鬼を断つ刃〔丙〕(前)
羽藤柚明高校1年の、夏休みも半ばを過ぎ。
若杉と千羽党の要請に応えて、真弓さんが。
この案件限定で鬼切りの使命に現役復帰し。
羽様のお屋敷を出立して2週間目に入った。
「桂ちゃん、白花ちゃん?」「「zz…」」
左右でわたしと肌身重ねた幼子に答はなく。
わたしに寄り添い天使の寝顔で夢見の園に。
笑子おばあさんもいない古い屋敷は閑静で。
正樹さんはコラム執筆に奥の部屋へ籠もり。
幼子が邪魔に行かぬ様にわたしが見守って。
微かな心細さを自覚させぬ様に肌身を重ね。
『わたしの一番たいせつな、愛しい幼子…』
午後2時のお屋敷は作りが古く所々薄暗く。
真弓さんやサクヤさんの不在で広々と感じ。
「ゆーねぇ、おかあさん」「かえて来たよ」
早く帰るから、大人しく待っていてという。
母の言葉を信じて2人は弱味を見せぬけど。
泣きもせず乱れもせずに日々を過ごすけど。
漏れ聞える寝言がその寂しさ心細さを表す。
『真弓さんに懐かれる夢を見ているみたい』
わたしに縋り付いてその感触を母と錯覚し。
幸せそうな満面の笑みを見てわたしは逆に。
申し訳なさ切なさでこの胸が締め付けられ。
こんな偽物しか提供できずごめんなさいと。
『女性としての成熟も、美しさ大きさも遙かに劣る、わたしの様な物しかなくて。でも真
弓さんが居ない今は、すぐ渇仰を補う術のない今は、偽物でも夢で2人が満たされる今は。
その喜びを霧消させぬ為にこの嘘を許して』
真弓さんの代打になれた増上慢など、抱く筈もないけど。真弓さんの代打の資格もない
事は承知で。他に女性の柔らかさを提供できる者がいない今は。偽物でも愛しい幼子に安
らぎを。2人が望む夢見を『力』で導きつつ。
「フェンシング世界選手権の女子フルーレ優勝・準優勝選手が、揃って病院送りです…」
正樹さんが消し忘れた居間のテレビから。
お昼のワイドショーの音声が漏れ聞える。
フェンシング世界選手権で、日本人で初めて準優勝した『奇跡の女剣士』山田里奈は29
歳で、真弓さんより2つ年上だ。日本はフェンシングが盛んでないので、優れた選手が現
れ難く。男女共世界のベスト8に入れてない中で、この快挙は歓呼で迎えられ。整った容
貌や見事な肢体も注目を浴び。和泉さんにも、わたしとどっちが強いか、訊ねられたっけ
…。
男性選手の成果のなさをあげつらう言動が話題になり。ファースト警備保障に広告塔を
兼ね、高額年俸で雇われて話題になり。幼少時の虐めを剣術に励んで乗り越えた経験から、
強くなる事での虐め克服を訴えて話題になり。
最後は突如、講演も仕事も抛って豪邸に引きこもり。インターホンで声を返す以外には、
何かに怯える様に、誰の訪問にも姿を見せず。この半月後、説明もなく引退して話題にな
る。競技者としてはまだ引退の年齢ではないけど。
その山田里奈を破って優勝したアンドレーア・アマナールはルーマニア人で26歳。先月
から日本を訪れており。『世界最強の女剣士コンビ』と謳われ、揃ってフラッシュを浴び
ていたけど。数日前の夜、2人揃って病院送りになり。アンドレーアは翌週、ケガの完治
を待たず母国へ帰り。何かに怯えるかの様に。
『……真弓さんや夏美さんが、関っている』
その経緯に不明な部分が多く、報道陣も立ち入れず。動静も窺い知れぬ事が疑念を呼び。
アンドレーアはともかく山田里奈は過剰な程、人前で強気に挑戦的な言動を見せていたか
ら。
日頃様々な裏技を使い、時に法を犯しても顔写真や肉声を拾う報道陣が、病院を囲むだ
けで手を拱くのは。里奈の雇い主ファースト警備保障を核とする松中財閥が。出版社やス
ポンサーに圧をかけ、報道や取材を抑え込み。警備厳重な系列病院に世界最強の女剣士を
収容し守っている為とか。若杉程でなくても権力者や資産家相手なら、マスコミは怯む様
だ。
一般の警備員の残業代を踏み倒し、その資金で里奈に高額年俸を払ってきた松中財閥は。
広告塔たる彼女の積極的なマスコミ露出を進めてきた。フェンシングと関係薄い水着運動
会や歌番組や握手会に。その彼らが里奈を人前に出さないのは、出せない状況と言う事か。
「……りーな(山田里奈)とアマナールが救出された路地裏は、町の不良が屯する一角で。
2人が病院送りになった夜は、30人近いけが人も同時に収容されたとの未確認情報もあり。
警察も容態の好転を待って、事情聴取を…」
「学生を前にした虐め克服の講演で、強くなって戦って勝てと言い放ち。街中でも痴漢や
スリ相手に実力行使を躊躇わず。暴走族と乱闘になって、警察に注意された事もありまし
たね。一応あの時は、美談扱いでしたけど」
「正義感の侭に不良の群に分け入って、返り討ちにあった? 仮にも世界で2番に強い女
剣士と、世界最強のタッグですよ。まさか」
「幾ら強い強い言っても、所詮は女だしね」
テレビでは本人情報がない代りに、周辺情報を司会者やコメンテーターが、推察と解析
を交えて語り。幼子に寄り掛られたわたしは身動き出来ず、テレビを消しに行けぬ侭その
音声に耳を傾け。関知の『力』が何か感じる。この件が、真弓さんや夏美さんに関ると分
る。
贄の『力』の修練で備わった感応や関知が。
己と何度も肌身を重ねた真弓さんの動向を。
己が宿す贄の血を呑んだ夏美さんの動向を。
遙か遠方の羽様に居るわたしに視せて報せ。
「おかあさ、んおかえり」「おねいちゃ…」
わたしに視えてしまう真弓さんの戦う像を。
双子には視せぬ様にしっかり分けて隔てて。
鬼切りは幼子に視せるべき映像ではない…。
視せるのは心安らぐ穏やかな真弓さんの像。
『でも、わたしは、羽藤柚明は視なければ』
わたしは両者の戦いに既に骨絡みだ。夏美さんには贄の血を呑まれ強大な『力』を与え。
夏美さんの討伐に、真弓さんが為景さんと羽様を出立する時には、武運を祈るのみならず。
視えた限りの鬼の情報・戦い方も進言し。どんな決着を迎えても、最早この手は血塗れだ。
【真弓さんと為景さんにご忠告申し上げます。
不二夏美に対し鬼切りは使わないで下さい。
彼女に対して鬼切りは不適切な技です…】
わたしは明良さんに最善を尽くせなかった。その時は分りきれず、時間を掛けた思索や
夢見で、漸く悟れた事もあったけど。首都圏にいた間に、全てを伝える事は無理だったけ
ど。
でも、わたしが最善を尽くせなかった末に。
視ようと思えば視えた像を怠惰で遅らせて。
明良さんの負傷や危難が生じたとするなら。
もう二度とそんな事は。真弓さんにだけは。
【貴女も真弓殿の強さは分っている筈だ。鬼切りも、扱う剣士の強さに応じて威力が違う。
明良様も強者だったが、真弓殿がそれを更に凌ぐ事は、貴女もご存じの筈……その真弓殿
の鬼切りも、奴には通じぬと言われるか?】
為景さんの訝しげな問は無理もない。鬼切りは千羽の必殺技だ。鬼が視るのは絶命の時
で、わたしも真弓さんが振るう様を見た事はなく。関知の『力』で過去に振るった様を視
ただけ。とても『知っている』とは言えない。
でも、わたしは逆に夏美さんを識っている。
鬼切りを受けても、彼女が滅びない事情を。
明良さんの鬼切りを受けても、夏美さんは絶命せず反撃し、逆に彼が手傷を負わされた。
その故に為景さんが遙々羽様へ、真弓さんの助力を求めに訪れた訳だけど。わたしの言葉
は彼には、元の情報に便乗して聞えたのかも。真弓さんも正樹さんも見つめる前でわたし
は。
【力量なら明良さんの鬼切りも、不二夏美を倒して余りある。問題は相性です。全てを注
いだ一撃必殺の業だから、放った後が無防備になる。一撃で倒せなかった時に危ういの】
【確かに、明良の鬼切りが当たっても、夏美が反撃してきたから、明良は傷を負わされた。
つまり、強さが足りないのではなく、業と鬼の相性が良くない。そういうことなのね…】
真弓さんはわたしと肌身重ねた一夜を経て。
わたしが識った今の夏美さんを識っている。
9年前に切った鬼とは異なる、今の彼女を。
【真弓殿?】【柚明ちゃんの見立ては多分正解よ……夏美を滅ぼすなら鬼切りよりも魂削
りの方が良い。と言うよりそれで充分。為景さんの魂削りで、彼女は滅ぼせるわ。でも】
真弓さんは、甦った鬼の夏美さんを識った。
わたしを通じてわたしの血を呑んだ彼女を。
だからその手で切らねばならぬと意を決し。
【彼女はわたしが来るのを、待っているわ】
わたしは大事な羽様の家族の守りを託され。
幼子や正樹さんと、愛しい人の帰りを待つ。
でも羽藤柚明は真弓さんと深く肌身を繋げ。
夏美さんにこの血を呑まれて、心が繋って。
遠く離れた羽様でも2人の関る様が視える。
生命を想いをぶつけて2人が戦い合う様が
幾ら視えても、わたしに為す術はないけど。
だからこそ、せめてわたしは全てを視ねば。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『……なつみせんせー、なつみせんせーっ』
それは夏美さんの心の内側に響く声だけど。
夏美さんから発された想いとは異なる物で。
【これは夏美さんと心繋げた女の子の想い】
夏美さんの体の内に、別の誰かの魂がある。
羽藤柚明の血と共に、心の一部が宿る様に。
羽藤柚明と不二夏美が血の受け渡しで心繋った様に。羽藤柚明と羽藤真弓が肌身を重ね
心も深く繋げた様に。今の鬼が、真弓さんに切られた9年前の彼女と異なる部分はここに。
夏美さんに血を呑まれ心繋った今のわたしは。彼女と心繋げた女の子の心も悟れ。私は
不二夏美、わたしは羽藤柚明、でもあたしは。
『……なつみせんせー、なつみせんせーっ』
夏美さんに宿る女の子の記憶を想いを、わたしも彼女を通じて視る。最早変え得ぬ確定
した過去を。真弓さんに切られた彼女が、9年を経たこの夏に甦った因は、彼女よりもむ
しろここにある。彼女は9年前の鬼とは違う。
『初めまして……真琴さんと、美琴さんね』
それは幼い姉妹が坂本医院で、初めて夏美さんと出逢った時の印象か。西日の差し込む
雑居ビル4階の診察室で。美琴さんは6歳で、真琴さんは8歳で。夏美さんは准看護師と
して半年の新米19歳で。でもその美貌と特異な技能は人の噂を呼び。坂本医師の傍らで
『おまけ』に為す癒しの技が着目された頃だった。
真琴さんは生来の難病で病院通いが常態で。
