第3章 望み承けて繋いで(乙)
きっと、そうだったのだろう。
「それで姉さま……」
私はミカゲに視線をやって、話を聞いている事を示す。
「聞いた事があります。贄の血に陰陽揃う時、役行者の封じを崩す事ができると」
「陰陽?」
「男女の双子です」
「双子……」
嫌な事を思い出した。
「どうせ片方は、鬼にされてしまうんだわ」
今となっては両方揃って鬼なのだけれど。
「姉さま」
「何でもないわ。それで何? 柱の血筋の羽藤の家に双子を生ませるだなんて、私にでき
る事なのかしら?」
そんな事、主さまにだってできるかどうか。
そんな果報、寝て待つ他ないんじゃなくて。
「はい。……ですが姉さま、主さまの魂は、封じの鬼の木が花を散らす度に、少しずつ削
られています」
それが役行者の封印だ。いつか遠い未来、主さまはなくなってしまう。
「それの邪魔ならできると言うのかしら」
「はい……」
そうだ。それ位の事なら。それにしても、ミカゲの方からこんな事を言い出すだなんて。
「あなたも、主さまの事が好きなのね」
私に新しい生命の形を与えて下さった主さま。きっとミカゲもそうなのだから、ならば
答えは決まっている。
「はい……」
私は笑って頷いた。
そうだ、私達で主さまをお助けしなければ。
そして私達は封じの鬼の木を弱める為に力を使い始めた。だけれど、私達ではあの木に
近寄る事ができない。さて……。
「それなら、人を使いましょう」
1人ではすぐ行き詰まってしまう事も、2人で知恵を絞れば良い考えが湧いて出る物だ。
「ああ、そうね。私の力は人に暗示を与える事ですもの。それ位なら簡単よね」
「はい、姉さま……」
目についた村人を操って、封じの木を弱らせる様に糸繰りをした。
やがて、暗示をかけて傀儡とした人間に良月を持たせると、色々と便利な事を発見した。
例えば、遠出ができる様になった。例えば、普段は安全な処に鏡を隠しておく事ができ
る様になった。例えば、良月自体は結界を潜り抜ける事ができる……。
暗示で捕らえた村人の内の何割かには、食事になって貰い、私たちは力を蓄えていった。
それで少し良い気になりすぎたかもしれない。
暫くすると「神隠しが起こる村」だなんて変に名前が知れてしまった物だから、鬼切部
の鬼切り役がこの地へと遣わされた。そして、良月が依代である事を知られて。主さまの
封じを綻ばせに来た私たちが、封じられてしまうだなんて、木乃伊取りが木乃伊も良い処
だ。
私たちを封じたのは、若杉某とかい言う鬼切部の陰陽師だった。頭ではないものの、か
なりの地位にいるらしい。
唯封じられるのは癪だったので、一つだけ暗示を試してみる。強い暗示をかけると、す
ぐに気取られ解かれてしまうので、弱い暗示をかけてやる。夢の様なさほど影響力のない
形で、慢性的に繰り返される暗示を。幻影をよくする私には珍しい、言霊による暗示を…。
それは遅効性の毒。
「あなた達は鬼切部。鬼を斬るのはその役目。だから観月の民も切らなくては」
主さまを封じた役行者と観月の民……。
役行者は人と大差ない刻を生きて死んでしまったけど、あいつらはまだ生きている。鬼
切部に尻尾を振って、未だ生き長らえている。だから切られてしまえば良い。例え鬼切部
が返り討ちにあったとしても、それはそれでわたしの仇を討った事になる。
共倒れになってくれるのが一番だけど、そこ迄は望まない。ただ、この暗示が掛りさえ
すれば。この若杉某が行動に移さずとも、上手く掛ってくれさえすれば。言霊による呪は
子から孫へと語り継がれていくだろう。言葉は親から子へ、子から孫へと継がれていく物
だから。余り期待してはいないけど、この毒が上手く回ってくれると良い。長く待つのは
苦手だから、できれば封印されている間に。
ああ、向うの封じが完成する……。
私たちは、暗い闇の中に閉じこめられた…。
どれ位の時が経過したのだろう。
「本当に入るの?」
「入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ」
小さな子供の声が聞えた。
封じの札の向うから声が聞えた。
封じられていても、外の音はおぼろげに伝わってくる。それ故に何もできないこの身が
歯痒くもあり、それ故に正気を保っていられたとも言える。主さまは……ご無事だろうか。
「こんなのはがしちゃおう」
「いいのかな……」
「大丈夫。いいから剥がしちゃおう」
封じの札が剥がされていく。剥がれた隙間から、心地よい薄闇が流れ込んでくる。私の
様に人である事を止めた者にとって、真昼の光は毒だけど、漆黒の闇も頂けない。鏡とい
う物は、跳ね返す光がなくては無意味な物だ。
同じ顔をした子供が2人、良月を覗き込んでいる。
私は鬼の嗅覚で、この子供達が贄の血の持ち主である事を知った。これはハシラの血筋
の子だ。まさか、良月の封印が解かれるのと贄の血に陰陽揃うのが同時に訪れるだなんて。
私は嬉しさの余り、
「ふふふふふふ……」
知らず、笑い声を漏らしていた。
「だ、だあれ?」
「私はノゾミ……」
その名の通り、私の望みは叶えられる。主さまを助け出して、私と話をしてもらうのだ。
札の重要性も分らずに剥がしてしまう様な子供に暗示をかける等、容易い事に思えた。
さて……。
私たちと主さまを解放してくれる、この間抜けた生け贄の名前を聞いておくとしようか。
「あなた、名前は?」
「けい……はとうけい」
それは……。
それは、わたしの名前だ。
【それは幼き日の桂ちゃん】
わたしは私ではなく、わたしはノゾミではなく……。
わたしは羽藤桂。
深い処へ沈んでいた意識は、上に向かって浮上していく。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……ぷはっ」
水面に顔を出して、息継ぎをする。
ざぶんと陸に上がると、身体は全然濡れてない。
「ううっ、ここはどこだー」
夢の中なのは間違いないだろう。
足元は既に固い地面で、さっき迄潜っていた筈の水辺はどこかに消えてしまった。こん
なに好い加減な地理は夢だからこそ。きっと「光あれ」なんて言ったら光が出てくるのに
違いない。
鬼頭提灯の様な明かりが点った。ゆらと上下に揺れながら、赤い光が近づいてくる。
祭囃子の代りに鳴るのは涼やかな鈴の音…。
「何であなたがここにいるの?」
「あ、やっぱり」
桂ちゃんが平静に鬼に向き合っている事に、わたし以上にノゾミが驚きを隠せていない
…。
「あなた、ついさっき迄あんなに泣き叫んでいたのに、随分と余裕があるのね」
「うん、何だかノゾミちゃんの事理解した」
「勝手にしないでくださらない?」
「んー、でももう、そんなに怖くないよ」
「……」
思いっきり呆れられてしまった。
『そりゃあ、わたしだって少しは態度が極端じゃないかなって思うけど……。色々事情を
把握して、話せば通じる事も結構ありそうだと分った今、前ほど怖いとは思わない』
人が暗闇を怖れるのは、そこで何が起っているのか見通せない未知に対する物だという。
人が死を怖れるのは、先がどうなっているのか明らかではない未知に対する物だという。
『わたしがお化けを怖いと思うのは、言葉も理念も通用しない、全くの異物としていたか
らなのだろう。きっと。だからノゾミちゃんの事は、前ほど怖いとは思わない』
「それで、ここは一体どこ?」「ここは…」
ガランとした暗い部屋。
廊下とは、太い木の格子で隔てられている。
「ここはわたしの最初のすみか」
焼け落ちる迄の十年と少しの歳月を、ノゾミが過した捕らわれの場所。
『これはわたしが捕らわれているのか、それともノゾミちゃんが捕らわれているのか』
「それで、何であなたがここにいるの?」
ミカゲさえ立ち入らせた事ない場所なのよ。
「それは多分、ノゾミちゃんが2回もわたしの血を飲んだから……」
贄の血は力となって、身体の隅々に迄浸透するから。わたしの心まで、ノゾミちゃんの
中に入ったんだよ、きっと。
【もしや桂ちゃんの血は、ノゾミ達迄も…】
「そんな、好い加減な」
「でも、血は神霊そのものを表すって……」
血に霊が宿っているなら、心も一緒に宿っている筈。じゃないと魂だけの幽霊には、心
が宿っていない事になってしまう。
「それにね、そんな事言ってたら、ノゾミちゃんの存在自体が、好い加減だと思うんだ」
どうやったら人間が鏡に取り憑いたりできるわけ?
「うっ……」
神様とかを認め始めたら、基本的に何でもありになってしまうんだから、好い加減もあ
りだと思う。そもそも丁度いい按配という意味なんだから、適当も大変結構な事じゃない
か。そういえばこの適当という言葉だって…。
閑話休題。
脱線しそうになる思考を減速して、心積りの方向へと軌道修正。
「それにね、ミカゲちゃんって何なの?」
「何って、あの子は私の妹よ。お父様に捨てられてしまった不憫な子……」
「それって、なんか、おかしくないかな」
桂ちゃんもその理不尽に勘づいた様だ。
「何がおかしいのよ」
「何でノゾミちゃんの妹さんが、お父さんに捨てられなきゃいけないの?」
ノゾミちゃんだって閉じこめられてはいたけれど、出て行ったのはノゾミちゃんの意思
であって、お父さんは関係ないよね?
精神的にどうかは良く分らないけれど、今はひとまず横にどけて。
「それに、ミカゲちゃんっていつ鬼にして貰ったの?」
ミカゲちゃんがノゾミちゃんの前に現れたのって、主が封じられた後だよ?
「それの、何がおかしいの?」
ノゾミちゃんが人から鬼に成ったのは、主にして貰ったからだよね?
「ええ、そうよ……」
その事には誇らしげに胸を張るノゾミに、
「それじゃミカゲちゃんは?」「……え?」
ミカゲちゃんは、誰に鬼にして貰ったの?
