鬼を断つ刃〔乙〕(後)
答を持ち帰る訳には行かない。鬼の所在を報せる事も、鬼の真実に繋る真実も教えられ
ないけど。伝える事迄は約束できる。必ず真弓さんは鬼に遭うから。切る前に語らう位は。
真弓さんは、鬼切部の使命と、美琴さんの願いへの応答の、接点のギリギリを追い求め。
「あなたはあなたの日々を強く生き抜いて」
鬼切り役は鬼を憎む者のみならず、それ以外の多くの者の想いも承けて、鬼切りに臨む。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
坂本家の訪問は有効打に出来なかったけど。鬼の探索は若杉や千羽の他の者も、同時並
行で進めており。鬼発見の一報が真弓さん達に届いたのは、深夜一時を少し過ぎた頃だっ
た。
若杉は人を介し、獄門会と新郷田組、奇跡の超聖水の各本部に、鬼の接近を報せて弾く
結界を敷設し。その主な者に鬼の接近を報せるお守りを配布済で。元々ヤクザは人の恨み
を買う職業柄、信心深いというより迷信深く。鬼の実在は伏せた侭でも。夏美さんに関っ
た者が殺傷される近日の展開は、関係者を震撼させており。渡された者の多くが身につけ
て。
「あひいぃぃ」「ぎぃやああ」「あびぷっ」
肉の体を持つ鬼の物理的な攻撃は、殆ど防げないけど。鬼の接近を鬼切部に報せる機能
があり。鬼切りが来る迄持ち堪えれば助かる。若杉は彼らを鬼の報知器に使った。夏美さ
んが彼らを襲えば接近した時点で、急報が入る。
4ヶ月前の新郷田組襲撃・本多さんの死の直後。鑑識を通じて得た情報から、鬼の犯行
の可能性が浮上して。若杉は対処に動き始め。
千羽党の景則さん達が、坂本医師に逢いに来た夏美さんを住宅街で捕捉し、一度は打ち
倒したのも。お守りを持った新郷田組の者が、坂本父子を監視に来ていて、鬼の接近が察
知された為だった。坂本父子が、彼らと繋る奇跡の超聖水新体制の障害になりうると考え
て。
1ヶ月前に奇跡の超聖水本部に顕れた夏美さんを、千羽党の秀康さん達が迎撃したのも。
今宵新郷田組20人余りの前に鬼が顕れた事が、驚く程早く真弓さん達へ報知されたのも同
じ。
「繁華街の裏の更にもう一本裏の路地です」
20人以上の乱闘が続く路地裏へ、為景さんは車を割り込ませ。既に鬼の手でヤクザは次
々絶命しており。抵抗は続いているけど鬼を止めるに至らず。即割り込まねば死者が増す。
鬼は車で轢いても生命を絶てぬので、2人は刃を抜いて争乱に割り込む。人気のない夜
の路地裏という事もあって。真弓さんは鬼切部の正装であり、戦闘服でもある白い狩衣に、
細身を包み。その場の皆が暫し呆然と見とれ。
「警察は来てない……速攻で片付けるわよ」
もう少しで満月に至る大きな月は、雲もない夜空から蒼い輝きで、地の蠢く者達を照し。
悶え苦しむヤクザと尚も立って抗うヤクザと、真弓さん達を映し。その中央で夏美さんは
…。
心は憤怒に染め抜かれ、姿は異形に変り果て。返り血に染まった巫女装束は、元々は赤
と白を基調にして、青や金や緑も混ぜ、色彩豊かに豪奢な装束だったけど。その袖も裾も
胴体も、ボロボロに破れ解れて穴が穿たれて。
彼女の衣は破れた状態で呪物として安定し。
それ以上破れても、生き物の如く治るけど。
破れ解れ穴が穿たれたこの状態に戻るだけ。
今の彼女が、鬼の現状に自身を修復できるのと同じ。人には戻れず、ヤクザやマスコミ
を憎む鬼の現状を脱せないのと同じ。その隙間から覗く素肌は爬虫類の如く緑色で硬質で。
多くの打撃を吸収し、銃弾も容易に通さない。
「ヤクザ達は、新郷田組の連中の様ですな」
「鬼切部の目的は彼らではないわ。邪魔なら死なない程度に打ち据えて、鬼を討つわよ」
ヤクザの側で、真弓さんと為景さんの介入に抗う者はおらず。逃げ出す機会を探ろうと、
鬼の反応を窺う姿勢で。彼らを横目に見つつ、鬼切り2人は鬼に向けて、直線的に疾駆し
て。
「鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽真弓が、千羽妙見流にてお相手するわ。覚悟なさい!」
「ぬぅ……おにきり、べ……鬼を切る者…」
夏美さんは復讐の力を求め欲し、自らを鬼に変えた。身に宿る『力』を激情で暴走させ。
優しさや賢明さを宿した美しさ・女性らしさを打ち捨て、獣の性質を取り込み呼び起こし。
百六十弐センチの背はわたしより少し高く。その胸やお尻や太腿の曲線は、わたしより
当時の真弓さんよりも、遙かに大人だったのに。その麗質は暗緑色の分厚い皮膚で覆い隠
され。
為景さんの足も凄まじい速さだったけど。
真弓さんはそれを凌ぐ神速で鬼へと迫り。
「覚悟っ!」「ぐぬうぅ!」「……真弓殿」
夏美さんは傍に倒れていたヤクザの若者を、右手一本で持ち上げて真弓さんへの盾に使
う。
彼女は既に二度千羽党と戦っており。彼らの技量が鬼も凌ぎ、まともに戦えば勝利も逃
亡も難しいと分って。鬼切部が基本鬼を狙い、鬼以外の人は叶う限り殺めない動きを為す
と分って、相応の戦い方を。これが鬼を一度で倒せなかった場合に生じる『後々の面倒』
だ。
「でも、その程度で!」「……なぬぅっ?」
今迄対戦した相手と真弓さんの強さは桁が違う。真弓さんは、瞬時に鬼の背に回り込み。
夏美さんはその速さに対応が後れ。生きた人を抱えて向きを変えるには、少し手間が掛る。
「ぐがっ」夏美さんは背後から心臓を貫かれ。
盾にしたヤクザを殺めぬ様に、その刺突を浅く抑え。でも夏美さんの心臓は確かに貫き、
鬼切りの『力』を注いで鬼の心から灼き殺す。普通の鬼なら、それで決着する処なのだけ
ど。
盾にしたヤクザを捨てて、その場に倒れた夏美さんは、苦しみつつ立ち上がり。真弓さ
んもこれには驚いた。鬼切りの刃を受けても中々死なぬ鬼は居たけど、即立ち上がるとは。
「何と、真弓殿の一撃を受けて尚動くか!」
「景則さん達が打ち倒したと誤認した訳ね」
心臓に刃を届かせた鬼が川や海に落ちれば。
生き延びて再起する怖れなど普通考えない。
夏美さんは鬼になって更に強化された想いの『力』で自らの傷を癒し、鬼切りの刃から
注がれた鬼を灼く『力』を相殺し。尚苦しげに顔を歪めるのは当然だ。千羽党の当代最強
の一撃を受けて、死なずにいる事が奇跡で…。
「でも、技量はそれ程ないと視た」「うぬ」
その足下がふらついて。まともな状態でも夏美さんが、2人のどちらかからでも逃げ切
るのは至難の業だ。人が鬼に遭ってはいけない様に、鬼はこの2人には遭ってはいけない。
形勢の一変を感じたヤクザの1人が、夏美さんに突進し、その脇腹に短刀を刺し。友の
仇討ちより、勇者になる事で報償や賞賛を狙った様だ。真弓さん達の援護も見込み。でも。
「ぐああぁぁぁあ!」絶叫はヤクザの物だ。
夏美さんは突進を受け止めて倒れず。短刀を腹に刺されても動じず。ヤクザの両肩を鬼
の剛力で掴んで砕き。持ち上げて、その喉頸に牙を突き立てて、肌を食い破って血を啜り。
真弓さんと為景さんが再度鬼に突進する。
夏美さんもそれは予定済で、血に酔う余り敵に隙を見せる事はなく。飲み干すと見せか
けつつ喉を食い破った処で止め、その体を再び盾にして後退し、2人に挟まれるのを避け。
「覚悟っ」でもすぐ後ろに回れ込まれ。為景さんと鬼の間にもかなりの技量の開きがある。
「真っ二つにされても生きていられるか!」
背後に刃を振り下ろそうとした為景さんが。何かを察して振り下ろしを止め、背後に飛
び退く。為景さんに、爪の付いた鬼の腕が飛来して。構え直した鬼切りの刃で薙ぎ払うけ
ど。攻撃を急遽守りに変えた為に、彼の体勢はやや崩れ、それ以上攻撃は出来ず少し遠ざ
かり。今鬼は、己の腕をロケットパンチに使った?
