第4章 訪れの果て(丙)
その白花ちゃんが、今この時に想うのは、
「僕は又、ゆーねぇを傷つけてしまった…」
己の心残りではなく、わたしへの慚愧で。
「心から助けたい人だったのに。一番たいせつな人だったのに。柔らかな微笑みが世界一
綺麗な、素敵な人だったのに。僕の全てをかけて、差し出して、救いたい人だったのに…。
幸せになって欲しかった。幸せを与えたかった。僕との幸せでなくても、せめて扉を開
きたかった。心の底からの笑顔を見たかった。隣に立つのが誰でも良い。何の憂いも持た
ず、日々を安楽に過す姿を見たかった。なのに」
この血塗られた手は、この呪われた身は、
「僕のたいせつな人を失わせてゆく。失ってはいけない人を奪ってゆく。僕が生きる程禍
が広がっていく。哀しむ人が増える。泣き叫ぶ声が止められない。サクヤさんの生命迄危
うくした。そして事もあろうに一番の人を」
幸せになって欲しい人を、笑みを浮べて欲しい人を、一番たいせつな人を、この手で…。
その顔が引き歪むのは、深い哀しみの故に。
「そんな僕を尚癒してくれる。尚守ってくれる。尚抱き留めてくれる。僕こそが、僕こそ
が何も返せてない。何の役にも立ててない」
それどころかこれ程温かな想いを受けても。
封じのハシラを代りに担う事さえできない。
「そんな事まで、考えていたなんて……」
「分霊を中に抱えた侭では、ご神木が受け容れない。封じの鍵を主に渡す様な物だから」
僕には、解き放って奴を斬る他に術がない。贄の血の力を使えても、鬼が魂に張り付く
限り、僕はゆーねぇの代りを担う事もできない。生命が燃え尽きつつある僕に最適な役な
のに。
「良いのよ。そんな事は、しなくても……」
唯白花ちゃんが、白花ちゃんとして生きていてくれるだけで良い。その生を確かに最期
の瞬間まで、精一杯生き抜いてくれるだけで。
彼の右手を掻き抱き、そこから癒しを流すのは、彼の右腕への憎しみが分るから。わた
しを貫いた右腕を、白花ちゃんは左腕で斬り捨てたい程に憎んでいる。分霊の意志に操ら
れ突き動かされた事を、己を罪に感じている。
だからそこから癒しを流す。だからそこに許しを与える。だからそこへと想いを伝える。
わたしは全部受け容れたから。大丈夫だから。あなたも自身を憎まないで。斬り捨てない
で、絶望しないで。あなたの腕には罪がない様に、あなた自身にも罪はないの。あなたが
右腕を裁く必要がない様に、自身を裁く必要もない。
例えあなたがわたしに致命の傷を与えても、わたしはわたしのたいせつなひとを、この
様に力づけて、抱き留める。そうしたいから。守りたいから。その心を、汲み取りたいか
ら。
「あなたは永遠にわたしの一番たいせつな人。どんなに罪を重ねても。あなたが鬼に染め
尽くされても。あなたが己を失い、わたしをわたしと分らなくなり、罪を罪と、痛みを痛
みと、哀しみを哀しみと分らなくなり果てても。その拳がこの身を貫いても。わたしはあ
なたを断つ事が出来ない。最期の最期迄諦めない。桂ちゃんとあなたが、わたしの一番の
ひと」
及ばなくても、届かなくても、至らなくても。諦めない、断ち切れない、捨てられない。
「わたしは執着の鬼。だからあなたを余計に苦しませ、哀しませ、その心を苛んでしまう。
でも、そうと分っていて尚、分っても尚…」
「お互いに、どうにもならない者同士、か」
白花ちゃんが一昨昨日の夜にわたしの漏らした言葉を、噛み締める様に口の端に上らせ、
「お互いに、助けようと想う人の力になれず、でも想う心は手放せず。何とかして想いを
届かせたいから、何とかして救い出したいから。本人が拒んでもその幸せを引き寄せたく
て」
わたしも白花ちゃんも、己の罪から逃れられず、罪を重ね償う術も無い侭に、己の定め
を進むしかない。途中下車は自身に許さない。尚守りたい者がある限り、尚大切な物を抱
く限り、尚暫くはその存在を続けねばならない。
その罰はいつか己が受けるけど。
その報いはいつか己に巡るけど。
「業を噛み締めて、尚暫くは在り続けねば」
わたしは悪鬼で良い。鬼畜で良い。元々清く正しい生き方を目指した訳ではない。桂ち
ゃんと白花ちゃん、一番たいせつな人の守りと幸せの為ならわたしはどこ迄堕ちても良い。
ある限りの力と想いを、たいせつな人の守りと幸せに。叶う限りの全てを傾け。その人
から得た血も力も、最期はその人に還し行く。わたしには最期に何も残す必要はない。わ
たしには、過ぎ去った日々の想い出が在れば…。
「……有り難う、ゆーねぇ。もう、良いよ」
白花ちゃんは力の抜けた声で、静かに右手に意志を込めて、尚掻き抱くその腕を外した。
「ここ迄来れば自力で何とかできる。ゆーねぇに教えて貰った血の力の扱いは大体憶えた。
少し荒削りだけど、後は血の濃さで補って何とかする。後は烏月を看てやってくれ。それ
と自分自身を大切に。僕の一番の人を大切に。その傷を早く癒し、早く身を包む衣を纏っ
て。それに、僕はまだ最期の望みを諦めてない」
尚癒しを注ごうと横たわった身体に手を伸ばすわたしを、その右手で拒み白花ちゃんは、
「僕は鬼切り役を打ち破り、主の分霊を抑え込んだんだ。ちょっと他力は借りたけど…」
後はご神木に行って封じを解くだけだ。オハシラ様に主の封じを解かせて、斬るだけだ。
分るだろう。ゆーねぇは封じの継ぎ手としては敵に、封じを解こうとする者に力を与えて
いるんだよ。だから、もうこれ以上は止めて。
「後はお互い、自力で行こう」
その意志は尚変らない。曲がらない。挫けない。覆らない。強く優しく真っ直ぐな魂は。
「ここ迄来たんだ。ここ迄近づいたんだ。後はご神木に行くだけだ。それを為すだけだ」
僕は主の封じを解く。解いて主を切り倒す。
本当に羽藤の頑固の血を、濃く深く受けて。
でも贄の血はともかく頑固さならわたしも。
尚起き上がれない白花ちゃんの瞳を見つめ、
「わたしは、封じを解き放ちはしないわ…」
白花ちゃんが封じを解く方法は一つだけ。
「わたしを、倒して通る覚悟はあるの…?」
わたしに白花ちゃんを倒す必要はない。わたしはいるだけで封じを保つから。でも彼は
わたしを封じから退かせないと先へ進めない。わたしが梃子でも動かないなら、打倒せね
ば。
わたしは説得に応じない。話し合いは続けても決して決着が付かず、決着が付かないと
封じは今の侭だ。わたしは引き分けでも良い。譲らなければ良い。それで拙いのは彼の方
だ。彼はわたしを、引かせ譲らせないといけない。戦うか諦めるか『決する者』は白花ち
ゃんだ。
技量で行けば、鬼切り役を打ち倒した白花ちゃんにわたしが勝つのは至難の業だ。力で
ぶつかれば白花ちゃんが押し通る事はできる。彼にその覚悟が在れば。彼がその志を貫け
ば。
「わたしは封じを解き放ちはしない。消える迄主の封じは手放さない。わたしはあなたの
攻め手を全部受けて耐える。わたしは一番たいせつな人に反撃しないけど、譲りもしない。
あなたと桂ちゃんの幸せと守りには、譲れない最低限だから。この身に替えても封じは保
つ。あなたを、わたしの一番たいせつな人を、その望みを拒み通す事になってしまうけ
ど」
わたしは、白花ちゃんが守ってと願ったから守っている訳じゃない。白花ちゃんが守り
は不要と言っても、それを止める積りもない。わたしが守りたいから、守っているだけな
の。
求めに応え守るのでなく、沸き出ずる想いに従い守りを為す。わたしは封じを解かない。
白花ちゃんの想いでも、白花ちゃんの為にならないならわたしは従わない。報酬も代償も、
返す想いも求めないとは、そう言う事。無条件の行いは守られる者の意図も受け付けない。
わたしが、たいせつな人を守りたかっただけ。
それがあなたの望みを絶つ結果になっても。
わたしの全てはあなたの幸せと守りの為に。
わたしはわたしの真の想いの侭に、真の願いの為に、真の望みの故に、為せる限りを…。
決して譲れなくても、何一つ力になる事も出来ず苛み合う関係でしかなくても、たいせ
つに想う事は出来る。想う他に何もできない哀しい繋りかも知れないけど。わたしは……。
白花ちゃんは、わたしの想いを分っている。
「……だから、これ以上の癒しは僕が受け取れないんだ。僕は今度こそ僕の意志で、ゆー
ねぇを傷つけてしまうかも知れない。最期の最期迄、僕も僕の望みを手放す気はないから。
その力をゆーねぇから貰う訳にはいかないよ。今夜は正に、その為の満月だから。僕も今
この時の為に積年の想いを力を注ぐから。その為に鬼切り役に挑戦して、退けたのだか
ら」
内なる鬼の暴走も、凌ぎ堪えたのだから。
その瞳は月の光を受けて強い輝きを帯び、
「僕はご神木に行く。行って封じを解き放たせる。ゆーねぇを説得して、必ず頷かせる」
僕への癒しは良いよ。その代り一緒にご神木に付き合って欲しい。と言うより、本当は
ゆーねぇには青珠か何かに取り憑いて貰って、空にしたご神木から主を引っ張り出したい
んだけど、ゆーねぇはそれを拒むと視えるから。
「一緒に行って、ご神木の前で対峙しよう」
戦いになるか、話し合いになるか。言葉で生命を削り合うか、黙して睨み合う魂の削り
合いになるか。どうなるかは僕も行ってみないと分らないけど、僕は僕の真の想いを貫き
通す。その心は、最期の最期迄変らないから。
確かな意志が紡ぐ癒しの拒みを、わたしは止める術がなくて、寄り添ってその言葉に耳
を傾け、その意志を受ける他に為す術もなく。彼は自身の星回りを言われずとも分ってい
る。
「もう少し、癒しに時が掛る。抜け駆けはしないから、ゆーねぇとは心ゆく迄対峙したい
から、烏月を羽様の屋敷に連れて帰ってから、一緒にご神木に行こう。最期の戦いの為
に」
……悪い、ゆーねぇ。烏月を看てやって。
「明良さんから託された、たいせつな人から任された、桂にとってもたいせつな人を…」
僕とゆーねぇにとっても大切な美しい人を。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは左脇腹から漏れ出る鮮血を右手で抑えつつ、俯せに倒れた烏月さんの下に歩み
寄った。彼女は尚意識を戻しておらず、維斗の太刀が手を伸ばせば届く処に転がっている。
煌々たる月明りはわたしに力を与えてくれるけど、わたしは白花ちゃんに全力で癒しを
注いだ為、正直己の癒しはそっちのけだった。白花ちゃんは本当はそれを気遣っていたの
かも知れない。昔から賢く優しい子だったから。
現身を纏う蒼い衣を作れないのも、自身の傷が癒えないのも、紡いだ力を全て白花ちゃ
んに注いでいたから。それはおくびにも出さなかった積りだけど、白花ちゃんは聡い子だ。
結果とわたしの性格から類推もできるだろう。
夜風も外気も、霊体や現身に良くないけど、それが致命傷になる訳でなし、不特定多数
の目に晒される訳でなし……白花ちゃんには目の毒を強いたかも。サクヤさんの様に素晴
らしい身体ならともかく、わたし程度の裸では。
「烏月さん……。今、癒しを注ぐわね……」
なので烏月さんを両腕で抱き起こし、肌から癒しを流し込む今も尚、わたしは一糸纏わ
ぬ姿の侭だ。もう少し、時間があれば。そう思いつつ、わたしは桂ちゃんと白花ちゃんと、
わたしのたいせつな烏月さんに、癒しを全力で流し込む。やはり己の癒しはそっちのけで。
鬼切りの効果は、確かに精神的な物らしい。気絶した烏月さんに、それに伴う外傷はな
い。額の小さな切り傷や各所の打撲は、鬼切りを受けた後で無防備に倒れた故の物だ。精