その一言が定めの分岐を折れ曲げさせた。
「それは……」「それは?」
答が出ない。出る訳がない。
「大体、後から来たミカゲちゃんの方が色々と物知りなのって変だよ。封じの解き方とか、
ノゾミちゃんも知らなさそうな事を色々…」
『それが一番おかしいと思う。
お姫様育ちのノゾミちゃんの妹に、そういった呪術的な知識があるとは思えない』
【そんな知識を、持っているのは……】
「ねえ、何だかノゾミちゃんって、ミカゲちゃんに操られているみたいだよ?」
「そんなことないわ!」
苛立っている所に弱みを突かれて、ノゾミは素の反応を返してきた。吸血で繋った意識
の奥底で、生命の危険に瀕しつつも、桂ちゃんは己のペースにノゾミを巻き込みつつある。
「それじゃあ、お姉ちゃんのノゾミちゃんの方が立場が上なの?」
「上だもの! ミカゲは私の言うことなら、何でも聞くわ!」
『わたしをばかにしたりせず、こんな風に怒っているのは、きっと図星を突かれたから。
だとすると、ノゾミちゃんにもそういう自覚があるという事になる。それなら……』
「じゃあ、賭けようか」「……賭け?」
試して、ミカゲちゃんが言う事聞いたらノゾミちゃんの勝ち。聞かなかったらわたしの
勝ち。
【桂ちゃん……もう少し、保たせて】
サクヤさんも烏月さんも、駆けつける最中だから。わたしももうすぐご神木に繋るから。
そうなったら一瞬で飛んで守れる。もう少し。
「ふぅん……」
「あ、烏月さん達はわたしが説得するから、心配しなくても良いよ」
勝つ見積りがあって持ちかけた勝負だけど、後で物言いをつけられても困るし、条件は
フェアじゃないと。ノゾミは逃げればわたしの言い分を認める事になると、考え込んでい
る。
「自信ないんだ?」
「い、良いわよ、受けて立ってあげるわ!」
陽子ちゃんやサクヤさんに鍛えられた外交手腕で背を押すと、ノゾミちゃんは桂ちゃん
との勝負を承知した。させたと言うべきかも。
「それじゃあ、一時休戦ね」
にっこり笑って差し出した手を、いかにもしぶしぶといった体で握り返す。
『結局、わたしの血を狙っている鬼という事には何の変りもないんだけれど、何だか人馴
れしない猫の子みたいで可愛いかもしれない。この夢から覚めた時には、既に勝負が始っ
ているという事なんだけれど……』
「あ、何を賭けるとか決めてないや」
青白い光が、薄い瞼を透かして瞳を射貫く。
「ううっ……」
閉ざした侭の瞼の下で、眼球が逃げ場を求めて動き始め、桂ちゃんは顔をしかめて眩し
ささを和らげようとする。勝手に手が目を庇い動く前に、空に雲でも湧いて出たのか、ふ
っと光が暗く陰った。瞼を持ち上げると、赤い瞳と目があった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「気がついたかしら?」
「あ、ノゾミちゃん……と、ミカゲちゃん」
覆い被さる様にして、桂ちゃんを覗き込んでいたノゾミが身体を引くと、木々の枝葉の
隙間から差し込む、生(き)の侭の月明かりが直撃した。もう陽は落ちていた。その光か
ら顔を庇った手で、目を擦りつつ身体を起す。
「姉さま、もう良いでしょうか?」
「まだよ」
『そうだ、もう勝負は始っているんだ……』
もの欲しそうな熱っぽい目でこちらを見つめるミカゲを制して、ノゾミがずずいと前に、
「ほら、ちゃんと聞いているでしょう?」
『おあずけ』ができた飼い犬を自慢する様な感じで、ノゾミが高笑いをする。でもその自
信は自ら脆い事を分るが故の強がりに見えた。
「……」
ミカゲと目が合うと、彼女はもじもじと手をもんで、何かを我慢している様子だ。
「……姉さま」「もう少しっ」
その構図は桂ちゃんにも見抜けた様で、
「んーーーー、やっぱり」
「ま、まだ疑ってるの?」
まなじりを吊り上げ、食って掛ってくるノゾミの耳元で囁く。ミカゲには聞えない様に、
「それじゃあノゾミちゃん、『今日は帰るわよ』って言ってみてくれる?」
「え……?」
「なんかわたしが寝てる間に、『すぐに飲ませるから少しだけ我慢しろ』って言っている
みたいなんだよね」
桂ちゃんの第一印象は、言う事を聞かせていると言うより聞いて貰っているといった風。
「だから、『おあずけ』じゃなく『今日はなし』でも言う事を聞くなら、信じてあげる」
食べ物の恨み辛みは海よりも深い。その辺をぐっと耐えられる様うなら、大抵の言う事
は聞いてくれるんじゃないかと思う。
【桂ちゃんがこんなに駆け引きが巧いとは】
「それは……」
ぐっと詰まるノゾミ。
『余り人と接する事なく生きてきた彼女は、扱い易い性格だと思う。こんな非常時に緊張
感なくてなんだけど、陽子ちゃんがわたしをからかっておもちゃにする気持が分った様な
気がしないでもない』
【いつも心は柔らかに、ね……】
直接の教えは受けてなくても、桂ちゃんも羽藤の血筋で、笑子おばあさんの血筋だった。
そしてそれ以上にこの時既にノゾミの中には、桂ちゃんの血を死ぬ迄啜り取る積り等なく
て。
「言う事、聞かせられないんだ」
「できるわよ、それぐらい!
……ミカゲ、今日はもう帰るわよ!」
鈴を鳴らして振り向いたノゾミに、ミカゲが訝しげに問い訊ねる。
「姉さま?」
「こんな訳の分らない人の相手をして、疲れてしまったって言ってるの!」
「姉さま、それならば尚更……」
「お黙りなさい! ミカゲ、私が帰ると言ったら帰るのよ!」
ヒステリックに足踏みをして、足首の鈴を打ち鳴らす。その残響がすっかり夜闇に吸い
取られると、気拙い沈黙だけが残った。
ノゾミは一体何に己が苛立っているか気付いてない。気付いたのはむしろミカゲの方で、
「……」
鏡の様な静かな瞳に、姉鬼の姿を写す妹鬼。負けじとその瞳を迎え撃つノゾミだったけ
ど。
「……な、何よその、不満そうな顔は」
プレッシャーに耐えられなくなったのか、口を開いて沈黙を破った。ミカゲは尚一途に
主のみを見つめている。視点がぶれ始めた事に自覚もないノゾミが、勝てないのは必然だ。
「姉さまは、主さまを、お助けしたくはないのでしょうか?」
「そんなことはないわ」
「でしたら、何ゆえに贄の血の持ち主を見逃そうというのでしょうか?」
「それは……」
ミカゲは己の、と言うよりこれ迄の2人の千年の想いを静かに語る。それは自分の立ち
位置の確認と言うより、ノゾミにそれを確認させる為の行いで、最後通牒の一歩手前で…。
「邪魔なハシラや鬼切り役がいないのに何故?」「……」
ノゾミは何故かミカゲへの同意が出せない。何故かを分ってなくても既に、ノゾミの心
は。
「絆されましたか?」
姉さまは、もう少し主さまの役に立ってくださると思っていたのですが……。
「どうやら、買い被っていた様です」
打って変っておどおどとした弱気な態度を引っ込めて、傲岸不遜に言い放つ。偽りの姉
妹関係に見切りを先につけたのは、妹だった。
『高慢ちきなノゾミちゃんにある可愛げが、ミカゲちゃんには欠片もない』
「ちょっと、ミカゲ?」
「もう姉さまの手は借りません」
それは真夜中の落日……。
ミカゲの瞳が明々と光り、視界を赤く血の色に濡らした。赤い光が夜に溶けても、幾つ
もの光点が薄い夜闇に残っている。赤く輝く光点が、一対、二対、三対、四対、五対……
「ひっ……」
十指に余る、それら全てが瞳だった。
『ミカゲちゃんが……』
遊園地のミラーハウスか万華鏡の中の様に、何人ものミカゲがそこにいた。2人は鏡の
怪であり、現身はまやかしに過ぎないのだから、分身の術位は使うのかも知れない。だけ
れど。
「くうっ……」
そのミカゲと同じ力を持つ筈のノゾミは、ぎゅっと握った拳で胸元を押さえて、眉間に
苦悶のしわを刻んでいる。
「あれ? ノゾミちゃん、なんで?」
ミカゲは桂ちゃんの問に答える形でノゾミに告げたかったのだろう。その意図と覚悟を。
「分身(わけみ)を作るのに作った分は、姉さまへ行く筈の力ですから……。良月から力
を受け取れなければ、じきに消滅します」
存在を維持するのに必要な力の補給を止められてしまった。それはさしずめ人間なら、
首をしめられ息ができない状態といった処か。ミカゲは依代から供給される力の根を握っ
ているらしい。使う事にしか気が回らなかったノゾミは、今迄止められた事もなかったノ
ゾミは、こんな事態を想定もしてなかった様だ。
「そんな……」
おろおろ2人を見比べる桂ちゃんと、地に手を突いたノゾミに、ガラス玉の様な硬い瞳
を落して、ミカゲが無感動な声音で宣言する。
「姉さまはもう要りません。主さまの分霊としての判断です」「……!」
【とうとうミカゲが、己の正体を明かした】
わたしは一昨日の夜に、ミカゲに深く接して気付かされたけど。
『主の分霊……。意味は漠然としか分らないけど、それがとんでもなく不吉な意味を孕ん
でいるのは、見開かれたミカゲちゃんの目を見れば分る』
主の分霊……。そのミカゲが、ノゾミを要らないと言い、依代である鏡からの力の供給
を止めた。その言葉は、冗談なんかじゃなく。
「ミカ……」
ぎりっと歯を食いしばって、苦痛と憤怒に顔を歪めつつ、ノゾミが立ち上がる。
「このっ……ミカゲェーーーッ!」
キッと怒りを双眸に滾らせて、睨みつける。
その身に残った力の内、一体どれ程を使ったのだろう。森の一角を真紅の眼光が満たす。
何が起るのかと、反射的に身を固くしていた桂ちゃんの腕が引っ張られる。
その侭木立の間を駆けだして行く。
その細い腕を引いているのは……。
「わ、ちょっと、ノゾミちゃん?」
驚く桂ちゃんの腕を小さな身体に見合わぬ力で引っ張って、木の根と雑草を駆け抜ける。
大木の幹に隠れても失速はしない。季節外れのジングルベルの様に、鈴の音も高く月明か
りもまばらな森の闇をひた走る。
「ちょっ、ちょっと待って……」
「良いから……それともあなた、あんなに沢山のミカゲから血を吸われたい?」
「〜〜〜っ!」
桂ちゃんがぶるぶると首を振る。
『一昨昨日だって歯止めなくわたしの血を貪っていたのはミカゲちゃんの方。一人でもあ
あなんだから、あんなに沢山のミカゲちゃんに襲われたら、一瞬で干物になってしまう』
「ほら、早くなさいな!」
「あ、でも靴が脱げちゃって……」
「そんな事より、早く良月を……」
葛ちゃんは、目覚めた時既にその場にいなかった。依代を預る大切な鏡持ちは、食事場
と別に置いた様だ。吸血は気配を晒し匂いを残し、場合によっては血を断末魔の叫びや恨
みも刻む。烏月さんやサクヤさんを想定できる今のミカゲ達が、依代の間近で己の所在を
明かす無謀は避けるのが無難か。その故に今ノゾミは桂ちゃんを引っ張って、良月の処へ。
森でも少し開けた一角に辿り着け、月明かりに包まれた辺りで桂ちゃんに限界が訪れた。
『もう駄目だ』
引っ張られる上体に下肢が追いつかず、前のめりに倒れそうになる。そこで漸く速度が
緩んで、桂ちゃんはへなへなとへたり込めた。
「……はぁ、はぁ、もうだめ、息できない、足痛い……」
「あなたね、自分の生命の瀬戸際に、どうしてそんなに余裕なの?」
「これでも必死になってはいるんだけど…」
『汗みどろで酸素を求めて喘ぐ、泣いてるんだかどうかも分らない様な状態のわたしが、
そんなに余裕そうに見えるのだろうか』
のろのろと顔を上げると、光背の様に大きな月を頂き、半眼でわたしを見下ろすノゾミ
の姿が、只人離れした(人じゃないんだけど)雰囲気も相まって、ちょっぴり菩薩様に見
えなくもないけど、その割には意地が悪い。
