鬼を断つ刃〔甲〕(前)



「……ゆめい、ちゃん……柚明ちゃん……」

 軽く肩を揺さぶられる感触と共に、この名を呼ぶ声が心に届き。同時に己が眠りの園に
いたと気付き。無意識の淵から自分自身を引っ張り上げる。ここは羽様のお屋敷ではない。

 同時にここは学校でもお友達の家の寝床でもなく。横にならず、背凭れに身を預けて眠
り込んだ体勢は。感じ取れる規則的な振動は。経観塚行きの列車に座しているからであっ
て。

「……叔父さん?」「目が覚めた様だね…」

 目の前にいるのは正樹さんだ。彼の新刊の出版祝賀に随伴して、2人で首都圏へ赴いた
帰りなのだから、彼と一緒なのは当然だけど。その端正な顔が心配そうに、曇っているの
は。

「微かに……君の表情に陰りが見えたから」

 悲鳴も叫びも上げてはいなかった筈だけど。

 西日射す経観塚行きの閑散な鈍行列車には。
 車内に迷惑を掛ける他の乗客もいないけど。

 悪夢を見ているのかと彼は心配してくれて。
 この両肩を揺さぶり声掛けて目覚めを促し。

 目覚めた今も尚少し心配そうに覗き込んで。
 賢く心強く優しい、羽藤柚明の愛しい叔父。

 わたしの最愛の、白花ちゃん桂ちゃんの父。

「ご心配頂いて有り難う。そして心配を掛けてごめんなさい……わたしは、大丈夫です」

 目の焦点を合わせて確かに静かに応えると。

 正樹さんは尚未だ少しの不安を残しつつも。
 目覚めて答返した事で取りあえず大丈夫と。

 ほっと一息ついて向いの椅子に座り直して。

「今回の首都圏行きは、最初から最後迄色々あったからね……羽様に帰り着く迄は、僕も
安心しきれなくて。心配のしすぎかも知れないけど、柚明ちゃんは特に危なかったから」

 中身を詳細に語らないのは、生命や操を喪いかけた事を、思い返せばこの心を乱すかと、
案じてくれて。でも、眠りこけた年頃の子を、特段の事情もなく触れて揺さぶり起こすの
は。不審を招きかねないから、為した理由は説明せねばと。優しくて気配り細やかな愛し
い人。

 それは彼が弁明するべきではなく。彼の心配を招いたわたしが謝るべき。己の行いが原
因で彼の行いがある。正樹さんをそうさせたのはこのわたし。幾ら謝っても足りないけど、
彼がわたしに心配を抱く間は、謝り続けねば。

「相談もなしに勝手をした事は、反省しています。申し訳ありませんでした」「いや…」

 謝らせる為に言った訳じゃないし、責める積りもない。正樹さんは逆にやや恐縮気味で。

「経観塚迄は未だ掛るよ。疲れが溜まっているなら、もう少し眠っても良いけど……?」

 そこでわたしは、頃合を報せる様に車内へ赤光を投射してくる窓の外に、視線を向ける。

 外の情景も低い角度で差し込む西日が、深い緑とオレンジに染め尽くし。長閑な田舎風
景だけど、見慣れた帰郷の光景だけど。脳裏には先程夢で視た、打ち付ける雨の像が残り。
篠突く雨に打たれる不二夏美の号泣が響いて。

【たいせつな人が、いなくなってしまった】

 わたしは夢を視ていたと、漸く思い返し。
 それは脈絡のない記憶の断片等ではなく。

 鬼に血を呑まれた事による想いの共有で。
 夏美さんの過去が記憶が、視えて悟れる。

【絶対に、この恨み憎しみは、忘れない!】

 わたしは首都圏の閉鎖されたホテルで深夜、八木さんを殺めようとしていた彼女を妨げ
て、この身を肌を切り裂かれ。致命傷は回避できたけど、己が宿す濃い贄の血を呑まれて
いた。

 人の血とは、形ある肉の一部でありながら、形のない魂の一部でもあり。水分塩分糖分
等の物質的な側面を持つ一方、霊的な『力』も宿す。呑めば鬼に強い『力』や活力を与え
る。

『血は力、想いも力。だから、力とは心…』

 わたしの血が夏美さんの身と心に浸透し。
 その血に伴いわたしの心迄が彼女を巡り。

 彼女の心に残る想いや記憶を視て聞ける。
 彼女の今の生存や戦闘を漠と感じ取れる。

『力』の扱いを知る今のわたしは、拒む事も叶うけど。わたしは鬼の悲痛を知りたく望み。
視えてくる像を前に心を鎖し通せない。己には最早何も出来ぬと分っても。その結末は視
えていても。否、だからこそ。わたしはこの繋りを手繰り寄せ、過去を視ようと試み続け。

 だから微睡めば夢見には彼女の過去が映り。

 夏美さんが何を目指し、何に喜び哀しんで。
 彼女がどの様に鬼になって切られたのかが。

 その悲運が最期が、未熟な己の心を揺らせ。

「そうですね。ではもう少し、眠らせて…」

 鬼の事を正樹さんに話せば不安を招くので。
 嘘は避けつつ敢て語らず柔らかに頷き返し。

 今度は少し意識して眠りの底でも心を整え。
 表情や気配や寝言に動揺が窺い知れぬ様に。

 愛しい叔父にこれ以上不安は与えられない。わたしは所詮安全圏で過去を見つめるだけ
だ。それで大事な人に不安を及ぼす訳には行かぬ。

 本当は肩並べて座りたかったけど。閑散とした車内なので、年頃の女の子を気遣って向
いに座す正樹さんに。肩寄り掛らせたかった彼に。今は安らかな寝姿を見せる様に努めて。

 規則的な車両の揺れは、暖かな西日や静かな車内と相まって、心を眠りに引き込む様で。

 ごとん、ごとん−−
 がたん、ごとん−−

 わたしはシートに深く座り直し、揺れる列車にその動きに、再びこの身と心を任せ…
…。

 ごとん、ごとん−−
 がたん、ごとん−−

 ゆさりと眠気をもよおす揺れに、わたしはゆっくりと瞼を落す。息を整え心を整え…
…。

 ごとん、ごとん−−
 がたん、ごとん−−

 でも目を閉じても黄昏の世界は消えなくて。

 いよいよ目線の高さに迄落ち込んだ夕日は、瞼の裏に走る血の色を透かし、世界を朱
に染め上げて。わたしは己の内へと深く沈み込み。

 わたしは再び夢を見た。
 わたしは赤い夢を見た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「郷田(ごうだ)さんっ、郷田隆正さん…」

 夏美さんの招きに、年輩男性の声が応える。

 そこは首都圏郊外の商店街裏通りに面した。
 6階建て雑居ビルの4階を占める診療所で。

 晴れた日の夕刻なのか、その情景も赤光が。
 窓から室内を照射して、濃く深い影を描き。

 入室した年輩男性を、椅子に座して迎えたのは、更に高齢な白衣の男性だ。彼女の記憶
から年輩男性が65歳、老医師が76歳である事を知る。老医師の脇に立って年輩男性を招き
入れた二十歳の准看護師が、夏美さんだった。

 診察室の暦を見ると日付は13年前の春3月。
 わたしは未だ学校に通う年齢に至ってない。

 彼女は真弓さんより5歳年上だから、わたしとは17歳の隔りがある。当時の夏美さんは
勤め始めて2年程で、長い黒髪を職場の故に後ろに束ね、背が高く豊かな肢体は若々しく。

 胸がわたしより随分大きい。年齢が足りないと言い訳も出来たけど、わたしが二十歳に
至ってもこの大きさに至るだろうか。サクヤさんには及ばないけど、真弓さんより大きい。
首都圏で逢った時も、そう言う視点で見れば、胸もお尻も成熟した女性の見事な造型だっ
た。

「郷田の社長さん、腰の椎間板ですかな?」
「済まねぇ先生。つい興奮して腰に力が…」

 郷田社長は医師の問に答えつつ顔を顰め。
 痛みを堪える様子に夏美さんはつい声を。

「組長、また若い衆を叱りつけたのですか」

 ク田氏は成人男性にしては背丈は低いけど。
 筋肉質のがっちりした体格で顔つきも渋く。

 子供なら怖がって逃げ出す程の無骨な姿に。
 夏美さんは怖がる様子もなく苦言を呈して。

「声を張るのも仕方ない時はあるけど、耳が潰れる程の大音声は、力が入りすぎて体に負
担が掛りますって、何度も言っているのに」

 孫の様な年齢の女性に叱られてもク田氏は。
 怒るどころか困り弱った表情で苦笑いして。

 悪人顔の人はこうして笑うと可愛く映える。
 厳つい容貌と人懐っこさのアンバランスが。

「いやいや、面目ない。若い衆が人前で血気に逸ってしまっての。堅気を怯えさせてはイ
カンと、常々言っておるのにと。声を張り上げた処、逆に儂が周りを驚かせてしまい…」

 しかも力が入りすぎて又腰を痛めてしまい。
 例によって例の如く、老先生と夏美先生の。

「世話になる羽目に、なってしまい申した」

 嗄れた声で自嘲気味に大音声で笑う男性に。
 夏美さんは逆に整った容貌に困惑を浮べて。

「夏美先生は余計です。わたしは准看護師で、診療所のお医者様は坂本先生お1人なの
に」

 もう、と続けて夏美さんは、唯1人の先生に視線を向け。この位で機嫌を損ねる狭量な
人ではないと承知で、看護師が医師と一緒に先生と並び称されるのは、一種の失礼だから。

「先生申し訳ありません」「何、構わんよ」

 頭を下げる夏美さんに、坂本医師は笑みを浮べ。正樹さんの穏やかさに似ている。高齢
の故に手足も細く、背丈は低く顔の皺は深く。微笑むとその容貌が、仏様の様に優しげで
…。

「この小さな診療所が、最後の2年間繁盛したのは、間違いなく君の特殊技能のお陰だ」

 夏美さんは2年前、看護科高校を卒業した春に、坂本俊郎氏の営むこの診療所に就職し。
働きつつ、その特殊技能『癒し』を、職場や患者に話して承諾を得た上で、及ぼしてきた。

 坂本医院は皮膚科、内科、小児科等を扱う小さな診療所で入院病棟はない。外科や整形
外科も診るけど、大手術をする設備等はなく、重篤な患者は近くの大学病院に処置を頼む
…。

 ドラマやマンガの様に、大ケガや重い病の患者を手術台の上でメスで切って、生命を繋
ぐ格好良い行程はなく。腰の痛みや高血圧等、手術すべきではない・手術で治らない慢性
的な病に、経過観察しつつ内服薬を処方したり。湿疹や腫れ物に薬を塗ったり、骨折をギ
プスで固定したり、風邪引きの人に薬を処方したりして。長年地元に親しまれてきた町医
者だ。

