鬼を断つ刃〔甲〕(後)
桜井社長も宗佑氏の考えに同感か。夏美さんが一理あるとの感じで、考え込むのに頷き。
「香坂君の話しでも、患者数は当初予想を上回っていて。寄付も出資も予想より多いそう
じゃないか。余力があるなら攻めに出るべきだ。チラシの作成費は安めに抑えておくよ」
現在団体の運営は裕福な人から頂く出資と、それ以外の人からも頂く寄付の二本柱で成
り立っている。彼女には貯金も資産も殆どないので、運営資金はみんなに融通頂く他にな
く。
寄付はみんなの善意で、訪れた時に納めて貰っている。1円から幾らでも、その人の気
持や余裕に応じて。お金以外でも衣類や書籍、食器類も受け付け。それらは売り払う事で
多少なりとお金に換えられるし、癒しの場で提供する軽食喫茶の器に使えば、購入する必
要がなくなって節約になる。衣類等は夏美さん自身が使う事も。彼女はまともな給与を自
身に与えてないので、これは結構助かっており。
出資はお金に余裕のある人から、2年後に20%利息を付ける条件で、20万円一口でお願
いしている。本当は寄付で全て賄いたいけど、団体運営が軌道に乗る迄はやむを得ず。後
々会員が増えて寄付が増えれば、頂いた出資に利息を付けても返済は叶う。只、奇跡の超
聖水は利殖目的ではないので、出資頂く時は半額を寄付に願っている。20万円一口出資頂
く時は、その内10万円は寄付でお願いしますと。
初期の知名度がない状態を、どう凌ぐかが焦点だった。患者が少なくて寄付がなくても、
スタッフ給与や材料、光熱水料や家賃は掛る。早く拡大基調に乗せなくば。それは善意や
寄付という予測が難しい物を収入の柱に据えた、夏美さんの理念の成否を問う様な感もあ
って。
周囲には中小でも企業経営者が多くいる。
団体の運営経験など全くない夏美さんは。
彼らの識見や助言を参考にせざるを得ず。
人を癒し喜ばれる為に始めた団体だけど。
夏美さんがいて初めて動き出す話だけど。
『力』や想いがあれば全て叶う訳ではない。
「ウチも奇跡の超聖水には、少なからず出資している。その成否は当社の先行きにも響く。
君の成功を望む気持は、私も一緒だよ…」
桜井社長も只チラシ作成で儲けたい以上に。チラシで奇跡の超聖水の知名度や信頼性を
上げて、飛躍させたい。その成功を出資の配当に繋げ、全員で喜び合いたいとの意図が窺
え。
「運命共同体だよ。一緒に、飛躍させよう」
世間に大規模に宣伝し、一挙に知名度を上げる。それは姉の春恵さんが最も危惧し、忌
避していた事だった。不二夏美となった以上、この途を進んで姉と訣別した以上、今更引
き返す事も立ち止まる事も出来ないけど。後ろ髪を引かれる感触は残り。後ろめたい気持
が。
「これ以上知名度が上がって、人が詰めかけてきたなら……ここは手狭かも知れない…」
これ以上の発展を望まない様な、好まない様な夏美さんの呟きは。団体のこれ以上の飛
躍への、先の見通せなさへの怖れだったのか。雑居ビルの一角で、地元住民の身近な診療
所だった坂本医院の看板掛け替え。それを越え、彼女達は未踏の領域へ進み出ようとして
いた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「うわっ、何だあんた」「く、くさい…!」
診療待ちの人や、診療を終えても寛いで時を過ごす人の集う『癒しの場』が、騒然たる
空気に包まれたのは。入ってきたその男性の、身なりが余りに汚くて臭いがきつかった為
で、
「ちょっと……あんた一体何の用なんだ?」
「子供が怯えるじゃないか、帰ってくれ!」
獄門会のちんぴらの様に、バットを振り回して罵声で喚き、悪意を持って迷惑かける姿
勢は見せないけど。癒しの場に相応しい風体ではなく。黒髪もぼさぼさで服も汚れ放題で。
悲鳴や大声に、不審を感じた夏美さんが診療室から姿を現す。でも清らかであって欲し
い夏美さんに、汚い男を近づけまいと。待合室にいた長身で黒髪の会計士斉藤光成さん26
歳と、大柄でがっしりした体型の不動産の社長山口宏さん58歳が、隔てる様に立ち塞がり。
「ここは……医療費払わなくても、体や心を診てくれるって、聞いた。チラシにも……」
声を聞く限り男性は未だ若い様だ。折り込みで各個配布した、あのチラシを手に持って。
『心も体も癒します、無償で。……宗教団体奇跡の超聖水本部【癒しの場】。住所は…』
「道路の脇で寝ていたら、高校生の集団に突然蹴られ殴られて。カネもなく保険証もない
から、病院にも行けない。警察に行っても役場に行っても、汚い臭いと追い払われた…」
ここは癒しを望む者なら、本当に誰でも受け容れてくれるのか。ここは救いを求める者
なら、本当に誰でも、迎え入れてくれるのか。
「ホームレスはどこでも嫌がられる。汚くて臭いから。店屋もまともに物を売ってくれず、
病院も警察も関りを避ける。ここはどうなんだ? 本当に誰でも閉め出されないのか?」
断りましょう。岩崎菜緒さんの双眸はそう語っていた。香坂亜紀さんの強ばりは、自分
が拒むと後味が悪いから誰か断ってと。誰かと言えば、それは長が指名するか自ら為すか。
坂本医院の頃なら老医師にお願いできたけど。長になった今は自ら判断を下し責を負わね
ば。
みんなは確実に嫌がっている。彼を受容する事で遠ざかる人が出るかも知れない。新規
の人には、気楽に寄り付き難い情景になろう。悪い噂が広がれば団体の先行きにも差し障
る。
決断は瞬間だった。男性は確かに酷いケガを負い、疲れと空腹に喘いでいる。助けを求
めている事は確かで、己の癒しで助けられた。お金は殆ど持ってないけど、後から得られ
る見通しもないけど。夏美さんは対価を求めて、この団体・奇跡の超聖水を始めた訳では
ない。
「迎え入れます。ここは奇跡の超聖水、全ての求む人に癒しを及ぼすのが、私達の理念…。
それは相手がホームレスであっても同じ。
お金のあるなしを問わないのと同じこと」
但しその前に他の人に迷惑が掛らない様に。
お風呂に入って体を洗い、身なりを整えて。
ここはあなたに開かれた場であると同時に。
他の救いを求めに来る人達も受け容れる場。
あなたしか受け容れられぬ場には出来ない。
「こちらに来て。私の居室のお風呂を使って、念入りに体を洗って貰います。香坂先輩、
彼の服は捨てるので、寄付頂いていた衣類から、男性の被服一式、サイズの合う物を選ん
で出しておいて頂戴」「わ、分りましたっ…!」
奥の居住スペースは、かつては坂本医師が、今は夏美さんが使用しており。ささやかだ
けどお風呂もある。そこで念入りに体を洗って、臭いや汚れを落してと。虫や臭いや汚れ
の付いたその服は捨て、まともな装いをして貰い。
「それから癒しを施します。良いですね?」
それは男性への確認と言うより、周囲みんなへの確認だったのか。装いを調えるから彼
も受け容れて欲しいとの。求む全ての人に癒しを及ぼす事が、夏美さんの団体の理念だと。
この男性は塚地健夫さん35歳。会社をリストラされ、お金に困窮しホームレスになって。
空缶集め等で得た一日百数拾円が生活の糧で。当然風呂に入れなければ、汚れた服や下着
も替えられず。臭いが汚れや醜いと、高校生の集団に鬱憤晴らしに殴られ蹴られ。慢性的
な空腹なので抗う体力もなく。お金も保険証もないから病院も行けず。薬を買える筈もな
く。
「相当酷い目に遭わされましたね」「……」
集団とはいえ、年下の高校生に一方的にやられた結果を恥じて、塚地さんは言葉少なく。
只、触れた掌を通じて彼の心地よさや感謝は、伝わってきたので。拾数分癒しを及ぼして
後。
「寄付は強要ではありません。お金があっても余裕がなければ、納める事は求めませんし、
お金以外の現物寄付も受けています。それと、終ってもすぐ帰る必要はありません。この
室内は私の『力』が満ちているので、居るだけでも若干の癒しが及びます。夜9時迄は開
いていますから、好きなだけ寛いで行って…」
「風呂に入れて貰って、綺麗な服迄もらえて、とても有り難い。だが」「だが、何で
す?」
癒しを受けて心和らいだのか、風呂に入って心寛いだのか。見るに見かねてパンと牛乳
を与えた事で、空腹が満たせた為か。もう若者とは言えぬ年の男性は、入浴で未だ汗ばん
でいる黒髪を撫でつけつつ、残念そうな声で。
「夜はやはり閉鎖されるのか……帰る処のない奴は、余り呼べないかな」「塚地さん?」
彼はホームレスで、帰る家は存在しない。
駅の階段や通路の隅で、寒さを凌いだり。
段ボールや新聞紙に包まれて、夜を凌ぐ。
朝から夜迄ここに居たとしても、深夜は。
ここに泊れず、元居た処に戻るしかない。
彼は病や怪我に苦しむホームレス仲間に。
病院に通えぬ者にここを報せようと考え。
それは現実的ではないと、諦めたらしい。
「仲間を呼んだら、ここは居心地が良いから、居着いてしまうかも知れない。ホームレス
多数が夏美先生を尋ね来て、居心地良さに夜も帰らなくなっては拙い。みんな臭いし汚い
し、たくさん来れば小さな風呂はすぐパンクする。俺は最初の1人だから色々施して貰え
たけど、この後ホームレスが多数来たら、同じ対応は出来ないだろ。ここは既に患者で一
杯だし」
受け容れ能力の点で現状の『癒しの場』は、既に限界に近かった。塚地さんが来なくて
も、チラシや口コミで、多数の救いを求める人が訪れて。しかも病院と違って長く寛いで
行く為に、人の密度も中々減らずに。団体は滑り出しの順調さの故に、壁に当たりつつあ
った。
『もっと広い処に移転しなければならない』
でも、どの様に、どこへ、幾らお金掛る?
