鬼を断つ刃〔丙〕(後)
ヤマさんを囲む20人以上の獄門会の中心を、突如旋風が襲う。数人が弾かれた様に倒れ
て。倒れた者達自身が、己に何が起ったか分らず首を傾げる中に、1人の鬼が降りたって
いた。
背丈は成人女性の平均位で、ヤクザ達に較べればむしろ低い。体つきは躍動的だけど女
の細身で。唯その容姿は姿勢は気配は異形だ。緑色の光沢ある硬質な肌に全身覆われ、破
れ解れ汚れた巫女装束に、両手の爪は太く堅く長く伸び。その視線は知性ある敵意に満ち
て。
何が何だか分らぬ侭敵意を燃やすヤクザに。
夏美さんは憎悪を恨みを憤怒を解放しつつ。
「半分だけ生かして帰す。残り半分は死ね」
【生き残りに夏美さんの復讐の開始を、その恐怖と共に広めさせようとして。考えている。
鬼切部が出てくる事を覚悟で、自分のペースに巻き込もうと、敢て己の鬼の存在を示し】
今の彼女は9年前の鬼と違う。夏美さんは、武道の修行や戦闘訓練のない常の女性なの
で。鬼の剛力を得ても力押しで人を倒す他になかったけど。他の魂と同居した為に、想い
や記憶を共有出来。郷田組長やゲンさん、古川さんの戦い方を取り入れて、技量が格段に
増し。
「びひぃ」「ふがっ」「あべじ」「ぎゃん」
腕力は上回るから奢る相手を粉砕するのは、9年前にも出来たけど。怯え警戒し、守り
に回り隙を窺い、必死に抗う敵を踏み潰すのは、鬼にも楽ではない。以前はそれで時を稼
がれ、鬼切部が駆けつけ。夏美さんが危機に陥った。
『流れる様に体が動く。相手の抵抗を時間も掛けず簡単に打ち砕ける。これが武道なの』
こうすれば良いのかと。良かったのかと。
簡単に素早く次々、敵が倒れ伏して行く。
鬼切りの修練には及ばない、市井の武道やケンカ拳法だけど。一つの体に心が同居した
状態は、一夜漬けでも深い感応と似て。言葉や文字に表しきれぬ微妙な感覚やコツを、短
時間で過ちなく伝えられる。夏美さんはそれをヤクザ相手の実戦で試し切りし、急速に己
に馴染ませて。今や彼女は素人の鬼ではない。
「くそっ、こいつ」「鉄パイプも通じねぇ」
「あがあああ、腕力で俺様がやられ、ひっ」
「ははは、死にな死にな。次はどいつだい」
古川さんの戦い方は、生前の90キロを超える体重と隆々たる筋肉を生かした、重厚なス
タイルで。夏美さんは鬼にしては小柄だけど。鬼の膂力は人を遙かに超えるので。ヤクザ
相手なら、その流儀で戦って不都合は全くなく。
郷田組や夏美さんの憎悪怨恨・憤怒無念は、漸く解き放たれ。先刻迄勝ち誇っていた敵
を、恐怖の淵に叩き落し。塚地さんが異変を悟ったのは、ヤクザ達が口々に誰かを罵り、
その誰かに威圧され、粉砕されて逃げ散った後で。
「あんたは一体……ま、まさか夏美先生?」
逃げ散るヤクザを追撃し、何人かを貫いて血塗れになった鬼が。倒れ伏したヤマさんと、
縋り寄る塚地さんの元に来て。月明りを浴びる硬質な緑色の肌が、若い女性の柔肌に戻る
様を。目前で見て塚地さんは漸く状況を悟り。
「お久しぶり塚地さん。貴方も酷い有様ね」
彼もヤマさんを釣り上げる餌として、獄門会に殴り蹴られ踏みつけられ。泥塗れ血塗れ
になっていたから。破れ解れ汚れた衣姿の夏美さんは、ヤマさんに屈み込んで声掛けつつ。
塚地さんにも左手で軽く触れて、癒しを与え。
「夏美、先生? まさか」「気がついた?」
夏美さんが独り鬼と化して、獄門会の連中を退けたと知ると、ヤマさんは苦笑いを浮べ。
「ヤクザが堅気の先生に助けられちゃ、終いだな」「堅気どころじゃなくてよ、私は今や
人も外れた鬼なのだから」「夏美先生ぇ…」
夜だから、夏美さんに宿る多くの妄執達は。
陽の光を怖れる必要なく顕れて、声を伝え。
常の人である塚地さんは、たじろいだけど。
郷田組の、特にゲンさんの声にヤマさんは。
驚きに眼を見開き思わず無理に身を起こし。
「みんな、みんなそこに居るんだ……今も」
「少し待って。すぐ、その傷を癒すから…」
要らない。でもヤマさんはその勧めを断り。
彼は鬼になれる事や鬼化した先達を知った。
二度と逢えぬと諦めた、郷田組の家族達が。
みんな夏美さんの内側に、霊の鬼となって。
死しても尚在り続けていると知ってしまい。
彼は死して鬼になる事に希望を見た今彼は。
夏美さんに同化して仇を討つ事を願い求め。
「オレもこの侭鬼になる。鬼に入れてくれ」
彼は致命傷を受けていた。今の夏美さんなら、それでも絶命前なら生命繋げられるけど。
死は避けられるけど。彼は人として生き延びる事を望まず。鬼になりたいと、夏美さんに
宿る死霊の群に入りたいと、強く取り縋って。
「オレは本当は9年前に死んでいた。郷田組の最期に居合わせられず、親父(郷田組長)
や大兄貴(古川さん)も守れずに。その後も、西川に捕まって殺される処を、兄貴(ゲン
さん)が囮になって逃がしてくれて。でも正にその所為で、兄貴は奴らに捕まって殺さ
れ」
その兄貴が夏美さんと共に、霊の鬼になっている。逢えた事は嬉しいけど、兄貴は死ん
でいたと報されて。ヤマさんは生き延びても、居るべき処も戻るべき処もなく。今後為す
べき事もない。仲間がいなくなった今、奇跡の超聖水も郷田組もなくなった今、彼の願い
は。
「西川は夏美さんが殺してくれたのか。仇の片割れは討ち取れたのか。それは良い、良い
ニュースだ。でも本当の仇はまだ取れてない。黒金は……獄門会の黒金は未だ生きてい
る」
西川さんを唆して、郷田組の殲滅を促し。
夏美さん春恵さんを殺そうと罠に嵌めた。
今は吸収した新郷田組の者も配下に従え。
奇跡の超聖水から膨大な金銭を貪るなど。
非道を続ける獄門会の若頭補佐が黒幕と。
「オレじゃ奴に辿り着けなかった。郷田組のない今、奴に復讐を果たすには、まともな方
法じゃ届かねぇ。だが、郷田組のみんなと一緒に仇を討てるなら、恨みを晴らせるなら」
ヤマさんは強がってきたけど。実は仲間と一緒でなくば、独り世間の風に晒される事に
心細さを感じ。この9年彼はなくした絆を諦め切れずこの街を彷徨ってきた。仲間に守ら
れ誰も守れず、居るべき処もなく為すべき事もない侭に、残りの生を過ごしてきた。でも。
「オレは誰もいなくなった後に、独り生き残るのが願いじゃない! そんなの望みでも幸
せでもない。オレの求めは最期迄郷田組の家族と一緒にいる事だ。それが鬼でも死霊でも。
そもそも堅気の人生じゃねぇ。この後に独り生き残っても幸せなんてねぇし、独りで幸
せなんてなりたくもねぇ! オレは郷田組の家族と一緒に、仇を討って終りたいんだ!」
死に行く肉体から迸る叫びは、夏美さんのゲンさんの古川さんの郷田組長の、生きて欲
しいとの願いを凌駕して。夏美さんはその意志一つで、彼の死を回避できると分った上で。
膝枕の上で遂に最期迄癒しを彼に及ぼさず。唯その苦痛のみを消し。彼の首筋に爪を立
て、肌身で彼の血潮を吸収し、彼の想いを吸収し。塚地さんは間近でその光景を見て言葉
もなく。でもヤマさんの顔は喜び、嬉し涙が頬を伝い。
「ありがとう、夏美先生。オレも、一緒に」
山辺京介の生命の炎が消えて行く。夏美さんの鬼の体に、燃え移る部分を除いて。それ
を見届ける夏美さんの表情は、天女の様に聖女の様に慈悲深く。とても鬼には見えなくて。
地獄の道を進む鬼に又独り霊の鬼が合流した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
それから夏美さんは、否、夏美さん達は…。
各々の思い残しを晴らす為に、動き始めて。
それは必ずしも生命奪うとは限らないけど。
むしろ生き残った方が辛さ苦しさ悲しさを。
生涯引きずり続けねばならぬ凄惨な復讐で。
彼女達の恨みを憎悪を止められる者はない。
受けた非業を無念を憤怒を、全て叩き返す。
何も残らなくて良い。むしろ何も残さない。
夏美さん達には何も残らなかったのだから。
せめて残された憤怒や憎悪や無念や恨みは、
その因をなした者達に返すのが理の必然と。
夏美さんや奇跡の超聖水の事実を承知で裏切った、王建行さんや佐伯摩耶さん達。人に
癒しを及ぼしたい夏美さんの願いと、金儲け目的ではない行動を、見聞きして。彼らは団
体を離れ世間に虚偽の告発をし。世の注目を浴びて荒稼ぎした末に、バッシングの終りと
同時に用済みと、マスコミからポイ捨てされ。彼らは仲間を恩人を裏切って、最後に何も
残らず残せず。否、仲間や恩人の憤怒は残った。
「ひいぃぃぃぃ! たすけてええぇぇっ!」
「あがあぁぁぁ! そんな、そんな酷い…」
『当然すぎるぜ、お前には相応しい報いだ』
『他者の希望を摘み取った罰と思いなさい』
『これでも返し足りない位なんだ、俺達は』
『わたしや仲間の悲痛はこんな物じゃない』
夏美さん達にきちんと取材せず、上からの指示と思い込みと適当な情報でバッシングを
過熱させ、売上げを伸ばし名声を得たマスコミの記者編集者。何度も報道事故や虚偽報道
を指摘されながら、彼らは結局面白い話しで世間の目先を引く事しか考えられず、多くの
