第4章 訪れの果て(甲)
夕焼け空は宵の薄闇に取って代りつつある。でも、わたしの脳裏に浮ぶ関知の像は、真
紅に染まっていた。それは夕陽の朱ではなくて、血飛沫の赤か。破妖の太刀が、誰かの身
体に深々と切りつける像が、瞼の裏から離れない。
「白花ちゃん!? ……サクヤさん?」
どっちか、どっちかが維斗を受ける?
飛び散る鮮血の朱がわたしの視界を占拠し。
硬直と震えの闇がわたしの心を染めて行く。
『たいせつなひとが、いなくなってしまう』
心に兆す一瞬の怖れ。それを振り払う様に、振り払えば回避できる錯覚に囚われ、わた
しは全力で中庭へ駆け出した。烏月さんと、白花ちゃんと、サクヤさん。誰もが桂ちゃん
とわたしのたいせつな人。誰1人欠ける事なく、誰1人生命落す事なく。そうでないと、
わたし以上に桂ちゃんを深く哀しませてしまう…。
『生命を絶たせてはいけない!』
殺させてはいけない。生命を奪わせては。
哀しみと憎しみの負の輪廻はここで断つ。
この手で止める。身に刃を、受けてでも。
もう誰も失わせない。わたしのたいせつな人を、愛した人を、絶対守る。この夕闇の向
うから、定めの末を手繰り寄せる。その為に、この身に残る生命と想いを、使い果しても
…。
左腕の治りが遅い。ミカゲの執念が二の腕の傷口から朱を及ぼし、本人が力尽きて尚わ
たしを蝕む。否、これは既にミカゲではなく別の何かに連動し。今それを突き詰める余裕
はない。とりあえず目前の緊急事態に馳せる。
誰が斬られるのか、失われるのか失われないのか定かに視えない。刃の振り下ろしは未
だなのか。そこにわたしの割込は可能なのか。生命差し出せば運命の差し替えは出来るの
か。先の像が視えない。わたしの先行きも霧に包まれた様で。微かに己に、消失の兆を感
じた。
「白花ちゃん……!」
取りあえず烏月さんの狙いは白花ちゃんだ。その無事を確かめに駆けつけたわたしの前
で、
「くあっ……!」
白花ちゃんは、烏月さんの維斗の振り下ろしを避けて、後に大きく飛び退いた処だった。
わたしの位置は烏月さんから見て左側、白花ちゃんから見て右側で。白花ちゃんから鮮血
が少量散るけど、見た限り掠り傷だ。唯、飛び退いた後で草むらに、力尽きた様に屈んで
動かない。そして烏月さんの右斜め後ろから、
「烏月いぃぃ!」
サクヤさんが烏月さんに攻撃の腕を振りかぶる。サクヤさんも白花ちゃんも武器はない。
真意は牽制だけど、烏月さんが相手なのでサクヤさんも手加減できない。その気合いと意
志は烏月さんに迎撃が不可欠との判断を招き、
「ぬんっ……!」「おおっ……!」
烏月さんはサクヤさんの攻撃を引き込んで迎え撃つ。サクヤさんの前進に合わせて己も
前進し、サクヤさんの腕が振り抜かれる前に刃の刺突が連撃で、その胴に対し見舞われる。
「サクヤさん、危ないっ……!」
サクヤさんに烏月さんを倒す意志があったなら回避できなかった。牽制の積りで、烏月
さんの目線を引きつける積りで踏み込みが甘かったから、サクヤさんの側に間合いが残っ
ていて回避できた。最初から攻撃を当てる気はなく、烏月さんの目線が向いてくれれば退
く積りだったから回避できた。でなければ…。
「ちぃっ……!」「危ない危ない」
傷物になってお嫁に行けなくなる処だった。
顔色を崩さず冷徹な烏月さんに対し、サクヤさんは表情豊かに冷静なポーカーフェイス。
烏月さんは更に、維斗の刺突と振り回しを連続して繰り出し、サクヤさんを後退させる。
サクヤさんは素手なので、その攻撃を躱すしか術がない。烏月さんに殺意がなくて、刃を
躱させ後退を促している様にも、見えたけど。
サクヤさんが大きく後退したのを見計らって、と言うより大きく後退する事を見越して、
烏月さんは白花ちゃんへと疾駆する。白花ちゃんは屈み込んだ侭、まだ起き上がれない…。
サクヤさんが大きく飛び退けば、烏月さんは再度白花ちゃんに刃を振るう。白花ちゃん
はそれを躱し、サクヤさんが牽制の為に烏月さんを襲い、烏月さんがそれに対応する間に
白花ちゃんが退いて間合いを取る。サクヤさんが退くと、烏月さんは再び白花ちゃんへと。
わたしがお屋敷でノゾミと共に、ミカゲに対峙していた間の展開が大凡分った。サクヤ
さんはその様に千日手を繰り返しつつ烏月さんの疲弊を誘い、話し合いの機を探っている。
わたしの介入はそのきっかけになるだろうか。白花ちゃんがまともに動ければとっくに逃
げ去れていた筈だけど今日に限って動きが鈍い。
「ミカゲは倒しました。もうお屋敷の桂ちゃん達に心配はありません。戦いを止めて!」
烏月さんを止めれば戦いは終る。白花ちゃんは襲う為に来たのではない。桂ちゃんを守
りに、その脅威を察して来た。白花ちゃんはこの間ずっと躱し、逃げ続けてきた。それは
武器がなくて不利な為ではなく、戦う気がないからだ。戦いを求めているのは烏月さんだ。
わたしは烏月さんの斜め後から接近しつつ、
「彼は桂ちゃんの血を狙ってきた鬼ではありません。桂ちゃんの血を狙っていたミカゲは、
わたしとノゾミで倒しました。もう戦う必要はない。お願い、生命の奪い合いを止めて」
烏月さんの動きが一瞬だけ止まる。止まるけど、維斗の太刀はわたしに向けて振るわれ、
「いかにあなたでも奴を庇うなら斬り捨てる。
奴に関する限り私に譲る積りは微塵もない。
今のは牽制だが、次からは当てる積りで維斗を振るう。……サクヤさんと違って、傷つ
いた今のあなたの動きで私の刃は躱せない」
立ちはだかるあなたの覚悟は分るが、この鬼に関してだけは、私にも譲れぬ想いがある。
「あなたとは、戦いたくなかったが……」
私に譲る気はない。後はあなた次第だ。
戦いを覚悟した瞳は強い意志に彩られ。
「あんたは出なくて良い。あたしがやる」
後ろからサクヤさんが声と腕を届かせようとする。烏月さんは物音と気配で間合いや闘
志を察するけど、サクヤさんは敢て注意を引く構えだ。烏月さんはその攻撃を引き込んで
又迎撃し、サクヤさんはさっきより危うい間合いで維斗を躱して後退し。烏月さんが徐々
にタイミングを掴めて状況は危うさを増して。
瞳は烏月さんの刃の動きを見つめ躱しつつ、
「あんた、桂を守るのに相当消耗したんだろうに。……好い加減に力の放散を抑えないと、
あんた自身が危うくなる」
烏月さんの連撃がどの位続くかも読み難くなっている。牽制だろうけど、生命を奪う気
はないだろうけど、生命も奪える猛攻が続く。サクヤさんを黙らせる意図は分るけど、一
つ間違えばサクヤさんは永久に沈黙させられる。
わたしはその間に白花ちゃんに駆け寄って、屈み込んだ侭の彼を抱き包む。癒しの力を
…。
「ゆーねぇ、危ない。離れて……」
烏月の刃が危ない以上に、僕がゆーねぇを傷つけてしまいかねない。この身体はもう…。
「やっぱり騒いでいるのね、分霊」
辛そうな顔色と掠れた声がその証だ。まともに動けず、距離を取る以上に回避をできな
い白花ちゃんは、どう見ても常の状態でなかった。彼にはここ数日何度か癒しの蝶を送っ
たし、贄の血の力による賦活の術も少し伝えた。自己保全や回復の術も千羽で修行した彼
が唯の苦痛や不調で動けなくなる怖れは低い。
「最近は昼の内から騒ぎ出して……。満月が近い所為なのかも知れないけど……くっ!」
四日前の夜にさかき旅館に桂ちゃんを助けに来れなかったのはその所為だ。その翌日は
わたしが白花ちゃんの心を乱す図を見せてしまった所為もあるけど、昼から夜にかけてず
っと騒ぎ続ける主の分霊を、抑えかねていた。
一昨日と昨日はわたしが癒しの蝶を放ったけど、それも彼の身体を幾らか楽にする程で、
夜中分霊との戦いに費やされていた様だった。魂も身体もボロボロだった。これで烏月さ
んの刃を何度か躱せ、身動きできた事が奇跡だ。
「もう、長くは保たない……保たないけど」
まだやる事が。やらなきゃならない事が。
「今ここで斬られて死ぬ訳にはいかない!」
白花ちゃんはミカゲの危機を知らせる為にお屋敷まで来た。烏月さんとの遭遇も承知で。
桂ちゃんを助ける為に、桂ちゃんを守るわたしやサクヤさん達の為に、烏月さんの為に…。
「分霊が報せてきたんだ。ミカゲが動き出す事を。それを僕が報せに屋敷に行けば、烏月
と鉢合わせせざるを得ないと分って。戦いで傷つくか全力を出すか、分霊への抑えの集中
が途切れる瞬間裏返ろうと。分っていたけど、その目論見を承知の上で僕は山を降りてき
た。
桂も、ゆーねぇも、心配だったから……」
主の分霊は白花ちゃんに抑えられている為、抜け出てミカゲと相談はできない。でも元
々主から生じた故に、思考発想は共通している。己が為す事を相方も為すと互いに思えば
良い。周囲の人間関係を把握すれば、白花ちゃんがどの様に動けば桂ちゃんの守りが剥が
れ、白花ちゃんを危機に陥れられるかは推測できる。
ミカゲは夕刻に顕れる。日中が無理なら深夜迄待たず、夕刻に動く。ミカゲが勝算あり
と考えて動くなら、白花ちゃんの中の分霊もそれを推察できる。白花ちゃんは動く。十年
を共にした分霊はそれを分っている。或いは、動かなければ何か別の手段を考えていたの
か。
予測通り烏月さんの迎撃を受けた。最中に身体の奥で騒ぎ出せば、満足に動けない彼を
維斗の太刀は傷つけ、失血と痛みに内側への締め付けが弱まり、裏返られる。一つ間違え
ば依代ごと切り倒される危険も分霊は承知か。致命傷でさえなければ、鬼の膂力で傷を物
ともせずに烏月さんやサクヤさんを倒し、桂ちゃんの血も手に入れようと考えていたのか
も。
「まだ、騒いでいる……。身体の主導権が僕に確かにあると言えない状態なんだ。だから、
余り近づかないで。間違って傷つけでもしたら、それこそ悔やんでも、悔やみきれない」
たいせつなひとを、傷つけたくない。
その想いだけで白花ちゃんは、満月の夜を迎えて強まりゆく内なる鬼を懸命に抑え続け。
そんな白花ちゃんをわたしはしっかり放さず。その肌は冷たく、生気の不足は目を覆う程
で。
「僕は何もできなかったけど、鬼の脅威が消えて良かった。ゆーねぇに無理をさせ通しで
申し訳ないけど、少し安心した。……取りあえず烏月から距離を取って、山に逃れるよ」
遭わなければ、戦いにはならない。でも、
「その身体では動けないわ。暫くで良いからわたしの癒しを受けて。ここから今逃れても、
この身体と魂の疲弊では今夜を越す事は…」
わたしが一晩中寄り添う位の事をしないと、肌を合わせて力を流し込まないと、この疲
弊と消耗では、とても主の分霊を抑えきれない。特に今夜は満月の夜、鬼の力の特別に強
い夜。
「いっ……!」「ゆーねぇ、その傷は」
癒しの力を流すにも、左腕に残る傷跡は執拗に妨げをする。わたしの力の流れを妨げよ
うと、痛みを熱を及ぼして心を乱そうとして。それは既にミカゲの執念による物ではなく
…。
「まさか、僕の中の分霊が連動して、ぐっ」
同じ主から派生した者なら、共鳴は容易い。
わたしが白花ちゃんに力を及ぼして彼の回復と主の分霊を削ろうと試みる様に、主の分
霊はわたしに残ったミカゲの傷跡に力を及ぼして癒しの力を乱しわたしを削ろうと試みて。
左腕の傷は唯の残滓ではなくなった。ミカゲの執念以上に、強大な分霊の力の介入の口に。
白花ちゃんの中の分霊と、わたしの左腕を蝕む執念が連動している。ミカゲが白花ちゃ
んに潜む主の分霊と密接に連動しているのは、一昨昨日の夜に、ミカゲに両胸を貫かれた
時、助けに来てくれた白花ちゃんの急変で分った。根は同じ存在なのだ。接点を結ぶのは
容易い。
「ゆーねぇ駄目だ。先にその傷を治さないと、僕の中の分霊が、傷口を通じてゆーねぇに
力を及ぼす。ゆーねぇを消しに掛ってしまう」
触れあった白花ちゃんの肌の奥から、わたしの左腕の傷口に、赤い力が流れ込んでくる。
わたしを蝕み燃やして消そうとする赤い力が、急激に増え始める。傷口が開き始め、治癒
が進まず悪化して、血肉が飛び散り痛みが走る。
青ざめる白花ちゃんが、抱擁を外そうとするのに、わたしは力一杯抱き締めて放さずに、
「良いのよ。そう、させたのだから」「?」
蒼い衣の左半分が朱に染まり、歯形や爪痕が牙や爪のあるかの如く左腕を貪り食う様が
見えるけど、それこそわたしが望んだ所作だ。その為にこの傷は敢て急いで治さなかった