考える事が多すぎて何から考えて良いか。
「無理を言ってごめん。仲間にはここの事は話さない。混乱させちゃ申し訳ないから。只、
俺だけは、怪我した時は時々来て良いかな? 寄付は、百円も出せそうにないけど…?」
「なつみせんせー! なつみせんせーっ!」
塚地さんが、腰を上げかけた瞬間だった。
癒しの場に女の子の声が飛び込んできた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「おじさんが、真琴お姉ちゃんに学校を止めさせて、大学病院へ長期入院させるって…」
8歳になった美琴さんが、2歳年上の真琴さんを引っ張って夏美さんを訪れ。塚地さん
も帰り時を見失い、坂本医師達と話しを聞く。
「病院のお薬、苦くてちっとも効かないのに、入院したって良くなる筈がない。お姉ちゃ
んは夏美先生に診てもらって、お加減良くなってきたのに……悪くなっても持ち直したの
に。
病院に入院して夏美先生に逢えなくなって、お加減良くなる筈がない。きっと悪くなる
よ。おじさんもおばさんも、お姉ちゃんの病気が面倒だから、病院に入れて終らせる気だ
よ」
夏美さんが驚いたのは、美琴さんの利発さ以上に。彼女血が宿す『力』の素養の発現に。
夏美さんが姉妹の行く末を、他人事に思えなかったのは。両親を早く喪って、叔父に引
き取られた姉妹という共通点以上に。姉妹が『力』を宿す血を引くと言う共通点に。姉妹
自身も徳居家の誰も未だ、気付いてないけど。夏美さんは進む途が違う故に、姉の春恵さ
んと訣別した。だからこそ中原姉妹にはせめていつ迄も、仲良く近しく幸せであって欲し
く。
2人とも、夏美さんと同程度の濃さだから、お守り等で対策すれば、鬼に狙われる怖れ
は少ない。でも『力』の扱いを知る先達が居なければ、己の『力』を扱いかねて途を誤る
怖れは高い。秘匿をしくじる怖れは高い。その末に、幸せを手の内から取り零す怖れは高
い。
【真琴さんも美琴さんも、夏美さんの傍にいた方が望ましい……真琴さんの病には、確か
な治療法のない現代医療より、対症療法でも有効な夏美さんの癒しが効く。そして姉妹に
共通して、《力》の導き手で先達である夏美さんの存在は重要で。養母である徳居菊子さ
んは外から嫁に来た人で、《力》の素養も知識もなく。養父の典久さんもそうみたい…】
羽藤にはオハシラ様の伝承とご神木があり。『力』持つ者が一時的に絶えても、いつか
血の濃い者が生れれば。ご神木と感応すれば伝承も『力の扱い』も連綿と受け継がれて来
た。
しかし、ご神木や羽藤程確かな伝承のない家は、それを読み解けない者が続くと、知識
や想いの相伝が絶えてしまう。不二や下田の家では、春恵さん迄それが伝わってきたけど、
夏美さんは確信犯でそれに違背し。中原や徳居の家では、美琴さん真琴さんに迄伝わらず。
美琴さんも真琴さんも、徳居家の大人が姉妹を厄介に思っていると、その鋭さの故に肌
身に感じ取っていて。真琴さんの長期入院も、病院に抛り込んで終りにする気だと、感応
の『力』で悟れ。別れ別れになりたくないと美琴さんが主導して、夏美さんの処に駆け込
み。
「美琴、余り我が侭を言ってはいけないわ」
引きずられた形の真琴さんも、長期入院で快方に向うとは信じてないけど、徳居家の大
人の真意も承知だけど。徳居家に養われる立場の故に、美琴さんを案じて強く反対できず。
でも妹と別れ別れになりたくない気持は山々なので、妹の行動に反対しきれず引きずられ。
「ここにいつ迄も、居られればいいのに…」
美琴さんの願いは、塚地さんの願いに繋る。
真琴さんの望みは、塚地さんの望みに同じ。
泊り込み、24時間常に癒しの場にいれれば。
「夜も昼も夏美先生の傍にいられれば、お姉ちゃんの病気だってきっと良くなるのにっ」
「無理を言ってはいけないわ。夏美先生にも出来る事と出来ない事があるの。わたしは」
良いからと、真琴さんは自身の心に逆らって妹を諭し。本当は夏美さんの傍に四六時中
寄り添って、癒しを受けて体調を保ちたい想いを必死に堪え。我慢すればいいと己を抑え。
妹は姉を深く想い、姉は妹を深く想い。
でも、その願いはこの侭では叶わない。
姉妹の真の望みを繋いで届かせるには。
「だって夏美先生のお陰で、お姉ちゃんの病気の進行が止まったって、大学病院で診察し
た先生も、言ってくれたのに。夏美先生の処に来られなくなって、苦いだけで効かない薬
呑まされても、病気は絶対良くならないよ」
でしょう! と美琴さんは坂本先生に問を。
老医師も、それには確かな答を返しきれず。
答次第では、美琴さんがここに居続けると。
言い出しかねず。今、老医師は長ではない。
「夏美君……」「分ってます。判断は私が」
その意図を美琴さんも分って視線を彼女に。
だから姉妹2人も幼い瞳を夏美さんに向け。
「わたし達のたいせつな人、夏美先生。わたし達の前から居なくなってしまわないで!」
夏美さんは、定めに押し出されつつあった。
歩み始めたその途はどんどん展開を早めて。
立ち止まる事が叶わず。今迄通りも叶わず。
引き返せないなら激流に押し流される如く。
拡大と飛躍に向かう他にどうにも出来ぬと。
これが不二夏美として選び取った途なのか。
「塚地さん。1年待って下さい。1年後にもっと大きな『癒しの場』を設けます。大勢の
人が24時間居続けて差し障りのない、お風呂や休憩所の完備された施設を作って。何拾人
でも何百人でも、受け容れる体勢を調えます。
真琴さん美琴さん。あなた達はそれ迄の間、私の居住スペースで一緒に暮らす許しを貰
える様に、徳居さんに頼んでみるわ。真琴さんの体は現代医療では治療法がない。体力を
上げて病に抗う他に方法がなく、それにはむしろ私の癒しの方が効く。美琴さんの言う通
り。それに私の処にいれば、入院代も掛らない」
「なつみせんせー」「本当ですか、先生!」
美琴さんと真琴さんが、喜びに我を忘れる脇で。塚地さんも呆然と言葉を失い、坂本医
師や他の人も驚きに瞳を見開く前で。決断の瞬間だった。話しの最初はいつも急なものだ。
「私はいなくなりはしない。求めてくれる限り、私はあなた達に必ず手を届かせる。約束
するわ。望まれる事が、望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。
私は私を好いてくれたあなた達を、好きだから。真琴さんと美琴さんを大好きだから」
『宗佑叔父さんの考えは、時期尚早に思えたけど、実は正鵠を射ていたのかも知れない』
当初想定を越えて、癒しの場を訪れる人も、寄付も出資も増え続け。団体は伸びつつあ
る。この上昇気流を掴まねば、助けたい人の助けに届かない。後で団体が拡大し立派な本
部を得ても、今別れを強いられる姉妹を救えない。
起つならば今だった。この瞬間しかない。
心を決めれば、思索は後からついてくる。
「私達は一心同体、一緒に飛躍しましょう。
皆さん力を貸して下さい。お願いします」
もう後に引く事も、留まる事も叶わない。
背後で、姉に繋る扉の閉じる音が聞えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
徳居夫妻は当初、真琴さん美琴さんの願いを子供の気紛れ・我が侭と捉え、難色を示し
たけど。幼子2人と言うより夏美さんの願いとして求められ、坂本医師の説得もあり。入
院費の半額の寄付で、美琴さんも一緒に預る提案に。世間体やコスト等を検討して了承し。
徳居家は竜太君と虎二君の、学習塾代の捻出に悩んでおり。美琴さんも一緒に出す事で、
入院費の半額で済むなら万々歳で。美琴さん迄外に出せば、実子にのみ学習塾に行かせる
差異も目立たなくなり、後ろめたさも紛れる。そして真琴さんも美琴さんも、その様な養
父養母から離れられる事にむしろ開放感を抱き。
親権や住民票等は徳居家にいた時と変えず、今迄通っていた小学校にもその侭通う。徳
居夫妻の了承で、2人が夏美さんの元にお泊りいるとして。血の繋りがなく年若く、始め
たばかりの宗教団体代表では、お役所に正式な手続を求めても、拒まれる可能性が高いの
で。
夏美さん達は坂本医院跡を離れて、大きな本部ビルを建てる事を決したけど。資金調達
も設計も建設も、簡単に進む話しではなくて。手狭になった現在地で活動を続けつつ、並
行して場所選定や資金調達、設計の話しを進め。
結果およそ1年半、坂本医院跡の奥の広くない居住区画を夏美さん達は3人で分け合い。
ダイニングとキッチンを兼ねた6畳とリビング6畳の狭い空間で、密着して日々を過ごし。
「ごめんなさい、少しの間我慢して。広い本部は一夜城の様に簡単に作れはしないから」
「全然気になりません。なつみ先生の間近にいられて、わたしはむしろ」「あたしも!」
真琴さんの病にはそれが良いという以上に。姉妹は心底夏美さんの傍に添う事を喜び好
み。学校でも真琴さん美琴さんは心を鎖し、友を作れてなかった。無意識に『力』の素養
を2人は自覚して。心を開け放っては拙いとの実感が、秘密を保とうとの意識が心を内向
きに。
姉妹はその面でも漸く心寛げる場を持てた。
2人も夏美さんを『力』持つ同胞と感じて。
頼れる人がいて心鎖さなくても良くなると。
夏美さんの周囲の人に順次心を開き始めて。
真琴さんも美琴さんも、学校には通っても。同世代の子供と心通わせるよりも、『癒し
の場』で様々な人と心通わせる方を好み。訪れた人達の悩み苦しみを、『力』で癒し治す
夏美さんの傍に添い、肌身も添わせる事を好み。
愛らしい姉妹は、癒しの場を訪れる人達から好まれ愛され。夏美さんに次ぐ人気を集め、
『奇跡の超聖水』のアイドルとなり。それは、只2人が可愛く明るい娘だったからではな
い。
真琴さんは、夏美さんから受けた癒しを身の内に一定時間保持出来る様で。それは夏美
さんの癒しを己に充電し、電池切れ迄他者に及ぼせると言う事だ。美琴さんは、夏美さん
が誰かに及ぼした癒しの効果を、触れば一定時間引き延ばせる様で。それは夏美さんが離
れても、癒しの効果が続いている間なら、美琴さんが触れてそれを持続できるという事だ。
