第4章 訪れの果て(乙)


 知りたい事も確かにあるけど、それ以上に知りたくない事も知らされてしまう。知って
はいけない事、知る事が哀しみに繋る事迄も。だから、ご神木に子供は近づいてはいけな
い。濃い贄の血を持って修練のない人や、夢と現が定かに分れてない子供は、心を危うく
する。

「わたしが応えるから。桂ちゃんの知りたい事には、わたしが全て応えるから。だからご
神木に直接訊くのは、しないで欲しいの…」

 わたしは今迄桂ちゃんの問を拒まなかった。
 わたしは今後も桂ちゃんへの答を拒まない。

「あの夜以前の事も、あの夜の事も、あの夜以降の事も。わたしが感応して先代のオハシ
ラ様から受け継いだ積み重ねと、人であった頃のわたしが憶えている全てで、応えるから。
 叔父さんの事も、羽様での叔母さんの事も、幼い桂ちゃんの羽様での日々も。竹林の姫
の事も、主の事、主とわたしの拾年の関りも、桂ちゃんが訊きたいと言うなら隠さない。
全て応えるから、だから……」

 桂ちゃんを哀しませる内容も入っているの。その侭流し込むのは桂ちゃんを危うくする
の。

「わたしは二度と桂ちゃんを失いたくない」

 普段にない、強い哀しみを感じさせる言葉。
 わたしも、お姉ちゃんを哀しませたくない。

 わたしは確かにうんと頷いて、力を抜いて、

「柚明お姉ちゃんのお願いって、いつも願う人の為の物だったよね。……自分自身の願い
はいつも脇に置いて、わたしの為に、わたしが傷つかない為に、わたしにお願いって…」

 小さい時も、大きくなってからも。

 緩んだ腕の締め付けを解かず、わたしは振り向いて、柚明お姉ちゃんと間近で向き合う。
わたしからもその背に腕を回して抱き留めて、

「どうしてとか、何の為にとか、説明がなくてもわたしはお姉ちゃんの願いは受け容れる。
だって柚明お姉ちゃんは、わたしのそんな願いを幾つも幾つも、受け容れてくれたから」

 心を痛めて、身体を痛めて、何度も何度も。
 時には願ってない事迄、先取りしてくれて。

「お姉ちゃんが話したくない事なら、話さなくて良い。お姉ちゃんが想い出して欲しくな
い事なら、想い出さなくて良い。お姉ちゃんが望むなら、わたしそうするから。だから」

 柔らかで温かな頬に、わたしの頬を合わせ、

「哀しい顔を見せないで。誰かの為に、いつも柚明お姉ちゃんは誰かの為に哀しみを負い
続けてきた。もうこれからは、お姉ちゃん1人に背負わせはしない。わたしも一緒に背負
うから。少しでも役に立つ様になるから…」

 お姉ちゃんに少しでも微笑んで貰いたい。

 少しでも想いを返したい。今迄忘れ去っていた。事もあろうに、こんなに近しい人を忘
れ去っていた。その拾年に取り返しは効かないけど、それを笑って受け容れてくれる優し
い人に、無限大の慈しみに少しでも報いたい。想い出せた以上未来で報いる事はできるか
ら。

「有り難う。その気持だけで充分よ」

 わたしの頭の上に、柚明お姉ちゃんの右手が乗った。お母さんがしてくれた様に、いや
昔柚明お姉ちゃんが幼いわたしにしてくれた様に、ぽんぽんと柔らかく頭を叩いてくれる。

 幸せだった。柚明お姉ちゃんには途方もない負担を掛けてしまったけど、大変な回り道
をしてしまったけど、想い出せた今はとても幸せだった。拾年間の喪失は大きかったけど、
その末にこの滑らかな手触りを取り戻せたなら無駄じゃない。この温もりの懐かしさの意
味を分った今が、手放す事を己に許せなかった理由が分った今が、この上なく幸せだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……ノゾミ」

 どの位の間抱擁を続けていただろう。わたしがノゾミに声を掛けたのは、桂ちゃんと同
様ノゾミがご神木に吸い寄せられて行く様を見ての事だ。桂ちゃんを間近に抱き留めた侭、

「今のあなたは青珠に宿って、桂ちゃんの血と想い、それにわたしの影響を受けているわ。
あなたの構成は、今や羽藤の血筋に近しいの。ご神木に触れば、あなたにも感応の波は来
る。
 力の扱いを心得ているあなたを止めはしないけど、覚悟はして頂戴。千年の封じの真実、
主の想い、竹林の姫の想い、わたしの想い」

 あなたの知る・或いは予期した物と違う像が映し出されるかも知れない事を心に留めて。

 ノゾミは、わたしと桂ちゃんが抱き合う様を首を横に向け眺めつつ、我に返った感じで、

「……桂の様に、止めないのね」

「あなたには、わたしの口から説明するより、見て貰った方が良いかも知れない。ご神木
の感応に意志は介在できないから、見た侭聞いた侭の像があなたに伝えられる。そうでな
いとあなたは多分、納得できないでしょう…」

 止めはしない。唯、あなたとミカゲが解こうとしてきた千年の封じの前提が、崩れるか
も知れない。真実は時に人を傷つける怖ろしい物。見て傷つくも、見ずに済ますもあなた
の自由。あなたは今、主ではなく桂ちゃんを一番に想っている。主の真相は必須じゃない。

「あなたの真の想いの侭に」

「……あなたがそう言うからには、私の想像を超える物が中にあると思って良いのね…」

 ノゾミは聡い。千年の封じの真実を、主と竹林の姫の本当の関りを知らないにも関らず、
それが自身の想像していた物と百八十度異なる怖れ迄、わたしの言葉から汲み取れている。

 千年ミカゲと共に封印を壊し主を解き放とうとした自分達の前提を崩し去る怖れを、葛
ちゃんの先祖に封じられ、真弓さんに斬り捨てられるに至った様々な行いに、正反対の評
価を下さねばならなくなる怖れを感じている。

 今のノゾミは桂ちゃんと共に歩む者だから、直接存在意義を覆されはしないけど、影響
は甚大だろう。千年の望みが実は誰の望みでもなく、主の幸せでさえなかったと知るのは
…。

「……今夜は良いわ。止めておきましょう」

 今夜はミカゲを弔う為に来たのですもの。

「あなたが言う程大きな何かがあるなら、それを見る為だけに再度来るわ。桂はまだ羽様
に留まる積りだし、機会はない訳じゃない」

 ノゾミはそう言ってご神木から視線を外し、

「それにしても、桂には触らないでという一方、わたしには見る事を止めないという…」

 私が力の扱いを知っていると言う以上に。
 桂が力の扱いを知らないと言う事以上に。

「ゆめいは桂に甘いのねぇ……」

 どこかで聞いたフレーズと視線に、

「そうかも知れないわね。だから、厳しくするのはあなたに任せるわ。桂ちゃんに嫌われ
るのは、嫌だもの」

「私だって好き好んで嫌われたくないわよ」

 さ、始めましょう。いつ迄いちゃいちゃ抱き合っているのよ。私の視線を知って離れず、
腕を外す気配もないんだから。早くするわよ。

 桂ちゃんが慌てて我に返るけど、わたしは焦らず、ゆっくり抱き留めてから抱擁を解く。

 弔いは、儀式と言う程の物でもない。ご神木から少し離れた、土の出た一角を見定めて、
桂ちゃんに良月の破片の入ったふくさを預け、

「2人で軽く土を掘るから、桂ちゃんはそれを持って待っていてね」「うん、分った」

 屈み込んで両手で土を掘り始めるのに、

「ゆめいちょっと、あなた力にまだ余裕があるんだから、鍬か鋤でも出したらどうなの」

「力で作り出す鍬や鋤も、結局わたしの一部、わたしの現身よ。なら、この手に少し力を
込めて掘り返しても話は同じ。そんなに深く掘る訳でもないわ。それにノゾミ、あなた
…」

 鍬や鋤をしっかり使った経験ないでしょう。
 ノゾミがぐっと言葉に詰まる様が見て分る。

「そう言えば、ノゾミちゃんって元々お姫様だし、その後は鬼の人生で、永く良月に封じ
られていた物ね。農作業とか縁なさそう…」

「あなたの妹の弔いよ。あなたの手ずからで葬ってあげた方が、良いのではなくて?」

「……分ったわよ。付き合ってあげるわ」

 ふくさを持った桂ちゃんの見守る中、わたしとノゾミで土を掘る。さわさわと、余り硬
くない土はわたし達の掘り返しで、拾数分の内に三拾センチ直径の半球型の窪みを穿って。

「何というか……」

 柚明お姉ちゃんの手つき、何か艶めかしい。

「誰かの背中を撫でさすっている様な、そんな感じがする。着物姿の所為なのかな…?」

「あら、そう?」

 確かに愛おしむ様に土を寄せているけど。
 弔いの為だと想って心を込めているけど。
 ミカゲはノゾミの妹と言うだけではない。

「彼女は主の分霊でもあるから。わたしの、ご神木の永い同居人の片割れでもあるから」

「あ……そうだっけ」

 桂ちゃんが驚きと同時に、何をどう続けて良いか分らない表情を見せる。ノゾミの土を
掘る手が少しだけ止まって、すぐ動き出した。

「わたしが永い時を掛けて生命を削り、削られ合う鬼の神。解き放つ事の叶わない、でも
わたしには、今後も永く歳月を共にする人…。
 せめてわたしの想いを込めて葬りたいの」

 ミカゲは主の分霊。わたしのたいせつな主の片割れだ。精悍で真っ直ぐな瞳の持ち主で、
天地終る迄解き放つ事はできないけど、未来永劫互いに相容れる事はできないけど、それ
でも尚その真っ直ぐで曲らない心をわたしは好いた。確かに好いて、大切に想い、彼の想
いに応えたいと欲し、その寵愛を受け容れた。

「ゆめい、あなた、もしや……主さまを…」

 ノゾミも桂ちゃんもミカゲを滅ぼした夕刻のわたしの言葉を想い返している。ノゾミは
主に仄かな恋心を抱いていた故に、同種の想いをわたしが抱く可能性にも目が向いた様だ。
敢て口にしないのは、何を怖れてなのだろう。

【絶対に和解できない敵であっても。天地終る迄身を削り合う関係であっても。一番の人
を守る為に、共に天を戴かざる者であっても。最期の最期迄滅ぼし合う他に術がなくて
も】

 たいせつな人は、たいせつな人。違う?

【一番に出来なくても、その人をたいせつに想う事は出来る。決して譲れなくても、何一
つ力になる事も出来ず苛み合う関係でしかなくても、たいせつに想う事は出来る。想う他
何もできない哀しい繋りかも知れないけど】

「助ける事叶わなかったけど。一番たいせつな人を守る為、倒す他なかったけど。それで
もあなたのたいせつな人。故にその心に踏み込んで、その哀しみに分け入って、その想い
を見て知った上で、この手で鬼を断ち切った。
 己の身を断ち切る想いと共に、己の生命を断ち切る如き痛みと共に、その身も心をも」

 ご神木の中では何度も主の背を抱き留めた。その背を腹を、肩を胸を。わたしの手は足
は主を突き放したり、弾いたり、時に蹴り殴り。怒りを哀しみを憎しみを涙を、時に愛を
込め。

 そう、確かにわたしは主に、愛も込めた。
 だから、主の片割れのミカゲにもやはり。

「この様にあなたの魂も還しますと。この様にあなたの妄執も想いも遠い未来の先で、わ
たしがしっかり看取りますと。あなたに込める想いはこの通りですと、主に見せるの…」

「柚明あなた、主さまに、宣戦布告……?」

 情愛も込めた、静かで穏やかな、でもこの上もなく苛烈な中身にノゾミは、身震いして、
心を一旦閉ざす。鬼神の強大さを知るだけに、ノゾミはわたしの発想に感性が追随できな
い。

 その実感のない桂ちゃんは、それを字句通り封じの要の主への宣告だと受け取って、む
しろわたしの手の動きに目が離せない様子で、

「わたしも土になって撫で回されてみたい」

 自然に凄い事を口にするのも羽藤の血か。
 わたしも平静にそれを受けて投げ返して、

「昔は幼い桂ちゃんを、何度もこうしてお風呂で身体をさすって、洗ってあげたわね…」

「そ、そうだったよね」

 その腕の動きを思い出しちゃった為かも。
 頬を染めつつ応える桂ちゃんに、脇から、

「今度は私が、桂の身体を洗ってあげるわ」
「ノゾミちゃん! ……少し恥ずかしいよ」

 わたし今は大きいんだよ。最初にノゾミちゃんと逢った頃より大人になっているんだし。

「桂あなた、ゆめいにさせた事を私にさせない積りなの? そうは行かないんだから…」

 もうこれからは四六時中共にいるんだから、何一つ隠させはしないわ。大体同じく土を
掘り返しているのに、桂はどうして私に艶めかしさを感じないのよ。不公平じゃない。

「いや、それはその、ノゾミちゃんはね…」

 喋る内にも手は進み、土に穴を穿ち終え。

「この中に、良月を」「うん」

 桂ちゃんがふくさごと良月を窪みの中央に置く。ノゾミはそれを暫く無言で見つめ続け、

「ミカゲ……さようなら」

 小さなその手でふくさの上に、土をかける。

「出来の悪い妹で、主さまの分霊だったけど、最後は敵対し煮え湯を飲まし飲まされたけ
ど、あなたは紛れもなく千年私の妹だった。主さまを一番に想った長い年月、最愛の友だ
った。
 桂を一番に想うわたしは共に歩めなくなったけど、あなたと滅ぼし合う末を招いたけど、
悔いは胸を突き刺すけど、あなたを選べなかった事は哀しいけど、尚私のたいせつな人」