人を踏み躙り、社会正義を騙って利得を得た。
「おごおぉぉぉ! 謝るから許してくれぇ」
「お願い、必ず謝罪記事載せるから助けて」
『嘘を嘘と分って載せるその非道許すまじ』
『貴方の妻子は虚報の売上で養われたのね』
『死にかけて漸く謝って方針変えますとか』
『誰が信じる物ですか。口先だけの卑怯者』
そしてマスコミの流す嘘に煽られて。夏美さんや彼女を信じ慕う者を、指弾し迫害し教
え諭し叱りつけ、矯正しようした世間の者達。善意の故か目立ちたがりの故か、虐める相
手を欲していただけか。でも彼らも又夏美さんに想いを寄せた者の人生を、ねじ曲げ狂わ
せ。
この9年、夏美さんへの誹謗中傷が終って以降、世間からもマスコミからも忘れ去られ
た後。真琴さん美琴さん、野村さんやヤマさん塚地さんを、本当に責め苛んだのは。間近
で彼女達を見かける度に、過去の咎を思い出してはつつき続けた、彼ら身近な者達だった。
何も知らない癖に、何も聞こうとも見ようともせず。適当な情報を摘み食いして思い込み。
「あぎいゃあぁぁ! お、俺の、俺の…!」
「オレの、オレの残り人生の願いを、酷い」
『もう誰にも自慢出来ないわね、いい気味』
『残り人生の全部を、悔恨に費やすんだな』
『その願いが俺達みんなを踏み躙ったんだ』
『お前にだって何も残してやるものかよ!』
まだまだ恨みを晴らしたい仇共は多くいる。
早く次の標的を討ちに行こうと皆は急かす。
塚地さんはそんな夏美さんの手足となって。
彼も恩義ある夏美さんへの世間の仕打ちに。
マスコミや宗佑氏達の行いに、恨みを抱き。
鬼や死霊と知って彼女に、積極的な協力を。
『被害者の会もやっちゃおうよ』『新聞やテレビの奴らにも未だ復讐し足りない』『地域
新聞や商店街も掌を返した恨みが』『警察や役場も冷たい応対だった』『獄門会は皆殺し。
その親族も全員皆殺し』『今の奇跡の超聖水もだ。宗佑やそれに与した奴らは当然殺す』
彼女に同居した魂達は、鬼の剛力が余りに自在に気易く、人やその希望を砕く様に酔い。
気軽にもう一人、次に誰々という感じで昔の小さな諍いや不満を思い出し。一人ではない
事が逆にみんなを煽り、揃って次へ進ませる。処刑者リストは次々と、関連薄い者に迄及
び。
『鬼を狩る者達が、動き出した様ですぞ…』
野村さんの静かな声が、沸き返るみんなに冷水を掛けて落ち着かせ。夏美さんも、塚地
さん経由で入る情報や、鬼の感応で悟れる事柄から、何よりこの世に鬼を切る者がいると
の認識があるから。この展開は予見しており。
『未だ奇跡の超聖水関連だとは思われてない。不二夏美は千羽真弓に一度切られているか
ら。
でも何れ悟られる。分られる。いつ迄も思い通りには振る舞えないわ。……そろそろ仇
を絞り込む頃合かしらね』『なつみ先生?』
鬼になって漸く夏美さんは、年長者や百戦錬磨の中でも主導権を握れる様になり。元々
郷田組は隆正氏や古川さんを始め、彼女に従順なのだけど。夏美さんにも長らしい風格が。
「塚地さん、一つお願いがあるの。鬼を切る者を、私達の思う様に動かしたい」「……」
彼女はやはり、憤怒のみでは動いていない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
首都圏でも夕刻の裏路地は、余り人目に付かない。正樹さんの新刊発行祝賀に、同業他
社の1人として招かれた真田昌幸さん45歳は。会場であるグランドホテル扶桑に向かう途
上、道路脇に停めた車の運転席で1人時間を潰し。
【この日はわたし達が首都圏に着いた翌日】
夏美さんを誹謗中傷した時、週刊春秋の副編集長だった彼は。9年経った今、月刊春秋
の副編集長になっていた。出世が遅れている訳ではない。彼は好んで副編集長の椅子に居
座り責任回避に徹し。訴訟沙汰や部数減等の責任は、時の編集長に被せ。適当に更迭や辞
職をして貰い。彼には若杉が付いているから、社の上層部の更に上から身分安泰を保証さ
れ。
気楽に若杉が所望の世論操作の指揮を執り。
失敗への不安も無く好き放題に書き殴れる。
その特権で彼は様々な人達の人生を左右し。
少なからぬ報償も得て、怒号や涙も貰って。
『マスコミ人連続殺傷の犯人の鬼が、松下元総理や平河議員の出る記念祝賀に乱入する』
情報を得た彼は、記念祝賀出席を編集長に任せ、自身は出席と答えつつ欠席する考えで。
編集長に危険は伝えない。情報が不確かな以上に、特ダネを掴むチャンスだ。誰か現場に
いるべき。でも自ら危険を冒す積りは無くて。
この夏、報道業界の記者編集者が相次いで殺傷され。彼らは報道で、誰かの人生を狂わ
せ恨まれる事や。人の恥部や世の闇に迫って嫌われる事もあり。安全な商売ではないけど。
でも生命迄取られるのは今の日本では珍しく。
誰が何を狙って為しているか分らないから。
先が読めず彼らも警察も真相解明に難渋し。
【夏美さんの死から9年経つものね。書いた記者も翌月は別の案件を追っていて、前に書
いた事等忘れ去る。それが今炸裂するなんて、憶えてもいない人には想定もつかない。取
材の度に不快や恨みを買っているなら、その憤怒や無念がいつどこの誰の物かも分らな
い】
尤も捜査が進まなければ進まないで彼らは。
警察の無能と怠惰を叩いて売上げを伸ばす。
逆に解決されて終ってしまうと引っ張れぬ。
事件事故は連続する方が読者の引きも良い。
賞賛は飽きられ易いけど、怒りや不安は後に引きずり易い。読者の興味を引く効果なら、
良いニュースより悪いニュースの方が上回る。彼らは人々のその習性を、熟知しているか
ら。
「人の不幸はオレ達の飯のタネ、オレに及ばぬ処でどんどん暴れてくれよ、鬼さんっと」
彼は若杉以外にも複数情報源を持ち。中にはどこの誰かも不確かな怪しい物もあるけど。
その幾つかからも、この記念祝賀が危ういという噂は入っており。政界や財界の首脳なら、
どこかで人の恨みを買っていておかしくない。
彼はこの日ここに呼び出されていた。事件の犯人たる鬼について情報を持つ男が、直に
逢いたく望んできて。真田記者も、未だ封書や電話で情報提供受けただけの、顔も見てな
い仲なので、一度逢っておきたく。彼がもたらす鬼の犯行予報は、子細で確かだったから。
真田記者は会場へ赴く途中、急な腹痛で遅刻したと言う積り。事件が生じた後、鬼が逃
げ去って安全になった現場へ、駆けつける積りで。巧く行けば特ダネのお零れ拾えるかも。
【……夏美さんは、この展開を導いた……】
その様な彼の思考発想は読み抜かれていた。
否、彼がそう動く様に鬼は情報を操作した。
夏美さんが、鬼切部が要人警護に力を注いで他は手空きとなる様に。一方で真田記者が
会場近くの路地裏に来る様に。塚地さんに己の犯行予定を流す、匿名情報源になって貰い。
感応も夕刻になればある程度効く。真琴さん美琴さんと同居して強化されたその異能は、
付近拾キロ四方から彼を容易に見つけ出して。それ以前に夏美さんは、元々彼を狙ってい
た。
マスコミ人連続殺傷を為した彼女は、何人かの仇を取りつつ。恨みを復讐を晴らしつつ。
真田記者が鬼に備えると見込み。近付けば若杉の警報網に引っ掛るから、少し距離を置き、
常に彼の動向を様子を窺っていた。なぜなら。
「ぶっ! ぶばっ、な、何が……が、かぁ」
真田記者の車に駆け寄って、不意を突いて後部座席のドアを開け。背後からシートごと
真田記者の心臓を貫いて。抵抗の暇も与えぬ。彼のお守りが鬼の接近を報じても、鬼切部
が助けに来る猶予も与えぬ。彼女が今迄彼を襲わず泳がせて、今日抹殺に踏み切った理由
は。
「散々嘘報道をしてくれたお前には、弁明の機会を与えない。叫ぶ暇も、己を哀れむ暇も、
許しを請う暇も与えない。私達の恨みや憎悪や憤怒や無念を、叩き付けるから受け止めな。
お前は鬼切部と昵懇で、気配を隠す特別なお守りを貰ったんだろう? それを貰うよ」
「が、か……お、お前は、一体、何者っ…」
「不二夏美を憶えてないの? 9年前お前に散々下半身の醜聞を、非難中傷嘘八百を書か
れた不二夏美を。遭ってその目で見ても思い出せないのかい。本当にお気楽な商売だね」
真田記者には9年前の夏美さんの一件は。
憶えて置くに値せぬ路傍の石との認識で。
踏み躙られた側には決して納得出来まい。
八つ裂きにしても足りない憎悪が渦巻き。
長居すれば異変を察した鬼切部が辿り着く。目的を果たしても果たせなくても一撃離脱
だ。経験は人も鬼も進歩させる。夏美さんは鬼切部の出方を分るから、対応策を学び憶え
始め。でも因縁のある真田記者にはつい手間取って。緑色の硬い皮膚の左腕を真田記者の
懐に回し。
「これが狙いだったのさ。マスコミを狙う鬼の事件があれば、人の恨みを買って身に覚え
のあるお前は必ず、鬼切部にお守りをねだる。報知器代りの安い奴じゃなく、昵懇な者に
特別に渡す、気配を隠せて結界も素通り出来る逸品を。9年前私はこの存在を知ったから
ね。後はそれを支給される迄待って奪い取れば」
どうやってお前の居所を探れたのかって?
