鬼を断つ刃〔丁〕(後)
真弓さんは、為景さんが手渡した資料を次々とめくり。わたしと肌身を重ねて視た事前
知識があるので、確認程度の感じで読み進む。
「被害者の会も余り標的になっていませんな。
被害者の会は鬼の死も報されぬ侭、宗佑が継いだ奇跡の超聖水へ批判や賠償請求を続け。
裏で宗佑と繋った獄門会が、彼らを邪魔だと潰しに掛って半壊状態でしたが……鬼は獄門
会のみ殺傷し、被害者の会には殆ど触れず」
「被害者の会には裏切りで得た、復讐して壊したくなる程の栄華が、なかったのかもね」
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鬼の動向に係る情報が真弓さん達に入ったのは、夏の長い陽も傾き始めた夕方4時頃で。
「獄門会に入った情報を、若杉及び千羽も盗聴して入手しました。獄門会は大騒ぎです」
為景さんは千羽の車を呼びつつ。待ち時間の間に携帯で受けた情報を、真弓さんに伝え。
「今宵9時に、鬼が獄門会本部を襲撃するそうです。鬼は、鬼切部が鬼の住処を探り当て
ようと、その範囲を絞り込んでいる事を悟り。じっくり構えていられぬと、強攻を決意
し」
「その情報は誰から? どういう背景で?」
情報の真偽はその出所に大きく左右される。
鬼の協力者の裏切りの様です。為景さんは、
「つい先日迄ホームレスだった塚地健夫48歳。奇跡の超聖水に多少関係があって夏美を慕
っており、獄門会やマスコミ・宗佑達の所業に憤り。自ら何かする胆力や気力はないです
が。鬼とこの夏に再会してその復讐に同調し、鬼に代って仇の動向を探ったり、住処を借
りる名義人になる等、協力してきた様です。唯…。
余りに凄惨な復讐に怖じ気づき、後悔し鬼から離れたく密告したと。報酬は不要だから
鬼を確実に殺って欲しい。失敗すれば次は己が的なので、確実に息の根止めて欲しいと」
塚地健夫が借りたアパートは、鬼切部で絞り込んだ鬼の住処の可能性濃厚な範囲内です。
近日真田昌幸や佐伯摩耶の現住所や動向を尋ねてきた電話に録音済の声が、一致しました。
「塚地健夫は今も定職はなく。家賃や敷金等の出所も、ホームレスを止めた理由も不明で。
近隣で続発中の窃盗・強盗による盗品の幾つかが、先程踏み込んだ警察の手で発見されま
した。鬼が人の世で人を装い生きる糧にした物かと。生活の跡もどうやら2人分あると」
「その男は今現在は? もう掴まえたの?」
いえ。為景さんはその首を左右に振って。
「獄門会へ数回電話して行方を眩ませました。獄門会も若杉も千羽も行方を追っていま
す」
そこそこ長く話さねば伝わらぬ内容を、何度も電話する。1箇所誰かに掛けただけでは、
本気にされず、握り潰されると怖れてなのか。でも獄門会も若杉も千羽もそれを逆探知し
て。
「彼が使った公衆電話は突き止めました。そこでその時間帯に、長話していた男を追跡す
れば。それ程時間も経ってないので、行動半径も限定されます。成果はもうすぐかと…」
「裏切ると見せかけた罠で、彼も鬼かも知れないわよ。抵抗すれば切る心構えはある?」
そこは怠りなく。為景さんは真弓さんの確認に頷いて。2人も千羽も若杉も、獄門会も
情報を鵜呑みにしない。情報が真だった場合でも嘘だった場合でも。塚地さんが鬼の協力
者以上に、鬼になっていた場合迄考えて備え。
「手練れの者を二分しました。一つは塚地の現在地が分れば、即座に差し向ける機動部隊。
もう一つは鬼が襲撃する予定の獄門会本部傍に待ち伏せ部隊を。彼の言葉が真でも罠でも。
我らの狩り立てや絞り込みが、この展開になった。我らの所作は確実に鬼に近付いている。
だから今度こそ逃がさず、必ず討ち取る。
真弓殿、我らはどちらに向かいますか?」
獄門会も若杉も、塚地さんの確保と待ち伏せを双方行う様で。千羽と若杉は獄門会の守
りと言うより、鬼を討つ為にその本部傍で待機し。獄門会は本部ビルで迎撃の準備を急ぎ。
鬼が相手と、彼らも組員を多数集め。警察は制止の人員を即座に集めきれず、見守るのみ。
「わたしに少し考えがあるの。そのどちらにも急行できる中間の地点に、留まって頂戴」
真弓殿? 為景さんは一瞬訝しげな顔を見せたけど。承知して、運転手である千羽の女
性・和子さん24歳に、短く指示を下し。この時既に真弓さんは塚地さんの情報が、嘘か本
当かの何れかではない可能性を、考えていた。
「戦力を分けるのは本来愚策だけど、ここ迄数で優位に立てばその拙さも補える。戦いと
言うよりこれは狩り。今の情報が嘘か真か何れかなら、今宵わたしに出番はない。でも」
もう少し車を進めて。真弓さんは、獄門会本部と塚地さんを追う起点となる公衆電話の、
中間で停まる車に再動を指示し。そこは2つの地点から等距離だけど、最短距離ではない。
真弓さんは両地点からの等距離を保ちつつ。
もう1つの地点にやや近付くように指示し。
3点の中間地点であるその場所での待機を。
「まさか、真弓殿の読みとは」「可能性よ」
予告された鬼の襲撃時刻は、もう間近だ。
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「中原姉妹の姉・真琴は病死です。そして柚明嬢の言われた通り、美琴は行方不明でした。
美琴の体を鬼が乗っ取っていると仮定すれば、肉の体を喪った夏美の復活にも納得できま
す。そして調査を進める内に、真琴が6年前から数度、病にも関らず堕胎していたと分り
…」
待機時間中、為景さんは真弓さんに。わたしが視て明良さんに伝えた結果、若杉や千羽
党が調べた真琴さん美琴さんや、その養家の今を伝え。バッシングでその仲を引き裂かれ
たけど、中原姉妹は夏美さんに非常に近しい。徳居家が夏美さんや奇跡の超聖水と関りが
薄かった為に、姉妹は鬼切部の盲点だった様で。わたしの感応も、少しは役に立てただろ
うか。
「問題は堕胎よりむしろ妊娠の原因よね?」
「真琴は当時、既に病で外出の難しい状況でした。相手は養家である徳居家の夫・典久と
長男竜太、次男虎次の3人しか考えられず」
どの選択肢でも鬼畜ね。真弓さんの答に。
為景さんは姉妹の境遇に同情的な頷きを。
家でも学校でも世間でも、奇跡の超聖水と深く関り、夏美さんを強く信じ慕った姉妹は、
虐めや孤立の思春期を過ごし。真琴さん美琴さんの悲運は、人の世が作りだした物だった。
「徳居家の事情には分け入れませんでしたが、為された鬼の復讐が、誰が仇なのかを間接
的に示しています。鬼に襲われた徳居家の典久と妻の菊子は重傷で、竜太と虎次が男性器
を千切り取られる重傷を負い。真弓殿も……」
視たのですかと、為景さんが訊き淀むのは。その光景を彼も想像したくないから。真弓
さんが視たと言う事は、わたしがその光景を先に視て、真弓さんに肌身で伝えた事をも示
す。想わず身震いする彼に真弓さんは静かな声で。
「今回の鬼の根は不二夏美じゃない。夏美は彼女を慕う者の悲憤に突き動かされ呼び出さ
れ、甦った。確かに鬼は夏美だけど、表に見える討つべき鬼は彼女だけど、真の解決は夏
美を討つだけでは終らない。真の解決は…」
夏美さんは徳居兄弟を殺めなかった。美琴さんは己を穢した仇である以上に、姉の真琴
さんを穢し虐げた所業への恨みが深く。2人とも殺してと必死に願ったけど。両親の前で
縊り殺して、頸を切断して、心臓を抉り出してと心から求めたけど。真琴さんや野村さん
も止められぬ美琴さんの憤怒に、夏美さんは流されず。姉妹の仇に不殺の意図を貫徹して。
鬼は竜太君や虎二君を哀れんだ訳ではない。
夏美さんはむしろ真琴さん美琴さんを想い。
鬼畜兄弟でも、長年寝食を共にした家族の。
生命を目の前で奪う様は姉妹に良くないと。
【あぎいゃあぁぁ! お、俺の、俺の…!】
【いたい……いたい、いだいいぃぃぃっ!】
でも、姉妹の恨みや憎悪は、憤怒や悲嘆は。
復讐を抜きにしては、収まる筈もないから。
鬼の膂力を抑えつつ散々殴り蹴りはたいて。
両親の前で鬼畜兄弟に罪を自白させ謝らせ。
【もう誰にも自慢出来ないわね、いい気味】
【残り人生の全部を、悔恨に費やすんだな】
2人の服を剥ぎ取って男性器を千切り取り。
血塗れでのたうち回る2人と両親の絶叫に。
漸く美琴さんもせいせいしたと、高笑いを。
真琴さんも、復讐は虚しいと承知で溜飲を。
【私を犯した獄門会の男達は、4時間命乞いさせた末に全員縊り殺したわ。この結末は温
情なの。貴方達、夏美先生に感謝して頂戴】
香坂亜紀さんの言葉が、鬼に宿る全員の本心だった。夏美さんを信じ慕い、明るく可愛
い真琴さん美琴さんは、奇跡の超聖水のアイドルで、みんなに好かれていた。バッシング
を受ける様になっても節を曲げなかった姉妹を、夏美さんを慕い続けた者は皆、信じ慕い。
でも正にその故に、世間は姉妹に冷たく。
正にその故に鬼に宿る者達は世間を恨み。
世間はマスコミの嘘に煽られ。夏美さんや彼女を信じ慕う者を、指弾し迫害し教え諭し
叱りつけ。善意の故か目立ちたがりの故か虐める者を欲してか。彼らは無理解の侭、彼女
に想いを寄せた者の人生を、ねじ曲げ狂わせ。
徳居夫妻も鬼畜兄弟も、真琴さん美琴さんの想いを理解できない。鬼の憤怒を分らない。
彼らは夏美さんが過ちで己は正当と思いこみ。なぜ自身がこんな理不尽に遭うのか分らな
い。
でも、そんな彼らでも思い当たる節はある。
真琴さん美琴さんに為した、兄弟の所業は。
指弾され、復讐されるに値する蛮行だった。
それは見て見ぬふりした徳居夫妻も同罪で。
【お前達は養女の真琴や美琴より、実子のバカ兄弟が可愛かったんだろう? どんな過ち
をしでかしても、真琴や美琴の操を奪う非道を為しても、実子が可愛かったんだろう?】
何とか許してと、縋る典久氏と菊子さんに。己の生命を捧ぐから、息子の生命助けてと
乞い願う両親に。既に殴られ蹴られ血塗れになっても、己の子は守ろうと必死に頼む母父
に。
【そこ迄願うならこの兄弟の生命は取らない。真琴や美琴の操を奪い取った鬼畜兄弟だけ
ど。真琴や美琴の願いに目を瞑ったお前達だけど、私もその大きな罪に目を瞑ろう。その
代り】
鬼は徳居兄弟の男性器を、千切り取って。
