第4章 訪れの果て(丁)
【喜んで尽くします。それがわたしの望んだ幸せです。心配しないで、わたしは大丈夫】
【2人の幸せを守る為に、全てを捧げます】
白花ちゃんが危険を承知で進む時、為せる事があるわたしに唯それを見送る選択はない。
「あなたの存在を賭けるのよ。わたしにも全身全霊を尽くさせて。わたしにもあなたを守
らせて。導かせて。寄り添わせて。わたしは確実に桂ちゃんを助けたい。白花ちゃんがそ
こ迄危険を負って為す以上、絶対に失敗はさせない。わたしが許さない。そして叶う限り
早く全てを終える。分霊が出て来ない内に」
わたしが、必ず白花ちゃんも守るから。
「さっきの主の分霊裏返りの阻止は、わたしとの共同作業。白花ちゃんにはまだもう少し
力が残っている筈よ。一回分とは言わずとも、その半分位は。わたしはそこに全てを尽く
す。もう一回、あなたとわたしで一緒に分霊を抑え付けましょう。桂ちゃんを助けて、白
花ちゃんの中の分霊を抑えて、朝を迎えるの!」
わたしはそれを無理と分って言っている。
挑んで無理と結果が出るまで諦めないと。
その先にしか途がないのなら挑むだけだ。
白花ちゃんがそうである様に、わたしも。
「でも、危険以上に、ゆーねぇの疲弊が…」
「わたしは力を使い果たしてもご神木に戻れば良いわ。この現身も本来あり得ぬ余録なの。
この現身を失っても、それは元々だから…」
あなたが存在を賭ける以上、わたしも存在を賭ける。肉の身体も、人としての生も死も、
人である事も捧げ終えたわたしに、躊躇う事情は何もない。わたしは過去を繋ぎ止める者。
わたしには、この現身もあなた達との明日も必須ではない。必須なのはあなた達の明日よ。
「過去を繋ぎ止めるわたしが、桂ちゃんと白花ちゃんの未来を繋ぐ事も出来るのなら…」
願ってもない幸せ。その為になら捧げます。遠慮なくわたしに尚残る全てを持って行っ
て。
わたしは本当に血の一滴に至る迄、その最後の一滴に至る迄、全てを絞り出した抜け殻
に到る迄、捨てられて土くれに戻った果ての末迄、形も失い想いも欠片に砕けて霧散して
も尚、生贄の一族の思考発想の持ち主らしい。
「分った。僕はご神木に身を預ける。ゆーねぇはその手で桂に触れて力を及ぼして。ゆー
ねぇがご神木から離れてあるのが、今は少しでも幸いだ。それで少しは時を稼げるかも」
「私が間に入るわ。それで贄の血の陰陽が直接ゆめいを揺さぶる波を、少しは緩和できる。
昨日消滅寸前の身をあなたに癒されて以降、私は誰の血も吸ってない。今の私の構成は
羽藤の力と想い、私は羽藤望と言って良い存在なの。あなた達の力の流れの邪魔にならな
い。
私の力も加える以上必ず成功させるのよ」
ノゾミもそれが己を揺さぶる事を承知だ。
贄の血の陰陽が同時に触れる事で起きる力と想いの奔流は、オハシラ様以外の霊体にも
甚大な脅威になるのに。力の限り想いの限り、ノゾミも桂ちゃんの為に危険と消耗を負う
と。
意志を定めた白花ちゃんが、桂ちゃんの布団を剥いでお姫様だっこに抱き上げる。わた
しは尚その左手を離されず、消して放さずに。
この時わたしに視えたのは、幾つかの最期。まだ全て定まってないけど、非常に高い確
率で幾つかの分岐の末を映し出す。彼の意思が定まった瞬間に視え始めたその像は、桂ち
ゃんの、白花ちゃんの、わたしの、そして……。
「行きましょう。多分これが最期の戦いよ」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは暗闇の中をたゆたっている。
ここには何もない。
ここには何もない。
ここには、光も音もなく。
わたしを責める声もない。
だからわたしはここにいる。
羊水の様な居心地のいい闇に全てを任せて、わたしは闇に溺れている。
その闇の中に蒼い光が射し込んだ。
月の光の様なそれはひらひらと瞬いている。
それは自ら輝く蝶だった。
蝶は何かを運んでいる。
誰も立ち入れるはずのないわたしの中まで、人の気配を運んでくる。
「桂……」
誰かの声がする。
わたしの名前を呼ぶ声は……。
どこか懐かしい感じがするけれど、これは一体誰の声だったか。彼の声だったか。
誰彼……黄昏……赤い世界。
「……いや」
誰でもいい。誰であっても関係ない。
もっと奥へ、もっと深くへ、太陽どころか月の光さえ届かない夜の淵まで行かなければ。
そこへ赤を沈めてしまわなくては。
そうでないと、わたしが……。
「桂……!」
「……いや。わたしはいや。何も見たくないし何も聞きたくないし、何もしたくないの」
わたしが、壊れてしまうから。
だけどその人は容赦をしない。
「桂……聞くんだっ!」
どんなに耳を塞いでも、びりびりした振動が直接わたしの中に入ってくる。
容赦がないのは他人事だから?
違う。そこに他人としての遠慮は一切ない。
まるで自分の事の様に、だけれど痛みを決意で塗りつぶした声を張り上げて、強く言う。
「桂……君は父親を殺していない!」
肩をつかむ力強い手が殻を割った。
わたしを包み込んでいた闇が、零れていく。
「あ……ここは……」
ここはどこだろう?
未だにわたしは目覚めておらず、夢の最中にいるのだろうけど、肩を掴んでいる人は…。
「どうしてケイくんがこんな処にいるの? わたしに一体何の用?」
「僕がここにいるのはゆーねぇ……柚明さんのオハシラ様としての力を借りて、君の夢に
僕の意識を同調させて貰っているから」
ああ……あの青い蝶。
ケイくんをここへ導いたのは、夢見に現れる柚明お姉ちゃんの力による。だけど、どう
してお姉ちゃん本人じゃなくてケイくんを?
「女の子の夢に勝手に入るなんて失礼だよ」
「君が自分で起きてくれれば、こんな苦労はいらなかったんだけどね」
「うん……でも……」
「そうだね。鬼の呪いの所為なんだから、仕方がないといえば仕方がない」
ケイくんはわたしの弱さを責めずに、強いまなざしでわたしを見据えた。
「もう一度言おうか。君は父親を殺してなんかいないんだ。あれは君の中にある記憶のモ
ザイク。真実とは程遠い、偽りの風景だよ」
「偽り……?」
「そうだよ。君がすっかり思い出せば、すべては解決するはだったんだ」
「でも、わたしの記憶は事故のせいで……」
「違う。もう分っている筈だ。君は蔵で鏡の封印を解いてしまった事を悔やみ、自ら記憶
を閉ざしたんだ。君があの鬼を解放した事が、十年前から続くこの出来事の発端だから
ね」
そう、わたしは一度結論付けているはず。
火事なんてなかった。
「桂、ちゃんと思い出すんだ。あの日、蔵の中で何があったのか」
その面差しが、その瞳に映るわたしの顔が、誰かに確かに……。
ふと覗き込んだ目の片方が強い光を宿した。
鬼の瞳の赤ではなく、蒼みを帯びた光を放つ右の眼。そうだ、あの夢の中でこんな風に
目を光らせていたのは確か……。
強い光に射抜かれたわたしの左眼は視力を失い、白く焼き付いたそこに何かが像を結び。
「あの鬼が見せているいびつな浄玻璃鏡ではなく、本当のことを思い出すんだ」
声に導かれる様にわたしは再び過去を視る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「本当に入るの?」
それはわたしの声だったけど、わたしは口を開いていない。小さなてのひらの中にある、
大きな鍵を握り締めて、訊ねる声に答を返し。
「入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ」
背伸びをして、体温が移って温かくなった鍵を鍵穴に差し込んだ。
鈍い音を立てて鍵が開いた。
だけれど扉は開かない。
どんなに力をこめたところで、重い鉄扉はびくともしない。なにせ拾年の放置分のハン
デがあるとはいえ、あのサクヤさんが手こずった程だ。考えてみれば、就学前の子供1人
の力で開けられる物ではなかった。だからお父さんもお母さんも油断したんだろうけど…。
わたしは真っ赤になった顔で『手伝ってよ』と無言の抗議を送り、今度は2人で扉に挑
んだ。そしてわたしは蔵へと入り、箱の中からあれを探し出して……。
「こんなのはがしちゃおう」
鏡の魔の封印を解いてしまった
同じ顔をした子供が2人、鏡に映っていた。
「これはずっと昔の鏡だよ」
わたしがしゃべると、そこに映った片方だけが口をぱくぱくとさせる。
わたしと……もう1人……同じ顔……同じ声……双子の様にそっくりな……。
双子……。
「そうね。2人と2人で丁度いいでしょう」
双子の鬼と、双子の子供。
木。
たくさんの木。
高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠してしまっている。
ノゾミちゃんの真っ白な手に引かれて、鎮守の森をわたしは急いでいる。
……振り返る。
瓦の並ぶ屋根が見えた。古びてはいても荒れてはいない、立派な羽藤のお屋敷があった。
離れに見えるのは蔵。
わたしたちが飛び出してきた蔵。
お父さんは未だ蔵から出てきてない。この侭走れば追いつかれないと、小さく円い息を
吐く。追いつかれてさえいれば、怒られる事を受け容れてさえいれば……。
『お父さん、怒らなくなる……?』
『ふふっ、もう二度と怒らない様にしてあげる。ちゃんと言うことを聞いてくれるなら』
蔵の中で交わされたやり取り、お父さんは二度と怒ることがなくなった。
もちろん笑うことも。
前に向き直るのと、ノゾミちゃんに強く引かれるのはほぼ同時。ミカゲちゃんに連れて
行かれる小さな背中が先に見える。
そうだ、この時も2人一緒だった。
その先は断片的にしか思い出せず。
わたしとそっくりな、双子の……。
「桂。わたしの目を見るのよ」
赤い瞳に頭の中を掻き回されて、葛ちゃんの様に操られる事になった。勿論あの子も、
ミカゲちゃんの邪視に捕らわれる。
そしてわたしたちは封印を綻ばせて……。
「くあぁぁぁ……っ!」
先ほどのケイくんの様に、右目を蒼く光らせたお母さんが、ノゾミちゃん達を退治して。
「駄目ね。もうこの木の中にオハシラ様はいないわ。彼女は還ってしまった」
綻びが大きくなれば、封じられた鬼神が中から出てきてしまう。防ぐには誰かが封じの
要としてハシラの継ぎ手となるしかなく……。
「叔父さん、叔母さん、お願いします」
柚明お姉ちゃんが、その役に就いた。
たいせつなひとが、いなくなってしまった。
ご神木に開いた穴を塞ぐために、わたしたちの大切な人がその穴の中に入ってしまった。
封印の綻びは塞がれ鬼神はもう出てこない。
けれども穴を埋める土を得るために地面を掘れば、そこに新たな穴が生じるように……。
わたしたちの中に大きな穴が開いた。
光の届かぬ穴底に鬼が生じることになった。
深い瞳の奥底に鬼火が灯った。
わたしと同じ顔の中で赤い光が爛々と輝く。
誰かが、近くの誰かが主の鬼の魂に共鳴し、外界へ招いていた。鬼の心を、鬼に近い憤
怒と憎悪が方向を示し引っ張っていた。柚明お姉ちゃんのご神木への同化をも凌ぐ、勢い
で。
呼んでいる、鬼の魂を憤怒と憎悪が。
それは、漸く呪縛が解けた、幼い心。
それは彼がノゾミちゃんにではなく、ミカゲちゃんに呪縛された瞬間に、定まったのか。
主の分霊の波動を受け、彼には主が憑く下地ができた。誰より深く魅入られていた。もし、
わたしがミカゲちゃんに呪縛されていたら…。
柚明お姉ちゃんは、ご神木への同化を急がせる為にお父さんに、己の身を貫いて生命を
奪うように促し迫っていた。お父さんは心に血の涙を流しつつ、お母さんの刀を奪って…。
「お父さんが、ゆーねぇを、斬った」
お父さんが、大好きなゆーねぇを。
「ゆーねぇを、叱らないでって言ったのに」
ゆーねぇ悪くないのに。悪くないのにっ。
幼い目が、哀しみを受け止めきれずに揺れていた。還らぬ大切な物の喪失を前に、小さ
な心が荒れ狂って、溢れ返っていた。
「○○○は、いくらでも謝ったのに。
○○○はいくらでも叱られたのに」
どうして、ぼくのたいせつな人を!