「ううっ……でもノゾミちゃんも休まないと、すごく顔色悪いっていうか……」
桂ちゃんの腕を掴む小さな手のひらの感触が、空気を固めて拵えた様な、頼りない物に
なっていて。全身を濡らす汗が、冷たくなる。
『そうだ、ノゾミちゃんはわたしなんかよりも、ずっと、ずっと……。
依代からの力を断たれた今の状態は、全力疾走に喘ぐわたしの胸なんかとは比べ物にな
らない程苦しい筈なのに。
慕っていた主に「いらない」なんて宣言された心は、地面を踏んで傷ついたわたしの素
足なんかと比べ物にならない程痛い筈なのに。
ああ、足手纏いになる自分が情けない』
ガクガクと震える足に気合いを送って、立ち上がる。
「ねえ、ノゾミちゃん。良かったらわたしの血、飲む?」
【桂ちゃん……! 本当に…】
桂ちゃんは、誰とでも心を通わせてしまう。
時に、愛してはいけない物迄愛してしまう。
それが桂ちゃんの長所であり危うさでも…。
ノゾミはその申し出にかぶりを振って、
「それこそ生命の無駄遣い。敵に塩を送ってどうするの。私が飲んだ血の力は、一度良月
に行ってしまうから」「あ……そうか」
そしてその力は当面の敵、ミカゲが独り占めしている状態だ。
「ミカゲが……、主さまがご自身の魂を分けた存在だったなんて……ね」
『それが分霊……。きっと主は、万が一の場合に備えて、保険をかけていたのだろう…』
だけど今は、主のことよりも。
「でもそれじゃ、ノゾミちゃんは……」
小さく頷くと鈴が鳴り、それが答え。
「私はもう良いわ。私を拾ってくださった、主さまに見放されてしまったんですもの」
ゆっくりと歩き始める。離れていく背中を追いかけ、わたしものろのろと足を引きずる。
「座敷の外にある世界も十分に見たし、普通の鬼では一滴たりとも口にできない、贄の血
だって飲んだし……」
「それなら、どうしてわたしを連れて逃げたりしたの?」
「私の取り分を持って行こうかと思ってね。もうすぐ……」
やや遠くに誰かが立っている。
人の形をした何かが、開けた森の一角の隅に佇んでいる。遠目夜目だけに顔形は判別で
きないけど、シルエットで大体予測は付いた。ノゾミは桂ちゃんを引きずる様に進んでい
く。
人影の、胸の辺りで何かが光った。
ノゾミやミカゲの、瞳の赤とは異なる光だ。それは天高くから降る月光と同じ、人影が
手にした何かが反射した月明かりその物だった。
それでも歩みを止めなかったので、角度などの条件が変ったのだろう。桂ちゃん達を照
す、地上の月がかき消える。
夜目はあっても遠目ではなくなった。
やはり良月を持たされた葛ちゃんだ。
それが親しみもなく、奇妙ささえ感じさせるのは、桂ちゃんに反応するでもなく案山子
の様に佇んでいるから。まな板の上の魚の様な虚ろな目は、何の光も映してない。常の生
気を感じ取れずに、桂ちゃんは唇を震わせた。
その胸に抱いた金属製の鏡、あれが良月か。
夢の中の夢に視た、鬼の姉妹の共通の依代。
『一昨日の(既に一昨昨日の朝と言うべきだろうか)ニュースで映像を見た、郷土資料館
から盗まれた鏡。そういえ昨日朝のニュースでは、血を吸われた死体も発見されている』
「ノゾミちゃん、葛ちゃんももしかして…」
「私たちに、死人を動かす力なんてないわ」
暗示で操っているだけ……単なる傀儡よ。
言いながら葛ちゃんが持つ良月を指差す。
「桂、あの鏡を割ればミカゲも消えるわ」
「でも、それじゃあ、ノゾミちゃんも?」
ノゾミは微かに諦観の宿った苦笑いで、
「力を止められてしまったから、どの途私は消える他ないのよ」
『あの場所から逃げ出してから、どれ程時間が経ったか感覚がないけど、ノゾミちゃんは
もう殆ど力が残っていないのだろう。月明かりに青白く浮いたかりそめの現身は、輪郭を
なくしたかの様に儚げで』
葛ちゃんは、完全に意識がない訳でもない様だ。身体は呪縛に操られる侭だけど、その
内側に微かに若杉葛の意識が感じ取れる。桂ちゃんの接近に、身体を戻そうと試みている。
豆電球ほどの弱々しい光を目に灯し、ノゾミは傀儡となった葛ちゃんに命じる。葛ちゃ
んへの傀儡はミカゲによる物なので、解くよりも更に上から傀儡を重ねる方が早いらしい。
「その鏡を思いきり地面に叩き付けなさい」
金属と言っても、千年を経た古い物だけに、その通りにすれば脆く崩れてしまうだろう。
言霊の繰り糸に従って、葛ちゃんの両手が鏡を頭上に掲げたその時。
「叩き付けてはいけない」
月光を跳ねて輝く鏡の表面が、びりびり震えて、人の声を発した。声の威厳に打たれた
のか、葛ちゃんは一向に動き出しそうにない。より強力な呪縛で、再び動きを止められて
…。
涼しげな鈴の音と共に、主の分霊、主の御影、影身のあやかし、ミカゲが現れた。
「わざわざ贄の血を引く娘を、良月の前まで連れてきてくださって有り難うございます」
「くっ……」
元々2人は現身を持たぬあやかしだ。桂ちゃんの様に走らずとも、かりそめの現身を一
度解き、再構成すれば良いだけだ。唯良月の根を抑えられたノゾミは、ミカゲの許しがな
ければ最早その現身を再構成はできないけど。
「うふふふふふふっ」
酷薄な笑みと共にこちらへ向けられる瞳の輝きは、弱ったノゾミの物より、月より強い。
翳した白い掌の上に、鬼火の様な赤が揺れた。
「それでは……」「させないっ!」
【ノゾミ、あなた……】
桂ちゃんの前に立ちはだかったノゾミが、桂ちゃんへ向かって飛んだ鬼火を受け止めた。
「つっ……ああ……」
握り潰すと、火の粉となって風に散る。
小さな拳を振るわせ、込めた力に震わせた肩から、陽炎の様に頼りない赤光が立ち昇る。
「……このっ!」
細く伸びた赤い力が、より合わさって糸となり、ミカゲへ向かっていく。
赤い糸は袂から覗く白い手首に巻き付き、剥き出しの素足に絡み、白い首を締め上げた。
『得意の暗示はミカゲちゃんに効かないのか、或いはそれも暗示の形なのか。ノゾミちゃ
んは両手の十指に結ばれた赤い糸を強くたぐって、ミカゲちゃんの動きを封じようとす
る』
「姉さま……」
蜘蛛の巣に捕らわれた、赤と黒の可憐な蝶にも見える妹鬼は、困った様に少しだけ眉を
ひそめた。夜気にしみる澄んだ鈴の音の所為か、ぴんと張っていた糸が小刻みに震え……。
その糸の内の一本が、朽ち果てて、崩れた。
「そんな……」
最早ノゾミにミカゲを長く抑える力はない。
「残り少ない力なのに、なぜ無為な事に使うのですか」
「何をしようと消えてしまうのに……何に使えば有意義なのかしら」
一瞬で顔から驚愕をこそいだノゾミが、新たな糸をミカゲに向けて伸ばして言う。もう
ノゾミには、余力も殆どない筈なのに……。
新たな糸が、縛める。
鈴の音が、糸を崩す。
新たな糸が、縛める。
鈴の音が……。
次々と崩れていく縛めに対し、ノゾミは新たな縛めを投げかける事で、ミカゲの動きを
封じ続けようとする。でもそれは砂漠の乾きを止めようと水を撒く様な、せんのない行為。
しかも水は有限で、生命に等しい物だった。
この一瞬ごとにノゾミに残った力は、その嵩(かさ)を目減りさせていく。
それでもノゾミは引かない。
「くっ……」
荒い息に肩を上下させながらも、残る力を吐き出しつづけ……。その細い肩越しに、勝
ち気な瞳を桂ちゃんに向けた。
「桂……」
邪視の顕現である赤い輝きは薄れ、既に普通の人とそれ程変りのない瞳。けれどその奥
底に凝った物の目映さは、邪視にも決して後れをとらない。それは強い意志の持つ光。
「桂、あなたが鏡を割るのよ。私が押さえていられる間に」「でも……」
『鏡を割ってしまったら、ノゾミちゃんは』
流石になぶるだけの余裕はないと感じたか、ミカゲの瞳がより濃い色の光を放つ。より
強い光の前では、幻灯の描く絵は儚く消えてしまうという言葉通りに、縛めの赤い糸は同
色の光の中に霞んでいく。
「桂っ! 早く! 早くして!」
焦れた声が桂ちゃんを急かす。
「でも……っ!」
「桂! わたしは自由になりたいのよっ!」
ノゾミにも、自由とは重く尊い物だった。
ミカゲの縛めが解けるよりも先に、その言霊が桂ちゃんの膠着を破った。
「……っ」
弾ける様に桂ちゃんは駆けだしていた。
赤く染まった世界の中を走り、そして。
金属質の耳障りな振動が、世界を砕いた。
鏡に映ったかりそめの世界が、音を立てて無数の破片と砕けると、かりそめではない世
界から赤い光が退いていく。いかにもな夜らしい、月光に染められた世界の色が戻り、そ
の現実味であり得ぬ怪異を締め出しに掛った。
「……」
その中で、ミカゲの身体は依代である鏡と同様に、ひび割れ、砕け、崩れ落ちていく。
その存在を消されていく。その様も、呪縛の繰り糸が消失してその場に崩れ落ちる葛ちゃ
んも、視界に入れる余裕もなくて桂ちゃんは、
「ノゾミちゃんっ!」
妹だと信じていたミカゲ同様に、同じ鏡を依代とする彼女の身体も、ひび割れ、砕け、
崩れ落ちていく。その存在を消されていく…。
「ノゾミちゃん、ノゾミちゃん!」
大きな破片から別れた欠片から順番に、からからと崩れ落ちていく。
それは地に塗れ汚れる前に消えてしまう、綿雪の様な……夏は嫌いだという純白の肌の
彼女らしい、儚げな散り様だった。
「桂、あなた何を泣いているの?」
「だって……」
ノゾミはもう、桂ちゃんの大切な人だった。
「あなたは良くやったわ。ふふ、誉めてあげる」「だって、だって……」
詰まって言葉にならない息吹。
「どうして私みたいな鬼の為に泣いたりできるの? 出会ったばかりで、あなたを傷つけ
た鬼でしかない私の為に……」
胸から喉へ、喉から目と鼻の真ん中へと迫り上がってくる圧力が、止めどなく涙を押し
だし、だから全てが歪んで見えるのだろうか。
雪明かりの様な光の中で、ノゾミは初めて見るような顔を見せていた。大切な人をなく
してしまったのに、自分が消えようとしているのに、鬼になって迄永らえさせようとした
生命が、尽きようとしているのに……。
「もう、充分よ」
とても穏やかに笑っていた。
何の縁(よすが)も残さずに綺麗になくなってしまう、雪の様な笑顔だった。
「鏡がなくなったんだから、今度こそわたしの血を飲んで元気になったりしないかな」
「そうね……だけど、霊体だけでは長くもたない事を知っていて?」
天から降り、地を流れ、海に届き、天へ還って行く水の様に、力も世界を循環している。
そして器の中から零れた水が、形を保てず広がる様に。容器の封を解かれた水が、蒸発
して消えてしまう様に。
肉体や依代という器を失った魂……特別な形をした力は、その形を保つ事ができず世界
に溶けて消えるしかない。幾ら力を注いで継ぎ足しても、元の形に戻る事はないのだから。
「じゃあ……」
『良月という器に移る事で、藤原望という器の破損から、彼女を彼女たらしめる力の形を
守った様に。適当な器さえあれば、ノゾミちゃんは、ノゾミちゃんの侭でいられる』
何か……何かなかっただろうか。
見回した処で何もない、見渡す限り森の奥、獣道とて定かではなく木と藪が続くばかり
だ。葛ちゃんが倒れ伏しているだけで、依代になりそうな物は見あたらない。せめて意識
が戻れば何か知恵を借りられたかも知れないのに。
「良いのよ、桂。何にだって依り憑ける訳ではないの。……あの良月は幼い頃からずっと
呪いの文言を吐き続けてきた物だし、あの鏡自体が元々呪物であった物だし。それに代る
都合の良い物なんて、そうそう落ちていたりする物ではないでしょう?」