ずっと距離を置いて尾行していたんだよ。
情報を流してお前をここに導いたんだよ。
「お前らマスコミは、人に張り付き追いかけ、食らいつく事は得意だけど。己がそうされ
る事には、全く無頓着で無防備だね。毎朝決まった通勤ルートで同じ会社に出社して。ど
この誰かさえ分れば、狙い放題じゃないかい」
このお守りを私が身につければ、私を守る様に働くから、鬼切部への鬼の報知は停まる。
私は鬼切部からも、気配を消した存在になる。見つかれば誤魔化せぬのはお前と同じだけ
ど。
『殺さない、で……助けて、生命だけは…』
命乞いしようとしてももう彼は声が出ず。
涙を流して哀願する彼を彼女は嘲り笑い。
「散々人を傷つけてきて、自分だけ痛み苦しみは嫌かい。偶には蹂躙される痛みも思い知
るがいい。報道する機会はもうないけどね」
『殺しちゃって、なつみ先生』『わたし達の憤怒を形に』『この男の報道の所為で私は』
真琴さん美琴さんも亜紀さんも、彼の報道に酷い目に遭わされた。夏美さんの周囲の人
間模様を、存在しない証人や証言をでっち上げて、好き勝手に再構成し。夏美さんが男に
も女にも、老人にも子供にも淫らに迫り縋り、乱交していたと。癒しの所作を性行為と描
き。
報道の所為で亜紀さんは、挙式迄決めた婚約者に逃げられ。真琴さん美琴さんは学校で
も世間でも、徳居家でも執拗に諭され叱られ。竜太君虎二君の凶行も、彼の醜聞報道が誘
い水になっている。姉妹がそう言う世界のそう言う者だとの報道を、彼らは鵜呑みにして
…。
『絶対に許さねぇ、首を飛ばしちまおうぜ』
『バラバラに切り刻んで踏み潰してやろう』
夏美さんは真田記者の報道では、郷田組の娼婦とされて。隆正氏や古川さんの妾であり、
同時に成果を上げた組員に与えられる褒賞で。夏美さんはそれでも尚飽きたらず、男を女
を欲し奥多摩の施設内を、夜な夜な徘徊したと。あの施設は夏美さんが獲物を囲い込む為
に作ったと。外に漏れずやりたい放題する為だと。叔父の宗佑氏や他の信者とも濃密に関
ったと。
この醜聞が、夏美さんや周囲の者に痛手を与え。報道を忌避して疎遠になる流れを生み。
世間に悪い印象を広げ、内部に隙間風を吹かせ。全くの嘘八百を。終ってみれば検証して
みれば振り返ってみれば、冤罪や無実ばかりなのに。夏美さんの行いが悪だという一点で、
批判した側だというだけで、彼は断罪を免れ。
『憎い……憎い』『自分の飯のタネに他人の不幸を』『何一つ根拠もないのに書き殴り』
『殺して、殺して頂戴!』『コロセコロセ』
夕刻なので、真田記者に感応の『力』が無くても。溢れ出る鬼の激情が声となって彼の
心へ流れ込み。それは人の精神を打ち砕き押し流す程凄まじい、怨恨と憤怒、無念と憎悪。
『な、なんだ。聞いた事がある様な無い様な声が幾つか、耳に流れ込んでくる。幻聴か』
「お前が最期迄報道しなかった真実の声だよ。残り少ない生命の間、私達の恨み辛み罵詈
雑言を、冥土への道案内にしっかり聞きな!」
野村さんだけは、恨みを晴らすにも最期迄責め呵んで殺すのはどうかと、漏らしたけど。
最後はみんなの狂熱を理解するから、了解を。理不尽に理不尽な報いがあっても自業自得
か。
「法律も世間もお前を裁く事は出来なかった。だから私が代りにお前に裁きを下す。お前
の今迄繰り返してきた様々な罪の全てを、報道の罪の全てを、私が今ここで裁く。死
ね!」
夏美さんは彼に癒しの『力』を及ぼしつつ。
心臓を後ろから貫いていた右腕を引き抜き。
大量の血潮が夕刻の車内を朱に染め変える。
夏美さんは、彼を救う為に『力』を及ぼした訳ではない。彼を即座に絶命させない為に、
治癒を及ぼしたのは確かだけど。その真意は、真田記者に死ぬ迄の傷み苦しみ悲しみを、
長く味わわせる為の懲罰で。楽には死なせない。鬼は癒しの『力』を人を苦しめ呵む為に
用い。
「心臓を貫き肺も動かなくした。お前はもう息も出来ず、脳に酸素も回らない。即死の処、
30分の時間はくれてやる。お前が私達に為してきた非道を悔いて、許しを願う間じゃない。
お前の謝罪や賠償など、もう私達は求めない。
人生を狂わされた者の願い望みは、報復だ。
幸せを砕かれた者の欲し求めるは、復讐だ。
お前が迫り来る死に悶え苦しむ様を見る事だけが、お前の願いが叶わず届かず潰えて行
く様を見る事だけが、私達の望みで目的…」
夏美さんは彼に『力』を及ぼし。数分で死に至る体を30分以上保たせ。でも致命傷に違
いはないから、どんな処置をしても蘇生も回復も望めず。鬼の夏美さんの癒しなら或いは。
だからこそ夏美さんの殺意が彼に絶望を。
偽物と非難し嘲ってきた彼女の『力』に。
実在を知って最後の最後迄苦しみ抜けと。
その血は幾ら呑んでも鬼の肥やし。恐怖や絶望、萎縮した心は鬼に何の影響も与えない。
鬼が人を恐怖させたり不意を突いて血を啜るのは、人に確かな想いを抱かせぬ為なのかも。
想いの薄い血は本当に唯、鬼の餌でしかなく。
『夏美先生。余り憎しみを晴らすのに執心していると、鬼を切る者が来てしまいます…』
野村さんが、仇でも過剰に苦しめる手法に及び腰で、撤収を促したと悟れたけど。時を
掛けすぎていたのも事実で。夏美さんもみんなも復讐の狂熱に我を忘れ。憎き相手の泣き
叫ぶ姿に時を忘れ。蹂躙の愉悦に酔っていた。真弓さんや為景さん程強くなくても、鬼切
部は鬼の天敵で、望んで遭遇したい者ではない。このお守り奪取も遭遇を避ける為なのだ
から。
彼の最期を見届けたかったけどそれは諦め。夏美さんは体に衣に受けた返り血を食しつ
つ、心の一部を食しつつ、夕暮れの裏路地に消え。
実はこの時若杉は、政財界の首脳が参集するパーティの警備に全力を注いでおり。一瞬
出た警報を、その末端は握り潰して。真田記者の屍が見つかったのは、翌日の夕刻だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『ホテル・ユグドラシル。政財界の首脳が集まるパーティ会場の、通りを隔てて向い側に。
競争に敗れた松中財閥の怨念が籠もるビル』
要人襲撃を恐れた鬼切部は、鬼の出撃拠点にされぬ様に誰も入り込めぬ様に、建物を呪
符の結界で囲って対策済だけど。その故にここには誰も配置されておらず。都心でも電気
も切られ、警備も引き上げた真っ暗なビルへ、寄り付く者も通り掛る者もなく、静寂を保
ち。
今宵の事を終えた夏美さんは、敵に察知されなくなった開放感で、破れ汚れ解れた豪奢
な衣に豊満な体を包みつつ、一部では素肌を覗かせつつ。涼む以外特に目的もなく、通り
向いのホテル・ユグドラシルからグランドホテル扶桑を眺め。パーティは終った後だけど。
生きる人の活力が光と化した様な情景を眺め。
明と暗の対比だった。グランドホテル扶桑と周囲の闇、街の輝きと夜の空。そして背後
のホテル・ユグドラシルの敗者故の暗闇が…。
『夜警さんもなく電気も止まって、夜になれば真っ暗で不吉そうね。お化けでも出そう』
『お姉ちゃん、今はあたし達が化けて出た鬼なのに』『確かに、今は不吉な鬼だものね』
意識の世界で夏美さんは、並んで寄り添う真琴さん美琴さんの、頬を両手で撫でて笑み。
独りではないから、単独ではないから笑みが。恨み憎しみに燃え盛る最中でも、笑みが零
れ。
『綺麗だね、夜の灯り』『うん、あの中にわたし達の仇の家や会社もある筈なのに綺麗』
夏美さんは基本日中出ていない。肉の体に宿るから、陽に当たっても消えはしないけど。
服を肌を通じて陽光が、肉体の中の想いを幾分か削る様で。昼の間は触れねば化外の力も
外に及ぼせず。無理すれば、僅かな間なら鬼の剛力も使えるけど、爪も牙も伸ばせるけど。
反動で立ち眩みや脱力・不調に苦しめられる。
その上、力を振り絞らねばならぬ副作用か、自動的に緑色の硬い皮膚になる為に、忽ち
人の注目を浴び。昼は人の心に作用する『力』が陽光に遮られ一切届かず、誤魔かす事も
意識逸らす事も出来ぬので、逃げ隠れも大変で。鬼は基本的に夜の生き物らしい。塚地さ
んに部屋を借りさせ家賃を強盗で賄っているけど。鬼が人の世界で生きるのは想像以上に
難しい。
そんな不規則な生活も2ヶ月目に入って。
『仇を全部取り終えたら、どうしよっか?』
『みんなの復讐が全て終った、その後に?』
美琴さんの問に、真琴さんは頭を捻るけど。
『うん。あたし達の恨みが晴れて消えた後』
『その後……わたし達、どうなるのかな?』
彼女達は、無念を晴らす為に鬼になった。
『『でもその先なんて、考えた事もなく』』
真琴さんも亜紀さんも野村さんも死者だ。
郷田組のみんなも夏美さんも死者だった。
戻るべき家もない、戻りたい場所もない。
為すべき事もなく、守りたい人もいない。
中原真琴の、中原美琴の、香坂亜紀の、野村純哉の、未来に希望は残ってない。夏美さ
んが未来を希望を失って、復讐の鬼を掴み取った様に。鬼になる前に未来も希望も全て鎖
されており。絶望の末に鬼になったのだから。復讐が遙か遠かった内は発想の外だったけ
ど。それが遠くないと感じられるとその先行きが。
『未だ終っても居ない復讐の先を、今から考えてもしようがないわ』『『なつみ先生』』
他のみんなに聞かせる事を意識しつつ夏美さんは。真琴さん美琴さんを、今は美しい女
性になった2人を、肌身に左右に抱き留めて。
『私がみんなの願いに応えて甦ったから、鬼の途を再度開いたから、この今がある。そう
でなければ、みんなは唯の死者で終っていた。鬼になれていなかった。だからここにいる
みんなには私が責任を持つ。9年前奇跡の超聖水の時は、己の憤怒に駆られて最期迄守る
事が出来なかったけど。その過ちを過ちで償う事になったけど。今度こそ最期迄、私が巻
き込んだあなた達の行く末は、私が責任を!』
それが、一度はみんなに理想を希望を夢見させ、多くの者の人生を導き招き、不本意と
はいえ悲惨な末に招いた事への、長としての償い、長になった者の責任だと、夏美さんは。
鬼の途を往く彼女の前に、1人の中年男性が再び現れた時、定めは再度、激流となった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『ホテル・ユグドラシルの結界が破られた』
傍を駆け抜けホテルに不法侵入した男性に、夏美さんも微かに見憶えがあった。相手は
彼女の存在にも気付いてないけど。夏美さんも内輪の話しに執心で、気付くのが遅れたけ
ど。
【羽藤正樹と姪の柚明か。夫婦じゃなくて年頃の娘と同室なら間違いがあるな。否、それ
らしい絵を撮って、醜聞をでっち上げてやる。真田のいる週刊春秋に送れば、ライバル社
だ。早速食い付いて、誤報と分っても垂れ流す】
八木博嗣さんだった。若杉に逆らった彼は、左遷の末に若杉の罠で解雇され。新刊出版
や雑誌の売上好調等、元部下で正樹さんの旧友、真柄槙子さんの成功を妬み恨み。前夜に
正樹さん達旧友の語らいの場へ八つ当たりに来て、槙子さんを辱めようと。余人に知られ
ぬ内にわたしが退けたけど、彼はそれも恨みに思い。
元々醜聞狙いで、ホテル職員に泊り客のリストを横流しさせていた彼は。正樹さんの部
屋もホテル・ユグドラシル向きにあると知り。わたしと正樹さんの、叔父と姪の禁断の性
愛を煽って仕返しを考え。それらしい見出しを付ければ、何気ない戯れも淫らな情景に描
けると。呪符の張ったドアをこじ開けて入り…。
「見つけた! あの男『創論』の八木博嗣」
八木さんは若杉の冤罪で社会的地位を失っていた為に、夏美さん達もその足跡を辿れず。
報復リスト筆頭でも今迄見つけ出せずにいて。
『結界の破綻を、敵は必ず確かめに来ます』
野村さんの忠告は正解だけど。今奴を見失ったら次はいつ見つけ出せるか。鬼切部の警
護するパーティは恙なく終った。彼らもほっとしている頃だ。素早く奴を始末して去れば。
勇んで駆け上がる八木さんの後を。鬼も勇んで駆け上がる。その姿は既に緑色に変じて。
無人の7階で写真を撮り放題と、燃える彼に。最後の特ダネ入手を少し楽しませたその後
で。
「い、い、一体何者なんだ。あんた、あっ」
鬼の剛力で成人男性を無理矢理振り向かせ。
言葉も不要にその肩を硬い爪で刺し貫いて。
ぎいやぁぁぁあ。血飛沫と絶叫に体を浸す。
致命傷ではないけど重傷だ。しかも月明りに照された異形を前に、彼は竦んで動けない。
「憶えていないのかい、八木博嗣。余りにもこの姿は、変り果ててしまったからね。でも、
私は絶対忘れない。お前達マスコミ、特にお前が編集長を務めた創論に、記事を捏造され、
徹底的に叩かれ全てを失わされたこの私は」
真田記者と違って緑色の鬼では初見の彼が。
不二夏美と気付けなくても無理はないけど。
「人を責めるばかりで己を顧みない。他人の失態や悪行や付け狙い暴き立てるけど、己が
狙われていると気付かない。ガードが甘い」
鬼は彼を付けてきた。鬼は彼を狙ってきた。彼は散々他人を妬み恨んでおいて、己が恨
まれ憎まれる事を考えず。誰も察せられぬ処で、誰も助けられぬ処で、自ら1人追い詰め
られ。
「ぎゃあぁぁぁ!」「叫べ、もっと苦しめ」
『今こそ、これ迄の恨みを全て叩き返す!』
大学時代に素人ではない位武道を習っても、以降は鍛錬もない彼に。女性でも鬼を敵に
回しては抵抗も虚しく。内蔵を破る程に殴られ蹴られ。鋭い爪で左肩を貫かれて、死に瀕
し。
「簡単には殺さない。お前が散々インチキと言い募った癒しの力で、奇跡の超聖水で傷を
治してやろう。何度も何度も傷つけては治してやろう。死ねば一度で終る苦しみを、何度
も何度も。お前が何度も何度も私達の記事を捏造して執拗に非難した様に。お前も苦しめ。
誰の助けもない中で、私が死ぬ事を許す迄」
夏美さんは傷つけた彼の右肩に触れ、体を賦活させ傷を塞ぎ出血を止め。流れ出た血は
戻せないけど、激痛や恐怖はなくせないけど。
「ぐふっ、ぐあっ」「ふふっ、いい気味っ」
深手はすぐに治らない。治る迄、傷口が完治する迄激痛は身を苛む。傷口が塞ぎ終る前
に再度開いたり揺さぶったりして、彼女は八木さんを執拗に虐げ苦しめ続ける事を愉しみ。
死ぬ程の苦痛が、死ねないが故に終らない…。
「インチキ、捏造、奇跡の超聖水、まさか?