「嫌いだ。お父さん、大っ嫌いだぁ」
怒りと憎しみが幼い心を染め抜いて、鬼の心に共鳴した。それは主が封じの外に出よう
と引っかけた『手』に当たる。先んじて外に出ただけあって、主の中でも最も外に出たい、
封じを外したい、その想いの結晶の様な物で。
他の部分と切り離されても、それは主の分霊として宿る物を捜し、己を呼び招いた物に
引き寄せられ、その心を乗っ取った。○○○ちゃんは怒りに心を囚われていた。その怒り
に加勢し、便乗して、その侭心に入り込んで。
あ……。鬼は血を欲する。
おあつらえ向きに恐怖に竦んだ獲物がいる。柔らかい肉と贄の血をもった、幼いわたし
が。
衝撃。
痛みはない。
痛みの代りに熱さがやって来る。
世界は怖い赤に染まってしまい。
わたしはそれに耐えられずに、すべてを塗り潰すことにした。
雨は嫌い。濡れた服は気持ち悪いし、柚明お姉ちゃんがいなくなってしまったし、お父
さん迄死んでしまった。そんな記憶も含めて全て。わたしは真っ白に糊塗することにした。
そして十年の年月を経て、すっかり古びて乾いたそれは、僅かな衝撃でぱらぱらと崩れ。
わたしは思い出していた。
「……もしかして……」
「そう、僕たちの父さんを殺してしまったのは、桂じゃなくて、僕なんだ」
お父さんを殺してしまったのは、わたしと同じ顔と声を持つ、小さな背丈のきょうだい。
お屋敷の柱には、わたしでも柚明お姉ちゃんでもない不在だった人の名が刻まれている。
わたしの頭を痛くする、赤い世界と共に封じ込んでいた人の名前……。
「白花ちゃん……なんだ?」
わたしの双子のお兄ちゃんの名前が。
「今の僕はケイだよ」
否定はせずにケイくん……白花ちゃんが言った。鬼となり人から外れたその時に、白花
ちゃんもいなくなってしまったのだと言外に。
「そんな、双子で同じ名前にするなんてややっこしいよ。いいじゃない、白花ちゃんで。
だいたい、何でわたしの名前を使うの?」
もう慣れてしまったけど、いくら男の子っぽい名前だからって、わざわざ双子の妹の名
前を使う事はないんじゃないかと思う。
むーっと頬を膨らませて訊ねると、白花ちゃんは少し微笑んで、
「元を正せば僕の為に考えられた名前だから、僕に対して強い言霊で働く名前だからだ
よ」
伊達や酔狂で妹の名を騙っているのではないと、真面目な瞳で応えてくれた。
「母さんが届け出を間違えてなければ、僕が桂で、君が白花だったんだよ。それぞれにつ
けようと考えられていた名前は逆だったんだ。物心つく前のことだから僕も覚えてないけ
ど、何かの書類で間違いに気付くまでは、君は白花と、僕は桂と呼ばれていたんだよ」
「へー」
「まあ、双子は名前を呼び間違えられる事は、そんなに珍しいことじゃないけどね」
きっとそうだろう。最近見た映画にもそう言うシーンがあったし、お母さんは出生届を
間違えるぐらい筋金入りなんだから。
「さあ早く起きてゆーねぇを安心させよう」
こくりと頷こうとしたわたしは、ちょっとした引っ掛りを覚えて動きを止めた。
引っ掛りは内容に関してではなく、ごくごく一部の表現に関して。
「……だけど白花ちゃん、まだ柚明お姉ちゃんのことそう言ってるんだ」
「桂、君だって僕のことをそんな風に……」
「あ……えっと……」
昔の様に『白花ちゃん』と、ケイくんのことを呼んでいた。この年頃の男の子は、余り
ちゃん付けで呼ばれたくないだろうし、ましてや命名した人的には女の子の名前な訳だし。
「それに、今の僕はケイだと言っただ……」
ケイくんの言葉が闇に飲まれてかき消えた。
声だけでは、なくその姿も。
「え? あれ? ケイくん?」
寝ぼけている時ならともかく、こんな風に夢と分ってみている夢から覚めるのには、瞬
き一つの時間でこと足りる。だからきっと、先に行ってしまったのだろう。
……よし。夢の底から頭上を見上げる。
そこには夜空に輝く星のように、小さな光がたくさん灯されている。
わたしは夢と現(うつつ)の境目へ向けて、意識を浮かび上がらせた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ひらひらと……花びらの蝶が、舞っていた。
その白に透ける月の光が眩しくて、わたしは開いた目を細める。
その光の中で、大切な人の微笑みが揺れた。
「桂ちゃん、おかえりなさい」
「あ……柚明お姉ちゃん……」
ここは封じのハシラのご神木がある、山の中のあの場所だった。黒い空を越えた夢の底
まで声を届かせるには、この木の力が必要だったんだろう。間近で青珠が強く輝いていた。
ノゾミちゃんはわたしを助ける為に、2人に力を流して支え続けて著しく消耗し、成功
を見届けた後、わたしが目覚める直前に青珠に戻ったと言う。お姉ちゃんが青珠に力を流
しているから、消える心配はなさそうだけど。
「お姉ちゃん、ありがとう……」
それに、ノゾミちゃんも……。
「それよりも、全部分ったんでしょう?」
「うん……。白花ちゃん……じゃなくて、ケイ君にお礼を言わないと」
真実を視せる事で悪夢の中から助けてくれた、わたしの双子のお兄ちゃん。
きっと意識を閉ざしたわたしの身体をここ迄運んできてくれたのもケイくんに違いない。
「わたしより先に、目を覚ましたと思うんだけど……」
意識を取り戻したのは、わたしが先だった。ケイくんはご神木の根を枕に横たわってい
る。月光を積もらせた顔は、死人のように青褪めて見えて……ケイくんは身じろぎ一つし
ない。
「……ケイくん?」
声をかけると、閉ざされていた瞼が震えた。
「……ふっ」
口の端を歪ませて嘲笑の様な息を漏らすと、ゆっくりと目を開く。その眼光の色は紅…
…。
「ケイくんじゃ……ない?」
双子のテレパシーだとか、そう言うのじゃないけれど分る。
「くくくっ……」
楽器の調律を確かめる様に、てのひらを開閉させながら身を起す彼からは、柚明お姉ち
ゃんやケイくんに感じた懐かしさの様な物がない。むしろ彼は、ミカゲちゃんに感じた物
に近い気配を漂わせていて……。
それを察したお姉ちゃんがわたしの前に立ち、そのすぐ右斜め後、わたしの右斜め前に
まだ辛そうな顔つきのノゾミちゃんが顕れて。2人共一言も不要でわたしを守る体勢に入
っていた。彼が血色の光を湛えた瞳で睥睨する。
「暫くぶりにこの身体の主導権を握れたな」
「……誰ですか?」
「聞かずとも、封じのハシラとして私の尾を踏んでいるおぬしには、分るであろう」
私の力の色形で……分らぬか?
「主の……分霊ですね。十年前に白花ちゃんに憑いて、叔父さんを殺めた」
柚明お姉ちゃんの問は、わたしに状況を認識させる為の物か。彼は今、白花ちゃんでも
ケイくんでもない。今その身を突き動かす意志は、裏返って身体奪った主の分霊なのだと。
「ああ、あの男のことか。あれは贄の血筋にしては薄かったな。お陰でそれ程力を得る事
も適わず、気付けば奥底に押しやられていた。
この拾年で、私が表に出られたのも数える程しかない。主導権を裏返そうと、幾度も機
会を窺ったのだが、中々ものにできなくてな。流石は私を封じ続けている血に連なる者
よ」
今回は長く出ていられそうだが……。この機会を逃がす手はない。身体が自由になる間、
繋がれた私自身を、解放することにしよう。
「大人しく眠っていては、頂けませんか?」
「他人の都合で眠らせられたり起されたりと、せわしない物だな。一体誰の言葉を聞けば
よいのだ? なぁ、ノゾミ」
その視線が柚明お姉ちゃんの後に流れる。
「主さま……私が、解き放ってしまった…」
ノゾミちゃんは、申し訳なさそうな寂しそうな複雑な表情を俯かせる。尚たいせつだっ
たから。わたし達と共に生きる心は固めても、ノゾミちゃんには尚主もたいせつだったか
ら。そして甦らせてしまった責任をも感じるから。
それでもノゾミちゃんは確かに心を定めて、
「……桂、私とゆめいがあなたを守るから」
力に格の違いを感じているのか、まだ疲弊を補えてないのか、既に額に汗が滲んでいる。
主に受け答えする事が重圧だった。この存在感の重さは鬼神の片割れの故か。脇にいる
わたし迄息が詰まる。今迄の経緯を抱えるノゾミちゃんでは気圧され呑み込まれかねない。
柚明お姉ちゃんが主に話しかけるのはそれを分ってなのか。自身にその眼光を問を誘い導
く事で、わたし達にそれが向かないようにと。
「そのことに関しては、申し訳なく思います。ですが……」
ふん。主は、最早しもべではなくなったノゾミちゃんには興味がないという感じで、視
線を柚明お姉ちゃんに向け直す。
「狭き処に千年も封じられていては、流石に飽きがくるだろう」
主は舞い散る槐の花びらを、掌で受け止めて……握り潰した。
一瞬握った拳の隙間から赤い電光が漏れる。
「ましてや微々たる量とはいえ、年ごとに力を削がれている状態を、快いと受け入れる者
がいると思うか?」「……」
はらはらと……灰となった花が風に舞う。
「重ねて、こうして自由に……とは言い難いが、動くことのできる身体があり、封じを外
すまで、あと一歩の処まできている」
ご神木にてのひらを押し当てる。
一歩も何も、先ほど花びらにしたのと同じことをすれば、きっと、最後。
けれど主はすぐにそうしようとはせず、槐の大樹に身体を預け、わたし達に視線を移す。
それは奇しくも初めてケイくんに会った時と同じ姿勢だったけれど、中身は全くの正反対。
「大人しく眠れと言われて、眠るものがいると思うか?」「……」
沈黙の時間、静かに花びらが降り積もる。
主は面白くなさそうに、木の下で眠る本体から力を奪って離れいく花びらを眺めている。
「……それでは、神である自身を取り戻した時、あなたは何を為す積りですか?」
ふむ、そうだな……。
「我ら古き神をまつろわぬ鬼神として追った、照日の神らに思い知らせてやるのも良いな。
だがその前に……まずはあの時手に入れ損ねた贄の血を飲み、削がれた力を取り戻そう」
「「……!」」
赤い視線がわたしを標的に確かに見据えた。
ノゾミちゃんの身体も一緒にビクと震える。
「それだけはさせません」
前に立つ柚明お姉ちゃんが、主の視線を遮る様に袖を大きく広げて宣言する。
「柚明お姉ちゃん……」
「桂ちゃんの血は一滴たりとも流させません。
勿論白花ちゃんの身体も返して貰います」
その身を包む蒼い輝きが、更に力を増した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
主はご神木に手を当てた侭尚動かない。どうやらケイくんの身体を通じて、ご神木や封
じられた主本体に、感応を試みているらしい。こちらを睥睨しながら、眺め様子窺いなが
ら。後から思えばそれは主の時間稼ぎだったのか。
わたしは血が濃いから、触れれば自動的に感応が始って、見たい像も見たくない像も選
べず流入して混乱するから、触れないでって柚明お姉ちゃんに頼まれた。修練したケイく
んなら、それ以前に主は心など痛まないのか。
「……なら、取り返してみるか?」
不吉な赤い瞳を輝かせ、主は嘲笑う感じで、
「数時間前にやった様に、ハダカになってこの身を抱き締め、わたしの朱を阻んでみるか。
既に完全に裏返ったこの身なれば、貴様の蒼を抱き竦めて逆に灼き尽くしてやろう程に」
わたしは一体、何に硬直させられたのか。
「左脇腹の傷はもう治ったか。ならもう一度、この手足をその身に食い込ませ、穿って内
蔵を引きずり出してくれよう。貴様の愛したこの手足で抱き留め貫き、その身に朱を強く
流し込んで、貴様を燃やし尽くしてくれよう」
言葉を発せられずに息を飲んだのはわたしなのか、ノゾミちゃんなのか、或いは両方か。
「器は貴様に性愛を抱いているから、成就させてやるのも一興か。男の身体でその確かな
現身を破って直接女に朱を注ぎ、生命生ずる処から貴様の生命を滅ぼし行くのも悪くない。
貴様も先ほど器の愛に、愛で応えると言っていたな。その気があるなら応えて貰おうか」
「ケイくん……柚明お姉ちゃん……」
白花ちゃんは、柚明お姉ちゃんを大好きだった。わたしも大好きだった。でも今のケイ
くんは年頃の男の子だ。子供の愛と違う愛を、柚明お姉ちゃんに抱いているのかも知れな
い。お姉ちゃんも年頃の女の子だからそれに応える気持はあって自然だ。でも、主の語調
は…。
「本物の血を流せぬ現身に用はない。器の肉欲を満たした上で消し去れるなら、好都合だ。
一々わたしの身体を抑え奪い返そうと蠢くが、器の望みでもあるなら拒む事とて出来ま
い」
貴様もこの身体を愛していたのではないか。
だからどこ迄も身を尽くし続けたのだろう。
故に先程もハダカで抱き留めたのであろう。
欲情の侭に、性愛の侭に、真の想いの侭に。
「器の真の望みを叶えてやってはどうだ?」
なぜか身が震える。心が竦む。主が喋る所為なのか。主の言葉に悪意が宿る所為なのか。
ケイくんが柚明お姉ちゃんを愛し、柚明お姉ちゃんがケイくんを愛する。おかしくない。
全然おかしくない。でも何か寂しくて、哀しくて。柚明お姉ちゃんが、手の届かない処に
行ってしまう様な、目の前にあっても永遠に手が届かなくなりそうな。違う、違う違う!
