だ。あたしの拘りは柚明と同様、過去に抱く物
だ。それもたいせつな想いだけど。捨てる気も捨てる事もあり得ない、終生伴う想いだけ
ど…。
『真弓も正樹も、許したくないだろうけど』
ばちなら全部あたしが受ける。あの世に行ってから幾らでも責めを受けるさ。枕元に立
っても夢に化けて出てくれても良い。むしろ望む処さ。怒られるにしても、逢える物なら。
むしろ怒らせる様な事をすれば、出て来てくれるかい。桂の危機に際しては、再び手の
届かなく思えた柚明が顕れる奇跡を見たけど。一度でも逢えるものなら、出てきておくれ
よ。
幾ら子や孫を残してくれても。絆を残し続けてくれても。喪った人に抱く寂寥には換え
られない。やっぱり心傷むし哀しいよ。姫様も笑子さんもそれぞれ1人1人、誰にも換え
られない、あたしの心底たいせつな人なんだ。
笑子さん、やっぱり狡いよ。あんたはさ。
「姫様……笑子さん……、真弓、正樹……」
万感を込めた雫が頬を伝い行く。止めどなく流れる想いは、もう永久に叩き付けられぬ。
あたしは1つの仇を喪った。この喪失が真弓の時の様に新しい何かになれば良いのだけど。
欠け始めた月は既に西に傾き始めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「あたしの給仕は輪番制かい?」「たはは」
朝飯の粥の載った盆を置いて葛が頭を掻く。
朝の目覚めはあたし以外では烏月が最初で。
葛の目覚めを待って2人で桂の寝室を訪れ。
柚明は目覚めても、睡眠中の桂を起こさず添っていて。2人を迎えて桂を起こし。桂が
恥じらいに頬を何度も染める様は漏れ聞えた。柚明は桂の心に働きかけて、血行を良くし
ようと努めているのだろうか? 桂の容態は大幅に改善されており、日常生活に障りはな
く。
「あたしも体は動かせる様になってきたんだけどね」「観月の快復力って、本当凄いです
ねー。医学に活かせればと思っちゃいます」
「若杉グループの研究室に抛り込まれて、実験材料なんて余生は勘弁願うよ」「たはは」
「今回は蒼い癒しも含めてだからね。観月単独の回復力と言い難いけど……柚明を若杉グ
ループの研究室に抛り込んで、実験材料ってのも無しだよ。勿論桂も白花も」「たはは」
葛は桂を哀しませる事はしない筈だけど。
柚明とも想いを深く繋いだみたいだけど。
「はい、お粥です」「んっ、頂くかね……」
葛は誰を巧く真似たのか。粥を載せた湯気の立つ匙を、ふうふう吹いて冷まして見せて。
あたしの口元迄運んでくれて。ぱくっとあたしが食いつくと、葛は戻した匙に視線を落し。
「迷わず食べてしまうのですね。わたしが毒を混ぜる怖れとか、考えてないのですか?」
「……っ、この、極悪お子様がっ、……!」
今更桂が哀しむ事を葛はしない。直接の敵対関係にないあたしを、失敗の危険を承知で
葛が抹殺に踏み切るとは考え難い。羽様の屋敷に毒薬劇薬は殆どなく、あっても観月に効
く中身か否か定かではない。毒殺は実は個々の致死量に左右される、不確実な殺人手段だ。
その気があるなら昨日か一昨日にやっていた。
それでも最後には結局ツキに左右される。
想定通りの相手かどうかが決定打になる。
悪い冗談だけど、若杉の葛が言うと本当にたちの悪い冗談になるから。柚明が愛を込め
て作ってくれた朝飯に、瞬間だけど硬直して。ああ、自己嫌悪で暫く心が毒殺状態になる
…。
「ありがとーございます。その位には合理的で知的な者と、認識してくれているのですね。
と同時にわたしもサクヤさんが無闇な猜疑心で平地に乱を起こす人ではないと悟れました。
お互い巧くやって行くには、しっかりした相互認識がたいせつですから」「あんたね」
ユメイおねーさんがわたしにサクヤさんへの給仕を頼んだのは。葛は桂の耳に入らぬ様
にやや声を潜め、あたしの間近に顔を寄せて、
「わたしとサクヤさんで、サシで話しをして、しっかり関係を作って欲しいとの事でしょ
ー。六拾年前の新月の夜の件は、最早取り返す事も出来ず、償う術も限られていますけど
…」
桂おねーさんの心を騒がせぬ為に、サクヤさんは敢てそれを明かさぬ選択を採りました。
であれば、桂おねーさんの心を騒がせぬ為にも、わたし達は諍い続けていては拙い訳です。
「ユメイおねーさんはその辺の事情を察し。
わたし達2人で話せる状況を作ったと…」
『昨夜の烏月と言い、今朝の葛と言い。ひょっとしたら、昨夜柚明があたしに添わず桂に
添ったのも。桂の不調以上に、ノゾミがあたしに話しに来れる様に、敢て外したのかも』
柚明は今や笑子さん以上に心配りできる。
後追いでなければその思索を辿れぬ程に。
赤兎の出典の三国志で言えば誰が相応か。
その真意を言葉なく察せる葛も葛だけど。
「確かにそうだね。あんたの言う通りだ…」
葛は鬼切りの頭を未だ継承してない。今葛をぶちのめして、憂さを晴らすなら別だけど。
まともな謝罪や賠償・真相究明等は、願う以前に葛が若杉を掌握してなければ、不可能だ。
外から解き明かす難しさは、あたしが知った。
一年の時間が欲しいと。葛があたしの件に取り掛るには、その位の地盤固めが必須だと。
でもそれは、若杉が観月の里を襲撃した六拾年前の新月の夜を、自ら見つめ直すとの事で。
「あんた、そんな気軽に応えて良いのかい?
幾らあたしが桂に近しいからって。あんたから見れば競合相手の1人で、若杉のアキレ
ス腱を握る邪魔な過去の遺物だろうに。鬼の、観月のあたしの求めに全面的に応じるっ
て」
簡単に呑み込めず、やや戸惑うあたしに。
「代が変れば、前代の遺産を正も負も検証して精算するのが組織の常です。責任を果たす
為にも継承はしますけど。その効用も弊害も、それに至った背景や経緯も把握しなけれ
ば」
サクヤさんの、いえ、観月の件もわたしの若杉掌握の一環で、いずれ取り掛る物でした。
わたしが桂おねーさんを守る為に、若杉財閥と鬼切りの頭を継ぐと心を決めたあの夜から。
葛は自分の粥をあたしの匙で口に運びつつ。
「むしろ己の体制固めの為に、曰く付きの悪い事案は把握したい。同時に今動かれてはや
や困るサクヤさんを押し止めたい葛としては。脅しや策謀で不信や敵対心を増すより、合
意して留まって貰えるなら、その方が遙かに」
望む結果が出るかどうかは保証できませんけど。わたしは桂おねーさんの心を乱す事を
望みません。わたしが鬼切りの頭を承けるのはおねーさんを守る為です。それは唯体と生
命があればいい物ではない。魂が生きて輝いてくれないと。サクヤさんはおねーさんのた
いせつな人です。叶う限り願いには応えたい。
その妨げとなる過去があるなら、直視して必要な措置を採る。わたしには観月の民等と
の繋りを絶って、鬼切部や財閥など人にのみ偏って立つ今の若杉は、歪で脆弱に思えます。
鬼は討てても人の世を守るに適さない。桂おねーさんの周囲を常に確かに守るのも難しい。
鬼切部とは悪鬼を切って人の世を守る者です。違っていればわたしがその様に再編成しま
す。
「皆さんと過ごした数日で、考えさせられる事も多々ありました。あなたの期待を裏切ら
ない結果は出したい。信じて頂けますか? 桂おねーさんをたいせつに想う若杉葛を…」
右間近で見上げて視線を向けてくる幼子を。
あたしは言葉より右手で抱き寄せ答として。
桂と柚明が心から信じたたいせつな人なら。
あたしにとっても葛はたいせつな人となる。
羽様の屋敷で一緒に過ごす日々が終っても。
夏が終っても秋を冬を迎えても変る事なく。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
翌日午前中は柚明と2人、一糸纏わず肌身を添わせ。日中は観月の回復力が落ちるけど、
直接肌を合わせれば治癒は強く後押しされる。
柚明は桂の世話を烏月や葛や尾花に任せて。
「桂が気に掛けているよ……いいのかい?」
首を曲げて問うと、柚明は両の腕を絡ませ。
この左半身に更に絡みつき、胸も頬も当て。
「桂ちゃんの不安は、わたしにだけではなく、サクヤさんへの心配でもあるの。早く完治
出来れば、桂ちゃんの不安も早く拭えるわ…」
柚明に強く望まれるとあたしも断り難く。
襖の向うの桂の心境も気掛りだけど今は。
間近の柚明の肌触りに理性が飛びそうで。
生娘の柔肌は極上なら、同性の欲情迄も。
呼び起こす物なのか。それともあたしが?
