第4章 訪れの果て(戊)


「さようなら、桂ちゃん。あなただけは元気でいてね。わたしや白花ちゃんの分まで生き
てなんて、傲慢な事は言えないけれど、せめて……せめてあなたの分だけは、精一杯にち
ゃんと生きてね」

 意識が、消失する。眠りに落ちる様な感触の中、吹き抜ける自然な風を追い越して、一
陣の小さな突風が、身に吹きつけてきた……。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ただいま……」

 わたしは、小学3年生の記憶の侭の旧居の前にいた。アパート一階、一番奥の家のドア
ノブに手を掛ける。今はもう別の住人がいる筈の家を、子供特有の低い視点から眺めつつ、
やや戸惑いを憶えつつ、ドアを開いた。姿は見えないけど、懐かしい声が奥からわたしに、

「お久しぶり、柚明」「奥に、入りなさい」

「はぁい……」

 わたしは余り考えず、短い廊下を辿って奥に行く。脱いだ靴が子供の物だったり、視点
が相変らず低かったり、扉に伸ばすてのひらが小さく指が短かったりするのも気にしない。
ここに入るわたしなら、子供の身体も当然だ。

 家族みんなで夕食を食べた居間。テレビを見たり、お話をしたり、おやつも食べたりと。

 その居間に、お父さんとお母さんが並んで座していた。もう逢えない筈のお父さんとお
母さん。もう聞けない筈の2人の声。それをわたしは特段不審にも思わず、深く悩みもせ
ず、並んだ2人に間近に正座して向き合って、

「……随分、待たせちゃった?」

 少し見上げる瞳で問いかける。

「そうでもないさ。柚明にはどうだった?」

 お父さんの穏やかな問にわたしは頷いて、

「うん。早かった。終ってみるとあっという間だった気がする。何か、目まぐるしくて」

 数泊のお泊りに出掛けて帰ってきた様な。
 多くの事があって、沢山の人に出会った。
 何から語り始めたら良いのか分らない位。

「幸せな時が過ぎ去るのは瞬く間のこと…」

 柚明は、幸せだったのね。

 お母さんの言葉にわたしはこっくり頷き、

「うん。……幸せだった。幸せだったよ…」

 精一杯、頑張ったから。生き抜いたから。
 確かな身体をなくしても頑張っちゃった。

 お父さんとお母さんの望んでいた幸せかどうかは分らないけど、わたし満たされたから。
たいせつな人に出逢えて、たいせつな人を心に抱けて、たいせつな人の為に尽くせたから。
哀しみも怒りも痛みも悔いも失敗も涙も絶望も全部込みで、わたし全身全霊で生き抜けた。
行ける処迄行き着けたから。本当に役に立てたかどうか、結果は見届けられていないけど。

「心残りは、ないのか?」

 お父さんの問に、わたしは少し首を傾げた。

 ない訳ではない。何か為せるなら、まだ為したい。為さねばならない事はあった。でも、
ここにいるという事は、亡くなったお父さんやお母さんに逢えていると言う事は、もう…。

「お父さんやお母さん、妹の代りに残された生命、余さず使い切れたと想う。そういえば、
妹は? もう、逢えるんでしょう。弟も…」

 わたしが9歳になる少し前、鬼に殺されたお母さんが、身籠もっていて生めなかった、
名前も付けられなかった妹。その更に3年前、わたしが5歳の時お母さんが身籠もったけ
ど、流産して生めなかった、名前も付けられなかった弟。生れる前に生命潰え、遂に顔を
見る事叶わなかったわたしの家族。たいせつな人。そういえば、お父さんやお母さんが名
前を考えていたのかどうかも、聞けてなかったっけ。

「逢おうと想えば、いつでも逢えたんだよ」

 生きていればいつでも生命は絶てたけど。

「そして、逢おうと想えばいつでも逢える」

 ……? 想えばって、仮定形は?

「私達はいつでも待っているから」
「逢う事を望むなら今来ても良い」

 でも。お父さんはそこで言葉を切って、

「心残りは、ないのか?」

 再び問う。それは、問うてどうにもならない事ではない? 答にまだ尚意味があるの?

「心残り……、心残り……」

 心に響くのは愛しい嗚咽。

 でも、それに応える術はわたしには。
 答に少し迷うわたしに、お母さんが、

「私達が、柚明に逢いに来たのよ。
 柚明が彼岸に来たんじゃないわ」

 ここはまだ彼岸じゃない。だから妹にも弟にも逢えない。生れた事のない者は此岸には
来られない。死んだ事のない者が彼岸には行かれない様に。そしてお父さんとお母さんが、
彼岸を渡りかけたわたしを、その前に家に招いて逢ってくれたのは、わたしを留める為?

「あなたには、まだ見落しがあるわ」

 私達には、あなたの定めを変える力はない。

 死者にできる事がないという以上に、私達の力であなたの定めの末は変え得ない。でも。

「気付かせる事なら出来る。見つめ直して」

 見つめ直すのは、自身。己の訪れの果て。
 わたしの消失の定めは変え得ぬ筈だけど。

「心残りは、ないのか?」

 お父さんが、三度問う。

 それは、決して意味のない問ではない。

「お父さん、わたし……」

 心残りは、あったけど。

 見つめ返すお父さんの黒目は温かく澄んで、わたしの心に浮んだ答を全てお見通しだっ
た。

「お前自身の言葉で、お前に促そう」

 最後迄、柚明の自由意志で選んだたいせつな人の為に、柚明の真の望みを想いを貫いて。

「最期迄、たいせつな人に向き合いなさい」

 数秒でも、一呼吸でも、最後の瞬間まで。

 定めが変えられないなら、定めの枠のギリギリいっぱい迄。その限界迄。その定めの微
かな綻びにも、僅かな間隙にも、向き合って。

「その後で私達に逢いたければ逢いに来ると良い。いつでも、いつ迄も私達は待っている。
千年万年、憶えていてくれる限り、私達は柚明の心の中で、その時を待っているから…」

 それが数秒後でも拾年後でも、千年後でも。
 私達の、一番たいせつなひと。

「今はまだ尽きてない。今はまだ死に終えてない。その定めの末の瞬間迄、訪れの果て迄、
此岸の柚明は最期迄、此岸で心に確かに抱いた一番たいせつな人の為に、想いの全てを」

「私達は、最期の最期迄あなたを諦めない。
 柚明も、最期の最期迄自身を諦めないで」

 力の有無に関らず、自身の得失に関らず。
 己の限りを尽くし、想いの限りを届かせ。
 お父さんもお母さんもそう言う人だった。

 わたしもそう言う人になりたいと心から。
 心からそうありたいと想って、歩み来た。
 わたしも、自身を最期の最期迄諦めない。

 それをわたしに、気付かせてくれる為に。
 常に自分より他人を気遣い、案じ続けて。
 今迄ずっと、見守り続けて、きてくれた。

 彼岸の彼方から、生と死の境の向うから。
 そう言う人の子だからわたしもその様に。
 心を温めてくれる想いを、わたしも必ず。

 生命尽きる迄注ぎ続けられる人になると。
 訪れの果て迄愛を与えられる人になると。
 遠い昔の誓いを、最期の最期迄胸に抱き。

 乾涸らび朽ち果てても尚わたしはわたし。
 たいせつな人の幸せと守りを望む想いを。

 この想いの侭に、わたしの真の想いの侭に。
 わたしは死の瞬間迄、定めの末に向き合う。

「お父さん、お母さん、有り難う……」

 弟と妹に逢えるのは、もう少し先になるかも知れない。わたしは此岸に尚もう少し、も
う少しだけ心残りを抱くから。結果を見届ける事は叶わなくても、消えてなくなる瞬間迄、
奇跡は望まなくても想いの限りを届かせたい。

