第3章 望み承けて繋いで(丁)


何度か聴いた事のある声で囁かれると、要らない気がしてきて諦めた。それ以前に、身
体がどうも重くてだるくて、自由に快活に動かない。本当は寝ていたい。でも、外に行く。

 青珠を持たなきゃ。身を守る大切なお守り。

「あ、桂おねーさん。目覚めたですか?」

 子供の声が聞えた。葛ちゃん、確か葛ちゃん。白い子狐の尾花ちゃんが相棒の葛ちゃん。

 後から、やや眠そうに右手で眼を擦りながらぽてぽて歩いている葛ちゃんに、わたしは
振り返る活力もなくて。でも何故か外に行く。

「どこかへ、行くですか?」

『ちょっと、と返事なさい』

「ちょっと、蔵、まで……」

 わたしの頭が何かに操られている。身体はわたしの指示に従うけど、やけに重い。耳の
傍に誰かがいる様な気がする。動いても歩いても、常に耳の奥に誰かの気配がある。誰?

 チリーン。微かに聞える鈴の音。

 ああ、その音はここ数日何度も聞いた様な。

「桂、葛。晩ご飯まではもう少しあるよ…」

 遠くでサクヤさんの声が聞えた。食器の立てる音、お湯を沸かす音、薪の爆ぜる音。そ
れを聞き流しつつ、未だ明るい日の下を、わたしは何処へ? 目の前に目的地が見えた時、
わたしは離れの蔵へ向っていたと知らされた。

「五右衛門風呂……」

 そんな話をしていた様な気がする。わたしは内なる別の声に促される侭に、蔵の鉄扉に
手をかけた。体調が万全とは言えない状態で、わたしにこの重い扉を開けられるのだろう
か。

 扉は意外と簡単に開いた。近日誰かが開けたのだろうか。わたしは余り力を込めてない。
手の皮がむけて、腕の筋肉が少し突っ張って見えるけど、気の所為だ。息は上がっている
けど、苦しさが殆どないから。夢現みたいな感じで力が入る筈がない。だから簡単に開い
たに違いない。或いはこれも未だ夢なのかな。

 扉は鈍く軋みながらゆっくりと開いていく。

 膨張気味に浮き上がった夏の空気と、押し込められて重く縮こまった空気が、ぐるりと
渦を巻く様に溶け合っていく。本来なら目に見えない筈の空気の流れが、宙に舞った埃の
お陰で確認できる。

 舞っているのは長い月日に層を成していた埃の内の、ほんの上っ面程度の物だろう。恐
らくここ何ヶ月かの間に積った物。それでも、明かり取りから差し込む光が格子状の線を
作るのが見て取れる程で。わたしはそれを呆けた様に見送るのみで。耳の奥で再度あの声
が、

『視なさい……想い出しなさい……』

 飛び出さないようフタがされるのを待ち構えていたかの様に、心臓が大きく身震いした。

 いけない、この感覚は……。

 昔、わたしがまだ小さかった頃、蔵に入ってはいけないと言われていた。蔵には、お化
けが住んでいると脅されていた。忘れている筈の出来事が、仕舞い込まれていた荷物と一
緒に、薄明かりに照されて浮び上がってくる。

 目に入るのは特徴のあるシルエット。写真や絵で見た事がある。糸車や機織り機の類だ。
そう言えばおばあさんの趣味は機織りだって、サクヤさんが言っていたっけ。

「……」

 ごちゃごちゃに絡まっていた糸が解けて行く。記憶の糸が織り合わさって、一つの模様
を描いていく。この蔵に入ったのは、テレビで『附子』を見た後だったっけ……。毒だか
ら、決して開けるなと言い聞かされていた桶の中身が水飴だった様に、蔵の中にはお化け
ではない素敵な何かがあるのだと思ったのだ。

「桂、どうしたんだい? 蔵なんか開けて」

 背後からサクヤさんの声が聞える。でも、近づいているのに何故かその声が遠く小さく。

 心臓の鼓動がどんどん早くなる。その音に邪魔されて、サクヤさんの声が遠のいていく。

「……桂?」

 身体の中の潮の流れが、意識を此岸からさらっていく。目の前が暗くなっていく。

「……ちょっと、桂っ!」

 悲鳴じみた大声は、映画が始まる直前のブザーに少し似ているかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしを呼び声……。

 わたしを呼ぶ声が聞える。

 わたしは今、わたしを呼ぶ声に導かれ、入っちゃいけないと言われている蔵に来ている、

「本当に入るの?」
「入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ」

 こっそり鍵を持ち出して、顔を真っ赤にしながら重い扉を開けて、蔵の中に入った。

 蔵の中には箱があった。
 箱の中には何かが入っていた。

 見えているのはほんの一部分だけだったけど、それが宝物だと言う事は一目で分った。

 どうして一部分しか見えないのかというと、変な紙がぺたぺた貼られていたから。変な
紙には筆と墨とで書いた様な文字がびっしり並んでいた。ひらがなやカタカナだけじゃな
く、漢字もたくさん読めて偉いねと、幼稚園の先生に褒められた事があるわたしにも、全
然読めない。読めないのはきっと字が汚すぎるせい。蛇がぐにゃぐにゃ踊った跡の様な、
きちんとしてない読めない字なんだもの。

 お祖母ちゃんの部屋にも、同じ様に汚い字が飾ってあるけど、わたしが貰った賞状より
立派な額縁に入っていたりするから気に入らない。のびのびした良い字だとお祖母ちゃん
は言っていたけど、真似してあんな字を書いたら怒られるに決まっている。

「こんなの剥がしちゃおう」
「いいのかな……」

「大丈夫。いいから剥がしちゃおう」

 後でちゃんと戻しておける様に、綺麗に剥がそうとしたけど、びりっと破れてしまった。

「あーあ、知らないよ」

 もういいや。気にせずにびりびりと破る。

「あいたっ」

 指の先に、痛みを感じた。とげが刺さってしまったのか、紙の端で切ってしまったのか。

「バチが当たったんだよ」

 わたしは構わず紙を剥がしていった。さっきより乱暴に、びりびりびりびり破いていく。

「わ、きれい……」

 出てきたのは、ピカピカ光る金属製の円盤だった。わたしは、それが何だか知っていた。

「これは、ずっと昔の鏡だよ」

 鏡を覗き込むと、ぼんやりわたしの顔が映った。綺麗だけど、ちゃんと映らないので駄
目な鏡だと思った。

「あ、そうだ」

 汚れているだけかも知れないので、服の裾でごしごしとこする。

「はぁ……」

 冬に窓ガラスを曇らせて遊ぶ様に、息を吹きかけながらこすっていると。

「ふふふふふふ……」

 知らない女の子の声がした。きょろきょろとあたりを見回しても、女の子なんていない。

「だ、だあれ?」「わたしは、望み……」

 え? 知らない女の子は鏡の中にいた。

「……鏡の精?」

「似た様な物かしら。あなたがあの邪魔な紙を剥がしてくれたのね」

 端のきゅっと吊り上がった大きな目がちょっと意地悪そうだったけど、綺麗な子だった。
わたしより随分お姉ちゃん。

 わたしの知っているお話は、鏡じゃなくて黄金のランプだったけれど、ランプの精もこ
すると出てきて、こすった人にこういうのだ。言うがよい。望みを三つかなえよう……と。

「すごいよ! 本当に宝物があったよ!」
「ちがうよ! お化けだよ。帰ろうよ。帰ってお母さんにあやまろうよ」

「やだ。望みをかなえてもらうんだもん。
 ……望みを、かなえてくれるんだよね」

「そうね、あなたが私に自由をくれたら。
 あなた、名前は?」

「けい。はとうけい」

「贄の血を引く羽藤の子なのね?」
「にえのち?」

「あなたは特別な血を引いているのよ」

 先ほど傷つけた指をじっと見つめる。

「ねえ、その指の血を鏡につけてみて」

「そんなことしたら汚れちゃうよ。せっかく綺麗にしたのに」

「ふふふっ、いいから気にせずにやってごらんなさい。じゃないとわたしはここから出ら
れないの」

「こするだけじゃだめなの……?」

 ランプの精より弱いのかもしれない。向うはおひげのおじさんで、こっちはお姉ちゃん
だもの。

「……わかった」

【……駄目! 駄目だよ、わたし!】

 誰かに止められた様な気がしたけど、そんな言葉に押さえられるどきどきじゃなかった。
傷の周りを強く押さえると、ぷっくりと赤い珠が盛り上がった。

【……だからそんなことしちゃ駄目!】

 どこからか聞えてくる声には知らんぷり。
 血のついた指先が、鏡の表面に触れた。

 鏡の表面がびりりと震えて、血の色を薄めた様な光の洪水が、一瞬にして蔵の中に満ち
溢れた。目にしみる鮮やかな赤の爆発に、わたしは硬く瞳を閉ざした。光を放つ鏡面をお
腹に抱き込んで、必死で光を隠そうとする。

「ふふふっ、ふふふふふ……」

 きゅっと瞑っていた瞼を上げると、赤い光は既に消えていた。鈴を転がす様なくすくす
笑いは鏡からではなく、ぺたりとしゃがんだわたしの頭の上から降ってきていた。

「あら、随分と小さいのね」

 真っ白い足が、鏡の中にではなく、わたしの目の前に伸びていた。

「あ……すごい……本当に出た……」

「出してくれて有り難う。お礼を言うわ。だって、久方ぶりに手足を伸ばせるんだもの」

 鏡の中にいた彼女が、身体を持って目の前にいた。広げた両手の下で左右色違いの振り
袖が、蝶の羽の様にひらひらと揺れている。

「私はノゾミ……」「……私はミカゲ」

 ノゾミと名乗った子がくるりと回ると、その後ろにもう一人、同じ顔をした子が控えて
いた。驚いた。鏡合わせの双子のきょうだい。

「わ、おんなじだ……」

「そうね。2人と2人で丁度いいでしょう。それにしても変った着物を着ているのね?」

「普通だよ」

 わたしの答にお姉ちゃんは少し考え込んで、

「それが普通なのだとしたら、随分と長い間、箱の中に閉じこめられていたのね」

「そうなの? みんな着物だったの? じゃあ、お姉ちゃんは時代劇の人なんだ」

「……時代劇?」
「知らないの? みんな着物でちょんまげさんなんだよ」

 その時、慌てた様な足音が近づいてきた。

「あら……」
「どうした! さっきの光はなんだ?」

 滅多に聞かないお父さんの怒鳴り声。わたしは身体を震わせて、蔵の入口に怯えた目を
走らせた。

「どうしたの?」

「お父さんに怒られる……」

「怖いの?」

 ミカゲの問がわたしの心を引っ張っていく。

「怖い。お父さん、普段は全然怖くないんだけど、悪い事するとお母さんより怖くなる」

「ケイは悪いことをしたの?」

「だって、ここは入っちゃいけないって」

「それじゃあ今度はわたしたちが助けてあげましょうか。望みを叶えてあげましょうか」

「お父さん、怒らなくなる……?」

「ふふっ、もう二度と怒らない様にしてあげる。ちゃんと言うことを聞いてくれるなら」

 ノゾミお姉ちゃんがわたしに手を差し伸べ、

「ほら、一緒に来て。見つからない様に、他の所へ行きましょう」

【……駄目!】

 ……言う事を聞いちゃ駄目なんだってば!