『あれはケイくんじゃない。あれは、主…』
主にお姉ちゃんが奪われようとしている?
それがわたしは嫌なのか。心の底から来る震えは、一番の人を嫌な者に強奪されそうだ
から。踏み躙られそうだから。汚されそうだから。ケイくんの愛ではなく、主の悪意で柚
明お姉ちゃんが、わたしの一番綺麗な人が苦しめられそうだから。それを前にわたしが何
もできないから。更に言えば、柚明お姉ちゃんをケイくんにも渡したくない気持があって。
ケイくんのその愛だけは、柚明お姉ちゃんに受けて欲しくない想いが、わたしの片隅に…。
大好きなお兄ちゃんなのに。大好きな柚明お姉ちゃんと愛し愛され合ってくれれば幸せ
な筈なのに。わたしは一体、何を怖がって?
心乱れるわたしの前で、何か叫びたいけど、主の無意識な威圧の前に声も出ないわたし
の前で、柚明お姉ちゃんは1人言の葉を紡いで、
「それが、白花ちゃんの真の望みなら……」
わたしに想いを語る時の様に穏やかに応え。でも、相手はケイくんじゃない。悪意を持
つ主にそんな答では、お姉ちゃん奪われちゃう。もどかしさを感じつつ、一言も発せられ
ない。気付くと隣でノゾミちゃんも、同じ様に食い入る視線を柚明お姉ちゃんに投げかけ
ていた。
「……白花ちゃんが真の想いでわたしを欲してくれるなら、わたしは全身全霊で応えます。
答が受容でも拒絶でも、真剣に考えこの身の全てで。あなたではなく白花ちゃんになら」
主の求めは拒んでいる……。でも、ケイくんになら、身を許しちゃうの、お姉ちゃん?
「わたしは白花ちゃんを愛しています。桂ちゃんと同じく。わたしの一番たいせつな人」
主の言葉を受けて、主からケイくんの性愛を聞かされて尚、柚明お姉ちゃんの声音は想
いは揺らがない。静かだけど確かで乱れない。
「その生命と想いを繋ぐに必要なら。その幸せと守りに必要なら。わたしは躊躇わず何で
も為す。何度でも為す。全て捧げる。それが不要な時は自由に捨て去って構わない。縛る
積りは微塵もない。返される想いは求めない。わたしの全ては一番たいせつな2人の為
に」
そこでお姉ちゃんの声音が強さを加えて、
「唯、あなたに応える積りはありません。わたしのたいせつな人を、数多く傷つけてきた
あなたには。白花ちゃんの真の望みは、彼の身体を返して貰ってから、彼に訊きます!」
「お姉ちゃん」「ゆめい……」
人の真の想いを確かに直接訊いて、全力で応える。柚明お姉ちゃんはいつもそうだった。
いつもそうである事が、今もそうである事が、今この場でケイくんの望みを受け容れなか
った事が、わたしの心の中に奇妙な安心感を…。
でも、主はその強い応えに怯む様子もなく、
「ほう……それで、貴様はわたしの真の想いも聞いて叶えてくれたと、言う訳なのか?」
平静に語る。でも、わたしのって主の…?
主はご神木に付いた手を放さずに見返して、
「貴様は槐の中で、封じられたわたしの籠絡に成功したらしいな。感応でわたし自身から、
貴様の心の弱点でもあれば嬲ってやろうかと、この拾年余の所作の絵図を求めたのだが
…」
返されるのはわたしと貴様が睦み合う図だ。
腕を回し合って足を絡めて交尾に励む図だ。
貴様がわたしの性欲を求め望み受ける図だ。
貴様、わたしに心まで開いて受け容れたな。
貴様は槐で、獣欲に耽っているではないか。
貴様は拾年、肉欲に溺れていたではないか。
……え。漏れ出たのは声だけだったろうか。
「やれやれ。幾ら早く出たい想いの結晶であるわたしが抜けたからと言って、どんな手段
でも解放を望むわたしが抜けたからと言って、鬼神がハシラの継ぎ手如きに絆されると
は」
継ぎ手が外したのに、封じを本格的に破ろうともせぬ。多少力を注がれても、要の不在
な封じなど壊し放題だ。継ぎ手が連日力を注ぎ綻びを繕いに来なければならなく追い込め
ば、もっと有効に消耗を強いられただろうに。
絆されるって、誰が、誰に?
それにしても。主は平静な声音を崩さず、
「わたしをここで拒んでおきながら、槐の中ではわたし自身の男を、望んで受けていたか。
故にこそ互いに情が繋ったのだろうが、運命の巡りの輻輳は、時に鬼神の想像も超える」
ご神木の中で、主の何を、誰が受けた?
ご神木の中で、誰と誰が、情が繋った?
「ゆめい、あなた……」
ノゾミちゃんがわたしより先に気付けたのはきっと、ノゾミちゃんが主に淡い恋心を抱
いていたから。一秒位遅れて思考が追いつき、わたしもそれを問わずにいられなくて。問
うて良い事か否か、考えるべきだった。確かめたい想いの侭に、口を開いていた。目先に
示された餌に食いついていた。それが誰を傷つけるのか、何を明かすのか、知っていたな
ら。
「ゆめい、お姉ちゃん? あの……」
背中に哀しそうな笑みが見えた気がした。
「本当は、訊かれる前に伝えておくべきだったのかも知れないけど……ごめんなさいね」
わたし、もう綺麗な身体とは言えないの。
否、想いだけの儚い物になったわたしは。
「綺麗でなくなったのは身体よりむしろ心」
存在しなくなった身体が汚れる筈はない。
想いだけの存在なら汚れるのは想いだけ。
その語調は尚穏やかに変る事もないけど、
「ご神木で、わたしは主と2人永劫を過ごす。
主はご神木を抜け出られず、わたしはご神木を抜け出ない。他に入れる者はなく、後に
生れる者もない。ずっと2人。錯覚が作る虚像世界は、眠りも不要な長久に安定した何も
ない処。わたしはそこで主と2人、時に話し、時に抗い、時に主と男女の交わりもして
…」
確かにそう。彼の言う通りよ。わたしは、
「ご神木で主と男女の交わりをした。何度もした。強いられた事もあり、望んでも受けた。
拒めなかったのは確かだけど、わたしが応えたく想い、全身全霊で受け止めた事も、ね」
主も一番ではないけど大切な人だったから。敵だけど、絶対解き放てない鬼神だけど、
それでもわたしにはとても哀しい存在で、真っ直ぐな心の持ち主で、不器用で憎めなかっ
た。
「ゆ、め……おね、ちゃん……」
言葉が出ない。頭が回らない。
「桂ちゃんを傷つける事になってしまった」
柚明お姉ちゃんはわたしの問に常に事実を応えてくれた。どんな問も答も拒まなかった。
必ず応えてくれた。だから、だけど、なんで。
わたし、混乱している。混乱しているよ。
そんなわたしに、届く声音は尚穏やかに、
「だからわたしはもう、白花ちゃんの想いを受ける資格もない存在なのかも知れないの」
ケイくんの愛を受ける柚明お姉ちゃんをわたしはさっき微かに望まなかったけど。主の
求めを断り、ケイくんの望みにもまず向き合い問う柚明お姉ちゃんに、少し安心したけど。
その前にお姉ちゃんは主に奪われていたと?
「お嫁さんにしてくれると、桂ちゃんも言ってくれたのに、応える資格なくしたかな…」
手を伸ばせば間近いのに。すぐ届くのに。
「主は封じの外に出られないけど、外界との接触は断たれたけど。ご神木の中で彼は尚鬼
神なの。その猛威はノゾミが知っている筈」
「ノゾミちゃん……」「……ええ、確かに」
今のゆめいでも、鬼神には遠く及ばない。
「そして主さまは奪いたい侭に奪い、喰らいたい侭に喰らい、犯したい侭に犯す鬼の神」
ノゾミちゃんの顔が青いのは、青珠からの補充がまだ不充分なだけじゃない。わたしも
ノゾミちゃんも温もりを交わさないと1人で立っていられなかった。柚明お姉ちゃんに手
を触れたかったけど、なぜか手を伸ばせない。許されない気がした。お姉ちゃんは尚静か
に、
「封じの要とは、主に捧げた生贄に近い物よ。唯それが主に満足して貰って自主的に鎮ま
って頂くか、主を無理矢理封じ込めるかの違い。そして捧げられた生贄のその後の定めと
は」
「……生贄……柚明お姉ちゃんが、生贄…」
確かに、贄の血って言うけど。言うけど。
声が、震えている。身体も、震えていた。
柚明お姉ちゃんは、目前の主を警戒してかわたしを振り向かない。いつも瞳を合わせて
話してくれるのに。こう言う時は寄り添って肌を合わせてくれるのに。強大な敵がいて危
険だから、目の前にいて危ういから、なの…。
「わたしもまだ子供だった。考えが浅かった。覚悟した積りで、全然覚悟等できてなかっ
た。全てを捧げる事が、生贄になる事が、封じのご神木で主と悠久を過す事がどう言う事
かを、本当に知っていなかった。主と今後悠久に2人きりで過すその真の意味を、あの瞬
間迄」
主と、柚明お姉ちゃんと、悠久に2人きり。
わたしと2人だけの幸せな時が想い返された。少し前にこの場所で、ここから山を下り、
蛍を見て森を歩み。わたしと柚明お姉ちゃんだけの温かなひととき。瞬く間に終ってしま
った、胸に刻み今度こそ絶対忘れない甘い時。
でも、柚明お姉ちゃんは主と、主と久遠を共にする。わたしを抱き留めたあの腕が、わ
たしを受け止めたあの胸が、わたしをなぞってくれたあの唇とあの舌が、主に奪われる…。
主に、柚明お姉ちゃんは奪われる。
主に、柚明お姉ちゃんは奪われていた。
そして今後もずっと奪われ続けると、ああ。
これは、主への憎しみなのか。嫉妬なのか。
主を倒したく想った。維斗の太刀を借りて、主を叩き切りたく想った。そんな事態を招
いたわたしを拾年前に戻って斬り捨てたかった。
「ハシラの継ぎ手は、力で主を抑える訳じゃないの。力で主は抑えられない。継ぎ手は封
じを司るに過ぎない。主を封じ続ける以外何一つ人の意志など通じない。本当は、わたし
程度では主を封じられる筈もないのだから」
無理に無理を重ねた、反動なのだ。人に叶わぬ神の封じを、人の身が負うた引換なのだ。
「わたしはその一つを通す為だけにいる。
わたしはその一つを通す、代償にいる。
わたしの守りたい唯一つを、保つ為に。
わたしはこの選択に、後悔はないけど…」
後悔してよ、柚明お姉ちゃん。
「わたしは何度あの夜に立ち戻っても、この選択を為していた。たいせつな人を守る為に、
わたしがどんな末路を迎えても、どんな未来を断ち切っても、どんな苦難が待っていても。
後悔も痛みも哀しみも全て呑み込んで尚、わたしは必ず一番たいせつな人を選び取った」
柚明お姉ちゃん、主に奪われちゃうんだよ。
わたしなんかの為に、酷い目に遭うんだよ。
「それは今迄も常にそうであり、これからも。
過去のどの時点でも、未来のどの時点でも。
勿論、今この瞬間も間違いなく」
これからもずっと主に奪われ続けるんだよ。
わたしの柚明お姉ちゃんが失われるんだよ。
「失いたくないから。絶対放したくないから。
失う事を許せない一番たいせつな人だから。
わたしは常に、一番たいせつな人を選ぶ」
わたしの一番は柚明お姉ちゃんなのにっ。
「主もわたしのたいせつな人。でも一番ではない。幾度身体を重ねても、何年想いを交わ
しても、わたしの一番は常にあなたたちなの。末に何も残らなくても、何も残せなくて
も」
だから許してとは望まないけど。
だから認めてとも求めないけど。
わたしの一番は、桂ちゃんと白花ちゃん。
「お姉ちゃん……」「ゆめい、あなた」
千年万年、未来永劫、天地の終りのその果て迄、わたしにはあなた達だけが必須。桂ち
ゃんと白花ちゃんの、幸せと守りの為になら。
「わたしは久遠長久に封じのハシラに身を捧げても悔いはないし、その封じを捨ててこの
想いが消滅する事にも悔いはない。生きても死んでも、あなた達の為だけにわたしはあっ
たと、それこそがわたしの幸せだったと…」
あなたが、わたしの太陽だから。
あなたが、わたしの生きる値で目的だから。
わたしの全てを抛って守りたい幸せだから。
「分って、くれるわよね」
この幸せと哀しみは、一体何なのだろう。
拒みたいのに、拒めない。柚明お姉ちゃんを失う事が嫌で嫌で堪らないのに、失いたく
ない心が胸いっぱいなのに、その促しに逆らえない。わたしがお姉ちゃんへ抱く想いより、
お姉ちゃんがわたしに抱く想いの方が強い為か。及ばなくて、静かに押されわたしの想い
が負けてしまう。頷かされる。受け容れを…。
「わたしの幸せは、たいせつなひとが日々を笑って過してくれる事。確かに明日を見つめ
て暮してくれる事。自身の生命を精一杯使い切って、悔いなく今を進み行く事。でも…」
そこで、柚明お姉ちゃんは初めて微かに肩を震わせた。無限に想えた心の強さに、ほん
の僅かに切れ目が見えた気がした。そうだよ。もっと柚明お姉ちゃんも自身の憂いを顧み
て。お姉ちゃんは人だから。鬼神じゃない。オハシラ様になっても、心の強さは無限じゃ
ない。
ほんの少しで良いから、わたしの想いに近い処まで降りてきて。美しすぎて、儚すぎて、
胸に抱く事さえ切ないんだから。もっと自身の先行きに悩んでっ。己の痛みや哀しみを…。
「ごめんなさい。それであなたの心に傷を刻んでしまった。一番たいせつな人だったのに。
一番傷つけたくない人だったのに、わたし」
そんな……。それが、悔いなの?
