鬼を断つ刃〔丁〕(前)



 羽藤柚明高校1年生の夏休みも終盤に入り。
 蝉の声が響き渡る羽様のお屋敷でわたしは。

 お昼寝で縫いぐるみになった幼子を見つつ。
 今日も平穏にテレビのワイドショーを眺め。

「本日も『逃げ隠れする奇跡の女剣士』山田里奈の続報です」【近頃は毎日この話題…】

 フェンシング世界選手権フルーレで、日本人で初の準優勝者『奇跡の女剣士』山田里奈
は29歳で、真弓さんの2つ年上だ。日本人は各種目で男女共、まだ誰も世界のベスト8に
入れてない中で、この快挙は歓呼で迎えられ。

 整った容貌や百七十センチの背丈、大きな胸や引き締まった太腿も注目を浴び。テレビ
や雑誌や新聞の対談や講演や、握手会や水着運動会に忙しく。近年芸能界で最も成功した、
剣士ではなくスポーツタレントだと言われ…。

 男性剣士の成果のなさをあげつらう言動が、話題になり。松中財閥の中核企業・ファー
スト警備保障に広告塔を兼ね、高額年俸で雇われて話題になり。幼少時虐めを剣術に励ん
で乗り越えた経験から、青少年に向け強くなって戦う事での虐め克服を訴えて、話題にな
り。

 最後は突如、講演も仕事も抛って豪邸に引きこもり。インターホンで声を返す以外には、
何かに怯える様に、誰の訪問にも姿を見せず。この日、何の説明もなく引退して話題にな
り。競技者としてはまだ引退の年齢ではないけど。

 その里奈を破って優勝したアンドレーア・アマナールはルーマニア人で26歳。先月から
日本を訪れ、『世界最強の女剣士コンビ』と謳われ、揃ってフラッシュを浴びていたけど。
少し前の夜揃って病院送りになり。彼女は何かに怯えるかの様に、完治を待たず国へ帰り。

 日頃様々な裏技を使い、時に法を犯しても顔写真や肉声を拾う報道陣が、病院を囲むだ
けで手を拱くのは。里奈の雇い主ファースト警備保障を核とする松中財閥が。出版社やス
ポンサーに圧をかけ、取材や報道を抑え込み。警備厳重な系列病院に、世界最強の女剣士
を収容し守っている為とか。若杉程でなくても、権力者や資産家にならマスコミは怯むら
しい。

 一般の警備員の残業代を踏み倒し、その資金で里奈に高額年俸を払ってきた松中財閥は。
広告塔たる彼女の積極的なマスコミ露出を進めてきた。フェンシングと関係薄い水着運動
会や歌番組や握手会に。その彼らが里奈を人前に出さないのは、出せない状況と言う事か。

「本日は、里奈が準優勝したフェンシング世界選手権のエペで、日本人男性で20年ぶりベ
スト16に入った堀川誠司さん30歳と、同じくサーブルで日本人女性初のベスト16に入った
山碕雪乃さん24歳に、お越し頂いています」

 長身な茶髪の男性と、里奈より胸も背丈も小さめな黒髪の美人が。レギュラーコメンテ
ーターの男女各1人と、4人で画面にご挨拶。

【……真弓さんや夏美さんが、関っている】

 里奈の病院入りには不明な処が多く。報道陣も立ち入れず、動静も窺い知れぬ為に疑念
を呼び。アンドレーアはともかく里奈は過剰な程、強気に挑戦的な言動を見せていたから。

「りーな(里奈)から、挑戦状も叩き付けられたそうですね。世界選手権で現在、日本人
男子の最高位が堀川さんなので、どっちが本当の日本最強剣士か、決着を付けようって」

 先月放映された同局の水着運動会で、山田里奈が発した『公開挑戦状』の話題を振った
女性司会に。男女の剣士2人は苦笑い。それは里奈がその場にいないから漏らせる失笑で。

「どっちが強いかって……そんなの、戦う迄もなく分るでしょ。スポーツや格闘の世界で、
男女が別々に競い合う理由は、女が男に及ばなかった、歴然たる積み重ねがあるからで」

 雪乃さんは慎ましい雰囲気を醸し出しつつ。
 堀川さんが答えにくい問と察して口を挟め。

「彼女は奇跡に悪乗りしすぎです。一度の準優勝で鬼の首でも取った様に。この国のフェ
ンシングを今迄引っ張ってきた、誉れある堀川先輩に。女の癖に男に戦いを挑むなんて」

「確かにマラソン等の陸上競技も、サッカー等のチーム競技も、空手や柔道の様な武道も、
男女対戦はないね。将棋や囲碁等の頭脳戦も。子供なら体育も男女一緒だけど、大人のプ
ロのレベルになれば、女は男に勝てないと?」

 やや年輩の男性司会の問に雪乃さんは頷き。

「それを分ってないと言う事は、彼女が堀川先輩の技量を計れぬ位の未熟者と言う事です。
年長者への礼儀も弁えず芸能活動に熱を上げ。女剣士と纏めて語られる事がお恥ずかし
い」

 雪乃さんにも年長である里奈への敬意は感じられないけど。それを突っ込む者はおらず。

「日本人男性の最強と認められて、声掛けられたのは光栄だけど。正直困っちゃって…」

 堀川さんは、その外見や仕草からもそうだけど。声音や喋り口調からも『軽い』印象が。

「勝負を受けても何の得もないし。僕が女に勝っても当然で賞賛もなく、遠慮なく本気で
叩きのめせば悪役にされ、加減して負ければ『堀川、女に劣る』と報道される。彼女は芸
能人だから、注目を集めたいのだろーけど」

 各競技団体へ多額の寄付をし、広告業界やマスコミにも影響力を持つ松中財閥が、バッ
クにいる里奈の言動故に。思いつきが実現しかねないと、堀川さんは答を抑えてきた様で。
里奈が豪邸に引きこもって挑戦が実質霧散し、反論も来ない今になって。里奈より己が断
然強いのは当然と述べ。夏美さんの時と同じく、反論がなければ言った者の勝ちと世間は
見る。

「手加減して勝つってのは難しいんっすよ。
 叩き潰すのは簡単だけどか弱い女子だし」

【里奈がマスコミの寵児で上り調子な頃には、本当に対戦して敗れる事を怖れ、反論もせ
ず里奈の前を避けていたのに、今になって…】

 男女剣士の主張は妥当だけど。今迄お偉方の顔色を窺って口を濁し、里奈の名声が失墜
した今、水に落ちた犬を叩く言動は俗っぽく。それを分る雪乃さんは、堀川さんを立てて
その影に入り、清楚な外見でその生臭さを隠し。

「本当は雪乃が、日本人女性で初のベスト16に入れたのに。里奈が翌日運良く準優勝して、
その話題を霧散させ。『能力と実績で目立って金儲けて何が悪い』と言い放った末にこの
ザマで。その人格と実績に応じた末路だよ」

 堀川さんは生意気な女性には冷淡らしく。

「奇跡の女剣士の称号も、能力や実績が奇跡だった訳じゃない……実力もないのに決勝迄、
相手の棄権や欠場で進んだ事が奇跡なのに」

 下馬評では里奈の技量は、世界の強者20人に入らず、1回戦突破も困難と囁かれ。でも
里奈の相手が悉く、里奈との対戦前に負傷したり、家族の不幸や祖国の内戦勃発で欠場し。
エスカレーターが自動的に高みへと人を運ぶ様に。里奈は人が疑う程の幸運で決勝へ進み。

 決勝迄行けた事が奇跡だと、奇跡の女剣士と囁かれたのが始りで。大会は必ずしも強さ
を正確に表さない。優勝の強者に初戦で敗れた者が、実は2番の強者である事は時折ある。
逆に準優勝者が、それ程の強者ではない事も。

「改めて状況を説明します。半月前の深夜に連絡を受けた消防が、路上に倒れていたりー
な達2人を発見し、病院へ搬送しました…」

 男性司会の説明に続けて相方の女性司会が。

「2人が救出された路地裏は、町の不良が屯する一角で。この夜は30人近いけが人も収容
されたとの情報もあり。警察も2人の容態好転を待って、事情聴取する予定でしたが…」

「2人ともずっと面会謝絶で。アマナールは先日病院を抜け出して帰国してしまい。りー
なも密かに退院していたと判明。警察も任意なので打つ手がなくて。取材班は連日里奈の
豪邸を囲み、インターホンや出入りする者に突撃取材を試みていますが、満足な答は…」

「強くなって虐めっ子にやり返せとか、学校に行かず街に屯する不良は叩き潰せとか、体
罰の傷みで躾をせよと言ってましたね。あの時はテレビも雑誌も賞賛モードでしたけど」

 VTRの終りを待って巧く口を挟み、里奈の過去の言動を晒したのは、レギュラーコメ
ンテーターの演出家ハリー伊藤氏だ。中年男性がどぎつい原色の服を着る事で異彩を放つ。
世論や番組の空気に合わせた受け答えをする、ワイドショーに適した人物で。以前は里奈
に阿っていたけど、今は嗅覚鋭く里奈に冷たく。

「学生を前にした虐め克服の講演で、強くなって戦って勝てと言い放ち。街中でも痴漢や
スリ相手に実力行使を躊躇わず。暴走族と乱闘になって、警察に注意された事もあり…」

「正義感の侭に不良の群に分け入って、返り討ちにあった? 仮にも世界選手権準優勝の
女剣士と、優勝者のタッグですよ。まさか」

 男性司会の推察は、否定しつつも巧くそちらに話しを振って導き。堀川さん雪乃さんが、

「幾ら強い強い言っても、所詮は女だしね」
「女の身の程を心得てないのです、彼女は」

 番組では本人情報がない代り、他人が推察と解析を交え。関知の『力』が何かを感じる。

「結局男社会の歪みよ。男の様に強くなくば、戦う強さを見せなくば、世間に認めて貰え
ないと。誤った能力主義や成果主義で、男になろうとした末に失敗した。女が男になる事
なんて出来ないの。女が女の侭で生きられる様に社会を変えるしかない!」「但馬先生
…」

 フェミニストで大学教授で、弱者への共感に優れる但馬陽子氏も。敢て原色の服を着て
いるのか。黄色の伊藤氏とピンクの但馬氏は、鮮やかな青に白の運動着で、清楚さとスポ
ーツマンらしさを醸し出す、剣士達と好対照で。

 但馬女史の主張には一部納得できる。女の子は男の子と違うから。男の子になろうとし
てもなれないし、なろうとすれば無理が出る。

「私ね、里奈さんも男社会の犠牲者だと思う。苛められ力で虐げられ、跳ね返すには強く
なる他ないって思い。剣術に励んで少し強くなって、世間に褒められてその手法を人に勧
め。

 でもそんなの結局男社会の焼き直し。力で虐げる者を力で覆しても、力による支配は変
らない。頂点に立つ者が変るだけ。成功しても失敗しても変らないの。彼女の行いは過ち
だけど、男社会の歪みを露わにしてくれた」

 但馬女史は里奈の境遇に同情しつつ、その言動や考えは過ちだと。でも後半は自身の持
論に力点が置かれ、里奈の事から話しが離れ。そこで年輩の男性司会が一度話しを引取っ
て。

