第3章 望み承けて繋いで(丙)


 だからこそ、わたしは悠久にあり続けると。未来永劫この侭一緒の時を過し行くと。消
えはしない、朽ちはしない、枯れ果てはしない、なくなりはしないと笑みと共に確かに伝
えて。

「サクヤさんはサクヤさんの侭でいつ迄も」

 その侭でいて欲しい。強く美しく、純情で臆病で、可憐で義理堅い、浅間サクヤの侭で。
わたしのかつて一番だった、その侭の笑みで。わたしの求めに、サクヤさんは温かな目線
で、

「まあ、あんたもあたしも当分の間はこの侭変らないというか、変れないんだろうけど」

 それが希望となる事もある。オハシラ様になって、悠久の時を過す定めの故に、わたし
には老いも天寿もなくて、サクヤさんと久遠の時間を共有できる。禍福は糾える縄の如し。
運命の巡りの輻輳は、時に人の想像を超える。

「一番ではないけど、それもわたしの幸せ」

 この様に現身を作る事は困難でも、わたしは百年先でも千年先でも、サクヤさんの問に
答を返せる。サクヤさんの深い孤独を拭える。たいせつな人の子々孫々を、一緒に見守れ
る。

「サクヤさんと、共に永劫を過せるから…」

 わたしからその話を振ると、サクヤさんは、

「……あたしはあんたがオハシラ様になって、ほんの少しだけ、嬉しかったんだよ」

 常になく気弱な声で、俯いて答えてくれた。

「酷い話だろう? あんたの不幸をあたしは喜んでしまったんだ。悪い事と思いながらも、
考えちゃいけないと思いながらも、あんたが、あたしと同じ悠久を生きてくれるんだっ
て」

 こうやって肩を並べて戦ったり話したりできる日が来ると迄は、思っていなかったけど。

 あんたが同化したご神木を見た時、哀しみと怒りの奥に、微かに喜びを抱く自分にあた
しは気付いたんだ。あんたの犠牲を哀しみを、痛み苦しみを、あたしは、喜んでしまった
…。

「サクヤさん……」

「酷い、酷い奴だろう。あれだけ綺麗な想いを寄せられたって言うのに、あれだけ純粋に
愛してくれたって言うのに、あたしは事もあろうにそのたいせつな人の不幸を、喜んで」

 あんたのお陰でみんなは日々を繋げたのに。あんたのお陰であたしも桂や真弓を訪れ食
事に出かけたり、遊びに行けたり、笑って日々を過せたのに。桂の微笑みや成長を、叱っ
たり褒めたり嘆いたり、見守って来られたのに。

「あんたの味わうべき幸せを全部受け取って、桜花の民の瞬く間に過ぎる日々を楽しみつ
つ。あたしは何一つ役にも立てない侭、何の支えも助けもできない侭、あんたの上に咲い
た成果だけを摘み取って、その上で」

 あんたの受けた定めをあたしは喜んでいた。その根を1人で支えるあんたと巌の寿命を
共有できたと。心の底から自分が嫌になったよ。誰にも向けようのない、自分への嫌悪に
さ…。

「姫様の喪失は心に痛かった。浅間の里は既にこの世にない。共に時を過せる仲間は誰も
いなかったから。笑子さんの血筋はまだ桂を残してくれたけど、数拾年の内に老いていく。
子孫を繋げても、桂とは久遠を共にできない。笑子さんや真弓を、看取る事になった様
に」

 だから、あんたがあたしの時を生きてくれる様になった事が、あたしは嬉しかったんだ。

 サクヤさんの真の苦味は、分っても抑えられない自身の想いにある。いけないと気付い
ても、悪と否定しても喜んでしまう心を消し得ない。それもサクヤさんの真の望みだから。

 サクヤさんは、わたしがサクヤさんと悠久を共に過せる事を、喜んでいる。素直に喜べ
ば良いのに。わたしは、素直に嬉しいのに…。

「許しておくれなんて、今更言えないけど。
 分っておくれなんて、今更望まないけど。
 あたしはあんたと共に過せる事を喜んでしまった。一番にもできない癖に、一番たいせ
つに想う事も叶わないあんたが受けた永劫の縛りを、事後にでも望んでしまったんだ…」

 ご免よ、柚明。沈痛に絞り出すその声に、

「それは、わたしの望みでもありますから」

 わたしは、首を振って謝罪を受け容れない。それは謝る事でも何でもないから。受容し
てしまっては、サクヤさんの謝罪を認めるから。サクヤさんは悪くない。わたしと同じ喜
びを抱いただけ。わたしと同じ希望を感じただけ。

「サクヤさんの身体を、今もわたしの血が生命となって流れ続けている様に。わたしもサ
クヤさんと永遠を共にしたかった。いつ迄も、過ぎ行く時間を眺めつつ、いつ迄も変らな
いサクヤさんと居続けたいと、望んでいた…」

 わたしの方がそれは叶わないと想っていた。
 ご神木の幹で肩を寄せ合って2人月を眺め。
 百年でも、千年でも、万年でも、2人夜を。

 何でもない事を話し、何でもない時を過す。
 否、何も話さなくても良い。唯共にあれば。
 少し形は違ったけど、叶ってしまいました。

「それは大いに喜んで良い事ですよ、サクヤさん。わたしが、保証します」「柚明……」

 後ろめたい事はない。嘆く事も哀しむ事も、自己嫌悪の必要もない。わたしがそれを喜
んでいるから。サクヤさんが桂ちゃんを見守り、共に日々を過し笑顔を分ち合ってくれる
事を。

 何を謝る必要があるだろう。わたしはその為にハシラの継ぎ手になったのだから。犠牲
と言う語感が誤解を招く。尽くす事がわたしの望みだったから。わたしの願いだったから。

「これで残った人達が嘆き悲しんだなら…」

 わたしの行いに意味がなくなってしまう。

「誰にも哀しんで欲しくない。わたしはサクヤさんを涙させる為にご神木に身を委ねた訳
じゃない。わたしが守りたかった笑顔の中に、確かにサクヤさんもいましたから。その様
に日々を過してくれる事がわたしの望みだったから。悔いを抱かれてはわたしが困りま
す」

 サクヤさんが答に窮するのも何度か見た。

「わたしは泣き顔は嫌い。嬉し涙は別だけど、涙も不要で毎日にこにこ笑い合う日々が好
き。大好きな人が、たいせつな人が、日々を笑って過してくれる事が、わたしの一番の望
み」

 サクヤさんも桂ちゃんもこの拾年懸命に生き抜いてきた。笑みを浮べられる様になった。
その土台を支えられた事こそがわたしの幸せ。わたしの望み。こうして又逢えたり話せた
り、心通わせたりできたのは予想外の幸福だけど。

「わたしがサクヤさんに、望む事を許されるなら、今後もサクヤさんであり続けて欲しい。
サクヤさんの人生を余す事なく使い切って」

 わたしの微笑みは、何故かサクヤさんの涙を誘う。単なる哀しみの涙ではないのが救い
だけど。哀しみと嬉しさを混ぜ合わせた、一言に嬉し涙とも言えぬ激情に、美貌を崩して。

 言葉を継げぬサクヤさんに代ってわたしは、

『……せめて、あたしは、忘れないから。
 あたしは、悠久にあんたと過ごすから』

 サクヤさんはご神木前でそう語ってくれましたね。青く突き抜けた空の下、槐の白花が
舞い散る夏の日に。この上なく、嬉しかった。

『誰が朽ち果てても、誰が干涸らびても、あたしはあんたを忘れない。ずっと、ずっと同
じ時を生き続ける。今こそあたしはあんたと一緒の時間を生きられるんだ。あたしだけが。
 全てが終る、長い時の彼方の滅びの日迄。
 主を還し終ってあんたも還る最期の日迄』

 サクヤさんだからわたしも己の弱味を晒す。

「主との久遠を得た時、わたし少し怖かった。
 たいせつな人の守りと幸せの為に、ご神木に身を委ね、主の封じを永劫受け容れたけど。
桂ちゃんにわたしの存在を忘れ去られる事も覚悟できたけど。主との久遠も受容したけど。
 でも、本当に誰の心にも止まる事なく、忘れ去られる事は微かに寂しかった。怖かった。
十年後二十年後も耐えられるか、自信がなかった。長い年月の末に想いがすり切れてなく
なるのではないかと、竹林の姫の様に千年も保たせる事が、わたしにできるだろうかと」

 サクヤさんのお陰です。あの励ましがなかったなら、あの喜びと悲しみが混じり合った
声がなかったなら、わたし、この定めに耐えられたかどうか、分らない。だから有り難う。

 サクヤさんの、心からの想いだったから。
 サクヤさんの、心からの望みだったから。
 それはわたしの望みになり、力になった。

「わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人、生命の終りが訪れる迄想い続けたい人」

 間近にいても隔たっても、生と死の境、人と鬼の境を越えても。この想いに限りはない。
わたしの赤い糸がサクヤさんの中を生命となって巡り続ける様に、この想いも巡り続ける。

「一番にはできなかったけど、サクヤさんへのわたしの想いは、未来永劫に、久遠長久に、
天地の終りのその果て迄も、尽きる事なく」

「柚明……」

「確かに言える内に、言っておきたかった」

 言い終えた瞬間、わたしの口を閉ざしたのはサクヤさんの唇だった。上からふいに降り
てきて、ノゾミを抱えて素早く応対できないわたしの虚を突いた動きに、身体も心も固ま
って。瞳は、まん丸に見開かれていたと思う。

 軽く付いて離れるだけの口づけだったけど。
 わたしは想いを返す事も叶わなかったけど。

「あたしは、恥ずかしくて口にできないから。とりあえず、口で応えさせては貰ったけ
ど」

 サクヤさんの気持は伝わってきた。それは嫌悪する物でも、又激しく求める物でもない。
わたし達の間では、これから永く時を共にするわたし達の間では、いつか始り進む物だっ
たのかも。それはなければならぬ訳ではなく、あって許されない類の物でもない。形にす
るかしないかは最初から一番の問題でなかった。一番にできないだけで、お互いはお互い
に天地の終りの向う側迄も、たいせつな人だった。

 ノゾミを抱えていて、能動的に動けないわたしに、サクヤさんはしてやったりの笑みで、

「久遠長久はこれから始るんだ。あんたには、あたしが先達として悠久の過し方をしっか
り教えてあげるよ、覚悟を定めておくんだね」

 お陰で赤面したわたしは、口で『はい』を応えられなくなった。尚暫く森を歩み行くと、

「ここから左方向です。蝶に案内させます」
「柚明、あんた……」

 サクヤさんが不審に声音を変えたのは、尾花ちゃんのいるサクヤさんの進む方向とは別
に向けても蝶を飛ばしていると気付いた為か。桂ちゃん達とも違う方向に逸れて行く蝶達
に、サクヤさんはわたしの意図を勘づいたらしく、

「白花に迄力を回すのかい? でもあんた」

 幾ら何でもやり過ぎだろう。あんたの霊体の方が保たないんじゃないか。危ぶむ目線に、

「昨夜は結界の為に、白花ちゃんに回復の力を及ぼせませんでした。わたしが桂ちゃんの
間近で幸せを噛み締めている間、白花ちゃんは1人森の奥で、己の身体を戦場に主の分霊
と戦い続けていたのです。勝っても負けても、戦い続けるだけで荒廃する魂と身体に、わ
たしはこの刻限迄何もしてあげられなかった」

 せめて癒しを届けたい。届けられる力がある限り。及ぼせる想いがある限り。わたしの
望みはいつもたいせつな人の守りと幸せです。

「烏月を向うに行かせたのは、そういう…」
「知られれば、裏切りと映るでしょうけど」

 蒼白い月光蝶が列を成して泳ぎ行く。それを足は止める事はせず、目線のみで見送って。

「わたしは一番たいせつなひとの為に、その心を守る為に、主の分霊と尚戦い続ける白花
ちゃんを支えたい。少しでも、その力に…」

 白花ちゃんに宿る主の分霊には、わたしの放つ蝶は殆ど効果がない。身体と心の奥に潜
んで力が届かせられないという以上に、強すぎる。わたし自身が力を及ぼしても、分霊を
削る事さえ容易ではない。肌から白花ちゃんの身体を癒し、励まし、力づける位が精々で。
痛みを忘れさせる事はできても、十年の破壊と消耗の蓄積はわたしにも治す事が至難です。

 その身は既に度重なる生気の前借りで余命を殆ど使い尽くしている。内臓も筋肉も血管
も皮膚も骨も、主の分霊の同居だけで疲弊し崩れゆくのに、白花ちゃんが必死に己を保と
うと抗い続けた為に、双方の戦場と化してずたずたに痛めつけられていた。そう迄しない
と人の生を保てない、そう迄してももう人の生を幾らも保てない。そんな白花ちゃんに…。

「せめてわたしは、為せる間に届く限りを」

 わたしも、この現身をいつ迄も保てる訳ではない。この力をいつ迄も使える訳ではない。
だからこそある内に、使い切る前に、この生命を、わたしの想いを、届かせたい。白花ち
ゃんの生命が想いが尽きるその前に。尽くせるだけを、為せる限りを、及ぶ全てを。幸せ
とは望まない迄も、せめて白花ちゃんが悔いのない生命の終りを迎えられる助けになれば。