 あなたをいつ迄も胸に刻んで生きるから。

「絶対に忘れない。愛も憎しみも怒りも哀しみも寂しさも全部、あなたに抱いた想いは全
部私が、果てしなく持ち続けて行くから…」

 ノゾミが土をかけてゆく。ミカゲの想い出を、ミカゲへの想いを、ミカゲとの歳月を葬
る為に。良月を、千年の間自身も依り憑いていた良月をミカゲに託して、全て明け渡して。

 わたし達も手伝って土を被せ、軽く山になる位まで盛った後、三人で手を合わせる。仏
教とも神道とも言い難いけど、死者の冥福を祈る想いは時代も場所も越えた物だ。それが
最後迄相容れなかった仇敵でも、最後迄大切に想った最愛の人でも、安らかな死後を望み、
生れ変れた暁は幸多い人生を送れるようにと。

 一つの訣れを済ませた事で、わたしも自身の別れを感じてしまう。いつ迄も桂ちゃんの
近くに寄り添っていられない、自身の定めを。


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 現身に力を及ぼして土の汚れを拭い去ると、桂ちゃんの手首の先に及ぼしていた力を解
く。土に汚れる前にゴム手袋の感覚で桂ちゃんの素肌を包ませた力を剥き取ると、柔らか
な手が温かくしっとりしている。ノゾミも同様で、手足や衣に付いた泥は綺麗に消去でき
ていた。

「さてと、ミカゲの弔いも終った事だし…」

 私は先に帰らせて貰うわ。一緒に帰り道を行くと思っていた桂ちゃんの少し驚いた顔に、

「私はここ迄で良いわ。青珠は羽様の屋敷に置いてあるから、その気になればいつでも一
瞬で帰れる。大体あなたの歩みに合わせていたら、いつ帰り着けるか分らないのだもの」

「ううっ……確かに寝かされている間に浴衣に着替えさせられていた事に、歩き始めて暫
く経ってから気付いたのは誤算だったけど」

 お陰で移動速度は大激減し、来るだけでこれ程時間が掛ってしまったけど。帰り道も特
段急ぐ用事はないのだし、一緒に帰っても…。

「あなたは私とこれから、嫌でも四六時中一緒なのよ。帰り道位ゆめいと2人きりを過し
なさいな。屋敷に帰れば帰ったで邪魔者は多いし、2人きりなんてこれからもないのよ」

 気遣いを漸く察した桂ちゃんの瞳が大きく見開かれる。ふわっと浮き上がったノゾミは、

「ゆめい、今日は……有り難う」

 特定しないのは、様々な諸々へのお礼だからか。ノゾミの為に為した所作ではないけど、
返される想いは求めないのがわたしの生き方だけど、それでもノゾミは返したいのだろう。
勝ち気な目線を真っ直ぐわたしに向けてきて、

「あなたになら、あなたの様に強くて優しい人になら、ミカゲを託せる。預けられる…」

 ミカゲはそれを望まないかも知れないけど。

「私の不出来な妹を、お願いね」

 これが私に為せる最善だから。私の知る限りミカゲの想いを理解できるのはあなただけ。
そしてせめて主さまの傍で、ミカゲが心から愛し大切に想い最期迄求め続けた主さまの元
で、主さまを還し行くあなたの手で還るなら。

「還った彼岸の向う側で、ミカゲは主さまと一緒に幸せになれるかも知れない」

 私はもう、そこに入る資格を持たないけど。
 私はもう、それを願う事しかできないけど。
 脳裏に思い浮べても寂しく想うのみだけど。

「私のたいせつな人を、あなたに託すわ」

 真剣な眼差しで、意志のこもった瞳で。
 わたしもそれに応えて彼女を正視して、

「あなたの妹は、わたしが引き受けたわ」

 わたしが槐の白花に変えて蝶に変えて、ミカゲの魂を還し行く。それは引き受けたから。

 その代り。わたしもノゾミに向けて、

「わたしの妹を、あなたに頼みたいの」

 桂ちゃんの幸せと守りを託す。サクヤさんや烏月さんにもお願いしたけど、あなたにも。

「柚明お姉ちゃん……」

 ノゾミの気遣いは、わたしと桂ちゃんの別れが遠くない事を知る故だ。だからわたしは
その後を、その後の桂ちゃんの幸せと守りをノゾミに託す。桂ちゃんに寂しさ心細さを実
感させるけど、それは早晩避けられぬ定めだ。逃げずに向き合い、必要な頼みを確かに為
す。

 わたしはここを離れられない。幾ら濃い現身を取っても、幾ら強く願い欲しても、この
定めを覆す術はない。わたしの一番たいせつな人の幸せを支える最低条件は、主の封じだ。

 わたしは人に戻れない。戻れても戻る選択をしない。主の封じを空ける訳には行かない。
町に帰って人の生活に戻る桂ちゃんを、わたしは見送る他に術がない。それは最初から納
得ずくの事だったけど。全て覚悟の上でのオハシラ様だったけど。だからこそ、わたしの
手の届かない人生を送る桂ちゃんに、守りを。

「桂の事は、任されたわ」

 まさかあなたに桂を委ねられる日が来るなんて、想っても見なかったけど。

 ノゾミは二つ返事で承けてくれた。少々軽々しく聞えるかも知れないけど、それは迷い
のない彼女の真の想い。桂ちゃんの幸せと守りは今や、ノゾミの真の望みでもあったから。

「では、私は先に帰るから。私の大切な桂を、今は暫くあなたに預けるわ。ゆめいなら桂
に何をしても良いけど、朝迄には返して頂戴」

 最後迄強気に、誤解なのか本気なのか分らない言葉を残し、ノゾミの現身が去ってゆく。

 残されたのは、少しの時間と帰り道。月光に照されたわたしと桂ちゃんの2人だけ。涼
やかで温かな、わたしと桂ちゃんの夜が始る。


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「さあ、わたし達も帰りましょう」「うん」

 わたしは一度ご神木に歩み寄って、左手を伸ばして太い幹に触れ、感応を数秒試みてか
ら、桂ちゃんを向き直って声を掛ける。桂ちゃんの頷きを受け、差し出した右手でその左
手を受けて、月光照らす山道を森を下り行く。

 手を繋いで歩くのも想い返せば十年ぶりだ。

「柚明お姉ちゃん、最後、ご神木とお話しをしてきたの?」「ご神木と、それから主と」

 わたしは桂ちゃんの問に常に事実で応える。

「わたしが外した間の封じの綻び具合と力の残量を確かめて注ぎ足し、簡単に綻びを数カ
所繕って、もうすぐ戻りますって主とご神木に伝えて。と言ってもご神木は人の様な心は
持たないから、意味が分るのは主だけね…」

「また力、使っちゃったの……?」

 しかももうすぐって。分るけど、分るけど。

 話の中身より、桂ちゃんはそれが気に掛る様だった。わたしは揺らぐ瞳に微笑み返して、

「多少よ。主はわたしの帰りを待ってくれている様だから、わたしが外している間に派手
な壊し方をしてないみたい。主が本気で封じを壊す積りなら、崖から落ちた桂ちゃんを助
けにわたしがご神木を抜け出たあの日の昼に、封じは弾け飛んでいた。そうなっていれ
ば」

 ご神木を失ったわたしは良月を失ったノゾミの様に、数時間掛らず消失の危機を迎えた。

 今の主にその意志はない。わたしの帰りを待って、わたしを打ち倒して封じを解く積り
でいる。鬼神の誇りなのかしら。わたしの居ぬ間の洗濯って口に出した所為かも知れない。

「今の様子なら、もう数日は保ちそう。わたしが現身を保つ力をなくする方が早いかも」

「そうなんだ……」

 数日は保つ、と言うより数日しか保たない、と桂ちゃんは捉えてしまっている様だ。晴
れやかな笑顔が曇っていく様が見なくても分る。

 主が封じを破りに掛らなくても、わたしは早晩この身に宿る力を使い果し、この濃密な
現身を取れなくなる。今の状態が一種奇跡で、桂ちゃんの大量出血という惨事が招いた偶
然で、通常望み得る物ではない。今後桂ちゃんが経観塚に来たとしても、わたしは儚い薄
い現身で、夜に顕れられるかどうか。人の世を、昼の世界を生きる桂ちゃんとわたしとの
絆は、桂ちゃんが記憶を取り戻しユメイを柚明と想い出して尚、細く儚い。赤い糸を幾ら
互いに織り込ませても、住む世界が違いすぎていた。

 可愛らしい顔が哀しみの予兆に揺らぐ。

「桂ちゃん、そんな顔しないで」

 わたしの一番晴れて欲しい表情が曇る。

「でもっ」

 その因がわたしである事が痛恨だけど。
 だから、わたしが再び微笑ませないと。

「この形はかりそめだから。保てなくなっても、わたしがなくなってしまう訳じゃないの。
 ぜんまいに溜められた力を使い切ってしまった時計は、ねじが巻かれるまで時を刻む事
を止めてしまうでしょう? でもそれは、壊れてしまった訳じゃない。そういう事なの」

 前に話した事をもう一度繰り返す。あの状況に戻るだけだと。別に何か失う訳ではない。
最初からの定めが、少し紆余曲折を経た上で徐々に近づいているだけだと。それだけだと。

 でも、桂ちゃんとわたしの関係はあの時のそれではもうなくなっていた。桂ちゃんは足
を止めて、潤んだ大きな瞳でわたしを見つめ、

「別れ別れは寂しいよ。折角想い出せたのに。
 折角ユメイさんじゃなくて、柚明お姉ちゃんだって想い出せたのに。温かな夢を見た後、
冷たい現実に目覚めさせられる気がして怖い。全部がわたしの見た幻で終りそうで、怖
い」

 漸くここ迄辿り着けたのに。記憶の赤い痛みを突き抜けて、柚明お姉ちゃんを想い出せ
たのに。まだたったの何時間。何にも取り戻せてない。拾年の欠落を全然取り戻せてない。

「別れたくない。この手の感触をいつ迄も掴んでいたい。ずっと一緒にいて欲しいよ…」

 毎日毎日、幻じゃないって確かめさせてくれないと。毎夜毎夜、夢じゃないって応えて
くれないと。滑らかな手で髪を梳いてくれないと、素肌で抱き留めてくれないと、唇で触
れてくれないと。全部疑わしく思えちゃう。全部錯覚に思えちゃう。この拾年の記憶が一
瞬で崩れた様に、柚明お姉ちゃんといる今が明日には崩れてなくなっちゃいそうで、怖い。

 胸を締め付ける想いは共有している。
 別離を嫌い、共にいたい想いは同じ。
 でもそれは絶対に、許されないから。

 わたしは確かにあるとも言えない儚い想いだけの存在だ。長く存在し続ける事も叶わな
い、曖昧な存在だ。幻と言っても違いはない。でも今掴むこの感触は間違いなく本物だか
らと、強く握ってくる掌をわたしも握り返して、

「別れは出会った時に定まっている物なの」

 長く続く関係も、短く終る関係も、必ず始りがあって終りがある。別離は哀しみだけど、
世の中は移ろい変る物。変化は避けられない。それは人の努力で何とか出来る場合もあれ
ば、人の手には如何ともし難い場合もある。そしてわたし達の関係は、紛れもなく後者だ
った。

 それは招きもしないのに雷雨が屋根を叩く様に、望みもしないのに季節が寒く変り行く
様に、誰かが悪い訳ではなく起り来る不都合なのだと。楽しい休みの日が過ごせば終り行
く様に、ご飯を美味しく食べれば減ってしまう様に、押し止める事が難しい世の中の諸々。
日が昇り沈む様に、つぼみが咲いて散る様に、自然にそうなって行き防ぎ難い世の中の諸
々。

「長くても短くても、人の関りは有限な物よ。だからその限りの中で、お互いに悔いなく
想いを交わし合いましょう。時間の縛りはあるけど、事情の縛りはあるけど、その中であ
なたとわたしの赤い糸は、確かに結びついたわ。間違いなく桂ちゃんはわたしのたいせつ
な人。一番たいせつでこの身に替えても守りたい人。わたしの何を抛っても幸せ掴んで欲
しい人」

 今無事で元気な桂ちゃんを感じ取れる事がわたしの幸せ。そして今後も桂ちゃんが元気
に無事に暮らしてくれる事が、わたしの幸せ。桂ちゃんの幸せがわたしの幸せだから。逢
えない事は不幸せじゃない。心繋っていれば逢えなくても寂しくない。例え繋ってなくて
も、

