鬼を断つ刃〔乙〕(前)



 高校1年生の夏休みの始め、若杉と千羽の遣い・千羽為景さんは羽様のお屋敷を訪れた。
真弓さんが鬼切り役だった時に切った筈の鬼、不二夏美の蘇りを報せ、再度切って貰う為
に。首都圏に赴いた羽様のわたしが処置出来なかった鬼の禍は、巡り巡って羽様へ戻って
きて。

「明良様が……鬼に重傷を負わされ申した。
 しかも奥義・鬼切りを振るったその上で」

「生命に別状ありませぬ。そこはご安心を」

 数月の療養は必要だけど。千羽の癒し部と若杉の術士と現代医療を併用すれば、後遺症
の怖れもないと。為景さんは言っていたけど。

 でも、一つ間違えば鬼切り役の明良さんも、鬼に生命を脅かされる。つい半月前に言葉
を交わし想いを繋げた涼やかな人が、死に瀕し。鬼切部は本当に生命懸け、危難に踏み込
んで、人の生命や世の平穏を守る職と思い知らされ。

 鬼切部に最愛の人がいるなら、自身も鬼切りに踏み込んで、肩を並べて共に戦い、その
手で直に守らねば、心安らぐ日は来ないのか。わたしも桂ちゃん白花ちゃんが鬼切りにな
った時は、願い出て鬼切部に加えて貰う。この身の非力や未熟は承知でも、必ずそうする
…。

「真弓殿もご存じと思うが、鬼切りは身と心が宿す『力』の全てを集約し、一撃に載せて
叩き付ける業。絶大な威力で鬼の精神を砕く。霊の鬼や悪霊等にも有効で。体を傷つける
事なく心の濁りのみそぎ落す。不二夏美の様な、強さより『力』の効果で倒しきれぬ相手
には、最も効く業だが……一撃必殺であるが故に」

 放ち終えた後は明良様とて無防備になる。
 その後に反撃がある事は想定外だからの。

「でもその想定外が、起こったと言うのね」

 真弓さんの真顔に為景さんは笑顔で頷き。

「ある筈のない反撃に、明良様も致命傷回避が精一杯で。楓が挟まって退けた故、鬼は逃
げ去ったが、取り逃がしたとも言える訳で」

 千羽党の大黒柱の明良さんが倒れたのだ。
 混乱や動揺の全く生じない方が嘘だろう。

「先代当主……明良様の父君が、真弓殿を招くべしと強く申して。真弓殿が討ち果たした
筈の不二夏美の禍なれば、今は現役を退いたと言えど、再び討ち果たす義理があろうと」

 最初は絶縁した真弓殿に縋る様な申し出に。
 今の千羽党は力不足かと憤った他の者達も。

 先代の唱える責任論に心傾く者も顕れ始め。
 明良様という大黒柱がなければこの有様よ。

「真弓殿に、一時的に現役復帰して、不二夏美を倒して頂きたく、お願いに訪れ申した」

 多少の紆余曲折の末、真弓さんは自身のやり残しを完遂する為に、不二夏美を討つ為に。
一時的な鬼切り復帰を正樹さんに願い。正樹さんも真弓さんを心配しつつ、鬼の跳梁を捨
て置く訳にはいかず、やむを得ないと承諾し。

 為景さんはお屋敷に一晩泊り。真弓さんの出立準備を待って、翌朝2人で羽様を離れる。

 為景さんも同席した夕飯時、真弓さんから幼子に『暫く実家の手伝いに、独りで往かな
ければならない』旨が話されたけど。真剣に向き合って語る真弓さんに、幼子2人は座っ
た侭で手を繋ぎ合い、真剣に耳を傾け頷いて。

 今迄真弓さんは、県外どころか泊りで出かけた事もなく。幼い双子は、未知の事態にど
んな反応を返すか、密かに心配していたけど。

「お仕事がんばってね」「早く帰ってきて」

 わたしが泊りでお屋敷を外す時とは違って。
 桂ちゃん白花ちゃんは驚く程大人の応対を。
 泣き喚く事もなく取り縋る事もなく平静で。

 サクヤさんが羽様を出立する時とも違って。
 元気に手を振り声張り上げて迄はないけど。
 幼い相方と手を握り合って、不安を堪えて。

 お仕事を終えたら帰って来るとの、真弓さんの真剣で親身な語りに、全面的に信を置き。
淋しさの予感を、今の温もりで埋め合わせて。よい子にしていれば、必ず帰って来ると信
じ。

「お父さんと柚明ちゃんと待っていて頂戴」

 本当なら戦いに赴く前夜、最後の夜を真弓さんは、愛した正樹さんと過ごすべきだけど。
或いは幼い双子と朝迄添い遂げるべきだけど。正樹さん真弓さんの前で額を畳に擦り付け
て、わたしは真弓さんに今宵褥を共にと願い求め。わたしでなければ、為せない事があっ
たから。

「わたしが知る限りの不二夏美を、声も肉感も動きも気配も印象も、言葉に表しきれない
全てを感応で肌身に伝えます。かつての彼女とは違う、わたしの贄の血も得て強化された、
今の彼女の強さや弱さ・思考発想や目的を」

 白花ちゃん桂ちゃんが、出立前夜の母の両隣で肌身添わせ、心安らかに眠りに落ちた後。
幼子の眠りを正樹さんに見て貰い、わたしは真弓さんと同じ屋根の下、同じ褥で肌身を重
ね想いを繋げ。守りと癒しの『力』を注ぎ…。

 修練を経た今のわたしは、呪物ではないガラス玉に『力』を注ぎ、守りや癒しの効果を
宿す青珠の代用品にする事が出来る。人の体に『力』を注いで、疲れを復し傷を治す事も
叶う。心に『力』を及ぼして、悪夢を遠ざけ嫌な記憶の印象を薄めたり。五感を調整して
緊張を緩めたり、逆に感覚を鋭くする事も…。

 真弓さんは当代最強を謳われた鬼切り役だ。羽藤柚明と類似した、生きた呪物の様な者
だ。その身に心に、守りや癒しの『力』を注いで溜め込む事は叶う。真弓さんとはこの7
年間、修練でもお風呂でも何度も肌身を交えている。

「心を奮い立たせる効果なら、わたしより叔父さんと添い寝して、想いを繋げた方が良い。
最愛のめおと同士ですから。でも不二夏美の情報は、口で伝えるより感応で伝えた方が…。

 わたしは明良さんに肌身を添わせて、全て伝える事をしなかった。その時は分りきれず、
羽様に戻って思索の中で気付けた事もあって。あの時に全て伝える事は元々無理だったけ
ど。

 でも、わたしが最善を尽くさなかった末に、明良さんの負傷や危難が生じたなら。二度
とその様な事は……叔母さんにだけは絶対に」

 だから今度こそ自身にも悔いのない様に。
 その柔肌に自身を沈み込ませ溶け込ませ。
 吐息も鼓動も共有し肌触りや肉感を重ね。

 己の内心を解放して、真弓さんの意識をわたしの内に招き、わたしの視た像を視て貰う。
伝えようとの選別が、像を歪める怖れもある。わたしが視た侭感じた侭を最大限視て感じ
て貰う事で、わたしも見落した何かに、真弓さんが気付くかも知れない。事は真弓さんの
生命に関る。己の醜い内心や恥ずかしい過去が、漏れて視られてしまう怖れはあっても後
回し。

「良人との初夜を迎える花嫁の真剣ぶりね」

 わたしの緊張を緩める為に、真弓さんはそう言ってくれて。わたしは、頬を染めながら。

「叔母さんと肌身を繋げるのには、馴染んだ筈なのだけど……綺麗だから恥ずかしくて」

 感応を最大限に効かせる為に、お互いに服も下着も脱いでいる。生れた侭の真弓さんは、
二児の母でも尚初々しく若々しくて。とても当代最強を謳われた鬼切りとは感じられない。
只滑らかに清らかに、優しげにたおやかで…。

 わたしは罪の錯覚に囚われる。己の様な俗人が、この女人の美しさに触れて汚す。この
手に掴む事で染みを付けて貶める。これは男性が女性と性愛を為す時に感じる印象なのか。
愛しさが紡ぐ罪の深さに身も心も竦み固まり。

 言葉を掛けて貰えて漸く強ばりを拭い去れ。
 真弓さんがこれを忌み嫌ってない事が救い。
 柔らかなその素肌に己の素肌を重ね合わせ。

「わたしは叔母さんに身も心も委ねます……叔母さんは眠りの園でも心を開き、わたしの
夢見の奥の奥迄、どうか入ってきて下さい」

 真弓さんとわたしに血の受け渡しはない。
 でもわたしが感応の持ち主である以上に。

 真弓さんとわたしは深く馴染んだ間柄だ。
 肌身を添わせ心も添わせ重ね合ってきた。

 贄の血を呑まれる事で心が繋り、わたしが視た不二夏美さんの過去を真弓さんも共有し。
同時に肌身も想いも繋げた事で、わたしも真弓さんの過去を視る事が叶い。真弓さんの視
点で不二夏美さんの過去を共有する事も叶い。

 鬼に変じる事が悲劇の極限・終着ではない。
 鬼に変じた後にこそ真の悲劇が待っている。


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 夏の日の午前拾時過ぎ、曇天の下葬儀場は。
 哀しみの中、告別式を終えようとしていた。

「どうして、どうして記者さんが」「酷い」
「これから、頑張って欲しかったのにっ…」

 芸能人でも競技者でも政治家でもないのに、多数の弔問客が訪れるのは。故人の名声実
績より、殺害されて有名になった為で。殺される事がなければ、ここ迄着目はされなかっ
た。

 警備員の制服を身に纏い、為景さんと葬儀場正面入口に佇む千羽真弓さんはこの時19歳、
14歳で鬼切り役に就いて6年目。結婚前と言うより二十歳前の真弓さんは、凛々しさ強さ
は今と全く変らないけど、少女の面影も残し。

 整った細身の清らかさは、研ぎ澄まされた日本刀を思わせる。サクヤさんには及ばない
けど胸は今のわたしより大きく。為景さんは6歳年上で25歳、わたしは小学1年生の頃だ。

 真弓さんが、サクヤさん討伐の命を返上し、千羽党の鬼切り役も返上し、羽藤に嫁して
正樹さんの花嫁になるのは。わたしが両親を鬼に殺められた小学3年生の夏の直後、サク
ヤさんが始めた『長期取材』を阻む為に、真剣の諍いを経た後で。この時はその凡そ2年
前。

 大抵の場合、人は自身の将来を見通せない。関知の『力』を用いれば、幾つかの可能性
は浮ぶけど。その通りになるか否かは不確かで、予想外の展開を迎える事も多く。わたし
も2年先どころか、近日の己の定めも読み切れず。

 わたしがそうだった様に、真弓さんがそうだった様に、不二夏美さんがそうだった様に。
ここで告別される原田記者がそうだった様に。

 真弓さん達は、若杉の手で葬儀の警備に臨時雇用された形で、訪れる故人の関係者を見
に来ていた。鬼が犯行の結果を見届けに訪れる可能性は低いけど。鬼に殺された者の縁戚
や仲間は、同じく鬼に狙われる可能性がある。被害者周囲の人間関係を見ておく事も重要
だ。