養父典久氏は、半信半疑ながら希望を求め。
姉を慕う妹が寂しがらぬ様に、一緒に伴い。
それがこの一家の命運を分つ判断に繋った。
中原美琴さんは享年二十歳で、わたしより4つ年上で。姉の真琴さんはその2つ上で享
年22歳だ。幼少時に二親を喪って母方祖母に引き取られ。母の弟である典久氏とも同居し、
祖母の死去後2人は典久氏に養われ。典久氏の妻菊子さん、夫妻の実子で真琴さんの1つ
年上の竜太君、美琴さんの1つ年上の虎二君の6人家族で。生い立ちや『力』を宿す血に
生れた定めも。夏美さんやわたしと似通って。
『なかはら……まことです』『みことです』
【夏美さんは……勘付いたのね。真琴さんと美琴さんの姉妹が、《力》を宿す血を濃く受
け継いでいて、その素養を秘めている事を】
真琴さんの病は、現代医学では治療法の未確立な難病で。今のわたしの癒しでも届かず。
夏美さんも悪化を止められず。悪化の加速も止められず、加速を鈍化させるのが精一杯で。
詩織さんの病に似ていた。血に宿る病原が全身を巡る為に、患部を外し他の賦活を望む
事も難しく。現代医療は患部を攻撃する際に、周囲の健全な処にも痛手を与え、真琴さん
を損なう。夏美さんの癒しは患部以外の賦活を促す際に、患部にも癒しが及び病を賦活さ
せ、真琴さんを損なう。放置すれば病は進み行く。
この時は、真琴さんの幼少時は、子供が大人に成り行く成長の力が働いて。夏美さんの
癒しと加えて、病の成長を上回って、何とか均衡・小康状態を、保てていたけど。でも…。
【それ以上に夏美さんは《力》を宿す血を持つ姉妹を捨ておけず。典久さんも《力》はな
いし。菊子さんも他家の人で事情を知らず】
真琴さんだけではない。美琴さんも姉と同様『力』の素養を宿す。2人が養家家族に心
鎖していたのは。『力』を持つ事を知られては拙いとの、異物の意識を無自覚に感じてか。
学校に友達が出来ないのも夏美さんに同じ。わたしは笑子おばあさんの導きと恵まれた
環境で、お友達と心繋げたけど。導く人がいなければ、人は必要以上に怯え萎縮してしま
う。
だからこの出逢いは、姉妹の人生を変えた。姉妹は勘で気配で彼女を同胞と感じ。望ん
で好んで肌身を預け、張り付き縋って身を重ね。夏美さんも幼い姉妹の柔肌を、好んで愛
しみ。
典久氏も姉妹をお荷物に感じていても、実子と同等には愛せずとも、阻害してはおらず。
夏美さんが邪魔にせず美琴さんも喜ぶならと、真琴さんの治癒には妹を同伴し。他者に心
を開くきっかけになってくれればと、望み願い。
2、3ヶ月毎に大学病院に行く一方で、夏美さんの癒しを受けて。真琴さんの病は小康
状態を保ち。姉妹の心の状態も改善し。漏れ出る血の匂いを、夏美さんが矯正し隠すので。
鬼に見つかる怖れも減り。不用意又は無意識に『力』を使って、人に見られる怖れも減り。
『なつみせんせい。昨日はね、お姉ちゃんと……』『それ、私が言おうと思ってたのに』
美琴さんが先に話すと、真琴さんが頬膨らませ。真琴さんが順を追って話そうとすると、
美琴さんが焦れて言葉を挟み。でも夏美さんに左右から抱かれると、2人は揃って笑顔に。
その柔らかな肌触りや肉感に身も心も委ねて。
真琴さんや美琴さんにとって、夏美さんは姉の様な母の様な存在であり。夏美さんにと
っても自身と似た境遇の幼い姉妹は、捨て置けず。唯の癒しとは異なって、唯その身に触
れるのみならず、心も重ね合う関係になって。
いつ迄もそんな幸せは続くと思っていた。
ずっとこの日々は終らないと思っていた。
『……しんりょうじょ、やめちゃうの…?』
『なつみせんせい、いなくなっちゃうの?』
真琴さんも気懸りでいると分る美琴さんは。
漸く心開ける人に逢えたのにという想いが。
穏やかに愉しい日々が失われそうな予感が。
美琴さんの喉を胸を突き動かして答を求め。
『大丈夫。私は、居なくなりはしないから』
『私は看護師の仕事でここに勤めて、真琴さんや美琴さんと知り合ったけど。出逢いのき
っかけも今のお付き合いも、お仕事だけど……今は仕事抜きで、2人を大事に想っている。
真琴さんや美琴さんが、私を想ってくれる気持が分るから。私もあなた達をたいせつに』
踏み込んだ答だった。出逢いのきっかけは仕事でも、今たいせつに想う気持は仕事抜き
だと。仕事上の関係がなくなっても、繋りが切れる事はないと。幼子が問いたかった真の
問を察し、幼子が欲していた真の答を返して。
見つめてくる2人の瞳を、交互に見つめ。
真琴さんの左肩と美琴さんの右肩を抱き。
『私はいなくなりはしない……求めてくれる限り、私はあなた達の前に必ず現れる。約束
するわ。望まれる事が、望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。
看護師を続けるかどうか、この診療所に居続けられるかどうかは別として、私は私を好
いてくれたあなた達2人を、大好きだから』
『なつみせんせいっ!』『なつみ先生…!』
願い続けて、答を勝ち取った美琴さんも。
問いたい想いを、堪えていた真琴さんも。
歓喜に瞳潤ませて夏美さんに肌身を寄せて。
夏美さんは幼子の柔らかな感触に目を細め。
それは幼子2人が母性を欲し求む以上に。
夏美さんが悲運な幼子の喜びを叶えたく。
姉妹と夏美さんの、運命の分岐点だった。
この時夏美さんが『奇跡の超聖水』を結成しなかったなら。或いは半年遅らせていれば。
姉妹と夏美さんは、別々の定めを辿っていた。
団体を立ち上げず、次の勤め先を探さねばならぬ彼女に、他者を気に掛ける余裕はなく。
典久氏は真琴さんを、大学病院に入院させた。仮にその後で夏美さんが癒しの力を核にし
た団体を作って飛躍させても。納入済の入院代や決定済の治療工程、人生設計はやり直せ
ず。両者の定めは今の様に深く絡む事はなかった。
夏美さんは或いは誰の為よりも、真琴さん美琴さんの為に、あの団体を発足させたのか。
夏美さんは或いは誰の為よりも、真琴さん美琴さんの為に、奥多摩に施設を作ったのか。
寄付や出資を募って、夏美さんの『力』で怪我や病・心霊の悩みや精神の病も診る団体
『奇跡の超聖水』の始りは。真琴さん美琴さんと夏美さんの絆が深く絡まり合う事を示し。
『……なつみせんせー、なつみせんせーっ』
真弓さんに切られて絶命し、無明の闇の奥にいた夏美さんを、呼び起こす声が響き渡る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真弓さんと肌身重ねて視た夏美さんの像や。贄の血を呑まれ心繋って視えた夏美さんで
も。9年前真弓さんに切られた彼女は、己の最期を受容していた。化けて出る兆しはなか
った。
心残りがなかった訳ではない。成し遂げたかった事は挫折し、多くの人との絆は断たれ。
誹謗中傷を繰り返され、反論も弁明も聞き届けられず、たいせつな人を喪わされた。その
無念は憎悪は恨みは憤怒は、消し得ないけど。
『姉さんの仇を、恨みを憤怒を返させてっ』
『……そんな事があなたの真の望みなの?』
真弓さんは唯刀で『力』で、夏美さんを切って生命を絶った訳ではない。それも叶う力
量はあったけど、真弓さんは鬼の心を切った。
彼女の心に踏み込んで、彼女の哀しみに分け入って、彼女の想いを見て知った上で、彼
女の鬼の心を、鬼の定めを断つ。鬼を切るという事は、唯体を切って生命絶つ事とは違う。
相手が執着の塊の鬼故に、その深奥に踏み入って、その想いと定めを断ち切らなければ。
肉の体を切り捨てても、憤怒は憎悪は恨みは執着は無念は残り続ける。永劫蘇りを警戒し、
監視し鎮め続けねばならなくなる。千年経ても消えぬ想いもある。だからこそ真弓さんは。
『あなたは仇に恨みを返す為に今迄を生きてきたの? 人を憎む為に奇跡の超聖水を始め
たの? 癒しを人に及ぼそうと団体を立ち上げたあなたが……正反対の事をして、人を傷
つけ殺めて、己に何の疑念も抱かないの?』
真琴さんや美琴さんが、野村さんや坂本一家が、慕い愛した『夏美先生』は。そう言う
凶行をなす事を、本当に望み願っているの?
『あなたの姉は、復讐を望んでいたの…?』
それは真弓さんにとっても一つの賭だった。真弓さんは夏美さんの姉・春恵さんには逢
えてない。その人物像は間接的にしか分らない。獄門会や西川さん達の罠で、死の淵に落
され。春恵さんが最期に何を思い何を願ったのかは、最期を一緒した夏美さん以外に知る
術はない。
でもわたしには分る。不二夏美に濃い贄の血を呑まれ、想いが繋り、記憶も共有するに
至った羽藤柚明には。この過去の像を視つめる今のわたしには。真弓さんは賭に勝利した。
それは何の根拠もない下手な鉄砲ではない。真弓さんは夏美さんに関った人の話しを丹
念に調べ。彼女の人柄を見て聞いて感じて知り。彼女を育んだ肉親なら心強く優しい人と
感じ。
『復讐はあなたの想いなのね? 不二夏美』
春恵さんの仇を討ちたい想いは、春恵さんの遺志ではなく。夏美さんの思い残しだった。
たいせつな人を喪った事は、夏美さんの痛恨であって。春恵さんが夏美さんに望んだのは、
【あなたは、生きなさい。夏美!】
【夏美は夏美の幸せを探せばいい。下田夏美に戻って、あなたの人生を生きればいいの】
夏美さんがその人生を強く生き抜く事で。
己の仇を殺めてとは一言も願っていない。
あの状況に陥っても春恵さんは夏美さんの幸せを願い。己の復讐や無念は託していない。
仇討ちへの執着は、憤怒や憎悪や恨みは春恵さんの遺志ではなく、夏美さんの悔恨や絶
望に根差す想い。姉に何の想いも返せない侭、その反対を踏み越えて招いた惨状に・己の
禍に巻き込み、未来を喪わせた事への深い悔い。
夏美さんは姉の恨みを叶える為にではなく。
自身の悔恨を償う為に、復讐を欲していた。
真弓さんの慧眼は彼女にその事を気付かせ。
『あなたは本当にたいせつな人の意図を汲み取って、この凶行を為したの? 仇討ちする
事で、己の哀しみや悔いから、責任から、己自身から逃れようとしているのではない?』
『人に害を為す鬼を討つのが鬼切部。あなたは既に多くの人を害し殺めた。それがどんな
中身の人間でも。何を為した人間でも。だからわたしはあなたを切る。この判断に変更は
ない。ないけど、あなたはこの侭で良いの?