「為せる間に、かい……」

 あたしにもあんたにも余る程時はあるのに、他の連中はどうしてこんなに時がないのか
ね。

 尾花ちゃんを捜しに蝶の案内に従って森の闇に消えて行くサクヤさんの背が、心持ち前
屈みに小さく見えたのは、気の所為だろうか。

 月は今、中点を通り過ぎようとしていた。


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 敵ではないノゾミを羽様のお屋敷に入れる。しかもわたしがこの手で運び入れると言う
像は、視た憶えがなかった。関知の力も万能ではないけど、これも桂ちゃんの血の導き故
か。

 中学生位の女の子を、女子の腕で抱えて山中を歩むのは、相当辛い。疲労は拭えるけど、
それで地力が増す訳でもノゾミが軽くなる訳でもない。羽様の屋敷に帰り着いて、ノゾミ
を布団の上に置けた時は、ほっと溜息が出た。

「けい……ごめんなさい……。主さま……」

 魘されているのか、ノゾミは何度か譫言を繰り返していた。霊体が希薄になって、意識
が混濁している。良い状態とは言えなかった。

 当然ながら屋敷には今誰もいない。居るのはノゾミとわたしの2人だけ。数時間前なら、
向き合った瞬間戦うべき定めにあった相手と。拾年前にこの屋敷を廃墟に変えたその元凶
と。

 苦しげな寝顔につい殺気立つ自分が分った。
 荒い息遣いを、止めたく想う自分を感じた。

 たいせつな人を心に置かなければ弾け飛びそうな程、力も憎悪も左腕に満ち満ちていた。
辛うじてそれを放つ事を留める。力を込める事で発する事を抑える。殺したい想いを半ば
迄進める事で、自身に完遂を思い留まらせる。腕を突きつける事で、絶対振り下ろさせな
い。そうでもしないと己が抑えられない。己の想いを、己の想いが拒んでいる。挟み潰さ
れる。

『叔父さん……白花ちゃん……叔母さん…』

 憎しみは消し得ない。ノゾミがやった事を戻せない様に、なくした日々を取り返せない
様に、失った大切な人を生き返らせ得ぬ様に。この憎悪は愛の深さの裏返し。わたしが続
く限り、未来永劫抱き留めるべき物なのだろう。最早桂ちゃんが想い出す事がない以上、
せめて憶え続けないと。せめて己に刻まないと…。

「桂ちゃんは町でノゾミと日々を共にする」

 この手を振り下ろせない以上、それはかなり確かな未来図だった。あの時桂ちゃんがノ
ゾミをわたしに委ねた以上、わたしがそれを断れなかった以上、その真の想いを拒めない
以上。先は大凡分ってしまう。読めてしまう。

 こんな分岐の先も視えていた。こんな結末も確かにあった。桂ちゃんとノゾミとを繋ぐ
赤い糸は、絡まり合って先が読めず、幾つかの結末を並列に、脈絡もなく映し出していた。

 ノゾミ達に血を吸い尽くされ息絶える桂ちゃん、逆に桂ちゃんは守られて打ち倒される
ノゾミ達、或いは町に帰って二度と出会わず縁が絡まない両者。その向う側に、その奥に。

 ミカゲとではなく、桂ちゃんと微笑み合うノゾミの姿も、微かに視えた。千に一つの割
合もなかったけど、そのあり得なさに、わたしの心は奪われて、深く印象に刻み込まれて。
何をどの様に辿ればそうなるか視えなかったけど。桂ちゃんがノゾミ達のもたらす生命の
危機を、あの方法で乗り越える事が条件と…。

 分っていても勧めなかった。葛ちゃんとの絡みの様に。それは唯桂ちゃんが生命を賭け
れば、相手を友達にできるという図ではない。その危険を特定の条件を満たして乗り越え
て、そこで仄かに可能性が見える位の危うい橋だ。

 桂ちゃんは先を見通せないし。見通せたからと言って成功するとは限らない。見通せた
故に踏み外してしまう途も世にはある。見通せた事がその道を進めなくさせてしまう時も。

 踏み越えて終えたから、もう止めないけど。
 桂ちゃんの確かな意志は、受け止めるけど。

 こうなると視えて分っても、時を戻せればわたしはこの途を歩ませない。ノゾミへの敵
意以上に桂ちゃんが危うすぎる。桂ちゃんは時に、愛してはいけない物まで愛してしまう。

「それも、羽藤の血筋なのかも知れない…」

 竹林の姫が主をたいせつに想った様に。わたしが主をたいせつに想った様に。この行く
末も、それ程奇異ではないのかも。ならわたしは受け容れよう。たいせつな人が信じた相
手を受け容れよう。自身の心を踏み躙っても。

 意識のないノゾミの衣を脱がせ、形を解いて無形の力に戻す。今のノゾミに装いに費や
す力の余裕はない。ノゾミの現身に注ぎ込む。それで足りる物ではないけど、わたしが力
を流し込まないと不足なのは明白だけど。他人からの輸血より、自身の力の方が良く馴染
む。

 太股が見える程裾の短い着物に、膝に届く程袖の長い袴。赤い鼻緒の草履に、非対称の
振り袖は、右は鳩羽鼠に花の染め抜き、左は薄紅だ。生地と文様と丈を憶える。再構成に
必要かも知れない。右足首の金の鈴は残した。ノゾミが希薄になった為に揺らせても音も
出ないけど、ノゾミが持ち直せば再び音も鳴る。過去からあった身近な何かは一つ位残す
べき。わたしの、白いちょうちょの髪飾りの様に…。

 再構成はできるけど、あり続ける事と一度なくしてから作り直す事は違う。わたしも手
を広げすぎて、余裕のある状況ではないけど、鈴一個が死命を制する程に逼迫してはいな
い。

 敷き布団の上に力なく横たえられた一糸纏わぬ姿を前に、わたしも衣を全て脱ぐ。肌を
絡み合わせて癒さないと、ノゾミの生命は繋げない。昨日は桂ちゃんにこれを為したけど、
連日でしかもまさかノゾミにこれを行うとは。

 贄の血の力を、ご神木の力を、青い力を、身を繋ぎ触れ合わせ流す。生命を重ね想いを
重ね、その身を確かに抱き留め、繋ぎ止める。桂ちゃんに貰った生命を桂ちゃんのたいせ
つな人の為に、桂ちゃんの真の望みの為に使う。

「……んんっ……」

 傾き始めた月明りの中、布団の中でわたしは力を紡ぎ出し、わたしとノゾミを包み込む。
2人を一つに。2つの唇を重ね合わせる。為さねばならないこの所作に羞恥や躊躇はない。

 ノゾミは意識のない中寒気にぶるぶる震え、温もりを求めてわたしの肌に身を寄せてく
る。華奢な全身から血の気が失せ、唯でも蒼白な肌が透ける。現身を保つ力の不足が限界
を迎え、人の身体の偽物の機能が失われつつある。

 それを肌で感じる故か、ノゾミは無意識下でも力の塊であるわたしにひしと抱きついて。
わたしは拒む積りもなく抱きしめ返し、霊体を保つ力を流す。一昨日は背後にしがみつか
れたけど、今は正面から愛しむ様に抱き包み。

 あの夜の直前には真弓さんを、昨日は桂ちゃんをこの様に抱き留めた。消えかけた生命
の炎を、わたしの炎を移しかえて繋ぎ止めた。素肌で抱き留め、唇を重ね、力と想いを注
ぎ込んだ。この様に気を失った、生命を失いかけた美しい物を守り保つ為に、身を寄り添
わせ唇を合わせるのはわたしの定めなのだろう。

 真弓さんも桂ちゃんも守り抜けた。今回もノゾミを守り抜く。今のわたしには尚余る程
に贄の血の力がある。これは桂ちゃんの望みの為に、桂ちゃんの幸せの為に使うべき力だ。

 抱き留めて、冷たい肌をこの体温で暖める。
 心から心へ、治って欲しい想いが流れ行く。
 素肌から素肌へ、わたしの生命を流し込む。

 ノゾミが意識を取り戻したのは、力の補充で容態が安定した為ではない。力の大量流入
に伴うショックが、ノゾミの目を醒まさせただけだ。まだ大丈夫な迄に至ってない。故に
下手に意識を取り戻されると、今迄の経緯があるお互いだけに、続きが厄介なのだけど…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あ……あなた、どうして……ここは…?」

 一枚の布団の中で気付かぬ内に、自身が身包み剥がれていて、敵だった筈の相手がこれ
又一糸纏わず、絡み合う様に抱き合っている。そう知った瞬間の顔とは、こんな感じなの
か。寝ぼけ眼の故なのか、拒むにも嫌うにも己が既に身体を重ね合っている故か、反応が
鈍い。

 ノゾミは身を剥がそうとしてわたしの背に回した腕に気付き、力で弾こうとしてわたし
の癒しに満ちてゆく己に気付き、罵ろうとしてわたしの肌に吸い付いた口に気付き。危機
は脱したので唇は外したけど、ノゾミは空いた唇で無意識にわたしの肩や首筋に吸い付き、
噛みついていた。吸血による補充を無意識に求めていたのか。わたしはノゾミの身を離す
訳に行かないので、為される侭に任せたけど。

「継ぎ手あなた、一体何を考え、ああっ!」

 背に回し合った腕を外そうとし身体を引き剥がそうとするノゾミを抱き寄せると、その
感触の奇妙さに、鈴を鳴らして悲鳴を上げる。弾こうとする意志が力の発動に繋らないの
は、寝ぼけ眼と言う事に加えて癒しの力を流され続けている事で、肌に緊迫感がない故な
のか。

「あなた何をふざけた事を。私をどうす…」

 距離を離して、向き合って対峙しないと。

 理性では敵を前にしてそう思うのに、身体は流し込まれる癒しの力に順応して、抱擁を
続けたがっている。温かな肌に触れていたい、流される癒しを受けていたい、もう少しだ
け。

「あなたは、どうして貰うのが望み?」

 意志の力で身体を強ばらせるノゾミの顔を、胸の辺りに見下ろしてわたしは問う。この
暫くの間でノゾミは、桂ちゃんを守った末に良月を失い、消失し掛った事を想い出した様
だ。

「あなた、山の森で、桂と……けい?」

 今度はわたしを拒む為ではなく、たいせつな人が気になって、身を剥がそうと動き出す
ノゾミを、もう一度わたしは強く抱き留めて、

「今、こちらに向っているわ。安心なさい」

 羽様にいる限り夜なら今のわたしは全員の表層思考まで追いきれる。何処にいて何を為
しているかはほぼ確実に捉えていた。円らな瞳がそれは本当かという見上げてきた。桂ち
ゃんを想う真っ直ぐな視線をわたしは正視し、

「あなたが守ってくれたお陰よ。有り難う」

 過去にどんな経緯があろうと、どれ程恨み憎しみがあろうと、たいせつな人の危機を救
ってくれた事実に感謝する。そんなわたしに、

「あなた何を馬鹿な。私は何も、あなたの為に桂を助けた訳ではなくてよ。……あなたは
私にとって八つ裂きにしても憎い仇で、あなたから見てもそうの筈っ。何を真顔で穏やか
に礼なんて言っているのよ。余裕の積り?」

 わたしを身包み剥いで逃げられなくして、これから何をどうする積りか分らないけど。

 ノゾミの心に瞬間兆したのは、一昨日の夜にミカゲがわたしに為した所作だった。密接
して完全に力の優劣を悟ったノゾミは、ミカゲへの憎悪も己が受けると考えてか凍り付く。

「私を捉えてどうする気なの。嬲る積り?」

 あれを返されると想うと流石に身が震える様だけど、弱気を隠しノゾミは精一杯強がる。

「やるのなら、さっさとやりなさい!」

 憎まれ口は叩いても見上げる視線は震えている。竦んだ背に回した腕を、強く引き寄せ、

「……では、遠慮なくやらせて頂くわ」

 わたしの力を、弾く力としてではなく、癒しの力として流し込む。ノゾミの生命を繋ぎ
止める。今度はそれをノゾミの無意識にではなく、意識したノゾミに向けて。

 わたしは桂ちゃんから得た膨大な力でご神木に己を取り憑かせ、方々に蝶を放ち、ノゾ
ミに治癒の力を注いで尚濃密な現身に揺らぎもない。ノゾミは既に青珠に己を取り憑かせ
ている。時間をかければ、ノゾミを消失の怖れのない程度に賦活させる事は、可能だった。

「継ぎ手、あなた、一体、何を考えて…?」

 その抗いを包み込み、巻き込んで、混ぜ合わせ。癒しの力がノゾミの現身を包んでいく。
飢えて渇いた霊体が、慈雨を受けた干天となって、わたしの癒しを残さず吸い込んでいく。
ノゾミは身体を剥がそうとしなかった。逃げられないという以上に、肌は尚わたしの温も
りを離したがらず、ノゾミの隔意に逆らって。

「私を、滅ぼさない……それは、情け?」

「あなたへの情けじゃない。これはわたしの真の望み。わたしの目的はあなたではない」

 わたしの一番は常に、たいせつな人の守りと幸せだ。敵を倒す事ではない。恨みを晴ら
す事ではない。この身に滾る憎しみを返す為にわたしは今、現身で顕れている訳じゃない。