お前、まさかあの、死んだ筈だと聞いた」
「想い出した? 親の仇の様に責めてくれたのに。次の標的に執心で、過去には興味なし
かい。でも。あんたに用はなくても、私は用があるんだ。踏みつけた側は簡単に忘れても、
踏みつけられた側は恨みを決して忘れない」
彼が青雲社や若杉を恨み妬んでいる様に。
「平民新聞の田辺も青雲社の野田も、松下も、評論家もテレビも新聞雑誌も全部憎いけ
ど」
『高さんは懸命に背景を探ったけど、誰も注目しなかった。マスコミは全部談合で繋って
いる。真相を雑誌新聞は報じない。法の裁きも期待出来ない。後はもう鬼の復讐のみ!』
夏美さんは、八木さんが持つ世間への鬱憤を恨みを憎悪を共有しながら。その憤りを彼
に向けても抱く故に。その手で彼を屠ろうと。
「ひい、いいぃぃぃ」「今こそ恨みを…!」
治りきってないその左肩を再度その手刀で貫こうと。夏美さんが腕を振りかぶった瞬間。
憎悪の怨嗟の憤怒の恨みの声が炸裂する瞬間。
「待って、殺さないで……不二、夏美さん」
関知と感応で緊迫を察して駆けつけたわたしが、羽藤柚明が。7階の廊下の隅から反対
隅の2人に向けて声を発し。この夜が夏美さん、否、夏美さん達と羽藤柚明の出逢だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏美さんの、真琴さん美琴さんの印象に羽藤柚明は、真弓さんに至らぬ娘と映った様で。
9年前鬼を阻んだ真弓さんは、大学1年生の19歳で、この夏のわたしは高校1年生の15歳。
美しさも背丈も胸の大きさも、当時の真弓さんに未到達で。勿論その技量は遙かに及ばず。
それでも、鬼を想定して護身の技を鍛え。
癒しの『力』を鬼を弾く程に集約させて。
血飛沫の舞う非常時にも冷静に応対する。
女の子の姿は真弓さんの像に被った様で。
しかもわたしは関知の『力』で初見の彼女を不二夏美と承知で。八木さんに伸びる鬼の
爪を止める為に、その名を呼んで彼女を止め。それを鬼は鬼切部の故に名前を承知と誤解
し。
『夏美先生の仇の仲間』『邪魔』『殺す!』
真琴さん美琴さんの敵意が、夏美さんの戦意を凌駕する。それは9年前、何も語らず姉
妹の前からの退場を選んだ真弓さんへの憤り。真実への手掛りを失い滾らせた姉妹の無念
だ。夏美さんもそれを抑えきれず解き放ち同調し。
「鬼切部の女には大きな借りがあってね!」
鬼の爪を屈んで左に躱して。それを追って跳ねる鬼の右足も、わたしは躱して回り込み。
八木さんを後背に庇う庇う姿勢で。憤怒を宿す鬼の一撃は、当たれば修練を経たわたしの
防御も砕く程だけど。当たらなければ何とか。
「待って。わたしはあなたと戦いに来た訳じゃない。話しを聞いて」「戯れ言をっ…!」
『この娘、あの女程ではないけど……早い』
『何なのあの小娘、鬼と冷静に対話して!』
『夏美先生を邪魔しないで、せんばの娘!』
ほぼ真っ暗な廊下の中央部で、息遣いと足音と、拳や蹴りに伴う空気の音が、交錯して。
「喰らえぇい……んん?」「今だっ……!」
わたしは、鬼の右足の前蹴りを敢て受け。
防ぐのではなく反動を使い、後方に飛び。
蹴った反動で鬼はすぐに動けない。わたしは空中で姿勢を立て直し、八木さんの間近に
着地して。その両肩を軽く触れて癒しを注ぎ。その身を賦活しつつ、心にも活力を戻させ
て。
「逃がすかあぁぁ!」「くっ……早い……」
迫り来る鬼にわたしは迎撃に前へ踏み出し。
鬼の右手の爪を、左首筋を掠らせつつ躱し。
懐に飛び込むと、右脇腹に左の掌打を当て。
贄の『力』を弾く効果にして、一気に流し。
「うがああぁぁっ!」鬼の絶叫が響き渡る。
強すぎる癒しは、鬼の体や心の制御を乱し。
同居する中原姉妹や他のみんなを動転させ。
他者から力を及ぼされるのは鬼も初体験だ。
非力に映るわたしの反撃は意外だった様で。
『あの娘、夏美先生に手傷を負わすなんて』
『殺してやる、先生の仇のせんばの女っ!』
激昂する真琴さん美琴さんを凌ぐ太い声が。
『待て、先生……あの娘、相当な使い手だ。
生前のオレの生身でも、勝ち目薄い程の』
彼は戦う人だけに敵の技量を確かに見定め。
『古川さん』『鬼を切る連中か。華奢で細身だが筋力も胆力もある。見切りも体捌きも技
量はオレより上だろう。その上鬼を倒す逆襲の【力】迄持っている。慎重に隙を窺おう』
オレが前面に出て戦っても良いが、と言いつつ及び腰なのは。鬼の肉体で女の子に戦い
勝っても嬉しくないとの、彼の美意識の故で。夏美さんも彼の申し出は断って。逆に彼は
夏美さんの『力』の扱いに不慣れな怖れがある。
『まずこっち側の体制立て直しじゃ。幸い娘に追撃の意図はない様だから、身の修復を』
『郷田組長、分りました』『先生頑張って』
夏美さんはその手を右脇腹に当て、自身の癒しを流し込み。羽藤柚明の贄の力を相殺し。
暫くは身の内に障りとして残る筈だったのに。時間稼ぎも兼ねた好手を、彼女は打ち消し
て。
「面白いわ、その力。私の力に良く似ている。癒しの力を強力にして、弾く効果を持たせ
て。お前も特殊な血を持つ私の同類?」「……」
わたしの注意が逸れたのは。斜め背後から八木さんの、シャッター音が届いてきた為で。
「ほぉう、これは面白い。良いスクープだ」
「八木さんっ。……写真なんか撮ってないで、早く逃げて。危ないのはあなたなのっ
…!」
『両者は守り合う関係ではない様ね。一方的にお嬢さんが助けに馳せ参じたと。そう…』
「ホラホラよそ見は危険だよ」「いつっ!」
鬼の爪の振り下ろしを、辛うじて致命傷にはしないけど。左の肩から肘の上迄を、縦に
ざっくりセーラー服ごと切り裂いて。贄の血が噴出し。追撃に繰り出される爪は躱すけど。
『やった先生!』『未だよ美琴、油断禁物』
『大振りは避け。攻めて動かし出血を誘え』
形勢は一変した。左腕は致命の傷ではないけど。応戦して動くので、出血を止められぬ。
生命を脅かす量ではないけど、血が減れば意識も保ち難く、血の『力』も減る。追い回す
だけで、鬼はわたしを失血多量に追い込める。
「八木さん、写真より自分の生命を考えて」
そんな中で尚続くシャッター音に、わたしは再度声を掛けるけど。彼の心には届かずに。
彼の心を占めるのは、特ダネになる被写体で。
『奴の記者根性は本当に死ぬ迄治らないね』
それを危ぶむ、羽藤柚明の動きが乱れ始め。
鬼の爪は勢いに乗って、制服や素肌を掠め。
回避に動き、堪えるだけで鮮血が流れ出る。
「はっははは。お嬢さんは写真に撮られる事が嫌いかい。そうだねぇ。私も新聞雑誌に追
い回されたから、気持は分るよ。私は最早どうでも良いけど。鬼と戦う可愛らしい姿が衆
目に曝されれば、人前に出づらくなるしねぇ。
明後日にはあんたの戦う姿が写った紙面が、全国の駅や書店に出回って。鬼と戦うお前
達の存在が秘密が、公になる。いい気味だっ」
あんたの血は特殊なんだろう。床に流れ落ちた血もこの返り血も、こうやって乾く迄に
舐めるか触れれば、相当の力になるんだろう。
彼女はわたしの零した血を足の裏で、返り血の血飛沫も素肌で吸収し。わたしの贄の血
が鬼に力を与え行く。わたしが彼女に与えた痛手は既に復せたか。事は悪化の一途を辿り。
「んん……良い感じ。八木、戦うお嬢さんの写真をしっかり撮って頂戴。私とセットでも
良い。私を葬った者達を、暴き立てて社会的に指弾できるなら、それも又復讐の一つ…」
「鬼はわたしを倒した後で八木さんも殺めて、写真だけ手に入れる積りです。早く逃げ
て」
『余り長く保たないと自覚している、鋭い。
八木が逃げてしまった後では、面倒かも』
「そっちに声掛けている余裕があるのかい」
夏美さんは逆襲を招く大振りは控え。わたしを左右に振って、失血を増やす攻撃に徹し。
「ほらほら、この侭血を吹き出して死に絶えるかい。鬼を切りに来たのではないのかい」
その鬼に、自ら切り刻まれてしまうかい!