 どこか遠くから声が聞える。

 だけどすぐ目の前にある切羽詰まった事態が、ためらうわたしの背中を押してくる。

「ほら、急がないと捕まってしまうわよ?」

 喉を撫でた猫の様に、にんまり瞳を細めて、ノゾミちゃんが白い手をわたしに伸ばした。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 白い手に引かれる侭、山の中を走っていた。見覚えのある景色の中を、見覚えのある道
を辿って、見覚えのある場所へと向かっていた。

 ああ……これは最初の夢だ。

 ノゾミちゃんに連れられて、あの槐の木へと向かっていく。オハシラ様のご神木へと向
かって、わたしたちは走っていく。

 わたしは止めようと警告を繰り返したのに、小さなわたしは連れられて行ってしまった。

 これが失われた記憶の再生なのだとしたら、そんなことは当たり前。現在以前の出来事
に対しては、傍観者でしかありえない。

 ……振り返る。

 大丈夫、お父さんは追いかけてきていない。せわしなく打つ胸をなで下ろす小さなわた
し。

 涼しげな鈴の音に、小さなわたしは前へと向き直る。ノゾミちゃんに手を引かれて足を
速める。道の勾配が段々急になる。その角度に抗って、わたしたちは加速する。駆け上る。

 速く、早く、はやく、はやく……。
 足元の草を踏みしめて急ぐ。

 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。
 ざあっ……。

 急に視界が開けた。

 見上げる程の大きな槐の木が、沢山の白い花を咲かせて、山にその根を下ろしていた。

 ずっと昔から羽藤の家が祭っている、オハシラ様のご神木が生えている場所……。

 その前で、わたしたちは立ち止まった。

「ここ、子供が来たら駄目だって……勝手に入ったらバチが当たるって……」

「そう。私たちには近寄れなかった場所」

 ノゾミちゃんに続けてミカゲちゃんが、

「これ以上は近づけない場所」

「忌々しいハシラの封じがあるから……どれ程経ったのかは知らないけれど、まだ健在だ
ったのね」

「でも、あなたたちなら大丈夫」
「大丈夫なの?」

「だから、代りに行って貰うの。あの木の下に囚われている、主さまを解放して貰うの」

 ノゾミちゃんがわたしの顔を覗き込んだ。

「桂。わたしの目を見るのよ」

 赤く明く輝く瞳。
 雷が鳴っていた。

「……いやっ!」

 わたしは自身の悲鳴で意識を引き戻される。

 お父さんとお母さんが、傘も差さないでこちらを見ている。2人とも怖い顔をしていた。
お母さんは烏月さんが持っている様な、長い刀を持っている。

「真弓、どうだ」

 お父さんに促されたお母さんは、蒼く光らせた右目をご神木に走らせる。

「駄目ね。もうこの木の中にオハシラ様はいないわ。彼女は還ってしまった」
「そうか……」

「ええ、奴が出てくるのは時間の問題よ。まだ綻びは小さいから、大きな魂は出てこれな
いけど、封じの要がない以上……」

 傍観者でしかないわたしは、この先の結果だけは知っている。結局ハシラの封じは解か
れない。ユメイさんはわたしの危機に現れる。オハシラ様の魂が還ってしまったなんて事
はない。解放されたのはあの2人……そういえば彼女達は、どこへ行ってしまったんだろ
う。

「……ひとまずわたしが押さえてみるけど、きっと何時間と持たないんじゃないかしら」

 本当にどうしましょう。

「真弓」「なんです、あなた?」

 私が……私がオハシラ様を継ぐ事はできないだろうか? 

「私にはオハシラ様と同じ血が流れている。私がオハシラ様の穴を埋めれば、封じは元の
状態に戻る筈。少なくとも、その綻びとやらが大きくならなければ、主は出て来れない」

「ええ、そうね。だけどそれはできないわ」
「どうして」

「あなたを愛しているから……。なんて理由だけなら良かったんだけど、もっと現実的な
問題なの。あなたじゃ力が足りないのよ」

「しかし、私の身体には……」

「流れているけど薄いの、特別。長い羽藤の歴史の中で、一番一般人に近いのはあなたよ。
濃さでいえば、お義母さんの三分の一ぐらいで、うちの子の十分の一ぐらいかしら」

「……真弓、まさか!」

「馬鹿ね、そんな事しないわ。心を鬼にした処で無理なんだから。……これも現実問題絡
みでね、ある程度力の使い方を知らないと、オハシラ様にはなれないの。あなたには視え
もしないでしょう? それはあの子たちも同じ。そういった事は何も教えてないから」

「母さんは知っていたみたいだけど……」

 言いながら、お父さんは首を振る。

「お義母さんが亡くなったのは去年だから」

【……え!?】

「では、わたしなら大丈夫ですね」

「ユメイちゃん、あなた……」

【何で……何でユメイさんが?】

「わたしは笑子おばあさんから、力の使い方の手ほどきを受けていますから」

「確かに、柚明ちゃんは才能あるけどね。でも、これはうちの子達がやったことだから」

「でも、他に方法がありませんよね?」

 ……知ってる。わたしはユメイさんとわたしの関係を知っている。ここでも封が解けよ
うとしてる。そう、ユメイさんは、お父さんとお母さんたちのことを呼ぶ時に……。

「叔父さん、叔母さん、お願いします」

 そしてユメイさんはわたしの方を向いて微笑み、その儚さに別れの気配を感じたわたし
は、大声を上げて取りすがる。

【「……ゆめいおねえちゃん!】」


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 わたしを呼ぶ声……。
 わたしを呼ぶ声。

「桂、しっかりおし!」

 近づいてくるサクヤさんの声と。

「桂ちゃん!」

 柚明お姉ちゃんの声。

「あ……おねえちゃん」

 柚明お姉ちゃんが、見慣れぬ蒼い着物を着てわたしを覗き込んでいる。泣きそうな顔を
しているのは、きっとわたしが悪い子だから。

「ごめんなさい……わたしが、わたしが蔵になんか入ったりしたから……」
「良いんだよ。そんな事より、具合はどうだい?」

「……何でサクヤおばちゃんがいるの?」
「……! 桂、今、まさか、あんた……」

「え?」
「あたしのことおばちゃんって言ったかい? 柚明のことお姉ちゃんって言ったかい?」

「だって、おねえちゃんはおね……」

 赤。

「あれ? 何でゆめいおねえちゃんは……」

 赤い痛み。

「あれ? わたし、どうしてこんな……」

 顔を押さえる指が、お姉ちゃんやお母さんの指みたいに細く長い。押さえた顔の感触も
違う。そういえば、髪も短かった筈なのに…。

「……あ……何で……どうして……」

 ずくんずくんと突き刺さる赤。

「ちょっと柚明! 桂が拙いよ! あんたのことお姉ちゃんって、想い出してるよ!」
「ええ、そうですね……」

「そうですねって、柚明! あんた、何とかできないのかい?」

 必死な様子のサクヤさんに向って、お姉ちゃんが哀しそうに目を伏せて首を振っている。

「桂ちゃんは想い出したがっていましたから、この家に止まればいずれは……と思ってい
ました。そしてわたしも……」

 わたしも心のどこかでは、桂ちゃんが辛い思いをすると分っていながら、想い出して欲
しいと……そう想っていました。

「柚明、あんた……」

 お姉ちゃんの優しい手が、熱を測る時の様にわたしの額に当てられた。

 ああ、そうだ。こんな頭が痛いのは、きっと風邪を引いて熱があるからだ。あんな雷が
鳴っている雨の中を、傘も差さずにいたから。

「眠って貰いましょう。眠りの中で、今日の出来事を整理してもらいましょう」

 少しひんやりとしているゆめいお姉ちゃんの手が、熱と一緒に頭の痛みを吸い取ってく
れている様な気がして……。

 わたしはうっとりと目を閉ざした。

 ゆめいお姉ちゃんからは、いい匂いがする。

 白い花の甘い香りが、様々な思考と一緒に赤い痛みをはぎ落としていく。

「夢として再び封じるか、記憶として受け入れるか……。全ては桂ちゃん次第だから」


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「一体どうなっているんだい? これはっ」

 桂ちゃんに聞えない様に別室で、桂ちゃんを除く5人が集う。ノゾミ仕様にカーテンで
薄暗くした室内で、サクヤさんは不機嫌そうに低い声で問を発した。もう少し日が傾けば、
ノゾミも現身で出歩いて差し障りがなくなる。

「どうして桂が用もないのに、蔵になんか」

 誰も用事は頼んでなかった。蔵に必要な物は特にない。昨日サクヤさんが五右衛門風呂
を出して以降、蔵には入った者もいなかった。

「わたしが声をかけた時には『ちょっと、蔵、まで……』と。でも、何の用事があるとも
言ってませんでしたし、妙に眠そーな声で…」

「邪視による、傀儡の術の痕がありました」

 わたしは桂ちゃんの混濁した意識の中から、状況をある程度抜き出していた。桂ちゃん
の意識は整理されてないけど、わたしは桂ちゃんと深く繋っている。やや不鮮明だけど、
何があったのかは推察できた。もう少し時間をかけて精査すれば、いつ、誰が、何を、ど
の様に桂ちゃんに為したのかも分る。

 わたしの言葉でサクヤさんと葛ちゃんと烏月さんの視線が向くと、ノゾミは不快そうに、

「私じゃないわよ。私はたった今迄継ぎ手とこの部屋にいたわ。大体、私が今更桂の記憶
を呼び戻して、何の利得があるというのよ」

 その通りだった。ノゾミは今や、桂ちゃんの記憶を戻す事を妨げる動機しか持ってない。

 ノゾミを懐疑に眺める三対の視線に向けて、

「確かに、サクヤさんの悲鳴が届く迄、ノゾミはわたしとこの一室にいました。力の発動
も感じ取れませんでした」「継ぎ手のもね」

 ノゾミが付け加えたのは、邪視を使える可能性が、ノゾミとわたしにある故だ。ノゾミ
が潔白となれば、次の容疑者はわたしになる。

「もう少し見えた像を精査すれば、何か分るかも知れません。桂ちゃんの印象には誰かの
囁き声と鈴の音が残っています」

「鈴の音……」「……ですか」「ですね…」

 な、何よっ。再び3人の視線が集まるのに、ノゾミは3人を睨み返そうと身体をずらす
と。

 チリーン。微かに聞える鈴の音。

「確かな事はまだ分りません」
「確かな事は分らなくてもさ」

 サクヤさんはもうそれが一番の重大事ではなくなっていると指摘して、やや俯き加減に、

「桂の記憶が戻ったんだ。どっちにしろ…」

 桂はもう記憶を手放さないよ。桂はそれを望み願っていたんだ。確かに抱いて忘れない。

 烏月さんも葛ちゃんもサクヤさんの言う事は大凡分る。2人とも、ノゾミが桂ちゃんの
失われた過去や記憶に絡む事を、察していた。桂ちゃんの過去に繋るわたしやサクヤさん
がノゾミと旧知なのだから、それは推察可能か。

「分っているわよ。ここにいられない事位」

 ノゾミも、怖れていた事態がこんなに早く来るとは思わなかった様だ。鈴の音を鳴らせ
て立ち上がると、悔しさを満面に湛えて俯き、

「私が出て行くわよ。それで良いでしょう」

 過去を取り戻した桂の元には、いられない。

 私がいられない。幼い桂に私が為した事は、幼い桂から私が奪った物は余りに大きすぎ
た。忘れてくれていればこそ、桂だって私を受け容れてくれるけど、血を啜った位だから
こそ、未だ私を受け容れてくれたけど。桂の家族を、あなたたちも含めて滅茶苦茶にした
原因が私にあると桂が思い返した以上、当たり前よね。元々駄目だったのよ。そんな事情
を抱えては。

「……幾ら桂でも、受け容れる筈がないわ」

 桂に嫌われる。憎まれる。温かな声が憎悪に染まり、澄んだ視線が殺気を帯びて睨みつ
ける。私の為に流してくれたあの涙が、今度は私の所為で流される。全て明かされた以上、
ここに留まる意味も望みも消失した。

「主さまを捨てても、桂は得られない。夢を操る鬼は、夢を抱けはしないのよ。所詮望み
は叶わない。幸せも、生命から解き放たれる事でしか、手に入らないのかも知れない…」

 誰も何も言わなかった。ノゾミが桂ちゃんを心から好いていたと、離れる事を受け容れ
たその言葉から窺える。哀しげな面差しから、沈痛な声音から、粛然とした気配から窺え
る。

「依代との縁を断ち切って、消えるわよ…」

 今ノゾミは青珠に取り憑いている。桂ちゃんが日々持ち歩く以上ノゾミは逃れられない。
離れるには自らその繋りを断つ必要があった。でもそれはノゾミの消失のカウントダウン
で。

「或いは、斬るか消すかして下さらない?」

 千年の望みを捨てて、その代りの望みも一日と保たず、今のわたしは何もない空っぽよ。
たいせつな人のない空白の唯あるだけの時は、数時間でも長すぎるわ。観月の娘、鬼切り
役。

「もう抗う気はないから、自由になさいな」

 最後迄、強気に挑み掛る姿勢のノゾミに、

「あなたは生れ直してから未だ、人の血を啜ってない。私が斬るべき人に害を為す悪鬼に
は該当しない。桂さんの傍にいるのが相応しくないだけで……去るのなら斬りはしない」

 桂さんが大切に想ったあなたを、関りが完全に切れてない内に斬るのは、気が進まない。
桂さんの間近にいて禍根を残さなければ良い。

 烏月さんの二重の意味での拒絶の答に、ノゾミは無言の侭でサクヤさんの前に進み行く。

「今回だけは見逃すよ。行きたきゃ行きな」

 運が良けりゃ適当な依代が見つかるかも知れないし、死に場所位選ばせてやるよ。桂が
あんたを受け容れた時点で、あたしもあんたに止めを刺しづらくなっているんだ。二度と
あたし達の視界に現れなければ、構わないさ。

