第3章 望み承けて繋いで(甲)
夜の帳が降りる中、消灯して寝静まった桂ちゃんの左手を握り握られつつ、わたしは座
した侭で斜め後ろの烏月さんと対峙していた。桂ちゃんはわたしの力で眠りの園の奥にい
る。
外は鬼の姉妹が結界を破ろうとして破れず、その力が台風の直撃に似た家鳴りを招くけ
ど、夜空は快晴だ。カーテンの隙間から差し込む月光が烏月さんの端正な姿を浮び上がら
せる。
「あなたは未だに明良さんの死に向き合えてない。あなたの為した事にも向き合えてない。
その向うに見通せるあなたの為すべき事にも。
今のあなたに、桂ちゃんは守れない。鬼は切れても敵は倒せても、それだけで人は守れ
ない。人を守るという事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。
その深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる
事」
烏月さんの身体を走り抜ける怒りの熱が見て取れる。殺気と言うより怒気が端正な身体
に充満し、ほんのり頬が染まっている。でもそれを、彼女はどう表して良いのか分らない。
苛立ちを叩き返しても気が晴れない事は彼女も分っている。それは指摘したわたしへの
怒りではなく、自身への物だから。烏月さんの真の怒りは、明良さんに触れられた事より、
その内容が生前の彼の言動を彷彿させたから。
「あなたに、兄の何を分るというのです…」
「彼を一番知っているのは、あなたの筈です。わたしでも今あなたが追っている彼でもな
い。あなたが、彼と彼を愛した自身を強く信じてその道を歩み来ていたのなら、わたしの
様な者の言葉に心が揺らぐ筈もないし、その道を逸れた事を指摘され気付かされる筈もな
い」
「それは……」
今更言われる迄もない事を直言されたから。それに沿ってない今に忸怩たる物があるか
ら。目指したあり方から外れているとわたしの様な他人に気付かされた悔しさに、身を震
わせ。
明良さんを尊び、その途を数歩遅れても目指し歩み行く事を、望みとも励みとも喜びと
もしてきた彼女が。あの日以降その途にも兄の想いにも自身にも疑念を抱き視線を逸らし、
唯目前の敵を倒す事に、仇を取り役目を果す事のみに己を追い込んで。分っている。彼女
はわたしに言われる迄もなくそれを分っている。愕然とするのは奥底で気付いている故だ。
大きすぎる哀しみを受け止めきれないと拒んだ為に、彼女は受け止めるべき彼の最期の
想い迄拒んでいる。その温かく強い想い迄も。彼女がかつて目指して望んだ自身の想い迄
も。
どうかそれに気付いて。己を見つめ直して。
目を逸らしている事に、蓋をしている事に。
「そうしなければ、この先幾ら鬼切りの業を究めても、心を閉ざし鬼の身体だけ斬って倒
しても、あなたが目指した先代や、先代が目指した先々代の鬼切り役には、近づけない」
強さの問題じゃない。それは在り方の問題。今の侭では、あなた以上に桂ちゃんが哀し
む。あなたを大切に想い、絆を深く繋ぐ事を望んだ桂ちゃんをも失望させ、傷つけてしま
う…。
鬼を憎む故に鬼を斬るのか、人を守る為に鬼を斬るのか。鬼切部の真の存在意義とは?
言葉の答は求めない。烏月さんの心の中に答は既に鎮座している。返される迄もなくそ
れは感じ取れる。でも、鬼にたいせつなひとを奪われた烏月さんは、鬼であるわたしの問
に答えるに端正な容貌を硬く厳しく崩さずに、
「……私は、絶対鬼に情けをかけはしない」
烏月さんが兄から最後に汲み取った物は、
「同時に、鬼の情けも助けも絶対受けない」
己に兆す動揺を、強い意志で抑え込んで、
「奴はあなたの蝶を取り込んで回復し、山奥へ逃れた。事情を報せ、私の回復を望んで蝶
を放つにも、奴の癒しを拒む位はできた筈だ。あなたの蝶が桂さんを狙う鬼の回復に繋る
事を、本体であるあなたが分らない訳がない」
あなたが奴を回復させた。虎を野に放った。奴が偶々逃げ去ったから良かったが、もし
桂さんの血を欲して山を下って来たならば……。奴の脅威は今後も残る。残したのはあな
ただ。
「一体何を考えてあの様な? 奴との間に何があるか問わないが、あなたが奴にかけた情
けが危険の芽を残した。たいせつな人の幸せと守りを口にしつつ、桂さんの血を狙う鬼に
その生存と所在も報せ。奴が力を復して桂さんを襲った時、あなたに責任が取れるのか」
烏月さんは声を荒げる事なく強い瞳を向け、
「これ以上奴に肩入れし情けをかけるのなら、あなたも桂さんを脅かす敵の一人だ。主の
封じを担い、桂さんが哀しむ故にあなたを斬る訳にいかないが、その動きは封じさせて貰
う。この結界は、桂さんを守る為の物であると同時に、あなたをここに閉じこめる為の物
だ」
「……それは、分っていました」
わたしは分って受容した。桂ちゃんの守りには代え難かったから。白花ちゃんの助けに
行けなくなるけど、わたしは暫く桂ちゃんの側を外せない。故に彼には癒しの蝶を放った。
白花ちゃんは力が満ちれば己を守る術を持つ。結界を拒めば烏月さんと衝突したに違いな
い。それは桂ちゃんの守りを崩し、その心を乱す。最善は桂ちゃんを守って封じられる途
だった。
微かに見開いた目を、烏月さんは元に戻す。
「そこ迄分っていましたか。なら私が今後為す事も分る筈。あなたに私は止められない」
鬼同士なら仲間の喪失は望まぬ処だろうが、奴はわたしがこの手で討つ。あなたは桂さ
んを抱き留めここで待っていて貰いたい。あなたが桂さんを想う気持迄は疑わない。しか
し、
「あなたの想いにこそ不純物がある」
桂さんと奴、あなたはどちらが大切なのだ。
「私はあなたの様に、奴にかける情けはない。桂さんを守る為なら、躊躇いなく奴を斬れ
る。あなたが幾ら何を奴に想おうと、奴があなたの何であろうとも、私にかける情けはな
い」
昂然と敵意を迎え撃つその双眸にわたしは、
「彼がわたしにとって以上に、桂ちゃんのたいせつな人だとしても、ですか?」「な?」
あり得ない、と口が動きかけて烏月さんの表情が凍り付く。鬼を呼び寄せる贄の血の定
めを、桂ちゃんと対峙する怖れがあると一度は絆を断とうとした少し前を思い出した様だ。
わたしの示唆には半信半疑でも、それはあり得ぬどころか、彼女自身が危惧していた事だ。
「そんなことが、ある筈が、だがまさか…」
烏月さんが己を見失う程の驚愕を示すのは珍しい。言葉が繋ってない。頭に浮ぶ様々な
想いや予測が整理できず、並列に並んでどうして良いか分らない感じだ。無意識に維斗を
両手で握るのは、己を落ち着かせようとの…。
そんな烏月さんにわたしは静かに頭を下げ、
「桂ちゃんを、桂ちゃんの幸せを、守って」
桂ちゃんを守る事の意味は、人を守る事の意味はもう伝えた。敢て重ねない。唯桂ちゃ
んを守ってと。桂ちゃんに約束した通り、全身全霊の力にかけて桂ちゃんを守り抜いてと。
烏月さんに白花ちゃんを斬らないでと望むのは無理だ。それを今の彼女に求められない。
でももう少し斬る事を猶予して。桂ちゃんを町に帰し、彼に全神経を注げる様になったら
わたしが何とかする。その内に潜む分霊をわたしの全身全霊で消す。それで分って貰える
かどうか分らないけど可能性の限りを尽くす。
白花ちゃんの目的は桂ちゃんではない。桂ちゃんを間近で守る限り、烏月さんは白花ち
ゃんと鉢合わせない。でも彼女の瞳は僅かな休息の後で日の出前から彼を追う闘志を秘め。
「あなたの言葉は承けておこう。だが、奴の本性は、あなたに教えて貰うべき事ではない。
それは私自身が刃を交えて、分るべき物だ」
奴も兄の教えを受けた者なら、鬼切りの技と力で応えて貰う。応えさせる。私の全身全
霊の力で、奴をして応えざるを得なくさせる。
「……そうですね」
彼女の決意は止め得ない。烏月さんの強い想いは憎悪だけではない。彼女は白花ちゃん
を憎む以上に彼に答を求めている。維斗を用い鬼切りの業で、白花ちゃんに命懸けの話を
求めている。他者に入れる領域ではなかった。
「私はこの途を進むしか他に術を知らない」
烏月さんも己の定めに向き合って答を出し、選んだ道を全力で進む、真っ直ぐな人だっ
た。例えそれが間違いでも、痛みや哀しみを伴っても、彼女は他に方法を知らないし選べ
ない。その底には明良さんの生き方が深く根付いて。
「ではせめてお願いします。どうしても彼を斬るというのなら、彼の心も斬って下さい」
わたしの関知には、烏月さんの振りかぶった維斗が白花ちゃんの身体を両断する像も浮
んでいた。わたしに生きる希望を灯し、わたしに生命と心を与えてくれた柔らかな笑みが
永遠に失われる様も、分岐の末に見えていた。わたしの助けは及ばないのかも知れない。
桂ちゃんと白花ちゃんの両方を助けるには、わたしは尚力不足なのか。これ程濃い現身を
手に入れても、これ程深く赤い糸を絡ませても。
わたしが今手をついて烏月さんに望むのは、
「彼の心に踏み込んで、彼の哀しみに分け入って、彼の想いを見て知った上で、彼の鬼を、
鬼の定めを、断ち切って下さい。……人を斬るという事は、唯生命を絶ち身体を切る事で
はない。相手が執着の塊の鬼故に、その深奥に踏み入って、その想いと定めを断ち切って。
あなたになら、それは叶うのかも知れない」
「奴の心を斬る……奴の心に、分け入る…」
烏月さんの視線が微かに緩み、思索に入った事を窺わせた。詞の意味を噛み締めている。
「何を考えているのですか? 情が移って私が奴を斬れなくなる事を、期待するとでも」
奴の心に踏み込めば、奴が鬼に成った理由に行き当たるかも知れない。相応の事情がな
ければ人は簡単に鬼に成らない。同情できる部分もあるだろう。あなたはそれを知ってい
るから、奴に情が移っているのかも知れない。
だが、今更その心中に踏み込んで情が移り、鬼を斬れなくなったなら、私が鬼切り役失
格である以上に、その後で多くの無辜の人々が奴に喰らわれる。生命の犠牲を重ねてしま
う。奴を斬らねばならないのは役目の故でもあり、鬼による被害をこれ以上出さない為で
もある。心に分け入って情が絡めば許せる物でもない。
それは烏月さんの言う通り。見逃してとは望まない。わたしはそれに同意の頷きを返し、
烏月さんに抗って止めたい想いと苦悩を堪え、
「彼の哀しみを分って欲しい。斬らざるを得ないなら、せめてその想いを分った上で…」
心の奥に分け入って情を交わし、大切に想っても尚、斬らなければならない時には斬る。
例えたいせつなひとでも、人に仇なす鬼なら斬らねばならないのが鬼切部。そうでしたね。
「己の身を断ち切る想いと共に、己の生命を断ち切る如き痛みと共に、その身も心をも」
そうする事が彼を救う事になると願って。
そうする事が彼を守る事になると想って。