わたしが傷つく事が唯一の憂いなの?
自身のじゃないの? どこ迄も、どこ迄も。
あり得ないよ。そんなの、そんなのって…。
煮えくり返る想いは誰に向けての物だろう。
わたしは何に、怒りを感じていたのだろう。
「……あやまらないでっ!」
わたしは柚明お姉ちゃんに抱きついて、大声と涙をぶつけていた。蒼い衣を背後から掴
まえて、怒りと哀しみを叩き付けて、柚明お姉ちゃんを黙らせた。これ以上、言わせない。
後ろから腕を回して柔らかな胸を絡め取って。
「お姉ちゃん何も悪くないからっ。何一つ謝る事してないからっ。悪いのはわたしだから。
わたしが主の封じを解いちゃったのに、わたしが全部の原因だったのに、痛みも哀しみも
苦しみも全部負わせちゃったのに、その上」
わたしが謝らなきゃいけない事に迄謝って。
汚れも痛みも苦しみもわたしの所為なのに。
わたしの為に受けた傷をなぜわたしに謝る。
何か応えようとするけど、言わせない。
もうこれ以上言わせてはいけなかった。
「ひどいよ。これじゃわたし、柚明お姉ちゃんに何を謝って良いか分らないよ。わたしが
お姉ちゃんに謝る分まで取ってしまわないで。わたしの罪は、わたしに残して。二度と忘
れないから。もう逃げないから。絶対絶対憶え続けて、心に深く刻むから。だからお願
い」
役に立てないわたしに、想い位は返させて。
「わたしは柚明お姉ちゃんを一番愛している。
幼い頃から大好きだったけど、想い出せてから今迄一番だったけど、それより今の柚明
お姉ちゃんが一番綺麗で美しい。愛させて! わたしの一番たいせつな人。わたしが欠片
でも残る限り、最期の最期迄愛し続ける人」
その身は全部わたしへの想いでできている。
その身に負うた傷は全部わたしを守る為に。
だからその身が負うた苦痛は全部わたしの。
「誰に何をどうされようと、柚明お姉ちゃんは一番の人。わたしが傷つく筈がない。わた
しを庇って受けた傷なのだもの。その痛みは本当はわたしが受ける筈だった物。その汚れ
はわたしが受けなきゃいけなかった物。その傷口を見て、ほんの少しでも怯えてしまった。
誰が誰の為に負った痛みなのか、瞬間でも忘れてしまった。ごめんなさいはわたしなの」
想いはほんの少しも変らないから。ううん。
想いはもっと強く深く、変るから。だから。
「お願いだから謝らないで。わたしが謝るべき事に、謝るのは止めて。わたしに謝らせて。
ごめんなさい。お姉ちゃんを汚させちゃって。幾ら謝っても謝りきれない。でもわたし、
いつの柚明お姉ちゃんよりも、今の柚明お姉ちゃんが好きっ。心の底から一番大好き
っ!」
お姉ちゃんは、己の汚れを知られるのを怖れたんじゃない。己の羞恥で事実を隠したん
じゃない。わたしが哀しむから。わたしが傷つく事を怖れて、お父さんの死の記憶も一気
に取り戻すとわたしの心が危ういと気遣って。
『わたしが応えるから。桂ちゃんの知りたい事には、わたしが全て応えるから。だからご
神木に直接訊くのは、しないで欲しいの…』
傷つけない様に、順を追って伝えてくれる積りだったんだ。ミカゲちゃんの呪いと主の
暴露が偶々先んじたけど。確かに言っていた。
『わたしは今迄桂ちゃんの問を拒まなかった。
わたしは今後も桂ちゃんに答を拒まない』
常に柚明お姉ちゃんは事実を応えてくれた。
『叔父さんの事も、羽様での叔母さんの事も、幼い桂ちゃんの羽様での日々も。竹林の姫
の事も、主の事、主とわたしの拾年の関りも、桂ちゃんが訊きたいと言うなら隠さない。
全て応えるから、だから……』
お姉ちゃんは問えば応えた。わたしが疲れて早く寝入ったから、他の事を訊いたから…。
『桂ちゃんを哀しませる内容も入っているの。その侭流し込むのは桂ちゃんを危うくする
の。
わたしは二度と桂ちゃんを失いたくない』
普段にない、強い哀しみを感じさせる言葉。
あれは、これを語る為の覚悟だったんだ…。
わたしが尚現実に向き合える様に。再び記憶を閉ざしてしまわない様に。漸く取り戻し
た想いを又失ってしまう事がない様に。でも己の為に隠す気はなく。覚悟は定まっていて。
柚明お姉ちゃんの願いは、いつも願う人の為の物だった。自身の願いは常に脇に置いて、
わたしや白花ちゃんや誰かが傷つかない様に、お願いって。拾年前も、拾年の間も、今も
尚。
「わたし、全部しっかり受け容れるから!」
揺らがないから。想いは絶対だから。お姉ちゃんがわたしを想う気持の次位に強いから。
わたし、傷つかない。強くなるから。だからお姉ちゃんも、わたしの痛みに哀しまないで。
わたしは今の柚明お姉ちゃんが一番好き。
わたしの人生が尽きても永遠に一番の人。
「ありがとう。そして、ごめんなさい…!」
涙を吸う衣の蒼が瞼に染みる程眩しかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……くそっ! 一体どうなっていると…」
主はご神木に封じられた主本体との感応が巧く行ってない様だ。周囲を睥睨する余裕が、
徐々に失われていく。感度が悪い訳ではない。自分同士なら間柄は誰より近しい筈だ。桂
ちゃんと話す間、主がずっと動かなかったのは、わたしが対峙し警戒を続けた為だけでは
ない。
「封じを破る気がないのか……だろう? そうだ、自由はやはりわたしの最高に望む物…。
待て、どういう事だ。そんな、何を甘い」
烏月さんの鬼切りなら、彼を傷つけず鬼だけを斬れたかも知れない。でも烏月さんは今
動けない。一昼夜以上の静養が不可欠だった。それに、主が鬼切りの当たる瞬間身の奥に
潜めば、鬼切りを受けるのは白花ちゃんだけだ。
裏返った状態でないと鬼切りを当てても鬼を倒せない。明良さんや真弓さんがこの拾年、
白花ちゃんの主を取れなかった理由はそこにある。鬼は意志を持って逃げ隠れる。患部が
動き回る病を前には天才外科医も難渋しよう。
分霊の主は狡猾で、鬼切りの瞬間白花ちゃんに身体を明け渡していた。明良さんはそれ
を逆用し白花ちゃんを何度か取り戻したけど。座して打たれる主ではない。油断させるか
不意打ちでもせねば、鬼に当てる事は叶わない。烏月さんなら尚白花ちゃんに少し力量で
及ばないから、油断するかも知れない。そこに彼女の『己の最大限以上』の力が絞り出せ
れば。
でも間に合わない。今夜の危機に対応できない。脅威は正に目の前にいた。迫っていた。
他に手段はない。後はわたしが贄の血の力、ご神木の力、癒しの蒼い力を、裏返った主
に直接注いで灼くだけだ。完全に裏返った彼はわたしを怖れないと言うより、わたしを滅
ぼして封じを解く積りでいる。今更身体に潜って隠れる事はない。わたしが桂ちゃんを守
り、白花ちゃんを取り戻す。それで全て決着する。
「ノゾミ。……お願い……」
右隣間近で、わたしの背後に抱きつく桂ちゃんの涙声を見守っていたノゾミに声を掛け、
「ノゾミは、桂ちゃんを間近で抱き留めて」
ノゾミはまだ、その疲弊を補い切れてない。それに主に対峙するには彼女では力量不足
だ。
千年慕い続けた主が、その敵で憎み続けたハシラの継ぎ手と交わっていたと今になって
報されたノゾミの想いも複雑に違いないけど。一つ間違えば怨敵から恋敵になって、千年
愛憎を引きずりかねないけど。強大な主を前にしたわたしに、頼れるのはノゾミだけだっ
た。
ノゾミは、わたしを朱の瞳で見つめ返し、
「私だって、桂を守る為なら主さまとも戦う。昨夜鬼切り頭に返した答は嘘ではなくて
よ」
『主が桂おねーさんの血を渡せと言っても?