 サクヤさんはノゾミを前に故意に横を向き、それ以上は話を受け付けないと不機嫌そう
に、

「憎しみは残るけど、今更得られる物も守れる物もないのに、あんたを倒す積りはない」

 ノゾミはそこで葛ちゃんに目を落す。鬼切り頭が命じれば烏月さんも己を斬ると思った
様だけど、葛ちゃんもそれを先に察した様で、

「去る事は止めませんよ。尾花の恨みはありますけど、生命に関らなかったので。桂おね
ーさんを大切に想う気持は、分りましたし」

 もう少し早くそうなってくれていれば、こんな事にもならずに済んだのでしょうけどね。

 そこでノゾミに、冷徹な視線を向け直し、

「二度と桂おねーさんの前に現れないで下さい。それが守れなければ、斬らせますよ…」

 去る事を前提にして、部屋の戸口まで来たノゾミはわたしに、挑発的な苦笑いを見せた。

「あなたには力の無駄をさせてしまったわね。折角生命を注いだのに。考えてみれば、あ
なたとの関りが一番多くて深かった気がする」

 みんな私を斬らず消さずに、去らせてくれる。あなたはどうする積り? 恨み憎しみの
深さでは、あなたこそ一番なのだと思うけど。

 ノゾミは消して欲しかったのかも知れない。悔恨を抱きつつ依代から自らを断って、緩
慢に衰滅を迎えるより、誰かに討たれる方が自身への罰になる、償いになると思ったのか
も。

 わたしは無言で立ち上がってノゾミの戸口への進路を塞ぐ。華奢な儚い現身に正対して。

 座った侭の、三対の視線が集まってくる中、

「ふふっ、やはりそう。それがあなたの自由意志。桂の為がなくなれば、あなただって普
通に怒りと憎しみを叩き付けたい唯の鬼よ」

 わたしを行かせずここで消して下さるのね。

 ノゾミが救いを得た様な笑みで己の消滅を受け入れるのに、わたしは強い怒りの語調で、

「あなた、たいせつな人から逃げ出す気?」

 陽が傾き始めてきていた。夕刻は間近い。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしの声音は自身でも分る程峻烈だった。

「たいせつな人が苦しんでいるのに、あなたの所為で心を痛めているのに、あなたはそれ
を見守りも見届けもせず、逃げ出す気なの? 桂ちゃんを見捨てて逃げ去る積りなの?」

「継ぎ手あなた、わたしを消し去るんじゃ」

 ノゾミは想定外の問に、凍り付いていた。

「わたしのあなたへの憎悪や恨みは問題外よ。
 あなたの苦味や居心地悪さもどうでも良い。

 あなたは今ここで気楽に消えて良い身体?
 あなたに寄せられた心を無にして良いの?
 一番たいせつな人が、寄せてくれた心を。

 あなたがたいせつな人に寄せた想いとはその程度の物? あなたは桂ちゃんを大切に想
い、桂ちゃんに大切に想われた。あなたは2つの想いを裏切って己からも逃げ出す気?」

 応えなさい、ノゾミ!

 邪視は入れてない筈だけど、ノゾミはわたしの強い視線と声にビクと震えた。わたしと
ノゾミのやり取りに、言葉を挟む者はいない。

「こうなった以上、桂の傍には居られない」

 あなたが一番良く分っているでしょうに。
 尚わたしに桂の傍に居ろとでも言う積り?
 それは情けの様だけど桂をも傷つけるわ。

 私がいる事自体で桂を哀しませる。涙する。どうにもならなくなったから去る心を決め
た、或いはこの場で消滅を望むの。その他に為す術があるのかと、その視線は救いを問う
如く、わたしを視線の真ん中に入れて見上げて来た。

 それをわたしも正視して、瞳の奥を貫いて、

「捨てられる迄桂ちゃんの側に留まりなさい。
 桂ちゃんの怒りも哀しみも憎しみも全て甘受なさい。因果の報いを受けなさい。桂ちゃ
んの悔いも涙も受け止めて、その上で捨てられたのなら去っても消えても良い。それ迄は、
桂ちゃんの理解も納得もなく、その想いも見届けず逃げ去る事は、わたしが許さない!」

 あなたは桂ちゃんの愛しか欲しくないの? あなたは桂ちゃんと喜びしか共に出来ない
の? 苦味も後悔も失敗も共にしようとは想わないの? その哀しみを包み守ろうと想わ
ないの? 都合良い時だけいて、そうでなければ逃げ出すの? あなたの真の望みは何?

「わたしは桂ちゃんの真の想いなら、その憎悪も憤怒も、害意も殺意も受け止められる」

 最後迄見届けなさい。結果を確かめなさい。

「桂がわたしを許してくれるかもって事?」

 ノゾミは聡い。でも、今必要なのはその様な結果を視野に入れた動きではない。

「そうじゃないわ。例え許されない事でも」

 あなた自身が、全身全霊で向き合いなさい。あなたの所作に抱いた桂ちゃんの想いなの
よ。

 それが憎しみでも怒りでも涙でも拒絶でも。
 桂ちゃんの真の想いをその身に受け止めて。
 それが今為せるあなたの唯一の償いで贖い。

 逃げ去る事は桂ちゃんの救いにはならない。
 憎悪でも、愛情でも、許しでも、絶縁でも。
 ノゾミへの想いに行き場がなくなるだけだ。
 桂ちゃんに長く悔いと喪失感を残すだけだ。

 それは、ノゾミが自身から逃げているだけ。
 葛ちゃんが、己の定めから逃げていた様に。
 葛ちゃんはあの時大切な物を持たなかった。

 でもノゾミは今、確かに大切な物を持つにも関らず、その前から逃げだそうとしている。
それが桂ちゃんであるならわたしは許さない。ノゾミの首根っこを掴まえてでも逃がさな
い。断ち切るなら互いに向き合って断ち切るべき。

「桂ちゃんがあなたの消滅を望むなら消えなさい。絶縁を望むなら去りなさい。尚関係を
望むなら留りなさい。あなたの意志ではなく、あなたが大切に想う人の意志に添いなさ
い」

 桂ちゃんに断ち切られる迄あなたは桂ちゃんのたいせつな人。わたしにとってもたいせ
つな人。あなたはもう桂ちゃんをたいせつに想わないの? 桂ちゃんにたいせつに想って
貰えないと、あなたの想いも消える物なの?

「それは……桂は今でも、たいせつだけど」

 珍しく弱気に俯くノゾミの答にわたしは、

「なら、最後の最後迄寄り添いなさい。生命が尽きるか想いが尽きるか、どちらか迄。そ
の想いを、最期の最期迄残さず受け止めて」

 愛した人に嫌われるのは、悲しい事だけど。
 尽くした人に怖れられるのは辛い事だけど。

 それがその人に最良で、あるのなら。
 それがその人の幸せに、繋るのなら。

 わたしがその人に、他の手段で与えられる全てより豊かなら。わたしはその途を望む…。

 わたしの想いを伝える事でノゾミを促す。

「愛した人に憎まれ害されても、尚愛す?」

 ええ。ノゾミの問にわたしは確かに頷き、

「わたしは、それを満身で受け止めたい。
 わたしは、それを渾身で受け止めたい」

 わたしは全て受け止められる。忘れられた侭でも、敵と誤認されても、黙って消えても、
滅んでも良い。桂ちゃんの刃で滅ぶのでも桂ちゃんを想う者の刃で滅ぶのでも受け容れる。

 確か言ったわね、あなたに。わたしは桂ちゃんを愛したの。愛される事は必須じゃない。

「わたしは捨てられても斬られても桂ちゃんへの想いは放さないけど、そこ迄は求めない。
せめて断ち切られる迄は、あり続けなさい」

 最後迄、あなたの自由で選んだたいせつな人の為に、あなたの真の望みを想いを貫いて。

 三対の視線が見守る中を、わたしはノゾミに手を伸ばし、両腕でその現身を抱き包んだ。

「つ、継ぎ手、あなた……何を? あ……」

 抗おうとするけど、しっかり抱き留めて放さない。ノゾミの顔をこの胸元に押しつけて、

「最後に桂ちゃんがあなたの消滅を望むなら、わたしの想いで包んで消してあげるから
…」

 あなたをわたしの中に受け容れて、一緒になってあげる。わたしの桂ちゃんを愛する気
持に混ぜ合わせてあげる。愛される保証はないけど、愛するだけなら悠久に出来る。最期
迄、あなたの行く末にはわたしが責任を持つ。哀しみにも悔恨にも、絶望にも付き合うか
ら。

「だから最後迄桂ちゃんに向き合いなさい」

 怖がらないで。わたしが、ついているわ。

 逃げ出さないで。捨てないで。あなたの中の桂ちゃんを想う気持を、桂ちゃんに応えた
いあなたの気持を、最期の最期迄持ち続けて。

「うっ、うぅっ……あ、あなた、卑怯……」

 ノゾミの声の震えは、怖れの故ではなく。その頬を零れる涙は、哀しみの故ではなく。

「厳しい言葉で絶対人を見捨てず、優しい言葉できつい事を言う。憎らしいのに憎めない。
敵でなくてもあなた一度は八つ裂きにしたい。
 この気持は絶対返してやるんだから。憶えていなさい。あなたが返される想いを望まな
くても断っても、絶対私が返すんだから!」

 その後は、ノゾミの号泣が響き渡った為に、鎮まる迄は暫く言葉のやり取りは中断され
る。

 陽が斜めになり、光の圧力が弱まってきた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ノゾミの今後については、桂の容態が落ち着いてからみんなで話す。それで良いだろ」

「それ迄は別室で大人しくしていて貰おう」

 意識が定かでない桂ちゃんの前に出て、刺激になっても困る。葛ちゃんが憤懣を抑えつ
つそれを受容し、ノゾミも了承したその時に。

「来たか……!」「まさか……!」

 わたしがこの遠距離で白花ちゃんのお屋敷への接近を感じ取れたのは通常だけど、それ
とほぼ同着だった烏月さんの察知は真弓さんのそれを越えていた。何度も切り結んだ為に、
その気配を強く憶えてしまったのだろうか…。

「贄の血に牽かれてきたな、鬼め」

 烏月さんはわたしを強く見つめ、

「私はあの鬼にかける情けはない」

 宣告し、維斗を左手に走り出す。烏月さんは、ノゾミをも受容したわたしが、白花ちゃ
んをも受け容れる流れを作ると、怖れたのか。

「烏月は……まさか、白花が?」「器…?」

 ノゾミを抱き留めていたわたしは、烏月さんの即応を追い切れない。烏月さんの様子で
勘づいたサクヤさんが少し遅れ、その後にわたしとノゾミが屋外へと駆け出す。刻限は既
に黄昏時で、ノゾミも外に出て支障なかった。

 止めないと。2人の戦いを、止めないと…。

「……え!」「何……!」

 屋外に出て暫く走った処で、わたしもノゾミもその異質な、でも何度も感じた気配を前
に足を急停止させる。感応の力の低いサクヤさんは気付けない様で背中が遠ざかって行く。

「ミカゲの気配が」「そんな馬鹿な!」

 否定しつつノゾミもそう感じている。わたし達は今や、想いも生命も分け合った存在だ。
互いに霊体の鬼で、気配の察知に優れている。両者の一致した感触が過ちである怖れは低
い。

 それも羽様の屋敷の中、桂ちゃんの至近で。

『どうする……?』

 一瞬兆す迷いは、両方共に一番の人だから。両方見捨てられない、絶対助けたい人だか
ら。

「烏月さんと彼は、サクヤさんに任せます」

 今からサクヤさんを呼び返す時間も事情を説明する時間もない。白花ちゃんは、白花ち
ゃんの意識を確かに持っていると関知できた。今は何と巧く生き延びて。桂ちゃんは己の
身を守る術がないの。どちらも一番だったけど、今は守る物が誰1人いない桂ちゃんの元
へ…。

 わたしはノゾミの瞳を正視して、

「あなたはわたしと桂ちゃんの守りに来て」

 白花ちゃんはノゾミの事情を知らないし、向うはサクヤさんも含めて実体を持つ人達だ。
ノゾミにも一番は桂ちゃんだ。わたしはノゾミの左手を引っ張り、お屋敷の中に駆け戻る。

「わ、つ、継ぎ手。私は1人で走れるわよ」

 濃い現身を解いて桂ちゃんの近くに飛ばすのは、この近距離では却って時間が掛る。現
身で馳せ参じるのがこの間合では最善だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 長く眠っていた様な気がする。
 長い夢にたゆたっていた様な気がした。

 薄く目を開くと高い天井。
 お母さんと2人で十年間を過した、アパートの天井ではない。ここは経観塚のお屋敷だ。

 経観塚……わたしの生れた父方の実家。
 森に囲まれた大きなお屋敷。それこそ、庭には蔵が建っている様な……。

「あ……そうだ、わたし、蔵の中で……」

 ずきりと赤い痛みが走った。

 だけど我慢できない程でもないし、別の事にかまけていれば忘れてしまうかも知れない。
わたしが痛みに慣れたせいか、ここ迄は思い出しても大丈夫という範囲中だったからなの
かは分らないけど。

『わたしが、ノゾミちゃんとミカゲちゃんを蔵の中から出しちゃったんだ……』

 あの鏡に張ってあったのは、烏月さんが結界を張る時に使うお札とよく似た物だった。
恐らくあれは封じの札……霊体を通さないという性質は、結界にしろ封じにしろ変らない。
その封じを、わたしが剥がしてしまったから。