神に与えられた衝撃も、魂の濁り・鬼を削り取る余波に過ぎず、深手ではない。唯、威力
自体が尋常ではないので、結果がこの様に出た。鬼切り役として鍛え抜かれた烏月さんを、
余波で失神させるとは、本当に途方もない業だ。
常人なら三日は昏睡し続ける。身体の弱い人に当てれば、その衝撃で生命が奪われ得た。
鍛えられた人でも、一昼夜は意識を戻すまい。これなら、他の誰かが白花ちゃんに向けて
鬼切りを使えれば、主の分霊を斬る事も可能か。それが出来ないのは『左手を持つ事はど
んな力持ちの左手にも無理』という事なのだろう。
抱き起すと、意識のない烏月さんの無防備な素顔が月明りに照され無邪気に可愛らしい。
普段凛とした意志を宿す烏月さんだけに、張りの抜けた寝顔の美しさ可愛さは尋常でない。
長く癖のない黒髪に、白皙の肌。額に微かな切り傷が呼んだ血の紅が鮮烈な彩りを与え。
美しさに圧倒された。桂ちゃんの寝顔を間近に見た時位か。身が竦んだ。永遠にこの侭保
存したい。そう思わせる程に綺麗だったけど。
「女の子の顔に傷があるのは良くないわ…」
生き生きとした血の紅を拭うのが勿体なく怖かったけど。わたしの手を加える事で神秘
の造形と配色を乱す後ろめたさがあったけど。背中に手を回して抱き留めた肌から烏月さ
んの服や肌を通じ癒しの力を注ぎ込む。その額にわたしはゆっくり顔を、この唇を近づけ
て。
「んっ……」
口付けて直接傷を癒す。唇と舌に烏月さんの血が少量入り込むけど、それは烏月さんに
流し込む癒しに変えて。顔は女の子の生命だ。鬼切り役もそれは同じ。最優先で治さない
と。痕も残さず拭い取り、艶ある肌に戻さないと。
外傷は浅いけど、身体の隅々に癒しの力を及ぼして賦活させる。わたしの烏月さんへの
想いを込め。桂ちゃんや白花ちゃんにもそうだけど、わたしにもたいせつな美しく強い人。
引き締まった身体は細身だけど硬くはない。均整の取れた身体つきに、桂ちゃんが間近
で眺めて溜息をついた気持が、しみじみ分った。この美しさのどこから破妖の太刀を振る
う力を引き出せているのだろう。この端正さのどこから不屈の闘志を呼び起せているのだ
ろう。
この侭放置しても生命に別状なかったけど、身体に支障はないから数日の内に目覚めは
しただろうけど、気を失った女の子を夜に外に捨てては置けない。夜風に当てると風邪を
引くし、肌に悪いし。白花ちゃんの心配も分る。
多少無断で血を貰ったけど、僅かなのでサクヤさんの時と違い、わたしの構成に大きな
変化はない。大量に流し込むと、流石に異物なので烏月さんの魂や身体が拒絶反応を示す。
若くて健康な身体だから、乗り越えられる筈だけど、一時的に意識を戻す事もあり得た…。
「ユメイさん……うっ」
彼女の精神は甚大な打撃を受け、わたしの癒しは注入途上だ。烏月さんが心確かに、普
段の様に考え言葉を紡ごうとすれば、流石に多少無理が出る。虚ろな目線で、わたしが額
の傷に唇を添える様を追っていた烏月さんは、徐々に目覚めて、抱き留められた己に気付
き、四肢に力を入れ直そうとして苦悶に身を捩る。
「んっ……楽にして。……身体も、心も…」
わたしは額の切り傷に舌を這わせ、癒しを及ぼして傷口を閉じる。唇や舌が赤く濡れて
いる事で、烏月さんはわたしがその血を呑んだ事を知るだろう。わたしも隠す積りはない。
「ユメイさん、これは……はぅ」「静かに」
わたしは烏月さんの思考にブレーキを掛ける為に、その喋りを一時止める為に、額から
放した唇を烏月さんの唇に当てて、塞ぎ止め。魂に癒しを流し、少しの間驚かせ思考を止
め。
「っ……ん、んめいはん……?」「んっ…」
驚きに、漆黒の瞳が見開かれる。鬼切りよりも大きな衝撃に、言葉も身体も凍り付いた。
動きが瞬時消失し、身体は強ばり突っ張って。
簡単には放さない。ゆっくり唇を重ね合わせる。烏月さんは逃げる意志も拒む意志も発
動せず、為される侭に目を見開き。わたしは口から喉へ、臓腑へ、魂の奥へ、想いを注ぎ。
白花ちゃんはまだ身を横たえた侭動く様子もない。微かにわたしの動きに苦笑を浮べた
様子が視えた。わたしの所作は悟られている様だけど、必要な行いを特段隠す積りもない。
一分位口付けただろうか。烏月さんの意志が定かでない内に、その意志を半ば踏み躙り、
押し切った口づけだけど。最後迄烏月さんは為される侭で拒まずに、わたしの側から静か
に離す。唇を離して漸く、唇での話しが始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ごめんなさい。一気に目覚めると、身体にも心にも負荷が大きいから……」
特に烏月さんは明晰な人だから、目覚めればすぐ考えを纏め始める。脳をフル回転させ、
記憶を手繰って今の立ち位置を確認し始める。桂ちゃんの様に少しおっとりした心の持ち
主だと、その進み具合もちょうど良いのだけど。
抱き留めて間近に見下ろし語りかけるのに、漸く状況を把握できてきた烏月さんは、衣
を纏わないわたしの抱擁に気付いても、振り解こうとしない、身を起そうとしない。身体
が重い所為もあるけど、心が重い所為もあるけど、それ以上に烏月さんはわたしの温もり
を。
「……あなたに癒しを注ぐのも兼ねて」
「……あなたは私に尚癒しを注ぐと?」
あれ程何度も断ったのに。あれ程想いを拒んだのに。絶対受けないと迄言い切ったのに。
「今のあなたの拒まない気配位は分ります」
これでも、鬼ですから。
わたしが敢て鬼を強調するのに烏月さんは、苦笑いを見せてかぶりを振るだけで拒まな
い。その表情には、気力が抜けたという以上に何かを突き抜けた様な爽快さを強く宿して
いて、
「こんなに優しく美しく、強い鬼もいるのですね。鬼を憎み、鬼の助けを拒み、隔て続け
てきたこの私に尚、身を纏う衣を為す力を後回しにして癒しを注ぐ。放置して大事ない筈
のこの身体に、鬼の天敵の鬼切りに、己の傷を癒す力を後回しにして癒しを注ぐ。鬼から
人を守る鬼切り役が、鬼に守られ癒されて」
烏月さんはわたしの癒しをもう拒まない。
烏月さんはわたしの想いをもう隔てない。
烏月さんはわたしの抱擁に身も心も委ね。
「……うっ……あ……!」
思考が動き始めると弱った頭に負荷が掛る。本当は考えないで欲しいのだけど、彼女は
それを今心から欲している。わたしは抱き留めて更に強く癒しを流す事で、それを緩和さ
せ。彼女が考えたいならわたしが不足な力を注ぐ。
わたしの強い抱擁に、烏月さんは受容の想いを肌で伝え、その身をわたしにすり寄せる。
2つの半身が絡み合い2つの唇が触れ合った。わたしはそれに意志を込めて重ね癒しを注
ぎ、
「んんっ……」
烏月さんは拒まずむしろわたしの唇を求め。
瞳の美しい人、黒髪の艶やかな人、声に意志を秘めた人。桂ちゃんを何度も守ってくれ、
わたしも救ってくれた強い人。桂ちゃんのたいせつな人。そしてわたしの、たいせつな人。
烏月さんが受けた精神の痛手は、わたしの癒しでも簡単には取り返せない。鬼切りの衝
撃は余波でもそれ程凄まじい。落ち着いたら、お屋敷で休んで貰わないと。今目覚めたの
は、主の封印の行く末を心配する使命感の故の無理だろう。本当は今尚起きられない筈な
のに。
白花ちゃんが少し離れた所で横たわって動かぬ様を見て、烏月さんは少し安心できた様
だった。敗れはしたけど、勝敗より大切な物はまだ守れていると。彼はまだ主の封印を解
きに動く事ができてないと。わたしが唇を通じて癒しと共に、感応を及ぼして伝えたから。
『あなたは良く戦ったわ。桂ちゃんの為に、わたしの為に、そして彼の為に。彼の挑戦に
応じ、全身全霊を尽くして戦ってくれた。有り難う。戦いは時の運。勝敗は兵家の常。主
の封じはわたしが絶対解かないから安心して。
彼は尚動けない。そして彼は尚封じに手が及ばない。わたしが決して解き放たないから。
あなたは戦い疲れた身を休めて。あなたの一番たいせつな桂ちゃんの為にも、わたしは生
きても死んでも主の封じは解き放たないから。
相手がわたしの一番たいせつな人でも、否、相手がわたしの一番たいせつな人故にこ
そ』
疲弊した心にわたしの想いが浸透していく。満ちる心が烏月さんの緊張を緩め、続きを
求める想いが視え。数分に及ぶ長い口づけの末、
「この様に肌を触れ合わせるのは、何年ぶりだろう……。兄さんの亡骸を抱き締めた時以
来か。ああ、人の肌って温かい物ですね…」
桂ちゃんと一つの布団で寝た夜も想い出した様だけど、言う迄もないのか敢て語らない。
想い浮べた瞬間わたしに見通されていると承知の様で、明良さんの想い出の方に話を振り、
「夢を、視ていました……」
あなたも、一緒に視ていてくれたのですね。
わたしは彼女を抱き留めた侭黙して頷いた。
わたしも烏月さんが掘り起した過去を視た。目を背けられなかった。明良さんの最期だ
ったから。わたしのたいせつな人でもあったから。正にあの時、3人の定めが決し別れた
…。
「白花ちゃんに視た像と、あなたが見た夢と。両方視てしまいました。わたしは、目を逸
らす事が、出来なかった。……ごめんなさい」
白花ちゃんは明良さんに隠れて鬼切りを修めつつあった。会得すれば主を倒せる。わた
しを助けに、経観塚に羽様にご神木に主を斬りに行ける。最後の切符を前に心は前掛りだ
った。精神や肉体の鍛練の成果は手の届く処にあった。明良さんの鬼切りを彼は見ていた。
烏月さんの様に身に受けて感覚は掴めていた。後は、己の手で振るって会得するだけだっ
た。
明良さんの少し待てとの指示は、鬼切りを会得した白花ちゃんが主への挑戦を抑えられ
ない事と、会得の為に一度それを振るう必要があり、鬼を裏返させる危険の故だ。でも白
花ちゃんはそれを分って尚逸る心を抑え得ず。
白花ちゃんは実際に鬼切りを振るい、その身に修得を完了した。そして鬼が、裏返った。
心配して駆けつけた明良さんも、明良さんを問い詰めて足止めし追随してきた烏月さん
も、僅かに間に合わなかった。3人の僅かなタイミングのずれが、全てを決し別れさせた。
裏返った主は千羽の人を、烏月さんや明良さんの仲間を殺めて逃走し、町へ出て無辜の
人を殺傷した。鬼切りを扱える明良さんは分霊にも厄介だから、逃げを選んだ。結果白花
ちゃんの存在が若杉に知られ、明良さんは鬼切り役を解かれ、烏月さんに使命が下された。
「兄の討ち漏らした鬼と、兄明良の討伐を」
どうして。どうして。どうしてあんな鬼を。
分らなかった。分りたくなかった。兄に戻ってきて欲しかった。私のいた世界に、千羽
のみんなの居る世界に、鬼を斬る鬼切部へと。でも兄は、鬼を斬らず、鬼を匿い、鬼を育
て。それは、噂に聞いた先々代を、彷彿させた…。
「先々代の話は千羽では禁忌でした。私は幼すぎて先々代の事は殆ど憶えてない。時折兄
が断片的に話してくれたけど、突っ込んだ話は誰もしない。噂では先々代は、鬼に魅惑さ
れて鬼に寝返り、千羽を捨てた恥知らずと」
兄もそれについて行ってしまうのか。
私を置いて捨てて行ってしまうのか。
どこか遠い見知らぬ処へ消えるのか。
その袖を引いて後を付いて歩いた事が私の一番幼い想い出なのに。兄の後を数歩遅れて
も共に進み、鬼切りの使命を共に担うのが私の望みだったのに、私の励みだったのに、私
の喜びだったのに。真の願いだったのに!
居なくなってしまうのか。
声を聞けなくなってしまうのか。
笑みを見られなくなってしまうのか。
行かないで。私を置いて、行かないで!