癒しの場は、夏美さんの『力』が薄く及ぶ。
その効果だと、みんな思いこんでいるけど。
『奇跡の超聖水』発足から2年と少しを経て、奥多摩の町外れに大きく新しい施設に入居
した時には。夏美さんは22歳、真琴さんは小学5年生、美琴さんは小学3年生になってい
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「うわぁ……すごい」「大きな建物ねぇ…」
姉妹の嘆声も当然か。夏美さんも場所選定や工事視察で、何度か訪れたけど。一番大き
な地上25m地下2階の、モスクに似た新『癒しの場』を中心に。尖塔状の建物6つとそれ
を繋ぐ廊下が六芒星を描き。町外れの切り開かれた丘陵地帯に屹立して人目を惹いて。未
だ建築途上だけど後は入居後に完成を目指す。
大きな施設を建てられたのは、夏美さんの癒しの反響で、寄付と出資が集まった以上に。
宗佑氏がその一部を、先物取引や株や投資信託等で運用し、数十倍の利益に変えたお陰で。
それらを担保に巨額の融資を引き出せた故で。彼の勘の良さは多少の『力』による。夏美
さんと血の繋った叔父だから、勝負時の読みに優れ。時折己を過信して、失敗もするけど
…。
「中に入っても明るい」「ここが新しい診るお部屋?」「ええ……真ん中に私が座るの」
中央の新『癒しの場』は吹き抜けで、ガラス張りの天井から陽光を採る(曇りや夜には
ガラスの周囲の電灯で照す)。直径百m程の広間中心が、円盤状に数十センチ高くなって
いて。癒しを望む人達が円形に囲んで座すと、中央に座す夏美さんを遠くからも見て取れ
る。
坂本医院跡で為している、呼び出して1人に時を掛けて診る方式は、基本的に採らない。
夏美さんの癒しは浸透させるのに時間が掛る。毎日数拾人が訪れる現状で、既に処理が追
いつかず、ここでは数百人の滞在を見込むので。建物は『力』が届き易い構造に作られて
あり。夏美さんは基本ここに座し、円形に囲む人達に陽の照す如く癒しを与える。別室で
個別に診るのは、真琴さんの様な特殊な場合限定だ。
中心からは、蛇行させた水流が周囲に複数発し。伏流水に彼女の癒しを含ませ、囲む人
達の間近を流す事で、癒しを届かせる。留まらぬ水は淀む事がなく常に清新で。夏美さん
が今後纏う衣も、診療所跡で着ていた看護師の白衣ではなく。清新で華やかな巫女装束だ。
それも多くの人が想起する白い小袖や緋袴ではなく。赤と白を基調に青や金や緑も混ぜ、
色彩豊かに豪奢な装束で。巫女は神に仕える者だけど、夏美さんは神から借りた『力』で
はなく、自身の『力』で救いを為す者だから。神に仕える者の礼を、忠実に倣う必要は薄
い。それらしい装いで堂々と荘重に応対する事で、患者のより強い信頼と受容を導く為の
正装だ。
周囲の6つの尖塔は、患者が寝泊りする個室或いは大部屋、食堂売店や広間、倉庫や会
議室に館内放送施設等、様々な区画があって。どれも新築の故の、清新な空気に満たされ
て。
真琴さんも美琴さんも、漸く自身の個室を持てた。それも夏美さんの希望で、彼女の私
室の左右隣に。真琴さんの病は、夜昼なく添う夏美さんの癒しで、悪化の加速こそ食い止
められたけど。病の悪化は着実に進んでいて。今後も特に事情がない限り、傍に置くべき
と。
これ程の施設は、中小企業の郷田組では手に負えないので、中堅ゼネコンに頼んだけど。
発注の際に下請に郷田組を入れ、適正な報酬を払う事を条件付けた。お陰で郷田組も収益
になった様で。椅子や布団、食器や書籍テレビ等の備品も、旧坂本医院のあった地元商店
街から購入し。水道下水道や配電線も同様に。
食堂売店には商店街の希望で支店が置かれ。一番近い街迄20キロ以上離れており、夜も
泊りで数百人が常住するので。靴屋に雑貨屋に金物屋に、王健行さんのラーメン店も。彼
は商店街の店もここも人に任せ、自身は『奇跡の超聖水』古参として会の運営に関る考え
だ。
中には学習塾もあり。本当は学校にしたかったけど、役所の審査が厳しいので。真琴さ
んや美琴さんを想定しての開設だけど、数百人も常住すれば子供も必ずいる筈だ。義務教
育とは子供に教育を受けさせる義務で、学校と限定はされてない。野村純哉さんは退職し
たけど、教員免許も教壇に立った経験もある。
郷田組は施設の警備も担う。建設業は今迄通り続けるので規模倍増だ。それは『癒しの
水』の広告宣伝を担う桜井社長の印刷工場も。癒しの水の瓶詰め工場を造った宗佑氏も同
じ。税理士の幣原氏は、商店街で人を別に雇って旧来業務をしつつ、こちらに本拠を持つ
事に。
「これで塚地さんにも、いつでも何人でも仲間を呼んで来て良いよって言えるね」「温泉
大浴場もあるから、身も心も清められる…」
ここは良い泉が沸く。身の清めも湯浴みも体と心の健康を保つのに重要だ。夏美さんが
ここを本拠に選んだ最大の理由もここにある。『力』を注いで癒しの水を大量生産するに
も、元から大地の熱や『力』に馴染んだ水が良い。
「木工場や板金工場も、建物や備品の整備の為に入居して貰うから、只養われるだけでは
なく、そこで働いて貰う事も出来るし。ここで私達の為に働いて貰っても、外に戻って社
会復帰しても良い。ホームレスや失業者の人達の、人生転換の場にもなるでしょうね…」
寄付も出資も、訪れる人と共に増えていて。最初の配当は近いけど運営は順調で。利殖
目的ではないけど、虎の子のお金を出資した結果が順調な配当なら、みんなの笑顔も当然
か。
「いや。めでたいめでたい。これも全て、夏美先生と宗佑先生のお陰です」「山口社長」
開発計画が破綻して、整地のみで放置された土地を。二束三文で買い取ったけど使い道
なく、苦慮していた彼から。新『癒しの場』に使うと、安く買い入れたのは宗佑氏だった。
夏美さんが癒しに注力出来ているのも彼のお陰で。彼は彼で各種の利得を得ているけど、
独り占めせず他の人にも分配し、この時点では巧く組織を束ね動かしていた。俗世の事情
に通じた人がいないと、組織は立ちゆかない。そこそこの収益は、集う人達を笑顔に変え
る。
全てが良い方向に回っている。訪れる人が賛同の力に変り。新しい展開を迎えれば、今
迄いた人に活躍の機会が巡る。誰もが何かに役立てて。癒された者が立ち直って恩を返す。
地域新聞の高さんは、尚も好意的な記事を載せてくれるけど。最近はその他の週刊誌や
情報誌にも記事が載って。『奇跡の超聖水』『不二夏美』は急速に注目を集め始めていて。
上昇気流に乗って、祝福や賛同に包まれて。
転落の瞬間は、知らぬ間に迫りつつあった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『奇跡の超聖水』が新たな場で始動して数ヶ月後の午前遅く。夏美さんは『癒しの場』
中央で座禅を組んで。二百人程が蛇行した水流に近接し、彼女を囲んで座して癒しを受け。
ここに移って以降、夏美さんが個別に向き合う患者は減っていた。その対処や装いから
も診療所の色は薄まり、心霊や心の病の相談比率が増し。難病の快癒を願い求める人もい
るけど。交通の便の良くない処に、他の病院で対処の叶う高血圧や腰痛の人の訪問は減り。
王さんや野村さんの様な初期の人は、ここにいるだけで健康を保てる。彼らはその特技
や経験を生かし、夏美さんの力になりたいと会の運営に参画を。会計士の斉藤さんは、船
頭が増えれば船が山に登ると案じていたけど。
『……騒がしい気配。一体、何かしら…?』
立ち上がり、自身が座していた処に、大きな水晶玉を置く。いつも肌身に付けて『力』
を通わせ、呪物にしたモノで。自身が場を外しても半日は、広間の人達に癒しを及ぼせる。
常時『力』を紡ぐ彼女は、肌に馴染んだ物を全て呪物に変えてしまう。即座に変じる訳
ではないけど、毎日長時間身につけていれば、意図せずともそうなってしまうのは、わた
しに同じ。彼女の衣も下着も、わたしのセーラー服等と同じく、呪物となって『力』を宿
し。他者には一層神秘的に視えて感じられる様で。
一挙一動に羨望と憧憬・敬愛の眼差しが。
注がれる事にも馴染んでしっかりと応え。
「少し外します。皆さんはその侭で結構…」
自ら正面出入口に向かったのは、真琴さんと美琴さんの感触を、好意的ではない多数の
気配に対峙している様子を感じたから。遠目にも正面入口前には、10台以上の車が見えて。
中にはバスもある様で、数拾人が詰めかけて。
「代表を出せ」「子供を返して」「金返せ」
「謝罪と賠償を求める」「まず面談して…」
年輩男女拾数名が付けた鉢巻きには『奇跡の超聖水被害者の会』と書かれ。その様子を、
報道陣と思われるカメラを構えた男女拾数人が取材し。一部週刊誌でバッシングされ始め
たとは聞いていた。でもそれは『有名税』の様な物で深刻ではないと、宗佑氏は言って…。
「代表に会わせろ。声明文を読み上げるっ」
「インチキを認めろ」「子供に逢わせてっ」
構内に踏み込まれた処で、野村さん達数人が被害者の会の拾数人と、揉めて押し合いに
なっている。野村さん達は強健ではないのでずるずる押され。その中から届いてきた声が、
「勝手に入ってこないで下さい」「なつみ先生は悪くありません。悪口言うのは止めて」
真琴さんと美琴さんは野村さん達と、侵入者を食い止めようとして。勉強の合間に散歩
に出た処で、彼らの来訪に鉢合わせたらしい。
少し離れた所では、騒動にカメラのフラッシュが焚かれ。テレビカメラも向けられ。問
題化している、抗議されていると印象づける報道の為に、被害者の会に同伴してきた訳か。
「落ち着いて下さい。一体、何が何やら…」
対話を求めても、彼らは要求を通す事が目的なので、話しが成立する筈はなく。派手な
対決は報道陣が望む絵で。夏美さんが姉妹を案じて自ら出向いたのは、失敗だったかも…。
「うるさい、我々を阻むな」「ここを通せ」
「インチキ妖術師の言う事に騙されるな!」
「子供返して。早く返して」「謝罪と賠償」
「出てきたぞ!」「俺の退職金を返せっ…」
被害者の会の人達は一層激昂し。暴力反対の筈の報道陣は、被害者の会のいきり立つ様