【お前達の希望も奪い取った。お前達は真琴美琴の親を放棄した代り、孫を得る望みを喪
った。お前達の願いは叶えてやる。生命は取らない。だが徳居の血筋はこの兄弟で終る】
徳居夫妻の子供への愛は、歪んでいても本物だった。真琴さん美琴さんへの非道は見逃
しても。2人の息子の生命の危機には、典久氏も菊子さんも己を顧みず息子の助命を願い。
その罪を代りに謝り、罰を代りに被ると述べ。
だから鬼は兄弟のみならず、親も含む徳居家全員に罰を下した。見逃した親も同罪なら、
家族全員の希望を断って復讐に。真琴さん美琴さんを穢し虐げた、悪しき物への処置とし
ても。鬼畜兄弟への罰としてもそれが相応と。
【いでぇよぉ! いでぇよぉ】【ひでぃ…】
兄弟は尚も激痛に叫び転げ回っているけど。
男性しか知る事の出来ない凄まじい痛みに。
でも傷には既に治癒が施され出血は止まり。
感染症の心配も、完治の見込と共に消失し。
夏美さんの復讐は、それで尚生き続けろと。
子を為せぬ体で傷物で、余生を過ごせとの。
子孫残せず老いて死ねとの緩慢な死刑宣告。
その父母からも孫を得る願いを喜びを奪い。
【これで充分よ。こいつらには殺す値がない、と言うより殺して終らせる程鬼は優しく甘
くない。生きる限り果てしなく自動的に、己の罪と罰を直視して生きねばならぬ。それ
が】
がっくりと膝を突いて徳居夫妻は項垂れ。
【それが、竜太と虎次の子育てを誤った我ら親の受けるべき報いでもあると?】【ええ】
夜なので鬼の体から漏れ出た真琴さんが。
短くでも確かな意思を持って明確に声を。
【貴方達は美琴を守らなかった。わたしの最期の願いや遺言にも、耳傾けてくれなかった。
夏美先生は貴方達の最後の願いを、叶えたわ。貴女達は恵まれているのよ、徳居家の皆さ
ん。
でももうわたしはそれを羨ましく想わない。想う必要がない。わたしには、わたしの願
いを叶えてくれる夏美先生や、美琴やみんなが居てくれるから。ずっとずっと一緒だか
ら】
【あたし達の仇に、あたし達の恨みや憎しみや憤怒を叩き返してくれる、夏美先生が居て
くれるから。想いを共有できるお姉ちゃんやみんなが居てくれるから。もうあなた達に養
って貰う必要も、縛られる必要もないから】
姉妹は今漸く徳居家の軛を離れられたのか。
死して鬼になって復讐を終えて漸く心から。
徳居家に抱く憎しみからも、解き放たれて。
相応しい罰を報いを下せたと、納得できて。
父母を喪って後、養女に迎えられて拾数年。
常に嫌われ虐げられ続けていた訳ではない。
時に典久氏も菊子さんも姉妹を案じ慈しみ。
夏美さんとの出逢いを導いたのも典久氏だ。
竜太君虎二君も最初から鬼畜ではなかった。
いつからどうしてこんな結末になったのか。
でも曲折の末に漸く真琴さんも美琴さんも。
憤怒を発散し終えて全てと向き合える様に。
【私を憎みたいなら憎めばいい。私もお前達を許した積り等ない。ずっと憎み続けるから。
お前達も精々、絶望を生きて足掻くが良い】
共に幼少時を過ごした竜太君や虎二君・養父母を殺めれば。一時は清々しても、心優し
い真琴さん美琴さんは、必ず心に重荷を負う。共に暮らした日々を振り返れなくなる。そ
れは真琴さんが美琴さんと、美琴さんが真琴さんと、共に過ごした珠玉の過去でもあるの
だ。
この復讐で真琴さん美琴さんが、徳居家に抱く憎悪・恨み・憤怒から解き放たれる様に。
でも幼い頃からの家族を殺めて、逆に復讐の末の自責や悔恨に、心囚われてしまわぬ様に。
「竜太と虎次は退院しましたが、心を砕かれ、覇気の抜けた状態になって。両親の励まし
を受けつつ、社会復帰へと動き出した様ですが。典久と菊子は、この結末を招いた因は己
にあると、観念或いは諦観し。叶う限り2人の子供の今後を支えたいと、語っていました
…」
「徳居夫妻はもう少し、早く動くべきだった。
せめて中原真琴が犯されたと気付いた時に。
兄弟を厳しく叱り罰や償いを科しておけば。
真琴も救われて美琴も鬼にはならなかった。
真に子供を愛しているなら、厳しさも必須。
愛していればこそその過ちは糺さなければ。
過ちを犯しても愛し続ける気持は分るけど。
盲目の愛は、時に子供には最悪の仇となる。
子の罪を直視できず、目を瞑り対処しなかった為に。子供が理非の境を見失って暴走し。
その報いを受けるのは己ではなく愛した子供。子を持つ身としては、身につまされるわ
ね」
徳居家はこの先に老いて行く未来しかない。竜太君も虎二君も誰と結ばれても子は作れ
ず、夫妻に孫は生れない。揃って老いて行くだけ。でも、それでも生命残された事を幸い
に想い、典久氏も菊子さんも子供2人と、今を生きて。
人は時に、希望があるから生きられるのではなく。生きていればいつか希望に巡り逢え
るかもと、過ぎ行く時に己を委ねる事もある。
為景さんの携帯の着信が鳴って。今を復讐に生きる鬼達の、最新の情報がもたらされた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「獄門会本部ビルで爆発です。窓ガラスが割れて外に飛び散り、血塗れの獄門会員が外へ
飛び出し、更に悲鳴や助けを求める声が続き。周囲で推移を見守っていた警察も踏み込み
ました。消防車も駆けつける様です。ですが」
「鬼の存在は……確認できていないのね?」
真弓さんの問に彼は頷き。爆発は鬼の襲撃ではない。夏美さんにビルを揺るがす爆発を
起こす技能はない。人目から隠れつつ周囲に展開していた鬼切部も、鬼を察知できてない。
「中では尚散発的に爆発が続いている様です。どうやら、獄門会が鬼の襲撃に備えて積み
上げ集積させた銃器に、引火しているらしく」
「これが夏美の仕組んだ獄門会への攻撃で。
鬼切部の注意を惹き付ける策でもある…」
真弓さんは凄まじい読みで夏美さんの策動を読み解いていた。否、最初からその可能性
を読み込んでいたから、鬼の襲撃の情報を聞いても、敢て獄門会本部へ駆けつけなかった。
鬼を討ち終え羽様に帰ってきた真弓さんと。
肌身重ね夜を過ごし感応でその状況を視て。
羽藤柚明はその背景を、関知で悟れたけど。
夏美さんはわたしの濃い贄の血を取り込んで得た、感応の高度な技能を流用し。獄門会
の組員何人かを己の傀儡にして。襲われた事さえ忘れさせて、後催眠に近い暗示を掛けて。
塚地さん経由で、鬼が獄門会本部を襲うとの情報を流せば、獄門会は防戦の準備に入る。
彼らは逃げるとか警察を頼るとかは考えない。隠し場所から拳銃や爆薬等の武器を取り出
し、組員を集め。そこへ傀儡にした者を潜入させ。
普段と違い混雑する獄門会本部では、反応が鈍い傀儡も目立たず注目されぬ。ぼやぼや
するなと怒鳴られる位か。鬼を倒す為の武器が組員に配られる。多数の爆薬や銃器が積み
上げられる。そこで手榴弾のピンでも抜けば、爆薬にライターの火でも近づければ。一瞬
で。
傀儡は一般に思考が鈍く後先を考えられず。
指示された事の結果を推測して判断できぬ。
『鬼の行いは、柚明ちゃんの技能を悪用すれば人の世に重大な脅威となると、周囲に示し
始めている。早く鬼を討たなければ、若杉は柚明ちゃんの、羽藤の血筋を怖れる事にも』
「夏美の、と言うより郷田組の復讐ね。郷田組は拾年前、裏切り者・西川貞雄の偽情報で、
郷田組本部へ多数が集まった処を、獄門会が用意し西川が置いた爆弾にやられた。今鬼は、
塚地健夫の情報で獄門会本部へ多数を集めて、奴らの爆薬を使って報復した。因果応報
ね」
郷田組の時は、爆発で郷田組の体勢を崩し、同時に獄門会が周囲から一斉攻撃で壊滅さ
せ。今回鬼に味方は居ないけど、獄門会の敵ならばいた。獄門会の鬼に備えた大規模な集
結に、対応して傍で警戒していた警察が。彼らは即座に強制捜査に入り。鬼はこの展開も
考えて。
でも、獄門会自身の爆薬と警察を使って。
自業自得という形で、復讐を遂げるなら。
「夏美がここにいる必要はない……つまり鬼はここには来ない。やはり塚地の情報は嘘だ
ったと言う事か? 確かに何者かの襲撃と言える状況だが、鬼の目的に叶う展開だが?」
「唯の嘘なら、話しは簡単なのだけどね…」
真弓さんの微妙な答に為景さんは首を捻る。
そこで為景さんの携帯に最新の情報が入り。
「獄門会は組員2名が死亡、他にも重傷者多数が病院に搬送され。獄門会の組長及び副会
長は軽傷です。踏み込んだ警察の手で銃器の不正所持が発覚し、現行犯で組員や幹部が次
々逮捕されており……尚も鬼は未発見です」
「爆発させた組員が傀儡にされた者で、爆弾の至近にいた筈だから、死亡の確率は高いわ。
警察にはこの事情を読み解けないでしょうね。仮に生き残れても、心の病で片付けられ
る」
何も起きなかった訳ではなく。大きな変事は起きている。だから千羽も若杉も撤退して
良いかどうか、図りかね。これが鬼切部を敢て惹き付け離れさせる為の、陽動とするなら。
未だ鬼が間近で隙を窺っているとするなら。
鬼切部が去った後を待っているとするなら。
今離脱する事が、致命的な失敗の因になる。
そんな頃合に別方向から入ってきた情報は。
「塚地健夫が若杉に確保されました……彼は鬼ではなく、人だった様です。正確には警察
に勤める若杉の手の者が、職務質問して挙動不審な塚地に、公務執行妨害をかけて逮捕し。
彼は拷問した訳でもないのに、鬼の行いを喋り出している様です。柚明嬢の関知と感応
がなければ、鬼切部と言えど知り得なかった、この夏の鬼の蘇りについても……真弓
殿?」
「車を出して」「は、はい……分りました」
真弓さんは為景さんの話しに耳を傾けつつ。
黒髪ショートの運転手・和子さんに指示を。
「行く先は……真弓殿、まさか」
「塚地の言葉は真であって嘘でもある。本当か嘘かの何れかで言えば、そのどちらでもな
く両方よ」
塚地は通報で、若杉や千羽の注意を半分獄門会本部に惹き付け、半分を自身に惹き付け。
今は真実を語って時間稼ぎし足止めしている。その間に、鬼は最期の復讐を為し遂げる積
り。
真弓さんはこの可能性を考慮に入れていた。
「奥多摩、奇跡の超聖水本部へ急いで頂戴」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