「一体、何が……」「為景さん、大丈夫?」
鬼の左側面から迫った真弓さんも、一時後退していて。その傍にも、彼女が薙ぎ払った
爪の付いた鬼の腕が落ちていて。でも夏美さんの両腕は今もヤクザを盾に持ち。その代り。
「思ったよりも厄介ね……癒しの『力』を鬼が持つと」「真弓殿、まさかこの鬼の腕は」
盾にしたヤクザの腕が消失していた。鬼はその両腕を引き千切り、腕側の傷口から癒し
の『力』を注ぎ、爪付きの鬼の腕に再生させ。
「投げつけてきた訳ですか……何と凄惨な」
ヤクザは激痛に失神して悲鳴も出せぬ。この間に鬼は首筋から血を啜り、両腕付け根か
ら迸る血潮を肌身に受けて己の『力』に変え。血塗れな以上に彼女がヤクザに情の欠片も
抱かず、使い捨てる事が為景さんを慄然とさせ。
「早く始末せねばなりませぬな。最早彼女は、癒しの力で人を救った不二夏美ではない
…」
「そうね。人だった頃の不二夏美がこの有様を見れば、早く息の根を止めてと願うかも」
形勢は尚真弓さん達に有利で、遭遇即詰め将棋の状態は変ってない。夏美さんは何人か
のヤクザの血を啜ったけど、贄の血と違って凡百の血では劇的に『力』を増す効果はなく。
特異な攻撃に驚かされたけど。一度見てしまえば対処の術はある。鬼は人の腕や足をね
じ切って、癒しの『力』を及ぼさねばならず。それをさせなくば、それより早く切れば良
い。
でもそこで真弓さんが鬼に向けた言葉は。
「中原美琴さんから、伝言を預っているわ」
鬼がピクと反応を見せた。周囲を全て敵と見なし、又は餌や消耗品と見なし。憎悪と恨
みと憤怒の侭に、暴れ回るだけだった彼女が。
「真琴さん美琴さんが不二夏美に逢いたいと、強く想っている。2人は今尚不二夏美に心
を寄せて、坂本医師達夏美に心寄せた人の間を繋ぎ、いつか出逢える日を望み願い。真琴
さんの病は、やはり悪化し始めているそうよ」
動揺なのか、鬼の表情が姿勢が声音が変り。
人だった頃の暖かな記憶が、憤怒の占める。
今の鬼の、強ばった心を体を大きく揺らし。
「美琴さん達に逢ったの、あなた? そんな、一体何を目的に。私を切りに来た者が今
更」
「美琴さんと約束したから。あなたに逢えたら伝えて頂戴と。本当は『どこにいるのか分
ったら教えて頂戴』だったけど、それはわたしが出来ないから断って。伝言を預ったの」
告げはしたわ。美琴さんとの約束は果たした。後はわたしの用件よ。あなたは今や人に
害を為す悪鬼なの。切られて頂戴、不二夏美。
夏美さんは想いもしない情報に強く動揺し。
心が崩れ戦いを為せる状態ではなくなって。
真弓さんが一気に間合を詰めて刃を振るう。
動揺してなくても回避が至難な一撃が迫り。
「夏美先生、危ねぇっ!」「「「な!」」」
真弓さんと鬼の間に挟まった血塗れの男は。
夏美さんを刃の届かぬ後方に突き飛ばして。
茶髪で背の高い男性は、安川玄也さん通称ゲンさん24歳。建設業郷田組の社員でヤクザ
郷田組の組員も兼ね。奇跡の超聖水発足前から、坂本医院を介し夏美さんとも旧知の仲で。
新郷田組による、郷田組の残党狩りだった。
郷田組長や古川さん等主な者は、獄門会に殲滅されたけど。新郷田組は跡目争い名目で、
生き残りを掃討し。獄門会から、獄門会に逆らった郷田組の面々を狩れと命じられた様で。
今宵も新郷田組はゲンさんを見つけ集団で。
好き放題に殴り蹴りして最後は殺す積りで。
それを見た夏美さんが復讐も兼ねて乱入し。
逆に新郷田組の面々を殲滅した処お守りが。
真弓さん達をここへ導き寄せたという訳で。
ここにいる新郷田組の面々は皆自業自得か。
唯夏美さんに心寄せ恩を感じるゲンさんは。
鬼でも彼女が切られる様を捨ててはおけず。
「夏美先生を求める者は、少ないけど未だ世に居ます。ここで切られて死んじゃいけねぇ。
オレは親父(郷田組長)も兄貴(古川義則さん)も亡くしたけど。行く処も帰る処も喪
ったけど。求めてくれる者もなくなったけど。夏美先生には未だ居ます。美琴さん真琴さ
ん、先生に逢える日を、待っているんでしょう…。
オレは先生の危難を奪って、代りにオレの無念を託す。オレの無念を背負って生き延び
てくれ。オレは弟分のヤマ(山辺京介さん)の事を委ねられれば、後に何も悔いはない」
彼は生命の使い場所をここと思い定め。今迄死に損なってきたのは今宵この時の為だと。
既に内臓破裂した体を無理に動かして。でも。
「覚悟は認めるが、技量が足りぬ。お前では、この儂も真弓殿も止めるには全く力不足
…」
ゲンさんの援護があっても、夏美さんが逃げ切れる可能性はゼロだった。鬼切部は鬼に
与する人を、鬼と見なして切る権限を与えられているけど、それを行使する必要さえなく。
彼の技量では時間稼ぎさえ叶わない。この夜、真弓さん達が鬼を討ち漏らした最大の理由
は。
「なっ?」「何だ、この結界は」「……?」
ゲンさんも夏美さんも何が起きたか分らず。
真弓さん達はなぜそれが起きたのか分らず。
突き飛ばされた夏美さんを除く、真弓さん為景さんゲンさんや倒れたヤクザ達を囲んで、
見えない『力』の結界が形成され。内側と外側が遮断され、鬼切部は鬼を追えなくなって。
「くっ」真弓さんは結界を破ろうとするけど。
ゲンさんが体で阻むので太刀を振るえない。
そのゲンさんは結界外側の夏美さんに声を。
「何だか分らないが奴らは動けない。早く逃げてくれ。先生が今死なないのは天命だ!」
夏美さんは頷いて走り去り。数秒後真弓さんは結界を無理に破ったけど、既に鬼は遠く
へ去って。千羽党は鬼の討伐に三度失敗した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
若杉が行使した余計な術が、夏美さんを生き延びさせた。若杉は、獄門会や新郷田組や
奇跡の超聖水の主な者へ渡したお守りに、唯『力』を込めて報知の機能を持たせた以上に。
それらを遠隔から操って結界で囲む事を試み。
ヤクザの懐のお守りが、数キロ離れた若杉術者の操作で『力』を放って結界を作り、鬼
を閉じ込める。新郷田組に囲まれた状態なら、又は乱闘状態なら。夏美さんを逃がさず、
真弓さん達の鬼切りの役に立つ予定だったけど。
現場に出ず、状況を見ず、囲めばいいという感じで結界を発動させた末に。真弓さん達
だけを囲んで出られなくして、結界の外側にいた鬼は逃げ去るという、痛恨の結果を招き。
真弓さん達の立ち去った後、到着した警察がヤクザ達を逮捕し、怪我人は病院に送られ。
ゲンさんは未明に収容先の病院で亡くなった。夏美さんなら彼の生命を繋げただろうけど
…。
この一件はヤクザの諍いとして片付けられ。
奇跡の超聖水を非難する各紙も全く触れず。
「鬼や鬼切部の存在に触れる訳に行かないし。証拠もないのに夏美の所為と非難も出来
ず」
「それだけではない様です。どうやら若杉は、不二夏美を社会的に排除し終えた今、奇跡
の超聖水や新郷田組の存続を許す意向らしく」
若杉は、本物の癒しを持つ夏美さんを社会的に抹殺した段階で、事態収拾を考え。偽物
の癒しなら、インチキなら既存の秩序に与える影響は小さい。怪しい癒しを謳う他の諸団
体と同様許容できると。支援する積りはない。自力で生き残るなら放置する位の話しだけ
ど。
「偽物なら存在を許される。究極の皮肉ね」
完全に潰さないのは、夏美さんの再起への備え。仮に彼女が再起しても、奇跡の超聖水
の本家は宗佑氏達だと。組織存続の為に夏美さんを逐った彼らに、今更引き返す途はない。
真田記者の週刊春秋に、宗佑氏達新体制を評価させたのは、マスコミの足並みを乱して
非難の迫力を弱めようとの意図で。原田記者の葬儀を使った学習館の非難は、痛烈だけど。
非難を続ける事は止めさせる積りもないけど。時をおいて別の話題を流し、徐々に奇跡の
超聖水その物を、世間の注目から外して行くと。
「結局若杉の望みは、化外の癒しを世に広めようとした不二夏美1人の抹殺。なら鬼に追
い込む必要はなかった。この件自体若杉の読み違い・失陥の尻拭いの様な物ね。先日は余
計な結界のお陰で更に尻拭いが増えたけど」
「こんな結果になるとは思わなかった、との今回の言い訳が、全体に通じるのかも知れま
せんな。この鬼には同情できる処もあるが」
「事ここに至っては、他に為せる術もないわ。
わたし達はわたし達に出来る事を為すだけ。
彼女を人に戻す術は、多分ないでしょうね。
夏美は関係ない目撃者も傷つけ始めている。
復讐や己の生存の為なら、手近な者の生命を躊躇なく、踏み躙る方向に走り始めている。
人の全てを敵と思っているのかも知れない」
彼女は人を外れてしまった。人に仇なす悪鬼となった以上、わたし達鬼切部は鬼を討つ
のみ。彼女を鬼に追い込んだ人の行いは人の司法が裁く。そこは人の世間を信じて委ねる。
若杉が鬼切部に鬼切りを信じて委ねた様にね。
真弓さん達は若杉や千羽党の他の者と手分けして、鬼の行方や手掛りを探る作業に戻り。
鬼が恨む組織は結界で監視中だ。その主な者にはお守りを渡して、報知の体制は整って
いる。後は夏美さんを慕う者で、行方を知る者がいるかどうか。夏美さんが心寄せた者に
逢いに来ないか。真弓さんもその足で探索を。
『鬼切り役はそこ迄せずとも下々の者に任せ、鬼の報せを待って駆けつければよい物を
…』
と言う者も千羽にいるけど。真弓さんは鬼の所在を探る以上に、鬼と関った人々と触れ合
う中で、鬼の生い立ちや考え、実情や事情をつぶさに見て聞いて、鬼を知る事を重視して。
中には鬼に心寄せた者や鬼を今尚信じる者も居て、来訪を拒み石を投げる者もいたけど。
真弓さんは、鬼が鬼になった現状を承知で物理的に味方した者以外は、『鬼に与した切る
べき人』と見なさず。力づくの処置は望まず。
関った者の応対が、間接的に鬼の姿を映す。
情報をくれた事、縁を結べた事に感謝して。
罵られた末の断絶や決裂も、定めと受ける。
その様にして今日も真弓さんと為景さんは。
午後3時に訪れた、元教員・野村純哉さんが住む古いアパートの玄関先で。先日死去し
た原田記者の妹・香苗さんとその相棒、副島靖史記者が。中原美琴さんやその姉真琴さん
と言い争う現場に。遭遇してしまう事になり。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「野村先生にあんた達嘘つきマスコミが一体何の用なの? まだ付き纏って苦しめる気?