「ここで本日のりーなの自宅前からお届けしたいと思います。森川さん、お願いします」


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「森川です。こちらはりーなの豪邸前です」

 若い男性レポーターの声と同時に、画面は高級住宅街に詰めかける報道陣を映す。高い
塀に囲まれた3階建て豪邸は、夏の昼下がりなのにカーテンを鎖し。生活感のない静寂が、
塀の外の報道陣の騒然たる賑わいと対照的で。

【不二夏美によるマスコミ人連続殺傷から注目を外したい若杉が、話題を煽っている…】

 でも山田里奈の一見不可解な引きこもりは。
 真弓さんや夏美さんに深く関連がある為に。

 一つ間違えば逆に鬼の真相を明かしかねず。
 若杉はそれを分って煽っているのだろうか。

「本日この豪邸前で、りーなが記者会見する予定でした。雇用主のファースト警備保障が、
りーなの夫・勇人氏を動かした様です。でも刻限になっても動きがなく。30分過ぎた先程、
勇人氏からインターホン越しに、会見中止とりーなの引退が発表され。報道陣は騒然とし
てインターホンを、質問攻めにしています」

 記者の背後では、豪邸正門に詰めかけた報道陣から『答えて下さいよ』『どうしてなん
ですか』『逃げないで下さい』等の声が発され。肩透かしに遭った報道陣の苛立ちが窺え。
『逃げ隠れする奇跡の女剣士』と囁かれ始め。

【記者も番組スタッフも、会見を前触れもなく中止し、報道陣に詰め寄られて答も返せな
い山田家の情景を流して。報道陣が抱いた里奈への落胆の印象を、全国へ広めようと…】

 松中財閥への気兼ねより、会見をすっぽかされた憤りや視聴者への訴求が上回ったのか。

「少し前に撮れたりーなと勇人氏の声です」

 映像がインターホンへ突きつけられた何本ものマイクを映し、少し前の邸内の声を流す。

『だめ……怖い。出られない』『りーな…』

 里奈の声は、印象が激変していた。強気で挑戦的だった若い女声は、消沈し萎れ。優し
げな男声が勇人氏か。寄り添う様が瞼に浮ぶ。

【一生守ってあげる】と里奈にプロポーズされた事を、苦笑しつつ明かした温厚な人物で。
稼ぎの大きい里奈が外で働き、勇人氏が家事育児を行う主夫を担い。それを勇人氏の実家
が認めぬ為に結婚出来ず、未だ同棲状態だと。

『報道陣はりーなを襲ったりしない。少し前迄幾ら殺到しても応対していたじゃないか』

『ええ。でも、だめなの。信じられない……私がこんな情けない状態に陥るなんて。怖い。
人前に出るのが怖いの。会える勇気が出ない。突きつけられるマイクが刃に見えてしま
う』

 すすり泣く声が漏れ聞え。余程怖い目に遭ったらしい。自信に溢れ力づくで世間を押し
渡ってきた、女剣士の面影は最早そこになく。

『かあさん、どしたの? 記者が来てるよ』

 幼い女声が挟まった。長女・琉奈ちゃんは羽様の双子と同じ6歳だ。幼子の足音や息遣
いが、画面や音声に載らずともわたしは悟れ。琉奈ちゃんの他にもう一人感じ取れた幼い
女の子は、一歳下の次女・玲奈ちゃんか。夫と幼い姉妹は、気力を折り取られた女剣士に
寄り添って、一生懸命支えようとするけどでも。

『だめ。もう人前に出られない。鬼が怖い』

 里奈の消沈を、立ち直らせる事は出来ず。

『もう私は剣を持てない。戦えない。今迄の私の戦いは全て、女の遊びに過ぎなかった』

『りーな、何があったんだい?』『かあさんいつものように剣もって、やぁ! ってしな
いの? みんなの前で、たたかわないの?』

 それは少し前迄里奈が常に強気に挑戦的に、記者会見や握手会や水着運動会で、剣を振
るうポーズ・戦いの構えを見せつけた事を指す。彼女は人前のみならず家庭でもそれを披
露し。悪と戦う強い女になれと教えていた様だけど。

『ダメ! そんな怖ろしい事をしてはっ!』

 聞えた里奈の叱声は、今迄彼女が勧めてきた途を促す幼い長女に向けた、自身の足跡の
否定。今迄勧められてきた途を突如否定され、幼い姉妹は首を傾げて間近の母を父を見つ
め。

『女が夜に出歩けば鬼を呼ぶわ。鬼に競技の剣術では勝てない。女は剣など振るわず夜は
出歩かず、家で男に守られていればいいの! 分った? 私は、貴女達が心配だから…』

『おかあさん、女の子になった?』『玲奈』

 里奈は女子に強くなれと言う一方、自身が女性扱いされる事を好まず。女ではなく剣士
だと、妻ではなくパートナーだと。女とは弱者で自分は含まないと、言い続けてきたけど。

『そうよ……私は、女だった。今迄強い積りでいたけど。でも本当は何も分ってなかった。
本当の剣士は真剣で戦える。戦えるのよ…』

 その声は震え萎み、張りを失って。長女琉奈ちゃんが『かあさん強いんでしょ。戦うん
でしょ。剣士でしょ』と今迄の母の言動を問うけど。彼女は首を左右に振って短く否定し。
最早人には向き合えないと、里奈は消沈して。更に数度涙混じりの彼女と問答した末に夫
は。

『申し訳ありません。里奈が心身不調なので、代りにわたくしが里奈の引退をご報告しま
す。報道各社にはこれからFAXで伝達しますが、世間をお騒がせした事に心からお詫び
を…』

 報道陣から一斉に憤りが上がるのは至当か。

『何だよそれ!』『正々堂々出てきて喋られないのか』『今迄、記者団にはしっかり顔を
見せて、名乗って喋れと言っておきながら』『自分の時は顔も見せずに紙と声だけかよ』

【里奈は鬼や鬼切りに、遭ってしまった…】

 玄関前に詰めかけ抗議を続け、答を求める報道陣を背後に映しつつ。スタジオの司会や
コメンテーターとのやり取りが暫く続いた後。女性司会の声が割り込んで、最新情報です
と。

「りーなの雇用主たるファースト警備保障が、只今りーなの解雇をFAXで報道各社に通
知しました。先程の引退表明を受けての処置と思われます。松中財閥本社前から中継で
す」

 オフィス街の真ん中に聳え立つ巨大なビルの正面入口前に、画面は変り。こちらも詰め
かける報道陣は同じだけど、屈強の警備員達が行く手を阻むので、彼らは入口に近づけず。

 こちらも記者会見はない様で。松中勝家氏64歳の白髪白髭の厳つい顔写真が、画面右上
隅に載り。背が高く老齢と思えぬ鋼の肉体に、剣道の有段者で、財閥の主で創業者で。相
当のやり手だけど、孫娘には徹底的に甘いとか。里奈の雇用もその孫娘が気に入った為だ
と…。

 そのビル正面に高級車が1台現れ。報道陣はファースト警備保障又はその親会社・松中
財閥幹部のコメントを狙っていた様だ。勝家氏がマスコミ嫌いなので、他に誰かいればと。

「来たぞ、誰だ?」「当りだ、安弘副社長」

 勝家氏の長男で副社長安弘氏38歳は、父に似ず人当たりが良く。人見知りせず問に答え
るので、報道陣には幸いか。警備員に抑えられてもマイクを伸ばし答を求め。でも注目は。

「弱い女は嫌い。だからクビにしただけよ」

 彼に続いて車を降り、報道陣を睥睨した勝家氏の孫で安弘氏の長女・靜華ちゃん8歳に
集まる。羽様の双子より2つ年上の小学2年生だけど。その態度と言動は子供とは思えず。

 思わずカメラもマイクも幼子に引っ張られ。この歳で長い黒髪をカールさせて気品に溢
れ。堂々とした物言いは怖れを知らぬ子供の物か。或いは大人数を前にして怯まぬ女将軍
の物か。

「私は弱い女に用はないの。戦う気力のない女にも。そんなのどこにでも掃いて捨てる程
いる。強く綺麗だから折角拾ってやったのに。どこかの馬の骨に敗れ引きこもる醜態を晒
し。

 折角おじいさまに頼んで囲って貰ったのに、その恩に応えず私の顔に泥を塗った。要ら
ないわ、あんなの。また別に綺麗で強い女を見つけておねだりする。用済みの過去は、さ
っさと捨て去るのが私の流儀なの……何か?」

 言葉遣いが子供の物ではないという以上に。
 その気迫に報道陣が呑まれていると視える。

「そうだ。貴方達にも言って置くわね。私は強くて綺麗な女が好き。誰かそう言う女を見
繕ってくれるなら、お礼は弾むわ。女はその強さを買われ私に見初められ、寵愛を得る」

 子供が大人に喋る語調でも、子供が口にすべき内容でもない。上から目線なその放言を、
報道陣も警備員も窘めず。唖然とした静寂は彼女には常態らしく、その侭歩み行くけど…。

「どこにでも掃いて捨てる程いる女の1人として問いますけど、温室育ちのお嬢さん?」

 静まり返ったからこそ響く大人の女声が。
 冷やかな笑みで進み行く幼子の足を止め。

「強い女性競技者をオモチャの様に欲しがり、捨てる。でもそれはあなたの人を見る眼力
の無さの故ではないの? 己の財産でもなく何一つ苦労もなく、誰かにねだって買って貰
う。警備会社の社長でもないあなたに、強い女を囲って顎で使う資格は、あるのかしら
…?」

 原田香苗さんだった。鬼の夏美さんに殺められた兄・泰治さんの仇を取る・志を継ぐと、
報道記者を志していたけど。確か今は26歳か。志したその道をしっかり歩み続けている様
で。

 強気で挑戦的だった里奈の失墜は、目を覆う程の醜態だけど。雇い主でもない女の子が、
他者の人生を左右する雇用をオモチャ扱いし、捨てると全国放映の前で口にする。あなた
は何様かと、問い糺したくなっても無理はない。

 誰も問えなかったのは、松中財閥の威光を怖れてだけど。香苗さんはそれらより、全国
のお茶の間の視聴者の常識を背に感じ。香苗さんは幼子の答をまともに求めた訳ではなく、
むしろ傍の父・安弘氏に問うた感じなのかも。

 でも靜華ちゃんの即答は、周囲の者の予測の斜め上を行き。足を止めた幼女は、香苗さ
んを確かに振り返る事もせず。答える値もないとの印象を、周囲に見せつけた上で冷淡に。

「醜聞報道と穢い勘繰りしかできないマスゴミが……生れと身分の差を弁えなさい。神の
血を引きその生れ変りである私に、許諾もなく問を発した無礼は、咎めないであげるわ」

 凄まじい応対だった。何一つまともな答を返さず。許しもなく問うた事を咎めないと告
げただけ。松中財閥は新興勢力で、代々の名家でもないのに。育ちがお姫様なのか或いは。

「あの女(里奈)は、私の期待を裏切った。
 それだけで、生きている値なんて無いの」

 流石に香苗さんも言葉が出ず。報道陣も警備員も誰も声も出せぬ中。次に発されたのは。

「行こう、靜華。おじいさまが待っている」

 父の促しで幼女はビルの中へと歩み去り。
 松中財閥の令嬢ならそれも許されるのか。

 勝家氏やその孫娘の寵愛を失ったと知れ渡った瞬間、里奈の報道はバッシングに変じた。


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 それはわたしが首都圏で鬼に遭った翌月で、里奈の解雇報道からは半月前。真弓さんが
千羽と若杉の要請を受け、夏美さんを切る為に一時的に現役復帰し、首都圏に到着した当
夜。