 2人の真ん中に、両方の膝に身体が掛かる様にわたしは小学3年生の身体を投げ出して、

「もう少し。もう少しだけ待っていてね!」

 数秒後か、拾年後か、千年後かは分らないけど。わたし忘れない、絶対忘れないからっ。

 温かな腕がわたしに触れてくれる。わたしの感触を、心から愛おしんでくれる。嬉しい。
触れて、触れられて。分って、分って貰える。わたしは人と、素肌を触れ合わせるのが好
き。想いと生命を重ね合わせるのが好き。それが大切な人であれば尚のこと好き。その幸
せは全身で感じたい。わたしの魂で感じたいから。

 静かに溢れる嬉し涙が一段落した頃、ふとした予感が頭を過ぎる。電話がくる。誰から
のどんな内容の電話かも、今のわたしは分る。

 涙を拭って、小さな身体を起す。
 お父さんとお母さんから、身を離す。

 温かな想い出を抱きつつ、心は現実へと。
 既に2人はわたしのその先を分っている。

「行って来なさい」「身体に気をつけて」

 2つの視線に、確かにこくりと頷いて、

「行ってきます。もう少しだけ、頑張る」

 友達の家に数日お泊りに行く時の様に。

 わたしは微かな未練を吹っ切って、お父さんとお母さんを視野に収める居間を出る。後
ろ手に扉を閉める。振り向かない。その必要はない。心は繋っている。そしていつか必ず、
その気になればいつでも、逢いに来れるから。

 小走りに電話機へと駆ける。旧式の電話機はまだ鳴ってないけど、もうすぐ掛ってくる。

 わたしはその電話を一度以上は鳴らせない。
 わたしはその相手を一秒以上は待たせない。
 わたしは鳴り響く前にその受話器を取った。

「……お姉ちゃん……柚明お姉ちゃん……」

 流れてくる想いは声は、それ以外になくて。

 わたしの最期の心残り。何をなくしようと、安らかな自身の終りを捧げても絶対応えた
い、わたしの愛おしい一番たいせつな人の嗚咽が。

 定めの末をもう一度揺り動かし、問い直し、紡ぎ直させた。桂ちゃんの『運命を変える
・改める』星巡りが、わたしの定めに絡めたアカイイトをもう一度手繰り寄せて、掴まえ
て。

 わたしを再び、現世に引き戻した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……お姉ちゃん……柚明お姉ちゃん……」

 愛おしい滴を溢れさせ、零しつつ、わたしの消えゆく現身を抱き留める桂ちゃんの傍に。

 わたしの最期を吹き散らす風より一瞬早く、自然な風を追い越して、一陣の小さな突風
が、身に吹きつける。それはわたしを消し去らず、希薄になりすぎたこの身の残滓に手を
添えて、

「この気持は絶対返すって、言った筈よ!」
「ノゾミちゃん! ……無事だったの…?」

 主とわたしの激突の余波は、霊体には甚大な脅威となる。それも考えわたしはノゾミを
叶う限り遠くに弾いたけど、それでも依代に戻れた訳ではないノゾミは決して無事では…。

 にも関らず、ノゾミは消耗も疲弊も顧みず、吹き付けてくる自然な風、今はそれさえわ
たしの致命傷になる、から薄く隔ててわたしを包み守り。満月がノゾミの力も強く引き出
す。

 わたしの関知に、微かな綻びが生じていた。
 わたしの見た分岐の末に、小さな別の枝が。
 僅かな間隙が、その向うに映る像が視えた。

 確かに関知の力も万能ではないけど。見た像が絶対不変な訳ではないけど。前提を差し
替えれば、別の分岐が生じる事はあったけど。

 関知で視た像では、わたしは最期の風を受ける前に己を諦めて消失していた。風はわた
しを消失させたのではなく、消失した残滓を吹き散らしただけだ。ノゾミはわたしの消失
をその眼で見て、届かないと諦めたのだろう。

 最期の風を受ける瞬間迄諦めなかった故に、ノゾミは疲弊した己を無理矢理奮い立たせ
て、その風を追い越しわたしを守りに駆け寄った。僅かなタイミングの差が、桂ちゃんを
含むわたし達の定めの行方を分けて決した。分岐の末に隠れた別の小枝を、掴み取らせ辿
らせた。

 瞳の焦点も合わないわたしに、ノゾミは、

「この侭消えられたら、私が堪らないのよ」

 最期迄私を庇って、全部自分で受け止めて、それで好き勝手に消えられたら、返す相手
を失った私の想いはどこに行けば良いと言うの。

 ノゾミはわたしを唯風から隔て守る以上に、桂ちゃんの反対側からわたしの身を抱き包
む。わたしの現身を外から抑え、崩れるのを阻む。これで数分位なら身も長らえるかも知
れない。

 でもノゾミの力ではわたしを留められない。彼女の力は呪縛や傀儡、蛇を生じさせる等
で癒しの力ではない。烏月さんやサクヤさんにこの身を賦活できないのと同様、ノゾミの
赤い力では守る事は出来ても癒す事は出来ない。

「桂の哀しむ様な結末は迎えないと、あなたが保証した筈なのよ。何をやっているの!」

 見えないけど、ノゾミが瞳にいっぱいの涙を浮べて、わたしを怒鳴りつける様が視えた。

 桂が哀しんでいるじゃない! 涙を流して、あなたに取り縋っているじゃない。あなた
…。

「一番たいせつな人を、哀しませているじゃない。あなたの、私の一番の人を涙させて」

 わたしを包む力は、唯守る力ではなくて、

「ノゾミちゃん、それ、柚明お姉ちゃんの」

「必ず私と桂の想いに応えると、言霊で約定したじゃない。戻って来なさい、ゆめい!」

 ノゾミが癒しの蒼い力を発現させていた。

 わたしの身を包むノゾミの力は、青珠の力、ご神木の力、贄の血の蒼い力。夕刻にはサ
クヤさんの生命を繋ぎ、昨夜はノゾミの生命を繋ぎ、一昨日は桂ちゃんの生命を繋いだ力
だ。

『身体に、力が浸透していく……でも……』

「これは唯の癒しじゃないわ。あなた自身よ。
 拒絶反応の余地はない。私は昨日あなたに癒されて以降、誰からも吸血してない。桂の
血さえ吸ってない。私の身を為す要素は全部あなたの癒し。だからこの癒しはあなた自身。
 今こそ私が、あなたにこれ迄の想いを返す。あなた自身だから、私の構成は全て羽藤の
力と想いだから、私は羽藤望と言って良い存在なのだから。あなたを癒せる、絶対癒せ
る」

 ノゾミが唇でわたしの唇から、癒しを直接身の内側へ注ぎ込む。昨夜わたしがノゾミに
為した所作を今宵は逆に。唇を奪われた。拒む術もなく承認も求めない強引なそれを、今
度は為される側になって。想いは複雑だけど、嫌う物でもない。生命が身に染み渡って行
く。

【青珠に宿った以上、私にもそれが出来て当たり前の筈よ。今後桂がケガをした時は、私
が治してあげないとならないの。あなたの治癒を観察していたのも、その為なんだから】

 ノゾミにもそれは為せて不思議ではない。

【まだ青珠に憑いて日が浅いから、繋りが足りないのね。もう少し時が経てば自然にでき
る様になるわ。感覚は、あなたに注ぎ込んだ時に、その身に染みついている筈だから……。
 町に帰った後の桂ちゃんを、看てあげて】

 唯ノゾミには出力の制限がある様で、息継ぎに口を離さなければ、それを続けられない。
荒い息に肩を揺らせつつ、尚わたしの左側でわたしを抱き留めつつもノゾミの気迫に圧倒
される桂ちゃんに目を向けてから、わたしに、

「あなたを失って悲嘆に沈む桂を、どうやって看ろと言うの。あなたが生きて残らないと、
桂にも希望が残らないのよ。悔しいけど、私じゃなくてあなたが桂の一番たいせつなひと。
 そしてもっと悔しいけど、私にもあなたはたいせつな人なの。桂のすぐ次にたいせつな、
守りたい愛すべき人なの。何とかして助けたいの。この身に宿る想いと力を全部込めて」

『いざという時には、桂以外を踏み躙る事を承知しつつ覚悟しつつ、私はゆめいを確かに
心に抱いた。可能な限りゆめいの守りを望む。叶う限り為せる限り届かせたい、諦め悪
く』

【あなたも間近まで来ているのよ、ノゾミ】

「辿り着いてしまったから! 桂とあなたに引きずられて、私もここ迄来てしまったから。
 それに昨日からあなた一体、私の想いも生命も何度救い守ってきたと想っているの?」

 千年を生きたこの私を、散々妹扱いして。
 この侭逝かれたのでは、私が堪らないわ!