「私は兄を追い続けた。奴を追い続けた。答を求めていた。悔しくも情けなかった。兄の
答がなければ、奴を追わねば、鬼を斬らねば、私は私で居られなかった。私は兄に寄り掛
った弱く小さな存在だった。あなたに対した時もそうだった。私は鬼を斬らねばならない
と、鬼を斬る事が私を私で保たせる唯一の術だと。
追いついて奴を、実際は鬼を漸く抑え込み、人に戻れた直後で疲弊し身動きできずにい
た羽藤白花を斬ろうとした私の前に、兄が…」
あなたの前に桂さんが立ち塞がった様に。
ノゾミの前にあなたが立ち塞がった様に。
奴に、あなたやサクヤさんが為した様に。
瞼の裏に映ったのは、維斗を持った烏月さんが明良さんを斬った像だ。それは烏月さん
がわたしに視える事を承知で想い返している。想い返さねばならないと向き直ったけど、
尚怖いと、わたしに共に視て欲しいと望んで…。
心の強い烏月さんがこんなに身を震わせて。縋り付く程に身体を寄せて。声だけは必死
に己を保って強さの片鱗を窺わせるけど、その哀しみの深さが、苦しみの重さが、辛く痛
い。
彼女は己の傷の一番深部に向き合っている。
どうしても見つめ得ず、触れる事も想い返す事も放棄した心の致命傷に向き合っている。
乗り越えないと先に進めないと分ったから。
向き合わないと先に進めないと知ったから。
鬼切りを受けて兄の想いを感じ取ったから。
白花ちゃんを通じて伝えられた明良さんの想いを、白花ちゃんの想いと重ねて、その身
で確かに感じ取れたから。受け取ってしまったから。心の殻を鬼切りに打ち砕かれたから。
「可哀相に。哀しみが、愛が深すぎたのね」
わたしは烏月さんの頬を身にぴたと当てる。
より強く温もりを欲していると分ったから。
儚く美しいその素顔を胸の内に抱き留めて。
烏月さんは信じられない程か弱く儚かった。
烏月さんは肌触りに己の身を捩って埋めて、わたしの素肌の上に涙を零して、拭いつけ
て。
「私は兄を斬ってしまった。一番たいせつな人を。尊び敬い、目標にしてきた人を。斬る
積りはなかったのに。斬れとの使命は受けていたけど、最期の最期迄その積りはなかった。
私は兄を説得して奴を斬り捨て、或いは兄に斬らせ、兄と共に千羽の家に帰りたかった。
幼い日々に戻りたかった。唯兄の先に夕陽を明日を遙かに見つめ、その背を眺め鬼切部と
しての日々をいつ迄も歩み行きたかった…」
たいせつなひとが、いなくなってしまった。
取り戻せない幼い日々を取り戻そうとして、本当に失ってはいけない物を失ってしまっ
た。
夕刻のサクヤさんの様に。一つ間違えばあなたも斬り捨てていた。両方私のたいせつな
人だったのに。あの時もそうだった。奴を庇い最期の最期迄兄は私を説き伏せようと。で
も私はそれを聞き入れず。私は兄に戻り来る事だけを欲し、兄や奴の想いを知ろうとせず。
「兄は奴の心に踏み込んで、奴の哀しみに分け入って、奴の想いを見て知った上で、その
鬼を、鬼の定めを、十年掛けて、鬼切りの修行を通じて、何とか断ち切ろうとしていた」
そして奴も己の力の限り、己の定めを断ち切ろうとしていた。私だけが人の心に踏み込
めず、人の哀しみに分け入らず、人の想いを見る事も知る事もせずに。全て門前払いにし
て切り伏せようとしていた。その結果私は…。
己の望みを、己の願いを、己の想いを。
「私がこの手で……断ち切ってしまった」
受け止め得ない哀しみ。癒し得ない痛み。塞ぎ得ない心の穴。埋め尽くせない心の空洞。
「私は鬼だった。私こそが鬼だった。己の求めの為に、私の兄との幸せの為に、兄が他の
途を進む事を認められず許せず。己の物だと、兄の心を拒んで縛ろうと。思い通りになら
ないと斬り捨てた。この私こそが鬼だった…」
烏月さんがわたしの胸で涙を零す。その腕をわたしの肩に回して、縋り付く。ミカゲの
言葉が想い出された。当時の烏月さんの硬い拒絶は、夕刻見たミカゲの拒絶その侭だった。
【情けは要りません。人の情けや助力等…】
『……私は、絶対鬼に情けをかけはしない。
同時に、鬼の情けも助けも絶対受けない』
【主さまから生じ、主さまを慕う姉さまから生じた私は、姉さまの主さまとの幸せは喜べ
ても、桂や継ぎ手との幸せは喜べない】
「私は兄が千羽のみんなと進む途は喜べても、奴と共に進む途を喜べなかった。私もその
途を行こうとは想いもしなかった。止める事しか考えなかった。兄の幸せの枠を私が勝手
に決めていた。結局それが兄さんを失わせた」
あなたと正反対だった。あなたは私の選択の逆を目の前で見せつけた。見せつけられた。
「あなたはノゾミを受け容れた。ノゾミと桂さんの町での暮しを微笑み見送れた。桂さん
の未来に条件も前提もなく、その守りと幸せだけを願えた。己ではなく己の愛した人の未
来だけを見つめ祈り、深く強く想い続けて」
『どの様な結果になろうとも、桂ちゃんの日々に笑顔が残ればそれがわたしの幸せです。
どんな未来を招こうと、桂ちゃんの守りが叶うならそれがわたしの望みです。わたしが鬼
に成って迄あり続けるのはその為ですから』
その強さと優しさには、及びようがない。
「仮にあなたを鬼と呼ぶのなら」
桂さんの為に身も心も捧げ尽くして人である事を失ったあなたを鬼と呼ぶのなら。忘れ
去られて尚何度でも身を抛ち、桂さんの幸せの為に仇のノゾミを受け容れ、その過去に口
を噤み幸せを願えるあなたを鬼と言うのなら。
私は鬼と呼ぶにさえ値しない。あなたの強さと優しさの千分の一でも、あの時持ててい
たなら。あなたの思慮深さと想いの万分の一でも、あの時身に備えていたなら。悔しい…。
「あなたに、もっと早く逢えていたなら!」
あの時、私が少し心を開けていたなら!
わたしはそれに応えない。答に意味のない問だから。わたしは彼女に会う事は出来なか
ったから。選び終えた過去を変える事は鬼神にも叶わないから。そしてその時の彼女は…。
わたしは唯その想いをこの身に抱き留める。
わたしは唯瞳の宝石をこの肌に受け止める。
わたしは彼女の心の鎮まりを時と共に待つ。
言葉は要らない。どの様な慰めも届かない。
心の限りを吐き出して聞いて欲しいだけだ。
答を欲しているのではない。問も答も、彼女自身の内にある。それも彼女は分っている。
だから暫くは、唯受け止めて、黙して語らず。
彼女の心の傷を癒やせたのは世界で唯1人。その唯1人を自ら殺めたのなら、千羽烏月
の魂を癒やせる者等この世に存在する筈もなく。
わたしは言葉を返さず黙した侭烏月さんを抱き返す。できるだけ身にぴったりとその頬
を身体をすり寄せて、想いを癒しを流し込む。
「私は兄を斬って鬼切り役に就いた。千羽のみんなは先代も先々代も本当の鬼切り役では
なかったと噂した。先々代に憧れ先々代を目指した兄も本当の鬼切り役ではないと。私こ
そ、兄をも斬り捨てた私こそ本当の鬼切り役だと。待ち望んだ真の鬼切りの鬼だと」
技量よりも在り方だと。人でも鬼でも命令が下れば殲滅する。どんな事情も斟酌しない。
力の限り、それが敬い尊び愛し憧れた肉親でも迷わず躊躇わず斬り捨てられる。それこそ
真の鬼切部だと。鬼切り役だと。千羽党だと。
その在り方から行けば、浅間の里の襲撃も、わたしへの刃も、過ちではなかった事にな
る。
「私はそれを受け容れた。受け容れる事にした。そうでなくば、その賞賛に背を向けては、
私の魂に居所がないから。兄を目指し兄を尊び兄の途を進んでいたわたしは、兄を斬る事
で進む途迄も断ち切った。行く先も戻る昔も失った。千羽の使命に沿い鬼切部の定めに従
い唯鬼を憎み斬る他、私に途は視えなかった。そう追い込まねば己を保てなかった。鬼を
憎む事を己に強い、人の心に触れる事を拒み」
本当は間違いだと感じていたのに。
桂さんに逢う迄、あなたに逢う迄。
私は心の闇にいた。深い闇にいた。
「あの日以降、兄の想いにも己にも向き合えなかった。何が正しいのか応えられなかった。
だから唯目の前の敵を倒す事に、仇を取って役目を果す事のみに、己を追い込んでいた」
大きすぎる哀しみを受け止めきれないと拒んだ為に、彼女は受け止めるべき彼の最期の
想い迄拒んでいた。その温かく強い想い迄も。彼女がかつて目指して望んだ自身の想い迄
も。
どうかそれに気付いて。己を見つめ直して。
目を逸らしている事に、蓋をしている事に。
わたしは一昨日の夜烏月さんにそう問うた。
『そうしなければ、この先幾ら鬼切りの業を究めても、心を閉ざし鬼の身体だけ斬って倒
しても、あなたが目指した先代や、先代が目指した先々代の鬼切り役には、近づけない』
強さの問題じゃない。それは在り方の問題。今の侭では、あなた以上に桂ちゃんが哀し
む。
鬼を憎む故に鬼を斬るのか、人を守る為に鬼を斬るのか。鬼切部の真の存在意義とは?
烏月さんがわたしの胸から首をもたげて、
「今なら、応えられる。確かに応えられる」
聞いて貰えますか、ユメイさん。
わたしの頷きに彼女は涙を湛えた瞳の侭で、
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役。人に仇なす怪異を討つのが、
我ら鬼切部の使命。千羽党当代の鬼切り役としての勤め。……人に仇為さぬ物は対象外」
だから、彼女はわたしを斬らなかった。
だから、彼女はノゾミをも受け容れた。
サクヤさんを殺さなかったのもその為。
彼女は殺せなかった。生命奪えなかった。
人に害を為さぬ物は、彼女の敵ではない。
「最初から、正解続きでしたよ。烏月さん」
烏月さんの真の想いは、正解を出し続けた。明良さんの教えはその胸に鎮座していた。
迷いや曇りはあっても、大事な場面で彼女は途を誤らなかった。紛れもなく千羽烏月は千
羽明良の後継だった。当代の鬼切り役は、先代と先々代の想いを継いでいた。烏月さんに
惚れた桂ちゃんの感性は、間違いではなかった。
「あなたの真の想いは常に正解よ」
桂ちゃんをたいせつに想って絆を繋ぎたく願った事も。その強い意志に押し切られて絆
を繋ぎ直した事も。全身全霊を賭けて守ってくれると約束し想いを重ねてくれた事も全て。
「桂ちゃんの星は『運命を変える・改める』。その濃い贄の血さえ一つの道具にして、桂
ちゃんは人の定めを大きく揺らせ、変えてきた。ほぼ確定だったわたしの消失の定めも、
葛ちゃんやノゾミの行く末も、あなたの在り方も、大きくその形を変えた。必ずしも桂ち
ゃんの思い通りに変えられる訳ではないだろうけど。在り方を揺るがせ、問い直し、紡ぎ
直させる。
あなたは桂ちゃんを受け容れた。心通わせてくれた。想いを交わし合ってくれた。その
時にこの今への途は開いた。あなた自身が掴み取った、あなたの望み願った生き方への」
自身のあり方が改変されて行く。定めの末が変えられるという事は、定めの末に至る道
も変えられるという事だ。その定めを進み往く自分自身も又、作り変えられるという事だ。
「そしてあなたは『切り結ぶ者』。唯鬼を斬るだけではなく、あなたは様々な人の絆を断
ち切り、或いは結び繋ぐ。斬らない事で残すだけではなく、斬る事で別の定めを繋ぐ事も。
人に害為す鬼を斬る事で、鬼に奪われる人の生命を守りその定めを繋ぐ事ができる様に。
桂ちゃんの想いと共にある事で、あなたは己のみならず、周囲の人の定めも変えてきた」
今桂ちゃんの周囲を守る絆はあなたが守り繋いだもの。あなたが切り結んだもの。あな
たが居なければ、成り立たなかった人の巡り。あなたはその最善を為す事で、桂ちゃんの
星が見せた可能性をその望む方向に導いてゆく。
「あなたはその途を、あなたの真の想いを望みを願いを、あなた自身の手で掴み取れた」
強い人、賢い人、優しい人。
烏月さんは真っ直ぐな瞳でわたしを見上げ、
「兄も、そう呼んでくれました。強いとは到底言えないこの私を。温かく厳しく見守って。
あの最期の瞬間迄も、あなたの様な暖かな眼差しで。怒りも悔いも微塵も見せず、微かな
寂しさの中、わたしを気遣う微笑みを浮べ」
『烏月、この悔いも抱えて、乗り越えて進め。
忘れるな。目を逸らすな。哀しみの欠片も踏みしめて、お前の想いと力に変え。お前は
やり通せる、辿り着ける、掴み取れる。お前は強くて賢くて優しい、僕の最愛の妹だから。
人を守れる鬼切りに、たいせつな人を守り通せる鬼切りに、お前なら、必ずなれる…』
烏月、僕の一番たいせつな人……。
兄はその死を、その生の終りを見せて、私に伝えたかったのだ。最期の最期迄真の想い
を貫いて、笑みを浮べて目を閉じられる様であれと。兄は後悔していなかった。あの最期
も私の刃も受け容れていた。あなたがノゾミに言った様に、害意も殺意も受け止めて爽や
かで。生の終りから見つめ直して、間違いないと言える今を進めと。私は、その死の重さ
に心を閉ざして、今迄受け容れられなかった。
「兄さんは最期迄私の事を想ってくれていた。奴の事を私に一言も報せなかったのは、鬼
を内に秘めた奴がまだ未熟な私に危険だった故。兄さんは、私が奴を手に掛ける事を防ぐ
為に、私に罪を負わせない為にその身を差し出した。なのに私は奴を庇って死んだ兄さん
を、私を見捨てたと、私より奴を選んだと誤解して」
誤解していた歳月に悔いは尽きないけど。
原点に戻りつけた今は漸く心が晴れ渡り。
その瞳は静かに強く柔らかに月光を受け、
「あなたに逢えて漸く分った。あなたと話せて、あなたを理解できて、漸く私は兄さんの
想いに辿り着けた。そんなあなたを私は一度ならず手に掛けようとした。私は何という」
あなたはずっと分っていたのですね。私が気付く迄待ち続けていたのですね。私はそれ
を察する術を知らず、兄さんの想いに辿り着けなかった。その心から目を背け顧みず。身
を抛って伝えようとしたその遺志を、私は。
「……明良兄さん。ごめんなさいっ!」
でもその溢れる涙は悔恨だけの物ではない。
嬉しさも、無上の愛と想いも兼ねて備えて。
そして有り難う。私は、烏月は強く生きていきます。兄さんの様に、兄さんの妹として、
兄さんを常に確かに心に抱いて。もう二度と見失わない。抱き留める事も手を繋ぐ事も永
遠に叶わなくなったけど、それを為した罪深く業の深い私だけど、だからこそその重さを
背負って向き合って、生きていきます。その罪と業の重さを分る故に、私は兄さんをいつ
迄も愛し、その途を目指し望んで進み行ける。
「その前に、ユメイさん、お願いです」
烏月さんはその瞳をもう一度わたしに向け、
「今少しだけ、その胸を貸して欲しい。
私の哀しみの為に、泣かせて欲しい!