「はぁっ、はぁっ……はぁっ、はぁっ…!」

 夜の街路を逃げ走る鬼は、破れ汚れ解れても豪奢な巫女装束を纏う夏美さんだ。消耗の
為か、緑色の硬質な肌を持つ鬼の姿ではない。追走するは真弓さんと為景さんで。他にも
いた千羽の鬼切り達は、ついて行けずやや遅れ。

 夏美さんは、気配を隠す若杉の高級なお守りを持ち、濃わたしのい贄の血を得て気配を
隠す技も憶えたけど。鬼切部は鬼の行動範囲を絞り込んで、彼女の住処を突き止めに掛り。

 宵の口に鬼として動き始めた夏美さんを。

 半径数キロに迄絞り込んでいた千羽党の。
 見張りに配していた雑兵が見つけて声を。

 千羽党は鬼を包囲し狩り立てて。真弓さん達も到着当夜だけど即参戦を。最初に彼女に
遭わなかったのは、夏美さんの幸いか。包囲を強引に突破した鬼に、千羽党は尚追い縋り。
他の者は脱落しても最強の2人は振り切れず。

『振り切れない。この2人、持久力もある』

 既に他の鬼切りと交戦し、敵中突破した夏美さんは、少なからず消耗しており。真弓さ
んや為景さんを除いても、これ程数多くの鬼切りを動員されては、夏美さんに勝機はない。

 郷田組の戦闘技能や、羽藤柚明の動きを記憶から取り込んでも、全く同じ事は出来ない。
言葉にならないコツや微妙な感触を掴んでも、それを活かすには、受け手の側の習熟が要
る。手足の長さや体重が違い、それ迄の修練の度合や方向が違う以上、コピーでは不足な
のだ。

 鬼切部も既に夏美さんの正体を知っている。
 だから逃がさず捕捉して生命を絶つ構えで。

 彼女も今は唯逃げ走る他に方法はないけど。
 振り切ろうにも足止めも効かず並走は続き。

 疲弊は、足止めに鬼の腕の爪を生やす為に、血肉を飛ばした夏美さんの方が色濃く。で
も少しでも追撃速度を緩めねば、2人の刃が背に届く。状況は危うかった。逆に言えば真
弓さんが、速攻で決着付けられるチャンスで…。

 疲弊しつつ逃走する鬼の感応に何か触れた。
 それはわたしの血を得て強化した悟る力で。

『若い女の血の匂い。若者の騒擾の気配…』

 実はそれは騒擾を終えた後の残り香だけど。
 彼女は蓄積が少ないので精緻に感じ取れず。

 騒擾に紛れれば、逃げ易く隠れ易くなるし、若者の血潮を得れば消耗も補える。若い娘
の血なら更に効率は良い。積極的に無関係な人は襲わない夏美さんも、邪魔な者や目撃者
を何人か殺傷して、その血潮も得ており。人の血が『力』になる事やその旨味も識ってい
て。

 繁華街の裏通りの更にもう一本裏の路地に。
 世界選手権の優勝と準優勝の女剣士がいた。


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 夜10時過ぎに女剣士2人は、路地裏で少年少女30人程との諍いを、武力で解決し終えた
処だった。2人とも未だ息が荒い。特に里奈は相当反撃を受け、頬は赤く腫れ、服は数カ
所破れ肌が見え。深傷はないけど掠り傷に血が滲み。それが夏美さんの関知に触れた様で。
子持ちでも若い女の生き血は鬼の好餌だから。

 2人はフェンシングの剣を持ち、倒れた少年少女を見下ろし。競技用のだから刃はない
けど、ケガをさせる威力はある。倒れてないのは、抱き合い座り込む女子高生が2人だけ。
2人への虐めを力づくで止める為に、里奈がアンドレーアを巻き込み諍いに介入したのだ。

 その表情は物腰は、心折れる前の強い張りと誇りに彩られ。アンドレーアと違って彼女
の技量では、素人でもこの数相手に無傷とは行かず。かなり組み付かれ殴られもしたけど。

「貴女達を虐める者は、やっつけてやったわ。奇跡の女剣士は嘘をつかないって分っ
た?」

【強くなって虐めっ子にやり返せとか、学校に行かず街に屯する不良は叩き潰せとか…】

【街中でも痴漢やスリ相手に実力行使を躊躇わず。暴走族と乱闘になって警察に注意を】

 発言が波紋を呼ぶ中、口先だけだろとの囁きに里奈は強く反撥し。自ら虐めっ子を退治
すると、正義の鉄槌を下し痛みで躾けすると。本当に世の影で暴走族や不良少年を打ち倒
し。

 発覚すれば暴行で里奈も捕まる内容だけど。今迄それが知られなかったのは。相手方も
それが公になれば捕まるし。里奈が大ケガを負わず勝って済んでいたし。松中財閥が圧を
掛け口封じした為か。でもどこかのマンガの様な愚行を、大人の女性が本当にやらかすと
は。

「あ、あ、ありがとう」「……ございます」

 守られた女子高生2人は感謝を返すけど。
 里奈の親友アンドレーアは表情を厳しく。

「リーナは日頃母国でこんな事しているの?

 練習や休息に充てるべき貴重な時を、ケガを負うかも知れないストリートファイトに」

 世界選手権で里奈と絆を結んだアンドレーアは、ファースト警備保障の催しに招かれ来
日し、里奈に伴う内にこの騒擾に巻き込まれ。乱闘になったから、襲い掛る敵を退けたけ
ど。後付けで事情を知って里奈に諫言を。それは競技者やスポーツマンの為す事柄ではな
いと。

 彼女がいなければ、今宵里奈は敗れていた。幾ら剣を鍛えても、遠慮も加減も知らぬ敵
多数に女性少数で殴り込む。しかも事情も知らぬアンドレーアを巻き込んで。里奈は正義
の戦に伴う機会をあげた、位の感じでいるけど。

「スポーツに生きる者が、剣術で生計を立てる競技者が、ストリートファイトで身を危険
に晒すべきではないわ。そんな処で仮にケガでもしよう物なら、多くの人の失望を招く」

 子供の犯罪は、第一に警察や学校の管轄だ。
 暴力に競技の剣術で対抗するべきではない。

 警察に捉まる危険があり選手生命にも関る。
 野試合の為に、剣を鍛えた訳ではない筈だ。

「堅い事言わないの。勝って終ったんだから。私は世の理不尽を正す為に剣を鍛えた。今
は生活の為の剣も兼ねるけど、本筋は世の悪を罰する天誅の剣。さぁ貴女達はお帰りなさ
い。夜は女の子が出歩くべき時間帯じゃないわ」

 でもこの翌週に2人が再度、ここで倒れた者に虐められる展開は、里奈の予測にはなく。
一時的に暴力を暴力で退けても、里奈が常時寄り添う訳でもない。彼女不在の処で敵方は
やりたい放題だ。里奈は一度痛い目を見れば、怯えて手出しを控え、躾となって長続きす
ると考えているけど。人はそう単純ではない…。

 警察に見つからぬ内に、女の子2人を促しつつ自分達もその場を離れようという里奈に。
アンドレーアが不納得な顔の侭頷いたその時。

 破れ解れ汚れた巫女装束に、疲弊した夏美さんが現れ。まもなく抜き身の刀を持った千
羽の2人が追いついて。剣の舞う夜が始った。


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 夏美さんは疲弊で鬼の姿を保てず。生前の美貌と見事なスタイルに、汚れ破れ解れた巫
女装束の豪奢な姿は、何者かに追われる様を想起させ。追う者が刃持ちなら生命の危険を
推察させ。里奈の義憤を刺激する情景だった。

「何かは分らないけど、助けが要りそうね」
「リーナ、事情も分らず揉め事への介入は」

 アンドレーアの制止を聞き入れずに里奈は。
 夏美さんを背後に庇う様に立ちはだかって。

 千羽の剣士は刃持ちの故に殺気立って映る。
 だから真弓さんは努めて平静な声音を保ち。

「わたしはあなたに用はないわ。退いて頂戴。彼女に関らない方が良い。あなたが危な
い」

「通れる物なら通ってみなさい。見た処剣士らしいけど、武器も持たぬ女1人を、剣を持
った複数で追い回すなんて、普通じゃない」

 真弓さんの求めにも里奈は断る気満々で。
 鬼を知らぬ者に事情を漏らす訳に行かず。

 刀を握る右手を見せ『やりますか?』と。
 問う為景さんに真弓さんは首を横に振り。

「夏美の仲間ではないわ。事情を知って阻もうとしている訳じゃない。まだ、力づくは」

 でもその答を里奈は、脅しの意味に取り。

「へぇ、力づくで来る積り? 仮にも剣を持つ者なら、私の顔位知っているのではなくて。
フェンシング世界選手権準優勝の山田里奈を。その私相手に力づくとは、女の癖に良い度
胸。それともそっちの男の方が私の相手かしら」

 里奈は己を女ではなく剣士と扱い、他の女性は全て女扱いで軽んじる。例外は自身と立
ち合って負けなかった者のみで。千羽党の剣士は、世の影での鬼切りに差し障らない様に、
剣道界でも余り有名にならぬ様に努めており。真弓さんは里奈と初対面だから無論女扱い
で。

 真弓さんの技量を里奈は量れず、強者を為景さんと勘違いし。この辺は里奈の男女差別
意識が窺える。己以外の女なら、男が強いとの固定観念が。里奈が言う平等とは己と男の
平等で、己を男扱いに加えろとの事で。己以外の女への差別改善は望まず、能力評価と肯
定し。決して女男全ての平等は目指してない。

「ジャパニーズ、サムライレディ。本物?」

 アンドレーアは日本語が余り堪能ではなく。
 里奈と真弓さんの会話を追うのに精一杯か。

 夏美さんはその背後で、高校生の女の子2人の背後で、荒い息を整えつつ推移を見守り。

 里奈は真弓さん達を、女性を虐げる悪者と誤認し。警察を呼ばずこの場での決着を望む
処は、鬼切部に好都合だけど。無関係な者に力づくの処断は、真弓さんの好まぬ物なので。

「事情を説明すれば分ってくれるかしら?」
「剣でお話ししましょうって? 良いわよ」

 殺傷能力の低い、刃の付いてないフェンシングの剣先を、真弓さんに突きつけて里奈は。

「私に勝ったなら彼女を貴女の好きになさい。その代り私が勝てば彼女は私の好きにす
る」

 そこには夏美さんを守る意図より、真弓さんを戦って倒したい欲求が窺え。戦いを避け
ようとせず、夏美さんの身柄を当人の同意もない侭、勝者の報償にして。思い入れが激し
いと噂には聞いたけど、思い込みも強い様だ。一旦悪で敵と思うと相手の言葉は殆ど聞か
ず。