「わたしは桂ちゃんを想うだけで、幸せよ」

 わたしの想いを述べるのは、わたしの寂しくない想いを桂ちゃんも抱いてという願いだ。
桂ちゃんが悲嘆に沈むのは見過ごせないけど、この定めは桂ちゃんの為にも変え得ない。
後は桂ちゃんに受け容れて貰う他ないのだけど、受け容れなさいとは言えないから。わた
しは本当に、2人のいとこにどこ迄も甘いらしい。

「本当に、柚明お姉ちゃんは身を抛っちゃった。わたしの為に、わたしの所為で、わたし
が拾年前に、あんな事をしちゃったから……。なのに、わたし、何も返せない。何も返す
事ができない。全部想い出せても、何一つ…」

 贖罪を願って心が軋んでいる。償いを求めて心が痛みを欲している。違う。わたしはそ
んな風に心を苦しめ痛める為にこの定めを受け容れた訳じゃない。温かに微笑んで欲しか
ったから。日々安穏に生きて欲しかったから。

「良いのよ。桂ちゃんは、何も返さなくて」

 わたしは返される想いを期待して為した訳ではない。感謝も情愛も信頼も、返る事をわ
たしは期待しなかった。わたしがそうしたかったから、わたしの望みだったから、たいせ
つな人の幸せが常にわたしの正解だったから。

 わたしこそ多くの人に想いを返し切れてない。真弓さんや正樹さんの、多くの人の温か
い想いを受け、心救われ、生命助けられてわたしがそれに何も返せてなかった。何も返せ
ないわたしに、みんな際限なく想いをくれた。

 サクヤさんも笑子おばあさんも、わたしを何度も抱き留めてくれた。寄り添ってくれた。
2人のたいせつなひとを、お父さんとお母さんと、お母さんのお腹に宿っていたまだ見ぬ
妹の生命を失わせる引き金を引いたわたしを。2人のたいせつなひとの生命と引換に生き
残ってしまったわたしを。考えなしの行動でみんなの幸せも未来も壊してしまったわたし
を。

 無条件に愛をくれた。無制限に愛をくれた。無尽蔵に愛をくれた。あの様に、わたしも
…。

「わたしに返す必要はないの。桂ちゃんがたいせつに想う誰かに、その心を注いで頂戴」

 わたしが返される想いを求めないのは、わたしが既に貰い過ぎな故なのだろう。この上
で妹たち、年下の者達から想いを返されては、わたしこそ永久に『人生の借金』を返せな
い。

「桂ちゃんがこうして元気でいてくれるだけで、わたしの幸せだから。満たされるから」

 わたしを想い出せない桂ちゃんでも、想い出せた桂ちゃんでも、常にわたしの一番の人。

 涙ぐんだ桂ちゃんを、胸の中に抱き留めて、

「まだもう少し時間はあるわ。今はこうしてお互いを確かめ合える。素肌で素肌を抱き留
めて、唇を触れあわせましょうか。悔いを残さない様に、桂ちゃんの想い出の中に間違い
なく刻んで、心の核に残しましょうか」

 後から幾度振り返っても、思い返せる様に。思い出せない程心が摩耗し、果てしなく長
い時が過ぎ去り、振り返れぬ程遠ざかった果ての末にも、素晴らしかったと応えられる様
に。全てを失う絶望の闇の向うでも光抱ける様に。

 今この夜を最高に輝かしく甘い時に。
 わたしは、今夜を絶対忘れないから。
 桂ちゃんにも、忘れられない月夜に。

 だとすれば、あれだろうか? 幼い桂ちゃんと約束した侭未完になっていた、あの夜を
迎えた為に、二度と巡り来ないと想っていた。拾年前に新調した子供用の浴衣はもう着せ
られないけど。あれを身につけた桂ちゃんを想い浮べるだけで幸せだったけど。でも今わ
たしの浴衣を纏う桂ちゃんも、文句なく可愛い。季節は夏。時刻は夜。正に煌々たる満月
の夜。

「ゆっくり、行きましょう。羽様での桂ちゃんの日々を、お話してあげる。叔母さんや叔
父さん、笑子おばあさんやわたしの事も…」

 真円の月が昇り行く。夜が更けてゆく。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 鏡の欠片をご神木の根元に埋めて、帰路の半ばに分け入ったのは、お屋敷を出てからだ
いぶ時間が経った頃だった。柚明お姉ちゃんの事を想い出したからこそできる、積る話の
おかげで退屈だけはしなかったんだけれど…。

 流石に疲れは出てくるし、お昼以来何も食べていないお腹は、さりげなく夏の虫にまぎ
れて不平を訴えてくる。

 わたしのお腹の音を聞き咎めたのか、柚明お姉ちゃんは道行く脚を止めた。

「柚明お姉ちゃん……?」

 虫の声がぴたりと止んだ事に不安を覚えて、わたしはお姉ちゃんの名を呼んで、その顔
は優しく笑っていたので、すぐに緊張を解いた。

「ねえ、桂ちゃん。良いものを見せてあげるから、懐中電灯を消してくれるかしら」

「いいけど、何?」

「ふふ、見えるまで内緒」

「うん……」

 言われた通りにスイッチを切る。

「見るも何も、これじゃあ何も見えないよ」

 空高くには見事な月が出ているのだけど、厚く茂る枝葉のせいで、明りとしては全くと
言っていいほど頼りにならない。

「お、お姉ちゃんどこ? 何にも見えないよ、柚明お姉ちゃん!」

「置いて行ったりしないから心配しないで」

 空腹も疲れも忘れて、わたわたと闇をまさぐる腕を、お姉ちゃんの手が捕らえる。

 その温かさにほっと一安心……って、こんなに慌てるぐらいなら、懐中電灯のスイッチ
を入れればいいだけなのに。

 ううっ、やっぱりわたしは突発事項に弱すぎる。少しは平常心を鍛えないと。

「それで、何を見せてくれるの?」
「だから内緒よ。行きましょうか」

「行くって、ここで見せてくれるんじゃないの? 電気消して歩くのは危なすぎるよ」

 見えていても蹴つまずくような山道なのに、目を瞑ったような状態でどうしろと。

「大丈夫よ。ちゃんとわたしが手を引いてあげるから」「でも……」

 桂ちゃん忘れているでしょう。

「わたしは明かりがなくても大丈夫なのよ」

 あ。笑みを含む声にはっと気付かされる。

 そうだった。今のお姉ちゃんはオハシラ様の力を持つ継ぎ手だったのだ。ユメイさんか
ら柚明お姉ちゃんに書き換えられた事で、その辺り迄わたしの様な常の人を基準にしてし
まったのかも知れない。今のお姉ちゃんは…。

「川のせせらぎが聞えるでしょ。あっちよ」

 暫く歩んで、見えたのは……。

「わ、すごい……」

 それは、息を飲むしかない光景だった。

 こんなに蛍がいっぱい飛んでる。

 透明な光がいくつも、いくつも、ふうわり宙を舞っている。

「あはは、いっぱい捕まえて飼ったら、電気代が節約できるかもね」

 それで最後まで過したら日本一『蛍の光』が似合う学生の座はもらったも同然。卒業式
では泣いてしまうかも知れない。

「よっ」

 手を伸ばして捕まえようとすると、するりと躱されてしまう。意地になってばたばたし
ても、わたしの反射神経では無理そうだった。

「ううっ、手じゃ捕まえられそうにないよ」

「駄目よ、桂ちゃん。そっとしておいてあげて。蛍の寿命は十日から二十日……だいたい
それぐらいしか、ないんだから」

 静かに窘める声が届いてくる。柚明お姉ちゃんは、血を流す様な非常事態でもなければ、
叱りつける時も声を荒げる事のない人だった。

「え? そんなに短いの?」

「きっと蛍は、水しか飲まないからね」

「水だけなの?」

「そう。それも綺麗な水がある処でしか生きられないの」

「だから、こんなに綺麗なのかな」

「そうね……」

 熱のない透明な光は、あたかも水が燃えているかのよう。

 この青白い光は、何かに似ていると思う。

 夜空に輝く大きな月、そして……。

「何だか柚明お姉ちゃんみたい……」

「そうかしら?」

「だって、柚明お姉ちゃんがちょうちょを連れてる時って、ちょうどこんな風なんだよ」

 多分、蝶より蛍の方が人魂……すなわち鬼には似ているのだと思う。その見た目もだけ
れど、強い光を嫌うという習性が、真昼の光に耐えられない鬼の在り方を彷彿させて……。

「それに……何だか消えちゃいそうな処も」

 似ている、と思う。

「今日も力を、いっぱい使っていたよね」
「そうね。でも、これで安心できるわね」

 まだ安心じゃないよ。桂ちゃんの答に、

「封じている主の事かしら?」「違うよ」

 本当に今日も昨日も、たくさん力を使っていた。ノゾミちゃんに生命を注いで、尾花ち
ゃんの四肢を戻して、葛ちゃんやわたしを何度も癒して、夕刻にはミカゲちゃんと戦って、
その後サクヤさんの大ケガも治して。だから。

「……柚明お姉ちゃんが、蛍みたいに消えちゃわないかって心配だよ」

 柚明お姉ちゃんは心配を拭う為に、わたしを抱き留めてくれる。肌と肌を触れあわせて、
温もりを確かめさせてくれる。言葉より感触で不安を鎮めようと何度も包み込んで。でも。

 わたしはその身体に抱きついて、温かさと柔らかさを確かめて、それでも心配は消えな
くて、震えて。ダメだった。どうしてか分らないけど、魂の奥の奥で疼く不安が拭えない。
何度抱き留めて貰っても、何度包み込んで貰えても、今のこの幸せが全て一夜の幻と消え
去る気がして堪らない。確かに掴めば掴む程、しっかり感じ取れば感じ取る程、喪失の不
安は一層強く、強くわたしの心を揺り動かして。

 それは間違いなく伝わっている。抱きつけば抱きつく程、肌合わせれば合わせる程、わ
たしのくっつきたい想いが一層強くなっていると、とっくに柚明お姉ちゃんは感じている。
わたしは気持を隠せなかったし隠さなかった。そして例え隠しても柚明お姉ちゃんは必ず
…。

 柚明お姉ちゃんの声は微かな困惑を含み、

「どうすれば安心させてあげられるかしら」

「わからない?」

 お姉ちゃんが消えずにすむ方法は、今の処たった一つと言ってもいいのだから、分らな
い筈がない。

「そうね……でも、わたしがこんなことを言ってもいいのかしら」

 頭を撫でてくれていた手が止まった。

 その事に躊躇いがあるのは分るけれど、わたしとしては、そんなに気遣って欲しくない。
柚明お姉ちゃんが身を挺してわたしを助けてくれる様に、わたしにだって身を削る覚悟ぐ
らいとうにできているのだ。

 だから、敢て、わたしは問うた。

「こんなことって、どんなこと?」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂ちゃんの不安を拭う術がない事は分っていた。わたしにその不安を鎮める術は、究極
にはない。この現身はいつか消えゆく。いつ迄もあり続けられはしない。永くあり続け得
るのは想いだけだ。温もりも手触りもこの声さえも桂ちゃんに形として残す事はできない。

 桂ちゃんの怖れは事実故に拭いようがない。拭いようがないから、幾ら否定の想いを込
めて抱き留めても包み込んでも拭える筈もない。それなのに、否、その故に、なのだろう
か…。

 わたしは不可能に応えようとしている。
 わたしは不可能に応えたく想っている。

 わたしは一番たいせつな人の不可能な望みを叶えたく願っていた。否、それは抑え付け
ていたわたし自身の欲求だったかも知れない。

 桂ちゃんは、わたしとの日々を望んでいる。失った過去を未来で取り返そうと願ってい
る。今迄を受け容れる代りに、今後を求めている。でもそれは、欲するを能わざる類の物
だった。

 肉の身体を失ったわたしは、今後も儚い想いだけの存在で居続ける他に、術を持たない。
今保っている、肉の身体に類似したこの姿も、究極の処霊体で、ご神木を遠く離れては保
てない。依代なくしては存在し得ぬ現身だった。

 そして何よりわたしの定めは主の封じに繋れている。否、わたしが己の定めを主に繋ぎ
止めて、主を封じている。鬼神を解き放たない為に、鬼神がわたしのたいせつなひとを喰
い殺す図を阻む為に。だから、わたしは今後もここを離れる事はできないし、離れる事を
己に許す事もない。この定めは拾年前にわたし自身の選択で、未来永劫に掴み取った物だ。

 わたしは未来を差し出して今を守り止めた。わたしが過去に繋り主に繋る羽様を動けな
いのはたいせつな人の未来を繋いだ代償だから。それを壊す事はたいせつな人の今を失わ
せる。

 わたしはこの末に納得しているし、満足している。たいせつな人に日々寄り添う事はで
きなくなったけど、たいせつな人の喜怒哀楽を傍で見守る事はできなくなったけど。たい
せつな人は力強く、みんなの助けで伸びやかに育っていた。わたしがそれを確かめられな
いだけで、わたしがそれに関れないだけで。わたしはその根を支えている事が幸せだった。