「あなたが桂ちゃんの生命を脅かさなければ、わたしにあなたと戦う理由はない」

 ノゾミは言葉なく目を閉じて苦笑いして、

「私を助ける理由の方は、あるのかしら?」

 むしろ憎しみを叩き付けてくれた方がすっきりすると言う問いかけに、

「それが、たいせつな人の真の望みだから」

 あなたの為じゃない。あなたへの想いではない。桂ちゃんの哀しむ顔を見たくないだけ。

「わたしの哀しみや憎しみは問題じゃない。
 わたしは唯、桂ちゃんを想う心の侭に…」

「なら、礼は言わないわよ、ハシラの継ぎ手。この返礼も恩返しも、桂にすべき物だか
ら」

 ノゾミの憎まれ口にわたしは平静な声で、

「ええ、構わないわ」

 返礼は求めない。返される想いを期待しないのがわたしの生き方だ。わたしはわたしの
想いの侭に、必要だと感じた事を為しただけ。

 わたしの答に、ノゾミは尚何か言いたそうな表情を見せた。そんなノゾミを前にも一度
見た事はあったけど、今度は彼女は黙さずに、

「どこ迄もその損な生き方を止めないのね」

 自分を殺して、後回しにして、自由を手放して、欲求を抑え込んで、身体も生命も差し
出して、好んで他人の定めまで背負い込んで、哀しみも怒りも耐えて、尽くして微笑んで
…。

「私には、とても考えられない生き方だわ」
「……それがわたしの望みで、幸せだから」

「心引き裂かれる想い迄して、尚幸せと?」

 これ迄の経緯を知る故に、拾年前の経緯も知る故に、ノゾミは問わずにいられない様だ。

「仇敵を、恨みと憎しみの相手をその手で助けなければならない。思いを晴らすどころか、
生かさなければならない。それは今しか知らない桂の望みではあっても、あなたの望みで
はない筈よ。それを桂にも告げず、己の内に仕舞い込んで、あなたは本当に幸せなの?」

 ノゾミはわたしを理解したいのだろうか。
 わたしは躊躇う事なく己の真の想いの侭、

「ええ、心引き裂かれるのも幸せの一部よ」

 確かに守れている証だから。たいせつな人の望みに、わたしが応えられている証だから。

「酷い幸せもあった物ね。あなた本当は…」

 くっ! 更に何か続けようとして、ノゾミが苦悶に身を捩る。流入した力はいかに癒し
でも異物だから、大量に流し込めば拒絶反応も多少出る。身体が緊迫し固まるにも関らず、
ノゾミはわたしを突き放さず、しがみついて。

 華奢な身体をわたしはこの手で抱き寄せる。抱き留めて苦しみを肌で和らげる。震えを
感じ共有する。想いと生命を重ね合う。ノゾミとわたしは既に桂ちゃんの血で結ばれてい
る。

「今は喋らない方が良いわ。静かになさい」

 わたしは尚喋りたそうに顔をしかめるノゾミを、喋れない様に胸にぴたりと抱き寄せた。
ノゾミの本質が、絶え間なく喋り続け答を求め続ける事だとは分るけど、力が流入途上の
今は不安定だ。大人しくして貰わないと困る。

 それがノゾミには不満だったのか。ぴったり寄せられた唇を、わたしの現身の左乳房の
先に重ねて、ぱくっと咥え込んだ。その所作にわたしは全く不意を突かれ、奇妙な悲鳴を、

「ひゃうっ! ……の、ノゾミ?」

 瞬間身体に震えが走る。その為にノゾミの唇は外れ、小悪魔な笑みと共に解き放たれて、

「私の問に答えてくれないなら、応えさせるだけよ、ハシラの継ぎ手。あなたの弱点、と
いうより女一般の弱点なのでしょうけど…」

 良い声で応えてくれたじゃないの。私には、これ迄の全部の答より、今のが一番痛快だ
わ。何にも余裕綽々な答を返すあなたは取り澄ましていて好かないのよ。漸く問答であな
たが応えにくい処に話を持ち込んだと思ったら…。

「抱き寄せて私の口を封じようとするのなら、考えがあるって事よ。吸い付いてやるか
ら」

 勝ち誇った様に、ノゾミは自分が喋りたい事を喋り続けると宣言する。それを前にして、

「……どうぞ、ご自由に」「……え?」

 わたしは再度ノゾミを胸に、先程ノゾミが咥えた左乳房に、選んでその唇を押しつけて、

「子供を産んだ事はないから乳は出ないけど、それで良いなら好きになさい」「あな
た!」

 わたしが当然嫌がる、弱ると思って出した無理難題の積りが外されて、唖然としている。
困惑をどう責めようかと考えていた顔が凍っている。顔がわたしの肌に密着されて喋れな
くなり、その心と視線を肌で感じるのだけど。

「はくっ、む、ふ!」

 ノゾミはもう一度わたしの乳房を咥え込むけど、今度は想定済みなのでわたしに驚きは
ない。左右に捻ったり回したり、舌で弄んだり歯で噛んでみたり、様々にしているけど…。

 くすぐったさはある。全く感じない訳ではない。唯、わたしの腕はしっかりそんなノゾ
ミの身体を自身に押しつけ、絡め取っている。力を肌から流し込む作業は、順調に進め行
く。

「以前は小さな桂ちゃんに、お風呂場でそんな事をされて困り果てた事があったけど…」

 それで出来た耐性がこんな時に役立つとは。

「桂はあなたと、こんな事をしていたの!」

 ノゾミが思わず全力で首を外し、わたしの瞳を見上げて問う。でもノゾミの驚く観点は
ずれているのではないか。所詮子供の悪戯だ。

「私を子供扱いする積り! 継ぎ手あなた」

「千年生きても、子供は子供よ。……水が器に従う様に、人の生き方もモノのあり方も、
形に縛られ易い物なの」

 わたしはノゾミの更に何か言いたそうな顔を抑えて、三度わたしの左乳房に押しつける。
それを咥えて大人しくなさいと。暫く黙って癒しを受け容れ、身を保つ事に専念なさいと。

「あなたなら、そこから力も多少吸い取れるでしょう。わたしは拒まないから、どうぞ」

 ノゾミは何か言いたそうな顔を赤く染めて、暫く抗っていたけど、じきに大人しくなっ
た。左手で乳房にその頭を添えると、諦めた様に口を開きその先を咥えて。赤いその表情
は何か大きな不平に頬を膨らませても見えたけど。

 桂ちゃん達がお屋敷に帰り着けたのは、間もなく日付も変る、夜も更けた頃合いだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ん……」

 覗き込む人の気配を感じて薄目を開ける。
 カーテンを開けられて蒼白い月明りの下、

「あ、おねーさん、気がつきました?」
「葛ちゃん? わたし、あ、烏月さん」

 身を乗り出す葛ちゃんに並ぶ形で座っていた烏月さんの視線がわたしの瞳と触れあった。
確かわたしは、葛ちゃんを抱き留めた後、ユメイさんのちょうちょの導きで帰る途中、烏
月さんの迎えと合流し、気力が抜けて倒れ…。

「無事で良かった、桂さん」

 その後は良く憶えていない。烏月さんに背負われていた様な感触は夢現にあるのだけど、
勿体ない程幸せな感触は残っているのだけど。

「あんた、ちゃんと目を覚ましたんだね!」

 布団に寝かされていると気付いたわたしが、視線を左に移すと、間近では寝ている間も
ずっと左手を握って癒しの力を流し込んでくれていたユメイさん、その隣にはサクヤさん
がわたしが起きた事に喜ぶ余り涙が溢れそうで。

 気配に気付いて左右ではなく真上を見ると、

「ノゾミちゃん! 無事だった?」

 ユメイさんよりは薄いけど、消えそうな程には儚くないノゾミちゃんが、ふよふよ浮い
ている。とりあえずそのノゾミちゃんを、誰も討ち果たそうとしない。ユメイさんは烏月
さんやサクヤさんにも話を通してくれたんだ。良かった。強気そうな姿勢と語調は尚変ら
ず、

「あなたが助けてと泣いて願った以上、ハシラの継ぎ手が、私の消滅を許す筈がないでし
ょ! 私だって消えるに消えられないし…」

 みんな揃っていた。たいせつな人がみんな敵対も啀み合いもなく、わたしの周りにいて
くれた。誰1人欠けて欲しくない人達が、わたしのたいせつな人達が。それが嬉しかった。

『……啀み合いもないは間違いだったけど』

 流石にこの顔ぶれは、すんなり仲良くなれる面子ではない様だ。そう知らされるのはち
ゃぶ台を囲んだお話の場に移ってからだった。

 わたしが意識を取り戻し、何だかんだと状況を整理している間に、時刻は夜明け前にな
っていた。草木も眠っているだろう時間にも関らず、羽様のお屋敷は人の動きが絶えない。

 ちゃぶ台を囲み角を突き合わせているのは、わたしとノゾミちゃんとユメイさんとサク
ヤさんと烏月さんと葛ちゃんの6人だ。このメンバーが一同場に揃うのも、奇観だったか
も。ノゾミちゃんを考慮して電気は豆電球だけど、ユメイさんの蝶が淡く白く照してくれ
るので、周囲は薄明るく話すにも動くにも支障はない。

 尾花ちゃんは別室で療養中だ。四本の足を全て断ち切られていたと言う。ユメイさんは
帰り着いたわたしを付きっきりで癒してくれる傍らで、同時に尾花ちゃんの傷口を塞ぐの
ではなく切断された足を戻そうとしてくれて。

 こうしてお話ししている間も、ユメイさんは蝶を連続して送り続け、傷口の前線を四本
の足の踝辺り迄進めているとの事。わたしがお見舞いに行くと、尾花ちゃんは蝶に身を包
まれ痛みと気持良さに複雑そうな表情だった。

「いっぱい力を使わせて、ごめんなさい…」

 戦いではなかったけど、ユメイさんの今日の消耗は戦いを凌ぐかも知れない。ノゾミち
ゃんを消滅から救い、葛ちゃんやわたしを気遣い、尾花ちゃんを治し。幾らわたしの血を
大量に取り込んでいても、力は無限ではない。

 その原因の幾つかを招いたわたしとしては、力の素を提供する事で報いたい処だったけ
ど、

「それは駄目よ、桂ちゃん」

 即座に却下された。大きく潤んだ瞳で、

「桂ちゃんの失血は、もう限界に近いわ」

 わたしは昨日夕刻にも吸血された。傷はユメイさんに治して貰えたけど、なくした血は
再生産する迄補いが利かない。ユメイさんに力を流されないと少し眠いのは、その所為か。

 それでも夜明け前にお話の必要があるのは、議題の一つにノゾミちゃんの今後があるか
ら。ノゾミちゃんが出られない昼では意味がない。それにはわたしが加わらないと駄目だ
と、わたしの体調を不安に想うユメイさんも認めて、

「お話の間、わたしが癒しの力を注ぐわね」

「これ以上力を使ったら、ユメイさんが…」

「あんた、そんな並行作業続けまくって…」

 サクヤさんも流石に心配そうに問うのに、

「わたしの事なら、大丈夫です」

 ユメイさんは、その上で自身が話に参加する事にも全然問題ないとサクヤさんに応えて、

「早く始めれば早く終るわ。桂ちゃんも早くお布団で休める様になるし。始めましょう」

 左隣からノゾミちゃん、ユメイさん、正面にサクヤさん、続けて右斜めに烏月さん、右
隣に葛ちゃんを見るわたしの位置は、法廷ドラマの被告人を連想させた。円いちゃぶ台は
見方によっては、円卓の騎士とも言えるけど。

 議題はわたしに流れている贄の血と、それを狙っていた人にあらざる存在、鬼について。

 葛ちゃんの、今後の身の振り方に関しては、ここ数時間の葛ちゃんの意向の変化で大き
く変った。わたしが鬼と無縁ではいられない体質だと知った所為か、葛ちゃんはもう烏月
さんから逃げようとはしていない。葛ちゃんはみんなの前で鬼切り頭を継ぐ積りだと明言
し、

「わたしにも守りたい人ができましたから」

 葛ちゃんはまずわたしに視線を向け、

「オハシラ様の言葉を想い出しました」

 次にユメイさんに意志の籠もる視線を向け、

「わたしに本当にたいせつな人が現れた時、自分以外の誰かを本当にたいせつに想った時、
自身の真の望みを曲げる事なく、貫いてと」

 わたし1人ならどこ迄も逃げ続けていた。
 誰も大切でなければ幾らでも巻き込んだ。
 守りたい人がなければ唯の葛で良かった。

 でも、桂おねーさんを特別大切に想ってしまった時、鬼に深く関る桂おねーさんの笑顔
をわたし自身よりも大切に想ってしまった時。

「鬼切り頭の定めが天恵に思えました。桂おねーさんの役に立ちたく想った時、その方法
が目の前にありました。今迄拒んで目を逸らしても追い縋って来た鬼切り頭の定めが、願
ってもない幸せだと。たいせつな人を守れる事・尽くせる事が幸せというユメイおねーさ
んの言葉が漸く分りました。わたしは桂おねーさんと幸せを分ち合いたい。……同時に」

 誰かの大切な人を鬼から防ぐ、守る。その為に鬼切部・鬼切り頭が大切な役目だと実感
しました。若杉には色々な想いがありますし、外にも複雑な想いを抱く者もいるでしょう
が。

「若杉ではなく、若杉が負うべき鬼切り頭の本来の定めと職責を継ぎたい。その為に若杉
の旧習に囚われず、鬼切り頭として守るべき者を守る為に若杉の宿業にも向き合いたい」

 葛ちゃんは単に若杉を継ぐのではなく、鬼切り頭を継ぐ事で葛ちゃんが理不尽に思って
きた若杉を変える積りだ。定めを受け容れるという事は、全て為すが侭に従うという事で
はない。葛ちゃんは権力を何に使って行こうかという考えがある。わたしなんかと違って。