「今更私が誰なのか分って、怖じ気づいた?
 でも貴女には、躾と仕置きが必要みたい」

 里奈は、真弓さんが己をフェンシング世界選手権準優勝者と思い出したから、怖じ気づ
いて戦いを忌避したと誤解して、一層強気に。

「真弓殿、相手は聞く耳を持っておりませんぞ。如何なさいます?」「やむを得ないわ」

 夏美さんを鬼と識らぬ里奈は、真弓さん達の鬼を討つ使命や事情を知らぬ里奈は、不用
意な正義感で鬼切部の進路を阻み。鬼を放置しては拙い真弓さん達は、退く訳にも行かず。
説明しようにも里奈は耳を傾ける様子もなく。

「深傷を残さない程度に、打ち据えるわね」

「追い詰められて開き直った? その台詞はフェンシング世界選手権で準優勝した私の台
詞よ。どこの馬の骨とも知れぬ剣道使いが」

 長話になっては拙い。未だ騒擾の跡があり、30人程がその場に倒れていて、女の子2人
も座り込んだ侭で。いつ警察が来るかも分らず。真弓さんも長々と語らっている暇はなか
った。

「リーナっ、戦いに前のめりになり過ぎよ。
 相手は相当の使い手だ。もう少し話しを」

 アンドレーアの制止も里奈を止められず。

「剣道の動きなら何度か見た事があるけど」

 里奈は真弓さんの動きを待たず先制に出る。
 刃の付いてない競技用のサーベルを構えて。

「全国大会一桁の腕でなければ、相手にもならない。貴女なんて顔も知らない。神の血を
引く私の敵じゃない。喰らえ、必殺の神速斬撃・電光激竜破……きゃん」「名前長すぎ」

 踏み込んだ里奈の突きを、真弓さんは剣で受けて弾きつつ、その侭前に一歩踏み出して。
剣を弾かれ体勢が崩れ無防備になった里奈を、峰打ちで軽く突き飛ばし。かなり加減して
も、その威力は大人が吹き飛ばされ尻餅突く程で。

「鬼ではないから追い打ちや止めは刺さないけど、これで彼女の身柄はわたしの自由ね」

 技量が違いすぎた。無意味に長い技の名で、里奈の剣技が実戦向けではないと分る以上
に。里奈の必殺技は初見の真弓さんに見切られて。真弓さんはむしろその手加減に力点を。
フェンシングと剣道の優劣ではない。競技の剣と武道の剣・又は生命のやり取りの違いだ
った。

 時間は、真弓さんが里奈を破るより、里奈が敗北を悟る方にむしろ要した。惚けた里奈
を追撃しなかったのは、真弓さんの気遣いだ。

 里奈は立ち上がろうとして足腰が立たず。
 大ケガはないからじきに動ける筈だけど。

「通らせて貰うわよ。文句ないでしょう?」

 でも里奈は真弓さんに尚も食い下がって、

「貴女卑怯よ。攻撃権は先制した私にあるのに。貴女、私の攻撃を防御し終えない内に反
撃して……今の戦いはルール違反で無効よ」

「あなた、真剣の戦いを理解してないの?」

 攻撃権がある側の攻撃を、敵手は防ぎ終えた後でなくば反撃出来ない。それは競技ルー
ルに過ぎず実戦にルール等無い。千羽妙見流は攻防一体が真髄だ。防ぎ終えた後で反撃せ
ねば無効だなど、真剣勝負から遊離した証で。

 何でもありの野試合を挑んでおいて、敗れた後で己が想定したルールにないから、違反
で無効と。今迄は暴走族や不良を相手に勝ったから、それも通せたけど。実は唯の幸運で。

「ルールに拘るなら野試合などせず、室内で男女別に同じ武器防具を持ち合う、競技の大
会へ出ていれば良い。鬼の跳梁する夜や実戦の場に来なければ、あなたの言葉は正解よ」

 鬼切部は鬼に与した人を切る権限も与えられている。事情を知らぬとはいえ、夏美さん
を庇った彼女は、切られていても不思議でなかった。里奈は真弓さんに生命救われたのに。

「少し力を抜きすぎたかも知れない。でも。
 立ち上がるならもう一度打ち据えるだけ」

 そんな真弓さんの前に立ち塞がったのは。
 世の表の最強女剣士アンドレーアだった。

「事情は分らないけど、リーナは私の友だ。
 倒されて、その侭通す訳には行かない…」

 為景さんが『儂が対応しますか?』と目線で問うけど。真弓さんは、再び首を横に振り。
里奈も未だ起き上がれないけど納得してない。己より格下の筈の女に、悪に敗れた事を認
められず、意地になって。真弓さんを阻もうと。

【里奈が認めるアンドレーアを、眼前で打ち破って見せる事で、里奈に鬼切部との技量の
懸隔を悟らせる以上に。真弓さんは千羽党の剣士、挑まれれば逃げる事を潔しとしない】

「アンドレーア・アマナールの全力を見よ」

 アンドレーアの剣は里奈より遙かに強く速く正確で。革命で治安が乱れたルーマニア在
住の彼女は、野試合も経験済みで。スポーツタレントに過ぎぬ里奈の、野試合を危ぶんだ。

 野試合の敵は、ルールやスポーツマンシップに囚われぬ。どんな手段を使ってくるか想
定できず、遠慮や加減も期待出来ない。勝ててもタレント活動や選手生命に響く傷を負う
怖れもある。女でなくても回避すべきだった。

 でも乱戦に入ってしまえば、下手に中立で騒擾に身を委ねるより、打ち破って状況を制
した方が、危難を凌げる事もある。実戦や非常時の対処も知るアンドレーアは、飛び込ん
だ里奈を見捨て得ず、先程の騒擾にも関って勝利を導き。今も又里奈の危難を見捨て得ず。
里奈は尚抗う積りでいた。真弓さんに里奈では勝ち目がないと、彼女は見切っていた様で。

「リーナは女の子2人とさっきの女性を見ていて。出来れば一緒に逃げて貰った方が良い。
このサムライレディ、とてつもなく強いわ」

「そんな……こんな女、唯の馬の骨じゃ…」

 でもアンドレーアの技量も、為景さんに遙かに及ばない。彼女は攻撃権云々もない攻防
一体の剣を放つけど、真弓さんに掠りもせず。世界選手権で里奈は、アンドレーアを脅か
す事も出来ず敗れた。友情は結んだけど技量の差は明瞭で、勝ち気な里奈も認めざるを得
ず。

 そのアンドレーア・世の表の最強女剣士が、真弓さんの本気を引き出す所迄辿り着けな
い。真弓さんは敢て攻撃を受けて、弾き又は躱し。格の違いを見せる様に全てで上を行っ
て見せ。大人の女性の体が、浮く程の峰打ちを幾度か。

【世の表の剣士では、鬼切部には敵わない】

 テレビで見た限りの動きでは、雪乃さんは堀川さんに及ばず。里奈の技量は堀川さんと
同等で。失う物の多い彼が対戦を避けたのは正解だった。でもアンドレーアは両者を凌ぐ。

 和泉さんにわたしと里奈のどっちが強いか、訊かれた時は答えきれなかったけど。鬼と
の対峙を想定し、当代最強に鍛えられたわたしの技量は、アンドレーアとほぼ同じ。フェ
ンシングで戦えば若干不利か。里奈の技量は神原武則さんとほぼ同じ。夏美さんに及ばな
い。

 真弓さんは別格としても、明良さんや為景さんに近しい強者も、表の世には絶無らしく。
競技の剣は、生命のやり取りに身を晒す鬼切りの剣の敵ではない様で。鬼切部に近しい技
量の者がいるなら、やはり世の影に潜むのか。

「がっ!」「生命は取らないわ。安心して」

 膝を突くアンドレーアに、真弓さんはそう言って振り向くと。里奈は尚も戦いの構えを。

「そんなバカな事認めない。正義の剣が悪に破れるなんて。私の剣より悪が強いなんて」

「人の正邪は剣の腕と何の関りもないわ…」

 真弓さんは平静に里奈に説諭を続けるけど。
 里奈は己の思いこみから抜け出せない侭で。
 でも結果の見え透いた2回戦は遂に生じず。

「きゃああぁぁぁ!」響いた悲鳴は若い女声。

 里奈の背後なので彼女が慌てて振り返ると。
 先程不良少年少女から助け守った女の子が。
 夏美さんに首筋を食い破られ血を啜られて。

「な……何なの、貴女?」「おぅ、神よ!」

 アンドレーアも里奈も鬼を初めて見るなら。
 鬼の捕食や吸血を始めて目の前で見たなら。
 衝撃に魂を打ち抜かれても無理はないのか。

 夏美さんは消耗を補う為に血を欲しており。
 騒擾の残り香と血の匂いが漂う夜の街角で。
 若い娘は鬼の瞳にこの上なく旨そうに映り。

「申し訳ない、真弓殿。奴は驚く程巧妙に」

 為景さんは、鬼の動向に注視していたけど。夏美さんは女子高生1人を己の前に、もう
1人を己の背に抱き、交互に首筋から血を貪り。背後に回っても剣を突き立てる事が出来
ない。

 千羽党2人が左右から迫るのに、夏美さんも女の子を前後に付けた侭、古川さんやわた
しの動きで、鬼切りの剣を躱し。真弓さん達の動きには劣るけど、人質の生命を盾にして。

 でも最強の2人に迫られて、血を吸い続ける事は出来ず、首筋から口を離し。娘達は未
だ生きている。失血も少なく傷も致命の物ではなさそう。怯えと衝撃と負傷で身動きは取
れないけど。鬼の膂力で自由は利かないけど。

「こういう事なの。だから私達は人の生き血を啜る鬼を切るべく、動いていたのだけど」

「バカな、そんな、こんな事って、ある筈」

 目の前で力を復した夏美さんは鬼の姿に。
 緑色の硬質な皮膚を持つ強靱な姿に変り。

「出来れば知らぬ侭でいて欲しかったけど」
「鬼を切る我らの使命をご理解頂けたか?」

 里奈の為す浅はかな正義と、生命に関る鬼切部の戦いは違う。暴走族や不良学生にボコ
られる位の覚悟と、取り返しの付かぬ物を守る決意は違う。もう少し里奈が真弓さんの話
しに聞く耳を持てば、この事態は回避できた。

「この化物。良くも神の血を引く私を騙し」

 里奈は夏美さんの外見の変貌に激昂して。
 自分がこんな物を守らされたのかと憤り。
 それは勝手に勘違いした自身への怒りか。

 鬼が左右の鬼切部2人に女子高生を投げて、逃げようとする前に立ち塞がって、その剣
で。

「必殺の神速斬撃・電光激竜破……ぎゃん」

 必殺の突きも、刃毎夏美さんの緑色の左手に掴まれ。見切られて、防がれた。里奈の攻
撃が鬼に通用しないという以上に、刃のない競技用の剣は、鬼に当たっても脅威にならず。