 原田記者が鬼の不二夏美に殺された事実は。
 公にも関係者にも遺族にも伏せられており。

 警察は熊にでも襲われた様な傷とのみ述べ。
 真相解明は凶器の特定さえも非常に困難と。

 警察の一部と非公式な繋りある鬼切部には。
 鑑識を通じて鬼の禍の可能性を密かに伝え。

「原田泰治(たいじ)は来月が誕生日の26歳、大学卒業後学習館へ入社し週刊ロスト編集
部に配属されて3年目。家族は父が52歳の商社マン、母が49歳専業主婦、二親とも学歴は
私立大学です。それに高校3年の妹・香苗。家庭内や親戚、隣近所との関係に問題はな
く」

 真弓さんが事前情報を読み込まぬ人なので。それらの技能を、相棒の為景さんが鍛える
事になり。剣技では真弓さんには敵わないので。

「正義感の強い人物だった様です。奇跡の超聖水批判も、どの社も相手にしなかった初期、
被害者数人の相談に最初に応えた事が始りで。信頼されて情報提供を受けるから、他紙が
追随しても、更にそれを上回る記事を書ける」

 夏美さんに血を呑まれ、心繋げたわたしの記憶には。この葬儀の一年半前、奥多摩の奇
跡の超聖水本部へ、被害者の会と報道各社が詰めかけた時に。双方の揉み合いに巻き込ま
れた小学生の真琴さん美琴さんを。夏美さんを庇う発言をした姉妹を。記者多数が映える
絵だと次々撮って行く中で。子供の顔を晒すのは拙いと、他の者を抑えに回っていたけど。

【結局、原田記者と相棒の副島記者以外にそんな配慮はなく。真琴さん美琴さんの容姿は
全国のお茶の間に放映され、雑誌にも載り】

 そのお陰で真琴さん美琴さんは、世間や学校に顔が知れ渡り。からかわれて学校を休み。
養父母の徳居夫妻から世間体に泥を塗ったと厭われ、夏美さんと引き離される因にもなり。
原田記者の判断は妥当でも、結果には繋らず。

「奇跡の超聖水や不二夏美への非難は激越で。被害者の告発掲載や幹部の豪遊批判、癒し
に効かない水道水の高額販売の暴露など、舌鋒の鋭さは『批判報道御三家』でもピカイチ
で。

 因みに『批判報道御三家』は、奇跡の超聖水を叩いた報道各紙でも、特に強い非難で不
二夏美に痛打を与えた、学習館の週刊ロスト、春秋社の週刊春秋、青雲社の創論の3誌
で」

「あの人達かしら? 多少見憶えがあるわ」

 葬儀の警備を担うから、遺族や関係者を見渡しても違和感はなくなる。新たに来る人や
場内にいる人に視線を向けても、不審を抱かれる怖れがなく。流石に凝視しては拙いけど。

 為景さんは頷いて、声を聞える限度迄低め。

「背が高く筋肉質な男が、青雲社の八木博嗣30歳。『批判報道御三家』一角で、この批判
報道で大いに名を上げました。同じ非難でも原田記者と路線が違い、夏美から離れたかつ
ての仲間による夏美非難・内情暴露が中心で。

 続く小柄で頭禿げた男が、春秋社の週刊春秋副編集長、真田昌幸36歳。非難と言うより、
夏美の人格中傷、夏美と周囲の者の下半身醜聞を、真偽取り混ぜて執拗に描き、イメージ
低下に貢献したとか。夏美がそこそこ美人なので、読者の劣情を誘う描写が効いた様で」

 為景さんが、二十歳前の娘の前を憚って。
 詳しく言えず声が萎むのに、真弓さんは。

「生前は商売仇でも、死んでしまえば敵ではないから。良きライバルとして弔意を表しに
来たと言えば、好印象に繋げられる訳ね…」

 彼らも正面入口に歩み来る。正面入口脇で警備に当たる真弓さん達は、余計な発言を聞
かれぬ様に口を鎖すけど。その口が再び開かれたのは、真田記者が煙草に火を点けた為で。

「館内は禁煙となっております。申し訳ありませんが、煙草は向うの喫煙コーナーで…」

 真田記者はそれを承知で、敢て真弓さんの注意を引いた。八木さんも煙草を出したけど、
喫煙コーナーを遠目に見て、火を点けるに至ってない。往来の真ん中で煙草に火を点ける
のは、マナー違反や他人の迷惑以前に危険だ。

 真弓さんも、真田記者が目を付けてきた気配を察している。肉体労働の極みと言える警
備員に女性がいる事に、若く綺麗な真弓さんに、彼は強い好奇心を抱き。敢て目に止まる
動きを為して、接触し会話を交わす事を欲し。

「ん、どっち?」真田記者の分らない振りに。
「こちら奥です」真弓さんも一応付き添って。

 彼はその接近を待っていた。素知らぬ顔で、煙草を持ってない方の掌を、真弓さんのお
尻に当てて。警備員の制服の上からぬるっと撫でて笑みを浮べ。煙草は近付く為の餌だっ
た。

 真弓さんは為される侭で、動きを見せない。痴漢にあった女子高生が、怯えと驚きで身
動き取れない様に。真田記者は真弓さんのお尻の肉感と、弱気とも取れる反応に笑みを浮
べ。

「女の癖に警備員やって、小生意気に注意するのはいいけどね、お嬢ちゃん。自分のお尻
のガードもしっかり出来ないようじゃ、人のガードなんて出来ないよ。まだまだ半人前」

 その侭歩み去っていく。続く八木さんに、

「いいカラダしているから、つい手が出たが。あんな小娘が警備員では世も末だ。どっち
が守られる側なのか分らないぞ。オレが雇っている訳じゃないから、冷かしに留めたが
…」

 女は姿格好が見栄え良いだけで、物の役に立たないと、露骨な蔑視を聞えよがしに漏ら
す真田記者に。後を追う八木さんの声は低く。

「違いますよ。彼女は敢て反応しなかった……弔問客の腕を捻り上げたり、警察に突き出
す訳に行かないし。正面玄関で己の為の抗議をしても通行の邪魔だ。少し武道をかじって
いれば、彼女が素人じゃない位は見て分る」

 大学時代に武道の部活で、多少鍛えた八木さんは、真弓さんの佇まいを素人ではないと
悟り。世間体や警備員の立場から反撃を控えたのだと彼を窘め。でも真田記者はその位の
眼力もなく。見て分らぬ物は聞いても分らず。

「ふん……声も上げられなかったぞ、あの娘。まともにテロリストや殺人鬼の襲撃を想定
しないから、役にも立たぬ小娘で頭数を揃え」

 記者2人が遠ざかり行くのを見定めつつ。
 為景さんが歩み寄ってきて声を潜めつつ。

「酷い人物ですな。真弓殿への、女性への非礼も劣悪ですが、人の行き交う真ん中で火を
扱い、火の付いた煙草を雑踏の中で持ち歩く。

 あれが社会の公器を自称し、不二夏美を正義面で非難するマスコミの実態だと言うなら
……夏美が哀れという以上に、恥ずかしくて我々も、正義の言葉を返上したくなります」

 真弓さんは、余り気に病む様子でもなく。
 涼やかな美貌を崩さず、声音もクールで。

「男社会のご時世に生れて戦う女の定めよ」

 むしろ為景さんが、腹に据えかねていて。

「その気になれば、真弓殿なら片手も不要に退けられる外道だが。騒ぎになれば、若杉の
一声で我らの臨時雇用を強いられた、警備会社に迷惑が掛ります。今は堪えて正解かと」

「……そうね、そう言う事も、あったわね」

 真弓さんの意外そうな声に、為景さんも想定外な顔を見せ。彼は、真弓さんが真田記者
の痴漢行為を受け流したのは。鬼切部の活動の為に、2人の臨時雇用を若杉から呑み込ま
された警備会社への、義理と思った様だけど。

「騒動になって、周囲の者の印象に残っては拙いでしょう。ここには鬼の標的もその関係
者も多い。次に逢う時は、鬼に襲われている処を、鬼切部として助ける時かも知れない」

 真田記者の印象には、残ってしまったけど。騒ぎにして他の人達の印象に迄残る事は避
け。ここにいる誰が次の鬼の標的か分らないのだ。彼も、真弓さんの真意は読み取れた様
だけど。

「例え鬼に襲われていても、あの男は助けたくないですな。助けても感謝されるどころか、
何を言われ書かれるか分った物ではない…」

 流石に本気で見殺しにする積りはないけど。
 そうしたい想いを言葉に込める為景さんに。

「鬼切部の使命は人に仇なす怪異を討つ事。
 守られる人の咎の有無は問われないのよ」

 真弓さんは、表情を崩さず声音を変えず。

「人の罪は人の法で裁かれる。千羽党に人を裁く権限はないわ。千羽党に与えられたのは、
人に仇為す鬼を切る権限だけ。鬼に与して世の平穏に害を為す人は、鬼の同類と見なして
切る事も、許されているけど。鬼切りの為に必要な一定の法規違反は、許されているけど。

 鬼切部は、己が好いた者を守ったり、嫌った者を見捨てたりする為に、他者の生命を絶
つ権限を与えられた訳じゃない。為景さんは分っていると思うけど、何度も口に上らせて
いると、言霊が心に浸透してしまうわよ…」

 侵略者から民を守って命懸けで戦う軍隊が。
 軍隊の存在や活動を忌み嫌う民も守る様に。

「わたし達は粛々と、使命を遂行するだけ」

 語りつつ、真弓さんが為景さんに掌を示すのは。盗聴器のイヤホンを頂戴とのサインだ。
真田記者や八木さんの会話を聴く為に。若杉は鬼の犠牲者の関係者の動向を把握する為に、
葬儀場の各所に盗聴器を設置済だ。原田記者が殺された今、鬼の標的に最も近いのは『批
判報道御三家』残り2社の者達で。その動向を把めば、彼らを狙う鬼に早く確実に迫れる。

 真田記者への私情は挟まず。でもその代り、手加減や遠慮や躊躇いも一切挟まず。鬼に
迫る為には、鬼の標的の把握にも手段を選ばず。

「あなたは本当に鬼を切る為に生れた様な」

 為景さんは様々な種類の溜息を漏らしつつ。
 真弓さんに渡したのと同じイヤホンを付け。
 人の世を蠢く亡者共の語らいに耳を傾ける。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 喫煙コーナーには、他に誰もいないらしく。
 盗聴器が拾う音声も、比較的聞き取り易い。

「八木、お前さん原田の死を喜んでいるだろう? 批判報道御三家と言っても、遂に原田
以上のスクープを、お前さんは出せなかった。世間の注目も部数の伸びも、最後迄敵わ
ず」

 真田記者が八木さんに話しかけている様だ。

「お前さんが報じた、奇跡の超聖水の離反者やその証言にも、原田は胡散臭いと批判的で。
幾つかは嘘と否定され面目を失って。若く生意気で仕事が出来るライバル。消えて幸い」