そうする事が彼の望みでもあると信じて。
「彼を斬って下さい。その身体も生命も、心迄も。鬼の定めと哀しみと苦悩から、鬼の定
めに組み敷かれた辛い生から、彼を救って」
わたしにはできないから。例えどんなに罪を重ねても。彼の心が鬼に染め尽くされても。
彼が彼でなくなり、わたしをわたしと分らなくなり、罪を罪と、痛みを痛みと、哀しみを
哀しみと分らなくなり果てても。その拳がこの身を貫いても。わたしは彼を断つ事が出来
ない。最期の最期迄諦められない。桂ちゃんと彼が、わたしの一番たいせつなひとだから。
「わたしは執着の鬼です。だから彼を余計に苦しませ、哀しませ、その心を苛んでしまう。
斬る事が彼の救いなら、斬ってあげて……」
わたしは自ら為せぬ事を人に望んでいる。
「斬る事が、救い……」
烏月さんは、今迄考えた事もない物に直面した表情で、握り締めた維斗に視線を移して、
「あなたの望みと想いは聴きました。私にどう応えられるかは分らないが、その真摯な言
葉は心に留めて置きましょう」
烏月さんは彼女なりの誠意を込めた答を返してくれた。彼女は白花ちゃんと対峙した時、
わたしの想いを噛み締めながら維斗を振るう。彼女に今それ以上は望めない。最大限だっ
た。
わたしは桂ちゃんの大切な人に頭を下げて、
「……非礼の限りを尽くして、申し訳ありませんでした」
許してとは望まない。自覚して烏月さんの心に土足で踏み入った。唯陳謝の想いを伝え
たい。そんなわたしの前で彼女は苦笑気味に、
「確かに。でも、それ程の想いがこもっていると分ったから、やむを得ないと分ります」
根に持つ積りはない。そう言って彼女は謝罪を受け容れてくれた。烏月さんはどこ迄も
率直で正直だ。その心の奥に、桂ちゃんと絆を絡めた事で、徐々に真の強さが見え始めて。
誰かを倒す為ではなく、誰かを守る為の鬼切り役を志し望んだ、明良さんから受け継いだ
真の想いが。柔らかくも強靱な真の強さが…。
「……失礼しました」「いえ、こちらこそ」
夜も更けたと、維斗を持って烏月さんが立ち上がろうとした時だった。思い出した様に、
「一つ、訊こうと思っていた」
漆黒の瞳がもう一度わたしを正面に見据え、
「最初にあなたに会った時、私がノゾミ達を退けて、あなたを斬ろうとした時の事です」
贄の血が回り始めたノゾミとミカゲに、わたしは全滅覚悟で抗って、消滅の寸前にいた。
烏月さんは乱入してノゾミ達を退けた、その後わたしに刃を向けた。桂ちゃんが必死に庇
ってくれたけど、烏月さんは桂ちゃんの首筋に維斗の刃を突きつけて、退くようにと迫り。
「あの時あなたは、わたしに取引を求めた」
『待って下さい、千羽さん』
『桂ちゃんに罪はありません。鬼切部は人に仇を為す鬼を斬る者の筈です。桂ちゃんから
刃を放して下さい。斬るのなら、わたしを』
『その代り、お願いします。桂ちゃんを、守って下さい。わたしには、守りきれなかった。
力が及ばなかった。あなたが、桂ちゃんをより確かに守ってくれるなら、わたしはここで
斬られて消えても良い。今尚桂ちゃんの生命は危うい。鬼の姉妹は又来ます。その時に』
必ず桂ちゃんを守ると、約束して。
『わたしの消滅と引き替えに、約束して!』
「私はそれを、一度撥ねつけた。なぜなら」
『戯れ言を……。執着を捨てられずに鬼と化した者が、自ら消滅を受け容れる筈がない』
鬼は誰も皆強い執着を持つ。強い拘りや想いがあるから鬼になる。故に己の消滅を嫌う。
消えては鬼になって迄拘った執着を失うから。
「でもあなたは、私の思いもしない答を返してきた。今は、あなたを知れば理解できるが、
普通誰も信じはしない。鬼の執着とは大抵自身に関る物だ。権勢とか金銭とか痴情の縺れ
とか、そうでなくても冤罪を晴らすとか…」
『わたしの唯一の執着は、たいせつな人の守りと幸せです。それさえ保たれるなら、その
人に日々の笑顔が残るなら、わたしは鬼にもなるし、消滅も受け容れる。その刃も受ける。
だから先に約束して。桂ちゃんを、守ると』
それさえ確かに約してくれるなら、今からわたしはあなたの刃を逃げずに受ける。でも。
『それが為されないなら』
『為されないなら……?』
「正直あの時、私にはあなたを斬る事に迷いがあった。そんな自身に苛立ちを感じていた。
迷いを断とうと逆に前掛りになっていた。あなたはあの時、何をする気だったのです?」
仮にわたしが桂さんを守る事を拒んだなら、消滅を受け容れられぬあなたは、一体何
を?
「あの時は、サクヤさんが現れて話を逸らしてくれたのでしたね」「ええ」
あの時のあなたの答は、あの後も気になっていた。いつか機会があれば訊いてみたいと。
静かに視線を向ける烏月さんに、わたしは、
「あの時点でわたしにできる事は限られていました。ノゾミ達に敗れて消滅寸前迄力を使
い果たし、疲弊の極みにいたわたしは、維斗を躱す力も、逃げる力もありませんでした」
「あなたの瞳はまだ意志を失ってなかった」
疲弊の極みにいたのは事実でも、まだ終ってない。唯では消えない。それは分りました。
あなたは唯消える事を承諾できる人ではない。あなたの執着がそれをあなたに許しはしな
い。
烏月さんの推論は正鵠を射ている。
「あなたは桂ちゃんを守ってくれました。あなたは桂ちゃんに害意を抱いてない。あなた
に応戦したりあなたを傷つける事は、成功しても桂ちゃんの守りを剥がす事になります」
ああ、あなたの一番は常に桂さんでしたね。
でも、それではあなたは生き残れない筈だ。
「私はあなたを斬る積りでいた。あなたが私の刃を躱せず、逃げ得ず、反撃もしなければ、
斬られる他に術はない。あなたが邪視を使えるかどうかは分らないが、私には効かない」
あなたに、打つ手はなかった筈だ。それでもあなたの瞳はまだ死んでいなかった。その
想いの強さは真に驚嘆に値する。だがしかし、
「消滅と引き替えに桂さんを守る。それを私が拒んだ時、あなたは一体どうする積りで」
「消滅を、受け容れません。それだけです」
それは、分る。だが具体的にどうすると?
むしろそこからが烏月さんの問の中身だ。
そしてそれは特段隠す程の秘密でもない。
「維斗の太刀を、身に受けます」「む……」
烏月さんは簡潔すぎる答に少し考え込む。
「躱さず逃げず、反撃せず、目眩ましもせねば、できるのは耐え凌ぐだけ。理屈はそうだ。
だが、策もなく疲弊したあの状態に維斗の振り下ろしを待てば、どうなったかは分る筈」
「他に術が、ありませんでしたから」
唯受けて、消えない様に努めます。
わたしの答を烏月さんは理解できないと、
「馬鹿な。それでは、絶対に勝ち目はない」
「あの状態であなたに勝ちは望みませんし、勝ててもあなたを傷つければ桂ちゃんの守り
が消えてしまう。何とか消えずに、あなたにわたしの想いを分って貰う事が望みでした」
後はこの身を証として供する他に術はない。
「維斗は百邪を除き凶気を祓う霊刀。鬼切り役のあなたが闘気を通わせて振り下ろす以上、
霊体でも唯で済むとは思っていません」
でも桂ちゃんの守りをあなたが約してくれなければ、わたしは桂ちゃんを守る為に何が
何でも生き延びなければならない。それが不可能に近い、無駄に思える挑戦でも、その先
にしか途がないのならば、わたしは挑みます。
わたしは、何度でも維斗を受けて耐え凌ぐ。その想いの強さと無抵抗を証に分って欲し
い。でも反撃はしない。あなたは桂ちゃんを守ってくれた人だから。傷つけてはいけない。
抗ってはわたしの誠意を見せる事にはならない。
「贄の血を得たノゾミと違い、あの時のわたしはあなたの一撃で砕け散ったかも知れない。
砕け散ったなら再結集させる。再度あなたにわたしの誠を見せる。再び斬られるかも知れ
ない。ならばわたしは三度霊体を結集させ現身を作る。何度できるかは分らないけど、身
を砕かれる痛みは何度受けても激甚だけど」
その先にしか望みがないのであれば。わたしの望む答が、その先にしかないのであれば。
あなたは分らない人ではない。分って貰える迄為すしかない。逆に分って貰えなければそ
れこそ絶対にこの身は消失させられなかった。
「無謀に過ぎる。幾ら桂さんの為とはいえ」
唖然とした呟きは維斗の威力を知る烏月さん故だろう。それを知りつつ斬られて尚抗わ
ないのは、わたしの望みだから。桂ちゃんのたいせつなひとを傷つけては、いけないから。
「あなたが維斗と鬼切りの業で彼に命懸けの話を求める様に、わたしもあの時あなたに望
んだのはこの身を削っての話し合いでした」
あの時は成立しなかったけど、今この様に向き合えている。敵対ではない関係で。それ
が良かった。桂ちゃんを哀しませずに済んで。わたしは握った侭のその左手に再度目を落
す。
納得したのか呆れ果てたのか、或いはその両方か、烏月さんは口元に微かに笑みを浮べ
て立ち上がった。話は終りと、いう事らしい。
「あなたはどこ迄真っ直ぐ明快な鬼なのだ」
凛とした声と視線が斜め上から降りてきて、
「これ以上あなたの傍にいる事は好ましくない。鬼なのに、鬼切り役のこのわたしが…」
あなたを、好きになってしまいそうだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
烏月さんが自室に戻ったのは深夜3時頃か。
鬼の姉妹が招く家鳴りは、烏月さんの足音をかき消して尚荒れ狂うけど、どうやらそれ
が彼女達の限界らしい。遠ざかる気配を確かめつつ、わたしは間際で隠れていた息遣いに、
「もう見つかる心配はありません。お話があるなら、拒みませんのでどうぞ。わたしはこ
こを動けないのでこの姿勢で失礼ですけど」
「……気配は、潜めていた積りなんですが」
それでも声を潜め、葛ちゃんはすっと姿を現し部屋の中へ、わたしの背後に歩み寄って。
「気配の隠し方は素人ではないけど、今烏月さんに気付かれなかったのは、本当に僥倖よ。
彼女が一日中戦って疲れ果てて、外で鬼の姉妹があの家鳴りを響かせ続けていて、その
上で対したわたしが彼女の心を乱す話に迄踏み込んだから、辛うじて察知されなかった」
確かに気配を隠す術は優れていたけど、普段の烏月さんなら気付いていた。烏月さんは
盗み聞きの様な行いを好まない。見つかれば面と向き合わざるを得なかった。それはこの
中の人間関係に耳をそばだてつつ、去る機会を窺っていた葛ちゃんには最悪の展開だった
筈だ。尤も、それは彼女の過信というよりも、
「相手が悪かったです。鬼切り役が見落す気配を察する人、いえ鬼がいるとは」
最初から分っていたんですか? その問に、
「このお屋敷は、大人の話を立ち聞きする子供が後を絶たないの。……更に後に続いてく
れる子が現れるとは、想ってなかったけど」