 その侭鬼の剛力でフェンシングの剣をへし折られ。それは里奈の心が折れた瞬間なのか。

「剣は持っていても唯の女、餌食」「な!」

 鬼は体勢崩れた里奈の右肩を掴み引き寄せ。
 里奈は剣を折られ気力も失い為す術もなく。
 その首筋に食いつかれ存分に血潮啜られて。

「ぎゃああぁ! 神の血を引くこの私がぁ」

 腕力では常の人が鬼に敵う訳がない以上に。
 怯えと混乱で女剣士は戦う意志も霧散して。
 生命の危機を前に容易く心折れて砕かれて。

「神の血……この薄い血が? 若いだけで大した『力』も持たぬ世俗の女が。これならば
あの贄の血の娘の方が、余程高貴で純粋だ」

【里奈は夏美さんに血を吸われ、魂が一部繋って。既に夏美さんに贄の血を吸われ、魂の
一部が繋ったわたしとも、微かに心繋って】

 里奈は心が乱れた状態で血を吸われたので、血に宿る想いは形を保てず。わたしの想い
も鬼の内で時を掛けて崩れた後で。通じ合う事は叶わなかったけど。この微かな繋りは羽
様のわたしにも、里奈の記憶や感情を一部報せ。

「助けて。助けてたすけて、この化物ぉを」

 夏美さんは、里奈が残した騒擾の気配や血の匂いに誘われここへ来た。でも里奈の血に
期待した濃さはなく。仮に神の血が事実でも、末裔なら濃度も様々だし、どんな神の血か
で元々宿す力量も違う。今迄の来歴や在り方で、血糖や血圧が違う様に血に宿る効果も異
なり。

「いやああぁぁ! 許して助けてえぇっ!」

 夏美さんは里奈に恩など感じない。里奈は勝手に真弓さんに突っ掛り。勝負の報償に当
人の同意も得ぬ侭、夏美さんの身柄を独断で加え。里奈は夏美さんを守る為に戦ったので
はなく、真弓さんと戦う口実に使っただけだ。騒擾の残滓に殺気立っていたのは里奈だっ
た。

「これ以上犠牲者を」「増やさせはせん!」

 それでも鬼切部は里奈を守るべき人と扱い。
 真弓さんも為景さんも鬼を討ちに迫るけど。

「要らないわ、こんな女。欲しくばどうぞ」

 夏美さんに里奈は執着する程の餌でもなく。
 里奈は心砕かれて強さの欠片も残ってない。

「ひひいいぃ、助けて」「リーナしっかり」

 夏美さんは鬼切部2人へ里奈を投げつけ闇の奥へ走り去る。為景さんが里奈を受け止め
るけど。親友を案じて駆け寄るアンドレーアが真弓さんの邪魔になり。追走しようとした
2人を止めたのは、別の千羽党の男声だった。

「真弓様、為景殿。若杉の撤退指示です…」

 消防や警察に、里奈が為した騒擾が知れた様だ。若杉や千羽は警察の一部と非公式に繋
っているけど。公には鬼切部は存在せぬ物で。こうなると世の表に出ない事が信条の彼ら
は、人目に付く処で動く訳に行かず。里奈は最後迄真弓さん達に差し障り続け、奇跡を叶
えた。

 剣の舞う夜の終りは、鬼切部千羽党の鬼追討の夜の、非常に不本意な幕切れでもあった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「そう言う事でしたか……戦力では圧倒的で、先代が出る迄もなく鬼を滅ぼせると思って
いたが、人の世は何が起るか本当に分らない」

 畳部屋で布団の上に身を起した明良さんは。
 真弓さんや為景さんから事情を聞かされて。
 楓さんが淹れたお茶を口に含んで苦笑いを。

【未だ走る事は出来ないけど、身を起こしてお話しできる位には復したのね。良かった】

 千羽館の一角の小さな離れは、彼の療養の場だ。千羽から絶縁され、再び敷居を跨げな
い筈の真弓さんは、為景さんの手引で裏口から入り。明良さんが元気なら、密通に似た事
を為す必要はなく、外で逢えるけど。そもそも彼が元気なら、真弓さんが羽様を出る事は
なくて。2人の面会はこの形でしか叶わない。

 真弓さんが明良さんを見舞ってくれたのは。

 真弓さんが明良さんを案じたという以上に。
 明良さんの身を案ずる羽藤柚明に向けての。

 しっかり無事は確認したから安心してとの。
 己の無事は見せたから安心して欲しいとの。

 真弓さんも明良さんもむしろわたしの為に。

 明良さんの傷も復しつつあり、母屋ではないけど千羽邸内なので、警備も厳重ではなく。
今部屋にいるのは男女4人だけ。わたしよりも2つ年上で、女性にしては長身で黒髪長く
艶やかな楓さんは。久方ぶりの明良さんと真弓さんの面談に配慮して、脇に控えて報告を。

「山田里奈とアマナールは、松中財閥の系列病院へ入院させされて。2人とも面会謝絶で、
マスコミを含む外部との接触を全て断たれ」

 特に里奈はスポーツタレントの側面が強く。剣技で敗れた等恥ずかしくて明かせないの
か。本人も、彼女に高額年俸を払って広告塔にしたファースト警備保障や松中財閥も。名
のある相手なら言い訳も可能だけど、千羽党は剣道の世界でも名声を得ない様に努めてい
るし。

「鬼に襲われた女子高生2人や、その場で里奈達に倒された少年少女も、同じ病院に担ぎ
込まれ面会謝絶です。鬼の事情を知らぬ松中財閥は、この件を里奈の野試合敗戦・失態と
捉え、財力権力を投じて関係者の口を塞ぎに掛っており。少年少女の通う学校や保護者と
接触し、入院費負担や警察の処分揉み消し等の代りに、里奈の敗戦に関し沈黙を約束させ。
公にせずに済ませる意向ですが。既にマスコミは情報を嗅ぎ付け、動き出しています…」

 女子高生も里奈も里奈が倒した少年少女も、深手や後遺症の怖れはないと。門外不出の
情報を若杉を通じ彼らは知り。松中も情報管理は厳重だけど、若杉の諜報能力はそれを凌
ぐ。医師看護師や事務員等の多くが、松中の息の掛った者を装いつつ、裏で実は若杉にも
通じ。

「鬼の真相が明かされる心配については?」

 明良さんの短い問に楓さんはご安心をと。

「松中が全てを隠しきれぬ怖れもあると見た若杉は、松中の隠蔽工作を邪魔せず見守る一
方で。保険の為に、マスコミが隠蔽を曝いた暁には。里奈の失態・剣の敗戦こそ、松中の
隠した真相の全てと世間に錯覚させ、鬼の真相を隠し通す、二段構えの手を打っています。

 女子高生2人も鬼の事情を知らぬ故に、己に起きた事柄を把握できておらず。精神異常
者の凶行と捉える方向へ、医師やカウンセラーに導かれており。仮に彼女達が事実を語っ
ても、鬼の存在が公になる怖れは僅少かと」

【心砕かれた里奈が鬼の存在を語っても、耳を傾ける者はいない。女子高生2人が口にし
ても更に信じられはしない。松中財閥も里奈も女子高生も少年少女も、己の不祥事を隠し
たくて、嘘を語っているだけと見なされる】

 結果鬼の存在は、何人かの口から語られど、誰も気にも留めず真剣に取り上げる事もな
く。

「生命に別状が無くて良かったわ。女子高生2人も、奇跡の女剣士も」
「正に奇跡ですな。鬼に遭遇し血を吸われて尚、生命繋ぐとは」

 真弓さんの声音には、鬼を討ち漏らした悔しさが微かに窺え。実戦に生きる真弓さんは、
里奈と違い絶対言い訳しないけど。人を害する鬼を生かす事は犠牲者の増を呼ぶ。悔しが
るなと言う方が無理だけど。真弓さんの責任感・使命感の強さを分る為景さんは、敢てお
どけて笑いを誘い。焦りは禁物と言外に伝え。

 真弓さんの苦笑は、焦りに囚われてはいないとの、為景さんの気遣いへの答で。彼の配
慮への感謝も込め。明良さんの苦笑はそんな2人の絆を喜んで。千羽党と真弓さんは今尚
絶縁状態だけど、そんな隔てをここの面々は何の気負いもなく乗り越え。乗り越えている
と分るからこそ、それで尚取り払えぬややこしい大人の都合や事情への、苦笑でもあった。


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「取り逃がしはしましたが、鬼を捕捉できた事で、その住処がより狭く絞り込めました」

 為景さんは今後の鬼討伐へと話題を移し。

「鬼はもう戻らないかも知れないが。本拠を失えば、鬼は休息や落ち着いた思索を出来ず、
その行動の幅やキレを制約できる。住処を抑えれば、鬼の行方や次の標的に掛る手掛りも
入手でき。協力者がいれば捉える事も叶う」

 空き家捜しは若杉や千羽の雑兵に任せる。

「悠長だけど、地道な捜索・基本が大事ね」

 真弓さんも、仕方ないという感じで頷いて。
 真弓さんの信条は、速戦即決・一撃必殺だ。

 取り逃がしては鬼の犠牲者を増やす以上に。
 鬼に鬼切部の存在を報せ対策の余地を残す。

 どんな事情を孕んでいても次こそは討つと。
 鬼切部全員がその闘志を共有し燃え立たせ。

「いずれにせよ日中は鬼も動かんでしょう」

 夏美さんは鬼としてそれ程強い訳ではない。その異能をフルに使えぬ昼に動き回って鬼
切部に見つかれば、生命が危うい。逆に鬼切部はその状態を、捕捉できれば最良なのだけ
ど。

「若杉は警察も利用して、探索網を広げております。昨夜見つけた鬼なので追跡は不可能
でもない。千羽も捜索を始めています。我らは鬼をどこの誰か知っている。羽藤の令嬢の
貢献は一見地味だが、この有利は大きい…」

「為景さん!」「鬼切部が一般人の娘の力に縋り支えられる事など、あるべきではない」

 真弓さんと明良さんが、為景さんの言葉を遮ったのは、羽藤柚明の関知や感応の『力』
が鬼討伐に有用だから、千羽で活用すべきとの。彼の言外に潜ませた意図を否定する為に。

 為景さんは、明良さんがわたしに関心を寄せている事も察し。真弓さんの一時復帰を契
機に、羽藤と千羽の交流を始めては如何かと。その嚆矢に羽藤柚明を使えるかも知れない
と。

 いつ迄も断絶しても、双方に宜しくないと。そこには、真弓さんとの関係を再度繋げた
い、為景さんの私情も若干含まれ。でも明良さんも真弓さんもわたしの未熟を承知して。
羽様のわたしが抱える事情を、分ってくれていて。

 わたしは一番たいせつな羽様の幼子、桂ちゃん白花ちゃんを、間近で見守り導かなけれ
ばならない。それがわたしの願いであるという以上に、双子の未来に不可欠なのだ。歴代
の羽藤でも比類なく濃い贄の血を宿し、強大な『力』の可能性と重い定めを潜ませた愛し
い子・いとこを、途を過たず確かに育み守り通す為に。夏美さん達の様な哀しい途を辿ら
せない為に。わたしは羽様を、離れられない。

「鬼切りを受けて、鬼は尚反撃したのね?」

 真弓さんの問は確認と言うより、わたしの推論を伝える為の前置詞だ。今の夏美さんは
9年前と違い、己の怨念を果たす鬼ではなく。夏美さんを慕う人の怨念に応える為に甦っ
た。彼女は独りではない。体は一つでも怨念多数。だから鬼切りもその全てを払いきれな
かった。そして一撃必殺で全ての『力』を投入する鬼切りは、凌がれてしまえば最大の危
険を呼ぶ。

「柚明ちゃんが、あなたに逢えたなら代りに謝って欲しいって。不二夏美が単体ではなく、
多数の怨念が一つに糾合した鬼だと悟るのが遅れ、あなたに伝えられなかった事に。あな
たの危難を防げなかった事に申し訳ないと」