「わたしのせいで、お姉ちゃんが……」

 ぽろぽろと涙が零れてくる。わたしの所為でお姉ちゃんは大変な目にあってばっかりだ。
ノゾミちゃんを受け容れた時のあの哀しみも。それでもわたしの想いに望みに応えてくれ
て。

「柚明お姉ちゃん……」

 どうして忘れていたんだろう……。

 柚明お姉ちゃんは、お父さんのお姉さんの娘さん。つまりわたしの従姉にあたる人。

 伯父さんと伯母さんは、お姉ちゃんがまだ小さかった頃に亡くなっている。伯母さんは
経観塚を離れてお嫁に行った人だから、贄の血を狙った鬼に襲われたという可能性も考え
られなくはない。今にして思えば。

 そして柚明お姉ちゃんは、お祖母ちゃんに引き取られてこのお屋敷で暮らす事になった。
それはまだ、お父さんとお母さんが結婚するよりも前のこと。だからわたしにとってのお
姉ちゃんは、従姉というより実の姉同然の人。
そして一回り近く年が離れていたせいもあって、お母さんみたいな人でもあった。

 お母さんと同じ位大切な人。

 わたしはそんなに大切な人の事を、存在していたという事すら忘れてしまっていた。

「わたしは……」

 チリーン。微かに聞える鈴の音。
 誰かの気配を間近に感じ、床から身を起す。

「柚明お姉ちゃん……?」

 返事はない。姿も見えない。でも、気配は非常に近く感じる。見えないのが妙な程近く。
武道の心得も霊感もないわたしだけど、ここ迄濃密に出されたら感じないのが不思議な位。

「部屋の中に、何かがいる様な気がする…」

 見渡しても誰もいない。体温の移った掛け布団の外は、夏というのに肌寒くすらあった。

「……誰?」

 明りをつけていない室内に比べれば、すっかり傾いたとはいえ太陽の出ている外の方が
明るい。鈴の音が聞えた様な気がした。風鈴の音だろうか。いや……。

 わたしはこの鈴の音を知っている。これは、

「やめるんだ!」

 わたしが答に行き着く前に、耳に残る音をかき消す様な大声が、庭の方から響いてきた。

 思わず庭の方に意識も視線も向いてしまう。庭の方に見えたのは、烏月さんの振るう太
刀をケイくんが大きく飛び退き躱した処だった。振るわれる太刀の風切り音と、生え放題
の庭草を踏み蹴立てる音が、ここ迄届いてくる。

「明日になれば、大人しく切られてやると言っているのに、邪魔をして!」

「端から握り潰す積りなら、どんな約束でもできる。空約束を信じられる筈があるまい」

「この分らずや! 明良さんはそんなに疑り深くなかったぞ!」

「そう、だからこその今がある」

「くっ」

 武器を持ってないケイくんは、烏月さんの攻撃を躱すしか手がない。そんなケイくんに
対して振るわれる烏月さんの太刀には、一片の情けも迷いも混じっていない。

「現身を持つ鬼よ、私がここで立ちだはかる。贄の血目当てに出てきた事を、悔いながら
滅びて行くが良い」

「違う! 僕は桂を狙ってここに来たんじゃなくて、桂を狙っているのは僕じゃなく…」

 ……しまったっ!

 そう叫んだケイくんの目は、自分や烏月さんにではなく、わたしの方に向けられていて。
その真剣な表情は、烏月さんの注意を逸らす為の芝居になどは見えなくて。

 え? わたしは慌てて、大立ち回りに奪われていた目を、自分の身の回りへと向ける。

 今度ははっきり鈴の音。鈴の音を響かせながら、素足が畳を踏みつけた。瞳を焼き付か
せる赤が冷めると、そこには鬼の少女がいた。

「ノゾミちゃん……?」

 ノゾミちゃんとは昨日仲良くなって、みんなも受け容れた筈だ。もう敵じゃない。だか
ら怖がる事はない。わたしが記憶を取り戻したと言って、それで敵に戻る様な繋りじゃ…。

 気配も、物音も、わたしの背後間近だった。

「ふふふふふふ」

 何度か聴いた事のある、含み笑いが聞えた。

「なんだ、やっぱりノゾミちゃんだ……?」

 誰彼と言う言葉が元というだけあって、黄昏という薄明の時間帯は、人の顔の見分けが
つきにくくて……。でも、気配が違った。微かに姿勢が違った。そしてわたしを今日蔵に
招いた金の鈴は、白い肌の左足に付いていた。

 わたしはもう一つの、あり得ない可能性に気付く。確か、金の鈴を左足にしていたのは。

 白く透き通った肌に赤い鼻緒の草履履きだ。太股が見える程着物の裾が短く、袴は膝に
届く程長いけど、非対称の振り袖は右が薄紅で左が鳩羽鼠に花の染め抜き。色の薄い、毛
先が少し外向きに撥ねたかぶろ髪に、その表情は気弱そうに俯き加減。違っていた。それ
は、

「ミカゲちゃん!」「ふふふふふふふ」

 信じられなかった。目の前で袖を半分隠して笑うミカゲちゃんがわたしを赤い霧で呪縛
していた。わたしは未だ夢の中なのだろうか。

「桂……、あなたの血を貰いに来たわ」

 今度こそ、主さまを自由にして貰う。

 拾年前に柚明お姉ちゃんが食い止めた事を、再び為そうとする鬼がいた。

「どうして? 良月はもう割られてしまったのに。依代を失えば、霊体だけでは長く持た
ないって、ノゾミちゃんも言っていたのに」

 立ち上がる事も這う事も出来ずに、身を起した侭で固まったわたしに、ミカゲちゃんは、

「では、なぜ姉さまは未だ存在を保てているのですか? あなたの間近にいられると?」

「桂さん!」「桂!」

 庭の2人の叫びと同時に、室内に白い風が走り込んできた。それが傷も癒えたばかりの
尾花ちゃんだと分ったのは、走り込んできた瞬間、何かに弾かれる様に身体が壁に叩き付
けられ、体勢立て直しに足を踏ん張った為だ。

「え……ま、まさか」

 ミカゲちゃんは1人ではなかった。昨夜の悪夢の様に、遊園地のミラーハウスか万華鏡
の中の様に、既に室内には拾人を超すミカゲちゃんがいた。わたしを捉えたミカゲちゃん
を守る様に、室外を向いて無表情に林立して。

 わ。体勢を立て直した尾花ちゃんの、後ろ足が畳を強く蹴って、わたしは姿を見失った。

 ばんっ……。

 頭の上から大きな音。見上げるとたわんだ天井板が揺り返している。尾花ちゃんの姿は
もうそこにない。見上げる途中の視界の中を、白い物がよぎって行った。野生の獣だから
と、一口には括れない凄い動きだったのだけれど。

「目障りです。大人しくして貰いましょう」

 何人ものミカゲちゃんが、袖をひるがえらせ腕を一振りすると……その手が指し示す始
点と終点を結んだ空中に、赤い光の線が走る。みるみるうちに線と線は交わって面を作っ
た。

 蜘蛛の巣の様なそれに邪魔をされ、縦横無尽な素早い動きを制限される尾花ちゃん。の
みならず、それは投網の様に覆い被さり、尾花ちゃんを拘束してしまう。瞳を細めてその
様子を一瞥すると、もう関心がないといった顔でわたしに向き直る。瞳が赤く輝いていた。

「それでは、いただきましょう」

 ミカゲちゃんが耳元で囁く。剥き出しの首に触れる冷たい手が、わたしの芯を凍らせた。

「あ……」

 氷像の様に硬く凍りついた身体は、喉を振るわせ悲鳴を発する事すら、許してくれない。

『迫ってくる……』

 夕日に染められて、唯でさえ赤みがかかっていた視界が、赤一色に満たされる。赤い世
界の中にわたしがいる。妖しい血色に濡れ光るミカゲちゃんの瞳の中に、おののくわたし
が映り込んでいる。周りはこんなにも暖色だらけだというのに、わたしは寒くて身体の芯
まで凍りついて……。きっと血を吸い尽くされて、本当に冷たい物になってしまう。嫌だ。

 そんなことは……。

「……させないわ!」

 凛とした声がして、寒色の風が吹き抜ける。
 その風が、ほんの少し、わたしを溶かした。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ノゾミとわたしが桂ちゃんの元に駆けつけた時は辛うじて間に合ったと言う状況だった。

 幾人ものミカゲが林立する向うで、その1人に捉えられた桂ちゃんがわたし達に気付き、

「あ、柚明お姉ちゃん……ノゾミちゃん…」

 ざりざりのシャーベットの様な声が漏れる。

「少し頑張って。今、助けてあげるから…」

 何とか無事だ。暖かな眼差しを向けて力づけてから、わたしはその傍のミカゲに向けて、

「桂ちゃんから離れなさい」

 燃える様な光を背負い、それすら凌いで輝く蝶を、一頭、二頭と舞い飛ばせ、厳しい声
で言い放つ。ミカゲの分身の一つ一つがノゾミと互角の力量か。纏めても力は尚わたしが
上だけど、数で来られると厄介かも知れない。

「どういう事なの、ミカゲ。あなた一体…」

 気配で察していたけど、実際ミカゲを目の前にした驚愕で、ノゾミは問うのが精一杯だ。
そんなノゾミにミカゲはうっすら笑みを浮べ、

「姉さま、巧く行きました。大成功です…」

 その言葉に桂ちゃんとノゾミが凍り付いた。

「継ぎ手は力をかなり消耗し、逆にその癒しは姉さまを満たした。分霊の主さまが巧く守
り手を分散させ、最後は内から姉さまの手で勝利を決定づける。……全て予定通りです」

「そんなっ、……ノゾミちゃん?」

 桂ちゃんが信じられないという視線を向けるのに、ノゾミは硬直が抜けきらず答がない。

「やはり、青珠に宿っていたのね。ミカゲ」

 わたしの言葉が漸くノゾミの歯車を回す。

「そんな。ミカゲも、青珠に宿って?」
「今更驚いたふりは無用です、姉さま」

 林立するミカゲが、一声に袂で顔を半分隠して、笑みを見せる。誰が指示するでもなく
一斉に同じ姿形が同じ動きをする様は、不気味だった。桂ちゃんが、更に声を絞り出して、

「ノゾミちゃんっ!」「し、知らないわよ」

 熱くなったノゾミに向けてわたしは静かに、

「あなたは自力で青珠には依り憑けなかった。あの時点で、あなたは疲弊しすぎていた。
あなたは桂ちゃんが差し出した青珠にしがみついたけど、己を依り憑かせる力はなかっ
た」

 余力を残していたのはむしろ良月の力を独り占めし、割られた時まで断然優位にいたミ
カゲだ。でもミカゲも依代を替える激痛と費やす力は甚大で、暫く無防備になってしまう。
ミカゲは桂ちゃんが受け容れたノゾミを青珠に共に依り憑かせる事で己の存在を紛らせた。

「私は青珠に依り憑く力を提供し、姉さまはあなた達から身を守る仮面を演じました…」

 桂が簡単に姉さまに騙されたは良しとして、継ぎ手が姉さまに癒し迄注ぐとは意外でし
た。それも色々な方法で、色々な処から。私も少し力と身体の使い方に興味を持たされま
した。

 ふふっ。そのお陰で継ぎ手は少なからず生命を消耗し、姉さまは私の助けも不要にそこ
迄力を回復できました。礼を言います。尤も、

「姉さまも私も恩を仇で返す性分ですけど」

 一斉の含み笑いが、降り注ぐ。それはわたしより桂ちゃんより、ノゾミの心に痛い物で、

「継ぎ手、桂っ。私は、私は……」
「柚明お姉ちゃん……わたし……」

 桂ちゃんの顔が曇っていく。その顔を曇らせている中身は視なくても分る。

『わたしの所為で、わたしがノゾミちゃんを助けてとお願いした所為で、こんな事に…』

「桂っ……私、何も知らなかったのよっ!」

 無我夢中で桂の差し出した珠に取り憑いて、気づけばこうなっていた。ミカゲが力を貸
してくれたかどうかなんて、と言うより今迄ミカゲが同じ依代にいた事さえも知らなかっ
た。全く気付かなかった。迂闊だった。動きが全然なかったから。居るなんて想ってなか
った。

「本当よっ。私、今迄、何も……」

 信じて貰える筈がない。同じ依代にいて、ミカゲの存在に、今迄気付かなかったなんて。
まともに聞いて貰える筈がない。ノゾミが絶望を感じて力なくうな垂れる。ミカゲの声は、

「さあ、姉さま。早く止めの一撃を」

 桂にでも継ぎ手にでもどちらでも結構です。
 桂ちゃん間近のミカゲが笑みを含んで促す。

「姉さまの一撃で決めて下さい、予定通り」

「ノゾミちゃん!」

 桂ちゃんの叫びにもミカゲの声にも反応しない。ノゾミは唯俯いて、立ちつくし。その
脇から、わたしはノゾミを両腕で抱き包んで、

「な、放してっ!」「逃がさないわ!」

 逃れようと抗うノゾミを、わたしはミカゲの動向に注視しつつ、確かに強く抱き締めて、

「ふざけないで。継ぎ手あなた、こんな時に私に癒しを流すなんて、一体何を考えて!」

「味方に力を注ぐのは、当たり前でしょう」

 桂ちゃんの、ミカゲの、ノゾミの見上げる視線が、同時にわたしに集まるのを、感じる。

「ミカゲが青珠に宿っている怖れは、わたしも感じていた。動きが全くなかったから確証
はなかったけど、ミカゲの力でも借りなければノゾミは青珠に依り憑ける筈がなかった」