どう答えても彼女は最悪を想定する。答に意味のない問に答えるより、わたしは静かに、
「今日は、有り難うございました」
桂ちゃんを助けるのを手伝ってくれて。
桂ちゃんの助けを、妨げないでくれて。
桂ちゃんと馴染んで心通わせてくれて。
自身の述べたい想いを表する。伝わるか否か、受け取るか否か、どう受け取るかは相手
次第だけど、表し告げる事はわたしの真意だ。
「本当は葛様か、せめて葛さんとお呼びするべきでしょうけど……」「やめて下さい!」
わたしは唯の葛です。若杉の家は関係ない。肩書きや地位を見て呼称を変えないで下さ
い。
大きく上げてしまった声に、葛ちゃん本人が拙いと驚いて周囲を見渡すけど、家鳴りの
音に紛れてそれ程響いて聞えない。桂ちゃんは間近でもわたしが力を使って眠らせてある。
「すみませんっ……」「いえ、こちらこそ」
一見して年下の子供に敬称では桂ちゃんが不審に思うので、最初の咄嗟の勢いの侭ちゃ
ん付けで対しているけど、若杉グループの次期総帥で次の鬼切り頭に向ける呼称ではない。
本人はその流れを激しく嫌っている様だけど。
「公式な場以外では、今迄の通りで」
「はい。どーせ明日迄の関係ですし」
あっさりと葛ちゃんは言い切った。
「ここを、去られるのですね」
「驚かないのは、オハシラ様だからですか。全部読み切っていると。それとも、一番たい
せつなひと以外は去る者追わずで良いと?」
先程わたしが烏月さんにした事を為して。
わたしの心を逆撫でしようと試みるのに、
「真の想いを妨げる事は、好みませんから」
平静に受け止め答を返すわたしに、葛ちゃんが何故苛立っているのか、自身では恐らく
気付けない。わたしは背を向けた侭で静かに、
「残念ですけれど、やむを得ません」
葛ちゃんを止める事は、桂ちゃんを包む禍に彼女も巻き込む事に繋る。烏月さんやサク
ヤさんはともかく、彼女には何の鍛錬もない。何かあった時に取り返しが効かない。わた
しは桂ちゃんを最優先するから。最後にはたいせつなひとから守るから。尾花ちゃんがい
るとはいえ、危険の傍に置く事は望ましくない。
桂ちゃんとの縁は触れあった程度で、まだ絡んでない。桂ちゃんは心配するだろうけど、
残念がるだろうけど、暫く心に留めるだろうけど、それだけだ。心引き剥がす程ではない。
「残念に思っても引き留めないと?」
葛ちゃんは、引き留めて欲しかったのかも知れない。でも、それは今の彼女に無意味だ。
今の葛ちゃんはわたしに心を開く積りはない。
「わたしが止めて思い留まるなら、考えもしますが。あなたが己の意志でそれを選ぶなら、
わたしはそれを定めと受け容れるだけです」
定めという言葉が、癇に障った様だった。
「今のユメイおねーさんは、従容と定めを受け容れているとは、到底思えないですけど」
賢しさを感じさせる語調も、彼女の演目の一つに過ぎない。元気で利発な子供を演じら
れる様に、あっさり人を切り離せる冷徹さを見せられる様に、人を怒らせたい時葛ちゃん
は、賢しく生意気な部外者を装う事ができる。どれも彼女の一面に過ぎない。どれも嘘で
はないけど全部ではない。その全てに共通する物、その全てに根ざす物が、本当の若杉葛
だ。
彼女を知らない人なら、否その一面をのみ見て彼女を知ったと思いこんだ人でも、その
掌の上で転がされるだろう。侮り、怒り、驚き、怖れ、敬遠し。出方を様々に変える事で
相手の心を意の侭に動かし、冷静さを失わせ、本来の思慮を失わせ、事を有利に運ぶ。そ
れが若杉葛の処世術だった。悪意に満ちた者達の中、利用せんと手ぐすね引く者達の中、
己を失わない為に、相手の己を失わせ自滅させ。
「万人を守り人の世を保つ為に鬼神を封じるオハシラ様が、ご神木を離れて、特定の誰か
の為に現身を作って、寄り添い守るだなんて。千年の間にも、聞いた事がない逸脱です
…」
葛ちゃんは、わたしを挑発しているのではない。自身の苛立ちを押さえきれないだけだ。
わたしの心にズカズカと入り込むのは、答を求めているから。わたしの本音を望んでいる。
「確かに、わたしも唯全てを受け容れた訳ではありません。今この様に桂ちゃんを守る為
に現身を作りご神木を抜け出ているのも、定めを逃れ逸脱した姿と見えるかも知れない」
わたしは事実は事実と静かに認めて頷き、
「でも結局誰も定めから逃げ切れはしない」
逸脱して見えても、逃げ切れた訳ではない。逃げても拒んでも避け得ない定めはありま
す。血筋や家に絡む宿業だったり、天賦の資質だったり、いつか巡る生の終りだったり。
避け続けて来たあなたこそそれをご存知でしょう。
目を逸らしても、逃げても定めは絡みつく。忘れても無視しても生れは取り替えられな
い。過去はなかった事にできない。失った物は取り返せない。努力や意志で変えられない
物も。
「誰も、自分自身から逃れられはしません」
葛ちゃんは己に返り来た話に不快そうに、
「わたしは、定めなんて、知りませんよ…」
自分で決めた訳でも選んだ訳でもない物に従わされるのは、まっぴらご免です。お断り
です。わたしがこの血筋に生れたのは自ら選んだ結果じゃない。わたしが自由意志で責任
を持って決めた訳でもない事に、どうして?
その顔は我知らず、本物の怒りに紅潮して、
「全然やる気のないわたしより、義務感のある誰かがやればいいんですよ!」
あなたの様に義務感溢れる人が担えば良い。その定めを必要と思い支える気持のある人
が受けて為せば良い。それで成り立たないなら、若杉も鬼切り頭もそれ迄の物じゃないで
すか。
わたしは若杉も鬼切部もどうなっても良い。わたしの全てを失わせておいて、今更その
上に立って率いてくれなんて、理不尽です! わたしの大切な物を守ってくれなかった若
杉が、わたしが一番助けて欲しい時に救ってくれなかった若杉が、わたしが独力で勝ち抜
けたその後ですり寄ってくる。冗談じゃない!
「定めなんて、定めなんて、そんなもの…」
声が涙ぐんでいるのは、それが彼女の真の哀しみだから。わたしを怒らせ我を失わせて
本音を出させようとしていた葛ちゃんが、自身怒りに我を失い、本音をさらけ出していた。
否、彼女は本当はそんなに簡単に己の手を返され、使われる様な生易しい人物ではない。
本当は彼女はそうする事で、そう返される事で、己の憤りを露わに叩き付けたかったのか。
定めを受け容れたわたしは、葛ちゃんには定めその物、憤りの対象その物に見えている。
烏月さんと違い鬼切部ではなく、サクヤさんと違い鬼切部に恨みも持たないわたしは、若
杉葛という一人の少女が『定め』への憤懣を叩き付ける最適な相手だったのかも知れない。
「誰の為の鬼切部なんですか。誰の為の鬼切り頭若杉なんですか。わたしに何一つ温かな
物をくれなかったどころか、奪い去っていくばかりの鬼切部を、若杉を、どうしてこのわ
たしが統べ、束ねないといけないんですか」
わたしは誰の為にいるのですか? 誰もいなくなったわたしに、誰を守り誰を斬れと?
「そんな、誰の為でもなく唯生れだからと押しつけられる定めなんて、願い下げです!」
わたしは一人が良いんです。誰にも構いたくないし構われたくもない。誰もいなければ
傷つけられる事もないし、誰かを傷つけてしまう心配もない。本当にわたしを求めてくれ
る人もなく、守りたい物も大切な物もないわたしに、人に関る定めなんて要らない。望む
のは誰にも構われず構う必要のない自由です。
「わたしは若杉なんか望んでなかった。葛であればそれで良かった。これ迄も、今も、こ
れからも、ずっと葛で充分です。充分です」
わたしは定めなんかに、縛られはしない!
「それもやむを得ないかも、知れませんね」
わたしは葛ちゃんに、定めから逃げるなと諭す積りはない。人が置かれた状況は千差万
別だ。己の定めが重すぎる事も世にはあろう。それが変え得ぬ定めでも、変え得ぬからこ
そ、逃げ出したくなる時も。誰もが烏月さんの様に心を強く持って己に向き合える訳では
ない。
「わたしは定めに向き合いました。でも葛ちゃんにそれを強いる積りはありません。唯」
定めはその人に固有の物です。逃げて逃げ切れる物ではない。目を逸らす事はできても
断ち切れはしない。逃げたなら逃げたなりに、拒むなら拒んだなりに、反応や結果の形で
定めはいつか自身に巡り来る。報いは必ず己に。
「あなたが幾ら逃げても否定しても若杉葛である様に。生命ある限り、否、一度その定め
に生れた以上、死んでも若杉葛である様に」
桂ちゃんの手を握り握りられた侭、姿勢を斜めにするのは、少しでも向き合いたいから。
その哀しみに、せめて向き合いたかったから。癒す事はできないけど。力になる事も救う
事も、心開かせる事もわたしには至らないけど。
わたしはわたしの想いを伝える事で、答に代える。彼女にこうなさいとか、してはいけ
ないとかは言えないけど、わたしの選択とそれに込めた想いを伝える事で、参考になれば。
「わたしは桂ちゃんにこの侭付き添って、守り続ける事は叶わない。この状態は、仮の物。
霊的な繋りは断ち切られても、わたしの定めは尚ご神木と主に繋がれています。否、繋い
で置かなければならない。桂ちゃんとの関りを断ち切っても、主との定めは断ち切れない。
主を抱き留めないといけない。主を封じる事が、たいせつな人の幸せの絶対条件だから」
鬼と人の隔たりも又、変えられない定め。
人の理の中にある桂ちゃんと、主を抱き留めねばならないわたしは長く共にいられない。
鬼が傍にいる事は人の害になる。幾ら慕われても結局その身に負荷になる。存在自体が生
命を削る。失った記憶の痛みに繋げてしまう。
町に戻って人の暮らしに生きる桂ちゃんを、主を抱き留め封じる事が必須のわたしは追
って行けない。この定めは誰かが担わないといけない。主を解き放つ訳にいかない。わた
しの逸脱も、所詮は定めの許容範囲です。わたしはそれを越えられない。越えてはいけな
い。桂ちゃんの今後を見守る事は、叶わない……。
「わたしがこの定めを受容したのは、守りたい物があったからです。自身の何に替えても
失いたくない、たいせつな人がいたからです。
肉の身体を失っても、人の生も死も失っても、人である事を失っても、絶対守り抜きた
い笑顔があったから。だからわたしは今の縛りを受容した。望んで我が身を差し出した」
円らな瞳が自身の哀しみを脇に置いて、わたしを見つめ返してきた。わたしの伝えたい
想いを、葛ちゃんは確かに分って聞いている。
「逃げる事は叶わない。いえ、逃げ出す事をわたしは己に許さない。投げ出せば定めがた
いせつな人に降り掛ってしまうから。定めを拒む事が、守りたい物を壊してしまうから」
逃げ出せば、結末をわたしは見る事になる。放り出した定めが、わたしが投げ出した末