「酷い言い方だ。まるで俺が原田の死を望んで誰かを唆した、犯行動機を持つ様な事を」

 毒気の点で上を行く、年長の真田記者を前にした為か、八木さんの応対が穏便に見える。

「オレが思っている事は誰かも思っている」

 真田記者は自身が宿す悪意を、他の誰かに見つけて安心した様で。八木さんはその内心
を曝かれた事に、更に不快な声音になるけど。

「オレがお前さんに抱く嫉妬でもあるからな。

 原田が登場する迄、オレの嫉妬が向く1番手は、企画力でも行動力でも文章力でも上を
行く、お前さんだったから。原田が彗星の様に登場した時は、お前さんがオレと同じ嫉妬
に歯噛みする様を思い浮べ、悦に入った物さ。『他人の不幸が蜜の味』はオレ達の鉄則だ
ろ。

 原田が死んで気分爽快な代り、再びオレの敵意はお前さんに向く訳さ。なぜそんな事を
当人に言うかって? お前さんはもうオレの人品を承知だと、オレの側も承知だからさ」

 この1年余り原田への嫉妬を2人で語らい、奴の足を引っ張る術を語らい。原田がこの
若さで死ぬと思わなかったから、お前さんとの同盟は末永くなると見て、手の内を結構明
かしたのにな。まぁ俺もお前さんの手の内を知った。共通の敵が消えれば同盟も終り。と
言うより最強の味方はその瞬間最凶の敵になる。

 真田記者の言葉は重ねる内に嫌味を重ね。

「お前さんが、金に困った奇跡の超聖水の会員から、暴力団も使って捏造証言取ったやり
口は参考になった。脅したり言いくるめたり、巧く金で寝返らせ、己の情報源に仕立て
…」

 人聞きの悪い事を言わんで下さい。八木さんは、真田記者の言葉に不快と警戒を満載で。

「俺は奇跡の超聖水から無一文で逃げ出して、行く宛もない奴らや。借金が嵩んで暴力団
に追い込み掛けられた奴らを。引き取って面倒見て暴力団の請求を抑え、良い証言があれ
ば、買っただけで。捏造しろなんて言ってない」

「言っているに等しいぞ。買い取れる様な過激な証言を促す状況設定して。酷い救い主だ。
カネに困った奴らは百円でも欲しい。新妻と結ばれたばかりの新郎がやる事とは思えん」

 真田記者の同情を装った遠回しな非難に。
 八木さんは最早年長者への敬意も薄らぎ。

「被害者でもない者に証言させ、実在しない被害者の証言も載せた、あんたに言われたく
はない。同情の欠片もない癖に。あんたの手法は真似出来ない。何でもありと言っても流
石に限度がある……良くあんたの様な人物が、報道業界で生き残っていられる。どこかで
告発され失脚しても良いのに。上役に余程見る目がないのか、強いコネや伝でもあるの
か」

 彼の指摘は、『下手な鉄砲』の正解だった。
 当時の八木さんは知る筈もない背景だけど。

 八木さん達の奇跡の超聖水叩きが、売上げや社の上部やスポンサーの意向を考えつつの
仕事であるのに対し。真田記者は若杉の意向に直結し。指示された提灯記事やバッシング
に励む事で、若杉の手先の役を果たして来た。

 若杉にとっても使い易い駒だから守られる。
 だから失敗しても叩かれる側にならないと。

 彼は文章力や企画力や行動力を鍛える必要もなく、努力も不要で。若杉に従う事のみで、
今迄生きてきたし、今後も生きて行く積りで。

「妻は一般人だ。雑誌に名が載る連中とは違う。芸能人も政治家も雑誌に名前が出る者は、
非難中傷でも醜聞でも話題になりたい連中だ。世間の注目を浴びる為に、恋人との愛も離
婚も不倫も、過去の己の犯罪歴迄漏らす奴らだ。人間じゃないんだよ。雑誌に出る奴らな
んて。

 そんな風に雑誌記事に、望んで載せられた奇跡の超聖水を。妻や親戚やご近所さんの様
な善良な者と、同列に扱える筈がないだろ」

 八木さんは己が愛した者には誠実だった。
 そして彼は私生活では幸せを掴んでおり。

 真田記者が気に入らないのはその辺りか。
 私生活が順調な者を見れば妬み憎み嫉み。

 彼は取材の中で男女の深みに嵌った末に。
 一家離散する等私生活が順調とは言えず。

 夏美さんへのバッシングでも真田記者は。
 一度も八木さんに届かない、3着で終り。

 原田記者の生前は、共通の敵がいたけど。
 最早その必要もなくなって宣戦布告だと。

「オレはお前さんの様に、能力や実績でのし上がり、どこ迄も伸びて行けると信じている
奴は嫌いでね。原田に似た臭いがするんだよ。やり口に綺麗汚いはあるが、頑張れば成果
に繋ると信じている点で、同類なんだ。原田が消えた今、お前も夜道には気をつけろよ
な」

 言い捨てて歩み去ろうとする真田記者に。
 八木さんは却って爽快と戦闘的な笑みで。

「あんたの人品卑しさの右に出る者はいない。俺も清廉じゃない自覚はあるが、あんたに
は負ける。今迄も信用してなかったが、同盟組んでいてもいつ裏切られるか気懸りだった
が、今後は心おきなく敵視する。忠告には感謝するが、夜道が危ないのはあんたも同じだ
…」

 夏美の恨みはあんたにも及ぶ。八木さんがそう返した時、真田記者は含み笑いを見せて。

「大丈夫、特別なお守りがあるからな。夏美がオレを幾ら恨んでも、絶対見つけられない。
オレは安全圏でお前さんの盛衰を見守るよ」

 その頃合に、正面入口付近がざわめき始め。
 2人の報道記者も取材の出番と動き出して。

 遺族と学習館の共同記者会見が始るらしい。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「鬼の為す殺人を喜び利益に思う人がいる。
 鬼の夏美が未だ可愛く見えてくるわね…」

 真弓さんが溜息を漏らすのに為景さんは。

「彼の死は若杉も共に享受しています。最近原田記者は若杉系列の建設会社談合疑惑も探
っており。若杉はむしろ好都合だったとか」

 人の世の汚穢は他人事ではないと応えて。

「それでこの豪勢な葬式なのね。スクープを書いたとはいえ若手記者1人の葬儀に、ここ
迄大きな会場を使い警備を付け、テレビクルーに放映迄させるなんて、普通しないもの」

 これ程大規模な葬儀にしなければ、警備を多数揃える必要はなく。真弓さん達は別の偽
装を必要とした。武道達人である千羽党には、警備員の方が紛れ易い扮装で、好都合だけ
ど。

「学習館の社葬だそうです。費用は全面的に会社が出すと。他社も含め報道記者が殺され
ていますので。警察は殺人か事故か断定してませんが。原田記者を殺すなら不二夏美の関
連だろうと。学習館は、取材や報道の自由を脅かす犯行を許さないとのアピールを考え」

「夏美は世間の敵と印象づけ、非難の世論を更に強める。その為にも警備員が物々しく固
める姿を見せ。葬儀費用も若杉が裏で捻出しているのね。彼を報道の殉教者扱いして称え、
学習館にはお金を出して恩を押し売りしつつ、序でに建設会社の疑惑を埋没させようと
…」

 俗世の事柄が必ずしも清くない事は、鬼切部として動いて来たこの5年間で、真弓さん
も呑み込まされていた。鬼切部の一つに過ぎぬ千羽党に、鬼切りの頭たる若杉が鬼切部と
別に為す、財閥の事柄に分け入る権限はなく。そのサポートが時に千羽党の鬼切りを支え
ている事実は、苦々しくも受け容れざるを得ず。

 真に苦々しいのは、作為の末に若杉が実際、世の平穏を保っている事で。鬼切りの頭の
使命という以上に、今の若杉は財閥の安定的な収益の為にも平穏な世を欲し。各所に不適
正はあっても、概ね人の世の治安を保っていた。千羽党が銃刀法他幾つかの法規に違反し
つつ、世の影で鬼を切って人の世の平穏を守る様に。

「綺麗ではない人の世を守るには、綺麗ではない手段や手法も、必要なのでしょうかな」

 為景さんも完全に納得した訳はなさそうで。真弓さんへの言葉は自身を諭す様にも聞え
た。事は人の生命に関るから、手法の正邪より結果が大事との考えも、分らないではない
けど。

「実際若杉は原田記者を殺させた訳ではない。守り切れなかった。鬼が恨む報道関係者は
無数にいて、奇跡の超聖水を裏切った者も50名に達し。全員が一つ処に集まって息を潜め
ている訳でもない。しかも鬼はずっと行方不明。多数を長期間守り通すのは不可能です。
特に報道記者は夜昼なく活動的に動き回る。鬼を見つけて切り捨てる事が最善策。問題は
…」

「鬼を見つけて切り捨てる事が出来てない」

 さようで。千羽党は既に先月から、夏美さんの討伐を若杉に指示され、動き出していた。
でも千羽の強者は彼女を二度討ち損じていて。鬼切り役である真弓さんが出陣する事にな
り。

 鬼は既に鬼切部の攻撃を受けて生き延びた。
 不二夏美は鬼を討つ者の存在を知っている。

 自身が討たれるべく追い回されている事も。
 今後は鬼も敵を警戒して安易には顕れまい。

 真弓さん達は、隠れ潜み隙を窺って牙研ぐ鬼を、捜し見つけて切らねばならぬ。どこに
潜むか、いつ動くか、誰を狙うかの主導権は、鬼の物だ。まず姿を捉える事が容易ではな
い。

「見つける事が大変なのよね。切るよりも」

 真弓さんが呟いた時、入口方面が静まって。
 遺族と学習館の共同記者会見が始った様だ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 葬儀場の正面広間で、テレビや雑誌のカメラに向いて。日頃取材する側である学習館が、
今は取材され訴えかける側となり。横には原田記者の遺族が並び。大人が全員喪服なので、
妹・香苗さんの夏服セーラーが涼やかに白い。ストレートの黒い長髪が光沢を帯びて艶や
か。

「本日は、わたくし共の息子・泰治の葬儀に参列頂き、ご厚情に深く感謝申し上げます」

 周囲には故人の親戚や友人、奇跡の超聖水被害者の会の人が、百人近く詰めかけ。その
外側を日頃商売仇の同業他社が、今は取材と言うより。学習館と遺族の奇跡の超聖水非難
に同調し広めようと、同志的な感じで参集し。

「原田泰治君は一昨年の春に我が社へ入社し、ジャーナリズムの使命に真剣に向き合い、
社会正義を守り弱者の痛みを届ける為に『今そこにある事実』の報道に努めてきました
…」

 社長挨拶や編集長の回想では、誠実で情熱的で理想主義で、周囲とぶつかりつつ前進し
てきた青年記者の姿が述べられ。何故若く有為な人物が殺されなければならぬのかと、強
い悲憤は周囲の涙を誘い。年輩の副編集長は、

「長年業界にいれば、どうしても内輪の感覚で物事を考え動いてしまう。原田君はそう言
う我々に、新人ならではの義憤や正論を吹き込ませ、議論を巻き起こしつつ、社内を活性
化させてくれた。未熟な面はあったが、それを自覚して学ぶ姿勢も人一倍の好青年だった。

 我々も、彼に持てる限りの経験を教え込み、これから本当に一人前の記者に、育てて行
こうとしていた処なのに、余りにも惜しい!」

 今のこの国で報道関係者が殺される事態は、通常想定されぬので。学習館社内のみなら
ず。報道記者が次々狙われ殺された一連の事案は、『事件事故の両面で捜査中』との警察
発表をよそに、業界を震撼させていた。参集した記者達も、利害より危機感に顔が引き締
まって。

 原田記者の相棒だった副島靖史(そえじまやすふみ)記者29歳は、涙混じりの大音声で、

「お前の仕事は終ってないぞ。お前が手がけた奇跡の超聖水も、若杉の建設会社談合疑惑
も、下町ラーメン事情も始ったばかりなのに。これからって時に、逝っちまいやがって
…」

 なんでお前が殺されなきゃいけないんだ!
 先輩より先に死んじまう後輩がいるかぁ!