 わたしは拒む術も力もない侭、ノゾミの口づけから癒しの流入を受け続け。もう片方か
らわたしを抱き支える桂ちゃんが、微かに瞳を見開くのは、その所作への驚き以上に、幾
分かでもわたしの現身が濃くなり始めた故か。

【この気持は絶対返してやるんだから。憶えていなさい。あなたが返される想いを望まな
くても断っても、絶対私が返すんだから!】

 ノゾミの癒しはわたしの癒しと全く同質だ。希薄に過ぎて贄の血も取り込めない身にも
即馴染む。取り込むのに動作が要らない、時間差がない。まるでノゾミがわたしの分身で
でもあるかの様に、想いも生命も重なり合って。

「今の私にあなたへの慈悲はないわ。八つ裂きの痛みを感じなさいな。現身がそこ迄崩れ
消滅に瀕した以上、そこから賦活する無茶を為す以上、あなたはその位の痛みを感じる筈。
 私はそれをあなたに為す、あなたに求める、あなたに強いる。あなたと私の一番たいせ
つな桂の真の望みだから。私の真の望みだから。その痛みに目を覚ましなさい。その痛み
に叫びを上げて、再び生命を掴み取りなさい!」

 ノゾミの表情は緊迫している。その様に桂ちゃんが尚喜べないのは、それが無理に無理
を重ねた無茶な挑戦と分る故だ。わたしの生命を繋ぐ事が至難な以上に、ノゾミが危うい。

「ノゾミ……駄目……あなたが、保たない」

 漸く言葉を紡ぎ出す。でも、霊体の賦活には全然足りてない。分るからノゾミは尚注ぎ
続けるけど、姿を希薄にしつつ力を注ぐけど、

「わたしは疲弊しすぎたわ。わたしの生命を戻す前に、あなたの生命を、吸い尽くしてし
まう。身を離して。この侭では、共倒れに」

 関知の像が、確かに視えない。行くべき先はあった筈なのだけど、そこに繋る道筋が…。

 ノゾミはわたしを右側から左腕で抱き支え、わたしの心臓に右手を当てて癒しを流しつ
つ、

「分っているわ、そんな事位。だからって」

 あなたを、諦められる筈がないでしょう!
 あなたが、決して私を諦めなかった様に。
 あなたが、私の妹に情を残し続けた様に。

 私に生命を注いで繋ぎ、受け容れた様に。
 桂を愛する如く私を強く深く愛した様に。

 あなたは、無理でも無茶でもやり続けた。
 あなたが注いだ想いの、何分の一かでも。
 あなたに出来て、私に出来ない筈がない。

「消失の危機を回避できれば……っっつ!」

 駄目だ。ノゾミの力がみるみる減少する。

 可愛い顔が苦痛に歪み、華奢な両肩が荒い息に揺れて止まらず、額から頬に汗が伝って。
力の消耗が限界を越えて現身を希薄にしつつある。大で小は救えても、小で大は救えない。

「ノゾミ、駄目。あなたは桂ちゃんのたいせつなひと。町に帰った後の桂ちゃんの最後の
守り。わたしの為に吸い尽くす訳に行かない。助からないわたしの為にあなた迄犠牲に
は」

 ノゾミはそれを聞き入れない。昨夜以降わたしの指示を、不平を漏らしたり拒みを口に
しつつ大抵聞き容れたノゾミが、今に限って。

 わたしが癒して生命を繋いだノゾミの力は、自身を保つ程だ。過剰な力は与えてない。
わたしの消失を繋ぎ止める力はない筈だ。わたしを無理に繋ごうと力を注げば、ノゾミが
…。

「……ぅううっ!」「止めて、ノゾミ」

 わたしに癒しを注ぐ動きを止めようとせず。
 わたしはそれを阻むのに力不足で尚為せず。
 これでは共倒れになる。ノゾミも自滅する。

 そんな状況を前にして、もう一つの覚悟が。
 運命を変える・改める者が、その心を定め、

「……ノゾミちゃん、お願い」

 大きくはないけど、意志を定めた桂ちゃんの声に、わたしとノゾミの視線が引きつけら
れた。引き寄せられる強い想いが声音に宿り。確かに強い覚悟を双眸に秘めて、わたし達
に、

「ノゾミちゃんの消耗も疲弊も承知でお願い。
 柚明お姉ちゃんを贄の血を受けられる処迄引き上げて。全快させなくて良いから。ノゾ
ミちゃんが全部の負担を負わなくて良いから。後はわたしが、贄の血をお姉ちゃんに注
ぐ」

「桂……?」「桂ちゃん」

「そこ迄で良いの。ノゾミちゃんが憶えたての癒しの力で、柚明お姉ちゃんの生命を丸ご
と取り戻すのは無理だと分るから。ノゾミちゃんが今迄で、もうかなり危ういと分るから。
 全部は求めない。わたしが、柚明お姉ちゃんの役に立てる処迄、贄の血で元気になれる
処迄引き上げて。お願い。そこ迄で良いの」

 それも大変な事だって分るけど。ノゾミちゃんも危ういならわたしの贄の血あげるから。

 もう誰も死んで欲しくない。もう誰も苦しんで欲しくない。わたしの血で何とかなるな
ら、わたしの生命全部あげるから! だから。

「お願い。わたし、酷い事言っている。ノゾミちゃんに、たいせつな人に危険をお願いし
ている。でも、どうしても助けたいの! わたしのたいせつなひとを。絶対失いたくない
ひとを。わたしの生命で救いたいひとを!」

 ノゾミの至福の笑みを、わたしは己の事として理解できた。役に立てる。大変な願いを
持ち込まれる。信じ頼られている。その場にいられる喜びを全身に感じ、心から満たされ、

「酷い事も頼めるのがたいせつな人よ、桂」

 私の生命を繋いで頂戴とゆめいに求めたり。
 私の受け容れをみんなに求めたり。そして。

「たいせつな人の酷い頼みに応えられる事が、応えられる場にいる事が私の本当の幸せ
よ」

 言い切って、鋭い目線を桂ちゃんに向け、

「私の力ではゆめいを贄の血を受けられる処に安定して保つ事は出来ない。持てる限りの
力を一気に流し込んで、一時的にその状態を作り出すのが精々。機を逃して、ゆめいがも
う一度希薄な状態に落ち込んでしまったなら、私の生命全部を注いでも二度と賦活出来な
い。分っているでしょうね。機会は一度だけよ」

 桂ちゃんの、確かな覚悟を込めた頷きが、

「わたしの手首を、ノゾミちゃんの赤い紐で切って貰って、柚明お姉ちゃんの口に注ぐ」

「桂ちゃんの失血はもう限界よ。無理は…」

 関知の像が結ぶ像は……良くない結末だ。

 ノゾミはわたしが回復すれば、桂ちゃんの全てを癒し治せると想っている。わたしの癒
しは傷を治せても、失血を補えはしないのに。そしてそれ以上に桂ちゃんは己よりわたし
を。

「無理をしてでも、助けたいの。お姉ちゃんの生命を、わたしにも救わせて。お願い!」

「あなたが賦活できればあなたの力で桂は癒せる。贄の血に加え、あなたの想いを搾り出
して自らを繋ぎ止めなさい。ゆめいの手で桂の傷を治して失血を止めるのよ。そうしない
と桂は助からない……そう、想いなさいな」

 ノゾミも危うい橋と分っている。分って桂ちゃんの想いを守ろうと、ギリギリの試みを。
強気の表情の裏に、決意の裏に失敗への怖れが滲んでいる。何より桂ちゃんの生命を危険
に導く行いに、心臓が潰れそうに縮んでいる。