「サクヤさん……お昼ご飯っ」「桂…?」
柚明が外した後に、昼飯を持って入ってきた桂の応対が冷やかな気が。あたしの咥えた
匙をやや乱暴に、自分の口に運ぶ桂も可愛い。
「どれ、もう動いて大丈夫かね」「え…?」
桂の給仕を終えてから、あたしはおもむろに左腕を持ち上げてみて、うんと頷き。桂に
支えて貰いつつ、二本の足で布団の上に立ち。
「サクヤさん、もう大丈夫になっていたの」
「桂が口に運んでくれた粥のお陰だよ。お伽話にあるじゃないか。王子様のキスで姫君は
目を醒まし、2人結ばれて幸せになれるんだ。今回は、匙を通じての間接キスだったけ
ど」
「さ、サクヤさんっ。それじゃわたしが…」
「ありがとう。あたしの可愛い王子さまっ」
気力を抜くと、まだ足下がふらつくけど。
これ以上黙っていられる性分でもないし。
「起きて大丈夫なのですか?」「良かった、歩ける様になって」「はい、コップ水です」
まあ起きた処で夕飯迄特にする事もなく。
みんなあたしを未だ半病人扱いだけどね。
茶を飲んで受け答えする内に日は傾いて。
「……さて、それじゃ少し早いけど。ぼちぼちと夕飯の支度に、掛るとするかねぇ……」
「サクヤさん、動いて大丈夫なのですか?」
烏月はあたしの深傷を直に知っているから。
動くには未だ早いと案じる声を掛けるのに。
「無理しなければ日常生活には障りないよ」
「これからは夜で、鬼の刻限ですものね…」
「……? お姉ちゃんの癒しの力が増すから安心ってこと、だよね、ノゾミちゃん…?」
ノゾミが曖昧に頷き取り繕う脇であたしが。
「葛や烏月が助手じゃ、柚明もこの人数の飯を作るのは中々大変だろうに」「たはは…」
「もう病人食は良いから。今宵は慣らし運転と言う事であんたの助手をさせておくれよ」
「……分りました。サクヤさんと2人で厨房に立つのって、随分と久しぶりですね……」
柚明は少し心配そうな表情を見せたけど。
了承すると懐かしそうな微笑みを浮べる。
嬉しそうに厨房に向かう後ろに桂が続き。
「……米を炊く処から始めるんだから、そんなにすぐには出来ないよ。つまみ食いしたい
なら、もうちょいしてから出直してきな…」
「違う、違う。……わたしも手伝うよっ…」
桂は血の量も復しつつあり、柚明の癒しを受けずとも日常生活を営める迄、あと少しに
至っていて。昨日今日は何かとあたしと柚明の密着が多く。桂の羨みの視線も感じたっけ。
「サクヤさんもいるから、桂ちゃん迄お手伝いをしなくても、大丈夫よ」「わたしがお手
伝いさせて欲しいの。お願い。……ダメ?」
『あ……拙い。ありゃ桂の必勝パターンだ』
拾年前も桂は柚明に、あの様に下から見上げて瞳をうるうるさせて、大抵の我が侭を押
し通していた。柚明は今もどこかで桂を幼子扱いしているし。ここ迄来れば結論は見える。
「……分ったわ。じゃ、お手伝いをお願い」
「わぁい。やっぱりお姉ちゃん、大好きっ」
拾年前の様に桂は、柚明の柔らかな肌身に頬を埋めて両腕を回し。違うのは桂の成長に
伴って頬が頬に合わさって、柚明の背に回す桂の両腕が、確かに繋り抱き締められる事で。
聴衆に烏月と葛とノゾミが加わっている事で。
柚明も拾年前の気分なのか。他の視線を承知で桂の想いを受ける事を優先し。少し羨ま
しい。でも桂と柚明のどっちが、あたしは羨ましいのか。柚明に桂を奪られた様な、桂に
柚明を奪られた様な。悔しいけど微笑ましい。
複雑な感慨に包まれつつ3人厨房に入る。
でも、そこであたしが直面した状況とは。
「桂……あんた包丁握った事あるのかい?」
「あるよ。家庭科の調理実習で習ったもん」
どう見ても危なっかしい持ち方に。あたしが先に指摘したので、柚明は黙して見守って。
「日本の教育も地に落ちたもんだねぇ……最近は、そんな持ち方を教えているのかい?」
「気が散るから黙って!」
『お姉ちゃん。わたしもみんなの夕ご飯作りに役立ちたいの。切る物があるなら任せて』
食器並べを頼んだ柚明に、桂は強くそう申し出て、切らせてと、大根を半ば奪い取って。
でもそれから固まって、既に数分が経過した。
「……手、震えてないかい?」
今宵はあたしが柚明の手伝いを、桂は更にあたしの手伝いを。だから桂の進捗の把握は
あたしがすべきと、声を掛けてみたのだけど。
「良いからサクヤさんは自分の方をやって」
「……一応、手は動かしているんだけどね」
あたしの大根は余所見していてももう桂剥きだ。あ、桂剥きって、結構字面が愉しそう。
「もう手伝いは充分だから、居間に戻って葛や尾花やノゾミと遊んでいたらどうだい?」
「未だほとんど、何もやっていないよ…?」
「皿や鍋とか洗って、米研いだじゃないか」
「とても助かったわ桂ちゃん。もう充分よ」
「ううっ……わたし、役に立ててない……」
桂は作業の遅れを取り返そうと焦り出し。
その手が奇妙な感じで再度進み出すのに。
「桂! 包丁を動かすんじゃなく、材料の方を動かすんだよ」「ちゃんと剥けてるもん」
「……桂ぃ〜〜〜〜」「……桂ちゃん?」
「わたしは大丈夫だから放っておいて!」
桂の瞳が成功に輝き始めるけど。鼻歌を歌い始めるけど。明らかに動きが通常ではない。
でも刃物持ちを抑え込むのも、却って危うい。
「鼻歌も歌えちゃうよ。ほら、一丁上がり」
ふふふ、今からサクヤさんを追い上げるよ。
「……刃物を人に向けるのはおよし」
「おっと、いけないいけない。こんな事をしていたら追いつけない」
次の瞬間、つるっと大根が滑って落ちる物音と。傍でびくと肩の竦み上がる気配が届き。
「ちょっと桂っ……大丈夫だったかい!?」
より桂に近いあたしが、作業を止めて桂に添う。柚明は調理のメインで、火を扱ってい
るから暫く離れられない。桂はあたしの叱声で、びっくりした硬直から解き放たれた様で。
桂の指は赤く濡れていて。まな板の上に赤い花が広がって。掌や甲を糸の様に伝った赤
い血が、手首の辺りで体を離れて滴り落ちる。蛍光灯の光を受けて輝く不透明な液体は、
桂の視線を釘付けにして。呆然と見つめていて。
「……、……痛い……」「ちょっと桂! 何をぼーっと見ているんだい」
我を取り戻し、傷口を洗い流そうと、蛇口に伸ばす桂の手を、あたしの手が止めていた。
「サクヤさん?」「そっちの手をお出し…」
両手で握って。その傷口に目を近づける。
「……浅くもなさそうだけど、それ程深いって訳でもなさそうだねぇ」「大丈夫そう?」
柚明に任せれば一分掛らずに治る掠り傷だ。
放置しても絆創膏を貼っておけば治る程の。
失血も血が増え始めた今なら心配も不要で。
危ういのなら柚明が何を捨てても桂に添う。
その柚明はあたしの背後から様子を窺って。
「そうだね。食事の支度の途中でつまみ食いするのは、普通に良くある事だよねぇ……」
押し頂いて、桂の手をこの口元に寄せて。
流れ出る赤い液体を、この舌で舐め取る。
「あ……ちょっと、サクヤさんっ?」
傷口を舐められ背筋がぞぞっと来る感触で、桂の身が軽く震えるけど。桂は嫌悪してな
い。
「あの、その……何を?」「何をって……」
この侭じゃあ、絆創膏も貼れないだろう?