好い加減にしてっ」「美琴、落ち着いて」
「わたしは奇跡の超聖水の、本当の実情を聴きに来たの。どんな事を喋りどんな事を為し、
どの様に騙したのかを」「香苗君ちょっと」
ミディアムの黒髪の美琴さん小学5年生が、セミロングの黒髪の真琴さん中学1年生の
制止を越えて大声で罵り。ストレートな黒髪長い香苗さん高校3年生も、罵りに言葉を返
し。黒髪短い副島さんは、香苗さんを止めきれず。
先に訪れたのは香苗さん達だった。香苗さんは兄の相棒・副島記者に弟子入りを懇願し。
その熱意と特別な事情を汲んで、ご両親と学習館・週刊ロスト編集部は、話し合いの末に
暫くの間、一部の取材及び報道に香苗さんを、体験入社扱いで参画させる事に。副島記者
がその指導及び保護を任された『相棒』となり。
危険や秘匿を要する取材に、女子高生を随伴はさせられぬ。なので香苗さんを伴うのは、
外回りでも危険や重要性の低い取材が主体で。亡き兄の仕事の『雰囲気を知る』事を優先
に。
相棒を喪った副島記者は、暫く本格的に動ける体制になく。記事は原田記者の追悼特集
があるので、新規の記事は当分必要ではなく、地道な情報収集に励んで良い頃合で。奇跡
の超聖水関係者で危険の低い人達への、再度の情報聞き取りに、香苗さんを伴う事にして
…。
野村純哉さんは年金暮らしの65歳。坂本医院に通っていた縁で、奇跡の超聖水発足以前
から夏美さんと面識があり。創立時の支援者で夏美さんが代表解任される迄団体の中枢に
いて。でも新旧郷田組との関りは薄く、接触に危険は少ないとされて。夏美さんの代表解
任後、奥多摩の施設を出て現住所に移り住み。マスコミの取材は原則門前払いを貫いてい
る。
真弓さん達の面談申し込みも最初は拒まれ。
不二夏美の非難目的でないと粘り強く伝え。
漸く了承されて為景さんと2人で訪ね来た。
でも副島さん達は幾ら話しても了承されず。
手厳しく非難した側だから無理もないけど。
雨の日も風の日も玄関先で面談をお願いし。
今日も2人は正午頃から野村宅の玄関先で。
先刻訪れた真琴さん美琴さんを迎える事に。
『あんた達、だれ?』『週刊ロストの……』
美琴さんはこの日、久しぶりに真琴さんが外出できる体調で。天気も良いので一番近い
処にいて、確実に逢える野村さん宅を訪ねて。玄関前で先客に遭って彼らを『敵』と認識
し。
「なつみ先生の癒しは本物なの。寄付だって、希望者が出したい時に出してっていう感じ
で、無理強いなんかしていない。嘘つきマスコミが嘘と分って貶める為に広めた大嘘な
の!」
「兄さんは嘘つきなんかじゃないし、奇跡の超聖水が金儲け団体だったって事は、マスコ
ミの手で曝かれた。現に多くの人が被害に苦しんでいる。いい加減目を醒ましなさい!」
両者は、と言うより美琴さんと香苗さんは。
互いに真琴さんと副島さんの抑制を聞かず。
「なつみ先生の癒しはあたしの熱も冷まして、お姉ちゃんの病も良くしたわ。あたし達の
見ている前でも多くの傷や病気を治した。トリックやインチキじゃできない! あんた達
マスコミが非難して引き離されたから、お姉ちゃんの病は悪くなり始めたの。野村先生の
高血圧や膝も、病院に行っても慢性疾患だって、治すことは出来ず、痛みを弱めるだけで
っ」
「そうやって多くの人達が、お金をむしり取られたのよ。そのせいで生活費や老後の貯蓄
をなくしちゃった人もいるの。治らないのは寄付が足りないからだと、奥多摩に誘って」
相手を前に、胸に秘めた想いを抑えきれず。
自分の想いを、折られる訳には行かないと。
「王さん達が、寄付を自分の懐に入れる為に、夏美先生の癒しをワザと与えないで、もっ
と寄付をしてって求めたの。それはなつみ先生のせいじゃない。なつみ先生は悪くな
い!」
「王健行だけじゃない。不二宗佑もその取り巻きも、夏美と一緒になって、何も知らない
病人やけが人を惑わせ。王健行や佐伯摩耶が、己可愛さに罪を全部夏美になすりつけてい
る事は、兄さんも指摘していた。週刊春秋や創論は煽りに走る余り、嘘も混じっているっ
て。
でも、それらを除いても奇跡の超聖水には、信者の金を搾り取った者が大勢いる。夏美
の指示じゃなくても、幹部の多くが手を染めているなら、抑えられなかった責任もある
わ」
美琴さんは夏美さんを強く慕い、香苗さんは泰治さんを強く想う故に。互いの見て聞い
た物は事実だから引かず譲らず。相手の主張を思惑絡みの嘘だと決めつけ、平行線を辿り。
「マスコミはいつもそう! 好き放題に嘘を書いて、嘘がばれると話しをそらす。他の雑
誌が書いたとか、そうじゃない処もあるって少し書いといたとか。なつみ先生の弁明はほ
んの少し言葉を間違えただけで、悪の権化の様に叩いておいて、自分達は許されるのね」
「あなたは不二夏美の弁明のねじ曲がり方を見てないの? 金銭トラブルがないと言った
後に金銭トラブルの事実が曝かれ、寄付の強要はないと言った後で寄付の強要が晒されて。
早くその危険をみんなに伝えないと、何も知らない人はどんどん毒牙に掛っていくのよ」
美琴さんもマスコミ報道には思う処が多く、小学5年とは思えない程の語彙を持ち。香
苗さんも兄の死を契機に、報道の意義や役割を考える様になって。2人は抑制する相方を
互いに撥ね付け。大切なものへの想いを譲らず。
「なつみ先生を毒牙扱いしないで! あんたの兄が書いた記事で、どれだけ多くの人が苦
しめられ傷ついたか、分っているの? 社会正義とか弱者の味方とか、今叩かれているの
はみんな弱い者ばかりじゃない。一体どこに社会正義があるのよ。不二宗佑は放置して」
「不二宗佑も夏美の同類よ。佐伯摩耶や王健行の同類よ。絶対許さない。騙されてお金を
失う病の人がもう出ない様にって。兄さんはみんなに慕われ愛されていた。ヤクザと繋っ
た夏美のどこが、正義や弱者の味方だと…」
女の子の罵り合いの火花が飛ぶけど。世間の評価や情報の量で、香苗さんが若干有利か。
美琴さんはそれが己の力不足で夏美さんを守りきれないと思えて、一層心を固く閉ざして。
「郷田組のみんなの方が、マスコミ記者より未だマシよ。怒らせると怖いけど、理不尽に
怒る事はしなかった。仲間を守る為に戦った。マスコミは誰も幸せにしない。誰も守りも
しない。責めて踏み込んで荒らすだけ。あんたの兄もあんた達も、人の不幸をエサにし
て」
「不二夏美の様な悪党を、その悪党に群がる小悪党を叩いて、世間にその実情を見せつけ
る為に、マスコミの活躍は要るの。金儲けの為に人を騙し脅す者を根絶やしにする為に」
ご近所さんや通行人も、それとなく目を向けるのに。真琴さんや副島さんは気付いてい
たけど。激した2人は周りが見えず。へとへとになる迄舌戦を繰り広げた末に。真弓さん
達が間近に来て、漸く部外者の存在に気付き。
真弓さんもその頃合を探って割って入った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「上総さん」「初めまして、妹がお世話になりました。中原真琴です」「かず、さ…?」
真琴さんは妹から真弓さんの話しを聞いていて。姉妹は、坂本父子の時の様な事情聴取
と感じた様だけど。真琴さんは何故か真弓さんを見つめて頬を染め。確かに真弓さんは元
々の美貌に、武道の達人の芯の通った日本刀の麗質が加わって、人目を惹いてしまうけど。
「君は、泰治の葬儀の警備にも?」「はい」
副島記者も真弓さんの美しさを覚えていて。
ここに顕れた事は偶然と思えないと疑念を。
真弓さんも為景さんも一応名刺交換に応じ。
報道記者の知識欲を刺激する愚策はしない。
「若松探偵社で調査員をしております上総真弓です。本日は野村純哉さんに面会の約束を
頂いておりまして」「同じく伊豆為景です」
為景さんは千羽の生れではないので、分家の通称を使えない。なので千羽氏の本家と言
うべき千葉氏の本拠から離れた小国の伊豆を。2人が仮に所属する若杉系列の若松探偵社
は、上総真弓と伊豆為景の名前を持たせた者を別に雇っている。この様に外で気の利く者
に遭遇して、所在を確認されても対応できる様に。氏名で確かめて尚写真でダメ押す者は
少ない。
「一体誰がどんな目的で不二夏美の調査を」
「それは依頼人との契約で秘密厳守です…」
状況の急変について行けない香苗さんを脇に置き、副島さんは前へ踏み出し真弓さんに。
流石に敏腕の記者か。真弓さん達の佇まいに、一般人と異なる気配や雰囲気を感じたらし
い。
「葬儀の警備に紛れ込んだのも調査の為か」
「ご想像にお任せします。それでは失礼…」
真弓さん達は面談の約束を取り付けている。ここで人の論争に割り込む事は使命ではな
い。真琴さん美琴さんは親近感を抱いた様だけど、2人に与する積りさえなく。唯、野村
さんは姉妹の友人だから。真弓さんは野村宅へ入るついでに招き。副島さんや香苗さんを
招かないのは、野村さんの意向を重んじれば当然で。
「そうよね。今日は何もマスコミをやっつける為にここに来たのでないのだし」「……」
なぜか勝利感に浸る美琴さんと。真弓さんに無意識に近付いて触れようとする真琴さん。
為景さんが副島記者達を姉妹から隔てる形に。自分達が許されない面会を、別の者が許さ
れていた事実は、香苗さんには苦々しい展開か。
でも野村宅は静まり返った侭で扉も開かず。
「不在ですかな?」「それはないと思うわ」
真弓さんは出立前に、電話でこれから訪ねると野村氏に伝え、『待っている』旨の答を
貰っていた。それ迄の合間で、少し近場に外出したと言う事か? でもここで香苗さんは、
美琴さんと相当長い間舌戦を繰り広げていた。
それより前から、香苗さん達は玄関前に面談要請に来て、その間ずっと扉は開いてない。
裏口もない。近場の外出なら帰っているべき。遠出すれば面会に障る事は考えれば分る筈
で。
野村氏は真弓さん達に会う気はないのか?