「……つぁっ……、くぅっ……ぁっ……!」
『清冽に美しいわ』『お姉ちゃん、どっちを応援しているの』『でも、確かに引き締まっ
て整って躍動している』『亜紀さんもっ!』
『この追い詰められた状況で、冷静沈着に決定打を与えず、敗北を先へ先へ延ばし続け』
『並の使い手じゃねぇな、この娘』『ああ』
回避が追いつかず、制服を素肌を鬼の爪が掠め始めるけど。わたしの失血を取り込んだ
鬼は一層強化されつつあるけど。それでも敗北が確定する迄、羽藤柚明は意志を手放さず。
「流石にしぶといね。いい加減、死にな!」
鬼が必殺の爪を振りかぶった、その瞬間。
白刃の煌きが鬼に迫り、局面は一変した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
不二夏美は真弓さんに一度切られている。
鬼切部に単独行動が少ないと分っていた。
わたしを鬼切部と誤解した彼女は、優位の故に相棒の存在を考慮に入れる余裕があって。
わたしを追い詰めつつ脇に警戒も配っており。故に彼の白刃は、彼女に致命傷を与えられ
ず、その左腕を浅く傷つけるに止まり。彼もわたしの助けを優先して、敢てそうした様だ
けど。
鬼を背後から刀で斬りつけつつ、その脇を駆け抜けて、わたしの目の前で鬼を振り返り、
「お前の相手はこの俺だ。夜に蠢く鬼よ…」
歳は二十歳少し過ぎか。月光に照された狩衣姿は幻想的に美しく。怜悧な容貌は整って。
身長は百八拾センチに少し足りない位。手足も余り太い訳ではないけれど、均整が取れて。
『こいつ……強さの格が違うぞ』『先生、気をつけて』『あの千羽真弓に、近い気配…』
古川さんや郷田組長が、威圧されていた。
必死に闘志を燃やすけど、劣勢が悟れる。
「心配無用だ」「しゃああぁぁ……ぐいぅ」
語りかける片手間で、彼は鬼の爪を撃退し。
相手になってない。強さが違いすぎていた。
カラン、と乾いた音を立て。鬼の爪が指ごと数本、床に落ちる。刀の切れ味も凄いけど、
扱う彼の技量も同様で。指は再生出来るけど。
「鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽明良が、千羽妙見流にてお相手いたす。覚悟願おう!」
『せんば……この男も。あの鬼切り役の…』
その整った表情は冷たく透徹し。その気配は夏の夜の、空気の淀みを散らす程に清涼で。
「うぬ。鬼切部千羽党……やはりあの女の」
そこに割って入ったのはわたしの叫びで。
「気をつけて、明良さん! その鬼は少量でもわたしの血を、濃い贄の血を呑んで、格段
に力を増しています。ごめんなさい。わたし、彼女の痛み悲しみを分りたくて、聞きたく
て、お話ししたくて、倒せる機会を一度見逃し」
その鬼の名は不二夏美。かつて真弓さんが切った、癒しの力を持つ鬼です。報道関係者
を恨み憎み、わたしを覗き見ようと結界を破って侵入した八木博嗣さんを、狙って来たの。
「俺は鬼切部でもない者に、鬼を討って貰う期待はせぬ。血を得て力を増した鬼等、既に
多数切ってきた。お前の関与など事を左右せぬ。一般人は大人しく守られていて貰おう」
『この娘は、鬼切部ではない? 違うと…』
鬼切部は今宵顕れた彼女を、不二夏美とは知らなかった。知っていたのはこの娘1人だ。
そしてこの娘は最初から最後迄八木を守ろうとしたけど、鬼を切る気配はなく。刀を持っ
てないという以上に、倒そうとの姿勢もなく。動きは千羽に似ていたけど、発想の根が違
う。
「ご武運をお祈りします。どうかご無事で」
「ちえぇぇええぃ!」「ぬっ、はったっ!」
明良さんの攻勢は激しかったけど、彼はわたしを気遣って、わたしから鬼を引き離す事
を優先し。逃がしても追いつける積りだけど。今の夏美さんには気配を隠す特殊なお守り
が。
『致命傷を避け彼の視界の外に逃げ切れば』
夜の暗がりと月光は夏美さんに味方した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
様々な予想外の末に夏美さんは、八木さんを討ち漏らし羽藤柚明に止めを刺せず、千羽
明良さんの追撃の刃からは逃れ切り。元々真田記者を殺め、そのお守りを奪取出来た事で、
この日は成功であり。後の諸々は全て余録で。その余録の為に危うく生命を落しかけたけ
ど。
夏美さんは八木さんを傷つけ、その血肉を喰らっていた。常の人の血は余り鬼に『力』
を与えないけど。その想いや記憶を夏美さんは一部読解し。彼がわたしに抱く屈辱や欲情、
思惑や企みを知り、彼の現状や住所も知り…。
明良さんとの対峙で『力』を消耗した為に。
塚地さんの借りた部屋で死んだ様な休息に。
致命傷は回避出来ても、明良さん級の鬼切りは、対峙するだけでも鬼が消耗する。その
刀傷は唯の怪我ではなく。鬼の身も心も削る『力』を宿し、鬼の回復を阻み遅らせ。鬼切
り役の明良さんは、効果も並の者を凌駕する。
回復に努めねばならない以上に、彼女は昼間は余り動き回れない。夕刻を待って動く方
が効率良い。そう言う点では夏美さんは吸血鬼らしいのかも。棺桶に眠る事はしないけど。
夏美さんは羽藤柚明の血肉も喰らっていて。わたしの濃い贄の血は、鬼に強い『力』を
与えられる。特に彼女とわたしは同種の癒しの使い手で、わたしの方が幾つかの点で先達
だから。血に宿る想いや記憶を吸収し、わたしの技能を吸収すれば、回復は更に早く容易
い筈だけど。彼女はわたしの血に宿る心を隔て。
それは愛しい姉妹への配慮かも知れない。
『あのお嬢さんの血は、本当に濃くて美味』
『夏美先生……』『あんな小娘、敵なのに』
真琴さん美琴さんが、夏美さんのわたしに抱く印象が余り敵対的でない事に、微かに焦
りを見せるのは。夏美さんを慕うが故の愛しい嫉妬。夏美さんと姉妹の途を阻み、鬼を鎮
めようとする者への警戒。羽藤柚明は彼女達の仇ではないけど、姉妹には恋仇だったかも。
『敵、ではないのかも知れん』『野村先生』
野村さんや亜紀さんや、郷田組の多くにも、何故か羽藤柚明の印象はそう悪くない模様
で。特に郷田組の面々は、戦闘時のわたしの技量も評価し、仇でないなら戦いは避けるべ
きと。
『邪魔してこなければあんな小娘、あたし達は何の用もなかったの。挟まってきたのは向
うよ!』『復讐の場に鉢合わせたなら、再度妨げてくるでしょう。鬼切部と同様、遭わな
い事が最善だけど、次に遭ってしまったら』
『打ち倒さねばなるまい、心を鬼にしても』
『どうしても妨げるなら、敵になるだろな』
わたしの血に宿る心は、夏美さんの『力』で隔離され、みんなとお話しさせて貰えない。
視る事聞く事は己の感応の『力』で叶うけど。それは大本の羽藤柚明にも多少繋り届くけ
ど。
捕食した血に宿るわたしの心は、八木さんや真田記者の様に簡単に消えず。血の『力』
の修練は、血に宿る心も鍛え、鬼に呑まれても中々消化されぬ様で。吸われた時も、わた
しは恐慌に陥らず気絶せず、己を保ったから。わたしの心は、ゆっくりと消化されつつ尚
形を残し、夏美さんへみんなへ語りかけようと。それを夏美さんが許さず拒み隔て続ける
のは。
復讐に手を貸す事を望まない羽藤柚明の想いが、夏美さんの内に宿って。鬼の憤怒や憎
悪・復讐の意志に棹さす事を怖れて。真琴さん美琴さんの焦りも同様に。わたしの想いも、
記憶・技能を復讐に使われたくないと、己を律して隔て、溶け合わぬ様に努めていたけど。
『受け容れないならかき混ぜて消しましょう。呑んだ血は少量だから出来ない事はない
わ』
『形を残し続ければ隔てても、その内根付いて想いが混ざり合ってしまうかも知れない』
でも夏美さんはわたしをかき混ぜて消す事はせず。様々な技能を宿す記憶は捨て難いと、
夏美さんの『力』で隔てて尚様子を見る事に。羽藤柚明抜きで心身の消耗を復す事に徹し
て。夕刻には見つけた仇を討ちに行かねばならぬ。
「夏美先生、少し食べ物作ってみたけど…」
塚地さんの声は、鬼の心に届かなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
都心から電車で2時間掛る郊外の八木さん宅に。夏美さんが着いたのは夜も更けた頃で。
『奴の気配を感じる。それにこれはあの娘』
安アパートは空きが多くて生活感に乏しく。
鬼の感応は八木さん宅を容易く見つけ出し。
窓から室内を窺うと電灯の光の下で。気配は奥の部屋に幼子が1人睡眠中と、ベッドで
気絶している中年男が1人。八木さんだった。
「八木博嗣。見つけた。あの娘はいない…」
心臓か脳を壊せば仇は討てる。全て終る。
邪魔な娘や鬼切部はいない。人目もない。
でも逆に、彼は無防備に倒れて気絶中で。
無抵抗で簡単に過ぎる状況に心は萎えて。
仇を泣き叫ばせ、想いを叩き付けた上で。
処刑宣告するのでなくば心が収まらない。
『叩き起こして責め苛むか……面倒だけど』
周囲へと視線を移すと。彼の伏したベッドには、強いライトが当てられ。ビデオカメラ
が動き続けていて。何を撮ろうとしていた?