「分って姉さまに力を与えたというのですか。信用させ泳がせる為に。或いは嬲り遊ぶ為
に。私に騙されていると見せかける偽装の為に」

 いいえ。わたしは首を横に振って、

「それが、たいせつな人の望みだったから」

 あなたの目論見への懸念には関りなく。
 ノゾミの裏切りへの懸念にも関りなく。

 わたしは桂ちゃんの願いに応えただけ。
 わたしはノゾミを尚も強く抱きしめて、

「不出来な妹の失敗の尻拭いは、姉の役目」

 だったわよね。ノゾミの瞳を見つめ下ろす。
 その柔らかな肌をわたしの肌に重ね合わせ、

「不出来な妹の無理な望みに応えるのも、不出来な妹を癒して生命を繋ぐのも、不出来な
妹達が填りかけた、絆の赤い糸を断つ謀略からこの身を持って救い出すのも、姉の役目」

 桂ちゃんとノゾミの心に想いが浸透する。
 桂ちゃんの悲嘆に歪んだ瞳が生気を戻す。

「その代り、たいせつな人の危機を前に逃げ出す事は許さない。あなたが桂ちゃんをたい
せつに想う限り、あなたの自由を認めない」

 ノゾミの双眸に意志の輝きが戻ってきた。
 強気な語調と勝ち気な視線が、わたしに、

「千年を生きる私を、妹扱いなんかして…」

 必ずこの想いは返す。憶えておきなさい。

 ノゾミはわたしの抱擁を振り解き、再びミカゲに対する。わたしもミカゲに向き直ると、

「桂ちゃん。ノゾミは……、大丈夫よ」

 わたし達は並んでミカゲに対処する。共に桂ちゃんを守り抜く。力を合わせて戦い破る。

「柚明お姉ちゃん……ありがとう……」

 桂ちゃんの間近のミカゲは無表情に戻り、

「姉さまに桂の血を呑ませず自身で癒したのは、青珠に力を回さない為? 姉さまに癒し
を与えつつ、わたしに力を回さない為…?」

 いいえ。わたしは再度首を横に振って、

「桂ちゃんの失血は限界だったから。わたしにある力をノゾミに注げば充分だったから」
「……」

 あなたも桂ちゃんの生命を狙わなければ、

「わたしが癒しの力を注いであげたのに…」
「私は、人の情けや助けなど絶対受けない」

 ミカゲは不機嫌そうにわたしの言葉を拒む。

「ミカゲっ、もう好い加減に、諦めなさい」

 そのノゾミの言葉にはミカゲは笑みを浮べ、

「罵り喚く以上は出来ませんものね。この状況で、姉さま達は。桂は手の内にあるから」

 どうですか、姉さま。ミカゲはノゾミに、

「もう一度こちら側に戻ってきませんか?」

 今度は真正面から切り崩しに来た。

「ふざけないでよ。謀略の後にそんな工作」

「どちらにせよ、主さまの下に戻る事は同じ。自らの意で戻る方が、戻り易いかも知れま
せん。主さまは、鬼神は一度捨てた物は拾いませんが、今回は姉さまの妹として独断で
す」

 唯一度、機会を差し上げます。これも、贄の血を啜って中途半端に人の心が混ざり込ん
だ為かも知れませんが、私も姉さまを要らないと切り捨てた後少し後味が悪かったのです。

「私は元々姉さまを良月に憑かせ鬼にする為に主さまが及ぼした力の欠片です。戯れでも
気紛れでも、主さまの姉さまを哀れみ慈しんだ心が私の核です。故に今尚姉さまを慕う」

 それに、元々良月に寄せられていた呪詛や、姉さまが及ぼした呪詛が混ざり、姉さまの
常に誰かの答を欲する性分が、私を生じさせた。私も姉さまに対照し、誰かに答を返し続
けなければ己を保ち難い存在なのです。ですから。

「ここに私が贄の血を確保しました。姉さまが心苦しいならそこで見ているだけで結構で
す。汚れ仕事はミカゲがやります。その後で、ハシラの継ぎ手達を滅ぼした後で、私の元
に戻りきて下さい。主さまの元に、私の元に」

 そこで動かないで居て下さい。それだけで姉さまは私の味方です。どうか私達と共に。

「ふざけないで! 動かなかったら、桂は」

「桂は私達の餌です。でも姉さまが願うなら、贄の血は啜っても生命は奪わず、主さまに
一緒に飼い慣らす事を、お願いしても良い…」

 姉さま、お願いです。千年の悲願と姉さまと私は全部揃って欲しい。欠けて欲しくない。

「ノゾミちゃん!」

 ノゾミの顔が苦悩に歪み、揺らいだ雰囲気悟った桂ちゃんの叫びに、ノゾミがはっと我
に返る。悩んでいた、迷っていた。自分は尚もミカゲに未練を残している。それを桂ちゃ
んに見られてしまった。悟られてしまった…。

 ミカゲは傷口を抉る様に、押し広げる様に、

「鬼が人の世界に行っても、幸せにはなれません。桂がどうしても欲しいなら、桂を私達
で飼いましょう。主さまの元で姉さまは自由を楽しんだではありませんか。そこに桂も混
ぜれば良いのです。姉さまが行く事はない」

 私達の千年の望みは、目前にあります。姉さまと私の、大好きな主さまの復活は目前に。

「桂は記憶を取り戻しました。私達の所作を知っています。桂は、桂の傍の人間達は、姉
さまを受け容れません。許しません。表面上、一時的に、許して見えても、恨みは消えな
い。憎悪は流し去れない。想いの永続を私達は己で良く知っているではありませんか。し
かも桂は数拾年で死に至る人の身です。姉さまの求める想いは束の間の気休めに過ぎませ
ん」

 私は姉さまを許します。再び受け容れます。

「長久に楽しい日々を、取り戻しましょう」
「ノゾミちゃん! 駄目だよ、行かないで」

 わたしのノゾミちゃんへの想いは変らないから。記憶は全部戻したけどノゾミちゃんは
今でもわたしのたいせつな人。生命の恩人で、ちょっと意地悪だけど、掛け替えのない人
っ。

 桂ちゃんは邪視で身体が動かないにも関らず、必死の視線を送り、声を届けて、想いを、

「哀しい事はあったけど、もう取り戻せない物の為に、今ある大切な物を失いたくないの。
哀しかったけど、悔しかったけど、これを更に繰り返したくない。ノゾミちゃんを失って、
この後で更に後悔したくない。サクヤさんも柚明お姉ちゃんも、全部分って受け容れてく
れたんだよ。わたしはその為にみんなの想いを踏みつけちゃったけど、そこ迄して得たノ
ゾミちゃんを又失うのは更に耐えられない」

 お願い! わたしと一緒に生きようよっ。

「千年経った世界には、色々な物があるんだよ。烏月さんと食べたクレープとか、わたし
の地元名産の十三石まんじゅうとか、陽子ちゃんの奢りのハッキンビーフバーガーとか」

 人としても鬼としても楽しみの少なかったノゾミちゃんに、これから人としても鬼とし
てもわたしが報いる。人の世での生活と、贄の血で。ノゾミちゃんはたいせつな人だから。

「……桂……ミカゲ……」

 ノゾミが自身の想いに挟まれている。どっちも己のたいせつな想いだ。どっちも捨て得
ぬ本当の想いだ。どっちの声にも応えられず、困惑に揺れ惑う瞳が、わたしを視界に収め
た。

 わたしは今度は抱き留めない。今度はノゾミの中の、ノゾミの想い同士の戦いだ。わた
しにできる事はない。ノゾミが再度敵に回るなら、わたしはそれを受け止める。それがノ
ゾミの真の望みなら。唯、どちらも選べず苦悩し憔悴している今の妹になら、一つ言えた。

「自身の真の望みを曲げる事なく、貫いて」

 わたしはノゾミの真紅の瞳の奥を見つめ、

「あなたの一番大切な物は何? あなたの成し遂げたい事は何? その生と死は誰に捧げ
るの? その存在と想いは何の為にあるの」

「あなた、私を、引き留め、ないの……?」
「誰を大切に想うのかは、あなたの自由よ」

 ノゾミの心が波打っている。どっちをとっても片方に悔いが残る。でも選ばない選択は
ない。両方は取り得ない。取れる未来は一つ。

 その瞳に涙が堪るのは、片方を切り捨てるから。その心に悔いが刺さるのは、片方の芽
を己の手で摘み取るから。永遠に手放すから。

 世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。

 ノゾミは瞳から溢れそうな涙を湛えつつ、

「桂っ…」「あ……」「姉さま」「そう…」

 思い切りわたしの胸に、飛び込んできた。
 桂ちゃんに行けなかった所為だろうけど。

「私は桂を選んだの! 主さまではなく、ミカゲではなく、千年共に過した時間を捨てて、
桂と生きる途を選んだの! 例えそれで桂に許されない末路を迎えても、私が壊した羽藤
の家の憎しみを受けても、滅ぼされても、それで本望なの。それが本当のノゾミなの!」

 主さまとの時間は、断ちがたかった。
 ミカゲとの関係は、切りがたかった。

「私のたいせつな人だったから。楽しい日々だったから。手放しがたい繋りだったから」

 でも今は桂が一番なの。私は桂の血を飲んで桂の事を分ってしまった。繋ってしまった。

「桂が私の事を分った様に、私も桂に母や父や、兄やあなたとの日々があったという事を。
楽しく伸びやかな時があったという事を。それを壊したのが、私だったという事を。啜り
取った血の一滴一滴で、分ってしまったの」

 主さまの為にと、主さまの為にと、何人もの人を害してきた。殺してきた。その1人に
過ぎない筈の桂だけど、こうなって私はおののいた。己の所行におののいた。私は多くの
人のたいせつな物を奪い貪ってきた鬼だった。こう感じてしまうのは、桂の心の所為かし
ら。今更だけど後悔は尽きないわ。尽きないけど。

「でも、そう感じる私を今はとっても好きよ。桂に好かれ、桂を好いて、桂と共に生きる
私を私は選び取った。間違いなく選び取った」

 私の主さまとの日々は終り。
 私はもう主さまとは生きられない。
 そしてミカゲ、あなたとも共に行けない。

「私の一番たいせつな人は、桂なのだから」

 例えどれだけ悔いを刻んでも、例えこの後で桂に憎まれて因果の報いを受けても、私は
主さまではなく、桂を一番たいせつに想うっ。

 ノゾミは胸元から大きく潤んだ瞳で見上げ、

「だから一緒に戦って、お願い、ゆめい!」

 桂を助けたい。桂を守りたい。愛したい!