子や憤怒は好意的に見過ごす姿勢で。押しても掴み掛っても、止めるどころか窘めもせず。
「落ち着いて下さい。私達に何を求めているのか分りませんが、ゆっくり喋って貰わない
と事情が呑み込めません。まず落ち着いて」
「ふざけるな」「騙されないぞ」「幾らつぎ込んだと思っているんだ」「子供を返して」
被害者の会の人は怒り心頭で。夏美さんが出てきた状況に興奮の余り、華やかに鮮やか
な巫女装束にも掴み掛り。報道陣は、若い女性が年輩男性多数に掴み掛られる状況を前に、
誰も妨げずフラッシュを焚いてカメラを回し。
【被害者の会の会長が、頭頂の髪の薄い雑貨店主の村井秀隆さん65歳。副会長の白髪の長
い女性が、教員の奥さんで鹿島トメさん56歳。事務局長の滝沢勝さん48歳は、弁護士で
…】
この時の夏美さんが、彼らの事情を知る筈もなく。何を抗議に来たのか分らず訝る一方。
被害者の会は集団になった事や、マスコミに取り上げて貰え、同伴された事で勇気を得て。
奇跡の超聖水に入り浸り、学校や職場を抛り出す人の存在が、最初に批判に火を付けた。
新『癒しの場』が、24時間寝泊り自由でいつ迄も居続けられる事が、思わぬ副作用を生み。
学校も職場もいつ迄も来ぬ人を待ちはせぬ。解雇や退学は、時間の問題だった。親は子
を、妻は夫を、夫は妻を案じ、世間に戻そうと試みるけど。望んで世間を離れた人を、引
き戻すのは至難の業で。しかも多くの者が多額の寄付をしていた。今後も癒しの場で生き
て行く気だから、自身の未来に注いだ積りだけど、傍からは騙され金を貢がされていると
見える。
実は少数だけど金銭トラブルも生じていた。
任意の寄付を代金と勘違いして払ったけど。
後でそうではないと知って返還を求めたり。
勢いで多額の寄付をしたけど後で返せとか。
効果が思った程続かないから半分返せとか。
通わなくなると効果が切れたから返せとか。
病が治って元気になって、その為に出歩いてケガをした事に文句を付けてきた人もいる。
一方で団体の誰かが、夏美さんから直に癒しを受ける特典を餌に、お金を求めた事例も。
夏美さんは与り知らぬ事だけど。膨大なお金を取られた末に、すっぽかされた者達には。
夏美さんは、全てを吸い上げた憤りの対象で。何でも押し通せる気分で腕を伸ばし身を乗
り出し。前に立ちはだかる者を全て邪魔者と…。
『小柄な男性が、週刊春秋の真田昌幸記者35歳。格闘家の肉体を持つ大柄な男性が、週刊
深長の権田岩男記者22歳、長身で胸の大きな女性記者が、週刊レディの平塚寧々記者26歳。
真琴さん美琴さんに向けるカメラを、子供を撮るのは拙いから止めようと窘めて。権田
さんに邪魔だと突き飛ばされた細身の男性が、週刊ロストの原田泰治記者24歳。彼を助け
起こした男性が、相方の副島靖史記者28歳…』
そして青雲社の八木博嗣さん29歳。体格は権田記者に及ばぬけど、武道で鍛えた肉体で。
被害者の会の壮年男性に体を抑えられる美琴さんに、助けの手ではなくマイクを差し伸べ。
「落ち着いて下さい。考えを整理して喋って下さい。私達は逃げません。冷静になって」
「うるせぇ! とっとと金返せばいいんだ」
「子供を返せ、人さらい集団。謝罪しろっ」
「インチキ治療で、症状が酷くなったんだ」
「幽霊をでっち上げられ金を騙し取られた」
夏美さんは体は特に鍛えてないので。男女多数に詰め寄られると跳ね返す事も叶わない。
華やかで鮮やかな装束は、好意的な人々には神々しいけど、敵対的な人々に効果はなくて。
夏美さんも、被害者の会の人の腕に囚われ。
敵意の波に、呑まれようとした時だった…。
「てめえらに勝手させるか」「ぶっ殺す!」
被害者の会の人を叩きのめし、退けたのは。
郷田組の新メンバーであるツヨシさん達だ。
警備担当の彼らは出動の遅れを挽回せんと。
責任感と、寄せられた敵意への反感の侭に。
「好き放題に入り込みやがって」「死ねや」
「わひぃ、ヤクザ!」「暴力反対、暴力…」
憎悪や憤怒を弾き返したのは憎悪や憤怒で。
力づくから彼女を救い出したのは力づくだ。
真琴さんや美琴さんが胸倉を掴まれていて。
野村さんも突き転ばされた程の混乱ぶりで。
夏美さんも掴み掛られ爪が肌に食い込んだ。
力づくの反撃もやむを得ないとは分るけど。
「待って、ツヨシさん。やり過ぎないで…」
「生かして帰すな!」「ひひいぃ、助けて」
でも中傷と敵意に激昂したツヨシさん達は。
先に仕掛けてきたのは向う側で正当防衛と。
間近で傍観し煽り立てた報道陣も敵視して。
カメラの前でも構わず憤怒の侭に殴り蹴り。
彼女達の頭上で日は既に中天を過ぎていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ツヨシさん達の反撃は、他に対処の術がなかったとはいえ、夏美さん達の先行きに影を
落した。激昂した彼らは、荒事に馴れぬ素人である被害者の会の人達に過剰な反撃を加え。
その様を間近で報道陣に撮られ、更に憎悪の迸る侭に報道陣に襲い掛って、カメラを壊し
車を壊し。何人かの報道記者を殴り飛ばして。
後で傷つける気はなかったと言い繕っても。
ケガさせた人達に謝罪と賠償を申し出ても。
夏美さんの癒しも心が拒んで効かない程で。
最早言葉は耳に届いても心に全く響かない。
元々好意的ではなかったけど、これでマスコミは奇跡の超聖水の敵になった。ツヨシさ
ん達の奮戦は、その場で真琴さん美琴さんや夏美さんを救った代りに、その未来を鎖した。
世に怪しい救いや癒しを唄う団体は数多い。それらを口実に餌にして、お金を稼ぐ団体
も少なくない。幾つかの雑誌新聞は、その様な団体の欺瞞や非道も追及していた。でも奇
跡の超聖水は一つの失敗で、それら世間の相場を大きく超えて、全マスコミの敵視を招い
て。
『奇跡の超聖水は、都合の悪い事を言う者を、ヤクザを用いて口封じする、怖ろしい団
体』
マスコミが敵対的に報道すると、どれもこれも疑惑と虚飾に塗れて聞える。夏美さんの
行いは、現代医療を基盤とした法律の想定を越えるので、違反とも言い切れないのだけど。
任意の寄付も出資も、金集めに狂奔する姿と取られ。結成2年でこれ程見事な本部施設を
持てた事にも、嫉妬混じりに疑惑を囁かれ…。
『私は確かに彼の糖尿病は治した。でもガンは治せなかった。それは言ってあったのに』
『私が治したから職場に復帰出来た人が、その後職場で受けた怪我を私の所為と偽って』
『私が治せないと断った人が、脅迫され金を取られて治らないと、テレビに向けて喋る』
中には夏美さんが逢った事のない人もいて。
なのに大金を捧げねば治せぬと言われたと。
逢った事のある人もいたけど言う事が違う。
「偶にしか来ないから、吹き出物が治らないと言われました。行けば寄付は避けられない
ので、なけなしのお金をはたくけど、頻繁には行けない。それで治らないと言われても」
テレビ画面で喋っていたのは野崎美羽さん。
でも当時の2人のやり取りは似て非なる…。
「金縛りに遭うと相談したら、義理の母の霊や浮遊霊が悪さをしていると言われ。経過を
見たいと通う事を強いられたけど……奥多摩の施設に引っ張り込んで、金を搾り取る積り
だったんです。だって、あんな辺鄙な処に隔離されたら、逃げる事も出来ないじゃない」
城野雪花さんの主張は被害妄想満載だけど。
それが『うんうん』と頷かれる状況だった。
夏美さん達はワイドショーの悪役と化して。
反論も弁明も許されぬ侭答がないと罵られ。
更に団体の幹部の豪遊が凄いと批判の的に。
会員の私生活には今迄気を遣ってなかった。
「自分の事業で稼いだ金で、銀座や六本木で呑み歩いて何が悪い! 俺は夏美に協力して
いるが、私生活を捧ぐ積りはないぞ。俺は奇跡の超聖水から、一銭も給与や報酬を貰って
ない。自粛云々を求められる謂われもない」
宗佑氏が豪遊を問われて反論した通りで。
今更求められても戸惑う気持も分るけど。
「給与や報酬は貰ってないけど、癒しの水は大量販売していますね。それも当初は水や瓶
やラベル代だけの原価だったのに、最近は随分高値にした上に、プレミアムとかゴールド
とか、更に割高な水を売り出しているとか」
会計士の斉藤光成さんは、古参の会員にも容赦なく理詰めで迫るので。一部ではうるさ
がられ、生意気だと陰口も語られ。でも疑惑を追及される今は、彼の様な視点が重要に…。
「あれはみんなで話し合って決めた事だろう。余り気易く廉価で手に入ると有り難みを欠
く。多少苦労して手に入れる方が、購入者も大事にすると……プレミアムやゴールドは、
夏美が力を及ぼす時間や、水や瓶の品質の違いで、効果の持続時間が違うんだ。それに癒
しの水の収益は俺の懐には一銭も入ってない。全部会の資金になっている。そのお陰でこ
の本部も建ったのに……顧みるべきは、脱税疑惑の方じゃないのか。会計士さんと税理士
さん」
彼の主張に嘘はないけど、事実を隠してもいた。癒しの水の収益は全て団体に入るけど。
高値にしたお陰で材料費に余裕が生じ。瓶やラベルや箱等の納品で、宗佑氏や印刷会社の
桜井社長は収益を上げて。話しを他の疑惑に振ったのは、そこを突っ込まれたくない故だ。
「税務署への申告に間違いはない。時折指摘される箇所はあるが、それは見解の相違だ」
幣原氏も斉藤氏も、自身の事務所へ業務委託した名義でかなりの資金を流して、奇跡の
超聖水の収益を低く見せており。見方によっては脱税と指摘されそうな処理である以上に、
流したお金の幾分かは本当に彼らの懐に消え。
上昇気流に乗り、賛同や人やお金が集まる状況では、前向きに動いていた全てが。疑惑
を指摘され始めると、不適正さが浮き彫りに。急拡大した組織は夏美さんの目が届ききら
ず。
「佐伯さんと連絡が付きません。ハワイ旅行と聞いていて、もう帰国している筈だけど」
香坂亜紀さんの悪い予感は的中し。坂本医院で婦長だった先輩看護師・佐伯摩耶さんは、
この頃既に奇跡の超聖水から心離れ、被害者の会や報道陣に情報を流し。年長で看護師の
キャリアもずっと長い摩耶さんは、夏美さんに雇われ働く事に抵抗が拭えず、嫉妬を抱き。