 それでも尚、自身の真の想いに向き合って、自身の一番大切な人の真の想いに向き合っ
て。

 桂ちゃんの心は揺らがない。生命を、本当に生命をわたしに注ぐ積りでいる。拒ませな
い強い想いの裏には、わたしの喪失への恐怖が滲んでいて。絶対に失えないと、その生命
さえ投げ捨てる構えが視えて。止められない。ノゾミが切らねば自ら手首を噛み切る積り
だ。

 今のわたしにそれを止める力はない。なら。

『それを成し遂げさせ、三つの生命を全て繋ぐ事で桂ちゃんもノゾミも確かに助ける…』

 贄の血を幾ら受ければそれは可能だろうか。贄の血を幾らに留めればそれは可能だろう
か。少なすぎてはいけない、多すぎてもいけない。少なすぎれば、わたしの賦活に失敗し
た後で、桂ちゃんが傷を癒す術もない侭に失血死する。多すぎれば、わたしの賦活に成功
しその傷を癒やせても、失血の多さで桂ちゃんが死する。巧く折り合える地点はあるだろ
うか。あるにしてもそこを掴み取れるだろうか。ノゾミと桂ちゃんとわたしの連携が映す
定めの末は…。

「行くわよ、桂、ゆめい。良く見ていて…」

 ノゾミが再度わたしの唇を奪う。深く舌を入れて喉を繋ぎ、生命を想いを癒しに変えて
流し込む。時間差なくそれはわたしを満たし、力となって生命となって想いの核を賦活さ
せ。

 解れ掛っていたアカイイトを、つかまえる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 希薄すぎた柚明お姉ちゃんの現身が、ほんの少し確かさを戻してきた。抱き留めても動
かせば崩れた現身に、少しだけ感触が。掴もうとしても溶ける様に空ぶった絆が、微かに。

 それは尚危うかったけど。それは尚あるとも言えない曖昧な状態だったけど。それでも、

「……でも、まだ繋ってる」

 ちゃんと繋ってるのが分るよ。柚明お姉ちゃんの身体の中には、わたしの血が流れてい
る。まだお姉ちゃんは生きている。だから…。

 だから、この絆で……。

「あなたの生命を、手繰り寄せる」
「……っ、……っぅぁ、ああっ!」

 口付けて生命を注ぎ込んでいたノゾミちゃんが、お姉ちゃんの唇から唇を外すと同時に、
反り返って仰向けに倒れる。その姿も透けて、その両足は既に透き通って視えなくて。で
も、

「今よ……、腕を、出しなさい。桂!」

 とにかく今は血が必要だ。
 とにかく、たくさん、血が出る処……。

 致命傷でさえなければ、傷の深さは気にしなくてもいい。柚明お姉ちゃんが助かれば、
普通の傷は治してもらえる。

『もしお姉ちゃんが助からなかったら……』

「絶対絶対、助けてみせる」「桂ちゃん!」

 柚明お姉ちゃんを支えてない左手を、その胸の上辺りに伸ばすと、ノゾミちゃんは右目
を瞑った侭左眼を朱に輝かせ、わたしの手首の周囲に輪ゴムの様に、赤い紐を作り出して。
ノゾミちゃんも残り少ない力を振り絞って…。

 ぴしっ。手首の内側から赤い血が溢れ出す。

 ぱっくり開いた切れ目から、勢い良く血が降り注ぎ、薄れ行くお姉ちゃんの身体を叩く。

「桂ちゃん、あなたの生命を……」
「へ、平気。大丈夫。痛くないよ」

 痛くはなくて、ただ熱い。

 どんどん冷たくなっていく身体に反比例するように、手首はどんどん熱くなっていく。

「ねえ、せっかくだから、ちゃんと飲んで」

 手首を唇に押し当てる。

 柚明お姉ちゃんは、さかき旅館でノゾミちゃん達と戦って危うくなったあの時位の薄さ
に迄、その状態を戻していた。あの夜も烏月さんと話した後で戻ったわたしは『ユメイさ
ん』に贄の血をあげて、元気になって貰った。あれをもう一度為すだけで良い。あれを…
…。

 この状態も一時的な物で、お姉ちゃんにもノゾミちゃんにも、この状態を保つ力はない。
再び消滅に向けて転がり落ちる前に、わたしの贄の血で賦活させる。再び柚明お姉ちゃん
のアカイイトを握り締める。絶対放さない!

 心臓がどきんと動くたびに血があふれ出て、柚明お姉ちゃんの中に生命を注ぎ込む。

「私は一旦青珠に戻らせて貰うわ……」

 ノゾミちゃんの姿も薄くなっていた。良月を割る直前、ミカゲちゃんに対峙した時位に。
それも、安心できる状態ではなかったけど…。

「青珠は力に満ちている。私に消失の心配はないわ。それより間違いなくゆめいを賦活さ
せるのよ。失敗したら無理でも再度生命を注ぐけど、私と青珠を全て使っても成功の芽は
殆どないと想って。一度で成功させなさい」

 うん……絶対、失敗しないから。

「……ありがとう、ノゾミちゃん」
「分っているでしょうね、ゆめい」

 柚明お姉ちゃんは、わたしの差し出した左手首の傷口から流れる血に、染められている。
ノゾミちゃんは答を聞く余裕もなく消えつつ、

「あなたと私の一番の桂の、真の想いに必ず応えて。私の真の想いにも、応えて頂戴…」

 最初は口の端から零れていた血だけれど…。

「……んっ」

 赤く染まった喉を動かして、わたしの生命を飲み込んでいく。

「んっ……ぴちゃ……ぴちゃ……」

 蒼い闇と青い光を透かしていた肌に、人らしい赤みが戻ってくる。

「もう、大丈夫そうかな……」

 あの時わたしは、柚明お姉ちゃんが消えてしまうと思った。真昼の日向に置き去りにさ
れた氷の様に、ほんの僅かな跡を残して、冷たく溶けてしまうのかと思った。

 だけど、だけど……。
 今、わたしの腕には、確かな温かさがある。

 わたしの身体が、冷えているからだろうか。肌を通してじんわり染みてくる温もりが、
とても心地良かった。その温度を感じられない背中が却って寂しい。だからわたしはほん
の少し、抱きしめる力をこめた。

 きゅっ……。

 そんな音などしなかったけれど、代りに柚明お姉ちゃんの右腕が背中に回されて、寒い
背中を包んでくれた。

「桂ちゃん」「あ……もう大丈夫?」

 柚明お姉ちゃんの瞳が潤んでいた。

「もう大丈夫よ、だから桂ちゃん」
「あはは、それは良かったよ……」

 傾けた首が、必要以上にこくんと傾くと、ばさりと髪が頬に掛った。その髪の毛を払お
うとして持ち上げた手が……持ち上がらない。

「あれ? おかしい、な……」

「髪の毛、あげて欲しいの?」
「うん」

 温かいてのひらが、頬を撫でながら邪魔な髪の毛をはらってくれる。

「桂ちゃんの頬、冷たいわ……」

「そうみたい。だけどお姉ちゃんが温かいからいいや」

 いつの間にか、わたしが柚明お姉ちゃんにもたれかかる様な形で支えられていた。

「温かくて、柔らかくて、いい匂いがして。こうしていると、何だか気持よくなって…」

 寒い朝、お布団から出たくない時の気分に、少し似ているかもしれない。

「桂ちゃん、はやく傷を塞がないと!」
「ああ……そうだね、そうだったっけ」

 一瞬、傷のことを忘れていた。
 ほんと、わたしってもの忘れ激しいなぁ…。

「いいから、早く」

 傷を塞ぐように、ぴったり押し当てられたてのひらの温かさと、傷口の熱さが溶けあう。

 熱めのお風呂のような、気持ちいい温度。

「ん……わたし、何だか眠いかも……」

 まぶたが重くて、あけておくのが億劫になってきた。だけど寝るには少し寒い。

 温もりを欲しがるわたしは、入らない力を腕にこめて、お姉ちゃんにくっつこうとする。

「ねえ、柚明お姉ちゃん……」
「桂ちゃん……?」

「なんだかね、幸せな夢を見られるような気がするんだ……」
「……桂ちゃん!」

 ぎゅっと強い力で、お姉ちゃんがわたしを抱きしめてくれた。

「ちょっと痛いかな。痛いから夢でも幻でもないよね……」
「そうよ。だから桂ちゃんも……」

 遠のいていく柚明お姉ちゃんの綺麗な声は、子守歌みたいに耳に心地よく響いて。わた
しは軟泥のようなまどろみに沈んでいった。

 ああ、あったかいなぁ。

 しあわせだなぁ。

 明日起きたら、何をしようか。

 明日はお祭りがある日だから、おそろいの浴衣を探して一緒に夜店を見物しようか……。

 わたしは、明日を夢に見る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「桂ちゃん……必ず、生命を繋ぐから…!」