 男泣きとはこういう様を指すのかも知れぬ。
 周囲からも貰い涙に鼻を啜る音が漏れ聞え。

「原田記者には本当にお世話になりました」

 頭頂の黒髪薄い村井秀隆さん66歳は、雑貨店店主で被害者の会の代表だ。大学生の孫息
子が夏美さんの癒しに魅入られ、奥多摩の施設に入り浸り、大学も中退すると言い出して。
町会会役員を歴任する等活動的な人物だった彼は、孫の父母である息子夫婦と奪還を図り。

「最初の内は役場も警察も弁護士も、誰も話しを聞いてくれず。行く宛もなくさ迷う中で、
原田さんに出逢えて、話しを聞いて貰えて」

 他にも被害を受けている人が多いと聞いて。
 これは自分だけの問題ではないと気付いて。

 まず声を上げなければ始らないと励まされ。
 被害者の会を陰に陽に助け支えてくれた…。

「そのお陰もあって、孫は漸く取り返せたが。その事には幾ら礼を述べても述べ足りない
が。その為に原田君を若死にさせてしまったなら、それは正に我々の所為です。申し訳な
い!」

 原田記者のご両親に頭を下げて。それに連なって、白髪の長い女性も深々と頭を下げる。

「それは私も同じです。娘夫婦が破産を免れ、孫がまともに病院に通える様になったの
も」

 被害者の会副会長で、教員の奥さん(専業主婦)である鹿島トメさん57歳は。娘夫婦が
難病の孫娘の為と『癒しの水』に、湯水の如くお金を費やす様を危惧し。何とか目を醒ま
させようと親戚に相談した処、他にも被害者が多くいると知り、被害者の会の結成に至る。

「その為に感謝されこそすれ、恨まれ憎まれ、殺められるなんて」「余りにも酷すぎま
す」

 言葉に詰まったトメさんの後を受けたのは、被害者の会事務局長で弁護士の滝沢勝さん
49歳だ。水子や先祖の祟りを騙り、人の金をむしり取る霊感商法を告発してきた人で。既
に幾つもの案件を抱えて多忙なのに、『原田記者の説得に根負けして』事務局を引き受け
た。背景には、霊感商法から救い出した人の幾人かが、奇跡の超聖水に嵌っていった事が
あり。

「綺麗で若々しい女性を前に出し、裏で暴力団を使って信者を閉じこめ、寄付を強要し暴
利を貪る。その上で幹部は信者の浄財を己の懐に入れて、自分勝手に豪遊する。許せない
団体です。しかもその事実を告発し批判して市民に注意を喚起した報道記者を害するとは。

 我々の追及が足りなかった為に、奴らに尚生き残ろうとの、悪あがきを許してしまった。
それがこんな結末を招き……申し訳ない…」

 原田記者が被害者の会の人達から、深く心を寄せられていた事は、最早視なくても分る。
夏美さんについては誤解や曲解があったけど、被害者や報道側にも重く確かな事実があっ
た。

「泰治は自身の信じる生き方を貫きました」

 それを受け、原田記者のお父様は沈痛でも。
 声震わせつつも、しっかり己を保って応え。

「この様な最期を迎えた事は、本人も無念だろうし、わたくし共も痛憤の極みですが。こ
うして皆さんに悼んで頂ける値があった事は、父として誇りに思いたい」「あなたっ
…!」

 悲憤を抑えきれず、取り縋る奥さんを両手で抱き締めて。その深い哀しみを受け止めて。
粛然とした雰囲気を押し破った女の子の声は。

「そえじまさん……わたし、仇を討ちます」

 妹の香苗さんだった。この時高校3年生。

 それ迄特段人生とか生き方とかも、考えてなかったけど。今迄当り前にいた人が、突如
消失して二度と戻らない。その衝撃に打ちのめされて。どこに悲憤をぶつけてよいのか分
らない日々を過ごし。煩悶を繰り返した末に。

「わたし、報道記者になって、兄さんの仇を討ちます。やり残した事をやり遂げます! 
奇跡の超聖水を、不二夏美も宗佑も絶対に許さない。彼らの悪事を白日の下に晒します」

 香苗さんの復讐は、夏美さんや奇跡の超聖水を、暴力団や鬼切部の様に戦い倒す事では
なく。報道記者になってペンで戦い倒す事で。

「わたしは卑劣な殺人鬼や暴力団とは違う。
 仇を殺し返して心満たされる訳じゃない」

 哀しみの定めを、痛みや涙を、笑顔に書き換える事がわたしの望み。世間のみんなに真
実を訴えかけて、1人1人のたいせつな人の笑みを守り取り戻す事こそ、わたしの復讐戦。

 口封じしても屈しない意志があると示す。
 悪事を最後まで隠し通す事は出来ないと。

「わたし報道記者になります。兄さんが道半ばで終えたその遺志を、実現します。そえじ
まさん、わたしに記者の心得を教えて下さい。ふつつか者ですけどよろしくお願いしま
す」

 鬼に変じる事が悲劇の極み・終結ではない。
 鬼に変じた後にも更なる悲劇は生じて行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 香苗さんの両親も副島記者も、高校生の娘の進路・生き方に関るので。即座に許諾せず、
考える様に促したけど香苗さんの決意は固く。原田記者の妹なら、強情さも又兄に近しく
て。

 その様を少し離れた処で、警備員として見守っていた真弓さんが、ふと気付いた視線は。

「為景さん、ここ少しお願い」「真弓殿?」

 真弓さんは剣士で、感応使いではないけど。
 気配の有無や、敵意の有無を悟れる達人で。

 葬儀場の正面玄関前で行われた記者会見を。
 通り向いの建物の影から覗いていた男性の。

 敵意ある感触を人通りの多い都会でも感じ。
 鬼に繋る手掛りを掴む為に走り出していた。

 真弓さん達は、葬儀の警備に来ている訳ではない。それは偽装で、真の目的は鬼に繋る
情報収拾だ。だから状況に応じて持ち場を離れる事も、想定の内で。この時は真弓さん1
人で充分だから、為景さんには待機を指示し。

 真弓さんが彼を視認した瞬間視線が合って。彼も気付かれたと察して、脱兎の如く駆け
出したけど。鬼切部の俊足に常の人では敵う筈もなく。住宅街に分け入った小路で、袋小
路に追い込まれ。男性は進退窮まった処で声を。

「不二夏美の関係者ね」「わわっ、な何だ」

 あなたは。真弓さんも微かに憶えがあった。

 黒い顎髭が今は無精髭で薄汚れているけど。
 真弓さんより背も高く筋肉質な中年男性は。

【高(たか)秋利さん。奇跡の超聖水発足前から夏美さんの知り合いで、地元紙・地域新
聞の記者だった人。奇跡の超聖水に好意的な記事を書いて、隆盛に導くのに貢献した…】

 バッシングになってから彼は、逆にマスコミに指弾される側になり。取材で知った事や
描くべき事を書かなかった『報道記者失格』『取材相手に迎合した』とされて信用を喪い。
地域新聞の社長が、社論を夏美さん非難に変えた時に、邪魔だと責任を問われクビにされ。

 忌々しげに記者会見を睨んだ気持は分らないでもない。彼もあそこで取材し撮影する側
だったのだ。報道記者の主戦場に首も挟めず、逃げ隠れの末住宅街の片隅で捕捉されると
は。

「夏美の指示で動いているの?」「ふん…」

 追い詰められたけど、振り返ってみれば。
 二十歳前の女性独りで追随する者もない。

 真弓さんは、端正で綺麗な細身の女性で。
 一対一で対峙すれば与し易く映った様だ。

「俺は乱入した訳でもなければ、狙撃を試みた訳でもない。見ていただけだ。そんな俺を、
警備を放り出して、あんた一体何やってんだ。……まさかあんたの目的は、葬儀の警備じ
ゃなくて、葬儀に来る関係者の情報収集…?」

 高さんも、真弓さんの行動が警備員としてはあり得ない事に気付き。自分の様に葬儀を
訪れる者が彼女の標的だと悟り。そう言う者を炙り出そうとする真弓さんの立場を訝って。

「葬儀に来た関係者の情報収集をさせて貰いたいの。あなたと夏美の現時点での関りを」

「お前らには、俺は何一つ話す積りはない」

 今尚夏美さんに心を寄せる高さんは。真弓さんを、夏美さんを非難する報道記者と思っ
た様で。自分に更なる取材や、その名を借りて非難する為に来たのかと身構え。夏美さん
を敵とするその立場は、彼の推察正解だけど。

「彼女(夏美さん)に都合の悪い事実は伏せ、非難中傷する為に事例を選んで誇張し捏造
し。自分の主張に都合悪い事実は、拾わず書かず。何が事実を伝え正義と弱者の声を届け
るだ」

 夏美さんにされた新郷田組の行いや、獄門会による郷田組の殲滅には、全く触れもせず。
夏美さんのお陰で病や傷が治ったという声は、『インチキに騙された例』として片付けら
れ。

 治癒された事実には目を瞑り。捏造された不成功を、捏造と承知で喧伝し。夏美さんと
は関りのない処で起きたお金の搾取や豪遊が、組織的な指示だったと事実を曲げて描かれ
て。

 不公正な報道に抱く彼の憤りも正当だけど。

「それはあなたが為してきた事でしょうに」

 真弓さんは、簡潔に彼の憤懣を切り捨てる。真弓さんが報道記者ではなく、彼の非難の
範囲に属さぬと言う以上に。高さんが記者失格とされた理由も、彼自身の同種の行いなの
だ。

「あなたも、分って伏せていたのでしょう?