それでも坂本医院跡にいた頃は、診療所の頃を知る馴染みが多く、病院の流れを引きず
っていたから、彼女も大きな顔が出来た。高い対価と引替に、早く夏美さんに診て貰える
様に、診療室に呼ぶ順番を調整し。夏美さんの知らない処で取次料を得て、豪遊も出来た。
でも新しい癒しの場に来て、みんな同じ処で一斉に癒しを受ける様になって、彼女の取
次特権は消失し。なら最早摩耶さんに、年下の夏美さんに頭を下げて使われる旨味は薄く。
ハワイ旅行は、勝手な有料取次を他の人に気付かれ叱られるのを逃れる為だった。でも
その間にバッシングが始って。むしろ新たな金蔓や注目を求め、彼女は敵方に居所を移し。
己の豪遊を摩耶さんは報道陣に、自分は夏美さんの指示に従って患者から金を巻き上げ
ただけ、僅かの額をくすねただけと言い逃れ。内情を知らねば語れない、一部事実を混ぜ
た疑惑や醜聞を、誰よりも先に外部へと漏らし。追及された夏美さんが答に詰まるのも無
理はない。それらは彼女も知らぬ事実だったのだ。
「山口社長も連絡が付かなくなっています」
岩崎菜緒さんも、悪い感触を掴んでいた。
バッシングを受ける奇跡の超聖水と関係があると、商売に響く。山口社長は夏美さん達
との仲を、商売上の売り手と買い手に過ぎぬと取材に答え。それは世の追及を逃れる為と、
夏美さん達に釈明したけど。その様に夏美さん達に言い訳しつつ、本当に縁を切ろうと…。
逆風になると味方はたじろぎ仲間は怯む。
「本当に申し訳ない。この上は、代表のご意向に沿い、どの様な懲罰も覚悟致しまする」
その様な時だからこそ、夏美さんは郷田組から寄せられたまっすぐな誠意を心強く感じ。
郷田組長も古川さんも、居並ぶ面々や夏美さんに頭を下げつつ、それでもツヨシさん達
を切り捨てないと。奇跡の超聖水に迷惑掛けた郷田組が、切り離されるならやむを得ない
けど、それでも郷田組は身内を見捨てないと。
「一度迎え入れた以上、ツヨシも郷田組の一員です。失態は叱りますが、切り捨てて終り
という訳には行かぬ。その上で郷田組が奇跡の超聖水に迷惑となるなら、断絶は受け容れ
ましょう。もし、未だお役に立てるとお考えなら、どの様な事にも誠心誠意尽くします」
奇妙な対比だった。世間の表を歩く堅気の社長や看護師が、バッシングや嫉妬に竦み簡
単に離合集散する一方で。ヤクザは夏美さんに切り離されようとも、身内との絆は切らず。
「今から関係を絶っても、マスコミはバッシングを止めはしない。意味の薄い装いの為に
古い友人を、切り捨てる事を私は選びません。郷田社長も古川さんも、ゲンさんもヤマさ
んもツヨシさんも、今後も私達の友です……」
マスコミは所詮彼らに味方してくれぬのだ。
夏美さん達は己の流儀で進む他に途はない。
完全な納得を得た訳でないけど、衆議はひとまず郷田組を切り捨てる事はしないと決し。
警察がバッシングを見て、非好意的になっており。マスコミの違法取材や暴力的な抗議に
対処する術も必要で。郷田組を切り離して世間に受容される確証はなく。切り捨てを主張
して彼らに睨まれる事を、多くの会員は怖れ。
どの判断が最善か、実は誰も見通しきれず。
正解はこの世のどこに誰に、あるのだろう。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「なつみ先生、大丈夫?」「少しお疲れ?」
真琴さんと美琴さんを、癒しに来たのに。
逆に夏美さんが気遣われるのに、苦笑い。
「もっとしっかりしなければならないわね」
宗佑氏の工場で働かされていた頃、疲れ切っていた筈なのに春恵さんは。夏美さんを先
に休ませ働き続け、妹の分迄ノルマをこなし。それでも妹の前では元気を装い、快活に笑
み。
その疲弊を見抜いて心配した夏美さんに。
妹に心配を抱かせては姉失格ねと苦笑い。
あの時の姉の心境は、こうだったのかと。
あの時春恵さんに守るべき妹がいた様に。
今の夏美さんにも、守るべき姉妹がいる。
今こそ意志を、強く持たねばならないと。
真琴さんも美琴さんも、テレビの生取材で全国的に放映されて顔が知られ。学校でもか
らかわれた為に、少し前から登校しておらず。奥多摩からの長い通学の間、好機の目線に
晒され、時に被害者の会の抗議にも遭い。今は郷田組が、守りに出張るのも難しい情勢だ
し。
姉妹は癒しの場に引きこもり状態で。勉強は野村さん達から教わるから心配はないけど、
欠席日数は累積しており。担任の先生からは、様子や今後の見通しを知りたいと連絡も来
て。徳居夫妻からはこの経緯を、世間体に泥を塗ったと詰られて。姉妹を返してとも求め
られ。
夏美さんは、姉妹の親権も何も持ってない。
徳居夫妻の了承でお泊りさせているだけで。
夫妻はその気になった瞬間、法に基づいて。
いつでも美琴さん真琴さんを、取り返せる。
この侭バッシングが終らずに続く様ならば。
暗い先行きを、つい思い浮べてしまうのは。
「いなくなったり、しないよね?」「美琴」
愛らしい姉妹は夏美さんの今後が気懸りで。
美琴さんを窘める真琴さんも想いは同じだ。
問わずにいられぬ妹と問う事に怯える姉と。
世間の風に晒されつつも2人心寄せ合って。
夏美さんを信じて慕う想いに変りはないと。
夏美さんを案じて肌身を添わせ温もり求め。
「大丈夫。私は、居なくなりはしないから」
彼女は、世のバッシングやそれへの対処を。
応えても幼子の問う真意への答にならぬと。
むしろ幼子の訊きたい問の真意に向き合い。
屈み込んで、目線の高さを同じくして答を。
「私はもう誰かに雇われ使われる者じゃない。
自分の意志で途を切り開ける立場にいるわ。
私は真琴さんや美琴さんを、愛しむ想いを。
誰にも妨げさせはしない。貫き通せる…」
あなた達が、私を強く求めてくれた様に。
私も今迄になくあなたを強く求めている。
真琴さんも美琴さんも私のたいせつな人。
不二夏美の特別にたいせつな、愛しい妹。
夏美さんは、幼子が問いたかった本当の問を察し、幼子が欲していた本当の答を返して。
見つめてくる2人の瞳を、交互に見つめ。
真琴さんの左肩と美琴さんの右肩を抱き。
「私はいなくなりはしない……求めてくれる限り、私はあなた達の前に必ず現れる。約束
するわ。望まれる事が、望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。
例え奇跡の超聖水がどうなっても、この癒しの場を保てなくなっても、私は私を好いて
くれたあなた達2人を、心底大好きだから」
「なつみせんせいっ!」「なつみ先生…!」
癒しの場にいる人達にも、バッシング等で動揺が生じ。疑念が混じると今迄の様に癒し
が浸透せず、効果が出ない。夏美さんも心煩わされて集中が難しく、心が疲れ気味になる。
だからこそ、彼女の癒しを貯めて延長出来る姉妹の存在はより重要だけど。そんな効用
の話しは抜きに、姉妹は夏美さんを慕っていて。夏美さんは姉妹を深く愛している。相思
相愛こそが、この時の3人には重要な真実で。
守りたい人がいる限り、人は困難でも逆風でも心を強く保ち続けられる。希望を未来を
描き続けられる。守りたい人を心に抱く限り。でも逆に、その絆が喪われてしまったなら
ば。
夏美さんの失意の瞬間が近付きつつあった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「高さん。逢ってお話ししたかったんです」
地域新聞の高秋利さんから掛った電話に。
夏美さんは希望の光を見た様な声を出し。
バッシングの回避に、暫く連絡を絶つと言って。逆にそれを言い訳に離れて行く人が多
い今。連絡が途絶える人の多い中で。頼りにした人からの連絡は、久しぶりの収穫だと…。
「マスコミ対応や情勢分析で、色々と教えて欲しい事がありまして」「それは中々難しい
な……今では俺も、報道陣に追われる側だ」
高さんは、バッシングの裏を探っていた。
そこで見えたのは、夏美さんの癒しが無償の本物であるが故に、それを忌み嫌う病院や
製薬会社、医療機器会社、それと繋る役所や政治家の存在で。夏美さんが病を治し、そこ
に人々が殺到すれば。病院も医療器具も医薬品も、売上に深刻な痛手を被る。奇跡の超聖
水が全国的に知られた事で、彼らは危機感を抱き。被害者を焚き付け、マスコミを煽った。
噂では資金提供や、暴力団を操っているとも。
「その事実を公表すれば、証拠を掴めば…」
「そう思っていたんだが、事実はもっと酷い。マスコミは奇跡の超聖水叩きで業界横並び
だ。村八分を怖れて誰も背景を報じない。新興団体の真実を庇って、政治家や役所や大病
院や、製薬業界を敵に回す勇気のある雑誌はない」
警察が動かないのは、警察が動けば反権力が旗印の一部マスコミが、同情心を抱いて奇
跡の超聖水に味方しかねないから。法に基づけば奇跡の超聖水を問答無用に叩けないから。
警察を局外に引かせる事で、マスコミは逆に敷地に勝手に侵入し、会員に違法な接触をし。
やりたい放題好き放題で、郷田組が阻めば暴力団云々を非難し、奇跡の超聖水の闇と叩く。
「逢って話し合いましょう。情報交換して知恵を出し合えば、途も切り開けるかも……」
「ダメだ。俺も記者から逃げ回っている状態でね。社長の奴、俺が奇跡の超聖水に関って、
販売部数を伸ばし話題を呼んで、あれ程社に貢献したのに。バッシング受けて社論を曲げ、
俺をクビにして、マスコミに売りやがった」
高さんは、奇跡の超聖水結成式典で、獄門会の乱入に全く触れず、祝賀記事を書いた事
を暴露され。今迄の地域新聞の好意的報道を、癒着と叩かれ。奇跡の超聖水と郷田組の仲
を、分って伏せた共犯と罵られ。取材で知った事、描くべき事を書かなかった『報道記者
失格』『取材相手に迎合した』とされて信用を喪い。
「週刊深長も週刊春秋も、週刊レディもみんな奇跡の超聖水が上り坂の時は、俺に取材の
伝を頼んでもてなしてきた癖に、バッシングに転じて俺の仲介が不要になると掌を返し」
今の彼は自宅におれず居所を転々と変え。
癒しの場に行っては逆に迷惑を掛けると。
「俺もこの侭終る積りはない。ないが、今は少し逼塞しなければならない。時折連絡は取