 この分岐の末も視えていた。と言うよりこの地点を通らなければ、わたしに生命を注い
だ桂ちゃんは救い出せない。必須だった。桂ちゃんはわたしを助けに己の生命を注ぎ込む。

 既に希薄に過ぎたわたしにそれを止める術はなかった。そして、ノゾミも含む癒しと贄
の血の賦活で、わたしを含む3つの生命はまともには繋げない。足りない事もわたしには
視えた。それで尚桂ちゃんもノゾミも退かないなら。成し遂げさせる他術はない。まとも
な方法ではなくても、桂ちゃんの生命を繋ぐ。

『わたしが自身を諦めなかったのは、最期の心残りの為。たいせつな人の涙を捨て置けな
かった為。それで桂ちゃんが生命を失うなら、わたしは一体何の為に此岸に留まったの
か』

 たいせつな人の想いを守り、たいせつな人の生命を守る。わたしは全部守るから。必ず
全部守って、望みを願いを明日に繋げるから。

 口付けて、唇に唇を重ねてわたしの全てを注ぎ込む。癒しの力で今の桂ちゃんに為せる
事に限りはあったけど、それ以上に別の物も。届かせる術は他にある。今こそ漸く視通せ
た。

 傷は塞げる。今のわたしに左手首の傷を塞ぎ止める事は難しくない。問題は血の不足だ。
生命を保てない程桂ちゃんの失血は多かった。わたしの癒しでも失血は補えない。ならば
…。

「残された少ない血で、桂ちゃんの生命を繋ぎ止める。血が自然に増える迄、生命を保た
せれば良い。通常この量の血で人の生命は繋げないけど、通常でなくすれば、何とか…」

 桂ちゃんの身体にわたしの力を通わせる。
 癒し以上にその身体と魂に感応を及ぼし。
 桂ちゃんの身体に眠る可能性を呼び起す。

 真弓さんの血を受けて、白花ちゃんと同じ血を持つ桂ちゃんには、可能な筈だ。感覚は
わたしが知っている。感応を使って桂ちゃんにその感触を流し込み、身体と魂に馴染ませ。

「烏月さん、白花ちゃん、力を貸して…!」

 桂ちゃんの未来から生気を借りて、桂ちゃんの今を繋ぎ止める。今暫くの危機を乗り越
えれば良い。後に来る反動はわたしの癒しでカバーできる。今数時間の生命の危機を凌ぐ。

 桂ちゃんはその術を知らず、意識がない為、ノゾミの傀儡の術を盗用し、桂ちゃんに押
し入って心と身体を操る。それも後に負荷を残すけど、今は目前の生命を繋ぐ。それを為
すわたしの力は、サクヤさんの血で増している。

「今少しの間、桂ちゃんの生命を繋がせて」

 桂ちゃんが結んだ人の輪が、今その生命を繋ぎ止める。贄の血の陰陽という重い定めは、
桂ちゃんに哀しみと喪失を招いたけど、その想いを絡めて生じた絆は今その生命を繋ぐ為
に使われて。奇跡は望まない。為せる限りを。

 わたしの力だけで今の桂ちゃんは助けられない。わたしは窓口になる。桂ちゃんに心寄
り添わせたわたしは、桂ちゃんを巡る人の輪の中心に一番近い。全て見てきた。桂ちゃん
を想う様々な人々の力を、わたしが届かせる。

 わたしが視通せた分岐の末に隠れた小枝はここにある。必ず掴む。これを視通せたから、
わたしは桂ちゃんの悲嘆を避けようと、己を保つ途を選んだ。そうでなければわたしは…。

 抱き留めて、冷たい肌をこの体温で暖める。
 心から心へ、治って欲しい想いが流れ行く。
 素肌から素肌へ、わたしの生命を流し込む。
 桂ちゃんを想う、多くの力と心を届かせる。

 桂ちゃんは、例え彼岸の向うへ連れ去られても、わたしがこの身で取り戻すから!

「目を開いて、桂ちゃん……」

 今はあなた1人の為にわたしがいる。あなたを救う為だけに、この存在がある。滅びか
けた想いを、消滅の淵から無理に引き上げた。幾つ世の法則を打ち破っても構わない。ど
んな代償も喜んで払う。何を引換にしても良い。だから必ず一番たいせつなひとを助けさ
せて。

 眠り姫が瞳を開いたのは、わたしが感応と傀儡と癒しを併用して流し込み、生気の前借
りを為させて、十数分経過した後の事だった。

 夢現に唇を重ねたわたしの瞳を覗き込んで、嫌うでもなく恥じらうでもなくぼうっと数
十秒間見つめ合う。漸く少し状況を想い返した桂ちゃんの喋りたい意志を感じて、唇を外
す。

「柚明お姉ちゃん……大丈夫……?」

 抱き留められている事に気付いて、その言葉が適当ではないと気付いた桂ちゃんだけど。
その表情に浮ぶ想いは、読む迄もなく視えた。

『かなり、力を使わせちゃったかも』

 わたしは言葉の答の代りに強く抱き留める。
 頬に頬を寄せ合い、確かな感触を伝え合う。
 本当に己の心配が必要な時に人を気遣って。

「柚明お姉ちゃん。わたし、また……」

 何か言いかけるけど全部言わせない。

「良かった……帰ってきてくれて……」

 必ず生き残ってくれると信じていた。

 まだ掠れたその声に、叶う限りの笑みで、

「桂ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま、柚明お姉ちゃん」

 静かな笑みがわたしの全てに報いてくれた。

 わたしの最期の心残り。何をなくしようと、安らかな自身の終りを失っても絶対応えた
い、わたしの愛おしい一番たいせつな人の笑みが。

 この笑みが残る限り、わたしは何も残らなくて良い。この笑みの為に、わたしは何度で
も身を抛てる。尚己に残る全てを捧げられる。悔いも心残りもない。尽くさせて。わたし
の全てを永遠にこの笑みの苗床に。それがわたしの幸せで、真の想いで真の願いで真の望
み。

 暫くは言葉もなく、唯2人抱き合っていた。

 どんな言葉も及ばない。届かない。だから、唯温もりを交わし合い、お互いの無事を確
かめ合って、喜び合う想いを伝え合って。後はまだ少しふらつく桂ちゃんが伸ばしてきた
腕を巻き付かせ、代りにしっかりと抱き留めて。

 言葉以上に瞳は物を言う。言葉以上に肌を通わせる事で心は伝わる。その事をわたしは、
昔お父さんの傍で目の前で見て知った。そして今それを一番たいせつな人に為す事で伝え。

「正解。わたしの人生は正解だった……」

 一番たいせつなひとに巡り会えたこと。
 一番たいせつなひとを心に抱けたこと。
 一番たいせつなひとに身を捧げたこと。
 一番たいせつなひとを守り救えたこと。

 哀しみも怒りも痛みも悔いも失敗も涙も代償も全部込みで、わたしは本当に幸せだった。

「そして今後もわたしは正解を求め続ける」

 より強く、より堅く、温かなわたしの幸せを抱き締めながら、わたしは最後に為すべき、
為さねばならない事に向き合う覚悟を固めていた。月はもう、空の彼方に傾きかけている。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明お姉ちゃん、またご神木に戻るの…」