誰の為でもなく、私の哀しみの為に」
心は変らないから。意思は曲らないから。
例え幾つ悔いを残しても、どれ程大きな傷を刻んでも、私の生きる道は定まったから。
これはもう諦めた過去への訣別の涙で、同時に取り戻せた想い出への喜びの涙。悔いと愛
と充足を全部合わせた哀しみの涙を、どうか。
千羽烏月が、それを外に求める想いの深さはどれ程か。それを求めるわたしへの信頼の
強さはどれ程か。故にわたしは理由も事情も背景も説明も求めない。唯受け止めて頷いて、
「……わたしで良ければ……」
わたしはこうして幾度も抱き留められた。
わたしもこうして幾度も涙拭われてきた。
わたしがこうして幾度も心救われてきた。
己の過ちが家族みんなを失わせたと知った幼い夜も、鬼から桂ちゃんと白花ちゃんを守
って死に瀕したあの夕刻も、初めて恋し恋された男の子への想いを断ち切って泣き崩れた
夕刻前の中庭でも。わたしは常に温かな想いに包まれ守られて、支えられ助けられてきた。
「……思い切り、泣きなさい」
今はわたしが、妹たちの心を包み込む番だ。
全身全霊の号泣が、羽様の森に響き渡った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
漸く左脇腹の傷が癒え、衣を身に纏える余力が戻ったのは、それから少し後の事だった。
烏月さんがぴったり身を寄り添わせ続けて離れないので、彼女の意識がある間結局わたし
は一糸纏わぬ素肌の侭で通す事になったけど。
烏月さんのそんな姿は今後も見る事は叶わないだろう。ずっとわたしの心臓に左の頬を
ぴたと当てて、わたしの両乳房に軽く手を寄り添わせ、様々な想い宿る涙を溢れ零しつつ、
身動きせず心を重ねて。互いの脈と息遣いが唯一の動きだ。暫く、言葉も交わさなかった。
まるでわたしに甘える様に、否その通りか。明良さんの他には甘える相手を持たず許さ
ず、その彼を自らの手で失った彼女は、心を硬く縛り苛む他に術がなかった。開く事さえ
できなかった。せめて今位は。全てを想い返せた歓喜に震える今位は。わたしで代れるの
なら。
一様に嬉し涙とも言えない、でも悔いや悲嘆だけでもない雫を暫く流し続けた末だった。
彼女は漸く胸の内から首をもたげてわたしを正視し、しっかり今を見つめる視線を向けて、
「私にはもう、あなたを斬る事が出来ない」
例え葛様に命じられても、私はあなたを斬れなくなってしまった。心から守りたく想っ
てしまった。先々代の気持が漸く分りました。
「サクヤさんに惚れ込む余り、その生命を絶つ命令を返上し、鬼切り役迄返上した、その
心中が。自身それ迄誇りに思い、その為に生きてゆくと信じて疑わなかった鬼切りの使命
を返上して迄、繋ぎたく守りたく想った赤い糸を、私も確かにあなたに絡めてしまった」
千羽の鬼切り役は三代続けて不出来な様だ。
冷やかに凛とした常の烏月さんを知る人は、この絵を見ても尚信じまい。わたしの裸身
に身も心も預け、温もりを離したくないと尚左頬をわたしの胸に擦りつけるこの絵を見て
も、見た絵の方を信じまい。でもこれも紛れもなく千羽烏月だった。否、これがあるから
こそ普段の強く凛々しい千羽烏月が、在れるのだ。
彼女にここ迄心開かれる事は、無上の幸せ。
彼女にここ迄信頼される事は、無上の喜び。
「私が羨ましく感じたのは、そのどこ迄も透徹した守る想い。あなたの言う通り、私は癒
しの力ではなく、あなたの行いと想い、在り方に魂を奪われた。それは明良兄さんが私に
示した物だ。私は、知っている筈だった…」
桂さんが蔵で倒れて記憶を取り戻した直後、去ろうとしたノゾミを、あなたは引き留め
た。私も含め誰もが、過去を戻した桂さんの側にノゾミは居てはいけないと感じていた。
ノゾミ自身も居られないと感じていた。なのにあなたはノゾミを苛烈に叱責し、尚留まら
せた。それが真の正解だった。今振り返ればその他の答は全て後に悔恨を残していた。誰
の心にも後味悪さと棘を残していた。あなただけだ。本当に行くべき途を確かに見据え進
めたのは。
「あの時あなたは羅刹だった。誰も一言も挟めなかった。何と厳しく激しい、でも強く深
い慈愛。桂さんへの愛が、桂さんのたいせつな人であるノゾミへの愛にその侭移っていた。
様々な拘りを突き抜け、心底守りたく大切に想って。私の完敗でした。それも二度目の」
私は崖下に落ちた桂さんを、追って馳せられなかった。彼女の瀕死に向き合えなかった。
私より条件の悪いあなたが無理に無理を押して顕れたと聞いて、私は衝撃に打ち抜かれた。
あなたは陽に照されれば消える身だったのに。
『生きているとは、思わなかったの? 虫の息でも、助けようとしなかったの? 助から
なくても、最期にかける言葉はなかったの? 桂ちゃんの最期の想いを、受けようとしな
かったの? 最期の時を共にしようとは?』
あなたは、全身全霊を尽くしたと言える?
それであなたは守れると、言えるのですか。
最期迄助けようと足掻けない者に、一番たいせつな人を絶対に守ると、言えるのですか。
わたしの一昨夜の問を烏月さんは甦らせて、
「私への叱責もノゾミへの叱責も、ノゾミを庇い生命繋ぎ止めた行いも、あなたには皆同
じ事だった。唯桂さんを守る。その心も、桂さんが大切に想った物も守る。それだけを」
文字通りそれをどこ迄も貫き通せる強さ。
烏月さんは噛み締める様に語り、
「あなたを、愛してしまいました」
鬼切り役の私が、鬼のあなたに。
その視線は真っ直ぐ強く輝いて。
あなたにも確かにたいせつなひとがいるというのに。何とも愚かしい。でも、愛おしい。
「絶対に叶う筈がない想いなのに。桂さんを、たいせつな人を、確かに心に抱きながら
…」
あなたを心からたいせつに想ってしまった。
だからこそ。烏月さんは強く意思を紡いで、
「ユメイさん、もう少しだけ、時間を欲しい。
この身が力を戻す迄。数日で良い。鬼切りを放てる様になる迄を。あなたへの恩返しに、
あなたへの返礼に、あなたをたいせつに想う心の侭に。羽藤白花に憑いた鬼を、わたしが
鬼切りで、生命奪う事なく切り離したい…」
私は彼の鬼切りを身に受けて感じ取れた。
できる。今の私になら、不可能ではない。
兄さんと羽藤白花の想いを受け、あなたと桂さんを想う己の心を込め、力を込め。一度
試し打ちの必要はあるが、その後に。この身に宿る全ての想いと力を乗せて。
「今の私になら、それも叶う。必ず叶える」
そうする事が彼を救う事になると願って。
そうする事が彼を守る事になると想って。
そうする事が彼の望みでもあると信じて。
「彼を斬ろう。身体と生命を無傷に心のみを。鬼の定めと哀しみと苦悩から、鬼の定めに
組み敷かれた辛い生から、彼の魂を救いたい」
数日で良い。彼の心を保たせて欲しい。
烏月さんは、それを告げたかったのだ。
起き上がれる筈のない鬼切りの衝撃の末に、偶々戻せた意識をここ迄繋いだのは、わた
しにこれを告げたかったから。わたしの想いに、白花ちゃんの想いに、明良さんの想いに
応えたいと。身に受けて体得した鬼切りを使って、白花ちゃんの魂を救いたいと、それを
告げに。
「烏月さん。本当に、賢く優しく強い人…」
烏月さんはわたしの言葉になぜか苦笑し、
「私にそれを示してくれたのはあなたです」
唯尽くしたい心の侭、無条件に無制限に無尽蔵の想いを注ぎ、返される気持さえ求めな
い対処は、あなたがより清冽に示した手法だ。
「お願いします。今は動けない。暫く時を」
それは羽藤白花の望みではないかも知れないが、少なくともあなたには真の望みだから。
為せる限りを尽くしたい。想いの限りを届かせたい。他の諸々はそれに片が付いた後で…。
急激な脱力が烏月さんの身を襲う。張り詰めていた心が緩み、身体が奪われ、重くなり。
鬼切りを受けた疲弊は尋常ではない。良くここ迄も意識を保たせられたけど、もう限界だ。
遂に烏月さんはわたしの胸に体重を預けて気を失った。その捨て置けない程無防備に可
愛らしい寝顔で再び、わたしの心を竦ませて。わたしはそれを最後迄己の素肌で受け止め
て、
「有り難う、烏月さん。今は、お休みなさい。
わたしが暫く引き受けるから。あなたの心残りはわたしが繋ぎ止めるから。大丈夫…」
剣士達の夜が終り、羽藤と鬼達の夜が始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
烏月さんもわたしも白花ちゃんは朝迄身動きできない程疲弊していると想っていたけど、
それは物理的に事実だったけど、尚白花ちゃんは底知れない存在だった。その疲弊した身
体を想いで突き動かし、彼は尚戦い動ける状態に己を持って来ていた。もう一度なら鬼切
りを放てる位迄。彼は本当に人を超えていた。
贄の血の力の紡ぎ方を多少伝えたとはいえ、短日の修練でどうにかなる状態ではないの
に。
「ゆーねぇ、烏月は僕が運ぶから」
烏月さんが気を失ったと気配で察し確かめ、わたしの間近に歩み寄ってきた白花ちゃん
は、
「好い加減に服を纏ってくれないと、困る」
再度寄り添って癒しを注ごうと想っていたわたしにも驚きだった。気を失って凭れ掛る
烏月さんの身体を、白花ちゃんが抱き留めてくれたので、わたしは漸く身を離し、己に蒼
い衣を纏う。光の粒を衣の形で身に沿わせ輝きを拭って固定させ。文様もサイズも生地も
憶えてあるので、念じるだけでその所作はほぼ自動的だ。身体に馴染んだサクヤさんの血
が月光を受けてわたしの力を更に増していた。
「……ごめんなさい。見苦しかった?」
「そうじゃなくて。……まあ、良いよ」
白花ちゃんの頬が、微かに染まって見えた。
「取りあえず屋敷に運ぶ。烏月を寝せた後で、ご神木まで付き合って欲しい」「分った
わ」
わたし達がお屋敷に戻れたのは、深夜一時近くだった。煌々と照る月が地の全てを青白
く染め変え、薄闇は森の木々の影に潜み淀む。烏月さんを寝せて、みんなに異変がないか
どうかノゾミに訊ねて見て確かめて、それから。
この後で、2人でご神木に行く。
この後が、彼の真の戦いなのか。
彼も月光を受けて闘志に充ち満ちていた。
『彼は本当に主を解き放ち、倒す気でいる』
死んでいておかしくないその身体を突き動かしているのは想いだけだ。滅びていて当然
のその魂を突き動かしているのは望みだけだ。正真正銘、彼は目的を果たす為だけに生き
ている。それがなければ彼は即座に朽ち果てる。
だからこそ応えない訳にはいかなかった。
今尚わたしを想い望んでくれる強い心に。
わたしの一番たいせつな人の深い想いに。
訪れの果てがどんな像を見せるにしても。
わたしこそが主の封じを解く最後の関門で、障害だ。わたしも彼の想いは受けて応えた
い。例え拒絶でも、意に添えなくても、一番たいせつな人の全身全霊には全身全霊で応じ
たい。
戦いになるのか、話し合いになるかは分らない。白花ちゃんはわたしの想像を超えて強
く豊かで幅広くなっている。立ち塞がるわたしを打ち破る他に考えがあるのかも知れない。
今は気を失ってぴくりとも動かぬ烏月さんを寝かせる。そんなわたしの胸に不吉な感触
が飛び込んだのは、お屋敷に帰り着く中途で。
「ゆめい、ちょっと……」
ノゾミは内から霊体で外に浮いて出ようとしていた様だ。白花ちゃんの渋い顔は無理も
ない。拾年前を憶えていて、桂ちゃんの様に心通わせた劇的な一昼夜を経てない白花ちゃ
んには、ノゾミの印象は一昨日迄の侭で、主のしもべでミカゲの相棒で、わたし達の敵だ。
ノゾミにも後ろめたさがあり、味方としての関りも薄く、しかも内に主の分霊を抱える
白花ちゃんには応対しづらい様で、視線も言葉もわたしを向くのは、無理もない処だけど。
わたしは十数秒前にそれを関知できていた。ノゾミがそれに気付いたのとほぼ同時だろ
う。聡いノゾミは己の手に負えぬと、即座に見切りをつけてわたしを呼びに出た処で鉢合
わせ。
ノゾミの声は、焦りを帯びて、
「桂の、桂の様子がおかしいの」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ここは一体どこだろう。
しみが広がっている。
しみが広がっていく。
赤く歪んだ世界の中で、雫の滴る音に誘われ、しみがどんどん広がっていく。両の頬を
伝った雫が、顎で交わり滴り落ちた。
なぜかわたしは泣いていた。
ゆがむゆがむ、せかいがゆがむ。
泣いているから歪むのか。
このたくさんの、しみはわたしの……。
どうしてこんなに泣いているんだろう。
しみが広がる。
だけどだけど、涙だけで、こんなにしみは広がるだろうか。まるで水溜まりの様に、夜
空に浮かぶ月を移して……。
記憶の糸が……。
赤い、赤い……。
風景が見える……。
十年前……失われた記憶……途切れた糸。
糸が繋る。記憶が繋る。これは前にも見た夢だ。けれど前より鮮明な夢。
お父さんの掌が、わたしの両肩を包んだ。