「確かにそうなんだけど、だからって別に舐めなくっても……水道だってあるんだし…」
「そんなの勿体ないじゃないかい」「え?」
「つまみ食いって言っただろ? 桂を流れる贄の血は、何にも代え難いご馳走なんだよ」
「そ、そんな。お姉ちゃんやノゾミちゃんでもないのに。サクヤさんには唯の血でしょ」
綺麗に舐め取ると見えた傷口は、やはり大した幅も深さでもない。失血の量も少ないし。
桂も躊躇いつつ困惑しつつ拒みきれず。しかし旨いね、贄の血は。ノゾミが欲しがる訳だ。
「……ふう、ごちそうさん」
「ううっ、なんか指先ふやけてしわしわ…」
「それだけ桂が、魅力的だったって事だよ」
「わたしって言うより、わたしの血がでしょ。
贄の血は鬼に力を与えるから、ノゾミちゃんかお姉ちゃんに呑んで貰えれば役に立てる
けど。サクヤさんじゃ唯の呑まれ損だよ…」
だいたい、血なんて本当に美味しいの?
「ほら、あたし、塩っ辛いの好きだし……」
「ううっ……」「桂ちゃん、泣かないで…」
そこへ柚明が割り込んで。あたしが舐めた傷口に顔を寄せ。滑らかな桂の肌に添う柚明
の整った顔が艶っぽい。視線は絡み付く様に。
「今治してあげるから。大丈夫よ、すぐに痛みも傷跡も消えてなくなるわ」「うん……」
今度は柚明が桂の掌に唇で触れ。もう溢れ出すというより、滲み出る感じになっていた
その傷口に、軽く吸い付き。電灯の輝きの下、柚明の体の線を微かに蒼い光が縁取ってい
る。
「お姉ちゃん。サクヤさんが口を付けた後に唇で触れるって事は、お姉ちゃんと間接…」
唇を合わせた柚明は、言葉ではなく微かに頷き了承を返し。躊躇も嫌悪も欠片も見せず、
心を込めて身を添わせ。桂の血を得る柚明が、上気して見えるのは気のせいか。桂が柚明
に血を吸われる時に、頬染める程恥じらうのも。双方綺麗に育った年頃の娘だけに、濃厚
な2人の絡みが気になって堪らない。今宵のあたしは傷の痛みより、この絵に悶々しそう
だよ。
「はい、おしまい」「本当に、傷跡もなくなっちゃった……ありがとう、お姉ちゃんっ」
どういたしまして。微笑み返す柚明に、癒しの心地よさもあって再びぼうっと佇む桂に、
「……それにしてもさあ、桂」「なぁに?」
「あたし的には、切っているのが大根の時で、助かったよ……」「……? なんで…
…?」
「生魚扱っている時だったら、流石にあたしも柚明も、ノゾミだって引いただろうねぇ」
桂は出血に懲りた以上に、柚明の強い願いで居間のちゃぶ台に器を並べる役へ横滑りし、
その侭夕飯を待つ側になる。2人きりになった瞬間、柚明があたしの耳に口を寄せてきて。
「……今回だけですからね、サクヤさん…」
穏やかに静かな声だったけど。柚明に釘を刺されると、どうして背筋に悪寒が走るのか。
真弓に凄まれてもここ迄びくついた事は殆どないのに。敢て言うなら、笑子さんか姫様か。
贄の血を美味そうに呑む図を桂に見せると、観月の正体を悟られる怖れがある。あたし
の真相を受け容れた柚明は、桂に全て明かしても良いと想っている様だけど。あたしがそ
れを望まない以上秘匿を保つ積りで。あたしの所作を危ういと。その指摘は正解だったけ
ど。
今回はあたしが未だ深傷が癒えてないから。桂の血は比類なく濃く、微量でも柚明の癒
しより効果が強い。あたしの治癒に繋り、この位の失血は生命を左右しないから見過ごし
た。今の柚明は、桂の血をつまみ食い感覚で頂いたあたしに、その手をぴしと叩く感じな
のか。
少しイラっと来た。それは柚明と言うより、柚明の一言に竦んだ己への苛立ちだったの
か。あたしは己の独占欲を表して、柚明の独占欲を導いて露わにしてみたく。少し斜に構
えて。
「桂と白花は、あんたの物だったからねぇ」
でも、振り向いた柚明は静かな正視を返し。
苛立ちを呼び招こうと、仕掛けたあたしに。
使わなくなって久しい、懐かしい呼び名を。
「サクヤおばさん……。それは、違います。
わたしが桂ちゃんと白花ちゃんの物です」
騒いでいたあたしの腹の虫が一気に鎮まる。
挑発を受けても動じずに尚強い親愛を返す。
戦意を失わせる応対は正に笑子さん譲りだ。
「桂ちゃんの血を呑む事を、わたしが阻む積りはありません。わたしはノゾミにも、桂ち
ゃんの生命を危うくしない範囲で、桂ちゃんの確かな同意がある限り、その血を呑む事を
妨げないと告げました。勿論サクヤさんも」
柚明は密談を意識して唇を頬に近づけて。
「唯わたしは、サクヤさんが自身の真相を明かした上で、観月として桂ちゃんの贄の血を
求めるべきだと、想います。桂ちゃんは強く賢く優しい子。きっと受け容れてくれます」
両の二の腕を軽く掴まれた。それは柚明があたしに何か求め願う時に見せる姿勢だけど。
柚明の願いは殆どが、己以外の誰かの為にだ。見上げてくる双眸の美しさに息を呑む。拙
い。
「無理強いはしないけど。サクヤさんの意思と言葉とタイミングに委ねるべきだけど…」
助かった。柚明はあたしの意思も尊重するから。最後は強く求めきらず、視線を逸らし、
手を放す。無理強いされていれば、あたしが断り切れない『柚明の必勝パターン』だった。
あたしが柚明に抱くのは、幼い頃から続いた親愛か、中途から抱いた欲情か。遂に一番
に出来なかったのに。今も桂を一番に想っていながら。こうして肌身触れ合わせ間近に見
つめ合い言葉を交わすと、沸き上がる欲求は。
柚明はどんな時も拒む姿勢を見せないから。嫌悪も怖れも警戒もないから。あたしの欲
情が求められているのかと錯覚する。否、これは錯覚なのか。もしや柚明は本当に。魂の
奥迄覗き込んでくる澄んだ瞳が麗しい。この侭抱き締め奪わず、逃がしてしまう事が惜し
い。強く賢く柔らかく、優しく儚く危うげな乙女。おむつの頃から見守り続けてきた愛し
い柚明。
想いが溢れ出す代りに、夕飯の鍋が噴き零れて、2人きりの時とあたしの妄想は終った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽様のちゃぶ台にこの人数が揃うと壮観か。
桂の左に烏月が座し、葛が右に。柚明の左にノゾミが座して、あたしは右に。烏月はこ
の中で最も肉体労働者に近いのに、意外と食が細い。桂は回復の為に柚明が代謝を促す措
置をしており、常よりも多く食べている様だ。
肉の体を作っている最中で、栄養や材料が多く要る柚明も、多く食べる様に努めており。
あたしが知る拾年前より、少しだけ食が多い。あたしは未だ多く食べられないので食が細
い。
「体重比で多く食っているのは年少組かね」
たはは……。葛が頭を掻きつつ苦笑いで。
小さな手で服の上から脇腹を掴んで見せ。
「ユメイおねーさんのご飯は美味しいので、つい。スタイルの崩れが、気に掛りますね」