「野村さん、野村純哉さん」「出ませんな」
これでは真弓さん達も、香苗さん達と同じ門前払いされた立場になる。6人で古いアパ
ート前に、いつ迄も屯していると人目に付く。既に香苗さんと美琴さんの舌戦で、大いに
目立ってしまっていて。常の人の印象に残りたくない鬼切部としては、好ましくない状況
だ。
真琴さんも美琴さんもドアの前で声を掛けるけど、内側から何の返答も物音も聞えない。
「おかしいわね。わたし達は兎も角、真琴さんや美琴さんにも返答がないのは。不在?」
ドアに頬当て真弓さんが耳を澄ませる間に。
美琴さんは再び苛立ちを香苗さん達に向け。
「あんた達マスコミが来たからよ。不躾な質問ばかりするから、野村先生も嫌になって」
「逃げ隠れしたというの? 自分達が調子良い時はマスコミに出て利用して、形勢が不利
になったら人の質問に答えず引きこもる?」
「あんた達が人の話しを歪めて伝えるから、話すのがばかばかしくなるのっ」「美琴…」
真琴さんも副島さんも袖を引っ張るけど。
美琴さんの敵意に香苗さんも敵意を返す。
「思惑付きで事実を曲げる者の言葉を、その侭報道しては、それこそマスコミが嘘つきに
なってしまう。そんな腐ったマスコミを使って、あなた達は伸びてきたのでしょうけど」
「あなた達がその腐ったマスコミだってあたしは言っているの。あなたもあなたの兄も」
「腐ったマスコミとは不二夏美に阿った者よ。
腐った宗教者とは奇跡の超聖水、不二夏美。
彼女に付くのならあなたも同様に腐った者。
兄さんの仇はわたしが必ずペンで討つ!」
「仇討ちの仇とはあなた達の方よ。あなたもあなたの兄の様に、きっと天罰下るから!」
「少しの間静かにして!」「……真弓殿?」
真弓さんがどちらの罵声も叱りつけたのは。
どちらにも、味方しないと言う立場以上に。
人目に付く事を嫌った鬼切部の背景以上に。
少しの間耳澄ませ気配を探りたかったから。
「ドアを破るわ」「真弓殿、まさか室内で」
「ちょ、あんた」「上総さん?」「なっ…」
真弓さんはドアのノブを握り締めた右掌に、瞬時力を強く込め。閉じていた鍵は、僅か
な抵抗の後で壊されて。ドアは無理に開かれて。細腕でも維斗の太刀を軽々扱う真弓さん
の腕力は、並の達人男性をも凌ぐ。純粋に物理力で真弓さんは、野村さんの玄関を開け放
って。
「踏み入らせて貰うわ。不法侵入や、鍵と扉の賠償等の問題は、後で聴きます」「……」
その迫力に副島さんも見守る他に術はなく。
真弓さんの行動の答は室内で全員に示され。
野村純哉氏は自宅の居間で気を失っていた。
「「野村先生っ!」」「気をしっかり……」
香苗さんも副島さんも、衝撃に言葉を失い。
真琴さん美琴さんは抱き合って動揺を抑え。
真弓さん達が強く声を掛けても反応はなく。
「為景さん、救急車を。急いで」「承知!」
予定していた事情聴取は、出来なくなった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
野村さんは、救急車で病院に搬送される迄、意識を戻す事なく。真弓さん達6人は、面
会謝絶の札が下がった病室の外の廊下で。医師の説明を待つ内に、窓の外では陽が落ちて
…。
野村さんは奥さんと死別しており。子供も遠方に住んでいる上、奇跡の超聖水バッシン
グを経て絶縁状態で。近しい仲の真琴さん美琴さんは未成年で。この日の経緯から、副島
記者達も真弓さん達も病院に伴わざるを得ず。
野村さんは膝と高血圧の持病を持っていて。
坂本医師や夏美さんに診て貰っていたけど。
夏美さんの癒しから引き離され病は悪化し。
マスコミのバッシングも心労になった様で。
「これがあなた達の成果ですか?」「……」
診察時間が終って静謐になった総合病院の夜の廊下で、電灯の輝きが照す中で。憤懣の
口を開いたのは、美琴さんではなく真琴さん。中学1年の女の子は、低い声に怒りを滲ま
せ。
「野村先生は夏美先生の癒しで、病を改善させていたのに。あなた達の言うインチキじゃ
ない現代医療では、悪化する一方だった病を改善させていたのに。夏美先生から引き離さ
れた所為で、その癒しを受けられなくなって、野村先生は病が悪化した。あなた達の所為
で。
野村先生は夏美先生の癒しの効果の証明に、奥多摩からも定期的に病院に通っていた。
その診断でも、夏美先生が診ていた頃は病が改善していて、夏美先生の癒しを受けられな
くなって病は悪化した。それはわたしも同じ」
野村さんも真琴さんも、夏美さんの癒しの有効さを証す為に、自身の体を病を使って…。
「この結果を見て、あなた達は未だ夏美先生をインチキと言いますか。人を不幸に陥れて、
尚社会正義や弱者の守りを言いますか。それで誰かが守られるなら、それでも良いけど」
美琴さんの罵りと違って、終始真琴さんの声音は平静だけど。その代り抑えに抑えた怒
りが溢れ出て、香苗さんのみならず副島記者も怯ませる。静かな廊下にその声は良く透り。
「あなた達のその守りが、別の誰かを踏み躙った事を分って。わたしは夏美先生の行いに
も過ちがあって、誰かを傷つけた事は理解します。あなた達が善意で犯した過ちと同じく。
夏美先生は広く世の人の癒しを願ったけど。
賛同した全員が同じ願いだった訳じゃない。
夏美先生も神様じゃないからミスも犯すわ。
あなた達の批判が正しい事もあるでしょう。
それであなた達は大切な誰かを守れたのね。
でも正にその守りが別の誰かを踏み躙った。
それだけは憶えておいて。あなた達の社会正義や弱い者の守りが、わたし達やわたしの
理想を踏み躙った事を。わたしは忘れない」
それ以上話したくないと言うより、真琴さんは体力が尽きかけていて。廊下の長いすに
座り込み、美琴さんに体を支えられ。野村さん宅でお話しし、夕刻に帰る予定だったのだ。
玄関前での長い舌戦や救急車での移動、緊迫した待ち時間などで、体力を急速に減らして。
今の言葉に残る気力体力を込めて叩き付けた後は、立っている余力もない状態になって。
その弾劾を前に立ってられぬ者がもう1人。
香苗さんはこの展開に強く衝撃受けており。
己に罪の意識を感じ。自分が守りの積りで、人を責めてもいたと気付いて愕然と。真琴
さんが弾劾を為し終えてから、苦しげに座り込む光景も。己が真琴さん迄追い込んだ錯覚
を。
「わたしは……わたしは、唯兄さんの……」
兄の仇を討つと決意したけど。その為に敵に向き合う覚悟はあったけど。病人を倒れさ
せ年下の子供に非難される展開は、想定外で。己が誰かを傷つけ謝るべき立場になると
は!
「今回の事は、野村さんに申し訳なかった」
副島さんは香苗さんを長いすに座らせて。
自身は美琴さん真琴さんに視線を合わせ。
「我々の取材も報道も過ちだとは思わないが、この様な結果を招く事は本意ではなかっ
た」
真相に迫る為には、報道記者は時に嫌がる相手の訊かれたくない事を問わねばならない。
それが相手に心労を与え、体調を狂わせ、病を悪化させ、精神的に追い込む事もあるけど。
ぬるい取材や迎合記事を書いていては、報道記者に存在意義はない。それが夏美さんに向
けられたのは、辛い現実だけど。取材に手心を加えていては、報道記者に存在意義はない。
唯この結果を望んで為した訳ではないので。
野村さんが倒れた結果に対して頭を下げる。
女子高生やそれよりも年下の女の子の前で。
それが報道記者の在り方だと示すかの如く。
「今後改めるというなら、許してあげてもいいわ」「改める事はない。それはできない」
真琴さんの代りに美琴さんが、副島さんの謝罪に誠意を感じて。許しても良いと応えた
けど。副島さんはそれを拒み。野村さんを倒れさせた事や、真琴さんを消耗させた事には、
謝るけど。それで取材に手心を加えたり相手に迎合しては、報道の責任を果たせなくなる。
そこは弾劾されても彼の譲れない一線だった。
「我々の考えを理解してとは求めない。だが、我々は今後も真実を求めて取材は続ける
…」
泰治と取材した中で、王健行や佐伯摩耶が信者に寄付を強要し己の懐に入れた事実も分
った。創論や週刊春秋が、全て夏美の所為と非難する中で、我々は否定の報道をしてきた。
泰治が本当に真実を求めたからこそ、全ての責が夏美にある訳ではない事も。それを世に
浸透させられていない事は、我々の非力だが。
「マスコミは、己が好いた者を守ったり、嫌った者を叩いたり見捨てたりする為に、他者
の人生を左右する権限を行使する訳じゃない。好き嫌いで護る者叩く者を選んではいけな
い。真実の前には、敵も味方もないのが報道だ」
それは、香苗さんに教え諭しているのか。
それとも己自身に言い聞かせているのか、
「その上で、今日は野村さんや君達に不快な思いをさせ、心労を強いた事を、謝りたい」
再び頭を深々と下げてから、副島さんは香苗さんの隣に座して、その細身を軽く支えて。
それは兄が妹を慈しむ様で妹が兄に縋る様で。中原姉妹もそれ以上の追及はなく、互いを
抱き支え合い。互いに言葉が尽きた状況で、非難中傷は最早出ず。真弓さん達は見守るの
み。
沈痛だけどどこか暖かな静謐が場を包んだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「野村純哉が鬼に襲われ、重傷だってか?」
とんでもない単語を口にしつつ現れたのは、真田記者と相方の井口記者29歳。夏美さん
を追い出した奇跡の超聖水に、数日でも居続けた野村さんを。真田記者は夏美さんを裏切
り、恨みを買って、害されたと考え。特ダネに出来ると馳せ参じ。野村さんも監視されて
いて、真田記者は新郷田組と繋って情報を得ており。
「人の不幸はオレ達の飯のタネ、オレに及ばない処でどんどん暴れてくれよ、鬼さんっと。
死んでいれば連続殺人と煽って書けたのに。
死に損なっては、記事もパンチ力不足だな。
まぁ死んでなければ死んで貰って、もう一度記事に出来る。今夜の内に野村宅も撮って
おかなきゃな。室内が乱されていればいいが、違っていれば物色された絵に調えないと
…」
彼は若杉に直結しているから、鬼の真相も現状も承知の様で。相方の井口記者はそれら
の事情を、良く分ってない様だけど。真田記者は特ダネを前に、注意力不足の傾向が窺え。
「ちっ、ロストの原田相方もいるのか。独占取材と思ったのに……人の不幸在る処にはマ
スコミ在りだなおい。まぁいい。早速顔写真撮るぞ、病室はここだな」「はい真田さん」
真弓さん達が鬼切部千羽党である事は、知らないみたい。でも真弓さん達も、真田記者
が鬼の事情を承知とは、この時初めて知った。若杉は財閥傘下のどの範囲迄、鬼の事情を
報せているか鬼切部にも内密にし。各々は縦割りに若杉幹部に繋っていて、互いの存在を
存じなく。馴れ合いや癒着を防ぐ為らしいけど。
「野村さんは持病の悪化で緊急入院しました。心労もあった様ですが、誰かに襲われた訳