録画を止めて巻き戻し、最初から再生する。
八木さんが意識を戻したので、最後迄見る事は叶わなかったけど。中途迄で充分だった。
『この鬼畜は、己の生命を救う為に命懸けで鬼と交戦した女子高生を、その戦闘光景を公
表すると脅して、性交を迫ったと言うの?』
『非道さがヤクザを超えるぜ』『この外道』
野村さんや亜紀さんだけでなく。次に逢った時は、羽藤柚明をどう倒すか思案を重ねて
いた郷田組の面々や、真琴さん美琴さんに夏美さん迄、画像の中の八木さんを罵倒し始め。
鬼の内側に無自覚な侭殺意が充満していた。
そこで明良さんに殴り倒されて気を失っていた八木さんが、意識を漸く取り戻し。その
声は、夏美さん達の殺意のスイッチに繋った。
最早問答無用で鬼の爪は彼の脇腹を貫いて。
「ぐあああぁぁっ!」「パパああぁぁっ!」
古い木造アパートの2階で叫びが響き渡る。
わたしと明良さんが八木さんの危難を察し。
彼のアパートに駆け戻ったのはその直後で。
「又逢えたね、お嬢さん。それに千羽……」
明良さんの登場は予想外だった様だけど。
振り向いた夏美さんは、右手に要ちゃんの首筋を後ろから掴んだ状態で持ち上げていて。
「パパあぁ……」「娘を、娘を助けてくれ」
八木さんはその裸身を腹を鋭い爪に貫かれ、大量の血を迸らせて蹲りつつ、尚腕を伸ば
し。
「鬼め」「おっと、切るなら幼子諸共だよ」
刀を持つ明良さんに、夏美さんは幼子を盾にして。室内は狭く回り込めない。八木さん
の出血は、幼子にも生命が危ういと見て分る。
「お願い。要ちゃんを傷つけないで。今なら八木さんも生命は繋げられる。もう止めて」
「おねーちゃ、パパを、パパを助けてっ…」
「娘を、要を殺さないでくれっ。頼むっ…」
様々な想いが、言葉となって乱れ飛ぶ中。
「ふんっ。取材対象は好き放題に晒し者にしてペンで叩けても、己の家族は大事かい!」
お前は一体今迄何人の、取材対象の涙を踏み躙ってきた。お前は一体ここで何人、私の
仲間や同志を虐げ辱めてきた。お前は一体何度人の悲痛の涙で、己や娘を養い続けてきた。
夏美さんの弾劾は火を噴く様に鋭く刺さり。
「何が真実の報道だ。捏造証言ばかり載せて、権力を叩くと言いつつ裏でしっかり繋っ
て」
お前らを信じた者が、何人裏切られ涙してきたと思っている。何人がお前らを憎み恨み
つつ声を届かせられず、無念に沈んできたと。お前らマスコミは大嘘つきだ。悪の元凶だ
っ。
「お願い、もうこれ以上人を哀しませないで。幼子には罪はない……もう罪を重ねない
で」
『この娘は本当に、己が置かれた状況を…』
「甘いお言葉だね、お嬢さん。お前はこの男に犯されていたんだろう。昨日の写真で脅さ
れて。途中迄だけど画像は見せて貰ったよ」
その男を治す積りかい。明かされては拙い特殊な力を晒して、瀕死の傷を治す積りかい。
放置しておけば死ぬ。お前の悩みは黙って見ていれば消失する。逆に手を出せば出す程に、
お前の状況は悪くなる。その証を刻みつけて、いよいよ脅される中身を充実させるだけだ
よ。
「これはこいつの自業自得だよ。娘に罪はないけれど、因果な生れの所為だと諦めて…」
「要ちゃんの父を失わせる事は、断じてさせません! わたしはその為にここに来たの」
『彼女は幼子の父だからこの男を守ると…』
「せめて要ちゃんを置いて、ここを去って。
そうしてくれれば、わたしは彼を癒せる。
わたしにたいせつな人がいる様に、要ちゃんにも誰にもたいせつな護りたい人はいる」
たいせつな人を護りたい想いを、分って。
「たの、む……かなめ、には手を、出さ…」
八木さんの子を想う愛情も、本物だった。
だからこそ、元々愛情の深い夏美さんは。
「たいせつな人、守りたい人。私にもいたよ。愛しい人、庇い支えたい人が。そしてその
想いをみんな抱くと思うから、癒しの力を世に役立てたくて、奇跡の超聖水を始めたの
に」
微かに優しさを帯びた声は、一度沈み込み。
次の瞬間、くわっと見開かれた鬼の形相は、
「その想いを砕いたのはマスコミだ。その行いを壊したのはこいつらだ。折角集い慕って
くれた、同志の仲間の絆を断って、不審と疑念を割り込ませ、捏造報道繰り返し、偽りの
正義で善意を抹殺し。大切な仲間を同志を裏切らせ、晒し者にして、傷つけ引き裂いて」
マスコミが私の大切な物を根刮ぎ奪い去った。こいつらが、私の愛した守りたい者を!
その深い愛故に、その強い想い故に。反転すれば、その憎悪も恨みも憤怒も激越になる。
「その気持が分るからこそ。その痛み悲しみを肌に感じるからこそ。憤怒を叩き返せる今
は身が震える程に嬉しい。この身を焦がす憎悪を返せる今が、涙が零れる程に嬉しい!」
大切な物を喪わされる想いを、お前も感じて涙するが良い。どうやっても届かず護り得
ぬ己の無力に、砂を噛んで拳を岩に叩き付けるが良い。己の与えた想いを返されるが良い。
人の気持を分る故に、その悲痛を知る故に。
敢てそれを為す、それを選びそれを及ぼす。
『己を犯した男の子供を助けられるか小娘』
「要ちゃん!」「ひぶっ」「つああぁっ!」
明良さんが斬りかかったのは、鬼が要ちゃんを貫いたから。彼女は幼子を己を守る盾に
使う事も止めて。八木さんに恨みを返す為に、背中から腹を貫き、鮮血迸る幼い体を放っ
て。
「ざまぁみろ。娘共々地獄に堕ちるが良い」
わたしを押しのけ切り掛る明良さんから。
夏美さんは全力で逃げて暗闇に身を投じ。
鬼に変じる事が悲劇の極み・終結ではない。
鬼に変じた後にも更なる悲劇は生じて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
若杉のお守りを持つ夏美さんは、追っ手を振り切れば身を隠せたけど。前夜それで鬼を
見失った明良さんは、今宵こそと執拗に迫り。
自ら傷つけ、或いは明良さんの刃で傷つき散った血肉から、爪を持つ鬼の腕を再生させ。
彼を襲わせ時間稼ぎする夏美さんに。明良さんも『力』を込めた小刀を投じて、鬼の足止
めを試み。双方目的は叶わぬ侭、並走は続き。
逃げ走る夏美さんの前方に幅30メートル程の川が見えた。橋を探す暇はない。左右に進
路を変えればその瞬間に明良さんの刃が届く。鬼はその跳躍力で川を飛び越え、逃れよう
と。
「させない!」でも、明良さんも即断即決で。
川に向けて大きく飛んだ夏美さんを追って。
明良さんも夜の川に向けて、大きく飛んで。
空中で追いついて夏美さんの背中から刃を。
心臓に鬼切りの『力』を込めて突き刺して。
「うがああぁぁぁぁ!」鬼の絶叫が響き渡る。
揃って水面に落ちて行くけど。明良さんは夏美さんの背で刃を引き抜くと、鬼の硬質な
緑の肌を蹴って対岸へ飛び。心臓貫かれた夏美さんは、その反動で水面に落ちて沈み行く。
鬼と言えども、鬼切りの刃を心臓に受けて。
鬼切りの『力』を大量に流し込まれたなら。
手応えもあった。絶命したと思う処だろう。
夏美さんの屍は月明りの元でも浮んで来ず。
大量の血が水面を染めるけどすぐ流れ去り。
明良さんはわたしを気に掛けていて。大量の血が川面を染めた時点で、鬼は絶命したと
判断し。羽藤柚明の状況を見る為に引き上げ。実際夜の川を攫って屍を確かめるのは無理
だ。
「あがばばごぼぼぼ、おごぼぼばばぼぼ…」
でも夏美さんは死んでなかった。大ダメージを受けたけど。もがく程の体力もなかった
事がむしろ幸いした。対岸に泳いで渡ろうとすれば、必ず見つかって止めを刺されていた。
でも瀕死の深傷に違いはなく。化外の癒しも鬼切りの刀傷に弾かれて。むしろ傷口から
鬼切りの『力』が流入し、内部で鬼の妄執を洗い流そうと。手足に力が入らない。意識を
保ち難い。この侭溺れて滅ぶかと思えた時に。
『使うしかない。あの娘の記憶を、その想いも全て呑み込んで、従えて使いこなす…!』
わたしの想いの流入は、復讐を諫め抑える想いは、夏美さん達の在り方を否定するから。
彼女はわたしの心を隔て拒み。真琴さん美琴さんがわたしを嫌ったのも、恋仇と言うより
復讐を妨げると怖れ。でも事ここに至っては。
夏美さんは生前我流で、己の血に宿る素養を伸ばしてきた。それは師匠を持たぬ修練に
似て、効率が悪い。夏美さんは鬼になっても、郷田組長や古川さんを受け容れなくば、巧
い戦い方が出来なかった。同じ様に、千年の伝承を持ち『力』の扱いも修練も受け継がれ
た羽藤の、わたしの記憶や想いを取り込めれば。鬼の彼女は『力』の扱いも飛躍的に強く
なる。
そしてわたしの想いは、人を殺める行いや復讐には賛同出来ないけど。彼らの無念や憤
怒は理解出来るから。その生命が断たれる事は望まずに。差し伸べられた手は拒み通せず。
夏美さんの、みんなの生き続けたい想いに途を示す感じで、鬼切りの『力』を凌ぐ集約を。
長久に保つ持続を。深く染み渡る浸透を伝え。
見捨てられなかった。多くの人を殺め、罪もない幼子を手に掛けた鬼だけど。血塗れの
途を憎悪と恨みと憤怒で進む復讐の鬼だけど。この侭無念を抱き人の世を憎んだ侭滅ぶの
は。
鬼の復讐には手を貸せないと、血に宿る羽藤柚明からも、彼女達への協力助力を拒んで
きたけど。叶う限り記憶の浸透を阻んできたけど。それで鬼が滅べば、その身に囚われた
わたしの血に宿る心も、共々潰えると承知で。不幸を広げない為に、心鎖し続けてきたけ
ど。
解き放つ。今の彼女達は、見捨てられない。
その求めに願いに望みに応え、生命を繋ぐ。
それで鬼の復讐が、継続される事は承知で。
誰かの涙を、悲哀や喪失を招く末も承知で。
今の世の人権は生者にしかないらしいけど。
人が抱く想いの値に生者死者の軽重はない。
今後この鬼が犯す罪はわたしの罪ともなる。
故にわたしは鬼と共々切られて罪を購おう。
意識の中の仮想世界・真っ暗闇の無重力で夏美さんに、わたしの想いは身を預け、ひし
と抱き合い。想いも注ぎ記憶を全て明け渡し。多くない量の血に宿る想いは、既に崩れか
けており。この解禁はわたしの心の消滅に繋る。それは良い。承知でわたしは鬼に心を委
ねた。復讐を止め得なかった己の非力は悔しいけど。
「ぷはぁっ!」川幅が広がって流れが緩くなった下流の川岸で、夏美さんは夜明け直前に
至って漸く水から顔を出して、息継ぎ出来た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
体調を復するのに1日掛ったと言うべきか。
絶命の淵から復調迄唯の1日と言うべきか。
夏美さんは何とか陽が高く昇る前に、夏の日差しが強くなる前に。塚地さんの借りてい
る部屋に帰り着き。驚き慌てる彼に確かに説明する余力もない侭、死んだ様な休息に入り。