千羽和子さんが運転する車は、かなりの速さで走るけれど。2時間近くは掛ってしまう。
3つの地点から等距離と言う事は、どこに行くのにも、同程度の時間が掛ると言う事で…。
奥多摩にある奇跡の超聖水本部に、鬼切部の戦力は今殆どない。鬼の侵入を弾き、その
侵入を鬼切部に報せる結界は配置済みだけど。戦力を投入したり配備して待ち伏せたりす
るのは、原則鬼を討つ時のみで。常時どこかを守れる程に豊富な人員は、居ないのが実情
で。
今宵の対応に若杉も千羽も、戦力を2箇所に集結させた結果、他の全てが手薄になって。
今の鬼は真田記者から、その結界も通り抜けられるお守りを奪い。わたしの技能を流用し、
気配を隠して通り抜ける術も扱え。真弓さん達が間に合わなくば、鬼の侵入に対応できぬ。
「嘘と本当の何れかではなく。嘘であり本当でもあるのが、今宵の真相だと?」「ええ」
塚地さんは、本当に鬼から離れたく望んでいた。彼は人を癒す優しく凛々しい不二夏美
を慕ったのであって、復讐に燃える鬼を好いた訳ではない。夏美さんに再会できた流れで、
一緒に行動はしてきたけど、その復讐には行きすぎを感じ。夏美さんや鬼の身に宿る死霊
達の、境遇や悲痛に同情はするけど。血塗れの所業には同調しかねて、緑色の硬質な肌の
鬼姿には嫌悪を感じ。徐々に精神的な隔りを。優雅に綺麗な人の姿の不二夏美は尚慕いつ
つ。
彼は夏美さんと世の片隅で一緒に時を過ごせれば、人生をやり直せればそれで良かった。
マスコミ人を1人残らず抹殺する等、鬼にも叶わない話しだし。獄門会を1人残さず殺
し尽くす事も、彼には絵空事に近く。その獄門会に絡みつかれた宗佑達奇跡の超聖水など、
彼に取り返す値はなく。関り合いたくもなく。
【夏美先生、少し食べ物作ってみたけど…】
【無理です先生。さっき迄死んでいたのに】
【今晩はテレビでも見て、過ごしませんか】
【またいつか先生の人助けに、役立ちたい】
塚地さんは夏美さんと、今を生きたかった。過去の清算は早めに切り上げて、平凡でも
小さな幸せを掴む。それ以上は求めない。世間に癒しの技能を、認められる事など望まな
い。世の全部の人々を助けたい等想わない。2人で生きていければ良い。大目標のない人
生が世の多数派だ。使命や定めに縛られたくない。敵も要らない。唯日々を一緒する人が
欲しい。
彼女に付き合って、程々の復讐を終えた後、共に余生を過ごす……それが彼の願望だっ
た。癒しの『力』を再び叩かれぬ位の狭い範囲で使って、対価を得て2人でささやかに生
きる。でもそれは復讐に燃える鬼の生き方と合わず。
押しの弱い塚地さんは、夏美さん達に振り回され続け。それは決して無理強いではなく。
真琴さん美琴さんや夏美さんの、瞬間の笑顔や感謝を求め欲し、彼も進んで鬼に協力して。
でも凄惨な復讐が続くと彼の心は竦み始め。
小心で優しい彼に血塗れな所業は厭わしく。
鬼を切る者の存在を知ると、彼は怯え始め。
鬼を支えた己も切られる錯覚に、心呵まれ。
鬼の復讐に手を貸した処で、彼は選択を誤っていた。程々の復讐等あり得ない。それは
死ぬ程の憎悪や憤怒を抱かぬ彼には、理解できぬ重さで。昔慕った夏美さんに逢い、その
悲運に同情して付き添ったけど。その時復讐には同調できぬと、離れるべきだった。それ
が出来ぬのも、彼の優しさ小心さなのだけど。彼は復讐の泥沼に足を踏み入れてから後悔
を。
彼は血塗れの復讐に罪悪感を抱きつつ。止める事も妨げる事もせず。誰かの生命を奪う
事は、誰かの望みを断ち切る事は、それを為す側の心も苛む。既に人を外れた鬼は、全て
承知で復讐に邁進するけど。人である彼には、復讐を為された者の怨嗟が耳にずっと残っ
て。
「夏美もそれが分ったのね。鬼の復讐に人は付いて行けない。決定的な何かを喪わされた
夏美達と、生命さえあればと奇跡の超聖水から逃げ出し、世の隅に潜んで生きてきた彼は
違う。だから夏美は彼を解き放った。無理矢理復讐に付き合わせても、彼は辛いだけと」
「塚地が逃げ出したのではなく、夏美が離脱を許容したというのですか? でもそれは」
鬼が許しますか? 裏切りになるのでは。
事情を呑み込みきれぬ顔の、為景さんに。
「2人は決裂した訳じゃない。彼も鬼の心情は理解している。止める積りも妨げる積りも
ない。己が関りたくないだけ。その目で血を見たくないだけ。手が血に汚れるのを嫌うだ
け。甘さ優しさとも臆病卑怯とも言えるけど。小心な平和主義者。過去からの付き合いが
ある夏美なら、彼の性分は承知の筈よ。柚明ちゃんやわたしにも、悟れた位なのだから
…」
鬼は柚明ちゃんの血を呑んで、その記憶や技能を一部取り込んでいる。彼の本心は感応
の『力』で悟れる。彼を口封じせず、この展開になったのは、鬼が彼の離脱を許したから。
「捕まった時には投降して全て喋って良いと。
夏美は予め塚地へ自白の許しも出していた。
だから塚地は罪悪感の侭に即座に自白した。
それが彼を捉えた鬼切部の足も止めるから。
その間に夏美は最後の復讐を終える積りよ。
むしろその時を稼ぐのが今宵の彼の役割ね。
復讐が終るから全て明かされても構わない。
鬼は今宵決着を付けるべく大勝負に出た」
夏美さんは塚地さんに『鬼が獄門会本部を襲撃する』情報を、獄門会に漏らす様に告げ。
己も住処を捨てるからと彼にも逃亡を指示し。それは共同生活だった両者の離別を意味す
る。それも一時的な別れではなく進む途の訣れを。
鬼切部が鬼の行動から、住処の位置を絞り込みつつある事は、夏美さんも承知していた。
塚地さんを本格的に巻き込まないなら、この時点での離別も遅すぎる位だった。彼女も数
少ない伴侶との情を、断ち切り難かったのか。
【夏美先生。先生はどうしても、復讐を?】
塚地さんは復讐にはついて行けないけど。
滑らかな肌の夏美さんへの思慕は尚抱き。
復讐について行けない彼を案じて離別する以上、夏美さんが復讐を優先したのだと分る。
分って尚問わずにいられないのは彼の未練だ。でも彼は敢てその未練を鬼に向けて答を望
み。
【もう私の意志では、止められないのよ…】
でも不二夏美の今は鬼の復讐の為にあり。
それを果たさず終える事は不可能だった。
彼に感じた情は微かに心地良かったけど。
復讐を思い留まらせる程の強さはなくて。
【貴方には感謝しているわ、塚地さん。でも、これからは本当に鬼の復讐。人の分け入る
余地はない。貴方でも邪魔や足手纏いになれば、顧みない。そうせねばこの復讐は叶わな
い】
【そこ迄して、人の世の楽しみや幸せの可能性を抛って迄して、復讐を望むんですか?】
塚地さんの問が人と鬼の隔りを表していた。そう言う問を発するのが人であり、そこに
疑問を持たぬのが鬼なのだ。夏美さんは己が人だった頃を思い出し、彼の想いを理解しつ
つ。
【人の世の楽しみや幸せの可能性を喪った……否、喪わされた鬼だからの、復讐なのよ】
憤怒や憎悪や恨みに染め尽くされた心は。
人の世の楽しみや幸せを受け付けられず。
【貴方は鬼にはなれない。人を捨てられない。それはとても素晴らしい事だけど、だから
こそ私の様な鬼の傍にいるべきではない。貴方の復讐に怯える感性は人として正解よ。で
も鬼は、復讐を忘れる事も捨てる事も出来ない。交われないの。貴方は鬼との関りを忘れ、
流し去って、貴方の為のこれからを生きて…】
獄門会に話しが漏れれば鬼切部にも情報は届く。それで鬼切部の注目も獄門会本部に惹
き付け、獄門会の混雑を招いて爆発を起こす。夏美さんは塚地さんにも逃亡を指示し、更
に『捕まった時は全て喋って良い』旨も伝えて。自身が奥多摩に向う意向は知らせず。だ
から。
【良いんですか? 全部話しちゃっても…】
【ええ。私の過去は彼らも全部承知だから】
塚地さんが語れるのは、その日別れる迄の鬼の過去の足跡についてのみ。獄門会や佐伯
摩耶達や、奇跡の超聖水現体制やマスコミを、鬼が憎む事は周知だけど。鬼が今どこにい
るか、次にどこへ行くかを、塚地さんは知らぬ。現時点で彼の情報量は、鬼切部と変らな
い…。
塚地さんの情報は虚偽だったけど、彼の知る限りでは本当だった。そして夏美さんは彼
が捕まっても逃亡に成功しても、今宵の内に決着を付けると。宗佑氏達に朝日は見せぬと。
既に彼女は奥多摩に着いているのかも知れぬ。
「爆発で獄門会本部に夏美が現れる可能性は、ほぼなくなったけど。鬼が塚地と2人で逃
げている可能性があって……」
「夏美が復讐を諦め、塚地と2人で逃げる可能性ですか?」
逆よ。真弓さんは為景さんの心中に浮んだ、鬼が塚地さんに絆される可能性は考慮にな
く。
「塚地が夏美を想う故に、腹を据え鬼の復讐に最期迄伴う可能性。そうなれば夏美も彼を
仲間と扱い。彼に伴って、彼を捉える若杉や千羽を妨げ、戦いになったかも。その時は」
「奥多摩に行くのは外れになる。塚地が確保され独りと分る迄、動けなかった訳ですな」
塚地さんの想いがどちらに揺れるのかは。
結果を見る迄分らなかったと真弓さんは。
「柚明ちゃんなら、最初から淀みなく確かな正解へ、辿り着けていたでしょうけどね…」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
奥多摩にある奇跡の超聖水本部を、真弓さん達が訪ねるのは9年ぶりか。前回も鬼の夏
美さんを追いかけ、夜遅くの乱入だったけど。市街地を外れ丘陵地帯に建つ施設は影が濃
く。
しかもそこへ、獄門会の若頭・黒金武彦も、組員20名程と共に入り込んでいるとの連絡
が入り。夏美さんや郷田組の仇がよりによって。
「携帯って便利ね。移動中でも情報が入る」
「圏外に出てしまえば、役立たずの箱です」
到着した2人は、黒髪ショートの和子さんを伴い庇い、正面入口へ疾駆して。鬼切りで
はなくても、千羽は女も基本武道を嗜むけど。2人とも彼女を鬼切りの戦力とは考えてな
い。真弓さん達が鬼を辿ってここへ来たと連絡する為に、電話機のある所迄護衛している
だけ。
【10年前に、被害者の会や原田記者達報道陣が詰めかけ、野村さんや美琴さん真琴さんと