 不二夏美と郷田組との関係を。癒しの水に『力』を込めてない唯の水道水があった事を。
奥多摩の施設に引きこもり、学業や仕事を投げ出す人が増え、家族の苦情が来ていた事を。
多くの寄付を強要された者がいた事実を…」

 論調が、夏美さんに好意的か敵対的かの違いだけで。今同じ行いを為して脚光を浴びる、
真田記者や八木さん達への批判は正解だけど。その非難は、言えば彼に返ってくる物だっ
た。

 でも指弾された側の高さんは納得が行かず。

「奴らの夏美さんへの非難は、非難したいが為の非難だ。欲得づくで、そうする様に指示
されたからしているだけで。医療業界や社の上司や政治家の指示で。権力の操り人形だ」

 言い募る彼に真弓さんは平静な声音を保ち。

「権力に操られてなければ、何をやっても正しいの? あなたの夏美賞賛も、賞賛したい
が為の賞賛だった。己の話題作り、販売部数伸ばしの為で。言われて為した彼らの作為と、
自ら為した作為、どちらか片方は正しい積りでいるの? あなたの方が正しいとでも?」

 天に向って唾吐けば、己の顔に落ちてくる。
 双方共に間違いという場合も、世にはある。

「夏美さんの癒しは本物だ。何人もの人間が、今は離反して非難している連中も、直に見
た。

 マスコミの異常なバッシングは、彼女の癒しが無償の本物だから。患者から対価を貰っ
て医療を為す病院や製薬会社、それに繋る役所や政治家に挙って嫌われた。インチキじゃ
ない。本物だからインチキの濡れ衣を被せられて、社会的に抹殺されたんだ」「そうね」

【寄付や出資を募るのは、夏美さんには経過措置で。欲しい者に欲しいだけ、対価の必要
なく癒しを及ぼす事が、彼女の理想だった】

 彼女に人々が殺到すれば、無償の癒しで満たされれば。対価を払う現代医療を使う人は
激減し、病院も製薬会社も医療機器会社も淘汰される。医師も看護師もレントゲン技師も
職を失う。関連する容器や印刷物や事務用品会社が潰れ、路頭に迷う人が続出する。彼女
の癒しは本物の故に、世の秩序を激変させる。

 高さんは医療業界や役所、政治家が黒幕と思っているけど。背後に若杉がいる事は探れ
てないけど。どっちでも結果は同じ。若杉を抜きにして話しが成立すると言う事は、若杉
が動かなくてもこの経緯を辿ったと言う事で。

 既存の秩序は急激で劇的な変革を望まない。利権絡みとの見方は一面の真実だけど。も
う一面で、医療に携わる人々の生活や生き方を左右する話しであり。病やケガに悩む更に
多数の人々を左右する話しでもあり。夏美さんも全ての人は救えない。容量には限りがあ
る。

 でも、その故に潰されたのだと言われても。
 潰された側が納得する筈もないのは当然で。

 利権を漁る者達の思惑が絡むのも事実だし。
 手法が不適切なのは知る者達には明らかだ。

 真弓さんも、その是非には敢て触れてない。
 千羽党の立場では、そこへの介在は権限外。

 鬼切り役は鬼を切る者で、人の世の在るべき姿について、意見具申や介入をする者では
ない。使命遂行の為に与えられた権限は絶大でも、使命以外の何かを為すには役に立たず。
政治家や記者や病院経営者を、切ったり脅したりして、言う事聞かせれば済む訳でもない。

「ヤクザやマスコミを使って、奇跡の超聖水は不当に潰されたんだ」「ヤクザやマスコミ
を不当に使ったのは、夏美が先でしょうに」

 当時の真弓さんの認識には、一部誤解もあったけど。お互い様という反論は概ね正解だ。
でも己や夏美さんを正しいと信じる高さんは、納得出来ず。目的が正しければ手段を選ば
ないとの発想は、意外と真田記者の感覚に近い。

「夏美さんは自動車事故を装って、殺されかけたんだ。車のブレーキに細工した獄門会の
奴から、俺は直に聞き取った。どんな理由があっても、あんな酷い罵詈雑言を受け、社会
的に抹殺され、生命奪われて良い訳がない」

 そうね。真弓さんはそれには同意の頷きを。

「どんな理由があっても、車のブレーキに細工した獄門会の男も、離反した奇跡の超聖水
元会員も、原田記者も、夏美に生命奪われて良い訳がない。人の罪は人の法で裁かれるべ
き。わたしが人に関して言えるのはその位」

 そこで彼が瞳を見開いたのは。真弓さんが夏美さんの復讐を、行方不明後の彼女を知っ
ていると示唆した為で。公には夏美さんは姉春恵さんの運転した車の事故後、行方不明と
なっており。原田記者などの殺傷事件も警察の公式発表は『事件事故の両面で捜査中』だ。

 さっきの葬儀では、強く非難していたけど。
 夏美さんの犯行を示す、証拠や証人はない。

 特に獄門会の者の殺傷事件は、一般に知られておらず。獄門会は警察やマスコミの注目
を嫌い、何も動かず情報も出さず、嵐が過ぎるのを待つ構えで。それを夏美さんの復讐と
示唆するには、行方不明後の彼女の動向を多少でも知ってなければ。それを知る者とは?

「あんた、何者だ? どこの社の記者だ…」
「知っているのね、あなたも最近の夏美を」

 流石に容易に口は滑らせないけど。直に対面すれば、表情や声音や仕草や気配で、前後
の脈絡から概ねの推察は出来る。高さんが新郷田組の事務所襲撃、組員多数の死傷を知る
のは特殊な事情の故で。普通の報道記者が探り出すのは困難だ。ならそれを知る者とは?

「あんた、獄門会や新郷田組の、手先か何かか……夏美さんに、報復する積りなのか?」

「報復に走る積りはないわ……わたし達は」

 鬼切りは仇討ちではない。憎くなくても人に害を為す悪鬼は討つし。仇でも憎悪や憤怒
の対象でも、勝手に討つのは禁忌だ。人に害を為す悪鬼だと見なし、鬼を見かけたら討っ
てしまう、道を外れた鬼切部もいる様だけど。

 ここから真弓さんの真に訊きたい事になる。

「夏美と最近最後に遭ったのはいつかしら」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 多少のお金と引替に、高さんが夏美さんとの最近最後の接触を、夏美さんに好意的では
ない立場と分る真弓さんへ、打ち明けたのは。その情報や彼自身が、現時点の夏美さんに
繋り薄いという以上に、貧窮に喘いでいた為で。

 力づくや脅しの結果ではない。真弓さんは剣技は凄まじいけど、それを見せなければ外
見は二十歳前の若い女の子で。街を歩いていると、芸能関係のスカウトに遭った事もあり。
高さんはむしろ与し易さを感じているみたい。真弓さんの技量を佇いで見抜いた八木さん
は、達人とは言えずとも眼力はあったと言う事か。

「あんたが一体どこの何者なのかは、明かしてくれないんだな」「あなたも報道記者なら
自力で探る事ね。それとも情報料を出す?」

 正午過ぎに、2人が連れ立って入ったのは。
 繁華街の片隅で昼も空いていたラブホテル。

「おいおい、ここは……分っているのか?」

 二十歳前の娘の足取りに迷いはないけど。
 高さんの方が気後れして確認の問を発し。

「漏れ聞かれると拙いから、喫茶店とかは使えないでしょ? カラオケボックスは隣の部
屋を誰かが使っていれば五月蠅いし、普通のホテルは日中使えない。安いお金でいつでも
静かに話しが出来るから、重宝しているの」

 家族で使う人も見かけるし、代金を払えば、部屋で何をしようと不問。外だと警備員の
制服は目立つけど、自動受付には怪しまれないし。全てお金で動く今の世の利点ね。男女
の恋路に使われる場だと言う事は分っているわ。

「襲う積りはないから、安心して」「……」

 真弓さんは、千羽党や若杉との打合せにも、ラブホテルを使っており。為景さんはそう
言う処に、二十歳前の女の子と一緒に入る事が、誤解を招くと躊躇したけど。男女相棒で
動く鬼切りにはこういう仕事上の密接さから、関りも密になって恋仲に進む者もいる様だ
けど。

 為景さんの男性を意識しないと言うよりも。
 真弓さんは自身が女の子と言う認識が薄く。

 使い易さや料金、個室である事など、機能で見れば最上で。一体誰の誤解を招くのかと、
興味深げに問うて為景さんを黙らせ。それは鬼切部以外の者からの、情報収集でも同様に。

「利用料金は誘った側であるわたしが持つわ。自分の懐は寒くても、必要経費は潤沢な
の」

 葬儀も終る刻限だけど、携帯という便利な機器もない頃なので、互いの現在地を伝え合
う術はない。こんな時は通常、動いてない側である為景さんが現地で日没迄待機し。落ち
合えなければ、彼は本拠である千羽館に帰り、動いた側である真弓さんの帰着か連絡を待
つ。

 今回は葬儀警備に紛れるという特殊状況で、任務を終えた警備員は会社に戻らねばなら
ず。為景さんも真弓さんも臨時雇用はそこで終了なので、会社でずっと待つ訳に行かず。
千羽館に帰るのが妥当な動きか。それを承知の真弓さんも、早く済ませようとかの焦りは
なく。

「折角だから、シャワーを浴びて良いか?」

 何日も、まともに風呂に入れてないんだ。
 臭いは結構、きつくなっている頃だろう?
 自分の袖に鼻を付けてアピールする彼に。

「情報を持っている側の強みね……どうぞ」
「あんたも使いたければ、先を譲るが…?」

 遠慮するわ。真弓さんはにべもなく断り。
 裸の男性が体を髪を洗う水音に耳を傾け。
 30分程経って湯上がりで生き返った彼に。

「落ち着いたら、始めましょう。情報収集」

 若い女性と2人きり、もしかしたらとの。
 邪心とも恋心とも取れる思惑を断ち切る。
 事務的で隙のない笑みに高さんも怯んで。

 マスコミに追われ逃げ回り、数百円に苦労する今の彼は、女の子を襲うどころではない。
真弓さんの涼やかな応対は、自分の置かれた状況を冷静に見つめるきっかけを与えた様で。

「俺が最後夏美さんに逢ったのは4ヶ月前だ。俺はどうしても、夏美さんの事件に納得行
かなかった。その報道も、事件の捜査終了も」

 夏美さんが奇跡の超聖水の代表を解任され、姉・春恵さんの車で奥多摩の施設を出た直
後、事故で行方不明になって半年経った。同夜郷田組も獄門会に殲滅され。サダさん(西
川貞雄)が跡を継ぎ、新郷田組となって今に至る。

 奇跡の超聖水は、夏美さんの叔父宗佑氏が代表の新体制に移り。それ迄批判されていた
『金目当て』『寄付の強要』は、夏美さんや、団体を離反し非難する側に回った佐伯摩耶
さん・王健行さんの所業で、今後はないと告げ。佐伯さん達に非難に値する事実はあった
けど、夏美さん達に憶えはなく……責任転嫁だった。