お父さんのお腹から噴き出す血飛沫が、びしゃびしゃとわたしにかかる。
お父さんのお腹には大きな穴が開いている。
お父さんの身体はもう持たない。
この傷が原因で、死んでしまう。
「あれ、おかしいな?」
わたしは疑問を声にする。
柚明お姉ちゃんがオハシラ様になってくれたからお父さんもお母さんも元気な筈なのに。
なのにわたしの家はお母さんしかいなかった。お父さんは、どこへ行ってしまったんだろ
う。
「やっぱり火事で死んじゃったのかな。この後すぐに火事があったのかもしれないね」
だったら夢の……先程結ばれた記憶は何だ。
赤くて熱い、血溜まりの夢。
赤くて熱い火災のイメージ。
それを表裏に張り合わせた絵が回り出す。
籠と鳥の絵の様に一つになり、最後には入れ替わって止まった。
思考が止まった。
呼吸が止まった。
火事は……きっとなかった。
お父さんが死んでしまったのは、お腹を貫通する大きな傷が原因なのだ。
血に染まった幼いてのひら……。
ちょうどその手を突き通した様な、大きな穴がお父さんのお腹に開いていて……。
血の飛沫を浴びるわたしがいた。
−−結ばれていく記憶の糸−−。
恐らく暗示をかけられ、意識のない侭ミカゲちゃんの矢尻を突き刺した葛ちゃんがいて。
蔵で鏡の封印を解いてから、曖昧な記憶しかないわたしがいて。
死んでしまったお父さんがいた。
−−織り込まれていく記憶の景色−−。
「あ……記憶の糸が……繋った」
意識のない……わたしの手が……お父さんのお腹を……わたしが……。
「そうよ、桂ちゃん。あなたがやったの。
せっかくわたしが犠牲になって、あなた達一家を助けてあげたのに」
あの優しい声が、わたしの罪を告発する。
「そうだ、桂。お前がやったんだぞ。
お前がお父さんの事を殺したんだ」
お父さんの声が、わたしの罪を断罪する。
「そうよ、桂がやったのよ。
おかげでわたしは旦那様の仇を、拾年間も育てなくちゃいけなくなったのよ。1人で」
少し前に失ったばかりのお母さんの声迄。
「桂ちゃんがやったの」
「桂のせいだぞ」
「桂が悪いのよ」
ぐるぐる回る。たいせつな人達の声が、わたしの罪をわたしに突きつけて、問い詰めて。
わたしに逃げ場はない。わたしに救いはない。わたしが全てを失わせた。お父さんの生命
を失わせた。柚明お姉ちゃんが守った羽藤の家をわたしが最後に突き崩した。このわたし
が。
「殺してしまったのね」
「殺されてしまったんだ」
「まさか親を殺すなんて」
今にも昔にも居たくなかった。漸く思い出せた昔の温かな日々を破壊したのが自身なら、
それを今迄恨まれ責められていたとも気付かず生きてきたのが自身なら、わたしは過去に
も今にも未来にも居所がない。聞えるのはわたしを責める声。届くのはわたしを苛む意思。
受け容れてくれる場所はない。許しをくれる人はいない。どこにも、誰にも、行けない…。
わたしの罪がわたしに目を開けと迫りくる。わたしを恨む声がわたしに耳を傾けろと迫
りくる。わたしの知っている人達がわたしに全てを知って悔いる様にと迫りくる。責め苛
む。わたしは心を閉ざす。わたしは己に深く潜る。
誰も来られない夢の奥へ。
誰も声届かない己の奥へ。
わたしは暗闇の中をたゆたっている。
ここには何もない。
ここには何もない。
ここには、光も音もなく。
わたしを責める声もない。
だからわたしはここにいる。
羊水の様な居心地のいい闇に全てを任せて、わたしは闇に溺れている。
その闇の中に蒼い光が射し込んだ。
何もない闇に慣れていたわたしは、その眩しさに耐えきれなくて顔を背ける。
「桂ちゃん……」
誰かの声がする。
わたしの名前を呼ぶ声は……。
きっと、わたしを責める声だ。
お父さんを殺してしまった、わたしのことを責める声。
「桂ちゃん、わたしの手をつかんで」
「……いやっ」
わたしはむずがるように身悶えをして、伸ばされた手を払いのける。
「……いや。わたしはいや。何も見たくないし何も聞きたくないし、何もしたくないの」
「桂ちゃん……」
声が追いかけてくる。
駄目だ。もっと深くへ潜らないと、駄目。
誰の声も届かない、もっと深い闇の中へ。
「……」
声が遠ざかり、わたしは少し安心する。
ここならきっと大丈夫。
だからわたしはここにいよう……。
ずっとずっと、ここにいよう……。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……桂ちゃん……っ!」
「ダメだ。ゆーねぇ、一度戻って」
尚桂ちゃんの心の奥へ沈み込むわたしを白花ちゃんが揺さぶって止めた。わたしの夢へ
の介入を後ろから両腕で強く抱き留めて妨げ、
「負担が大きすぎる。深入りしすぎると、ゆーねぇが力尽きて帰って来られなくなる…」
もう少し、もう少し手を伸ばそうと尚も抗うわたしに寄り添って、白花ちゃんも懸命に、
「ゆーねぇが帰って来られなくなったら、一体誰が桂を連れ戻せるんだっ!」
そうだった。殆ど可能性のない、桂ちゃんに拒まれた現状で底知れぬ意識の奥に入って
も、結果は視える。わたしは過熱気味な想いを抑え、心を現に引き戻す。桂ちゃんの額に
当てた右手を外し、深呼吸しつつ瞳を開くと、
「ゆめい、顔が真っ青よ……」
背後から白花ちゃんに抱き留められ、身を支えられたわたしを、布団の上空に浮いたノ
ゾミが心配そうに覗き込んでいた。わたしの左手は、尚布団に寝かされた桂ちゃんの左手
に繋れているけど、握り握られているけど…。
桂ちゃんの意識は戻らない。
桂ちゃんの微笑みは戻り来ない。
微かに苦しそうな、硬い表情の侭で。
眠りの世界から起きて来れない。戻れない。
外傷はない。どこにもケガも病もないのに。
傷を負ったのは心だ。魂を、蝕まれている。
医師が診ても首を傾げるだろう。身体には何の異常もない。傷を負ったのは心だ。桂ち
ゃんは魂を蝕まれ、心の奥へ引きこもらされ。
その瞳は開かれる事はなく。
その唇は愛を語る事もなく。
その頬は紅が差す事もなく。
生きた侭骸と変りなく、その心を失って。
異変に最初に気付いたのはノゾミだった。
ノゾミは待つばかりの状態に飽き、桂ちゃんの答を求め、熟睡中の桂ちゃんを起すのは
控えつつ、その夢に語りかけようとした様だ。ノゾミはわたしと同種の、夢を操る力を持
つ。
影響を与え夢を操る前段階に、人の夢に入り込み共に視る力がある。その上で密かに操
るのではなく夢の中にお話に来たと明かせば、相手次第で夢の中での語らいも可能だ。で
も。
『っつ! 弾かれた……?』
夢を覗こうとした時点で拒まれた。入り込む事を拒まれた。人の心は眠りに入ると警戒
が緩む。特殊な鍛練を積んだ人でなければ水際で弾くなど普通はない。修練もない桂ちゃ
んが、硬く心を閉ざす事は通常考えられない。
『……何があったの?』
ノゾミは同調を弾く反応を詳細に視ようと、今度は慎重に、桂ちゃんの首筋に右手を触
れ、自身をゆっくりと浸透させる。でも桂ちゃんはノゾミの夢への語りかけを、確かに拒
んで。
『私だと分って、弾いている訳じゃない…』
誰をも拒む。誰の同調をも受け付けない。
誰にも触れないで。放っておいて欲しい。
桂ちゃんの心を、何かが引っ張っている。
桂ちゃんの意思は奥深くへと潜っていく。
『桂、桂、起きなさい。起きなさいってば』
何かの術や力だとしても、身体に影響を与えて夢から引き戻せば解ける事もある。ノゾ
ミ達が経観塚に来る途中の桂ちゃんに及ぼした赤い夢も、距離の遠さと力の弱さと夕刻の
故に、陽子ちゃんからの携帯電話に破られた。
でも、今回のそれは深く桂ちゃんの意識を繋ぎ止めている様で、幾ら揺さぶっても桂ち
ゃんは苦しそうな寝息を吐く以上は、身動き一つせず。物理的な衝撃を与えて目を覚ます
事に見切りをつけたノゾミは、本格的に力を及ぼして夢で桂ちゃんに語りかけたのだけど。
『いない。桂が、夢の表層にも深層にも…』
居ない訳がない。桂ちゃんは確かに生きている。魂が宿ってない筈がない。普通の疲れ
や熟睡でそれ程深い処迄魂は沈まない。でも確かに夢の浅瀬にも深みにもその意識はなく。
『まさか、もっと奥深くに閉じこもった?』
それは心を閉ざした状態だ。絶望や傷心で、外界の全てを拒み。誰の呼びかけにも応え
ず、自ら動く事もなく、唯緩慢に死へと進み行く。
この侭では永遠に桂ちゃんは起きない。意識が戻らず二度と起き上がれず、眠り続けて
朽ちていく。起き上がらねば足腰から人は萎える。食を口から摂らなければ点滴で栄養を
注いでも長く生命は繋げない。医学に為せる術はない。これは魂への呪詛だ。
『私の力では呼び戻せない……』
ノゾミは夢に同調できるけど、限度もある。それ程奥深く迄沈めない。力が不足な以上
に、他者の奥深くに入り込むにはその心を知悉する事がパスポートの如く必要だ。人の心
は奥深くに進む程古く幼い経験が層を為している。深奥である程、人は容易に他者を受け
容れぬ。
少年時代の心は少年時代を、幼児期の心は幼児期を知らねば、人は反射的に受け付けを
拒む。ノゾミが桂ちゃんの赤い夢を操り入り込めたのはあの夜を共有した故だ。そこに誘
い導かなければ、桂ちゃんと接点がなかった。そして拾年前に数時間、拾年後の今に何夜
かを過しただけのノゾミでは、桂ちゃんと共有した時間が、手持ちパスポートが少なすぎ
た。拒み逃げる桂ちゃんを心の果て迄追い得ない。
桂ちゃんと過した日々が多く豊かな者は。
夢に介入できる力をもっと強く持つ者は。
今桂ちゃんに迫り来る異常に動ける者は。
『これは……ミカゲの遺志、怨念、呪い…』
感応の探りを回避してもわたしの関知は躱せない。桂ちゃんに力を及ぼし異常を招き始
めた像をわたしは視ていた。過去と未来からわたしは桂ちゃんに及んだ害意を関知できる。
『馬鹿な。ミカゲは夕方あなたに倒され…』
ノゾミはその気配を全く感じ取れてない。
感応ではわたしもミカゲの力は感じない。
『わたしの左腕を穿った傷に全ての妄執を残したと想っていたけど、それも一つの陽動で、
桂ちゃんの心を蝕む事が本命だったとは…』
ミカゲは主の分霊だった。想いの強さ深さは尋常ではない。その想いの持続と一途さも。
ノゾミとの絆を断たれた事で、その執念も断たれたと想っていたけど、その憎悪と恨みが、
『桂ちゃんの想い出を蝕んでいたなんて…』
『ゆーねぇの想いの力も、今のノゾミの拠り所も桂にある。振り返れば、想いの根や力の
基を断つのがミカゲの戦い方だった。僕もこうなる迄気付かなかったよ。迂闊だった…』
白花ちゃんが苦い顔を見せた。今動けるのはノゾミとわたしと白花ちゃんだけ。夢と意
識の奥に閉じこめられた桂ちゃんの魂に干渉して何かできる面々だけが残っては居たけど。
ミカゲの夢に介入できる力は、ノゾミのそれと同質だ。今のわたし程に強力ではないし、
ミカゲの持つパスポートはノゾミより少ない。接点は拾年前の記憶か。桂ちゃんに全て想
い出させなかったのは失策だった。ご神木に手を伸ばした桂ちゃんを止めず、全てを想い
返させていれば、この事態は防げたかも。桂ちゃんを傷つけはしたけど。この事態をあの
時招いたかも知れないけど。それを避けた故に、わたしは最後に大きな喪失を招くのだろ
うか。
『ミカゲっ、聞えているなら応えなさいっ』
桂ちゃんの首筋に手を触れ、ノゾミがミカゲの遺志に告げる。千年の妹の為した呪詛に、
責任を感じる故に。桂ちゃんが心を閉ざす因となった拾年前の事件は、自身が招いた故に。
己の力と所作で状況を打開して、償いたいと。
『桂にこれ以上呪いを及ぼすのは止めなさい。あなたはもう滅んだの。これ以上抗っても
何も得る物はないわ。桂を苦しめ私達を苛んでも、主さまは解き放てない。あなたは人か
ら得た憎しみの心で無意味な事を為している』
もう勝敗は付いたの。現世への繋りが切れ、あなたはもう顕れられない。今更桂を奪っ
ても何にもならない。潔く向う岸に行きなさい。ゆめいの導きに従い凝った魂を送られな
さい。私もその内行くから、千年先か万年先か分らないけど、在る物はいつか消え去る。
だから、そっち側で私が潰え去るその時を待ちなさい。
『あなたの物にできなくなった桂を放して』
ゆめいが送ってくれるのに。主さまを送る手と同じ手で、主さまを送る想いと同じ想い
で送ってくれるのに。綺麗で優しく強い心で、永劫魂を包んで還してくれるのに。主さま
やあなたへの愛や慈しみ迄、あなたなら感じ取れるでしょうに。結果を己に受け止めなさ
い。
『敗れて尚あなたはゆめいを槐に引き留める。既に終ったあなたの為にゆめいは終らない
定めをその身に負う。あなたと主さまと私の所為で、ゆめいも桂は得られない。拾年前あ
なたは既に私と共に、ゆめいからその望み、桂を奪っている。それで尚ゆめいは主さまや
あなたや私を憎み恨みつつ、愛し慈しみ迄…』
まだ足りないの? 尚仇で返す積りなの?