 でも、桂ちゃんは今、わたしを欲している。真弓さんを失い、拠り所を失った桂ちゃん
は、縋りつく何かを求めていた。父も母も亡くし、兄を想い出せてない桂ちゃんは、心を
預ける誰かを求めていた。揺らがぬ軸を求めていた。

 わたしにそれが叶わない事は百も承知だ。
 わたしに為せるのは数日の幻に過ぎない。
 醒めた後で振り返っても証しのない記憶。
 抱き留めても語りかけても残る物はない。

 それでも尚わたしは応えたく想っていた。
 それが数日でも、数時間でも、数分でも。
 長く保たない事など最初から分った上で。
 後に確たる証しなど残せないと承知で尚。

 その心に刻む事で、想いの核に刻む事で。
 その不安から、たいせつな人を守りたい。
 その怖れから、たいせつな人を守りたい。

 いっときの幻でしかないと分っていて尚。
 今だけでも、その心からの求めに応える。

 応えたかったから。その想いに、一番たいせつな人の想いに全身全霊応えたかったから。

『人を守るという事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。そ
の深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる事』

 わたしに叶う限りの全てをもって。
 わたしに為し得る全てで届かせる。

 わたしの在り方は今一番大切ではなかった。

 例え悪鬼でも鬼畜でも、それが桂ちゃんの心の震えを、いっときでも止められるのなら。

 例え夢でも幻でも、それが桂ちゃんの魂からの求めを、いっときでも満たす事叶うなら。

 桂ちゃんに責は帰せられない。彼女に自らを傷つけさせる訳には行かない。わたしが求
める。わたしの責任においてわたしが欲する。それでこの先何が起ろうとも、わたしは自
身を責める事で済ませられる。その罪と業は皆わたしが負う。責めも罰も報いも全部受け
る。

 だから、敢て、わたしは求めた。

「桂ちゃん……あなたの血を頂戴」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 答は静かに迷いも躊躇いもなく、

「うん。……いいよ、お姉ちゃん」

 空には大きな真円の月。

 蛍の様に儚くはない、青白い光を放つもの。

 蛍は水しか飲まないから、短い命しか持たないけれど……。わたしは柚明お姉ちゃんに
月になって欲しい。暗い夜道を照してくれる、わたしを導く光になってほしい。だから…
…。

 くっと顔を横に向け、首筋を差し出した。

「たぶん、わたしの血は甘いよ?」

「は……」

 首筋にかかる静かな息。

「んっ」「んんっ」

 身体がかっと熱くなり、動悸に押された肺から熱を帯びた息が漏れる。

「あ……はぁ……」

 痛みは一瞬。

 すぐに白い花の香りを含んだ吐息が傷の熱さを冷ましてくれて、それは柔らかな温かさ
へと変っていく。

「んっ……」

 わたしという器を満たしている中身を、喉を鳴らせて嚥下する。その中身が身体の中を
流れる音の方が、川のせせらぎよりもうるさいぐらいだったのだけれど。

「んっ……んっ……」

 それすらも忘れてしまうほど、柚明お姉ちゃんの息吹を、生きている証しを感じること
が出来るのが嬉しい。

 その幸せに力を抜いて身体を委ねる。

「桂ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だからちゃんと飲んで安心させて」

 柚明お姉ちゃんが、答の中身より答え方で、声の大きさや声色や反応の早さで、わたし
が大丈夫かどうかを判断すると分るから、わたしは敢て素っ気ない程に素早く強く言い切
る。

 ええ……。尚ももう少しわたしの想いに応えてくれた後、唇を放した柚明お姉ちゃんは、

「桂ちゃん、これで安心したかしら」

「うん。何だか安心」

 血の気を失いすっと手足が冷えていくような感覚が、証しのようで気持ちいい。浴衣の
乱れを直してくれたお姉ちゃんが、その手をとって包み込んでくれる。

「桂ちゃんの手、冷たくなってるわ」

 夜風に当たりすぎたかも知れない。

「あはは、そのぶん柚明お姉ちゃんの手はあったかくなってるよ」

 だからその温かさにもう少し浸っていたい。

「もう、駄目よ。桂ちゃんもわたしを安心させてくれないと」

 うんとこっくり頷くと、柚明お姉ちゃんはにっこり笑って握った侭の手を引いてくれた。

「それじゃあ、家に帰りましょうか」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「人の運命の行く末って本当に分らないね」

 桂ちゃんが複雑そうな顔をして呟いたのは、夕刻のミカゲとの戦いに話が及んだ時だっ
た。森の切れ目にお屋敷の灯りは既に見えている。

「ミカゲちゃんは、わたしとノゾミちゃんの絆を断つ為に、わたしの記憶を取り戻させた。
……そのお陰で、わたしはユメイさんを柚明お姉ちゃんだって想い出せた。それは……」

 多分、ミカゲちゃんが悪意でわたしの記憶を掘り返さない限り、取り戻せなかった物だ。
サクヤさんもノゾミちゃんも柚明お姉ちゃんも、わたしが過去を想い出す事を諦めていた。
わたしを心配してくれて、赤い痛みや拾年前の哀しみを避けようとして。あの侭行けばわ
たしは記憶を戻せずに、町の家に帰っていた。

「一番たいせつな人を思い出せない侭に…」

 ミカゲちゃんに、感謝するべきなのかな。

 ノゾミちゃんとの絆を断たれる危機には瀕したけど。生命を奪われそうにはなったけど。

「桂ちゃん、ごめんなさい」
「ううん……気にしないで」

 それは柚明お姉ちゃんが謝る事じゃない。
 サクヤさんもノゾミちゃんも悪くはない。

「記憶を閉ざしたのはわたしだった。わたしが望んで忘れた事を、わたしがなぜ忘れたか
分らないで思い出そうとして、わたしとわたしでせめぎ合っていた。思い出したい気持も
忘れる事を望んだ気持も、どっちもわたし」

 周囲が判断に迷うのも、迷った末の判断がどっちでも、責められる筈もない。それがわ
たしを心配してくれた上での話なら尚のこと。ミカゲちゃんの悪意がその間隙を突いて、
わたしの記憶を戻してしまったのが皮肉なだけ。

「禍福は糾える縄の如し、だっけ」「ええ」

 桂ちゃんの言葉にわたしは静かに頷いて、

「わたしが羽様で、このお屋敷で桂ちゃんと共に過せたのも、原因はわたしの不注意で鬼
に家族を奪われた末なの。悪意や失敗が大きな喪失の代りに、思いがけない出会や再会を
呼ぶ事も、世には在るのかも知れないわね」

 望ましいと言えるかどうかは微妙だけど。

「ノゾミちゃんと今のわたし達みたいに?」
「ええ」

「柚明お姉ちゃんと今のわたしみたいに?」
「ええ」

『そう言う事も世にはあるのかも知れない』

 反芻する様子が瞳と顔の動きで見て分る。

『拾年前の事件がなければ、わたしはここで育っていたから、陽子ちゃんやお凜さんに出
会えてないし、葛ちゃんが住み着ける筈もないし、烏月さんとの出逢いもあったかどうか。
サクヤさんとは元からの旧い知り合いだけど、ノゾミちゃんとは仲良くなる前に会えてな
い。
 失った物は多かったけど、そのお陰で出会えた大切な人もいた。取り返せる物なら取り
返したい拾年前の夜だけど、いざ本当に取り返せるとしたら、わたしは本当に幼いわたし
を止めていただろうか。今迄積み重ねてきた拾年間を、喜怒哀楽の全てを取り替え失って
でもそれを欲し求めただろうか。……いや』

「止めていたよ」

 ぎゅっと握ってくる、掌の力が強くなる。

「今更取り返しは効かないけど、もし一度だけやり直せるなら、選び直せたなら、誰との
繋りを失っても、誰との出逢いを失っても、わたし柚明お姉ちゃんを失わない途を選んだ。
それで誰を敵に回しても、誰に憎まれ恨まれても、哀しみ悔いる事があっても、絶対に」

 他のみんなもたいせつだけど。心から一緒にいて欲しいと想い願う人達だけど。それで
もその全部を失う事になっても、多分わたし。ここ迄深く想ってくれる人をなくせはしな
い。

 失いたくないから。絶対放したくないから。
 失う事を許せない一番たいせつな人だから。

『わたしが柚明お姉ちゃんを忘れたのは、その喪失に耐えられなかった為なのだ、きっと。
失ってはいけない物を、手放してはいけない物を、失った事に自身が耐えられないから』

 想い出せたのは、取り戻せると想えたから。
 再びこの手に、確かに掴めると想えたから。
 だからわたしは失わない。絶対に放さない。

 例え定めが願いを拒んでも。鬼神が求めを弾いても。わたしは絶対、絶対お姉ちゃんを。

「有り難う。桂ちゃんは優しいのね」

 わたしはその気持を、心から愛おしみつつ、

「そういう優しい桂ちゃんだからこそ、わたしが拾年前たいせつな人を失わせない途を選
んだ気持、分るでしょう? わたしが一番の人をたいせつに想い、その幸せを守りたく願
い、その明日を繋ぎたく望んだこの気持を」

 足を止めて、握り締めた桂ちゃんの左手をわたしの心臓に引き寄せる。懐の中に柔らか
く華奢な手を招き入れ、温もりを重ね合わせ。もうお屋敷は十数メートル先まで迫ってい
る。2人だけの時間は終りを迎えようとしていた。

「わたしは何度あの夜に立ち戻っても、この選択を為していた。たいせつな人を守る為に、
わたしがどんな末路を迎えても、どんな未来を断ち切っても、どんな苦難が待っていても。
後悔も痛みも哀しみも全て呑み込んで尚、わたしは必ず一番たいせつな人を選び取った」

 それは今迄も常にそうであり、これからも。
 過去のどの時点でも、未来のどの時点でも。
 勿論、今この瞬間も間違いなく。

「柚明お姉ちゃん……」

 失いたくないから。絶対放したくないから。
 失う事を許せない一番たいせつな人だから。

「わたしは常に、一番たいせつな人を選ぶ」

 分って、くれるわよね。
 その深い瞳を正視して、

「わたしの幸せは、たいせつなひとが日々を笑って過してくれる事。確かに明日を見つめ
て暮してくれる事。自身の生命を精一杯使い切って悔いなく今を進み行く事。だから…」

 桂ちゃんに幸せになって貰いたい。
 心臓から桂ちゃんの手を解き放つ。
 それは桂ちゃんの想いの解き放ち。

 わたしから、わたしを想う気持から、わたしへの負い目から解き放たれ、自由に羽ばた
いて欲しいとのわたしの想い。わたしの願い。

 わたしはここで過去を抱き留めるだけで充分だから。想い出してくれただけで充分だか
ら。二度と逢えない訳じゃない。わたしは永劫ここに留まる以上、桂ちゃんがその気にな
れば会う事も触れる事も話す事もできるから。

「もっと成長した桂ちゃんを、見せに来て」

 それは町に帰りなさいとの促しだ。明日即にとは言わないけど、学業に差し障りが出な
い様に、生活に差し障りが出ない様に、人の世を生きる上で差し障りが出ない様にとの…。

「……うん」

 桂ちゃんは大粒の涙を瞳に溜めながら、それでも漸く自身の明日に向き合う事を承諾し、
意志のこもった双眸でわたしの求めに頷いて、

「その代り……ここにいる間だけでも、思い切り昔に戻って甘えさせて」

 涙を拭いもせず、その侭全身全霊でわたしの胸に飛び込んできて、背に腕をきつく回す。

「わたしの一番たいせつなひと、わたしに今をくれた人、わたしの起した禍も過ちも何も
かも、未来永劫全て引き受けてくれた人!」

 甘く香る花の匂いを纏わせ、群舞する光の蝶を連れた人。想い出される日も想いを返さ
れる事も求めず、全て呑み込み耐えて尚微笑みかけてくれた人。忘れられた侭を受け容れ、
尚わたしを助けに何度も消滅の危機を踏み越えた人。わたしの為に自身の仇迄受け容れ助
けてくれた人。わたしの想いを常に全身全霊守り包んでくれた人。その上に拾年居続けて、
気付けもしなかったわたしは酷い子だけど…。

「ずっとずっと、想いも生命も重ね合わせていたい人。最期の時まで、わたしの何もかも
が朽ちて枯れ果てる迄共にいて欲しい人!」

 痛みを全て背負わせてしまった。
 犠牲を全て背負わせてしまった。

 わたしが暮す安穏な日々はその上にある。
 わたしが謳歌する人の生はその上にある。

 何一つ取り返す事も術もない侭に。
 何一つ返せる報いも持たない侭に。

「せめてこれからは、絶対忘れないから!」

 だから許してとは言えないけど、言えないけど。改めてありがとう。そしてご免なさい。

「わたし、柚明お姉ちゃんの願いに応えて強く生きる。元気に楽しく、幸せに生きるから。
この生命を精一杯使い切って、頑張るから」

 わたしの幸せはお姉ちゃんの幸せ。なら、

「わたしが柚明お姉ちゃんの幸せを増やす」

 いっぱい、わたしが外の世界からお姉ちゃんに幸せを運んでくる。お姉ちゃんが求め望
んだ、わたしの日々の幸せをたくさん見せる。この拾年を埋めて余る位に、数多くの幸せ
を。