「わたしの答はこんな処ですがどうですか」

 オハシラ様。己を吹っ切って覚悟を定めた葛ちゃんの視線は、普段の気易い感じと違っ
て決然としていたけど、奥にはあの涙がしっかり息づいている。想いは今でも繋っている。

 ユメイさんは葛ちゃんの答を静かに受けて、

「……正解よ」

 それが葛ちゃんの真の想いなら、全て正解。

「サクヤさんも、そう思いませんか?」

 サクヤさんに視線と話を振る。サクヤさんは右手で、艶のある銀の髪を撫でつけながら、

「あたしはとりあえずお手並み拝見と行くよ。葛が若杉をどこに持って行こうとしている
か、若杉を実際に多少なりと変えられるかどうか、今後を見守らないと何とも言えないか
らねえ。葛には敵意も悪意も恨みもない。案件次第で手を貸せる事も、対立する事もある
し。立場は善意な部外者かね。ま、よろしく頼むよ」

 サクヤさんと若杉の宿縁がどんな物かは分らないけど、葛ちゃんにそれをその侭向ける
積りはない。若杉を継ぐ以上責任も継ぐ事にはなるけど、恨みは持ち越さないという事か。

「私は、葛様が必ず自身に向き合う日が来ると信じて待っていました。儀式や形式は別と
して、私にはもう既に葛様は鬼切り頭です」

 烏月さんは鞘に入れた侭の維斗を取り出し、

「この維斗にかけて、葛様が下す鬼切りの使命に、全身全霊の力で挑む事を誓います」

 抜かないのは、多分お部屋に人が多すぎてそのスペースがない為だろう。葛ちゃんは最
後にわたしに視線を合わせて、

「桂おねーさん、ありがとうございます。おねーさんはわたしに、人をたいせつに想う気
持を、教えてくれました。強くても弱くても、賢くても愚かでも、若杉でも葛でも、人を
大切に想う心の素晴らしさ、大切に想う人がいる事の素晴らしさを、教えてくれました
…」

 わたしはそんな桂おねーさんだから守りたくなりました。好きになりました。たいせつ
に想いました。想いを返したく、なりました。

 葛ちゃんは、微かに頬を赤く染めながら、

「桂おねーさんの為に、その幸せと守りの為に、できる限りの事をしたい。させて下さい。
 ……まだあと暫くご厄介になりますけど、御用とあらば掃除洗濯布団の上げ下げ、何な
り構わず、お申しつけてください!」

「あはは……、お手柔らかにお願いします」
「それ、あんたの台詞じゃないだろうに…」

 どこかで聞いた様なやり取りの後で、葛ちゃんは一通りみんなを見回して、

「大変ごめーわくを、おかけしました」

 すっと立って一礼する。葛ちゃんは経観塚の案件が解決する迄烏月さんとここに留まり、
その後若杉に戻って家を継ぐ準備に入るという。烏月さんは安全を考えて先に家に戻る方
が良いと言ったけど、目の前で押し切られた。

 葛ちゃんが待避する程の危険があるのなら、わたしの待避も要ると。安静が必要と言う
より、ユメイさんと一緒にいたいわたしがここを離れない以上、烏月さんがそれに安全対
策をする以上、葛ちゃんがいても問題はないと。

「正式に若杉を継ぐとなったら忙しくて、もう桂と中々会う事もできなくなるんだろう?
 夏休み期間位は、葛も居て良いじゃないか。桂の逗留も引っ張って夏休み終り迄だ。も
う宿縁は絡みついたんだ。今更危険云々で遠ざける必要もない。危険自体も少ない様だ
し」

 サクヤさんの、やや軽いノリの説得に烏月さんが折れたのは、期間限定だからだろうか。

 第一の案件が比較的順調に終えた後、波乱を呼ぶ第二の案件に話題が移る。ここがわた
しとノゾミちゃんにとって、本当の正念場だ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂ちゃんがノゾミの夢から目覚めた時点で、ノゾミが既に桂ちゃんの生命を奪う積りが
なかった様に。桂ちゃんを間近に抱いた時点で、わたしは既にノゾミの生命を奪う選択を
失っていた。桂ちゃんを守ってくれたノゾミにわたしは手を下せなくなっていた。再度ノ
ゾミが桂ちゃんに牙を剥くなら、話は別だけど…。

 一つ気掛りな点はあった。消滅寸前に力の落ちたノゾミが、どうやって青珠に己を取り
憑かせたのかが不確かな事だ。依代を繋ぐにはかなりの力が必要となる。濃い現身を取れ
る今のわたしにも、それは簡単ではなかった。

 桂ちゃんが青珠を消え掛ったノゾミに差し出した所迄はわたしも視た。でもそこでご神
木に己を繋げたわたしは、現身を解いて桂ちゃんの間近に己を飛ばした為に、数十秒の空
白がある。わたしが辿り着けた時には、ノゾミは既に青珠に根を繋いでいた。わたしの見
立てではノゾミが独力で青珠に己を依り憑かせる事は殆ど不可能だった。ミカゲに良月か
らの力を断たれ、残った力をミカゲとの戦いに費やしたノゾミに、余力は残ってない筈だ。

 桂ちゃんの血を啜った様子はないし、啜っても依代に憑いてないノゾミには効果がない。
器に囚われない力は、拡散して崩れるだけだ。ノゾミがどの様に青珠に己を繋いだか、そ
の意識を視たけど、生死の境を彷徨った時の像は混濁して読み取り難い。かなりの力が必
要不可欠な筈だけど。青珠の力も減ってないし。

 とりあえず今は状況を受け容れるしかない。

「改めて、紹介するね。元・鏡の鬼で、今はわたしの青珠に宿っている、ノゾミちゃん」

 ミカゲちゃんと一緒にわたしの贄の血を狙っていたけど、昨夜はミカゲちゃんから守っ
てくれた生命の恩人。わたしのたいせつな人。

「ノゾミよ……」

 サクヤさんも烏月さんも、桂ちゃんの紹介と当人を目の前に、暫くは声もなく思案顔だ。

「双子……双子……ええと、双子ですか…」

 葛ちゃんは双子という言葉が引っ掛るのか、呟きながら考え込んでいる。彼女達は、助
かったとはいえ尾花ちゃんを傷つけ、葛ちゃんを傀儡にして、少量でもその血を啜った敵
だ。

「ああ……思い出しました。
 確かわたしのご先祖様が、ここ経観塚で起きた神隠し事件を解決しているんですよ」

「……神隠し?」

『そういえば、このお屋敷の事を訊いた時に、そういう噂も耳にしたけど。火のない処に
煙は立たないというか、実際あった事なんだ』

 桂ちゃんが頷きつつノゾミを見ると、ノゾミは平静というより、やや挑む感じで黙して。

「その神隠しを起した犯人は、血を吸う双子の鬼でして……ノゾミとミカゲという、ハシ
ラに封じられた主のしもべなんですが」

「血を吸う双子の鬼……」

「ノゾミ達が村の人を操って、山の蛇神である主を封じたハシラの封じを解こうとご神木
を切り倒そうとしたのが事の真相よ」

 元々のオハシラ様と感応したわたしはそれをありありと思い浮べられる。

「あの鏡が双子の鬼の本体で……わたしのご先祖様はその鏡を封印して、村の長者に事後
を託したそーなんですが」

 ノゾミはやや不快そうに黙って聞いている。

「さて、鏡の小鬼の処遇ですけど……」
「そうだねぇ、あたしは後腐れない様にバッサリ殺っちまった方が良いと思うけどねえ」

 サクヤさんが冒頭言ってしまうのは、即座にそうする積りがないからこそだ。そうとは
分るけど、桂ちゃんはその流れを捨て置けず、

「待ってよ、サクヤさん……」

 幾ら後腐れない簡単な方法だからって。

「流石に殺しちゃうのは可哀相だと思う」

「ですが桂さん。この鬼は、既に犠牲者を出している」
「ううっ……」

『そう言われてしまっては反論しようがない。尾花ちゃんだってノゾミちゃんの手であん
な風にされてしまった訳だし。……仲良くしようと言っても簡単に行かないとは分るけ
ど』

 烏月さんもサクヤさんも、ノゾミを許す積りで今迄看過した訳ではない。ノゾミの受容
の是非を問えば、擁護するのは桂ちゃん1人。

「だけど、それでも……」

 ノゾミちゃんにもう人を襲わないと約束させるから、必要な時はわたしの贄の血を飲む
だけで賄うから、何とか許して貰えないかな。

 桂ちゃんが葛ちゃんを見つめるのは、桂ちゃんが知る一番大きな犠牲者が、尾花ちゃん
と葛ちゃんだからだ。葛ちゃんがノーを出す限り、桂ちゃんもノゾミを受け容れられない。

「甘いです! 甘過ぎです、桂おねーさん」

 そんな桂ちゃんの優しさを心から愛しつつ、それは余りに危ういと葛ちゃんは畳み掛け
る。

「そ、そうかな?」

「例えば自分の家に不法侵入者がいたとして、その犯罪者を許した上で、ついには同居さ
せてしまうほど甘いです」

「でもその家は使ってない家だったからだし、それにちゃんと相手は見て選ぶよ」

『それに今わたしが生きていられるのも、その不法侵入者のお陰でもある。ユメイさんと
サクヤさんと葛ちゃんは、昨日ここでわたしの生命を繋いでくれた、みんな生命の恩人』

 だから情けは人の為ならず。と言うありがちな一般論を振りかざそうとした桂ちゃんに、

「大体彼女は本当に桂さんを助けたのかい」

 烏月さんが、怜悧な眼差しを向けて問う。

「桂さんは邪視を防ぐ術を知らない。夢や幻を都合良く操られて、そう思わされている怖
れが拭えない。……私は鬼の言う事を、確たる証もなく軽々しく信じる気にはなれない」

 問答無用という姿勢ではないけど、つい少し前迄敵だったノゾミに懐疑は拭えない様だ。

「そんな……葛ちゃんも、あの場にいたから、分るでしょう? ノゾミちゃんは、ミカゲ
ちゃんからわたしの生命を守ってくれたって」

 桂ちゃんは、自分以外の客観的な証言を欲して葛ちゃんに、視線と声を投げかけるけど、

「その様に見えなくもなかったんですけど」

 葛ちゃんの答は曖昧だ。何故かというと、

「わたしが彼女達の邪視の所為で、見た物を確かに認識できない状態にありましたので」

 わたしの見た印象も、邪視に操られた結果である可能性は否定できません。

「贄の血を巡って仲間割れした末に、その片割れが邪視で桂の記憶を操って、青珠に取り
憑いたって可能性も、あるって話だろう?」

 サクヤさんが簡潔に纏めた危惧は、展開が急すぎて受け容れ難いという、常識的な物で。
桂ちゃんは必死な視線をわたしに送ってきて、

「ユメイさん、お願い。ノゾミちゃんはもう敵じゃないの。ミカゲちゃんからわたしを守
ってくれたの。みんなに信じて貰いたいの」

 そうね。わたしは桂ちゃんの願いを込めた愛すべき問に、静かに頷いて、事実を応える。

「ノゾミは確かに桂ちゃんの生命を吸い尽くそうとしたミカゲから桂ちゃんを守り、存在
を危うくされても退かなかった。その為に鬼の姉妹共通の依代だった良月を、桂ちゃんに
叩き割らせた。己より桂ちゃんを重んじた」

 ノゾミが桂ちゃんを守らなければ、その生命は保てなかった。誰の助けも間に合わなか
った。それは邪視による印象操作でもなく幻でもなく、紛れもない事実です。ノゾミは主
への想いより、桂ちゃんへの想いを重く見た。

「……柚明はその場に居合わせたんだっけ」
「わたしは桂ちゃんと繋っていますから…」

 殆どの状況は把握できました。桂ちゃんとノゾミの言う事は、嘘でも幻でもありません。

 桂ちゃんが顔に出して、ノゾミが余り表には出さず、とりあえずほっとする様子が分る。
サクヤさんと烏月さんは尚思案顔でいるけど、

「……せめて封印という辺りが、譲歩の限度でしょーねぇ。鬼切部としては」

 葛ちゃんの答に2人が同意の視線を合わす。

「また封じられるのね……」

 ノゾミの強気が微かに陰る。それは葛ちゃんの先祖に封じられて以降、ずっと良月から
出られずにミカゲと2人だけで過した歳月を思い浮べてなのか。あの日々に戻るのかと…。

「あんたのやってきた事からすれば、封じられるだけで済まされるのも、甘すぎる位さ」

「分っているわよ。私がした事なんだから」

 ノゾミはふわっと浮いて、みんなが囲むちゃぶ台の上に飛び乗ると、サクヤさんと烏月
さんを向き、両手を揃えて付きつつ挑む様に、

「……どうせなら、封印等せずに消滅させて下さらない?」

 確かな意志の籠もる目線で訴えかけた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ノゾミちゃん!」

 わたしの説得が足りない為に、わたしの想いが及ばない為に、みんながノゾミちゃんを
信じられず、ノゾミちゃんが痺れを切らした。

 ノゾミちゃんの動きに、周囲がざわついた。サクヤさんも烏月さんも迎え撃つというか
攻撃寸前に腰を浮かせ、状況は一触即発となる。

「駄目だよ。そんな、諦めちゃ……」

 みんな話せば分ってくれるよ。烏月さんは最初、ユメイさんも切ろうとしたよ。サクヤ
さんも烏月さんと力を合わせているし。葛ちゃんも、烏月さんやサクヤさんと色々あった
んだよ。ノゾミちゃんだけ出来ないなんて!