霊体すら切るという烏月さんの刀なら、相応しい呪物かも知れないけれど、そんな物が
落ちている筈もなく……。
「でも……」
桂ちゃんは諦める事ができずに。
「それじゃあ桂……」
何かなかっただろうかと、消えていくノゾミより往生際悪く、足掻いていて。そして…。
耳に届くのは微かな物音。
向いた方角には蒼い輝き。
壊れた携帯電話から外した青珠が、贄の血の持ち主を追いかけ、桂ちゃんの間近迄森を
1人、斜面を上に転がり来た。その不自然な動きと清冽な輝きが桂ちゃんに天啓を閃かせ。
「ノゾミちゃん、これっ!」
己を目指し来た守りの青珠を、桂ちゃんが両手で握り締め、ノゾミの元に駆け戻った時、
わたしの霊体が、漸くご神木との繋りを取り戻した。確かな感触が返って来た。形が崩れ
るのが止まった。ご神木に縛られて囚われて、自身が再び定まって行く。動ける様になる
…。
「桂ちゃん……!」
まだ激痛は引かないけど、まだ消耗は終ってないけど、これ以上黙っていられなかった。
サクヤさんも烏月さんもまだ辿り着いてない。もう少しの処迄、来ていた様だけど。濃密
な現身を一旦解いて、生命と想いを重ね合わせた桂ちゃんに向けて、己を飛ばす。数十秒
後、わたしは桂ちゃんの背後間近に、顕れていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ハシラの、継ぎ手……あなた、なぜ…?」
ノゾミは、わたしが霊体を桂ちゃんに飛ばせる程深く繋った事を知らない。前触れもな
く突如間近に顕れたわたしを見て、驚きに目を見開きつつ、ノゾミは迎撃体勢に入るけど。
「……くっ、……ああっ……」
身構えようとしても、起き上がれずに崩れ落ちる。膝も肘も身体を支えられない。消耗
と疲弊が限度を超えている。細身な現身は苦痛に歪み、その手足はうっすらと透き通って。
ノゾミに最早攻撃の余力はない。わたしは蒼い力を充填しつつ、当面発動せず威嚇に止
め、歪む表情を睨みつつ、まず桂ちゃんを抱き留めて、たいせつな人の無事を肌で確かめ。
首筋に穿たれた2つの傷が、微かにまだ血を滲ませていた。その胴を抱き留めた両の手
を外し、右手を傷の癒しにと首筋に回しつつ、左手でノゾミに威嚇の蒼い力を示すわたし
に、桂ちゃんは首をもたげて必死の瞳と悲鳴とで、
「ユメイさん、お願い! ノゾミちゃんを、消してしまわないで!」
桂ちゃんはわたしの抱擁を受け止めながら、ノゾミへの攻撃を止めている。身体を張っ
て、自身もあちこち傷だらけで疲れ切って、吸血された桂ちゃんが、尚ノゾミを守ろうと
して。
第一声がそれだった。ついさっき迄、桂ちゃん自身の生命を脅かし、その故にノゾミと
対立してきた経緯を、過去を、桂ちゃんは気にできる状況にいなかった。流し去っていた。
桂ちゃんは、ある意味状況を把握していた。幾つもの段階を飛ばして事を為さねば、ノ
ゾミは存在を繋ぎ難い窮地にある。昨日の桂ちゃんと同じ位の、救い難い危機に彼女はい
た。
説明し理解し納得し和解していては、とてもノゾミの助けは間に合わない。だから桂ち
ゃんはわたしに何も説明せず、何も弁明せず、まず助けてと。まずその生命を奪わないで
と。
「お願い! わたしのたいせつな人なの!」
自身を飛ばす数十秒の間、わたしも状況を把握できなかった。その間わたしは羽様の屋
敷にも桂ちゃんの間近にも、いるともいないとも言えない状態だった。前後を見て類推す
る他にはないけど、状況は大きく変ってない。
「ハシラの、継ぎ手……私を、消すの…?」
間近に顕れたわたしを見てノゾミは覚悟を決めた様だ。今迄の関係と傷ついた桂ちゃん
を前にした立場は、ノゾミが良く分っている。俯せに身を崩した状態からわたしを見上げ
て、
「良いわよ。やるのなら、やっても……」
「ノゾミちゃん!」
「良いのよ。私は、彼女にも桂にも、消されて不思議ではない事をしてきたのだもの…」
自嘲気味な苦い笑みは、諦めの色が濃くて、
「……八つ裂きにしても飽き足らない程に憎いあなただけど、それはあなたにとっても同
じだった筈だから。あなたの血筋は私のたいせつな人を奪ったけど、私も又あなたの…」
野垂れ死ぬより、あなたか観月の不出来な子の手に掛るのが、私の最期に相応しいかも。
「ノゾミちゃん、そんなこと言わないでっ。
ユメイさん。お願い! ノゾミちゃんを」
瞬間、躊躇いがあった。心に迷いが兆した。
否、どっちが迷いだったのだろう。わたしはこの時、桂ちゃんの願いに応える事こそが
迷いに思えた。桂ちゃんの気の迷いに、或いは正常ではない状態の判断に沿う事は間違い
に思えた。今迄の経緯を飛ばした桂ちゃんの願いが、哀しみを招くと思えてならなかった。
ここでノゾミを消すのが正しい答に思えた。そう思いたいわたしがいた。そのわたしこ
そ多数だった。桂ちゃんは拾年前を憶えてない。拾年前に失った物を知らない。失わされ
た物を想像できない。ノゾミを受け容れる事は…。
わたしは、桂ちゃんの瞳を見た。泣き腫らした、ノゾミが消えゆく事に対して心からの
涙を零した美しい双眸を、正面から見据えて、
「桂ちゃんはどうしたいと望んでいるの?」
改めて真意を問う。説明は要らない。理由も背景も事情も必須ではない。唯わたしの瞳
を見て応えて。桂ちゃんの真の想いを伝えて。
あなたはわたしのたいせつな人、特別にたいせつなひと、守りたい一番たいせつなひと。
あなたの求めをあなたの意志で表して伝えて。
あなたの求めにわたしは渾身で応えるから。
あなたの願いにわたしは満身で応じるから。
あなたが心を表す瞬間を、待っているから。
何でも投げかけて。全てを受け止めるから。
わたしはあなたに応える為にいるのだから。
その問に桂ちゃんは迷う事なく真の想いを、
「ノゾミちゃんを、死なせないで!」
それを見て、それを確かめ、それを承けて。
必死で持ち上げていたノゾミの首ががっくり力を失い、身体が全て俯せに地に横たわる。
気力の限界に達し意識が途絶えた様だ。その侭捨て置けば、数分で彼女は透けて消失する。
青珠には辛うじて身を繋げていたけど、それもこの疲弊と消耗からは考え難い奇跡だけど。
彼女の生命は今わたしの手に握られてある。
拾年前の仇は今わたしの手の内に捕捉した。
今後の危険を消し去る最も確実な機会が今。
手のひらに、青い輝きが集まり始めていた。
今迄の経緯がある為に、桂ちゃんを苛み傷つけた相手故に、力は無意識の内にノゾミを
打ち倒そうと集まり始めていた。ミカゲと2人でも、今のわたしなら打ち破れた。まして
ここ迄疲弊したノゾミになら、一撃振り下ろせば止めが刺せる。一分掛らずに消し去れる。
それを前にして、手の届く所に感じて。
すぐ後に、ノゾミの消失は見えていた。
確実だった。間違いなかった。なのに。
わたしの手は力を散らせてから降りる。
わたしの宿願はノゾミの打倒ではない。
「……正解よ」
それが桂ちゃんの真の想いなら、全て正解。
桂ちゃんが受容した者に、わたしに否の答はない。わたしは桂ちゃんを常に一番に想う。
わたしは常にたいせつな人の守りと幸せが最優先だ。桂ちゃんを守るという事は、その身
体や生命と同様に、その心をも守る事。その想いも守る事。そのたいせつな物迄守る事…。
「桂ちゃんの、真の想いの侭に」
呑み込めない物も、受容する。
白花ちゃんがそうだった様に。
全て受け止めると決めたのだ。
わたしの想いは問題ではない。
桂ちゃんの想いが全てを決す。
否、その想いこそが、わたしの真の想い…。
ノゾミへの止めを未発に終らせた左腕を下ろし、わたしはそれを桂ちゃんの首筋に絡め
てこの身に抱き留め、傷を治し、疲れを癒す。顔をぴったり付けるのは、わたしの顔に兆
すだろう無念・虚しさ・悔しさを見せない為だ。それはわたしの未練だから。桂ちゃんの
真の想いに沿うのが常にわたしの真の想いだから。
そんなわたし達の物音ややり取りが、彼女を目覚めさせた様だ。呪縛が解けたもう1人
の目覚めが、桂ちゃんの夜に更に変転を招く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……ん……う……あ……」
葛ちゃんが夢現から、漸く意識を取り戻す。
どこか虚ろで、疲れた表情なのは呪縛の後遺症だ。一晩よく眠れば治る疲労の類だけど。
葛ちゃんをまどろみから一気に現実に引き戻すのは、桂ちゃんの首筋に滲んだ血の跡で。
枝葉に引っ掛って破れた衣服や、その破れ目から覗く肌や掠り傷で、泥に汚れた手や足で。
葛ちゃんは傀儡として操られた事を思い出し。
「わたし、操られて……あの、鬼の姉妹に…。
薄膜を、かけたみたいに霞んでますけど…。
わたしが、鏡を持って、おねーさんを…」
桂ちゃんの視線が、とりあえずわたしの攻撃の危機を脱したノゾミから葛ちゃんに向き、
「……葛ちゃんは悪くない。唯操られていただけで、これは葛ちゃんの所為じゃない…」
「やっぱり……駄目です……」
疲弊と状況の激変が、葛ちゃんの分厚い偽りを、心を隠す自制心を、剥ぎ取れる寸前の
薄膜に変えていた。否、本心が見えてしまいそうだから葛ちゃんは人を拒みたかったのか。
「やっぱりわたしは……駄目なんです……」
わたしの抱擁を解いて歩み寄る桂ちゃんの手を怖れる様に、触る事を許されない様に、
「わたしと一緒にいたから、尾花はあんな事になって、桂おねーさんはそんな風に……」
顔を強ばらせつつ、ざっと一歩後退りして、
「駄目なんですよ! わたしみたいに普通じゃないのは、誰かといたら駄目なんですっ」
いるだけで、周囲を禍に導いてしまう。
自分が助かる様に不幸を人に転嫁する。
手を伸ばす桂ちゃんに応えたい思いに瞬時惑う心が見える。その温かさに包まれたい想
いと、それに接する事が禍になる怖れが同居して、進むも引くもできない躊躇いが見えた。
顔を歪める苦悩は己の為ではなく、己の故の。
「わたしはっ!」「葛ちゃんっ!」
葛ちゃんが意を決し、振り返って走り出す。
桂ちゃんが追いかけようと走り出した時…。
葛ちゃんの動きが突然止まる。開けた森の一角を、走り抜け終えた辺りで突如停止して。
追いつけた桂ちゃんが、その肩を後から軽く抑えたその向うに、前方に、その原因はほぼ
真正面から鉢合わせして。状況を変えたのは、桂ちゃんを捜して辿り着いた2人の守り手
だ。
夜の森は視界が悪く足場も悪く、鍛えられた人にもその踏破は容易ではない。それでも
鬼切部の厳しい修行の成果と尋常ならざる想いの強さで、烏月さんもサクヤさんとほぼ同
着で、開けた森の奥のこの一角に辿り着けた。
「桂っ!」「桂さん」
2人は、助けるべき人が自らの足で目の前に現れた事にほっとすると同時に、その更に
前に現れた小さな人影をも視界に収めた様だ。
互いの状況が月明りの下で確かめ合えた時、見ると同時に見られて確かに視界に収めた
時。
葛ちゃんの動きが止まった。
月明かりに青白く染まった葛ちゃんの背は、驚きの気配を立ち上らせた侭で固まってい
る。
「葛ちゃん、どうしたの?」
一体何がそうさせたのかと、桂ちゃんが覗き込んだ瞳に映る物を知ろうとその前を窺う。
『葛ちゃんの視線の先には、おかしな物は何もない。みっしりと葉を茂らせた枝に蒼い光
を遮られて、闇を薄めず濃い侭にしている木立の間にも、怪しい影は見あたらない』
「なんで……こんな……」
『呟く葛ちゃんの瞳に映るのは、そんな夜の山の景色と、昨日も会っているサクヤさんと、
金色の太刀を携えた烏月さんだけだ……』
……と言う事は、烏月さん?