「ちょっと観月の娘。あたしを鬼切りの頭と一括りにしないで頂戴。私は千年を経た鬼で、
桂やゆめいや鬼切り役よりも年長なのよっ」
「そうさねぇ……出る処がしっかり出る前に、お腹が出てしまっては、乙女としては多少
残念だからね。ノゾミも気をつけたが良いよ」
「ちょっとあなた、私の話を聞いていて?」
「うぅ、ちょっとわたしも体型、心配かも」
「大丈夫だよ、桂さん。柚明さんの料理は野菜や穀物を多く含んだ和食だから。多少食べ
ても太る心配は少ないよ」「烏月さんっ♪」
「今宵は桂おねーさんやサクヤさんの想いも込められていて、美味しさも更に倍増です」
「巧い事言ってもこれ以上は何も出ないよ」
「観月の娘、私の言葉に応えなさいなっ…」
「ありがとう。葛ちゃん、とても嬉しいよ」
「お代りはあるから、遠慮なく言って頂戴」
「はい、ユメイおねーさん。では遠慮せず」
「私が盛りましょう。ついでに私も少し…」
「あなた達、私の話聞いてないでしょう!」
和やかに賑やかに。ノゾミと食卓を囲むなんて。否、千羽の烏月や若杉の葛と食卓を囲
むなんて。柚明と再び食卓を囲めるなんて…。
食べる者と喋る者が、様々に声と音を立てるちゃぶ台で。ノゾミがカラになった茶碗を
柚明に向けて突き出す。お代りの求めらしいけど、人に頼む事に慣れぬノゾミは高飛車で。
「はい、お代りね……」「……早く頂戴!」
柚明が穏やかに受けて飯を盛る様を前に。
「ノゾミさん。居候はお代りの3杯目は、そっと出すべきなんですよ。今様の礼儀では」
「遠慮なく貪り食っている、葛が言うかね」
「しかし結構食べますね。胃もたれとかの心配はないのでしょうか?」「食べ過ぎで?」
血を啜れば足りる筈という烏月の率直な感想に、桂も頷き。興味深げな様子でノゾミに、
「ノゾミちゃん、現身でご飯食べているよね。その、口から入った食べ物は、今ノゾミち
ゃんが現身を解いたら、どうなっちゃうの?」
ノゾミちゃんはその意思で、いつでも現身を解けて。その身を存在しない状態に出来る。
身に纏う衣も赤い蛇も出し放題の消し放題で。その気になれば櫛も作れるし、洋服も纏え
る。
でも今突然ノゾミちゃんが霊体になったら、口に運んだご飯やお味噌汁は一体どこに行
くのかな。ご飯やお味噌汁は仮の物質ではなく、スーパーで買って来た本物の食材だし。
そもそも霊体のノゾミちゃんが出られない昼の間、食べた物は一体どこに行っているのだ
ろう…。
「確かに、不思議と言えば不思議ですねー」
「私も今迄、考えた事がありませんでした」
「余り考える必要性を感じなかったからね」
あたし達の視線が、下手な箸使いで両頬に飯粒を付けつつ頬張り続けるノゾミに集まり。
ノゾミは気付いても飯が口に一杯で喋られず。
「今ノゾミが突然消えたなら、未だその胃袋でこなれきってないご飯やお味噌汁が、畳や
ちゃぶ台に飛び散る騒ぎになるでしょうね」
柚明がノゾミの視線を受けて、答を返す。
この2人、いつの間に目配せで分る仲に。
「特にノゾミは千年の間、口にしたのは殆ど人の血で、まともな食物から栄養を摂ってな
かったから、現身の消化器系も強くはないの。千年も使ってなければ鈍るのも無理ない
わ」
「霊体の鬼にも消化不良とかあるのかい?」
好奇心の侭に未だ霊体の鬼の柚明に問うと。
柚明はあたしを向いて柔らかに頷きを返し。
「霊体の鬼は人の食事を必要としませんから、使わない消化器は逆に人より弱いと思いま
す。わたしは何日か皆さんと一緒に人の食事を摂っているので、慣れてきたけど。最初の
内は、拾年人の食物を口にしてなかったので、喉に通す事を意識しなければなりませんで
した」
「ふぇ、そうなんだ」「意外な事実ですね」
「訊いて初めて分る事も、あるんですねー」
「でも、夜にさかき旅館でミカゲやあんたが、桂の血を呑んだ後で烏月に撃退された時
は」
桂を守って戦った柚明が消滅寸前迄追い詰められ、その後烏月にも切られ掛けたあの夜。
「あんたやミカゲが現身を解いて退いた後に、桂の血は飛び散ってなかった様だけど
…?」
「取り込んでしまえば己の物よ。今食した夕餉も一時(いっとき)あれば体に馴染むけど。
霊体の鬼には人の食物より、霊的な『力』を宿した人の血の方が、遙かに馴染み易いの」
漸く飯が喉を通ったノゾミが口を挟んで。
「あらゆる呪術で使われる様に、血その物に特別な力があるのは、知っているでしょう」
「力の『ち』であり命の『ち』。形ある肉の一部でありながら形のない魂の一部でもある。
トコタチ、サツチ、カグツチ、オロチ。チは神霊その物を表す言霊ですね、ノゾミさん」
「鬼切りの頭は、察しが早くて助かるわね」
短く答えてから、又飯を食い始めるノゾミに代って、柚明が穏やかな声音で答を繋げて、
「血が宿す力を霊体に取り込む事で、一体不可分な血液の物質としての側面、栄養や水分
も取り込むの。結果、全てが『力』になって、物質としての存在も共になくなってしまう
の」
「つまり霊体の鬼はトイレに行く必要も?」
問いかけた桂に柚明は向き直って頷いて。
「わたしもご神木にいた間、用を足した事も眠った事も身を清めた事も、なかったわね」
「元々鬼に人の食事は不要なの。今も私が夕餉に付き合うのは。ゆめいが私の好みに合わ
せて作った料理を食べて欲しいと願い、桂が一緒して欲しいと頼むから、仕方なくで…」
「このお料理、ノゾミちゃんの好みなの?」
桂が怪訝そうな顔をしたのは、柚明がノゾミの口に合わせた料理を作った事にではなく、
「笑子お祖母ちゃん直伝の和食メニューの数々は、お母さんと姉妹弟子の関係にあたるだ
けあって、わたしの好みにぴったりだったよ。これがノゾミちゃんの好みって事は、わた
しと味の好みが似ているって事なのかなぁ?」
「別に、誰かに合わせて作った味には感じないけどね。これは拾年前迄柚明がここで、あ
たしや笑子さんに倣っていたその侭だろう」
そう……なのですか? 不納得そうな表情のノゾミに先んじで、口を開いたのは烏月で、
「今に限らず、朝も昼も淹れてくれたお茶迄、風味も濃さも私が調整しきれぬ領域で、完
全に私好みだったので。柚明さんは私に深く繋ってくれた人だから、私の好みを察し合わ
せてくれたかと想っていましたが……葛様?」
烏月が、怪訝そうな顔の葛に気がついて。
「料理の味や香りに拘らないわたしですけど。ユメイおねーさんが作ってくれる食事は、
なぜかわたし好みなんですよー。油揚げなんか特に。美味しいという以上に好みなんで
す」
そー言えば尾花もそんな顔をしていました。
「柚明は拾年前以前から、あたしや笑子さんの味に馴染んで育ってきたんだ。桂やあたし
の好みが、ぴったり合うのは当然だけど…」
各々の料理に味を付け分ける事は出来ても。