主が桂おねーさんの血を渡せば元の関係に戻してやると言っても、拒んで桂おねーさん
を守る為に戦えますか? できますか?』
『守るわよ。主さまの前では、贄の血を幾ら得たって私なんて鼠以下の存在だけど、それ
でも桂が喰い殺されるのは見ていられない』
ノゾミも己の一番を軸に揺らがなかった。
「あなたが私を疑っているのではなく、心配してくれている事は分るわ。でも、私も桂を
守りたいの。あなたの想いには及ばないけど、私にも桂はたいせつな人よ。……守らせ
て」
わたしは可愛さに意志を宿らせた容貌に、
「だから、桂ちゃんを間近で抱き留めて守って頂戴。あなたにしか、頼めない役だから」
あなたが最後の守りになる。町に帰ったらあなたは常に、桂ちゃんの最後の守りになる。
間近で抱き留めて、禍からも危害からも、不安からも怖れからも哀しみからも守って頂戴。
「わたしの一番たいせつな人を。あなたにだから任せられる。わたしの想いに、応えて」
「……桂が哀しむ様な結末を迎えないと、今回もゆめいが保証してくれる?」「ええ」
あなたも桂ちゃんを間近でしっかり守って。
お願い。ノゾミの現身の背に両腕を伸ばし、抱き留めて軽く頬を合わせ、すっと腕を解
く。ノゾミはわたしの所作を分っていて、腕伸ばされた時点で浮かせた身を寄らせ、絡み
つき。ノゾミの承認の意志は、肌から伝わっていた。
「今度こそ桂をしっかり守るから、ゆめいも必ず私と桂の想いに応えるのよ」「ええ」
「柚明お姉ちゃん……」
桂ちゃんが漸く涙を拭って衣から顔を離す。
「着物、汚しちゃった。ごめんなさい」
「ふふ、良いのよ。むしろ、有り難う」
桂ちゃんの想いの涙はわたしの力になるわ。桂ちゃんが呑ませてくれた血が、桂ちゃん
の守りになり、生命を幾つか繋いだ様に。必ず桂ちゃんを守り抜き、白花ちゃんを取り戻
す。
「ノゾミと一緒に、待っていて」「うん」
漸く話が付いた、と言うより中断した感じで感応を諦めた主が、こちらを見つめ直した
のは、ノゾミが桂ちゃんを抱き留めた様子を確かめて、わたしも前に向き直った時だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「男も識らぬ娘ども故、唆せば絆も綻び想いも崩れると思ったが、逆に強化されたと…」
主は驚きの故か、赤い瞳を見開いていた。
「わたしは捨てられても切られても桂ちゃんへの想いは放さない。想いは、崩れないわ」
微かに怯む主にわたしは袖を振るい決然と、
「桂ちゃんの血は一滴たりとも流させません。
勿論白花ちゃんの身体も返して貰います」
再度の宣告に、鬼の双眸がわたしを向いた。それで良い。わたしに意識を集めさせ。桂
ちゃんとノゾミに視線が行かない様に誘い導く。わたしの言葉と動きとを、殊更に見せつ
けて。
「ほう……。ハシラにも劣る継ぎ手風情に、私をどうにかできるのか?」
不快感を赤い瞳に宿らせて睨みつける主に、
「神そのものであるあなたには、わたしの力など蟷螂の斧でしょう」
しかし今のあなたにならば……結界の裂け目から抜け出した程度の分霊には。
「負けるわけにはいきません」
月の光が身を照射して蒼は更に濃さを増す。サクヤさんの観月の血が、桂ちゃんや白花
ちゃんの贄の血と混ざり合い、生命と想いを重ね合わせて、わたしに更に力を与えてくれ
る。
主は白花ちゃんに拾年寄生し、身体の扱いに習熟している。鬼切りの業は使えなくても、
格闘の基礎や腕力は修行の成果に鬼の強化を受ける。腕力も、脚力に伴う早さも主が上か。
わたしは鬼切部ではないけど、先々代鬼切り役の真弓さんに学び、贄の血の力を絡めた
独自の技を幾つか持つ。鬼切部の業は主も白花ちゃんの修行を通じて見て対応可能だろう
けど、わたしの技は知るまい。問題はわたしの技は守りが主眼で一撃必殺になり難い事だ。
感応で、どの位主は情報を得ただろう。わたしは拾年ご神木にいて、主の技は一通り分る。
わたしが纏う蒼と主の纏う朱は、見た限り伯仲していた。どちらがより強いかはぶつか
ってみなければ分らない。互いに夜で、満月の輝きを受け、その力は最大限に増していた。
腕力と早さで主がかなり優位、技でわたしが若干優位、わたしの蒼と主の朱はほぼ互角。
それらを扱い勝敗を決する、想いの強さは…。
互いに鬼だった。どちらも引く要素はない。
後は定めに導かれる侭に、主もわたしも最期迄、互いの想いをぶつけ合う他に術もない。
「オハシラ様のご神木が、あなたの力を蝶の姿に変えて、大いなる流れに還している様に。
白花ちゃんの身体に居付いた分霊を……あなたの意之霊を虚空(そら)に還します!」
強い風が吹いた。
風は月光を溶かし込んで青い。
桂ちゃんの心は読まなくても、大気に満ち満ちていて分る。血の一滴一滴で感じ取れる。
『一匹の蝶の羽ばたきが、巡って竜巻になる事があるかもしれないという理論は、あるの
だという……』
……正にその「かもしれない」が起った。
風はご神木を揺さぶって、まだ散るに至っていない花を空に舞わせた。
ひらひらと……花びらを、蝶の群れにする。
『元より柚明お姉ちゃんの使う光の蝶は、ミカゲちゃん達の力と打ち消し合う性質を持っ
ていたけど……この花吹雪から成る蝶の群れは、儚い幻などではなく霊と肉の両方を併せ
持つだけに、光だけの蝶よりも確実に強い』
そしてその数は……。
ゆうに数百頭は、超えているだろうか。
「何だと……?」
流石の主もこれにはたじろいだ。
その身から立ち上らせた赤い力すら、触れる端から蝶に吸い取られる。吸い取らせる。
そして……、樹齢千年を超える槐の巨木は、無尽蔵と思えるほどの白い花を、長く伸ば
した枝一杯に咲かせている。わたしが関知の力で視た夜のご神木は、これだったのだろう
か。
「くっ……このままでは……」
主は封じを灰にして己自身を解放しようと、ご神木に押し当てていたてのひらに力を込
め。
紅電が弾けた。
てのひらの形をした焼け焦げが、幹にくっきりと刻み込まれた。
しかしその程度では揺るがない。
むしろ、飛んで火にいる夏の虫とばかりに、枝の下にいる主に向かって花びらを降らせ
た。
『わたしには無害な、柚明お姉ちゃんの操る花びらの一枚一枚が、剃刀の刃のように、主
の力を削り取っていく』
「なぜだっ、なぜ蠢きもしない。わたしよ」
継ぎ手は尚槐に繋がれている。今槐の中で暴れ回れば、要の不在の封じを崩しに掛れば、
この女の動きは大きく制約できる。わたしの助けにもなるのに。己を解放したくないのか。
「封じの外と内から、同時に攻め掛れば!」
主はご神木の主に蜂起を促し怒鳴るけど。
ご神木の主は応えない。沈黙し、動かず。
そしてわたしが操る蒼は一層強く輝いて。
「どういう事だ。本当に継ぎ手に絆された訳ではあるまい。継ぎ手を弄んでその気にさせ、
振り回し突き落す戯れではなかったのか…」
その瞬間。
ご神木から、誰かがニッと戦闘的な笑みを浮べた印象が伝わってきた。それは目前の主
にも、ノゾミにも桂ちゃんにも伝わった様だ。光の蝶はその間も尚主に降り注ぎ、降り注
ぎ。
「これは、どういう……。ぐっ……」
「ご神木の主に、拒まれた様ね……」
「そんな、馬鹿な事が、ある物か!」
声にならない咆哮がご神木の奥から瞬間顔を覗かせる。それは感応の素養の有無を越え、
周囲の魂全てにびりびり荒ぶる心を叩き付け。鬼神の、主本体の声がご神木の外に漏れ出
て、
『貴様と継ぎ手との勝敗にわたしは関与せぬ。
わたしはまつろわぬ山の神、荒ぶる蛇の神、赤く輝く星の神。今更誰かにこの身を解き
放たれよう等とは望まぬ。わたしはわたしの意志と力で、槐の封じから己を解き放つの
み』
貴様はわたしに助けを求めるか。わたしを解き放つのではないのか。独力で継ぎ手に勝
てぬとわたしの助けを欲するか。それでも鬼神の片割れか。欲しければ戦って勝ち取れ!
『贄の娘は拾年、己の想いのみでわたしと戦い鬼神を封じた。その間まともに人の身体も
奪えず彷徨い歩いた貴様は、どれ程の者か』
他を頼らず、己自身の戦いを見せつけろ。
力と想いを、自身の生命で鳴り響かせろ。
千年外との接触を断たれた主が、千年の末に封じを一瞬でも断ち割って、届かせた意志
がそれだった。己は戦いに関らないと。解き放たれる事など望まないと。解き放つのは己
で為すと。そして欲しければ自ら戦い取れと。
最後の段はわたしに向けてのエールも兼ね。
それも分る。わたしは彼の想いなら読める。
「ぐっ、一体、何が、どうなって……」
白花ちゃんの肺を震わせ、声帯を使う声に、
「あなたは己の想いなのに分らないのですか。感応で感じ取れないのですか。わたしは分
ります。あなたの言う通り、彼の真の想いを受けたわたしには。男女の交わりも為し、想
いも深く交えたわたしは彼の真の想いが分る」
【お前を失いたくない。お前がこの侭消滅に向い行くのを見てはおれぬ。お前を欲する己
の心の侭に、わたしはお前を行かせない!】
ご神木の主はハシラの継ぎ手が封じを外す事が己の解放に通じると分って、戦いに赴く
わたしを留めようとした。千年願い求めた自由に並ぶ程わたしをたいせつに想ってくれた。
あなたを灼き尽くせば、ご神木の主はわたしとの悠久を受け容れてくれるかも知れない。
光の蝶を降り注がせる。尚降り注がせる。
「ノゾミちゃん、本当?」「みたいね……」
桂ちゃんがノゾミと抱き合いつつ問うのに、
「槐の主さまは、ゆめいが分霊の主さまに滅ぼされる事を好んでない。それどころか…」
槐の主さまは、ハシラの継ぎ手と過す封じの悠久も、悪くないと想っておられるの?
「愚かな……。どう戦っても、継ぎ手風情にわたしが敗れる筈がないのに。効率良く勝ち、
早く解き放てればと好意で誘った物を。だから千年解き放たれぬのだ。だから拾年前わた
しは自身に見切りをつけて、外に出たのだ」
継ぎ手を滅ぼして絶望させ、解き放ってもう一度合一し、想いを塗り替え消してくれる。
わたしが目覚めさせ呑み込む。わたしがわたしの全てを占める。力さえあれば心等不要だ。
どうせわたしを受け容れる気もないと視えた。拾年経ってもう一度見切りをつけるべき時
か。
赤い力が、白花ちゃんの身から溢れ出る。
「わたしは奴に非ず、奴も又わたしに非ず」
何だと? その嘲笑が次の瞬間凍りつく。
蒼は更に強く、その朱をも凌いで輝いて。
「なら、あなたはわたしの主ではない。わたしのたいせつな人ではない。あなたはわたし
が心通わせた鬼神の片割れではない。あなたを討つ事に、わたしは何の躊躇いもない!」
正樹さんの、真弓さんの、サクヤさんの、明良さんの、烏月さんの、そしてわたしの一
番たいせつな桂ちゃんと白花ちゃんの、仇!
「あなたをこの手で灼き尽くす。形も残さず消し去って、悪循環の輪廻をここで断つ!」
「何よ、この力の分厚さ。今迄とも違う…」
ノゾミが瞳を見開いたのは、わたしが更に力を強く紡ぎ出したから。尚深く想いを紡ぎ
出したから。その理由も聡いノゾミは悟って、
「ゆめいは、ミカゲを討つ時も力を抑えていたというの? ……最期の最期迄、もしかし
たら救えるかもと、一撃で滅ぼさない様に」
桂ちゃんを支えつつも現身は微かに震え、
「口に上らせた事もない私の願いを、叶える余地を残そうと。失って初めて涙見せた私の、
真の想いに応えようと。私が、桂やゆめいとミカゲの間で、心揺れていたあの時既に…」
『あなた、私を、引き留め、ないの……?』
『誰を大切に想うのかは、あなたの自由よ』
ゆめいは私が敵方に戻る事も覚悟していた。一方でミカゲの生命を奪わず決着する事迄
も。
『あなたも桂ちゃんの生命を狙わなければ。
わたしが癒しの力を注いであげたのに…』
『青珠に根を繋げたあなたは、桂ちゃんへの害意さえ捨てれば、流れ込む力で現身を保ち、
桂ちゃんやノゾミとの日々を掴めるのに…』
『ごめんなさい。……あなたの妹を、助けてあげる事が、出来なかった』
「確かに、敵に言う台詞じゃなかったよね」
「想いを、抑えていた。私の大切な人だから、単純にミカゲの消失を喜ぶ桂ではないと分
るから、ゆめいは最後迄ミカゲに情を残していた。私への憎悪を呑み込んで愛した様に
…」
憎しみを、恨みを、たいせつな人を傷つけ失わせた相手への強い怒りを、抑えていたの。
それを解き放った。槐の主さまのたいせつな人でもないとなって、誰にもたいせつな人で
はない分霊の主さまを、抑える想いを解き放ち、ゆめいは真の全力で灼き尽くしに掛る…。
「怖い。ゆめいの怒りには私触れたくない」
「でもノゾミちゃん、それって暴走じゃ…」
「ふっ、憎悪や恨みに我を奪われた人の心で、わたしをどうにかできると……。怒りや憎
しみに囚われて、鬼の心を剥き出しでわたしに勝てると思っているのか……ぐっ、馬鹿
な」
主の赤い瞳が驚愕に見開かれた侭動かない。
どうなっている。想いの侭に怒りを叩き付ける動きが、なぜ統御された如くわたしを正
確に強く削り続ける。あり得ぬ、あり得ぬ!