「さて、処置しますかな。社長、ここに俯せになって……そう。夏美君、頼む」「はい」

 彼女の癒しはわたしのそれと同様、現代医療と異質なので、まともに病院へ持ち込んで
も使って貰えず理解もされぬ。人を助け励ます仕事に就きたいと、准看護師の資格は取っ
たけど。家の事情で進学を望めず、看護科高校を卒業しただけの夏美さんは。どの医師を
凌ぐ癒しの技能があっても、発揮の途がなく。

 幾つかの病院を面接する内に、坂本医院で。面接した老医師の心臓発作を、癒しの
『力』で助けた事がきっかけで、夏美さんはここに採用されて。現代医療に従事しつつ、
化外の癒しが有効な症状には、職場や患者の了承を得た上で、彼女の癒しを及ぼす事を許
されて。

 医療行為ではなく、マッサージの無償サービスだと。現代医療の診察や処方は老医師が
為す。彼女は看護師としてそれに従事しつつ、少し時間を借りて『おまけ』で癒しを及ぼ
し。でも実際は、現代医療では根治の難しい慢性的な症状の多くが、彼女の癒しで改善さ
れて。

 結果夏美さんが勤めてから診療所は『最近随分良く効く』『効果が即座に出る』等の好
評が口コミで広がって繁盛し。経営状態の好転は、患者のみならず老医師にも癒しが効い
たお陰で。元気になって動作が俊敏になれば、患者を待たせず早く沢山捌けて更に喜ばれ
る。

「行きますよ」「うん……あぁ、気持えぇ」

 触れた肌を介して癒しの力を身の奥へ注ぐ。
 それはわたしの贄の癒しとほぼ同じだった。

 郷田さんは、流し込まれる癒しの『力』に、赤子の肌の柔らかさ、湯上がりの暖かさを
錯覚し、身も心も弛緩して。顰め面だった渋い顔が、だらしない迄に気持良く緩んで綻ん
で。

 贄の癒しを病に使っては拙いと、笑子おばあさんから教わったのは、小学5年生だった。
漸く己の血が宿す『力』を引き出す術を憶え始め、進歩が目に見え始め。己の可能性に興
味津々で、色々試してみたくなった頃だった。初心者には未だ早いとの意味だったのだろ
う。

 病人に贄の癒しを及ぼすと、本人と一緒に病原も賦活させてしまう。風邪や寄生虫の病
にわたしの癒しは使えない。中学生になって『力』の扱いが進歩し、病巣を外し、病の所
為で不都合が起きた箇所にだけ、癒しを集約して注げる様になって。一部の病は対症療法
なら出来る様になったけど。副作用や拒絶反応も徐々に克服していったけど。笑子おばあ
さんの生前は、遂にその先へ進む事が叶わず。

 贄の血を引く役行者は、多くの病人も治し救ったと聞いた。わたしも愛しい人の病を治
したく救いたく、おばあさんの没後はオハシラ様に、『力』の更に高度な扱いを教わり…。

 わたしの途は、彼女と重なり合っていた。


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 この世には様々な種類の病があって、その原因も様々だ。寄生虫や細菌など、生きた病
原が入り込んで生じる病もあれば。ガンや膠原病の様に、体の一部が全体の制御を外れ調
和を壊して、結果害になってしまう病もある。

 年輩者の腰痛は、骨を支える筋肉の衰えが遠因である事も多く。脳卒中は加齢や生活習
慣に伴う血液や血管の劣化が因となる。体の元々の状態を悟り元の状態に戻す様に促せば。
食生活改善や適度な運動と似た所作や効果で。癒しの力を及ぼしても、病の悪化は生じな
い。

 高校生になって、贄の『力』を強く長く安定的に紡げる様になって。オハシラ様に過去
の『力』の紡ぎ手の所作を視せて貰い、オハシラ様自身からも教えを受け。わたしも漸く
己の治癒が効く病もあると悟り始め。効果のある病とそうでない病の見極めを、憶え始め。

【夏美さんの癒しも、わたしの癒しと同じ】

 贄の血ではないけど、彼女も神か鬼の血を引いており。人と交わって長い時を経た為に、
今は血筋も薄まったけど。時折先祖返りして、強い『力』を宿す者を生む事も。羽藤の家
も、お母さんや正樹さんは血が薄かった。でもわたしの血の濃さは、笑子おばあさんを上
回り。桂ちゃん白花ちゃんに至っては、それを凌ぐ。

 傍目に分る程強い『力』を宿す、夏美さんの存在は、本当に世にも稀だけど。この時の
彼女の『力』は、量の面ではわたしの中学1年生位、コツや精度など『質』の面ではわた
しの中学3年生や笑子おばあさんと同じ位で。世間的には百万人に1人と言った処だろう
か。

 夏美さんも人とは隔絶した『力』の所持に。
 思い悩んだ頃や孤独を噛み締めた時を経て。

 世に役立ててこそ己の『力』に意味あると。

 准看護師の資格を取ったのも医療に通じて。
 癒しの『力』を過たず有効に及ぼしたいと。

 もし彼女が『力』を持たぬ生れだったなら。

「ふぅ、極楽極楽」「そろそろ終りですよ」

 15分程夏美さんがク田氏に癒しを及ぼす間。
 老医師は隣の診察室で別の患者を診療する。

 全ての患者に彼女の癒しが要る訳ではない。

 時間の掛る彼女の癒しを求む者を巧く挟め。
 彼女の癒しを使えぬ者には現代医療を用い。

 そこへ少し年上の女性看護師が顔を覗かせ。

【岩崎菜緒さん。夏美さんの3つ年上の先輩看護師……背丈は百六十二センチ。夏美さん
より少し低いけど、成人女性の平均は上回っている。細身でセミロングの黒髪の綺麗な人。
胸の大きさは、真弓さんと同じ位かな…?】

 菜緒さんが少し顔を引き締め気味なのは。
 夏美さんがク田氏を組長と呼ぶ事に関る。
 厳つい顔の年輩男性に抱く微かな怯えで。

「中原さんが来てるの。出られるかしら?」

 夏美さんの脳裏に2人の女の子の顔が映る。

 わたしよりも年上だけど、小学校低学年の。
 愛らしいけど、やや愁いの影を感じる姉妹。

 夏美さんの中でも捨て置けないと認識され。

「大丈夫です。今終る処なので、出れます」

 菜緒さんが、首を引っ込めるのと同時に。

「いや随分良くなった。有り難う」「余り無理しないで下さいね。周囲が心配しますよ」

 起き上がった郷田氏が身繕いをする。夏美さんの癒しはわたしの癒し同様、患部の症状
改善に加え、身も心も賦活するので、動きも積極的になる。でもこの癒しは緊張の弛緩や
気持良さを伴うので、注意力が落ち、迅速な判断や緻密な動きが欠落し易い傾向があって。

 経験は人に備えを意識させる。夏美さんは、郷田氏が俯せになる前にラックに置いた財
布を、去り際に忘れて行かないか注視していて。置き去られた財布を片手に持って、忘れ
た侭待合室に歩み去る彼の背中を、追いかけて…。

「おぉ、これは済まん」「私の処置の後は注意力が落ち易いです。気をつけて下さいね」

 待合室には郷田氏の帰りの迎えに、中年男性1人と若い男性2人が待っていた。特に中
年男性は肩幅広く背も高く筋肉質で、その筋の人と一目で分る。この時間帯待合室は年配
者や子供が多く、彼らの存在は明らかに浮いていた。怯える程の状態にはなってないけど。

【中年男性が古川義則さん42歳。郷田さんが社長を勤める建設会社・郷田組の営業部長で。
同時に郷田さんが組長を務める地元のヤクザ《郷田組》の若頭で、実質のナンバー2…】

 菜緒さんが微かな怯えを拭いきれないのも。
 坂本医師が親しげながら礼を忘れないのも。

 どこかで彼らが牙を剥くかも知れないと…。
 夏美さんには患者を怖れる意識はないけど。

「夏美先生、有り難うございます」「っす」

 古川さんも自らの長を診た人は恩人と、丁寧に頭を下げ。釣られて彼の左右斜め後ろで、
若い男性2人も頭を下げ。夏美さんは先生扱いに困惑しつつ、訂正しきれずに受け容れて。

【右側の黒髪で五分刈りの若い男性が、山辺京介さん通称ヤマさん19歳。左側の茶髪の若
い男性が、安川玄也さん通称ゲンさん二十歳。古川さんの指導の下、建設業の郷田組では
若手社員、ヤクザの郷田組では下っ端構成員…。

 建設業は肉体労働だし、それ以外でも彼らはケガが多くて、町医者とは関りがあって】

「しかし勿体ない。長年地元に慣れ親しんで、美人の看護婦さんがいて。近年は夏美先生
の癒し迄加わって益々繁盛なのに。診療所が閉鎖とは……老先生が高齢とはいえ、惜し
い」

 郷田社長の呟きに、待合室にいた他の患者さんも思わず頷き。終業直前の夕刻でも多数
詰めかけて待つ患者さん達の、信頼の強さが分る。と同時に近々迫る閉鎖に抱く未練迄も。
坂本医師は高齢で、やむを得ないと分るけど。

「……しんりょうじょ、やめちゃうの…?」

 夏美さんが聞き慣れた幼い女の子の声は。
 視線を落すと白衣の裾を掴む小さな手が。

「なつみせんせい、どっか行っちゃうの?」

 声を発した小学1年生位の女の子と、隣に。
 その手を掴む、2つか3つ位年上の女の子。

 この2人も夏美さんと人生を絡め合わせる。

 夏美さんの癒しを求めて坂本医院を訪れた。
 中原真琴さん9歳と妹美琴さん7歳だった。


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「どーも済みません。応え難い事を尋ねて」

 幼い姉妹の後ろから顔を覗かせた恰幅の良い男性が、姉妹の育ての親・徳居典久氏38歳。
中原姉妹の母の弟で、姉妹とは叔父姪の関係である点は、わたしと正樹さんの関係に同じ。
父母を幼い時に喪って祖母の元に引き取られ。その祖母も喪って、今は叔父の家で一緒に
暮らしている点でも、夏美さんやわたしと同じ。

 夏美さんの記憶では、新聞配達店の店主で。10歳の竜太君と8歳の虎二君の兄弟を、2
歳年下の奥さん菊子さんとの間に授かっており。中原姉妹を含め6人家族と。でも、実子
ではない姉妹に対して、徳居家の大人には『お荷物感覚』が微かに窺え。幼い姉妹もそれ
を肌で敏感に感じ取っており。何より幼くして実の親を喪って、引き取ってくれた祖母も
早くに喪った経緯が、心を内に籠もらせる傾向を。

 別に虐待しているとか、疎んじているとか言う訳ではない。今日も姉妹を伴って診療所
を訪れている。実子と同じく愛せないだけで。それを大人が隠し通せないのは、幼子には
ショックだろうけど。己の子を一番大事に想い、他の子に同じ値を見いだせぬという愛も
ある。