【真弓さん、わたしの我が侭を叶えて……】

 情景を見つめるわたしも想わず頭を下げる。
 明良さんはその像の中で怜悧な姿勢を保ち。

「俺は鬼切部でもない者に、鬼を討つ助力の期待はしません。この結果は己の未熟が招い
た物。一般の娘の関与など事を左右はしない。羽藤柚明には思い上がるなとお伝え下さ
い」

 わたしが鬼切りに為せる助力などないと。
 でもそれは彼がわたしを想い案じる故の。

 わたしを鬼切りに巻き込みたくないとの。
 敢て冷淡な無視や拒絶の姿勢を変えずに。

「嬉しそうに語っていたと、伝えておくわ」

 真弓さんは明良さんのそんな反応を愉しみ。
 脇の楓さんが困惑の表情を浮べているのは。

「先代! ……あなたも羽藤柚明も、他者の意志を汲み取る事に掛けては過ちのない人だ。
伝え方は先代にお任せします。それより…」

 人の気配を感じた明良さんが、瞳を部屋の外に繋る襖へずらす。為景さんも真弓さんも
既に気付いており。楓さんが頷いて、無言で足音も消して近づき、さっと襖を開け放つと。

「か、かえでさん?」「うづき様でしたか」

 殺気はないと感じていた楓さんも、意外そうで。ここへの立入禁止は千羽党全員に行き
届いていて。敢て指示に逆らう子供でないと、楓さんもこの女の子を知っているから。首
都圏で逢った時の、明良さんの言葉を思い返す。

【俺も6歳の妹がいるから多少気持は分る筈だが、お前の優しさ甘さは尋常ではないぞ】

 深手を負って療養中の明良さんを案じて。
 彼の様子を窺いに訪れた黒髪長い女の子。

 兄に似たまっすぐな瞳と整った顔立ちの。
 千羽烏月さんはこの時小学1年生夏休み。

「ここは子供は立入禁止と、告げた筈です」

 療養の場に、子供が入っては邪魔な以上に。千羽と絶縁した真弓さんが、お忍びで逢い
に来る事もあって。離れへの出入りを禁じたのだけど。烏月さんは幼心に兄の負傷を案じ
て、手作りの花束持参でお見舞に忍び込んできて。

「……ごめんなさい。でも私、にいさまが気懸かりで、お見舞いしたく……にいさま!」

 楓さんに頭を下げていた烏月さんが、室内に想い人を見つけて喜びに瞳を輝かせ。布団
の上に座していたけど、人とお話しできる迄体調が復していると、目に見えて分ったので。

 入ってきたい。間近に来てお話ししたい。
 触れて無事を確かめ、抱き留めて欲しい。

 幼子の体からその想いは、滲み出て溢れ。
 中途半端な制止では止められそうになく。

 為景さんも楓さんも困惑の表情を隠せず。
 真弓さんもここが潮時と感じた様だった。

「先代」「もう大方の話しは終えたわ。わたし達は鬼の探索に行かなければ。為景さん」

「宜しいので?」「ええ……充分話せたわ」

 烏月さんが母屋に不在な事は何れ知れ渡る。
 誰かが探しに来る前に撤収せねばならなく。

 元々長居出来ぬと承知で訪れた僅かな逢瀬。
 無事を確かめ託された想いを伝え終えれば。

 互いの想いは深い処で強く繋り合っている。
 明良さんも名残惜しさを感じつつ機を悟り。

「急き立てる様で申し訳ない。必要な準備等は、為景さんを通じて可能な限り、迅速確実
に整えさせます……御武運を」「有り難う」


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 楓さんは明良さんの傍に残って、烏月さんに応対しつつ、真弓さんが訪れた跡を隠す等
の事後処理に努め。真弓さんは為景さんの先導で、千羽が調査済の不二夏美の足跡を辿る。

「『奇跡の超聖水』の現状は、真弓殿もご存じですかな?」
「宗佑が9年掛けて団体を再び隆盛に導いた事なら、一般常識としてね」

 夏美さんを裏切り放逐し鬼にして、恨まれ憎まれ襲われた宗佑達奇跡の超聖水現体制は、
その故に若杉に存続を許され。若杉の危惧は、夏美さんの本物の癒しが世に広まる事だっ
た。

【世の中は、タダで傷や病が治せれば万事解決とはならない。病人や怪我人は助かるけど。
医療に携わって生計を立てる人は、タダで病や傷を治す者の為に、失職の危機に瀕する】

 これは唯の利権絡みの話ではない。製薬業界や病院や政治家の、利権も確かに絡むけど。
それ以上に無償で癒しを施す夏美さんを捨て置く事は、医療に携わる者に収入を諦めよと
言うに等しい。朝迄夜勤する看護士も、患者を診て手術や薬を処方する医師も、新しい治
療法や機器や薬を研究・開発する製薬会社の人も、その事務や製造を司る更に多くの人も。

 夏美さんの癒しは本物の故に、世の秩序を激変させる。善意でタダだからと通せる事で
はなかった。適正な報酬がなくば医療に携わる者は職を喪い、医療制度は崩壊する。それ
は彼女の力量の範囲を越えて、人の世に大きな混乱や不幸を呼ぶ。夏美さんも日本中の病
人怪我人は治せない。収拾出来ない。だからこの結末はやむを得ないのかも知れないけど。

【夏美が居なくなった後の団体なんて、どうでも良いの。あの団体で本当に力を持ってい
たのは夏美だけよ。彼女抜きで団体を運営しても、それは鬼切部の関与する処ではない】

 偽物の癒しなら、インチキなら世の秩序に与える影響は小さい。怪しい癒しを謳う他の
諸々と同様許容できると。支援する気はない。自力で生き残るなら潰さない位の話しだけ
ど。

 奇跡の超聖水に絡みついていた新郷田組が、西川貞雄の死で崩壊して。ヤクザとの関係
は清算済と宗佑氏は発表を。世間もマスコミも、消滅した者と繋れはせぬと、それを受容
して。元代表の夏美さんに、全ての責を負わせた手法も、世間的には成功して非難は若干
和らぎ。

 獄門会は郷田組や奇跡の超聖水との対立を、新郷田組へ移行した後も表向き保ち、奇跡
の超聖水との癒着非難や注目を避け。新郷田組を実質傘下に置いた後も。『奇跡の超聖水
と結託するヤクザ』との汚れ役を彼らに負わせ。

 弱体な新郷田組を潰さず、密かに繋り遠隔操作する事で、彼らを通じ獄門会は奇跡の超
聖水の膨大な利得を吸い上げ。新郷田組が奥多摩の奇跡の超聖水本部で、乱暴狼藉の限り
を為した心理的な因は、獄門会に頭を抑えられ顎で使われる、鬱屈だったのかも知れない。

「獄門会は狡猾でしてな。新郷田組の崩壊後も、表向きは奇跡の超聖水と対立関係を演じ。
『ヤクザとの関係は清算済』という宗佑達の発表を補強し、関与せぬ事で世間の注目を薄
めて。裏では宗佑を脅し金を吸い上げて…」

 奇跡の超聖水はホラー雑誌等に宣伝の場を移し、『癒しの水』の通信販売で収益を上げ。
夏美さん不在では癒しの『力』を込められぬけど、唯の水だけど。広告を打てば求める人
が現れるのが人の世で。夏美さんの頃の本当に癒された体験談を載せれば、真実味も伴う。

 若杉は夏美さんが去った奇跡の超聖水を潰さず。獄門会に金の卵を産む鶏を殺す積りは
なく。マスコミや世間は一度注目が薄らげば、次の話題に飛びついて過去の事など忘れ去
る。

「偽物なら存在を許される。究極の皮肉ね」

「近日のマスコミ人連続殺傷が、不二夏美の所業と知れて以降、明良様の指示で千羽と若
杉は、関係者の近況を調べ。結果マスコミ人連続殺傷は氷山の一角で。夏美や奇跡の超聖
水、獄門会周辺で、事件が頻発していたと」

 2人で入ったラブホテルの一室で、渡された写真の多いファイルに目を通しつつ、真弓
さんは彼の話しに耳を傾ける。日中は鬼が動く可能性が低いので、探査は鬼切部の他の者
に任せ。鬼発見の報が入れば急行する構えで。最新情報の更新や夜に備えた休息に力を注
ぎ。

「城野雪花が精神科に入院しました。治癒も退院も見込が立たぬ様です。王建行の一人息
子・克也30歳は、喉の怪我で声を失い。佐伯摩耶も顔面火傷が原因で、心を病んで入院し。
それと坂本俊郎氏が死去しました。その少し前ですが、中原真琴が病死し、直後に妹の美
琴が行方不明に。その関連でしょうか。夏美と直接の関係は薄いが、徳居竜太と虎次も」

「出立前に柚明ちゃんと肌身を重ねて、夏美のこの夏の所作は、概ね把握出来ているわ」

 それでも真弓さんは見落しがないか、更にわたしが知り得た以上の新たな事実がないか。
念入りに資料に目を通し、話しに耳を傾けて。9年の間に資料を読み込む事を憶えたのよ
と。

 城野雪花さんは元々、強迫性障害で精神科通院歴があり、夏美さんの癒しも望んで訪れ。

【昨夜も金縛りに遭ったの……しっかり供養も済ませた筈なのに、義母の幽霊が枕元に】

【それは、義母のテル子さんではありません。2月前城野さんの枕元に立ったのは、供養
してくれず思い返してくれない事に、無念を滲ませたテル子さんでしたけど。その時城野
さんの後ろに彼女はいましたけど。今は違う】

 浮遊霊か何かが城野さんに取り憑きたくて。
 テル子さんの姿を装っている、模倣犯です。

【城野さんが心を確かに持てば追い返せます。今迄通り毎日テル子さんに祈りを捧げ、自
身の対処は間違ってないと、胸を張れる状態を保って下さい。己の中に弱味があると心は
強さを発揮しきれず、霊の類に揺らされます】

 でも夏美さんが誹謗中傷された時、城野さんは夏美さんの言動をねじ曲げて世間に訴え。

【金縛りに遭うと相談したら、義理の母の霊や浮遊霊が悪さをしていると言われ。経過を
見たいと通う事を強いられたけど……奥多摩の施設に引っ張り込んで、金を搾り取る積り
だったんです。だって、あんな辺鄙な処に隔離されたら、逃げる事も出来ないじゃない】

 夏美非難のネタはどの社も競って欲しがり。
 雪花さんは重宝されてお金も貰え有頂天に。

 でも夏美さんが鬼になって復讐に転じると。
 次は己か明日は我が身かと怯えに心呵まれ。

 そうなった時に彼女が頼れる者は誰もなく。
 後ろ暗さを持つ彼女はその後も不安を抱き。

 此度夏美さんの関係者の不幸が再発すると。
 彼女は頼る者もなく怯えと不安に心呵まれ。

 鬼は不安定なその心を軽く突き崩して壊し。
 硬質な緑の異形で現れるだけで充分だった。

【きゃあああぁぁぁぁぁぁっ! 鬼いぃ!】

 夏美さんは雪花さんを殺めなかった。それは決して慈悲ではない。一時の痛みで終らせ
たくないだけで。或いは真琴さん美琴さんに凄惨な様を見せたくないとの、配慮も微かに
あったのか。殴り蹴り生命を奪うだけが復讐ではないと。でも雪花さんには何れが幸いだ
ったのか。一瞬で全て終るのと、生き存えて。