揉み合って。郷田組のツヨシさん達が暴行に走ってしまった正面入口……そして9年前は、
奇跡の超聖水を乗っ取った現体制への復讐に、春恵さんの仇討ちに、憤怒に満ちた鬼が通
り過ぎ。真弓さん達も通り抜けた正面入口…】
壮麗な施設が月明りに照されて幻想的な佇まいを見せ。日付も変る刻限なので正面入口
に警備はいない。この刻限なら消灯していても当然か。外灯や保安灯は僅かに点いている。
鬼が襲撃した9年前、その憤怒や憎悪・恨みは、霊の『力』となって電気機器に干渉し、
停電を起こした。心霊現象が起こる時、照明や録画・録音装置に異常が生じ易いのもその
為で。わたしも家電製品に触れる時は『力』を抑える様に努めている。でも真弓さんが訪
れたこの夜は、見た限りでは9年前と異なり。停電も異常もなく、保安灯や外灯が点いた
闇は、百人近いスタッフや滞在者の眠りを包み。
気配にも特に異常は感じない。真弓さん達は剣士だから、術者程精緻な感覚はないけど。
寝ているか起きているか、騒いでいるか落ち着いているか、大凡の人数や動き・感触は掴
める。でも、鬼が気配を潜め隠す術をも憶え。わたしの様に『力』を抑え、電気的な物と
の干渉を避けたなら。すぐに露見はしないかも。
「北の離れは電気が点いている、人の気配も感じるわ……彼らの建物の使い方は昔と同じ
様ね」
「中央の大きな建物に人気は感じませんが、電話機がある筈です。儂が和子を警護するの
で、真弓殿は脇を抜けて北の離れへどうぞ。9年前は幹部会議室で、鬼が踏み入った箇所
です。儂も後を追いますがご注意を」
為景さんと別れて真弓さんは1人直進し。
あれから9年経った奇跡の超聖水本部は。
夜半であるという以上に死んだ様に静か。
その入口で真弓さんは男性2人と遭遇し。
「なんだぁ、女!」「この夜遅くにっ……」
施設の中で守衛を置く事は通常あり得ぬ。
しかもその風体は明らかにヤクザの物で。
奇跡の超聖水の人員ではないと見て分る。
『未だ夏美はここに着いてない? 着いていたなら9年前の様に、通行を阻もうとしたヤ
クザは全員、薙ぎ倒されていて至当だけど』
鉄パイプや木刀を手に持って威嚇するけど。
真弓さんを細身の女1人と侮って嘲るけど。
更に彼らは卑しい下心も漏れ窺わせるけど。
伸ばしてくる手を払う必要もなく捻りあげ。
「うお、いででで」「このアマ、何しや…」
ヤクザ達は黒金さんから、誰も通すなと厳命を受けており。ここは獄門会ではないけど。
奇跡の超聖水はこの9年彼に頭が上がらない。でもヤクザでは、当代最強の鬼切り役を阻
むのは無理で。真弓さんは刀を抜く必要もなく、数秒でヤクザ2人をケガも負わせず気絶
させ。
『建物の中には、人の気配が30程度あるわね。鬼は未だ現れてない様だけど、私の感覚は
柚明ちゃんの感応程確実ではないから、この目で宗佑氏や黒金達の無事を、確かめない
と』
やや注意を払いつつ建物のドアを開けると。
ドアの間近にヤクザの若い男性2人がいて。
正面奥の階段の下に4人男性が見え、更に。
「なんだぁ、女」「こっちもかよ」「…?」
小さな騒ぎは、真弓さんの到達直前に別の侵入者が露見した為で。右手通路奥でヤクザ
数人がその侵入者を押し倒しており。鬼ではない。夏美さんなら、ヤクザの10人等敵では
ない。では一体誰が何の為に夜更けにここへ。
正面に二階へ上る階段が見える。9年前は鬼が押し通った直後で、周囲に10人以上の男
が倒れ苦しむ中を、直進して駆け上ったけど。今回は獄門会のヤクザ達も、未だ健在でい
る。次の瞬間に鬼が侵入してくる怖れはあるけど。
真弓さんは傍の2人には目もくれず、右手通路奥のヤクザと侵入者に向けて、走り出し。
「大人しくしやがれ」「可愛がってやるよ」
4人掛りで抑え付けるけど、彼らも全力と言う程ではなく楽々と抑えつけ……若い女だ。
真弓さんが捨て置けなかったのも、その為か。女性がヤクザ達に辱められかけて見えたか
ら。
「ぶっ!」「げろっ」「なにを」「あたぁ」
刃を抜く必要もなくヤクザ4人を打ち倒し。女性からの引き離しを優先した為に威力は
低めで。4人は暫く転げ回った後で起き上がり。でも彼らなど脅威でもないので、暫くそ
ちらは放置して。乱された女性の衣装を整え直し。
侵入者は息が荒いので気絶はしてない様だ。その年齢は肌艶と柔らかな肉感から二十歳
代中盤か後半らしく。真弓さんとほぼ同年代か。シルエットは真弓さんより少し肉付きが
良く。
「未だ生きている?」「な、何とかね……」
ヤクザ達は、侵入者が鬼ではなく若い女性だと悦び勇み。上役に報告する前に役得だと、
嬲って楽しもうとして。ここは警察もすぐには来れぬ町外れだ。不審人物等どんな目に遭
わせても、最後は何もなかった事を繕えると。
若い女性を抵抗をねじ伏せ、踏み躙ろうとして。侵入者である別の若い女性に粉砕され。
ヤクザ達に相応しい天罰だったかも知れない。
「助かったわ、ありがとう。千羽真弓さん」
「あなたに……こんな処で、出逢うとはね」
ドアの傍にいた2人や、他にもいたヤクザが数人、何事かとの感じで歩み来て。間近で
も4人のヤクザが、怒りを秘めて起き上がる。
「何か知らんが女だ」「取り抑えて貪るぞ」
間近の4人は不用意に真弓さんに組み付く。さっき一瞬で打ち倒された事を、都合良く
忘れているけど。それは真弓さんに好都合な展開で。女性を背に庇う今、真弓さんはヤク
ザを吹き飛ばすより、痛打で叩き潰す事に転じ。
「はびん」「らふあ」「たげぎ」「なにめ」
殆ど何がどうなったか分らぬ内に、4人は打ち倒され。その手練れを見て残るヤクザは、
漸く真弓さんを脅威と認識し。元々鬼の脅威から主を戦い守る為の人員にしては、悠長な。
そこで漸く彼らも鬼対策に、武器を与えられていた事を思い返し。真弓さんに銃口を向け。
先程建物の入口ですり抜けた2人と、その背後20メートル位に4人、計6人。全員一斉
に発砲してくれば、わたしなら防ぐのに多少難儀するけど。進み出ても二組に分れた状態
なので、一瞬で打ち倒すのはやや難しいけど。
「面倒くせぇ。足か肩でも、撃っちまえ!」
「死んでも死体は始末できる。気にするな」
真弓さんならば何の障りもない。前進して敵を粉砕に出て、背後の女性と少し離れてし
まうけど。一瞬で敵の全てを打ち倒せば良い。
「ぷぎいぃぃぃぃ!」「はろぉぉぉぉっ!」
位置の近い2人を瞬時に打ち倒し。その即応が逆に後方の4人に引き金を引かせるけど。
ダン、ダン、……、キン、キン。
発砲の音と同時に更に高い音が。
真弓さんはヤクザの銃弾を、抜き放った鬼切りの刃で全て弾き。背後に女性を庇う以上、
躱してその直線上を外れる訳に行かず。受け止めるか弾くかしか方策は……もう一つある。
『【相手が銃を撃つ前に打ち倒せば良い』】
真弓さんは更に前進しヤクザ4人に肉薄し。 刀の柄を叩き付けて難なく全員を気絶さ
せ。
「ふぅ……1階にはもう、誰もいない様ね」
「今の銃声で、二階にいる連中にはあなたとわたしの侵入を知られてしまった様だけど」
背後で漸く身を起こし、ヤクザに散らかされたバッグの中身を回収しつつ、声掛けてき
た侵入者の女性は。互いに逢うのは9年ぶり。遅れて建物に入ってきた為景さんも驚き呆
れ。
よりによって不二夏美の案件の大詰めで。
真琴美琴も共に訪れるだろうこの施設で。
9年経った今再び巡り逢う事になるとは。
「原田香苗さん……お久しぶりね」「ええ」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
香苗さんは真弓さんより1つ年下の27歳だ。
9年前高校3年生だった彼女は、夏美を強く批判した雑誌記者・兄の泰治さんを鬼に殺
められ。報道で仇を討って彼の意志を継ぐと、兄の相棒だった副島記者に弟子入りを懇願
し。体験入社扱いで同伴を許され、奇跡の超聖水の関係者取材に野村さん宅を訪れて。真
琴さん美琴さんや、真弓さん為景さんと出会って。
「あの時は助けられたお礼も言えなかった。
貴女達は誰にも伝を残さず居なくなって」
お礼と言うより恨み言っぽく責めるのに。
真弓さんもそこは弱味に感じている様で。
「あれ以上余計な事は、何も語らず報せずに立ち去る方が、あなたの為だと思ったのよ」
野村さんの容態急変を受け、6人は病院に呉越同舟で同伴し。病院で鬼と化した夏美さ
んに遭い。それは、夏美さんを善人と信じ慕う美琴さん真琴さんにも衝撃だったけど。夏
美さんを悪人と憎み恨む香苗さんにも衝撃で。鬼などと言う存在がこの世に実在するなん
て。
鬼は香苗さんを脅かし、真弓さん為景さんに逐われ逃げ去って。香苗さんは兄が、鬼の
夏美さんに殺められたと知った。鬼と鬼を切る鬼切部千羽党の存在を知った。6人の生命
に別状なかったけど。その後真弓さん達が鬼を倒した事は、公表されなかったので知る術
もなく。それどころか香苗さんは、自身が見て触れた鬼や鬼切部の存在すら確かめられず。
【どういう事? 上総真弓も千羽真弓も、伊豆為景も千羽為景もいないなんて。あの人が
坂本家に出した名刺の探偵社に、伊豆為景と上総真弓という人物は居たけど、人相が違う。
身長も体格もしゃべり方も、何もかも違う】
人死にがなかった為に、乱入された病院の応対も警察の捜査もおざなりで。報道記者が
何人もいたのに何も発表されず。証拠も確かに残されず。記憶から徐々に薄らいで行って。
副島記者にも暴けぬ触れられぬ闇がある。
新聞も雑誌もテレビも明かせない聖域が。
鬼の事実・鬼切部の事実に、それ以上迫れぬと、報された香苗さんは驚愕し。兄の相方
である副島記者さえ、愛妻や幼子の為にペンを曲げる事を強いられて。そこに香苗さんが
分け入る事は、彼の幸せや人生を壊しかねぬ。社の上層の1人2人の問題ではなかったの
だ。
【日本の報道機関にいては、真実に迫れない。真実に迫る記者を育てる構造になってな
い】
香苗さんは高校を卒業すると、アメリカ留学を選び。アメリカはサラリーマン記者より、
フリージャーナリストを重んじる。会社に囚われず、己の取材力や文章力で糧を得る生き
方を、学び取り込み。雇用主がクビを背景に脅しても、クビにされても、志を貫ける様に。