ノゾミは自身の所行にも向き合った上で、
『あなたは主さまと一緒に、ゆめいを悠久に槐に縛り続けて、その唯一の望みを久遠に奪
い続けているのに、まだ憎み足りないの?』
ノゾミはミカゲに、千年の間従順な妹だった印象を残している。だから姉として指図す
れば、ミカゲが従う・従わなくても答を返すと想っている。答を返したなら対話に移れて、
説諭して桂ちゃんを解き放たせようと。でも、
『ノゾミ、無理よ。その声は届かないわ…』
わたしは、桂ちゃんの魂の奥へ届かせようとするノゾミの所作を、その首筋に当てられ
た華奢で白い右手を、右手で軽く触れて止め、
『ミカゲは桂ちゃんを奪う事が、あなたやわたしを哀しませると知っている。己の物にな
らなくても、奪いさえすればわたしが気力を落して封じが弱まり、主の解放に多少でも役
立つと思っている。それ以上にわたし達への憎しみを返せると分っている。ミカゲは己が
得られぬなら全部壊す途を、最期に選んだ』
それが主に間接的な助けになると信じて。
それで己の得た人の憎しみを満たせると。
哀しい生き方でもそれがミカゲの選択よ。
『最期の想いは変えられない。それがミカゲの真の想いなら、わたしは受け止める。後は
ミカゲの遺志と術を打ち破る他に手はないの。わたし達で、桂ちゃんを取り返すのよ…
…』
ノゾミが沈痛な面持ちで桂ちゃんの首筋から手を放した。自身の説諭と力が及ばなかっ
た以上に、桂ちゃんを救えない事・助けになれてない事が、小さな胸を苛んでいる。その
原因に己がいた事に今は自責の念が強く深く。
それに。わたしはノゾミの疑念に先回りし、
『もうミカゲの遺志は力尽きている。今桂ちゃんの中にミカゲは残ってない。使い果たさ
れている。あなたが桂ちゃんに触れてもミカゲを感じ取れなかったのは、その時点で既に
彼女が存在しなかったから。恐らく怨念を発動させた時点で力を使い果たした。力も想い
も使い切る事で、この呪いを成就させた…』
『……確かに、感応では感じなかったけど』
己を燃やし尽くし、何も得られなくても尚、他者を不幸に陥らせたく望む程凄まじい恨
み。
ミカゲの憎悪の根深さに、今更ながらノゾミは震えを感じた様で、己の肩を両手で抱く。
良月を割られた時と違い、滅ぶ寸前のミカゲの力は微弱に迄落ちていた。桂ちゃんの心
を操り続ける力はない。恐らく坂道の上から石を転がすに似た最初の一突きだ。為したと
しても、後の進行はむしろ桂ちゃん自身の…。
後は自然に転がり行く様に、川に流した木の葉の様に。ミカゲは人のどこを突けばどう
動くか心得ている。力が僅少に落ち、逆にその故にミカゲの介在は気付き難くなっていた。
『わたしが桂ちゃんの魂を探して触れて引き上げるわ。相当奥深くに沈み込んだ様だから、
少し時間が掛るけど、必ず見つけ出す……』
桂ちゃんの心がどの辺にいるのか、左手を握り握られて視ても見当が付かない。相当深
い処迄行かなければ痕跡も掴めまい。わたしも竹林の姫も、千年そこ迄人の心に深く入り
込んだ事はない。オハシラ様の夢に介在する力は本来、羽藤や鬼切部に助けを求める為で、
浅い夢に現れて示唆し意思を伝える事しか想定していない。正直、未知の領域だったけど。
かくして一度目の魂の探索は始った。でも…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂ちゃんは戻らなかった。戻る事を拒まれたと言うべきか。思ったより深く入り込んだ
為に力を消耗し、息が上がって暫く喋れない。桂ちゃんを見つけ出せた為に、見つけて拒
まれた為に、深入りする己を止められなかった。その所為でノゾミと白花ちゃん迄心配さ
せた。
「桂は……見つからなかったのね?」
「桂ちゃんは、いたわ。心のかなり深い奥に。唯、手を伸ばしても掴んでくれないの。わ
たしが近づいても怖がって、逃げていく。話しかけても、呼びかけても、声の届かない奥
へ沈んでいく。あんな桂ちゃんは、初めて…」
幾ら追っても駄目だった。桂ちゃんはわたしをも拒んでいた。叱責や非難に怯えていた。
わたしが桂ちゃんを苛む訳がないのに。わたしが桂ちゃんを詰る筈がないのに。己を闇に
閉ざし、許される筈がないと諦め。誰の声も拒む。それはいつかの自身を見ている様な…。
「桂が心を、閉ざしていると?」「ええ」
白花ちゃんの問い返しにわたしは頷き、
「誰の声も聞きたくない。わたしの声さえ聞きたくないと。暗闇のまゆに自らこもって」
追い切れなかった。わたしは桂ちゃんの幼少時にいたから、色々な接点から抜け道の如
く桂ちゃんの心を追いかけられたけど、それを桂ちゃんは必死に逃げて逃げて、逃げ続け。
届かなかった。向き合わせられなかった。思う限り心の中では桂ちゃんは、無限に奥へ
逃げられる。桂ちゃんに向き合って貰わなければ始らない。心には果てがない。尚執拗に
追うのは正解だろうか。桂ちゃんをより深い処へ追い込む事に終らないか。でも今の侭放
置しても桂ちゃんの心は自力では浮上しない。
「もう一回、行くわ」「待って、ゆめい!」
桂ちゃんの額に右手を当てて、もう一度その心に入り込もうとした動きをノゾミは遮り、
「あなたの消耗が酷すぎる。漸く息が整っただけで、身体の中の力の流れは乱れた侭よ」
それじゃさっき程長くも深く迄も行けない。
何の見通しも策もなく挑むのは無謀すぎる。
「僕が行くよ。ゆーねぇは少し休んでいて」
白花ちゃんの言葉には、かぶりをふって、
「白花ちゃんの贄の血の力ではとてもあの奥深く迄は届かないわ。血は濃いけど、修練が
足りないの。人の夢に入り込む業は、贄の血の力の操りでも上級よ。今からわたしが教え
るにしても、付け焼き刃ではすぐ使えない」
それに白花ちゃんは、少しでも力を使って体内の力と想いの均衡を崩すと……。
届かない以上に、白花ちゃんは力を使ってはいけない。その身はもう限界を過ぎている。
彼を犠牲にはできない。桂ちゃんも一番たいせつだけど、白花ちゃんも一番たいせつだか
ら。一番の人の為に、一番の人を危険に晒す訳には。わたしは今、矛盾の縁に立っていた。
「くそっ。僕はいつも、役に立てないのか」
ミカゲが滅びて安心したのが失敗だった。
烏月とゆーねぇを引っ張り出して果たし合いなんかしたばかりに。その隙にこんな事態
になるとは。せめてゆーねぇを残しておけば、初期に異変を関知して貰えていただろうに
…。
「また僕の所為で、桂をこんな目に。僕は常に桂の守りを剥がしてばかりだ。大切な時に、
必要な時に傍にいてやれない、守れない。
僕の所為で、桂は禍に何度となく身を…」
悔しそうに拳を畳に打ち付ける彼に、
「あなたの所為ではないわ」
ゆめいに桂達を任されたのは私だったから。
声を掛けたのは、ノゾミだった。
「ゆめいは私に任せれば大丈夫と考えたから、果たし合いに付いて行ったのよ。ゆめいの
考え通りに動けなかったのは私。責任があるとするのなら、あなたではなく私にあるの。
そもそもの原因が、拾年前の私とミカゲにある。
私が、もう少し早く、気付いていれば…」
ミカゲの術の発動に気付けていれば。桂の異変にもう少し早く気付けていれば。もっと
早くゆめいに事を把握して伝えられていれば。
全く気付かなかった。唯熟睡しているとしか見えなかった。最初は夢の中に話しかけよ
うとも想わなかったの。ゆめい達が遅いから、手持ち無沙汰になって、待ちきれなくて桂
の夢に入り込もうと、そうしたら、もう遅くて。
「ゆめいに任されたのに。信頼されて留守を託されたのに、全然できてなかった。守れな
かった。私、一番たいせつな人を守れてない。ゆめいの想いにも全然応えられていない
…」
ゆめいは約束を守って、彼も鬼切り役もちゃんと連れ帰ってきたのに。私は、私は……。
「悔い嘆くのは後。ノゾミも白花ちゃんも」
浮いた侭瞳を潤ませるノゾミを、わたしは右手を伸ばしその左肩を引き寄せ抱き留めて、
その右頬にこの右頬を合わせ。零れる涙を頬で受け止めて、溢れる想いを心で受け止めて、
「できる事がなくなってから、できる事を全てやり終えてからなら、幾らでも悔い嘆いて
良い。己の為に涙を流して構わない。でも今はまだ早い。結果が出終ってない。まだ為せ
る。まだ選べる。助け出せる芽は残っている。
行いを留める想いは棚上げなさい。行いを促す想いを搾り出しなさい。あなたの真の望
みを見定めて。いつでも一番はたいせつな人の守りと幸せよ。それに己が何を為せるか」
頬を合わせつつ左の瞳で白花ちゃんの向けてくる瞳も見返す。白花ちゃんは分っている。
だから言葉でその意思を立て直してと励ましつつ、ノゾミの耳元に心に、声を想いを注ぎ、
「あなたを責めはしない。あなたを信頼したのはわたしなの。あなたに託したのはわたし
なの。あなただけの失敗じゃない。あなただけの責任じゃない。だから、あなた1人で悔
いる必要もない。取り返すのは、みんなで」
責任の所在は一番に大切な問題じゃない。
「あなたに今一番大切な問題は、何?」
「桂を、何とかして助け出したい……」
泣き腫らした瞳の間近で気弱な答に、
「その正解の為に、真のノゾミの為に」
わたしは最期の最期迄桂ちゃんを諦めない。
白花ちゃんは言われる迄もなく分っている。
どうにかしたい想いをぶつける桂ちゃんに対し、白花ちゃんは昔からどうにかする術を
捜して動いていた。幼い頃から、今に至る迄。だから今この諦めの悪さを伝えるべきなの
は、
「……ゆめいって、強い……」
ぼそっと、ノゾミが口に出して呟いた。
「あの旅館で最初に桂を巡って戦った時には、片手で消し去れそうな程に儚かったあなた
が。戦う度に、逢う度に、一緒にいる度に、どんどん引き離されて行く気がする。贄の血
の力と言うより、その諦めの悪さがゆめいの真価なの……。或いは私が、弱くなったの
…?」
絶望しない。諦めない。無理に見えても無理な結果が出終る迄挑み続ける。続けられる。
振り返れば私達がどれ程追い詰めてもあなたの瞳は死ななかった。閉ざさなかった。弱い
なら弱いなり、強いなら強いなりに戦い守り。最期の一手が終る迄、詰め将棋を戦わされ
てもあなたは最後迄、勝ちを守りを求め続けて。
劣勢になって、守る側になって、力や術の不足を感じて漸くあなたの強さが身に染みる。
あなたはどれ程の不足や欠乏を抱えても諦めなかった。今更ながらあなたの在り方が怖ろ
しい。ミカゲの果てしない憎悪にも匹敵する程、あなたの想いの強さも奥深く際限がない。
「それに較べ私は何か中途半端。弱くなった。あなたの桂を守る強さを私は持ててない
…」
今日一日、千年強気で通したノゾミの弱気を一体何度見ただろう。それも無理はないか。
「大丈夫、あなたもすぐ手に入れられるわ」
俯き加減に萎れるノゾミに頬を寄せた侭、
「あなたの持っていた強さは主の強さ。一番たいせつな一つの為には、何を誰を幾ら踏み
躙っても良心に呵責も感じない、鬼神の強さ。ミカゲの様に主の様に、以前のあなたの様
に、たいせつな一つ以外は生命も想いも平然と踏み躙れる。でもそれは真にたいせつな物
を複数抱くと、想いを引き裂かれる脆さを持つの。
あなたは今別種の強さを身につけつつある。桂ちゃんやわたしの想いに寄り添いつつあ
る。移行過程が中途半端なのは当然よ。それは」
いざという時には、一番たいせつな物以外を踏み躙る事を承知しつつも、覚悟しつつも、
たいせつな物を2つ以上同時に心に抱く強さ。可能な限り全ての守りを望む強さ。笑顔を