両者の間に挟まれ、桂ちゃんは訳が分らず首を往復させるばかり。葛ちゃんの肩を右か
ら軽く抱きかかえつつ、右から左、左から右。
烏月さんから葛ちゃん、葛ちゃんから烏月さん。確かに葛ちゃんは烏月さんを凝視して
いて、烏月さんも葛ちゃんを見つめている…。
『葛ちゃんは、烏月さんの事を怖がっているんだろうか? 確かに暗い山の中で、刀を持
った人に会ったら怖いのは、当たり前だけど。だけどそういった種類の怯えと少し違う事
は、震える小さな肩から漠然と伝わってくる…』
「……ああ」
桂ちゃんの中で一つの仮定が浮び上がった。
『葛ちゃんは、鬼切りの千羽さんを天敵とする存在なのかも知れない。思えば葛ちゃんは、
随分と常人離れしてはいなかっただろうか』
「つ、葛ちゃん……?」
指先から伝染したのか、桂ちゃんの声も震え、上ずっていた。別離の予感が兆している。
桂ちゃんにもその重みが肌で感じ取れている。
『別に葛ちゃんが怖い訳ではないと思う。
葛ちゃんの正体が何であれ、例えば羽様のお屋敷に住む座敷童子とか、尾花ちゃんの様
な姿が本性の化け狐とかでも構わない』
構わないけれど、それが別れに至る糸口となってしまうのが嫌だった。
『わたしが知っている人と人でない物との物語、『雪女』や『鶴の恩返し』等でも、正体
が明かされる事が別れの発端となっている』
そんな桂ちゃんの震えとも、葛ちゃんの震えとも全く縁遠い処に立つ烏月さんが、おも
むろに口を開く。サクヤさんは桂ちゃんの無事は確かめたので、葛ちゃんと烏月さんの話
には介在しない様子だ。わたしは桂ちゃんの治癒が終ってないので、その更に後から桂ち
ゃんを抱き留めようと、靴を持って歩み行く。
「桂さん。無事で、良かった。にしても葛様。こんな処に、いらっしゃったんですね…
…」
「葛様って……」
『慇懃な態度は貴人に対する物。少なくとも鬼とかに対する物ではなさそう。だけどそれ
なら葛ちゃんは何を怯えているんだろう?』
桂ちゃんは訳が分らず窺い見るも、葛ちゃんは固まった侭動かない。答え欲しさに焦れ
て葛ちゃんを揺する桂ちゃんに、烏月さんが顔を向けた。既に桂ちゃんが葛ちゃんと仲良
しだった事に、昨夜の先客が葛ちゃんだった巡り合わせに、微かに驚きを隠せない様子で、
「葛様より聞かされてなかった様だね? 葛様は若杉家の方なんだ」
「うん、名字は若杉だって言ってたけど、だけど『様』がつく様な若杉って……あ」
「恐らく、桂さんの考えている通りだよ」
十人が十人同じ答を出すのだろう。思い当たった様子の桂ちゃんに、烏月さんが頷いた。
『そうか、やっぱりあの若杉なのか……』
それはつまり、葛ちゃんは日本国内のみならず、世界でも有数の資本を持つ企業グルー
プの関係者だという事になる訳で。
「……葛ちゃんって、すっごいお嬢様?」
「やめてくださいっ!」
漸く硬直が解けたと思ったら、力を溜めに溜めていたバネが弾ける様に、肩にかけてい
た桂ちゃんの手が、撥ね除けられた。
「わたしはただの葛です! 家を出た時点で、若杉とは何の関係もなくなったんです!」
「法的にあなたは若杉ですし、社会的にも依然として若杉の侭です。幾ら否定した処で、
あなたに流れているのは若杉の血……。私に千羽の血が流れている様に、生きている限り、
それは絶えず身体を巡る物なのです。葛様」
定めを拒む葛ちゃんと定めに向き合う烏月さんの話は、簡単に折り合いが付く筈もなく、
「知りませんよ、そんな事……」
「会長が亡くなられた今、若杉を継ぐ資格があるのは、葛様お一人です」
「そんなの、若杉の自業自得じゃないですか。一人になるよう仕向けたんですから、一人
しかいないのは当たり前じゃないですか」
大体グループの経営は滞りなくきちんと回っているんでしょう。わたしみたいな小娘は、
どうせ傀儡にしかならない訳で。
「世襲制なんてナンセンスですよ。わたしは何もかも放棄するって言ってるんですから、
それで良いじゃないですか」
必死に言い募る葛ちゃんに、
「単なる企業体としての若杉ならば、それで一向に構わないでしょう」
烏月さんは一度桂ちゃんに視線を向けてから、磁鉄鉱の様な硬い瞳で葛ちゃんの視線を
真っ直ぐに吸い付ける。
「葛様を必要としているのは、我々鬼切部を束ね、政財界との折衝を行う、鬼切り頭を継
がなければならない若杉です。
安倍、土御門から鬼切り頭の役目を受け継いだ、表と裏、過去と現在、現界と幽界……
2つの世界を繋ぐ橋としての若杉です」
「安倍から役目を……」
流行った事もあるし、時代物の小説にも出てきたりするから、安倍という名と鬼を結び
つけるのは、桂ちゃんにもそう難しくはない。
安倍晴明……陰陽師の代名詞的存在。
まだ闇が闇として怪異を包み込んでいた平安の世に、鬼を使い、鬼を封じ、鬼切りの武
者に助言を与えていた人物。
「話がいきなりで良く分らないけど、葛ちゃんは……その……だけど……」
桂ちゃんに知られた事が決定打だった。それを知られたくない、若杉の立場抜きで桂ち
ゃんと対したかった。その望みを打ち砕かれ、桂ちゃんとの関りを今迄通り続けられない
と悟って、葛ちゃんは己を抑える意味を失った。
前にいる烏月さんやサクヤさんに背を向け、
「そんなのわたしは知りません! 全然やる気のないわたしより、義務感のある誰かがや
ればいいんですよ!」
桂ちゃんとの間に瞬時繋る視線の中で、葛ちゃんの瞳が孤独を映して震えていた。泣き
出す寸前で抑えた、いっぱいっぱいに迄偽って隠し通した本当の望みが、その真の想いが
ぎっしり詰まって弾け飛びそうになっていた。
それに桂ちゃんは気付いている。
それを桂ちゃんは捨て置けない。
危険だと分って踏み入っていく。
「葛ちゃん?」
葛ちゃんが走っていく。
山の中へと走っていく。
事情もよく分ってないし、この先どうするべきかも分らないけど、今どうするべきかに
は、考える迄もなく桂ちゃんは反応していた。
「ちょっと待ってよ、葛ちゃんっ?
悪いけどユメイさん、ここお願い!」
桂ちゃんは何も考える間もなく、葛ちゃんを追いかけて走り出す。靴は履かせたけど疲
弊の中、躊躇のない疾走は葛ちゃんを今だけ絶対離さないと。最後にわたしに振り返って、
「ノゾミちゃんのこと、よろしくね!」
『何をよろしく頼んだ積りだったのかねぇ』
いつかのサクヤさんの言葉が思い返された。桂ちゃんの信を受けるという事は、桂ちゃ
んに振り回される事の受容でもある様だ。それも又わたしには、この上ない幸せなのだけ
ど。
念の為に、蝶を数羽放って置く。鬼の姉妹の脅威はなくなったけど、夜の森を走る桂ち
ゃんは心配だったし、葛ちゃんも桂ちゃんのたいせつな人だ。もしもの事があっては困る。
今のわたしは日中でも経観塚位迄なら桂ちゃんに起きている事を同時に把握できるけど、
夜ならばその場にわたしを飛ばせられるけど、即座に力を揮って桂ちゃんを守る事は難し
い。この身を飛ばすにも数十秒の時が要る。蝶を追随させるのは、念に念を入れた守りだ
った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂っ」「桂さん」
葛ちゃんと、彼女を追って森の奥へ疾走する桂ちゃんを追う、サクヤさんと烏月さんの
疾駆が、数歩の辺りで急停止した。2人は森の開けた一角に踏み込んで、倒れ伏したノゾ
ミに気付いた様だ。わたしも即座に駆け戻る。
「ぬっ……」「ノゾミっ」
2人はこれ迄の事情を全く知らない。ノゾミが既に桂ちゃんのたいせつな人である事も。
だから桂ちゃんは、わたしにノゾミを頼んだ。応えないと。桂ちゃんの想いに、応えない
と。ノゾミへの想いは棚上げする。後回しにする。
「待って!」
振り下ろされる刃と拳。わたしは、烏月さんとサクヤさんの前に身を挟み、その一撃を
身体で止める。烏月さんの維斗は、ノゾミに覆い被さったわたしの背中で止められていた。
「柚明、あんた?」
サクヤさんの問は烏月さんがわたし迄斬り捨てない様にとの配慮か。或いは自身の弾け
飛びそうな想いを飲み込む為か。ノゾミを間近に抱えた姿勢から、首をもたげてわたしは、
「わたしは桂ちゃんに、ノゾミの事を頼まれました。今はノゾミを、死なせられない…」
「あんた一体、何を言っているか……」
「ユメイさん、そこを退いて貰おうか」
わたしもまさかこんな展開になるとは思わなかった。ノゾミを庇って烏月さんやサクヤ
さんに対峙するとは。禍福は糾える縄の如し。運命の巡りの輻輳は、時に人の想像を超え
る。
「桂ちゃんに頼まれたんです。ノゾミを死なせないで。それが桂ちゃんの望みですから」
桂ちゃんの願いさえなければ、わたしがノゾミを消していた。間近に抱き留めた華奢な
背中を、苦しげな息遣いが肩を揺らせる様を、わたしが挟まらなければ繋げない生命を抱
き、
「死なせられない。せめて桂ちゃんが帰って来る迄は、ノゾミを討たせる訳に行かない」
「ユメイさん、あなたは正気か!」
烏月さんは刃を突きつけた侭で問う。首筋に迫る刃と向き合うのはわたしの宿命らしい。
桂ちゃんが、ノゾミ達に生命を狙われ血を欲され拒んでいた桂ちゃんが、ノゾミを死な
せないで等と言う筈がない。言ったにしても正常な思考とは思えない。それを受容するわ
たしの判断こそ、まともな物とは思えないと。
わたしの答は、答になってなかったかも。
「正気かどうかは一番の問題じゃない」
破妖の太刀の使い手を斜めに見上げ、
「桂ちゃんが真にノゾミの生存を願うなら」
「馬鹿な! 力を復する間を与えればこの鬼が何をするか。必ず桂さんの血を狙って…」
烏月さんが更に何か言い募ろうとしたのを結果的に抑えたのは、サクヤさんの問だった。
その声は低く感情を抑えつつ、わたしの憶えて決して忘れ得ない、あの過去に話を振って、
「あんたは桂と違う。拾年前を、これ迄をあんたは憶えている筈だ。それであんたはノゾ
ミを許せるかい? 受け容れられるかい?」
ノゾミは、桂からたいせつな物を奪い去り、あんたのたいせつな物を奪い去った。あん
た自身の仇でもある。あんたの人生はこいつに奪われた様な物だろう。桂の一言で、今し
か知らない桂の気の迷いで、あんたは仮にでもノゾミを受け容れようとしている。良いの
か。
サクヤさんは、そこに自身の恨みを入れてない。本当はノゾミはサクヤさんの一番たい
せつな人の仇だ。拾年前に竹林の姫を、元々のオハシラ様の魂を還してしまった、その事
こそサクヤさんの痛恨で最大の哀しみなのに。
わたしの行いは、桂ちゃんの願いは、サクヤさんの想いを踏み躙る。ノゾミの生存はわ
たしよりサクヤさんにこそ、許すべからざる物だった。それを為すわたしこそが鬼だった。
「ノゾミのやった事は、決して許さない!」
わたしは抱き留めた可愛らしい顔が苦しみに歪む様に、閉じた眼差しに、深く強く憎し
みを視線で注いで、それから2人に向き直り、
「でも、桂ちゃんの想いがそれを望むなら」
正樹さんを死に至らせ、白花ちゃんに主の分霊を宿らせ、桂ちゃんの温かな記憶を奪い、
羽様の屋敷を廃墟にし羽藤の家を瓦解させた。わたしの幸せを壊し、わたしのたいせつな
人の幸せを奪い、その過去を哀しみに閉ざした。
サクヤさんの拠り所を奪い、多くの悲哀を生み出し、今も尚生み出し続けている。心の
出血は未だ尽きてない。傷は未だに塞がってない。それを分る故に、感じる故に、サクヤ
さんはわたしの心に問う。それで良いのかと。わたし自身の哀しみを踏み躙って良いのか
と。
それにわたしは静かに意志を込めて頷いて、
「わたしは、たいせつな人を守る為に形になりました。己の恨みを晴らす為に人である事