大切な人への想いの故ではなく、己の為の復讐に目が眩んで。あなたは、あなたに取り
残され、正に今困難に向き合っている大切な人達に、何も応えられてない。中原真琴さん
に美琴さん、坂本さんに野村さん。渡辺さんに高さん。あなたを信じ頼り心寄せた人達を、
あなたは無視し見捨て裏切っている。哀しませ落胆させ、あなたを信じた選択を間違いと
感じさせる結果を、あなたが導いている!』
仇を討てぬ侭絶命すれば無念が残る。化けて出る。そこ迄行かずとも、己の憎悪や恨み
や憤怒に囚われ。力量の不足を人を世間を千年万年詛い続ける。その前に自ら思い直せる
なら。鬼を切る事は最早変えようがないけど。
せめて執着の空回りには、気付かせるべき。
己で生み出して嵌る地獄位は解き放つべき。
でなければ夏美さんが余りにも哀し過ぎる。
真弓さんは、討つべき鬼にも情けを込めて。
己の復讐の為に。世間の冷たい視線やバッシングに晒さる大切な人達を抛り捨て。己が
為していた事は逃避ではないのかと。心の奥を抉られて彼女は初めて気付き。膨大な哀し
みや絶望が憎悪が憤怒が悔恨が恨みが、彼女の明晰さを曇らせていた。それを取り戻して。
夏美さんは最期、鬼から心解き放たれた。
人の心を取り戻して、人の体を取り戻し。
真弓さんに切られる結末はやむを得ないと。
獄門会もマスコミも宗佑氏達も皆憎いけど。
『かわいそうに……なつみちゃん』『……』
絶命した夏美さんの瞳を伏せ、顔に布掛けてあげたのは、宗佑氏の妻の公子さんだった。
強引で精力的な宗佑氏に逆らう術を持たず。怪しい投資話しを追う夫を止められず。家
計の逼迫を夏美さん達を引き取った為と小言漏らし。夏美さんの異能を薄々知って怯え怖
れ。
嫌いつつも夫に引きずられ、奇跡の超聖水に関る事になり。でも人々の癒しに尽くす夏
美さんを見る内に、彼女を支える姿勢に変じ。でも夫の反逆の時は逆らえず、事を傍観し
た末に、春恵さんの死と夏美さんの行方不明に涙零し。春恵さんの葬儀は公子さんが行っ
た。
その後西川さん達の乱暴狼藉に、宗佑氏と共々打つ手を持たず。夏美さんの復讐に怯え、
死の恐怖に面した末夏美さんの絶命を見届け。面倒を見た頃もある元養女の死を哀れに思
い。
『せめて不二のお墓に、はるちゃん(春恵さん)と一緒に入れてあげるから。成仏して』
理非を越え、姪を哀れみ冥福を祈る想いは。鬼の憤怒を少しずつ鎮め風化させ。夏美さ
んも己の憤懣には思い入れが薄く。若杉も千羽も怨念を警戒したけど。三周忌を終えて監
視は解かれ、年に数度千羽が訪れるだけになり。
尚消えぬ心残りと共に、もう少し時を掛けて消えて行く。彼女の遺志は俗世への拘りを
捨て始めており。終着点は視えていた。でも。
『……なつみせんせー、なつみせんせーっ』
風化し掛けていた想いが甦る。散逸しかけていた意志が結集し。滅び掛けていた無念が、
やり残しが、思い残しが、再度突き動かされ。響き渡る声に反応して暖かな記憶がまず蘇
る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『おじさんが、真琴お姉ちゃんに学校を止めさせて、大学病院へ長期入院させるって…』
8歳になった美琴さんは、2歳年上の真琴さんを引っ張り大声を伴って夏美さんを訪れ。
『病院のお薬、苦くてちっとも効かないのに、入院したって良くなる筈がない。お姉ちゃ
んは夏美先生に診てもらって、お加減良くなってきたのに……悪くなっても持ち直したの
に。
病院に入院して夏美先生に逢えなくなって、お加減良くなる筈がない。きっと悪くなる
よ。おじさんもおばさんも、お姉ちゃんの病気が面倒だから、病院に入れて終らせる気だ
よ』
夏美さんが驚いたのは、美琴さんの利発さ以上に。彼女血が宿す『力』の素養の発現に。
美琴さんも真琴さんも、徳居家の大人が姉妹を厄介に思っていると、その鋭さの故に肌
身に感じ取っていて。真琴さんの長期入院も、病院に抛り込んで終りにする気だと、感応
の『力』で悟れ。別れ別れになりたくないと美琴さんが主導して、夏美さんの処に駆け込
み。
『美琴、余り我が侭を言ってはいけないわ』
真琴さんも長期入院で快方に向うとは信じてないけど、徳居の大人の真意も承知だけど。
養われる立場の故に、今後も養われる美琴さんを案じて反対できず。でも妹と別れたくな
い気持は山々なので、妹の行動に引きずられ。
『ここにいつ迄も、居られればいいのに……夜も昼も夏美先生の傍にいられれば、お姉ち
ゃんの病気だって、きっと良くなるのにっ』
『無理を言ってはいけないわ。夏美先生にも出来る事と出来ない事があるの。わたしは』
良いからと、真琴さんは自身の心に逆らって妹を諭し。夏美さんの傍に24時間寄り添い、
癒しを受け体調を保ちたい想いを必死に堪え。
妹は姉を深く想い、姉は妹を深く想い。
でも、その願いはこの侭では叶わない。
姉妹の真の望みを繋いで届かせるには。
『あたし達のたいせつな人、夏美先生。あたし達の前から居なくなってしまわないで!』
夏美さんは新たな癒しの場を作る意を決し。大勢の人が24時間居ても障りのない、お風
呂や休憩所が完備された施設を作り。真琴さんや美琴さんを引き取れる体制を、整えよう
と。それ迄の間夏美さんは、姉妹を坂本医院跡の彼女が住まう居住区画に招きたいと。美
琴さん真琴さんと同じ屋根の下で暮らそうと望み。
『なつみせんせー』『本当ですか、先生!』
『私はいなくなりはしない。求めてくれる限り、私はあなた達に必ず手を届かせる。約束
するわ。望まれる事が、望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。
私は私を好いてくれたあなた達を、好きだから。真琴さんと美琴さんを大好きだから』
結果およそ1年半、坂本医院跡の奥の広くない居住区画を夏美さん達は3人で分け合い。
ダイニングとキッチンを兼ねた6畳とリビング6畳の狭い空間で、密着して日々を過ごし。
『ごめんなさい、少しの間我慢して。広い本部は一夜城の様に簡単に作れはしないから』
『全然気になりません。なつみ先生の間近にいられて、わたしはむしろ』『あたしも!』
真琴さんも美琴さんも、学校には通っても。同世代の子供と心通わせるよりも、癒しの
場を訪れる人々と心通わせる方を好み。夏美さんの傍に添って、肌身も添わせる事を好み
…。
愛らしい姉妹は、癒しの場を訪れる人達から好まれ愛され。夏美さんに次ぐ人気を集め、
『奇跡の超聖水』のアイドルとなり。それは、只2人が可愛く明るい娘だったからではな
い。
真琴さんは、夏美さんから受けた癒しを身の内に長く保持出来て。それは夏美さんの癒
しを己に充電し、電池切れ迄他者に及ぼせる。美琴さんは、夏美さんの癒しの効果を触れ
ば長く引き延ばせて。それは癒しの効果が続いている間なら、それを持続できるという事
だ。
癒しの場は、夏美さんの『力』が薄く及ぶ。
その効果だと、みんな思いこんでいるけど。
『奇跡の超聖水』発足から2年と少しを経て、奥多摩の町外れに大きく新しい施設に入居
した時には。夏美さんは22歳、真琴さんは小学5年生、美琴さんは小学3年生になってい
た。
そしてバッシングが始るのはその半年後。
マスコミの嵐は否応なく姉妹も巻き込み。
『なつみ先生、大丈夫?』『少しお疲れ?』
真琴さんと美琴さんを、癒しに来たのに。
逆に夏美さんが気遣われるのに、苦笑い。
『もっとしっかりしなければならないわね』
姉妹はテレビの生取材で全国に放映されて、顔が知られ。学校でもからかわれた為に暫
くの間登校しておらず。勉強は野村さんから教わるから良いけど、欠席日数は累積してお
り。担任の先生から、様子や今後の見通しを知りたいと連絡も来て。徳居夫妻からは世間
体に泥を塗ったと詰られ。2人を返せと求められ。
『いなくなったり、しないよね?』『美琴』
問わずにいられぬ妹と問う事に怯える姉と。
世間の風に晒されつつ姉妹は心寄せ合って。
夏美さんを案じて肌身を添わせ温もり求め。
『大丈夫。私は、居なくなりはしないから』
彼女は、世のバッシングやそれへの対処を。
応えても幼子の問う真意への答にならぬと。
むしろ幼子の訊きたい問の真意に向き合い。
『私はもう誰かに雇われ使われる者じゃない。
自分の意志で途を切り開ける立場にいるわ。
私は真琴さんや美琴さんを、愛しむ想いを。
誰にも妨げさせはしない。貫き通せる…』
あなた達が、私を強く求めてくれた様に。
私も今迄になくあなたを強く求めている。
真琴さんも美琴さんも私のたいせつな人。
不二夏美の特別にたいせつな、愛しい妹。
『私はいなくなりはしない……求めてくれる限り、私はあなた達の前に必ず現れる。約束
するわ。望まれる事が、望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。
例え奇跡の超聖水がどうなっても、この癒しの場を保てなくなっても、私は私を好いて
くれたあなた達2人を、心底大好きだから』
『なつみせんせいっ!』『なつみ先生…!』
真琴さん美琴さんは夏美さんを慕っていて。夏美さんは姉妹を深く案じている。相思相
愛こそが、この時の3人には大切な真実だった。
守りたい人がいる限り、人は困難でも逆風でも心を強く保ち続けられる。希望を未来を
描き続けられる。守りたい人を心に抱く限り。でも逆に、その絆が喪われてしまったなら
…。
王建行(たけゆき)さんの一件から、夏美さんは心折れ始めたのかも知れない。奇跡の