が、わたしに返ってくる。その様が瞼の裏に浮ぶ。逃げても定めは終らない。逃げたなり
の答が返ってくる。逃げれば逃げる程、答の形は変るかも知れない。でも決して消える事
はない。その答をわたしは見てしまったから。たいせつな人が鬼神に喰い殺される様が、
瞼の裏に。
「絶対にその結末は招かない。その為になら、どんな定めでもこの身に受けます」「…
…」
わたしの一番はたいせつな人の幸せと守り。
わたしの望みはたいせつな人の役に立つ事。
わたしの何もかもを、その為に捧げ尽くす。
明日断ち切られて終る定めでも。未来永劫主の封じにご神木に宿る定めでも。たいせつ
な人の日々の笑顔を見つめ確かめる事が叶わなくても。その人に存在を忘れ去られても…。
「葛ちゃんにその様になさいとは言いません。わたしにはそうしても尚守りたい物があっ
た。葛ちゃんは今それを持ってない。それだけ」
それは特段、罪でもなければ悪でもない。
わたしも闇に沈んだ日々を経験している。
いつかその向うに光明が見いだせるなら。
「守りたい物を持ち、その守りに力を尽くせる事がわたしの幸せです。わたしはこの定め
と幸せを手放しません。痛みも苦しみも哀しみも無為も全て幸せの内。この想いは胸に抱
いた人しか分らない。幾ら賢くても、頭での理解では及ばない。感じなければ掴めない」
あなたが去る事は止めません。あなたが真の想いから選んだ選択であれば。誰一人大切
に想う人のない今のあなたを引き留め、定めに向き合わせる積りはわたしにはない。でも、
「この言葉を、心の片隅に残しておいて…」
あなたに本当にたいせつな人が現れた時、自分以外の誰かを本当にたいせつに想った時、
「自身の真の望みを曲げる事なく、貫いて」
それが葛ちゃんの真の想いなら全て正解。
葛ちゃんの最後の答は短く、
「記憶力は良い方なんですよ」
夜は尚尽きる事なく全てを包み込んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
鬼の姉妹は尚、家鳴りを響かせ続けていた。始ってから既に二時間は経過している。当
初は万が一破られた場合に備えてサクヤさんも起きていた様だけど、一時間近く結界を破
れない状況を見て、安心した様で屋敷は静寂だ。
話したい事はあっただろうけど、来訪者が続いたので諦めた様だ。少し残念でも、夜更
かしで疲れを残しては拙い。明日も安心しきれぬ状況は続く。真弓さんも『余力はいざと
いう時の為に取っておく物よ』と言っていた。
烏月さんも葛ちゃんも自室に引き取ってすぐ寝入った様だ。鬼の姉妹は尚力を及ぼして
来たけど、それ以上の展開はない。力を使い果たして結界を破れても、その後で複数の守
りを突破しないと桂ちゃんには辿り着けない。結界を破った末に逆襲を受ければ、痛手を
負うのは彼女達の方だ。ミカゲはその位考える。
わたしは姿形は人でも基本的に霊体なので、疲労の回復は柔軟に利く。自身の力も疲労
に効くので眠らない事に問題はない。既に夜明けに近い今、羽様で起きているのは、呪符
の結界を挟んでノゾミとミカゲとわたしだけか。
「応えなさい! ハシラの継ぎ手、鬼切り役、観月の不出来な子。応えなさい……桂
っ!」
声は届いてくる。さかき旅館で桂ちゃんが呪符で結界を作った時も、ノゾミの声真似は
中の桂ちゃんに届き、内から結界を綻ばせた。わたしは桂ちゃんを心配させない為に、そ
の意識に作用して、聞き取れない様にしたけど。
烏月さんとの対峙の間も、ノゾミの焦れた声は何度か部屋に届いていた。烏月さんは表
情一つ変えず無視していたけど。葛ちゃんと話す頃には、その頻度も随分減っていたけど。
結界内のどこに桂ちゃんがいるか、気配でノゾミ達は掴めない。声や物音で探りを入れ
る他にない。誘い出すしか術がない。結界を綻ばせるしか策がない。だから中にいる者達
が無視に徹すれば、安全に朝日を迎えられる。
「私を斬るのではなくて? 私を消して桂を守るのではなくて? 拾年前の竹林の姫の仇
は取らなくて良いの? 赤い夢の記憶は取り戻さなくて良いの? 桂っ、応えなさい!」
もう少し放置すれば、東の空が白み始める。
もう少し捨て置けば鬼の刻限は去って行く。
「姉さま、もうそろそろ朝が」「まだよ!」
まだ私達を灼く日は昇ってないんだから。
苛立った、と言うより焦りを帯びたノゾミの声が、平静に時間切れを告げるミカゲの声
に覆い被さる。実際これから結界を破れても、守り手達が妨げて戦いに入れば、朝迄に決
着をつけるのは至難の業だ。妹鬼がそこ迄見越した上で、今宵は一旦退くべきと見通すの
に。
「破れなくても一晩中屋敷を揺らせて置けば、明日の炙り出しの伏線になるわ。継ぎ手達
が平静を保てても、修練も何もない桂が一晩中この家鳴りの中で己を保ち続けるのは至
難」
明日夜は打って出て来ないとならない様に、心理的に追い込んでおくの。桂、桂、けー
っ。
ノゾミのそれは本心ではない。わたしが桂ちゃんの意識に作用して家鳴りも声も遮断し
た事は知らないけど、それ以上にノゾミは結界の中からの誰かの応答を求めている。応戦
でも良いから、反撃でも良いから何か返せと。
何も返されない事、無視される事、流される事が、ノゾミの一番嫌う事か。ミカゲは恐
らくそれに気付いている。心理的に追い込むなんて口実に過ぎない、唯ここで返答を求め
て家鳴りを響かせ続けたい駄々っ子だと勘づいているけど、勢いに勝てない感じで従って。
「これでは、私達が力を浪費するだけです」
否、今夜のミカゲも必ずしも従順ではない。
今力を及ぼしているのはノゾミだけだ。ミカゲは既に時間切れだと手を引き、見守って。
「ならあなたは帰りなさいな。贄の血が要らないというなら、主さまが甦らなくて良いの
なら、朝を待たずに依代に帰って寝なさい」
でも、今夜のノゾミはそれ以上に強硬で、
「臆したの、継ぎ手? 自分まで依代から断ち切って結界に籠もるとは、なんて情けない。
桂、あなたこの侭夢の記憶を取り戻さずに捨て置く積りではないでしょうね。桂、桂っ」
声が帯びる焦りは、答が返されない事に。
「私の声に応えなさい。何か返しなさい!」
唯主の復活に贄の血を欲するだけではない。唯己の力になる贄の血を欲するだけではな
い。ノゾミは問に答を望んでいる。意志に意志が返される事を。彼女は独りぼっちを最も
嫌う。敵でも餌でも良いから、自分だけ、応える者の全く皆無な状況を嫌う。受け答えが
繋ってないと堪らない性分は、桂ちゃんに似ている。
そういえば、ノゾミは怒りでさえ主に反応して貰う事を喜びとしていた。無反応よりは
叱責され弾き飛ばされる方を望むと。絶え間なく関り続けねば、反応して貰わねばいられ
ない、歌い続ける小鳥の様な。それは主に対してのみではなく。ノゾミの真の望みとは…。
『ノゾミもミカゲも桂ちゃんの血を飲んだ』
遠慮なく吸い付いた。啜り取って力にした。尋常ならざる程濃い贄の血を。贄の血の陰
陽の伝説を担う程濃い血を。何の危惧も抱かず。
それは一口でわたしの消失の定めをねじ曲げた。膨大なその力が、次にどこを指すのか、
誰にも桂ちゃんにも制御できない。次はどうなるか、全く分らない。予測不可能への怖れ。
自身を改変される事への怖れ。わたしはそれを突き抜けてしまったけど。わたしは崖下で
膨大な贄の血を己に取り込んで、その先で消滅の定めを越えて生まれ直してしまったけど。
自身のあり方が改変されて行く。定めの末が変えられるという事は、定めの末に至る道
も変えられるという事だ。その定めを進み往くノゾミ達も又、作り変えられるという事だ。
「血は力、想いも力。だから、血は心……」
肉を持たず想いだけの2人は希薄で、桂ちゃんの血は特に濃い。その心が入り込む事は、
あの2人の在り方にも唯ならぬ影響を及ぼす。
桂ちゃんは烏月さんの定めも、わたしの定めも切り替えた。それがノゾミ達に及ぶなら。
その先は尚見定められないけど。何が何にどう響くのかは五里霧中だけど。でも、
「わたしは常に、何がどう変ろうとも、たいせつなひとの守りと幸せの為にあり続ける」
東の空が、白み始めて来た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「容態は、安定してきたかい?」
サクヤさんが様子を覗きに来たのは夜が明けて少し経った頃だった。烏月さんの動く気
配を感じて起きたらしい。一言二言、短い言葉を交わしてから烏月さんの出立を見送って。
部屋を覗き込むと同時に、抑えた声で問いかけるサクヤさんに、わたしは静かに頷いて、
「一晩中わたしが力を及ぼして、あの子達の家鳴りや声を届かせませんでしたから。睡眠
時間は長くないけど、疲れは取れたと……」
「桂じゃなくて、あんたの話だよ」
桂が安眠できているのは、顔を見れば分る。あんたが近くにいて寝付けなかったり夢見
が悪かったりする筈がない。まあ別の意味で眠れずドキドキする事はあるかも知れないけ
ど。
瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
「あんたは桂ばかり心配して、危ういから」
サクヤさんはわたしの左側に並んで座って、桂ちゃんの左手を握るわたしの左手の甲の
その上に、温かな左手を被せて置いて、
「ご神木から切り離され、結界に存在を保たれるって昨晩は聞いたけど、本当は車の乗り
換えの様に簡単にいく物じゃないんだろう」
依代が変ると言うのは、恨む相手を変える様な物だ。何にでも取り憑ける訳ではないし、
呪物にも取り憑く際は相性がある。烏月さんの呪符は余り相手を選ばないけど、しっかり
封じが定まる迄は紆余曲折があるのが普通だ。
わたしはサクヤさんの問に黙して頷き、
「今は時間が何よりの薬です。霊体の切れた傷痕は修復できましたし、後はこの結界にわ
たしが馴染めば、当面問題はなくなります」
細かい心配の種は言う迄もない。概ね順調に進んでいると、それだけを事実で応えると。
「それなら、良いんだけどね」
サクヤさんは、わたしの答を一応了承して、
「あんたは桂の為にと無理を引き受けるけど、桂は結構鋭いから見抜きに掛る。四六時中
同じ屋根の下で過ごす事になったら、幾らあんたでも簡単にごまかせないよ。力になれる
事や方法があるなら、遠慮なく言っておくれ」
桂を心配させるのは柚明も望まないだろう。
サクヤさんがわたしの右肩に右手を回し軽く抱き寄せてくれた。サクヤさんは桂ちゃん
を想うと同時にわたしも気遣ってくれている。大きくてしっかりした、でも柔らかでしな
やかなサクヤさんの腕に巻き取られて、わたしを愛おしんでくれるその仕草に心も包まれ
て。
「はい……そうですね。サクヤさん。では」
せっかくなので、お願いして良いですか?