り合いたいけど、暫くは逢えない。それと」
高さんは、バッシングの一部が事実だと。
団体を離れて事実を見て、漸く呑み込め。
「癒しの水に、ニセ物があった。有効期限は来てないのに、触れても全く癒しを感じない。
俺も現物を確かめた。プレミアムもシルバーもゴールドも、ダイヤモンドも全部ダメだ」
奇跡の超聖水が、何の癒しの『力』も込めてない只の水を、癒しの水だと高値で売り捌
き、巨額の不正利得を得ている。夏美さん達はそれを、一貫して否定し続けてきたけど…。
「叔父さん、これは一体どういう事ですか」
夏美さんは宗佑氏が言い逃れできない様に。
出荷しようとした癒しの水を抑えて問うて。
夏美さんの『力』は、感じ取れても微弱で。
これでは癒しに役立つとは思えない。でも。
「どうしてこんなインチキを?」「金が要るんだ。俺の為じゃない、団体の運営の為に」
この水は中央の癒しの場で、夏美さんの間近を流し『力』に触れさせた水だけど。最近
は彼女も集中が難しく、癒しの効果も弱まり。しかも受け取る会員も、疑念を抱く為に効
果が現れ難く。流れる内にどんどん会員達に吸収されて、今迄の様に『力』を宿した状態
で、瓶詰めの処迄流れてはこないのだと彼は語り。
なら出荷を止めれば良いと言う夏美さんに。
「こんな只の水を高値で売って、効果が現れなかったら、一層人の信頼を喪うでしょう」
宗佑氏はそんな事を出来るかと怒鳴り返し。
「プラシーボ効果というのがある。今迄だって全て夏美の癒しと言うより、夏美に診て貰
えた、効果がある筈との思い込みで快癒した例は多い筈だ。ゼロでなければ何とかなる」
「それに頼れる状況ではないでしょう。バッシングを受けて、疑念を抱かれている今は」
バッシングを受けている今だからこそだと。
宗佑氏は会や癒しの場の維持の為だと語り。
この巨大な本部施設を作る為に。宗佑氏は出資や寄付の一部を株や先物取引で数十倍の
儲けに変え、それを担保に銀行から借金して。それは会が順調に拡大すれば、寄付や出資
で返済出来たけど。バッシングでその増加に急ブレーキが掛り。寄付や出資受付担当の王
健行さんも、嘆いていた。だからこそ宗佑氏は。
「今の我らの収益の柱は、全国に通信販売出来る『癒しの水』なんだ」「だからって…」
水が売れる理由は効くからで。利かぬ水を売ってお金を得ては、正にバッシングされて
いる通り『暴利』『インチキ』『金目当て』だ。そこには最早、病や怪我に悩み苦しみ傷
つく人を救いたいとの、願いや望みは窺えず。
「俺も資産の多くを出資した。奇跡の超聖水を失敗させる訳には行かない。何としても」
ああ、それこそが失敗への転落の一本道。
彼の豪遊とは、不安を払拭したいが故の。
怯えから逃れ己を誤魔化したい弱さ故の。
「未だ感謝の手紙は多数来ているんだ。昨日夏美に見せただろう。バッシングが始ってか
らも、『力』を込めてない水を詰めてからも。
未だ我々は求められている。買い手は幾らでもいる。巻き返せる。広島在住の新藤潮音
さん、金沢在住の高橋綾香さん、それに…」
「そう言う人に『力』を込めてない水を売り続けるのですか? 信じてくれている人達に、
感謝してくれている人に、『力』を込めてない只の水を、分って売りつけるのですか?」
癒しの水の販売は暫く停止します。夏美さんは宗佑氏に有無を言わせず、代表権限だと。
「私達は、この団体を続ける為に、活動している訳じゃない。人を癒せない水を売る事は、
自分自身を裏切る事になります」「莫迦な」
今水の販売を止めれば、インチキを認めたとマスコミに責められるだけだ。そんな事を
して信頼を落し収益の途を捨てて、『癒しの場』を喪えば本当に、誰も癒す事など叶わな
くなるのに。お前は状況を分っているのか!
宗佑氏の怒声にも夏美さんは竦む事なく。
むしろ冷たい怒りはやるせなさに変じて。
「癒しの場は道具に過ぎません。それよりも私は初心を、理念を喪う事が本当に怖い…」
ゲンさんヤマさん。工場は暫く閉鎖です。
稼働させる者がいれば遠慮なく排除して。
「夏美、お前はここに希望を求めて集う者を見捨てる積りか。団体を資金難で潰して形を
喪わせ。清く正しく生きて独り倒れ、誰の助けにもならずなれず自己満足で終る気か!」
引っ張られ行く宗佑氏の怒声を背に聞いて。
夏美さんは深い徒労感と隔絶感から溜息を。
分り合えぬ者は敵方にのみいる訳ではない。
理解のない味方こそ一番厄介かも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「真琴さんと美琴さんは?」「さ、さあ…」
そろそろ、子供を寝付かせる刻限だった。
最近夏美さんは諸々に忙しくて、真琴さんにしっかり癒しを及ぼせてない。それに美琴
さんにも肌身を添わせて『力』を及ぼす事で、その無意識に『力』の扱いを馴染ませられ
る。笑子おばあさんが時々わたしに添い寝してくれた様に。最近はわたしが白花ちゃんや
桂ちゃんに肌身添わせている様に。寝ても醒めても自然に扱える様になる事が、望ましい
から。
夜間警備を担う郷田組のサダさんの答に。
夏美さんの感応が『何か』を嗅ぎ付けた。
彼は郷田組でも最近中途採用された者で。
顔と名前は分っても人となり迄は分らず。
「真琴さんと美琴さんは?」「……っ……」
同じ問を瞳を正視して発すると、彼は答を躊躇い視線を躱す。それでも正視し続けると、
サダさんが視線を戻しかけては又外す。それでも正視し続けると。耐えかねたサダさんは、
「し、失礼します」踵を返して去ろうとする。
「……ヤマさん、ゲンさん、いますか!?」
夏美さんの声が響き渡る。刻限は深夜に近いので、数百人が滞在する施設も、廊下は人
気がなく薄暗いけど。逆に良く声が通るので。余り遠くない処にいた2人が駆けつけて来
て。
「真琴さん美琴さんを捜して! サダさんが知っている筈。2人が危ないかも知れない」
夏美さんは腕力を欠くので、脅すのも無理矢理吐かせるのも難しい。だから他に誰かを
呼んで頼まねば事は動かない。そして夏美さんに心酔する2人の睨みを受けて、サダさん
は諦めた様に先頭を進み始め、施設の片隅に。
「ここは、王健行さん管轄の財務整理室…」
「鍵が掛っています」「くそ、ぶち破るぞ」
2人がドアを蹴破って室内に乱入すると。
そこには既に王さんの姿はなくて代りに。
「「……っ!」」「真琴さん、美琴さん!」
書類が雑然と散らかった部屋では、ロープに縛り上げられた、真琴さんと美琴さんが転
がされていて。ほぼ同時に自動車が走り去る物音が届いて来ると。サダさんが愕然として。
「あの野郎、金を持って逃げやがった…!」
王さんは新しい癒しの場に来てから、店は全て人に任せ。自身は奇跡の超聖水に無報酬
で役立ちたいと、運営参画を申し出て。寄付や出資の受け付け・整理の担当になっていた。
旧坂本医院からお金を扱って来た香坂亜紀さんが、団体の伸張に伴って扱う分野が拡大し、
全て処理するのが困難になった処だったので。
団体発足前からの馴染みで信頼出来ると。
でもバッシングの結果彼の状況も暗転し。
ラーメン屋が奇跡の超聖水への悪評の煽りを受けて、極度の経営不振に陥り。大学に通
う息子さんの学資を出せなくなると、宗佑氏に相談したとも聞いたけど。団体の収支悪化
に頭を悩ませていた宗佑氏は、元々無報酬の約束だったと、話しを門前払いして。夏美さ
んに相談しなかったのは、癒しを及ぼす以外の実務の多くが、宗佑氏の管轄だった為だ…。
窮地に陥った王さんは、禁断の手に出た。
訪れる人から可能な限り寄付を搾り取る。
他の方はもっと出してますと相場を示し。
寄付を沢山出させ一部を己の懐に入れる。
又は寄せられた寄付をなかった事にして。
寄付の返金に応じた事にして懐に入れる。
彼は、他者からの出資を自身の出資に付け替えて、配当を多く貰い。そして一度始めた
なら後戻りは出来ず。発覚を恐れた王さんは、手伝いに付けられた郷田組のサダさん達中
途採用組に、分け前を与えて手懐け。でもその分け前を捻出する為に、彼は更に深みに嵌
り。
マスコミが非難した寄付強要は事実だった。
夏美さんの意図ではなく彼女は無一文でも。
被害者が金を搾り取られた事は事実だった。
彼が夏美さんに逢う事を、避けていたのは、隠し事を悟られたくなくて。その状況を奇
妙に思った真琴さん美琴さんは、疲れ気味な夏美さんの役に立ちたくその代りに様子を伺
い。書類を読み解ける様になった姉妹は事を悟り。事を悟られた王さんは姉妹を縛り上げ
させて。
サダさん達は、王さんと一緒に逃亡する準備や車の調達に、動き出した処だった。でも
王さんは、そうしてサダさん達と別れた後で、単独で持てる限りのお金を握って独り逃亡
を。
「……なつみ先生!」「夏美先生っ……!」
ロープを解かれた姉妹は、号泣しながら夏美さんの左右に抱きつき。人の役に立とうと、
誤解を解こうと思って信じた人を訪ね。その背信に直面し、酷い目に遭わされた。子供心
に響く展開だ。王さんは真琴さんや美琴さんとも心通わせた、優しいおじさんだったのに。
この後、奇跡の超聖水に帰れず、郷田組の報復を怖れた王さんは、被害者の会やマスコ
ミ側に身を投じ。佐伯摩耶さんと共に古参会員で『理想を忘れた今の金儲け組織を糾弾す
る』名目で、夏美さんの醜聞を非難する側に。己が為した罪を、夏美さんの指示に転嫁し
て。
お金の欠乏が理念を破り背信を招く。信じ難い、あり得ない瓦解が今、進みつつあった。
サダさん達は、奇跡の超聖水拡大に沿って、一緒に規模を拡張した郷田組の中途参入組
で。ゲンさんやヤマさん程、夏美さんには馴染んでないけど。それでもこんな事に与する
とは。
「申し訳ありません姐さん」「すんません」
ヤマさんやゲンさんなら、ツヨシさんや古川さんなら、幼子を虐げる展開にはならなか
った。でも本業がある郷田組は、ここに全て注力する訳に行かず。ヤマさんゲンさんが今
宵ここに泊り込んでいたのも、幸運な偶然だ。
絆を簡単に切らない彼らは、その代りに身内への制裁が厳しい。そこはヤクザの世界な