 マスコミの応対や論調も割れた。原田記者の週刊ロストは、宗佑氏達新体制も夏美さん
の下で悪を為した同罪と、非難を続けたけど。八木さんの創論は、奇跡の超聖水を離れ非
難に回った佐伯さんや王さんを取り込んでおり。彼らが新体制から夏美さん共々非難され
ると、彼らも新体制を夏美さん共々非難する泥沼の中傷合戦になり。真田記者の週刊春秋
は、夏美さんへの非難を続けつつ、新体制を改善への一歩で言論の勝利と好意的に評価し。
その勝利はマスコミ人連続殺傷で、覆されたけど。

 それ迄の悪の根源・不二夏美を責めていれば良かった状況は一変し、誰が悪で何を責め
れば正義か不明瞭になり。唯夏美さんが悪との認識は共通で。夏美さんを慕う人は、その
行方不明で心の拠り所も喪い、離散する中で。

 高さんは夏美さんの『事故』に納得出来ず。
 隠された事実があるに違いないと探り続け。

 高さんは事故の当夜、夏美さん解任の際に、違和感の漂う人物の同伴を突き止めた。本
業が自動車整備工の獄門会組員・本多忠之28歳。

 奇跡の超聖水の動向に、郷田組が密接に関っている事は、人々も周知だ。その郷田組は、
同夜の獄門会による襲撃で主な者が殲滅され。跡目争いで殲滅の場にいなかった西川さん
が、主導権を握れた結果と一般に理解されていて。今も表向き新郷田組と獄門会は敵対関
係だと。

「なら、大事な場面に獄門会の男が1人だけ紛れ込んでいるのは奇妙ね。最も余人を交え
たくない場面でしょうに」「そう言う事だ」

 高さんは真弓さんの迅速な反応に満足げで。

「嗅ぎ回った結果、当夜その場にいたサダ達ヤクザや不二宗佑達に、自動車に細工できる
技能の持ち主はいなかった。奴だけなんだ」

 一件は、捜査も満足にされぬ侭、事件性なしの運転ミスと断定され。車も廃棄物処理さ
れ終っていて。最早証拠で真相には迫れない。犯人や犯行の目撃者から迫る他に方法はな
い。

 高さんはその夜の西川さん達や宗佑氏達の顔ぶれを拾い上げ。車に細工できる技能の有
無を調べ。獄門会の本多さんが、唯1人その技能を持つ故に、その場に招かれたと推察を。

「獄門会と新郷田組は……繋っていたのね」
「今の奴らは敵対姿勢を演じているだけだ」

 新郷田組は元の郷田組に較べ遙かに脆弱だ。獄門会がその気になれば残りも楽に片付け
られる。でも敢てそうしてない。警察を気にしてなんて理由にならない。そして今も互い
に敵対姿勢だけは見せつつ、実際の抗争は避け。

「新郷田組は、獄門会の傘下に降ったんだ。

 力量が遙かに劣る敵組織を潰さない理由で考えつくのは、子分に受け容れたからだろう。
最初からサダは獄門会の手を借り、郷田組を殲滅して貰い、乗っ取りを助けて貰ったんだ。

 なら、あの夜に獄門会の男が紛れ込めた理由が分る。獄門会はサダと共々、旧郷田組の
心の支えで、傷を治す異能を持つ夏美さんを嵌めたんだ。車に細工して、動作不能にして。

 その細工は、宗佑氏が姉を連れて夏美さんに解任宣告をしている間、車の主がいない間
に迅速に行わねばならない。サダ達にはその人材の当てがなくて、獄門会が提供した訳だ。
推論から辿れば、真相が浮び上がってくる」

 こうなってみると、警察の早すぎる事故断定も、事故車の迅速な廃棄物処理も。その処
理を本多忠之の勤める自動車整備会社が任されたのも。全てどこかの誰かの手回しに映る。

「推論に過ぎないけど、ありそうな話しね」

 真弓さんは敢て、相手の答を誘う問を発し。
 高さんも分って誘われ、凄絶な笑みで答え。

「俺は確かめたんだよ……本多忠之本人に」

「唯では済まなかったでしょう。相手は唯の自動車整備工じゃない。獄門会のヤクザよ」

「まぁ、実際酷い目にあった。死にかけた。

 あの夜以降本多は羽振りが良くなった様で。たんまり謝礼貰ったのか、新郷田組から絞
っているのか。車いじりは好きだから、工場には顔を出すけど、出勤って感じじゃない様
で。

 俺も直に会う迄に、結構粘りを強いられた。
 むしろ遭った後が、かなり凄惨だったがね。

『何者かが探っている』気配は奴も感じていたらしい。奴はすぐ新郷田組の連中を呼び集
め。逃げる間もなく俺は新郷田組に連行され。それで奴らが通じている事実は確かめられ
た。後は殴られ蹴られ、熱湯掛けられ拷問三昧」

 高さんは破れかぶれで、彼らが夏美さんを事故に見せかけ殺したとの推論をぶつけると。
彼らは哄笑と共にそれを認め。真相を明かした以上、高さんを生かして返す気はないと答
え。その侭、生命を断たれるかと思えた深夜。

「奴らの哄笑が突然悲鳴に変った。電灯が消えて闇になり。ガラスを破る音と共に獣の様
な何者かが新郷田組の事務所に乱入し。それはそこにいた連中を次々薙ぎ倒し、蹴り倒し。

 朧な月明りはあったけど、俺は殴られ蹴られてまともに目も開けておられず。縛られ転
がされて視界も自由が利かず。誰が何をしているのかは、確かに見る事が叶わなかった」

 筋肉を断つ音、骨を折る音、肉体を壁にぶつけ天井に投げ床に落す音。肉体を貫き通す
鈍い刃物の刺さる音が耳に届き。本多さんは生命を絶たれ、数人が再起不能の重傷を負い。
彼らはたった1人の侵入者に、抵抗も敵わず。

「その侵入者は、俺の背後間近に近づいて。

 声を聞く前に分ったよ。夏美さんだった」

 彼女に何が起こったのか、今起こっているのか。今迄どこにいたのか。どうやってヤク
ザ10人近くを女手一人で、不意打ちと言っても殲滅させられたのか。その夜目や剛力は?

 高さんは苦しい息の故に結局何も問えず。
 夏美さんの短い語りかけを、聞くのみに。

『私は私の仇を討つから。あなたの分迄仇を討つから。あなたはあなたの人生を生きて』

 夏美さんも本多さんを探っていたのだろう。
 故に本多さん達も、警戒万端だったけど…。

 高さんを捉えて油断し、真相を語った瞬間。
 彼女は彼の救援と己の復仇を同時に果たし。

 既に団体を離反しマスコミに捏造証言した者や、誤報を承知で垂れ流した新聞社への復
讐を、始めていた夏美さんだけど。屈強の男が多数揃うヤクザへの復仇はこの時が初めて。

 鬼の力量はケース毎の個人差が著しいけど。
 夏美さんは尋常ではない憤怒と憎悪に加え。

 元から『力』の素養を秘めていた為なのか。
 武道の修練が皆無なのに強力な鬼と化して。

「彼女は俺の怪我を触れて治し、目を開けた時は去った後だった。呻き声と血の匂いの残
る事務所から俺は、生命からがら脱出し…」

 死去した本多さんは最早真実を証言できぬ。
 夏美さんはもう報道や司法に期待してない。

 彼女が求めているのは憤怒や憎悪の復仇か。
 それを薄々解りつつ高さんは尚諦めきれず。

「俺は夏美さんに何があったのかを知りたい。あの綺麗で優しかった彼女が、一体どこで
どうなっているのか、今何を考えているのかを。

 もう一度逢いたい。同じ無念を持つ者同士、世間に誤解され非難された侭終りたくな
い」

 高さんは逆に、真弓さんが今の夏美さんに繋る情報を持っているかもと。痩せても涸れ
ても彼は報道記者で、己が直面した事の真相に迫りたいと欲し。情報を聞きに来た者に訊
くという挙に出た。でも真弓さんに、夏美さんが鬼と化した事実や、鬼の存在を明かす積
りはなく。これは真弓さんの情報収集だった。

「わたしが忠告できる事は……もうこれ以上彼女を追うのはお止めなさい、という事ね」

 今の彼女はあなたの知る不二夏美ではない。追えばあなたにも危害が及ぶ。夏美を逐う
者による危害も含めて。この先の結末は人の領域を外れる。それは雑誌新聞に掲載できな
い。聞いても誰も信じぬ以上に公表が許されない。

 真弓さんは初めてその細身に闘志を纏い。
 敵味方を問う姿勢で、高さんを凝視して。

「あなたが過去の不二夏美を好いて庇うだけなら、以後わたしとの関りは生じない。自由
になさい。でもあなたが今の不二夏美を庇うなら、今後の不二夏美の所作を助けるのなら。

 あなたもわたしの敵になる覚悟を固めて」

 冷や汗を滲ませる彼の言葉の答は求めず。
 真弓さんは彼の覚悟を促して席を立った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「高記者の情報の裏付けが、ある程度取れました。確かに4ヶ月前、新郷田組事務所は何
者かに襲撃され、そこで獄門会の本多が死に、新郷田組の多数も負傷してます。熊にでも
荒らされた様な惨状に、警察の捜査も難航し」

 夏の日の照す正午少し前の長閑な住宅街で。
 助手席の為景さんは運転をする真弓さんに。
 彼女の調べと各種調査の照合結果を述べて。

「結局、獄門会の本多が新郷田組に単身で殴り込み、散々暴れた末に殺されたと推定され。
両者は表向き敵同士なので。その結論で他の不整合は切り捨てられ、警察の捜査も終り」

「死人が出た以上流石に隠し通せない。警察も鬼の暴れた跡は、合理的な検証ができずに。
適当な粗筋を付けて、片付けたって感じね」

 新郷田組も負傷者多数を出し、本多さんが殴り込みを掛けた側との推論から。この件は
夏美さんの件とは切り離され、ヤクザ同士の抗争による、殺人ではなく過失致傷と扱われ。

「高記者の情報は概ね正しい様ですな。全て正しいと確かめられた訳ではありませんが」

 お金と引替で得た情報に信を置くのは如何かと、やや懐疑的な為景さんに。真弓さんは、

「痛めつけ苦しめ泣き叫ばせて、無理矢理吐かせた情報のみが、正解とは限らないわ…」

 時には金で買った情報や取引で得た情報も、真実を語る。信じ込むのは危険だけど、他
の情報と照合する前提で、耳を傾ける値はある。

 高さんの話しも、各方面からの情報と照合の結果、矛盾は見えず確度が高いと判定され。
ラブホテル使用は為景さんが尚顰め面だけど。真弓さんは全く気にした様子もなく涼やか
で。

「5ヶ月前、奇跡の超聖水元スタッフ・岩崎菜緒に付き纏っていた自称雑誌記者が不審死。

 2週間後、奇跡の超聖水の元スタッフ・野村純哉に張り付いていた獄門会の男が不審死。

 その2週間後……4ヶ月前に本多忠之の死。

 その2日後、景則さん達がこの住宅街で不二夏美を捕捉し、一度は討ち果たしたけど」

 真弓さんによる不二夏美の行動の概要に。
 為景さんも確認を兼ねてその後を暗唱し。

「遂に屍は発見できず。その1ヶ月後……3ヶ月前、週刊誌へ夏美の中傷を寄せていた被
害者の会の野崎美羽が不審死。その2週間後、その記事を載せた週刊深長高田記者が不審
死。鬼を討ち漏らしたと遅まきながら我らも悟り。