ではありません。それと、今は面会謝絶です」
面会謝絶の札を見ながらドアを開け、病室に入ろうとする真田記者を。その左手首を握
って留める真弓さんに。彼は面倒くさそうに視線を向けて、一度の面識を憶えていた様で。
空いていた右の掌を真弓さんのお尻に回し。
普段着の上からぬるるっと撫でようとして。
「女の癖に、大の大人に小生意気に注意するのはいいけどね、お嬢ちゃん。自分のお尻の
ガードもしっかり出来ないようじゃ……っ」
その右手首を真弓さんに軽く捻りあげられ。
彼の想定を越えた展開に痛みに声が詰まり。
「わたしは未だお嬢ちゃんで豊満な大人の女ではないけど、大の大人がこんな事をする以
上、相応の報いは覚悟しているのでしょ?」
真弓さんが言う相応の報いは、警察に突き出す事などではない。彼の不法行為を理由に、
正当防衛を理由に、真田記者の右手をこの場でずっと、彼が音を上げる迄捻りあげる事で。
「あが、あががが……が、まって放して…」
それは大の大人が二十歳前の娘に人前で撃退され、痴漢して制裁受けてますと示す訳で。
警察に突き出されて終るより辛いかも知れぬ。
真弓さんは鬼切部の特権や技や力で、彼に制裁する積りはない。一般的な武道や護身術
で彼の如き人物は退けられる。彼は真弓さんの美貌を心に留めていた様で。印象に残らな
い為に大人しくしていても意味がない。真琴さん達や副島記者達には既に顔を覚えられた。
相棒の井口記者も為す術なく見守るのみで。
どう見ても真田記者が悪い上に気迫負けし。
さりげなく為景さんが身を挟めているので。
今頃真田記者は八木さんの見解を思い出し。
「いぎぎぎ……いたい、許して。苦しい…」
「ご大層な事を雑誌に書いているけど。会社の評判は上等でも、あなたの人品は低級ね」
あなたは野村さんの親族でもなく、今日の経緯に関りもないのだから。ここに留まる資
格はないわ。帰りなさい。顔写真撮れなくても過去の写真を使い、会えなくても問答を捏
造し、証言不能な襲撃状況も描くのでしょう。本当誰かの言う嘘つきマスコミを地で行っ
て。
「あなたの事件はデスクの上なのでしょ?」
「いぎいっ、か……帰るぞ、井口」「はい」
脂汗流す真田記者を真弓さんは解き放ち。
井口記者共々廊下の闇へその姿が消えて。
一段落付いた時に、最大の急変が訪れた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ぎゃあぁぁぁぁ!」廊下の奥で悲鳴が響く。
それより早く真弓さん達は駆け出していて。
鬼の微かな気配や足音が、臭いが感じ取れ。
たった今逃げ散った、真田記者達を追うと。
闇の奥では夏美さんが記者2人を蹂躙して。
叫びに誘われた医師看護師数名を打ち倒し。
「そんな、バカな。オレのこのお守りは、新郷田組や獄門会の連中のとは違って幹部用で、
鬼の接近を報せるだけじゃなく、鬼から気配を目隠してくれる作りの筈なのに、なんで」
人気のない夜の廊下で、遭遇者・犠牲者が少なかったのは不幸中の幸いだった。夏美さ
んは、野村さんが病院に運ばれた様を遠目に見て。真弓さん達がいるので近づけず。様子
を窺う内に真田記者達が現れたので。真弓さんに追い返された帰途を襲い。駆けつけた医
師や看護師に致命傷を与えず、流血や気絶に留めたのは、彼女が病院勤めに縁がある為か。
初撃で井口記者を昏倒させて。絶命に至らなかったのは彼の幸運だ。夏美さんは報道陣
には憤怒や憎悪を抱いており、特に抑えぬ限り殺意を持って手足が動く。散々捏造記事・
下半身醜聞を書いた週刊春秋は、正に怨敵で。
真田記者が、腰が抜けて動けなかったのは。
鬼の気迫や剛力や流血の様に竦んだ以上に。
己に捏造や冤罪を為した自覚があった為か。
鬼に遭う事態等ないと見くびっていた為か。
「確かにあんたは見つけられなかった。狙おうと思っても気配が見つけられなくて。でも、
直にこの目で見つけてしまえば、追跡は可能。野村さんの、人の不幸をエサにしようと首
を挟めたその商魂が、下手な好奇心が命取り」
夏美さんも、新郷田組や獄門会の者に近付けば鬼切部が顕れる展開に学び。坂本医師や
野村さんに監視がついていると見て。危うさを悟り始め。でも今回は真弓さん達の傍と承
知で、真田記者を見た瞬間憤怒を抑えきれず。
軽く殴って踏みつけた、真田記者の懐から。
夏美さんは、若杉が支給したお守りを奪い。
これが目的ではなかったけど望外の収穫だ。
「これが在れば、鬼切部からも私の鬼の気配を隠してくれるんだね。その上で今や結界で
弾かれる奥多摩の施設にも、無傷で入れる」
「ひいぃぃ許して。いたい、いたいいたい」
「私や仲間達が受けた心の痛みは、こんな程度でなかったよ。じっくり受けて苦しみな」
井口記者は左肩貫いたけど、止めは刺さず。
医師看護師は軽く撫でて失神させるに止め。
真田記者を即殺さないのは苦しめて愉しむ。
鬼の嗜虐より間近に迫る鬼切部への備えだ。
真弓さん達は凄まじい技量で、人の盾を無効化するけど。人質ごと切るとか見捨てると
かはしてない。鬼切部に人の盾はある程度有効だ。技量に開きが在ればある程、その重要
性は増す。仇の真田記者を使えば一石二鳥か。
真弓さんも為景さんも、狭い廊下で自在に動けぬ状況の中、夏美さんと盾にされた真田
記者を視認し。足を止める事なく駆け寄って。足を止めるより、一気に勝負を決めるべき
と。廊下の電気は鬼の『力』の影響で消えている。霊的なモノと電気的な物は干渉し合う
らしい。
「不二夏美、覚悟!」「行くぞ!」「ぬ…」
鬼は真田記者の両腕を引き抜く間も与えられず。彼の身を盾に2人とすれ違うのが精一
杯で。すれ違って向き合うと、右肘から先が切り落されていて、左脇腹も抉られていて…。
為景さんも真弓さんも、鬼切りの太刀は持ってないけど、鬼切部は平時でも鬼との遭遇
を想定し備え、必ず小刀等の武器を隠し持つ。この2人は素手でも、夏美さんを倒せるの
だ。夏美さんの癒しの『力』のみが不確定要素で。それがなければ勝利も逃亡も生存も不
可能で。
「ぐがああぁぁぁ!」夏美さんは真田記者を左腕で掴んだ侭廊下の隅に転び。人の盾を手
放せば即絶命と彼女も分っている。右肘からも脇腹からも、大量の赤黒い血を噴き出させ。
「足は止めましたかな」「致命傷は未だよ」
でも痛手は与えた。その感触を裏付ける様に鬼の『力』が減退し、消えていた電灯が再
び点いて、見通しが良くなった。破れ解れた巫女装束の残骸を纏う、鬼の姿が見えて分る。
「あなたは……不二夏美」「危ない香苗君」
真弓さん達が駆け抜けて、今は夏美さんの向うになった廊下の反対側から。真弓さんの
動きに追随した副島記者達が、漸く追いつき。期せずして互いを仇と憎む者同士対面が叶
い。
「ロストの原田の、妹と……原田の、相方」
死ねええぇぇい! 鬼の憤怒の爪が伸びる。
鬼切りの刃に切り落された右肘から、瞬時に植物が生える感じで腕が生え。まともな癒
しでは絶対叶わない事が。傷口は鬼切りの刃の効果で、『力』の浸透が阻まれる筈なのに。
「させない!」「とどめ!」「待っていた」
鬼は香苗さんを庇う副島さんを、生えた右腕で弾き飛ばし。香苗さんを貫く姿勢を見せ、
背後から夏美さんの生命を狙う鬼切部2人に、背を見せる事で罠に招き。飛び散った鬼の
血潮が、壁から床から壁から癒しの『力』で数十本の爪付きの腕となって生え、周囲から
次々襲い掛る。夏美さんは先日為した癒しの技の応用を、己の血肉で為せば尚効率的と悟
り。
この2人でなくば、四方八方から迫る爪に身を切り刻まれ、一転絶命の危機だったけど。
この2人は、鬼切部の強者の常識の上を行く。無傷の侭迫り来る数十本の腕を次々切り伏
せ。
唯、2人ともこの対処には数十秒の時間を要し。その間に鬼は副島さんを突き飛ばして、
香苗さんに爪を伸ばし。若い娘の血は、贄の血程ではないけど鬼に強大な『力』を与える。
鬼切部に身を切られた夏美さんは、血肉を補いたい状況で。しかも相手は仇の身内だった。
でも鬼の夏美さんの傍に更に現れたのは。
「なつみ先生……?」「夏美先生、なの?」
副島記者達より遅れ駆けつけた、美琴さん真琴さんの姉妹で。香苗さんは夏美さんの間
近で、鬼の気に当てられて座り込んで動けず。
「真琴さん、美琴さん」「「なつみ先生」」
望み願った再会だけど。それは本当に喜べる再会だったのか。鬼に成り果てたその姿を
確かめる事は。人を殺めるその姿を見る事は。夏美さんも衝撃で体が固まった。自身を好
いてくれた幼い姉妹の前で、若い娘を貫き殺め血塗れにする事には、躊躇いを感じたらし
く。
「……がああぁぁっ!」「「なつみ先生」」
夏美さんは香苗さんを爪で貫く事を諦めて。
真田記者を左腕に抱えた侭前に向って馳せ。
真琴さん達を通り抜けた地点で振り返って。
それは真田記者以上に姉妹も盾にする事に。
そこで幼い姉妹も刃持つ人達の存在を知り。
香苗さんも副島記者も、真田記者も同様に。
「上総さん……、その日本刀は」「まさか」
夏美さんがそれを躱し逃げたという事実が。
幼い姉妹にも鬼退治のお侍の印象を与えて。
座した侭で動けない香苗さんも副島さんも。
本当は見せたくなかったけどやむを得ない。
「人を害し殺め血を啜る悪鬼よ。鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽真弓が、千羽妙見流にて
切る!」「同じく鬼切部千羽党が千羽為景」
それぞれの絆はどの様に繋り切れるのか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「なつみ先生が、人を殺める鬼になって…」
「上総さんが、鬼を切る『せんば』の人?」
中原姉妹はこの展開について行けないと言うよりも、呑み込みたくないとの想いが強く。
大切な夏美先生が人を殺める鬼になり、心開けた真弓さんが実はその夏美先生を討つ人で。
「鬼だと、鬼切部だと? 正気かよ、おい」
「兄さんは、この不二夏美に殺されたの?」
副島記者は壁に強く身を打ち付けられて身動き出来ず。香苗さんは仇に対面した驚きで
身動き出来ず。真田記者も真弓さん達が鬼切部だと知って驚いたけど、それ以上に痛みが。
「出来れば隠密に進めたかったけど……逢った時があなたの最期よ。不二夏美、覚悟!」
真弓さんも為景さんも、正体を見られ知られた事は不覚だけど。人を殺められる様を見
捨てる事は更に出来ない。二度三度と引きずるから、犠牲が増えてその動向が人目に付く。
失敗は禍の芽を残し、被害を増やす。一度で息の根を止める事を、重視するのはその為だ。
真弓さん達は香苗さんの脇を通り抜けて。
夏美さんを討つべく小刀をくり出し迫る。
夏美さんも姉妹に鬼の姿を見られた事に。
動揺して動きが鈍って対応が間に合わず。