…。
「漸く掴まえた。分霊、あなたとの接点を」
言葉にならない驚きの感触が肌に伝わる。
「ゆーねぇまさか、わざとに連動を誘って」
今迄白花ちゃんの肉体と魂の奥に潜み続け、固く閉ざし、わたしの力を躱し続けてきた
主の分霊。わたしの力は癒しだから、傷ついた処に及べば治癒や回復に使われ消えてしま
う。白花ちゃんは拾年間主に憑かれていて、身も心もボロボロだった。どこからどうわた
しの力を及ぼしても、疲弊した魂と肉体が癒しを吸収して、その奥に潜む分霊迄届かなか
った。
それは白花ちゃんの肉体と魂を癒せたけど。真の患部には癒しの故に、全て中途で吸収
消耗されて届かなかった。分霊はそれを知って、わたしには敢て何も為さず守りに徹して
きた。身体と魂の奥に潜んでわたしとの接点を拒み。
「流れ込む口は、流し込む口にも使える…」
向うから攻撃を為されれば、接点を掴める。一度絡みを掴めば、二度と離さない。わた
しの赤い糸が、漸く白花ちゃんの中の主の分霊と絡み合った。今こそこの身に満ちる全て
の力を遠慮なく流し込み、赤い力を消去できる。
「歯痒い想いを重ねてきたけど、漸く……」
宵の薄闇が濃度を増す中、わたしは蒼い力を解き放つ。左腕の傷から進入する鬼の朱を
引き込み、白花ちゃんに蒼を流し込む。流れを辿って、魂と肉体の奥に潜む主を包み込む。
漸く戦いの土俵に上がった状態だけど。漸く相手をリングに引きずり出した状態だけど。
左腕の傷が急速に治る。分霊は慌てて退き守りに入ろうとしていた。わたしが逆襲の為
に敢て接点を作らせた事は、想定外だったらしい。一度は肉を抉り骨が見える迄破壊され
た左腕が、その為の囮とは想定外だった様だ。
「もう少し。もう少しで、魂の奥に隠れた分霊本体にわたしの力が達するわ。そこからが
本当の戦いだけど……必ず、助けるから…」
「ゆーねぇ……駄目だ、危ない!」
身体を右に薙ぎ飛ばす衝撃。わたしの身体が白花ちゃんから引き剥がされ、数メートル
離れた草藪に落ちる。左脇腹に痛みを感じたのは、よろめきつつも起き上がった時だった。
蒼い衣に細く赤い線が三本描き出されている。でも深い傷ではない。爪は鬼の力で強化さ
れていたけど、この衣も鬼の力で織りなした物。皮の下を少し裂いた位だ。すぐ治るし動
ける。
白花ちゃんの腕を主が強引に介入して操り、わたしを弾いた様だ。危険を感じたのか。
わたしに弱点ありと見て攻めたのを誘いと悟り、慌てて身体を引き剥がした。分霊は彼の
身体を瞬時強奪したけど、強引さは力の浪費を呼び、身体の奪い合いは白花ちゃんの優勢
に…。
白花ちゃんは尚白花ちゃんだ。それは今の無理な引き剥がしで一層確かになった。分霊
への攻め口は失ったけど、分霊も暫くはこの無理が祟って雌伏を余儀なくされる。問題は、
「自らを庇う者まで蹴散らすか、鬼よ……」
サクヤさんを退けて戻り来た、烏月さんだった。サクヤさんは烏月さんの右方向で、烏
月さんを振り向いたわたしの更に左方向で、白い服に出血による赤い糸を幾本も描きつつ、
漸く立ち上がった処だった。どれも深手ではないけど、烏月さんの本気の攻め手を防ぎき
れずに、息が上がる迄追い込まれたと窺えた。
殺意がないから、追い込んでも止めの一撃を与えなかったのだろう。でももうサクヤさ
んの体力も限界だった。浅い傷でも出血が続けば動きを鈍らせ、躱せる刃も躱しきれなく
なる。白花ちゃんに迫り来る烏月さんに、最早サクヤさんは追随できない。牽制できない。
「待って下さい、烏月さん!」
やや近いわたしが白花ちゃんの前に割り込もうとするのに、烏月さんは維斗を振り下ろ
してわたしの動きを止め、わたしにではなく、
「なぜだ……。なぜ、私の求めに応えない」
白花ちゃんに問う。
「なぜ貴様は私から逃げ続ける? なぜ私と戦わない? なぜ維斗に応えようとしない?
ユメイさんやサクヤさんに庇われ、桂さんの気配に紛れ。貴様は私の刃を躱し続け、逃
げ続けるだけで、反撃をしない。なぜだ?」
武器を調達する術や時はあった筈だ。真剣は手に入らずとも、幾らでも手段はあっただ
ろうに。なぜだ、なぜ鬼切りの業で応えない。兄さんに教えられた業をなぜ一つも使わな
い。
憎悪というより答を求めて白花ちゃんに刃を振るう烏月さんには、それは無視に等しい。
「……僕に、君と戦う積りはない」
分霊の抑えは完全ではない。分霊は腕や足を落す位承知でいる。出血や痛みで気力が萎
えれば裏返れると。白花ちゃんは屈み込んだ姿勢で動けず、維斗を構える烏月さんに対し、
「僕は君を倒す為に、鬼切りの業を習った訳じゃない。僕にはやらなければならない事が
ある。斬らなければならない鬼がいる。今の君の様に、憎しみの為に鬼切りの業を振るう
のと違う。僕が学んだ鬼切りの業は、守りたい人を守り、救いたい人を救う為にこそ…」
鬼切りの業はたいせつな人を助ける為に。
「君も明良さんからそう教わっていた筈だ」
最も言われたくない事を、最も言ってはいけない者が。熱く哀しい心の傷が血を噴いた。
烏月さんの瞳が怒りにかっと見開かれる。
「その口でその名を呼ぶな!」
維斗を振りかぶって、一気に振り下ろす。夕闇の中、暗くなり行く草原で、烏月さんの
刃が白花ちゃんに。振り下ろした刃が細身な身体を深々と切り裂いて行く図が『視えた』。
飛び散る鮮血の朱がわたしの視界を占拠し。
硬直と震えの闇がわたしの心を染めて行く。
「だめぇっ!」
身体は動いていた。身を持って刃を受ける。止めないと、止めないとわたしのたいせつ
な人の生命が奪われる。奪わせない。絶対に!
鬼でも人でも構わない。主を宿しても罪深くても。例え全ての人が死を望んでも、彼自
身が生を諦めても。彼はわたしの一番たいせつな人。生命を尽くし守りたい人。わたしに
生きる希望を灯し、生命と心を与えてくれた爽やかな笑みの人。わたしは最期迄諦めない。
長くない距離を、叶う限りの早さで馳せて、その間合いに入り込む。身動き取れない白
花ちゃんの前に、彼を背に庇い、烏月さんと向き合って、振り下ろす破妖の太刀をこの身
に。
この生命を差し出して、定めを差し替える。
この身体を差し出してたいせつな人を守る。
何度でも、身を抛つ。何度でも己を捧げる。
わたしの全ては一番たいせつなひとの為に。
わたしの星の定めならそれも出来る筈だ…。
生命を差し出せば、生命を救える。
わたしだからこそ、それが為せる。
『あなたは届かせる者、引き替えに叶える者。あなたの心が折れない限り、あなたが心を
塞がない限り、あなたは代償や反動を承知で自身の何かを引き替えに成し遂げ、届かせ
る』
「ゆーねぇ!」「柚明!」
わたしは濃い現身を持つとはいえ、霊体だ。斬られても死ぬとは限らない。破妖の太刀
は、維斗は正に、その様な存在を斬る刃だけど…。
ざくっ。
肉を切り骨を断つ鈍い音が聞えた時、わたしは自身の身体が衝撃を受け、位置をずらさ
れている事に気がついた。現身を刃で切られた痛みを、感じない。白花ちゃんを庇う為に
真正面で維斗を受ける筈だったわたしの身が、少し右にずれていて、その居るべき処には
…。
「「「サクヤさん!」」」
本人以外の三色の悲鳴が響く。白花ちゃんの前に立ちはだかったわたしを、更に突き飛
ばしてサクヤさんが代りに維斗を受けていた。刃は左肩からざっくりと背中に突き抜ける
感じで振り下ろされ、肩胛骨を断ち胸の上辺り迄達していただろうか。噴き出す血飛沫の
中、がっくり膝をつくけど、まだ声はしっかりと、
「これ以上、柚明にばかり、生命を張らせ続ける訳にも、行かないだろうに……ぷふっ」
羽様の森が、闇に閉ざされようとしていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
烏月さんも驚きに目を見開いて、維斗は握れているけど、それ以上食い込ませはしない。
白花ちゃんは尚分霊の抵抗で身動きできない。
「何て事を……、何て無茶な……!」
わたしがサクヤさんに躙り寄ると、
「それをやろうとした……あんたに、言われたくないね。……あんたの受けてきた痛みは、
この比ではなかった筈だよ……。柚明……」
苦しい息の中、サクヤさんは維斗を握り締めていた。食い込む刃を抜かず、両手で握っ
て止め。故に烏月さんは刺すも引くもできず。
「さ、サクヤさん……あなた、どうして?」
烏月さんの動揺は今迄極力牽制に徹してきたサクヤさんが身を投げ出した事にある様だ。
わたしが身を抛つ事は烏月さんも想定済みだ。でも、濃い現身のわたしは多分、維斗の太
刀に両断されても消滅しない。激甚な痛みはあるけど、本質が霊体のわたしは現身を砕か
れても即滅びはしない。烏月さんはさかき旅館でも、維斗でノゾミを滅するに至らなかっ
た。
痛みは激甚だろうけど、消耗は激しいだろうけど、消滅はしない。その後で、白花ちゃ
んを斬れば良い。でも、ここでサクヤさんが身を投げ出す事は、烏月さんも想定外だった。
今迄サクヤさんは白花ちゃんを気遣いつつ烏月さんを後背から牽制し続けていた。危険
はあったけど、己の身を守りつつ白花ちゃんを助け続けていた。前に立ちはだかって代り
に刃を受けようとしなかった。だから、烏月さんもそれを想定しなかったのだろうけど…。
「悪いね、白花。柚明には桂とあんたは同着で、一番たいせつな人だけど、あたしには一
番が桂で二番が柚明で、あんたは三番なんだ。一番じゃないあんたの守りに身体は張れて
も、生命は張れなかった。代りに刃を受ける事を考えつかなかった。柚明が危うくなる迄
はさ。あたしはそんな奴だよ。ごめん、白花……」
もう一度口から血が溢れる。わたしはサクヤさんの身体を抱き留めて、傷口に手を擦り
つけて。癒しの力を流すけど、維斗の刃が食い込んだ侭では穴の開いたバケツに注ぐ水だ。
「だから、柚明があんたの前に飛び出すまで、これを思いつけなかった。最初からこうし
て、維斗を抑えておけば、良かったんだ。これなら、白花を斬る事もできないだろう。烏
月」
満足そうな、してやったりの笑みを向けるサクヤさんに、烏月さんは最早動揺を隠さず、
「早く刃を放して下さい。維斗を、引き抜かないと……、あなたは一体、何を考えて?」
烏月さんも、サクヤさんを斬る積りはなかった。これは事故に近い。止血も処置もでき
ないと、何とか維斗を引き抜こうとするけど、サクヤさんの両手は残された力で刃を掴ん
で、
「この刃を抜いてから、どうする気だい?」
凄絶な笑みで問いかける。
白花や、白花を庇う柚明を斬る積りなら、
「この刃はここに刺さった侭抜かせないよ」
「サクヤさん、あなた……」
これ以上たいせつなひとは傷つけさせない。
これ以上間に合わずに、天寿も迎えない内に目の前から大切な人が消えていくのは嫌だ。
見てられないんだよ。あたしが耐えられない。
あたしの柚明と白花を死なせる訳にはいかないんだ。桂が、桂が哀しむじゃないかい…。
「彼を斬らないから抜かせてくれって言うなら、抜かせても良い。でもね、これ以上あた
しのたいせつなひとに向ける様な刃なら、あたしの生命を断ってからにしておくれ。あん
た達が斬り残した、最後の観月だ。斬るべき鬼、なんだろう。じっくり斬ると良いさ…」
烏月さんの表情に迷いが生じた。白花ちゃんを斬らないと明言しないと、サクヤさんは
刃を抜かせない。烏月さんはサクヤさんを殺す積りはないから、一刻も早く刃を抜きたい。
でも、それで白花ちゃんを諦めれば彼女は…。
「あんたが飛び出した瞬間、想ったんだよ」
維斗の刃が深く食い込んだ身体の中から鮮血を呼び、噴き出す真紅がわたしの衣も朱に
染める中、サクヤさんは視線を治癒の力を全開で流し続けるわたしに向けて、笑みを浮べ、
「何も一番の人にしか、生命を張れない訳でもないだろうってさ。二番でも三番でも、本
当にたいせつなひとの為なら、生命も張れる。長生きは、してみるもんだねぇ。千年かけ
て、漸くその位は悟りを得た感じだよ。ごふ…」
「もう話さないで。喋らないで」
喋れば喋るだけ、動かせば動かすだけ傷口が開く。喉が肺が動けば動くだけ、刃が余計
深く身体に食い込んでしまう。血が溢れ出る。
「あんたが本当にたいせつだったから。桂のすぐ次にたいせつだったから。……あたしの、