 その2週間後……2ヶ月前に、地域新聞の山上社長が不審死。その2週間後、獄門会の
組員数名が殺傷され。その2週間後……1ヶ月前に、奥多摩の奇跡の超聖水本部に顕れた
夏美を、秀康さん達が撃退しましたが討ち取れず……13日前に、原田記者が殺められた」

 彼らが車を止めたのは閑静な住宅街の片隅。
 マンションではなく庭付きの家が軒を連ね。

「2つ、留意点があるわ」「2つですか?」

 若杉と千羽の報告では、4ヶ月前景則さん達が討ち倒す前の鬼は、生前彼女が親密だっ
た者を守る等して、敵を殺めていたのに対し。3月前に再度顕れた鬼は、生前彼女に敵対
していた者の抹殺を目的に、動いている様だと。動くのが夜である事は、鬼ならば通常で
すし。

 それ以外には特段読み取れない様子の彼に。

「景則さん達はこの近辺で、一度鬼を倒したけど。鬼は一体何が目的でここへ来たの?」

 真弓さんは車から降りて為景さんを招き。
 間近な家の門柱のインターホンを押して。

「本日面会を約束頂いていました上総です」

 鬼切部で動く時は、可能な限り偽名を使う。尤も、真弓さんが使う上総(かずさ)とい
う偽名の姓は、千羽でも真弓さんを生んだ分家筋を指す総称で。戸籍に記された姓とは違
うけど、嘘八百ではない。上総も大きな分家で、その中で真弓さん達が呼び合う時は、混
乱せぬ様に尚細分して呼び合う姓がある様だけど。

 家人の反応を待つ間に、為景さんも真弓さんの言葉の意を悟り。鬼には鬼の目的がある。
若杉や千羽が鬼を捕捉出来たのは成果だけど。討ち取れてない以上、尚考察や調査が要る
と。

 上がり込んだその高級住宅に、住まう人は。
 大学病院に勤める医師(教授)夫妻だけど。

 真弓さん達が会いに来たのは彼らではなく。
 2階に同居している医師の父で80歳になる。

「初めまして、坂本俊郎です。よろしく…」

 夏美さんの元勤め先の上司で町医者だった。
 奇跡の超聖水創設時のスタッフ・坂本医師。

 この住宅街で夏美さんが逢いたく望む人は。
 現在団体から離れた彼をおいて他にいない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「申し訳ない、先に予期せぬ客があっての」

 息子である大学病院医師で教授の史朗氏と、史朗氏の妻珠子さんの同席は、想定範囲だ
ったけど。史朗氏の子供も成人し独立しており、他に話しを交える人はいない見込だった
けど。

 露骨にむすっとした表情で、真弓さん達を睨む小学生高学年の女の子が、間近に座して。

「この人達、またなつみ先生の悪口書く為に、取材の形だけ装いに来たマスコミです
か?」

 濃い茶色の髪を、ミディアムに切り揃えた。
 小学5年の女の子には真弓さんも見覚えが。

 奇跡の超聖水に殺到したマスコミの報道で。
 2つ年上の真琴さん共々顔が全国中継され。

 奇跡の超聖水の天使とも妖精とも呼ばれた。
 今は養父・徳居家に戻された中原美琴さん。

 商店街にあった旧坂本医院と違って、史朗さんの家は徳居家からバスで一時間掛けて通
わねばならず。不定期に訪ねてくる為、今日は来ないでとも告げておらず、来てしまった
以上小学生を、邪魔だと帰す訳には行かずに。

「お話しする前に人を拒んではいけないよ」

 俊郎氏が穏やかに諭すと、追い返す気満々でいた美琴さんは、不満ながらも従い。でも
尚猜疑というより敵意の目線を送ってくる女の子に、真弓さんは同じ高さに目線を合わせ。

「わたし達は不二夏美を中傷する為に、取材しに来た訳じゃない。事実を伏せ、誇張や捏
造記事で読者の気を惹き、売上や収益を伸ばさないと、給与や生活に響く新聞雑誌と違う。
わたし達には事実を欲するスポンサーがいて、夏美に都合良い事も不都合な事も、包み隠
さず全て調べ上げる事を、求められているの」

 真弓さんは嘘は語ってない。鬼切部の調べは不二夏美に好意的でも敵対的でもなく事実
のみを重視する。生命を賭けた鬼切りの際に、敵意や憎悪や憤怒で歪められた情報を前提
にしては、予想外の失陥や蹉跌を招きかねない。

「学術調査の様な物よ。その内容が、不二夏美に好意的か敵対的か、売れるか売れないか、
ウケるかウケないかは、わたし達の給料に響かない。だから偏った記述をする必要がない。
夏美を憎み恨む者や被害者の話しも聞くから、夏美に都合良い情報のみにはならないけど
……捏造や虚言は、嘘と分れば篩い落すわ…」

 坂本先生もその事情を分ってくれて、わたし達の訪問を許してくれた。坂本先生は美琴
さんから見て信頼できる人でしょ? わたし達ではなく、坂本先生の判断を信じて欲しい。
坂本先生がわたし達に心開いてくれた事実を。

 真弓さんの真摯な語りに、美琴さんは心を開きかけた気配を見せて。その声音も表情も。

「なつみ先生の悪口を書く為に、調べている訳じゃあないの? なつみ先生の優しさや奇
跡の証言を、闇に葬る訳じゃあないの? なつみ先生の本当をしっかり聞いて貰える?」

 円らな双眸の問に真弓さんは確かに頷き。

「ええ。みんなに売り捌く資料ではないから、人目に触れて一般の誤解や曲解を解く効果
は、薄いと思うけど。少なくともわたしは、不二夏美が世間で非難中傷されている様な極
悪非道な人物ではない事は、分っている積りよ」

【真弓さんも、夏美さんが思惑のあるマスコミや世間によって抹殺された事情を分って】

 調査の後で、鬼である夏美さんを切る事は語らない。夏美さんが極悪非道か否かと言う
事と、切るべき鬼か否かと言う事は別問題だ。

 極悪非道だから、真弓さん達鬼切部は鬼を切る訳ではない。人に害を為す鬼だから切る。
他の鬼が夏美さんに偽装して、人を殺めている等の真相があるなら別だけど。憎くなくて
も同情しても愛していてさえも、その感情を鬼を切るか否かの判断には挟めない。夏美さ
んがどれ程心優しくても、真弓さんのたいせつな人であってさえも、その結論は覆らない。

 そして鬼の存在も知らない一般人の美琴さんに、全てを語る事は禁忌であり。真弓さん
は唯、美琴さんの問に可能な限り真剣に応え。

「……分ったわ。なつみ先生を貶める材料集めに来た訳じゃないって事は。だったら…」

 あたしもお話しに一緒させて。なつみ先生の事なら、あたしもいっぱい知っているもの。
いいでしょう? お話しが嘘じゃないのなら、なつみ先生の事実を知りたいっていうのな
ら。

 尚も挑戦的な視線を向けてくる小学生に。

「……良いわ。でも子供には、退屈なお話しになるかも……退屈になったら、言って頂戴。
いつでも外れて構わないから」「真弓殿ぉ」

「幾ら話しても退屈になんかなる物ですか。
 なつみ先生との思い出はあたしの宝物よ」

 平たい胸を反り返らせる美琴さんの脇で。
 俊郎氏も拒む感触はなくむしろ乗り気で。

「儂も夏美君との関りは、美琴君や真琴君を交えてだったから、その方が話し易い。君達
が報道で知った夏美君とは、相当違う実像だと思うのでな。証言者がいると実感が伴う」

 為景さんは、子供の介在を嫌うと言うより。この後切る鬼を慕い好く幼子の話を聞く事
で、真弓さんが負う苦悩を嫌って。優しさ溢れる人物像を聞いた後、結局鬼を切らねばな
らぬ。鬼切部の使命や定めを受け容れても。苦味や矛盾のない筈がない。彼は真弓さんを
気遣い。

【でも真弓さんは、その気遣い迄も承知で。
 それに向き合う事も、鬼切りの定めだと】

 心の奥に分け入って情を交わし、大切に想っても尚、切らなければならない時には切る。
真弓さんにその苦味や苦悩から逃れる積りは微塵もなく。悔恨や罪悪感も受け止めようと。

「宜しくお願い致します……ね、為景さん」

 真弓さんの笑みは相手を騙す作り笑顔ではなく。自身の定めを受容して、全身全霊立ち
向かう意志を宿した。覚悟の上の笑みだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「まず夏美君と儂の出逢いから話しますか」

 奇跡の超聖水の発足前から、俊郎氏と夏美さん、美琴さん、それにこの場にいない美琴
さんの唯一の肉親・姉の真琴さんには、密接な繋りがあった。その事情は、同席した息子
の史朗氏や、その奥さん珠子さんも承知で…。

 5年半前の春、坂本医院へ就職面接に訪れた18歳高卒の夏美さんは。俊郎氏の心臓発作
を『力』で助けた事がきっかけで、同医院に就職し。俊郎氏が為す現代医療の傍ら、患者
に無償で癒しを及ぼす事を許されて。後日の奇跡の超聖水発足に活きる実績と信頼を培い。

「世間は非難一色だが、私には彼女が叩かれる様な悪人とは思えない。父の生命を救われ
た事もあるが、何度か逢った彼女には、信徒を脅し寄付を強要する鬼の形相は欠片もなく。
父の話しや印象の方が、私には信じられた」

 史郎氏はマスコミのバッシングに懐疑的で。
 父俊郎氏と同様夏美さんの境遇に同情的で。

「現代医学で未解明な癒しの力は、鍼灸やヨガ、漢方など、この世に結構出回っています。
彼女の『力』ももっと精緻に解明すれば、インチキではないと立証できたかも知れない」

 美琴さんが真弓さん達に勝ち誇った視線を向ける。世間から理解される事の少なかった
彼女には、ここは希少なホームグラウンドか。

「美琴君はお姉さんの真琴君と共々、良く坂本医院に通ってくれてね。准看護師をしてい
た夏美君と親しくなって。真琴君には大学病院も儂も、対処療法以上の事は出来なくて…。

 夏美君の癒しが一番良く効いた例だった」

「なつみ先生の癒しは凄いのよ。郷田組長のヘルニアも野村先生の高血圧も、触るだけで
治しちゃうの。お姉ちゃんの不調もあたしもの発熱も、抱き留めてもらうだけで治って」

 美琴さんも坂本医院の頃の想い出は暖かで。
 みんな仲良く、夏美さんの癒しに照されて。
 諍いも啀み合いもなかった過ぎ去りし幸せ。

「儂がもう少し、医院を続けておれば。医院を閉鎖しなければ夏美君も、あの団体を旗揚
げする事もなく、この結末を迎える事も…」

「それは父さんの所為じゃない。医院の閉鎖は高齢の為で、1年2年先延ばししても回避
は出来なかった。結局この道を辿っていた」

 史郎氏は、夏美さんが『力』を役立てたく願っていた以上、この展開は必然で父の所為
ではないと庇い。むしろ自身の教授昇任に絡んで父を、彼女から引き離した経緯を悔いて。