皆で分け合う飯や味噌汁迄そうはできない。
昔一緒に暮らしていた、桂やあたしの好みが合うのはともかく。烏月や葛やノゾミ迄が、
全員己の好みに合わせた様に旨いというのは。何か種がある、何かしたねと、柚明を見る
と、
「味付け自体は、わたしが倣った拾年前迄の羽様の料理です。何度か味見をして、一般的
に美味しいという状態には作れたと思うわ」
唯、それ以上に美味しく感じて頂けるのは。
「わたしがみんなをたいせつに想う心を込めたから。それが作用してくれているのかと」
「味付け以上に」「想いを込めた、ですか」
「形のない想いが食事の味に迄作用すると」
桂に続けて烏月と葛が首を捻る。ノゾミもいつの間にか箸が止まっていて柚明に魅入り。
「人の血が栄養や水分等の物質面と、霊的な呪力を不可分に持つ様に。世の事物は多かれ
少なかれ、霊的側面と物質の面を双方持つの。お料理も例外ではなく、作り手の想いが宿
るけど。わたしは皆さんを心から好いたので」
「あたし達を好いた柚明の想いが飯に宿って、あたし達好みに旨く変じたと言う事か
い?」
「味付けではなく、『力』が作用したと?」
あたしと烏月の問に柚明は柔らかに頷き。
「手作りの料理には、作り手の想いが反映され易いの。時にはその成否を左右する程に」
「ハシラの血を引いて継ぎ手も務めたゆめいなら、想いを込めて手がけた料理に力は宿る。
それは霊体の鬼である私にはより早く強く浸透し、力や癒しになるの。形ある人の食物で
ありながら、形のない魂の滋養にも。人にも霊的な面はあるから、多少効果はあるけど」
「ノゾミさんの滋養になる様に、わたし達の滋養になる様に、愛情や癒しの力も込めてく
れたという訳ですか」「納得できましたー」
「インスタントより手料理が一般に美味しいのも、素材の活きや保存料の有無より、想い
が込められているかどうかの違いって事?」
桂の問に、柚明は正視を向けて答を返し。
「インスタント食品にも、想いが籠もってない訳ではないのよ。機械を使った大量生産で
は直接想いを込め難いけど。機械にも機械を作った人の想いが宿るわ。人に役立つ機械を
作った制作者や開発した人の願いが。食材には食材を作った人の想いが宿る。畑で野で山
で海で、食材を得る為に頑張った人の想いが。
直接ではなく間接なので、はっきりと反映されないから分り難いけど。手がけた販売店
の人や運搬した人の想いも、籠もっているの。器や包装紙や商品名に込めた人の想いも
…」
霊的側面を持つのは血や呪物だけじゃない。
人の血が物質の側面を抜きがたく持つ様に。
「わたし達は気付かないだけで。常に多くの想いに包まれて、見守られて生きているわ」
わたしの想いや料理が皆さんに好んで貰えて、心や体の力になれるなら、わたしの幸せ。
「わたしがお姉ちゃんのお料理を美味しく感じるのは、お料理にお姉ちゃんがわたしを好
いてくれる愛情が、込められているから?」
「ええ。その気持は確かよ、間違いないわ」
うん……。桂は頷きつつも尚、考え考え、
「それもあると想うけど……お姉ちゃんのお料理をわたしが美味しく感じるのは、わたし
が柚明お姉ちゃんを好きな為かも。わたしの想いがこの夕ご飯を美味しく受け容れ易く」
「そんな事も世にはあるのかも知れないね」
あたしが柚明の飯を特に旨く感じるのも。
烏月や葛がノゾミが同じ様に感じるのも。
「同じ釜の飯を食した仲というのは、想いを共有し合う仲でもあると、言う事ですかー」
「食べ物が桂ちゃんの胃や腸で、こなれて取り込まれるのに近いけど。霊体の鬼は全て余
さず取り込むから、より大きく取り込んだ食べ物の影響を受けるの。宿る想いの影響も」
町の家に移った後も、ノゾミは食事を通じて柚明の想いを受け続け。力の補充以上に心
に強く影響を受ける。今後のノゾミに悪鬼に抱くべき怖れは殆どなく、その低い怖れさえ
どんどん薄まり消えて行く。柚明はその状況を導きつつ、みんなに見せる事で懸念を拭い。
同時に全員に愛おしむ想いを浸透させ、あたしの治癒も促し。本当に、本当に柚明らしい。
夕飯の後は欠けた月明りの下で風呂に入る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『だったら、わたしも昨日桂おねーさんと温泉旅館に一泊してくれば、良かったです…』
そーすればわたしも烏月さんの様に、桂おねーさんとお風呂一緒して介抱も出来たのに。
昨日夕飯で、桂と烏月がさかき旅館の日帰り入浴を一緒したと聞いた葛の、羨ましさを
ストレートに出した呟きを柚明は憶えていて。
「葛ちゃんと一緒に入って貰って良いかしら。人数が多くなると湯もぬるくなってしまう
し。お風呂の後はみんな揃いでお話ししたいから、余り時間を費やしたくないの。お願い
……」
桂に葛と一緒の入浴を頼み。葛は桂の返事が気になって、頬を染めつつも固まっている。
「葛ちゃんが良ければ、わたしは良いけど」
「ま、全く問題ないです。全然いーです!」
柚明は葛に少し甘いのではないか。幼子への甘さか、鬼切りの頭との今後を見据えてか。
2人を見送る柚明に言葉を掛けようとした時、
「ノゾミ……」「私という物がありながら」
タオルを持って歩み行く桂と葛の後ろを。
当然の如く浮いた現身でノゾミが追随し。
あたしが声を掛けるより、早く別の手が。
低空飛行していた首筋を、後ろから掴み。
「なっ、何をするのよ! 鬼切り役っ…?」
「それはこっちの台詞だ。入浴する葛様と桂さんを脱衣所迄追いかけて、どうする気だ」
烏月は鬼切りの力を転用して、霊体のノゾミを逃げられぬ様に、しっかり右手で掴んで。
「桂と私は生命を補い合った仲なのよ。あなたより鬼切りの頭より深く繋った仲なのっ」
「だからと言って、桂さんの入浴に了承もなく、勝手に入り込んで良い事にはなるまい」
ノゾミはばたばた暴れるけど、烏月の手から逃れられない様で。振り向いて足を止めた
葛と桂が見守る前で、あたし達が見守る前で、
「私は今様の湯浴みに不慣れだから、桂の湯浴みを参考にしたいだけよ。邪心なんて…」
ノゾミの弁明は邪心の所在を明かす物で。
烏月の瞳の奥で星の輝く音が聞えた様な。
「それで桂さんの入浴に割り込むか……良いだろう。なら私が一緒して今様の水垢離をし
っかり教え、その身に残る邪心を残らず清めてやろう。そうすればお前が悪鬼ではないと、
私も認め易くなって一石二鳥」「ちょっと」
うふふふふふ。烏月の笑顔が何気に怖い。
「桂さん、葛様。今宵は私が先に入って宜しいでしょうか。少しノゾミとの親交を深めた
いので」「良いけど……」「良いですがー」
葛は楽しみが少し遠のいたと言うより、邪魔者が消えて助かったと言う感じで受け容れ。
「私は良いなんて一言も言ってなくてよ!」