「何だい? あたしにできる事なら……」
身を惜しむ気はないから何でも言いな。
頼もしく力強く引き受けてくれる声に、
「桂ちゃんの朝ご飯の支度なんですけど」
こうして繋れているとわたし、サクヤさんのお手伝いに動けない。熟睡の淵にいて尚わ
たしの左手を離さない桂ちゃんの左手を示し、
「申し訳ありませんが、朝ご飯の支度、サクヤさん一人に任せてしまって良いですか?」
「……あんたね」
なぜかサクヤさんを呆れさせてしまった。
「すみません。いけないと分っていてつい」
「……そういう事じゃなくて! はぁ……」
忘れていたよ。サクヤさんはため息の後、
「あんたも羽藤で笑子さんの孫だったって」
至極当然な事をぼやかれる羽目になった。
桂ちゃんが百年の眠りから目覚めたのはサクヤさんが部屋を出て少し後、差し込む陽射
しで羽様の森から朝霧が一掃された頃だった。
「う……まぶし……」
寝過ぎた所為か泣き腫らしたのか、目覚めの桂ちゃんの瞼は重そうだった。反射的に光
を遮ろうとした桂ちゃんの左腕は、その指がわたしの左手を握り締めていた為に動かない。
「あ……そうだ……」
『動かなかったのは、ユメイさんの手に繋ぎ止められていたから。わたしがそうしていて
欲しいと願ったから』
「おはよう桂ちゃん。まだ眠いかしら」
桂ちゃんはまだ夢現な表情で、
「……おはよう……ございます」
「眠いのなら、まだ寝ていても良いのよ」
「もう起きる。ってゆーか、わたし寝すぎ」
「そう……よく眠れたみたいで良かったわ」
繋いでいた手を離す。これは桂ちゃんの安らかな眠りに必要だった。起きるならお役ご
免だ。ふいに自由を取り戻す手に桂ちゃんは、
「あ……」
暑くなるのはまだこれからという午前の風が、掌をすり抜けていく。その寂しさをごま
かす様に、瞼をその左手でこする桂ちゃんに、
「駄目よ、桂ちゃん。そんな風に擦っては」
「んー、分った。……顔洗うことにするー」
桂ちゃんがぐっと伸びをする。桂ちゃんは無意識かも知れないけど、拾年前のあの日迄、
桂ちゃんは毎日その様にして起床していたの。
『夢も見ずにぐっすりと眠った所為か、腫れぼったい目を除けば、身体はすっきり爽快』
「身体の調子はすっかり良いみたいね」
あの量の失血は、一日二日で補えないけど、それ以外は相当回復している。無理しなけ
れば、病院に行かずとも数日で全快するだろう。
「うん。ユメイさんは……」
桂ちゃんに顔をじーっと見つめられる。
「もしかして、あんまり眠れなかった?」
「そう見えるかしら」
確かに寝てなかったけど、顔色には影響しない筈だ。ならご神木との繋りが断たれた影
響か。封じられてまだ一晩だ。外気に晒されるよりましだけど、まだ安定していないのか。
「何だか疲れてるみたいな感じかも。ちょっと顔色良くないみたい……」
「そう? 起き抜けだからそう見えるのかも知れないわね。顔を洗いに行きましょうか」
結界内に居続ければ徐々に安定する。勘づかれない様に動きつつ時を稼ごう。先に立っ
て仕切りのふすまへ向かったわたしは、顔色を隠そうとした意図を察されてないかどうか
気になって、振り返って桂ちゃんを正視した。
「……桂ちゃん?」「あ、うん、行く行く」
朝起きて、台所に向かうこの感覚も久々だ。後ろに続く桂ちゃんが少し大きくなったけ
ど、羽藤の家の朝はもう少し早かったけど。サクヤさんが台所にいる事にも違和感は全然
ない。
「サクヤさん、おはよう」
「お早うございます」
サクヤさんは起き抜けの桂ちゃんを向いて、
「お早う、昨夜はちゃんと眠れたかい? 連中が外で地団駄踏みまくりだったからねぇ」
「烏月さんのお札のおかげだね……あ」
そこで桂ちゃんも勘づいてしまったらしい。
『ノゾミちゃんとミカゲちゃんだって、わたしの前に現れる時は人の形を成している訳で、
その彼女達に効果のある結界という事は…』
「もしかしてユメイさんが調子悪そうなのって、あのお札の所為?」
「大丈夫よ。烏月さんの結界は、霊が通り抜けられない壁をこしらえた様な物だから…」
桂ちゃんの問にわたしは肯定も否定もせず事実で答える。答を間違えると、心配させる
と言うより桂ちゃんは呪符を剥がしかねない。
「壁って言うより、電流流した鉄条網か。越えようとしなけりゃ無害だよ」
サクヤさんが脇から桂ちゃんの注意を引き、
「まあ、強いて問題があるとすれば、いわゆる換気の悪さだろうねぇ」
「換気、悪いんだ……」
開け放した縁側からは風が入ってきているので、桂ちゃんはどうもピンとこない様子だ。
「換気って言っても、霊的なものだよ?」
「わ、わかってるよ」
『そういえば、ユメイさんはオハシラ様のご神木から力を貰っていると言っていたけど』
それが結界で断たれた事にも気付いた様だ。
桂ちゃん、鋭い。わたしの心配は余りしないで。今は自身の事を心配して欲しいのに…。
目線で分ったので、問われる前にわたしはふわりと微笑んで、桂ちゃんの肩に手を乗せ、
「本当に大丈夫なのよ。力の流れがないおかげで、安定もしているから」
安定度合いがまだ足りないだけで、外気に直接晒されるよりも安定しているのは事実だ。
「でも……」『血を飲んだ方が……』
桂ちゃんの視界の端に、包丁が引っ掛っている。あれで切ったりする事を考えている?
その想いは目線で分ったけど、それには気付かないふりで、話題を変えて流してしまう。
「ところで、烏月さんはどうしました?」
彼女の不在を知って問うわたしに、サクヤさんは桂ちゃんに聞かせる問だと思った様で、
「あたしもあんたもついてるし、昼間の内なら安全だろうって出て行ったよ」
軽い朝ご飯の用意は、ほぼ終りつつあった。
「葛ちゃんと尾花ちゃんは?」
桂ちゃんの興味が残りの面々に向いた様だ。
「そういえばまだ見てないねぇ。悪いけど桂、起してきてくれるかい?」
「良いけど、葛ちゃんってなかなか起きない子なんだね」
葛ちゃんは元々電気の不通な羽様の屋敷で、陽が落ちれば眠り、日が昇れば起きる生活
だったのだろう。深夜の烏月さんの来訪から耳をそばだて続け、わたしと話し終えて眠る
迄、滅多にない緊張感と夜更かしで、疲れたに違いない。早く起きられなくても、無理は
ない。
「今起きてきたばかりのあんたが言うかい」
「あはは。でも昨夜もわたし、あんな大声だしたりしたのに起きてこなかっ……。あ…」
昨夜は必死だったから気にならなかった様だけど、一夜明けた状態で冷静に顧みた桂ち
ゃんの頬が熱に染まっていく。それを見て取ったサクヤさんが冷かし気味に瞳を輝かせて、
「なんだい。一世一代の大告白を、葛にも聞いて貰いたかったのかい?」
「そんな、告白だなんて……」
助けを求めて彷徨わせる桂ちゃんの視線が、わたしに向き。頬の熱がわたしにも伝染し
た。わたしも桂ちゃんに続き視線のやり場に困る。
「ううっ……行ってきます」
桂ちゃんはますます顔を赤くして、茹でだこ状態の顔を俯かせ、台所から歩いて行った。
と、数秒もしない内に廊下の方から、
「うわっ」「あっ、葛ちゃんごめ……」
〜〜〜〜っ!
桂ちゃんの間延びした悲鳴が聞えてきた。
「桂おねーさん大丈夫ですか?」
葛ちゃんの声が続けて、
「わ、鼻血ですよ、鼻血! おねーさん鼻血出てますよ」
「ちりがみ、ちりがみ……」
どうなっているかは視なくても大体分った。
「それより濡れタオルで冷やして毛細血管を収縮させると早く止まりますよ?」
「ううっ、お台所、お台所……」
桂ちゃんが鼻を押さえて上を向いた侭、ぱたぱた台所へ戻ってきた。
「桂ちゃん、どうしたの?」
習慣化した桂ちゃんに話させる問いかけに、
「わたしがぶつかってしまったんですよう。タオル濡らしてもらえますか」
鼻を押さえ上を向いた姿勢では話しにくい。後についてきた葛ちゃんが代って応えるの
に、
「待って。止血ならわたしの力でできるわ」
もう諦めたのか、去る予定だから良いのか、葛ちゃんも敢て不自然に場を外そうとしな
い。
わたしは歩み寄って、桂ちゃんの両の頬に手を当てると、ぐっと顔を近づけた。意識の
ある桂ちゃんの顔に、これ程正面から至近で向き合うのは、十年前に遡るだろう。
「桂ちゃん、ちょっと見せてくれる」
朝の光にまぎれてぼんやりと、見えない位の薄さで、癒しの青の光を立ち昇らせて纏う。
幼い日桂ちゃんはこれをして貰いたがってわざとに転びそうな事をしていた物だったけど。
「すぐに止まるから、少しだけ我慢して」
「でも、こんなことで勿体な……、あっ」
その勿体ない力の結晶というべき贄の血が、更に勿体ない形でぱたぱたと零れ落ちてい
た。
「あのね、ユメイさん。その、嫌じゃなかったら……」「桂ちゃんの血を?」
桂ちゃんが頷く気配が伝わってくる。それは鼻血という形に少し申し訳なさを抱きつつ、
自分でどう身を切ろうか考えていたので丁度良かったとの印象まで、肌から伝わってきて。
「だって、ついでだし、もう痛くはないし、ユメイさんには苦労かけてるし……」
桂ちゃんは肌で感じている。わたしが言葉や仕草で諭しても、気遣う目線で眺めれば良
好ではない状態は見抜かれてしまう。桂ちゃんも、真弓さんと正樹さんの血を引いていた。
良く気づく繊細さも、羽藤の血筋の頑固さも。
桂ちゃんは今ここで拒んでも、きっとどこかで自ら身を傷つけて血を飲んでと申し出る。
その像も関知に映っていた。二度三度傷つけては治す繰り返しをするより、溢れてしまっ
た血を飲んで桂ちゃんを安心させられるなら。
わたしの頬が、染まっていたかも知れない。
色々な意味の恥ずかしさも、濃密な現身を持てばこそ、人の理にあればこその、幸せ…。
「いいの?」「うん……」
桂ちゃんの意思の確認は本当は不要だった。問わずとも想いは既に通じている。これは
むしろ、わたしの戸惑いで、わたしの迷いで…。
わたしの唇が、ゆっくり桂ちゃんに近づく。
白いちょうちょの髪飾りが赤い蜜を求める。
桂ちゃんは、背筋が針金の束になった様に、背中がぴんと張り詰めた侭固まって緊張し
て。降りて行く吐息に閉じた瞼がぴくりと震えた。
桂ちゃんの唇から一寸も離れていない処に、わたしの唇が触れる。昨日治癒の力を流し
込む為に意識のない桂ちゃんの唇にわたしの唇を重ねたけど。十年前にそれは何度もされ
ていたけど。大きくなった桂ちゃんが確かにわたしを見つめ返す中でそれを為すのは、流
石に戦いに赴くのとも別種の覚悟が必要だった。
桂ちゃんは為される侭に、頬を染めていた。
それは逆に、出血を増やしてしまうのでは。
「ふっ……」「んんっ……」
心は常に柔らかく。笑子おばあさんの言葉が思い出された。こういう時こそ、平常心を。
温かな液体を口に吸い上げて、喉を通す。桂ちゃんの何もかもが愛おしくて、愛らしくて。
円らな瞳は大きくて、奥に迄吸い込まれそう。
「たはは、ちょっとばかり目の毒ですよね」
「そうかい? 子供の口の周りについたご飯粒を、母親が取り除いたついでに、自分の口
に入れちまう様な感じだろう」
葛ちゃんとサクヤさんは、間近で観察です。冷静な目が近くにあるというのも恥ずかし
い。
「わたしはそんな事された経験ないですから良く分りませんけど、やっぱり少々違う趣な
のではないでしょーか?」
『……外野、ちょっとうるさいよ』
桂ちゃんの心は瞳に浮んだ瞬間分る。
『少しは遠慮して、ほしかったのです』
傷口はすぐ塞ぐけど、大した量の失血ではないけど、血の回復は少し遅れそう。わたし
は贄の血で更に多少力を増したけど、桂ちゃんにはもう少し身体を大事にして貰わないと。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
朝食が遅かったのでお昼ご飯は抜きにして、やや早めなおやつを頂く、午後二時過ぎの
羽様のお屋敷。サクヤさんは午前遅くに赤兎で商店街まで買い出しに出て、今食べている
和菓子類と夕食の食材やかまどで使う薪を買い、帰り着いたのは昼を大きく過ぎてついさ
っき。
「こんなにのんびりするのは久しぶりだよ」
午後の陽射しが上から照りつける中、桂ちゃんは直射日光を微妙に避けて、縁側に座る。
「そうなの?」
わたしは日光を避けると言うより結界を出られないので、縁側の少し奥側に座していた。
「誰も何もやってないしね」
「あたしが町まで買い出しに出たぐらいか」
庭を眺めながら桂ちゃんが、わたしが煎れたお茶をぼーっと飲む。ここでサクヤさんが、
面子が一人欠けている事に気付いた様だった。葛ちゃんはサクヤさんが買い出しに出てい
る間に、桂ちゃんの前を通って姿を消していた。
「烏月はまだ帰ってないとして、葛はどこに行ったんだい?」