 後悔の混じる嗚咽だけど、それは後ろ向きな物ではない。桂ちゃんは、その上で前を向
いて生きようとしている。わたしを踏まえて、わたしを生かして、わたしに応える為に桂
ちゃんは明日に向き合おうとしている。今はそれが最善だった。桂ちゃんの心の傷は尚大
きくて深い。その出血を止めるには、時が掛る。

 いつかその手を引いて更に先へ瞳を向かせてくれる人が現れる迄。わたしは桂ちゃんの
歩みに必要な心の足場になる。ここにあり続ける事が桂ちゃんの支えの一つになれるなら。

「……有り難う……桂ちゃん……嬉しい…」

 返される想いを期待しないのがわたしの生き方だったけど、返ってくる想いはわたしの
心を温めてくれる。たいせつな人の真の想いだから。一番たいせつな人がわたしに寄せて
くれた、強くて熱い想いだから。嬉しい。想ってくれるその強い心が、この上なく嬉しい。

 想いは間違いなく通じていた。心は確かに通い合っていた。鬼と人の隔てを越えて、わ
たし達は確かにアカイイトで結びついている。

 真円の月は天空で、今正に満ち足りていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂ちゃんを寝付かせた後、わたしは烏月さんと白花ちゃんが待つ居間に歩み行く。ノゾ
ミは、居間に歩むわたしに浮いて付いて来た。わたしの表情を見て何かあると推察した様
だ。拒まれる迄、付いていくという意志が窺える。

「お待たせしました」

 烏月さんの前と言うより、重大な場になると見込まれるので、わたしの応対も正式に準
じた物になる。居間の明かりが豆電球なのは、ノゾミへの気遣いと言うより、みんな寝付
いたと桂ちゃんに思って貰う為の装いの延長だ。

 月が蒼く照す中、ちゃぶ台を挟んで座って静かに対していた2人は、わたしが入ると同
時に視線を向け、それから同時に微かに眉を潜めた。ノゾミが浮いて入ってきている事に。

「ここ迄は、良いでしょう?」

 2人の予定は、室内で行われる物ではない。ここは3人の集合地点で出発地点だ。ノゾ
ミを立ち会わせる積りは、わたしにもないと言外に示すと、烏月さんも白花ちゃんも頷い
て、無言の侭に立ち上がる。ここで話すべき事はない、ノゾミに話すべきでもないという
事か。

 立ち上がってから、わたしに視線を投げかけてくるノゾミにかぶりを振って、正視して、

「3人でお屋敷を外すから、留守をお願い」

 2人は決着をつける気よ。本当はわたしも入れる場でないのだけど、特別に求められた
から。大丈夫、生命の奪い合いにはさせない。あなたが心配する事にはならない。例え事
故が起っても、その時の為にわたしが立ち会う。

「みんな疲れ果てて熟睡だと思うけど、万が一誰かが目覚めて烏月さんや彼の、或いはわ
たしの不在を気にしたら『烏月さんと彼の殺し合いではない果たし合いに、わたしが立ち
会っている』と伝えて帰りを待って貰って」

「桂が哀しむ様な結末を迎えないと、ゆめいが保証してくれるのね?」「ええ」

 ノゾミが、今は目を合わせる事も後ろめたい白花ちゃんの前迄わたしに付いてきたのは、
やはりその懸念だった様だ。ノゾミは桂ちゃんの大切な人も心配する様になり始めている。

「わたしはその為に立ち会うと思って頂戴」

 頼む側の意図は別かも知れないけど、わたしの想いは常にたいせつな人の幸せと守りよ。
あなたの心配はわたしが引き受けたわ。わたしがたいせつな人を守る。だから今ノゾミは、

「お屋敷に残されたたいせつな人を守って」

 桂ちゃんも、サクヤさんも、葛ちゃんも、尾花ちゃんも。あなたに任せる。わたしのた
いせつな人達を。あなたにだから任せられる。

 お願いね。わたしはノゾミの現身の背に両腕を回して軽く頬を合わせ、すっと腕を解く。
ノゾミの承認の意志は、肌から伝わっている。

 三和土で2人が待っている。絡まり合った宿縁を断ち切り、結び直す剣士達の夜が来た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 2人が対峙したのは、それから十数分の後、桂ちゃんと蛍を見た小川の少し下流の川辺
でだった。わたしは川を前面に見て烏月さんからは右、白花ちゃんからは左で、両者から
ほぼ等距離に隔たって。わたしを立ち会わせた上での対決を申し出たのは白花ちゃんらし
い。

 烏月さんの心中は明快だ。白花ちゃんが決闘を望むなら受けて立つ。自ら斬り掛る途を
放棄した烏月さんに、それは千載一遇のチャンスだった。わたしの介在の怖れも全て込み
で、この機会に賭ける積りでいる。問題はわたしを立ち会わせる白花ちゃんの心中だけど。

「烏月さん、君は鬼を切りたいんだろう?」

 無手の白花ちゃんに対し、烏月さんも維斗の太刀はまだ鞘の中だ。白花ちゃんから果た
し合いを申し込んだ以上、もう逃げはしないと見ているのか、斬り合いを急ぐ様子はない。

「今回は……いつもの様に逃げないんだな」
「本当は、今夜も逃げ続ける積りでいたさ」

 僕は、君と戦う為にここ経観塚へ来た訳じゃないからね。僕には生命を注いで果たすべ
き目的がある。絶対に成し遂げるべき約束がある。唯その為だけに、明良さんを僕の運命
に巻き込み、鬼に憑かれた度し難いこの生命を繋ぎとめてきた。君と戦う余裕はなかった。

 君が鬼切り役を担う強者である以上に、僕が既に戦う回数も限られる身体である以上に、
この生命はその目的の為に使うべき物だから。他の何かの為に危険に晒すなんて論外だっ
た。

「だが、立ち会う気になったのだな」

 烏月さんが維斗を、鞘から抜いた。
 月光が刃に照り返されて一瞬輝く。

「今まで問答無用を押し通していたが、最後に切る前に訊いておこう」

 なぜ兄さんはお前を切らずに、切ったと嘘をついてまでお前を助けた? 

 それだけでも役目に背いた大罪だというのに、何年にも渡ってお前を匿い育てた?

 重大な裏切り行為だと分っていた筈なのに、鬼切りの技をお前に授けた?

「それは……」

 応えさせて斬り掛り、動くタイミングを外させる様な小細工が通じる域には、2人はい
ない。互いにそう分っているから、この言葉の応酬はその意味と想いをぶつけ合う戦いだ。

「……それは僕がそう望んだからだ。明良さんが僕に道を示してくれたから」

 確かに僕の中には鬼が住み着いている。その鬼の所為で、僕は罪を犯した。

「そうだ。お前は鬼として罪を犯した。だから鬼切り部千羽党の鬼切り役……千羽明良に
命が下った」

「そして僕を切りにきた明良さんは、僕の中に別の魂があることを、それが鬼……主の分
霊であることを、見抜いてくれた」

 周囲は虫の音も消えて静寂を保っている。
 微風が遠くで草を薙ぐ音のみ僅かに届く。

「そして、明良さんは僕にこう言ったんだ。
『君が死より辛い修行に取り組めば、誰も殺さずに済むかも知れない。ここで楽になるか、
鬼を切る為の修行に取り組むかを選べ』と」

「それでお前は修行を選んだ訳だ」
「そう……鬼を、主を倒す為にね」

 月が皓々と照っている。

 その遠くにある物を白花ちゃんは見つめた。

 三十八万キロの彼方にある月は、それでも大きく明るくて、眩いばかりで。

「それから千羽の私有地の一角で、明良さんと修行に明け暮れる日々が始ったんだ」

 驚いたことに、明良さんは僕のことを知っていたんだってさ。僕の母さんが千羽の人で、
僕と君たちとは遠縁に当たるんだって。

「では、お前は……だが……」

 烏月さんの怜悧な瞳が、驚きに見開かれた。

「僕の年が見かけ通りだとして、年齢の合う範囲で千羽の外に出た人は1人だけだと?」

「そうだ。わたしが知っている限り、該当する人は1人しかいない……。その人は『当代
最強の鬼切り役』と呼ばれていた千羽党の誉れであり、狩るべき鬼と意気投合して役目を
返上した、千羽党の恥でもある」

「明良さんの師匠でもあり、十代前半の若さで鬼切り役の座に座った天才」

「私から見れば、鬼切り部千羽党・先々代鬼切り役」

 烏月さんの瞳が、今宵の月もかくやと円く開かれた。その声は微かに震えを帯びている。

「まさか……だとすると、お前は……」

「幼少から鍛練を積み続けなければならない千羽妙見流を、十年足らずで修める事ができ
たのは、その人の血のお陰だろうね」

 維斗を手にした鬼切り役を前に、鬼である白花ちゃんは泰然自若に腰を折り、手頃な長
さの枝を拾い上げた。長さは凡そ維斗と同じ。その枯れ枝の使い心地を確かめる様に、目
の前の空間を一度薙いで。

「やる前にゆー、ユメイさんに頼みがある」

 ここで白花ちゃんは、漸くわたしをこの場に立ち会わせた意味を話し始めた。

「僕が勝った後の彼女の守りを、頼みたい」

 烏月さんの瞳が、何を言うかと白花ちゃんを睨みつける。その視線を一度受け、それか
ら白花ちゃんはもう一度わたしに視線を送り、

「僕はこの果たし合いで彼女に勝つ。この戦いに勝たないと、僕はこの先へ進めないから。
彼女に斬られて敗れる様では、この先の本当の戦いに勝ち目のある筈がないから必ず勝つ。
 勝った後、倒れた彼女を守って欲しい…」

 僕は多分彼女を傷つけずに勝てる。殺さずに勝てる。無傷で勝てる。彼女の刃は僕には
届かない。当たらない。及ばない。

 烏月さんの負けん気を挑発する様に断言し、

「この身体には主が宿っている。今は辛うじて抑えているけど、今宵は満月。鬼が最も力
を得る時。いつ動き出すか分らない。彼女と戦えば、体内で鬼を抑えている力に手をつけ
る事になる。そうしないと彼女に勝てない」

 結果鬼が裏返る。主の分霊が身体を乗っ取って表に出る。それは勝敗に関らず、僕が全
力をつぎ込めば必ず生じる動きだ。鬼は機を窺っている。僕が全力を使い果たす瞬間を、
心を乱す瞬間を、集中を失い内なる鬼を抑えきれなくなる瞬間を。だから必ず主は裏返る。

「僕に敗れた後の彼女の守りを、頼みたい」

 僕が敗れるなら問題はない。維斗で両断されれば鬼も生きてはいられない。問題は僕が
烏月を倒して、倒れた彼女の前で僕の鬼が裏返る事だ。裏返って無防備な彼女に止めを刺
してしまう事だ。そんな事にでもなれば、僕は死んでも明良さんに合わせる顔がなくなる。

「ふざけた事を……わたしを怒らせて、冷静さを失わせる下手な小細工の類か!」

 烏月さんの端整な顔立ちが、うっすらと紅に染まっている。身体が前傾し始めているの
が見える。もう彼女は、いつでも斬り掛れた。それに白花ちゃんも戦意のこもる声音で応
え、

「君は勝つ気で刃を振り下ろせばいい。僕に負ける気はないけど、勝負はやる迄分らない。
僕の予測にもない何らかの影響で、君が勝つ事があるかも知れない。僕がユメイさんに頼
むのは、僕が勝った後の話だ。それを侮蔑と捉え嫌うなら、君は全力で僕に勝てばいい」

「あなたは、その後あなたはどうするの?」

 わたしの問は、烏月さんを一層怒らせる事になるだろう。烏月さんが敗れた後で、白花
ちゃんはどうするのかと訊ねているのだから。彼はそれに軽くかぶりを振って、心配無用
と、

「僕は鬼とこの拾年、一つの身体を共有してきた。僕が身体の主導権を持つ時でも、僅か
に気を許すと鬼が勝手に手足を動かし、周囲を破壊し人を傷つけ罪を犯した。逆も真なり
なんだ。鬼が身体を乗っ取って暴れている時でも、僕の心が全く反映できない訳じゃない。
無理をすれば、多少身体を操る位はできる」

 夕刻にも主の分霊は、白花ちゃんの身体を一瞬、無理に奪い取ってわたしを薙ぎ倒した。
白花ちゃんは裏返った主に逆にあれを為そうという。裏返った主のブレーキを考えている。

「鬼は間近に戦えない鬼切りがいれば止めを考えるけど、ユメイさんが守って抗う様なら
諦めて元の目的、主本体の封じを破りに走る。僕はできるだけ抗って身体を操り、足を操
り、羽様からできるだけ遠ざかる。鬼は多分それを許さないから、鬩ぎ合いになるだろう
けど。今日は満月の夜だから鬼の力も強大だけど」

 僕は内なる鬼にも勝つ。勝って本当の目的に挑まなければならないから。その先に僕の
真の戦いが待っているから。たいせつな人を救う為に、鬼を斬らなければ、ならないから。

「僕にはもう一度位、身体を取り返す余力がある筈なんだ。残された少ない寿命から生気
を前借りし、一時間か二時間で身体を取り返せる。今迄もそうだった。もう一度なら…」