 奇跡の超聖水が発足した時は。来訪者の多くが坂本医院の患者で、スタッフも備品も建
物も引き継いだ為に、その色合いが濃く残り。俊郎氏も真琴さんや美琴さんの子守をしつ
つ、夏美さんの後見的な立場で密接に関ったけど。

 夏美さんの『力』の使途が、心霊や精神的な物に広がり。坂本医院の頃と異なる来客も
受け容れ。繁盛に伴い来訪者や出資者が続々現れ、マスコミも着目し。奥多摩に新たな本
部施設が出来ると、俊郎氏の存在は薄らいで。

「引退して役に立たなくなった医師が、いつ迄も過去のお化けの様に憑いていては、団体
の長になった夏美君を、縛る事になるかと思っての。儂は奥多摩に行かなかったのだよ」

 真琴さんと美琴さんを夏美さんが預る際の、徳居夫妻説得の切り札は俊郎氏の賛成だっ
た。真琴さんの容態悪化を防ぐには、大学病院の化学療法や薬よりも夏美さんの癒しが効
くと。それは夏美さん達が奥多摩に移る際も同様に。

 彼が団体から距離を置いたのは。元上司という立場の者が、団体の長として尊崇を受け
る夏美さんの傍にいると、彼女も幹部もやりにくかろうとの。話しは医学の領域を逸脱し、
彼の経験や蓄積は役に立たない。この後は組織や経営・広報に詳しい者の出番だろうとの。

 マスコミのバッシングが始って。役立てる事があればと、動き出そうとした矢先。俊郎
氏と夏美さんの関りが、史郎氏の教授昇任の障害との噂が届き。珠子さんが俊郎氏に頼み
込んで、夏美さんとの関係を暫く控える事に。

「その時は、暫く凌げば台風一過で、元の通り付き合えると思っていたんです。でも…」

 郷田組のツヨシさん達が、抗議に詰めかけた被害者の会の人達や、その様を取材してい
た報道陣を、カメラの前で殴り蹴りする様が全国中継されて。逆にバッシングは加熱して。

 映像の前半では真琴さん美琴さんが、被害者の会や報道陣に揉まれる場面もあり、反撃
も情状酌量との感はあったけど。それは以降報道されず。後半郷田組が被害者の会や報道
陣を暴行する場面が、繰り返し全国で流され。

「父が、詰めかけた報道陣の誰かから遷されたインフルエンザで、倒れてしまい」
「夏美君の一番辛く苦しい時に、身動きが取れず」
「あたしと真琴お姉ちゃんも、奥多摩で色々あって、徳居叔父さんの家に、戻されて…」

 病が治った半年前。夏美さんが代表を解任され、姉春恵さんの車で移動途上、事故で行
方不明になり。宗佑氏達新体制が夏美さんと絶縁し、非難されていた内容を夏美さんに責
任転嫁したと知り。夏美さんとの過去を重んじない者と、繋りを再開しても意味はないと。
皮肉にも直後、史郎氏の教授昇任が決まった。

「組織延命の為にマスコミに媚び、一部の雑誌には評価されたが、非難が鎮まった訳でも
なく。郷田組も随分様子が変ってしまって」

 俊郎氏は坂本医院の頃から、郷田組長や古川さん達と、医師と患者の立場で関っており。
人柄も知っているから、彼らの死を深く悼み。

 寂しそうに語る俊郎氏に、史郎氏も頷き。

「マスコミ取材は原則全て断っていたんです。最近は申し込みも殆ど来てませんでした
が」

「なつみ先生の悪口を言う裏切り者は、嘘つきマスコミに罵られても天罰で自業自得よ」

 美琴さんは、子供の足の届く範囲で、今尚夏美さんを慕う人で、連絡の取れる人の間を
行き交って、情報交換の要役を自任しており。他に出来る事も為したい事も、なかったか
ら。

 姉と2人素顔を全国報道され、学校でからかわれて不登校となり。徳居家に戻されてか
らは登校を再開したけど、誰にも心を開けず。しかも真琴さんは中学生になって、2人は
再度引き離され。その上真琴さんは病の悪化で、遠出が難しくなっており。入院しても改
善が望めないので、入院費負担を嫌う徳居夫妻は、可能な限り自宅療養と通院で済ませる
積りで。実子の竜太君14歳と虎次君12歳の進学費用が、今の徳居夫妻・徳居家の最重要な
課題らしく。

 露骨に邪魔者扱いされ始め。姉妹の顔が全国放映されて、世間体に泥を塗ったと厭われ。
夏美さん擁護発言の放映が更に嫌われ。他の人と繋らなければ、姉妹の心が保たぬ状況に。

「寝込む間に足腰が弱まりましてな。夏美君に診て貰えれば治る処だが、遠出が難しくな
って……今は月に1、2度、美琴君が訪れてくれるのを迎える以上は、動きも取れず…」

「宗佑氏について新体制を作った者は、今迄組織を動かしてきた経験者だ。夏美さんを今
も慕う者は、多くが個人的に彼女と繋りを持った者で……再結集できそうな核がない…」

 王建行さんや佐伯摩耶さん達と、宗佑氏達の泥沼の中傷合戦を見ると。恩義ある夏美さ
んを敵方に押し付け共々非難し合う姿を前に。関り合いたくないという史郎氏の気持も分
る。高齢な父を抱えて首を挟むのは無謀に過ぎた。

 高齢と体調の弱さを自覚して、何かを為しても他者の足手纏いになりたくない俊郎氏は。
中傷合戦を眺めつつ現状を受け容れる他になく。美琴さんの来訪を受けて励まし合う位で。

「以降不二夏美の消息について、何か噂でも聞いたり見たりした事は、ありませんか?」

 真弓さんの問に、俊郎氏も史朗氏も珠子さんも、美琴さんも揃って首を横に振るのみで。
嘘を言っている感じには見えない。史郎氏は、

「最近、夏美さんを非難していた雑誌記者が、何人か相次いで殺され。夏美さんの所為だ
と、想い出した様に盛大な非難はあった様だが」

「天罰よ。嘘ばかり言ってなつみ先生を貶めたから。きっと仲間割れして互いに殺し合っ
たんだわ。自業自得。それをマスコミはきちんと報道しないで、なつみ先生のせいに…」

「人の不幸を喜んではいけないよ、美琴君」

 俊郎氏は穏やかでも真剣な視線と声音で。

「相手よりも先に、悪い言葉は君を貶める。
 その様な在り方は夏美君も願わない物だ」

 夏美さんを慕う者として、恥ずかしくない生き方を、在り方を。それは美琴さんも、姉
の真琴さんから常々、言われているらしくて。

『彼らに、夏美との関りはないみたいね…』

 夏美さんは多分、俊郎氏に逢いにここを訪れた。でも若杉に先に察知され、逢う事が叶
わぬ内に、景則さんに打ち倒された。俊郎氏達は夏美さんの行方不明後を本当に知らない。
逢えてない。それは、幸いなのか残念なのか。鬼になった夏美さんを見て知る事に繋るな
ら。

「興味深いお話しを有り難うございました」
「こちらこそ、何のお持て成しも出来ずに」

 帰り際、大人の丁寧なご挨拶の影に隠れて。
 美琴さんは、真弓さんにそっと手を伸ばし。
 顔が真っ赤なのは気恥ずかしさの故だった。

「うそ報道を繰り返す、無責任マスコミと一緒にして、酷い言葉遣いしてごめんなさい」

 上総さんはきちんとお話し聞いてくれた。
 曇りのない目でなつみ先生を見てくれた。

 為景さんは困り顔だけど敢て何も挟まない。
 真弓さんは美琴さんの瞳の奥を見て微笑み。

「気にしないで。分って貰えた事は嬉しいわ。美琴さんがマスコミを不信の目で見る気持
は、わたしも分る。人は常に誤解から始って、正しい認識に向けて修正を繰り返してゆく
もの。

 こうして分り合えた事は、わたしにも幸いだった。あなたの知る『なつみ先生』を教え
て貰えた事も。あなたと信頼を繋げた事も」

 美琴さんは年齢も体格も近しい真弓さんに親しみ憶え。夏美さんに敵意や憎悪を抱かず、
中立な見方を採る事も。最近はそんな人を見かける事も稀なので。その強さ爽やかさが好
ましく。夏美さんにした様に肌身を添わせて。

「上総さんは未だ、なつみ先生の調査を続けるの? ……なら一つお願いしてもいい?」

 もし、なつみ先生に逢えたなら。

 美琴さんは真琴さんと、何十回も何百回も。
 もし逢えたなら話せたならを、考え続けて。

「なつみ先生が今どこにいるのか、元気でいるのか、答をもらって来て欲しいの。なつみ
先生があたし達に逢いに来れないなら、あたし達が逢いに行けば良い。場所さえ分れば」

 どんななつみ先生でもいい。もう一度逢いたい。逢ってお話したい。抱き留めて欲しい。
お姉ちゃんもあたしも、ずっと先生を大好き。

 なつみ先生が今もどこかで元気って分れば、きっとみんな力づけられる。坂本先生も史
朗先生も、野村先生も菜緒さんも、他の人達も。

「逢いたいよ。……あたしも、お姉ちゃんも、なつみ先生にもう一度逢いたい。どこにい
るのか知りたい。生きているって確かめたい」

【美琴さんにも真琴さんにも、夏美さんは母と姉を混ぜ合わせた様な存在で。養父母から
受け取れなかった愛を補う者だと。でも…】

「ごめん……それは、約束できないわ……」

 真弓さんはそれを承けられない。真弓さんは鬼である夏美さんを切るのだ。鬼の所在は
告げられないし、切ってしまえば逢う事は永久に叶わない。倒しても鬼の無念が拭えなく
ば、若杉が処置する事もあるので、屍の所在も伝えられぬ。逢うというより、捕捉して切
る真弓さんには、彼女の願いは叶えられない。

 どうしてと、尋ねてくる女の子の双眸に。

「彼女が今も生きていて、あなた達に所在を教えてないなら。それなりの事情がある筈よ。
逢う訳にはいかない何かの背景が。それを確かめない内に、安請け合いはできないわ…」

【鬼になった夏美さんは、特に親しい人には、その姿を曝したくない。復讐に燃える彼女
は禍の核でもある。鬼切部のみならず、新郷田組や獄門会も含む諍いに巻き込みかねな
い】

 ほっと胸を撫で下ろしたのは、為景さんだ。
 真弓さんが情に絆されて、女の子の願いに。
 応えてしまうかもと気を揉んだ様だけど…。

「その代り約束するわ。わたしが不二夏美に遭えたなら、美琴さんの想いを必ず、彼女に
伝える。あなた達姉妹が逢いたいと、強く想っている事実を、確かに伝える。伝えた後で
彼女がどんな答を返すか迄は、約束できないけど。告げる迄はわたしが責任を持つから」


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