夕刻迄止まる様なら、もう一晩引き留めた。葛ちゃんに未練があるか否かは別として、
陽が落ちればこの周囲にはノゾミ達が必ず来る。経観塚の町と違い、他に民家もないこの
辺は陽が落ちれば人目を憚らず鬼の姉妹も姿を顕して力を揮える。彼女たちに遠慮はなか
ろう。
巻き込まれる可能性は高かった。人質にされたり、桂ちゃんを誘き出す為に操られたり、
鬼の姉妹の力の源にされたり。何の修練も力もない子供では対応できない。ここを去るな
ら安全圏まで逃れないと逆に身が危うかった。
『桂ちゃんに言えば引き留めただろうけど』
それで葛ちゃんが翻意しただろうか。桂ちゃんがその素顔に直面し、傷つくだけで終っ
たかも知れない。心は身体に密接に影響する。生命の危険を抱え、体調も万全とは言えな
い今の桂ちゃんに、葛ちゃんと一から関る事は勧められなかった。悪い子ではないのだけ
ど。関知の像には、危険を乗り越えれば、桂ちゃんとの縁が絡み合う様も映っていたのだ
けど。
「元気そうな子だから、尾花ちゃんと遊びに行ってるんじゃないかな。水浴びとか」
「そうね、暑いものね」
多くを語らず、そう見せかける事で錯覚させる。葛ちゃんは、その様な術に長けていた。
『結構前からこのお屋敷に住んでいたわけだから。心配しなくても大丈夫だと思う』
桂ちゃんはまだ心配してない。そして心配し始める頃には既に手の届く範囲にいなくて、
心配してもしようがないと諦める様に。葛ちゃんの思惑はそんな辺りだったけど。
「サクヤさんは心配? ちゃんと色んなこと話して、あまり出歩かないようにしてもらっ
たほうが良かったかな? ……烏月さんが帰ってきた時に驚かない様に、一人増えたこと
だけは言っておいたんだけど」
サクヤさんはそれで事情を察した様だった。
「それでか……」「?」
サクヤさんもそれ以上詳らかに説明しない。鬼の姉妹に狙われた桂ちゃんを抱えた現状
では、葛ちゃんを巻き込むし、烏月さんが戻って対面すれば不発弾が炸裂するだけだ。黙
って去らせるのが最善と、その瞳が語っている。
「いや……何でもないよ。それより、今日の夕食はまともなものを食わせてやるからね」
とりあえず話題を別の方向に振る。
「食材、たっぷり買ってきたもんね」
何せ総勢5人と1匹。桂ちゃんの感覚からすると、これで充分大所帯だった様だ。
「にしても、サクヤさんて料理できたんだ」
桂ちゃんが今更の様にしみじみ語るのに、
「なんだい、その不安そうな顔は。なぁ柚明、保証してやっておくれ」
「うふふっ、それは出来てのお楽しみということにしておきましょうか」
わたしがサクヤさんの手料理をご馳走になってから、もう随分と経ったもの。
「そうだねぇ……。しかし、じっとしてても暑い物は暑いし、汗は出てくるもんだねぇ」
日は中点を過ぎても尚陽射しは強く眩しい。
「夏は内風呂がないと大変だよね」
桂ちゃんは昨日お風呂に行けなかったから、余計切実なのだろう。サクヤさんも、
「……内風呂か」「今日も温泉に行くの?」
桂ちゃんのお風呂を望む気持も分る様で、
「さて、どうしたものか。夜に出歩くのは避けた方が良い様だし、何度も出向くのは時間
と燃料の無駄だしねぇ」
「ガスが通ってたら、お風呂も沸かせたんだろうけどね」
「通ってても、ずっと放置していたガス釜に火をいれる蛮勇は持ち合わせてないよ。爆発
なんかされたら、堪ったものじゃない」
「じゃあ、やっぱり温泉行くしかないね」
「ちょいとお待ち」
そこでサクヤさんは何かに気付いた様に、
「なあ柚明。前に使っていた風呂って、新しいのに替える時に捨てちまったんだっけ?」
「五右衛門風呂のことでしたら、蔵にしまった侭だと思いますけど」
話題を振られてわたしも思いだした。十年間誰も触れてないなら、蔵の中にそれはまだ。
「そのお風呂って、あの大きい茹でが釜?」
「そうさ。あれならガスが通ってなくても焚けるからね。ちょっと出来ない体験だろう」
「確かにね。友達には自慢できると思うよ」
暑さにへばっていた桂ちゃんの瞳が輝く。
『贄の血うんぬんは土産話に向かないから、こういったいかにも田舎へ行ってきた的なエ
ピソードは貴重かも知れない。
因みに五右衛門風呂の名前の由来は、かの天下の大泥棒・石川五右衛門が、釜茹での刑
に処せられたことに因んでの命名なのだそう。
足を火傷しない様に、浮いている底板を踏み沈めて入るのだけど、知らずに下駄履きで
入って、底を踏み抜いたという話を聞いた。
先人の失敗に学んでいるわたしは、同じどじをやらかさなくてすむ。これも一つの備え
あれば憂いなし』
「既に入る気満々って顔だね。よし」
サクヤさんが、パンとジーンズの腰を叩く。
「ここから町まで何往復もするのは面倒だし、夜に出歩くのは避けた方が良いみたいだし、
ちょいと引っ張り出してこようかね」
それに応じ桂ちゃんの頭と身体も動き出す。
『今日のごはんは釜戸を使っての自炊なので、薪も買ってきていた様だけど、お風呂まで
沸かすとなると、足りないんじゃないかと思う。ちまちま小枝を拾い歩くより、お勝手の
裏で薪割りでもした方が良いんだろうけど、斧を振り回すには腕力不足。それにちょっと
怖い。
葛ちゃんと合流できれば、たくさん集めるのも難しくない様な気がするし、「急がば」
とか「塵も積もれば」とかの諺もある』
顔に浮ぶ桂ちゃんの考えは大体読み取れる。それはもう関知の力の発動を待つ必要もな
く、魂が通じているからで、更には想いと生命を重ね合わせた所為でも、あるのだろう。
「よしっ」「桂、どこ行くんだい」
妙に気合いの入る桂ちゃんに、サクヤさんが問いかけるのに、桂ちゃんは小さな秘密と、
「ん、ちょっとね」
『結界の外に出ることになるけど、まだ十分に明るいから大丈夫なはず』
この時わたしがその先行きを見落したのは、葛ちゃんが気に掛ると言うより、葛ちゃん
の桂ちゃんに重なる定めの端を去る侭に任せた判断に迷っていた為か。葛ちゃんをここに
留めれば、もっと縁の糸を絡みつかせれば、と。
でも、桂ちゃんの為に他者をどこ迄巻き込んで良い物か。身を守る術を持たない子供迄、
桂ちゃんの為に危険に引き込むのは、正解なのか。わたしは桂ちゃんに己を捧げて悔いは
ないけど、他の人迄巻き込む事は、果して…。
「柚明……?」「……はい?」
サクヤさんに声をかけられて漸く我に返る。桂ちゃんは既に、お屋敷の裏手に消えてい
た。
「あたしは蔵から、風呂釜を運び出してくる。あんたは中の掃除を頼むよ」「は、はい
…」
結界から出られないわたしは、サクヤさんの手伝いはできない。お屋敷の中でできる事
をする。子供の葛ちゃんの掃除では行き届かなかった処まで、しっかり綺麗に磨かないと。
「葛のことは、もう、気にするんじゃない」
オハシラ様の関知で分っているんだろう?
わたしの懸念は既に気付かれていた様だ。
「サクヤさん……」
「烏月がいて、あたしがいるこの屋敷は今や、葛にとっては針のむしろなんだ。この侭去
らせてやる方が情けって物さ。そうじゃないと、哀しむのは葛だけじゃなくなってしまう
…」
桂は、誰とでも心を通わせてしまうから。
時に愛してはいけない物迄愛してしまう。
それが桂ちゃんの長所であり危うさでも。
「……そうですね」
あんたもそれを分っているから行かせたんだろう、と言うサクヤさんの視線に、わたし
は心に引っ掛りを抱きつつ頷くしかなかった。
わたしは結局葛ちゃんを気遣っているのではない。葛ちゃんと関るか関らないかで分岐
する桂ちゃんの先行きを案じている。どちらが桂ちゃんに望ましいか迷っている。葛ちゃ
んを本当に心配しているのは尾花ちゃんだけ。その苦味が、一番たいせつな人の為に誰か
を手放し切り捨てる苦味が、わたしの心の動きを鈍らせた所為なのか。わたしは関知の力
が切迫した像を映す迄、それに気付けなかった。前兆を異変を、先んじて気付く事に失敗
した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂ちゃんは枯れ枝を拾い集めつつ、とぼとぼと山道を歩いていた。その像は霊体を阻む
障壁を越えて、瞼の裏に像を結ぶ。わたしの力を及ぼすのでなく、桂ちゃんの心や身体の
動きが作り出す波の様な物を受けとめるので、わたしは結界に閉ざされてもたいせつな人
の言動が把握できる。この距離ならまだ掴める。
桂ちゃんは枯れ枝を集めたり、涸れ井戸を見つけて、と言うか危うく落ちそうになって、
そこに目印のリボンをつけた上で丈夫なツタをロープ代りに引いて後の惨事に備えたりと、
ここ数日歩き回って少し馴染んだ羽様の森を、まずまず無難に動き回っていた。
転んだりぬかるみに填ったりしたら、他の事に考えが回らなくなるだろうけど、幸か不
幸か今日の桂ちゃんは、万事そこそこ巧くこなせている。だから作業の傍らに考え事を…。
「はぁ……」
白から黄、黄から赤へとうつろっていく陽射しの色に染められる木々と、かなかなと木
霊する寂しげな蝉の声に、夏の過ぎ行く予感を桂ちゃんは覚えていた。
感傷的な気分に拍車をかけられて、ため息が吐き出されると、それは染まり始めた赤い
空に溶け合って、混じり合って、消えて行く。
『サクヤさんが心配している事は分っている。わたしがここにいられるのは夏休みの間だ
け。もちろん学校を辞めて羽様のお屋敷に移り住むという選択肢もあるけど、それで今後
の暮らしの活計(たつき)を立てていけるのか』
「難しいなぁ……」
オハシラ様のご神木ごと、ユメイさんに来てもらうというのはありだろうか。
『まてまて、ユメイさんは鬼の神様を封じているわけだから、鬼の神様を退治してしまわ
ない限り、それは拙い。……だけど、烏月さんが鬼の神様を退治してくれたら別に……』
「はぁ……。簡単に退治できるようなら、復活させようとしているケイくんを、あんなに
必死に追いかけたりは、しないよね」
『第一、あんなに大きな木をどう移し変えればいいのやら。方法があっても植える土地が
ない。わたしは手狭なアパート暮しの身だ』
「……お屋敷に戻ろう」
夏休みが終るのは二週間ほど先の話だ。
お母さんを亡くしてからのめまぐるしさを考えれば、それだけ期間があれば何が起るか
予想もつかない。この数日はその格好の事例。だから早く帰って、今は少しでも長くユメ
イさんと一緒にいよう。
「よしっ、ポジティブ・シンキーン!」
掛け声を出してしまうのは、陽子ちゃんの影響かもしれない。ほっぺたを叩いて気合い
を入れれば、完璧なんだけど、生憎と手は塞がっている。
そうそう、陽子ちゃんと言えば、携帯電話を壊してから連絡を取っていない。早く帰っ
てサクヤさんに携帯電話を借りよう。
一抱えの枯れ枝を胸に、すっかり傾いた日を背中に、傾いた山道を降り始める。
「あっ」
目の前に、もう一つ太陽が現れた。
真っ赤に焼けた鉄のような赤光に目を焼かれて、持っていた薪を思わず取り落す。
『今のは、一体何だったんだろう?』
誰かの足音が近づいてくる。音の間隔が短いから、心配したサクヤさんが迎えに来たと
いうわけではなさそう。
「誰……?」
そろりと目を開けて、顔を覆った指の隙間から覗き見る。赤い光が輝いている為、直視
することは出来ないけれど、それはそれほど大きくない。大皿ほどの大きさの円盤だった。
『なるほど……あれは鏡なのかも知れない』
鏡ならわたしの後ろの夕日を、その侭映して跳ね返せる。子供はそういう悪戯が好きだ。
「……もしかして、葛ちゃん?」
訊ねには答えず、無言の侭こちらへ向かってくる。尾花ちゃんが一緒じゃないし、ぎこ
ちないロボットの様な動きは、葛ちゃんらしくない。だけど、確かにその顔には見覚えが。
充分に距離が縮まった処で声をかける。
「やっぱり葛ちゃんだ」
角度の関係なのか、既に鏡は眩しくはない。
「あ……あの鏡は……」
一昨日の朝のニュースで……違う。一昨日の話題は吸血鬼事件だから一昨昨日だ……取
り上げられていた、郷土資料館から盗まれた鏡なんだろう。
「その鏡って、郷土資料館にあったやつ?」
答はない。
「葛ちゃんが犯人だったの?」
「……ふふっ」
口を少しも動かさずに笑った。わたしを映す鏡にも動きがない。ぼうっと鏡を抱えて立
っている。
「見つけたわ、桂。贄の血を引く羽藤の裔」
「……葛ちゃん、一体、何の冗談?」
桂ちゃんの声に不安が兆していた。
「冗談に見えるのかしら?」
鏡が光り、網膜をばかにする。
それは太陽を反射したものではなく、あの彼女たちの瞳の光。双子の鬼の瞳の赤。
目が眩む。赤に廻る。
光が森の陰に溶け込むと、そこには。
ちりん……鈴の音が聞えた。
ノゾミが日が沈む前から姿を顕していた!