 白花ちゃんはもう年に満たない自身の寿命から、更に生気を吸い上げる気だ。止めたい。
この四肢で抱きついてこの果たし合いを止めたかった。もう彼には、戦う力どころか生き
る力さえ残り少ないと言うのに。それでも…。

「今僕が我が侭を頼めるのはあなただけだ」

 彼はそれを望んでない。わたしが間に分け入って、身に刃を受けても止めたかったけど、
夕刻なら戦う意志のない白花ちゃんを守るのに躊躇はなかったけど、今の彼は違う。彼は
果たし合いを望んだ。斬られ斬る世界に自ら飛び込み烏月さんを招いた。その意味を分っ
て敢て踏み込んだ。それが彼の真の想いなら。

 わたしは、彼のその行いを受けて応える。
 わたしは彼の望み選んだ途を全うさせる。

 それが彼の願いなら、わたしは鬼に。

「分ったわ……。しっかり、頑張って」

 白花ちゃんが維斗に両断される像はこの夜の物かも知れない。技量と腕力はまだ白花ち
ゃんが上だけど、白花ちゃんの生命も身体ももう限界に近い。内に抱えた鬼も脅威だけど、
何かあればその強さは全て砂の様に崩れ去る。

 止めたい。逃がしたい。防ぎたい。烏月さんを傷つけないで済む、あらゆる手段で白花
ちゃんを遠ざけ、隔て、守りたい。そうできる力があるのに、それを為せる術を持つのに。

「烏月さんも、全力を尽くして下さい。
 それが彼の真の望みで願いですから」

 白花ちゃんの真の想いなら全て正解。

 彼の真の願いに、わたしに否の答はない。
 烏月さんが瞬間だけ驚きに目を見開いた。

 彼への想いを知る故に。この心を知る故に。
 彼に抱く妄執に近い迄の強い情を知る故に。

 この選択はわたしの物だ。わたしの選択は常に、一番の人の幸せと守りの為に。そして
今は彼の、白花ちゃんの強い想いを守りたい。

『人を守るという事は、その身体や生命と同様に、その心も守る事。その人の想いも守る
事。その人の大切な物迄守る事』

 精一杯向き合う。最悪の像を招かない様に願う。その上でたいせつな人が失われるなら、
それは全てわたしの所為だ。その罪と業は皆わたしが負う。責めも罰も報いも全部受ける。

 血管が荒れ狂う程に動きたい己を止める。
 この戦いは絶対手を出さず見守らないと。

 白花ちゃんの誠心誠意、全てを出し切る戦いを、わたしはしっかり見届けて支えないと。
その願いに応えないと。強くて優しい想いに、わたしを頼ってくれた心に、応えないと。
その末に、わたしの一番たいせつな彼を失う事になったとしても。わたしこそ鬼に相応し
い。

 わたしの苦悩を分って、全て分って彼は、

「大丈夫、僕は必ず烏月に勝つ。勝って、内なる鬼も抑えきって、主の前に戦いに立つ」
 戦いに赴く者とは思えない温かな微笑みと、強い意志を瞳に秘めて、烏月さんに向き直
る。

「……なぜだ? なぜ今迄……」

 その戦意が、覚悟が、今迄の彼に窺えなかった全てが、烏月さんに不審を抱かせた様だ。

「なぜ私がサクヤさんを斬ってしまう迄、戦いを避け続けた? もっと早く、もう何時間
かでも早く、お前が戦いを正面から受けて立っていれば、サクヤさんとて斬らずに済んだ。
なぜ今になって、あの犠牲を経た後で…?」

 サクヤさんを斬ってしまった事は、斬る積りでない者を斬ってしまった事は、烏月さん
にも痛恨であるらしい。一時は生命が危うかったのだ。烏月さんの苦い思いを込めた問に、

「血の犠牲を払ってしまったからこそだよ」

 白花ちゃんも苦味を噛み締めつつ、瞳を閉じてそう応えた。それは、想い返すだけで彼
にも痛恨なのだろう。白花ちゃんにとっても、サクヤさんはたいせつな家族だったのだか
ら。

「僕が主の分霊を抑えきれない所為で。満月が近い為か、最近は気を抜かなくても内に抑
えた鬼が蠢いて、身体を奪おうとする。だからさっきも、君の動きを躱しきれなかったし、
逃げる事も叶わなかった。桂や君に、危険を報せに来た積りだけど、そうやって僕を動か
して君と戦わせる考え迄は見通していたけど。まさか僕と君を戦わせ他の人迄を引きつけ
て、桂の守りを剥がす目論見だったなんて……」

 ユメイさんが桂を守ってくれたけど。危うい処だった。振り返れば、主の分霊は桂の守
りを剥がそうと蠢いていた。僕が桂の守りに出ると、近く迄行ってから騒ぎ出して僕の集
中を乱し、君に気付かれる様に。君やサクヤさん迄僕に引きつけ、桂の間近に守りが消え
る危機が続き。こうなって分った。それが目的だったんだ。僕を使って桂の守りを剥がし、
桂の生命を奪って僕の絶望を呼ぶ積りだった。

「……」

「そしてより直接に、君の前で暴れる事で僕の動きを止め、僕を斬らせる事で裏返ろうと。
痛みや疲労で僕の集中が途切れる瞬間を狙い。それでも僕に桂の危険を知って動かない選
択はなかった。それが僕の真の想いだから。何度やり直せても桂を守りたい想いは、君と
同じだから。君と鉢合わせても逃げれば良い」

「今迄逃げ続けた事に間違いはないと…?」

「成功とは言えないけど、何度やっても他の途を僕は選ぼうとしなかったよ。この犠牲を
生んでしまう迄は。僕の非力の為に、僕を庇って血を流す人が出てしまう迄は」

 夕刻満足に動けない僕を庇いに、ユメイさんはその身で刃を止めようとした。サクヤさ
んは生命を落しかけた。たいせつな人が、僕の何を捨てても助けたい人が、事もあろうに。

「僕が身を惜しむのは目的を果たす為だ。たいせつな人を、鬼神を封じる定めから解き放
つ為だ。なのに僕の身を守り庇って、僕が解き放ちたい一番の人が刃の前に身を晒す…」

 危うく僕は、望みそのものを失う処だった。

「ユメイさんを……彼女を、オハシラ様から解き放ちたかったんだ、僕は」

 白花ちゃんはわたしを見て、烏月さんにその目的を知らしめる。烏月さんの視線が白花
ちゃんから、わたしに流れてくる様が見えた。

「羽藤、桂……羽藤、ユメイ……羽藤……」

 宵の口に烏月さんは、桂ちゃんから想い出せた記憶の概略を聞けていた。彼女はわたし
が元は人だった事も、拾年前わたしが鬼の生を望み選んだ経緯も知った。加えて白花ちゃ
んから今聞かされた真弓さんの話、更に彼の目的を知るに至り、拾年前瓦解した羽藤の家
が、期せずして再結集した状況を呑み込めて。

『その必要はないよ。少なくともあの子は、桂には手を出さない筈だからね』

「サクヤさんのあの言葉はそう言う事を…」

「ユメイさんをご神木から解き放つ為に。主を封じる定めに永劫繋がれ続ける彼女を解き
放つ為に。僕は明良さんに鬼切りの術を学びたく願った。僕達で綻ばせたハシラの封じを
保つ為に身を捧げた彼女を、取り戻す為に」

 僕達の為に全てを失った彼女を、僕達の所為で全てを失った彼女を僕の全てで取り返す。
それが僕の唯一の望み。何があっても成し遂げなければならない、羽藤白花の最期の望み。
それさえ叶うなら首なんて惜しくない。逃げ続ける屈辱も気にならない。蠢く鬼の抵抗も
嬉しい物さ。たいせつなひとに役立てるなら、たいせつな人の力になれるなら、その幸せ
に繋げられるなら、その笑みを取り戻せるなら。

「この生命を注ぎ、主を解き放って斬る!」

『絶対、主を許さない……。僕が、斬る!』

『だから、もう少し待っていて。助けに行くから、必ず救い出しに行くから、強くなって
絶対幸せにするから。僕がこの手で助けるから。【鬼切り】で、絶対鬼を切り倒すから』

「だから、主との戦いに力を温存したかった。僕に残された生命は僅かだったから。鬼が
宿って負荷の掛り続けたこの身は、生気の前借りで何度となく鬼の裏返りを抑え続けたこ
の魂は、燃え尽きようとしている。それは良い。僕は目的を果たす為だけに、明良さんに
生命を繋げて貰ったんだ。多くの罪を犯した僕が、生き長らえようとは思わないさ。唯も
う少し。

 最期の目的を果たし終える迄、最期の戦いを終える迄、保たせないと。内に潜む主を抑
えつつ経観塚の主を斬る。最強の業を叩き付ける。その為に僕は君との戦いを避けてきた。

 でもその所為で、よりによって助けたい当の彼女の生命を危うくしてしまった。数少な
いたいせつな人、サクヤさんの生命を削った。本末転倒だよ。何の為に、僕が戦いを避け
てきたのか、分らなくなる。……だからだよ」

 僕は主を解き放つ。あくまでも斬る為に。

 でも君はそれを許すまい。明良さんも母さんも終生それを許さなかった。危険すぎると、
勝算が少なすぎると。でも僕はどんなに可能性が低くても挑む。勝てる可能性に賭けたい、
僅かな勝算を掴みたい。諦められない。その為に僕は今迄おめおめと生きてきたのだから。
己の生命に終止符を打ち損ねてきたのだから。僕は君の目をかい潜って、事を為し終える
積りだったけど、その為にたいせつな人が、僕が一番守りたい人が、逆に危害を受けるな
ら。

「正面から果たし合って退けるべきだ」
「なるほど、……そう言う、事か……」

 烏月さんは、漸く納得できた顔を見せた。

「お前には退けない目的がある。想いがある。今迄はその為に己を生き長らえさせようと
し、今はその為に障害に正面から向き合ったと」

 その想いを噛み締めて、白花ちゃんの苦しみと哀しみを受け止めて、明良さんが敢てそ
の生命を繋いだ理由を心の底から納得できて。烏月さんは再度刀に身体に力を込める。そ
う。

「ならば私は、正面からそれを打ち破ろう」

 心の奥に分け入って情を交わし、大切に想っても尚、斬らなければならない時には斬る。
例えたいせつなひとでも、人に仇なす鬼なら斬らねばならないのが鬼切部。正にその通り。

「己の身を断ち切る想いと共に、己の生命を断ち切る如き痛みと共に、その身も心をも」

 兄を断ち切る如き想いと共に、桂さんを断ち切る如き想いと共に、ユメイさんを断ち切
る如き想いと共に、己を断ち切る想いと共に。

「お前を斬ろう。その身体も生命も、心迄も。鬼の定めと哀しみと苦悩から、鬼の定めに
組み敷かれた辛い生から、断ち斬る事で救おう。
 血の犠牲があった末に止められて、正直私もお前を斬る事に多少迷いが出ていたが…」

 烏月さんは一度瞳を閉じて、その迷いを振り切る様に瞳を見開き、

「経観塚の主の封印は解かせない。歴代の鬼切部が、先々代が、先代が解くべきではない
と判断した主の封じは、私が保つ。……っ」

 そこで烏月さんがわたしに瞳を向けたのは、それがわたしの望みを断つと覚悟している
故。白花ちゃんはわたしを解き放つ為に全て抛ち鬼切り役に戦いを望んだ。それを迎え撃
つ烏月さんは、わたしを主に繋ぎ封じを課す側だ。桂ちゃんのたいせつな人であるわたし
に苦渋を感じる烏月さんに、わたしは静かに頷いて、

「わたしからも言います、羽藤白花。烏月さんに勝てたとしても、主の封印は解けません。
封じの要であるわたしが、絶対に解きません。ですから、あなたが例え烏月さんに勝てて
も、内なる鬼を抑え切れても主本体は斬れない」

 わたしの意志がある限り封じは解けない。
 白花ちゃんは主に、会う事すらできない。

「定めは受け容れているから、烏月さんの所為ではないから、迷いなく全力で戦って頂戴。
 烏月さん、あなたの持てる全てを出して」

「ユメイさん……あなたは……分りました」

 全ての驚きを呑み込み、全ての信頼を傾け、烏月さんは目前の戦いに己の全てを注ぎ込
む。その戦いに一分の迷いも要らない様に。その全てを注ぎ込んで悔いなく戦える様に。
それが白花ちゃんに向き合う彼女の不可欠だから。

 わたしは戦場を支えよう。それが白花ちゃんの望みでもある。彼は心理戦で有利を得る
事を望まない。双方が全力を出せる戦いの場を整える事が、彼の今の真の望みで真の想い。

「そして、わたしの為に戦ってくれるひと」

 わたしが白花ちゃんを向いて正視すると、

「参ったな……。それでも、僕の意志は変らない。僕は絶対烏月にも勝って、内なる主を
抑え付け、あなたの意志を覆し、主を解き放って切り倒す。ユメイさん、いや、ゆーねぇ。
 羽藤の血筋は頑固の血筋でもある。ゆーねぇがそうである様に、僕もそうなんだ……」