叶う限りを尽くして守りたい愛した人だったから。せめて、この位は、受けないとさ…」
あんたが今迄に受けてきた痛みに較べれば。
「満足そうに語らないで。成し遂げた笑みを向けないで。まるでこれから死に行くみたい。
早く、早く刃を抜かないと、癒しの力を幾ら注いでも、幾ら注いでも……烏月さん!」
サクヤさんの身が膝から崩れるけど、尚も維斗を握り締めて放さない。サクヤさんの中
で生命の脈動が、どんどん小さくなっていく。死を覚悟して刃を掴んだサクヤさんは、烏
月さんの答がないと刃を抜かせない。わたしは烏月さんの困惑した黒い瞳を、強く見つめ
て、
「お願い! サクヤさんから刃を抜いてっ」
この侭では、サクヤさんが死んでしまう。
「ぬ、抜きたいのは、山々だが……」
烏月さんが力を込めても、サクヤさんが渾身の力で刃を握り続けているので、維斗は抜
き取れない。下手に力を込めると、身体に食い込んだ刃は余計な処も斬ってしまう。
「斬らないって、約束してくれないと、抜かせられないねぇ。あたしが生命を張ったんだ。
見合う成果もなしに、唯抜かせる訳には…」
「サクヤさん、ふざけた事を言っている場合ではない。早くその手を外さないと生命が」
サクヤさんは双眸を閉じていた。顔を歪め、途切れ途切れに、それでも紡ぐ言葉と意志
は、
「命懸けで言っている事を、おふざけとはきついね、あんたも。下手をすると、遺言にな
りかねないってのに……さ、今朝方ノゾミがやった様に、お約束しておくれ、この場で」
サクヤさんは生命を先払いした。後は烏月さんがそれを受けるか否かだ。それで尚足り
ないと言うなら、本当にサクヤさんは死を払う積りでいる。否、払い込みつつある。止め
ないと、今止めないとサクヤさんは彼岸へと、
「あなたは死の押し売りをする気ですか?」
もうサクヤさんは応える言葉がない。唯身に食い込む維斗の刃を握り締めて、動かない。
「烏月さん!」
早くこの刃を抜かないと。早く傷口を塞いで癒しを流し込まないと。傷口が開いて尚開
きつつある状態では、幾ら注いでも零れて行って。零れて行って、生命を留められない…。
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役……斬るべき鬼を斬らない等と、
約束する事は……できない……」
「じゃ、この太刀も、抜かせられないね…」
サクヤさんの声音は小さく微かだ。息を吸って吐く行いが限界に達しつつある。駄目だ。
この侭ではサクヤさんがもう保たない。早く。
「烏月さん……! これ以上」
わたしの求めに烏月さんは視線を逸らせる。烏月さんの中で想いは拮抗しているけど、
膠着が長引けば長引く程サクヤさんは、死に歩み出していく。早くしないと、急がないと
…。
「桂ちゃんをこれ以上、哀しませないで!」
桂ちゃんのたいせつな烏月さんが、桂ちゃんのたいせつなサクヤさんの生命を奪う事に
なれば。一番哀しませたくない人を悲嘆の淵に落す。健やかな笑顔が哀しみに閉ざされる。
「お願い、今は刃を引いてっ。烏月さん!」
もう意識が混濁し始めたサクヤさんに代り、
「今だけで良いの、彼を斬らないと約束して。そうしないと、サクヤさんが、サクヤさん
が、刃を……たいせつな人を、死なせないで!」
桂ちゃんのたいせつなひとを。そして、
「……わたしの、たいせつなひとをっ!」
それも一つの大きな分岐だったのかも。
烏月さんはこの時、使命ではなく想いに応えた。使命より、鬼切部の職責より、自身の
想いに突き動かされた。それは鬼切部としては実は褒められた事ではないのかも知れない。
烏月さんは、仇を諦めた感じで天を仰ぎ、
「分りました。今暫く彼は斬らない。それで、良いですね。……サクヤさん、刃を、刃
を」
「……サクヤさん? ……サクヤさんっ!」
「……、……、……」
返事はない。サクヤさんは烏月さんの刃を握り締めた侭、立ち膝の侭意識を失っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしはサクヤさんの無意識に働きかけて、刃を掴んだ手を外させ、烏月さんと連携し
て維斗の刃を慎重にサクヤさんから引き抜いた。
ぶしゅっ。維斗があった空間が開く事で更に噴き出す鮮血を、わたしがこの蒼い衣で抑
え込む。この衣もわたしの力が織りなした物だから、当然癒しの効果を持つ。これは単な
る止血と言うより、わたしの治癒でもあった。
「サクヤさんの血を、頂きます」
維斗を抜いた烏月さんが、サクヤさんを抱き留めて朱に染まるわたしを、呆然と見守る。
瞬時兆す緊張は、鬼が血を得て力を増す事への鬼切部の本能的な警戒心か。噴き出す血を
抑えつつ受けつつ被りつつ、肌でも衣でも吸収し、全て己の力へ変える。贄の血程ではな
いけど、サクヤさんの血もわたしの力になる。
月が昇り始めた夕闇の中、わたしは全身から蒼い輝きを解き放ち、サクヤさんの身体を
生命を繋ぎ止める。大きすぎる傷口は手を当てるのではなく、舌をつけて血を受けて力に
変えて、即座に唇を通じ癒しの形で注ぎ込み。
刀傷に吸い付く蛭になった気持だ。脱力したサクヤさんの背中に手を回し、正面から抱
き寄せる。この深手を何とかしないと。出血の量も尋常じゃないけど、ここは早く塞がな
いと本当に生命に関る。烏月さんは放心した様にそれを見守る他に動きとてなく、白花ち
ゃんは漸く分霊を抑え込めつつある様だった。
サクヤさんの血を受けて、身体にも衣にも浴びて、この口からも吸い上げて、身の隅々
に浸透させて、力に変える。昔サクヤさんに血を飲んで貰った事はあったけど、その血を
飲むのは初めてだった。わたしの血が戻ってくる。笑子おばあさんの心が流れ込んでくる。
サクヤさんの血が想いと共にわたしを満たす。
わたしがサクヤさんに流し込む癒しの力は、生命を一つ取り戻す程膨大な量になるだろ
う。桂ちゃんから貰った贄の血の力は尚余るけど、心配は大量に癒しを流し込まれるサク
ヤさんの身体と心だった。いかに癒しでも異物だから、大量に流し込めば拒絶反応も多少
は出る。
サクヤさんの血で紡いだ力を流す事で、自身の血の輸血に近い状態にできる。その血を
取り込めば、サクヤさんと生命も想いも重なって、わたしがサクヤさんに馴染む物になる。
わたしの癒しや回復も大量に注げる様になる。
サクヤさんは常の人と違う。観月の血を受ける事が己にどんな影響を与えるか、気には
なったけど、今は考えたり戸惑ったりできる時ではなかった。サクヤさんは、例え致命傷
を受けても、わたしが絶対死なせはしない!
烏月さん。わたしは刀の血糊を拭う事も忘れて立ちつくしていた烏月さんに呼びかけて、
「サクヤさんの出血は、もうすぐ止まります。夜風に当てると良くないので、お屋敷で寝
かせます。布団を準備して下さい。葛ちゃんも桂ちゃんも疲れ切っているので、その分
も」
「あ、ああ。分った。そうしよう」
まだ屈み込んで動けない白花ちゃんが気になった様だけど、烏月さんは一旦お屋敷に…。
わたしはずっと両腕を背に回して当て、止血しつつ癒しを与え、唇をサクヤさんの肩口
からの深手に合わせ。漏れ出る血を吸いつつ、それで紡いだ癒しを強く流し込み。わたし
は生命の還流装置だ。サクヤさんから零れた生命の素を生命に替えてサクヤさんに注ぎ直
す。
満月の夜で幸いだった。半端者と本人は言っているけど、それでも観月の民のサクヤさ
んは月の影響を強く受けている。回復の力が漸く働き出し、わたしの癒しと連携し始めた。
夜を迎えわたしの癒しの力も更に強化される。日中なら生命を繋げる可能性は五分五分ま
でない程の深手だけど、何とか助かりそうだ…。
傷口が急速に閉じていく。出血の量が急速に減っていく。呼吸が荒くなるのは、空気を
求めて肺や全身が暴れ出せる迄戻せた証しだ。傷口が熱を帯び始めている。癒しを注ぎつ
つ、唇で熱を吸い取って眠りを促す。ショック症状の緩和に、神経を鈍麻させるのを忘れ
ずに。
「白花ちゃん、大丈夫?」
まだサクヤさんの手が離せないので、声と視線で問う。実は様子を視れば分るのだけど、
答を促してしまうのは、桂ちゃんと同じく幼い頃からの習慣だ。白花ちゃんは漸く起き上
がって、こちらにゆっくりと歩み寄ってきた。
「僕は、何とか大丈夫……サクヤさんは?」
「何とか生命は繋ぎ止められそう。まだ予断を許さないけど、わたしが寄り添う限り死な
せないわ。夜風は身体に毒だから、これからお屋敷に運び込んで、お布団に寝かせて…」
持ち上げようとして、気付いた。昨日のノゾミや、一昨日の桂ちゃんの様には行かない。
体格が良すぎてわたしの腕力では少しきつい。わたしの力は疲労を拭えるけど、自力が増
す訳でも、サクヤさんを軽くできる訳でもない。聞いたら怒るかも知れないけど荷が重か
った。
無理をすれば運べるけど、変な所に力を加えて塞ぎかけた傷口を開いても拙い。困惑の
目線を泳がせると、目の前に男手が1人いた。本当はこの侭去りたい処だったのだろうけ
ど。
「お願いして、良い?」「ああ……」
僕の代りに刃を受けようとしたゆーねぇと、実際に受けてくれたサクヤさんだ。断れな
い。
白花ちゃんは、わたしの腕からサクヤさんの日本人離れして見事な身体を受け取って持
ち上げ、お屋敷に歩いてゆく。わたしもそれに追随して。電気を点けてないお屋敷は、ノ
ゾミと烏月さんの奇妙な騒擾に包まれていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ノゾミを考慮して、夜も部屋は基本的に豆電球だ。暗くても、今の面々なら室内での起
居に差し障りは生じない。葛ちゃんか桂ちゃんが起きてきたなら、考えるべきだろうけど。
烏月さんとノゾミが敷いた布団の横で、白花ちゃんに外して貰い、2人に手伝って貰っ
て汚れた衣服を剥ぎ取る。わたしも衣を全て脱ぐ。素肌で抱き留め生命を流し込まないと、
この身に宿った全ての力を何の妨げもなく注ぎ込まないと、サクヤさんの生命は繋げない。
サクヤさんの服も桂ちゃんの時と同様破れており、血糊が付いていて、脱がすと言うよ
り剥ぎ取る感じだった。抱き留めたわたしの衣の血糊は皆消えている。わたしの衣も現身
の一部で、肌からも血を得て力に変える様に、衣でもサクヤさんの血を得て力に変えてい
た。食べ残しなしと言う事で衣は淡い輝きを帯び。
「これから素肌で抱き留めて、サクヤさんにわたしの生命を流し込みます……」
座った侭で自らの衣の帯を解きかけてから、同じく座った侭の烏月さんに、視線を向け
て、
「わたしか桂ちゃんが戻る迄の間、桂ちゃんが哀しむ事はないと信じてよろしいですね」
「鬼切部に二言はありません」
と言っても、斬ると公言していた鬼を当面とはいえ見逃してしまいました。肉を持つ人
の言霊は余り信用できないかも知れませんが。
烏月さんは表情に微かに陰りを見せつつも、
「奴が妙な動きをしない限り、桂さんかあなたが戻って来る迄、私は奴に切り掛らない」
わたしか桂ちゃんが戻れば一層斬りづらくなる事を見越して烏月さんは承諾してくれた。
自身の想いに背き、鬼切部の使命に背き。怜悧な烏月さんの瞳に苦々しさが宿るのは、そ
の約定を受け容れた自身への慚愧なのだろう。その真っ直ぐな心を曲げさせてしまった事
に、わたしは畳に両手を付いて深々と頭を下げて、
「烏月さん……有り難うございます」
言い終えるとするりと帯を解き、衣を脱ぐ。男性のいない一室なので、黙した侭立って
いるノゾミと座った侭の烏月さんなので躊躇はない。この行いも連日で、慣れてきたけど
…。
昨日の所作を思い返したのか、ノゾミがわたしの素肌を見て頬を染めつつ視線を逸らす。
少しの間もじもじした後で、ふわっと浮いて、
「桂と鬼切り頭達の、様子を見てくるわ…」
壁をすり抜けて行く。深く繋っているので、ノゾミの耳に迄響く動悸の音も、感じ取れ
た。意識して見つめられると、女子同士でも恥じらいは伝播するので、わたしも助かった
かも。
サクヤさんは、全て脱がせて布団に寝せた。後は衣を脱ぎ終えたわたしが抱き留めるだ
け。そこで向けられていた視線に気付いて、わたしが見つめ返すと、烏月さんはなぜか弱
気に視線を逸らせて俯かせて、珍しく小さな声で、
「その……サクヤさんを、宜しく頼みます」