超聖水発足前から、坂本医院の患者で知り合いだった王さんは、夏美さんが信頼した人で。
彼がバッシングの通り『寄付強要』『出資詐欺』『横領』を為していたとは思いもよらず。
王さんがラーメン店の収支悪化を気に病んでいると、耳にした姉妹は。彼を元気づけよ
うと、夏美さんの癒しを勧める積りで、彼の部屋を訪ね。彼の不在の内に姉妹は部屋にあ
った書類の中身を読んで事を悟り。事を悟られた王さんは、西川さん達に姉妹を縛らせて。
『……なつみ先生!』『夏美先生っ……!』
郷田組の人達も王さんも、今迄姉妹には優しいおじさんだったけど。今後はそうでない
時もあるのかもと、刻まれた心の傷は深刻で。
『……なつみ先生、怖かったよぉっ……!』
『優しかったおじさんが鬼の形相になって』
姉妹を手放さざるを得ないと、観念した瞬間だった。それは徳居夫妻の求めや学校の連
絡や、バッシングするマスコミの故ではなく。何よりも自身の失陥と力不足への悔恨の故
に。
徳居夫妻が夏美さんに姉妹を預けた判断の決定打は、坂本医師の賛同だった。坂本医師
と連絡の取れぬ今、夫妻は夏美さんと姉妹を同居させ、非難に巻き込まれる事を忌み嫌い。
『なつみ先生っ……!』『夏美先生……っ』
今更戻っても幸せ等ないと、姉妹も分る。
肌身を添わせ続けたい想いは互いに同じ。
でもそれが叶わない状況にあるとも悟れ。
『悪評が拭える迄少しの間だけ、我慢して』
悪評が拭える時など来ない事は薄々分る。
マスコミのバッシングを止める術はない。
この別離が永くなる事が悟れるからこそ。
『大丈夫。私は、居なくなりはしないから』
求めてくれる限り、私はあなた達に必ず手を届かせる。約束するわ。望まれる事が、望
まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。私は私を好いてくれた真
琴さんと美琴さんを、本当に大好きだから…。
『真琴さんも美琴さんも私のたいせつな人。
不二夏美の特別にたいせつな、愛しい妹』
迎えに来た徳居夫妻の苦々しい顔の前で。
3人はひしと抱き合って暫く頬を合わせ。
『必ず、また迎えに来て』『待っています』
その想いが強ければ強い程、徳居夫妻は非好意的になり、姉妹に待つ今からはより厳し
く辛い日々になる。徳居夫妻を含む学校や世間の大多数は、バッシングを正当と見ており。
真琴さん美琴さんを、騙されていたと見なす。世間を知らぬ子供を、教え諭すべきと考え
る。
その数日後、夏美さんは行方不明になって。
真琴さん美琴さんの、辛い年月が始った…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
宗佑氏達のクーデターと夏美さんの行方不明を、中原姉妹がまともに知ったのは。元教
員の野村純哉さん65歳が、徳居家と同じ町内の安アパートに転入してきた翌月で。彼は夏
美さんを尚信じ慕っていて、彼女を放逐した組織に用はないと、奥多摩の施設を退去した。
奇跡の超聖水発足前から夏美さんと関ってきた彼の言動は、当初は新たな造反かと注目
されたけど。彼の真意を知った多くの報道陣は、彼の訴えを無視する方向に転じ。結果暇
になった彼は真琴さん美琴さんの応対が叶い。姉妹は真の意味での孤独を免れられた。で
も。
マスコミの誹謗中傷は尚続き世間は冷たく。
真琴さん美琴さんには殆ど誰の守りもなく。
町内でも学校でも徳居の家でも、奇跡の超聖水のアイドルとして、可憐な容姿を全国放
映された真琴さん美琴さんは。奇異の目で見られ、からかわれ追及され非難され。『誤っ
た考え』を正すべく、叱られ教え諭されて…。
幼い姉妹には有効な反論や対処の術もなく。その上奇跡の超聖水は夏美さんを放逐し、
彼女に罪を全て被せて非難する側に、敵に回り。夏美さんは行方不明で反駁も出来ない。
言い返せなければ、世間は言った者の勝ちと見る。
姉妹の耳にはその後も次々に悲報が届く。
団体創設時のスタッフで、その前は坂本医院で医療事務を担い、姉妹とも知り合いの香
坂亜紀さん25歳が、奥多摩山中で首つり遺体で発見され。警察の検証では自殺直前に暴行
の痕があり、それが自殺の引き金と推察され。その半日前、彼女が宗佑氏達の夏美さん放
逐を責め、西川さん達に施設の外へ捨てられた事も明かされたけど。その後の捜査は進ま
ず。
同じく創設時スタッフで看護師の岩崎菜緒さん27歳が、奥多摩から逃げ出したのも、身
の危険を感じてだ。彼女は報道陣より新郷田組の追跡を怖れ。暫くの後どこかへ身を隠し。
元ホームレス塚地健夫さん39歳は、週刊ロストに『今の奇跡の超聖水の地獄』と奥多摩
の施設の惨状を告発し。郷田組長や古川さんを喪った郷田組は、過去の恩義や経緯を弁え
ぬ中途参入組が、奥多摩の施設で乱暴狼藉を。
『酷い。幾ら何でも』『これ、本当なの…』
癒しを求めて逗留する会員を、遊び半分に殴り蹴り、好き放題に金品を奪い、女性を別
室や山中に連れ込んで暴行し。宗佑氏達も新郷田組を怖れて注意できず。宗佑氏の長女に
新郷田組の西川さんが求婚しているとの噂迄。
警察を呼ぼうにも、新郷田組が雇った弁護士が宗教弾圧とか理屈を並べ、証拠はないと
立入を拒み。原田記者が載せた塚地さんの告発も信憑性が低いとされ、警察は踏み入れず。
でも真琴さん美琴さんは、『力』の素養で告発の行間や文脈・言い回しから事実を悟り。
落胆は、心寄せた塚地さんが告発を為した事に対してか、今の癒しの場の惨状に対してか。
『なつみ先生っ……』『夏美先生……っ!』
最早その再臨を待ち望む他に方法がない。
夏美さんが戻らねば全てが崩れ壊れ行く。
夏美さんは姉妹に、望まれれば必ず現れると言い遺した。いつと言わなかったから、す
ぐと言わなかったから、時間が掛るのは呑み込んで。夏美先生は嘘をつかぬと姉妹は信じ。
【大丈夫。私は、居なくなりはしないから】
【……求めてくれる限り、私はあなた達に必ず手を届かせる。約束するわ。望まれる事が、
望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。私は私を好いてくれた
……真琴さんと美琴さんを、大好きだから】
夏美さんが戻ってくれば全て好転すると。
夏美さんが戻ってくる迄は心折れないと。
【真琴さんも美琴さんも私のたいせつな人。
不二夏美の特別にたいせつな、愛しい妹】
『今は事情があって行方不明でも』『必ず迎えに来てくれる。わたし達の前に戻り来る』
それを信じる事が姉妹の心の支えとなり。
信じる事を諦める選択など最早あり得ず。
姉妹は徳居の家でも、竜太君虎次君にからかわれ。インチキの癒しに荷担して、嘘を広
めたと罵られ。従兄弟達も報道を信じており。真琴さんが夏美さんの癒しを語っても。本
当に癒しの効果があるか確かめると、無理矢理取っ組み合いを挑まれ。捕まって組み敷か
れ。
家で騒ぐと、典久氏や菊子さんに揃って叱られるけど。そこ迄は養父養母も公平だけど。
原因に分け入ると、真琴さん美琴さんがいつ迄も、不二夏美を信じている事は過ちとされ。
賢しい兄弟は、この結末を予測して挑み掛る。
学校に行かなくば養父母に叱られる以上に。
竜太君虎次君が姉妹の弱気を責めてつつく。
なので姉妹は世間同様に好奇の視線が光る学校に、行かぬ訳には行かず。2人は学年が
別なので、別々に虐められ。ここでも先生に見つかれば、当初は虐めた側が叱られるけど、
原因に分け入ると真琴さん美琴さんが、尚不二夏美を信じ続ける事は咎とされ、諭されて。
町中を歩いても、全国放映された可憐な姉妹は、世間の人も憶えていて。まだ夏美を信
じているかと、哀れみ蔑み、諭し糺す感じで接してくる。半分は善意で、半分は好奇心で。
でもそのどっちも姉妹はこの上なく疎ましく。
夏美さんが戻る迄想いを保つ。他に子供に為せる事はなく。夏美さんが遺した癒しを姉
妹で肌身重ねて増幅させ、真琴さんの病を食い止め。でもそれも長くは保たず。電池は電
源に繋らねば切れる。姉妹に『力』の素養はあれど修練不足で。姉妹を導ける者はおらず。
『虐めを乗り越えるには、強くなればいいのです。私は剣術を鍛えて、虐めを乗り越えま
した。今虐めに悩む人も強くなれば必ず…』
同じ小学校出身のフェンシング女性剣士の講演は、学校に来たけど。後に世界準優勝す
る女性剣士の訴えも、姉妹に何の希望も与えなかった。虐めっ子を、自ら強くなってやっ
つけ退けろという『奇跡の女剣士』の勧めは、病に冒されて体を鍛えられぬ者には絵空事
で。
女の子2人が幾ら剣や体を鍛えても、級友数拾人や世間大多数の認識を改める等出来ず、
養家の兄弟を切り倒す訳にも行かぬ。報道陣に腕力で立ち向った結果が、今の誹謗中傷だ。
同級生も教員も余り感化された様子もなく。
山田里奈の講演直後に姉妹は再び虐められ。
世間には救いや正義等ないのかも知れない。
この世には辛い事苦しい事しかないのかも。
姉妹は息を潜める日々を過ごし。野村さんや坂本医師を訪ねて、折れ掛る心を支え合い。
でも彼らも世間の大勢に為す術はなく。菜緒さんが身を隠した後は寂寥感が漂い。真琴さ
んが中学生になって登下校も別になると更に。
夏美さんを非難した者や裏切った者が、何人か殺傷されたと報じられたけど。世間は憤
慨するだけで、真実を報じず。夏美さんを証拠もない侭に、報復に出た殺人鬼と非難して。
『そえじまさん……わたし、仇を討ちます』
『わたし、報道記者になって、兄さんの仇を討ちます。やり残した事をやり遂げます!