「桂は彼女の愛を暴走と感じた事がある?」
「……ない。当たり前だけど、全然ない…」
「そう言う事よ。ゆめいの想いの本質は…」
ゆめいの愛は幾ら強くても暴走にならない。
一番たいせつな人の為という軸を持つから。
己の為の愛ではなく、他者の為の愛だから。
自分との幸せを前提に置く愛ではないから。
ゆめいは己の怒りや恨みや憎悪からも自由なの。唯一の強烈な想いを軸に彼女は、他の
想いを全て踏み躙れる。切り捨てられ、呑み込め耐えられる。逆に自在に操り使いこなす。
「想いに振り回されるのではなく想いを司る。出すも出さぬも強弱も方向も意の侭に、己
が抱く他の想いを全て道具の如くしもべの如く、真の想いで組み伏せて、必要時に必要な
だけ。ゆめいの在り方は、槐の主さまに近いわ…」
一つの為に己を全部抛てる。鬼の中の鬼。
規模は違うけど、通じ合う物がある。だから槐の主さまはゆめいと想いが通じ合えたと。
「地獄が仏の慈悲でもある様に、憎しみが強い愛にも源を持つ様に。わたしの全ての想い
を、怒りも恨みも憎しみも、わたしの真の望みの為に。身に宿る全ての力を、わたしの真
の願いに集め。全身全霊で、あなたを討つ」
わたしの一番は常に、たいせつな人の守りと幸せだ。敵を倒す事ではない。恨みを晴ら
す事ではない。この身に滾る憎しみを返す為にわたしは今、現身で顕れている訳じゃない。
同時に、たいせつな人の幸せと守りの為になら、この身に宿る恨みも憎悪も憤怒さえも、
力に変えて使いこなし、余す事なく使い切る。全ての想いと生命を、矛と為して盾と為し
て。
「ミカゲはゆめいを役行者と言ったけど…」
ノゾミの声は桂ちゃんの目線さえ忘れて、
「それを越え、ゆめいは覚者かも知れない」
「くそっ、馬鹿な。封じは目の前なのに…」
引くに引けず、光の蝶を受け続ける主に、
「拾年の隔ては、あなたとご神木の主を隔て、わたしとご神木の主の隔てを埋めた。男女
の交わりがあるのに、真の想いの交わりだけはないと、あなたは見くびっていたのです
か」
あなたこそ男も女も人も鬼も識ってない。
「全身全霊で挑む者の怖さを知りなさい!」
わたしは気流を操り蝶を続々降らせ行く。
ノゾミの唖然とした呟きが感応でも届く。
「ゆめいの全身全霊が、拾年かけて槐の主さまの魂迄も引き寄せてしまったというの?
桂に一夜で絆された私は小鬼だから別として、鬼神その物を。……贄の血筋って、鬼の生
贄等ではなく、実は鬼の力と心を占めて鬼を統べ従える、支配者の血ではないのかしら
…」
主は大きく横に飛び、ご神木の枝の落す影から離れる。その瞳が桂ちゃんに向けられて。
『わたしの血を飲み力を増せば、お姉ちゃんを圧倒でき、お姉ちゃんさえいなくなれば封
じを解く障害はない……。そういう目だ…』
「桂、私の後ろに」「ノゾミちゃん!」
ノゾミは桂ちゃんを後ろに庇いつつ、自身は前面にありったけの力を集約しつつ、主に
向かって正面から進み出た。わたしは、桂ちゃんを間近に抱き留めて守ってと頼んだのに。
『私では、一緒に貫かれて終る公算が高い』
ノゾミの覚悟も心中も瞳から読めたけど。
『せめて桂から身を離さないと。私を貫く一動作で桂の生命まで絶たせる訳に行かない』
ノゾミも桂ちゃんを己より大切に想って…。
そのノゾミを、桂ちゃんのたいせつな人を、
「ノゾミ、退けなさいっ」
夕刻の様に前触れもなく左手で突き飛ばす。
直前迄ノゾミがいた処に、桂ちゃんを前面に出て庇う位置に、わたしが代りに挟まって。
大きく飛ばされたノゾミの後を見る暇はない。
大地を蹴って、反転。
赤い力を迸らせながら、彼方より此方へと疾走してくる様は、大気の摩擦に焼けた星の
欠片が落ちてくるようでもあり……。
夜の闇に焼き付き長々と伸びる力の軌跡は赤い大蛇さながらで……。
それを……。
『広げた袖の隅々までを青い力で包み込み、自ら蝶の化身と成った柚明お姉ちゃんが…』
全ての力を注ぎ込み、正面から迎え撃つ。
「あなたの鬼を、今取ってあげるからっ!」
巨大な力と力がぶつかり合い、その余波が肉を持つ桂ちゃん迄叩く。圧倒的な、空気さ
え吹き飛ばしてしまう力の奔流が荒れ狂った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
生命を差し出せば、生命を救える。
わたしだからこそ、それが為せる。
白花ちゃんも桂ちゃんも、わたしは救える。
わたしは届かせる者、引き替えに叶える者。
届かせられる。成し遂げられる。代りに何を差し出しても良い。持って行って。わたし
に尚捧げられる何かがあるなら。躊躇わない。
『一番たいせつな人を守り取り返す為になら、わたしにはこの想いさえ残らなくて良
い!』
主にこの身を預ける代り、わたしは白花ちゃんの身体に蒼を流し、朱を全部灼き尽くす。
全身で鬼の突進を、逃げず躱さず抱き止めて、わたしに満ちる生命全てで彼を満たし尽く
す。
お母さんが一度、わたしを守る為に生命と引換にやった様に。わたしは何度か試みて失
敗したけど。できなかったから、尚今があるのだけど。今度こそ成功させる。成し遂げる。
この生命を使い切ってでも、たいせつな人を。
巧く戦えば、消耗戦に持ち込めば、勝利も望めた。でもそれで勝てても一体何になろう。
主は身に残る力と生命を尽きる迄使い果たし、白花ちゃんを空っぽにして後共々に息絶え
る。
そんな不毛な勝利をわたしは望まない。
勝ててもたいせつな人は取り返せない。
わたしは桂ちゃんも白花ちゃんも守る。
2人ともがわたしの一番たいせつな人。
どっちかなんて選べない。そして選ぶ必要はない。わたしが生命を尽くせば良い。わた
しが想いの限りを注げば良い。わたしが全てを捧げれば、己を定めの生贄に供すれば良い。
わたしの関知に視えた図は、自身の相殺だ。
わたしに望める図はもうそれしかなかった。
主が劣勢を呑み込めず信じ得ず、突貫を為す機を逃さずに。削り合いになれば一層白花
ちゃんの身体は消耗し蝕まれ、死に歩み行く。主の頭に血が上った今だけがわたしの勝機
だ。戦いの勝利ではなく、桂ちゃんを守り白花ちゃんを取り返す、わたしの真の望みの為
の…。
巧く戦ってはいけなかった。
生き残りを考えてはいけなかった。
表に出ている主を、一度で全て灼き尽くす。
逃がしてはならなかった。身体に引っ込めさせてもならない。それでは同じ事の繰り返
しだ。白花ちゃんの身体がこれ以上保たない。この身を灼き尽くされても必ず主を消去す
る。拾年前の彼の求めを、全身全霊で抱き留めて。
この身を貫く朱と主を貫き通す蒼が爆ぜた。
膨大な力が狭い空間で弾けて打ち消し合う。
主の朱がわたしを犯し、わたしの蒼が主を染める。主に一歩も引く構えはなく、わたし
も半歩も下がる積りはなくて。濃い現身の外側に漏れるわたしの輝きが白花ちゃんの身体
に浸透し、主の朱がわたしの現身を浸食しつつ激しく燃えて、互いが互いを燃やし尽くす。
「……っ、ぁあっ!」「くはうぉおぅっ!」
わたしは更に強く抱き締める。濃い現身が崩れ掛っているのが分った。桂ちゃんやサク
ヤさんから貰えた血と想いが、限界を超えて軋んでいる。白花ちゃんにもそれは濃く深く
浸透していたけど、主は尚退く様子もなくて。
わたしの現身が分解される。分解されつつ、それで生じる力を更につぎ込んで、主を覆
う。覆い尽くす。強く深く、及ぼしてゆく。皮を肉を、骨を神経を、血管を臓物を再び失
い千切れゆく痛みを感じつつ、尚想いは緩めずに、たいせつな人の肌の奥へ魂の奥へと力
及ぼし。
この身も想いも消滅して尚、唯一つの願いが残れば。真の想いが夢に望んだ願い叶えば。
その為に残され託されてきた生命だったから。その為に人の生も死も皆差し出したのだか
ら。その想いがわたしを今迄在り続けさせたから。
全ては、たいせつな人の幸せと守りの為に。
わたしは、最期の最期迄あなたを諦めない。
あなたも、最期の最期迄自身を諦めないで。
「必ず呼び戻す。わたしのたいせつな人を」
現身が分解し、想いの核が削れ始めた辺りで漸く主の覇気の衰えを感じた。わたしの力
は白花ちゃんの隅々を覆い尽くし、その内側に深く浸透し始めて、主の朱を駆逐し始めた。
注ぎ続けるわたしも薄らぎつつはあるけど…。
主が己の消失を間近に見て怯え始めたけど、もう遅い。白花ちゃんの身体の隅々に、わ
たしの蒼は浸透している。わたしの現身を溶かし崩し、主の朱も食い込んで抜け出し得な
い。
後少し。もう少し。もう主に逃げ場はない。絶対放さない。この濃密な現身を為す力を
費やし、想いの核も削った。今やり遂げないと、消し尽くさないと、二度とこれを為す術
は…。
そこでは光が全てを呑み込み……。
そこには音すら存在せず……。
誰1人息も出来ずに……。
唯訪れの果てを待つ他に術もなくて。
肌を嬲る緩い風が、音と空気を運んできて、真白い光をさらっていく。
「は……」
『息をすることが、できるようになった』
桂ちゃんは無事だ。わたしと主の力の激突に伴う余波は、霊体には激甚な身を吹き散ら
す烈風だけど、肉の器や依代に収まる者には唯の突風だ。ノゾミは叶う限り遠くに弾いた。
「柚明お姉ちゃん……?」
「ぐっ」「……」
わたしは青を纏い、彼を尚抱き包んでいた。
もう主には、桂ちゃんを襲える余力はない。
もう主には、白花ちゃんを奪う余力はない。
わたしにももう、己を保つ余力がない様に。
「くはははっ……口だけではなかった様だな。ハシラの継ぎ手。一つ学ばせてもらった
ぞ」
主からは、陽炎の様に頼りない光が絶え絶えに立ち上り、夜の中に消えていく。拾年の、
執着と想いの詰まった最期の朱が、空に散る。
「確かにおぬしの申した通り、分霊程度ならば継ぎ手でも還せるのだな」
もう立たせるだけの力が残っていないのか。主……白花ちゃんの身体がずり下がってい
き、膝を屈し、最後には地に倒れ伏した。それをわたしは抱き起せない。確かな感触がも
う…。
「やった、柚明お姉ちゃんすご……」
しかしだ。主は冷徹に事実を言い遺す。
「それで己まで還してしまっては、本末転倒という物ではないか」
主の言う事は正しかった。分っていた。言われる迄もなかった。でもその先にしか2人
を2人とも助け出せる途は視えなかったから。どちらを選ぶ事も諦める事も出来なかった
から。これが最悪の結末を招くのかも知れない。
わたしの消失で主の封じが解ければ、助かった桂ちゃんも白花ちゃんも、数分生命を延
ばせただけに終る可能性もあった。それでも、目の前に迫る致命の危険は捨て置けなかっ
た。わたしにはこの途を行く他に選択はなかった。
「貴様は所詮何も得られない。己を失えば何も得られない。わたしは己を取り戻し奪い返
す術を失ったが、貴様も自身を失ったのだ」
己が得られぬなら、他者にも何も残さない。その思考は発想は、ミカゲのそれに類似し
て。わたしの間近な消失に満足し、分霊は潰えた。
わたしも暗い処へと、落ちてゆく。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お姉ちゃん! 柚明お姉ちゃん!」
桂ちゃんが駆け寄ってくるのは分った。
分ったけど、その隔たりはむしろ開き。
「ゆめっ……柚明、お姉ちゃん……っ!」
わたしの血なら、幾らでもあげるから消えないでっ!
手が伸びてきて、ぎゅっと抱き締められた。
その感触さえもが儚くて、頼りなくて……。
身を為す力が解れてゆく。崩れてゆく意識を止められない。考えるべき事が考えられず、
強い想いが絞り出せない。虚空に拡散し散っていく。幾ら紡いでも糸が溶ける様に消えて。
約束を、果たし終えたのかも知れない。
【定めを前に、打ち砕くか、打ち砕かれるか。互いに己の想いだけは曲げたくない物だ
な】
想いの侭に生きようではないか。君も我も。
己の内の真の望みを曲げる事なく貫こうぞ。
【はい。必ずお互いにその様に】
主……想いを曲げずに、貫けました。
【2人の幸せを守る為に、全てを捧げます】
笑子おばあさん。全て、捧げました。
【でも、今なら言える。わたしにもしもの事があった時には、桂と白花をお願いするわ】
【はい。任せておいて下さい】
真弓叔母さん。生命の限り尽くしました。
【わたし……なります。必ず……なります】
わたしは生きて、幸せになります。
【わたしは誰かの為に尽せる人になります。
わたしは誰かを守り通せる人になります】
わたし、守り通せた? わたし、幸せ?