全部叶えたいと己を尽くせる強さ。無理を無理と分っていても、分るからこそ、叶う限り
為せる限り届かせようと挑み続ける諦めの悪さ。
「あなたは桂ちゃんをたいせつに想った時に、桂ちゃんのたいせつな人達も視野に入っ
た」
桂ちゃんをたいせつに想いつつ、ミカゲや主も尚たいせつに想えた。桂ちゃんのたいせ
つな人である烏月さんやわたしの心配もした。一番たいせつな人を守る為には、己の心を
断ち切る想いと共に踏み躙るけど、打ち倒すけど、息の根を止めるけど、或いは久遠長久
に封じて解き放たないけど。でも想いが消えた訳じゃない。憎しみや怒りを抱きつつ、尚
愛し慈しみたいせつに想う。その心を抱きつつ、尚譲れない物は絶対譲らない。そう言う
強さ。
「どれ程大切な物、愛した物、慈しむ物を失い敵に回しても、一番たいせつな物を確かに
抱き守る覚悟が前提だから、心を引き裂かれる痛みはあっても、真の想いは揺らがないの。
あなたがミカゲにそうして対峙した様に」
抱き留めて互いの温もりを交わし合って、
「あなたも間近まで来ているのよ、ノゾミ」
「……ゆめい」
大粒の涙は喜びの涙。自身の選択を正解と改めて納得できた故の涙だ。恐らく次の千年
位はノゾミの心に刻み続けるだろう深い想い。助け出せた後の桂ちゃんを守る絆をより強
め、
「さあ、桂ちゃんを取り返しましょう」
白花ちゃんが、ノゾミを受け容れたわたし達の絆に漸く得心したという苦笑いを見せた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「って、ゆーねぇ。見通しはあるのかい?」
白花ちゃんはわたしより現実的だ。わたしの言動が時に空虚な精神論に傾きかねないと、
彼のバランス感覚は肌で感じている。わたしが展望もなく、再度桂ちゃんの心に沈み込む
事しか考えてないのではという危惧の目線に、
「桂ちゃんは、必死に助けを求めているわ」
左手を繋ぎ繋がれた侭、わたしは右手で桂ちゃんの乱れた前髪を整える。その寝顔は微
かに苦しそうに、少し汗ばんで。わたしやノゾミが触れて布団や衣を少し乱したけど、呼
吸が微かに胸を動かす位で、身動き一つない。
「問題は、その助けを求める心に繋る術…」
「でも、桂はゆめいの声も拒んだのよ」
誰の助けも求めてない。逃げている。
暗闇のまゆにいる事を望んでいるのは桂よ。
助けを求めているならあなたが行った時に、
「その手を受けていた筈ではなくて?」
ノゾミの指摘に白花ちゃんも同意の頷きで、
「確かに。桂自身に助けを拒まれては、手の打ちようがない。向き合って貰わない限り」
幾ら救いの手を差し伸べても無駄になる。
ゆーねぇは力を使いすぎれば危ういんだ。
白花ちゃんの危惧も、分るけど。
「桂ちゃんは助けを求めているの」
わたしは確信を持って言い切る。
拒んでも逃げ続けても、尚心のどこかで桂ちゃんは許しを願っている。自身やその罪を
受容し謝罪を受けてくれる人や場所を探している。誰もいないと想いつつ誰かいないかと。
拒絶や断罪に怯えても、己に閉じこもっても、全てを遮断してはいない。必ず接点はある
わ。
「わたし達がそれを探せてないだけ。わたし達でそれを見つけて、辿り着いて、本当の桂
ちゃんに向き直って貰って、語りかけるの」
拒んでいるのは一面に過ぎない。白花ちゃんも烏月さんのか弱く可憐な一面を見た様に。
桂ちゃんの拒みの裏には、欲しい助けを求められない涙と苦悩が隠れている。それを探す。
白花ちゃんは、そう語るわたしを見据えて、
「先代のオハシラ様だって、ここ迄深い意識の奥に足を踏み入れた事はない筈だ。かつて
誰も踏み込んだ事のない心の深奥に、闇に沈んだ桂の心を、ゆーねぇは尚断言できる?」
想いを重ね合わせても。生命を重ね合わせても。そのゆーねぇを桂は拒んだ。その心中
を、助けを求めていると尚、断定できるの?
白花ちゃんが思い出しているのは苦い経験。
『僕が救いたいと想っていたのは偶像だった。本当のゆーねぇではなかった。救って喜ん
で欲しいと求め、この腕で助けて微笑みかけて欲しいと望んだ、僕の願望の偶像だった
…』
わたしは白花ちゃんの救いを欲していない。
わたしは封じの要を望んで受け、留まった。
それこそが、わたしの真の想いだったから。
『僕の助けなど、欲してないかも知れないと。僕に救われるなど望んでないかも知れない
と。露程も考えた事がなかった。心の内で思い描いたゆーねぇに喜ばれる姿だけ、抱いて
いた。僕が不要かも知れない等想いもしなかった』
ゆーねぇは絶望して助けを拒んだ訳ではないけど、それと桂は立場も事情も異なるけど。
「桂が全く絶望して、誰の救いも助けも求めてないかも知れないとは、想わないの…?」
僕がこの拾年、あの夜の記憶を持って尚己を保てたのは、絶望に負けずにいられたのは、
望みを持てた為。鬼切りを修得しゆーねぇを、たいせつな人を解き放つ望みを抱けた為。
それがなければ、気力を失ったこの身が朽ちるより先に、心が罪悪感に押し潰され自壊し
た。
桂は何の修行もない。技も力もない。償う術がないとふさぎ込んだ時、慰めようがない。
贄の血を幾ら与えても、ゆーねぇをご神木や封じから解き放つ事はできない。取り返せな
い過去に悔いて己を閉ざした時に桂は、自身に生きる値打を見いだせないかも知れない…。
「桂は本当に助けを望んでいるの? 僕は桂に助けを望んで欲しいけど、何とかして助け
たいけど、桂の真の想いはどうなの? 桂がこれを贖罪や償いと捉え、絶望し誰の救いも
求めてないかも知れないと、想わないの?」
その絶望を、潜り抜けてきた白花ちゃんの言葉だけに、その投げかけは重たかったけど、
「想わないわ」
わたしも即答で断言する。
ノゾミの瞳を向けての無言の問にも応えて、
「オハシラ様の千年の蓄積になくても、羽藤柚明の蓄積にはあるの。わたしの闇が、桂ち
ゃんの闇を拭い去る術を、分らせてくれた」
オハシラ様に救えなくてもわたしが救う。
「桂ちゃんは助けを求めているわ。確かに」
見て。わたしは2人に、ここに来てすぐ繋ぎ繋がれた、わたしと桂ちゃんの左手を示し、
【手だけ……握ってても良い?】
【それで、桂ちゃんが怖くなくなるのなら】
「わたしが握っているだけじゃない。わたしの手を桂ちゃんは確かに握り返している。握
り返して放さない。力を抜かない。解かない。
言葉では言えなくても、夢の中で拒んでも、桂ちゃんはその奥底で助けを望んでいる。
わたしを握って救いを求めている。助けてって言えないけど、言えない位大変な状態だけ
ど、確かに助けを求めている。望んでいる。待っている。その希望を断ち切ってはいけな
い」
絶対わたし達の側から諦めてはいけない。
今は遠く霞む幼友達の声がわたしを導く。
『ゆーちゃん絶対自分から電話切らなかったでしょ。一生懸命助けを求めているんだって、
分ったの。助けてって言えない位大変な状態にいるんだって、分ったの。本当にあたしの
電話が煩わしかったり不要だったら、切っちゃっていたと思うんだ。でも、あたしが切る
迄ゆーちゃんはずっと付き合ってくれた。あたしが励ます言葉に詰まって苛立った時も』
桂ちゃんはこの手を繋りを解かなかった。
『だから、あたしもずっと電話し続けたの』
「だから、わたしもずっと手を握り続けた」
ああ、わたしは常に、愛に包まれていた。
今は、わたしの愛で妹たちを包み守ろう。
『あたしが大好きなゆーちゃんの為に』
「わたしのたいせつな桂ちゃんの為に」
赤い糸は尚強く繋がれている。想いも生命も確かに繋っている。間違いなく桂ちゃんは
助けを待っている。わたしはそれを疑わない。桂ちゃんの闇はわたしの闇だから。幼い桂
ちゃんの悔恨は、正に幼いわたしの悔恨だから。
「……分ったよ。ゆーねぇの言う通りだ…」
わたしの視線に白花ちゃんがまず同意し、
「あなたと桂の絆は鬼の呪いも越えるのね」
ノゾミが唖然とした呟きと共に賛同した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ゆーねぇ、話してくれ。ゆーねぇが自身の闇を拭い去った時の経緯を。哀しみを甦らせ
る事になるけど、千年のオハシラ様の蓄積にもない、ゆーねぇの経験が今は要るんだ…」
正面から見据えてくる白花ちゃんの瞳に、
「経緯って言っても……わたしの心の闇を拭ってくれたのは、あなたと桂ちゃんなのよ」
ノゾミの興味深そうな視線にも応えつつ、
「あなた達が生れてくれた事がわたしの太陽だった。2人が何かした訳じゃない。わたし
が何かした訳じゃない。いてくれた事が救いだった。その笑みがわたしを救ってくれた」
わたしの闇は己の過失による家族の喪失。
血の匂いを抑える術を知らなかった幼い日、血の匂いを隠す青珠を、意識のないお母さ
んにわたしが握らせた。守りになればと、交通事故の傷を癒す助けにと。わたしの血の匂
いを隠す物と知らず、わたしが危ういと知らず。
無知は代償を求めてきた。わたしは鬼に見つかり、お父さんとお母さんはわたしを守る
為にその前に立ち塞がって、生命を奪われた。お母さんのお腹には、あと数ヶ月で生れて
くる妹もいた。でも、全部なくなってしまった。温かな日々が、平穏な幸せが、何もかも
全て。
わたしは禍の子だった。わたしが家族全員を死に導いた。咎があったのはわたしなのに、
過失があるのはわたしなのに、わたしはお父さんやお母さんや未だ見ぬ妹の生命と引換に
生き残った。例えようもなく罪深い我が生命。
「身体は救われたけど、羽様に引き取られサクヤさんや笑子おばあさんに諭されて、生き
る事は呑み込んだけど、人生は抜け殻だった。
わたしは生きる値打も感じ取れずにいた。
わたしは生きる目的も探し出せずにいた。
唯いるだけで、唯動くだけで、何を考えて良いのかも分らず、毎日が過ぎゆくだけで」
あなた達2人が生れる迄、わたしの闇は拭えなかった。あなた達が、わたしの心を甦ら
せてくれた。あなたと桂ちゃんが、わたしに生きる意味を与えてくれた。
わたしは暖かでふよふよした2つの生命を、新しい息吹を前に途方もない嬉しさを感じ
た。
生命とはこれ程愛らしい物だったのか。
生命とはここ迄守りたい物だったのか。
愛らしさは無限大だった。愛しさは無尽蔵だった。この気持は無条件だった。わたしは、
この微笑みを曇らせない。この笑顔を泣かせない。この喜びの為に尽くしたい。この生命
に迫る、この世の全ての危険から守りたい。
己は無価値で良い。禍の子でも良い。でも、そんなわたしでも、この笑顔の為に尽くせ
るなら。無垢な笑顔、無邪気な笑顔、唯の笑顔。それが、わたしには例えようもない程尊
くて。
わたしはあなた達を守り抜く為に生きる。
わたしはあなた達の役に立つ為に生きる。
わたしはあなた達の力になる為に生きる。
この生命は桂ちゃんと白花ちゃんの為に。
わたしに望みをくれたのはあなた達。わたしを生かしてくれたのはあなた達。だからこ
そ生命を返さなければ。生命で応えなければ。生命を尽くさなければ。いや、尽くさせて
…。
あなた達が、わたしをわたし自身の闇から救い出してくれたの。希望を灯してくれたの。
サクヤさんでも笑子おばあさんでも、叔父さんでも叔母さんでも、友達の誰でもなかった。
人には、幾ら善意や意欲が溢れていても手を伸ばせない領域がある。努力で及び得ない
物があった様に。お父さんがお母さんを救い上げられぬ苦味を感じていた様に。わたしが
お父さんやお母さんを助けられなかった様に。