 わたしが抱擁の力を抜いて瞳を見つめると、その意を察した桂ちゃんがわたしを見上げ
正視してきた。愛らしい瞳が宿す願いは分るけど、わたしはそれには応えられない。わた
しの一番は桂ちゃんであり白花ちゃんでもある。これはわたしの選んだ最善だ。外せはし
ない。

 わたしは愛すべき問に常に事実で応える。
 頷いて、正視して見上げる黒目を見据え、

「桂ちゃんを置いて去る訳じゃない。見放す訳じゃない。たいせつに想う故の選択なの。
そして白花ちゃんもわたしは決して諦めない。分って欲しい。分って貰いたい。だから最
後迄付き合って。わたしの想いと共に来て…」

 わたしの想いを最後迄寄り添わせて欲しい。桂ちゃんの想いに最後迄寄り添って貰いた
い。納得し理解して貰いたい。そうせねばならない定めでも桂ちゃんの嘆き悲しみは避け
たい。理屈より事情より、気持を伝えて分って貰う。

 桂ちゃんが大人しく手を受けたのは、わたしの引き留めが白花ちゃんに封じを担わせる
と分る故だ。どちらかが担わねばならぬなら、片方に駄目と言い難い。わたしが1人封じ
に戻るなら、明確に『いや!』と言えたのかも。

 わたしは己の左手に柔らかな右手を受けて、ご神木には己の右手を伸ばし、中の白花ち
ゃんに感応を試みる。わたしが存在を繋げた以上、彼が継ぎ手を担う必要は消失した。わ
たしがご神木に戻るから、あなたは外に出て…。

 ぴしっ。ご神木の拒絶を込めた弾く感触に、

「白花ちゃん?」「ケイくん……」

 少し位弾かれても、手を放しはしないけど。

 直接ご神木に触れてない桂ちゃんも、わたしを通じて感応している。触れるだけで想い
は通じ合う。戸惑うわたし達に白花ちゃんが、

『もうゆーねぇはオハシラ様じゃない。僕が継いだんだ。オハシラ様の交換は終っている。
ご神木も受け容れてくれた。今や封じの要は僕だ。ゆーねぇはご神木との繋りを断ち切っ
て、普通の暮しに戻って……桂と一緒にね』

 確かにご神木は、白花ちゃんを受け容れていた。移行はまだ不完全だけど、わたしの時
と同じ様に、それ以上に順調にご神木の封じに浸透しつつある。でも、だからと言って…。

「そんなことできないわ」

 わたしも尚、ご神木との繋りは切れてない。今ならわたしがご神木に戻れば、白花ちゃ
んは人に戻れる。ハシラの継ぎ手は1人で良い。これはわたしが望んで掴んだ定め。白花
ちゃんに負わせられない。こうしてわたしが存在を繋げた以上、鬼神の相手はわたしの責
務…。

 それに桂ちゃんとの日々の喜怒哀楽の共有はわたしが望むべき幸せではない。それは白
花ちゃんや、烏月さんやノゾミや葛ちゃんの。

『いや、桂にはゆーねぇが必要なんだよ。サクヤさんや友達もいるけど、一緒に住む家族
が必要なんだ』

 母さんを失った桂の寂しさは、家族にしか埋められない。その寂しさは僕が一番良く分
るから。そして、ゆーねぇだけが桂の心の震えと涙を止められるって言う事も、分るから。

 自身の寂しさを埋める事を棚上げして微笑みを浮べつつ語る白花ちゃんに、わたしは尚、

「白花ちゃんは血を分けた兄妹よ。それも双子の」

 それを埋め合えるのは、わたしよりむしろ。

『だけど僕はゆーねぇと違って、鬼として沢山の過ちを犯しているんだ。それが奴の分霊
の所為とはいえ。そんな僕が今更一般人のふりをして桂と暮すなんて、できる筈がない』

「でも……」

『それにこの侭無事に帰ったら、首を持っていかれる事になっているんだ』
「あ、烏月さんと……」

 桂ちゃんの声が挟まった。

『鬼切部に二言は通じないだろうし、僕にだってプライドがある。一番丸く収まるのが、
僕がオハシラ様になることなんだよ』

「白花ちゃん……」

 それはさせられない。白花ちゃんに鬼神の相手を未来永劫任せるなんて。ご神木から力
を注がれて無限に治るとはいえ、否、無限に治って死に絶えないからこそ、永遠に終らな
い身を引き裂かれ続ける苛烈さは、鬼切部の修行をこなした彼にも簡単に受け入れられぬ。
翻意を促すわたしに、白花ちゃんは微笑んで、

『万が一鬼切部に見逃されたとしてもこの身はもう自力で生命を繋げない。四六時中贄の
血の力を流し込んで貰わないと、満足に息もできない。それにゆーねぇがオハシラ様に戻
ってしまったら、誰が僕の生命を繋ぐの?』

 即座に跳ね返せる言葉が出てこなかった。

『僕とゆーねぇが同時に生きて存在しないと、僕の生命は後数ヶ月だ。僕はもう単体では
生存できない。身体も魂も限界だ。ご神木に宿る他に僕の存在を保つ術はない。むしろご
神木に、存在を繋いで貰えるというべきかな』

「夜毎わたしが現身を取って生命を注ぐわ」

 わたしは本気でそうする積りだったけど、

『ゆーねぇの疲弊以前に、封じが危うくなる以前に、僕が昼の間生命を繋げる保証がない。
本当に二十四時間付き添って貰わないと、この身は完全に電池切れなんだ……分るよね』

 その通りだった。白花ちゃんはもう単体では生命を繋げない。その身に宿る生気はほぼ
使い尽くされた。身体も魂も燃え尽きている。鬼を取り去るのが遅すぎた。

 でも、未来永劫ご神木に彼を捧げる事は…。

 わたしの一番たいせつな人にあの責め苦は負わせられない。あの苦しみは与えられない。

「主、応えて。主っ!」

 わたしは白花ちゃんではなく、ご神木の鬼神に訴えかける。封じに包まれた主は外との
接触は不可能だけど、わたしはハシラの継ぎ手で正確には外界ではない。わたしなら主の
答も求め聞けた。右手をご神木に強く当てて、

「あなたの相手はわたしです」

 わたしが戻るから、彼を解き放って下さい。

 彼は継ぎ手ではない。わたしがまだ存在しているのに次が居る筈がない。彼は偽物です。
封じの外に弾いて、外に追い出して。わたしが、悠久にあなたの相手をしますから。あな
たの憤怒を、未来永劫受けますから。どうか。

「きゃっ!」

 返ってきたのは、拒絶を込めた弾く意志で、

『お前には堪忍袋の緒が切れた。三行半だ』

「みくだり、はん……」「主っ!」

 桂ちゃんが復唱する脇で更に迫るわたしに、

『鬼神の封じを軽んじるのにも、限度がある。わたしを最優先に考えねばならぬ封じの要
が、ハシラの継ぎ手が、わたし以外に大切な人を心に抱き、神の後妻の責務も果たさずに
怠り、夜な夜な封じを外し、その上勝手に消え掛る。槐に寄るな。お前に継ぎ手の資格は
ない!』

「主……? 待って下さい、主っ!」

 ご神木の幹の上で手を弾く感触が、

『鬼神は一度捨てた物を拾いはせぬ』

「まさか主、あなた、わたしに……」

『継ぎ手の資格は失ったが、お前は贄の血を濃く持つわたしの好餌だ。今度こそ封じを解
いてお前を奪い貪りに行く。心に留め置け』

 捨てるという名目で、ご神木に繋がれる定めからわたしが剥がされる様を傍観する気だ。
白花ちゃんを今責め苛んで追い出す事をせず、わたしが封じの要に戻れなくても構わない
と。

 わたしが継ぎ手を担う限り、主は自由とわたし両方は手に入らない。封じを壊せばわた
しが滅びるし、ご神木での日々は封じの中だ。壊す前にわたしがご神木から離れれば幸い
と。