【誰かの為に、役に立てる人生を、柚明も】
わたしは結局誰かの役に立てただろうか。
わたしはその想いに応えられただろうか。
今は唯、目の前の愛しい涙に応えられず、
「ごめんなさい、桂ちゃん。この先オハシラ様として、桂ちゃんの子供の子供の代まで見
守ろうと想っていたのに」
確かに間近にいる筈なのに、視線が焦点を結ばない。瞳を見て語りかける事が出来ない。
「あやまらないで!」
桂ちゃんの声は、わたしを強く叱りつける。
「わたしの為に負った傷で、わたしに謝るのは止めて。謝る様な事してないから。柚明お
姉ちゃんは、わたしに謝る様な事は決してしない人だから。だからわたしの前から消えち
ゃう事も、絶対絶対、しないんだからっ!」
その声は強く、その腕は強く、強く強く、
「子供や孫の先迄見なくていいから、わたしが生きている間だけでも、一緒にいてよ!」
「そうね、そうできれば良かったわね……」
この笑みは守り抜けた事への充足なのか。
たいせつな人を哀しませない為の笑みか。
力が抜けて何も為せない。選択肢が浮ばない。もしかして、わたし泣いても良いのかも。
でもなぜかわたしを満たすのは静かな笑みで、
「だったらそうしてよ! 今まで一緒にいられなかった分、わたしと一緒にいてよ!」
駄目だよお姉ちゃん、そんな笑い方しちゃ。
きっとその透明さは、運命を受け入れた人だけに与えられるものだから。
「諦めちゃ駄目なんだってば! わたしの血なら、いくら飲んでも構わないから!」
そうだ。諦めなきゃいけない事なんて何もない。この皮膚の下に流れる血を飲めば、柚
明お姉ちゃんは元気になるんだから。わたしのせいでオハシラ様になってしまったけれど、
だからこそわたしの血で助ける事ができる。
「ちょっとだけ待って! 本当にすぐだから!」「駄目よ、桂ちゃん……」
桂ちゃんを止めようとしたわたしの手が、触れることなく通り抜けた。
「あ……」「そう、もうここまで……」
桂ちゃんの失血は限界だ。だから止めようとしたのだけど、すり抜けて止められない腕
が桂ちゃんの動きを凍らせてしまった。それ以上何も不要だった。わたしの身体はもう贄
の血では賦活できない。人の血を、確かな生きた生命を吸収できない程希薄になっている。
人の血は濃すぎて最早わたしが力に出来ない。
素通りした皮膚が感じた、温もりの気配。
確かに桂ちゃんはそこにいるのに、どうしてももう触れる事が出来ない。出来なかった。
「桂ちゃん。もうわたしの存在が薄くなっているのが分るでしょう?」
何とか辺りを探り当てようと桂ちゃんが手を動かすと、わたしの形が崩れた。それは最
早現身とも呼べぬ、抜け殻の様な残滓の様な。痛みはない。霊体も切られ崩されれば痛み
は甚大な筈なのに、もう痛みも感じられない…。
必死に空気をかき乱す程に、わたしの姿は崩れていく。保てない。その所為で、桂ちゃ
んを泣かせてしまう。その涙を止められない。それが、心の底から残念だったけど。桂ち
ゃんの哀しみを拭う術を持たない事が哀しかったけど。それを表に出す余裕もなくて、そ
れを表に出して哀しませる事は更に出来なくて。
「ね? もう触れあう事はできないの。じきに人の形も崩れてしまうわ」
「お姉ちゃん、やだよ……わたし嫌だよ…」
桂ちゃんの想いは視る迄もなく全部分る。
この身は桂ちゃんで出来ていたのだから。
『どうして、幼いわたしが柚明お姉ちゃんの数日の外出さえ泣いて嫌がったのか今分った。
どうして、幼いわたしが柚明お姉ちゃんの遠くの地への進学をあれ程嫌がったのかも』
唯好きだったからじゃない。
唯愛していただけじゃない。
柚明お姉ちゃんは、儚かったから。
いつも消えそうな程に危うかったから。
いつ失われるか奪われるか不安だったから。
強いけど、幼いわたしより今のわたしよりずっとずっと強いけど、その強さを遙かに上
回る無理をしてわたし達を守ろうとするから。常にわたしやお兄ちゃんを守る為に全身全
霊だから。いつも命懸けで庇い抱き留めるから。だから元気が余っていても強さが溢れて
いても、力に満ちていても、常に儚く危うかった。
『しかしまあ、何なんだろうねえ。
あたしが来て去る時には、陽気に手を振って見送ってくれるのに、柚明がどこかに行く
となったら数日空けるだけでこの世の終りみたいに泣き喚くとは。扱いに差がないかい』
『サクヤおばちゃんは、また来るもん!』
柚明お姉ちゃんにそれは確信できなかった。
目が届く処にいないと、安心できなかった。
だから常に傍にいて欲しく望み泣き続けた。
だから常に傍で見ていて欲しくてお転婆になった。常に間近で見守っていて欲しかった。
顔色が一々気になったのも、仕草や声音を一々気に止めて、つい凝視してしまうのも…。
ずっと傍で見守っていてくれないと、柚明お姉ちゃんは危なっかしくて堪らないから!
「こんな時になってから想い出すなんて…」
間に合わなくなってから想い出すなんて!
『わたし達への愛が柚明お姉ちゃんの生命を削り、寿命を削り、その身を害し続けていた。
それを喜んで、心から喜んで為してしまう柚明お姉ちゃんに、わたしは何一つ返せずに』
心を引き裂く痛みが分る。分るけどわたしはもう、その痛みを癒す事も受け止める事も。
『ああ、その優しい心で自身を責めないで』
もうわたしはその心に応えられないから。
もうわたしはあなたの涙を拭えないから。
震える肩を抱き留める事は叶わないから。
「桂……ゆーねぇは……?」
白花ちゃんが意識を取り戻して歩み寄って来た。主の分霊ではなく白花ちゃんとして戻
ってきてくれた。その身体にもう主はいない。もうわたしがこの場にほぼいないのと同様
に。
良かった。それだけでも、成果を残せた。
『ケイくんは、こうして帰ってくれたのに』
「柚明お姉ちゃん……ここにいるけど……」
いなくなってしまうところだった。
「まだわたしの姿は見えるかしら? わたしの声は聞えるかしら?」「「うん」」
最期に心残りがあった。桂ちゃんや白花ちゃんをわたしの為に哀しませる、それより尚
間近に差し迫った、危機を告げておかないと。
「そう……それじゃあ、わたしからの最期のお願い……いいかしら……?」
2人とも逃げて……わたしが完全に消えてしまったら、主は封じを破ってしまうから…。
ご神木の主は、確かにわたしをたいせつに想ってくれた。でもその対象はわたしだけだ。
桂ちゃんや白花ちゃんは、主にはやはり贄だ。それどころか、主はわたしの一番たいせつ
な双子を、わたしを死に追いやった存在だと…。
【わたしは贄の血の陰陽を決して生かして置かぬ。お前を今迄苦しめ哀しませて来た元凶
は、わたしであると同時にあの双子だからだ。あの双子が居なければ、お前はそこ迄身を
捨てて尽くす必要もなく、封じのハシラにのみ専念できていた。お前の無謀を越えた行い
が贄の血の陰陽の為なら、その消失は紛れもなく贄の血の陰陽の所為だ。だからこそ
ッ!】
【わたしは、わたしから大切な物を奪う原因、贄の血の陰陽を決して許さない。それがお
前のたいせつな人だろうと、お前の哀しむ望まぬ末路だろうと、お前を消失させた原因を
わたしはこの地上に決して残さない。わたしはどこ迄も追い縋って双子を殺す。その血を
一滴残さず啜って息の根を止める。その血を絶やす。誰が妨げようと拒もうと、絶対
に!】
わたしが自由になれた暁には。
わたしが解き放たれた末には。
わたしが封じを失った時には。
【わたしのたいせつな物を奪う者には、必ず報いをくれてやる。鬼神の名において必ず】
主は己の真の想いに正直だった。わたしが頼んでも願っても、主はそれを受け入れない。
主を止められる者はなく、主を倒す術はない。もうわたしの守りは及ばない。この手で庇
う事も、この身で防ぐ事も叶わない。届かない。
「どこか遠くへ、逃げて、隠れて……」
「こんな時に迄、人の為にお願いなんて。一つ位、最期位、自分の願いを口に出してよ」
今夜は桂ちゃんに、何度叱られただろう。
その憤りも哀しみも、嬉しくて心温める。
でもそれが、わたしの最期の願いだから。
「……」
強い意志を感じた。白花ちゃんが、哀しみを越えて、何かを心に強く念じていると分る。
瞳は硬く強く、槐の大樹を見つめている。
「……どこにいくの? まだ柚明お姉ちゃん、ここにいるんだよ?」
白花ちゃんは昔から、どうにかしたい想いをぶつける桂ちゃんに対し、どうにかする術
を探す子だった。桂ちゃんの間近にいる故に沸騰する想いを堪え、末を見定める子だった。
「だからだよ。いる間じゃないと駄目なんだ。いなくなってしまってからでは、遅いん
だ」
「……逃げるの? 柚明お姉ちゃんを置いて逃げちゃうの?」
「奴を倒して、ゆーねぇを解放しようと思っていたんだけど、考えが甘すぎた。僕は分霊
程度に、ずっと引き回されていたんだからね。
だから……」
「逃げて……」
「逃げはしない」
きっぱりと首を振った。
「勝てないと分っていて挑むのは……ばかよ。お願いだから、折角の生命を無駄にしない
で。わたしの代りに、桂ちゃんを守ってあげて」
もうわたしの手では誰も守れない。せめて、白花ちゃんが桂ちゃんを守ってくれるなら
…。
「そうだね。だけど桂を守る為にも、そうするのが一番いいと思ったんだ。お手本を…」
少し前に示してくれたのは、ゆーねぇだ。
「烏月を僕の裏返った主から守るのではなく、僕の裏返りを抑え込んで烏月を守った様
に」
主をご神木に抑え込んで、僕が桂を守る。
「大丈夫。勝算はないけれど、負けない自信ならあるから。奴を倒す事さえ諦めれば、や
りようはあるんだ。……今の、僕にならね」
「ケイくん……もしかして……」
「僕がゆーねぇの次の継ぎ手になる。オハシラ様に僕が成る」
しっかりと頷いた。
「条件は充分に満たしているんだ。僕たちに流れている贄の血は特別に濃いみたいだし、
僕は奴を倒す為に修行したから、力も使える。主の分霊をゆーねぇに残らず消して貰えた
今、ご神木は僕を拒まない。ゆーねぇがオハシラ様になった時より、ずっと条件はいいん
だ」
「そう……」
止められない。わたしに為せる事はない。
白花ちゃんの身体も魂も、寿命が尽きかけている。その人生はもう、月で数えられる程
しか残ってない。鬼を取り去るのが遅すぎた。鬼の裏返りを阻む為に生気を使い込みすぎ
た。鬼を拾年宿し続けた身体も心も、既に死を通り過ぎ、想いが突き動かしている状態だ
った。
わたしに、生命を注ぎ続ける事が叶えば。
わたしが、もう少し在り続けられたなら。
わたしの、力と想いが及ばないばかりに。
一番たいせつな人を、一番守りたい人を。
『ごめんなさい。白花ちゃん……あなたを』
結局ハシラの継ぎ手を強いる事になって。
救う事も、守る事さえも、叶わなかった。
桂ちゃんを守る為に力を使える白花ちゃんが、ご神木に宿って永遠の封じを受け容れる。
それが彼の幸せかどうかは分らないけど、桂ちゃんを守る確実な方法であり、彼の望み…。
幸せを願ったのに。その笑顔を望んだのに。
わたしの全てを尽くし捧げて、至れる処はここ迄か。これがわたしの到達の限界なのか。
「それじゃあ、そういうことだから」
白花ちゃんは穏やかに自然な笑顔を残して、
「桂、行ってくるから、ゆーねぇのことをよろしく頼むよ」
「ケイくん……」
「さようなら、ゆーねぇ」
爽やかな笑みだった。それは為せる限りを尽くした人のみが、選ぶ事を終えた人のみが、
定めを受け入れた者のみが持てる笑みなのか。お父さんの笑みを、お母さんの笑みを想い
出した。美しくて、儚くて、切ない程の笑み…。
何もかもを詰め込んだ哀しくも愛しい笑み。
彼はご神木に、その奥の主に1人対峙する。
「さようなら」
わたしの返事にも、振り返らずに。
為すべき事にのみ、己を集約して。
わたしも今為すべき事にのみ、集約しよう。
もうごく短い最期の時を、たいせつな人と。
尚身を抱き留めてくれる、温もりに向けて、
「ねえ、桂ちゃん」「何?」
今日は、満月なのね……。
「今更だよ、ずっと出てたよ」
「ふふ……知っていたわ……」
でも……本当に吸い込まれそうなほど……。