「……正解よ」

 それがノゾミの真の望みなら、全て正解。

 周囲はわたしの蝶が取り囲んでいる。ミカゲの赤い紐や分身達は入り込めない。室内は
桂ちゃんとミカゲを中心とする朱と、わたしとノゾミを中心とする蒼に、二分されていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……姉さま!」「……くどいっ」

 ノゾミは己の迷いを振り捨てる様に、

「私は心を定めたの。あなたの心が定まらないのなら、私が言うわ」

 あなたがこっち側に来れば、迎えてあげる。
 ノゾミが吹っ切った答を返すのにミカゲは、

「……桂……姉さま……ハシラの継ぎ手…」

 羽藤の血筋は、私から全てを奪っていく。
 主さまも、姉さまも、千年の望みまでも。
 無表情なのに気配は立ち上る怒りに歪み、

「許さない。特に桂とハシラの継ぎ手は…」

 その前振りに、己の心からの怒りも目眩ましに使う前振りに、勘づいたのはわたしだけ。

「ノゾミ、退けなさいっ」

 前触れもなく、ノゾミを左手で突き飛ばす。

 直前迄ノゾミがいた処に、突き飛ばしたわたしの左の二の腕に、後から振りかぶられた
矢尻がざっくり刺さり、青い衣が朱に染まる。

 桂ちゃんの悲鳴とノゾミの驚きが同時に。

「葛ちゃんっ……!」「若杉の、鬼切り頭」

 ミカゲは葛ちゃんを傀儡に使い、ノゾミを背後から刺し貫こうとした。桂ちゃんとわた
しへの指名は視線の誘導だ。ミカゲの分身が多すぎて気配一つ一つを追い難い中、傀儡に
され意識の低下した人の気配は関知が難しい。直前迄わたしも気付けなかった。何とか間
に合えたけど。突き飛ばしたノゾミが立ち直るより、葛ちゃんの次の動きより、わたしは
素早くその身を抱き留めて傀儡の力と術を解く。

 力が抜け、混濁した意識が微かに己を取り戻す。その瞳に涙が浮ぶのは、二回傀儡にさ
れた悔しさではなく、己の内なる憎しみを操られた悔恨だ。烏月さんを追って一斉にお屋
敷を駆けだした時、何の修練もなく一番遅れた葛ちゃんを誰も見ず、待ちかねたミカゲの
邪視に陥らせたのは、わたしの見落しだった。ミカゲが傀儡に出来るのは、ここでは葛ち
ゃんと桂ちゃんだけだ。なら駒として使うのは。

「若杉、あなた何を! ゆめい、大丈夫?」

 ノゾミがわたしに駆け寄ってくる。周囲は蝶が取り巻いているので分身も赤い紐も霧も
届かない。だからこの様な手段に走ったのか。わたしは屈み込んで葛ちゃんを抱き留めた
侭、

「流石に百戦錬磨の長命な鬼ね。……一つ一つの所作が戦略的で、後々に迄響いて残る」

 っつ! 苦痛に顔が思わず歪む。それは単に矢尻が刺さった、肉体的な痛みではなくて、

「あなたが姉さまを庇うとは、意外でした」

 姉さまに注ぎ込もうとした私の力、主さまへの想い、赤い力の結晶です。姉さまに及ぼ
して想いを塗り替え、こちら側へ戻す積りだったのですが。でも、まあ良い。あなたには
それは相反する力として働き内から身を灼く。

「突き刺さって食い込んで、その侭同化する作りです。あなたに入り込んで燃え尽きる迄、
中を灼き続けるでしょう。身の外で防ぐのと違い、内に入られると相殺以外に術がない」

 あなたの腕一本位は持って行けそうですね。

「抜けない……!」「良いわ、ノゾミ」

 二の腕から矢尻を引き抜こうとするノゾミを視線で抑える。ミカゲがその積りで用意し
た物が簡単に抜き取れる筈がない。衣の蒼に突き刺さって、徐々に朱に染め変える矢尻を、
わたしは今は抜き取る事を諦め、それより葛ちゃんに癒しを及ぼし、静かに眠りに導いて。

 自力で身に食い込んでくる矢尻は激痛より気味悪かったけど、現身の内で燃えて相殺す
る朱の力はわたしを削るけど。未だ二の腕だ。ミカゲの腕に、両の胸を貫かれた程ではな
い。

「あなたは良く抗ったわ。わたしが気付く迄、矢尻を振り下ろすのを堪えてくれた。懸命
に、頭の中のミカゲと戦ってくれた。あなたのお陰で、ノゾミは傷つかなかった。有り難
う」

「うっ……ぅううっ……お、おねーさん…」

 葛ちゃんの肌の下で、心が泣き叫んでいた。
 そうはしたくなかったと。ごめんなさいと。
 葛ちゃんの優しい素直な真心が弾けていた。
 わたしは許しの心を癒しの力に込めて注ぎ、

「大丈夫。わたしは、全部受け止められる」

 あなたの気持があれば痛みも耐えられる。
 今は眠りなさい。後はわたし達に任せて。

 拾年前主の分霊は白花ちゃんの怒りに乗じ、身体を乗っ取って桂ちゃんを殺めようとし
た。あの時は正樹さんがその身体で立ち塞がった。その生命で桂ちゃんを守り抜いた。あ
の様に、

「もう失わせない。わたしが必ず守るから」

 必死に見開いていた瞳が静かに落ちていく。

 小さな身体を横たえさせ、数羽の蝶に守らせて、わたしは痛みを堪えミカゲに向き合う。

 そこでノゾミが、不満そうに口を尖らせて、

「どうして私を突き飛ばして迄して、守ったりしたのよ! あなたが刺されては結局…」

 戦力はあなたの方が上なのよ。あなたが傷つく方が痛手は大きいのよ。分るでしょうに。

「戦力は今、一番の問題じゃないわ」

 わたしはゆっくりかぶりを振って、

「あなたが葛ちゃんに刺されてはいけない」

 背中の真ん中より腕の方が傷が軽い事情もあるけど、それ以上に。ノゾミではいけない。

「?」

「葛ちゃんが、あなたを刺してもいけない」

 わたしは敢て背景を明かす。その方が、わたしの流す血潮が、葛ちゃんとノゾミとみん
なを繋ぐ赤い糸を、より強く束ねると信じて。

「葛ちゃんは今回、尾花ちゃんをあなたに傷つけられた恨みを、傀儡の糸に使われたのよ。
そこに葛ちゃんの意思も混ざっている。だからこそ成し遂げさせてはいけなかった。誰か
が割り込んで刃を受けてでも、止めないと」

 あなたが傷つけられる事は、葛ちゃんが恨みを晴らした事になる。それはさせてはいけ
なかった。あなたは人の憎悪に直面して絶望し葛ちゃんも悔いを残す。恨みを必死に呑み
込んであなたを受け容れた、葛ちゃん自身の想いが踏み躙られる。あなたにも葛ちゃんに
も長く刺さる悔いになる。心のしこりになる。

「尽きない恨みと取り返せない過去の行いにあなたを絶望させ、もう一度向うに引き戻そ
うとしたのよ、ミカゲは。……同時に、葛ちゃんの憎しみと悔いを押し広げれば、鬼切り
頭まで鬼に引き込めるかも知れない。出来なくても憎しみが響き合えばあなたも葛ちゃん
も双方確実に、わたし達と共にいられない」

 ノゾミの表情が青く変じ行く。それが為されれば、己がどう感じどう動くかが示されて
いたから。そうなっていたに違いない動きを、寸前で食い止められたと分ったから。

 わたしが受けるしかなかった。例えこの矢尻が破妖の太刀でも主の抜き手でも、わたし
が受ければそれだけの物に留まる。あなたや葛ちゃんの未だ脆い絆を断つ刃にはならない。

「わたしには恨みの刃じゃない。事故だから、傀儡にされた葛ちゃんの標的ではない偶々
だから、葛ちゃんの悔いは単なる己の無力…」

 それは子供に常の物。深く悩む事ではない。

「あなた何でそこ迄して桂でもない私達を」
「みんな、桂ちゃんのたいせつな人だから」

 その一言でノゾミが黙すると知って言う。

「不出来な妹の失敗の尻拭いは、姉の役目」

 だったわよね。ノゾミを見つめて微笑み、

「不出来な妹を危害から庇い守るのも、不出来な妹を抱き留めて癒し守るのも、不出来な
妹達が填りかけた、絆の赤い糸を断つ謀略からこの身を持って救い守るのも、姉の役目」

 わたしはこうやって今迄、たくさんの姉に守られてきた。今はわたしが妹たちを守る番。

「柚明お姉ちゃん……ケガを、負って……」
「もう少し頑張って。今助けてあげるから」

 いつの間にか部屋の外は騒がしくなくなっていた。白花ちゃんも烏月さんも心配だけど、
サクヤさんが付いている。きっとどちらにも深手がない様に収拾してくれる。今は信じる
他にない。信じて己の目前の事に全力で挑む。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ミカゲの動きが鈍いのは、わたしがこの間も蝶で牽制を続ける所為だけではない。ミカ
ゲは桂ちゃんを捉えた一角を中心に赤い紐を凄まじい数張り巡らせて、防御を重ねていた。
桂ちゃんを確保し、これから夜を迎える以上、守りを固めて中で血を啜れば充分との考え
か。でも実はそれ以上に今青珠に宿るミカゲは…。

「……で、どうするのよ? これから」

 ノゾミはわたしの左でミカゲに対峙しつつ、どう桂ちゃんを助け出すか指示を求めるの
に、

「あなたに、苦しいのが来るわよ」

 わたしは、視線を桂ちゃんを捉えたミカゲに固定しつつ、ノゾミに昨夜を想い出してと、

「耐える心の準備をして。それがきっと、逆にミカゲへの決定打になるから」「……?」

 今ある力を溜め込んで保ってと小さく囁く。

 正にその直後にそれは来た。ノゾミが突然胸をかきむしって屈み込む。苦しげな表情は、

「ミカゲ、あなた、まさか、良月の時の…」

「矢尻が姉さまを、多少でも傷つけていれば、考え直してくれたかも知れないのに。桂と
継ぎ手と、桂や継ぎ手に惚れた姉さまが悪い…。
 姉さまへの、青珠からの力の供給を止めました。じきに姉さまは消滅します。昨夜の再
現ですが、青珠は私がここに確かに持っています。砕かれる心配はありません」

 ミカゲはノゾミを青珠に取り憑かせる一方、今度もその根を1人で抑えていた。出し入
れに関与せず自由に流せば、存在も気付かない。一つ事が起れば直ちに元栓を遮断して己
だけに力を流し、ノゾミは手を下す事なく消せる。

 桂ちゃんを捉えた部屋の奥のミカゲが青珠を持っている。ミカゲはいつでも、ノゾミを
止められた。味方にならなければ抹殺できた。そして戦いは一番有利になった時に始める
物。

「ハシラの継ぎ手、今のあなたでもこの数の分身を全て倒すのは簡単ではない筈。その間
に私はあなたの目の前で、桂の血を頂きます。丁度左腕から全身に赤い力が回り始めた頃
でしょう。あなたの行いを幾つ重ねても、桂を救えない人の無力に後悔なさい……姉さ
ま」

 床に手を突いたノゾミに、ガラス玉の硬い瞳を落してミカゲが宣言する。静かに弱気な
容貌の奥に、怒りと哀しみと憎しみを秘めて、

「姉さまはもう要りません。主さまの分霊としてではなく、ミカゲとしての判断です…」

「……っ、……あ、ああっ……ミカゲっ…」

 右手で胸を掻きむしりながら、無理して立ち上がり戦列に戻ろうとするノゾミを抑える。
その周囲に、わたしは蝶を数羽癒しに舞わせ、

「そこであなたは己の戦いをしていなさい」

 昨夜とは違う。あなたにはわたしがいる。

「桂ちゃんはわたしが助け出すから、あなたはあなたを保つ事に専念なさい。それが…」

 あなたが耐える事が、勝利への鍵になるわ。

 言葉にならない承認の気配を感じ取りつつ、わたしは林立するミカゲの分身達に向けて
足を踏み出す。暮れゆく夕日の朱を凌ぐ青を纏い、全身に満ちる力を傷ついた左腕に集め
て、

「ちょうちょの、渦」「そ……んな……?」

 唯蝶を飛ばすのでは、張り巡らされた赤い紐の突破に時間が掛る。ミカゲは首を伸ばせ
ば桂ちゃんの血を啜れて、手を伸ばせば生命を奪える。突き抜けるにも分身が邪魔をする。
実際周囲には分身が集まり始めていた。わたしは青い力で螺旋状に気流を生み出し蝶を乗
せて、推進力を高め一点突破を図る。今は己を浪費しても、桂ちゃんに青い力を届かせる。

 今のわたしの蝶は、ミカゲの赤い紐を凌ぐ。それは唯蝶を飛ばせるより数段早く、幾重
もの赤い紐の網を貫き通して、ミカゲの間近に、わたしの助けたい一番大切な人へと到達
して。

 桂ちゃんの間近のミカゲが思わず飛び退く。それはさかき旅館でわたしが一度桂ちゃん
に及ぼして、ミカゲ達を触れられなくさせた…。

「あの、おまじない」「……なっ、継ぎ手」

 ミカゲの拘束を失った桂ちゃんが俯せに倒れ込む。走って逃れて欲しい処だけど無理は
望まない。桂ちゃんは邪視の呪縛で疲弊して動けない。わたしが助けに行けば良い。わた
しが桂ちゃんを抱き留めに行けばそれで良い。

「時間稼ぎさえすれば……」「させないわ」

 赤い霧と紐の中では青い力も長く保たない。桂ちゃんが動けない以上、わたしが助け出
さないと。わたしは赤い紐の巡らされた中に足を踏み込ませ、己に纏う青い輝きで次々と
赤を断つ。わたしを止める為に、息の根を止める為に、5人6人と無表情な分身が直接掴
み掛って相殺を望む。左腕の青い光がやや弱い。

「分身は幾らでも作れます。姉さまに流れ込む筈の力を使う以上に、青珠に宿る力は膨大
です。これもあなたが込めてくれた力の筈」

 ミカゲは袂で顔を半分隠して挑発的に笑い、

「楽しませて貰います。姉さまもご覧下さい。姉さまの愛した羽藤の血が絶える瞬間を
…」

 わたしは蝶を出さず身の回りにのみ青い力を纏って進み行く。周囲から時間をかけて削
るなら蝶は使えたけど、中に入り込めば先にある赤い紐や霧で出る端から焼き尽くされる。
わたしが今望むのはミカゲの朱の殲滅ではなく、桂ちゃんを救い出し突き抜ける事だった。

 わたしの前進にも彼女は動じた様子もなく、

「あなたの歩みがそこ迄順調なのは、奥に誘い込む罠の為。包み込んで逃げられなくする
為。分身の朱で残さず余さずにかき消す為」

 相手の領域の中に入り込めば、相当な力の優劣も打ち消される。決まった技が力量が違
っても容易に覆せない様に。関節を極めてしまえば、腕力の差で外すのが至難な事に似る。
ミカゲはわたしが退いても進んでも中にいるだけで消耗し、時の経過と共に有利に傾くと、

「楽しみは、これからです……」
「ええ。それは、分っていたわ」

 その答にミカゲは漸く不審げな顔を見せ、

「未だ力が上だから勝てると思っている?」

 力が大きくても手を誤れば敗れる。あなたが何度か私を追い詰めた様に。不用意に私の
力が満ちた空間に入り込み、この数の分身に囲まれ、疲弊し傷ついたあなたが尚勝つと?