抵抗も苦にせずノゾミを引っ張って行く。
振り向くと柚明はちゃぶ台で茶を淹れて。
心配の必要もないと見切っているらしい。
「お前が桂さんや葛様に悪さを出来ぬ様に」
「ひゃっ、鬼切り役。一体何をするのよっ」
「不健康な体つきだな。もっと鍛えて滋養を付けねば」「鬼に人の理を押しつけないで」
「背中を流してやる」「ちょっと、痛いっ」
「清めているのだ、感謝しろ」「やめっ…」
漏れ聞える声や水音は、結構激しいけど。
「一体、どんな戦いが為されているやらー」
「ノゾミちゃんも烏月さんも、大丈夫かな」
桂と葛は他人事の様に、柚明の入れた茶を飲んで寛いで。やっぱりおいしーですと和ん
で呟き、そうだよねーと言う桂の答を誘って。あたしは酒を行きたかったけど、予想通り
未だ早いと止められた。反対多数で否決された。
烏月達の上がりを待って桂と葛が入浴し。
「つっ、葛ちゃん……」「負けないですよ」
「反撃するからね」「ひゃあぁおねーさん」
漏れ聞える嬌声や水音は、愉しげだけど。
ノゾミは一体、湯にのぼせたのか烏月にのぼせたのか。脱力して柚明に抱かれ身を預け。
傍目には仲良い姉妹に見えるから錯覚は怖い。力の抜けたあたしと烏月で、ちゃぶ台を囲
み。
桂と葛の後は柚明が入る。珠の様な肌が湯に浸かり、ほんのり染められる様を、思い浮
べるだけで、あたしの頬に血が回るけど……。
「あんたが何で憑いていくんだい」「っ!」
柚明の後を浮いて憑いて行きかけるノゾミの左足を、あたしはぐっと掴んで引っ張って。
「ゆめいと私は生命を補い合った仲なの。あなたよりもずっと深く繋り合った仲なのよ」
ごく最近に聞いた台詞を繰り返すノゾミに。
振り返った柚明は特に怒ってなかったけど。
「柚明が許してもあたしが絶対許さないよ」
柚明は葛にのみならず、烏月にもノゾミにも甘すぎる。桂と白花に大甘なのはともかく。
「懲りない様だねぇ。どうやらあたしも年長者同士、親交を深めたくなってきたよ……」
悪い虫は桂の家に移り住む前に、少し躾けておくべきか。じたばた暴れるノゾミを右手
に掴んで、柚明に風呂の順番を変えて貰って。葛や桂に見送られあたし達は先に風呂に入
る。
傷に障るので長く湯には浸かれない。体と髪をさっと洗って上がる感じだけど。ノゾミ
はしっかり五右衛門風呂に、肩迄押し込んで、
「百数える迄浸かるのが今様の湯浴みだよ」
「霊体のあたしに湯の熱や暖気の渦は、力と同時に害にもなるの。暖まれば良い物では」
「じゃあ早く数え終ると良いさ」「むっ…」
病的に白い肌は生前の印象その侭か。すらりと整った肢体は永遠の未成熟で、漸く膨ら
み始めた位の両胸は、少し前の桂や柚明を想起させる。腕も足も腰も折れそうな程に細く。
勝ち気に見上げてくる容貌は綺麗とも言えた。
ノゾミの視線があたしの胸に向いてから。
魅せられたと悟られたくない様に逸れる。
永遠に育ちかけの胸も可愛くて良いけど。
同じ千年を経てもこっちは育ったからね。
「体は烏月と一緒に洗ったんだろう。暖まったら上がって良いよ。どうしたい?」「…」
ノゾミは泡立てて髪を洗うあたしを見て。
興味深そうに間近に浮いた侭で見守って。
今様の湯浴みが物珍しいのは本当らしい。
小娘に裸を見られても恥ずかしくないし。
見られる侭に任せつつ髪を濯ぎ終えると。
突然別の声音が脱衣所から気配と一緒に。
「サクヤさん、お背中、流しましょうか?」
「ゆっ、柚明……!」「何で来るのよっ…」
なぜノゾミ迄が狼狽えるのか分らないけど。
あたしもなぜ急に恥じらうか分らないけど。
「ノゾミに頼めれば良いのだけど、ノゾミは今様の湯浴みに不慣れな様だから、わたしで
良ければ」「ちょ、ちょっと待ちな、柚明」
湯に浸かって心も体もふやけて無防備だ。
こんな処で柚明の素肌を間近に感じれば。
傷が疼いても己自身どうなってしまうか。
あたし達は扉一枚隔てた柚明を取りあえず留め、互いに目配せ交わし合って。どうやら
ノゾミも現状の己を柚明に晒すのは嫌らしい。実の処2人共、柚明に踏み込まれる事の何
が怖く嫌なのか、確かに応えられないのだけど。
「ノゾミ、どうするね。柚明に頼んでしまうかい」「観月の娘の背は、私が流すわ…!」
大丈夫だと、扉一枚隔てた柚明に言うと。
はい、と声は柔らかに応えて去って行き。
少し残念そうに聞えたのは、気のせいか。
2人共心残りだったのは、錯覚ではなく。
風呂を上がって一息つくと、居間のちゃぶ台での話しに臨む。今後の桂と柚明と、あた
し達全員の先行きや対応・展望を見通す為に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「サクヤさんの完治には、あとどの位掛るのですか?」「傷跡迄なくすには少し掛るけど、
2日あれば日常生活に支障ない位に戻るよ」
居間に全員揃っての話は、あたしの容態の確認で始り。烏月の問にあたしが答え、葛が。
「分りました。明明後日の朝、わたし達はここを退去する事にしましょー。明後日深夜に
烏月さんから、わたしの発見を若杉本部に携帯で連絡して貰います。翌早朝には迎えが来
るので、烏月さんと共にここを辞去します」
尾花共々長らく居候させて頂いて、本当にありがとーございましたー。揃って一礼して。
「桂おねーさんやユメイおねーさん、サクヤさんも、わたしの生命の恩人と、説明します。
実際、生命も体も心も救って頂きましたし」
その事実を証言し、事情に深入りした部外者を消したがる若杉の手を留める為にも、葛
の意向を受けた烏月が、傍で目を光らせると。
烏月の追っていた鬼は、最早討つ事が不可能になった。それより今は鬼切りの頭を発見
し守ってきた事実や、その後の護衛が重要で。
「私もここへの逗留はそれ迄と言う事になります。桂さん柚明さん、長らくお世話に…」
「烏月さんも、葛ちゃんも行っちゃうんだ」
「いつ迄も一緒にはいられないよ。それぞれに帰る家があって、やらなきゃならない事を
抱えている。あんただって幾ら引っ張っても、ここにいられるのは夏休みが終る迄なん
だ」
あたしもできる限り早く現場に戻らなきゃ。桂が経観塚に独りで行ったと聞いて、仕事
を放り出して駆けつけたけど。こっちが片付いた以上、糧を稼ぐ為にも顧客の信頼に応え
る為にも、期限迄出来るだけの事はやりたいし。
「うん……それは、分っているんだけどね」
分っていても尚寂しさを隠しきれない桂に。
申し訳なさそうな顔の葛と烏月を前に見て。
「私が四六時中憑き纏うから安心なさいな」
私はずっとあなたと一緒だから。この屋敷で共に暮らす日々が終っても、夏が終っても。
「それは却ってあたしが心配だね」「同感です」「サクヤさんに同感なのは遺憾ですが」
「ちょっと桂、ゆめい、何か言いなさいよ」