「あの夜迄にわたしの心にいた人達に、わたしの闇は拭えなかった。わたしは償う術のな
い罪を犯した己を責めていた。みんなわたしを慰め励まし、許してくれたけど、己が己を
許せなかった。罰を求め裁きを欲していた」
わたしの闇を拭い去ったのは、あなた達よ。
わたしが情愛を注ぎ込める人。
それ迄わたしの視界にいなかった人。
わたしが受けた生命を継ぎ未来へ渡せる人。
「桂ちゃんは罪悪感を抱いている。己が己を責めている。叔母さんも叔父さんも責めない
けど、その優しさの故に、悔いる心の故に」
だから誰をも受け容れない。わたしを見た瞬間に、誰か知っている人を見た瞬間に、己
を責める想いが桂ちゃんの中に生じてしまう。拾年前に桂ちゃんが知っている人には、そ
の扉は絶対開けない。桂ちゃんが心を開かない。
わたしがそうだった様に。前向きになろうとしてもわたしが不幸を与えた人への罪悪感
を拭えなかった様に。己の罪に向き合うから。
「わたしは桂ちゃんと白花ちゃんに心を開かされた。あの夜にまだいなかったあなた達に。
……桂ちゃんももしかしたら、あの夜にいなかった人になら、心を開くのかも知れない」
それは拒み忘れるというか、拒む事を想定できないというか。通さないと決めたもの以
外は通れてしまったというのが実情なのかも。
……じゃあ、無理よ。ノゾミの答は沈痛に、
「あの夜以降羽藤の家には誰も生れてない」
桂もあなた達も誰も子供を産んでない以上、あなた達以外に親族も家族も実質いない以
上、
「桂の心を呼び戻せる者は、存在しない…」
あなたには桂達がいたから、後に続く生命があったから希望が持てた。でも桂にはそれ
がない。あの夜にいなかった者は今もいない。そして永遠にいない。あなたも子は残せな
い。
「桂が知っている人間を全て拒む以上、誰もその助けを為せはしない。幾ら求め願っても、
辿り着けない。その手を引き上げられない」
「いや……1人いる」
白花ちゃんがそこに辿り着く事をわたしは予期していた。桂ちゃんを助けられる殆ど唯
一の方法と人を、わたしは目の前に見ていた。
「僕は桂の過去に存在していない。知られていない。ミカゲは僕を思い出させずに、その
記憶を歪めて桂を心の闇に落した。僕の存在を桂は知らない。認識できない。そして…」
「拾年前の記憶を持ち、双子の片割れである白花ちゃんなら、桂ちゃんの心を開かせる事
もできるかも知れない。後に続いて生れた生命ではないけど、桂ちゃんがその存在を憶え
てない以上、拒む事も想定できない。でも」
白花ちゃんでは今の桂ちゃんには辿り着けない。夢への介入は血の力の操りでも上級だ。
しかもここ迄深く沈んだ人の心に触るのは困難を極める。それ以前に彼はこれ以上力を外
に放つと、内なる鬼を抑える力が崩れ去る…。
もう彼の状態はそこ迄進行していた。
さっきの鬼の裏返りの阻止も、白花ちゃん1人では不可能とは言えない迄も、困難を極
めたに違いない。わたしが力を流し込まなければ、未だにその身体は鬼の物となっていた。
そしてわたしの助けを得たとはいえ、残り少ない力を更に費やし生気を前借りし、無理
に鬼から己を奪い返した白花ちゃんは、次に鬼に身体を奪われた時は、多分もう二度と…。
「白花ちゃん……分っているのでしょう?」
あなたは、もう。全てを言わずとも聡いノゾミは実情を感じている。でも白花ちゃんは、
全て承知の上で意思の宿る瞳で見返してきて、
「漸く役に立てる時が来たんだ。最期に一度位は桂にも兄らしい事をしたい、守りたい」
守りを剥がしてばかりだった。行方も存在も報せてなかった。忘れられた侭、哀しみを
受け止める事も叶わず。どれ程の哀しみと歳月を、桂は母さんと2人で受けて耐えたのか。
「せめて一度位は、桂にも兄らしい何かを」
烏月さんとの果たし合いは、勝てても白花ちゃんの身を削った。白花ちゃんが烏月さん
との戦いを避け続けたのは、己を取り返せる力が一回分しかなかったから。主を解き放っ
て鬼切りを喰らわせ、倒した後で裏返る主の分霊をもう一度抑えた後生命を絶つ。白花ち
ゃんの意図が漸く視えた。それが出来れば主は根絶できると、わたしを解き放って安全と。
烏月さんを倒した後で裏返る鬼の抑えにその一回を使えば、白花ちゃんは主本体を斬り
捨てた後で、再び己を戻す術がない。主程ではないけど強力な分霊は、彼の身体で尚暫く
生きる。暴れ続け、人を喰らい、生命を奪う。解き放たれた後わたしを喰らうかも知れぬ
と。白花ちゃんが執拗な迄の烏月さんの挑戦を躱し続けたのは。そして今夜受けて立った
のは。
「どっちもわたしの為……」
彼は主を切り倒した結果を、自身で見る事が叶わないと受け容れた。なし終えた後を確
かめ得ぬと承知した。それで尚、その真の意思は曲がる事も萎える事も、揺らぐ事もなく。
彼は生きて残る積りなどない。主を切り倒して己も戻り来ぬ事を彼はとっくに承知済みだ。
そこ迄して繋ぎたかった彼の望みを、羽藤白花の最期の望みを、彼は抛とうとしている。
今ここで最後の一回もない状態で、桂ちゃんの心に己を沈み込ませ空にすれば、贄の血の
力を使って鬼を抑える力を少しでも弱めれば。
白花ちゃんは主の前に立つ事も叶わない。
二度と、人の心を取り戻す事も叶わない。
「最期の望みを、諦める事になるかもね…」
自身で言い切る。彼はそれを分っている。
それだけではない。彼は人としての生も。
【人として生き、人として死ぬ事を望み願う白花ちゃんの前途に、少しでも幸多かれと】
それさえも彼には残らないかも知れない。
【あなたの納得行く生の終りを迎える事を】
それさえも彼には叶わないかも知れない。
【わたしは、白花ちゃんが精一杯悔いなく生き抜いてくれる事を望みます。それが痛みや
苦しみの多い、報われる事少ない茨の道でも、白花ちゃんの心が望み定めた途なら】
そう望んだけど。わたしは真弓さんから白花ちゃんの生存を報された時そう願ったけど。
桂ちゃんの為に。一番たいせつな人の為に。
白花ちゃんを。一番たいせつな人の全てを。
「僕は僕の全てを使い切って、最期へと歩む。全力を尽くして生き抜く。燃え尽きる瞬間
迄、僕は僕であり続けるよ。僕の一番たいせつなゆーねぇの桂を救う為に、僕のたいせつ
な桂を救う為に。この身に残る最期の心と力を」
その笑みは明良さんの様に爽やかで、正樹さんの様に温かで、真弓さんの様に凛々しく。
不出来な妹の失敗の尻拭いは、姉だけの役目じゃない。僕の真の望みはゆーねぇの幸せ。
例え主を斬り捨ててご神木から解き放てても、絶望に沈んだゆーねぇは、僕の望みじゃな
い。
「この選択は僕の物だ。ゆーねぇと桂を想う僕の真の想いの侭、2人を想う自身の為に」
僕が行く。最期まで、見届けて。
静かに定めを受け容れた白花ちゃんは、立派な男の人だった。容姿より業より力よりそ
の在り方が、魂が強く爽やかで凛々しくて…。
止められない。この人はわたしに救える人ではない。わたし如きではこの人の魂や在り
方は救えない。この上なく賢く優しく強い人。この人の想いを守るには。尚何か為せるな
ら。
「……正解。どんなにわたしが望まなくても、それが白花ちゃんの真の想いなら全て正
解」
わたしはこの人を滅びに導こうとしている。
わたしはその最期に手を貸そうとしている。
わたしは天地終る迄尽きぬ悔いを刻もうと。
その想いを守る事が、その身を滅ぼす事に。
わたしは正真正銘の鬼だった。この選択に千年万年悔い続けるに相違ない。それでも尚。
わたしは、彼の真の想いの侭に。
わたしは自身の納得も要らない。
いやいや言う己の声を心の隅に押し込める。
彼の微笑みを願いつつ、魂の死を見届ける。
絶対に失ってはいけないのは、彼の想い。
そこ迄して桂ちゃんを守りたい兄の想い。
わたしの解放を諦め、妹を救う強い想い。
身体だけでも生きてと望むはわたしのエゴ。
桂ちゃんを諦め、失意の内に尚少し生きてと望むはわたしのエゴ。例えそれがわたしの
想いでもそれは弾く。白花ちゃんの真の想いを守る事こそ、常にわたしの真の想いだから。
わたしは白花ちゃんの真の想いを支え守る。
わたしの寄って立つ場所はそこにしかない。
自身の想いを振り捨ててでも、それは守る。
「その代り」
絶対その心に応える。桂ちゃんを助け出す。
わたしは覚悟の瞳を目の前の彼に向け直し、
「確実に成功させる為に、わたしと最後迄共にあって頂戴。白花ちゃんの力では、心の奥
の奥迄届かない。辿り着く前に尽きてしまう。わたしが寄り添うから。身も心も寄り添わ
せ、最期の最期迄わたしの力と想いと、共にいて。わたしが桂ちゃんに力を及ぼしあなた
を導く。必ずみんなで戻り来ましょう。桂ちゃんも白花ちゃんも、わたしが必ず連れ帰る
から!」
ご神木に行きましょう。あの根元で満月の輝きを受ける中、わたしの力も白花ちゃんの
力も最も強く紡ぎ出せる。失敗は許されない。確実に一度で、それも破綻に至らない内に
…。
覚悟済みの筈の白花ちゃんが微かに惑う。
そこに割り込んで来る声と浮いた現身は、
「ゆめい、私も……」「ノゾミも来て頂戴」
この場の者の覚悟は、既に定まっていた。
「お願い。あなたとわたしの一番たいせつなひとの為に、あなたの力を貸して欲しいの」
ノゾミの意志は分っている。分ってわたしが頼むのは、わたしが頼みたいから。消耗や
危険は承知済みだ。今迄の経緯への気遣いや警戒も不要だ。ノゾミにとっても一番の人を、
守りたいわたしの想いを伝えて、答を求める。
ノゾミはわたしの願いに少し不満そうに、
「私は私の自由意志で選ぶわ。私は桂を助ける為に、一番たいせつな人の未来を繋ぐ為に、
あなた達に力を貸すのではなく、私自身の戦いとして私の全身全霊で挑むから。だから」
ノゾミも自ら告げたいと。告げるのだと。
「最後迄一緒に戦わせて、お願い、ゆめい」
桂を助けたい。桂を守りたい。愛したい。
「そしてあなたをも愛したい」「有り難う」
わたしが浮いたノゾミに右腕を伸ばすのに、ノゾミは自ら両腕をわたしに絡め、望んで
抱き留められ。サクヤさんに何度もされた様に、胸の内に顔を埋める。わたしの時と違う
のは、ノゾミは胸の内から見上げて尚勝ち気な瞳で、
「でも一番は桂なのよ。それは忘れないで」
「勿論よ。それはしっかり胸に抱いて頂戴」
一番たいせつなひとは誰か。それを確かに心に抱けば、最期の最期迄心は揺れ動かない。
わたしの一番たいせつな人は絶対失わせない。桂ちゃんも白花ちゃんも、この身に替えて
も。
白花ちゃんが困り顔を見せたのはむしろ。
「ゆーねぇ。僕と桂は、贄の血の陰陽なんだ。拾年前にご神木にこの手で触れ、竹林の姫
の魂を還した、今のゆーねぇにとっての天敵だ。桂と同時に触れる事は、想いだけの存在
である今のゆーねぇの想いをかき乱し、吹き流し、消失させてしまいかねない。それを分
って」
さっきみたいに軽く触れる位なら僕が力を抑えるから良いけど、夢の奥迄潜り込むとな
ればそうも行かない。身体を空けてしまう僕は力や想いを抑えきれず、修練のない桂と同
時に触れる事でゆーねぇの魂を還しかねない。ゆーねぇの先導があれば確実性は遙かに増
す。でも、それで守りたい一番の人を失う事は…。
その心配はわたしには不要だ。なぜなら、
【ええ。わたしが生命尽きる迄捧げる積り】
【だから、全てを捧げ尽くし、干涸らび朽ち果てても、あの2人がそれを苗床に元気に巣
立って行っても、悔いはないの。幸せなの】
2人がわたしの一番だから。何にも代えがたい最愛の人だから。たいせつなひとだから。