ので鉄拳が飛ぶ。漸く助けた女の子が怯えると夏美さんが制止して、一時中断されたけど。
数日顔を出せない程の制裁が為されたらしい。
「なつみ先生、怖かったよぉ」「優しかったおじさんが、鬼の形相になって」「……!」
もう仲間さえ、起居の場に於てさえ、人を信じ切れぬ。裏切りや背信が溢れ出している。
それはバッシングで逆風になったから目立っただけで、実は元々みんながそうだったのか。
「ごめんなさい。私が、あなた達を危険に」
姉妹を手放さざるを得ないと、観念した瞬間だった。それは徳居夫妻の求めや学校の連
絡や、バッシングするマスコミの故ではなく。何よりも自身の失陥と力不足への悔恨の故
に。
既に坂本医師が不在になって半年近く経つ。
大学病院に勤める息子・史朗さんの教授昇任が絡んで。奇跡の超聖水は今や病院の敵だ。
彼が夏美さんと深い仲である事が、息子の昇任に差し障る事態になり。己の事なら何を幾
ら書かれても受け流す老医師も、これには困惑し。暫くの間、関りを控えたいと申し出て。
徳居夫妻が夏美さんに姉妹を預けた判断の決定打は、坂本医師の賛同だった。それのな
い今、夫妻は夏美さんのバッシングに姉妹を同居させ、非難に巻き込まれる事を忌み嫌い。
法的手段で引き離しに掛るのは時間の問題で。バッシングを止めさせる事も今の処不可能
で。
「なつみ先生っ……!」「夏美先生……っ」
「悪評が拭える迄少しの間だけ、我慢して」
今更戻っても幸せ等ないと、姉妹も分る。
肌身を添わせ続けたい想いは互いに同じ。
でもそれが叶わない状況にあるとも悟れ。
涙を零さぬ様に、お互い懸命に堪えつつ。
「大丈夫。私は、居なくなりはしないから」
求めてくれる限り、私はあなた達に必ず手を届かせる。約束するわ。望まれる事が、望
まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。私は私を好いてくれた真
琴さんと美琴さんを、本当に大好きだから。
「真琴さんも美琴さんも私のたいせつな人。
不二夏美の特別にたいせつな、愛しい妹」
迎えに来た徳居夫妻の苦々しい顔の前で。
3人はひしと抱き合って暫く頬を合わせ。
「必ず、また迎えに来て」「待っています」
その想いが強ければ強い程、徳居夫妻は非好意的になり、姉妹に待つ今からはより厳し
く辛い日々になる。それは夏美さんも同様に。
姉妹を手放して数日後、その瞬間は訪れた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夜10時過ぎに、サダさんに続いて郷田組の中途参入組拾数人が、突如夏美さんの私室に
押し入って。それに続いて入ってきた面々は。
「今日は、夏美に、告げる事があってきた」
宗佑氏が斉藤さん、幣原さん、桜井社長達と硬い表情で訪れたのは、クーデターだった。
「お前が適切な手を打たない為に、奇跡の超聖水の財政状況は悪化する一方だ。この侭で
は銀行への借金返済が滞り、担保にした我々の資産もこの本部施設も全て喪う。この上は、
適切な判断を下せない代表を替え、新規巻き返しを図る他に、我々が生き残る途はない」
衆議の結果、不二夏美を奇跡の超聖水代表から解き、後任に不二宗佑を就ける物とする。
「郷田社長は……この動きをご存じなの?」
夏美さんの傍に添う者は今や誰もいない。
真琴さんも美琴さんも坂本医師もおらず。
味方だった者は全て全て裏切り者に転じ。
「郷田社長は欠席だ。事後に通知する。但し、ここにいる郷田組のメンバーは既に事態を
承知している。彼らから伝えて貰う予定だよ」
郷田社長や古川さんは、宗佑氏を信じてこの団体に協力してきた訳ではない。夏美さん
の癒しに集ったのだ。紙の上で手続をしても納得する筈がない。でもここにいる中途参入
組は、そんな郷田組の気風に馴染んでおらず。宗佑氏についた方が生活や金が保証される
と。
「私は、用済みですか。金儲けに邪魔となるから。私の癒しを核にした団体が、私を支え
てくれる人達が、私を解任し私の居場所から私を追い出して、一体何を出来るのかしら」
「我々にも生活や事業がある」「君が退けばマスコミも鎮まってくれる」「戦意のない事
を示して手打ちが出来れば」「分ってくれ」
一体、自分は何を守ろうとしてきたのか。
今迄己は何を癒し救おうとして来たのか。
心からは力が抜けて、頭は妙に冴え渡り。
最早自分はここの主ではないのだと悟れ。
往く処も帰る処も思いつく宛はないけど。
立ち上がった時宗佑氏が招き入れたのは。
「君の往く処も、一応考えたよ……どうぞ」
「夏美、久しぶり」「……春恵姉さんっ!」
アパートを出て以降、音信不通だった実の姉が。バッシングの中でも、応援には来ない
けど敵方にも与せず、局外に在り続けた姉が。この時点で、宗佑氏と連れだって現れると
は。
あれ程叔父と手を組む事を忌み嫌った姉が。
今は故意に感情を表情を隠した固い応対で。
何か声を発しようとした時、私室の電話が鳴り響き。この番号を知る者は奇跡の超聖水
でもごく僅か。宗佑氏達を見つめて、その了承を確かめてから受話器を取ると。声の主は、
「夏美先生か……古川だ」「古川さん…?」
お別れを告げに電話を掛けた。中年男性の渋い声は、やや苦しげで。室内に動揺が走る。
「獄門会にやられた。親父もツヨシも、郷田組の家族の大多数が。サダから、癒しの場が
襲撃されそうだって情報を受けて、郷田組の全員に緊急招集を掛けたんだが、罠だった」
サダさんの手の者が、郷田組本部に爆薬を仕掛けていて。周囲には銃器を構えた獄門会
の者達が、多数潜んでいて。爆破で体勢を崩され気力を削がれ、周囲から呼応した獄門会
の攻撃を受け、集まった郷田組は一網打尽に。
宗佑氏達のクーデターは、郷田組のそれと連動していた。皆殺し迄やるとは思ってなか
ったけど、郷田組が健在な限り夏美さんに手出しは出来ぬ。郷田組の転覆に宗佑氏達は関
ってないけど、知ってはいた。サダさん達は獄門会に下る事で今後の生き残りも図りつつ。
郷田社長や古川さん達郷田組の多数を殲滅し。
古川さんも腹に致命傷を受け、執念で近くの公衆電話に辿り着いたけど、既に虫の息で。
「そこで待っていて。今癒しに行きます!」
郷田組の本部住所は知っている。彼は深傷でそれ程遠くには逃げられてない。夏美さん
の力なら彼らの傷を癒す事も叶う。夏美さんを信じ慕う彼らには、彼女の癒しも効く筈だ。
「ダメだ。獄門会の残党狩りに巻き込まれる。
それに、もう間に合わない。幾ら先生でも、死人の蘇生は出来ないだろう。無念だが郷
田組は終いだ。親父もツヨシも、ゲンもオレも。今更来て先生も危難に巻き込まれる事は
ない。そっちも何か起こるかも知れないが、助けに行けない事を許してくれ。無理せず自
身をたいせつにして、今後の途を歩んで欲しい…」
古川さんは未だ夏美さん側の異変を知らぬ。
『……他の組が、野球選手や芸能界の醜聞に絡んで暴利を貪る様に、夏美先生に食い付く
積りはありません。先生には更にでかくなって貰いたい。関東に全国に世界にその名を轟
かせて欲しい。そうなった時先生の傍にいられれば、気分爽快です』
『……でも夏美先生の伸び代は見通せない……癒しの輪を無限に広げ行く事が願いなんて。
だからどこ迄伸びるか俺達も見通せない。久方ぶりにワクワクした。器の大きさに惚れた。
どこ迄行けるか見てみたい。親父もオレも期待しています』
ヤクザだったけど、義理や絆を大事にして。
小娘の夏美さんに、頭を下げる事も厭わず。
利幅の薄い団体や事業に尽力する事を喜び。
どこか妹や娘を見る様な慈しみを感じさせ。
でも自らの立場を心得て裏方に徹し続けて。
まともな報いのない侭バッシングされ続け。
郷田社長もそうだったけど。人情味豊かで。
夏美さんにも幼い姉妹にも患者にも丁寧で。
ヤマさんもゲンさんもツヨシさんもみんな。
欠点はあったけど憎めない大切な人だった。
「少し待っていて。あなた、強いんでしょう。私が駆けつけるから、今そこに行くから…
…だからもう少しだけ気合で生き延びてっ!」
夏美さんは必死に声を届かせるけど。癒しも想いも最早届かぬ事は彼女にも悟れていた。
夏美さんの声が乱れるのに対し、古川さんの声は平静で。それは全てを受け入れた故の…。
「生命尽きる前に、一言別れを言いたかった。郷田組はみんな、綺麗で優しく強い先生に
惚れていた。坂本先生の下で看護師していた頃から、夏美先生はオレ達の憧れだった。オ
レ達の手の届く筈ない高嶺の花と分っていても、否分るからこそ、オレ達は挙って夏美先
生の下に馳せ参じた。オレ達の様な虫けらの人生でも、何かの役に立てるって、思いたく
て」
その声音はどんどん弱々しくなっていき。
「愉しかったよ。この結末は悔しくもあって、無念は化けて出たい程だが……最期に憧れ
の夏美先生に聞かす言葉には、相応しくない」
最期に古川さんは大きく息を吸い込んで。
「夢を魅せてくれてありがとよ、夏美先生」
宗佑氏達の前で通話はそれを最後に途切れ。
斉藤さん達も流石にその結果を前に粛然と。
彼らも郷田組全員死亡が望みではなかった。
勝ち誇った顔なのはサダさん達ヤクザのみ。
暫くの間茫然自失で立ち尽くす夏美さんに。
触れれば壊れそうな彼女に声を掛けたのは。
「わたしと共に来て、夏美。話したい事があるの。ここにはもう、あなたを求める人はい
ない。あなたがここに留まる理由はないわ」
姉の言う通りだった。帰る処を鎖して奇跡の超聖水を始めた夏美さんは、今や居所も喪
った。ここに彼女が居るべき事情は最早ない。
『……でも行くべき処、為すべき事はまだ』
「もう重荷を背負う必要はない。もう辛い想いを重ねる必要も。バッシング付きの呪われ
た金や団体は、欲する者にくれてやればいい。非難中傷は、団体を乗っ取った者達に任せ
て、夏美は夏美の幸せを探せばいい。下田夏美に戻って、あなたの人生を生きればいいの
…」
春恵さんは自家用車で来ているのと言って。
他の者と話す必要などないと招く姉に妹は。
「行きたい処があるの。行って欲しい処が」
夏美さんが今どこに行こうと望み、何を為そうとしているか、姉なら分らない筈がない。