 今も看護師の勤務の妨げになると考えて。
 夏美さんの進路を人前で問うのは拙いと。

 美琴さんの問を、封じようとしただけで。

「なつみせんせい、いなくなっちゃうの?」
「美琴、やめなさい。夏美先生が迷惑を…」

 でも幼い姉妹は彼女の行く先が気懸りで。

 言葉に出さずともそれは真琴さんも同じ。
 漸く心開ける人に逢えたのにとの想いが。

「大丈夫。私は、居なくなりはしないから」

 夏美さんは診療所閉鎖後の、身の振り方を。
 応えても幼子の問う真意への答にならぬと。

 屈み込んで、目線の高さを同じくして答を。

「私は看護師の仕事でここに勤めて、真琴さんや美琴さんと知り合ったけど。出逢いのき
っかけも今のお付き合いも、お仕事だけど……今は仕事抜きで、2人を大事に想っている。
真琴さんや美琴さんが、私を想ってくれる気持が分るから。私もあなた達をたいせつに」

 踏み込んだ答だった。出逢いのきっかけは仕事でも、今たいせつに想う気持は仕事抜き
だと。仕事上の関係がなくなっても、繋りが切れる事はないと。幼子が問いたかった真の
問を察し、幼子が欲していた真の答を返して。

 見つめてくる2人の瞳を、交互に見つめ。
 真琴さんの左肩と美琴さんの右肩を抱き。

 郷田社長や古川さんや徳居氏やその他の。
 多くの人の前だけど夏美さんは躊躇わず。

「私はいなくなりはしない……求めてくれる限り、私はあなた達の前に必ず現れる。約束
するわ。望まれる事が、望まれた者に応えて喜ばれる事が、私の願いで生きる意味だから。

 看護師を続けるかどうか、この診療所に居続けられるかどうかは別として、私は私を好
いてくれたあなた達2人を、大好きだから」

「なつみせんせいっ!」「なつみ先生…!」

 願い続けて、答を勝ち取った美琴さんも。
 問いたい想いを、堪えていた真琴さんも。

 歓喜に瞳潤ませて夏美さんに肌身を寄せて。
 夏美さんは幼子の柔らかな感触に目を細め。

 心と心が体温を通じて温め合う様が視える。
 互いの欠乏と渇仰が満たされて行く様子が。

 それは幼子2人が母性を欲し求む以上に。
 夏美さんが悲運な幼子の喜びを叶えたく。

 幼い姉妹を慈しむ夏美さんに、仕事へ戻る様促しに現れた年輩の女性看護師・黒髪ショ
ートの婦長佐伯摩耶さんも、少しの間言葉を挟まず。郷田組長や待合室にいた他の人と状
況を見守って。そこへ脇から発された男声は、

「ワシも夏美先生に診て貰えなくなったら非常に困る。漸く膝の痛みが治り始めたのに」

 元教員で去年定年退職し、年金生活に入った野村純哉さん61歳。身長は百七十センチと
成人男性のほぼ標準で、やせ形に白髪混じりの静かな人物だ。去年から人づてに噂を聞い
て坂本医院を訪れ、夏美さんの癒しを受けて。今は高血圧の薬を貰いに来て会計待ちだけ
ど。

 会計窓口では、その野村さんを呼ぼうとした状態で。濃いブラウンの髪艶やかな医療事
務の香坂亜紀さん21歳が、やはり声を挟むのを控え、待合室の話しの推移を黙して見守り。
診療所の閉鎖は勤める者にこそ重大な事柄だ。

「夏美先生だけでは、病院も癒しもやってはいけぬ。何とか坂本先生に、もう少しの間だ
けでも、診療所を存続して貰えんかのう…」

 彼女の癒しを受ける者は、無意識に夏美さんを先生扱いし。夏美さんが幾ら訂正しても、
彼らは夏美さんの癒しを受けに来ているのだ。坂本医師が唯一の医師と承知で。自身を治
す人を先生扱いしてしまうのは、無理もないか。

「オレも同感だ。夏美先生が医院を引き継いでくれるなら、老先生の代りにオレを診てく
れるなら、オレも安心して仕事に励める…」

 そう補足した男声は、商店街でラーメン屋を営む王健行(おう たけゆき)さん50歳で。
背が低く頭頂部の髪がなく、少し険しい顔立ちの人だ。もうすぐ子供が大学に通い始める
から、一層商売を頑張らなければならないのにと。漸く店を再開できる様になったのにと。

 彼は軽い脳梗塞になった後遺症を、夏美さんの癒しで回復途上にあって。脳梗塞は血管
の破れや血流の淀みが原因で、病原菌ではないので、彼女の癒しは有効だった。でも即座
に全快する訳ではなく、継続的な処置が必要なので。今辞められては切実だと、他の病院
やリハビリで、これ程の効果は見込めないと。

 病院を訪れる者は何かの障りを感じる者だ。夏美さんを頼る者は、彼女でなくば対応で
きぬ、現代医療の及ばぬ障りを抱えた者が多い。中原姉妹も姉の真琴さんが抱える体調不
良は、現代医療では症状の緩和も難しい難病だった。継続的に癒しを注ぐ事が必須で。ど
こかに行ってしまわないでとの願いは、みんな共有で。

「何とか巧くここを存続できませんかのぅ」
「小さな診療所を望んで継ぐ者はおるまい」

 税理士の幣原芳雄さんも、地元紙の記者である高(たか)秋利さんも。願いは抱けど実
現は至難と感じ。繰り言に近いと承知で喋らずには居られず。郷田社長の残念そうな声が、

「誰かが後釜に座ってくれるなら、夏美先生の現状を保ってくれるなら、我々もそれぞれ
に支援は惜しまないのだがの」「同感です」

 大人達の切実な雰囲気を肌身で感じ取り。

 一時的に心安らいでいた幼い姉妹も再び。
 不安を隠せない表情で再度、見上げると。

 夏美さんは、それらの事情を踏まえて尚、

「大丈夫、私に考えがあるから。絶対とは言えないけど、何とかあなた達を受け容れられ
る様に、願いに応えられる様に頑張ってみる。

 未だその中身は明かせないけど、診療所が閉鎖された後でも、ここで私があなた達を受
け容れられる方法・繋り続ける方法を。知恵を絞って探してみるから。きっと良い方策を
考えつけるから。落胆させない結末を、ね」

 その言葉は幼い姉妹のみならず。王さんや野村さんも含めた、待合室の空気を揺るがし。

「……夏美先生?」「「せんせい……?」」

「もう少し待っていて。今、坂本先生にもご相談中なの。診療所の存続が叶えば万々歳だ
けど、もしそれが叶わなかった時は奥の手が。もう少し、時間を頂戴……何とかするか
ら」

 夏美さんは只単に幼子を哀れみ好いて、その場の思いつきで、即興で答えた訳ではない。
彼女の境遇は中原姉妹やわたしとも奇妙に相似していた。父母を早くに喪い叔父に引き取
られる展開も。特にこの幼い2人とは、姉妹である点迄も。離れたくない、関り続けたい、
助けになりたい想いはむしろ彼女の方が強く。

 そして夏美さんは診療所の閉鎖後に向けて、その身の振り方に一つの腹案を抱いてもい
て。近隣住民に慕われ親しまれていた坂本医院の閉鎖に、不安を抱く人は少なくなかった
から。この応対は彼女の想いを更に強く促し。彼女の飛躍と転落、鬼の生へと繋る原点に
なる…。

「さあ、診察と治療を受けましょう。坂本先生が真琴さんを待っているわ。美琴さんは診
察室の前の待合で、叔父さんと待っていて」

 夏美さんの宿命が、動きだそうとしていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ただいま」「お疲れさま、お帰りなさい」

 夏美さんが、一緒に住み始めて6年目になる古いアパートのドアを開けると。既に帰着
していた同居人の労う女声が返る。窓の外は夜の帳も降りており。今日は朝から仕事に励
んだ以上に、その後の相談事も長引いたから。因みにドア脇の表札は『下田』となってい
る。

「今日はわたしの職場で残業がなかったから、スーパーのタイムセールに巧く間に合え
て」

 夏美さんを迎えた少し年上の若い女性は。
 黒髪長く艶やかで夏美さんに似た容貌の。

 飾らない普段着の上にエプロンを着けて。

「ごめんなさい姉さん。今日は私が晩ごはん当番の日なのに」「気にしない気にしない」

 成人女性にしては高めな百六十五センチの身長は、夏美さんより僅かに高く。細身な体
型は、較べると胸がやや控えめで。年は4歳年上だけど、見た目はそれ程離れて見えない。

「手が空いていたから。この位で謝る必要はなくてよ……それより今日は遅かったのね」

 夏美さんの唯一の肉親、姉の下田春恵さん。
 そして夏美さんもこの当時は不二ではなく。

 春恵さんと一緒に暮らす下田姓の夏美さん。
 元々彼女は不二ではなく、下田の家の生れ。

 親族や友に、恵まれなかった夏美さんには。
 姉は親しく近しい、特別にたいせつな人で。

 春恵さんにとってもこの世に唯1人の妹は。
 間違いなく特別にたいせつな愛しい人で…。

「うん。残業もあったけど、それ以上に今日は坂本先生に、病院閉鎖後の相談があって」

 春恵さんは、微かにその表情を硬くして。
 夏美さんは、姉のその硬さの理由を分る。

「……もうすぐお夕飯ができあがるから、一緒に食べた後でお話ししましょう」「ええ」

 アパートの一室は決して広いとは言えず。
 独り暮らしか新婚が住む様な作りだった。

 春恵さんが高校卒業後、OLとして勤め始めた頃に住み付いた部屋で。新人の安月給で、
当時学生の夏美さんを養いつつの生活ならば、これが限界だったのか。2人姉妹は狭い空
間を共有して。お互いの近しさを喜び合って…。

 中学生や高校生だった夏美さんは、良く布団を繋げ、姉に甘え肌身を合わせて眠った事
も。狭いお風呂に無理を承知で一緒した事も。それは必ずしも過去の事ではなく、今も時
折。

 ここ2年は夏美さんも就職して、家計の収支は好転し。春恵さんも漸く恋人と交際を始
められたと、妹の印象は少しの淋しさも交え。やはり恋人との交際には多少でもお金が掛
る。

「姉さんの作るご飯はいつも美味しいわ…」

 夏美さんは満悦と共に多少の溜息を。彼女は料理が上手ではなく。日々交替で作るのは、
春恵さんの負担軽減の為で。不味い訳ではないけど、毎日比べると差は歴然と感じ取れる。
春恵さんは反対に大きくない胸をやや張って。

「貴女は勉強に忙しかったから仕方ないわ。
 家事労働はわたしの数少ない得意種目よ」

 同じ高卒就職でも、夏美さんが准看護師の資格を取ったのに対し。春恵さんは妹を連れ
て叔父からの独立を見通し、料理や掃除洗濯を優先して習い。結果春恵さんは、資格や技
能を掴めず、一般職のOLとなって今に至る。