丸一昼夜を経て、漸く動き出せる様になり。
夏美さんは看病の礼を述べてから、出立を。
「無理です先生。さっき迄死んでいたのに」
「私は9年前から死んでいるの。安心して」
彼女は、羽藤柚明の心とも解け合ったから。わたしがどこで何をして、何を思い考え、
明日どうしようとしていたか、田舎に帰る予定迄概ね察し。今宵でなくば再会の機はない
と。
「私の生命を繋いだ彼女に礼を言わないと」
若杉のお守りを持ち歩いて鬼の気配を消し。
羽藤柚明の感応を応用し軽く『力』を纏い。
纏いつつ周囲に『力』を気付かせない様に。
不信を抱かせず。鬼切部の目もすり抜けて。
ホテル間近へ帰り着いたわたし達を迎えて。
「お帰りなさい、お嬢さん。待っていたわ」
わたしは手を繋いだ正樹さんを、半歩後方に下げて。豊かな女性の姿に進んで向き合い。
「回復したのですね。心臓迄切られたのに」
夜の帳は落ちたけど遅い時刻ではないから、道路沿いの店の灯りも未だ眩く。ホテル正
面の通りは、時折通り掛る人もいる。でも鬼の本性を隠した今は、彼女も人だった頃の細
身な体に整った容貌で。塚地さんが選んだラフな普段着で、傍目には不審も招かず招かせ
ず。
「お嬢さんから頂いた美味しい血のお陰よ」
立ち話も何でしょうと、夏美さんの提案で。
傍の喫茶店に正樹さんも含めた3人で入る。
叔父と姪が並んで夏美さんに向き合うけど。
彼女は叔父という存在を快く思っておらず。
真琴さん美琴さんの典久さんや、夏美さん春恵さんの宗佑さん等、余り良い事例がなく。
「あなたも、鬼の気配を隠す事が出来るのですか? 今のその印象は、前に二度遭った時
の鬼の形相とは、随分違う気がしますけど」
『時間稼ぎ。でも私の気配を鬼切部は追尾出来ない。宝くじ当選程の希望を期待なさい』
コーヒーをお願い。夏美さんはお店の人に普通の声音で注文し。でも話しの内容に聞き
耳を立てられぬ様に、周囲には彼女の感応が、聞き耳を逸らす様に巡らされ。一方で
『力』を行使しつつ、もう一方で『力』も気配も隠し通す。その扱いに驚きを見せる羽藤
柚明に。
「お嬢さんの血のお陰よ。あなた、鬼に目を付けられぬ様に、気配を隠す術を憶えたのね。
『力』を使いつつ気配ごと隠すなんて妙技も。廃ホテルで遭遇した一昨昨日の夜、あなた
から貰えた生き血は、本当に美味しかったわ」
「君は、柚明ちゃんを傷つけ、贄の血を!」
思わず身を乗り出した正樹さんの、額に鬼は指一本を突きつけて動きを止め。細身でも
成人男性を、指一本で抑える膂力は鬼の物だ。憤った正樹さんを一瞬で圧する気迫も同様
に。
「あなたは黙っていて。あなたはお嬢さんを縛る為の人質に過ぎない。付いて来るとの申
し出は、都合良いから許したけど。私はお嬢さんに話しがあるの。戦う力もない役立たず
が余り邪魔すると、弾みで殺しちゃうよ!」
『この娘は私に血潮を喰らわれ、想いを取り込まれ、その技能を奪われても取り乱さずに。
平静を保ち思索を紡ぎ。何を奥底に秘めているか読み切れない。脇の叔父は凡人だけど』
「ぐぅ……!」「叔父さん、心を柔らかに」
「戦う力もない凡人が首を挟めて。美味しい血もないけど、鬼切部への盾に出来る以上に。
軽妙さ俊敏さが戦いの要で、動きを止められる事が決定的な不利となるお嬢さんを縫い止
めてくれて。好都合だから今は殺さないけど、好んで足手纏いになる神経が分らないわ
ね」
大人とか子供とかじゃない、今ここは鬼と鬼に対応できる者の対峙なのと。彼女は正樹
さんの、成人男性のプライドを砕いて嗤って。羽藤柚明には語らう資格があると笑みを向
け。
「あなたから得た濃い血がなければ、一昨日あの男に心臓迄切られた私は、今も身動き取
れなかった。その侭死ぬ事はなくても、満足に動けない処を襲われたら、終りだったかも。
本当、美味しくて良く力になる生命の血…」
更なる欲して鬼の手がこの頬に伸びて触れ。
わたしは憤る正樹さんの太腿を抑えて鎮め。
「わたしの血を尚お望みですか?」「ん…」
『戦いに来た訳ではないと分っているのね』
「欲しいわね、鬼として。美味しかったから。
あなたの肌は柔くて滑らかだし、鍛えていても年頃の娘の肉は男と違う。その宿す血は
鬼の渇仰を招く程に甘美で、何より美しいわ。あなたを組み伏せて思う存分貪り尽くせた
ら。
女の私から見ても欲情を抱く程に可愛い」
鬼の糧になる以上に、あなたの血である事に値がある。あなたを貪る事に意味があるの。
鬼が欲しいと言う事は、奪うと言う事にごく近い。鬼切部に追われる彼女は、強い力を
欲している。鬼の目的を果たす為に、それ迄生き延びる為に。その力の源が目の前にある。
抵抗を踏み躙っても貪りに来て不思議はない。
夏美さんは正樹さんの警戒を分って無視し。
羽藤柚明の応対の底を見極めんと更に問を。
「望めばその血をもっと頂けるのかしら?」
「……贄の血を、差し上げても良いです…」
柚明ちゃん! 正樹さんが思わず大声出すけど、他のお客さんも店員さんも、こちらに
注意を向ける様子はない。夏美さんの術は尚効いている。取り縋る正樹さんを両手で宥め。
「大丈夫です、叔父さん。落ち着いて最後迄話しを聞いて……。わたしの血を上げるのは、
条件付きです。復讐を諦めて。あなたとあなたのたいせつな人を守る時以外、もう誰も殺
めないで。それを約束してくれるなら、この血をわたしが死なない程度、上げても好い」
『死なない限り血は多少減っても補いが効く。この娘の血はかなり濃い。今の私ならその
血をより有効に使いこなせる。傷を復したり生きるに必要な程度なら、その生命を絶つ程
の量にならないと。そこ迄この娘は見切って』
「この町にはわたしのたいせつな人がいます。
あなたの復讐の標的である報道関係者です。
別に一番の人を抱くわたしは、生命を抛って守る事が出来ない。鬼切部でない以上に技
量が及ばないわたしは、あなたを倒して守る事は叶わない。明日には愛しい幼子の待つ田
舎に帰らねばならない。あなたがたいせつな人に殺意を抱くと分っても、為す術がない…。
もしこの血を捧ぐ事で、復讐を思い留まってくれるなら。わたしも愛しい双子に人生を
捧ぐ為に、ここで生命尽きる訳には行かない。わたしに生命を残した上で、夏美さんが復
讐を思い留まってくれるなら。血を捧げます」
ダメだ、柚明ちゃん! そこで叔父が声を挟め。姪を案じ想う故に、翻意を促そうと…。
「鬼が約束を守るとは限らない。例えその気があったとしても、呑む内に甘さに酔って気
が変り、生命迄貪り喰らうかも。信用できない。柚明ちゃんの血を呑めば鬼の力は増大し、
血の減った柚明ちゃんの力が弱まる。力関係が不利に傾いた後では、抗う術がなくなる」
『叔父の言葉は概ね正解。でも娘の答は?』
「流石は大人ね。多少は思慮がある。でもお嬢さんもその位は、考えているのでしょう?
大切な叔父さんを守る為にも、あなたは間違えてはいけない局面にいる。味方と言えな
い鬼を信じて運命を委ねる程、愚かな子供には思えない……申し出に勝算があるのね?」
真琴さん美琴さん達も注視する中わたしは。
「大切な叔父さんを守る為に、わたしは間違えてはいけない局面にいます。味方と言えな
い鬼に、先に種明かしする気はありません」
『この娘は分っている。贄の血と共に、技能のみならず記憶や想い迄取り込んだ今の私が、
その甘さも交えていると。この娘の血肉を喰らえば喰らう程、鬼はその甘さ優しさを一緒
に多量に取り込んで、復讐に殺戮に踏み切り難くなると。鬼を内から崩しかねない事を』
震えが来た。この娘は血潮を呑まれる事で鬼を縛り制約し、支配し操ろうとして。食物
連鎖の一番下が、喰われる事で下克上を試み。
「話し合いも取引も、一挙一動言葉の端々が、鬼との対峙は生命懸け。分っているのね
…」
それは危険な賭だった。血の甘さに酔って鬼が暴走し、わたしの全てを吸い尽くす末も
あり。多量の血を取り込んで尚、鬼の憤怒が勝る末もある。でも鬼がわたしの想いに絆さ
れて、その生き方在り方を変える可能性も又。
「断るわ。惜しいけど……あなたの美味しい血を貰う代りでも、復讐を諦められはしない。
覚悟しておきなさい。あなたなら既に、大事な人には鬼切部を通して、逃亡か守りの措置
をしているのでしょうけど。私が鬼切部に討たれるのが先か、私が彼らを殺すのが先か」
「……わたしの血は……諦めるのですか?」
ええ。夏美さんは急に脱力した声になって。
既に冷めていたコーヒーに、口を付けつつ。
血を呑まない事が、彼女の拒絶の証だった。
「あなたを貪れるなら、それも好いと思ったけど……既に飲み過ぎかも知れないわ。あな
たの血に宿る想いが、心地良いというのは」
答が出された以上、ここに留る意味はない。
「一言、謝っておきたくて……お嬢さんを鬼切部と勘違いして、殺そうとした事をね……。
関係者だけど、お嬢さんは鬼切部ではなかったのね。自分を犯そうとした八木の生命を
救ったり、私に本当に血を与えようとしたり。奴らの発想じゃない。あなたの血を呑んで
その心を得て、感じてはいたけど。鬼を見ても怯まない挙動や、その身のこなしで、奴ら
だと誤解して。一度は鬼切部の女に殺された因縁もあるし。復讐を邪魔されたから、つ
い」
ごめんなさい、悪かったわ。勘違いで殺され掛けたあなたには、意味も薄いだろうけど。
これは私の自己満足。怒るか笑うかして頂戴。
彼女には羽藤柚明は、仇でも敵でもなくて。そしてこの時漸く思い返せたのは。不二夏
美は鬼になる前は、広く人に癒しの力を及ぼそうとした、甘く優しい善人だったと言う事
で。
「生命が喪われる前に、わたしがあなたの敵でも仇でもないと、分って貰えて良かった」
油断はしないけど、気配は少し和らげて…。
幻でも僅かの間でも、想いを繋げたく願い。
叔父が驚く前で、姪は鬼の両手を軽く握り。
「どこ迄も甘々ね。まぁ、そうでもなければ八木の娘は兎も角、八木本人迄救いはしない。
人だった頃の私も及ばない、愚かに近い甘さ優しさ。それに致命傷も治せる強力な癒し」
彼女はわたしの絡めた両手を、敢て外し。
『これ以上触れ合うと、本当に絆される…』
「他人事には思えないのよ。脇の甘さがね。
今の処鬼切部と敵対はしてない様だけど。
都合が悪くなれば、異能の持ち主はいつでも即座に排除される。誠を通せば通じる程人
の世間は甘くない。私があなたの血を呑んで心が繋った様に、あなたも私に血を呑まれて
心が繋った筈よ。私があなたを分った様にあなたは、私がどの様に心折られたのかを…」
癒しの『力』を持ち人に役立てる事を望む。