 ノゾミちゃんの衣を後から掴んで冷静になる様に、ひとまず下に降りる様促すわたしに、

「良いのよ、桂……。私は」

 贄の血を狙った悪鬼だったから。主さまのしもべだったから。己の行いは知っているわ。

「夢を操る鬼が夢なんか抱いちゃいけなかったのよ。所詮、望みは叶わない。自由は…」

 生命から解き放たれる事でしか、手に入らないのかも知れない。微かに右から振り向い
た顔つきは、この上もなく寂しそうな笑みで、

「ノゾミちゃん! 駄目だよっ」

 ノゾミちゃんはサクヤさんと烏月さんを正面に、ユメイさんと葛ちゃんにも視線を送り、

「この上で中途半端な情けなんて要らないわ。封印なんてしないで、斬るか消すかして頂
戴。
 主さまを一番に想った頃とは違う。……主さまは私が何百年封じられても鬼神の長寿か、
悠久の封印で、助けを待って下さった。でも桂は散り急ぐ桜花の民なの。数十年経たずに
土塊に戻ってしまう人の身なの。病や怪我で、あっという間に生命尽きる人の身体なの
よ」

 今度封印されても、私に希望はない。望みはない。解き放たれるかどうか分らないより、
その先で桂に逢う事が二度とできないのなら、封印されても生命を繋がれる、意味がない
…。

 わたしが欲したのは桂との何でもない時間。巡り来る日々。過ぎ行く歳月。それが手に
入れられない生命には、今更未練は持たないわ。

「鬼切り頭の先祖に封じられた時は、ミカゲと2人だった。今となってみれば妹でもなか
ったミカゲだけど、封印の薄闇の中でも1人でなかった事は心の支えになったわ。そのミ
カゲをこの手で殺めて、1人になって、そこ迄して求めた桂に二度と逢えないと分って封
じられるなんて、今の私には耐えられない」

 せめて滅ぼして。死ぬ事もできず封じられるのは、望みも持てず唯悠久にあり続けるの
は。主さまを解き放つ望みを捨て、桂と過す望みもない私に、これ以上生きる意味はない。

 サクヤさんは間近に来たノゾミに我知らず殺気だった様で、人以上の気配を醸し出して、

「あたしは募る恨みと言うより二度と禍根を残さない為に、あんたに消えて欲しいんだ」

「同感ですね。鬼の言う事は信用できない」

 烏月さんは立ち上がって維斗の鞘に手をかけた。抜き放てば振り下ろすだけの間合いだ。

「ノゾミちゃん! 降りて。そこから降りて。何とか2人で、お願いしようよ。烏月さん
もサクヤさんも、きっと分ってくれるよ。丁寧に説明してお願いして、葛ちゃんにもユメ
イさんにも謝って、許して貰おうよ。わたし」

 ノゾミちゃんを失いたくないから!
 必死で長い袖を引っ張るわたしに、

「私、千年主さまを心から好きだったから」

 それを今更、なかった事には出来ないわ。
 それが罪になるなら、それは受けないと。

 その為に為した様々な因果の報いは受けないと。それも紛れもなく私の行いだったから。

「あなたを好きになれた事は幸せだったけど。今宵主さまではなく、あなたを選んだ事に
は一かけの悔いもないけど。でも今更なのよ」

 この反応は当たり前だし、それを受けて消えるのも私の自由の内。桂を好きな私の侭で
逝けるなら。封印されていつあなたが死したかも分らず、唯あるだけの余生を送るよりは。

「……あなたの血筋に為してきた因果の報いを受けて逝く方が、まだ心残りがないわ」

 封じられ、最期の最期迄自由がなく自身の死も選べない悠久より、今ここで斬られて散
る方を望む。死ぬ時位自由に選ばせて頂戴な。

「ノゾミちゃん、だめぇっ!」

 わたしは、ちゃぶ台に上がってノゾミちゃんにしがみついた。一緒にいれば、ぴったり
くっつけば、少なくとも次の瞬間に維斗に斬られる事はない。絶対にそれはさせないっ!

「桂おねーさん」「桂ちゃん……」

 ノゾミちゃんの声はむしろ静かで、わたしの方が泣き喚きに近い状態は分っていたけど、
今鎮まってはいけなかった。今引いてしまうとサクヤさんか烏月さんがノゾミちゃんを…。

 2人共わたしのたいせつな人だけど、でも、ノゾミちゃんもわたしのたいせつな人だか
ら。誰1人欠けずに日々を送りたいから。笑いあって過したいから。例え過去に何があっ
ても、今これから仲良くしようと努力はできるから。もう敵対しなければならない事情は
ない筈だ。

 ノゾミちゃんはわたしの生命を狙ってない。
 ノゾミちゃんは主の為に贄の血を欲しない。

 ノゾミちゃんはもう他の人に害を与えない。
 だから一緒にいれる筈、共に生きれる筈だ。

「ノゾミちゃんには、生きて欲しいから!」

 ずっと幸せも自由も得られずに、病と閉じこめられるだけの人生で、鬼に成っても千年
近く封印されて、たいせつな人に会えないで、その上今夜はそのたいせつな人に捨てられ
て。

 わたし分っちゃったから。ノゾミちゃんの辛さや哀しみを分ったから。捨てておけない。
その一部はわたしの所為、わたしがノゾミちゃんを主から引き剥がした所為でもあるから。

「ノゾミちゃんと分りあえた事、後悔してないよ。でもその所為で、ノゾミちゃんがミカ
ゲちゃんに絆を切られ、今のこの状況になった。ノゾミちゃんがわたしを選んだから。わ
たしを選ばせたから。わたしが誘ったから」

 妹だと千年信じていたミカゲちゃんの真実。
 慕っていた主に要らないと宣告された悲哀。
 捧げ尽くす対象をなくし生きる目的を失い。

「わたしがそうさせちゃったから。一途で純真で強かったノゾミちゃんを、曲げさせたの
はわたしだったから。だからわたし責任を」

 責任を取らないと、わたしがノゾミちゃんの人生を奪った事になっちゃう。大好きだっ
たのに、たいせつな人だったのに、その人を哀しませて滅ぼす事になっちゃう。嫌だよっ。

「わたし、ノゾミちゃんが好きだからっ!」
「けい、あなた……」

「だから死ぬなんて言わないで。絶対分って貰えるから。今のノゾミちゃんを、烏月さん
も葛ちゃんもサクヤさんも分ってくれるから。そうでなかったら。ユメイさんが生命を分
けてくれる筈ないから。だから諦めないで!」

 たいせつな人は失いたくない。もう1人も。

「お願い! 烏月さん、葛ちゃん、サクヤさん、ユメイさん。ノゾミちゃんを、許して」

 生命を諦めかけたノゾミちゃんを、むしろわたしが無理矢理現世に押し止めようとする。

「ふぅ……仕方のない子」

 わたしの必死の主張が通じて、最初に折れてくれたのはユメイさんだった。

「お話を整理しましょう」

 ノゾミを許し難い人は許し難い理由を、ノゾミを受け容れたい人はその理由を踏まえて
受け容れる為にノゾミに課す条件を考えるの。今迄敵同士だったのだから、信頼関係はこ
れから作る物で、今はゼロよ。でも、その条件や枠組が信用に足りれば、何とかできるか
も。

「ユメイさん……」

 条件交渉に入るという事は、ノゾミちゃんの受け入れが前提にある。葛ちゃんと烏月さ
んが複雑な苦い表情を見せたのは、その故だ。

「柚明は桂に甘いよねぇ……」

 サクヤさんが、やや呆れた語調で嘆くのに、

「そうかも知れませんね。ですから、厳しくするのはお任せします。桂ちゃんに嫌われる
のは、嫌ですから」

「あたしだって、好き好んで嫌われたくはないよ」

 大仰に肩を竦め、溜息を吐く。それに微笑みつつユメイさんは次に烏月さんを正視して、

「桂ちゃんを倒し叩きのめしてでもノゾミを斬れる・滅ぼせる人がこの中にいますか?」

「そうする事が、桂さんの為になるのなら」

 烏月さんは、視線をわたしとノゾミちゃんからユメイさんの方に向け直してそう応える。

「その行いが、桂ちゃんを哀しませても?」
「最終的に、桂さんを守る事に繋るのなら」

「そうなると烏月さんは想っていますか?」

 そこ迄問われ、烏月さんは微かな迷いを表情に浮べた。わたしの必死の訴えは、烏月さ
んを惑わせる位には利いている様だった。

「ノゾミは桂ちゃんと深く交わりすぎました。もう引き剥がせない。その為には昨夜から
の記憶を抜き取る位の荒療治が必要ですけど」

 瞬間わたしはビクッと震えた。ユメイさんの今の力なら、それ位できるのかも知れない。
昨夜からの経緯を全部忘れれば、わたしにとってもノゾミちゃんは唯贄の血を死ぬ迄飲み
干すミカゲちゃんの相棒でしかなくなる訳で。

「完全な消去が難しい以上に、それは桂ちゃんの為になりません。折角できたたいせつな
人を失わせ、記憶を失わせる。それは当人が何も傷つかず忘れ去るにせよ残酷な話です」

 その人の大切な物を奪い去る事ですから。
 奪われた事さえ忘れるのは寂しい事です。
 瞬間ユメイさんは哀しそうな顔を見せて、

「これ以上桂ちゃんの何も失わせたくない」
「分りました……まずは話を聞きましょう」

 烏月さんは態度留保の侭、話の推移を見守る事を了解してくれた。ユメイさんの纏める
話が信用に足る物なら、受けるという姿勢だ。

「……あんたは、良いんだね? 柚明」

 葛ちゃんに向こうとしたユメイさんを一度引き留めたのは、サクヤさんの低音な問いで、

「あたしは、あんたが良いというならあたしの分も呑み込む用意がある。あんたの覚悟と
想いに免じて、ノゾミを受け容れても良い」

 敢て訊くよ。一度だけだ。

 サクヤさんは、今迄一度も見せた事のない、怖い程に思い詰めた瞳をユメイさんに向け
て、

「あんたはこの鬼の為してきた事を全て受け容れて、桂の近くにいる事を認めるんだね」

 あんたではなく、ノゾミが桂の近くに居続ける未来を、あんた自身が選び取る事になる
んだよ。それにあんたは納得できるのかい?

『サクヤさんとユメイさんの間に、そして2人とノゾミちゃんの間にはどんな過去が…』

「どの様な結果になろうとも、桂ちゃんの日々に笑顔が残ればそれがわたしの幸せです」

 どんな未来を招こうと、桂ちゃんの守りが叶うならそれがわたしの望みです。わたしが
鬼に成って迄あり続けるのはその為ですから。

「一度だけの問に、一度だけ答えます」

 それがわたしの正解です。間違いなくそれがわたしの真の想いで真の願いで、真の望み。

 応えてからユメイさんは頭を深々と下げて、

「サクヤさん、有り難うございます」

 ユメイさんが納得したらサクヤさんが受容すると言った以上、ユメイさんの一存でサク
ヤさんの受容迄引き寄せた事になる。ユメイさんのお礼を受けるサクヤさんの表情が苦い
のは、きっと自身の不納得の故ではなく、ユメイさんの心情を思いやっての事なのだろう。

「やれやれですねー」

 最後に葛ちゃんが肩を竦めて溜息を吐いた。

「まあ、その不用心さが桂おねーさんの良い処かも知れないんですけどね。……とりあえ
ず、悪い虫がつかないかどうかが、心配です。一人暮しの財産持ちに、なりますからね
ー」

「ううっ……。でも、それを言ったら葛ちゃんなんかはすごいじゃない」
「わたしは充分用心深いですから」

 だから蟲毒の壺の最後の一人になれたと受け流し、葛ちゃんは膝の上でぎゅっと掴んだ
己の両拳をじっと見つめた。尾花ちゃんを傷つけた鬼への憎しみを浮べた怖い目を落し…。

「わたしの一番たいせつな桂おねーさんと、尾花を救ってくれたオハシラ様の言葉です」

 この度の様な事にならない措置を講じれば。

「桂おねーさんはともかくユメイおねーさんはその点考えがない訳ではないですよね?」
「一応の、考えはあります」

「……え?」
「私が信用されるに足る条件とか枠組とかについての草案の事よ、桂」

 わたしを置いてユメイさんとノゾミちゃんが話を繋ぐ。葛ちゃんはほうと息を吐き出し、

「桂おねーさんの、たいせつな人ですから」

 いつもの明るい瞳に戻っていた。

『ああ……。わたしはまた失敗してしまったんだろうか。葛ちゃんに自分を殺させてしま
ったんだろうか。だけど……』

 だけどわたしは間違っていないと信じたい。

 非常に徹し全てを切り捨ててしまう事を葛ちゃんが選んでしまえば、家出する前の葛ち
ゃんに戻ってしまうかも知れない。わたしの知っている自然で明るい葛ちゃんも一緒に切
り捨てられてしまうかも知れない。葛ちゃんが鬼切り頭になるなら、情けをかける余地も
余裕もない状況に出会う事もあるだろうけど。