「あはは……でも、心配してくれるって言う事は、ノゾミちゃんが町の家でわたしと一緒
に暮らすのが前提って事で、良いんだよね」
桂は時折話しの先行きを鋭く嗅ぎ分ける。
「出会いが別れの始りなら、別れは出会いの始りだって、古いお友達に聞いた事があるわ。
わたし達は訣別する訳じゃないの。又逢える。逢いたい想いを胸に抱く限りきっと逢え
る」
柚明は桂の寂寥感に寄り添って答を返す。
「逢えない間も、愛しい人は心に抱けば胸を温めてくれる。想いを、紡ぎ続けましょう」
それは、桂にのみ言った訳ではなく聞えた。
あたし達や自身の寂寥に、言い聞かす様に。
「桂ちゃんもあと2日あれば血の量も復して、生気の前借りの最後の反動も凌げるでしょ
う。葛ちゃんと烏月さんを見送った後、わたしは警察と役場を訪ねて戸籍復活を申し出ま
す」
桂ちゃんが許してくれるならと前置きし。
「その日の内にここを引き払い、桂ちゃんの家に行こうかと。羽様の屋敷は今や桂ちゃん
には旅先の地よ。肌着も雑貨も足りないし交通の便も良くない。わたしも今後暮らす町の
家に、桂ちゃんを拾年見守ってくれた町の家に早く行って、身も心も馴染ませたいの…」
桂は最早柚明から離れて生きられぬ。なら、桂の日常に響かない様に、柚明が町の桂の
家に移り住む。柚明は拾年前迄住んでいた羽様の屋敷の方が馴染むだろうけど。それでも
拾年の断絶がある。これが妥当な判断か。桂の傍には、ノゾミを掣肘できる者が不可欠だ
し。
「桂ちゃんと保護者代理のサクヤさんが、許してくれるなら、のお話しなのだけど……」
「も、勿論っ。お姉ちゃんは大歓迎だよっ」
「柚明と桂の愛の巣に、あんた達姉妹の絆に、あたしが口を挟める筈がないじゃないか
い」
あたしも気遣うべき人達は一緒にいる方が、安否の確認もし易い。柚明が桂を日々寄り
添って守ってくれるなら。昼夜問わず肌身添わせていそうな気もするけど、それはそれで
…。
話題がノゾミの今後に移っても、あたしにも烏月にも葛にも最早緊迫感はなく。結論は
桂を抜いた昨夜の話しで視えていた。柚明は、
「サクヤさん、葛ちゃん、烏月さん、お願いです。ノゾミが、桂ちゃんと町で一緒に過ご
す事をお許し下さい」「……お姉ちゃん…」
冒頭から畳に額づいて、ノゾミの受容をあたし達に願ってきて。この娘は半ば儀式に近
いと分っても、既に見えた結論を確かめる迄手を緩めない。たいせつな人の為の所作なら、
万が一の失敗もない様に全身全霊を貫き続け。
「鬼切部としては、悪鬼だった過去を抱えるノゾミを、簡単に信用できない処ですけど」
葛は烏月に判断を任せて欲しいと目配せし。
微かな頷きを得て鬼切部として判断を下す。
「ユメイおねーさんの考えを示して下さい」
悪鬼を悪鬼でなくして人と共に生きられる。
人の守りに支えに力にして心合わせられる。
「人と鬼の新しい可能性を探し出す道標を」
ノゾミは柚明に生命繋がれた5日前の深夜、柚明の求めで全員を前に言霊で約束してい
た。
『私は桂の生命は奪わない。私は桂を守るわ。私は、桂と桂の大切な人と、自身を守る以
外に人に危害を加えない。……これで良くて』
言霊は人の心を縛る。自由を心から望むノゾミには叶う限り外したい選択肢だったろう。
例え望む縛りでも、縛り自体をノゾミは嫌う。でもこれは必須だった。ノゾミが嫌う縛り
だからこそ有効でありみんなを納得させられる。
ノゾミは桂や柚明と日々を共にして、食事で添い寝で2人に影響されて行く。その上柚
明がノゾミに加えた約束は。ノゾミが存在を保つ為に桂の血を呑んで良いと。抑え付ける
のみでは共存は絵空事だ。人が供する応報も示し互いに支え合うと。想い合い守り合うと。
確かな約定は鬼切部の不安や疑念を拭う為だ。
「非常時以外、桂の血を吸う時は、桂の意識がしっかりあって、桂の確かな了解を貰えた
時に限る……これで良いのね?」「ええ…」
霊体の者の約束は、肉を持つ者のそれと違って簡単に反故にできない。想いだけの存在
が一度でも己の口に上らせた想いを覆す事は、自身の否定に繋りかねない。受け容れて明
言すれば言霊になって心を縛るし、その約定を破れば心に棘となって刺さり続け、判断を
鈍らせ意志を挫き全ての所作に差し障り続ける。外からそれを指摘すれば、効果を倍増さ
せられる。極端な話、生殺与奪を掴む事も出来る。
「ノゾミの行いにはわたしが責任を持ちます。ノゾミの犯した罪や罰や償いは、過去の物
も未来の物も全て負います。ノゾミが桂ちゃんと人の世を、共に生きる事をお許し下さ
い」
ノゾミにも桂にも言葉を挟ませず。柚明はノゾミを己の子の如く、妹の如く守り庇って。
「保護観察の様な物でしょうかね……家出少女のわたしが言うのも何ですけど。意欲と力
量と情愛のある里親がいる様な物でしょー」
羨ましーです。あなたを身内に持てた人は。
葛はノゾミと桂を見つめてから柚明に答を。
「いいでしょー。その代り、ユメイおねーさんは、千羽党の鬼切り役の監察を受けて頂き
ます。それで良ければ鬼切部は了解します」
鬼と共に生きる鬼切部。葛はノゾミを新しい鬼切部の在り方の先駆けと考え。柚明を更
に烏月が監視する形を取り、柚明も桂もノゾミも確かに守ろうと。鬼切部は唯了承するの
ではなく、鬼切部その物が密接に関り守ると。
「烏月さん、頼みますね」「承知しました」
5対の視線は、最後に残るあたしへ集まり。
しゃあない。あたしは見て分る様に溜息を。
「父母を失った年端も行かぬ娘の家に、居候なんて本来は認められないけど。あんたが望
むなら仕方ない。3人で甘々な時間を過ごすと良い。人生は有限だ、しっかり味わいな」
「皆さん……ありがとうございます……!」
「やったぁ! ノゾミちゃん。良かったよ」
柚明が伏して礼を述べる前で、桂は喜びを爆発させて。まず間近に浮いたノゾミを抱き
寄せて頬合わせ、ノゾミが眼を白黒させる中、
「ありがとう、サクヤさん、葛ちゃん、烏月さん、お姉ちゃん。わたし、みんな大好き」
みんなわたしのたいせつな人。お屋敷で過ごす日々が終っても、夏が終っても。ずっと、
ずっとみんなわたしの本当に大事な愛しい人。
月は欠けても又満ちる。花は散っても種を残し又芽吹く。喪った物は多かったけど、今
後も喪い看取り続けるだろうけど。想いを抱き続ける限り、今後に希望も残し続けられる。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
槐の木が花びらを散らして夏は終りを告げ、あたしは日常の中に帰ってきていた。
夏が始る前と同じ様に、職場や住処を行き交いし、仕事仲間と時折は寄り道とかもして、
波乱のない毎日を過ごしている。夏の前後で大きく違っている事などそれ程多くはなく…。