を止めた訳でもなければ、鬼に成った訳でもなく、この現身を取った訳でもない」
この身は桂ちゃんの真の想いを守る為に。
この力は桂ちゃんの真の幸せを保つ為に。
わたしは、自身を踏み躙る事も厭わない。
わたしは、常に一番たいせつな人の為に。
その為にサクヤさんの想い迄踏み躙って。
「その他はわたしの真に大切な想いではない。余分な物、外に出す必要のない物、知られ
る必要もない物です。桂ちゃんに過去を想い出させる訳にはいかない。なら、この結末
も」
わたしは受け容れる。それは納得や理解と別の話だ。ノゾミへの許しも和解も別の話だ。
桂ちゃんのたいせつな人を死なせない。わたしがノゾミと今後どの様な関係になるかは分
らない。でもわたしはどんな事があろうとも、桂ちゃんを一番に想い、その心を守りたく
想うから。桂ちゃんを哀しませる事は招かない。
「ノゾミはミカゲから、桂ちゃんの生命を守ってくれました。わたしの守りも及ばぬ中で、
敗北と言うよりは消滅を承知で。わたしが彼女を憎む想いは言葉に表しきれない程ですが、
その事への感謝も又、言葉に表しきれない」
それで許容できる物でもないけど。
それで受容できる物でもないけど。
桂ちゃんがノゾミを受け容れたのはこの経緯の故もありますが、理由がない訳じゃない。
桂ちゃんは意思を操られたり強いられた訳じゃない。確かな意志で、その強く優しい心で、
ノゾミを受け容れたのです。自身を何度も傷つけて、生命を脅かした事もあるノゾミを…。
今やノゾミは桂ちゃんに害意を抱いてない。
今やノゾミは桂ちゃんの生命を欲してない。
今ノゾミが欲しているのは桂ちゃんの心だ。
「全ての鬼があなたの様に、優しさと強さを兼ね備えた侭、人を外れられる訳ではない」
烏月さんはわたしを瞳の中央に強く見据え、
「人の血を何度も啜ってきた悪鬼を、少し前迄桂さんに紛れもなく害意を持っていた主の
手先のこの小鬼を、信じるというのですか」
サクヤさんもわたしと桂ちゃんを心から案じる想いの故に、わたしを正面から見据えて、
「今後に危険を残すかも知れないんだ。桂の将来に禍根を残す事に。一度桂の生命を守っ
た位で、あんたはノゾミを信じられるのかい。この小鬼は羽藤の代々に影を落し続けてき
た、因縁深い相手なんだ。簡単に主との関係を清算できるとは思えないし、桂との関係だ
って今は繋って見えても果して信じられるか…」
心は変る。恋は冷める。想いは褪せる。
「あんたの様に変らず強い想いを抱き続ける者なんて、人にも鬼にも多くはないんだよ」
2人の言いたい事は分る。それは正論だった。わたしもそう考えるし、そう感じもする。
でも今それを為してはいけないし、為させてもいけない。ノゾミを背に、動かずわたしは、
「わたしが信じるのは桂ちゃんです」
ノゾミを信じた訳ではない。わたしがノゾミを討たないのも討たせないのも、ノゾミが
味方になった故ではないし、それを信じた為でもない。桂ちゃんの願いがあったから。桂
ちゃんが信じたから。受け容れる訳ではない。その行いを許して迎える訳ではない。でも
今だけは、桂ちゃんが戻る迄は死なせられない。わたしの想いも、危惧も、望みも全部後
回し。
「烏月さんが、桂ちゃんの信じたわたしを斬らなかった様に。わたしは、桂ちゃんが信じ、
死なせないでと頼まれたノゾミの生命を奪う事はさせられない。せめて桂ちゃんが戻って
きて、その納得と理解を得ない限り」
それがわたしの仇敵でも、憎悪の対象でも。
わたしの寄って立つ場所はそこにしかない。
自身の想いを振り捨ててでも、それは守る。
「柚明、あんた。桂の想いに、そこ迄……」
サクヤさんが微かに思い悩む様子を見せた。サクヤさんは、使命ではなく想いで動く故
に。ノゾミが今は桂ちゃんを脅かせぬと分る故に。わたしの広げた両手を前に、自身は動
かないと視線を逸らし、烏月さんとわたしの対峙を見守ろうと。でも烏月さんはそうは行
かない。
烏月さんは、わたしに維斗を振り下ろすだろうか。ノゾミは正に烏月さんが討つべき鬼
だった。鬼切り役の烏月さんは、ノゾミをこの侭捨て置けない。庇い立てする者があれば、
彼らは人でも叩きのめすか斬るかし押し通る。
わたしは破妖の太刀に斬られても、桂ちゃんのたいせつな人に反撃はしない。桂ちゃん
と今後の日々を、喜怒哀楽を共にする人を傷つけられない。いつかの夜に状況は似ていた。
「今後ノゾミをどうするかは桂ちゃんが帰ってから、桂ちゃんを交えて話して決めるべき。
ノゾミはもう、桂ちゃんのたいせつな人です。桂ちゃんの了解なくノゾミを消滅させる事
は、その願いを破り、望みを断ち、哀しみを招く。
わたしが、全て責を負いますから。ノゾミの動向は、わたしが見張りますから。万が一、
この上ノゾミが人に害を為す事があれば、この身をもって防ぎますから! その代り…」
強い想いを止まらせるには、それに見合う想いが要る。わたしは斬られても良い。斬ら
れても又形を為せる程霊体が濃い以上に、身を削る事で烏月さんの強い想いを鎮めようと。
「その代り、ノゾミが人に害を為さない限り、わたしは彼女へ加えられる危害をこの身を
もって、防ぎます。ノゾミを死なせはしない」
わたしが烏月さんに求めるのは話し合いだ。それは生命を削る、魂を削る話し合い。想
いと想いのぶつかり合い。戦いより過酷な心の応酬。言の葉で交わす生命のやり取り。
「それが、桂さんを、守る事になると…?」
それは、桂さんを哀しませない事になるのですか。桂さんはそれで、守られるのですか。
烏月さんの問にわたしは黙して目を閉じた。
「正直の処、ノゾミをこれ以上関らせる事が桂ちゃんの哀しみを呼ぶ像も、視えています。
ノゾミの先行きは不安定で、尚わたしにも見定め難い。将来の桂ちゃんの哀しみや痛みを、
苦しみや悔いを招く怖れは尚残っています」
でも、今ノゾミを消す事は間近な桂ちゃんの確実な哀しみを招く。心に大きな穴を穿つ。
「そう遠くない将来あるかも知れない後悔を避ける為に、今ここで後悔を招きたくはない。
あなたが桂ちゃんと共有した何でもない時間の心地良さを、ノゾミも持てる可能性がある。
分岐の先は必然ではなく、まだ未確定です。絶望と希望のどちらになるかはまだ視えな
い。わたしはノゾミの為ではなく、唯桂ちゃんの笑顔の為に。桂ちゃんの日々の幸せの為
に」
それが得られず、結局桂ちゃんの哀しみを導き涙に終った時には。悔いを招いた暁には。
「わたしがこの手でノゾミを滅ぼします。その悲嘆も怒りも恨みも身に受けます。わたし
は悔恨も桂ちゃんと共に抱く。桂ちゃんの決めた心、信じた物がわたしの想い。涙枯れる
迄、心の震えが止まる迄、わたしは一緒に」
烏月さんの瞳が見開かれる。わたしの答は正直に過ぎて、模範解答と言えなかったかも。
「今ノゾミを消しても、後で消す事になっても、桂さんの心に棘は残る。なら、ここで生
かして桂さんの信に応える途を残そうと?」
結果はそうだけどわたしの力点は少し違う。
「わたしはたいせつな人の守りが望みです」
桂ちゃんがどんな痛みに遭おうと、どんな哀しみや悔いを抱こうと、桂ちゃん自身が招
いた失望だろうと。わたしは最期迄共にいる。ノゾミの事は形に表れた枝葉末節に過ぎな
い。わたしは桂ちゃんの全てに最期迄寄り添うと。
強く心から望んだ想いが、必ず返される訳ではない。善意と優しさが、絶対それに相応
しい報いをもたらす訳ではない。世の中には可能性と共に理不尽も付きまとう。掴めるか
掴めないかはやってみなければ分らない事も。
桂ちゃんが踏み込んで、信じて掴むというのなら、それが棘だらけの外れでも、わたし
もそれに、手を添える。棘の痛みを共に受け、その失敗も、怒りも哀しみも悔いも共有す
る。それが桂ちゃんの望みなら、本当の望みなら。
「わたしはたいせつな人の失敗も怒りも哀しみも悔いも共にしたい。させて貰いたい。心
を常に寄り添わせる。それがわたしの守り」
身体だけではなく、生命だけではなく、心も包み込んで、守りたい。否守らせて欲しい。
わたしの届く限り、わたしの及ぶ限り。わたしの身に為し得る限りを、尽くさせて欲しい。
「人を守るという事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。そ
の深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる事」
ノゾミはわたしが引き受けます。ですから。
せめて桂ちゃんが帰り着く迄は斬らないで。
「わたしは何度斬られても退かない。あなたがどうしてもここでノゾミを斬るというなら、
わたしは桂ちゃんが帰り着く迄、ここでノゾミの代りにあなたの刃を受け続ける。この身
に替えても、絶対にノゾミは斬らせない!」
「ユメイさん……、あなたという人は……」
烏月さんの瞳に微かに動揺が兆す。あと一押し。そう思えた時だった。後方間近な声が、
「……うっ……く、あ、あぁ……!」
ノゾミは高熱に魘されつつも、首から下は寒気に震え、その消失の前段階を迎えていた。
辛うじて霊体は青珠に繋げていたけど、それも疲弊し消耗したノゾミには望み得ぬ奇跡だ
ったけど。それでも力は決定的に不足だった。
誰の止めも不要だった。助けの手を差し伸べない限り、霊体に直接力を補充しない限り、
十数分後の消失は目に見えた。振り向いて様子を見ようと屈み込む。背中に、間近なサク
ヤさんと少し離れた烏月さんの視線を感じた。
「主さま……」
ノゾミの譫言に、サクヤさんの頬がぴくりと動き、わき上がる怒りを抑える様を感じた。
「主さま……、ごめんなさい。私、桂を…」
桂を、一番たいせつに想ってしまったの。
沈黙が一帯を支配した。
「ごめんなさい、主さま。……ごめんなさい、ミカゲ……。ごめんなさい、桂……けい
…」
まともに意識がある時には決して出さない、千年強気で通したノゾミの譫言に宿る真実
が、一度ならずわたし達を包む空気を塗り替えた。身を襲う消滅の予兆に身を震わせる華
奢な身体は、無意識に間近なわたしの温もりを求め、
「……母さま……?」
桂ちゃんの過去を失わせた宿敵なのに。
桂ちゃんの生命を脅かした仇敵なのに。
桂ちゃんを守ってくれた恩人でもあり。
こうなってみれば、鬼でも1人の無垢で純真な女の子だった。本当の歳はわたしより遙
かに上でも、中身はわたしより幼く無邪気な、純粋故の一途さと頑固さが切ない程の女の
子。
わたしは後先を考える事を止めて、今迄も今後も想い返す事を止めて、今だけの想いの
侭に、ノゾミをこの身に抱き留めた。わたしに流れる力と生命を注ぎ込む。死なせられな
かった。この侭消えるのを捨て置けなかった。
これは血や力と共に流入した桂ちゃんの心なのか。ノゾミも桂ちゃんの血を飲んでいる。
わたしの中を流れる生命とノゾミの中を流れる生命は、本来は弾き合う全然違う質だけど、
同じ人から取り込んだ力と心が共鳴している。相互に呼び合い、互いを通わせ合って行く
…。
「柚明、あんた……」「ユメイさんっ……」
サクヤさんも烏月さんも言葉を失うのは当然か。ついさっき迄の仇敵を、討たないどこ
ろか、庇うどころか、消滅を回避する為に生命を分け与えるとは。力を注ぐとは。でも…。
「桂ちゃんの望みは、ノゾミを死なせない事です。……この侭放置して、ノゾミを死なせ
ても結局同じ。桂ちゃんの願いには応えてない事になる。ノゾミの生命はわたしが繋ぐ」
死なせないには、消滅を避けるには、最早他には方法がなかった。桂ちゃんがいない今、
贄の血でノゾミを賦活させられない。間に合わないし、桂ちゃんの失血はもう限界だった。