帰国してから、夕刊紙の記者になったけど。
若さ美しさに見合わぬ胆力・行動力を備え。
芸能人の特ダネを狙って、成果を上げつつ。
鬼や鬼切部の実情へ、薄皮を剥く様に迫り。
そして原田香苗だから、この夏の不二夏美の動きを悟れた。彼女は鬼が討たれた事を知
らぬから、未だ生きていて活動を再開したと誤解した様だけど。彼女の記者人生の原点で
ある兄や不二夏美の件に、奇跡の超聖水に関ると。被害者の名の連なりを見て彼女は悟り。
香苗さんは獄門会の黒金の動向に注視して。
春恵さん殺しや西川の絶命を知った彼女は。
黒金こそ今の夏美が恨み狙う最重要人物と。
彼の愛人宅から密かに尾行してここへ至り。
まともに施設に入れぬ香苗さんは、真弓さんの様に正面突破も出来ぬから、忍び込むと
いう手段に出た。偶々彼女が外から張り付いていた窓に、小石が当たって気付かれ、捕ま
ったけど。若さ美しさ賢さ以上に、必要に応じてルールも踏み破る、覚悟と柔軟さを持ち。
バッグには護身用スタンガンや、鬼対策に叡山の高僧が念を注いだ独鈷杵も用意済みで。
護身用に武道も習い。それでもヤクザ複数を相手に不意を突かれると、こうもなるけど…。
「あなたに遭えたと言う事は、不二夏美や奇跡の超聖水、鬼に関る何かが起こるのね?」
香苗さんは挨拶も早々に、挑戦的な問を。
ここは敵地だし戦闘モードなのも当然か。
さっきヤクザ達に生命や操も脅かされた。
真弓さんは恩人だけど、たった今恥辱の様を見られた相手だし。9年前に兄の仇の真相
をほぼ知っていて、何も告げず去って縁を断った経緯にも、香苗さんは充分含む処があり。
「全て教えて貰うわ。納得の行く様に見せて貰う。9年前の様に、行方を断ってハイお終
いなんてさせない。全て報道するかどうかは別として、兄さんとわたしの仇なのだから」
鬼の実在を報せれば、人が鬼になれると知れ渡れば、恨みを抱く者達が続々鬼になって、
国も民も混乱に陥る。だから科学文明栄える現代に、鬼や神等いないとの建前で。鬼の存
在も鬼を討つ者の存在も隠す。気に入らないけどその論法は理解出来るわ。今のわたしは
子供じゃない。アメリカでも事実が隠される例はあった。それは人の世の定めかも。でも。
「公にするかどうかは別の話よ。わたしは被害者なの。鬼の不二夏美に家族を・兄さんを
殺められた親族なの。世の裏で鬼を討つ為に、あなた達が動いている事実を、わたしは知
る権利がある。兄さんの為に知っておく責任が。
あなた達の手で、人に仇為す凶悪な鬼は討ち倒されていると、わたしが納得できなけれ
ばならない。それを確かめ納得できて、漸くわたしは鬼への私的な復讐を、諦められる」
そうでなければ、例え敵わなくても復讐の為に、わたしは自ら鬼を討ちに行く。誰も鬼
を討たないなら、この手で復讐する他にない。あなた達が本当に鬼を討つ瞬間を見届けね
ば、得心できなければ、この憎悪は抑えられない。この憤怒は恨みは悲嘆は虚無は埋めら
れない。この世で復讐の代りになれるのは天誅だけよ。
「わたしはあなたの天誅を見届けたいの!」
真弓さんも、9年前泰治さんの葬儀の場で。
香苗さんが発した言葉を、思い返していた。
【わたし、報道記者になって、兄さんの仇を討ちます。やり残した事をやり遂げます!
奇跡の超聖水を、不二夏美も宗佑も絶対に許さない。彼らの悪事を白日の下に晒します】
【わたしは卑劣な殺人鬼や暴力団とは違う。
仇を殺し返して心満たされる訳じゃない】
哀しみの定めを、痛みや涙を、笑顔に書き換える事がわたしの望み。世間のみんなに真
実を訴えかけて、1人1人のたいせつな人の笑みを守り取り戻す事こそ、わたしの復讐戦。
【わたし報道記者になります。兄さんが道半ばで終えたその遺志を、実現します……】
でも鬼の事実は報道も出来ず、公に明かす事も出来ない。常の人である香苗さんは、独
鈷杵を持ってもスタンガンを持っても、鬼に敵わない。警察も自衛隊も鬼を倒す為の組織
でないし、仮に犠牲を厭わず倒したとしても、その事実は伏せられて終る。鬼の被害者に
は何の報いもないどころか、鬼の犯行である事も、その鬼が討たれた事実も通常告知され
ぬ。
でも鬼が人の害で仇だと知った原田香苗は。
人の身では鬼に及ばず復讐も届かぬ彼女は。
悪鬼にも相応の報いがあると納得する事で。
己や兄の無念が晴らされると得心する事で。
漸くその理不尽な傷み哀しみを受容できる。
兄を喪った永遠の寂寞を、受け容れられる。
鬼が切られる姿を見届けるのは彼女の願い。
鬼が討たれる末に助け関るのは彼女の望み。
「今後も鬼の禍があった時、権力も財もない常の人が鬼の暴虐に晒された時、確かに鬼切
部が鬼を討つと得心したい。真相を知った者の1人として。鬼切部が顔も知らない世の大
多数を、不特定多数を戦い守る味方だと…」
食らいつく様な気迫を窺わせる香苗さんに。
為景さんは拒み難いと、困り顔でいるけど。
「どう致しますかな」「やむを得ないわ…」
真弓さんは既に諦観又は観念し終えていて。
「彼女は鬼の被害者よ。心から事実を知りたく望まれては拒めない。公表されて困る事に
ついては話し合うとして、事を見届ける権利はある。何より今は時を無駄に出来ない…」
1階で異変が生じたと、2階はさっきの銃声で知っている筈なのに、何の反応もないわ。
様子を窺う感じでもなくて。考えられるのは、香苗さんの同類が既に到着している可能性
よ。
「わたしの同類?」「まさか、夏美も正面突破ではなく、裏からヤクザの目をかいくぐり、
彼女同様この建物2階に忍び込んでいると」
夏美さんは今や1人ではない。郷田組の面々が助言すれば、その程度は鬼の肉体なら簡
単に為せる。気付かれずに迫れば警察や鬼切部を呼ばれる怖れもない。逃亡の怖れもない。
「何れにせよ、わたし達は鬼の標的である黒金や不二宗佑の、無事を確かめる必要がある。
彼女が居ても居なくても為すべき事は同じ」
付いてきて頂戴。下手に別行動を強いて勝手に鬼に迫った末に、鬼に人質に取られたり
殺されたりしてはこっちが困る。真弓さんは、
「為景さんは香苗さんを守りつつ付いてきて。鬼はわたしが討つわ……今度こそ、確実
に」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真弓さんが北の離れの1階に辿り着く直前。
香苗さんが窓からの侵入を窺っていた頃に。
夏美さんは別方向の2階の窓から侵入して。
同じ事を為していた香苗さんを、鬼は陽動に利用した。彼女が取り付く窓に小石を当て、
気付かれる様に促し。そちらへ注意を導いて、己は密かに侵入を。尤も1階のヤクザは若
い香苗さんを、自分達だけで嬲り辱めようとして2階の者を呼ばず、結果警備が緩んだの
は1階だけで、2階へは良くも悪くも影響なく。
1階でヤクザが銃を発砲した時、既に鬼は2階正面奥の会議室のドアを開け放っていて。
感応の力が強化された彼女は、そこに主要な面々が揃っていると、入る前から承知でいた。
「バカな。鬼は、獄門会本部を襲撃中と…」
電灯の下で緑色の硬質な肌の鬼の登場に。
震え上がり絶句した彼らを鬼は嘲笑って。
「漸くお前達に復讐できる。今が嬉しいよ」
奇跡の超聖水現体制の幹部は、9年前と同じ面々で。でも9年の時の隔りは鬼以外の年
齢を進め。宗佑氏より2つ年下の妻公子さんは52歳、長女さゆりさんは25歳、次女しのぶ
さんは21歳で。税理士の幣原芳雄さんは一緒にいる妻安江さんと同じ67歳だ。桜井建(け
ん)社長65歳は、家族を別に避難させており。会計士の斉藤光成さんは、未だ独身の39歳
だ。
獄門会の若頭になった黒金武彦氏43歳が居るのも、鬼が襲撃した9年前と同じ。護衛に
ヤクザが10人程、銃器を持って待機済なのも。
鬼は銃を持ち上げるヤクザの動きに先制し。
手近な1人に肉薄して右腕の爪で胴を貫き。
貫いたヤクザを鬼の『力』が、勝手に癒す。
否それは癒しというより介入であり改造で。
貫かれたヤクザの背に盛り上がりが幾つか。
それは彼自身の皮を服を食い破り飛び出し。
「なああぁぁぁぁ!」「ひげええぇぇぇ!」
鬼は貫いたヤクザの体を癒しの力で改造し。
その肉体から爪付きの鬼の腕を生み出させ。
ヤクザの背からロケットパンチとして抛り。
鬼の爪は傍のヤクザに刺さって悲鳴と激痛を生み。癒しを伝播させ更に2人目も改造し。
そこからも鬼の爪付きの腕を生み、それも周囲に飛び出させ、被害を増やす連鎖を呼んで。
鬼はわたしから得た濃い贄の血と『力』の高度な集約を使い、悪魔的な技を開発・習得し。
生み出される鬼の爪は1人から2人3人と、手近なヤクザに次々に飛びついて生命を奪
い。
「ぶっ殺せ! やられる前に撃ち殺すんだ」
黒金さんと左右1人ずつは、奇跡の超聖水幹部に近く、鬼から若干距離があり。そこか
ら左右2人のヤクザは、小型の機関銃を構え。味方も敵も関係ないと、躊躇なく銃口を向
け。
ダダダダダダダダ。機関銃が火を噴いた。
「うらあぁぁ、死ねコラ」「ミンチミンチ」
拳銃の弾を弾く程硬質な緑の肌も、機関銃の弾なら食い込む様で。連続する衝撃に鬼の
体が後退を強いられて、自由が利かず。胸に顔に腹に腕に足に、次々に弾丸がめり込んで。
「細切れにしてやるぜ」「死にくされえぇ」
鬼も近代兵器には敵わないのか。そう思えた瞬間。撃たれながら後退を強いられながら。
鬼はその両腕を振るいヤクザ達に何かを抛り。
「あだあああぁぁぁ」「目が、目があぁぁ」
機関銃も、鬼を絶命には追い込めなかった。
弾は食い込んでも、強靱な筋肉に阻まれて。
痛みを与え血潮は流せても、生命は絶てず。
動きは止められても、膝を折る事は叶わず。
鬼は両掌の傷から己の血をヤクザへ飛ばし。
機関銃を持つ2人に叩き付け『力』及ぼし。
鬼の血は鬼の『力』を宿し、皮膚に触れた途端即座にヤクザ2人を、勝手に癒し改造し。
「あごおおぉぉぉ!」「あがばばぁぁぁ!」
鬼は最早そこを動く必要なく。左右2人のヤクザから、その筋や・皮を突き破って作ら
れた鬼の爪付きの腕が、黒金さんを貫き貪り。
「えぼおぉぉ」「らひぃぃぃ」「じぬぅう」