「「やめてええぇぇっ!」」「……くっ!」
真琴さん美琴さんが揃って間に挟まって。
刃に身を晒して夏美さんを守ろうと試み。
「己を慕う子供まで盾にするか、鬼よっ!」
為景さんも狭い廊下では迂回が出来ずに。
真弓さんと共々足を止めざるを得なくて。
幼い姉妹を『鬼に与した』と見なせば切り捨てて直進出来たけど。鬼に刃を届かせられ
たけど。真弓さんは、鬼が鬼である現状を分って物理的に守り庇った状況でも、女の子に
刃を振るう事はせず。為景さんもそれに倣い。
「なつみ先生を切らないで」「お願いっ!」
混乱の中、取りあえず夏美さんを殺さないでと願う姉妹に。真弓さんは首を横に振って。
「不二夏美は人を殺める悪鬼になった。あなた達も見て分ったでしょう。マスコミの非難
は証拠なしの見込報道だったけど、その主張は正鵠を射ていた。人を害した悪い鬼は、成
敗されなければならないの……退いて頂戴」
「鬼は君達を人間の盾に利用しているんだ」
目前の凄惨な状況はそれを証していたけど。
それでも夏美さんを慕う姉妹は心が揺れて。
すぐに目前の現実を受け容れる事が出来ず。
「なつみ先生、どうしてそんなになっちゃったの?」「人を癒す優しい先生がどうして」
振り向いて問われると夏美さんが答に窮し。
彼女も今姉妹に向き合える勇気がないから。
鬼になっても敢て接触してこなかったのだ。
だからこうして鬼の現状を見られ知られて。
なぜこんな酷い事をと問われると答がなく。
この憤怒を女の子に分らせるべきだろうか。
この憎悪を恨みを話して、真琴さんと美琴さんにも、同じ想いを抱かせたなら。それは
夏美さんが鬼を、鬼の想いを広める事になる。姉妹は、既に知った内容だけで、マスコミ
や奇跡の超聖水新体制に強い憤りを抱いている。この上で、為された事を全て伝えてしま
えば。
【夏美さんは、己が鬼と化す様な酷い経験を、子供達に伝えては拙いと、敢て何も語ら
ず】
不二夏美はもう死んだのと、語りかけて。
「真琴さんも美琴さんも、私の事や奇跡の超聖水は忘れて、自身の幸せの為に生きなさい。
私との過去やバッシングへの憎しみに縛られる事は不要だから、あなた達自身の人生を」
それは夏美さんが姉から受けた遺言に近い。
『あなたは、生きなさい。夏美!』
『夏美は夏美の幸せを探せばいい。下田夏美に戻って、あなたの人生を生きればいいの』
今彼女が姉妹に掛けられる言葉は他になく。
「なつみ先生、どうして」「先生はどこへ」
それに応える言葉を今の彼女は持ってない。
未成年の姉妹に見せたり報せる中身では…。
「私には未だやらねばならない事があるの」
肌身を寄せてくる姉妹を、傷つけぬ様に押し返し。でも鬼の剛力は繊細な動きをこなし
にくく、細身な女の子は押しつけられて倒れ。
「今ここで討たれて死ぬ訳には行かない!」
夏美さんは真田記者を、真弓さん達に放り投げ。それを2人が受け止める間に、切られ
た自身の脇腹に鬼の爪を突っ込んで傷を開き、自身の血潮を再度廊下に壁に天井にバラ撒
き。
「例え討たれるにしても、それはこの憤怒を憎悪を恨みを、仇に叩き付けた後の話しだ」
真弓さん達はここでも鬼を討てなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏美さんは自身のバラ撒いた血肉を『力』で再生させて、廊下の床や壁や天井に、自身
の鬼の爪付きの腕を再度林立させて。鬼も最早これが真弓さん達に必殺技にならない事は、
分っている。この場を逃げる為の時間稼ぎだ。
流石に夏美さんも、こんな無茶は何度も出来ない。血肉が減れば、『力』も想いも弱ま
って衰滅に繋る。癒しも『力』の作用なのだ。己の足を食う蛸に近い。そうでもせねば真
弓さん達から逃げ切る事は、不可能だったけど。
「速攻で始末して追撃するわよ」「承知!」
真田記者も全身に掠り傷や打撲はあるけど、生命に別状はなく。病院は叫びを聞きつけ
た、他の医師や看護師が駆け寄り始め。真琴さん達も副島記者達も、致命傷はない。2人
は夏美さんの残した腕の群れを、1分程で殲滅し。
「上総さん、じゃなくせんばさん」「……」
美琴さんが視線を、気配を、腕を絡ませて、真弓さんの答を望むけど。真弓さんは身を
躱し、為景さんと共々駆け去って。ここで残って鬼の事実を話しても、何の解決にもなら
ぬ。
真弓さんは鬼を切る。中原姉妹が幾ら彼女を慕っていても、結論は変らない。向き合っ
て話せば話す程、鬼切部の情報を明かすだけになる。それは香苗さん達についても同じで。
鬼切部は憎いから、仇だから鬼を切る訳ではない。その真相は世の表には伏せねばならず。
真弓さんはここに残って傷口を開くよりも。
即立ち去って二度と関らない事を選択した。
副島記者達も美琴さん達も、真弓さん達の跡は辿れない。若松探偵社に問い合わせても、
実在する上総真弓と伊豆為景は別人で。葬儀警備の臨時雇用にも満足な記録は残してなく。
その跡を辿る術はない。真田記者がしくじらない限り。ミスすれば彼の身が危ういだけだ。
病院を出た真弓さん達は、車で鬼を追って奥多摩の奇跡の超聖水本部へ赴く。連絡して
いる暇はなかった。携帯電話もなく自動車電話も付いてない。通話する時間が惜しかった。
「鬼の脚力は人を越えますし、夜となれば人目に付かない。屋根や路地裏を伝って進めば、
都心部では信号に止められる車よりも早い」
鬼は真田記者から奪ったお守りで、気配を隠していて追尾も出来ず。施設周囲の結界も
知られずに潜り抜けられる。その備えがある為に鬼切部は、奥多摩に人員を配しておらず。
「夏美は足止めに相当の血肉を使って消耗したわ。次で止めよ」「奇跡の超聖水信者を殺
めて、血肉を喰らってなければいいですな」
郊外に出ると信号は減ったけど。道が細く曲がりくねって。夜なので視界は悪く、為景
さんも無茶は出来ずに。大きな丸い月が昇る。
奥多摩の奇跡の超聖水本部前に着くと、真弓さんと為景さんは、狩衣に太刀で疾駆して。
【被害者の会の人達や、原田記者を初めとする報道陣が詰めかけて、野村さんや美琴さん
真琴さんと揉み合って、ツヨシさん達が暴行に走ってしまった、施設の正面入口ね……】
壮麗な施設が月明りに照されて幻想的な佇まいを見せ。日付も変る刻限なので、正面入
口の警備不在は分るけど。でもそこから見える建物の、電灯が一つも点いてない。寝静ま
っている以上に。外灯も保安灯も点いてない。
「気配を感じたわ。北の離れよ」「中央の大きな建物には人気を感じません。脇を通り抜
けましょう。北の離れは幹部会議室の筈…」
夏美さんの放逐で、癒しを為す人が不在になった奇跡の超聖水本部は、訪れる者も減り。
それでも数十人が常住する筈で。叫びが上がったり抵抗していたりするかと、思ったけど。
「少し遅かった様ですな」「中へ入るわよ」
北の離れの入口付近で、血塗れの男性が数人倒れていて、或いは悶え苦しんで。見ただ
けで堅気の者ではない。木刀や鉄パイプも転がっていたけど、鬼には敵わなかったらしい。
そして彼らの血潮は未だ乾ききってない。
建物は電灯も保安灯も外灯も点いてなく。
2人は建物に踏み入ると、10人以上の男が倒れ苦しむ中を駆け抜けて、廊下の突き当た
りから階段を上って2階へ上る。鬼は彼らの血肉を糧にしたのか。2階でも男性数名が殺
しと半殺しの状態で、血塗れで呻き声を発し。正面奥の会議室らしき扉は、半開きになっ
て。
扉を開け放ち室内に乱入した2人の前には。
血を啜って『力』を増した巫女装束の鬼と。
鬼に追い詰められた、幾人かの男女がいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ぐがあぁ!」叫びは西川さんの口から迸り。
彼は鬼の夏美さんの右手で胃袋を掴まれて、高々と持ち上げられ。未だ致命傷はないけ
ど。もう少し腕力を込めれば、周囲に散らばる血塗れの仲間に連なる。その顔は恐怖に強
ばり。
室内で尚立って動ける者は、拾人に満たぬ。奇跡の超聖水新体制の幹部達にヤクザが数
名。でもヤクザ達からは既に戦意も希望も失われ。
「いらっしゃい、千羽の鬼切り役。私が立ち上げた奇跡の超聖水の、幹部会へようこそ」
夏美さんは多くの血で『力』を増したけど。
それで真弓さん達に勝てるとは思ってない。
その位で及ぶ相手でない事は、戦った彼女が分っている。その姿勢に声音に表情に気配
に、女王然とした余裕が窺えるのは。己の本拠である以上に覚悟を決めた故か。鬼は仇を
捕捉した。最早逃げて生き延びる必然は薄い。ここで憎悪を憤怒を恨みを仇に叩き付けれ
ば。
真弓さんも為景さんも、夏美さんと他の人達が近すぎて、多すぎるので。全員を守りき
るのが難しい状況なので、様子を窺う姿勢に。
「私のいた頃と少し顔触れが変っているけど、紹介するわ。そこの髪が白く長身な男性が
税理士の幣原さん、隣で一緒に座り込んでいる恰幅の良い頭の輝く男性が印刷工場の桜井
社長。隣の髪が黒く若い男性が会計士斉藤さん。
みんな私を支えてくれたわ。私の理想に共鳴し、一緒に癒しを広めようと協力を申し出
てくれて。共に頑張り続けた末に……半年前に私を裏切って、追い出して殺してくれた」
以降はその背に隠れた宗佑叔父さんの手足になって、一緒に頑張っていたのよね。何の
為かは分らないけど。団体を存続させる為に。
「夏美先生……少し冷静に」「悪気はなかったんだ」「話し合おうじゃないか、今から」
かつては夏美さんを支持し、共に頑張ったのに。力に拉いで夏美さんを裏切り放逐した
幹部が、今は再び力に拉いで夏美さんに迎合して。彼らの言葉が鬼の心を動かす筈はなく。
「ええ良いわよ。心ゆく迄話し合いましょう。あなた達を骸に変えてから、悠久の時間を
掛けて聴いてあげるわ……あなた達の弁明を」
ね、宗佑叔父さん。夏美さんが視線を向けたのは、3人の更に奥で座り込む年輩男性に。
【奇跡の超聖水の現代表、新体制のトップである不二宗佑氏45歳とその妻・公子さん43歳。
長女さゆりさん16歳、次女しのぶさん12歳】
宗佑氏は恐怖に顔を引きつらせつつ、妻と娘を背に庇い。姪は裏切っても家族はたいせ
つらしい。でもその故に彼は逃げる術を失い。1人脇目もふらずに走れば、逃亡の望みも
微かにあったけど。4人全員で逃げ切る事は無理だった。結果彼は、鬼と対峙せざるを得
ず。
「夏美……お前はその姿になって、一体誰に何をする積りだ? 世の人に広く癒しを及ぼ
すのが、我々の理想だったのに。どうして人を傷つけ殺める、血塗れの道に踏み込んで」
今更そんな事を口にするのね。鬼は嗤う。
乾いた声で、怯えるかつての同胞を前に。
「あなたが教えてくれたのが、血塗れの道ですよ。春恵姉さんを殺して、私を殺して!」
何もかも失わせておいて。何もかも奪い去っておいて。今更あなたは、何を言えるの?