奇跡の超聖水を、不二夏美も宗佑も絶対に許さない。彼らの悪事を白日の下に晒します』
そんな状況だったから。北風ばかりだったから。不二夏美に対して味方とは言えぬ迄も、
冷静中立に一定程度評価した若い女性の姿は、姉妹には一縷の望みで。彼女を通して世間
に繋りを持てば、夏美さんを理解して貰う事も。
誹謗中傷の洪水で理非を分らなくさせられている世の人も、学校の先生もクラスメート
も養父母も、竜太君虎次君も目を醒ますかも。目を醒まさせる可能性が見えるかも知れな
い。
でも、その出逢が姉妹の心の傷に塩を塗る。
彼女が行方不明の不二夏美を追う理由とは。
『人を害し殺め血を啜る悪鬼よ。鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽真弓が、千羽妙見流にて
切る!』『同じく鬼切部千羽党が千羽為景』
原田記者の妹で夏美さんを兄の仇と憎む香苗さん高校3年生と副島靖史記者29歳の前で。
真田昌幸記者36歳を襲う鬼に、夏美さんの変り果てた姿に、真琴さん美琴さんも対面して。
しかも姉妹が漸く心開き掛けた、凛々しく優しく若い女性は。夏美さんを切る使命を帯び。
夏美さんを切る為にその情報を集めていたと。
『なつみ先生……?』『夏美先生、なの?』
夏美さんが戻る迄持ち堪えようとしていた。
夏美さんが戻れば何とかなると思っていた。
『真琴さん、美琴さん』『『なつみ先生』』
それが叶ったけど、叶った今夏美先生は。
破れ汚れた巫女装束と緑色の硬い皮膚で。
人を襲い害して生命を殺める悪鬼となり。
鬼を切る者に逐われ討たれる側になって。
『なつみ先生が、人を殺める鬼になって…』
『上総さんが、鬼を切る【せんば】の人?』
姉妹は今迄何を望み懸命に堪えてきたのか。
姉妹は今迄何を願い必死に耐えてきたのか。
それが見えなくなり掛っても、2人は尚も。
夏美さんが鬼切部に殺されそうに見えれば。
『『やめてええぇぇっ!』』『……くっ!』
真琴さん美琴さんは揃って間に挟まって。
刃に身を晒して夏美さんを守ろうと試み。
『なつみ先生を切らないで』『お願いっ!』
『不二夏美は人を殺める悪鬼になった。あなた達も見て分ったでしょう。マスコミの非難
は証拠なしの見込報道だったけど、その主張は正鵠を射ていた。人を害した悪い鬼は、成
敗されなければならないの……退いて頂戴』
目前の凄惨な状況はそれを証していたけど。
姉妹は目前の現実を即座に受け容れられず。
『なつみ先生、どうしてそんなになっちゃったの?』『人を癒す優しい先生がどうして』
【夏美さんは、己が鬼と化す様な酷い経験を、子供達に伝えては拙いと、敢て何も語ら
ず】
不二夏美はもう死んだのと、語りかけて。
『真琴さんも美琴さんも、私の事や奇跡の超聖水は忘れて、自身の幸せの為に生きなさい。
私との過去やバッシングへの憎しみに縛られる事は不要だから、あなた達自身の人生を』
それは夏美さんが姉から受けた遺言に近い。
【あなたは、生きなさい。夏美!】
【夏美は夏美の幸せを探せばいい。下田夏美に戻って、あなたの人生を生きればいいの】
今彼女が姉妹に掛けられる言葉は他になく。
『なつみ先生、どうして』『先生はどこへ』
それに応える言葉を今の彼女は持ってない。
未成年の姉妹に見せて報せる中身ではない。
『私には未だやらねばならない事があるの』
『今ここで討たれて死ぬ訳には行かない!』
『例え討たれるにしても、それはこの憤怒を憎悪を恨みを、仇に叩き付けた後の話しだ』
夏美さんはその場から逃走し。姉妹は香苗さんや副島記者、真田記者と共々取り残され。
鬼切部の2人は即座に鬼を、夏美さんを追う。夏美さんを切る為に、鬼の生命断ち切る為
に。
『上総さん、じゃなくせんばさん』『……』
美琴さんが視線を、気配を、腕を絡ませて、真弓さんの答を望んだけど。真弓さんは身
を躱し、為景さんと共々にその場から駆け去り。
真弓さんはここに残って傷口を開くよりも。
即立ち去って二度と関らない事を選択した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真琴さん美琴さんには。夏美さんが人を殺めた復讐の鬼という事実と。その鬼を切る者
が彼女を追っているという事実のみが残され。世間一般の人への鬼切部の関り方は、こう
なのか。わたしの両親の仇の鬼と同様に、切られた事も明かされず。忘れられる日を待つ
と。
真弓さんが中原姉妹に鬼や鬼切部の真相を話さなかったのは、姉妹の先行きを案じてだ。
幾ら丁寧に説明しても、夏美さんを切る鬼切部に姉妹は納得しない。説明されて知った彼
らの真相を姉妹が明かせば、鬼切部は秘密厳守に動かざるを得ず。身に危難が及ぶ怖れも。
姉妹を想うなら、これ以上何も報せぬべきと。
『一体、何がどうなったのか、分らないよ』
『夏美先生、大丈夫でいるのかな。心配…』
この後、副島記者も真田記者も香苗さんも、中原姉妹と接触はなく。病院も警察も、不
審者が乱入し医師看護師を傷つけ逃亡した以上は分らず。死人が出なかったので大事にな
らず捜査も進まず。真弓さん達の消息は掴めず。
野村さんは病状が好転せず、退院出来ぬ侭半年後に亡くなった。娘も息子も夏美さんを
信じる彼と絶縁し、看取りにも来ず。姉妹には笑顔で応じ、愚痴を零す事もなかったけど。
様々に募る無念を呑み込んでの最期だろうに。
姉妹は彼にも、夏美さんが鬼になって現れ、鬼を切る者に追われていた事実を話したけ
ど。彼は耳を傾け頷いてくれたけど。どこ迄信じてくれたかは分らない。それは坂本俊郎
医師や息子史郎氏も同じで。荒唐無稽な話しだし、女の子2人の話しでは、信憑性が低い
のか…。
余人に話す必要は、感じなかった。夏美さんが鬼になっていた事実は、誹謗中傷する側
を利する話しに思えたので。2人は互いの心に留めた侭で、姉妹は町内でも学校でも徳居
の家でも、夏美さんを信じ慕う苦難の日々を。
【真琴さんも美琴さんも、私の事や奇跡の超聖水は忘れて、自身の幸せの為に生きなさい。
私との過去やバッシングへの憎しみに縛られる事は不要だから、あなた達自身の人生を】
でも、姉妹はそれを聞き入れられず。夏美さんに夏美さんの想いがある様に、真琴さん
美琴さんには真琴さん美琴さんの想いがある。ずっと慕い信じ愛し願い求め望み続けた想
い。今更曲げる事も折れる事も叶わぬ強い想いが。
最早姉妹に己の幸せや人生など考えられず。
夏美さんを信じ慕い、再び逢う事が幸せだ。
夏美さんを忘れる事は生きる喜びの放棄で。
過去に己を縛る事で夏美さんに繋ると信じ。
姉妹はそれから9年、世間の風に拉ぎ続け。
無理解と嘲りと蔑みと非難の中を生き続け。
『お姉ちゃんっ、真琴お姉ちゃんっ……!』
今年の春、真琴さんは病でその生を終えた。だから享年22歳。夏美さんがなぜ9年経っ
たこの夏に甦ったのか。その直接の因はここに。
徳居家は難病の真琴さんを、中々大学病院に入院させず。姉妹を夏美さんに託す時に寄
付したお金は、姉妹を取り返しても取り戻せてなく。竜太君虎次君の大学通学で家計も逼
迫しており。亡くなる直前迄病院には入れず。
徳居家のお荷物と化した姉妹は、唯お互いを想う故に、全て為される侭に日々を過ごす。
美琴さんは真琴さんを想う故に、学校でも徳居の家でも世間でも、極力揉め事を避け。虐
められてもやられっ放しを受け容れ耐え凌ぎ。
問題を起こせば叱責され、重い病で徳居の家を離れられない姉にも、その悪影響が及ぶ。
学校では同級生の、徳居の家では竜太君虎二君の、奴隷に近い扱いも受け容れ。姉を力づ
ける事、夏美さんを想い心支え合う事に徹し。
実は真琴さんも同様な状況に晒されていて。
美琴さんが学校に行ったり等して不在の間。
徳居の家から逃れる翼も足も持たない姉は。
己は受け容れるから妹だけは許してと頼み。
真琴さんの為された非道を妹が知ったのは。
その死の間際・最期に手を握り合った時に。
『そんな……お姉ちゃん、そんな、惨い!』
最期迄静かに穏やかな応対を崩さず、己の傷み哀しみは語らず、己の死が妹を独りにし
てしまう事を、案じつつの最期だった。でも。
『生きて。わたしは充分生きたから……一緒に夏美先生を迎える事は出来なくなったけど。
だからこそあなたはあなたの幸せに向って精一杯生きて。あなたの幸せがわたしの幸せ』
隠す意志も消え行く途上だから。異能の血を濃く宿し感応の『力』を持つ故に。美琴さ
んは真琴さんが、自身の登校等で不在な間に、竜太君虎二君に為されたその非道を全て識
り。
ほぼ同年輩の男の子2人は両親の目を盗み。
子供の頃から続けてきた虐めの延長気分で。
【いやっ、やめてっ。いやああぁぁぁっ!】
美琴さんの目も盗んで真琴さんを力づくで。
何度も犯し孕ませ胎児を密かに堕ろさせて。
養子の弱味を抱える真琴さんは、美琴さんに手を出さない事を条件に、2人の所業を受
け容れて。否、元々腕力ではどうにも抗えぬ。2人が劣情を抱き、両親や美琴さんの不在
の間に自宅に戻れば、助く者も守る者もいない。
初めてそれが為されたのは、真琴さんが学校に通えなくなる直前、中学3年の卒業間近。
真琴さんが高校進学を諦めたのは、彼ら兄弟の所為で。実は未来のある妹を守り庇う為で。
『酷い……酷すぎる。あのバカ兄弟っ…!』
元から良好と言えなかったけど。夏美さんの真偽を巡って諍いは抱えていたけど。でも、
まさかそんな低劣な行いを為していようとは。
典久氏も菊子さんも、後からその事実を薄々察した様だけど。最早手遅れで。己の最も
愛した実子が、為した卑劣を前に呆然として。見て見ぬふりをして、隠し通す事しか出来
ず。
『生きて(わたしの様な悲惨な生ではない日々を)。わたしは充分生きたから(これ以上
生きても己に望みはない)……一緒に夏美先生を迎える事は出来なくなったけど(どうし
て来てくれないの、夏美先生)。だからこそあなたはあなたの幸せに向って精一杯生きて。
あなたの幸せがわたしの幸せ(あなたが幸せになってくれれば、わたしは納得出来る)』
真琴さんはこの数年、想いを調え異変を悟らせず。美琴さんに肌身添わす事を、己の穢
れを妹に移す罪を感じつつ。自在に動けぬ己の存在が、美琴さんを縛っている事に申し訳
なさを感じつつ。妹を哀しませぬ為におくびにも出さず。でも死に行く最期に想いが解れ。
夏美さんが戻り来れば、夏美さんが居てくれれば、夏美さんの元に居続けられたなら!