「ごきげんよう、桂。昨夜は入れてくれなかったから、今日は少し早い時間にお邪魔しよ
うと思ったんだけど……」
こんな所で出くわすなんて、あなたとわたしの間には、縁の糸が繋っているのかしら?
「何で……まだ、夜じゃないのに……」
「そうね。流石に少し辛いかも知れないわ」
「月が昇るには早すぎる時間だから」
その後ろにはミカゲも顕れている。
「だからといって、こうして形になれないわけではないのよ。ご覧なさい、日の神が死ん
でいくでしょう?」
「世界が血の赤に染まっているでしょう?」
「今の刻限を、何と呼んだかご存知?」
桂ちゃんの唇と思考は導かれる侭に、
「逢魔が時……」
空には月の姿は見えない。
それは単に見えていないと言うだけで、どこかに存在してはいるのだろう。そして存在
する以上、何かの拍子で姿を現すこともある。ユメイさんも、わたしの危機に顕れてくれ
た。
そして今は逢魔が時……。
「人と魔が逢う薄明の刻」
赤い瞳を光らせて、彼女達が近づいてくる。
「ふふっ、今日は大収穫。これなら主さまを起してさしあげられる。……鏡持ちの傀儡と
して使っているこの子も、贄の血には及ばないけど、濃い血をしてるわ」
「……っ!」
わたしだけじゃなくて葛ちゃんまで。
『どうしよう、どうしよう……』
「どうしようもないわ。あの女に助けを求めても無駄よ」
ノゾミは冷たく、桂ちゃんの望みを切り捨てる。心も表情も固まる桂ちゃんにミカゲが、
「私たちが中に入れなかった様に、あなたの声も伝わらないから」
赤い瞳を光らせ、二匹の鬼が近づいてくる。
同じだけ下がった桂ちゃんの背中は、後ろの立ち木にぶつかった。幹が揺れて、こすれ
て落ちた葉が、葛ちゃんの顔を掠ったけれど、瞬きすらしない。完全に操られている。
まだ血は吸われた様な痕はないけど、大丈夫なんだろうか。そういえば尾花ちゃんは?
赤い瞳を光らせ血を吸う鬼が近づいてくる。
赤く、赤く、染まる視界。
もうこの赤が落陽の色なのか、彼女らの瞳の色なのかの区別もつけられない。
眩暈がする。
歪む世界。廻る世界。立っているのが辛い。
「もう、無理しなくていいのよ」
耳元で囁かれる声がある。
「楽になってもいいの」
ささやかれる、声。
桂ちゃんの中で、何かがぷつりと途切れた。
「桂ちゃんっ!」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「サクヤさん……札を、呪符を剥がして!」
わたしの切迫した悲鳴に、漸く蔵の中から釜を外に運び出せたサクヤさんは、その場に
釜を置いて縁側に歩み寄ってきて、
「柚明、一体、どうしたんだい……?」
「桂ちゃんが……、桂ちゃんが危ないの!」
サクヤさんはわたしの顔色から事を察し、
「感じ取れたのかい……。ああ、関知の力は霊体を阻む障壁には影響されないんだったね。
でも、外はまだ陽も落ちては……って」
そこで斜めに赤光を放つ輝きの、角度の低さに気付いたサクヤさんは、わたしと同時に、
「「逢魔が時!」」
早く呪符を剥がして下さい。わたしは呪符に触れられない。四隅の呪符を早く剥がして。
『無理をすれば、突き抜ける事も可能だけど。外から内になら、無理をしてでも破ったけ
ど。でも破った後結界の内側にいるわたしは…』
「分ったよ。ちょっと待ちな!」
サクヤさんはお屋敷に上がり込んで、四隅の呪符へ案内も不要でズカズカと歩んでいく。
わたしの状態が安定しない様なら、後からでも剥がそうと、位置を確かめてあったらしい。
「呪符を全部剥がし終えたら、サクヤさんは匂いを辿って桂ちゃんを助けに行って下さい。
葛ちゃんも一緒です。あの子達も……いっ」
わたしの言い方に引っ掛りを感じたサクヤさんに、その中身を伝える前に第一波が来た。
依代の機能を代替する結界が、呪符を剥がされる事で崩れ始める。それは再びわたしを根
無し草に導く、霊体消失のカウントダウンだ。
「あんた、今は結界に繋れているんだったね。忘れていたよ。あんたはここを出るにはも
う一度、身を切らなきゃならなかったんだ…」
「わたしの苦痛は耐えられます。急いで!」
一瞬瞳を見開くけど、サクヤさんはわたしの強い声に促されて顔を引き締め直し、二枚
目の呪符に歩んでいく。これは早晩巡り来る定めだった。予測よりも少し早かっただけで。
わたしはいつ迄もこの結界に身を繋ぐ訳には行かない。主の封じを何日も空けられない。
封じを解いてもう一度ご神木に己を繋ぎ直さないと、定めからの逸脱も許容限度を超える。
こうなる事も最初から承知だった。唯烏月さんの信頼が欲しかった。彼女と力を合わせ
桂ちゃんを守って戦いたかったから。これで、結局その信を失ってしまうかも知れないけ
ど。
「依代を失った霊体は幾ら力があっても己を保てない。器のない水の様な物です。だから、
わたしは結界が完全に消えると同時に、ご神木に自身を繋ぎ直さなければなりません…」
サクヤさんが目の前で二枚目の札を剥がす。
わたしがそれについて回るのは、剥がすタイミングに集中し苦痛に備えたいという事と、
事情を伝える時間を惜しむから。もう少し間があれば順を追ってゆっくり説明できたのに。
「あぐっ! ……わたしは、ご神木と繋りを戻す迄の間、暫く身動き取れなくなります」
サクヤさんは無言の侭三枚目の呪符に向かう。わたしも必死に己を立て直して追随する。
「結界はわたしを閉ざしました。でも結界破りはわたしを閉ざすのではなく、解き放つだ
けです。わたしが自分の意志でご神木に繋りを求めなければなりません。そして、ご神木
に己を繋ぎ直す苦痛は、霊体を切るというより、霊体の中に突き刺さって止まる様な物」
強い繋りはありましたけど、切り離された以上再度一つになるには、異物を身体に食い
込ませる感覚がお互いに要る。わたしにもご神木にも。男性を乙女に迎えると言うよりそ
れは、赤ん坊を子宮に埋め戻す様な感覚です。
三枚目の呪符を剥がそうとしたサクヤさんの手がぴくりと止まった。表現の激越さより、
その伝えたい中身より、それを迎え入れようというわたしに震えを感じている。思わずそ
の手が止まり、視線が横滑りに硬直するのに、
「剥がして下さい。わたしは、大丈夫です」
それが必須ならわたしは耐える。耐えられる。どんな定めでも身に受けますと葛ちゃん
に言ったのは、嘘ではない。これをわたしは最初から承知だった。承知で受け容れたのだ。
「早く、桂ちゃんが危ない」「わ、分った」
サクヤさんが三枚目を引き剥がす。臓物のどれかが引きちぎられる痛みを感じるけど、
これはまだ真打ちではない。サクヤさんについていくと言うより、押しやる感じで四枚目
の処に行く。自ら剥がさないのは、霊体のわたしが触れると弾かれると言うより、無理し
て力を浪費できない事情があるから。このすぐ次に、どれだけ力を使うか定かではない本
当の困苦が待っている。ご神木に自らを繋ぎ直すという、生命を移しかえるに近い行いが。
「サクヤさん……四枚目を剥がしたら、わたしに構わず匂いを辿って桂ちゃんを助けに行
って下さい。サクヤさんなら追える筈です」
わたしはご神木との繋りを取り戻す間、暫く身動きが叶わない。甚大な苦痛以上に、依
代と確かに繋る迄わたしは何もできなくなる。
「繋れば、わたしは桂ちゃんと生命を分け合った仲です。今のわたしなら、青珠ではなく、
桂ちゃんにわたしを飛ばす事が可能です…」
わたしの心配は不要。ご神木との繋りが戻れば一瞬でサクヤさんを追い抜ける。だから、
「サクヤさんは、桂ちゃんを早く」
「ああ、分ったよ。分ったから!」
サクヤさんは、その双眸を潤ませながら、最後の一枚を渾身の想いを込めて剥ぎ取った。
完全に結界が消失し、淀んでいた空気がゆっくりと拡散し行く様が肌で感じ取れる。
ああ、わたしが、解き放たれて行く。
この開放感は、死に行く喜びとでも言うか。
冬の日に酔っ払って野に寝そべり、死に行く時に感じる心地良さに、近いかも知れない。
この開放感に身を浸し、この侭昇天してしまいたい。そんな欲求を抑え付け、わたしは
痛みと苦しみの現世に己を、引きずり下ろす。苦悩の泥沼に身を浸し、分け入ってその淵
迄。
まだやらねばならない事がある。
まだ守らねばならない人がいる。
まだ保たねばならない、幸せが。
わたしは消える事を己に許さない。
ご神木に繋りを求め、己の意志で繋ぎ直す。
身体が崩れゆく感覚と、それを逃れる為に己の霊体にご神木との霊的な繋りを差し込む
感覚が、わたしの一つの現身の中で交錯して、息が止まるより酷い苦痛を、その中枢から
…。
「柚明……!」「触らないで」
崩れ落ちて息が止まるわたしをサクヤさんは捨て置けずに手を伸ばすけど、わたしはか
つてない程乱暴に優しい手触りをはねのけた。わたしの想いを、望みを、確かに分るのな
ら。
「今何を急ぐかサクヤさんは分っている筈」
目先の優しさは要らない。それは後々の毒。それより今一番危うく、守りを欲している
人の処に、駆けつけて。わたしはここで少しの間動けないけど。耐え凌ぐ時間が必要だけ
ど。
「ここにサクヤさんがいてできる事はありません。例えあっても、いつでも常にわたし達
の最優先は一番たいせつな人の幸せと守り」
早く行って!