 否、それも決して嘘ではないけど。それ以上に主は、わたしに与える自由を優先して…。

「主は、お姉ちゃんの幸せも、望んで…?」

『わたしは受ける者に意志は求めない。要るのは唯、わたしの意志と応える物の存在だけ。
応える物に意志など不要。神の意に応えぬ等許されぬし、応えぬ事等できぬのだからな』

 理解も納得も神の所作には不要だと、主はわたしの訴えを聞き入れない。真っ直ぐ精悍
な赤い瞳をわたしに向けて、返される想い等求めないとわたしの意志を踏み躙る。

「待って、主っ。白花ちゃんを、返して!」

『ふん……。元々のハシラも、継ぎ手も、余りにか弱くて潰し甲斐がなかった。貴様は鬼
切りの技を学んだとか言っていたな。少しは、わたしを楽しませてくれるのだろう、小
僧』

 鬼神の眼光を、白花ちゃんは跳ね返して、

『思い切り楽しませてやるよ。今迄の想いを全部込めて。お前を封じの中で更に鬼切りで
叩き切り、その魂の償還をもっと早めてやる。お前は封じの中から逃げられない。僕の鬼
切りで未来永劫、切り刻まれ続けると良いさ』

『少しは活きの良い贄だな。これなら、多少は楽しめるかも知れぬわ……来い、小僧!』

『行くぞっ、千羽妙見流……』

「待ってっ!」

 わたしが、わたしが担わないと駄目な役を。

 ご神木の中で2人の意識が、身構えて向き合いつつもわたしの叫びに動きを止めた図を、
桂ちゃんもわたしを通じて視ている。主は興ざめした感じで構えを解き、その場に座り込
んで背中を向けて何も語らず、白花ちゃんは、

『僕に譲る気はないよ』

 ご神木の中から正視してわたしを見上げる。

「羽藤の血筋は頑固の血筋でもある。ゆーねぇもそれは、自身と桂で分っているだろう」

 お母さん曰く『羽藤(はとう)の血には頑固の血も流れているの。言い出したら聞かな
いって言うのは、私の母さんも正樹も本当』。わたしも桂ちゃんも白花ちゃんも、間違い
なく贄の血以上に、濃厚にその血を引いていた。

『今ご神木の中にいるのは僕だ。ゆーねぇが封じを奪うには、僕を退かせないといけない。
 ゆーねぇに僕を倒して通る覚悟はある?』

 ご神木に宿った白花ちゃんは、いるだけで封じを保つ。説得に応じてくれないなら、退
いてくれないなら封じは今の侭だ。彼に譲る気がないなら、倒す以外に術はなく、わたし
に彼と戦うなんて言う選択がある筈もなくて。

 少し前とは、逆の状況ができあがっていた。

『それじゃあ、そういうことだから』

 定めは決まっていた。差し替えられていた。

 白花ちゃんの星は『定める者・決する者』。彼の行いが、その勝敗や成否が、運命の分
岐の中から大きな流れを定め決する。桂ちゃんの星にも匹敵する、行く末を定める星回り
…。

 彼の確かな意志をご神木が受け容れた以上、わたしには如何ともし難い。桂ちゃんが徹
底して反対しない限りは、わたしの消失を拒んだ位の強い想いで定めをねじ曲げない限り
は。

『ゆーねぇ、受け取って』
「はぐっ……こ、これ?」

 意識と同時に、ご神木に触れた右手から流れ込む膨大な力に、わたしは気を失いかけた。
崖下に落ちた桂ちゃんの血を大量に取り込んだ時に並ぶ、それより大きいかも知れない…。

 ふらつくわたしを気遣う桂ちゃんにも向け、

『僕の身体を為す要素を全部力に変えた物だ。ゆーねぇが拾年前にやった様に、その侭同
化に任せればご神木の養分になって封じに転用されるけど、そうなる前にゆーねぇに渡
す』

 濃い贄の血以上に、濃い贄の血の生命全部だ。それだけあれば、ゆーねぇの身体を再構
成出来る。肉の身体を取り戻せる筈だ。僕には不要だから、ご神木にも必須ではないから。
肉の身体を戻せれば完全に人の暮しに戻れる。

『癒しの応用で身体一つ丸ごとゼロから作る行いだけど、僕は感応で方法は取り込めても
自身の中で理解できてないから実際には暫く出来ないけど、ゆーねぇなら、出来るだろう。
 僕たちは近い血縁だし、ゆーねぇには何度か血を注いだから既に身の構成も近しい筈だ。
拒絶反応は多分ない。身体一つ作るのは大変でも、僕の方が血が濃いから素材は足りる』

 大なら小は救える。逆に崩れかけた白花ちゃんの身体を取り戻すには、恐らく足りない。
彼が意を決した瞬間、全てはその定めに向く。わたしは所詮、運命を大きく変えられるポ
イントにはいなかった。為せる限りを為しても、届く処に限界があった。そのポイントに
いたのは、拾年前も今も桂ちゃんと白花ちゃんだ。

『桂もそれでいいよね?』
「だけど……。いいの?」

 桂ちゃんの戸惑いにも、

『僕がそう、望んでいるんだよ』

 白花ちゃんは心からの笑みで応えた。

『僕の真の望みは一番の人の幸せだったから。主を封じから解放して切るのも、ゆーねぇ
をご神木から解き放つ事も、桂を暗闇のまゆから救い出したのも、たいせつなひとの幸せ
に不可欠だったから。目的が大事なんだ、手段は拘らない。主を倒す為に封じを解く必要
は、なくなった。後は僕が封じの中で主を切るよ。
 ゆーねぇが命懸けで、本当に相殺して僕に宿った主を消してくれた。それで漸く、僕は
封じの要を継げる様になった。桂とノゾミでゆーねぇの生命を繋げると想わなかったけど、
本当にありがとう。僕に救えなかった、一番たいせつなひとを助けてくれて。僕は結局大
事な処で役に立てなかったけど、せめて…』

 桂と日々平穏に暮らせる幸せを遺したい。

 僕の単独では保てない生命がちょうど良くご神木に収まる事で、桂が一番たいせつなひ
とと共に暮らせ、ゆーねぇが一番たいせつなひとと日々の喜怒哀楽を共に感じ取れるなら。

『2人の幸せが、僕の幸せでもあるから…』

 そして僕の幸せを真に想ってくれるなら。

『桂を日々しっかり見守って、2人で幸せを掴んで。ゆーねぇの幸せが、僕の幸せだよ』

 わたしの幸せは、あなたの幸せ。
 あなたの幸せは、わたしの幸せ。

「わたしが桂ちゃんと幸せに暮らす事が、白花ちゃんの幸せにもなる。それで良いの?」

 白花ちゃんと桂ちゃんの幸せが、わたしの幸せだった。それを白花ちゃんに当てはめて
良いのだろうか。わたしの望む2人の幸せに前提や条件はない。2人が幸せならそれで良
かった。白花ちゃんも同じで良いのだろうか。

 感応による意志の答はなかった。代りに。
 月の光がご神木を青白く染め上げて……。

 いや、槐の木自体が青白い光を放ちはじめ、天を衝く光の柱と化した。視界から溢れる
程の輝きに、見上げる桂ちゃんの呟きが、

「オハシラ様……」

『光り輝く巨大な柱は、まさにそう呼ばれるのにふさわしい神々しさをもっていた。
 そういえば、日本で神様を数える時に使う数量単位は「柱」だった筈』

 ご神木に白花ちゃんが浸透する。わたしがかつてそうだった様に、彼が木になっていく。
わたしの問いかけへの答が、この所作だと…。

「白花ちゃん、本当にいいの?」

 わたしは尚も問わずにはいられない。わたしがご神木に身を捧げたのは、白花ちゃんと
桂ちゃんに尽くせる事自体が幸せだったから。2人の守りになれる事が、役に立てる事が
幸せだったから。でも白花ちゃんは、若すぎる。自身の幸せを願って当たり前の年頃なの
に…。