こんな非道はさせないし許さなかったのに。
今も幸せに囲まれ皆で笑っていられたのに。
『なつみせんせい、なつみ先生、夏美先生』
ずっと信じ続けてきたけど。ずっと想い続けてきたけど。ずっと願い続けてきたけど…。
『どうして助けに来てくれないの、先生っ』
こんなに求め望んでいるのに。こんなに傷み哀しみに直面しているのに。必ず来てくれ
ると言ってくれたのに。肌身を合わせてお互いに、大事な人だと想いを交わし合ったのに。
姉の臨終を最後の独りになる迄看取った後。
雨降る深夜の住宅街を真琴さんは1人歩む。
徳居家になど帰りたくなかった。あの悪魔共が住む家になど、寄り付きたくも。病院に
居続けられなかっただけ。美琴さんは『力』で典久氏や菊子さんが、息子2人の鬼畜の所
業を嫌悪しつつ、見て見ぬふりした事も悟れ。
確かに手遅れだったけど。でも両親が見て見ぬふりした結果、あの兄弟は真琴さんを孕
む迄犯し続け、堕胎させ。あの家にもう美琴さんの大事な人はいない。あの家にいるのは、
彼女の大事な人を貶めた敵や穢した仇だけだ。
人気もない深夜の住宅街を歩む美琴さんを、追尾する者がいた。姉を弄べなくなった鬼
畜兄弟は、妹が独りになるその時を待っていた。
出逢った瞬間に己が何を為されるのかを。
美琴さんは2人の瞳を視る迄もなく悟り。
難病に冒されてなくても、特に鍛えても居ない二十歳の女の子に、同年代の男子2人を
退ける術はなく。美琴さんは姉に数年遅れて姉の為された事を、己に受け容れさせられて。
【いやっ、やめてっ。いやああぁぁぁっ!】
姉の願いは届かなかった。届いたのは鬼畜の欲情と嗜虐で。妹の憤怒は届かせられず…。
『最後の最後迄憎悪の目で見つめやがって』
『姉とは大違いだ。悦んでも恨んでやがる』
真琴さんは妹を庇う為に、自身の悲痛を受容した。でも今の美琴さんに、受容せねばな
らぬ事情は欠片もない。彼らは姉の仇だった。体は力づくで受け容れさせても、燃え盛る
憎悪や憤怒や無念は、最後迄彼らも折り取れず。
『徳居の家がなければ、一文無しの身分で』
『朝には帰って来るんだぞ……徳居の家に』
2人は最後迄、従妹の心を折れなかった不快を強がりで隠し、美琴さんを雨の中に捨て
て去り。人の全てを滅ぼしたい程の憎悪や怨恨や憤怒に、心を焦がす美琴さんが残されて。
夏美さんを待ち続けたこの数年、美琴さんも真琴さんも喪う一方だった。夏美さんの悪
評は拭えず固定し、遂に世間から忘れ去られ。信頼した仲間には何の報いもなく、絆を断
たれ捨て置かれ。夏美さんは最期迄戻ってこず。真琴さんは遂に生命を喪い、その操も喪
われ。
『なつみせんせい、なつみ先生、夏美先生…。
どうして戻ってきてくれないの? もう夏美先生は千羽さんに、切られてしまったの?
逢いたいよ。もう一度、逢いたいよっ!』
救いは要らない。希望も幸せも要らない。
それは最早己にも姉にも意味のない物だ。
たいせつな人の名誉は貶められ、慕うみんなの絆は絶たれ。姉はその清らかさも生命も
喪失し、己の操も喪われ。この後生きても愛した夏美さんの悪評は拭えず、愛しい真琴さ
んも居ない。両親が甦らぬ様に。最早何も残ってない。あるのは憎悪や恨み、憤怒や無念。
心が黒く燃えて行く。雨を蒸発させる程に熱く焦げる。人の限界を突き抜けて、憤怒が
美琴さんを身も心も変じさせて行く。止められない。何がどうなるのか分らぬ侭に、もう
彼女自身が人を外れ行く激情を止められない。
その身には死して尚妹を案じ続ける姉の霊も添い。真琴さんも体を喪って尚無念を残し。
妄執の故に、肉を持たぬ霊の鬼になりかけて。姉妹は無意識に、互いの鬼への途を支え合
い。
夏美さんが、納得の末に真弓さんに切られて果てて、9年経ったこの夏に甦った真因は。
鬼の存在を識り、鬼になれる事を識り、憤怒と憎悪で鬼になり行く事を止められぬ悲運な
姉妹を、その叫びを、捨ておけなかったから。夏美さんが守り通せず導けず、夏美さんの
故に悲運の途を進み続けた末に、鬼に墜ち行く愛らしい姉妹を。最早救う事は叶わなくて
も。
「あなただけに地獄の道を歩かせはしない」
互いへの愛と人の世に抱く憤怒を共有して。
癒しの『力』を持つ鬼が現世に再び甦った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
美琴さんも『力』の素養を秘めた血を宿し。修練なくても感応や関知の片鱗は見せてお
り。激情でそれが解放された結果、想い人の魂の微かな反応を、彼女は寄り添う姉の魂を
通じて感じ。死者の反応は死者の方が見つけ易い。血を分けた姉妹は生死の境を超えて通
じ合い。
この経緯を辿らねば、再会は叶わなかった。姉妹の何れかが死して霊の鬼となり、何れ
かが肉を持つ鬼となり。底なしの絶望と無念が、3人の互いに抱く愛と共に溢れ出たこの
時でなくば。それは幸せではない。最早何も取り返せないけど。漸く3人は再び一つにな
れた。
夏美さんは既に、肉の体を切られて喪い。
甦る程の執着も持たない、霊に過ぎない。
でも姉妹の側には一つだけ肉の体があり。
夏美さんは異能の『力』を使う術を持つ。
母や姉と一緒に葬られた不二の墓を。寄り添う真琴さんの、霊の鬼の関知や感応の導き
と励ましを受け。美琴さんは雨の夜中に訪れ。
『なつみせんせい、なつみ先生、夏美先生!
逢いたい、もう一度逢いたい。大好きな先生に、鬼でも良いからもう一度逢いたい。喰
らわれても死んでもいい。もう生きていても望みなんてない。なつみ先生もお姉ちゃんも
居ない世界を、独り生きる位なら鬼の方が』
鬼になったら逢えるかな。鬼になればなつみ先生の処に行けるかな。鬼になれればなつ
み先生の仲間になれて、最期迄一緒にいられるのかな。なつみ先生と一緒なら切られても。
美琴さんは、真琴さんの魂を自身に依り憑かせた侭で、夏美さんの眠る墓石に縋り付き。
『美琴……あなたは、そこ迄夏美先生を…』
真琴さんは美琴さんに生きて欲しかった。
でも生きる望みを絶たれた妹の想いを否定する事は出来ず。引きずられる侭に伴い続け。
唯その悲哀に最期迄寄り添うと心を定め。
『死んだ人を貶して忘れ去る人の世になんて、戻りたくない。なつみ先生を誹謗中傷した
人の世になんて、居たくない。お姉ちゃんの無念もあたしの無念も人の世には受容されな
い。鬼になって、鬼になって復讐したい。なつみ先生もきっと、こんな心の痛みを経た末
に』
あたしでは届かない? お姉ちゃんが一緒でないとダメ? 先生はいつも病のお姉ちゃ
んを診てくれた。あたしにも優しく接してくれたけど。あたしはお姉ちゃんのお伴だった。
でも、お姉ちゃんの次の2番なら仕方ないって諦め。先生もお姉ちゃんも、心から大事だ
ったし。先生やお姉ちゃんに大事に想われたくて。あたしは2人とも大好きだったから!
あたしの願いでは届かない? あたしの想いでは届かない? 生きたお姉ちゃんを伴っ
てないとダメ? 手遅れだった? 魂は一緒だよ。あのバカ兄弟に犯された後で、漸くお
姉ちゃんを感じ取れたの。お姉ちゃんは死後もあたしを案じて、ずっと添ってくれている。
『あたしは己の哀しみに溺れて見過ごしていたけど。お姉ちゃんは今もあたしを想い続け。
なつみ先生を想い続けている。あたしと同じ。それでも届かない? もうあたし達には何
もないよ。なつみ先生に願われた幸せも人生もなくなった。残ったのは先生への想いだ
け』
あたし達の想いに応えてよ、なつみ先生!
あたし達を全部あげるから、なつみ先生!
あたし達の過ごした月日に、答を返して!
「……美琴、さん……、……真琴、さん…」
人を恨み憎み続ける事は辛い。憤りを抱き続けるには労力が要る。その源に悲哀がある
なら心は更に重くなる。なので常の人は心の負荷に長く耐えられず、飽いて投げ出し忘れ
てしまう。激情は心の疲れも麻痺させるけど、年中怒り続けられる程人は強くない。虚し
さに囚われる瞬間は訪れる。それを越えて憎み恨み憤り続けるには、逆に意志の強さが要
る。
膨大な無念や執着で鬼になった夏美さんは、その故に激情を保つ困難を分る。愛した春
恵さんの憤怒と錯覚すればこそ、凶行も為せたけど。それが己の憎悪や憤怒と悟った彼女
は、己の為に激情は保てず。真弓さんに切られた以上に、自ら滅びを受け容れた。だから
こそ。
奇跡の超聖水が再起し、宗佑氏達が収益に潤っても。黒金さん達獄門会が新郷田組を吸
収合併し、宗佑氏の儲けを貪っても。それをマスコミが夏美さんに絡めて報道し続けても。
佐伯摩耶さんや王建行さんが虚偽を語っても。死者に為せる事はないと諦め、眺めるのみ
で。
「せめてお姉ちゃんの想いには応えてっ!」
微かに動いたのは、夏美さんの内なるもう一つの悔い。心残り。思い残し。己の憤怒に
駆られる余り。マスコミやヤクザに責められ、身内の背信にも遭って、尚夏美さんを慕い
続けた者に。何も報いられなかった事への悔恨。
真琴さん美琴さんや坂本医師、野村さんや亜紀さん菜緒さん、高記者やヤマさんゲンさ
ん達に。応えねばならぬ時に彼らを抛り捨て、私怨に走ったその末に彼らを守り損ねた無
念。
【私は、一体何を……やってきた……っ!】
『仇を討つ事しか、復讐しか残ってないと思いこんで。誰も頼んでない報復に、己の為に
拘り続け。その間、真琴さん美琴さんも坂本先生もみんな、私を喪って大変な状況だった
のに。その想いに応えず、見捨て無視し…』
その末に中原姉妹の今があるなら。教え諭し導く事も出来ぬ侭に、戻る見込のない己を
待たせた事が、2人に鬼の途を進ませたなら。
夏美さんが存命ならこの展開は避けられた。彼女が人として抗い続ければ、真琴さん美
琴さんの希望になれ。姉妹もそれに続いていた。でも、鬼になった末に切られて死した彼
女に、それは叶わない。彼女の鬼と死が姉妹の未来も摘んだ。姉妹は彼女に続いて鬼に進
もうと。
「なら、せめて……私も共に、地獄の生を」
あなただけに地獄の道を歩かせはしない。
あなた達を導いた者として、私は最期迄。
希望で繋れないのなら、絶望で繋り合う。
「なつみ先生……漸く、逢えた」「先生!」
3つの想いは一つの体に共に宿り息づいて。
羽藤柚明が視たのは真琴さん美琴さんの心。