だからこそ春恵さんは分って敢て問い返さず。
「まず車に乗って。叔父さん、失礼します」
宗佑氏は無言で頷き見送って。夏美さんは、男性多数に抗う腕力を持たぬ以上に、抗う
気力が湧かず。今頃現れた姉の真意も気懸りだけど。今はそれより為さねばならぬ事があ
り、行かねばならぬ処があった。招かれる侭に姉の車に乗り込んで。夏美さんは一年近く
住んだ新居を後にして、最期の夜へと進み始めた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
古川さん達を救う為に、郷田組本部に行ってと頼む助手席の夏美さんと。危ないからダ
メと拒む春恵さんの言い争いは。意外な形でどちらの意志も通らない決着になった。最後
の姉妹喧嘩は、車の路外逸脱で永遠に中断し。
春恵さんが夏美さんを引き取る事は、彼らの予定で。夏美さんが姉の車に乗る展開は分
っていた。サダさんは宗佑氏にも言わず、春恵さんが駐めた車に、主不在の間に細工して。
獄門会もサダさんも禍の芽を摘む積りでいた。
車のブレーキが効かない様にされており。
走り出した車はぶつかる迄減速も出来ず。
田舎道の下り坂カーブから路外に転落し。
「「きゃああぁぁぁっ!」」叫びが響く中。
キキイイイィィィッ! タイヤも悲鳴を。
崖下に落ちた車はひしゃげて動きを止め。
2人はどの位の間気を失っていただろう。
夏美さんは姉の声で漸く意識を取り戻し。
「夏美、早く車を出て。油に火が付くかも」
車ごと路外に落ちたのだと思い返せて漸く。
間近で夏美さんに脱出を促す姉に気付いて。
夏美さんは衝撃を受けたけど、重傷はなく。
春恵さんも重傷はなかったけど、違うのは。
フロントガラスを破った木の枝が、上半身を抑えていた事で。枝は刺さっておらず奇跡
的に掠り傷だけど、彼女は自力で脱出出来ず。夏美さんの方はドアが吹き飛んで、すぐ逃
げられる。だから春恵さんは妹に早く逃げてと。いつも自分の状況に関係なく妹を案じ助
ける。それは夏美さんが幼い頃から識る春恵さんで。
「でも姉さんは……どうするの?」「……」
車の燃料は漏れていた。数分掛らずに引火して車は炎に包まれる。携帯電話の普及した
時代ではなく、近くに公衆電話もない。夜の田舎道を通り掛る車は少なく。街灯もなく路
外に落ちた車に気付いて貰うには、道路上に助けを呼びに行かねばならない。近隣の人家
から連絡出来たとしても、消防車や救急車の到着迄に何時間掛るだろう……手遅れだった。
春恵さんは全て承知の笑みを浮べ。自身が夏美さんに関った為に、獄門会に嵌められた
事も察し。己が夏美さんを殺める策に使われた事も悟り。それでもその双眸は覚悟を宿し。
「あなたは、生きなさい。夏美!」「…?」
春恵さんは渾身の力で、シートベルトを外して躙り寄る夏美さんを突き飛ばし。妹は勢
いでドアの外れた車外へお尻から落ち。斜面なので体が転がって車から離れ。その瞬間に。
車は炎に包まれて。駆け寄ろうとしたけど。
炎と風に夏美さんは身を起こす事も叶わず。
目の前で姉を閉じこめた車が燃え盛っても。
炎を消す事も助ける事も、癒す事も叶わず。
唯1人の家族が燃えて苦しみ死に行く前で。
守られて呆然とその最期を見つめるのみで。
「姉さん……春恵姉さんっ……そんなっ!」
夏美さんは最後、春恵さんの突き飛ばしで。
肌身に触れて、漸く姉の真意を感じ取れた。
『姉さんは……私を案じて結局高浜さんとの結婚を引き延ばした末に断って。婚約破棄の
慰謝料迄払い。それで職場を変える事に迄』
春恵さんはあの訣別から3年余り、夏美さんを常に案じ続けて。夏美さん達の団体が上
り坂だったので、敢て接触は控えてきたけど。望ましくないと思いつつその成功に安堵し
て、心配しつつ目を離せず記事を全て切り抜いて。
春恵さんは夏美さんを一番たいせつに想っており。今日の事態を怖れつつ、最後の助け
船を出すのは自身だと覚悟を固め。だから結婚を諦めた。恋人や夫や子供がいては、妹を
助けられないかも知れないから。この事態を迎えなければ、夏美さんにも知られる事なく、
彼女は訣別した侭独り朽ちて行く積りでいた。何かあった時の備えに、姉は己の人生を捧
げ。
『そんな……そんな。時折思い返す事はあっても私は、姉さんはとっくに結婚して子供も
出来て、一市民の幸せを掴んでいると思い』
それを邪魔しない為に敢て夏美さんからは、連絡を取らなかった。教祖兼代表が忙しか
った事もあるけど、その立場で姉に連絡しては、姉の家族に困惑を与え姉に迷惑が及ぶと
考え。
団体内部にいた者が次々裏切って、バッシングが激化すると。春恵さんは妹を深く案じ。
でも団体の長の責任感で理想を貫くだろうと、姉は察し。宗佑氏と連絡を取って情報を得
て。彼女が叔父に頼るのは複雑な心境だったろう。
宗佑氏は癒しの水の販売停止に焦りを深め。
クーデターを行う気配を察した春恵さんは。
追放された夏美さんを己が引き取る代りに。
転覆を穏便に進め妹に害を加えぬ様に求め。
バッシングに晒された団体等春恵さんには。
呪われた金であり早く妹と隔てたい存在で。
【春恵さんは、夏美さんを連れてどこか離れた町に逃れ。今迄と全て切り離された生活を
始め、妹と小さな幸せをやり直したかった】
夏美さんに叔父の不二姓を名乗らせたのも。
こうなった時に帰るべき場所を、残す為だ。
『夏美は夏美の幸せを探せばいい。下田夏美に戻って、あなたの人生を生きればいいの』
下田夏美に戻って、静かに暮らす芽を残し。
春恵さんの為ではなく全て夏美さんの為に。
「そんな。姉さんは、この3年ずっと私を」
2人きりになってから、2人だけになった未来を語らいたいと。でも夏美さんは古川さ
ん達の窮状を捨て置けず、今迄の事に没頭し。姉の言葉は耳を滑って心に届かず。落ち着
いてからゆっくり順々話そうと、思っていた春恵さんに、最後迄語らう機会は巡らなかっ
た。
それでも尚。その愛が届かなくても。最愛の人の心に響かなくても。姉の愛は揺らがず。
妹を助けに関った為に、春恵さんは夏美さんを殺める獄門会の策に使われたのに。序で
に巻き込まれたのに。瞬時で全て呑み込んで、自身は助からないと悟り。心優しい妹が死
を承知で己に取り縋ると分った姉は。最期夏美さんにのみ生き残る芽があると知り、渾身
で突き飛ばし。妹には生きて欲しいと願い望み。
「そんな……姉さん……姉さああぁぁん!」
彼女の『力』ならかなりの深傷でも、時に致命傷でも、絶命前なら治す事は叶う。でも
春恵さんを閉じこめた木の枝や、歪んだ車体を退ける事は出来ず。炎を防ぎ、消す事も出
来ず。無力だった。彼女は何も出来なかった。
夏美さんは己の理想に生きた為に、姉の願いを踏み躙り。その小さな幸せの芽も摘んで。
一生己に尽くさせた末に最期はこんな結末を。妹は姉の愛に何一つまともに報いてないの
に。
「ああ、ああ、あああああぁぁぁぁぁあ!」
『ただいま』『お疲れさま、お帰りなさい』
『今日はわたしの職場で残業がなかったから、スーパーのタイムセールに巧く間に合え
て』
『ごめんなさい姉さん。今日は私が晩ごはん当番の日なのに』『気にしない気にしない』
親族や友に、恵まれなかった夏美さんには。
姉は親しく近しい、特別にたいせつな人で。
春恵さんにとってもこの世に唯1人の妹は。
己の生涯を捧げて守りたい一番の人だった。
中学生や高校生の夏美さんは、良く布団を繋げ、姉に甘え肌身を合わせて眠った事もあ
り。狭いお風呂に無理を承知で一緒した事も。それも今は帰らぬ遠い過去で二度と叶わな
い。
『姉さんの作るご飯はいつも美味しいわ…』
『貴女は勉強に忙しかったから仕方ないわ。
家事労働はわたしの数少ない得意種目よ』
一日おきに、妹を料理で上回る事を愉しみ。
同時に最上の料理で妹を喜ばす事を愉しみ。
一日おきに、妹の手料理を食べる事を喜び。
同時に妹の手料理の挑戦を退ける事を喜び。
妹との平凡で静かな日々の幸せを噛み締め。
いつ迄もこの日々が変らない事を共に願い。
『【力】を衆目に晒したり、人前で使って見せてはいけないって、何度言っても……。
わたしは殆ど使える【力】がなかったけど、あなたなのよ夏美。【力】を晒し所持を悟
られる事は、禍に繋るって不二家代々の智恵は、あなたの様な【力】の持ち主を戒める為
の』
『何人癒しても、何人助けても、あなたに何の見返りも返ってこない。役に立つ時だけ使
われて、誤解され怖れられ遠ざけられ。最後に傍には誰も残らない。分っているの…?』
『どうしてもその道に進むなら、わたしとの断絶を承知して行きなさい。……元気でね』
断絶する積り等なかった。断絶を口にして引き留め、出来ないなら生涯陰で見守る気で。
夏美さんの現状は、春恵さんの予測の最悪の極み。それでも姉は妹の助けに生命を捧げ…。
《たいせつな人が、いなくなってしまった》
降り出した雨が、夏美さんの身を濡らし冷やし行く。でもその悔恨は炎と共に燃え盛り。
雨の冷たさを凌ぐ程の憤怒の熱がこみ上げて。夜の森に彼女の号泣が響き渡る。真っ黒な
憎悪が夏美さんの理性を侵食して、塗り替える。
感情の限界を越えた彼女は、殆ど扱えなかった関知を発動させて、近い未来を視ていた。
それは夏美さんが鬼になったから視えたのか、視えてしまった為に彼女が鬼になったのか
…。
郷田組の殲滅は暴力団の抗争で片付けられ。
転落事故は捜査もされず運転ミスと扱われ。
マスコミは獄門会の非道に目を瞑り。宗佑氏達は責の全てを夏美さんと春恵さんに被せ。
誰も消え行く者に哀惜を抱かず、今迄の積み重ねを顧みず、躊躇いもなく人を踏み躙り…。
心が黒く燃えて行く。雨を蒸発させる程に熱く焦げる。人の限界を突き抜けて、憤怒が
夏美さんを身も心も変じさせて行く。止められない。何がどうなるのか分らぬ侭に、もう
彼女自身が人を外れ行く激情を止められない。
「絶対に、この恨み憎しみは、忘れない!」
愛深き者は、その深き愛の故に、愛しい者を奪われた絶望も憤怒も、尋常ではなく濃く
深く。彼女に残ったのは、復讐への渇仰のみ。
この夜、不二夏美さんは復讐の鬼となった。