桂ちゃんも見上げるけど、夜空を向いても、
『大きくて丸い月が空の真ん中に輝いている。他の星は滲んでぼやけてしまって分らな
い』
空にはただ、月だけが、輝いている。
その代りに瞼の裏に視えてくる像は。
桂ちゃんが、未修練でも関知の力を発動させて、分岐の先を視始めている。わたしに近
く接した為に、わたしの影響を受けて、わたしの末が本当に他にないのか探したい一心で、
わたしの末を一足先に見始めている。それは贄の血を濃く持つ者の定めなのか。来るべき
哀しみを先に知り、来てしまって再度哀しむ。
今迄一度も発動させた事ない贄の血の力を、消えゆくわたしを抱き締めてしまった故に
…。
もう分岐の先は確定だった。わたしの霊体は希薄すぎ、贄の血を取り込む事も叶わない。
疲弊したこの現身は朝の光を受ける迄もなく数分先に消失する。そして二度と、戻らない。
白花ちゃんが桂ちゃんの心に沈み込む決意をした時、視えた像をわたしは誰にも告げな
かった。この末を招く決意をわたしも確かに固めたから。鬼の裏返りは止められなかった。
桂ちゃんを助ける途は、そこにしかなかった。白花ちゃんはそれを覚悟していたし、何よ
りわたしは更にその先が視えたから。わたしは、裏返った主から白花ちゃんを尚取り返せ
ると。この想いの全てを差し出せば一度だけ叶うと。
主とわたしの相殺は視えていた。相殺せねば彼は救えなかった。その末に己を失う事も
見通せたけど。桂ちゃんを救い、白花ちゃんを救う途はその先にしかなかった。挑む他に、
術はなかった。己の生き残りではなく、主と己を確実に相殺し、たいせつな人を救う途に。
『一番たいせつな人を守り取り返す為になら、わたしにはこの想いさえ残らなくて良
い!』
捧げ得る最期の対価を、求められている。
これが、わたしの訪れの果てなのか……。
白花ちゃんが封じの要を担ってくれた以上、心残りも少ない。本当は、彼にもその生を
謳歌して欲しかったけど。わたしは為せる事を全て為し、選択を終えた。もう、充分かな
…。
希薄になったわたしの最期が散逸してゆく。
わたしの想いと力の残滓が形を失って散る。
それが間近な桂ちゃんの濃い贄の血に作用したらしい。わたしの力が、オハシラ様の力
が、制御を失い桂ちゃんに触れて取り込まれ。関知の力を、分岐の末を視る力を発現させ
て。
2人で一緒の像を視る。これが桂ちゃんとわたしの最期の共同作業だろうか。心を合わ
せ、力を合わせ、想いと生命を重ね合わせて。
「もう、手を握っても、あげられないけど」
せめて最期迄、この想いを寄り添わせる。
「一緒に視つめましょう。訪れの果てを…」
自身の最期を少し早く見届ける気分は複雑だけど、力を操れず目を背ける事さえ出来ず、
瞼の裏に視えてしまう像に、1人心震わせる桂ちゃんを捨て置く事は、耐えられなかった。
最期の最期迄、この想いが散って残滓も残らなくなる迄、守りたかった。怖れからも不
安からも哀しみからも。少しでも支えになりたかった。消え去る瞬間迄、心を寄り添わせ。
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「さあ、わたしもそろそろかしら……」
柚明お姉ちゃんは、まるで月から迎えが来る様な、そんな物言いをして遠くを見つめる。
「桂ちゃん。あなたと過ごせた数日間、わたしは幸せだったわ」
その視点は焦点を失って久しいのに、心の視点は昔から常にわたしを見定めて離さずに。
「お姉ちゃん……」「本当に、幸せだった」
きっと綺麗な笑顔だったんだろうけど、わたしにはよく分らない。鼻の奥がどうしよう
もなく熱く詰まって、目からは涙が零れ落ちる。目の表面で留まらずに、ぽろぽろと、ぽ
ろぽろと、零れ落ちて頬を伝い顎を濡らす。
だけどその雫も、もう柚明お姉ちゃんを濡らすことはない。落涙はお姉ちゃんを通り抜
けて、夜露のように草を飾った。
「さようなら、桂ちゃん。あなただけは元気でいてね。わたしや白花ちゃんの分まで生き
てなんて、傲慢なことはいえないけれど、せめて……せめてあなたの分だけは、精一杯に
ちゃんと生きてね」
ざっと風が吹いて花が散る。
腕の中から光の蝶が羽ばたいていく。
最期に淡い微笑を残して、柚明お姉ちゃんは消えてしまった。
「ああ……」
夜空には丸い月。
その月へ向かって羽ばたく光の蝶の群れ。
ふたたび強い風が吹いた。
風は微かに残った移り香を乱暴にひきはがし、手の届かない遠くへ連れ去っていく。
もう、わたしだけしかここにはいない。
もう、柚明お姉ちゃんはここにはいない。
「柚明お姉ちゃん……」
名前を呼んでも、優しい声で返事をしてくれる人はいない。
「柚明……おねっ……ゃん……」
地面の上で何かが光った。
涙が光を乱反射させただけかも知れないけれど、わたしは手の甲で目元をこすって、光
った何かに目を移す。
月光を跳ねて青く輝く、作り物の蝶だった。
「これは、ゆめっ、お姉ちゃんの……」
一頭だけ飛べない蝶が、置いてけぼりにされていた。青珠のお守りに描かれた文様に似
た、それを少し丸く可愛くした感じの、淡く輝く白いちょうちょの髪飾り。それだけが…。
「お姉ちゃんの髪飾り……」
本当は飛んでいける蝶を、寂しがるわたしの為に、残していってくれたのかも知れない。
「お姉ちゃん……柚明お姉ちゃん……」
形見の蝶を拾い上げ、胸に押し頂きながら月を見上げた。円い筈の十五夜の月が、ひど
くいびつな形に見えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ふふふっ……髪飾り、残ってくれるのね…。
成し遂げた笑みが、自然に湧いて出た。
「何も形に残せないと、想っていたけど」
もう自身で手触りを確かめる事も出来なかったけど、確かにまだ髪飾りはわたしの上で
輝きを放っていた。それが尚残ってくれると。わたしは潰えても、この想いは消え去って
も。
「良かったら、貰ってくれる……?」
わたしと、わたしの一番たいせつな人の物。
わたしの一番たいせつな人に、望めるなら。
『綺麗だったから頂戴ってお母さんにお願いしたの。でももう少し大きくなってからって。
この髪飾りを付けて、綺麗になった柚明を是非見せてあげたい、見て貰いたい誰かが現
れる時迄、もう少し待っていなさいって…』
『母さんにとっての父さんの様な人の事よ』
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
『わたしにはそれは、サクヤおばさんです』
「サクヤさんへの告白に使ったの。想いは叶わなかったけど、桂ちゃんと白花ちゃんが生
れる迄、わたしの一番の人だった。もし受け取ってくれるなら、わたしの一番の想いを迷
惑でなければ、この髪飾りを桂ちゃんに…」
桂ちゃんは、喉が詰まって声が出せない。
胸が詰まって答を想いから紡ぎ出せない。
答は求めない。返される想いは欲しない。
わたしの消失後の事を縛る答は要らない。
唯、良かったら貰ってねと、それだけを。
そう言えば、桂ちゃんにも白花ちゃんにも、一度も正面から告白してなかった。常に想
いは口にしていたけど、2人の答を求めてわたしの想いを告げた事は一度もなかった。拾
年前はともかくこの数日の間も結局わたしは…。
ご神木を離れられぬオハシラ様だったから。
消失の危険と、常に隣り合わせだったから。
想いを告げて返されても、わたしが応じられなかったから。わたしは己の想いを伝える
だけで、2人の想いを受けるだけで、問うて返される、問に返す行いを一度もしなかった。
『それが、わたしの定めなのかも知れない』
わたしは『届かせる者、引換に叶える者』。届くだけで返る物は保証されない。叶える
だけで成果を味わう事は保証されない。それを承知できるから、織り込み済みだから、届
かせ叶える一点に、己の何もかもを注ぎ込めた。自身の未来も、過去も、肉の身体も生も
死も、想い迄全部つぎ込め、漸く届かせ叶えられた。
通常それは不可能なのだから、充分素晴らしい星の巡りだった。たいせつな人を守り抜
けたのだから。想いは届かせても、例え望み叶っても、その返事を結果をわたしが確かめ
得ず手に入れられないのは、星の定めだった。
だから最期の最期迄、答を求めず、返される想いは求めずに、唯わたしの想いを告げる。
「永遠にわたしの一番たいせつな人だから」
「柚明お姉ちゃん……」
声を震わせ肩を震わせ、魂を嬉し哀しさに震わせる桂ちゃんの顔が、もう良く見えない。
「わたし、貰いすぎだよ。何も返せないよ。
返す事さえ出来なくなっちゃうのに…!」
「良いのよ。わたしには何も返さなくても」
温かな雫と優しすぎる心に温められつつ、
「わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない」
サクヤさんに語った言葉を桂ちゃんにも。
口に出す迄もなくずっとそうだったけど。
それがわたしの生き方で、在り方だった。
桂ちゃんと白花ちゃんはわたしの一番たいせつな人だけど、わたしは2人の一番である
事に拘らない。わたしは2人の幸せを望むけどわたしとの幸せを望む訳ではない。互いに
好きだから好きと言う。深く愛し大切に想う。でも返される想いは最初から最期迄欲しな
い。
桂ちゃんと白花ちゃんには、わたしは最初から一番を望まなかった。わたしの一番なだ
けで、惜しみなく愛を注ぐ事が望みで、愛される事は望外の幸せだった。2人がまだ子供
だった為というより、わたしは己の定めを感じていたのかも知れない。愛を返されても応
えられなくなる日が遠からず来てしまう事を。
ご神木に身を捧げて人を外れる別離の日を。
赤い痛みに閉ざされて過去も失われる事を。
力も想いも使い果し正真正銘消え去る今を。
2人を守り通すには、返される想いで成り立つ愛では駄目だった。不足だった。及ばな
かった。それで漸く今の結末なのだ。返される想いを期待せず、唯注ぎ続けるだけの愛を。
わたしは最期の瞬間迄、紡ぎ続け注ぎ続ける。
「さあ、わたしもそろそろかしら……」
「いやだよ……わたし、やっぱりいや」
一緒に視ても、納得等出来はしないと分っていたけど。最期迄心の震えに寄り添う他に、
為す術はなかった。穏やかに己の終りを視て受け止める事で、桂ちゃんの哀しみを少しで
も和らげようと。哀しみも痛みも絶望も共に。生命と想いの尽きる瞬間迄。訪れの果て迄
…。
「消えないで。何でもするから、お願いだから、わたしの我が侭を聞いて、消えないで」
桂ちゃんは己が見た図を少しでも変えれば、定めを変えられるかも知れないと、わたし
を保たせようと、必死になって声を挟む。でも、わたしの末は確定だった。贄の血でも賦
活させられないわたしに、消失以外の定めはない。
風の兆を感じた。わたしの最期の残滓を吹き散らす風が、数十秒後に吹き抜ける。わた
しは桂ちゃんの涙に揺れる瞳を前に、やはり、
「桂ちゃん。あなたと過ごせた数日間、わたしは幸せだったわ」
わたしが見た図の通りに語るのは、それをこそ最期に告げたかったから。わたしはその
場に何度立ち戻っても必ず一番の想いを語る。
最期に語るのは特別な秘密の暴露ではない。わたしが常に抱き、紡ぎ、語った想い。最
期に変る事なんて何もない。わたしは最初から最後迄、ずっと変る事なく一番たいせつな
人に想いの全てを寄せて来た。愛し続けて来た。変ったのは、周囲の状況とそれに伴う応
対で。魂は最初から最後迄、天地終って尚変る筈もなかった。最期に伝えるべきは最も強
い想い。
「お姉ちゃん……」「本当に、幸せだった」
この時に至って言うべき事はやはり同じ。
桂ちゃんの視界が涙で塞がれると分ってわたしは、叶う限りの笑顔を作る。桂ちゃんと
白花ちゃんに与えられたこの生命で、この想いで、この身だから。在れた事が幸せだから。
それを余す事なく最期迄、表したかったから。
桂ちゃんの涙がわたしに向けて零れ落ちる。でもその雫はわたしを濡らす事なく通り抜
け。
風が……来る……。最期の……風が……。
その前に、わたしは消えてしまうだろう。