夏美さんに宿る姉妹を初めとする人々の魂。
美琴さんは夏美さんに、肉の体を明け渡し。美琴さんも真琴さんも『力』の扱いを知ら
ぬ。複数の魂を容れて生きるなら、元の体は美琴さんでも、その主は夏美さんの方が望ま
しく。
その容姿は、憤怒に染まれば緑色の硬質な肌と長い爪持つ鬼に変じるけど。心穏やかな
時は美しく豊満に若々しい、9年前の不二夏美を象って。その身を包む巫女装束も、青や
緑や金に彩られた華やかな衣の、返り血に染まり、袖も裾も胴も破れ解れた様が再現され。
その衣は破れ汚れた侭で呪物として安定し。
それ以上破れても、生き物の如く治るけど。
破れ解れ穴が穿たれたこの状態に戻るだけ。
夏美さんの鬼の状態が、基本変らない様に。
唯9年前と違って、夏美さんは鬼になっても憤怒に己を見失っておらず。憎悪を露わに
して戦う時以外では、人だった頃の姿を保ち。
「なつみ先生……来るのを待つだけじゃなく、逢いに行けば良かったんだねっ」「今度こ
そ、いつ迄も一緒です。美琴もわたしも二度と離れません。鬼も地獄も怖くない。怖いの
は」
再び愛した人と別れ別れになる事だった。
死も鬼も地獄さえ、愛しい人と一緒なら。
怖くない。手を繋げば共に歩み出せると。
全てを喪い抛って漸く姉妹の望みは叶い。
「ごめんなさい……もう二度と、あなた達を孤独にはさせない。今度こそ私が最期迄…」
夏美さんはこの時既に、自身の最期を覚悟していた。憤怒や悲嘆の末に鬼になった者に、
最終的な幸せのあろう筈がない。執着を叶え目的を果たした末にも、人の賞賛や報い等期
待出来る筈もなく。鬼に待つのは鬼の最期だ。
夏美さんはその最期へ至る途を、悲運に晒され続けた姉妹と共に辿る事で。見守り励ま
し助け導き支え合う事で。少しでも償いたく。既に手遅れと分って、否、手遅れだからこ
そ。
己の激情で動いた鬼・不二夏美は、9年前真弓さんに切られて果てた。この夏甦った鬼、
不二夏美は、彼女を慕うが故に辛酸を舐め悲嘆にくれた者の無念に突き動かされ、甦った。
「共に逝きましょう」「「はい、先生っ」」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
未だ暗がりに朝霧立ちこめる墓地の片隅で。
無縁仏の墓石に夏美さんは右手で軽く触れ。
感応で墓石に眠る人物の無念へと語りかけ。
「野村さん、ごめんなさい。私がもっと心が強く、己を見失う事がなければ、あなたの期
待に応えられ、その無念も幾らか軽減出来た。みんなを見捨て放り出す様な末は避けられ
た。最期迄私を信じ続け、真琴さん美琴さんを支え続け。あなた自身が辛い状況だったの
に」
真琴さん美琴さんは基本、夏美さんの内に宿って同じ絵を見て声を聴く。匂いを嗅ぎ肉
感を感じ、物事を考え想う。時に夏美さんの触覚を操り、胸にお尻に触る感触に喜びつつ。
でも通常姉妹は夏美さんに体の主導権を預け。
姉妹は、特に美琴さんは復讐を望んでいた。
竜太君虎二君に、鬼の腕力でやり返そうと。
でも夏美さんは同意しつつも即座に動かず。鬼が動けば鬼切部を招いてしまう以上に。
夏美さんは、他に同じ無念を抱く者を回ろうと。同志の糾合には中原姉妹も賛同し。思っ
てもない角度からの提案なので、少し驚いたけど。彼女は己の復讐に心囚われた9年前と
は違う。
想いを集めれば確かに強くもなれるけど。
夏美さんの真意は実はそこにさえもなく。
己の不在が信じ慕う人を見捨てる結果になったと、非難される怖れも承知で。己のミス
を確かに逢って謝ると。それは彼女の心残りの解消で。仇を討つ事だけが成就ではないと。
美琴さん真琴さんに言葉ではなく行動で見せ。
『なつみ先生が謝ることはないよ。だって』
『野村先生もきっと事情を分って下さるわ』
美琴さん真琴さんは、夏美さんにも、彼女を慕って不遇な野村さんにも心を寄せていて。
最期迄現れなかった夏美さんを、彼が本心どう想っているか気懸りで。恨んでいるかも怒
っているかもと。そうだったらどうしようと。
野村さんは遂に鬼にならず、人の生を終えたけど、募る無念や滾る憤怒はあった。姉妹
には最期迄穏やかに応えていたけど。世の無理解や宗佑の背信、酷い報道やヤクザの無法。
そして報道を信じて野村さんを嫌い親子の縁を絶ち、看取りも弔いもなかった娘息子への。
夏美さん達が感じ取れたのは。8年以上の月日を経て尚散逸せず、燻り続けた彼の無念。
鬼にこそならなかったけど、その憤怒は強く。最期迄発散できなかったからこそ、長く遺
り。
でも彼の印象は夏美さん達の知る穏やかさ。
中原姉妹の同居も死者の彼には悟れた様で。
『夏美先生、お久しぶり。人は鬼にもなれるのですな。真琴君美琴君から聞いた時は半信
半疑だったが。9年経っても若さがその侭だ。
真琴君美琴君が、鬼になった末【鬼切部】に切られた夏美先生を、甦らせたと……そう
ですか。真琴君美琴君も鬼になったと。いや、それもやむを得ぬかと。人は正当な理由あ
る時は、怒り憎み憤るべきとワシは思います』
『ワシを鬼にお誘い下さいますか? 何のお役にも立てず犬死にしたこのワシを。今はワ
シも死んで想いの多くが散逸し。恨みや憎しみ憤怒を核に、幾らかの無念が残る状態で』
8年の間、時折真琴さん美琴さんはここを訪れていた。彼の生前と同じ様に、お話しに。
真琴さんは病の悪化で来られなくなったけど。美琴さんはつい先月にも、ここを訪れてい
た。
野村さんも当初は鬼への誘いに乗り気薄だったけど。無念や憤懣はあっても、化けて出
る程ではないと。肉体の死を区切りと考える人も多い。罪も罰も無念も憎悪も執着も、死
を越える事で清算され、晴らすべきでないと。生者の事柄に死者が干渉すべきではないと
…。
夏美さんが『力』を扱え、その身に魂を複数収容出来るから。単独で化けて出るより甦
るより遙かに楽に、夏美さん達の一部になる事で。彼は無念を晴らす術を入手出来るけど。
彼は夏美さんだけだったなら、誘いを受けず風化に任せ、己の滅びを選んでいただろう。
『野村先生……』『先生、一緒に逝こうよ』
真琴さん美琴さんの招きがなかったなら。
否むしろ、姉妹を捨て置けなかったから。
生命尽きる時迄寄り添い励まし心通わせ。
生命尽きた後も無縁仏を訪ね弔いを続け。
実の娘や息子から断絶されたこの自分に。
そこ迄情を注いでくれた、娘達の想いに。
『応えぬ訳には行かぬでしょうな。どうやらワシの執着は、マスコミやヤクザや宗佑達へ
の憤怒や憎悪ではなく。真琴君美琴君への友情・心の繋りなのかも知れぬ。だからこそ単
独で鬼になるにも甦るにも力不足だったが』
夏美さんの『力』と姉妹への絆が、その存在が野村さんの無念を突き動かし。彼の思い
が墓石から、夏美さんの体に流入して宿り…。
『野村先生いらっしゃい』『また一緒だね』
『夏美先生、美琴君真琴君。改めて宜しく』
夏美さん達の錯覚が織り成す意識の世界で。
物腰静かな老年男性に若い姉妹は取り縋り。
夏美さんは、申し訳なさそうに渋い表情で。
「私は、あなた迄鬼に引き込んでしまったのかも知れない。鬼に縁のなく、鬼になれる事
も知らず、鬼になる筈も甦る筈もなかったあなたの様な人格者を、鬼の途に誘い導いて」
野村さんは鬼とは思えない穏やかな声音で。
全て納得づくの覚悟を定めた確かな気配で。
『既にワシは死者で犠牲はないし、これはワシの判断だ。先生が負うべき罪はない。己の
罪は己自身で償います。でも、その前に今は、ワシには罪を負っても返したい想いがあ
る』
野村純哉の執着は不二夏美と同じ物だった。
それを分って夏美さんは確かに深く頷いて。
「分りました。私達の一部として宜しくお願いします。最期迄、一緒に、歩みましょう」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
それから夏美さんは、復讐は暫く棚上げし、生死を問わずかつての同胞の無念の跡を辿
り。西川さん達に爆薬を仕掛けられ、獄門会に殲滅された郷田組本部跡や。ゲン(渡辺玄
也)さんが運び込まれ息絶えた病院の霊安室等を。
「郷田組長……古川さん、みんなお久しぶり。
そしてごめんなさい。長く謝りに訪れる事も出来なくて。色々あって、来られなくて」
野村さんの無念が9年燻り続けていた様に。
郷田組長を初め多くの無念は今尚漂い続け。
建物が改修されたり取り壊されたり、使われて他の人が出入りしていれば、想いも滞ら
ず散逸したけど。郷田組本部跡は獄門会に買収され、敢て手を付けず壊された侭放置され。
獄門会は郷田組の爆破跡を、処刑跡を晒す意味で敢て手を付けず。結果霊的に掻き回さ
れる事ない侭、その場に無念や憎悪や悔恨は蟠り。遺体や遺品と別のどこかで葬られても、
生命を奪われた瞬間の印象は鮮烈に残るから。
一つの体に心を多く宿す事は、通常あり得ないので、器となる者に負荷が掛る。特に無
念や憎悪や憤怒等は、悪い影響が出易いけど。鬼である夏美さん達には『今更』との印象
で。
『我らを受け容れてくれますかの、最早まともに思索を紡ぐ事も出来ぬ、無念と憤怒だけ
が残る状態の我らを。怨念になった我らを』
郷田組長の郷田組怨念多数を代表した問に。
夏美さんは中原姉妹や野村さんと共々頷き。
「怨念だからこそ受け容れたい。弔う者も悼む者もなく、捨て置かれた無念と憤怒だから
こそ。私も、私達も又同じ存在なのだから」
多くの魂を一つの器に入れると、時を経る内に混ざり合って、誰が誰かも分らなくなる。
既に彼らは死後数年を経て、多くの想いが散逸しており。怨恨憎悪は抱いていても、己が
何者で何故憎み恨むのか忘れかけている者も。
鬼でなければこれ程多くの魂を、無念や憤怒や憎悪や恨みを、容れて無事ではいられぬ。
夏美さんは『力』で己の内を区切って、混ざらない様にしていたけど。長久には保たない。
否、長久に保たせる必要はないのかも知れぬ。復讐さえ果たせれば、長く己を保つ必要な
ど。
『夏美先生には、自分を大切にして今後の道を歩んで欲しいって、言った筈だが……結局
夏美先生も死霊、じゃなく鬼になったと……承知した。じゃあ、オレ達が地獄にも伴う』
古川さんも鬼という物を初めて識り。奇特な死後の再会に苦笑して。彼が夏美さんの元