真弓さん達が2階会議室に辿り着いた時は。
獄門会の者達が残らず死に絶えた後だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「夏美姉さん、もう止めて! 父さんは…」
公子さん達を庇う宗佑氏へ迫った鬼を止めたのは。宗佑氏の次女さゆりさんの、父の前、
鬼の爪の前への、身を挺した飛び出しだった。
鬼の夏美さんだけど。宗佑氏宅に姉の春恵さんと共々養女でいた頃、従妹であるしのぶ
さんさゆりさんとは、悪い仲でなかったので。さゆりさんは美琴さんの一つ上で、夏美さ
ん春恵さんには妹だった。宗佑氏は9年前も今も極限状況で、妻子をその身で庇ったけれ
ど。
21歳に成長したさゆりさんは父の腕を抜け、一緒に暮らしたかつての姉に対峙し。緑色
の硬質な肌に伸びた牙や爪は、見つめるだけで震えが走るけど。溢れ出す憎悪や憤怒は、
近付くだけで足が竦み、逃げ出したくなるけど。
「父さんが原因じゃないの! 夏美姉さんや春恵姉さんに父さんが為した事は、全部わた
しの為だから……全部わたしが原因なの!」
貫かれる事を覚悟したさゆりさんは、むしろ父や母を庇って鬼に向き合い。恨みに血走
った鬼の瞳を見つめ返して、父ではなく己を見てと。さゆりさんの身に潜む素養を視てと。
「父さんが犯した罪はわたしの罪、父さんに返る報いはわたしに返るべき報い、父さんの
受ける罰は……わたしが受けるべき罰なの」
そこで夏美さんは漸くさゆりさんの事情に。
さゆりさんを抱く不二家の宗佑氏の事情に。
贄の血で得た強い感応や関知を及ぼし悟り。
「貴女まさか……癒しの『力』を持って?」
「父さんと夏美姉さんのお母様は、血の繋った姉弟よ。姉さんに発現する『力』が、わた
しに発現して不思議ではないでしょ? 尤も、わたしの癒しは姉さん程強くはないけど
…」
夏美さんの母や姉の春恵さんにも、微弱ながら癒しの『力』や、気配を感じ意図を読む
『力』はあったと、彼女は遠い記憶から思い起こし。宗佑氏が百戦百勝と迄は行かずとも、
投資話を追い続けて破産しなかったのも、物事の流れ・筋を読む『力』を使えていた為で。
その才は長女しのぶさんには絶無だったけど、さゆりさんには顕れて。夏美さん程強くは
ないけど、確かに効果が視えて分る程の強さで。
「夏美姉さんが春恵姉さんと、不二の家を出て行ったのは、わたしが2歳少しの頃で。幼
いわたしは何も事情を分らず、しのぶお姉ちゃんと唯寂しがるしかできなかった。だから
わたしが8歳の時に、奇跡の超聖水が発足し、夏美姉さんが傍に戻ってくれた時は、事情
も分らない侭嬉しかった。お姉ちゃんと2人喜んだ。春恵姉さんが一緒じゃなかった事は
残念だけど、その内何とか出来るって希望が」
鬼は、宗佑氏の前に出て庇うさゆりさんに。
右腕鬼の爪を、すぐ突き立てられる状態で。
その目の前に構えた状態で停止して動かず。
宗佑氏や公子さんしのぶさんは、背後傍で。
桜井社長や斉藤さんや幣原さん達も間近で。
2人のやり取りに聞き耳を立てて動かずに。
「わたしが『力』を発現させたのは、奇跡の超聖水が発足して3年目、11歳の頃だったわ。
夏美姉さんに憧れて、しのぶお姉ちゃんを相手に真似事をしていたら、不思議とお姉ちゃ
んの疲れを取れる様になっていて。でも…」
夏美さんは旧坂本医院跡で、真琴さん美琴さんを預って以降。中原姉妹の『力』の素養
に気付き、その導きに意を注ぎ、愛しむ事に傾注し。組織の長として建設中の奥多摩の施
設の事や、発展し行く組織のアピール、新しい患者の来訪に気を惹かれ。離れて住んでい
た宗佑氏の娘とは、何度か逢う事はあってもそこ迄細かく気を配れず。宗佑氏もむしろ娘
のその状態を、夏美さんに明かさず隠し通し。
【奥多摩の施設に移って、宗佑氏一家も移り住んできたけど。同じ屋根の下と言っても建
物は大きすぎ、人は多すぎ。それ迄の経緯がある美琴さん真琴さんは特別扱いで、夏美さ
んの傍に居所を与えられ、気配りされたけど。宗佑氏はむしろさゆりさんを夏美さんと隔
て。
彼の危惧は、異能の使い手が果たしてきちんと世に認められるのかどうか。夏美さんと
深く繋れば、真琴さん美琴さんの様に、さゆりさんも一蓮托生になってしまうとの怖れ】
夏美さんとさゆりさんは、間近にいながら。
深く関る事なくすれ違って。でもその結果。
父の危惧が的中し非難中傷を受けた末にも。
さゆりさんは夏美さんの非業ともすれ違い。
「バッシングの後、春恵姉さんが亡くなった後、夏美姉さんが鬼になった後。わたしは漸
く分ったの。どうして父さんが、夏美姉さんの奇跡の超聖水の話しに乗ったのか。否、発
足後何度苦境に陥っても逃げ出さず手放さず、最後は夏美姉さんを追い出し、春恵姉さん
を死なせて迄、しがみつき続けたその理由を」
宗佑氏はそれ迄何度も、怪しげな投資話に乗っては大きく儲け。調子に乗りすぎて儲け
を一挙に喪う事はあったけど、全て喪う事はなく。微かな『力』による勝負勘もあるけど、
最後の最後迄しがみつかないから、失敗が致命傷にならない。返せる程度の借金に収めて、
次の怪しげな投資話を追いかけて儲けて返す。そんな一種の自転車操業を続けてきて。で
も。
宗佑氏は、これ程世間のバッシングを受け、ヤクザに食い付かれ泥沼に陥っても。奇跡
の超聖水は手放さなかった。それ迄の投資なら、さっさと代表権や財産管理を人に委ね、
形勢不利と誰の目にも分る頃には、責任回避が終っている彼が。それは今回偶々私財を全
て注ぎ込んだから、引き返せなくなったのでなく。最初から引き返す気が欠片もなかった
為で…。
「父さんは、夏美姉さんが世間に受け容れて貰えるなら、わたし達姉妹に『力』が発現し
ても生き易い世の中になると。そうなる様に世間を変えたくて、姉さんの話しに乗ったの。
最初から組織を乗っ取る積りなんてなかった。儲けも団体が維持できる程度あれば良かっ
た。わたしとしのぶお姉ちゃんの為だったの!」
結局、夏美さんは世間に受容されなかった。癒しの『力』は医療業界に与える影響が甚
大すぎると、世間に与える影響が甚大すぎると、潰されて。若杉が動かずとも、政治家や
大病院や製薬業界は、世間をその様に煽っていた。
「父さんがわたしの事を、夏美姉さんに伝えなかったのは。夏美姉さんが忙しいとか理由
付けてわたしを隔てたのは。あの非難中傷も予測していたから。夏美姉さんの願いが失敗
に終った時も考え。わたしは発現した『力』を隠すように言われ……それが正解だった」
異能を持つ者が住み易い世間を作る先導を、夏美さんに委ね。それが失敗した時は、娘
達の異能は今迄通り、世間から潜めて隠し守る。その為に、宗佑氏は夏美さんの話しに賛
同し。失敗した時は、夏美さんに全ての責を負わせ。奇跡の超聖水を牛耳って、己の手で
娘を守る。
故に組織を手放す事も潰す事も絶対しない。
新郷田組や獄門会に繋ってでも手放さない。
今は宗佑氏が癒しを注いでいると嘘も称し。
【若杉にはそれをインチキと思わせておく。
異能の使い手を若杉からも守り隠す為に】
宗佑氏も妻も長女も、一言も発せずにおり。
他の幹部も、彼の思惑は今初めて聞いたと。
夏美さんさえ驚愕で、暫く動きが取れない。
実の娘を想う愛が、親の情が、養女の話しへの賛同も裏切りも招き。夏美さんの放逐や
春恵さんの死に繋った。最初から夏美さんを利用する構えだったけど、彼女の願いが成功
すれば誰も傷つかなかった。唯宗佑氏はより現実主義で、失敗時の対処も考えており。理
想を重んじ組織を捨てられる夏美さんに対し、娘を守る為の組織を失えない彼は強硬手段
に。実の娘の為に養女を犠牲にするのは鬼だけど。
夏美さんは姉に逆らってあの結末を迎え。
さゆりさんは父に従ってこの結末を見た。
何が真の正解かは終った後さえ分らない。
「夏美姉さんがいなくなった後は、わたしが癒しの水に『力』を注いでいた。わたしの癒
しは弱いから、分散させると効果がなくなる。だから販売する全ての水に入れるのではな
く、一定の割合の水にだけ癒しを注いで混ぜて」
通常の癒しの水で10本に1本、プレミアで10本に3本、シルバーで10本に5本、ゴール
ドで10本に7本、ダイヤモンドは全部。インチキの癒しとして組織存続を認められた後も、
奇跡の超聖水は尚本物を混ぜ。だから本当の効果も出て、売上は続き、組織は生き残れた。
夏美さんは9年前にもこの状況で、さゆりさんと至近に接したけど。宗佑氏や新郷田組
への憎悪に染まり、他の人達は皆その一味としか見ておらず。さゆりさんを見落していた。
「夏美姉さんの理想は立派だった。不特定多数の人に異能を受け容れて欲しいとの願いは、
純粋で綺麗だった。でもその不特定多数が夏美姉さんに牙を剥いた。マスコミも世間も夏
美姉さんの真意を知らず理解せず、患者の多くも裏切って。不特定多数は、世間は公は異
能を認めない。それが父さんの結論だった」
父さんは身内を大事にした。利害を共有した繋りを重んじた。幣原さんも桜井さんも斉
藤さんも、他の仲間も。手を組み続ければ利益になると言って、身内に繋ぎ止めた。顔を
合わせ馴染んで知り合った者だから繋がれる。それらは全てわたしを世間から守る為だか
ら。
「春恵姉さんを死に至らしめたのも、夏美姉さんが抱く憤懣も全てわたしの所為。その行
いに報いや責任や罰が下るなら、それは父さんにではなくて、この不二さゆりになの!」
さゆりさんは、全ての人を癒したいと思ってない。不特定多数に拒絶された結果を見て。
唯組織の為に、父を助ける為に、自身を守る為に、仕事として癒しの『力』を行使すると。
その動機が彼女の『力』を今一つの状態に留めている。しのぶさんの疲れを拭いたく想っ
た気持で向き合えば、もっと強く紡げるのに。
「父さんの直接の指示じゃないけど、春恵姉さんは殺められ。夏美姉さんは父さんの手で
追い出された。恨まれ憎まれても仕方がない。それはわたしの所為だから、罰はわたし
が」
受ける代りに父さん母さんお姉ちゃんは。
殺めないでと願いつつさゆりさんは更に。
「一つだけ夏美姉さんの答を頂戴。姉さんは今でも不特定多数の人に癒しを及ぼしたい?