「どーかしましたか、桂おねーさん?」
「ううん、何でもない」

 わたしは間違ってなかったと信じたい。
 葛ちゃんの為にも、ノゾミちゃんの為にも。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「で、具体的にどうする積りだい? 柚明」

 サクヤさんは諦めた顔で、わたしにノゾミをどうやれば無害化して安心できるかを訊く。
その気力のなさは、烏月さんの苦い端正さと並んで、桂ちゃんの安心の笑みとは好対照だ。

「わたし達にその気があれば、意外と難しくはありません。意外と単純で扱い易い鬼です。
 ……ノゾミ、サクヤさんの前に来なさい」

「どうして、継ぎ手の指図を受けなきゃ…」

 反発を顔色に見せるノゾミに、わたしは、

「たいせつな人の傍に居続けたいなら、少しだけ我慢して。あなたの選び望んだ、桂ちゃ
んの側での今後の日々を掴む為よ」

 ノゾミは不満を顔中に膨らませつつも従い、ちゃぶ台から降りてサクヤさんの間近に立
つ。

 すんっ、すんっ。

 鼻をひくつかせる。サクヤさんも気付いた様だ。確かめる様に、ノゾミの首筋や肩や脇
の辺りに顔を寄せて、匂いを嗅ぐけど。思わず身を引くノゾミの肩を後ろから軽く抑える。

「食べたりはしないから、安心なさい」
「こ、怖くなんかないわよ。別に……」

 己の嗅覚に疑念を持つ感じで、大きく鼻に空気を吸い込むけど、予期した物はない筈だ。

「感じないでしょう? サクヤさん」

 桂ちゃんも烏月さんも葛ちゃんも、ノゾミ自身も何がどうなのか分ってない。実はわた
しも嗅ぎ取れる訳ではなく、予測なのだけど。

「主の匂いが、あの嫌な蛇の臭いがない…」

 サクヤさんが自身の鼻が信じられないという顔で見つめるのに、わたしは微笑み返して、

「では、烏月さんにも確かめて貰いましょう。烏月さんには嗅覚ではなくて、視覚の方
で」

 ノゾミの肩を後ろから軽く押して、

「烏月さんの前に行きなさい」

「どうして、継ぎ手の指図を受けなきゃ…」

 再度反発を見せるノゾミにわたしは再び、

「たいせつな人の傍に居続けたいなら、少しだけ我慢して。あなたの選び望んだ、桂ちゃ
んの側での今後の日々を掴む為よ」

 ノゾミは再び不満を顔中に膨らませつつ従い、ちゃぶ台を回って烏月さんの間近に立つ。
烏月さんも立ち上がってノゾミを見つめ、右の瞳を蒼く光らせるけど、十数秒続けた末に、

「どういう事だ。……鬼は鬼だが、昨夜までの小鬼とは色合いが違う。気配が、異質だ」

「わたしは分らないけど」「分らないです」

 桂ちゃんと葛ちゃんに違いは見えてない。

「ノゾミは主の影響をほぼ完全に脱しました。ノゾミは、主のしもべではなくなりまし
た」

 ノゾミを鬼にしたのは主です。故にノゾミは今迄永く主の影響下にありました。邪視の
傀儡とは違うけど、行動や発想に主の影響が滲んでいます。時に残酷で、生命ある者を軽
々しく屠るのも、元々の資質以上に主の影響です。子が親に学ぶ様に、友を見て倣う様に。

「ノゾミは主に良月に取り憑かせて貰う事で鬼に成りました。その時点で良月も主の影響
を受けています。鬼に成ったノゾミを満たす力と想いは、良月に込められた自身の呪詛や、
それ以前に良月に込められた怨念、主が注ぎ込んだ想いと力、ノゾミが啜った人の想い」

 しかもノゾミにはミカゲという主の分霊が同伴でした。影響を受けない方が不思議です。
ノゾミは己の判断と想いとで動いていたでしょうけど、その前提は既に、傾き歪んでいま
した。邪視に操られた人と変らないでしょう。

 今のノゾミは新しい鬼、血に飢えた過去と切り離された、真っ白の状態の鬼の赤子です。

「今迄の事は、ノゾミの責任ではないと?」

 烏月さんが、視線を鋭く問うてくるのに、

「全てノゾミの責に帰する事はできないと言う事です。問題は過去ではなく今後。今後の
ノゾミに、血生臭い主の影響は及びません」

「主さまは、一度捨てた物は拾わないわ…」

 わたしは主さまの元に戻れない。でもそれ以上に、私は桂を大切に想ってしまったのよ。

 ノゾミは、訥々と自身の想いを語り始めた。

 ノゾミはミカゲに切り捨てられる前から桂ちゃんの生命を奪えなかった。だからこそミ
カゲはノゾミを切り捨てた。ノゾミの中で答は既に出終っていた。主を拒み逆らってでも、
ノゾミは桂ちゃんをたいせつに想い守り抜く。

「主が桂おねーさんの血を渡せと言っても?
 主が桂おねーさんの血を渡せば元の関係に戻してやると言っても、拒んで桂おねーさん
を守る為に戦えますか? できますか?」

「あなた、主さまの強大さを知らないから、そんな怖ろしい事を軽々しく言えるのね…」

 葛ちゃんの冷徹な瞳をノゾミも睨み返し、

「守るわよ。主さまの前では、贄の血を幾ら得たって私なんて鼠以下の存在だけど、それ
でも桂が喰い殺されるのは見ていられない」

 ノゾミが冷や汗混じりなのは、それがかなり剛胆な発言だからだ。主の強さを知る者は
この中では他に、サクヤさんとわたしだけだ。故にその重みを知るサクヤさんは少し感心
し、

「良月が割られミカゲが倒され、消滅寸前に消耗した後、桂の血と柚明の癒しでノゾミは
中身も入れ替わり、真人間になりましたと」

 そう言う事かね。サクヤさんの解説に、

「血は力、想いも力。だから、血は心……」

 ノゾミもミカゲも、力の源だと桂ちゃんの血に思慮もなく吸い付いた。その時点で桂ち
ゃんの心はノゾミとミカゲを染めていました。

「結果、ノゾミの中に桂ちゃんの想いが根付いてしまい、この結果を招きました。それも
定めだったのかも知れません。今となっては、ノゾミは桂ちゃんとわたしの影響を強く
…」

「冗談! 桂はともかく、あなたなんかの」

 ノゾミの憤りは流して、わたしは静かに、

「桂ちゃんの心が多くを占める以上、ノゾミに危険は非常に少ない。ご理解頂けますか」

 今後もノゾミは少量桂ちゃんの血を受ける。常に現身を取る必要はないけど、吸血の必
要は双方にある。ノゾミが贄の血を飲めば、力は青珠を満たし、余録でノゾミの霊体を保
つ。

 それを重ね行く限り、桂ちゃんの心はノゾミの霊体を満たす。ノゾミは桂ちゃんになる。
桂ちゃんの心を持てばノゾミが桂ちゃんに害となる怖れは減る。人一般に害を為す怖れも。

「安全性は増し続けます。桂ちゃんの血を飲みすぎない様注意さえすれば、ノゾミは桂ち
ゃんとなって、2人で日々を笑って過せる」

 わたしは葛ちゃんに向き直って、

「どうでしょう? 桂ちゃんを信頼できるなら、ノゾミを信頼に足るという論法ですが」

「わたしは狭量なので。桂おねーさんは信頼しますけど、桂おねーさんと同じ心を持って
も身体は別の人を完全に信頼はできません」

 葛ちゃんは、桂ちゃんに見られない角度に視線を向けて、やや俯き加減に低めな声音で、

「ノゾミは桂おねーさんではないです。元々の心があってそこに混ぜ合わせる以上、桂お
ねーさんと全く同じにはなれない。桂おねーさんも天使じゃない。怒りを抱く事もあれば、
人を嫌う事や憎む事もあるでしょう。人の心はいつ何処に、どんな闇を生じるか分らない。
 わたしは桂おねーさんをたいせつに想いますけど、桂おねーさんと同じ心を手に入れて
もノゾミを全面的に信頼はできません。考慮には値しますけど、保険が欲しい処ですね」

「その鬼が人を襲えなくなる、桂さんを襲えなくなる様な措置が、一段必要でしょう」

 2人の反応も当然だった。わたしは頷き、

「考えてあります。ノゾミ、いらっしゃい」
「どうして、継ぎ手の指図を受けなきゃ…」

 三度反発を見せるノゾミにわたしは三度、

「たいせつな人の傍に居続けたいなら、少しだけ我慢して。あなたの選び望んだ、桂ちゃ
んの側での今後の日々を掴む為よ」

 ノゾミは三度不満を顔中に膨らませつつ従い、桂ちゃんの後を通りわたしの間近に来る。

「言霊で縛ります。ノゾミ自身にここで、約束させます。葛ちゃんはご存知でしょうが」

 霊体の者の約束は、肉を持つ者のそれと違って簡単に反故にできない。想いだけの存在
が一度でも己の口に上らせた想いを覆す事は、自身の否定に繋りかねないのだ。受け容れ
て明言すれば言霊になって心を縛るし、約定を破れば心に棘となって刺さり続け、判断を
鈍らせ意志を挫き全ての所作に差し障り続ける。外からそれを指摘すれば、効果を倍増さ
せられる。極端な話、生殺与奪を掴む事も出来る。

 一言承諾させられれば、絶対と言わない迄も相当の効果を見込める為に、守る気のない
約束は簡単に口にできない。故にノゾミも気易く承諾しないだろうけど一度承諾させれば。

「ここで桂ちゃんに約束なさい。桂ちゃんの生命を奪わないと。桂ちゃんを守ると。桂ち
ゃんと桂ちゃんの大切な人と、自身を守る以外人に危害を及ぼさないと。ここで確かに」

「あなたに言わされる事ではないわよっ!」

 ノゾミが憤懣をぶつけてくる。ずっとわたしの指図を受けている事が気に入らない様だ。

「ではあなたの意志で桂ちゃんに約束して」
「……」

 言霊は人の心を縛る。自由を心から望むノゾミには叶う限り外したい選択肢だったろう。
それが望む縛りでも縛り自体をノゾミは嫌う。でもこれは必須だった。ノゾミが嫌う縛り
だからこそ有効でありみんなを納得させられる。

「たいせつな人の傍に居続けたいなら、少しだけ我慢して。あなたの選び望んだ、桂ちゃ
んの側での今後の日々を掴む為よ」

 四度わたしが同意を求めるのにノゾミは桂ちゃんに向き、やや恥ずかしげに俯き加減で、

「私は桂の生命は奪わない。私は桂を守るわ。私は、桂と桂の大切な人と、自身を守る以
外に人に危害を加えない。……これで良くて」

 わたしは、ゆっくりと頷いて見せてから、

「では、他のみんなにも同じ事を約束して」

 言霊の縛りを、桂ちゃんとの間だけでなくこの場の全員と交わし、幾重にも強くするの。

「桂を守ると、みんなに約束しろって事?」
「あなたの真意なのだからできるでしょう」

 縛りを重ねる事に気乗りしない様子のノゾミだけど、桂ちゃんに既に約束した以上、そ
れを守る積りでいる以上、幾重同じ約束を重ねても問題はない。後は彼女の気持の問題だ。

「さっきからハシラの継ぎ手、あなたに従わされている様で、気に喰わないわ!」

 駄々っ子の顔つきが挑み掛る感じなのに、

「その口でわたしに逆らう事はもう無理よ」

「どういう事よっ。確かにこの身を消滅から救ったのはあなただけど、あれは桂の頼みが
あっての事よ。あなたに向ける感謝は要らないって、あなた自身言っていたじゃないの」

「その事ではないわ」

 わたし、いつでもあなたの口を塞げるの。
 あなたのどんな不満も憤りも塞げるから。

 わたしはノゾミに右手をゆっくり伸ばして、その薄い紅の唇に人差し指を軽く触れさせ
て、

「おしゃぶり、まだ忘れてないでしょう?」

 ほんの少し気付くのに間を要した後、一瞬でノゾミが、耳朶まで赤く染まるのが見えた。

「あ、あ、あなた!」「分ってくれた…?」

 周囲は何がどうなのか繋りが見えてない。

「ノゾミ、ちゃん?」「な、何でもないわ」

 桂ちゃんがノゾミの顔を覗き込むのに、ノゾミは心を覗かれた錯覚で、視線を逸らして、

「卑怯よ継ぎ手! やらせておいて後から」
「わたしは秘密にするとか約束してないわ」

 わたしにも、喋る自由と黙る自由がある。

「……仮にそれを明かせば、あなたも自爆になるのよっ! それでも良いって言うの?」

 ノゾミは動揺を抑えつつ反撃に出るけど、

「明かして構わないならわたしは良いのよ」

 あなたがわたしに逆らい難い理由を。安心して良い背景を。離れ難く繋っている事情を。

 サクヤさんと烏月さんを振り返った瞬間、

「待ちなさい、継ぎ手っ! 分ったから…」

 従ってあげるからあなたが口を閉じなさい。
 ノゾミが全身を真紅に染めて降参する様に、

「ユメイさん、すごい。一言で」
「ノゾミを飼い慣らしちまった」

「これは流石に、驚きですねー」
「どんな魔法を使ったのです?」

 烏月さんの問に姿勢を向け直したわたしに、ノゾミがビクと身を震わせる。それを横目
に、

「マジックの種は秘密である事が肝要です」

 さあ、ノゾミ。みんなに言葉でお約束を。

「……わ、わ、分ったわよ……」

 ノゾミが本当に嫌ならば、その位の羞恥で折れる筈がない。ノゾミは折れるきっかけを
探していた。桂ちゃんを巡る人間配置の中で、己の居所を定めかねていた。千年を生きて
きても、桂ちゃんを巡る関係では新参で、つい数時間前まで敵方だったノゾミは、桂ちゃ
んとは別に誰かと関係が深くないと、安定できなかった。いずれ他のみんなとも距離感を
掴めると思うけど、応対も身につくと思うけど。