『いいんだよ。何か誤解があるようだけど、本当に僕はオハシラ様になりたくてなるんだ
からね』

「どうしてって……訊いていいかしら?」

 もう答は視えていた。白花ちゃんの性格は分っている。白花ちゃんの発想は読めている。
白花ちゃんの行いは止め得ない。白花ちゃんがわたしをたいせつに想ってくれている事も。

 わたしの一番の人は、わたしを一番に想ってくれていた。だからわたしが担うべき責務
を担おうと動く。誰かに負わせたくない負担をわたしに負わせまいと動く。彼の微笑みは
嘘ではない。わたしが封じを担う時の微笑みが嘘ではなかった様に。心が満ち溢れる程に
嬉しいけど、言葉も浮ばない程に嬉しいけど。

『僕が負けず嫌いの頑固者だからさ。オハシラ様になる一番の目的は、主の奴に仕返しを
してやるためなんだしね』

 え? 桂ちゃんの問い返しに、

『普通にやり合ったら勝てそうにもないことが分ったから、僕が張り切って今までの三倍
ぐらいの勢いで力を削いでやるんだよ』

 そうだね、あと千年もあればいい勝負ができる様になるんじゃないかな

 それも彼の本心だから。嘘ではないから。

「わ……」

 桂ちゃんの呆れた様な呟きに白花ちゃんは温かな笑みを浮べ、わたしに視点を向け直し、

『ゆーねぇの社会復帰の方が大変だろうけど、頑張って』

 何と賢く強く、優しい子。
 わたしの一番たいせつなひと。

 わたしを愛しわたしの為に戦ってくれた人。
 生も死も人である事も全て捧げてくれた人。
 わたしが心の底から愛した、素晴らしい人。

「……正解よ」

 それが白花ちゃんの真の想いなら全て正解。

 白花ちゃんを守るという事は、その身体や生命と同様に、その心をも守る事。その想い
も守る事。そのたいせつな物迄守る事。それがわたしと桂ちゃんの日々の幸せであるなら。

 彼も又、たいせつな人を愛し守りたかった。

「白花ちゃんの、真の想いの侭に」

 受け容れよう。わたしはこの幸せすぎる定めを受け容れよう。わたしは白花ちゃんから
桂ちゃんを託された。その日々の幸せを支えつつ守りつつ、わたしもその幸せを享受する。
それが彼の真の望みなら。わたしは彼に沢山幸せを報告できる様に。それが彼の想いを守
る事になる。それが彼の愛に応える事になる。

「その辺はサクヤさんに巧い方法を習うわ」

 生贄になってから戻った者など神話の昔から例がなく、わたしの行く末が不確かな事も、
サクヤさんの血を受けたわたしが最早元通りには戻れない事も、白花ちゃんは知っている。
それもわたしの定めで選択の末だ。日々の幸せを掴み取れた上の代償なら、身に受けよう。

『そうか、なら安心だね』

 オハシラ様の輝きが脳裏にも強まっていく。
 強い光に瞼の裏の像がかき消されていく…。

「ケイくん……」

 ご神木に浸透し人の意識が消えゆく様に桂ちゃんが、不安げにわたしの左手を握る。そ
れはご神木に宿るハシラの継ぎ手の常だ。白花ちゃんは移行中だから、率先してその状態
に己を持っていかないといけない。経験者が視て心配は要らないと、その右手を握り返す。

 その様を感じ取れたのか頭の中に響く声が、

『そんな顔をする必要はないよ、何も消える訳じゃないんだから』

 昔から、妹想いのお兄さんだった。
 今も尚、妹想いのお兄さんで、多分今後も。

『今までゆーねぇがそうであった様に、在り方の形が変るだけなんだから』

 微笑みの印象が桂ちゃんの心を温めて行く。

『それじゃあまた……』

 縁樹の導きがある時まで。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月は傾いて西の地平に消えて行き。
 夜が幕を引いて鬼の時は終り行く。

 鮮やかに色付き始めた世界の中で、わたしはご神木を背に、桂ちゃんを膝枕で休ませ再
度癒しを流し込みつつ、己を作り替えていた。

 取りあえず昼の光に耐える濃い現身を作る。次に身体の内、陽光の直接及ばぬ骨や神経
から霊体を確かな肉の身体に作り替え差し替え。簡単とは言えない。昼夜兼行で数週間は
掛る。

 全くない状態から作る為、内臓も骨も筋肉も血管も、身が全て出来て繋る迄は神経剥き
出しで痛みも激甚だけど。その痛みは確かな肉の身体を持つ故で、幸せの証し。座する間
も歩く間も、桂ちゃんに受け答えする間も痛みを気付かれぬ様に、平静にそれを進め行く。

「柚明お姉ちゃん、大丈夫なの?」「ええ」
「もう、消えちゃったりしない?」「ええ」
「一緒に町の家で暮してくれる?」「ええ」
「これから、ずっと一緒だよね?」「ええ」

 それが桂ちゃんの幸せと守りになる限り…。
 わたしは桂ちゃんの問に常に事実で応える。

「じゃあ、ずうっといつ迄も、一緒だよっ」

 わたしの、永遠の正解だから。

 膝の上で首を転がして、わたしの腹に顔をつけ、両の腕を巻き付かせてくる桂ちゃんに、

「幸せな時が過ぎ去るのは瞬く間のこと…」

 終ってしまえばあっという間の歳月だけど。
 だから今この時を確かに強くしっかり刻む。
 後から幾度振り返っても、思い返せる様に。

「これからを、最高に輝かしく甘い日々に」

 わたしは桂ちゃんの真の想いに、真の願いに、真の望みに、常に全身全霊で応え続ける。

 わたしの全ては一番たいせつなひとの為に。
 死んでも生きても、それこそわたしの幸せ。
 最初から最期迄、やはりそれは変る事なく。

 捧げる事・尽くせる事自体が、幸せだから。
 わたしに生贄以外の生は多分ないのだろう。
 捧げる対象が望ましいか否かの違いだけで。

 わたしこそ真に救う術のない人間なのかも。
 でもそうである今がこの上なく満ち足りて。
 何かを喋るかの如く明滅する青珠を拾って、

「そろそろ、行きましょうか」「……うん」

 朝日に霞んで見渡せない道は、わたし達の先行きだった。関知の力も全てを見通せはし
ない。常に未来は不確定だ。そして人は大概見通せぬ侭で歩み出す。太陽が昇る眩しい場
所に向くわたし達の様に。確かな物など殆どないと承知の上で、変え得ぬ過去を心に抱き。
過去だけは、定まった過去だけは確かだから。

 未知に踏み出すわたしを支えてくれるのは、過去の自身。今迄のみんな。心に刻んだ想
い。そして傍らにいてくれる一番たいせつなひと。わたしを今迄支えてくれた人。生きる
値と意志を与えて、わたしをわたしにしてくれた人。わたしの全てを捧げ尽くして守る、
愛した人。

 あなたとふたりで行きたい。
 光の射し込むこの道を。

 大地と空とが交わる。
 見果てぬ遠くを目指して。

 2人いつまでも、笑い合って、涙を零さず。
 抱いた温もりに、満ちた幸せを、同じうた。
 口ずさんで、声重ねて……。

 桂ちゃんのお腹の虫が、わたし達の交わす会話に、声を重ねてくれたのは道半ばだった。

「もう1人の桂ちゃんもお目覚めみたいね」
「だって昨日昼から何も食べてないんだよ」

 お腹の発言の擁護にと桂ちゃんが焦り出す。表情豊かに一生懸命弁明する仕草が愛らし
い。自然に笑みが零れ出て、桂ちゃんの和みも誘う。お屋敷に帰ったら、唇ではなくわた
しの朝ご飯でその口を塞ぎ、身体と心を満たそう。

 陽光と風に飛ばされた槐の白花の花吹雪の中、わたし達は手を繋ぎ心を繋いで歩み行く。
たいせつなひとを確かに抱き、訪れの果て迄。

 日常の始りに、劇的は要らない。


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 ご完読有り難うございました。

 許されるなら、この作品を麓川智之氏に捧げます。


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