私には癒す力も治す力もない。あなたの様に人を守る事は、私にはできない。敵を退け
倒す事でしか私は人を守れない。あなたが…。
「……鬼が、初めて羨ましく、想えました」
立ち上がって、部屋を出ようとする烏月さんの背中に、わたしは静かに声を向けて、
「もう気付いている筈ですよ、烏月さん」
端正な烏月さんの歩みがぴたと止まる。
「あなたが本当に羨ましく感じているのは癒しの力ではない。あなたは手に入れられない
この力を羨む人ではない。あなたが真に羨んでいるのは、既に手に入れていた筈の物…」
「ユメイさん、あなたはどこ迄私の心を…」
それは怒りと言うより、驚きと言うより、
「最初にあなたを斬れなかった時点で、私の負けは既に決まっていたのかも知れない…」
力の抜けた諦めの表情で力なく微笑んで、
「その強さと優しさには、及びようがない」
あなたは私が気付く迄待っていたのですね。
私が自身の心から答を見つけ出すその時を。
これは自身で納得しなければ意味がないと。
私が何を手放し取り戻そうとしているのか。
最初から全て承知で、ずっと待っていたと。
「釈迦の掌の上の孫悟空とは、私の事です」
「烏月さん……」
烏月さんは振り返って、青白い月光の差し込む室内で、サクヤさんを抱く為に全てを脱
ぎ捨てたわたしの裸身を、その怜悧な、でも温かさの混じった双眸で見下ろし正視しつつ、
「あなたに、惚れてしまいました」
鬼切り役の私が、鬼のあなたに。
あなたにも確かにたいせつなひとがいるというのに。何とも愚かしい。でも、愛おしい。
「絶対に叶う筈がない想いなのに。桂さんを、たいせつな人を、確かに心に抱きながら
…」
あなたをも、心から大切に想ってしまった。
寂しそうな笑顔を見せた後で気を取り直し、
「サクヤさんをお願いします。あなたが桂さんを哀しませる事はしないと分っていますが、
私からも改めてお願いしたい。させて欲しい。私が傷つけてしまったたいせつなひとを、
そして私の大切な人達を、助け守って欲しい」
深々と頭を下げる。そんな烏月さんにわたしは以前真弓さんやサクヤさんに返した様に、
「任せておいて下さい」
わたしとサクヤさんの2人の夜が始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
月光の青い輝きがわたしの力を更に強める。
部屋にいるのはわたしとサクヤさんだけだ。
布団の中でお互い、意識と無意識の隔てはあれど、身を隔てる布もなく、身体横たえて。
一糸纏わぬ綺麗な姿を、わたしの腕で抱き留める。大きな胸も、くびれた腰も、全てわ
たしが良く知る浅間サクヤだ。幼い頃から知っていて、二拾年以上経っても全く変らない、
そして今後二百年経っても尚変らないだろう、美しい人の肢体を抱いて。わたしが幼い日
に恋し一番に想った人の肌に自身を絡みつかせ。
それをこの両腕で抱き寄せて、想いを重ね。
この両腕で自らを擦りつけて、生命を重ね。
一昨日は桂ちゃんにこれを為した。昨日はノゾミにこれを為した。でもまさか今日サク
ヤさんにこれを為す事になろうとは。嬉しいけど、とても嬉しいけど喜べない禍の末に…。
何度も飛びませてくれた大きな胸。
何度も抱き留めてくれた、長い腕。
何度も涙を零してくれた美しい瞳。
励まし叱り、愛を語ってくれた唇。
いつ迄も変らずにあり続けると想っていた、愛おしい人。天地終る迄一緒の時間を生き
続けてくれると約してくれた、たいせつなひと。
漸くサクヤさんの役に立てる時が来た。今迄サクヤさんには守られ、助けられ、勇気づ
けられ、励まされ、癒され、抱き留められて。
いつもわたしが何かして貰っていた。
いつもわたしは、受け取る側だった。
役に立ちたかったのに、力になりたかったのに、想いを返したかったのに、伝えるのが
精々で、返す事など夢の又夢で。わたしを常に包んでくれた。わたしを常に抱いてくれた。
わたしの傷に哀しんでくれて、わたしの成功を喜んでくれて、わたしの成長を見守って
くれて、わたしの日々に笑みを投げかけてくれて。わたしはサクヤさんの愛を受けてきた。
哀しませ苦しませる事を繰り返してきたわたしを、サクヤさんは常に愛し見守ってくれた。
深く強く、熱く堅く、時に激しく。
漸くその生命を繋いで役に立てる。
わたしの代りに維斗を受けたサクヤさん。
わたしの代りに、死に瀕したサクヤさん。
失わせない。なくさせはしない。
わたしのこの手で、サクヤさんの久遠長久を繋ぎ止める。その生命の火を、消させはし
ない。その胸も、肩も、頬も、瞳も、何もかも全部悠久にあり続けて欲しい物。わたしの
この手で守りたい物。絶対になくさせない!
素肌を重ね合わせ、手足を絡みつかせ、体温を交わし合う。生命を流し合い、想いを伝
え合い、赤い糸を互いの定めに結びつかせる。
唇を傷口に沿わせて、舌を傷口に這わせて。わたしの癒しを満度に注ぐ。遮る物もない
中、満月の夜はお互いの力が最高になる。生命を繋ぎ合わせる為の夜だ。想いを重ね合わ
せる為の夜だ。わたしを全て注ぎ込む。柔らかな素肌は、無条件にわたしを受け入れてく
れた。
「……んんっ……」
贄の血の力、ご神木の力、竹林の姫から受け継いだ、サクヤさんを想う心も込めて。2
人を一つに繋げる。2つの唇を重ね合わせる。全体に、サクヤさんの全体に生気を注ぎ込
む。気分は、王子様にキスをする眠り姫、だった。
あの夜の直前には、真弓さんを守り抜けた。一昨日は桂ちゃんを、昨日はノゾミを守り
抜けた。今サクヤさんを守り抜けない筈がない。今のわたしは、サクヤさんが千年慕った
竹林の姫の後任だ。サクヤさんの身体には、笑子おばあさんやわたしが流れている。その
温かな血潮の何分の一かはわたし達だ。必ず届く、届かせる。この身を満たす桂ちゃんの
血もきっと賛同してくれる。力の限り助けてくれる。
抱き留めて、冷たい肌をこの体温で暖める。
心から心へ、治って欲しい想いが流れ行く。
素肌から素肌へ、わたしの生命を流し込む。
わたしの生命は、わたし1人の物ではない。
みんなに分け与える為に、仮にわたしの手元にあるだけだ。だから、必要に応じて人に
流し込める資質を、わたしは付与されたのだ。だから、必要に応じその全てを誰かに流し
込んでしまう事も、その内あるのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
容態が好転し、生命の危機は去ったかと思えたのは、夜の8時を過ぎた頃だったろうか。
漸く息遣いが安定してきて、癒しの力の還流は続けるけど、少しだけ必死さが引けてきた。
命懸けでなくても生命が繋げると見えてきた。
「……どうしたの、ノゾミ?」
少し前から感じていた気配に、声をかける。部屋の左隅上部に、現身を取らない位希薄
に抑えたノゾミがいた。隠れて盗み見ていたと言うより、邪魔にならない様、わたしの気
が散らない様気遣っていたらしい。ノゾミもサクヤさんが心配だったのか。或いはわた
し?
「……無駄話をしても、良いみたいね」
安心できる状態に来たとノゾミも感じ取れた様だ。今迄は話しかける事も憚られる状態
だったらしい。気配を濃くして、ノゾミは布団の上空に現身を浮かせて、見下ろしてきて、
「いつから気付いていたの?」
繋りは深くても全て通じる訳ではない。気をつけて良く視ないと、視落す物も結構ある。
サクヤさんを抱き留め癒す所作は並行しつつ、
「少し前からよ。緊急の事なら声をかけてくるでしょうし、そうでなければ害はないから、
サクヤさんの癒しに集中して構わないと…」
ノゾミは気配を隠すのが巧くない。これは技量の問題ではなく、素養の問題か。常に喋
って問いかけ続け、誰かの答を求めてしまう。絶え間なく関り続けねば、反応して貰わね
ばいられない、歌い続ける小鳥の様な存在故に。
「桂も鬼切り頭も眠った侭よ。あの子狐も」
状況はわたしも大凡把握している。余裕ができたので、少し前から蝶を送り始めていた。
尾花ちゃんは無傷だけど、昨日のケガで元々血が足りない。夕刻の激しい動きに身体が悲
鳴を上げた様だ。安静期間が一日延びる位か。
「桂は邪視で呪縛されただけだけど、鬼切り頭は傀儡として操られていたわ。その分術の
浸透が深いから、回復は少し遅くなるわね」
そう。有り難う。静かに言ってから、
「向こうには、居づらいの?」
今ちゃぶ台を挟んでいるのは白花ちゃんと烏月さんだ。拾年前を忘れてない白花ちゃん
と昨晩まで敵対していた烏月さんが、睨み合って座している。身の置き所がないのだろう。
白花ちゃんは、漸く分霊を抑え込めたけど、精根尽き果てた様子だった。サクヤさんを
運ぶ為にお屋敷に拾年ぶりに上がって貰ったのを幸い、中で休む様に勧め、居着いて貰っ
た。今だけでも烏月さんが斬らないと明言した以上、千羽烏月に二言がない以上、一応問
題はなかったのだけど、ノゾミとの関係は最悪だ。
「あなたの様子が気になったのよ」
ノゾミは勝ち気な瞳でわたしの問をはぐらかし、布団から覗く肩や胸元に目線を向けて、
「あなたが昨日私に為した治癒は、外から見たら一体どんな感じなのかしらって」
「人の睦み合いを無断で覗き見るのは、良い趣味ではなくてよ……」
窘めるけど、声から叱責の色は薄めておく。一度それを為された者が、それを見る機会
がある時に見てみたい気持も分らないではない。
「訊いて良い?」「……、どうぞ」
ノゾミは訊く気満々、断っても訊く姿勢だ。
「どうして、あなた迄衣を脱いで癒しの力を流すの? 衣の上から為せば良いじゃない」
観月の娘の衣を剥がすのは分るけど、その衣はあなたの力で織りなした、あなた自身よ。
その蒼い衣から彼女の肌に癒しを流し込む事もできるじゃない。布団に寝かせる迄あなた、
その衣でも血を受けて力に変え、流し込んでいたのに。それに彼女は肩口を切られたのよ。
下半身まで脱がせる意味はないと思うけど…。
瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
「素肌と素肌を合わせるのが、唯好きって訳でもないでしょうに……」「あら、好きよ」
わたしはまだ意識の戻らないサクヤさんの肩を右腕で抱き寄せてから、ノゾミを見上げ、
「たいせつなひとを直に感じ取れる事は、喜びよ。確かに生きていると、生命の温かさを
感じ取れる事は、幸せよ。この息遣いを繋ぐ為に注ぎ足したわたしの生命を感じ取れる事
はとても嬉しい事。素肌と素肌を合わせて息吹や温もりを感じたいのは、それを好むのは
確かにわたしの真意よ。間違いじゃないわ」
桂ちゃんにもそうだったし、あなたにも。
「触れ合えば相手を分るだけじゃない。相手にわたしを分って貰う事もできる。あなたの
様な感応に優れた鬼ではなく、桂ちゃんの様な人で何の力がなくても、労る心は伝わる」
『そう言えば、羽藤は良く誰かと抱き合っていたな。主に女が相手だったけどお前、男に
抱きつく事の意味って、分っているのか?』
そう問われた事もあった。今は遠く霞む想い出の中で、わたしは初恋の人にそう問われ、
『たいせつな物って、抱き留めたくなるの』
『わたしはいつもそうだけど、みんなが誰かを抱き留める時って、そうじゃないの?』
言われた彼が返答に惑うのが可笑しかった。
桂ちゃんでも白花ちゃんでも、サクヤさんでも真弓さんでも、ノゾミでも主でも、それ
は同じ。たいせつな物を放さないのではなく、逃がさないのではなく、全身で感じたいか
ら。
わたしは人と触れあうのが、嫌いではない。それが大切な人であれば尚の事。触れて、
触れて貰って。分って、分って貰う。他の人の感覚がそれと少し違うのは知っていたけど
…。
「長く儚い現身しか作れなかった。それ迄は、ご神木の中で希薄な霊体でしかなかったか
ら。
幾らサクヤさんにご神木に触れて貰っても、幾ら真弓叔母さんに抱き締めて貰っても、
わたしは硬い幹でしかなくて、節くれ立った枝でしかなくて、散って行く花や葉でしかな
くて。ずっとずっと想いを返せる腕がなくて…。
この様に確かに触れあう事ができる幸せは、全身で感じたい。その想いは確かにある
わ」
正面から肯定されて、言葉を失うノゾミに、
「実際にはね、蒼い衣はわたしの身を包み守る為に織りなした物だから、現身の一部と言