復讐の全てを終えた後、その『力』で病や怪我に苦しむ全ての人を助けたいと思う?」
夏美さんが、鬼がその問に一瞬答を躊躇う。
それを見てさゆりさんは、鬼の答を待たず。
「わたしは助けたくなんかない。夏美姉さんの顔も見ず言葉も聞かず、まともな反論の場
も与えず指弾した、世間の不特定多数なんて。仕事だから癒しを為すけど、これは父さん
や自分や奇跡の超聖水を守る為で、相手の快癒や健康を祈ってじゃない。顔も知らない利
害も繋ってない他人なんて、救いたくない!」
彼女は従姉への世間の無理解に強く憤り。
夏美さん自身はそれをどう思うかと問い。
「夏美姉さんが理想に敗れ、その旗を降ろした末に、裏切り者のわたしを殺すというなら。
為した事の報いを当事者が当事者に下すなら。わたしは嫌々でも納得して貫かれて死ぬ
わ」
でも。そこで彼女は初めて瞳に憤りの炎を。
夏美さんに宿る者達も怯ませる憤怒を見せ。
「夏美姉さんが破れた理想を引きずり続けて、わたしを殺した後で尚、全ての人を不特定
多数の誰かを、救おうなんて思っているなら」
それこそ不二さゆりは、絶対に認めない。
あなたの理想が破れた結果がこれなのに。
あなただけじゃなく、父さんやそれに連なった多くの人が、不特定多数の所為で酷い目
に遭わされたのに。尚夏美姉さんが全ての人なんて曖昧な多数・敵の側に立つなら。父さ
んが夏美姉さんに為した行いは、正解になる。不特定多数は夏美姉さんを放逐して納得し
た。それを恨まれ復讐されても姉さんの逆恨みよ。
「わたしがあなたを憎む鬼になる。愛しい夏美姉さんだけど、そこ迄矛盾して憤怒をぶつ
けるだけの鬼に堕ちるなら。こっちも鬼に堕ちて復讐し返す。わたしは顔も知らない不特
定多数・全ての人の側には、絶対立たない」
春恵さんや夏美さんに為した宗佑氏の所作への復讐は受ける。でも、その上で夏美さん
が不特定多数の側に立ち、全ての人を癒すと望むなら。さゆりさんが夏美さんの敵になる。
鬼になって甦ってでも、その行く手を阻むと。そこ迄強くさゆりさんは世間の人を嫌い憎
み。
「全ての人を助けたいなら、ここのみんなを殺めに来る事が間違いではないの? どこに
捨てられても追いやられても、そこで癒しを再開すれば良いのではなくて? それを為さ
ず復讐を選んだのは、もう夏美姉さんの全ての人を癒したい理想も、折れたのでしょ?」
それだけ確かめたい。その口から聞きたい。
異能の者と人の世間は、相容れないという。
父さんの結論の正しさをあなたに訊きたい。
「父さんの所作は、春恵姉さんや夏美姉さんを利用したり殺めたり酷い目に遭わせたけど。
その見立ては誤ってなかったと。夏美姉さんの最初の見立てが甘かったと。父さんの為し
た所作はやむを得なかったと。納得できれば、わたしは貫かれます。今答えて!」「…
…」
答えられなかった。それは復讐の鬼になって後も、触れなかった問で。塚地さんの将来
展望でそれに触れた時も、答を返せなかった。間近に詰めかけ押し寄せ指弾してきた、マ
スコミや獄門会や裏切り者は憎んだけど。関係のない世間の不特定多数にはどう向き合う
か。夏美さんの排斥は彼らが強く後押ししたのだ。
さゆりさんが鬼になれるか否かは別として。
答えない侭彼女を、貫く選択もあったけど。
夏美さんもその問に固まった侭、動けずに。
鬼の憎悪が、むしろ押される感じで硬直し。
背後から真弓さんの刃で両の手首から先を。
一瞬で切り落されて、鬼の進退は極まった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ぐばう!」「皆さん、生きていますか?」
さゆりさん達の救命を考え、真弓さんは人を傷つけ得る鬼の爪を落す事を優先し。右回
し蹴りで鬼の胴を薙ぎ、吹き飛ばす事で噛みつけぬ様に彼らから引き離し。為景さんも香
苗さんを守りつつ、会議室に入ってきている。
「今、鬼に止めを刺します。少しお待ちを」
「ヤクザは残らず全滅か。まぁやむを得ぬ」
為景さんはそれには余り哀傷もない様で。
壁に叩き付けられた鬼を討つ構えに移り。
真弓さんが僅かに早く前に出ているので。
香苗さんを背に庇いつつその補助を為す。
「ぬぬぬ……」「その血潮は既に封じたわ」
夏美さんはその爪で腹を胸を裂いて、己の血潮で作った鬼の爪を飛ばそうと試みるけど。
手首から切り落されているのでそれもできず。ヤクザの銃弾負った傷からなら、自らを癒
しつつ血潮で鬼の爪を腕毎作って飛ばせるけど。既に銃弾による傷口は全て治癒を終えて
おり。
鬼切りの刃に切られた傷は、鬼を滅ぼそうとする『力』の作用に晒され、癒しも簡単に
浸透しない。故にその両手首の傷から鬼の爪は生み出せぬ。治癒も出来ぬ内は鬼の爪も腕
も作れず、更に飛ばす事も出来ず。その結果。
「今のあなたは道具も持てない。噛み付く以外に攻撃手段を持たず。遠くの敵を倒せない。
足も両脛に、為景さんの放った小刀が刺さっている。指のない今のあなたはその小刀を抜
き取れない。即死の傷ではないけど、鬼を滅ぼす力が浸透して足止めになる以上に、その
足の爪の攻撃力も奪っている。あなた自身の腹をその足の爪で破るなんて事も出来ない」
誰かを傷つける間に逃れる事は最早できぬ。
これも鬼の情報をしっかり入手した効果か。
鬼の『力』が傷口へ再度浸透するより前に。
「決着を付けましょう。あなたを集団の憎悪や憤怒・恨みや悲嘆から、解き放ち救う!」
真弓さんはわたしと肌身を重ね、不二夏美が真琴さん美琴さんや亜紀さん野村さん、郷
田組等の憤懣を受けて甦った鬼だと分る前から。彼女自身の憤怒や憎悪・恨みで甦った鬼
ではないと読んでおり。9年前真弓さんに切られた時に、彼女は己の末路に得心していた。
春恵さんを殺められた悔い・無念が、夏美さんを鬼に変えたけど。真弓さんと対峙して
彼女は、己の復讐が春恵さんの遺志ではなく、姉を喪わせた自身の悔恨と気付き。己の為
の復讐に執着を感じぬ彼女は、絶命を受容した。
一度受容した絶命を、覆す程の何かは多分、外からもたらされた。そう考えれば、他者
の憤怒や憎悪・悲嘆を受け得る者が、夏美さんしかいない故に、敢て甦ったと推察も出来
て。
千羽にも若杉にも不本意だけど、鬼は諸々の復讐を遂げてきた。宿願を成就した。真琴
さん美琴さんも、亜紀さんも郷田組の面々も、報いを与えるべき相手には報いを与えてき
た。
「もう充分でしょう? これ以上不幸を撒き散らしても、得る物はないわ。それを分るか
ら、今回あなたは城野雪花も王克也も、佐伯摩耶も八木博嗣も徳居兄弟も、殺めなかった。
喪わせる事に力を置いて。でもそれであなた達に、未来に向けた何を残せる訳でもない」
「未だ……未だよ。そこに、いる連中が…」
鬼は尚、腰が抜け座り込んだ状態のさゆりさんや、その背後の宗佑氏一家、更に奇跡の
超聖水幹部を、顔馴染みを牙を見せて威嚇し。それから真弓さんにまっすぐな視線を向け
て。
「鬼の憤怒に終りはない。復讐を終えても収まらない。喪った物は取り返せない、甦らせ
られない。未来なんて見つめてない。何か始めようなんて考えてない。唯、憎い、悔しい。
哀しく辛く妬ましく。今ここで生を謳歌している者が許せない。鬼に終り等あり得ない!