【な、なな、夏美先生。お願い、許して!】

 悪意はなかったとか記者に踊らされたとか、今は己も不本意な人生だとか。鬼の涙を招
こうと足に縋る雪花さんに。夏美さんもその身に同居する真琴さんも美琴さんも亜紀さん
も、郷田組長達郷田組の面々も誰も心動かされず。

【良くも私の真意をねじ曲げ、世に嘘八百を伝えてくれた。マスコミの悪意以上に、お前
のお陰で私達の理想は折られ砕かれ壊された。仲間の絆も人々の善意も全て踏み躙られ
た】

【いひ、いぎ、いい、いいいいぃぃぃぃ!】

【その報いに私はお前に、事実を正しく捉えられず、ねじ曲げて受容する歪んだ感覚を植
え付け残す。元々事実を歪めて捉え発信してきたお前には、相応しい末路だね? お前は
今から寝ても醒めても昼も夜も、常に背後に周囲に視界の外に、存在しない敵意を恨みを
悪意を感じて怯え続ける。心が安まる日は来ない。その因は、お前自身が宿すのだから】

 雪花さんは鬼に瞳を覗き込まれ。その感応の『力』で心に不安・怯えの根を植え込まれ。
精神科の言葉で言えば、催眠や誘導で強迫性障害を、人為で悪化させたとなるのだろうか。

 以降彼女は寝ても醒めても、夏美さん達や義母やその他『彼女が後ろ暗さを抱く誰か』
の幻に脅かされ。悪い噂を囁かれ囲まれ付き纏われる気がして。入院しても症状は改善出
来ず。錯乱し薬で眠らされても夢で心呵まれ。

 最早逢いに行く意味は薄い。今の城野雪花は誰ともまともに会話出来ぬ。わたしの癒し
も及ぶまい。鬼は彼女の元々の性向を暴走させた。それは鬼と城野雪花の一種合作による
成果。石が坂を転げ落ち、水が低きに流れ行く様に。周囲の誰が何を為しても徒労に終る。

「下手な癒しに関る物ではありませんな。儂は今、初めて不二夏美が怖ろしくなりました。
病や傷を治す力を持つ彼女は、病や傷の治癒を阻み・悪化させる力も持つ? これは祟り
と功徳の両面を持つ神仏に近しい」「ええ」

 為景さんが肩を竦めるのに真弓さんも頷き。

「だから異能を持つ者は、しばしば世間に怖れられ、先回りした怯えの故に排斥もされる。
その排斥が鬼の禍を産み出すなら、卵が先か鶏が先かの様な話しにも、なってくるけど」

 生れてしまった鬼の禍は断たねばならぬ。
 暴走した異能は公にならぬ内に狩らねば。

『そうせねば、柚明ちゃんの様な人の世の隅で慎ましく生きる異能の者に迄、疑いや怖れ、
敵意が及びかねない。科学文明の時代に鬼や異能等存在しないとの建前は、むしろ少数派
である異能の者を守る為に、保つ事が必須』

【真弓さんはわたしの為に、羽藤の為に…】

 血に宿る特異な癒しの『力』を、世間に人々に公に認めて欲しいとの夏美さんの願いは、
どのみち叶わぬ夢物語だったのかも知れない。


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「王建行夫妻とその子・克也には、儂が会いました。夏美は確かに意識して、王一家を誰
も殺めず、その希望を断ち切った。弁護士の克也は、喉を潰されその前途を失わされ…」

 王さんも坂本医院の頃から夏美さんに近く。
 脳梗塞の後遺症を治され感謝していたのに。

【オレも同感だ。夏美先生が医院を引き継いでくれるなら、老先生の代りにオレを診てく
れるなら、オレも安心して仕事に励める…】

 その癒しを広める趣旨に賛同していたのに。
 中途迄は献身的に尽くしてくれていたのに。

【何なんだね、君は】【危ない、野村さん】

 旧坂本医院跡で、奇跡の超聖水の発足式に。

 獄門会のちんぴらが妨害に乱入してきた時。
 誰何した野村さんにバットが振るわれた時。

 彼の背を引っ張って、助けたのは王さんだ。

「建行は息子の学資を欲して、奇跡の超聖水の資金を横領し。癒しを望む者に夏美の指示
なく、勝手に高額な寄付も強要し。返却予定の寄付も掠め取り。その所作が発覚して団体
に戻れなくなって以降は、夏美を非難中傷する側に寝返って、全て夏美の指示だと偽って、
マスコミに嘘情報を売って学資の足しに…」

 その為にサダさん達を横領に巻き込んで。

 気付いてしまった真琴さんと美琴さんを。
 縛り上げ、己はサダさんも見捨てて逃げ。

 郷田組に亀裂を生じさせ、殲滅の伏線に。

 その侭彼は夏美さんを非難する側に寝返り。佐伯摩耶さん達と古参会員で『理想を忘れ
た今の金儲け組織を糾弾する』と。己が為した罪・脅しも込みの寄付強要を夏美さんの指
示と偽り。情報を売って息子の大学卒業を叶え。

「全ての所業が息子の為、その夢の実現の為。夏美はそんな建行の望みを絶つ事で。息子
の、建行一家の願いだった弁護士の未来を断って。自分達の願いを裏切りで断った彼への
復讐」

 建行さんも一種の鬼だったのかも知れない。
 家族の夢・息子の夢の為に人の心を捨てて。

 建行さんは本当に夏美さんに深く恩を感じ、彼女の理想に共鳴し尽力していた。ラーメ
ン店の経営も人に委ね、己は無報酬で団体スタッフとして働き。真琴さん美琴さんが彼に
懐いたのは、彼の笑顔が本物の善意だったから。

 でも奇跡の超聖水バッシングの影響でラーメン店の収入が激減し、息子の学費が不足し。
彼は何れか一方を、選ばざるを得なくなった。息子の夢・弁護士になる夢を断つか、夢の
為に全てを売り渡して金を得る途に突き進むか。

 彼は良心の呵責を承知で、仲間の怒号を覚悟で、団体の資金を横領し。強引に来訪者か
ら寄付を絞り上げ、サダさん達に知られると彼らを抱き込み。事実を知った真琴さん美琴
さんを縛り上げ、悪鬼の途を突き進み。マスコミ側に寝返って、嘘情報を流して金を得て。
夏美さん達の憎しみと、恨みと怒りを買って。

 わたしが視て、真弓さんと肌身重ねて伝えた夏美さんの所業には。この夜の襲撃の像も
あった。鬼の膂力で殴られ蹴られ、克也さんも建行さんも大ケガを。更に克也さんは鬼の
右腕で首を絞められ持ち上げられて。建行さん夫妻は危険も顧みず鬼の足下に縋り、息子
は助けてと。己はどうなっても息子だけはと。

 その求めに、夏美さんは応える事にした。
 その願いを叶える事で、鬼の復讐とする。

 夏美さんは鬼の右腕で、克也さんを窒息寸前迄締め上げつつ、癒しの『力』を及ぼして。
痛めつけた彼の喉に、敢て誤った治癒を与え。喉の奥に腫瘍を作って、再び声を出せぬ様
に。

 腕を放されて、気絶した克也さんが倒れ伏すのに。駆け寄った建行さんは鬼を見上げて。

「生命だけは助けてあげる。私に感謝して」

 苦しげでも呼吸を再開する克也さんを前に。
 ほっと一息ついた建行さんだけど次の瞬間。

「その代り、お前の息子の声は一生奪った」

 鬼は建行さん夫妻の克也さんの心を凍らせ。
 声出そうとしてもすーすー息が漏れるだけ。

「喉の腫瘍はガン化はしないが、何度切除しても再生し同じ様に気道を塞ぐ。一生声が出
せず少し息苦しい位よ。鬼の復讐にしてはとても軽微で温情的と思わない?」「先生!」

 生存には差し障らない。夏美さんは克也さんにも王さん夫妻にも、それ以外の一切の後
遺症を遺す積りはない。唯彼の声のみを奪い。お伽話の人魚姫の様だけど、でも現実世界
を生きる彼の希望は、それで致命的に砕かれる。弁護士は喋れなければ弁論も陳述も叶わ
ない。

 幼い頃からの夢が、漸く手を届かせた夢が、父の健行さんが心を鬼にして握り締めた夢
が。この軽微で温情的な復讐で、一生声を失う事で消失させられ。それはある意味死より
辛い。

『声が、声が出ないよ。父さん、これが報いなのかな……やっぱり、非道な事をして掴ん
だ成果では、弱者を守り社会正義の実現に尽くす弁護士なんて、成り立たないのかな?』

 彼の声は届かないけど。父にはその悔しさは伝わっていて。息子は父にそこ迄の非道を
して金を稼いで欲しいと望んでおらず。自身を削って届かせれば良いと考え。でも父はそ
こ迄の非道をせねば、夏美さんのバッシングを経た後では、夢に届かぬと。金は稼げぬと。

 息子は父の所業を諫め哀しみつつ、ぶち壊す事は出来ず、その途を進み続ける他になく。
恨み憎しみを買って復讐を受ける今を、悔しさと共に受容し。貧乏人は無理をしてもしな
くても、何れでも夢を叶える事は至難なのか。

 でも、己の為の夢ではない故に。己に下されず最愛の息子に下された罰の故に。息子に
は咎がない故に。己の非道を承知で尚建行さんは、この結末を受容出来ず、鬼に詰め寄り。

【罰はオレに下してくれ! 息子を元に戻してくれ。お願いだ。漸く夢が叶ったのに。悪
魔に魂を売って漸く届かせたのに。それを幾ら何でも酷すぎる。代りにオレを殺しても良
い。オレはどんな報いも詛いも受けるから】

 正に夏美さん達の復讐はその為に行われ。
 建行さん自身を呵むよりこうすべきだと。

【オレの、オレの残り人生の願いを、酷い。
 これじゃオレは今迄数十年、一体何を…】

 建行さんの願いが望みが砕かれ行く様を。
 夏美さん達は挙って嘲笑いつつ見下して。

【その願いが俺達みんなを踏み躙ったんだ】
【お前にだって何も残してやるものかよ!】

 夏美さんに宿る死霊達が、夜なのでその体から漏れ出して。打ち拉がれる一家を前に歓
喜して。この瞬間を待っていたと。膝を突く克也さんを、彼に寄り添うその母を、鬼に取
り縋るその父を。その無力を涙を前に哄笑を。

【もう、行きましょう。先生、虚しいです】

 どこか乾いて上擦ったその哄笑に声挟め。
 立ち去ろうと促したのは野村さんだった。

 最初は歓喜した真琴さん美琴さんも、亜紀さんもヤマさんゲンさん達も。王さん一家の
絶望や悲嘆を見ていると、徐々に躍動が抜け。仇の不幸が喜びで願いだったのに。その涙
が彼らを心躍らせる筈だったのに。見続ける内に何故か心が鬱になってきて。彼らこそ絶
望に心を浸し、故に悲嘆を最も嫌ってきたのだ。