っても力を防ぎ遮る性質を少し持っているの。直に肌を合わせる程に早く、癒しの力は浸
透させられない。そういう事情もあるけど…」
想いを重ね合うのに、片方が素肌で片方が衣なのも不公平でしょう? わたしがそれで
良いとして、為される側が隔てを感じるかも知れない。少しの恥じらいも、共有したい…。
「傷は肩口だけど、生命の危険は全身の物よ。身体の隅々から賦活させ、余力を傷口に回
す様に促すの。その為にも、深手な程全身を癒す必要がある。だからサクヤさんの下半身
も全て剥ぎ取って、わたしも全て脱ぎ捨てた」
各部をバラバラに癒して全ての部分が成功しても、全体として生命を繋げないと意味が
ない。肺や胸や肋骨を治せば良いのではない。わたしは、サクヤさんの生命を守りたかっ
た。
応えつつ、サクヤさんの頬を間近に見つめていた視線を、上に浮いているノゾミに向け、
「わたしが衣の方が、ノゾミは良かった?」
「えっ……わ、私? ……私は、その……」
返されて、問われてノゾミが頬を染める。
視線を逸らせ、口が窄んで、声が小さく。
ノゾミは問い続け、喋り続ける存在だけど、問われ答えるのは得意でないのかも知れな
い。
「ノゾミ、こっちにいらっしゃい」
声で招くと、ノゾミが寝そべったわたしの手が届く処に迄高度を下げてくる。他に人の
目がない場になると、ノゾミは意外と素直だ。
「癒しの力に、興味があるのね?」
向うに居づらいと言うより、喋る相手を求めると言うより、その問に潜む真意をわたし
は察して話しかける。ノゾミは鬼として千年生きているけど、癒した事も癒された事もな
く、それを見た事もないらしい。その大多数の歳月が封印の中だったとの事情はあるけど。
「青珠に宿った以上、私にもそれが出来て当たり前の筈よ。今後桂がケガをした時は、私
が治してあげないとならないの。あなたの治癒を観察していたのも、その為なんだから」
そうね。浮いた侭で、腰に右手を当てて胸を反らせるノゾミに、わたしは静かに頷いて、
「まだ青珠に憑いて日が浅いから、繋りが足りないのね。もう少し時が経てば自然にでき
る様になるわ。感覚は、あなたに注ぎ込んだ時に、その身に染みついている筈だから…」
町に帰った後の桂ちゃんを、看てあげて。
「あなたは……主さまを、封じ続けるのね」
そこでノゾミは、わたしがここを離れ得ぬ事を思い出した様だった。今の関りは一時的
な物で永続しない。烏月さんにもサクヤさんにも葛ちゃんにもそれぞれに生活の場があり、
人の世の理がある。桂ちゃんと本当に毎日を共にできるのは青珠に宿るノゾミだけ。逆に
言えばノゾミにも、桂ちゃんだけになる訳で。
ええ。ノゾミの側にも複雑な想いのあるその問に、短くわたしは頷いて、再び見上げて、
「それが、わたしの受け容れた定めだから」
多くは語らない。主の事情も、竹林の姫の事も、ノゾミの知らない多くの事も。わたし
の口から伝える事が、曲解を招く怖れもある。生命と想いを共有して深く繋った存在だけ
ど、それでも報せて良い事と悪い事がある。桂ちゃんの記憶を戻す事が痛み哀しみを招き、
ノゾミを失わせる一歩手前の危機を呼んだ様に。黙する事も幸せを保つ一つの選択だ。桂
ちゃんの記憶は結局ミカゲが戻してしまったけど。
「時々は桂を促してこちらに来させるわよ」
あなたが動けないという事は、訪ねれば必ずいるという事なのよ。私はともかく桂を連
れて行けば、あなたも出ざるを得ないでしょ。
ノゾミは桂ちゃんと別れ別れになるわたしを気遣ったのだろうか。或いはわたしとの別
離を哀しむ桂ちゃんを、気遣ったのだろうか。主の甦りを画策して多くの生命を奪い、幼
い桂ちゃんの家族と幸せを奪い、少し前に桂ちゃんを脅かしわたしを滅ぼしかけたノゾミ
が。
ノゾミは青珠の影響を、思ったより大きく受けている。それは多分、ノゾミ本人がその
変化を望んでいるから。その変化によってより桂ちゃんに心が近くなると分っているから。
青珠にはわたしの他にも真弓さんや笑子おばあさんの想いも宿っている。その心に添うノ
ゾミなら、未来を信じて良いのかも知れない。
「……どうしたの?」
ノゾミが、何かに気付いたわたしの表情の微細な変化を察して訊ねてくるのに、
「桂ちゃんが、目覚めるみたい」
「……まだ、目覚めてないわよ」
気配で探れるノゾミが疑念を示すのに、
「もう一分も経たない内に目覚めるわよ」
もう少し馴染めば、あなたにも分るわ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
居間には沈黙と気まずさが蟠っていた。
居間の中にいるのは4人。
まず、わたし。
傍に、すぐ左隣にくっついてノゾミちゃん。
次に、烏月さん。
それから、自らを鬼と認めていたケイくん。
先程まで争っていた(詳しく言うなら烏月さんが一方的に切り掛っていた)2人が同居
しているのだから、おかしな空気になるのも当然。にも関らず表面上平穏なのは、今ここ
にいない人が、いない理由に関係があった。
みんな開いた襖に揃って目を向け、物腰静かに入ってきた柚明お姉ちゃんの顔色を伺う。
「サクヤさんの状態は落ち着いたわ」
「ほっ……」
サクヤさんは、身体を張って2人の争いを止め、その結果、大きな傷を負ってしまった。
らしいといえばらしいけど、無鉄砲すぎてこちらの方が堪らない。生命があるだけまし
だというか、お姉ちゃんがいなかったら取り返しのつかない事になっていたというか……。
その柚明お姉ちゃんをじっと見ているケイくんを、ちらりと横目で見る。
『唯その為だけに、明良さんを僕の運命に巻き込み、鬼に憑かれた度し難い生命を繋ぎと
めてきたんだ』
『桂! 待つんだ! そっちは危ない!』
『違う! 僕は桂を狙ってここに来たんじゃなくて、桂を狙っているのは僕じゃなく…』
鬼らしくないけど鬼で、烏月さんにとって目の敵で、だけどわたしを気遣ってくれてい
る風で、サクヤさんが命がけで助けたりして。
この人は、一体何者なんだろう。
「うん?」
ケイくんがわたしの方に顔を向けた。
いけない。横目でちらりと見ていた積りで、いつの間にか不躾な眼差しを送っていたら
しい。見るという行為にどれだけの影響力があるか、嫌という程思い知ったばかりなのに
…。
瞬間瞼の裏に朱い眼が見え、頭がずきんと。
ミカゲちゃんの最期が印象に刻まれた様だ。
「……っ!」「……桂ちゃん?」
柚明お姉ちゃんの問いかけに、
「ううん、何でもない」
うん。大丈夫。特におかしい処はない。
「……」
わたしの様子をケイくんが訝しんでいるけれど、それよりも。
「その……葛ちゃんは?」
烏月さんが、わたしに顔を向けてくれて、
「寝ているよ。身体の方は落ち着いている」
傀儡として操られていた葛ちゃんは、柚明お姉ちゃんにその術を解かれた後、その力で
今も眠りの園にいる。傀儡として操られると疲れが酷い様で、葛ちゃんは二日連続と言う
事もあってか、朝迄起さない方が良いとの事。
「特段ケガはないわ。別室で子狐と一緒よ」
「それは良かったよー」
ちなみに緊張の糸がぷつりと切れたわたしも一度寝込んでいたりする。そこでわたしは
ケイくんが考え込んでいる様子に気がついた。
「あのー、どうかしましたか?」
「いや……何でもないんだ……」
何でもないという割に難しい顔をしていた。
そこを視線で追求すると、ケイくんは視線を遠くに向けて……それでも、答えてくれた。
「ただ、僕の経験からすると、自分が何をしたかは憶えている筈だ」「そう……」
自由意志によらない行動を憶えているのって、一体どんな気分なんだろう。酔っぱらっ
て暴れた人が、次の日自己嫌悪の嵐に見舞われるなんて話は良く見聞きするけれど。
目を伏せるとちゃぶ台に乗っている、ふくさの上に集められた鉄の破片が目に入る。ノ
ゾミちゃんがわたしに叩き割らせた、良月だ。昨夜烏月さん達は、後々差し障りがあって
も拙いと、砕かれた良月の破片を暗い中、できるだけ拾い集めてくれていた。わたし達は
今日の日中もみんな疲れ切ってまともに動けず、この処分も先送りになっていたのだけど
……。
「ノゾミ、葛ちゃんの事を、許してあげて」
葛ちゃんは、尾花ちゃんを傷つけられた恨みを、ミカゲちゃんに傀儡の糸に使われたの
だという。唯意志を奪うのではなく、当人の意志に絡めて働く傀儡の術は、強靱で気付か
れ難いらしい。柚明お姉ちゃんは寸前でそれに気付いて、ノゾミちゃんの背に振り下ろさ
れた矢尻を、自身の左腕で受けて食い止めた。
まだ脆い葛ちゃんとノゾミちゃんの絆を断つ為の刃を、自身への危害ならそれだけに留
まると。為させては恨みを晴らした事になって、為した側にも為された側にも傷を残すと。
その傷が祟って一時は柚明お姉ちゃんが危うかった。本当に無理というか無茶をする…。
自身の傷も衣の破れ目も既に修復を終えたその柚明お姉ちゃんがノゾミちゃんに向いて、
「尾花ちゃんを大切に想う葛ちゃんの気持は、過ちじゃないわ。取り返せる物のない復讐
は虚しいけど、その憎しみは強い愛の裏返しよ。心の隙を完全になくする事は、子供には
難しいわ。葛ちゃんを誰も見ず、ミカゲの邪視に陥らせたのは、わたしの見落しでもあっ
た」
「ノゾミちゃん、お願い。わたしからも…」
「その事に関しては、私の失陥でもある…」
少し前にわたしとノゾミちゃんから、ミカゲちゃんとの経緯を聞かされた烏月さんは、
一時顔色を蒼くした。烏月さんが忠誠を誓った鬼切り頭が当日夕刻、鬼切り役の間近で鬼
の傀儡にされ、味方のノゾミちゃんを傷つけようとした。それに何も関れず防ぐ事もでき
なかった。それは大きなショックだった様で。
「全ては私の力不足の故……許して欲しい」
烏月さんも夕刻の一件を経て漸くノゾミちゃんを信用できた様で、それがわたしには大
きな成果だった。葛ちゃんも、目を覚ましたらノゾミちゃんに謝ってくれるだろう。柚明
お姉ちゃんとノゾミちゃんの絆はわたしが想ったより強い様だし、これでケイくんと烏月
さんが和解できれば、言う事はないのだけど。
許しを請うた半日前とは一転して、許す側になったノゾミちゃんは、そわそわして落ち
着きがない。ノゾミちゃんの今迄の人生では、誰かに心から謝られる経験が少なかったの
か。
「私の一番たいせつな桂と、私の身代りになってくれたゆめいの言葉だから仕方ないわ」
どこかで聞いた言い回しは、許しを出した経験が少ない中で、近くて自身に関る物を呼
び出した末か。お姫様の様に胸を反らすのに、
「尾花ちゃんを傷つけて、恨みの種を蒔いたのはあなたなのよ。調子に乗りすぎないで」
「……分ったわよ。今後は、気をつけるわ」
柚明お姉ちゃんの窘める声に、ノゾミちゃんがわたしの背中に隠れる。ちゃぶ台を囲ん
でから、ノゾミちゃんは柚明お姉ちゃんとわたしの間を行ったり来たりしている。浮いて
動くので足音はなく、騒がしくもないけど…。
その様を複雑な顔で見つめつつケイくんは、
「だけど、これで一つ僕の目的が果たせたよ。この鏡を破壊する為に、この鏡に憑いた鬼
を倒す為に僕はここへ来たんだから……彼女に邪魔されて、僕は何もできなかったけど
ね」
ミカゲちゃんは滅ぼされたし、ノゾミちゃんはわたしの守り手になった。ケイくんも倒
すべき敵はいなくなったと考えてくれた様だ。
「……」
烏月さんが渋い表情で出しかけた言葉を呑み込んで沈黙を保つのに、ケイくんは続けて、
「僕はこの鏡の所為で鬼に成った様な物だからね。彼女達には拾年来の恨みがあるんだ」
「……」
次に渋い顔を見せたのは、ノゾミちゃんだ。それを言うなら、わたしだって、そうなの
だ。確かに今迄は、ミカゲちゃんだけではなくノゾミちゃんもその意思で関って来たのだ
から。
彼女達がハシラの封じを解こうとした所為で、柚明お姉ちゃんはオハシラ様……人では
ない存在に、ならざるを得なかった。今はこうして分り合えて、仲良くなれた事に悔いは
ないけど。拾年前を哀しみ取り返したい気持はない訳じゃあない。ほんの僅かに悔しさも。
でも、わたしも記憶を戻したからこんな事を言える訳で。記憶を戻す前のわたしは、何
も知らずに柚明お姉ちゃんの気持も、サクヤさんの気持も踏み躙っていた。知らずにノゾ