「これで良いのでしょ? ハシラの継ぎ手」

 わたしを含む全員に桂ちゃんとの約束を口頭で述べ、ノゾミがそう尋ねて来た時はもう、
誰がいうでもなく受け容れるか否かの話には結論が出終っていた。わたしは静かに頷いて、

「ええ、これで良いわ。これで……」

 ノゾミが受け容れられる。桂ちゃんの望みは叶う。桂ちゃんはたいせつな人を失わない。
傷つかずに、哀しまずに、涙を流さずに済む。

 桂ちゃんの先行きを見守り、日々の喜怒哀楽を共にする人が増え、その人生に幸が増す。
贄の血の、重い定めを分ち合う支えが増える。それがわたしの望みだったから。わたしの
願いだったから。わたしの真の想いだったから。わたしは常に一番の人の笑顔の為に。だ
から、

「これで、良かったの……」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「入らせて貰うよ、柚明」

 人払いをかけた一室にサクヤさんがいきなり入ってきたのは、午後二時位だったろうか。

 ノゾミを受け容れる総意が纏まり、桂ちゃんが安心して布団に入ったのは、早朝だった。
葛ちゃんも疲れており、2人共わたしの力が抜けると糸が切れた傀儡の様に眠りについた。

 烏月さんも昨日朝から今朝方迄ずっと動き続けており、疲れ切っていた。正午近く迄死
んだ様な眠りに落ちた後、起きてきて軽い昼食を取り、今は別室で刀の手入れをしている。
ノゾミを信用できないので外出は控えた様だ。

 疲れを自身で拭えるわたしは、日の出後は尾花ちゃんに手を翳して癒しの力を注ぎ続け、
昼前に四肢を治し終えた。傷に伴う出血や疲労が残っているので全快は未だだけど、もう
一昼夜静かに過せば、走れる様になるだろう。

 日中ノゾミは現身を取り難い。無理をすれば多少は可能だし、夕刻になれば支障ないけ
ど、真昼顕れて力を費やせば桂ちゃんの血かわたしの癒しが必要になるので引っ込ませた。

 青珠からは時々声が聞えるけど、桂ちゃんも眠りの園で、他に受け答えする者もいない。
わたしはノゾミに、桂ちゃんを寝付かせる夢の操作を指示した。それに従い、桂ちゃんが
眠って応えないと承知で喋る。ノゾミとは…。

 サクヤさんも、午前中は殆ど寝入っていた。みんなで軽い昼食を取った後、再び桂ちゃ
んと葛ちゃんと尾花ちゃんを寝かせて、後片付けをしている。わたしも手伝おうとしたけ
ど、

「あんたはずっと働き通しだろうに」

 少し休めと厨房から追い出された。

 実の処、少し苛立っている様子を見られたくなかったのかも知れない。ノゾミの受け容
れを承諾したけど、サクヤさんはきっと呑み込んで尚喉に引っ掛っているに違いないから。

 尾花ちゃんも普通の睡眠で良い状態になったので、少し手が空いたわたしは、奥の一室
に軽い人払いの結界を作って、暫く籠もって。故にサクヤさんが何の迷いもなく、声とほ
ぼ同時に一室に入ってきたのは少し意外だった。

「サ、サクヤさん!」「柚明、あんたねえ」

 返答の間があれば充分だったのに。2秒躊躇いを生じさせれば成功だったのに。即座だ
ったので、わたしは涙顔を取り繕えなかった。サクヤさんは怒った様な困った様な顔つき
で、

「こういう事だろうとは、想っていたけど」

 部屋に入り込んで、後ろ手に戸を閉めて、

「何年あんたと付き合ってきたと思っているんだい。あんたの考えや行動は大方読める」

 だから結界を察して逆に速攻で入ってきた。

 泣き顔を見られたくなくて、座り込んだ侭視線を逸らせるけど、サクヤさんは遠慮なく
わたしの間近に歩み寄ってきて、逸らしたわたしの視線の前に屈み込んで、両肩を抑えて、

「あたしとあんたは、哀しみも痛みも分ち合う仲だったろう。あんたの哀しみは同時にあ
たしの哀しみだ。あたしに迄隠れて泣く事はないだろうに。あんたは本当に不器用な…」

 潤んだ大きな瞳に正面から見据えられた。

「わたしがサクヤさんの哀しみを招いたから。自分はともかく、桂ちゃんの為とはいえ、
サクヤさんの心も踏み躙ってしまった。ノゾミを受け容れさせてしまった。そのわたし
が」

 ノゾミの過去をサクヤさんは忘れたくても忘れられない。サクヤさんの千年の哀しみも、
千年の末の絶望も、全てがノゾミに起因する。羽藤の血筋にと言うより、ノゾミはサクヤ
さんの生涯に影を落し続けて来た。サクヤさんのたいせつな人を奪い、漸く見つけた居場
所を奪い、生きる望みを幾度か断ち切りかけた。サクヤさんにこそノゾミは許せない者だ
った。

「今更許しを願える立場じゃないけど……」

 桂ちゃんの為には、それしか術がなかった。自覚して、サクヤさんの想いを、踏み躙っ
た。正にその故にわたしの慚愧は尽きる事がない。

 今後ノゾミは桂ちゃんの青珠に宿り、人生を共にする。サクヤさんは一番たいせつな人
に会う度に、苦味を思い返す。サクヤさんが何を哀しむのかを知らずに微笑む桂ちゃんに、
サクヤさんは笑みを返しつつ、きっと見えない所で涙する。たいせつな人に生涯打ち明け
られない、その人自身の失った過去を抱きつつ。失った羽様の日々の幸せも伝えられずに。

「ごめんなさい。わたし、サクヤさんを傷つけて、哀しませ。幼い頃から今に至る迄ずっ
と頼りっぱなしの上に、酷い事を繰り返し」

 たいせつな人だったのに。一番に想った事もあるたいせつな人だったのに。わたしはそ
の心を温める事もできず、哀しみの種を蒔き。

「わたしの所為。全部わたしの所為だから」
「ああ、あんたの所為だよ。そうともさ…」

 サクヤさんは、わたしの両肩を掴む両腕の力を強くして、わたしの逃げ場を失わせて、

「だからあんたに責任を取って貰わないと」

 故にあんたが1人で哀しむ事は許さない。

 隠れて泣くのは構わない。桂に哀しみを見せれば必ず桂は哀しむ。それは分るよ。でも、

「あたしに隠れて泣くのは、許さないよ!」

 強い声で間近に顔を寄せるサクヤさんに、

「サクヤさんの哀しみを招いたわたしが…」

 哀しませた側が、哀しまされた側と悲哀を共にする。そんな非礼は許されない。踏みつ
けた側と踏みつけられた側では、立場が違う。

 横に首を振って抗うわたしに、上から唇が降りてきて、この唇に軽く触れた。それはわ
たしの言葉を塞ぎ、わたしの拒みを封じ込め、

「あたしの哀しみを理解できるのは、もうあんただけなんだよ。そしてあんたの哀しみを
分るのも、もうあたしだけしかいないんだ」

 唇はすぐ離れるけど心はずっと繋っている。
 わたしはサクヤさんの言葉に静かに頷いた。

 羽藤の家の言い伝えも積み重ねも、わたしで途絶える。笑子おばあさんの心を継いで、
サクヤさんの哀しみを受け止める者はもういない。桂ちゃんはいるけど、承け継いで繋ぎ
伝え行く、時を越えた想いを持たない桂ちゃんには、サクヤさんの哀しみを共有できない。

「あたしを1人にする事は許さない。あたし達は傷つけあっても離れられない、赤い糸を
絡めた仲だ。悠久を共に過す仲だ。……あたしも千年の哀しみをあんたに分つから、あん
たの哀しみを分けておくれ。あたし達は、否、あたしはもう、独りになりたくないんだ
よ」

 澄んだ瞳から大粒の涙が零れ落ちる。カーテンを閉ざし、薄闇に包まれた一室で微かな
光を反射してそれは、輝く雨粒となって散る。言葉も涙もすぐに散って消えてなくなるけ
ど。

「あたしに泣きついておくれよ。オハシラ様になったって、歳はこっちの方が上なんだ」
「有り難う……嬉しい……」

 その想いは悠久に。そしてサクヤさんもわたしもその存在は悠久に。その怒りも痛みも
哀しみも、終る事なく尽きる事もなく共有し。

 わたしがサクヤさんの大きな胸の間に顔を埋めたのか、サクヤさんがわたしを長くしな
やかな両腕で抱き寄せたのか。サクヤさんの確かな温もりを感じつつ、息遣いを感じつつ、

「わたしは、無力です。桂ちゃんの望みを全て叶える事ができない。どれかを叶える事で
どれかを切り捨ててしまう。桂ちゃんは過去を、自身の失った記憶を求めて経観塚に来ま
した。なのに、わたしはそれに応えられず」

 桂ちゃんは記憶を取り戻さない。ノゾミと共に生きる桂ちゃんの記憶を、わたしは取り
戻す事をしない。桂ちゃんは尚想い出したく願っているけど、それはノゾミをたいせつに
想ってしまった桂ちゃんの哀しみを招くだけ。

 関知で視た、ノゾミと町で日々を過す桂ちゃんに、過去を戻せた様子はなかった。逆に
過去を取り戻してしまえば、ノゾミは桂ちゃんの傍から去るだろう。居たたまれなくなる。

 僅かに視えていた可能性も潰え去った。わたしがこの手で摘み取った。桂ちゃんが過去
を甦らせ、ユメイを柚明と想い出してくれる微かな望みを、わたしがこの手で摘み取った。
でもわたしが悔いるのはむしろそれではなく、

「わたしはこの手で桂ちゃんの望みを断ちました。桂ちゃんのもう一つの望みを繋ぐ為と
はいえ、過去を取り戻したいとの望みに応えず、その途を事実上閉ざしてしまいました」

「だろうね。ノゾミはもう桂の記憶を戻そうとしないし、あんたもあたしもノゾミと桂の
仲を裂いて、哀しませたくない。赤い痛みに繋がり桂を苦しめるだけに終る。桂の羽様で
の日々はこの先も、忘れられた侭になるね」

 白花ちゃんも、正樹さんも、真弓さんや桂ちゃん自身の羽様での日々も、甦る事はない。
わたしは良いけど、わたしは受け容れるけど、桂ちゃんにとってたいせつな人達の想い出
を、伝えられない侭に終る事が残念で、悔しくて。

 元気で可愛かった幼い日の白花ちゃんと桂ちゃん、強くて美しい真弓さん、優しくて家
族思いな正樹さん。全てを包み込んでくれた笑子おばあさん。サクヤさんも交えて厨房で、
食卓で、庭で、森で、笑って過したあの日々。

 それを、桂ちゃんは想い出してはいけない。
 それを、わたしは想い出させてはいけない。

 それは蓋をして封じなければならない記憶。
 温かいけど決して甦らせてはならない記憶。
 取り戻す事が痛みを越え哀しみに繋る記憶。

 正樹さん達は、もう想い出される事はない。
 白花ちゃんもわたしもこんなに間近なのに。

 誰も何も為せなくて、為せるわたしは為さない事を選び取った。だからこの哀しみは全
てわたしの所為だ。正樹さんや幼い日の桂ちゃん、白花ちゃんの忘れられた哀しみは全て。
今の桂ちゃんは過去を失っており、それに哀しむ事も涙流す事もできない。痛みを痛みと
も分らない、その真の哀しみもわたしの所為。

 誰にも憶えられなくなる程辛い事はない。
 誰からも忘れ去られる程哀しい事はない。
 わたしは正にそれに手を添えてしまった。

 幼い日の桂ちゃんの悲嘆を受け止めてあげられず、今の桂ちゃんの想いにも応えられず。

「ごめんなさい、桂ちゃん……わたし……」

 これ程血と力を貰っても、これ程想いを寄せられても、これ程強く願われても。あなた
にお兄さんを想い出させる事もできない。力があっても手を出せない。下せない。白花ち
ゃんの寂しさも哀しみも分って、尚為せない。

「あんたの哀しみは、どこ迄も桂と白花の」

「自分の為に泣くのは全てが終った後で良い。何もできなくなってから、できる全てをや
り終えてから泣けば良いの。今の涙は違います。この涙は、もう泣く事もできない人達へ
の」

 わたしとサクヤさんしか憶えてない、泣いてあげられない、桂ちゃんの記憶から失われ
た大切な人の為の涙。正樹さんや羽様での真弓さん、幼い桂ちゃんと白花ちゃん、それを
思い返す事もできない今の桂ちゃんの為の涙。

「だから拭わないの。だから止めないの。溢れる侭に出させるの。大切な、たいせつな物
の為に流す涙は止めるべきじゃない。サクヤさんがわたしを想って、流してくれた涙と同
じだから。流さないといけない涙だから…」

 しっかりと悲しんで、しっかりと心に刻んで、思い切り泣いて明日に向き合い微笑むの。
最後迄桂ちゃんに、温かな笑みを返せる様に。訣れの瞬間迄、この哀しみを悟られない様
に。