に再度参じたのは、己の憤怒や無念や憎悪を晴らすより、夏美さんの役に立ちたいが故の。
何故か美琴さん真琴さんが頬膨らませている。
生前は、親子に近い年の隔りがあったけど、
ヤクザと堅気との立場の隔りもあったけど。
鬼に死者になった今、全ての隔りは消失し。
姉妹の求めを察した夏美さんが、真琴さん美琴さんに肌身を添わせ宥め癒す。それは姉
妹の愛しい嫉妬。姉妹は夏美さんを1人の女として愛おしみ。奪われたくないと強く欲し。
生前は、拾歳以上の歳の隔りがあったけど。
女の子同士という立場の隔りもあったけど。
鬼と死者になって、互いの真意も悟れる今。
『生前は、オレのせいでバッシングを受ける羽目になって済んません。真琴ちゃん美琴ち
ゃんにも、野村先生にも。迷惑の掛け通しで、死んでも詫びにもならなかったけど。この
怨念がまだ何か、夏美先生の役に立てるのなら、幾らでも使い回して下さい』「ツヨシさ
ん」
『済まねぇ、夏美先生。先生には迷惑ばかり掛けちまって。勝手に死に急いで、オレが責
任を持つべき弟分(山辺京介)の事を、勝手に託して』「ゲンさん(渡辺玄也)さん…」
郷田組殲滅を逃れたヤマさんとゲンさんは、行く処もなくさ迷い歩き。帰る処も無くし
たヤクザ等、個々の腕力はあっても、巣を失った兵隊蟻の様に役に立たぬ。しかも新郷田
組は獄門会に従い、旧郷田組の残党狩りを始め。
夏美さんは新郷田組のリンチで瀕死のゲンさんを助けて、奴らを殺傷し。乱入した真弓
さんと為景さんに追い詰められ。ゲンさんは残る生命を振り絞って、彼女を庇って逃がし。
その時点でゲンさんは既に内蔵が潰れていて。翌朝彼は、収容された先の病院で亡くなっ
た。
『あいつは、今も無事かな。どこにも往く処なくて、寂しがってないかな。俺はもうヤマ
の傍にいてはやれないけど。あいつが今どうなっているか確かめ、出来る限り助けたい』
夏美さんの内に宿って、心残りを果たす事をゲンさんは選び。それは彼らだけではない。
『いやあぁぁ!』『香坂先輩、落ち着いて』
香坂亜紀さんが生命を絶った奥多摩の森は、奇跡の超聖水本部の間近だけど。他に人家
もない山林は通り掛る人もなく。人目を忍んでと言うよりも霊の鬼と話すには、霊体を灼
く陽光のない夜が望ましく。でも逢えた亜紀さんは、自身の悲嘆に過去に閉じこもってい
て。
『なつみ先生、亜紀さんは』『自殺を…?』
真琴さんも美琴さんも、夏美さんを慕うが故に悲運を辿った人達を、今迄見てきたけど。
亜紀さんの憤怒悔恨・悲嘆無念も又凄まじく。
9年前、奇跡の超聖水でのクーデター直後、なぜ夏美さんを裏切ったかと、亜紀さんは
宗佑氏達新体制を強く追及し。彼女も団体発足前から夏美さんの同僚で、夏美さんを慕っ
ていたから。後からきた彼らに従う積り等なく。
宗佑氏達も大声で反論して怒鳴り合う中へ、現れた新郷田組西川さん達に外へ連れ出さ
れ。特に鍛えてもいない普通の成人女性で、ヤクザの男複数の腕力に叶う筈もなく。鬱憤
晴らしか口封じか分らぬ侭に、外の森で辱められ。
ヤクザの男達は亜紀さんを存分に辱めた後、嗤いながら去っていった。男を識らなかっ
た亜紀さんは、初めての経験がその酷い展開だった為に。その侭世を儚んで自ら生命を絶
ち。
『亜紀さん、落ち着いて』『いやあああぁ』
自殺を選ぶ人の心の乱れ方は尋常ではない。生き死にの重さも見えぬ程、心の内に悲嘆
や衝撃や無念が渦巻き。外からの誰の呼びかけも心に届かず、己自身を悲嘆で強く囲い込
み。
霊能者が自殺した魂を救い様がないと言うのは。他者の声に耳を傾けられぬ状態で肉の
体を喪っては、外から何も届かせられぬから。肉の体があれば、頬を張れば人を我に返ら
せる事は叶う。己の行いが両親の死を招いたと知り、心砕かれ茫然自失したわたしを。サ
クヤさんが頬を張って、呼び戻してくれた様に。
『美琴です、亜紀さん』『我に返って……』
宗教者が自殺を禁忌とするのも。宗教以前の自然な感覚で自殺が禁忌なのも。自殺する
心境で生を終らせては拙いから。不幸な心の状態を固定させ、死後に不幸を続かせるから。
『香坂先輩……その哀しみから一度離れて。
溺れて何も見えない状態から一度脱して』
まして自殺した者に・自殺する心境で死した魂に。呼びかけてその状態を脱させるのは、
練達の霊能者でも難しく。鬼になる前の夏美さんでは亜紀さんを取り戻せなかった。鬼と
なり死の門を潜り、多数の怨念と同居した今の彼女だから。亜紀さんに近い物だから漸く。
『あなたはわたしの為に、強く抗議してくれたのね。その為に悲痛を被ったのね。ごめん
なさい、そしてありがとう。あなたの想いに私は生前、何も報いられなかった。己の憎し
みに振り回されて、私を想ってくれる人達を忘れ見捨て放置していた。9年もの間、ずっ
とここで悲痛の淵に填り込んで。可哀想に』
呼びかけで、亜紀さんは漸く我を取り戻し。それは夏美さんが同じ波動を持っていたか
ら。生者ではなく死者の、猛烈な無念や憤怒や憎悪を晴らせず終えた、妄執を抱くからこ
その。
『あなたは肉の体は喪った。生命は喪った。
でも、目の前に1人の鬼が現れた。9年経った後だけど、あなたの無念を恨みを憤怒を
憎悪を晴らせる鬼が。あなたは、復讐を叶えられる。私達の一部になれば、共に進むなら。
無理強いしない。唯あなたはこの侭仇を野放しにして、風化して消え去る迄ここで己の悲
嘆に浸り続け、泣き寝入りして納得出来る?
私にはあなたの復讐を叶える手足がある』
自殺か復讐かの選択ではなかった。亜紀さんは既に自殺した後で、自殺だけで終えるか、
その上復讐も為すかの選択だった。亜紀さんは己の内に9年地獄を抱えてきた。この誘い
を断れば、今後も風化する迄ここに居続ける。抱え込んだ地獄を外に向けるか内に向ける
か。亜紀さんは今迄鬼になれる事を識らなかった。でも術が示されれば。その力と機会が
揃えば。
『逝きましょう、夏美先生』『香坂先輩…』
鬼の強さは肉体の強さより、想いの強さに根差す。妄執や憤怒が深ければ深い程。単純
に人数を足せば、人の血を呑むに近い効果で『力』は増すけど。贄の血が常の人の血の数
十人、数百人分に近しい様に。強い妄執や憤怒や憎悪や恨みは、1人でも膨大な力になる。
悲憤を抱えて死に至った者達は皆一騎当千で。
赤く丸い月が夜空へ高く昇り始めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「坂本先生、お久しぶりです」「君は…!」
坂本俊郎氏は89歳になっていた。息子夫婦の家に同居し安穏な老後を過ごしていたけど。
気力体力の衰えは隠せず、足腰も立たなくなり始め。一日の殆どを自室で過ごす様になり。
逆に疲れなく(出来なく)なった為に、眠りも浅く。深夜の夏美さんへの訪れを察知出来。
新郷田組は西川貞雄が夏美さんに殺されて混乱し。それ迄為していた夏美さんを慕う人
の監視も出来なくなって。以降9年経過した。
鬼の脚力は容易に住宅街の塀を乗り越えて。
夏美さんは9年前の豊満に若く美しい姿に。
破れ解れ汚れた巫女装束が月明りに照され。
「お別れに参りました。野村さん、真琴さん美琴さん、亜紀さんと郷田組の方々と……お
感じになりますか? この身を包む不吉な気配、死の息吹を。皆死して尚無念を憤怒を憎
悪を恨みを残し、鬼となってしまいました」
でも清冽な姿は鬼と言うより天女に近く。
人ならざる気配も月の住人の如く艶麗で。
「復讐の鬼に……真琴君美琴君が言っていた事は、事実だったのか……そうか、真琴君も、
美琴君も生命を喪って、鬼となったと……」
「申し訳ありません。せめて私が鬼にならず、人として誹謗中傷と戦い続け、希望を見せ
ていれば、この結末は避けられたでしょうけど。
この世には鬼の他に、鬼を切る者もいます。
真琴さん美琴さんから、話されていた通り。
復讐を叶えても叶えられずとも、早晩私達は鬼として討たれる。私は9年前既に幾人か
の人を憤怒の暴走の末に害して、鬼切部に切り捨てられました。切られる事は承知です」
その前に一目逢いたかった。最早鬼として進む途を、退く事も曲げる事も叶わないけど。
「こうして言葉交わせて幸せでした、先生」
「儂は何も出来ず……この老いぼれは何も出来ぬ侭、世間の理不尽を見ていただけで…」
「美琴さん真琴さんを最後迄、支え続けて下さってありがとうございます。後は私が引き
受けます。鬼に墜ちてしまった者は、鬼でなければ導けない……先生は余生を安らかに」
夏美さんにも真琴さん美琴さんにも、坂本氏を鬼に招く積りはなく。奇跡の超聖水に関
って彼は不名誉や理不尽を被ったけど。息子夫婦や孫との仲は良く、安穏な生活は保たれ。
流石にマスコミも高齢の坂本氏を指弾はせず。彼は充分すぎる程尽くしてくれた。この上
で鬼に誘う必要はない。むしろ後生安らかにと。
心残りがなくなれば残るは復讐のみとなる。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
繁華街の路地裏は、夜の闇に覆い隠され。
獄門会の人殺しの痕さえも、覆い隠され。
「ヤマさん、しっかりして!」「うっっ…」
泥だらけのホームレス塚地健夫さん48歳が。
血塗れのヤマ(山辺京介)さんに取り縋る。
ヤマさんは享年32歳。9年前の郷田組殲滅に居合わせられず、生き残ってしまった彼は。
半年後ゲンさんを喪って独りぼっちで、ホームレスになっていたけど。奴らはヤマさんを
執拗に探し続け。彼も町を離れなかったから。
『この町を離れても、行く処なんてねぇよ』
夏美さんに西川さんを殺された新郷田組は、獄門会に吸収され。でも郷田組の残党狩り
は続き。塚地さんがかつて奇跡の超聖水にいたと知る者が居て、彼をエサにヤマさんを誘
い出そうと。塚地さんがその居所を知らずとも、リンチの事実が伝われば助ける為に現れ
ると。
罠と知って彼らの中に乱入したヤマさんは、抗ったけど多勢に無勢で。エサの役を終え
て注視を外れた塚地さんは、脱出して交番に駆け込んだけど。警官は敵の人数を見て退散
し。塚地さんはリンチを隠れて見届ける他になく。致命傷を与えたと、彼らが未だ絶命し
てないヤマさんを、死体処理に運ぼうとし始めた時。
「ぶびっ」「へげっ」「はぼっ」「あれぉ」