烏月さんやサクヤさんに治癒の力はない。できるのはわたしだけだ。抱き留めて、ぶるぶ
る震える全身にわたしの力を肌から浸透させ。
「柚明!」「なっ!」
ノゾミに口づけして、直接霊体の内部に力を注ぐ。ノゾミは消耗が激しすぎて、外から
包むだけでは内部の崩壊を食い止められない。桂ちゃんから貰った贄の血が付与した力な
ら、桂ちゃんの望みに沿う為に使って問題はない。わたしもノゾミも桂ちゃんの血で繋っ
ている。定めの赤い糸は既に、互いに絡みついていた。
生命を重ね合わせる。想いを重ね合わせる。
滑らかな肌を抱き留めて。力の抜けた四肢を受け止めて。徐々に静まって行く息遣いを、
感じつつ。意志がなく敵意も失った顔は無邪気で、桂ちゃんの自然な寝顔を思い起させた。
数分に及ぶ口づけの後で、糸を引く錯覚を残しつつ唇を離すと、尚気を失って動かない
ノゾミを、両腕のお姫様だっこで持ち上げる。ノゾミが動かないのは少し容態が安定し消
滅を猶予された為だ。大丈夫とはまだとても言えないけど、本当の峠はまだこれからだけ
ど。
抱き上げてから振り返ると唖然としたのか、こちらも動かないサクヤさんと烏月さんが、
わたしに視線を集めていた。敵意より驚き、驚きより呆れ、呆れより諦めを色濃く感じた。
「一番危うい状況は脱したわ。まだ今手を離せば消滅の危機だけど、わたしが力を注ぐ限
り死なせない。ノゾミを消失させはしない」
それが桂ちゃんの真の求めなら。
それが桂ちゃんの真の想いなら。
それが桂ちゃんの真の望みなら。
「わたしの生命を注いでも、ノゾミを守る」
敵意も憎悪も棚上げする。今はとりあえず、一番たいせつな人が守りたく想った人を守
る。
左斜め間近に立ちつくしていた烏月さんは、
「人を守るという事は、その身体や生命と同様に、その心も守る事。その人の想いも守る
事。その人の大切な物迄守る事……」
昨夜のわたしの言葉を諳んじて太刀を収め、
「とりあえず今暫くは、刃を引きましょう」
その双眸は既に驚きの色を呑み込んで怜悧に輝き、端整な顔立ちは微かに苦笑いを見せ、
「あなたは敵に回したくない。想いの透徹ぶりが怖ろしい以上に、私はあなたを……否」
その先は語らず、桂ちゃんを交えて話が付く迄の間、わたしが昼夜問わず見張り、これ
以上被害者が増えない限り、烏月さんはノゾミをひとまず斬らない事に、同意してくれた。
わたしは烏月さんに頭を下げて謝意を示し、右に少し離れて立つサクヤさんに視線を移
す。サクヤさんは右手を額に当てて諦めた仕草で、
「今後の事はともかく、桂が帰ってくる迄はノゾミを討つ事はしない。それで良いだろ」
はい。わたしは静かに微笑んで頷き返す。
忘れていたよ。サクヤさんは溜息の後で、
「あんたも羽藤で、桂の血縁だったってさ」
至極当然な事をぼやかれる羽目になった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
すばしっこい葛ちゃんを見失わずに追いかけられたのは、わたしにしてみれば奇跡の様
な物だった。
もしかしたら、追いかけて欲しかったのかも、なんて都合良く思ったりしない事もない。
だけど、とっくに限界以上を搾り出している。程なく力を使い切って、走るどころか立っ
ている事もできなくなる。だから今、まともに動ける内に、葛ちゃんを捕まえないと……。
「葛ちゃん、待って……」
伸ばした手が、葛ちゃんのフードに触れた。
「待ってよ」
もう少し。
「待ってってば」
もう少しだけ追いつけば。
髪やスカートの乱れ等気にする余裕もなく、ぎざぎざの葉や枝が肌をひっかくのにも構
わず、必死になってわたしは走った。失血は補えてないけど、ユメイさんの癒しのお陰で
か、わたしはあれから尚暫く全力疾走できていた。
『ああ、端から見たら凄い格好なんだろうな。今日のごはんを追いかけて走る、恐ろしい
山姥みたいに見えるかも知れない』
でも、この侭追いつけなかったら、二度と葛ちゃんに会えない気がした。小さな擦り傷
を沢山作り、手足を痛めつつ茂みを抜けると、そこはほんの少し開けた、見覚えのある所
…。
月の光と夜の色とに青紫に染められたリボンが、ひらひらと温かい風に踊っている。
『ああ、元はピンクのあのリボンは……』
いけない。この侭の勢いであそこに向って進んではいけない。昨日のケイくんの気持が
今になってしみじみ分った。でも、昨日のわたしの気持から推察すると、葛ちゃんは……。
「お願い、葛ちゃん止まって!」
あれはわたしがつけた危険信号。危ないから止まれのサイン。
わたしは止まれと相手に言いつつ、自分は一層加速する。草藪が開けたのを幸いに、足
のスライドを一層大きくして加速する。
フードの端が手のひらまで届いた。
もう目の前にリボンが迫っていた。
わたしは力一杯に握り締めて、足にブレーキをかける。これなら何とか間に合う筈……。
「捕まえた!」
……と、その気の緩みが命取り。
1人でも全力疾走の状態からぴたっと止まるなんて無理なのに、止まる気のない葛ちゃ
んごととなると、それはもう絶対に。
葛ちゃんの足の裏が、地面のない場所を蹴ろうとして空振りした。重力に対する地面か
らの反作用がなくなって、進行方向が俯角四十五度に修正される。斜め下へ向かっていく。
カーブと言えない程急なカーブラインを描きながら、葛ちゃんの身体が涸れ井戸の中へ
と落ちていく。それに引きずられる様にして、わたしも一緒に落ちていく。
「やっぱり〜〜〜〜〜」
わさっという物音は、何か柔らかい物の上に荷物が落ちて受け止められた感じに聞える。
「あいたー。いたたた……」
わたしと葛ちゃんにとって幸いだったのは、下に尖った石や硬い岩がなかった事。落ち
葉が厚く積っていた事。とはいえ、思いっきり打ち付けたお尻の痛みがなくなる訳でもな
し。
「……っと、葛ちゃんは大丈夫だった? ちゃんと生きてる?」
「それは……わたしは大丈夫でしたけど…」
落ちている間に体勢が入れ替っていたのか、葛ちゃんはわたしの上にいる。
「……おねーさん、何やってるんですか?」
「って、葛ちゃん追いかけてたんだよ。過程は散々だったけど、終り良ければ全て良し」
前向きなわたしに葛ちゃんは呆れた声で、
「全然良くないじゃないですか」
わたしのお腹の上から退いて、頭上を仰ぎ見る葛ちゃんが、月の光の眩しさ故か、厳し
い顔で眉根を寄せる。
「上まで、目算5メートルって処でしょーか。おねーさんの肩にわたしが立っても、全然
高さが足りないですよ」
悔しそうに壁を蹴る。
「人間、閉じこめられたらおしまいですよ。閉じこめられたら、その侭朽ちていくしかな
くなるんですよ。だからわたしは……」
「じゃあ、出ようか」
「出ようかって、そんな簡単に……」
「うふふ、これなーんだ?」
わたしは壁沿いに垂れ下がっていた蔦葛を手に取り、それが井戸の縁の向うへと結びつ
いているのをアピールして見せた。まだ瑞々しさを失ってないそれは、月光を浴びて蜘蛛
の糸の様に白く、きらきらと輝いて見える。
『ううっ、蜘蛛の糸だなんて縁起でもない』
……訳でもないか。
カンダタみたいに我先に、いっぺんにぶら下がったりしなければ、きっと切れない物
なのだ。少なくとも葛ちゃんの体重なら絶対安全だから、先に上がって貰えばどうとでも。
「これなら上迄登れるでしょ? こんな事もあるかと思って、前に仕掛けておいたんだ」
それにしてもこれだけの明るさがあるのに、この救いの綱に気付かないとは、葛ちゃん
らしくない。尤も、烏月さんと会ってからずっと、らしくないといえばらしくないんだけ
ど。とにかく、葛ちゃんを狭い処に押し込めていては危ういと……。わたしはそう思って
いた。
「……さーて、葛ちゃん」
両手を腰に当ててひと睨み。桂おねーさんは少し怒っている。
「説明してもらいましょうか」
「説明って、何をです?」
「何をって色々。葛ちゃんって、あの若杉グループの跡取りって、本当?」
「……いわゆる、嫡出でない子ですけどね」
跡取り候補は嫡出子も含めて数十名いたんですけど、わたし1人になりましたので。
「おじーさん、なんて呼ばせてもらえませんでしたけど、会長には期待されていました」
それが嫌で家出した訳なんですけど。
「それでこんな処に?」
「人目のある所だと、すぐに居場所を掴まれますから。今回見つかったのは、運が悪かっ
たとしか言いようがないです」
「そうだね。烏月さんも葛ちゃんのこと、探していた訳ではなかったみたいだものね」
「まあ、探されていないとしても、おねーさんの家みたいな、人里離れた処に居着いてい
たと思いますよ」
「どうして?」
「わたし、人間嫌いですから」
食べ物の好き嫌いと同じ位にあっさりと、しれっとした顔で言う。
「だって葛ちゃん、そんな感じは……」
「表に出したりしませんよ。その位できない様なら、食い物にされる一方ですからね」
「……」
吹き抜ける風が、何か言おうとしたわたしから言葉を連れ去っていく。木の葉の様に言
葉が遠くにさらわれていく。
風に流された雲が月を隠したのか、ふと空が暗く陰り、しんとした闇が一帯を支配する。
「おねーさんは、コドクを知ってますか?」
沈黙の闇から言葉を引き上げたのは、雲の切れ間から顔を覗かせた月の引力だったのか
も知れない。わたしに訊ねているにも関らず、わたしの方を見るでもなく、1人ごちる様
に、月の光に蒼褪めた唇で呟く。
「……1人で取り残されること?」
「多分違いますけど、あながち間違いではないですね」
虫を三つお皿の上に書いて蠱(こ)、それに毒液の毒で蠱毒。有名な呪術のやり方です。
毒のある虫をですね、一つの容器に閉じこめるんですよ。餌なんて与えませんから、食
い合いを始めるんです、正に弱肉強食ですね。
そうして最後迄生き残るのは、一番強くて、一番生きたがりの一匹です。その虫の生命
を使う事で、強い呪いをかける事ができます。
「それに近い事を、若杉では後継者選びの方法として採用しているんです」
「えっと、受験みたいなもの?」
「そんな生ぬるい物じゃないです。鬼切り頭を務める若杉は陰陽師の血筋ですから、比喩
というよりその物をします」
「でも、そんなことしたら警察が」
蟲毒その物の、後継者選び。それが比喩でないのだとしたら、争いに敗れた虫の運命は。
「そーですよね。骨肉相食む跡目争いなんて、大時代的も良い処です。近代の法治国家で
起きる事ではないですよ」
そう言って、言ってから葛ちゃんは俯いて、
「でもですね、若杉は並の国家以上の力を持っています。大使館の敷地内が治外法権であ
る様に、大抵の事はもみ消せるんです」
ですから、それはもう酷い事になりますよ。
うっすらと歪めた唇は、別人のよう。
「だけど、やる気がないなら途中で権利を放棄したりとか」
「引っ込みのつかない処にいたんです。わたし、昔から大抵の事を上手くこなしていまし
たから。……おかーさんは、鳶が鷹を生んだって喜んでくれてたんですけどね。その鷹は、
爪を隠す事を知らないひよっこでした」
気付いた時には最有力候補です。こんな子供を捕まえてばかげた話ですけど、わたしを
何とかしない限り、後継者に認められないと。おじーさま迄それを暗に認めちゃいました
から、わたしの人生しっちゃかめっちゃかです。
「葛ちゃん……」
「それから色々ありまして、わたしは1人になりました。……そーゆー環境で育ちました
から、1人の方が楽なんです。1人じゃないと辛いんですよ」
だから自分の事は放っておいてくれと、言外にわたしに告げる。
「でも……だけれど……」
本当に1人が良いなら、どうして尾花ちゃんと一緒だったの?