 一日おきに、妹を料理で上回る事を愉しみ。
 同時に最上の料理で妹を喜ばす事を愉しみ。

 一日おきに、妹の手料理を食べる事を喜び。
 同時に妹の手料理の挑戦を退ける事を喜び。

 妹との平凡で静かな日々の幸せを噛み締め。
 いつ迄もこの日々が変らない事を共に願い。

 効果が見えて分る程に『力』が強い夏美さんに対し。春恵さんは同じ血を引いていても、
『力』は微弱で。人ならざるモノを視聞きする感度も鈍く。わたしのお母さんと同じ位か。
彼女の血の濃さなら鬼に狙われる怖れは低い。

【夏美さんも《力》は強いけど、思ったより血は薄い。春恵さんよりは濃いけど、笑子お
ばあさんと同じ位かな……これなら修練で血の匂いを隠す迄しなくても、青珠を持たなく
ても、神社仏閣で手に入るお守りに、想いを込めて持ち歩けば、鈍い鬼には気取られない。

 彼女の《力》の強さは、素養をその侭活かしたと言うより、低い素養を努力や修練で引
っ張り上げた結果なのね。わたしが血に宿る《力》を努力や修練で紡ぎ出したより、遙か
に強い想いで。《力》を人に役立てたいと】

 夏美さんは、医院を訪れて彼女を頼ってくれる、郷田社長や野村さんや王さんの、願い
に何とか応えたく望み。特に中原姉妹・悲運な真琴さん美琴さんを、他人事に思えなくて。

「医院の閉鎖を何とかしたいって……夏美」

 それは何度か姉妹の間で話題になっていた。

 夏美さんが勤め先を喪失するという以上に。
 夏美さんの願いに春恵さんは難色を示して。

 さっきの微かな硬さはこの展開を察してか。

「出来れば坂本先生の引退を、もう少し先延ばしして欲しかった。先生は高齢だけど私が
癒しを及ぼせば、未だ数年は現役の医者として頑張れる。先生に馴染んだ患者さんも多い
し、私も先生の元でお勤めに励みたかった」

「でも、先生の引退の意志は固かったのね」

 春恵さんの察しに夏美さんはええと頷き。

「坂本先生は、数年前から引退を考えていて。1人息子の史朗さんは、大学病院の助教授
で、診療所を継ぐ見込はなく。先生はお孫さん・俊二さんの大学卒業迄、お金が入り用か
も知れないと、無理して現役を続けていたの…」

 でも俊二さんはこの春に無事大学を卒業し。老医師は最大の懸案が解消し、むしろ老い
た身で無理を続ける事が招く、医療ミスを怖れ。彼女が癒しを及ぼしたこの2年、彼は幾
分元気を取り戻せたけど。気力体力の衰えは進んでいる。彼は患者の為にも今の内に撤退
をと。

「坂本先生の気力体力が落ちて来て、癒しを及ぼしても効果が長く続かないの。先生もそ
れを分っている様で、潮時でしょうって…」

 癒しの『力』は傷を治し疲れを拭う事が叶うけど、老いには効かない。病には幾分でも
効く様になったから、この先の修練次第で老いにも有効になるかも知れないけど。わたし
は遂に笑子おばあさんの生命を救えなかった。日々の賦活や疲労回復は出来ても、老いに
伴う気力体力の低下を復する事は彼女も叶わず。

「先生と一緒に寝起きして、四六時中癒しを注いで健康を保っても好いと、言ったけど」

 夏美! 姉の叱声に、夏美さんは首を竦め。それは姉妹で6年暮らしたアパートを出る
と言う事だ。ケンカ別れではないけど、老医師の健康管理に同居する為に、家を出るとい
うのは。恋した訳でもない男性との同棲とは…。

「断られたわ……先生は奥さんとは死別したけど、若い女性と起居を同じくするのは、他
人の誤解を招くって」「当然よ! 全く…」

 胸を撫で下ろしつつ春恵さんは、結果診療所の閉鎖が避けられぬと悟り。でも夏美さん
が尚腹案を抱えている事を察し。姉は妹が癒しの『力』を、他者に及ぼす事を怖れ嫌って。
それを彼女の望みと悟って尚許す事が出来ず。

 互いに望まぬ断絶が、目前に迫っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……私の癒しを核にした団体を、作ろうと思うの。今月閉鎖する坂本医院の跡地、あの
雑居ビル4階を借りて改装して」「夏美!」

 春恵さんの叱声は、更に厳しくなるけど。

「坂本先生にも後見を、お願いできそうなの。先生は自身がトップにならない形なら、医
療面で支えても良いと。佐伯婦長も岩崎先輩も医療事務の香坂先輩も、先生が残ってくれ
て、今迄の給与が貰えるなら手伝ってくれると」

 夏美さんは、具体的な話しを進めていた。

「あなたがトップになって、責任を全て負うという事なのよ。公の場にあなたの名が出て、
癒しの異能を衆目に晒す事になるのよ…!」

「そうしなければならないの! もう坂本先生に頼る訳に行かない。この2年、先生の処
で色々学んで、人間関係も作ってきた。この先に飛躍する素地を調えた。この先は自ら切
り拓かないと、己の願いは自ら叶えないと」

 春恵さんは夏美さんの強い想いを知る程に強く反対し。姉は妹の願いの実現に反対な訳
だから、どちらかが折れねば決着は付かない。どちらも簡単に折れぬから、両者は夏美さ
んの構想の実現可能性を、問うて答える展開に。

「運営はどうするの? あなたも収入がなければ団体や組織を、維持できない位承知よね。
スタッフに給与を払って、家賃や光熱水料を払って、どこから収入を得る積りなの? 無
償で人を癒すなんて、絵本の様なお話しを」

「寄付を募る。治療の代金ではなく、主旨を理解する人から気持に応じた額の寄付を貰い、
給与や家賃や光熱費に当てるの。私はお金に対してでなく、患者の求めに応じて癒しを及
ぼす。団体は、癒しを受けた人以外からでも任意の金額の寄付を受けて成り立つ。裕福な
人には、やや多めに寄付をお願いもして…」

 病院はケガや病の軽重に関らず、治療費を払える人しか受診出来なかった。貧者は病院
に通えなかった。でも私は違う。私は支払能力を問わず、誰にも無償で癒しを及ぼす。私
には団体運営に必要なお金、スタッフ給与や光熱水料や家賃と、己の生活費程度が残れば。

「寄付は賛同者の財力と想いに応じて。貧しい人は僅かでも。裕福な人は治癒の効果を実
感すれば、次の機会を考えて多めに出すわ」

 夏美さんの想定はやや理想論に近い気が。
 春恵さんが見通しを危ぶむ気持も分った。

「成り立つ筈がない。あなたも看護婦なら分っているでしょ? 病院収入の大部分は患者
が払うお金じゃない。自己負担は3割以下で、残りの大部分は患者が加入する健康保険か
ら後日入金される。医療ではない貴女の癒しは、患者が今迄と同じ額を払っても、健康保
険からの入金はゼロ。収入は3分の1以下に減る。

 しかも善意の寄付なんて。世の中にお金を出したがる人など居ない。誰が好んで任意の
寄付等払う物ですか。一銭も払わない人が続出する。人の善意等当てに出来ない。誰もが
お金を自分に留めたい。成り立つ筈がない」

「健康は、ケガや病気で欠いて始めてその値を実感できる。普段は寄付など勿体ない払わ
ないと思っていても。一旦痛み苦しんでそれが快癒した時には印象が違う。幾ら大金を積
み上げても、健康は自在に手には入らない」

 ケガや病になった時に、いつでも即座に癒しを及ぼす代り、相応の寄付を頂戴と願えば。
お金持ちは私の癒しを活かす為に、頼る為に、自身のもしもに備えてそれなりのお金を払
う。

「資金繰りが苦しいのは最初だけ。私の癒しは現代医療と違って、水や珠に注いで貯めて
複数の人に及ぼせる。快癒した人が口コミで、私の癒しの存在を広めてくれれば。快癒し
た人の百人に1人、気前良い人がいれば。運営は安定する。お金持ははした金よりも健康
が大事なの。健康食品の隆盛がそれを証明済み。多少お金払っても健康や長寿を彼らは願
う」

 医療に携わっている、夏美さんの実感は。
 ある意味で、真実の一面を突いてもいた。

「最初の資金繰りも目処は付いたわ。商店街のみんなから、少しずつでも利息を約束する
事で、特別に初期の出資をお願いしているし。私の理想に賛同する人達も、たくさんいる
の。

 地域新聞の高さんが宣伝を担ってくれるし、税理士の幣原さんが税金関係も見てくれる
と。野村さんも退職金から、王さんも息子さんの学資貯金から、一部を割いて出資してく
れる。郷田組長も内装を無償で請け負ってくれると。みんな協力してくれる……宗佑叔父
さんも」

 最後の一言にやや夏美さんが詰まったのは。

「夏美あなた、あの人に縋り付く積り!?」

 姉の拒絶反応を充分想定できていたからで。
 思わずびくっと首を竦めてしまうけどでも。

「どうしても叶えたいの! あの場所を喪いたくない。私に生きる意味を与えてくれたみ
んなを見捨てたくない。私が切り離されたくない。坂本先生がこれ以上続けられないなら、
私が前に立つしか方法がない。その為になら、色々経緯がある叔父さんだけど、頼んだ
わ」

 両親を喪ってから、春恵さんが就職し夏美さんを連れて独立する迄の間、姉妹を引き取
って育てた叔父の不二宗佑氏は、この時41歳。奥さんの公子さんは39歳、長女さゆりさん
が12歳、次女しのぶさんが8歳の、4人家族で。

 工場社長だけど本業で稼ぐより、その稼ぎを株や先物取引等に投資してボロ儲けを望む
山っ気の塊だった。ハイリターンという事は当然ハイリスクで。投機的な取引で百回儲け
ても、1回の失敗で全て失う。慢性的に赤字や借金返済に追われる不二家は、社長らしい
豪奢な外面の裏で、常に家計が困窮しており。春恵さん夏美さんが彼らの『お荷物』だっ
た。

「あなたも、あの人を分っているでしょう?

 わたし達が受けた仕打ちと言うより、あの人が頷く出資話しの多くが危ういって事を」

 姉妹が置かれた状況は、徳居家に引き取られた真琴さん美琴さんの方が、未だ良かった
かも知れない。少なくとも典久氏は本業で堅実に家族を養っていた。宗佑氏は本業の収益
を投資に注ぎ、生じた損失で家族を困窮させ。次こそは百戦百勝すると投資話しを追い続
け。

 最初から『大学には行かせられない』宣告は兎も角。姉妹は常に工場の手伝いに使われ、
忙しい時は学校も休まされ。逼迫は姉妹も分ったけど、それは彼が投資に傾注するからで。
山っ気を捨てれば生活も経営も安定したのに。

「叔母さんは叔父さんに逆らえず、家計の逼迫をわたし達を引き取った所為にすり替えて。
毎日繰り言を聞かされた。幾ら働いて役に立っても、窮地を凌げば叔父さんは、次の投資
話しに向いてしまう。結果叔父さんを助け支えたわたし達が、家を過ちへ招いていると」

 宗佑氏も、2人分余計に食費が掛る状況を好んでおらず。投資に注ぐべきお金が減ると。
姉妹が働くのが嫌で、楽をしたくて妻を焚き付け、文句を言わせていると思いこみ。家庭
内の不和の源はこの姉妹だと、疎んじる様に。

 辛い日々を逃れる為に、春恵さんは高卒後すぐ就職して独立し。せめて妹には勉強でき
る環境を与えようと、共々に不二の家を離れ。ケンカ別れではないけど、印象は協議離婚
か。夏美さんが、多少窮屈で貧しくとも心安らかな生活を送れたのも、准看護師の資格を
取れたのも、その結果として満たされた今があるのも。不二の家から離れた事と無縁では
ない。

 以降春恵さんは不二家とは音信不通だった。
 敢て連絡を取りたいとも思わなかったから。

 高利な投資や儲けの話しに、膝を乗り出す宗佑氏なら。夏美さんの癒しの『力』も多少
知っている元養父なら。話しを振れば関ってきたかも知れないけど。最も関らせたくない、
関りたくない、関って欲しくない相手だった。姉にも話さずその彼に援助を頼み込むと
は!