「あれは俺達の所為じゃない。本当だ。あれは今お前が掴まえた西川と、そこにいる獄門
会の黒金が仕組んだ事で。俺も事故が起きて初めて知ったんだ。殺す積りなんてなかった。
我々は夏美が代表を退いて、春恵が夏美を引き取ってくれれば良かった」「バカ野郎が」
長身な黒髪の、でもその筋の人物と一目で分るスーツ姿の若い男性は。夏美さんも初め
て逢う、獄門会の若頭補佐・黒金武彦34歳だ。次に生命奪われる緊迫の状況でも、尚人の
視線がある限り、弱気を見せる訳には行かぬと。配下の若いヤクザ2人に左右から守られ
つつ。
「獄門会が郷田組を始末しなかったら、お前らが幾ら夏美を追い出しても、郷田組にひっ
くり返されて終いだっただろぉが。そして旧郷田組は夏美を心の支えにしていた。両方を
同時に始末しなきゃ、元々お前らの天下なんてなかったんだよ。何も出来ない世間体の為
の要員が、偉そうな事を抜かすんじゃねぇ」
この人が、西川さんを内通させ郷田組を殲滅し、彼をその後釜に据えた。獄門会はマス
コミの目を逸らす為に、新郷田組を敢て残し、敵対を偽装し。奇跡の超聖水に関る者は新
郷田組だと批判を免れ。裏では新郷田組と繋って奇跡の超聖水から、膨大な金を吸い上げ
て。
郷田組でも下っ端の西川さんに、大きな筋書きを考えられる能力はなく。春恵さん殺し
は、夏美さん殺しは、郷田組の殲滅と奇跡の超聖水の同時転覆は、黒金氏の差し金だった。
実はこの夜は、今後の方針を獄門会の黒金氏が、奇跡の超聖水の現幹部に通告する場で。
西川さん達新郷田組も共に座し、獄門会はその上に位置して、好き放題すると告げる為に。
獄門会の『徴税』は郷田組に較べかなり厳しい上に、間に新郷田組が挟まって余分に吸
い上げるので、奇跡の超聖水には非常に辛い負担になる。でも世間の非難を浴びて、警察
にも冷淡に扱われる今の彼らに他に術はなく。
既に新郷田組は警備の名目で、この奥多摩でやりたい放題好き放題で。好き勝手に飲み
食いして代金を払わず、会員相手に暴れ回ったり。会員に個人的に金を無心したり、女性
を白昼構わず襲ったり。それも成人女性のみならず、高校生や中学生迄がヤクザの標的に。
癒しを求め来た人を待っていたのは、地獄の光景で。野村さんはそうなる前に自発的に、
夏美さんを追い出した行いに抗議して出奔したけど、早い退去は正解だった。ここはもう
ごく一部の幹部以外には無法地帯で。西川さんは今宵宗佑氏の長女さゆりさんに、交際を
申し込み。奇跡の超聖水に婿入りしようと迄。
郷田組を売り渡した彼らの正に自業自得か。
だから奇跡の超聖水は新郷田組や獄門会に。
かつて郷田組に抱いた情の絆など全くなく。
「郷田組はともかく、夏美先生を殺すなんて聞いてないぞ。郷田組も『大人しくさせるだ
けだ』って、まさか皆殺しにするなんて…」
「そうだ。我々は宗佑代表を通じて姉の春恵さんと話して、夏美先生を引退させて貰う手
筈だったんだ。殺すなんて知っていたら!」
「我々に話しもせず勝手に夏美先生を殺して、鬼にしたのはあんたらだ! 責任を取れ
…」
幣原さんも桜井さんも斉藤さんも、ヤクザの暴力に今迄びくびくして、言いたい事も言
えなかったので。鬼という更に強い暴力が現れた途端、今更の様に思いの丈を吐き出して。
夏美さんの表情が曇って行く様が視えた。
簡単に力に媚びる、こんな面々をかつて。
自身は頼り信じ励まし合って来たのかと。
或いは人は、一度折れればこうなるのか。
「より強い者が現れれば、今迄俺の靴の裏を舐めていた奴らが、好き放題言いやがって」
「黒金さんっ、俺はあんたの下僕だよ。だから助けて……いたい、いたいイタイいたい」
西川さんは助けを求めて声を上げるけど。
夏美さんに胃袋を絞められて悲鳴を上げ。
「私に慈悲を乞うても無駄な事は分っている様だけど、もう一つ悟って頂戴。あなたは」
真弓さん為景さんが無言で動き出したのは。
夏美さんが彼の胃袋を握り潰し殺める事を。
悟って彼の生命は諦め、その犠牲を最期に。
鬼を今度こそ一撃で切り捨てて、終らせる。
「……生き残れない。春恵姉さんの仇っ!」
「はぶっ!」「「覚悟っ」」「ぐばぁっ!」
鬼は西川さんの胃袋を握り潰し、内蔵を掻き回して致命傷を与え。死に行く彼の体を鬼
切部に放り投げ。三度左手で己の腹を裂いて、血肉を周囲にバラ撒き、真弓さん達を足止
めして。その間に黒金さんを害せんと走るけど。
「獄門会、次の姉さんの仇はお前……な?」
黒金さんの間近で夏美さんは倒れ込んで。
鬼の両太腿の後ろに小刀が刺さっていた。
「そっちが時間稼ぎをするなら、こっちも」
「足止めすれば良い。戦いになれば勝てる」
夏美さんが己の血肉を切って、真弓さん達を足止めするのは、正面から戦えば勝てない
から。なら、真弓さん達も一撃必殺に拘らず、足を止めてしまえばいい。正面から戦えば
勝てるのだ。夏美さんの逆で、逃がさなければ。
鬼切りの小刀は真弓さんと為景さんの鬼切りの『力』を宿し。両太腿の後ろに刺さって
足の自由を奪う。それは唯切られて終りではなく、刺さった状態で『力』を及ぼす為。抜
かねば夏美さんも自由になれない。でも抜く為に触れても鬼の手は拒まれて容易に抜けず。
「ぬがっ!」「ほう……」「これはこれは」
真弓さんの前に林立する鬼の爪付きの腕は。
2人が振るう鬼切りの太刀で次々薙ぎ払い。
鬼はヤクザの血を呑んで『力』増したので。爪付きの鬼の腕も随分数が多いけど、一定
数打ち払えば、ここは通行を塞ぎ止められる廊下ではなく、広い会議室なので回避も出来
る。
その間に黒金さんの配下2人は動けぬ鬼に。
これを好機と左右から違法所持の銃を向け。
「へへっ、死ねぇ」「ぶち殺してやるコラ」
銃口が彼女の後頭部至近左右から火を噴き。
ダンダンダンダン。銃声は悲鳴も掻き消す。
鬼の後頭部を弾丸が、叩き割って打ち砕く。
夏美さんの体がびくんびくん震えて跳ねて。
ヤクザ2人は夏美さんの腕を、体重を乗せて踏みつけるので。夏美さんは太腿の鬼切り
の小刀を抜けず、起き上がれず。身動き取れず回避出来ず。唯後頭部から脳味噌を噴き出
させ。転げ回る事も出来ず銃弾に撃たれ続け。
「はっははははは!」「ざまあみさらせ!」
「夏美……!」「夏美先生っ」「先生……」
鬼の脅威が消える事は己の延命に繋る筈の。
宗佑氏や、幣原さん斉藤さん桜井さん達も。
無慈悲に撃ち込まれ続ける銃弾に息を呑み。
公子さんは目を瞑り、娘達の瞳を手で覆い。
銃弾が撃ち尽くされた頃には、鬼は身動きもなくなって。破れ解れた巫女装束の残骸に
包まれた緑色の肉塊は、首から上が潰れたトマトで。後頭部が半分以上消失し。黒金さん
達3人にも相当血肉が飛び散ったけど。最早鬼には呻きを上げる口さえ残ってないのでは。
「見れば見る程醜い鬼だぜ。死に損ないが」
「身ぐるみ剥いで磔にするか、見せしめに」
黒金さんの配下2人は勝ち誇り、夏美さんの体を蹴りつけ。血肉に塗れた後頭部の傷口
に靴を突っ込み掻き回し。銃に弾を再装填し。人に知られぬ山奥なら、好き放題に発砲し
て殺せる。弱者や死者をいたぶるのは彼らの流儀だ。鬼は微かに痙攣するけど身動き叶わ
ず。
「くせぇ臭いだ」「これでも元は女なのか」
「鬼でも殺せば死ぬもんだな……なぁっ?」
そこで黒金さん達3人は殴り飛ばされて。
真弓さん達が、代りに鬼の間近に立って。
「あ、あんたらは鬼切部だろ。俺達も若杉に連なっているんだ。同じ鬼を敵にする仲間じ
ゃねえか。何しやがんでぇ……てっひっ!」
不満の声を上げる黒金さんに返されたのは。
真弓さんと為景さんの冷たく蔑む隔意の眼。
「あんた達と一緒にしないで」「悪いが千羽党は、お前らを仲間にした憶えはなくての」
若杉がどこでどうヤクザと繋っているかは知らないけど、敢て問いもしないけど。千羽
党は彼らを、味方にも仲間にも迎えた憶えはなくて。その扱いは偶々鬼の事情を知った部
外者だ。鬼の事情を公表する気はない様子だから排除はしないけど。鬼を敵視しても、彼
らと手を組む気はなく、頼りにする気もなく。
「鬼切りの邪魔だから、退いて貰っただけ」
ふざけやがって。黒金さん配下のヤクザが。
殴り飛ばされた事で頭に血が上り銃を撃つ。
でも真弓さんは銃弾を日本刀で受けて弾き。
拾分の一秒後には峰打ちでその男を倒して。
「鬼の事柄はわたし達に任せて貰うわ。五月蠅いと、鬼切りを邪魔したと見なすけど?」
真弓さんは、鬼よりヤクザを嫌っていたのかも知れない。その印象は為景さんも同じく。
若杉のどこかと繋る事は止めようがないけど、千羽党の味方の様な態度や姿勢は見せるな
と。
真琴さん美琴さんが鬼を物理的に守っても、真弓さんは切り捨てなかったけど。黒金さ
んや配下達は、鬼に敵対してもこれ以上抗えば、切り捨てる事に躊躇ないと。鬼切部が世
の人を守る者である事に、ヤクザ達は感謝すべきかも。そうでなければ彼らもこの夜共々
に…。
「……いや、いい。任せる。ジロ、引けっ」
その冷徹さは黒金さんにも伝わった様で。
もう一人残った配下に手出しを控えさせ。
次の瞬間、突如鬼は身を起こし、ヤクザや鬼切部の目を盗んで、宗佑氏に襲い掛ろうと。
宗佑氏の目前に、腕を伸ばせば貫ける処迄迫った末に。真弓さんの刃に背中から貫かれて。
鬼の爪は遂に仇に届く事が叶わなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
鬼の生命力は妄執や欲求の強さに比例する。夏美さんの憎悪や憤怒・恨みは、自らを鬼
に変える程激甚で。銃弾で脳を撃ち抜かれても、自動的に癒しが働き。後頭部傷口に靴を
突っ込まれ掻き回された時は、治癒も遅れたけど。未だ治りきってなくても尚その身を動
かして。
真弓さん達がヤクザを殴り飛ばしてなくば。
黒金さん達は鬼の餌食になっていただろう。
鬼を物理的に滅ぼすには、五体をバラバラに砕く位せねばならない。平将門は生首にな
っても肉体を求めて飛び回ったと伝えられる。銃弾では痛みや衝撃は与えても生命は絶て
ぬ。加えて癒しを持つ彼女の根絶は至難を極める。
ヤクザと真弓さん達が緊迫した隙に、注目を外れた者で、一番近い位置にいた宗佑氏を。
狙って最期の力を振り絞ったけど。真弓さんも為景さんも、ヤクザと対峙していても、鬼
に欠片程の油断もしてなく。即座に対応して。
宗佑氏の目の前に迫った処で、背後から真弓さんの太刀に、致命の一撃に心臓を貫かれ。
為景さんの小刀が左足の臑に刺さって動けず。
「ぐが、が、ががっ……ごふ。か、仇をっ。
仇を。私の、春恵姉さんの、仇を取らせ」
夏美さんは尚鬼の妄執と欲求を総動員して、何とか生命を繋ごうとするけど。真弓さん
もこの鬼の凄まじい回復力を分るので、切り捨てたり抜いたりはせず。突き刺した刃でそ
の身の中枢に、鬼切りの『力』を注ぎ。鬼の生命を繋ぐ妄執と欲求を、洗い清め断ち切っ
て。
「仇を。せめてこの人だけは、殺させて!」
血を吐く叫びに、宗佑氏も間近の公子さんも、さゆりさんもしのぶさんも身を震わせて。
尽きせぬ憎悪が、悔恨が、愛の悲鳴が凄絶で。
「姉さんの仇を、恨みを憤怒を返させてっ」
「……そんな事があなたの真の望みなの?」
対する真弓さんの声は低く抑えられ。背後から刃を突き刺した状態で、抜かずに『力』
を注ぎつつ。夏美さんを絶命へと導きつつも。
「あなたは仇に恨みを返す為に今迄を生きてきたの? 人を憎む為に奇跡の超聖水を始め
たの? 癒しを人に及ぼそうと団体を立ち上げたあなたが……正反対の事をして、人を傷
つけ殺めて、己に何の疑念も抱かないの?」
真琴さんや美琴さんが、野村さんや坂本一家が、慕い愛した『夏美先生』は。そう言う
凶行をなす事を、本当に望み願っているの?