「尾花は、人間じゃありませんから」
「じゃあ、どうしてすぐに出て行ったりしなかったの?」
「おねーさんがすぐ帰ると思ったからですよ。何もない処ですから、都会から来た人はす
ぐに飽きると思ったんです。大ケガしてましたから、容態が落ち着けば病院に行くとも
…」
「その何もない処に電気や水道を引っ張ったのって、葛ちゃんだよ。わたしがあのお屋敷
にいやすい様にしたのって、葛ちゃんだよ」
だから、葛ちゃんはわたしを歓迎してくれているとばかり思っていたのに。放っておい
て欲しいと思っていたなんて、わたしに早く帰って欲しいと思っていたなんて、そんなの。
素直にうんと頷ける筈がない。
「ねえ、わたしのこと怖い? 同じ部屋にいたら寝られない位、わたしのこと怖い?」
「別に……桂おねーさんは怖くないですよ、例えおねーさんがわたしの命を狙っても、ど
うにでもできそうでしたし」
「ううっ……」
「むしろ、鬼切り頭としての若杉を恨んでいるサクヤさんが、怖くて堪りませんでしたよ。
いつ噛み殺されるか、ヒヤヒヤしてました」
「サクヤさんが……?」
「蠱毒で生き残るには、周りを潰さなければいけませんから。表沙汰にはなりませんけど、
それに巻き込まれてる人って、実は結構いるんです。……サクヤさんがジャーナリストに
なったのは、それをペンで叩く為ですよ」
「……」
「桂おねーさんも、わたしに近づくと大変な事になりますよ」
思い返せば、ふたりはお互いの事情を知り合っている風だったけれど……。それを隠し
ていたのは、きっとわたしに気遣ってのこと。
でも、それならなおさらに……。
「でも、もう葛ちゃんは勝ったんでしょ?」
もう戦いが終ったなら。不信と敵意の中にいなくても大丈夫なら。もう傷つかなくて良
いなら。桂ちゃんの願いを込めた問いかけに、
「それはそうですけど、わたしは既に毒虫ですから。触っただけで手が腐る様な、猛毒持
ちですから」
「……そんなことないよ」
わたしは葛ちゃんの小さな身体を抱きしめた。躊躇いのない抱擁に、葛ちゃんが身を強
ばらせる。触れば傷つけてしまうと、拒もうとする様が分るけど、その所作は弱々しくて、
「あ……」
いけないと想うのにそれを拒み通せない。
それは葛ちゃんが心の奥からそれを欲し求めているから。それが彼女の真の望みだから。
「やっぱりね、1人は駄目だよ、葛ちゃん」
1人だと悪い考えがぐるぐる回っちゃって、全部がそういう風に見えてくるから。世の
中にはひどい人もいっぱいいるけど、いい人だっていっぱいいるんだよ?
自分以外は信用できない。だから1人の方が良いなんて言っているにも関らず、その信
用できない他人であるわたしを気遣っている。冷たい環境で育った葛ちゃんがそうなんだ
から、温かな環境で育った人達の中には、もっと多くの割合でいい人がいるんじゃないか
と。
葛ちゃんほど賢い子が、そんな事にも気付かないだなんて。自分自身の事は中々見えな
い物だけど、葛ちゃんは自分の事もひどい人の範疇に入れてしまっているのだろうか。
小さな背中に回した腕に力を入れて、確かな温かさを確かめる。硬くこわばった身体を、
わたしの温度で溶かしたい。
「……あっ」
温められて、始めて分る。孤独とはこんなに心を冷やしていたのかと。こんなに心を閉
ざさなければ耐えられない程追い詰められていたのかと。それ迄の、耐えに耐え、抑えに
抑えていた思いの丈が、吐き出せる相手を見つけて、沸き立っていた。氷山が、崩れ行く。
【それはわたしが踏みいる事の出来なかった葛ちゃんの孤独。心の奥に宿した若杉葛の本
当の想い。本当の望み。本当の求め。彼女はまだ定めに1人で向き合うには脆く幼い、女
の子だった。その想いを柔らかく受け止める安全弁がないと、桂ちゃんの様な人を心に住
まわせないと、耐えられなくて無理はない】
それを桂ちゃんは肌で感じている。
だから桂ちゃんは捨て置けないと。
そういう桂ちゃんだから心を開く。
わたしはどんな桂ちゃんでも愛するけれど。
「葛ちゃんはちょっと運が悪かったね。でももう、一生分のハズレをひいちゃったから大
丈夫だよ」
そんな事はないのかもしれないけれど、否定する材料だって何もない。
「葛ちゃんが家に戻りたくないなら、難しいかもしれないけど家を出る方法を考えよう」
その先のあてがないのなら、わたしの家に来れば良い。お母さんと2人で住んでいたア
パートは、手狭な場所の筈なのに、なぜかガランとしているから、葛ちゃんなら大歓迎だ。
本当は動物は駄目なんだけど、尾花ちゃんは賢いし、泣かない子だからこっそり飼えるん
じゃないかと思うし。
「法律とかに関してはよく分らないんだけど、サクヤさんなら上手い方法を知っているか
もしれないし。だから……ね?」
腕の中で肩を震わせながら、小さく頷く桂ちゃんの頭を撫でる。
真夏なのに、剥き出しの肌を刺す風が冷たい。風が雲を運んでいく。行く手を遮る暗雲
を吹き払ってくれる風なら大歓迎なんだけど。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「尾花ちゃんが、見つかりました」
わたしが蝶を放ったのは桂ちゃんと葛ちゃんに向けてだけではない。傀儡にされた葛ち
ゃんが桂ちゃんに会った夕刻既に、側に尾花ちゃんはいなかった。だから葛ちゃんが傀儡
にされてしまった訳だけど、その行く末は…。
「ノゾミ達に……やられていたんだろう?」
サクヤさんが言いづらそうなのは、それがノゾミと葛ちゃんの今後に影を落すから。2
人を大切に想う桂ちゃんは、2人の板挟みに遭い、自身の想いの板挟みに遭う。十年前を
抜きにしても、桂ちゃんはノゾミをたいせつに想う事で、多くの困苦を引き受ける事に…。
わたしは危惧を潜ませたサクヤさんの問と烏月さんの視線に事実で答える。静かに頷き、
「四肢を全て膝の下辺りで断たれています」
ノゾミ達の赤い紐に絡め取られ、断ち切られた様だ。一昨日の夜にミカゲの赤い紐はわ
たしの右手首を切断した。それはピアノ線より鋭く強靱だ。不幸中の幸いは、四肢を断た
れた尾花ちゃんはそれ以上ノゾミ達の妨げができなくなって、止めを刺されなかった事か。
抗い続ければ、赤い紐は胴や首を刎ね落したに違いない。故に尾花ちゃんは葛ちゃんを守
りきれず、葛ちゃんが傀儡にされた訳だけど。
「幸い、致命傷じゃない。怪我であればわたしの力で治せます。既に蝶を取り込ませ癒し
ています。深手なので、もう少し追加が必要ですが……良かった。桂ちゃんの為にも…」
意識を失い、ぐったりわたしの腕の中で脱力したノゾミを抱いた侭、蝶を更に作り出す。
周囲の虚空から、闇から浮いて出た蒼白い輝きは意志を持って、ひらひらと数羽夜の森を
泳ぐ様に飛んで行く。烏月さんとサクヤさんが見守る中、それらが行った後でわたしは更
に蝶を作り出して。まだ足りない。尾花ちゃんは出血も多く、今迄放置されて弱っている。
「あんた、ノゾミを癒しながら桂の行方を抑えて、尚尾花まで癒すのかい。幾ら何でも」
「今は夜です。月も大きいし、今のわたしなら多少の無理は利きます。元々わたしは戦う
事より、癒す方が得意ですから。でも……」
1人で全てはこなせない。サクヤさんと烏月さんの向けてきた視線に応えて、
「お願いして、良いですか?」
「子狐の回収と桂さん、葛様の迎えですね」
「はい。わたしはノゾミを、羽様の屋敷まで抱えて行かなければなりません」
「力仕事ならあたしが請け負うよ」
サクヤさんの申し出は有り難いけど、わたしはそれにかぶりを振って、
「ノゾミの霊体は、今も崩れる寸前にいます。運ぶ為に揺らせる事も危うい程に。外気に
当て続けるのも拙いけど、お屋敷で寝せる迄わたしが抱き続け、肌身を通し力を注がない
と。急変に即応できる様に肌を合わせておかないと。大丈夫、桂ちゃんよりは軽いですし
…」
尾花ちゃんと桂ちゃん達をお願いします。
本当はわたしが桂ちゃんを出迎えるべきだけど、この編成でそれは叶わない。今はわた
しに為せる事を、今はわたし達に為せる最善を。わたしの申し出にサクヤさんは頷きつつ、
「しかし、葛にはあたし達は両方とも、会う事自体が苦味を呼ぶ存在だからねぇ」
「私を、あなたと一緒にして欲しくはない」
若杉に恨みを抱いているあなたはともかく、葛様が私から逃げ隠れする理由などない筈
だ。
烏月さんが端正な顔を崩さずそう言うと、
「嫌われているって分らないかね、石頭は」
「嫌う嫌わないの問題ではありません。鬼切り頭は私的な感情で人を好き嫌う者であって
はならないのです。嫌いな人や定めだからと逃げ隠れしては、自身の求め望む生き方を貫
く事も叶わない。己の意志は結局貫けない」
嫌うなら自ら向き合って退けるべきです。
「まあ、それは否定しないよ。あたしはね」
故に、サクヤさんと葛ちゃんの定めの巡りは単純な仲間や味方という形にはなり得ない。
「但し葛がどう思うかは、葛次第だからね」
烏月さんはサクヤさんの軽いノリで返す同意に、何か言いたそうだったけど飲み込んで、
「葛様は必ず自身に向き合って下さる。いつか必ず私に鬼切り頭として向き合って下さる。
いつ迄も己から逃避を続ける方ではない。私はその終着を望み続けるだけです。桂さんと
の出会いが、それを促すきっかけになれば」
烏月さんも桂ちゃんの星回りを感じているのだろうか。人に関る事で定めの先を変える、
贄の血にも匹敵する天賦の資質を。烏月さんやわたしやノゾミ達の定めを改変した何かを。
「強く信じているのですね、葛ちゃんを…」
烏月さんはわたしの言葉になぜか苦笑し、
「私がまず信じなければ、心を決めなければ、私を信じようとする相手の心が揺らがされ
る。いつ応えられても良い様に。いつ信じてくれても対応できる様に。即座に動き出せる
様に。相手が応えてくれる迄待ち、耐えるという対処は、あなたがより清冽に示した手法
の筈」
言った後で、サクヤさんに視線を移して、
「子狐は任せました。私は桂さんと葛様を」
「あんた、葛を餌に桂も盗っちまう気かい」
敢て誤解を呼ぶ言い方を選ぶサクヤさんに、烏月さんは顔色をぴくりとも変える事なく、
「私は尾花という子狐とは面識がないので」
「そうですね。サクヤさん、お願いします」
唯の狐でなければ、鬼切り役は尚一層怖く映るだろう。初対面ともなれば、助けに行っ
ても警戒されて回収に手間取る怖れがあった。
「分ったよ。ケモノはケモノ同士で、心を通じ合わせてくるかね。柚明、導いておくれ」
はい。わたしは頷いてから前方を眺めて、
「途中迄帰り道と重なります。分岐する処から蝶を放ちますので、暫くはわたしと共に」
ここでまず、烏月さんと別れる事になる。
わたしはいつかの様に烏月さんに頭を下げ、
「桂ちゃんのこと、お願いします」
「任されました」
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「頑固一徹の烏月だから、大丈夫かねぇ…」
サクヤさんは葛ちゃんの先程の激しい拒絶を見た為に、心配が拭えない様だ。若杉の定
めを拒む葛ちゃんは直接の仇にならないから、むしろ自分の方が大人の応対をできると…
…。
子供心を気遣うサクヤさんに対し、わたしは意識のない子供をお姫様だっこの侭で歩み、
「大丈夫です。葛ちゃんは、桂ちゃんとの出会いを通じて自身に向き合う様になります」
わたしは桂ちゃんと同調したから、葛ちゃんとのやり取りも視えている。桂ちゃんの視
点で、葛ちゃんの魂の奥の奥まで感じ取れた。葛ちゃんは、もう逃げはしない。たいせつ
な人が目の前にできたから。鬼に定めの縁が深く絡む、心から守りたく望む人ができたか
ら。葛ちゃんは、自らの定めを縛りであると同時に大切な人を助けられる巡り合わせだと
悟る。
烏月さんと向き合うのは、その手始めだ。そうなった以上、若杉の定めに向き合う葛ち
ゃんには、サクヤさんはむしろ上級コースだ。若杉の定めの負の遺産に向き合うのは少し
早い。相まみえるにしても、順序を踏んでから。
「それはそれで、あたしが複雑なんだけど」
相手が変る事で、自身の応対も変えざるを得ない。唯の家出少女だった葛ちゃんが、若
杉葛を受け容れた時、サクヤさんも彼女を若杉として受けて対さなければならない。気楽
でそれなりに肌の合う関係だったサクヤさんにとって、それは少し寂しい変化なのだろう。
「……わたしは、いつ迄も変りませんから」
葛ちゃんの中身が突然全て入れ替わる訳ではない。でも、水が器に従う様に、人の生き
方も物のあり方も、形に縛られ易い物だ。今迄の関係をいつ迄も保てはしない。人も世も
時と共に移ろい変る。悠久を生きるサクヤさんはその度に、残される寂しさを感じるのか。