 姉の憤りは奇妙に拡散して燃え上がらず。
 妹は後ろ暗い想いを吐き終えて力が抜け。

 正面激突していた議論は一時的に冷めて。
 互いに望まぬ断絶を覚悟した瞬間だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「癒しの『力』を切実に欲している人がいる。
 助けを求めている人が巷には溢れているの。

 私になら何とか出来る。だからやりたい。
 人の不幸を除いて役に立ち喜ばれる事で。

 この異能を、胸を張って世に示したいの。
 その為になら叔父さんとでも手を組むわ」

 分って欲しいと、訴えかける夏美さんに。
 春恵さんは正に、そこを問題視していて。

「『力』を衆目に晒したり、人前で使って見せてはいけないって、何度言っても分ってく
れないのね。おばあさんの教えを、遺言を分った上で、逆らう積りなの? 母さんもね…
…あなたは幼くて、憶えてないでしょうけど。

 人に異能を悟られぬ様に隠し通しなさいと。
 恋人にも夫にも知られぬ様に努めなさいと。

 子供だけにその可能性を伝え残しなさいと。

 本当に助けたい極近しい人以外の為に、一番大事な人の為以外に、使ってはいけないと。

 わたしは殆ど使える『力』がなかったけど、あなたなのよ夏美。『力』を晒し所持を悟
られる事は、禍に繋るって不二家代々の智恵は、あなたの様な『力』の持ち主を戒める為
の」

『力』の存在は秘すべきで。軽々に人に及ぼすべきではない。それは善意悪意を問わずに。
過ぎた『力』を行使する事、所持を衆に知られる事は、平穏な生活や幸せを壊すだけだと。

 春恵さんが夏美さんに抱いた懸念は実は。
 羽様の大人がわたしに抱いた懸念に同じ。

 小学6年の秋、交通事故で顔に深傷を負った従姉の仁美さんを、癒しの『力』で助けよ
うと、出立を願い出たわたしにサクヤさんは、

『贄の【力】を人目に晒す危険についてはどう考えているんだい? それはあんたの大切
な桂と白花の行く末にも関る。成功できても、真弓の懸念を全て乗り越えて仁美を完治さ
せ心救えたとしても、その成功であんたの癒しの【力】が、贄の血筋が世に晒されるん
だ』

 たいせつな人の癒しに成功すれば、正にその故に、為したわたしに人々の興味が集まる。
失敗が問題ではなく、成功こそが問題だった。

『例え善意でも、事実が知れ渡れば違う反応も出る。世の中は必ずしも善意な者ばかりじ
ゃない。鬼の様な人もいるんだ。それこそ本物の鬼が贄の血を狙って来るかも知れない』

 わたしの両親と妹の仇の鬼も、市役所の住民票や警察の被害者情報を盗み見て、羽様迄
わたしを追ってきた。今の世は、誰にどこからどんな情報が入るかは想像も付かない。特
に人を癒す物珍しい『力』は興味の的だろう。見知らぬ記者に、四六時中カメラやマイク
を突きつけられ、付き纏われる様も想像できた。

 その上で彼らは、取材対象を守りはしない。詐欺で逮捕寸前の会社社長が、記者多数に
囲まれた中、暴力団の男に刺し殺される事件が、テレビで生中継されていた。傍に社会正
義を守り戦うという人が揃っていても、誰も会社社長を守ろうとせず、暴力と闘おうとも
せず。

『贄の血筋は知られない事で長く安穏を過せたんだ。少しでも違う者を見つければ、人は
よってたかって来るからね。鬼切部の様に権力で口を封じでもしないと、魔女狩りに遭う。
優しい心は分るけど、仁美を疑う訳じゃなく、その効果を察する者が出るかも知れない
…』

『羽様のみんなの為にも、あんたの可愛い桂や白花の為にも、血の力を晒すのは拙いよ』

 だからわたしは異能の『力』を隠し通し。
『癒しの水伝説』を偽造して信じた振りで。

 愚か者を装って偽の癒しを試みる所作に。
 己の癒しを隠して愛しい人を治したけど。

 その偽造伝説は夏美さんの所作が参考で。
 ずっと前からわたしは彼女と関っていた。

 わたしは一番愛しい双子の育つ場の静謐を守る為に、『力』の所持を今尚伏せて。広く
世の人を救う行いに踏み出さず。それは助け得る人達を見捨てる所作だ。己可愛さに見て
見ぬふりをしていると言われれば、その通り。

 夏美さんは、その現状に黙っておられず。
 その異能を揮って広く人に役立ちたいと。

 為せる者は持てる『力』を行使すべきと。
 それこそ『力』を持って生れた意義だと。

 でも当然人々に『力』の所持を悟られる。
 春恵さんは正にそれを怖れ嫌って反対を。

 妹の行いは今迄辛うじて、姉の承諾範囲に収まっていた。坂本医院で働く傍ら、現代医
療の陰に隠れて無償で癒しを施し。『力』を積極的に誇示したり、大々的に宣伝はしない。
対価を貰って所作の証拠を残す様な事もせず。

 その辺りが姉の了承する限界だった。でも、夏美さんは元々異能を役立てたく望んでい
て。今迄の装いを保てなくなった時に姉の憂いは。妹が装いを捨てたこの様な行為に出る
事で…。

 実際宗佑氏の妻・公子さんは、夏美さんの異能を薄々知って忌み嫌い。家計逼迫の因を
姉妹に転嫁したのも、その前から夏美さんに抱く怯えがあった為で。理不尽だけど、人は
己と異なる物・分らない物に敵意を抱き易い。

「叔母さんだけじゃない。父方親族がわたし達の引き取りを拒んだのは、唯一の母方親戚
である宗佑叔父さんに頼る羽目になったのは。あなたより遙かに微弱な、わたしと変らな
い程度の母さんの勘の鋭さ・異能を知ったから。その血を引くと怖れて、心読まれると怯
えて。

 何人癒しても、何人助けても、あなたに何の見返りも返ってこない。役に立つ時だけ使
われて、誤解され怖れられ遠ざけられ。最後に傍には誰も残らない。分っているの…?」

「分っているわよ。そうやって『力』の所持を隠して、心のどこかを常に鎖して。だから
私は学校でも遂に恋人も友達も出来なかった。『力』の存在を報せてないのに、私には誰
も残ってない。今後生涯そうしても私には誰も残らないわ。むしろ『力』を明かした今の
職場で、私は漸く仲間を得られた。坂本先生や職場のみんなや、癒しを求める患者さん
や」

 夏美さんは、姉の経験を共有して分るから。理解せずに心隔てる人達を見返したく、一
層『力』を役立てたいと。生涯『力』を隠して逼塞し、心鎖し俯いて生きたくないと。癒
しで多くの人を助け、世に役立てると示したく。

 痛み苦しみから救われる理想郷を己が創る。
『力』を世の為人の為に堂々と使える世界を。

『力』持つ者が広く受容される世をこの私が。
 それが強い『力』を持って生れた私の定め。

 そうでなければ、一体何の為にこの『力』は存在するのか。そして一体私は何の為にこ
の『力』を持って、この世に生を受けたのか。疎外感を感じながら生きてきたのは何の故
か。

『力』を広く世間や人々の為に、役立てたい。
『力』を怖れ隔てず、喜び受容して貰いたい。

『力』を持った生れを正解だと噛み締めたい。
『力』の所持を隠さず堂々と名乗り誇りたい。

 一生恋人にも夫にも『力』の所持を伏せて。
 平穏な幸せを望み願う春恵さんの考えとは。

 根源的な生き方の相違で妥協は無理だった。
 分らないのではなく互いの主張が分るから。

「どうしても考えを変えないの?」「ええ」

 春恵さんは夏美さんの前で正座して頭を。
 絨毯に擦りつけて妹に願う姿勢を見せて。
 夏美さんは瞬間だけ肌身を震わせたけど。

「わたしがこれ程お願いしても?」「ええ」

 姉も妹の意志が変らない事は視えていた。
 むしろ彼女は尽くせる事を為したと言う。
 己自身への弁解の為にそれを為したのか。

「なら……わたしに成人したあなたを縛り付けて留める事は出来ないわ。好きになさい」

 姉の心が冷えて行く様は夏美さんも分った。
 真摯な願いに拒絶を返せば無理もないけど。
 拒絶への対処が拒絶になるのも当然なのか。

「その代り下田の姓は使わないで。母さんの言いつけに背き、『力』の所持を衆目に晒す
あなたに下田を名乗る資格はない。わたしより宗佑叔父さんを頼った以上、不二夏美にな
ればいい。世間から好奇の視線を受けるあなたの余波に、わたし達は巻き込まれたくない。

 あなたの引き起こす諸々に、同じ姓を持つからと一々視線を向けられるのは御免被るわ。
わたしは今後あなたの姉を名乗らない。あなたも今後はわたしの妹を名乗らないで頂戴」

 姉の返した答は、流石に妹にも想定外で。
 夏美さんは動揺を隠しきれず声が上擦り。

「姉さん……それは、姉妹の縁を切るってこと? このアパートを出て行けと言うの?」

「このアパートの処分はあなたに任せます。

 わたしが出て行くわ……本当はもう少し先、坂本医院が閉鎖され、あなたが別の病院に
勤めて落ち着いてから話そうと思っていたけど。職場の高浜先輩に、婚約を申し込まれた
の」

 驚きに目を丸くする夏美さんの前で、春恵さんは懐から貰った婚約指輪を、出して見せ。

「ゆくゆくはあなたにここを譲ろうと思っていた」「姉さん、そんな話し急にされても」

 話しの最初はいつも急なもの、とはあなたの言葉でしょう、夏美。春恵さんは苦く笑み。

「あなたが本心からそうしたいと望むのなら、それがあなたの幸せを掴む途だと信じるな
ら、あなたはそうなさい。わたしはもう止めない。その代り、あなたもわたしの幸せを掴
む途を阻むのは止めて。妖しい癒しの『力』を使う女の姉だとの噂が、彼の親族に聞えた
ら…」