その甘さ優しさ・強さ清らかさが分るから。
「私にはあなたが私の後を辿る様が視える。
限界を超えて軋んだ末に心裏返る瞬間が」
夏美さんにはわたしを殺める積りはなく。
この血を奪いわたしを貪る積りさえなく。
唯幾つかの心残りを精算したかっただけ。
「私が人だった頃に逢えていれば。あなたに力づけて貰えたかも知れないし、あなたを助
け支え導く事出来たかも知れない。残念ね…。
鬼である今の私が示せるのは鬼への誘いか、この道を辿らぬ様にと敢て見せる鬼の途だ
け。お嬢さんは鬼に向けても途が開けているわ」
「だからあなたが鬼切部側の、今の私には敵方にいる者だと承知で、一言遺しておくわ…。
たいせつな人を喪った悲憤で鬼になる位なら、たいせつな人を喪う前に、守り庇う為に
鬼になりなさい。あなたにはその資質もある。
力及ばず守り通せなかったとしても、諦めが付くし……仮に守り通せたなら、自分が切
られて終っても得心できる。私はそれに気付くのが少し遅かったから、たいせつな人を喪
った後に憎悪と憤怒で暴走して鬼になった」
そこにはどれ程の痛恨と悲哀が宿っているのか。語り終えると背を向ける。その侭去り
ゆくと視えた夏美さんをわたしは一度、後ろからその左手に、両手で取り縋って足を止め。
「あなたはどうしても、復讐を止められないのですか? 虚しいと承知で、最早得る物は
ないと分って、鬼切部に追い回されて切られると承知で。それでも思い留まれないの?」
今の侭では、余りにあなたが哀しすぎる。
せめて今からでも前を向いて生きる事は。
わたしの問に、彼女は諦めを宿した答を。
「もう私の意志では、止められないのよ…」
『この娘は、今の私が多数の集まりと分って。彼らの憤怒や憎悪に突き動かされて、捨て
置けなくて顕れたと。己の復讐ではなく、慕い案じた者に責任を取る為に、甦った鬼だ
と』
あなたなら分っているのでしょう。分った上で、尚縋ってくれる。あなたを殺しかけた
私を想う故に。あなたは本当に愚かな程甘い。
『人で居た時に逢いたかった』『夏美先生』
夏美さんはもう、後ろを振り返る事はせず。
背中越しに届く声音は、深い哀傷を宿して。
「もう二度と逢わないわよ。次に逢った時は、美味しい血の詰まった袋として貪り喰ら
う」
振り払って歩み出す彼女をわたしは追わず。
これが限度だった。彼女とわたしの関りは。
わたしに、彼女の絶望を救う事は出来ない。
その復讐を狂気を止めて終らせる力もなく。
わたしが彼女に出来る事はもう、何もない。
だからせめて最後にわたしも想いの限りを。
「いつの日か……あなたの無念や憎悪の炎が、鎮まる時の来る事を、心から祈っていま
す」
それは復讐の完遂か、鬼切部による抹殺か。
静かな最期が望み難いと、確かに視えて尚。
僅かでも鬼の充足を、望み願う優しい娘…。
月の輝きが冷たくも思え、救いにも感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
人気のない夜の路地裏で、夏美さんは明良さんと相方の楓さんに追い詰められ。若杉の
気配を隠すお守りを持ち、血の匂いを隠す技能も憶えたけど。鬼切部は鬼の行動範囲を絞
り込んで、彼女のアジトを突き止めに掛り…。
夏美さんの動向は、見切られ始めていた。
「楓、無理せず鬼の足を止めろ。敵は切っても切っても傷を復してしぶといが、技量は余
り高くない。足を止めれば」「承知です!」
ぐう。白い狩衣を着た楓さんの鋭い薙ぎを何とか躱すけど、太腿を浅く切られると鬼の
移動速度が落ち。浅い傷でも鬼切りの『力』が込められ、想像以上に気力体力が削られる。
「よし、追い詰めたぞ。まだ気は抜くな!」
「はい!」「足が……跳躍の脚力が足りぬ」
明良さんは、夏美さんを刃で何度切っても、身を呵むだけで致命傷にはなりがたいと知
り。その身を復する『力』を、倒れても倒れても立ち上がり甦る想い・執着を切るべきと
考え。
疲弊した今の夏美さんは回避出来ない。否。
回避不能、防御不能なのが最大最強の業だ。
「心の不浄・妄執を洗い流せ、哀しき鬼よ」
明良さんは肩幅より広く足を開き、空気椅子の様に腰を落す。背筋はぴんと真っ直ぐ
で、刀を右肩に担ぐ様にして。その構え・破軍をわたしは、真弓さんから見せられ知っ
ていた。向い挑めば必ず破れ、背にすれば必勝を約される破軍星を象った構え。その時
真弓さんが出した技は『魂削り』だったけど。これは異なる。形は同じでも込める力の
桁が。これは。
『千羽妙見流が名を頂くのは、人の寿命を司る北辰・七星の神。その振るう太刀は肉体
ではなく、魂その物を断ち切る。そして鬼とは死者の魂、即ち『キ』を示す言葉でもあ
る』
「行くぞ、千羽妙見流奥義『鬼切り』っ!」
明良さんの両足が地を蹴った。
正に神速とも言える踏み込み。
その踏み込みによる勢いも、足先から指先に至る全身の力も、千羽党鬼切り役の明良
さんの全てが余す事なく乗せられた秘剣が閃く。
『間合いが、少し遠い……否、届く……?』
間合いは遠く、刃は届かず、それでは素振りに他ならず。寸前まで、わたしにもそう
見えた。目で見る限りそうとしか見えなかった。
だけど。
剣先から延びた不可視の『力』は鬼に達し。刀の隅々迄力を通わせ、剣先迄それを満
たし、溢れさせ。溢れ出させたそれを意志を持って紡いで強く束ね、相手の魂に向けて
叩き付け。
『使い手の技量次第では、魂についた濁り……すなわち鬼のみを、切ることも出来る
…』
その一撃に込められていたのは、肉体的な力の全てではなく、気や魂といった精神的
な物迄を含めた、明良さんの蓄積の全てだった。
その証拠に、振り切ると同時に彼の体から、体力以上に意志が抜け。今彼を包むのは
物凄い脱力感だ。それでも明良は足を踏ん張らせ、己の為した成果を、夏美さんを見届
けようと。
「があっ、ああ、ああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
鬼はそれを、躱せなかった。防げなかった。
膨大な鬼切りの『力』を額から注ぎ込まれ。
身の内を凄まじい激流が押し流し洗い清め。
『滅びる、消される……みんな、祓われる』
わたしの血を得た位では、夏美さんの技量では、彼女に集った死霊の想いでは、鬼切り
は止められない。耐えきれない。消され行く。彼女に宿る鬼の心・妄執の仲間は1人残ら
ず。
夏美さんも最期と諦めかけたその時だった。
鬼切りの効果に対し前面へ挑み飛び出して。
『くそおおぉぉ!』鬼切りの効果に抗う魂は。
「ツヨシさん……!」『ツヨシ、お前っ!』
『この侭ここで、消されて終れるかぁっ!』
俺が10年前奥多摩の施設で暴走してなきゃ。
今頃みんなはこんな状態になってなかった。
俺が郷田組にも夏美先生にも迷惑を掛けた。
俺の所為でみんなこんな状態になったなら。
生命張って踏ん張って少しでも罪の償いを。
『俺の妄執は、獄門会や宗佑やマスコミへの復讐じゃねぇ。俺の妄執は、俺が夏美先生の
足を引っ張って、その願いを壊すきっかけになって、遂に何の挽回も出来なかった事への
悔いなんだ。だからせめて先生の復讐に添いたかった。何かで先生に役立ちたかった!』
でもツヨシさんの魂の最期の輝き程度では。
明良さんの千羽党の最強の業は止められず。
『くっ、くそっ。ダメか……俺の力量じゃ生命を賭けても、届かないってのかよぉっ!』
その時だった。消え行くツヨシさんの魂を支え守る様に、鬼切りの前に立ち塞がるのは。
『諦めるな、ツヨシ。ワシが付いておる!』
『オヤジ(郷田組長)』『一緒に逝くぞ!』
郷田組長はツヨシさんと違い歴戦の人物で。
その魂の在り方は遙かに強く確かで。更に。
『オヤジ、俺も』『ツヨシ待ってろ』『オヤジ達を見捨てられねぇ』『死ぬ時は一緒だ』
郷田組の死霊が次々と、真琴さん美琴さん、野村先生や亜紀さんを守る様に。食い止め
ようと前面に出て、肉弾で鬼切りにぶち当たり。
『鬼を祓うというなら祓えば良い。俺達が祓われてやる。だが夏美先生には届かせねぇ』
『おうよ!』『死に物狂いの気合を見せろ』
「そんな……郷田組長。ツヨシさんもサトシさんもノリさんも、みんな、みんなっ…!」
明良さんが目の前で瞳を見開いているのは。
鬼切りが当たって効果を上げているのに尚。
夏美さんが鬼が中々妄執潰えずにいる為で。
『夏美先生には、本当に申し訳なかった…』
郷田組長は鬼切りに鬼の妄執を切り払われ清められ、抱いた憤怒・無念や憎悪・恨みか
ら解放されつつ。受け容れて笑みを浮べつつ。
『夏美先生の理想に心動かされ、役に立ちたいと関ってしまった。それが先生にとっての、
奇跡の超聖水にとっての凶運だったのかも知れぬ。世の影に潜むべき我らが、先生の願い
を届かせる役に立てると関った為に、この末を招き。本当に済まなかった』『郷田組長』
夏美さんは知っている。美琴さん真琴さんも、亜紀さんも野村さんも。隆正氏を初め郷
田組は皆、ヤクザとしてではなく同志として、他のみんなと同じく、夏美さんの癒しを広
めたい想いに共鳴し、助力に集ってくれたのだ。失敗し死した後迄、魂の滅ぶ最期迄尽力
して。
郷田組長は郷田組全員の飛び出しは認めず。
『ヨシ(古川義則)、お前はゲンやヤマと共にもう少し夏美先生の元に残れ』『親父…』
『ワシらが防ぎ止め得なかった時は、お前達が先生達を生命で守り通すのだ』『押忍!』
郷田組の死霊の半分位が、自殺を望むかの様に隆正氏とツヨシさんを先頭に、鬼切りの
『力』に当たって散らされ。祓われつつ清められつつ、鬼切りを完遂させ、消耗させて…。
猛烈な脱力感は、気力を削がれた故の物。
生き残れた魂にも、鬼切りの余波は及び。
甚大な痛手に息も出来ない程苦しいけど。
苦しみ傷む生命が体が鬼には尚残されて。
明良さんの鬼切りは、夏美さんに宿る多くの妄執を打ち祓ったけど。全ては祓いきれず。
こんな事態は、鬼切りを編み出した千羽の先達も想定外だろう。明良さんは鬼の間近で気
力体力を使い果たした状態で、身動き取れず。鬼は多くの仲間を喪った悲憤に突き動かさ
れ。
「喰らえっ!」鬼の爪が無防備な明良さんの。
「明良様ぁ!」左脇腹に深く突き刺さる瞬間。
楓さんの刀が夏美さんの右腕を肘から断ち。
明良さんは、辛うじて傷浅くて済んだけど。
鬼切り直後の脱力に加えての深傷で動けず。
楓さんは最愛の人の生命を優先して、鬼を追わず。たいせつな人の危急に寄り添い支え。
「明良様、しっかりして。明良様あぁぁ!」
鬼は右腕の再生も出来ぬ侭に夜を逃げ走り。
夜の闇の、向うを見渡せる者は未だいない。