「だまれぇっ! 問答無用に鬼を切るだけのお前達が、私の事情を知りもしないお前達が、
私の気持の中へ入り込んでくるなぁ! こいつらが、みんなでよってたかって姉さんを殺
したのに、私のたいせつな人を喪わせたのに。その恨みを返して何が悪い。その憎悪を仇
に向けて何が悪い。その憤怒をぶつけて何が」
「あなたの姉は、復讐を望んでいたの…?」
夏美さんの激情が瞬間で凍結する。それは真弓さんにとっても一つの賭だった。真弓さ
んは夏美さんの姉・春恵さんには逢えてない。春恵さんの人となりは間接的にしか分らな
い。獄門会や西川さん達の罠に嵌められて、夏美さんもろとも死の淵に落され。春恵さん
が最期に何を思い何を願ったのかは、その最期の時を一緒した夏美さん以外に、知る術は
ない。
でもわたしには分る。不二夏美に濃い贄の血を呑まれ、想いが繋り、記憶も共有するに
至った羽藤柚明には。この過去の像を見つめる今のわたしには。真弓さんは賭に勝利した。
「お前に、一体春恵姉さんの何が分るっ!」
「わたしには分らないわ。だからわたしはあなたに訊いているの。あなたの中に残るあな
たの姉は、あなたに復讐を願っていたの?」
それは何の根拠もない下手な鉄砲ではない。真弓さんは夏美さんに関った人の話しを丹
念に調べて。彼女の人柄を見て聞いて感じて知って。その優しさを育んだ肉親なら心強く
優しい人だと。そうでない可能性もあったけど。
夏美さんが広く人に癒しを及ぼそうとした、心強く優しい人なら。その夏美さんを導い
た姉の春恵さんは、きっと心強く優しい人だと。この様な凶行を、復讐を、望まないだろうと。
「……っ、だったら、だったらどうだと!」
「復讐はあなたの想いなのね? 不二夏美」
春恵さんの仇を討ちたい想いは、春恵さんの遺志ではなく。夏美さんの思い残しだった。
たいせつな人を喪った事は、夏美さんの痛恨であって。春恵さんが夏美さんに望んだのは、
『あなたは、生きなさい。夏美!』
『夏美は夏美の幸せを探せばいい。下田夏美に戻って、あなたの人生を生きればいいの』
夏美さんがその人生を強く生き抜く事で。
己の仇を殺めてとは一言も願っていない。
あの状況に陥っても春恵さんは夏美さんの幸せを願い。己の復讐や無念は託していない。
仇を取りたい欲求は、取らねばならないとの執着は、仇への憤怒や憎悪や恨みは。春恵
さんの遺志ではなく、夏美さんの悔恨や絶望に根差す想い。姉に何の想いも返す事叶わず、
その反対を踏み越えて招いた惨状に・己の禍に巻き込んで、未来喪わせた事への深い悔い。
それは春恵さんの死に向けた哀しみではなく、大切な姉を喪った夏美さんの淋しさ悲しさ
で。
夏美さんは姉の恨みを叶える為にではなく。
己自身の恨みを叶える為に復讐を欲し求め。
「あなたは本当にたいせつな人の意図を汲み取って、この凶行を為したの? 己の哀しみ
や悔いから、責任から、仇討ちする事で、己自身から逃れようとしているのではない?」
「ぐが、が……そんな、そんな、ことは…」
ないと言い切れない。夏美さんは己の想いが暴走して鬼になった。その想いの根に嘘を
つく事は、不可能ではないけど非常に難しい。それは夏美さんが元々善良で優しい人だか
ら。
「あなたの歩みは色々な人から聴いて、ある程度分っているわ。あなたが元々、人を癒す
『力』を世に役立てたいと望む、心強く優しい人だった事も。マスコミに不当に叩かれ仲
間に裏切られ、ヤクザの罠で姉を喪わされた哀しい経緯も。でも、だからこそ、あなたは
鬼になって仇討ちして、それで満たされる?
仇討ちの根にある想いが、他者の為ではなく自身の悲嘆や悔恨なら。他者の願いではな
くあなた自身の憎悪や恨みや憤怒なら。例え仇を討ち果たしても、あなたに何の充足感も
残らない。誰かの願いに応えた事にならない。あなたがそれで満たされる人とは思えな
い」
夏美さんが鬼になって後に、復讐の動きが遅滞したのは、薄々虚しさを感じていたから。
激情に駆られた事はあったけど、夏美さんに心寄せる者の危難を助けに乱入した事はあっ
たけど。仇の中枢である獄門会に殲滅に赴く事はなく。鬼切部が動き出す前なら、乱入し
て好き放題に殺戮して、仇討ちも出来たのに。
「人に害を為す鬼を討つのが鬼切部。あなたは既に多くの人を害し殺めた。それがどんな
中身の人間でも。何を為した人間でも。だからわたしはあなたを切る。この判断に変更は
ない。ないけど、あなたはこの侭で良いの?
大切な人への想いの故ではなく、己の為の復讐に目が眩んで。あなたは、あなたに取り
残され、正に今困難に向き合っている大切な人達に、何も応えられてない。中原真琴さん
に美琴さん、坂本さんに野村さん。渡辺さんに高さん。あなたを信じ頼り心寄せた人達を、
あなたは無視し見捨て裏切っている。哀しませ落胆させ、あなたを信じた選択を間違いと
感じさせる結果を、あなたが導いている!」
仇を討てぬ侭絶命すれば、鬼は必ず無念を残す。化けて出ると迄は行かなくても、ずっ
と己の為の憎悪や恨みや憤怒に囚われ。力量の不足を世間を天を詛い続ける。そんな鬼も、
仏法や神道やその他の術で心救う事は不可能ではないけど。その前に自ら思い直せるなら。
鬼の生命を断つ事は、最早変えられないけど。
「私が叶えられなかった仇討ちは、姉さんの遺志でもなくその為でもなく。姉さんを喪わ
された己自身の為の復讐で。叶わなかったとしても、姉さんの想いに応えられなかった事
にはならない……むしろこの仇討ちが、姉さんの想いに応えてない事になると、そんな」
私的な復讐の為に、己の為に。今も世間の冷たい視線やバッシングに晒され続けるたい
せつな人達を抛り捨て。己が為していた事は単なる逃避ではないのかと。心の奥を抉られ
て夏美さんは初めて気付き。膨大な哀しみや絶望が憎悪が憤怒が悔恨が恨みが、夏美さん
の明晰さを曇らせていた。それを取り戻して。
鬼の頬を二筋の滴が伝う。鬼の身を覆う緑の硬質な皮膚が色を失い。人の体に戻り行く。
復讐が己の為だと気付いた瞬間、姉の為ではないと悟った瞬間、夏美さんは鬼から解き放
たれ。人間の心を、最期に己自身を取り戻し。口から迸るのは、膨大な量の血潮のみなら
ず。
「私は、一体何を……やってきた……っ!」
仇を討つ事しか、復讐しか、残ってないと思いこんで。姉さんが頼んでもいない報復に、
己の為に拘り続けて。その間、真琴さんも美琴さんも坂本先生もみんな、みんな私を喪っ
て大変な状況にあったのに。その想いに応えず想いを馳せず見捨て無視し。私は愚か者だ。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉああぁ!」
「夏美……!」「夏美先生……」「……っ」
宗佑氏やその家族も、他の団体幹部も残ったヤクザも、為景さんも。2人のやり取りに
言葉を挟めず。黙して成り行きを見守るのみ。
「春恵姉さん、真琴さん美琴さん、坂本先生……やり直したい。喪ったものに哀しむ余り、
塞ぎ込む余り、今守らなければならない物を、私は守れてなく。姉さんの遺志を継げてな
く。取り返したい。今から大切な人を守りたい」
「……それは、出来ないわ。あなたはもう」
真弓さんの答に夏美さんは小さく頷いた。
取り返しの効かぬ事は夏美さんも承知で。
癒しの『力』も致命傷を、治せはしない。
これは拒まれる事で、諦めを付ける為の。
「そうね。自分の為した事は分っているから。
この結末は、あり得る事だとは思っていた。
仇を討ち終らない内に、受け容れる積りはなかったけど。姉さんの為の仇討ちじゃなく、
己の為の仇討ちなら、叶えられなくても無念は軽いわ。お嬢さん、あなた上手よねぇ…」
年下の真弓さんをお嬢さん扱いして微笑み。
生命の鼓動が急激に弱く小さくなって行く。
「力や技で負けた以上に想いの強さで負けた。
絶対に譲らない積りだった想いを覆された。
流石は鬼を切る者ね。若く細身な娘なのに、とてつもなく強い。強い以上に情を残しつ
つ明晰で、立ち居振る舞いが涼やかで、羨ましい……あなたになら、切られても良いか
も」
自身に諦めが付くと、夏美さんは己の生命を絶つ真弓さんに、初めて関心を向けてきて。
「あなたは、憎しみも恨みも憤怒もないのに、こうして鬼を切っているのね。その心にど
れ程の負荷を掛けているのか。憎悪と恨みと憤怒を募らせて、漸く人を殺めた私には想像
も付かない。本当に強く優しく、折れそうな心。若くて綺麗で涼やかな女の子なのに。私
は切られる事で、あなたに罪を負わせてしまう」
「あなたが気に病む事はないわ。これは、誰かが為さねばならないお役目なのだから…」
後ろから抱き留めると夏美さんは瞳を閉じ。
真弓さんの腕の中で静かに息を引き取った。