 春恵さんがそれに反対してしても、夏美さんの所作が悪い事ではないにしても。風聞を
憚って、結婚が潰える事は容易に想像できた。春恵さんの望み願う平穏な幸せの危機だっ
た。

「どうしてもその道に進むなら、わたしとの断絶を承知して行きなさい。わたしは今後も
母さんの教えを胸に、生涯『力』の所持を隠して生きて行く。わたしは目に視えて分る程、
強く確かな『力』は持てなかったけど、この生き方を曲げる積りはないわ……元気でね」

 結局この後も、姉妹はお互いにその意志を曲げる事はなく。週末に春恵さんは、僅かな
身の回りの品だけ持ち出してアパートを去り。下田の表札が取れた跡には、その少し後の
夏美さんの退去迄、新たな表札は掛らなかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「皆様、本日は宗教団体『奇跡の超聖水』発足にご参集頂き、誠に有り難うございます」

 首都圏郊外の商店街裏通りに面した6階建て雑居ビルの4階。少し前迄坂本医院だった
場で百人近い人達を前に。二十歳で代表兼教祖となった夏美さんは、やや緊張した声音で。

 節税の為に宗教法人化を考えたのは、税理士の幣原芳雄さんだった。54歳の白髪ふさふ
さな長身の人で、商店街でみんなに節税を指南しており。夏美さんの癒しで高脂血症を改
善しつつ、金銭面ではスリムな運営を心掛け。『奇跡の超聖水』の名称は、宗佑氏の案に
従った。宗佑氏は郷田組長と並ぶ2大出資者で、不二を名乗った夏美さんにも重要な人だ
った。

 宗佑氏も負けては勝って又負けての繰り返しに、首が回らなくなり始めていて。夏美さ
んの提案に乗り。顧問筆頭として多くの人達を前に座する事は、彼の見栄を充分に満たし。
奥さんの公子さんは、本当は夏美さんに関りたくなかったけど、夫に引きずられて参列し。

「いや、晴れの舞台に参加できて重畳重畳」

 2人に並んで座しているのが、印刷業を営む桜井建(たける)氏52歳。坂本医院に薬袋
等の印刷物を納入していた関係で、今は夏美さんと関りを持ち。夏美さんに出資したのは、
癒しの力より、商売上の可能性を見た為かも。恰幅の良い体格に頭頂部が輝く威勢良い人
だ。

 古川さんは郷田社長の指示で、この発足式典の進行裏方を任されており。旧坂本医院の
佐伯摩耶婦長、岩崎菜緒さん、医療事務の香坂亜紀さんは、坂本医師と共にスタッフ側に。

 有力な出資者が椅子に座す一方、野村純哉さんや王健行さん達は、椅子が足りず床に座
っての参加となった。夏美さんとの繋りを残せたと喜ぶ中原姉妹、真琴さんと美琴さんも。
そしてその様子を地元紙『地域新聞』の記者である高秋利さんが、好意的に取材して報じ。

「なつみせんせいーっ!」「なつみ先生…」

 子供が無心に信を寄せる絵図は、好意的な報道を狙う者には絶好のチャンスだ。それも
作為ではなく、本当に夏美さんを慕って肌身寄せるのだから、やらせ疑惑も出ようがない。
成否の分らぬ新宗教団体への深入りを渋る社長を説得し、踏み込んだのは正解と彼も喜び。

 春恵さんと訣別した後、夏美さんは積極的に坂本医院に通う患者や取引業者、商店街に
声を掛け、協力や出資をお願いし。夏美さんのお陰で症状が改善した人や快癒した人達は、
好意的な印象を伝えつつその輪を拡大させて。

 3月末の医院閉鎖後、すぐにとは行かなかったけど。6月中旬の日、夏美さんを代表で
教祖とする宗教団体『奇跡の超聖水』を発足出来た。宗教団体は装いで、宗佑氏が仏教や
神道からそれらしい文言を引いて来て、教義を纏めていたけど、当の夏美さんは関心薄く。
只、病院ではなくなった為、心の悩み、精神病や心霊の相談にも、今迄より比重を置ける。

『姉さんとは、あれっきりになったけど…』

 春恵さんが去ってから、姉妹は互いに音信取らず。夏美さんも翌月アパートを退去した。
姉との想い出の部屋は今や姉との断絶の場だ。今は塞ぎ込むべき時ではない。医院の閉鎖
後、老医師は息子の家に移り住み、使っていた居住区画が空いた。夏美さんはそこの賃借
人だ。

 夏美さんの今の住所は、奇跡の超聖水本部。
 寝ても覚めてもここで暮らし、生きて行く。

 元のアパートには戻れない。戻りたくても。
 もう新しい住人が入居したと聞いた以上に。

『戻れないなら、前に進むしかない。姉さんを振り切って進み始めたこの途を、簡単に投
げ出しては、それこそ何も浮ばれなくなる』

「出張や旅行等で数日程度、ここに来られない人にも、癒しを及ぼす方法を考えました…。

 癒しの『力』を、水に宿らせた小瓶です。
 水は今の処煮沸した水道水を使いますが。

 将来的には純水や伏流水等良い水を選び。
 もっと長く強く効果を持たせる積りです。

 これを肌身に付けて持ち歩けば、わたしが触れて癒しを及ぼす効果の、半分程の効用を
見込めます。但し、水も器もラベルもタダではありません。これを望む人には必要経費分
の負担をお願いします。将来的に寄付が増えて運営が安定した際には、無償に切り替える
考えでいますが、今暫くはご了承下さい…」

 水に癒しの『力』を注ぐ技は、難しい所作ではない。水は様々な色に染まり、種々の物
を伝播させる。問題はその持続が難しい事で。様々な色に染まり易く、種々の物を受容し
伝えてしまうから、癒しの『力』を注いでも拡散し、次の何かを取り込んで。持続が難し
い。

 神への供え物には、水や酒等の液体も多く使われるのに、呪物には珠や人形などの固体
が主流なのは。液体特有の性質があるからで。常に『力』を注ぎ続けねばならず。すぐ掻
き乱されて無効化され、束ね続ける事が難しい。

 夏美さんは水をガラスの小瓶に入れ、瓶に封じの『力』を及ぼす事で、癒しを長く保つ
術を開発し。夏美さんの『力』はわたし程に強くないけど。不完全な封じの故に、水が宿
す癒しは少しずつ漏れて、数日は効果を保つ。完全に封じてしまうと癒しは外に漏れ出な
い。これは発想の逆転で、わたしも勉強になった。

「ほうぅ」「これは凄い」「考えましたな」

 試供品として幾つか水の入った小瓶を渡し。
 感触を確かめて貰うと会場はどよめき始め。

『仕事に出た姉さんに、離れていても癒しを及ぼしたくて、努力した成果よ……元々私が
癒しの【力】をここ迄紡ぎ上げたのも、叔父さんの工場手伝いに、疲れ果てた姉さんを癒
したくて。切り傷や打撲に、湿布も塗り薬も貰えない中で、何とかしたく願い続けて想い
続けて。姉さんは、4つ年下の私を庇っていつも、私の分迄多くお仕事してくれたから』

 思い返すと淋しさと懐かしさで滲む涙を。
 祝賀の場で涙は不吉だからと必死に抑え。

『進む道が訣れてしまった事は残念だけど。
 今の私があるのは春恵姉さんのお陰です』

 今夏美さんが姉に出来る事は断絶だけだ。
 絶たれる事で姉の平穏な幸せが叶うなら。

 引き返せない今の私は潔く縁を絶たれる。
 苦味を噛み締めて進み続ける彼女の前に。

「おうおうおう!」「どけどけ、コラァァ」

 複数の男の罵声が祝賀の空気を引き裂いた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 今入ってきたとの感じの若い男性2人は。
 見るからにちんぴらという風体と服装で。

 声を大きく張り上げてバットを振り回し。
 女子供でなくても怖れ怯える状況だった。

「ここで勝手に商売やって良いなんて、誰が言った」「誰の許しを許しもらってんだぁ」

 参集した人達は、夏美さんの癒しを求める人達で、病人けが人老人が多く。そうでなく
てもバット持ちのキレた若者に、まともに立ち向かうのは相当の勇気が要る。罵声とバッ
トに追い立てられて、甲高い悲鳴が響き渡り。

「何なんだね、君は」「危ない、野村さん」

 教員意識で前に出て誰何した野村さんだけど。王さんがその身を引っ張ったので、彼に
向けて薙ぎ払われたバットは、空振って済み。若者は空振りに激昂して、2人を蹴り飛ば
し。

「あなた達は、一体ここに、何の用ですか」

 夏美さんは『力』は持っても、鍛錬等は特になく。癒しの『力』で直に触れた人を痺れ
させる位は出来るけど、只の素人だ。わたしが対峙するのとは、必要な勇気の度合が違う。

 それでも幼い姉妹に縋り付かれた以上。団体の長の立場に就いた以上。逃げる訳にも竦
む訳にも行かず。想定外の事態を前に、夏美さんは良く平静さを保てている。若者2人は、

「ねーちゃん、可愛いなぁ」「ここのボスはねーちゃんかよ。ぼいんのねーちゃんかよ」

 後で夏美さんも知るけれど、この2人は地元ヤクザ『獄門会』の下っ端で。彼らは郷田
組と隣接、又は重複して縄張りを持っており。

 まず嫌がらせ要員を送って存在を認知させ。
 逆らったら酷い目に遭うと怯えを刻み込み。

 困り果てた辺りで和解してやると助け船を。
 一度繋れば末永く用心棒となって骨絡みに。

『郷田組も獄門会も、全国組織の傘下の傘下のその又傘下。この町近辺で小さなシマを守
って汲々としている、ちんけなヤクザです』

 後日古川さんは、郷田組長に聞かれぬ処で。
 己が属する組織も含めて冷静にそう分析し。

『獄門会にも坂本医院から奇跡の超聖水への看板掛け替えは伝わっています。坂本医院の
頃は郷田組との関りを前に、手出しを控えていたが。事情を知らぬ下っ端の名義で、様子
伺い又は偵察に来たのでしょう。ウチの関与が薄まっていれば、己の縄張りに組み入れて
金蔓にしようとの下心で。油断も隙もない』

 若者達にとって、若く綺麗で強そうでもない夏美さんは、脅して泣かせるのに丁度良く。
武道の達人や筋肉隆々な大男の少ない状況は、やりたい放題に見えて。悲鳴を上げて逃げ
散る人々を追い立てるのは、一種爽快でもある。

「ここはケガや病気で癒しを必要とする人が集う場です。暴力で人を踏み躙る者に用はあ
りません。帰って下さい」「なんだとぉ!」

 女のクセに生意気な。2人は初めてまともに反駁してきた夏美さんに、出て行けと指示
をしてきた夏美さんに、反感を抱き。逆に部屋の中央迄踏み込んで来て、大声で嘲笑って。