「桂ちゃんがノゾミと幸せに暮らせる様に」
「柚明……、あんた……」

 世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。

 この行いに間違いはない。ノゾミを受け容れ、桂ちゃんの過去を閉ざした選択は正しい。
何度あの場に立ち戻っても、わたしは桂ちゃんの真の望みなら必ずあの様に応える。サク
ヤさんやわたしの心を踏み躙っても。正樹さんや幼い桂ちゃんの想い出を閉ざし葬っても。
二度と桂ちゃんがわたしを想い出せなくても。わたしは桂ちゃんを久遠長久に忘れないか
ら。わたしが抱き続けていればそれで充分だから。桂ちゃんの幸せと守りに必要なら受け
容れる。

「わたしは……幸せです……今でも尚……」

 たいせつなひとの幸せを護れれば。
 その人に忘れ去られても構わない。

 誰1人、わたしを知らなくなっても。
 誰1人、わたしを憶えていなくても。

 わたしが大切な人の為に尽くせているなら。
 わたしが大切な人の幸せを支えているなら。
 わたしはその事実で幸せ。とても、幸せ…。

 誰に知られなくても、わたしが知っていれば良い。誰に忘れ去られても、わたしが守り
通せれば良い。返される想いなんて求めない。わたしが、たいせつなひとを守りたかった
の。

 例え幾つ悔いを残しても、どれ程大きな傷を刻んでも、わたしの進む道は定まっていた。

「少しの寂しさも残念さも幸せの内。わたしが抱え込む限り、わたしの内に宿る限り、桂
ちゃんはそれを知る事なく、日々幸せに過し行く。わたしの悔いも哀しみも、桂ちゃんの
幸せの苗床に。それがわたしの幸せだから」

「……あんたは、いつもいつも、本当に…」

 抱き留めてくれる腕の力が痛い程に強く、

「桂は絶対幸せにさせるよ。例え桂自身が拒んでも。あんたにここ迄想われて幸せになれ
ない筈がない。あたしが請け負う。あたしが、桂を幸せ迄無理にでも引っ張っていくか
ら」

 桂の保護者代理として、約束するからっ。

 嗚咽は、サクヤさんだけの物ではなかった。サクヤさんの腕の中で、サクヤさんの胸の
内で、サクヤさんの想いに包まれ。それは哀しいけど幸せな、嬉しいけど寂しい、少しの
間。

 桂ちゃんと過せる貴重な時は、刻々と進む。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ハシラの継ぎ手、いるのでしょう?」

 わざわざノゾミが現身で入口をノックした事に、わたし達は目を見合わせた。入りたけ
れば何処にでも予告なく出入りするノゾミが、承認を求め外から声をかけ、音を立てると
は。常に己の意向しか考えた事のないノゾミが…。

 昼間でも、燦々と日が照る屋外と違い、羽藤の屋敷は場所によって薄暗い。夜程楽でな
いけど、ノゾミも少し無理をすれば現身は作り得た。わたしは青珠の中にいなさいと言っ
たけど、それはノゾミの任意で約束ではない。

「わざわざあんたに、話す事がある様だね」

 サクヤさんはノゾミが昼に顕れた事とその気遣いを考え合わせ、了承の判断をした様だ。
わたし達の話は、ほぼ終えた。話と言うより、後半は温もりを伝え合う抱擁が主だったけ
ど。

 サクヤさんは立ち上がって戸を開け放つと、

「あたしの話は終ったから、2人で話しな」

 外に立っていたノゾミのうっすらとした現身に、やや厳しい視線を送ってから振り返り、

「夕食の準備は、あたしがしておくから!」

「すみません。終ったらわたしも行きます」
「期待しないで待っているよ。ごゆっくり」

 歩み去っていくサクヤさんと入れ替わりに、室内にノゾミが入ってきた。泣き伏す為に
閉じたカーテンは正解だった。わたしは尚昼の光に充分耐えうるけど、ノゾミはきつい筈
だ。葛ちゃんも桂ちゃんも眠りの淵を動いてない。人払いの結界は張ったけど、対象は桂
ちゃんや葛ちゃんで、ノゾミに効かない程度の物だ。

 ノゾミは桂ちゃんへの眠りの措置を解いていた。疲労は大体拭えており、無理に寝付か
せる必要は薄れている。自然な睡眠か、起きても静養していれば問題はない。血の補充は
未だだけど、これは時間と食事で補えば良い。

 ノゾミはわたしが話を向ける迄もなく、言い募りたい想いを満々に湛えていて開口一番、

「どうしてなのよ、あなた!」

 いきなり本題を叩き付けてきた。

「どうしてそこ迄哀しみや痛みを我慢するの。どうして自分の意志に逆らって己を抑える
の。桂は過去を想い出したがっている。あなた桂に過去を想い出して欲しいんでしょう?
 私を憎んでいるんでしょう? 堪えなくて良いじゃない。あなたが私を憎むなら、事実
を告げるだけで私を桂の傍から追える。なのに」

 どうして哀しむだけで何もしないの!
 この侭私が桂を奪い取っても良いの?
 あなたは桂を欲しくはないと言うの?

 青珠に宿った侭私が、桂と町で日々を過す事を許して良いの。それであなた満足なの?

 ノゾミは何故か苛立って右足の鈴を鳴らし、

「桂に好かれて、桂を好いて、好いて、そこ迄好いて、それで後からポッと現れたあたし
に桂を取られ、それで悔いは残らないの?」

 どうして想いの侭に生きようとしないの。
 どうして涙を流して迄、堪え忍ぶ必要が。

 驚きに目を見開くわたしに、ノゾミは、

「私はあなたと強く繋りすぎたわ。あなたの心が私にも響いてくるのよ。勿論、桂にもね。
あなたが桂の眠りを妨げない様指示したのは、あなたの悲嘆が桂の無意識に届かない様に
との予防措置だと思っていたけど、違うの?」

「桂ちゃんには、その怖れがあると思っていたけど、あなたに迄深く繋っていたとは…」

 見苦しい図を、見られてしまった。人には見せるべきではない、わたしの悔いや涙迄も。
わたしが思うよりノゾミとの繋りは深い様だ。

「まあ良いわ。あなたの生の感情が視られたから。つい半日前迄仇敵だったあなたが、私
を難なく受け容れて今も心穏やかだったなら、気味悪いを超えて絶対罠よ。私が信じな
い」

 で、あなたの事よ。あなたの心のもんだい。

「あなたが桂をそこ迄強く想っているなら」

 ノゾミは話の焦点を強引に己から外して、

「手を伸ばせば届くじゃない。今のあなたはその力もあるじゃない。桂だってそれを望ん
でない訳じゃないわ。邪魔者を軽く退ければ、あなたの前に妨げは何もない。どうし
て?」

 ノゾミの問に、わたしは問で答える。

「……あなたは桂ちゃんを愛しているの?
 それとも桂ちゃんに愛して貰いたいの?」

 ノゾミは首を傾げて少しの間考え込んで、

「私は桂を気に入ったし、桂に好いて貰いたいわ。好いた相手に好いて貰いたいのは当た
り前じゃない。あなた何を当たり前の事を」

「当たり前が得られない時も世にはあるの」

 あなたはどちらか一つしか選べなくなったらどちらを選ぶ? 愛したい、愛されたい?

「……わたしは桂ちゃんの想いを守りたい」

 桂ちゃんが痛み苦しみ哀しむのではなくて、わたしがその痛みや苦しみや哀しみを受け
る事で、桂ちゃんの笑顔を守りたい。あなたが桂ちゃんのたいせつな人であるなら、あな
た迄含めその幸せを支えたい。あなたにどんな過去があろうとも。あなたが何者だろうと
も。わたしのたいせつな人が確かに愛した人なら。桂ちゃんがあなたを想う心を、守りた
いから。

「あなたは、不幸に陥る自由を掴む積り?」

「それがわたしの幸せだから。逆に、たいせつな人もいない・持たないで、この世の中を
生き続ける事こそが地獄だと、想わない?」

 主を千年大切に想い続け、長い封印に耐え続けたあなたなら分る筈よ。心の痛みも胸を
かきむしる哀しみも、血管が泡立つ悔しさも、たいせつな人の役に立てている限り幸せの
証。

「禍福は糾える縄の如し。この身を苛む痛みも苦しみも幸せの一部。痛みも苦しみもない、
でもたいせつな人を持たない人生よりは遙かにまし。わたしは今が、とても幸せ。桂ちゃ
んが過去を戻せずこの侭あなたと町に帰って、二度と巡り会えなくても、日々を元気に生
きてくれるなら。あなたの守りが確かなら…」

 全ては得られない。何もかも手に入らない。わたしは所詮、ここを離れられない封じの
要。できるのは愛する事だけ。その未来に為せる事は殆どない。過去を抱き留めて、想い
を抱き続けて、主の封じを保つ他に、できる事は。

「主さまの封じはともかく、記憶を戻す位して良いじゃない。私を追い払わなくて本当に
悔いはないの? あなたを何度も滅ぼしかけたのよ。あなたの大切な桂の生命を何度か奪
いかけたのよ。あなたが桂の記憶を戻すだけで私を傍から追い払えると視えるでしょう」

 ここに桂を留めれば良いじゃない。桂を留めて一生暮せばあなたの願いも叶うじゃない。

 ノゾミは何故、己を不利に導く様な事を?

「それで誰が幸せになるの? 桂ちゃんが笑顔で有り難うと言えると想う? 桂ちゃんと
心を繋いだあなたを今更引き離して、その心が爽快に晴れ渡ると、あなたは想うの?」

 或いは桂ちゃんをこの地に留め、今迄の生活から引き離して、桂ちゃんは本当に幸せ?

「今訊いているのは桂の想いではないわ。
 私は今あなたの想いを訊いているのよ」

 だからわたしはわたしの一番の想いを。

「わたしの選択は常に桂ちゃんの為に。あなたへの憎しみも愛情も、それを左右しない」

 わたし自身の愛して欲しい想いも、同じ。

 最優先はわたしが送る愛の方よ。桂ちゃんの幸せを守る為なら、わたしは何度でも身を
抛つし、己を幾度でも踏み躙るし、心も身体も捧げ尽くす。愛されるのは、必須じゃない。

 わたしは愛したいの。愛させて欲しいの。

「あなたが傍にいても、わたしが桂ちゃんに抱く愛が減る訳じゃない。あなたも大切に想
えば愛の総量は増える。桂ちゃんに害を為さないあなたを追い払う理由はわたしにない」

 桂ちゃんが誰を愛しようと、誰を一番に想おうとそれは自由よ。わたしは心から喜んで
その人の為にも尽くす。その人もわたしのたいせつな人になる。サクヤさんも烏月さんも
葛ちゃんもあなたも、わたしのたいせつな人。

「桂ちゃんはわたしの独占物でも何でもない。その心を掴みたければどうぞ。わたしは桂
ちゃんを愛する事とその身の幸せだけが必須」

 わたしは自由意志で封じの要を望んだ。
 わたしは自由意志で、鬼の生を望んだ。
 わたしは自由意志で、あなたを助けた。

 わたしは自由意志で常に一番たいせつな人を選び続ける。その幸せと守りを選び続ける。

 桂ちゃんが誰の物になろうと、誰を選び取ろうと、わたしがたいせつに想い続けるだけ。
 絶対手に入れられぬ想いでも、わたしが望みを抱き続ける事ならできる。求める事も無
理な物でも、願いを抱き続ける事ならできる。わたしが想う事なら無限にできる。限りな
く。

「わたしは返る想いは求めない。唯愛したい。想いを贈りたい、届けたい、尽くしたい、
守りたい、包みたい、幸せの基盤を支えたい」

 わたしの望みは桂ちゃんの幸せ。桂ちゃんとの幸せではない。その幸せの相手が誰であ
っても良い。わたしは嬉しいし、心から祝う。今はあなたもその幸せの一部なのよ、ノゾ
ミ。

「だから、わたしはあなたの幸せも守るわ」
「……あなた、人が好いにも程があるわよ」

 ノゾミの声は毒気に当てられた様に力なく、

「もう少し考えなさい。少し前まで敵だった相手に、そんな本心さらけ出して。全く…」

「ふふっ、少し恥ずかしかったかしら」
「そうじゃなくてっ! あなたね……」

 ノゾミの懸念は分っている。わたしがその気になって桂ちゃんの記憶を掘り起せば、拾
年前を想い出せば、ノゾミは側にいられない。羽様のお屋敷は桂ちゃんの過去に繋る物ば
かりだけど、わたしの存在は一番危険だ。桂ちゃんに赤い夢を見せて興味を引きそのきっ
かけを作ったノゾミが、皮肉にも今やその先を、絶対に知られてはいけない立場になって
いた。

 そこでわたしの口封じを考えず、まずわたしの意図を訊き、桂ちゃんの記憶を呼び起す
意志がないわたしの答を受け容れるノゾミは確かに前と違う。今のノゾミなら、町での桂
ちゃんとの日々も、巧く過せるかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 チリーン。微かに聞える鈴の音。

 わたしは寝ぼけ眼で身体を起す。否、わたしは未だ眠っていて、これも夢の最中なのか。

 鈴の音に導かれ、布団から出る。外に行く。何となくそんな気がした。自分の動きなの
に、自分の意志でない様な変な感じ。外に行くなら着替えようかと微かに思ったけど、耳
元で、

『要らない……』


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