 その事は桂の間近にいた烏月が一番良く分っていると思うけど。僕も諦める積りはない。

「勝って、勝って絶対成し遂げる。明良さんの定め迄巻き込んだ。サクヤさんの生命迄危
うくさせた。この上最後の関門の直前で止めて引き返せはしない。僕に引き返す処はない。
居るべき処も行くべき処もない僕にあるのは、今為すべき事だけだ。進む他に途はな
い!」

 わたしは白花ちゃんの強い想い宿る声に、

「生命の限り、あなた自身の戦いを為して」

 わたしは封じは解かないけど。わたしは絶対にその意志には沿わないけど。でもあなた
があなたの全てを使い切った最期を迎えられる為に、全力を尽くして生き抜く事を、燃え
尽きる瞬間迄羽藤白花であり続ける事を願う。

「わたしの一番たいせつな人。わたしに生きる値打ちと目的を与えてくれた人。この身を
何度捧げても、絶対に幸せになって欲しいわたしの愛した強い人。わたしはもう、あなた
の想いに応える術は何一つ持たないけど…」

 あなたの納得の行く生の終りを迎える事を。
 わたしはあなたの全てを永劫胸に抱くから。

「人として生き、人として死ぬ事を望み願う白花ちゃんの前途に、少しでも幸多かれと」

 わたしはこの戦いを見つめるしかできない。

 想いを込めた言葉を交わし、互いの立ち位置を確認してから、おもむろに戦いは始まる。
始れば終る迄わたしは介在できない。剣士達の真剣勝負に、そうでない者は見守る事でし
か参画を許されない。せめて見届けよう。最後の最後迄、誠心誠意、全身全霊。その末に
訪れる定めなら、例えそれがどんな末路でも。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 白花ちゃんは、先ほど拾った手頃な長さの枯れ枝を、一度力強く右から左に薙いでから、

「昔話は、これくらいにしようか……」

 白花ちゃんは肩幅よりも広く両足を開いて、空気椅子みたいな感じで腰を落す。背筋は
ぴんと真っ直ぐで、刀を右肩に担ぐようにしてわたしはその構えを間近に一度見知ってい
た。

「その構えは破軍……」

 烏月さんの漆黒の瞳が抑制されているけど、驚きに瞬く。予期はできていたけど、改め
て見てしまうと驚きを隠せない、という彼女に、

「そう。向い挑めば必ず破れ、背にすれば必勝を約束されるという破軍星を象った構え」

 一昨昨日の夜、烏月さんが『魂削り』を使った時に見せた、千羽妙見流の構えその物だ。

「烏月さん、君は今破軍星に向かって挑んでいるんだ。君に勝ち目があると思うかい」

 どうやって、破軍を堕とす積りだい?

 白花ちゃんは即斬り掛らずに、烏月さんに問いかける。やはりこの2人は、唯勝利を望
んで切り結ぶ以上に、戦いに魂を込める事を望む。生命のやり取り故にこそ、戦に臨む者
の想いが結実されるべきと。双方間違いなく、真弓さんや明良さんの流儀を受け継いでい
る。

「私の答えは……」

 一瞬の躊躇いを見せた後に。

「……こうだ」

 烏月さんが構えた。

 それは白花ちゃんの構えと同じ構えだ。

「破軍の構えは千羽妙見流七つの構えのうち、最後の一つ。皆伝者のみに許された、奥義
の為にある構え。それをどうして鬼に譲ろう」

「空に二つの破軍は不要」
「どちらかが必ず堕ちる」

「君に勝ち目はないよ。君はまだ完全に奥義を伝授されていない筈だ。つまり千羽妙見流
を完全に継いでいるのはこの僕だ」

「……魂削りなら、私も会得している」

「技には表と裏がある。一般に奥義と言われているそれは、秘伝の為の形なんだよ。そこ
に意味が加わって、初めて真の奥義となる」

「何だと……」

 烏月さんの、漆黒の瞳が微かに見開かれた。

「千羽妙見流が名を頂いているのは、人の寿命を司る北辰・七星の神。その振るう太刀は
肉体ではなく、魂そのものを断ち切る。
 そして鬼とは死者の魂……すなわち『キ』を示す言葉でもある」

 鬼を断ち切る北辰・七星の太刀……。

「信じないのなら見せてあげよう。千羽妙見流『鬼切り』を……」

 彼、彼女らの存在その物の名を冠した技。

『必ず助け出すから。僕の全てを賭けて助け出すから。主を、鬼を切り倒すから。この身
に学んで刻みつけた、鬼切りで主を斬るから。漸く身につけたから。最強の業を身につけ
たから。大きな犠牲を、払ってしまったけど』

 ああ、そうか。瞼の裏に映る像は、白花ちゃんの奥義修得の瞬間、初めて奥義を放つ時。
それは彼が全てをつぎ込んで空っぽになる時。今の様に、この瞬間の様に全身全霊を込め
なければ、白花ちゃんも奥義は放てないから…。

 その動きは魂削りと何ら変りない。込める力が段違いなだけで、その早さがとてつもな
いだけで、気合いが必殺のそれを越えているだけで。烏月さんの魂削りと、酷似している。
ほぼ同じ業。でもその与える効果は、桁違い。

「行くぞっ!」

 白花ちゃんの足が地を蹴った。
 正に神速とも言える踏み込み。

 その踏み込みによる勢いも、足先から指先に至る全身の力も、白花ちゃんの全てが余す
事なく乗せられた秘剣が閃く。

『間合いが、少し遠い……否、届く……?』

 間合いは遠く、刃は届かず、それでは素振りに他ならず。寸前まで、わたしにもそう見
えた。目で見る限りそうとしか見えなかった。

 だけど。

 剣先から延びた不可視の力が、烏月さんに達するのが、まざまざと視えた。刀の隅々迄
力を通わせ、剣先に迄それを満たし、溢れさせ、更に溢れ出させたそれを意志を持って紡
いで強く束ね、相手の魂に向けて叩き付ける。そこに白花ちゃんは、贄の血の力まで込め
て。ここ数日でわたしと感応して飛躍的に深化した贄の血の力を更に加え、業を更に強化
させ。

 その一撃に込められていたのは、肉体的な力の全てではなく、気や魂といった精神的な
物迄を含めた白花ちゃんの蓄積の全てだった。

 その証拠に、振り切るのと同時に白花ちゃんの身体から、体力以上に意志が抜けていく。
今彼を包むのは物凄い脱力感だ。それでも白花ちゃんは足を踏ん張らせ、維斗を振り下ろ
す直前で動きが止まった烏月さんに語りかけ、

「使い手の技量次第では、魂についた濁り……すなわち鬼のみを、切ることも出来る…」

 維斗を取り落した烏月さんは、膝をつき前のめりに倒れ込む。それでも残った気力を振
り絞ったのか、顔を上げて白花ちゃんを見る。

 その目は既に、門前払いの硬い瞳ではなく、憎しみの火を灯す訳でもなく。わたしと桂
ちゃんが好きになった、怜悧で真っ直ぐで強く柔らかな光を宿した千羽烏月さんの瞳だっ
た。

「それが……」

 その烏月さんに向かって、白花ちゃんは少しだけ微笑んで頷いた。やはり、白花ちゃん
は烏月さんに『鬼切り』を伝えたかったのだ。己の所為で烏月さんが明良さんから修得す
る機会を失わせた、鬼切り役が受け継がねばならない奥義を、明良さんに代って伝えたい
と。

 それが明良さんへの恩返しにもなると望み。
 それが烏月さんへの贖罪になればと願って。
 それが自身の生命を縮める事を承知の上で。

「これが……『鬼切り』だよ……くうっ!」

 来る。鬼が、分霊が、浮き上がってくる。

 白花ちゃんの中の圧力を調整している弁の様な物が緩んだせいで……。今迄小さく圧縮
されていた物が、みるみる大きくなっていき、白花ちゃんという器の中を満たしていく。

「白花ちゃん……!」

 見届けるべき戦いは終った。
 これからはわたしの戦いだ。
 身に纏う力を全て解き放つ。

 わたしは、裏返り行く白花ちゃんの倒れた身体を、己に満ちる全ての力で、抱き包んだ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「うう、ああ、あああああぁっ!」

 制御を失い、主不在で混乱した白花ちゃんの身体が、転げ回る。烏月さんもその侭俯せ
に倒れ込むけど、『鬼切り』の効果は精神に、特に魂の濁りに強く作用する物で、彼女は
現状生命の危機にはない。わたしは迷う事なく、一番たいせつな人に寄り添って、抱き留
めて。

「白花ちゃん、白花ちゃん……しっかり!」

 まだ身体の主は確定してない。完全に裏返ってない。白花ちゃんも簡単に身体を譲る気
はなく、2つの意志が一つの身体の隅々で弾き合い、奪い合い鬩ぎ合い。悶え苦しむその
身に両腕を回して抱き留め、突き放そうと足掻く腕を堪え、暴れる全身に癒しの力を注ぎ。

「ゆーねぇ、ダメだ。僕より、烏月を……」

 烏月を守ってくれって、頼んだ、だろっ。
 意識を引き剥がす苦しみが肌で感じ取れた。

 神経の一本一本に主の分霊が浸透して身を奪い取っていく痛みが共有できた。血肉の欠
片に至る迄意志が及ばなくなり、妨げられて別の何かに操られ行く感覚が背筋を凍らせた。

「烏月さんを守るには、これが最善なのっ」

 白花ちゃんが主に乗っ取られず、己を保ち通せれば、それが烏月さんの安全に直結する。

「今のあなたは1人じゃない。わたしが憑いているから。あなたは白花ちゃん。わたしの
一番たいせつな人。賢くて優しくて、強い人。自身を強く保って。鬼が出るなら来ればい
い。わたしがあなたの鬼を全部取ってあげる!」

 癒しを全開で流し込む。身体をぴったり巻き付けて、肌と肌と寄せ合わせ或いは衣の上
から、出せる限りの力を早く大量に浸透させ。疲弊した身体を癒す以上に、深く奥に力を
及ぼし、出てくる主の分霊を灼く。肉と骨の奥に、血管と神経の奥に、魂の奥に力を届か
せ。

「ダメだ。ゆーねぇ……癒しが、身体の上で、滑って行く……。肉や骨の、内臓の疲弊や
損傷に及んでしまって、鬼に、届いていかない。この侭だと、身体を乗っ取られて、この
手足がゆーねぇを傷つけてしまう……離れてっ」

 意識が、保ちづらく。うぐっ。

「あああああああ」

 白花ちゃんの両腕ごと包み込むわたしの両腕を、彼の両腕が弾き飛ばす。信じられない
程の膂力は鬼の物だ。即座に再び両脇に腕を絡めてその背を抱き留めるけど、自由を得た
白花ちゃんの腕はわたしの背中を手刀で叩き。

「逃げて。ダメだ、傷つけてしまう。止められない。身体が、奪い合いの中で、制御が」

 白花ちゃんの心が、主に押し切られていく。鬼切りを使って疲弊した今の彼に、鬼を押
し返す力も生気の前借りを為す力もない。じりじり主導権が奪われている。身体の神経や
五感が、自身から切り離される様が感じ取れる。わたしもそれは手に取る様に分る。分る
けど。

「絶対に放さない!」

 わたしのたいせつな人。一番たいせつな人。拾年前に鬼を取ってあげられなかった、願
いに応えられなかった、守れなかったたいせつな人。わたしを愛した故に鬼に憑かれ、辛
い定めを負った人。わたしを愛する故に尚辛い人生を選び取り、生命を縮めて迄鬼切りの
業を学び、その鬼切部を裏切って迄してわたしを救いに来てくれた人。強く賢い、優しい
子。

 今こそ強く抱き留めてあげなければ。
 今こそ手を差し伸べてあげなければ。
 今こそ守りと助けが彼に必須だった。

 あの夜わたしは白花ちゃんを追って助ける事ができなかった。主の封じを担いオハシラ
様を継いだわたしに、ご神木を抜け出る事は叶わなかった。白花ちゃんと桂ちゃんの幸せ
を守る為に引き受けた、封じの要だったのに。それを承けた為に助けに行けなくなるなん
て。

 彼の腕が幾らわたしを叩き付けても、それは彼の意志ではない。転げ回って抱擁を外そ
うとするこの動きは、彼の想いではない。わたしの耳に聞えるのは怒号より、今の白花ち
ゃんが鬼に抗う心の声と、拾年前のあの夜の、

『おかあさん、おとうさん、助けて、痛いよ。
 ゆーねぇ、鬼が、鬼がぼくの中にいるの』

 小さな白花ちゃんの泣き声が、わたしの心の中で今も響く。そんな事はしたくなかった
よ、お父さんごめんなさい、生き返って。頭が痛い、痛い、身体が勝手に動く、助けてと。

 いたいよ、いたいよ。苦しいよ、助けて。

『とって。はくかの頭の中の、鬼を取って』

 拾年間、鬼を取って、あげられなかった。
 拾年間、わたしは彼に何もできなかった。

 一番たいせつな人だったのに。一番守りたい人だったのに。幸を掴んで欲しかったのに。
その為なら何でもしようと、己を捧げようと、全てを尽くそうと、何もかも差し出して悔
いはないと願い続けていたのに。それなのにっ。