 野村さんは、王さん一家に下した処置は正当だと言い。でもそれは喜ばしい事でないと
も言い。裏切られた事実は永遠に後味が悪く、決裂はいつ迄も心を温める事が叶わないと
…。

【復讐は虚しいです。虚しいと分っていても、収まらぬ憤怒もあるからこれはやむを得ぬ
が、終えた後迄もその末路を見続ける必要はない。これで彼らと我らは貸し借り無しです。
我らはいつ迄も彼らに拘り続ける訳にも行かぬ】

 真琴さん美琴さん達が野村さんに心を寄せ。
 夏美さんが敢て彼を鬼に招いた訳が悟れる。

【そうね、無力な愚か者が泣き叫ぶ姿を見続けても不快なだけだし】
【美琴、無理して強がらなくて良いの。例え仇の不幸でも、不幸を視れば心は鬱になるわ。
もう行きましょ】

「王克也氏は心強く優しい人物でした。父の暴走を止め得なかった事を己の咎と捉え、一
生声の出ぬ定めを報いと受け容れて。夢は断たれても、汚れた金でなれた弁護士ではなく、
本当に弱者や社会正義に尽くせる途を探すと。己が心折れぬ事が両親の最後の支えになる
と。全てを引き受けて苦くも確かな笑みを浮べ」

 真弓さんは為景さんの印象が、わたしが視た王さん一家の印象にも重なると頷いて。王
さん一家の泣き笑い混じる近日の写真を眺め。

 過ちの末に正解に辿り着く事も世にはある。


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「坂本俊郎氏は、自然死なのね?」「はい」

 為景さんは、死亡診断書のコピーを真弓さんに手渡し。夏美さんに深く関った彼の死は、
鬼が9年ぶりに動き出した頃合で。若杉も千羽も疑った様だけど、調べても結局何も出ず。

 夏美さんは、俊郎氏を深夜に訪れただけで、他の誰にも来訪さえ知られてない。彼も鬼
の来訪を受けて生活や言動に変化が生じた訳ではなく。夏美さんの訣れの挨拶という接触
は、若杉や千羽も未把握で。血を呑まれたわたしが彼女と魂を繋げて、漸く悟れた中身だ
った。

「坂本俊郎氏は、鬼の気に当てられて寿命を縮めたと、柚明ちゃんは言っていたわ」「坂
本一家に鬼との関りは認められず、特段の処置は不要と、千羽も若杉も考えております」

 事情を承知の俊郎氏は、鬼の復讐を止めなかったけど、積極的に後押しもせず。身動き
の取れぬ彼には、協力も阻止もできなかった。そして鬼は息子の史朗氏達とも関係を持た
ず。関係を持たぬ事で彼らを巻き込むまいとして。

「佐伯摩耶も生き存えたのね? 彼女こそ王建行と同じく、鬼の仇でしょうに」「はっ」

 坂本医院の頃は婦長だった佐伯摩耶さんは、年長で職歴も長く、奇跡の超聖水で後輩の
夏美さんに仕える事に抵抗拭えず、嫉妬を抱き。

 それでも奇跡の超聖水が坂本医院跡にあった頃は、病院の頃を知る馴染みが多く、その
流れで彼女も大きな顔が出来た。夏美さんの知らぬ処で高価な取次料を患者に求め、『診
療室に呼ぶ順』を勝手に調整し。豪遊もして。

 でも奥多摩の施設に移り、みんな同じ処で一斉に癒しを受ける様になって、取次特権は
消失し。逆に有料取次が発覚し団体に居られなく。マスコミの非難中傷が始ると、新たな
金蔓や注目を求め、彼女は敵方へ居所を移し。

 摩耶さんは報道陣に、夏美さんの指示に従って患者から金を巻き上げた、己は勇気ある
内部告発者と述べ。内情を知らねば語れない、一部事実を混ぜた疑惑や醜聞を外部へ漏ら
し。追及された夏美さんが答に詰まるのも無理はない。それらは彼女も知らぬ事実だった
のだ。

 奇跡の超聖水非難中傷に燃える報道各社は、嘘でも良いからとバッシングするネタを欲
し。結果少なからぬ金品や便宜を彼女は対価として得て。その中身が胡乱でも、報道各社
はこれを摩耶さんの証言で、己がついた嘘ではないと言い逃れ。検証責任を放棄して共に
踊り。

 非難の嵐が終ると、摩耶さんもマスコミから用済みと捨てられ。でも看護師の彼女は別
の病院に勤めて良い稼ぎを得て、職場の医療ミスや醜聞をマスコミに売って、豪遊を続け。
体と顔の殆ど全てに整形のメスを入れ。より美しくセクシーに生れ変り。人を踏躙して得
た人生を満喫した末に、遂に鬼の復讐に遭い。

「摩耶にも逢う意味は薄いでしょうな。病院から入手した写真です。生命に別状なくても、
その人生の希望が断たれた事が窺えるかと」

 摩耶さんの顔には火傷の痕が深く刻まれて。
 鬼の右手が摩耶さんを正面から掴んだ様だ。

 憤怒で体温を上げて鬼は右の掌に熱を纏い。
 その顔に掌を押し当て握り潰しながら灼き。

「夏美達の強い憎悪が窺えると同時に、これは佐伯摩耶の醜悪な内面・本性なのかもね」

 額に伸びた中指の痕、両目の瞼に伸びた人差し指と薬指の痕、両頬を抉った親指と小指
の痕は、肌が焦げ。鼻は消失して顔の中央は平たく、2つの穴は見慣れぬ位置に。鬼の憤
怒で顔は灼かれ。両目が潰されなかったのは、鬼が敢て治した為だ。醜い後生を直視せよ
と。

【ひいぃぃぃぃ! たすけてええぇぇっ!】

 それは生き残る方が苦しく悲しく辛いかも。
 生涯引きずり続けねばならぬ凄惨な復讐に。

【当然すぎるぜ、お前には相応しい報いだ】
【他者の希望を摘み取った罰と思いなさい】

 鬼の恨みは憎悪は悲痛は、漸く解き放たれ。
 受けた非業を無念を憤怒を、全て叩き返し。

【あがあぁぁぁ! そんな、そんな酷い…】

 何も残らなくて良い。むしろ何も残さない。
 夏美さん達には何も残らなかったのだから。

【これでも返し足りない位なんだ、俺達は】
【わたしや仲間の悲痛はこんな物じゃない】

 せめて残された憤怒や憎悪や無念や恨みは、
 その因をなした者達に返すのが理の必然と。

「皮膚移植の手術を二回しましたが、根付かずに剥がれ落ち。どうやら、佐伯摩耶の顔は
これを常態と憶えてしまい。メスを入れて皮膚移植をしても、元に戻ってしまう様です」

 詛いの一種なのかも知れない。夏美さんの巫女装束が、破れ汚れ解れた状態で固定して。
それ以上破れ汚れ解れても自動的に修復されるけど、新品状態には戻らず、無理に繕い洗
っても、再び元の状態迄破れ汚れ解れる様に。

 摩耶さんは治された事で状態が固定し、自然治癒も働かず。終生この容姿で生きる事に。
鬼は、己の顔や姿をこよなく愛し、その改造に全てを注ぐ摩耶さんの希望を断って復讐を。
夏美さん達の醜聞をでっち上げて流し、金を得て着飾ってきた彼女に、本当の醜さを与え。

「柚明ちゃんと肌身を重ね、感応で視た鬼の復讐劇は、壮絶だったわ。摩耶の本性の醜さ
も夏美の憎悪や憤怒の凄まじさも。柚明ちゃんは良くあれを直視できた」「流石に儂もあ
の惨状を生む現場を視る気にはなれません」

 摩耶さんは今後死ぬ迄、死ぬ程の恥辱と痛みと怯えに呵まれ。鬼は癒しの『力』で傷を
塞ぎ、敢て殺さず余生を苦痛に染めて復讐を。癒しを人の禍にできる。それは不二夏美の
みならずわたしや、白花ちゃん桂ちゃんに及ぶ話しで。故に真弓さんは早く鬼を切らねば
と。

「マスコミ記者の真田昌幸や八木博嗣、それに獄門会のヤクザ達への応対と違いますな」

「彼らは最初から敵として現れたから。情がなく憎しみだけの相手は、殺すだけで満足な
のでしょうね。そう言えば、八木博嗣は?」

 遭ってしまえば柚明ちゃんとの事で、唯で済まさぬ気がするから、遭う積りはないけど。
白花や桂と同じ歳の幼子がいるとも聞いたし。

【真弓さん、わたしの無理な頼みを聞いて】

 真弓さんの問に為景さんは苦笑いを浮べ。

「母になりましたな。昔の真弓殿なら幼子の無事のみ尋ね、卑劣な父など捨て置いたでし
ょうに」「卑劣な父でも幼子の父だからよ」

『柚明ちゃんに頼まれたという以上に、彼女が生命懸けで操を捧げて守り庇ったからには、
その後の父娘の無事位は確かめておかないと。愛しい姪の辛苦が無駄骨になってしまう
わ』

 柚明ちゃんは子が親を喪う悲劇を嫌うから。
 己を穢す卑劣漢でも子に注ぐ想いが真なら。

 その力になりたく願い、己を捧げてしまう。
 愛してはいけない者迄、愛してしまうのは。

『羽藤の血筋なのかもね。正樹さんの様に』

「八木は明良様から気配を隠すお守りを貰い、その助言で鬼の禍を避ける為に転居しまし
た。尤も転居後に旧八木宅を鬼が訪れた跡はなく、夏美はこれ以上八木を狙う積りはない
様で」

「柚明ちゃんの印象では、鬼は彼にそこそこの痛み苦しみを味わわせて、満たされた様ね。
復讐を止める積りはないけど、標的は彼のみではないし。柚明ちゃんがそこ迄して庇うな
ら、後回し又は見逃しても良い様な感触で」

 この夏の鬼は、報道関係者も何人か襲ったけど、被害者全体から見れば比率は高くない。
既にあのバッシングから9年経った。尚も被害者の会の声を取り上げ、報道を続けた社も
少数あったけど。多くの社は古い話題をさっさと捨て、新規で人目を惹くニュースに移り。

 9年の間に退職や事故や病気や、八木さんの様な事情で報道業界を去る者も居て。9年
前に討ち漏らした仇と呼べる人も、余り多くは残ってないのかも。時の移り変りを感じる。

「9年前に関るマスコミ人は、多くがバッシングの成功で幹部に出世しています。故に一
時は夏美の標的が、社会的な立場の高い者に偏って見え。鬼切部も政財界も、昔彼らを裏
で煽った大病院や製薬業界・更にその裏にいる政界迄、鬼の禍が迫るかと怖れましたが」

 正樹さんの新刊出版記念祝賀に出席した松下元総理や平民新聞田辺社長を、明良さん達
千羽党が警護したのも、それに備えてだった。

「高記者は真相に辿り着いた。その裏の若杉の存在迄は、流石に分らなかった様ですが」

「夏美は、いえ夏美達には背後の構造など二の次だったのね。裏で誰が暗躍しようとどこ
で誰が儲けようと、鬼の仇にはならなかった。唯目の前で仲間の同志の絆を壊し断ち切り
嘲笑った、マスコミや獄門会や裏切り者への憎悪が憤怒が恨みが、今の鬼を動かしてい
る」


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