ミちゃんを受け容れてと一生懸命にお願いし、仲良くなってと願っていた。その哀しみを
知りもせず、想像もできずに。酷い話だった…。
2人とも、みんな承知で受け容れてくれた。ノゾミちゃんの過去もわたしの過去も知っ
て、過去を忘れたわたしの願いを。だから、わたしはその想いに甘えるのではなく、その
想いに応えて、ノゾミちゃんも含めた日々を作る。サクヤさんも柚明お姉ちゃんも、ノゾ
ミちゃんを受け容れて間違いなかったと思える様に。
実際、柚明お姉ちゃんはわたしがそう考える何歩か先を、もう進んでいるみたいだし…。
「でも、ミカゲちゃんだって……」
そしてもう1人、柚明お姉ちゃんに倒されてしまった、だけどノゾミちゃんにとっては
最期の最期迄たいせつだった、ミカゲちゃん。主の分霊で、気紛れでも戯れでも主がノゾ
ミちゃんを哀れみ慈しんだ心を核に持ち、主を慕うノゾミちゃんの想いに応えて形になっ
た、二度と甦る事のないノゾミちゃんの千年の友。
ノゾミちゃんが寂しそうな顔を俯かせつつ、何も発さないのは、今はやむを得ないのか
も。ミカゲちゃんは最期の最期迄わたし達と相容れず、主の為にわたしの生命を狙って、
柚明お姉ちゃんや葛ちゃんに敵意を及ぼし続けた。紛れもなく敵だった。今ノゾミちゃん
がミカゲちゃんに同情を見せては、信頼も揺らぐ…。
だから、敢てわたしが言わないと。
「そりゃあね、ミカゲちゃんは最後迄、わたしの生命を諦めなかったけど。わたしだって
血を吸われたりするのは、嫌だけど……」
ノゾミちゃんの気持はわたしが汲み取らないと。例え敵でも、千年ノゾミちゃんの妹だ
った、一緒に過してきたミカゲちゃんに今も抱く、ノゾミちゃんの想いを受け止めないと。
そんなわたしの言葉に応えてくれたのは、
「そうね、可哀相な生き方をしていたわね」
やっぱり柚明お姉ちゃんだった。
「うん」
『主さまから生じ、主さまを慕う姉さまから生じた私は、姉さまの主さまとの幸せは喜べ
ても、桂や継ぎ手との幸せは喜べない……』
皮肉の極みだった。解放を想い願う主の分霊で、自由を求め望むノゾミちゃんの妹のミ
カゲちゃんが、最も不自由だった。主の一部でしかなく、ノゾミちゃんの影でしかないミ
カゲちゃんは、飽くなき自由を求める2人の傍で、自身の幸せを選ぶ事すら知らなかった。
『柚明お姉ちゃんは、わたしのノゾミちゃんとの幸せを口を噤んで保ってくれた。全て承
知の上で見送る積りでいた、一言も匂わせず、どんな形でもわたしの幸せを、望んで喜ん
で。ミカゲちゃんの在り方、主の在り方と反対に。
でも、そのミカゲちゃんの行いがわたしの記憶を戻した。それは一時ノゾミちゃんとの
絆を危うくさせたけど、今はこうして過去を取り戻せた上で、ノゾミちゃんがいてくれる。
これもミカゲちゃんのお陰と言えるのかな』
血を飲む事で人の心が混じり想いが揺らいだノゾミちゃんと違い、幾ら人の心が混じっ
てもミカゲちゃんは変らなかった。頑なに拒んできた。青珠に根を繋げたミカゲちゃんは、
わたしへの害意さえ捨てれば、青珠から力を流されノゾミちゃんの様に存在を保てた筈な
のに。それは自殺に近かったのかも知れない。
「主を慕わないノゾミを主が不要に思う様に、主を慕わないノゾミにはミカゲが要らない
子になる。そう、思ったのかも知れないわね」
柚明お姉ちゃんの指摘に、ノゾミちゃんがはっとした顔を見せた。ミカゲちゃんがノゾ
ミちゃんの妹ではなく主の分霊なら、その考えもノゾミちゃんより主に近しい筈だ。お姉
ちゃんは主と拾年ご神木に共に居続けている。ミカゲちゃんの心中はノゾミちゃんよりも
…。
ミカゲちゃんは、己が捨てられたと思って、わたしに情を感じたノゾミちゃんがミカゲ
ちゃんを捨てて行くと怖れて、即座に力の根を止めるという激越な手法に走ったのだろう
か。『振られる位なら振ってやる』と言う愛の表現は、最近見た恋愛ドラマにもあったけ
ど…。
そうであるなら、ミカゲちゃんは最期迄ノゾミちゃんを分ってなかった事になる。なぜ
なら、ノゾミちゃんは激しく敵対し、あそこ迄追い詰められ、散々想いを掻き回されて尚、
「あの、馬鹿っ。何一つ、言いもせずに…」
罵りつつも瞳に涙を浮べていたのだから。
大切に想っていたに、違いないのだから。
言わないけど、来れるものなら一緒にこっちに来たいと想っていたに違いないのだから。
長い歳月を共にしていながら。
わたしが封印を解いてしまう迄、何百年とも知れぬ時間、封じられていて……。
自由を得た後すぐに斬り捨てられて、活動を再開する迄に掛った時間が拾年……。
気が遠くなる程の長い時間の殆どを、閉じこめられて、2人だけで過してきて。
「それでも尚、分り合えないのかな」
間近で俯いた侭涙を堪えるノゾミちゃんの肩を抱きつつ、柚明お姉ちゃんを向いて訊く。
「そうね……千年共にいて、自分が目の前の封じの要を愛していた事にも、愛されていた
事にも、気付けなかった鬼神もいるから…」
お姉ちゃんも、自身の想いに耽っていた。
「せめて、弔ってあげましょう」
わたしを見つめ直し、白い指でふくさの端をつまみ上げて、鏡の破片を包みながら言う。
「オハシラ様のご神木にはね、凝って還れない魂を、蝶に変えて飛ばす力があるの」
「鬼車……」
「そう。鬼の車に乗せてあげれば、彼女も」
最期に彼女が宿ったのは青珠だけど、生涯の殆どは良月にあった。ミカゲちゃんへの力
の供給を止めた青珠より、発祥である良月の方が弔いに相応しい。ノゾミちゃんや烏月さ
んが眺めても、残滓は良月の破片に強い様だ。
青珠はわたしの血の匂いを隠す為に今後も必要だし、ノゾミちゃんの依代でもあるから、
埋めちゃう訳に行かない。それより気になるのは、鬼の想いの残滓が宿る危険物(?)を、
柚明お姉ちゃんが宿るご神木の根に埋めて…。
「埋めても大丈夫なの?」
「ええ。その子の分ぐらいなら大丈夫よ。ハシラの封じには影響がないわ」
お姉ちゃんは微笑んで、ふくさの包みを持って立ち上がった。わたしはすぐ脇にいるノ
ゾミちゃんの白い右手を、左手で握ってから、
「ノゾミちゃんも連れて行って良いかな?」
訊ねてみる。昨日迄主のしもべで、ご神木の封じを解こうと千年以上敵対してきた経緯
はある。こうして打ち解け合えたけど、ご神木に近づけても、良いのかどうか。でもこれ
はミカゲちゃんの弔いな訳だし。わたしは…。
「桂、余り無理は……」
ノゾミちゃんが、握られた手首からわたしの顔に視線を移し、潤んだ瞳を更に斜め後ろ
上の柚明お姉ちゃんに向ける。微かにケイくんと烏月さんが息を呑む気配と動きを感じた。
桂ちゃん。柚明お姉ちゃんは、座り込んだ侭身を寄せ合うわたしとノゾミちゃんを見て、
「……ミカゲの弔いなのよ。その姉を立ち会わせない訳には、行かないでしょう?」
やっぱり柚明お姉ちゃんだった。
2人とも何か言いたそうな表情だったけど、喉で押さえた感じだった。心配は尽きない
様だけど、今の柚明お姉ちゃんはオハシラ様だ。その了承に異議を唱えられる者はいない
のだ。
「烏月さん、留守を頼めますか」
烏月さんはやや脱力した声で、
「そうですね。私はこの鬼を全面的に信頼した訳ではありませんし、見張りを兼ねて残り
ましょう」
そんなに警戒する事はないと思うけど、お屋敷には大ケガを負ったサクヤさんや、まだ
意識を取り戻していない葛ちゃんがいる。
2人が意識を取り戻した時に、お屋敷に誰もいなかったら不安に思うだろうし、烏月さ
んがお留守番をしてくれるなら心強い。
「じゃあ、よろしくお願いします」
ふと庭に目を向けると、既に残照すらかき消えていて、太陽に成り代わった十五夜の月
がその明るさを夜空の中で誇っていた。
時刻は既に夜……。人は家の中に戻り、代りに鬼達が自由を手にする時間帯。
「夜だけど……大丈夫だよね? ケイくんがわたしを狙っているのって、誤解だったし。
ミカゲちゃんはもう、出てこないものね」
闇はやはり人を不安にさせる。鬼であるノゾミちゃんと柚明お姉ちゃんが間近にも関ら
ず、わたしは何を怖れているのかと思うけど。
「見送ってあげましょう。今度こそ迷わずに向うへ行けるように。次に帰ってくる時には、
不幸のない一生を送れるように」
柚明お姉ちゃんはご神木に向う道の途上で、ちょうちょを作ってお屋敷へと飛ばしてい
た。サクヤさんや葛ちゃんにもう少し癒しをと言う気持は分るけど、お屋敷を出てからそ
れを思い出すとは。柚明お姉ちゃんもわたし同様、座右の銘に用意周到を加えておくべき
だろう。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしが飛ばした蝶は、サクヤさんや葛ちゃんの治癒の為ではない。用件が終ればそち
らへの転用は考えているけど、真の目的は烏月さんと白花ちゃんの様子を見守る事にある。
監視とも盗み見とも言えたけど、2人をあの侭残すのはやはり不安だった。最初から蝶
を置かなかったのは、視られている前提に置くと2人が行動を装う怖れがあると考えた為。
サクヤさんや葛ちゃん、尾花ちゃんや桂ちゃんにも癒しを及ぼした為、お屋敷がわたし
の力の残滓に薄く包まれた感じになっている。蝶が一羽紛れても気配では気付けない。人
を隠すなら人の中、気配を隠すなら気配の中…。
2人が今から、人目を気にしなくて良くなったと戦い始めるような事はないだろうけど。
それでもわたしは不安を拭えなかった。これは漠然とした予感ではなく、関知の示しか…。
「さて……悪循環に陥ってしまった因果は、どこかで断ち切らなければいけないんだよ」
白花ちゃんが烏月さんに語りかけていた。
「……それで私に、諦めろと?」
烏月さんの問に、白花ちゃんは首を振って、
「いや……約束通り、僕が目的を果たしたらこの首をあげるよ。……その前に、一つ付き
合って欲しい。僕は勝ち残って目的を果たしに行く積りだけど、ひょっとしたら、そこで
僕の首は胴から離れてしまうかも知れない」
それでも君の目的は叶うし、そうでなかったとしても、僕は目的を果たせたらこの首を
君にあげるよ。持って帰ると良い。僕の首が、
「君の物になる事を恨む人が出なければ、因果の輪はそこでおしまいさ。違うかい?」
「いや……」
烏月さんが半信半疑の顔つきで頷くのに、
「必要な条件があるんだ。桂がいなくて、君とゆー、ユメイさんがいてくれる必要がある。
待つのは僕も得意な方じゃないんだけど…」
気配がどこにあるかは分らないけど、心配して近くで見守ってくれているのは、分るよ。
白花ちゃんの声は、わたしへの物だった。
『読まれていた……?』
「帰ってきて、桂を寝付かせた後で話、と言うより頼みがあるんだ。今ここではやり合わ
ないから、安心して良い。待っているから」
烏月さんが目を丸くする様子が視えたけど、驚きはわたしも同様だった。気配を察する
資質以前に、白花ちゃんはわたしに近しい人だった。わたしが何を考えどう動くかは、百
も承知か。どこに蝶が潜むか迄は分らなくても、必ずわたしが気遣って蝶を置く事を見越
して。
白花ちゃんはわたしが想っていたよりも…。
「……はい。少し、待っててね」
いつもよりにこやかなわたしの呟きに、右を歩む浴衣姿の桂ちゃんと、その頭上を掠め
て浮いて進むノゾミが、
「柚明、お姉ちゃん?」「ゆめい?」
同時に分らないという顔を見せた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
この三人でご神木への道を歩む図を、わたしは関知の中でも見た憶えはない。人物や時
間や配置が違っている。わたしは漠然と不安を感じていた。わたしは良いけど、桂ちゃん
が生き残る道を確かに選べたと言えない現状に。その行く末が定かに視えてこない現状に。
『小さいわたしが、ノゾミちゃんとミカゲちゃんに手を引かれて通ったご神木への道…』
桂ちゃんの記憶はまだ完全に戻っていない。わたしの事は想い出せたけど、まだそれは
幼い記憶の鍵を開けたに過ぎない。まだ本当の哀しみに、桂ちゃんは辿り着けてない。白
花ちゃんを思い出せてない状態はまだ不安定だ。
ノゾミも暫く口を開かなかった。彼女が想い返すのは、幼い双子を連れ出した拾年前か。
ミカゲが顕れる更に前、主の封じを確かめに行って近づく事も叶わず弾かれた遙かな昔か。