「なつみせんせー、こわい」「なつみ先生」

 真琴さんと美琴さんが、背にぴったりくっついている以上に。今は長である夏美さんが、
尻尾を巻いて逃げる訳にはいかない。でも彼女も警察を呼ぶ事を失念し、間近な暴力の脅
威に、至近な狂気の恐怖に、心臓を掴まれて。

 男性2人は彼女が何も出来まいと見下して。
 嫌がらせやりたい放題で嬲ってやろうかと。

 夏美さんの肩に触れようとした瞬間だった。

「誰の許可が要るんじゃボケぇ」「てめえらこそ一体何様の積りで、物言っていやがる」

 若者2人を夏美さんの左右から、出口方向に蹴り飛ばす足があって。威勢の良い啖呵が。

「ゲン(安川玄也)さん、ヤマ(山辺京介)さん……」「夏美先生、ここは任せてくれ」

 茶髪で長身なゲンさんが夏美さんに向けてそう言って、2人は彼女を守る様に一歩前へ。
2人とも郷田組のシマを勝手に侵され、祝賀の雰囲気を壊されて、かんかんに怒っている。

 特に彼らには、自分達と同年代なのに郷田組長や古川さんが頭を下げる『夏美先生』は、
奇跡の手を持つ憧れの美人で。他の組の下っ端の、汚い手で触れて良い様な存在ではなく。

 古いタイプのヤクザである郷田組は、堅気の人の公式な場で乱暴狼藉する彼らを許せず。
祝賀の席だからと敢て裏方に徹していたけど。たいせつな身内の危難ならば黙っておられ
ず。

「おらあぁ、頭が高い!」「シメてやるぜ」

 蹴り倒されてバットを取り落した獄門会のちんぴらは。身を起こした時には既に、ヤマ
さんとゲンさんに殴り掛られていて。でも他に術がないとはいえ、ヤクザの難癖に暴力で
抗うのは。祝賀の雰囲気を更に壊し行くのも確かで。逃げ惑う必要がなくなった人々はそ
の故に、祝賀とは程遠い情景に戸惑いを抱き。終りの見えぬ泥沼に落し込んで、人を引き
離すのも、ヤクザの必勝嫌がらせ戦略の一つだ。

 優勢だけど、優勢なだけに何とか主導権を掴んで、状況の収拾を考えなければ。でも夏
美さんは、鬼でも鬼切部でもヤクザでもなく、殴り合いの収拾は未経験で。何とかせねば
ならないけど、どうして良いか分らない。そんな困惑を助け支え、局面を一変させたのは
…。

「鎮まらんかっ! この馬鹿者共があぁ!」

 部屋にいた全員の耳を潰す程の大音声が。
 若者2人も含めた全ての動きを停止させ。

 郷田社長の腹の底からの怒鳴り声だった。

『凄いとは聞いていたけど……彼も歴戦の古強者で、いつもはニコニコ微笑んでいるけど。
組長である以上、そう言う一面もあるのね』

 鼻血を流して殴り合っていた若者4人が。
 敵味方を越え、身震いして動きを止めて。

 そこにササッと現れたのは、古川さんだ。

「ヤマ、ゲン。もう良い、少し離れて休め」

 憤怒と殴り合いに興奮し、それが瞬時に凍結して。次の動きを見失った感じの若手2人
を下がらせて。筋肉隆々の彼は、獄門会のちんぴら2人に静かに語りかけ。相手も簡単に
話しを聞ける様な、冷静な状態ではないけど。

「ちょっと冷静に話そうぜ。殴り合ったって、お互い殴った拳も痛いもんだ。オレはお宅
の親分や若頭とも顔見知りだし。近所で潰し合ったって大して旨味はないぞ……話せば分
るって、昔の偉い人も遺言に言っていただろ」

 古川さんは2人の肩に手を掛けて、話しかける様な仕草で、その侭腕を一本ずつ両腕で
逆さに捻り。話し合う積りなど全くないけど。この場で延々と殴り合いを続ける積りもな
く。

 痛みに想わず顔を歪め、呻き声を上げる若者を。力の入らず、反撃も出来ない体勢にさ
れた2人を、その侭出口に向けて押していき。古川さんは確かに良い体格だけど。それ以
上に相手の状態を操って動かす技の巧さが光る。

「ここで騒いだら堅気の皆さんに迷惑になるんでな。ちょっと外で話そうぜ、良い子だ」

 その侭彼は若者達と出口の外へ消えて行き。

 格が違った。ちんぴら2人に、夏美さんは逃げずに立ちはだかるのが精一杯で。他の人
達は対処の術もなく逃げ惑い、或いは傍観するだけで。ゲンさんとヤマさんは勇敢に抗っ
て戦ったけど。正面から殴り合う他に夏美さんを守り庇う術がなく。古川さんは、そんな
相手を騒ぎにもせず、静かに操って退去させ。その技量は青島健吾さんや大野教諭に近し
い。

 嵐が去った後の虚脱感に包まれた室内では。

「申し訳ありませんの。ウチの若い衆は気だては悪くないが血気に逸る。公式な場では堅
気の人々を怯えさせぬ様に、大人しく身を律しておれと、言い聞かせておったのだが…」

 あの大音声が嘘の様な、郷田社長の沈痛な語りに、皆の視線は引き寄せられて。ヤマさ
んとゲンさんは部屋の隅っこで、悪い事をした子供が、叱られる時を待つ様な体勢で座し。

「あの乱暴狼藉には黙っておれなかった様で。
 大事な祝賀の場を血で汚して、申し訳ない。

 夏美先生が無事で済んだ事は不幸中の幸い。
 この上は我らもここを中座させて頂くかの。

 結局我らもケンカに参加した以上は両成敗。
 怖い思いをさせて、本当に済まなかった」

 郷田組長は立ち上がって、深々と頭を下げてから夏美さんの後ろを通り、部屋の隅で座
すヤマさんとゲンさんの元へ往く。2人を促してこの場を退席する。そう見えた時だった。

「お待ち下さい。郷田組長」「夏美先生?」

 夏美さんは郷田組長とヤマさんゲンさんの元に歩み寄り。座り込んだ2人に屈み込んで。
視線の高さを合わせてから、郷田氏を見上げ。

「私は暴力は嫌いです。暴力を揮う人も嫌いです。黙っていても望まなくても、日々の仕
事や生活で、病や怪我は巡るのに。わざわざ人に痛い思いを強いて、己も痛む事がある」

 ここは人を痛み苦しみから救う場所です。
 疲れを癒し病を治し、人の心も救う場所。

 暴力を望む者や揮う者は居る資格はない。

「でも、私は郷田組の皆さんは、ここにいるべき人達だと思います。是非居て欲しい人達
だと。あなた達のさっきの行いは、暴力ではなく、守りだったから。暴力から私やみんな
を助ける為限定の、腕力の行使だったから」

 己の欲や感情の発散の為に他者を虐げるのではなく。誰かの為に役立つ力の行使だから。

 その想いに、場のみんなもそうだと頷き。
 夏美さんはばらけかけた人の想いを繋ぎ。

「ヤマさんもゲンさんも、私やみんなを守る為に拳を痛めました。頬も腹も殴られ、鼻血
迄流して。私は勇気を持って守り戦ってくれた人を、乱入し暴力を揮った者達と、同じく
見なす事は出来ません。あなた達は間違いなく私の、奇跡の超聖水の仲間です。だからこ
こに留まって、私の癒しを受けて欲しい…」

 ここは正に人に癒しを及ぼす場所ですから。
 あなた達こそが私の最初の患者に相応しい。

 外見や言葉遣いよりその行いを確かに視て。
 夏美さんは柔らかな手を彼らの頬に当てて。

「そして王さん、野村さん、高さん。順番に並んでお待ち下さい。さっきの混乱で皆さん
も押し合いへし合いになったでしょう。捻ったり打撲したり、疲れたり怯えたりしている
と思います。式典より私は実践を重んじたい。

 早速癒しの実践を始めましょう、今から」

 危難は時に心を鍛え結束を強める事もある。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 獄門会は以後全く関って来ず。夏美さんの団体は順調な滑り出しを見せ。古川さんが裏
で彼らと話しを付けたらしい。坂本医院の継承者である夏美さんは、郷田組の縄張りだと。

 この街にはヤクザ組織が複数あって、どこかの組の庇護を受けなくば、出店や開業は困
難を極めるらしい。勿論庇護はタダで受けられぬ。見返りに相応の金銭や便宜を与えねば
ならぬのは、やや良心的な郷田組でも同じで。夏美さんが与えられる便宜は無償の癒しだ
と。

 みかじめ料とか求めないのかと、夏美さんから古川さんに尋ねた事があるけど。彼はか
ぶりを振って不要だと。神社や教会からショバ代を徴収する様な不敬はしないと苦笑いを。

「本業は建設業なんで、そっちの方で役立てる事があれば、相応の対価で請け負って儲け
は頂きます。が、それ以上に他の組が、野球選手や芸能界の醜聞に絡んで暴利を貪る様に、
夏美先生に食い付く積りはありません。先生には更にでかくなって貰いたい。関東に全国
に世界にその名を轟かせて欲しい。そうなった時先生の傍にいられれば、気分爽快です」

 そんな事で良いのかと目を丸くしていると。

「本業で儲かっていますから。親父(郷田組長)も夏美先生を貪ろうとは考えてません」

 そこで古川さんは渋い表情で遠くを見つめ。

「人間、大人になって業界に長くいれば、自分の力量や立ち位置が何となく視えてきます。
己が只の凡人で、己の属する組織も盆百の集団で、大海の一滴に過ぎないと分って来ます。
ヤクザの世界も既に、上下左右が雁字搦めに決まっている。好き放題には生きられないし、
好き放題に生きられる技量も己にはないと…。

 でも夏美先生の伸び代は見通せない。新興宗教の教祖なら何人か見たが、先生の本職も
望みもそこじゃない。癒しの輪を無限に広げ行く事が願いなんて。だからどこ迄伸びるか
俺達も見通せない。久方ぶりにワクワクした。器の大きさに惚れ込んだ。どこ迄行けるの
か見てみたい。親父もオレも期待しています」

 夏美さんも『力』を扱えて、ある程度言葉の真偽を見定められる。気易く心を許しては
いけないけど、猜疑で心隔てるだけが正解ではないのかも知れない。郷田組に関しては…。

「この記事は、これで問題ないのですか?」

 式典の最中に獄門会のちんぴらが乱入して、郷田組の若い衆が撃退した経緯を丸ごと省
き。夏美さんの挨拶や来賓祝辞の後は、その場で即日癒しを実践し始めたとの、地域新聞
の特集記事に。夏美さんは訪れた高記者に問うて。流石にこれは、事実と異なるのではな
いかと。

「別に、嘘を書いている訳じゃないからね」

『獄門会の連中が来てない』『乱入者なし』と書けば嘘になる。でも書かなければ。限ら
れた紙面には、起きた事を全て書けはしない。全てをだらだら書き綴っても読まれはしな
い。要約や主旨を強調し、重要でないと見なした事柄を省略して、記事にするのは当たり
前だ。そしてどの様に記事を書くかは記者次第だと。