鬼は切って止めなければ永遠に止まらない。終らせられるか。鬼を討つ者の刃で、鬼の
憤怒を憎悪を悲嘆を恨みを、傷み苦しみ悔恨を、お前ならば切り捨てて、終らせられる
か!」
【夏美さんは、討たれる事を望んでいた…】
それが鬼の不二夏美の責任の取り方だった。
己が導き一時鬼になって抛り捨てた友への。
悲惨な境遇・鬼への転落を招いた結果への。
最期迄、妄執の消える瞬間迄、寄り添うと。
復讐より夏美さんは終り方を見据えていて。
だから生きて残りたい塚地さんと離別した。
鬼として未来を望む事は、彼女には出来ぬ。
伴う死霊達もそれを望む事は不可能だから。
【真弓さんに切られる事を鬼は望み願って】
夏美さんの真意は復讐ではなく。死霊の激情の鎮魂にあった。だから仇を殺めるよりも、
心を穿つ復讐を多用した。彼女自身の憎悪は薄いから、相手によっては希望の芽を残して。
今もさゆりさんをその侭貫き通す事は選ばず。
殺戮を重ねつつ、その殺戮の虚しさを分り。
復讐を進めつつ、阻止してくれる事を願い。
共に宿る死霊も皆、夏美さんに心を預けて。
逆らう様子もなく、最期迄一心同体を保ち。
鬼に変じる事が悲劇の極み・終結ではない。
鬼に変じた後にも更なる悲劇は生じて行く。
だから鬼は早く退治されなければならない。
鬼を討つ事こそがその失血を止める唯一の。
「私を殺し尽くせるか千羽真弓! 多数の死霊の憎悪を身に宿し、鬼切部の誰にも絶命さ
せる事が叶わなかった不二夏美を、お前は滅ぼし尽くせるか! その力量は私に届くか」
両腕の爪を喪い、足はまともに動かず、それでも口の牙で威嚇して抵抗の意を示す鬼に。
真弓さんは涼やかに清冽な声音と気配で応え。彼女は最早切る他に為す術のない存在だっ
た。
「鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽真弓が、千羽妙見流にてお相手するわ。覚悟なさい!」
為景さんは手を出さぬ。出す必要がない。
真弓さんは一気に距離を詰め鬼の右肩に。
「千羽妙見流、魂削り」「ぐあああぁっ!」
鬼の絶叫が響くけど、真弓さんはそれで動きを止めず。激痛に呻きつつ、鬼が噛み付こ
うと身を乗り出す前に、刃を抜いてもう一度。次は鬼の左肩に既に血塗れの刃を振り下ろ
し。
「ぐああああぁぁ!」「いぐああぁぁっ!」
鬼の絶叫が響き渡る。響くけど鬼は何故か、心地よさそうな表情も見せ。傷みの瞬間は
引きつるけど、頬にうっすら涙も伝い。それは。
わたしには分る、羽藤柚明には。無事羽様に帰着して最初の夜に、真弓さんは正樹さん
でもサクヤさんでもなく、白花ちゃん桂ちゃんでもなくわたしとの夜を所望し。肌身重ね
て感応で、わたしが読み取る侭に心を開いて。
そこで視えたのは、鬼に宿る妄執の、死霊の憎悪が、真弓さんの鬼切りの『力』に断ち
切られ、浄化され、マイナスがゼロに戻り行く様で。淀みが消え、今を受け容れ行く様で。
真弓さんも見通せなかった光景を、わたしが感応で読み解いて、真弓さんに改めて視せる。
『夏美先生、今度こそ本当にお訣れだ。死に絶えて未来もない俺達の為に、甦ってくれて。
俺達は結局力及ばなかったが、その熱い魂は消える最期の瞬間迄忘れない』『古川さん』
郷田組の面々が、みんなを守る感じで一撃一撃に1人ずつ、前に出て浄化されて消失し。
彼はその指揮を執って、最後に消える積りだ。
『オレ達もここ迄っす』『最期迄有り難うござんした』『感謝してます。惚れてました』
『良い最期をお迎え下さい』『お先っす!』
次々と郷田組の残りの面々が消えて行く。
『腕力に生きたオレ達が、腕力に破れて最期を迎えるなら、本望かもな』『兄貴ぃ……』
ゲンさんは、夏美さん達に最期の笑みで応えてから、続くヤマさんへの見本を意識して。
気合を入れた叫びと共に、鬼の内迄浸透した魂削りに消され。ヤマさんも、夏美さん達に
精一杯強がった笑みを残し、次の一撃に消え。
『ゲンさん、ヤマさん、古川さん……みんな、みんなどうもありがとう。私の為に、私達
の為に、生命喪わせた上に死んだその後迄も』
感謝も哀悼も申し訳なさも、言葉に出来ない程だけど。幾ら頭を下げても足りないけど。
『オヤジ(郷田組長)、指示は確かに果たしました。我ら最期迄先生を守り通しました』
先生、後は任せます。俺達は充分以上に生きて死んだ。鬼の生も爽快だった。先生方も
短くても最期の瞬間迄生き抜いてくれ。じゃ。
古川さんが郷田組の最期を飾って消えても。
魂削りの乱舞は終らず。続いて前に出るは。
『では、次は儂の番かの』『野村先生…!』
彼の妄執は、夏美さんや真琴さん美琴さんに抱いた危惧で。生前支え切れなかった事へ
の申し訳なさで。己の不遇は受容できた彼も、真琴さん美琴さんの鬼化を前に、見ておれ
ず。
その死後を支え、人の途を外れすぎぬ様に導き、訪れるべき最期に寄り添う為に。夏美
さんが甦った動機と同じだったから。夏美さんや真琴さん美琴さんの復讐が、半ば以上果
たされ。憤怒や憎悪が薄れた今を潮時と感じ。
『儂の人生に、最期の光をくれた事に感謝します。夏美先生、真琴君美琴君。儂は……幸
せだった』『『『『野村先生ぇっ!』』』』
引き留める間もなくその魂が消え去ると。
寂寥感に浸る猶予もなく次は亜紀さんが。
『わたしの復讐は、獄門会にいた仇を何人か討った時点で、終っていたんだけど。長々付
き合ってしまったわ。でも、そろそろ限界』
復讐を果たし終えた時点で、亜紀さんは只生きるだけの鬼になっており。でも、その魂
の在り方は強烈な憎悪や憤怒などがない限り、曖昧で脆く形を保てず。夏美さんに同居し
たから、今迄自我を保てたけど。それも限界で。
『わたしも充分に、死後は楽しめたから…』
夏美ありがと。最期だけ亜紀さんは坂本医院にいた頃の、年長で先輩だった語調を戻し。
『『『亜紀さん!』』』香坂亜紀も消失し。
『いよいよ私の番ね』『『なつみ先生っ』』
最早鬼の内には、中原姉妹と夏美さんしか残ってない。郷田組の面々も含め魂が50以上
雑居していた頃から見ると、寂しく涼しげで。
『貴女達には、ごめんなさいと有り難うを』
鬼の体は夏美さんの物ではない。この体は美琴さんの物であって、今迄夏美さんが管理
を任されていたけど、家主は美琴さんなのだ。
魂削りの撃たれる間隔が、徐々にゆっくりになっていた。疲労ではない。真弓さんは鬼
に宿る魂の名残惜しさの解消に、反撃の術も『力』も喪った鬼を、敢て瞬殺せず時を掛け。
『私が貴女達姉妹に関った為に、私の定めに貴女達を巻き込んでしまった。その為に花も
実もある人生を、歪め縮めて。その事は幾ら謝っても謝りきれない私の咎』『『先生』』
『そして有り難うは、貴女達が私の心に差し込んでくれた暖かさに。貴女達と一緒にいら
れた事が、わたしの幸せだった。その所為で貴女達を手放す事に躊躇って、重荷を負わせ
てしまったけど。最期の最期迄、死したその後迄付き合ってくれて、本当に有り難う!』
愛しい真琴、愛しい美琴。夏美さんは2人を左右に抱き寄せて、その両頬に頬を合わせ。
『愛しいなつみ先生』『いつ迄も一番の人』
もう1人1人切られる必要はない。鬼の体は何度も受けた魂削りで、瀕死を超えており。
鬼切りの『力』はもう全く防がれる事なく大量に入り込んでくる。弱った魂の3つ位なら、
同時に纏めて切り倒せる。滅びを一緒出来る。
『わたし達の愛が、なつみ先生を縛ってしまった』
『一度生を終えた先生を、あたし達の我が侭で甦らせ、再度鬼の苦痛死の苦痛を』
夏美さんが気にしないでと微笑み返すのに。
真琴さんと美琴さんの想いは声音は揃って。
『『なつみ先生をわたし達から解き放ちます。
ありがとう、そしてごめんなさい。でも。
わたし達最期迄先生を愛していました』』
鬼の体は最期に膝を突き、真弓さんに向かって倒れ込み。もう牙で噛み付く力さえない。
真弓さんに抱き支えられつつ、煙を上げて魂抜け。その体は中原美琴20歳の姿を取り戻し。
鬼の最期だった。それは肉体的に或いは精神的に絶命した・させられた以上に。心残り
を後々に引かない最期だと、傍目にも悟れて。顔の険が取れていて、穏やかな笑みさえ浮
び。
さゆりさんも宗佑氏達も、為景さんも香苗さんも、その光景を前に発すべき詞を持たず。
真弓さんは、力尽きて緑色の硬質な肌が消え、取り戻された柔らかな女の子の肌身を抱い
て。血塗れの女の子に、囁きかける様に唇寄せて。
「お疲れ様、不二夏美。哀しい最期だったけど、あなたは最期の最期迄生き抜いたわ……。
そして中原美琴、中原真琴。あなた達もゆっくりお休みなさい。もう、あなた達を虐げる
者も傷つける者も、どこにもいないから…」
安心して、安らかな最期を一緒になさい。
香苗さんの涙は、さゆりさんの涙は、宗佑氏や公子さんやしのぶさんの、その他の者の
涙は、一体どんな想いを宿して流されたのか。
哀しく寂しい結末だけど、納得の行かぬ事の多い結末だけど。この年の真夏の夜半過ぎ、
癒しの力を持つ鬼・不二夏美の禍は終局した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
元々鬼切部とは、鬼が生じ禍が起こってから動き出す。故に始った時点で既に悲嘆があ
り無念があり、悔恨があり憎悪や憤怒がある。守り庇い取り戻し、万事解決という幸せな
展開は、千件に一件もなく。多くはそれ以上の被害を食い止めたとの、比較的マシな解決
で。
勿論報道記者連続殺傷の解決は告知されず。
鬼の復讐を受けた者達に何の補償とてない。
獄門会は再起不能に近い痛打を受けたけど。
結果重荷の消えた奇跡の超聖水は尚存続し。
今後はさゆりさんが組織運営にも関る様で。
香苗さんは鬼の討伐を兄の墓前にのみ伝え。
最低限の後処理をして、他の諸々は千羽と若杉に委ね。真弓さんは8月半ば、オハシラ
様のお祭り直前に羽様へ帰着した。後の展開は真弓さんも、為景さんから数度の電話で報
されただけで。テレビ雑誌は『逃げ回る奇跡の女剣士』報道に埋め尽くされて役に立たず。
真弓さんは帰着して最初の夜を、サクヤさんでも正樹さんでもなく、白花ちゃん桂ちゃ
んでもなく、このわたしと肌身重ねて過ごし。癒しの『力』持つ鬼との戦いに苦心したの
に、同じ癒しの『力』を持つ羽藤柚明に己を預け。わたしの感応や関知が読み取れるよう
にと心を開き、見聞きした全てを余さず伝え。無限の信頼と慈しみが肌身を通じ流れ込む。
深く強い愛情の波が、わたしの心の奥底迄温める。
御免なさいね。真弓さんはわたしに向けて。
「結局、凄惨な末路にしか辿り着けなかった。
不二夏美は切る他に、対処の術がなかった。
もう少し救いのある結末を持ち帰りたかったけど。或いはあなたを伴えば、不可能では
なかったかも知れないけどでも」「いいえ」
わたしは首を左右に振って、その謝罪を受け容れない。真弓さんが謝るべき中身ではな
いから。優しい真弓さんはこの結末が、不二夏美と微かに心繋げたわたしを哀しませると、
気遣ってくれているけど。でも元々は、わたしの手に余って真弓さんに回った案件なのだ。
それにわたしは真弓さんが、鬼の被害者のみならず、鬼である夏美さん達をも想いつつ、
刃を振るったと感じている。鬼の絶命は夏美さん達には一つの救いであり解放でもあった。
この結末は誰にも回避不能で、夏美さん自身得心行っていた。わたしに謝る内容ではない。
何より真弓さんは、異能の『力】を持つ羽藤柚明の先行きを案じ。わたしの一番たいせ
つな白花ちゃん桂ちゃんの、未来に影を落す暗雲を感じ。鬼の禍の除去に全力を尽くした。
何を謝る事があるだろう。わたしには愛しさと感謝と慰労と、申し訳なさしか浮ばない。
人は置かれた立場や権限で為せる限りがある。真弓さんは真弓さんに出来る限りを尽くし
た。
わたしの及ばぬ事柄を、心を鬼にして為してくれた美しい人に、今は情愛を肌身で伝え。
「無事で良かった。わたしのたいせつな人…。
強く清く美しい、わたしの憧れの愛しい人。
わたしの一番たいせつな白花ちゃん桂ちゃんの最愛のお母さん。今はその帰着がこの上
なく嬉しい。こうして肌身触れ合える事が」
この人の強さ賢さなら、わたしの一番たいせつな白花ちゃん桂ちゃんは確かに守られる。
この人の強さ賢さに学べば、わたしも一番たいせつな羽様の双子を守り通す術を得られる。
どんな禍からも最愛の双子を守り通せる様に。
今はこの美しい人と結べた深く濃い絆に身を預け、心を委ね。その憂いを少しでも拭い。
その愛しみを感じつつそれ以上の情愛を返し。
いつの日か己に巡り来るかも知れない悲運への覚悟は、内心の奥に密かに備えておこう。