わたしが想い返すのは、笑子おばあさんに導かれご神木に感応を試みた夜。森に迷い込
んだ桂ちゃんと白花ちゃんを捜し、真弓さん達と走り抜けた夜。鬼の姉妹に操られた幼い
双子を助けようと、必死に馳せた運命の夜…。
あの夜この羽様の森で、後一歩の処迄追い詰めたミカゲをその侭わたしが倒していれば、
拾年後の今は一体どうなっていただろう? 良月に宿る鬼はノゾミだけ。戦いは随分有利
になっただろうけど、わたしも桂ちゃんもノゾミとこの様な関係は、決して築けなかった。
ミカゲは終生敵だったけど、その存在や行いがノゾミとわたし達を繋ぎ合わせた。彼女抜
きにはわたし達は赤い糸を絡ませ得なかった。
そして拾年前のあの夜に、ミカゲを滅ぼしに時を費やしていれば、わたしが封じの要を
継ぐのが間に合わず、主が解き放たれていた。あれが最善だった。桂ちゃんと白花ちゃん
を最優先し、勝てる戦いを抛って真弓さん達の元に駆けつけた判断は、正しかった。躊躇
なくハシラの継ぎ手を望んだあの判断も正解…。
桂ちゃんと白花ちゃんを想った故の判断は、常にわたしの正解だった。わたしはいつも
叶う限りの力で挑み、為せる限りの想いを届かせてきた。拾年前もこの拾年も、これから
も。
烏月さんの魂削りを受けて疲弊し、ミカゲに置き去りにされたノゾミを倒さず、がら空
きになった桂ちゃんの守りを最優先したわたしの判断も、正しかった。烏月さんは魂削り
の反動で死んだ様に眠っていて、桂ちゃんを守る者はいなかった。ノゾミを見逃した故に
ミカゲを倒しきれず、追い縋ってきたノゾミの挟み撃ちで一度はこの身が滅び掛けたけど。
でもあの選択は桂ちゃんを守るに必須だった。あの経過を辿らねば桂ちゃんは助かってな
い。
あの時はミカゲが、人の血を得て浸透した感情に煽られて、わたしを嬲って時を浪費し、
白花ちゃんとサクヤさんの助けが間に合った。ノゾミの指示にミカゲが従っていれば、的
確に目的に動いたならわたしは今ここにいない。
そして昨夜は桂ちゃんの血を得てその心迄も得たノゾミが、ミカゲから切り捨てられて。
あの時、依代を失ったノゾミを青珠に憑かせたのはミカゲだった。善意ではなく、生存の
為に己の存在をノゾミに紛らわせたのだけど、それでもミカゲがノゾミを憑かせなかった
ら、青珠に寄り憑く力を持たなかったノゾミが消えていた公算は高い。桂ちゃんの願いが
あれば、わたしが力を及ぼした可能性はあるけど。
疲弊の極みにいたノゾミは青珠に憑いて尚消失の危機にあり、わたしを満たす生命を注
ぎ込んでその生を繋いだ。結果ノゾミの霊体は桂ちゃんの血とわたしの想いに満たされて。
ミカゲは桂ちゃんとノゾミの絆を断つ為にその記憶を戻させた。でもそれは2人の絆を
断ち切れず、わたしを含めた赤い糸を更に強く変えた。一歩間違えば断たれてもいたけど。
危うい橋を越える程に、堅く締まる絆もある。
わたし達の間柄は錯綜していた。桂ちゃんはノゾミ達を解き放って生命の危機を招いた
一方、そのお陰で生命を繋ぎ止めた。桂ちゃんは多くを失ったけど、こうせねば得られな
かった物もある。得た物で失った物を補う事はできないけど、逆に失った物の為に得る物
を拒むのも無意味だ。桂ちゃんの言った通り、
『哀しい事はあったけど、もう取り戻せない物の為に、今ある大切な物を失いたくないの。
哀しかったけど、悔しかったけど、これを更に繰り返したくない。ノゾミちゃんを失って、
この後で更に後悔したくない。サクヤさんも柚明お姉ちゃんも、全部分って受け容れてく
れたんだよ。わたしはその為にみんなの想いを踏みつけちゃったけど、そこ迄して得たノ
ゾミちゃんを又失うのは更に耐えられない』
憎しみも怒りも消し得ないけど、それは失った人達への想いの証しとして胸に刻むけど、
その為に未来は抛てない。取り返せない過去は想い出に残し抱き留める他に術もない物だ。
わたしが羽様で主を久遠長久抱き留め続ける様に。昨日の為に桂ちゃんの明日は覆せない。
もう桂ちゃんの、何も失わせたくはない…。
「あ、わたし浴衣だ……。寝ている間に着せ替えられていたの、今気付いちゃったよ…」
もう山道入っちゃったし、今更引き返すのも時間掛るし、どうしよう。
「あなたはいつもそうね。用意周到が聞いて呆れるわ。どこに座右を銘じているの?」
困り顔を見ると、ノゾミは突っ込みを入れたくなる性分らしい。桂ちゃんの少し頭上の
右側で、浮いた侭腰に右手を当てて見下ろし、
「何かを始める迄気付かない人間は多く見てきたけど、何かを始めて暫く経たないと気付
かない程鈍い人間はそう多くないわよ、桂」
「ううっ。だって、柚明お姉ちゃんとノゾミちゃんと一緒に夜道をお散歩できると想った
ら嬉しくなっちゃって。……それに2人ともずっと着物姿なんだよ。わたしが浴衣姿に全
然違和感感じなくても、無理ないでしょう」
「動きに違和感があるのに今迄気付かない事の方に、無理がある気がしてならないわね」
「ううっ、確かにそれはその通りだけど…」
そのやり取りは、聡い妹がおっとりした姉をやりこめている様でもあり。こんな関係が
町に帰った2人の間で続くのだろう。この様に姉妹の如く連れだって歩む日が来ようとは。
運命の巡りの輻輳は、時に鬼の関知も超える。
「……焦らなくて良いの。全て用意周到に最善である必要はないのよ。時間切れがある訳
でもないのだから。ゆっくり行きましょう」
全てに最善を為す事が、最後迄最善とは限らない。それ迄の積み重ねが成功で、完璧で、
成し遂げられた故に、最後の最後で蹉跌を招き喪失を呼ぶ事も世にはある。悪意ではなく、
怠惰でもなく、誠心誠意が最後の喪失を招く因になる事も。あの運命の夜ももしかしたら。
あの夜の選択に間違いはなかった。わたしの及ぶ限り、為せる限り、最善の選択だった。
ノゾミ達の解放も、竹林の姫の魂の消失も、ハシラの継ぎ手になった事も正樹さんの死
も、主の分霊が白花ちゃんに宿った事もその失踪も、赤い痛みが閉ざした桂ちゃんの記憶
もこの力で及ばない、及ばせてそこ迄の物ばかり。
でも、もう半日遡って全てを見通せていたなら。あの夜に至る昼の時点で、日没前にわ
たしに再度選択が許されたなら。どうだろう。
あの日、わたしは不安の正体を分らない侭、心を覆う暗雲に不吉を感じ、必死にその回
避を試みていた。誰にも害が及ばない様にと焦りを隠せずにいた。今想えば、その必死さ
こそが一つ一つあの夜に繋ったのかも知れない。
昼前に親友の訃報が届いた。真弓さんは喪に服す意味で修練の休みを勧めてくれたけど、
わたしはそれを断った。血筋に宿る難病でわたしの力では癒し得ず、遠くの病院で闘病生
活の末亡くなったたいせつな人。わたしの修練が間に合わず、届かず、亡くなる人がいる。
わたしは、立ち止まる事に耐えられなかった。
もしあの時、真弓さんの勧めに沿って一日休養していたら、空いた時間でわたしは双子
に向き合ってその不安を拭えたかも知れない。時を掛けて正樹さんや真弓さんの不安を拭
い、又は己で答を見いだし、禍を回避できたかも。
修練の後で真弓さんが体調を崩した。わたしは修練の後で幼い双子と遊んであげる約束
を守らず、真弓さんの癒しを優先した。2人の周囲に花びらを舞わせて間に合わせた。そ
の為に、お屋敷の裏で桂ちゃんが突風に散らされた花びらを追いかけ、薪の山に駆け上る
のを止められなかった。真弓さんが不要と断るのを了解し、幼い双子と遊んであげていれ
ば、2人に感じさせた不安をこの身でしっかり受け止めていれば、或いはあの夜2人は…。
急いで駆けつけて、崩れる薪の山を駆け上って、桂ちゃんを抱き留めて走り抜けたけど。
正樹さんに叱られる原因は、わたしが作った。桂ちゃんや白花ちゃんは悪くない、悪いの
は目が届かなかった自分だと賢しく口に出した。
正樹さんも目が届かなかった苦味は感じていた。それを承知で、桂ちゃんを想う故に桂
ちゃんが為した危険を叱ったのだ。自身も桂ちゃんもケガ一つなく済んだのは成功だけど、
あの時わたしが薪の山に足を取られて手足を折るかして寝込んでしまえば、蔵に入る等と
いう考えは桂ちゃんの頭も掠めなかったろう。
見ていただけで、動けなかった幼子の白花ちゃんも一緒に怒られて、それを感じた故に
庇ってしまったわたしも一緒に怒られた事が、白花ちゃんの夜への伏線になってしまうと
は。
『ゆーねぇを、叱らないで』
ゆーねぇ悪くない。どうにかしたい想いをぶつける桂ちゃんに対して、どうにかする術
を探す白花ちゃんは、わたしへの淡く仄かな想いを形にしようと、正樹さんに向き合って、
『叱るの、はくかにして。はくか謝るから』
その想いが、その愛が、その深さが最期の悲劇を呼んだなら、罪はわたしにある。正樹
さんの死も、白花ちゃんの鬼に憑かれた辛い生も、桂ちゃんの記憶を閉ざした赤い痛みも。
彼の間近にわたしがいた事に由来するのなら。わたしが幼い双子に愛された事が悲劇の因
なら。わたしが愛する事を望みつつ、愛される事を強く欲しないのはその所為かも知れな
い。わたしが愛される事が常に喪失の要因だった。深く想うた故の過ちも、あの運命の夜
も全て。
直後に真弓さんが昏倒した。それ迄に見た事のない酷い不調で、一時は身体が冷たくな
った。救急車は間に合わないとわたしは真弓さんにキスして生命を流し込み、布団の中で
素肌で素肌を抱き留めてその生命を繋ぎ止め。
鍛えられた真弓さんだからという事もあったけど、力の限り癒しを注ぎ、夕刻遅くに真
弓さんは、何とか起き上がれる迄に復調した。
真弓さんも含めたみんなで夕食を共にして、わたしと正樹さんが食器を片付ける間、居
間で桂ちゃん達はテレビで『附子』を見ていた。わたしがもう少し力不足で、真弓さんが
あそこ迄復調しなければ、桂ちゃんは心配の余り、夜に悪戯心の余裕も出なかったかも知
れない。あの夜に『附子』を見る事もなかっただろう。
子供達が寝付いたと思って、わたし達は大人の話をした。正樹さんがわたしを怒鳴りつ
けた事に頭を下げてくれて、真弓さんの生命を助けた事にお礼を述べてくれて。気持を通
わせ合う事は良い事だけど、真弓さんの不調の原因を知り得たけど、でも正にあの時わた
し達の知らない蔵で、双子は鍵を開けていた。
いつもなら寝付いても暫く寝顔を見守った。奥の部屋ではなく、わたしの私室にいたな
ら、双子の足音も気配も、潜めた喋り声等聞かずとも分っていた。玄関に続く廊下に顔を
出し、
『どこへ行くの? この夜に……2人とも』
そう話しかけていただろう図が瞼の裏に今も浮ぶ。その一言で、拾年前の事件は防げた。
そう思うと、わたし自身に悔いは尽きない。
何か一つ、どこか一つで失敗か力不足があれば。わたしが誠心誠意を尽くし続け、最大
限を引き寄せ続けた事があの結果に繋ったと。わたしだけの力ではないけど、みんながみ
んな最善を求め続けた末にあの夜があったなら。
ああなる他に術はなかったのかも知れない。
わたしの感じた不安は正にそれだったのか。
これから大切な物を失いそうな予感、喪失が現実になり行く時を刻む焦り。為す術がな
いのではなく、逆に最善を為す事がそれに近付き行くとの苛立ち。困難や危険の排除を一
つ一つ成し遂げる事が最後の喪失に繋る不安。
桂ちゃんは記憶を取り戻し、その生命を脅かしたミカゲは倒され、ノゾミは桂ちゃんを
守る者になってくれた。烏月さんとも心通わせたし、白花ちゃんの生命の危険も薄らいだ。
サクヤさんの生命も繋げたし、尾花ちゃんや葛ちゃんの心も身体も癒せた。主はわたしが
戻る迄封じを破る積りはないし、わたしは近日この濃い現身は取れなくなるけど、ご神木
に宿る限り問題はない。桂ちゃんを取り巻く人の絆は強い。生命を脅かす脅威は存しない。
それで尚兆すわたしの不安は、心配のしすぎだろうか。それとも致命的な何かを見落し
ているだろうか。関知の力は尚、桂ちゃんが町に帰って日々を暮らし行く像を確定させて
くれない。その像が見える一方で、ここから生きて出られない末路の存在を匂わせている。
確かに視えない。定かではない。一体何が、引っ掛っているのだろう。一体何が、妨げ
ているのだろう。白花ちゃんを今尚脅かしているのが主の分霊とは分るけど、桂ちゃん
は?