 これを拭う日をわたしは待ち望んでいた。
 これを消せる時をわたしは渇仰していた。
 彼の守りに役に立てる時をわたしは……。

「取ってあげる。今取ってあげるからっ!」

 愛が深いから鬼に囚われ、愛が強い故に鬼に組み敷かれた辛い道を尚選んだ。幾ら助け
たいと望んでも、力を及ぼしたいと想っても、力不足な以上にわたしはご神木から離れ得
ず、主の封じを空け得ずに。今こそこの想いに応える。この心を掬い取る。この愛をわた
しは。

「うごおおおおお!」

 白花ちゃんの喉が怒号を発する。それはどちらの叫びなのか。或いは共々の叫びなのか。

 泣いている。白花ちゃんの心が泣いている。

 わたしに寄り添われながらそれに応えきれない事に、自身の想いが届かない事に。必死
に身体を取り戻そうと、あがき続けて。内蔵を掻き回される様な苦しみに魂が軋んでいた。

 わたしはその口を、わたしの唇で強く塞ぐ。

 口移しに、癒しの力を流し込む。その体内に、その魂に、その奥の奥へと届かせる様に。
白花ちゃんの瞳が驚きに見開かれたけど、どっちの反応なのかは、混濁していて分らない。

 足りない。まだ及ばない。まだ浸透が遅い。
 鬼は贄の血の身体に寄生し力を増していた。
 鬼は月光を受け主に共鳴し力を増していた。
 もっと深く及ぼさないと、踏み込まないと。

 わたしは蒼い衣を消去して、裸身で彼を抱き留める。この衣もわたしの現身で想いと力
の変形だけど、この身を包み守る為に織りなした物だから、力を防ぎ遮る性質を多少持つ。
直に肌を合わせる程に早く、癒しを浸透させられない。今はその少しも惜しい。待てない。
白花ちゃんの服を脱がせる間がないけど、夜風に当てるのは良くないので構わない。わた
しの方が、力を浸透させるのに最適になれば。解いた衣を光の粒に変え薄く2人を包ませ
る。

 わたしは肌で瞳で声で感応で、

「あなたの愛に、愛で応えます」

 拾年前の仄かな想い。拾年間の恋慕の想い。十年経ってご神木で、身を纏う布も作れぬ
裸身を感応で見つめられた時の欲求。白花ちゃんの心はわたしも視えた。通じていた。で
もそれは、過去を引きずった故であり、幼なじみへの想いの延長に過ぎない。本当の恋も
愛もこれから彼が自身で見つける物だ。わたしに抱く彼の想いは本物ではない。わたしの
この現身が本物ではない様に。そうと分って尚、わたしは素肌で彼の身体を強く強く抱き
留め、

「今あなたを取り戻すのにそれが必要なら」

 性愛でも欲望でも受けて応える。あなたの生命と魂を繋ぐ為なら、わたしの為せる全て
を捧げる。わたしの持てる全てを与える。それが不要になった時は自由に捨て去って構わ
ないから、縛る積りは微塵もないから、今だけあなたの中に宿る一番強い想いに繋げてと。

「うがああああ!」「……ぅっ……!」

 幾つ叩かれて血が滲んでも、幾度振り回され痛み汚れ疲れても、絶対この身は放さない。
嫌がるのは、拒むのは、わたしの力が脅威だから。主の分霊は確かにわたしを嫌っている。
身体を奪いきれぬ内にわたしの力が外に待ち構えている現状を、分霊は不利に感じている。

 絶対に引き剥がされない。白花ちゃんの魂は尚体内で抗い続けている。それと連動する。
蒼い力を流し続ける。癒しの力を及ぼし続ける。今は満月の夜。主の力も増すけど、わた
しの力も増している。白花ちゃんは渡さない。わたしの一番たいせつな人を鬼にはさせな
い。正にその為に、わたしが鬼に成ったのだから。

 その魂に力を届ける。活力に変え、身体を取り戻してと。身体の底に押しやられた心に、
癒しを送る。白花ちゃんの魂にわたしの赤い糸を縫い込ませる。その定めにわたしの定め
を絡みつかせ。この世に身体に引っ張り戻す。

「必ず呼び戻す。わたしのたいせつな人を」

 離れる唇を幾度でも重ねる。幾度引き離されても、互いの赤い糸を絡み付かせ放さない。
何度でも、何度でも心を交わし合う。力を流し合う。想いを届け合う。願いを確かめ合う。

「あなたの一番の望みを想い返して」
「ゆーねぇ、なんて、無茶を……!」

 漸く白花ちゃんが表に戻り始めた。分霊の操る転げ回りが鈍り、両腕の振りが支離滅裂
になって、わたしの現身に当たらなくなった。もう少しで白花ちゃんが身体の主導権を取
り戻せる。そうなれば、分霊を消しに掛れる…。

「あなたを、絶対奪わせはしない」

 あなたの身体も、あなたの魂も、あなたの物。あなただけの物。絶対鬼になど渡さない。

「わたしがそれを、許さないっ!」

 その瞬間、鬼の悪あがきがわたしの横腹に。
 ざくっ、と言う鈍い音が、聞えた気がした。
 密着していたわたしの左脇腹に痛みが走る。
 何か、刺さった。結構、太い物。長い物…。

「ゆーねぇ……!」

 内蔵に突っ込まれた指の感触。恐らく白花ちゃんの右手の手刀か。分霊はわたしを余程
脅威に感じた様だ。引き剥がせないと知って、突き放せないと知って、この身を貫こうと
は。

 臓物を握り締められた激痛が及ぶ。しっかり掴まれた上で、赤い霧を身に流し込まれる。
わたしの現身の中でそれは自動的に相殺され、わたしの全てを燃やし尽くそうと暴れるけ
ど。その激甚な苦痛に、瞬間でも怯む様ならば身を振り解かれ、同時に内臓を引きちぎら
れる。

 瞬時白花ちゃんの瞳に笑みが浮ぶのは、鬼の意志だ。わたしに痛みを与え、打撃を与え、
引き剥がせば、多少無理をし力を消耗しても、白花ちゃんを乗っ取れると。身体を奪える
と。

 そうはさせない。

 わたしは突き刺された白花ちゃんの右手を抜きに、己の腕を外す事をしない。背中に回
した二本の腕を外せば彼の身体を取り逃がす。わたしの腕は白花ちゃんに較べて非力な女
の腕だ。両手でしがみつかねば、振り切られる。

 左横腹に刺さった腕はその侭に。流れ込む赤い霧もその侭に。受け止めて身の内で耐え
凌ぐ。喉から溢れる鮮血もその侭、力と一緒に白花ちゃんの唇に流し込む。かりそめの物
であるこの血もわたしの現身で、わたしの力でわたしの想いだ。穿たれた傷口からも蒼い
力を紡ぎ、流し込む。今迄にも増して尚強く。

「わたしは、大丈夫だから……」
「だってゆーねぇ、僕の、腕が」

 危機感が彼の想いを更に強くした。内蔵を掴み引きずり出す動きが中途で、わたしの体
内に及ぶ赤い霧が中途で、それぞれ止まって。わたしは今河原で彼を押し倒した体勢にあ
る。

「ごめん、ごめんなさい。僕、また、父さんの時の様に、自分を、止められなくて…!」

 ああ、わたしに突き刺したこの脇腹は、ちょうど拾年前白花ちゃんが正樹さんに突き刺
した箇所だった。その時に使ったのも右手…。

「……身体を、早く取り戻して。完全に…」

 正樹さんと違って、わたしは霊体だから身体の損傷が生命に直結しない。わたしは力で
己を癒せる。痛みのみは、本物だけど。心を強く保てば、想いが確かなら霊体は潰えない。

 鬼が驚愕に震えている。白花ちゃんも震えているけど意味が違った。貫かれて尚身を離
さず力を及ぼすわたしを挟んで、戦う人の心と怯んだ鬼の心は、形勢を逆転させて。神経
が筋肉が白花ちゃんに繋り、感覚が彼に戻る。

「もうすぐ。もうすぐだから、少し待って」

 左脇腹に刺さった腕がそっと引き抜かれる。
 彼から、汗が引き始める。熱が去り始める。

 身体の中の鬼が、奥深くに立てこもっていく様子が視えた。疲弊した肉体と魂の奥に潜
めば、わたしの力も容易には届かない。そこに至る迄に、癒しとして使われて、消耗する。

 悔しいけど、白花ちゃんが自身を保つ限り、分霊はその奥に潜み隠れられる。わたしの
力でも追い切れない。尤も、脇腹を貫かれ傷ついた現状では、それも難しかっただろうけ
ど。

「ごめん、なさい。ゆーねぇ」
「お帰りなさい、白花ちゃん」

 いっぱいに堪えた彼の涙に、わたしは叶う限りの笑みで応える。顔を痛みに歪めぬ様に。
白花ちゃんに体重を掛けない様に、身を起す。わたしの鮮血が、白花ちゃんの服も汚すけ
ど、わたしから離れればそれは儚く消失する筈だ。

 望月の眩い照射は、わたしの生命と力を強めてくれる。わたしの濃い現身は、この消耗
と損傷を経ても尚、もう暫くは保てるらしい。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 白花ちゃんは全身の力を使い果たし、身を起す事も叶わなかったけど、確かに己を保て
ていた。仰向けに河原に寝転がり、荒い息に肺を上下させつつ、鬼を己に抑え込み。十数
年たった1人で、助けも得られぬ中、誰の理解も得られず、この様に戦い続けていたのか。

 でも今宵は違う。この望月の夜は、間近にわたしが寄り添う。あなたの強い想いを助け
支えて、共に戦うわたしがいる。どこ迄も一緒に。鬼の果て迄、生命の果て迄、想いは尽
きない。世界があなたを拒んでもわたしだけはあなたの味方。あなたの家族。見放さない。

 少し前にわたしの脇腹を貫いたその右手を両手にとって、まだ衣を作れぬ裸身に引き寄
せて、頬に寄せて愛おしみ、肘から手首にかけてを首筋から心臓にすり合わせ、掻き抱く。

 満月の輝きはわたしを賦活させるけど、腹に穿たれた傷は思ったより深く、尚少し衣の
再生に手が及ばない。分霊は突き刺した白花ちゃんの手から、僅かな間でも赤い霧をこの
身に直接流し込んだ。わたしの現身を為す蒼い力と相殺する朱は尚少し、身の内に残って
傷口を塞ぐ作用を妨げ、わたしを苛んでいる。分霊は白花ちゃんの身体の奥に引っ込んだ
為、時を掛けて内なる朱を灼き尽くせば良いけど。

 その右手に癒しを流すのが最優先、衣の再生は後回しだ。白花ちゃんには目の毒だけど、
わたしは常にたいせつな人の癒しを先んじる。傷口からは尚鮮血が零れるけど、これ以上
酷くなる様子はない。少し待てば自然に癒える。

「ゆーねぇ、ごめん。また、僕は……」

 何か言いかけるけど全部言わせない。

「良かった……帰ってきてくれて……」

 必ず勝ち残ってくれると信じていた。
 逆に言うと、それ程危うい橋だった。

 白花ちゃんは、鬼に呑み込まれかけていた。何度あの様に裏返った事があるのかは分ら
ないけど、あれは死に続ける苦しみ。死に終えられず、苦しみがいつ迄も終らず果てしな
く。

 身体から外され、感覚から遮断され、世界から切り離されて。いつ解き放たれるかも分
らず、死を選ぶ術もなく、神経も筋肉も反応を返さない中、肉体を操る意志に引きずられ。

「こんな酷い苦しみを受けていたなんて…」

 この上で尚鬼切部の修行を為したなんて。
 この上で尚望みを抱き生を選んだなんて。

「本当に……賢くて優しくて、強い子……」

 わたしなんかの為に、最早確かに生きているとさえ言えない、曖昧な想いだけの存在を、
過去の亡霊を、そこ迄強く想ってくれるの…。

「何も返せないのに。何も与えられないのに。わたしは、あなたの最期の望みを叶える事
も為さないのに……一番たいせつな人の本当の願いを、応える術を持って尚応えないの
に」

 こんなわたしの為にそこ迄生命を費やして。

「せめて叶う限り守らせて。できる限り癒させて。為せる限り想いを届かせて。わたしは
所詮、幻の様な儚い物。だから確かな肉を持つあなたに、少しでも残せる物があれば…」

 癒しの力を流し込む。もうそれで彼の寿命を幾らも延ばせないとは分っているけど。も
うそれで彼の身体を幾らも賦活させられないとは分っているけど。否、分っていればこそ。

 もう彼に生命を楽しむ歳月は残ってない。
 もう彼に日々を過せる肉体は残ってない。

 中天を通る望月が、この先欠けて沈んで消えゆく事を止められない様に。彼の落日を引
き延ばす事は、贄の血の力にも不可能だった。一日二日は繋げても、その時その時癒せて
も、力を及ぼす間は満たせても、手を放した瞬間。コンセントを抜かれると消えるテレビ
の様に。彼はもう自力で生命の炎を燃やし続け得ない。


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