 いいえ。わたしは三度首を横に振って、

「一番たいせつな人を、守る為だから……」

 無理は承知よ。桂ちゃんを助け出す為には身を惜しんでいられない。その力がある限り、
なければ己を削ってでも、必ず助ける。元々逃げる積りなんてない。あなたは罠に誘い込
んだ積りでわたしをあなたの心臓部へ導いた。

「……!」「さあ、始めましょう」

 わたしは分身を触れる傍から相殺させつつ、奥に向けて足を進める。背後ではノゾミが
息を止められた状態で、青珠からの力を止められ己を必死に保っていた。未だもう少し保
つ。わたしは一歩踏み出す事に顕れる分身を次々と消しつつ、消した分身の残滓の赤い毒
の霧に包まれつつ。桂ちゃんの間近に辿り着けた。

 分身を幾つ倒しても周囲の朱は濃厚で自然に散らず、わたしに害となる赤い霧として漂
い続ける。青い力で、前後左右上下と全方向の敵意に対峙する。敵中突破は負担が大きい。

「柚明お姉ちゃん……」

 その前にミカゲが1人立ちはだかって。否、その左右に又ミカゲが続々と湧出して微笑
み。

「分身は幾らでも作れます。流石に疲れたでしょう。赤い霧の中をずっと歩み続けては…。
 左腕から、もぎ取らせて頂きましょうか」

 右からも左からも3人ずつのミカゲが迫る。背後にも前にも3人。気付けば床から生え
た感じで上半身だけで、わたしの足を腰を掴むミカゲが4人。上からわたしの肩に飛び降
りるミカゲが2人。全て蒼い輝きで弾き飛ばす。

 左腕の出力が弱い。弾く間に爪を立てられ、噛みつかれた。赤い力が浸透すると更に出
力が落ちる。ミカゲが好機と朱の瞳を輝かせた。気力を入れてとにかく弾く。掴まれた爪
痕や歯形が衣の上に跡を残し、意志を持ってわたしに赤い力を浸透させ、内に潜り込んで
いく。

「まだ作れます……あなたの血筋を守る物の力があなたの血を絶やす皮肉に、涙なさい」

 今度こそあなたを生きる束縛の全てから解き放つ。あなたを切り刻んで肉片にする様を
見せつけた後で贄の血を啜る。あなたの衣を全部剥いで肌を裂いて、全身に赤い力を穴だ
らけに突き刺して注ぎ、悲鳴にのたうち回る姿が見たい。主さまも姉さまも私から奪った、
八つ裂きにしても飽きたらぬ程憎いあなたの。

「どこ迄保つか。あなたの抵抗、あなたの想い、あなたの生命。全て消し潰す。全て朱で
掻き消して、呑み込んで、何一つ残さない」

 桂の身を守る力は、もうすぐ消える。あなたの生命ももうすぐ消える。時間切れは近い。

「柚明お姉ちゃん! もう良いから逃げて」

 桂ちゃんの悲鳴は左腕の傷を見た故だろう。本当にいつも自身より人の事ばかり心配し
て。

「大丈夫よ。もう少しだけ、我慢して頂戴」
「ふふっ、それは無理。もうすぐ時間切れ」

 いつになく、ミカゲは感情の起伏が豊かだ。それも桂ちゃんから得た人の心の影響なの
か。

 更に現身を作る。続々と作る。わたしが前に進めない様に、わたしが防ぎきれない様に、
わたしの息の根を止める為に。でも、そこが限界だった。わたしの想いが、届いたらしい。

 生れかけた幾つものミカゲの分身が、突如一斉に曖昧にぼやけて薄れ消えて行く。時間
切れはわたしではなく、ミカゲの方に訪れた。

「な……ぜ? どういう……」

 猛烈な脱力が、最後のミカゲの膝も折った。生れかけた幾つかの分身が、取り囲んでい
た赤い紐が、漂っていた赤い毒の濃霧が、急速に薄れ消えていく。今迄の濃密さが嘘の様
に。

 贄の血を欲して、桂ちゃんに無理に掴み掛かろうとする最後のミカゲに、わたしは蝶を
差し向けた。それはミカゲの望みを打ち砕き、わたしの望みを掴み取る。ミカゲの左足の
鈴が飛んで転がり、澄んだ音を立てつつ消えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 音にならない振動がわたしの鼓膜を振るわせた。それは一つの世界の終焉を告げる鐘の
音。目の前に映し出されていた彼女の現身が、その周囲から色合いを失って、薄れて消え
て。

「……ミカゲッ!」

 思わず発されたノゾミちゃんの叫びが届く。

「……っ」

 わたしは唯息を飲んで、彼女の消失を見つめていた。ミカゲちゃんもわたしから多くを
奪ったけど、わたしもミカゲちゃんから多くを奪ったから。その願いも生命もノゾミちゃ
んも。最期は見届けないといけないと思った。

「どうして、こんな……何故に……」

 ミカゲちゃんは信じられないと、ついさっき迄の有利が何故ひっくり返ったのか、己を
満たしていた力が何故突如消え去ったのかと、驚愕の目線を柚明お姉ちゃんに向け直すの
に、

「青珠は羽藤の血筋を害する力は与えない」

 あなたが今迄使っていたのはあなた自身の良月から持ち越した力よ。使い切ればあなた
には現身を取る力も残らない。両手を付いたミカゲちゃんの現身は夕闇に霞む程透き通り。

「血は力、想いも力。だから、力は心……」

 歴代の贄の血の力の使い手が、笑子おばあさんが、真弓叔母さんが、わたしが想いと力
を注ぎ込んだ青珠が、桂ちゃんを害する者に力を与える筈がない。青珠は良月とは違うわ。

「あなたは根を抑えた積りで、結局それも末端だった。青珠は桂ちゃんをたいせつに想う
ノゾミだから力を流した。それを止めた瞬間、青珠はあなたへの力の供給も止めた。青珠
に憑いた時点で、これはあなたの定めだった」

 ミカゲちゃんの首が下向きにうな垂れた。

「私の力の浪費を予期し誘ったのですか?」

 良月から持ち越した力を使い果たせば私は消える。あなたは自動的に勝ちを得る。分身
の中に敢て踏み込んだのは、私の赤い力が満ちる空間に絶対不利を承知で入り込んだのは、
私の時間切れ自滅を狙っての事だったと…?

 いいえ。柚明お姉ちゃんは、ミカゲちゃんの問いかけに、今日四度目に首を横に振って、

「桂ちゃんは、早く助けないと危うかった」

 あなたに多少でも力がある限り、桂ちゃんは生命の危機にあった。早く助け出さないと
危うかった。そしてあなたの注意をわたしに引き寄せる為に。この身をもって。あなたの
時間切れや自滅は待てない。わたしはわたしの為せる限り、桂ちゃんを早く助けようと…。

『その為に敢て赤い霧の中に、分身の林立する中に、赤い紐の中に踏み込んで、ミカゲち
ゃんの注意を引きつけた。わたしを守る為に、わたしの為に傷を負った自身を囮にして
…』

「柚明お姉ちゃん、……そこ迄、して……」

 ミカゲちゃんは、諦めた様に瞳を閉じて、

「……言った通りでしょう、姉さま」

 近くまで歩み寄ってきたノゾミちゃんに、

「継ぎ手がいる限り私達の望みは叶わない」

 継ぎ手の望みを絶つ事が悲願成就への途。

「あなたは届かせる者、引き替えに叶える者。あなたの心が折れない限り、あなたが心を
塞がない限り、あなたは苦痛や犠牲を承知で自身の何かを引き替えに成し遂げ、届かせて
しまう。肝心な時程に、あなたが妨げになる」

 正にその通りだった。その通りになった。

「……そうね。そしてあの夜あの場で、あなたが私の命じた通り、ゆめいに止めを刺して
いたなら、この展開はなかったでしょうね」

 ノゾミちゃんの現身は、薄れ行くミカゲちゃんとは対照的に、濃さを取り戻しつつある。
ミカゲちゃんの所作とは別に、青珠は羽藤の血筋を守る意志を持つノゾミちゃんに力を流
し始めた様だ。現身は未だ少し薄いけど、もう消滅の心配はない。必要なら贄の血もある。

「それはもう私達の望みではない。あなただけの望み。本当のノゾミは常に、桂と共に」

「姉さま……なぜ、鬼に成った末に人を…」
「あなたには結局、私も駒に過ぎなかった」

 ノゾミちゃんはミカゲちゃんを正視して、

「あなたは私が桂に情を抱き、迷いを持った瞬間良月から切り捨てた。桂もゆめいも、私
が迷いの奥から答を出す迄待ってくれたわ…。
 あなたは桂を殺せなくなった私を切り捨てる事しかできなかった。桂は生命を狙われて、
幼い幸せを私に壊されて奪われた記憶を取り戻して尚、私を望んでくれた。ゆめいはその
末に桂が私の消滅を望んだ時には、その身の内に取り込んでくれるとまで言ってくれた」

 あなたは今日も私を取り戻すのに、まず謀略を使った。次に心から戻る様求めた時には、
若杉の矢尻を用意していた。力の根を抑えていつでも始末できる状態で私を求めた。あな
たが私を求めたのは、相方がいないとあなたに都合が悪かったから。あなたの生存の為。

 桂もゆめいも私の心を求めてくれた。不利を背負っても、心に逆らっても、一度結んだ
絆を切り捨てる事はせず、私を変らずたいせつに想ってくれた。それが私の心を掴んだの。

「例え数拾年しか、一緒にいられなくても」

 ゆめいは数日しか一緒にいられない己を受容できている。覚悟している。負けられない。

「千年の想いを凌ぐ強い絆がここにあるの」

 あなたにあるのは手駒だけ。千年の間結局私はあなたの駒だった。私はあなたをずっと、
出来は悪くても妹だと信じていたのに。例え妹ではないと、主さまの分霊だと分っても尚、
ああなる迄は、絆を疑いもしなかったのに…。

 一瞬だけ、残念そうな哀しみを瞳に浮べて、

「この想いを心に抱けるなら、この先もう千年生き続けても退屈しない。充分に幸せよ」

 ミカゲちゃんが両手を床につき俯せから、

「主さまから生じ、主さまを慕う姉さまから生じた私は、姉さまの主さまとの幸せは喜べ
ても、桂や継ぎ手との幸せは喜べない。望もうとしても分霊である私にその選択はない」

 皮肉の極みだった。解放を想い願う主の分霊で、自由を求め望むノゾミちゃんの妹のミ
カゲちゃんが、最も不自由だった。主の一部でしかなく、ノゾミちゃんの影でしかないミ
カゲちゃんは、飽くなき自由を求める2人の傍で、最も不自由な定めに千年尽くし続けて。

「主さまを捨て、私を捨てて、1人幸せを掴むのですか。私は姉さまの為に形になったの
に。主さまを思う姉さまの呟きを受けて形になったのに。姉さまの望みを叶える為に…」

 未練はミカゲちゃんの方が深いのかも知れない。激しい愛は裏切られれば憎悪にもなる。
ノゾミちゃんへの力の供給を切るという激しい対処は、強い愛の裏返しなのかも知れない。

「これもあなたの行いの末よ。あなたを滅ぼしたのはあなた自身。ノゾミを使い捨て、人
の絆や想いを弄び、青珠に宿りながら青珠の心を知らず、唯力の源としか見なかった…」

 柚明お姉ちゃんは、薄れ行くミカゲちゃんよりその間近で動けないわたしが気になるの
だろう。ノゾミちゃんと共に歩み寄って来て。

「桂ちゃんを力の源としか見なかった様に」

 あなたは心を繋げなかった。想いを重ね合わせられなかった。生命を共有できなかった。

 何度血を啜っても、幾ら心が流れ込んでも、あなたは誰もたいせつに想わなかった。千
年共にいても、生命助けられてもあなたは簡単に切り捨てた。関る物を切り捨て続け、今
のあなたの周囲には誰もいない。いなくなった。