視ようとすると、月の射し込む森の中、オハシラ様のご神木が、高々と堂々とそびえる
姿が映し出され。それはとても美しく力強いけど。槐の花の舞い散る像はいつの夏か分ら
ない侭、とても香しく心落ち着かされるけど。槐の巨木が月の輝きの中、夜空に向って堂
々と伸びている。それだけが鮮明にくっきりと。
漠とした不安は、正体が見えない故なのか。見えてしまえば何と言う事もない不安なの
か。そしてその不安よりやや強く、心を満たす哀しみの予感。心を浸食する様に黒い霧が
蟠る。
『向き合いなさい、としか言えないわね…』
貴女が嫌に思う物だからこそ、貴女が忌避したい物だからこそ、全力で向き合いなさい。
『貴女が嫌う事は何? 避けたい事は何?』
真弓さんの言葉が想い返される。わたしが最も回避したいのはたいせつな人に及ぶ危害。
たいせつな人の哀しみと苦しみ。涙する姿だ。
まだ全て終ってない。まだ何か残っている。気を抜いてはいけない。わたしは全力で向
き合う他に術を知らない。その積み重ねの末に蹉跌を招くとしても、全力で挑み乗り越え
る事が喪失の伏線であっても、一つ一つがたいせつな人の生命や想いを守る為なら、手抜
きも中途半端も自身に許せない。結局わたしは、定めの導く侭に最期の最期迄真の想いを
貫き通し、後で結果を噛み締める他術がない様だ。
その先に確かにわたしが残るかどうか視えないのも、当たり前か。わたしは常に己の全
てで、桂ちゃんと白花ちゃんを脅かす物に対峙する。毎回が、生命の危険で消失の危機だ。
わたしは2人の幸せに力を尽くす。全てを注ぐ。何もかもを抛つ。己の痛みは厭わない。
故に2人と幸せを共にする事は保証されない。それを求めないから己の全てを2人の幸せ
に注ぎ込める。その様にして今迄も辛うじて届かせてきたし、今後も届かせ続ける。だか
ら。
「……どうしたの、ゆめい?」
ノゾミや烏月さんの様に、今後の桂ちゃんと日々を、喜怒哀楽を共にしてくれる人がい
る事が、その明日を確実に見守ってくれる人がいる事が、わたしの安心でもある。贄の血
の陰陽という重すぎる定めを分ち合い、その宿命に力を添えて支えてくれる人のいる事が。
「ノゾミは桂ちゃんを放っておけないのね」
わたしが思索に耽り気味で、相づちを返す程でもノゾミと桂ちゃんの話は進む。ノゾミ
が桂ちゃんの返事や桂ちゃんの問の前提を問い返す等して混ぜっ返すのだけど、双方共に
どこか焦点がずれていて、見ていて飽きない。
わたしの答にノゾミは胸を反り返らせて、
「少しでも目を離したら、何をやり始めるか分らないのだもの、桂は」「ノゾミちゃん」
わたしそんな危なっかしい子じゃないよ。
抗議と言うよりわたしの同意を欲する桂ちゃんに、ノゾミは脇で困惑と言うより溜息で、
「ここ迄自覚がないと、見守る側も大変ね。
ゆめいの苦労が今になって分ってきたわ」
『サクヤさんなら、ノゾミに同意するかも』
崖から落ちたり、纏った蒼い輝きでノゾミ達に逆襲を考えたり、そのノゾミを助けてと
願ったり、鬼に自ら血を吸ってと求めたり…。
「そんな事ないよね? 柚明お姉ちゃん…」
衣の袖を引いて見上げて答を求める桂ちゃんの瞳は、幼い頃の澄んだ光その侭で可愛い。
「その苦労こそが姉の楽しみであり幸せよ」
その頭に右手を乗せぽんぽんと軽く叩く。
ノゾミがその答に瞬時目を丸くして黙る。
「……柚明お姉ちゃん、……ありがとう…」
その心地良さに目を細めつつ、ふと我に返った桂ちゃんは、答の意味を噛み締め直して、
「それって、やっぱりわたし大変って事?」
脇でノゾミが、浮いた侭で腹を抱えて笑い転げていた。それに気付いたからなのだろう。
聡い妹が間近いと桂ちゃんまで聡くなる様だ。
「大丈夫、わたしは桂ちゃんを好きだから」
足を止め、両手で身を胸元に抱き寄せて。
柔らかな肌触りと温もりをゆっくり伝え、
「桂ちゃんのそう言う処も含めて全部好き」
ね。同意を求めると桂ちゃんは無言で頷く。
『花の香り。良い香り、優しい言葉、温もり。
柚明お姉ちゃんにこうして抱き留めて受け止めて貰えるなら、答はどうでも良いかも』
桂ちゃんの心の動きは、肌で感じ取れる。
目線を合わせるとノゾミは唖然としていた。わたしは結局ノゾミの言葉を肯定し、桂ち
ゃんの意に沿わない答を返しているにも関らず、桂ちゃんはそれを受け心安らかになって
いる。この逆説は、ノゾミに今後の参考になるかも。
「さあ行きましょう」「うん、お姉ちゃん」
だんだん、山道が急になってきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ここに来てわたし達が若干無口になるのは、この道を何度も様々な立場で歩んだ為だろ
う。それは、語り合うのには不適切な過去だから。
敵と味方、操った者と操られた者、斬った者と斬られた者、封じを解こうとした者と守
ろうとした者。想い出を語る事が苦味に繋り、互いを隔てる。わたし達の過去は引き裂か
れていて、未来にしか和解の途はない。
そして桂ちゃんとノゾミ達の織りなす未来に、わたしが関れる術は殆どない……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。
「昼には何度か、来た事もあった筈なのに」
『ご神木を見ようとか、烏月さんと仲直りしようとか、『ユメイさん』に逢いたいとか』
大きな月が地を蒼く照しつつ、天を今駆け上りつつある。通り過ぎる微風に、咲き誇る
槐の白花がゆらりと揺れて散る。わたしの一部が、桂ちゃんの頬に触れ、ノゾミの肩にふ
わりと落ちる。夜の森は、静寂を保っていた。
その真ん中に鎮座して空を支えるかの様に、
「全く違う。ご神木が、息づいている……」
血筋はやはり、気質が似てくるのだろうか。桂ちゃんの感想は、十数年前のわたしのそ
れだった。ご神木は天からの青白い照射を受け、自らも何かを発し、生き生きと息づいて
いた。昼間見るご神木が死んでいる訳ではないけど、それは別の生き物だった。起きてい
る。そう、眠っているのと起きているのとの違い。贄の血の力も鬼の力も日中より夜に強
く働くけど。
『オハシラ様も、不可思議なもの。贄の血の力や、鬼に近しくて不思議はない。日中より、
夜こそその真の姿が見えても不思議では…』
ノゾミが浮いた侭止まっていた。今迄桂ちゃんの右で頭半分上辺りを進んできた現身が、
桂ちゃんの前進に置いて行かれ、斜め右後ろに変り行く。少し戸惑う様な、普段強気で通
すノゾミには珍しい弱気な顔に、振り向いて、
「ノゾミ、いらっしゃい」
ハシラの継ぎ手であるわたしが招く。だから心配はない。あなたは入れると声を掛ける。
「今のあなたは、桂ちゃんにも柱の封じにも害意を抱いてない。青珠に宿り、青珠を受け
容れ、桂ちゃんの血とわたしの生命が魂を満たしているあなたを、結界は弾かないわ」
わたしが見守る中、ノゾミが浮く事を止め、足を地につけて、恐る恐る踏み入る。ご神
木の周囲に張られた結界は、主の影響を受けた鬼を強く弾いて近寄らせない。ノゾミは千
数百年、主が封じられて以降ずっとこの結界を潜れず、ご神木に辿り着けなかった。身が
固まるのも無理はない。呪符の結界に踏み込む様な緊張感に心を身構え、思わず目を閉じ
て、
「……んんんぅっ!」
すっと通り抜けてしまう。歓迎も拒絶も何もない。その全く自然な何も起らない状態に、
「通れてしまったわ」
怪訝そうだけどそれは奇妙でも何でもない。そう思うのは主のしもべの千年を引きずる
故。
「私、本当に主さまと切れてしまったのね」
複雑な想いに、少し寂しそうな顔を見せる。千年以上主を慕いその解放を願い、封印の
崩しを望んできたノゾミが、主から切れた今になって、障りもなくご神木に近づける。求
め続ける間は決して開かれず、求めを止めてから簡単に辿り着ける。世の理とはその様な
物なのかも知れないけど。間近な巨木を見上げ、
「主さま……」
言葉に表しきれない想いが、声を中途で留める。鬼にして新しい生をくれた恩、悠久の
懐かしさ、初恋に似た仄かな想い、己の所為で封じられる事になった申し訳なさ、千年解
放できなかった無力感、今は立場を変えてしまった苦味、でも尚大切に想う気持、そして
過去への訣別。様々な想いを込めて、込めて、込めきれなくて、それでも精一杯向き合っ
て。それはご神木の中の主にも確かに届いている。
澄んだ瞳と幼い顔立ちに、悟りにも似た諦観を混ぜ合わせ、月光の照す中ノゾミは主に、
自身に対し続ける。それを見守りつつ、わたしは桂ちゃんが、ご神木に吸い寄せられる様
に歩む様に気がついた。贄の血が、その血筋を千年以上宿らせたご神木に、共鳴している。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしの内なる何かが引っ張られていた。
「わたしずっと前、ここに来たことある…」
ノゾミちゃんに手を引かれた夜よりも前。
ずっと昔から羽藤の家が祭っている、オハシラ様のご神木が生えている場所……。
【ここ、子供が来たら駄目だって……勝手に入ったらバチが当たるって……】
どうして来たら駄目だと言われたのか。
それは、その前に来た事があったから。
森で遊んでいる内に、迷ったわたしは。
夕暮れの暗がりの中、ご神木に導かれ。
ご神木の前に幼いわたしが立っていた。
頭の中に柚明お姉ちゃんの声が届いてきた。
それは耳を通しての声ではなくて直接心に。
【桂ちゃん、○○ちゃん。近付いてはダメ】
離れて。ご神木から離れて。
【○○ちゃん、桂ちゃん。そこでじっとしていて、動かないで。前に出ないで!】
あの頃から柚明お姉ちゃんは贄の血の力を扱えて、時折不思議な業を見せていた。幼い
わたしはそれを不審にも思わず、日常に受け容れていた。この時も声の届く範囲にいない
柚明お姉ちゃんが、頭の中に直接話しかけて。
【そう、その侭動かないで。ご神木に近付かないで、そこを動かないで。今行くから…】
わたしは深まり行く闇の中、頼れる物を求め太い幹に手を触れたかった。全てが色合い
を失う中で、確かな何かに触れていたかった。目前の巨木は一番確かな物だった。だから
それに触れ、触れるわたしも確かにしたかった。そうしないと闇にわたしも呑み込まれ、
消え去りそうだった。お姉ちゃんやお母さんが迎えに来てくれる迄、確かに残っていたか
った。
【ごしんぼく……?】
心に響いた声を受け、わたしは殆ど反射的にご神木に歩み寄っていた。近付くとか離れ
るとかより、ご神木と言われてそれを確かめようとしていた。柚明お姉ちゃんの心臓を締
め付けられた緊迫が伝わってきて、次の瞬間、
「触らないで!」
無意識にご神木に歩み寄っていたわたしは、柚明お姉ちゃんに後から抱きとめられてい
た。
わたしはいつの間にか、1人ご神木に手を伸ばせば届く位置まで、歩み来ていたらしい。
柚明お姉ちゃんに背後から腕ごと抱きとめられたけど、それさえ解ければわたしはご神木
に両手を伸ばしていた。その幹に触れていた。
今夜も又それを防いだ柚明お姉ちゃんが、
「お願い、桂ちゃん。ご神木に触らないで」
わたしにお願いしていた。必死の声で、顔は見えないけど、哀しみが抱き留めてくれる
肌から声から伝わってくる。何がダメかは分らないけど、どうしてダメかは分らないけど、
「うん……分った」
無意識のわたしは何をしようとしていたのだろう。何をするでもなく唯ご神木に手を…。
「ご神木に触れれば、全てが分ってしまう」
背後で、締め付けを弱めた柚明お姉ちゃんの声が静かに、その顔をわたしの背に預けて、
「濃い贄の血の持ち主は、感応の素養を持っているの。修練がなくても、力の操りを知ら
なくても、羽藤の遠祖が千年宿り続けたご神木は自然に桂ちゃんと感応を始めてしまう」
桂ちゃんの中に潜む血は気付いているのね。
触れれば失った記憶を全部、取り戻せると。
想い出したい全てを一瞬で手に入れ得ると。
でもそれは、非常な危険を伴う諸刃の剣よ。
「修練もない素養だけでのご神木との感応は、堤防もなく濁流を招くに近いの。ご神木の
千年の想いが、見た事も聞いた事も感じた事も全て無秩序に流れ込む。良い物ばかりでな
い。哀しい事、悔しい事、様々な想いが渦を巻き。己を律する修練を経ないと奔流に己を
見失ってしまう。膨大な想いの洪水が混乱を招く」