桂の家を訪ねた時「ただいま」と言う相手が1人いなくなり、「おかえりなさい」と応
える相手が1人いなくなった。唯それだけだ。
ふとどうしようもなく悲しくなって、涙を流す事もあるけど。この拾年そうだった様に、
この六拾年そうだった様に、千年そうだった様に。それすら日常の枠組の中に取り込まれ。
あたしは大切な人と再び別々になったけど。
真弓が亡くなった事に較べれば些細な事だ。
桂が守られて、柚明を取り戻せたのだから。
お互いに生きているのだから、それで良い。
あたしはこの日常を自ら進んで受け容れた。
別れは次に逢う迄の束の間の物に過ぎない。
真の訣れは数拾年後に確かに巡り来るけど。
携帯から聞えて来る桂の声音に答を返して、
「……こっちは仕事も順調だよ。そっちはどうだい? 週刊誌とかで、柚明が持て囃され
たり叩かれたり、結構騒がしい様だけど…」
「今もお姉ちゃん、詰めかけた記者さん達の応対しているの。合意して決めたルールに従
って取材して下さいって。多くの人は納得してくれたけど。ご近所の敷地に勝手に入って、
ウチの窓を覗き見てお姉ちゃんやわたしを撮る人もいて。ウチよりご近所に迷惑だから…。
色々あるけど元気だよ。お姉ちゃんもノゾミちゃんの様に変りなしって、伝えてって」
「変りなし、かい。用意周到に良い答だね」
桂の話しではもうすぐ戸籍が復活し、柚明も携帯を持てそうだとか。いつあたしが再訪
できるか問われ、少し仕事が詰まっているからねと言葉を濁し。桂との通話を切り上げて。
《ノゾミの様に変りなし。つまり巌の寿命》
ノゾミを受け容れた夜、柚明は桂と葛を添い寝させ、自身はあたしと褥を共に。一糸纏
わぬ素肌を絡め合う図は、性愛を交わす様に似て。その生命を息吹を間近に感じる幸せに
浸りつつ、あたしはその故に桂に後ろめたく。
『これからは、桂と最高に甘々な時を共にするんだね。好きなだけ愛を交わし合うと良い。
桂も、今やあんたにも時間は桜花の短さだ』
間近の乙女に、そう語りかけた時だった。
『……わたしにも、巌の時間があります…』
言葉と同時に柚明が気配の質を変えた瞬間。
あたしは己が柚明に何をしたか漸く悟った。
『わたしはご神木から解き放たれて、肉の体を戻しましたけど、人に戻れたとは言い難い。
むしろ今のわたしは観月に近い存在です…』
柚明はあたしの生命を繋ぐ為に、あたしに癒しが馴染み易くする為に、癒しの力の源に。
あたしの血を、観月の血を大量に呑んでいた。
柚明の癒しがあたしに馴染み易くなった時点で気付くべきだった。それはあたしの血を
大量に得て、柚明があたしに近い物に変じていたと言う事ではないか。柚明が化外の民に、
肉を持つ鬼に、巌の寿命を持つ物になったと。
『柚明あんた……あたしは、なんて事を…』
それは全てあたしの所為だ。あたしが大量出血して死に瀕し、柚明に生命繋がれた為に。
その代償に柚明はその身を存在を、人外へと。
漸く肉の体を戻せたのに。桂と日々を共に出来る奇跡を叶えたのに。甚大な悲痛を乗り
越えて、漸くその報いがあったと想ったのに。あたしは何て罪深い。これこそ万死に値す
る。愛しい柚明がよりによって、あたしの為に!
千年万年後悔する。否、あたしの悔いなんてどうでも良い。笑子さんに、真弓に正樹に、
柚明の父母に、白花に桂に、顔向けできない。あたしは何て辛く酷い定めを、柚明に強い
た。心が闇に沈む衝撃だった。元に戻す事が叶うなら、代償に己の心臓を抉って生命も捧
げた。
でも最早取り戻す事は叶わず、やり直す事は出来ず。あたしは愛しい乙女に何て事を!
でも震える魂に注がれる囁きは愛を宿し。
事の重大さを分ってないかの如く平穏に。
『サクヤさん。わたしはとても、幸せです』
たいせつなひとの幸せを護れれば。
自身が人でなくなっても構わない。
わたしがたいせつな人の為に尽くせたなら。
わたしがたいせつな人の未来を繋げたなら。
わたしはその事実で幸せ。とても、幸せ…。
わたしがたいせつな人を、守りたかったの。
柚明は全てを承知でいた。分って全身全霊を尽くし、己にどれ程反動や代償が返っても、
救えた結果を喜びとして、微笑んで定めを受容し。柚明はずっと前からそう言う娘だった。
【サクヤおばさんと一つになりたい。笑子おばあさんが、この中に一つとなって今でも生
きて流れている様に。赤い血潮になってサクヤおばさんといつ迄も生き続けている様に】
【……それだけが羨ましかった。いつ迄もサクヤおばさんの力になって残り、生命を繋い
で役に立てる、素晴らしい巡り合せが……】
【サクヤさんの身体を、今もわたしの血が生命となって流れ続けている様に。わたしもサ
クヤさんと永遠を共にしたかった。いつ迄も、過ぎ行く時間を眺めつつ、いつ迄も変らな
いサクヤさんと居続けたいと、望んでいた…】
今も目の前で変らぬ強い想いを瞳に宿して。
『わたしの方がそれは叶わないと想っていた。
ご神木の幹で肩を寄せ合って2人月を眺め。
百年でも、千年でも、万年でも、2人夜を。
何でもない事を話し、何でもない時を過す。
否、何も話さなくても良い。唯共にあれば。
少し形は違ったけど叶ってしまいました』
張り裂けそうな胸の谷間に細身な掌を当て。
『哀しまないで。わたしは喜んで受け容れた。今のわたしだからサクヤさんの生命を繋げ
た。桂ちゃんを主の分霊から守り抜けた。悔いはないわ。わたしはサクヤさんが人でなく
ても愛せた様に、己が人でなくても問題はない』
問題はたいせつな人を守れる自分かどうか。巌の寿命を持てたかは不確かだけど、多分
桂ちゃんの孫の孫の代迄、この姿形は変らない。一番には出来なかったけど、愛しいサク
ヤさんに近づけたなら、わたしはむしろ幸せです。
『わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人、生命の終りが訪れる迄想い続けたい人』
気付いた時には、あたしは柚明を総身できつく抱き締めていた。欲情も親愛も歓喜も悔
恨も全て込みで、唯己の溢れ出す想いの侭に。この時だけは、瞼の裏に桂が浮んでも、己
を止められなかった。止めようと思わなかった。
『あたしも全く同じだよ。羽藤柚明は浅間サクヤの、二番目にたいせつな愛しい乙女だ』
組み敷いた勢いの侭に唇を重ねて奪うけど。
柚明は最後迄拒絶や嫌悪を欠片も見せずに。
嬉しそうにでもやや哀しげな微笑みを浮べ。
愛しい娘は両手をあたしの背中に軽く回し。
互いに桂を一番に想うから、互いを一番に想う事は叶わないけど。決して叶わないけど。
柚明の赤い糸があたしの中を悠久に巡る様に。あたしの赤い糸が柚明の中を悠久に巡る様
に。熱く溢れるこの愛も久遠長久に終らない。この屋敷で過ごす日が終っても。夏が終っ
ても。