「青珠に根を繋げたあなたは、桂ちゃんへの害意さえ捨てれば、流れ込む力で現身を保ち、
桂ちゃんやノゾミとの日々を掴めるのに…」

「情けは要りません。人の情けや助力等…」

 ミカゲちゃんは上目遣いに怒りの視線を、

「それでも……姉さまさえいて下されば、私はどんな手段を使っても、望みを繋いだのに。
姉さまさえいて下されば勝ちを導いたのに」

 私だけで勝ちはない。姉さまの為の勝利だから。姉さまの望みを叶える為の勝利だから。
私は主さまを慕う姉さまの為のミカゲだから。

 ミカゲちゃんはノゾミちゃんに視線を送る。憎しみも愛も怒りも全部込めた、強い想い
を。

「だからこそ姉さまの裏切りが許せなかった。
 主さまを捨て、私を捨てる。千年の封じも鬼の生も共にした私を捨てて、百年保たない
人を選ぶ。主さまを封じ、その身を削るハシラの血筋の者を愛し、身を委ね、心を預け」

 それが彼女には、どれ程の憤怒であるのか。
 それを呼ぶ者に、どれ程の恨みを抱くのか。

 ミカゲちゃんの視線は、ノゾミちゃんから、柚明お姉ちゃんに、そしてわたしへと向い
て、

「あなた達の所為で、姉さまも、主さまも」

 全て奪い尽くされた。あなた達の所為で。

「ハシラの継ぎ手」

 薄れ行くミカゲちゃんが最期の言葉を紡ぐ。もうその姿は透き通って、目を凝らさない
と夕日の朱に紛れてしまう程なのに、双眸に集められた力の輝きは、真紅に燃えて尚烈々
と、

「だから私を滅ぼすあなたに、この悔しさを分けてあげる事にします。……姉さまにも」

 最期の最期迄俯き加減に上目遣いで、でもその冷徹な口調にはたっぷりと呪詛をまぶし。

「桂ちゃん!」「え……?」

 異様な寒気を感じて、わたしはとっさに両肩を抱いた。

 誰かに見られている。
 ふと……目があった。

 呪詛のこもった血の色に光る瞳。人を縛る力を持つ呪いの視線。ミカゲちゃんの最期の
力を込めた、絶対外させないという赤い呪縛。

 いけない、目を合わせては……。
 そして、目をそらせようとして気付いた。

「……!?」

 ミカゲちゃんは、わたしの目の前にいるのではない。ミカゲちゃんはわたしの瞼の中に
いた。どっちを向いても首を振っても、見えるのはミカゲちゃんの瞳だけ。朱に染まった
瞳だけ。真っ赤な真っ赤な一色の世界だけだ。わたしの意識を染め尽くす様に、わたしの
向いた全ての方向に、気配を感じる全ての方向に、赤く光るミカゲちゃんの目が映ってい
た。

 目……。
 目……。
 目……。

「ふふふふふふふ」

 百もの視線がわたしを貫く。

 哄笑を上げながら、崩れていく瞳。

 それが穿つ小さな穴から、毒のような赤が染み込んで、悪意の微笑みの波動に共鳴する。

 頭に響く。

 頭の中が掻き回される。

 最後迄見届けるという気持も、その波とも渦ともしれない流れに飲み込まれてしまい…。

 耐えられなくなり目を閉じた。

 だけれど耳にフタはついていない。

「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ
ふふふふふふふふふふふふふふふふふふ…」

 その音が記憶の海を波立てさせて、赤い目の映像を海面へと押し上げてくる。身体の中
の潮流が、呪いの視線を運んでくる。

 眩暈がする。気持ちが悪い。

 ぐらり……傾いだ身体が倒れる前に、優しい人に抱きとめられた。

「桂ちゃん、大丈夫?」「あ、うん……」

 既に瞳の乱舞は消えていた。

 どこも痛くないし、何ともなってないみたい。柚明お姉ちゃんに抱きとめられた時に、
眩暈も気持ち悪さも消えてしまった。

「でも、ちょっと気分悪いかな」
「そう、鬼気に当てられたのね」

 だけどもう大丈夫だ。

「ただいま、柚明お姉ちゃん」
「おかえりなさい、桂ちゃん」

 わたしの血を狙っていたミカゲちゃんは柚明お姉ちゃんに退治されてしまったのだから。

 そこでわたしは少し離れた所に立って俯くノゾミちゃんに気がついた。数歩も離れてな
いけど、声をかければすぐ届くけど、ノゾミちゃんは遠くを眺めていた。此岸の者には手
が届かない、真紅の夕日の向う側を。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ミカゲの、馬鹿……消されて当然なのよ」

 最期迄、最期迄逆らい続けるから。青珠に、桂の生命を諦めて青珠に縋れば、或いは…
…。

 その想いが届いてくる。桂ちゃんにもわたしにも。わたし達は既に深く繋りすぎていた。
生命も想いも重なり合っていた。特殊な力も不要で、互いの心は間近で見れば肌で感じる。

「ちょっとだけ良い?」「ノゾミちゃんね」

 桂ちゃんは、わたしの意図を分っている。

 わたしは桂ちゃんをその場に座らせてから、1人立ちつくして彼方を眺め、必死に四肢
を強ばらせるノゾミの肩に触れる。弾く力を無視して後から両腕を回し、その首を包み込
み、

「哀しい生き方、だったわね」「ゆめい…」

 何か言おうとして、言葉を喉で呑み込んだノゾミに代わり、わたしは静かに言葉を紡ぐ。
2人で、ミカゲの消え去った最早何もない唯の夕日の赤光の虚空に、視線を泳がせてから、

「ごめんなさい。……あなたの妹を、助けてあげる事が、出来なかった」「あ、あなた」

 振り返っても腕は解かず、間近で見上げてくるノゾミの潤んだ瞳を、正面から受け止め、

「あなたのたいせつな人を奪ってしまった」

 桂ちゃんの為とは言え、あなたとわたしの一番たいせつな人の為とは言え、あなたの千
年の友を、あなたのたいせつな人を滅ぼしてしまった。……わたしは、あなたの妹の仇よ。

「……何を、言いたいのよ」
「因果の報いはいつか、わたしにも巡るわ」

 それが今夜なのか、拾年後なのか、千年後なのかは分らないけど。それを待てないなら、
間近にあなたがその手で報いを、くれて良い。

 必死に強気を纏うノゾミの双眸を見つめて、

「わたしは主の封じを担い、尚桂ちゃんを守り続けたいから、滅ぶ訳には行かないけど」

 あなたの哀しみも、怒りも、憎しみも、恨みも、この身で受け止めるから。打ち据えて
も、刺し貫いても良い。消滅は出来ないけど、その代り好きなだけあなたの想いを叩き付
けて良い。わたしは全て、受け止められるから。

「馬鹿な事言わないでよっ。今更桂を一番たいせつに想う私が、桂のたいせつな人である
あなたを、傷つけられる訳がないでしょう」

 ミカゲは敵だったの。桂の生命を脅かして、あなたや私を滅ぼそうとし、この心を何度
も何度もかき乱した敵だったの。その敵を討ったあなたを私が恨む道理が、何処にあると
…。

 言い募る、必死に言い募るノゾミの口をわたしは右手の人差し指を静かに当てて鎮めて、

「敵であっても、よ」

 絶対に和解できない敵であっても。天地終る迄身を削り合う関係であっても。一番の人
を守る為に、共に天を戴かざる者であっても。最期の最期迄滅ぼし合う他に、術がなくて
も。

「たいせつな人は、たいせつな人。違う?」

 ノゾミが黙したのはそれが心の真だから。

 一番に出来なくても、その人をたいせつに想う事は出来る。決して譲れなくても、何一
つ力になる事も出来ず苛み合う関係でしかなくても、たいせつに想う事は出来る。想う他
に何もできない哀しい繋りかも知れないけど。

「柚明お姉ちゃん……。ノゾミちゃん……」

 桂ちゃんが、未だ足元がふらつく中を這い寄ってくる。桂ちゃんも、否、桂ちゃんこそ、
ノゾミの哀しみを肌で感じ取れていた。

「わたしもあなたも桂ちゃんを守る為にこうせざるを得なかった。一番たいせつな人を守
る為に、それ以外は時に切り捨てなければならない。心を鬼に変えても、自身を誰かを踏
み躙っても、心を剥がす痛みや哀しみを承知の上で、為さなければならない時はある」

 寄り添う桂ちゃんの右肩に左手を乗せて、

「覚悟は出来ても、それは辛く哀しい物よ。その痛みも哀しみもあなたの本当の心だから。
踏み越えた後で悔いや寂しさに肩を震わせるのも、確かにあなたの想いだから。一つ間違
えていたなら、これはあなたとわたしの末でもあり、桂ちゃんとあなたの末でもあった」

 そしてもう一つ間違えれば或いはミカゲも。過去は直せないけど、最早変えられないけ
ど。

「だから今更やり直せない過去にはその侭向き合いましょう。あなたは千年主を慕い続け、
ミカゲを妹と信じて、たいせつに想ってきた。確かにそう想ってきた、あなた自身に向き
合って。たいせつな人の死を悼む事は間違いじゃない。その死を哀しむ事は過ちじゃな
い」

 あなたの真の想いの侭に。真のノゾミを。
 わたしは華奢な身体を右手で抱き寄せて、

「ミカゲの為に、泣いてあげなさい」

 ミカゲの為に泣いてあげられるのはあなただけ。千年共に過したあなただけが、ミカゲ
を想い涙を流せる。あなたしか想い出せない、失われたあなたのたいせつなひとの為の涙
を。

 泣き顔を見られるのが恥ずかしいならと、わたしはノゾミの頭を右手で抑え、胸元にぴ
ったりくっつける。その温もりが、ノゾミが必死に抑えていた想いの堤防を、決壊させた。

「……ミカゲ……ミカゲ……ミカゲッ…!」

 ノゾミが思いのぎゅっと詰まった瞳に雫を溜めて、嗚咽に喉を震わせる。滑らかな肩が、
抑えられず感情を吸収できずに上下に揺れる。

「大切な、たいせつな物の為に流すあなたの涙を、わたしは止めないわ。桂ちゃんがあな
たの為に流した涙と同じだから。流して良い、流すべき、流さないといけない、涙だか
ら」

「あの、馬鹿っ。姉の言う事を、言う事を聞かないで、逆らうから……逆らうから…!」
「ノゾミちゃん……」

 言いかける桂ちゃんも、左腕で抱き寄せる。桂ちゃんもノゾミの哀しみと孤独を肌で分
っている。堪え難い嗚咽を、受け止めてくれる。

「あなたの為には、わたし達が泣いてあげられるから。桂ちゃんもわたしも、あなたの哀
しみの為に涙を流せるから。あなたは間違いなく、わたし達のたいせつな人だから」

 涙は好きな物ではないけど、時々どんな宝石よりも尊く美しい涙もある。わたしは桂ち
ゃんとノゾミの想いと身体をこの身に受けて、

「しっかり悲しんで、しっかりと心に刻んで、思い切り泣いて、そして明日に向き合い微
笑むの。いつでもたいせつな誰かの為に清い涙を流す事のできる、美しい心を持った侭
で」


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 日も暮れた中庭は、奇妙な迄に静かだった。

 その静けさに不審を感じた瞬間、背筋を走る何かを関知して、わたしの心が硬直した。

『ああ、そうだ。鬼といえば……』

 腕の中で疲れの故に自然な眠りに意識が遠ざかっていく最中、桂ちゃんがふと思い出す。

『庭で烏月さんと戦っていたケイくんは、いったいどうなったんだろう』

 瞼の裏を、不吉な迄の真紅が染めた。

「白花ちゃん!? ……サクヤさん?」

 どっちか、どっちかが維斗を受ける?

 飛び散る鮮血の朱がわたしの視界を占拠し。
 硬直と震えの闇がわたしの心を染めて行く。

「どうしたのよ、ゆめい。まさか……器?」

 ノゾミの関知の力は弱い。でもわたしが関知の像を視て、尋常ではなく心を乱された事
は感じている。それが向うで進行中の状況と深く繋ると迄、聡いノゾミは推察できた様だ。

《生命を絶たせてはいけない!》

 たいせつな人。烏月さんも含めてわたしのたいせつな人。殺させてはいけない。生命を
奪わせては。哀しみと憎しみの輪廻はここで断つ。この手で止める。身に刃を受けてでも。

「ノゾミ、ここをお願い!」

 それ以上言わずともノゾミは確かに頷いて、

「……柚明、お姉ちゃん?」

「行かせなさい、桂。向うが、危ういのよ」

 その声を背にわたしは既に走り出していた。

 もう誰も失わせない。わたしのたいせつな人を、愛した人を、絶対守る。この夕闇の向
うから、定めの末を手繰り寄せる。その為に、

『この身に残る生命と想いを使い果しても』

 左腕の傷の治りが遅い。誰が斬られるのか、失われるのか失われないのか定かに視えな
い。刃の振り下ろしは未だなのか。そこにわたしの割り込みは可能なのか。生命を差し出
せば定めの差し替えは出来るのか。先の像が視えて来ない。わたしの先行きも霧に包まれ
た様に不確かで。微かに己に、消失の兆を感じた。


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