『獄門会の連中が暴れた』事柄は、『奇跡の超聖水』発足式典における重要事ではないと。
確かに死者も大ケガの人も出てないし、諍いを引きずる展開にも、今の処なってないけど。

 高さんは黒い顎髭を撫でつつウインクを。

「獄門会のちんぴらに、凛々しく応対した夏美先生の姿も、伝えたかったんだけど。それ
を書くと獄門会の乱入も触れない訳に行かず、祝賀の記事に相応しくなくなるし。郷田組
の若い衆が奴らを撃退した事も、伏せるべきだ。

 会員は、彼らがみんなを守ってくれたと分っているけど。その場に居なかった読者には、
美談を読み取れない者もいる。ヤクザ同士の抗争と取られては、郷田組にも夏美先生にも
迷惑になるから。そこは割愛させて貰った」

 事実を省いただけで、否定してなければ嘘にはならない。好意的な記事と批判記事のど
ちらになるかは、記者の匙加減一つで決まる。それはそれで問題がある様な気もするけど
…。

 高さんの記事の好評の故か。会員の口コミが効いたのか。坂本医院跡で始った奇跡の超
聖水『癒しの場』は連日盛況で。初めて訪れる人々には、病院の様で病院と異なる、軽食
喫茶も可能な休憩所は、掴み所のない印象も抱かせる様だけど。暫くすると馴れてきて…。

「野崎さん……野崎美羽さん……」「はい」

 坂本医院は衣替えしたけど、纏う白衣は変らない岩崎菜緒さんの呼び出しに、やや太め
な体格の年輩女性が入って来て、頭を下げる。坂本医院の頃は老医師が座していた椅子に
は、看護師の白衣を纏った夏美さんが座して迎え。

 坂本医師は、隣の休憩室で悠々自適な時間を過ごし。医療の処置が不可欠な緊急時のみ
登場頂くけど、それ以外では居て貰う事がお仕事で。真琴さんや美琴さんと時を潰したり。
来訪者の癒しは原則夏美さんが全て処置する。

「ダイエットが辛くて諦めたんだけど、そうしたら前はなかった吹き出物が、顔や手に」

 夏美さんの処置は、医療行為を名乗れないので。人生相談を名目に、励ましの一環で両
手で両手を握ったり、肩を軽く抑えたり、気分を変えましょうと体操を促したりする中で。
触れて癒しの『力』を及ぼして、改善を促す。

 待合室は有料で軽食や飲物を提供し、寛いだ時を過ごせる休憩所に姿を変え。診療を受
けた後も即帰る必要はなく、朝7時から夜9時迄居続けられる。夏美さんの存在感が強く
影響する癒しの場は、居るだけで若干癒しの『力』が及び。用意された『癒しの水』を服
用したり身につければ、更なる改善も望める。

『ここを訪れている時点で、既にみなさんには癒しが及んでいます。直接触れなくても』

 勤務先としてではなく、四六時中起居する事で、この場に夏美さんの『力』を浸透させ。
神の住まう場が聖地となる様に。ここは夏美さんの存在で、癒しの『力』を宿した聖地に。

 その上で救いを求む人に直に逢って、彼女は強く『力』を及ぼし。逢えた事・直接語ら
い触れ合う事で、相手の受容がより強く引き出され。気のせいかも知れないけど、不二夏
美に逢って診て貰えたという事が効果を持ち。

「吹き出物が引いた。先生、ありがとう!」

「一度引くと、再び吹き出物が出る迄来ない。脂っこい物や辛い物を、大量に食べる生活
習慣も直ってない。これは体があなたに発している警告です。せめて定期的に通って癒し
を受けて。そうでないと治る物も治らないわ」

 無理なダイエットの反動で食べ過ぎ。そして太って落ち込んで再び無理なダイエットに。
そのサイクルを何とかせねば、根本的な改善にはならないと。体質改善には癒しの『力』
のみならず、本人の生活習慣の改善も必要で。この辺は医療の分野と少し重なっているか
も。

「城野さん……城野雪花さん……」「はい」

 診療所でなくなった事で、訪れる人の構成も微妙に変化が生じている。坂本医院の頃に
知り合い、医院を引き継ぐ感じで始めた故の、高血圧や腰痛などの病に悩む患者達に加え
て。

「昨夜も金縛りに遭ったの……しっかり供養も済ませた筈なのに、義母の幽霊が枕元に」

 宗教団体を名乗った効果か、心霊の相談も寄せられて。彼女の『力』もわたしの『力』
と同様、癒しのみではなく、人や人以外のモノの気配を視たり聞いたり、感じたり出来る。
人の心に有効な『力』とは、人から漏れ出た想念や人の怨念・霊の類に干渉する『力』で。
それらも多くは人の心を源とするモノだから。

 但し、悪霊や死霊を祓う修練を、本格的に受けてない夏美さんは。エクソシストや修験
者や若杉術者と異なって、本格的な霊の鬼を退けるお祓いは不得手で。相談に乗ってある
程度の処置はするけど、直接祓う事は少なく。

 夏美さんが為すのは、本人の身と心を癒し、生命力を高めて、霊の類に寄生されない様
に促す事で。祓っても本人の体質や生き方が変らないと、再び何かに取り憑かれるだけだ
と。

 詐欺の被害者を助けても、それだけでは次の被害に遭う。詐欺に引っ掛らない心の在り
方を、本人が持たねば意味は薄い様に。心の状態を確かに保ち、悪い霊を寄せ憑けぬ様に。
取り憑かれても強い生命力で追い返せる様に。

 健常な人にも、無理矢理取り憑いて蝕む強力で悪意な存在も、いない訳ではないけれど、
数は少ない。大多数は、人の心の持ち様で…。

「それは、義母のテル子さんではありません。2月前城野さんの枕元に立ったのは、供養
してくれず思い返してくれない事に、無念を滲ませたテル子さんでしたけど。その時城野
さんの後ろに彼女はいましたけど。今は違う」

 浮遊霊か何かが城野さんに取り憑きたくて。
 テル子さんの姿を装っている、模倣犯です。

「心配は不要です。強い『力』は感じません。城野さんが心を確かに持てば、追い返せま
す。今迄通り毎日テル子さんに祈りを捧げ、自身の対処は間違ってないと、胸を張れる状
態を保って下さい。己の中に弱味があると心は強さを発揮しきれず、霊の類に揺らされま
す」

 少し癒しを注いで、活力を増しておきましょう。それに『癒しの水』もお持ちになって。
家に帰ってもこの小瓶を肌身に付けておけば、3日4日は癒しが効いて霊も寄り憑けない
わ。

 退出を見送った処で、待っていた様に白衣の年輩女性が首を除かせ。佐伯摩耶さん38歳。
ショートの黒髪に背が高く肩幅広い、坂本医院の頃は婦長を務めていたベテラン看護師で。

「夏美さん、桜井社長が宣伝チラシの試し刷りを持ってきて、見て欲しいって」「はい」

 坂本医院の頃から先生と呼ばれていたけど。今はそれ以外の呼び方をする、佐伯さんの
様な人は少数派で。後は坂本医師の『夏美君』位か。人に癒しを及ぼす教祖兼代表になっ
た今、崇敬の対象でも奇妙ではないだろうけど。

 18も歳が違えば、上司と部下で働いていた立場なら、今更先生と呼びにくい感覚も分る。
夏美さんも『先生』の呼称は好んでないけど、みんなが繰り返しそう呼ぶから、やむを得
ず受容した位なので。そう呼ばせる積りもなく。

 一番年少の夏美さんが今は団体の長として。
 指示を下す側になり、給与を払う側になる。

 それは仕事上の関りで、人としては皆さんが先輩です、お願いしますと頭を下げるけど。
毎日朝から夜迄雇用者で過ごすのは想像以上に気を遣う。世間的に二十歳の娘は半人前だ。
姉の春恵さんも職場では『女の子』扱いで…。

『本当は、チラシなんか見るよりも、あるだけの時間を、人の癒しに使いたいのだけど』

 団体の長に就けば、判断を求められる事が多く。判断を下すには時間を掛けて、事情を
良く見て聞かねばならず。お金の流れの把握や購入する備品の選択や、交渉や契約や納品
検査や。若年で長になった夏美さんは、そう言う世の諸々に精通してないので、一つ一つ
背景事情を丁寧に説明されねば理解が難しく。容易に他人に任せられぬので、時間を食っ
て。

 でも印刷会社の桜井社長は、初期出資も頂いている仲であり。無碍に扱う訳にも行かぬ。

「なつみせんせいー……この紙はなぁに?」
「きせきの、ちょうせいすい……ちらし?」

 桜井社長に向き合って、チラシを検分する夏美さんの脇から、真琴さんと美琴さんが首
を覗かせ。真琴さんの体調不良は難病の故で根治が非常に難しく。夏美さんも日常的に肌
身に添って癒しを及ぼし、対症療法と並行しつつ、徐々にその改善を促す他に方法がなく。

 真琴さんの往く処美琴さん在りで、姉妹は放課後や休日はここに入り浸っている。病院
とは異なるので今は、朝から夜迄居たいだけ居られると、幼い姉妹には好評で。居るだけ
で少しでも真琴さんに癒しが及ぶ。夏美さんは姉妹の悲運な今もその生い立ちも知る故に、
他人事に思えなくてつい応対が甘く。そんな2人を追いかけて、坂本医師が隣室から現れ。

「済まんの、2人とも夏美君の処に行きたがって」「いえ、お気になさらずに」「……」

 桜井社長は子供の介在を邪魔に思いつつも。

 夏美さんの姉妹への甘さを知っているから。
 追い返す事も出来ないと諦めた感じの顔で。

「どうかね? 直しがなければこれを1万枚刷って、地域新聞に挟んで貰う積りだが…」

「せんせーが写っているよ」「きれーだね」

「見事なチラシですな。流石は桜井さんだ」

「坂本先生のお眼鏡には、叶いましたかな」

 幼子と坂本医師を満足させる出来ならば。
 夏美さんにも、否の答えはない処だけど。

「出来具合に申し分はないですけど……費用はどの位になりますか? 当初は派手な宣伝
は出費が嵩むので、一年位は口コミや商店街への手書きポスター貼りで済ませ、財務状況
の好転を待って検討としていた筈ですけど」

「宗佑さんからは、出だしの勢いが大事だと。先日の地域新聞の特集記事に連動して、新
聞折り込みでチラシを各個配布し、口コミや手書きポスターの効果を高めた方が良いと
…」

 宗佑氏は攻め時を心得ているけど、独断で話しを進める傾向があり。過去にも奥さんの
制止を聞かず、投機的取引の引き際を見誤り、儲けた後も賭け続けた末に多くを失ってい
た。

 嗅覚は鋭いけど、大儲けを狙って危険に敢て首を突っ込む傾向があって。活力に溢れて
いるけど危なっかしく。今は夏美さんが長として皆に責任を負っている。でも彼の考えは
過ちとも言い切れず。その独走は問題だけど。


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