苦しみに飛んで行きそうな意識の残りをかき集め、サクヤさんを渾身の眼力で睨みつけ。
サクヤさんは後ろ髪引かれる思いを顔に表しつつ、目を瞑って、顔をしかめて、断を下し、
「先に行ってるからね。必ず、来るんだよ」
赤光の薄れ行く中、足音と気配が遠ざかっていく。三和土で、今日は収穫なく帰り着い
た烏月さんと鉢合わせたサクヤさんが、簡潔に事情を説明しつつ、2人で森の奥へ馳せて
行くのが感じ取れた。わたしはまだ動けない。
「……かはっ! くっ……あ、あぁっ……」
猛烈な苦痛に意識が吹き散らされそうな中、それを耐え凌ぎつつわたしは魂を桂ちゃん
の心に同調させて、状況だけでも知ろうと望む。鬼の刻限が迫りつつある。わたしの力を
増してもくれるけど、わたしのたいせつな人を脅かす者達の力迄も増す、月の大きく迫る
夜が。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私は暗い部屋の中に座っていた。
日にあたっていない肌は、病的にまで白い。
人の足音が聞えた。お腹は空いていないけれど、もう食事の時間なのだろうか。
この部屋で時間を知る方法があるとすれば、それは食事の時だけだった。尤も、定時に
持ってきていないのであれば、それも不確か極まりないのだけれど。
「望様……」
私の名前が呼ばれて、格子戸が開けられる。
私には開ける事ができない、外側からかんぬきの掛けられた戸が開かれる。
「もう食事の時間なの? 私、お腹は空いていないのだけれど」
良く透る声は、何度か聞いた小鳥の囀りだ。
「いいえ、望様の欲しがっておられたものを差し入れても良いと許可が出ましたので…」
世話役の女声には感情の浮動を感じない。
年配らしいその声は、唯平静に事務的で。
「私、何かを欲しがりました?」
この場所から出して欲しいとの願いはある。
だけどそれは適わない望みだ。私は物心ついてからこの部屋を出た事がない。
私は、外の世界を知らない……。
「何か面白い書でも入りましたか?」
私が外の世界を知る唯一の手段が書だった。
「いえ……。鏡を……」
鏡なんて頼んだだろうか。
思い出した。ふと悪戯心で頼んだ覚えが…。
「そうでした。確かにお願いしましたね」
「望様と同じ銘を持つ鏡だそうです……」
「望と?」
「いえ……。良月と申します……」
望も良月も、満月を表す言葉だ。
月の顔を見る事は忌むべき事。そう言われる事がままあると、知らぬ訳ではあるまいし。
これは私の名前と、私の行為の両方に対する当てつけなのだろうか。
良月は祖父の代に、唐より持ち込まれた物を譲渡された物だ。貴重な物らしいけれど、
そんな事は私には関係ない。
私は鏡を覗き込む。
そこには青白い肌をした、癇(かん)の強そうな少女の顔が映っている。
紙燭の揺らぎの所為なのか、その顔が私をあざ笑っている様に見えた。気に食わない。
「これが……あいつの顔なのね」
憎い、憎い、あの娘の顔。
「望様のお顔でございます……」
問答させる意欲を失わせる淡々たる答。
否、それは口数多く話す事を厭う故の。
「同じなのでしょう?」
私は言い捨て、その先の答は望まない。
吐き気がする。
私は望。
藤原望。
大王(おおきみ)の覚えもめでたく、都に権勢を振るう家に生まれた姫。いや……。
家がいかに立派だろうと、私には関係のない事だ。私は屋敷の奥に隠されている、存在
しない筈の人間だから。
存在しているのは、私と同じ顔をした妹だ。
私という存在などつゆも知らず、花よ蝶よ、藤原の姫よと愛でられている妹だ。
私と彼女は同じ日に、同じ腹から生れた、同じ顔を持った姉妹だった。
双子は縁起が悪いと忌まれた私は……。
「こほっ、こほっ」
血の絡んだ咳が出た。うっとうしい。
私の方が隠される事になったのは、これの所為に違いない。間引かれないだけ、食事や
薬が与えられ、良いと思うべきなんだろうか。
口をぬぐって鏡を見る。
そこには憎い顔が映っている。
ふと、誰かに見られている気がしたのだけれど……。恐らく鏡に映った己の視線だろう。
気にしない事にした。
重宝はしているけれど、鏡は嫌いだ。
「望様……」
私の名前が呼ばれて、格子戸が開けられる。
私には開ける事ができない、かんぬきの掛けられた戸が開かれる。
「もう食事の時間なの? 私、お腹は空いていないのだけれど」
「いえ……ここから、移って頂きます」
世話役はこの時に至っても尚、事務的を越えて口数が少なかった。問答を避けるが如く
感情を織り込まない声音を、保ち続けていた。
「外に出して頂けるの?」
もしかしたら、妹が死んだのかもしれない。それで死んだ妹の代りに、私が日のあたる
場所へ出して貰える事になったのかも知れない。
「いえ……移動の間だけでございます……」
必要最低限以上は、息をするのも差し控え。それは貴人の姫への敬意の故ではなく、実
は。
「そう……」
「それから……移動の間も車にこもって頂きます……風が障りますから……」
私の望んだ筋書き通りには、物事は動かない物らしい。
「だけれど、ここから移されるだなんて初めてよ。一体何があったのかしら?」
「館に……火を掛けられました……」
「火を?」
「はい……別の館に移って頂きます……」
漸くそれだけを語る。否、それは外に出れば一目瞭然な話だから、応えてないに等しい。
「身の回りの物は?」
「何も持たずに……」
「良月は、持って行っても、良いかしら?」
「はい……」
許容は問答を拒むかの様で、言葉を交わす事を忌むかの様で、却って隔てを感じさせる。
私は世話役に連れられて、部屋の外に出た。
初めて知る外の世界は、ゆらゆらと揺れる赤に彩られていた。熱い。これが炎の熱さか。
今が、自由になる好機だった。
今、私がいなくなった処で焼け死んだと誰もがそう思うだろう。いや……、
そもそも私は、表だっては存在しない隠され子だから、存在自体を知らない者ばかりだ。
焼け死んだと思うのは、ごく少数の事情を知る者のみ。その数少ないひとりである、私は
私の前を行く、世話役の頭部をじっと見る。
私は彼女が畏れ多いから私を隔てている訳ではない事を知っている。彼女は私の病を移
されたくないから、問いかけられたくも喋りたくもないから、近くに長くいたくないから、
この何年ずっと私を隔ててきたと知っている。
高い報酬に引かれ、私の病を忌み嫌い、私の喋りかける気力を失わせる無気力な答を続
けてきた世話役。私を想っている訳でも何でもない、そういう世話役を1人宛てがって遂
に一度も様子も見に来なかったお父様。
私には、何もなかった。暗い部屋の中には私を引き留める想いは何も、残ってなかった。
生きるのに最低限必要な物はあったけど、その生命を楽しむ術も時も相手もない。私は生
かされているだけで、生きてはいなかった…。
『重いかねの鏡で叩けば、非力な私でも頭を割る事位はできるだろうか』
ほんの三呼吸分の躊躇の末、私は良月を振り上げた。その間は罪悪感による物ではなく。
唯、あの部屋から一歩たりとも外に出た事のなかった私が、全てを捨てて生きていける
のかどうかと言う、未知への怖れ……。
唯それだけの理由だった。
構うものか。
自由も何もない生など、死んでいるのと大して変る物ではない。
構うものか。
死など今更だ。どこで死のうと屋敷の奥のあの暗い部屋で朽ちるよりはましではないか。
そうだ、構うものか……
結局、私程度の力では、一撃で済ませる事はできなかった。
世話役はくるぶしに届く程に伸びた、私の髪を握り締め、執念深く離さなかった。
仕方がないので髪を切る事にした。幸いこの世話役が、もしもの折の用心にと懐剣を所
持している事を知っている。尤も、彼女はそれを役立てる事ができなかったのだけれど…。
……ふつり。
代りに私の役に立ったのだから、何も問題はない。
十年以上の年月をかけて、私の中に降り積もっていた澱が一気に取り払われた様な感覚
と共に、色の抜けた髪の束が落ちていった。
遂に私はくびきから解き放たれた。頭が軽く、身体が軽い。そして……。
「寒い……」
白いものがちらついている。
髪を切った時には、自由になった喜びを感じたけれど、こう首元が寒いと少しだけ後悔
の念が沸いてくる。
「ごほっ、ごほっ……」
雪の積った山の中に、赤い花びらが散った。
苦しいのは嫌いだけれど、ほんの少しだけ綺麗だと思った。
生れてからずっと、狭い奥の部屋の中しか歩いた事がない私の脚は、長旅に耐えられる
だけの強さを持ち合わせていなかった。
脚だけでなく、身体ももう動かない。
「あそこから出ても、自由にはなれないのね……」
いや、最初の数日は自由だった。
けれど、それだけでは足りない。
屋敷の奥に閉じこめられていた十年を越す月日とは、見合う筈がない。漸く生き始めた
と言うのに、漸くこの生命を使える様になったと言うのに、今になって生命が尽きるとは。
「自由になれない侭死ぬのね……」
「そうか、死ぬか」
「どなた?」
私は凍えた大地に身を横たえた侭、首だけを巡らせて声のぬしを捜す。
誰にも知られず逝くよりは、誰かに見届けて貰えるのは、随分とましではないだろうか。
少なくとも、私という存在の、証の様な物を、人の世に残せるかもしれない。だけれど…
…。
身体は雪に溶け込むように冷え、その中で白く霞んでいく、私の目に映った声のぬしは。
「この山に住まう、人ではない者だ」
人の形はしているけれど、人の世の物ではないと分ってしまった。雪に滲む赤い気配は。
「山神様ね。あなたは蛇の神様かしら。それとも狼の神様かしら」
「さて……どちらだろうな」
「私は別に、どちらでも気にしないわ」
そのどちらでもなくても、別に構わない。
これ迄生きた十年少しの歳月で、私は神仏への祈りも、人への呪いも、全てが無為だと
思い知らされた。だけれど、その神自身が目の前にいるのなら、願いを口に出してみるの
も良い。あの暗い場所からの物とは違い、その言葉は確かに届く物なのだから。
「神様なら、私の願いを叶えて下さらない」
「願いとはなんだ?」
「自由になる前に、死ぬのは嫌です」
勿論届くだけで、叶うなんて思っていない。
神にとって人ひとりの生命など、実に大した物ではないのだから。だから、これは鏡に
向かって呟く繰り言の様な物だと。私以外に誰もいない、あの部屋でしていた戯れの様な
物だと、思っていたのだけれど……。
「自由ではないのか?」
山の神は私の言葉を耳に入れ、のみならず問答する気があるらしい
「自由にならぬ身体に囚われた魂の、どこに自由があるのでしょう」
「現身はいらぬと言うのか」
倒れた侭、動く事すら侭ならない今の状態は、あの部屋にいるのと何ら変りがない。
だから、少なくとも衣食に困る事のないあの部屋を捨てて、自由である事を選んだ私と
しては、何よりも自由を選ぶ。
『だけれど、こんな身体でも、いらないと言うのは、死ぬ事と変らないのではないか…』
死ぬのは嫌。
こんな身体はどうなっても良いのだけれど、私という現象がなくなってしまうのは嫌。
だから私は問に答える言葉を持たずに、良月に移った姿を、じっと見つめるに止まった。
山神様が鏡越しに私に瞳を合わせる。
不思議な魅了の力を秘めた、満月のような金色の視線が私の瞳を射抜いている。
「その鏡に、おぬしの魂を依らせてやる事はできる」
「この身体から離れられるの?」
「鏡には囚われるが、抜け出す事は自由だ」
「生きた侭霊になれるというの?」
「依る呪物が壊れぬかぎり滅びぬ」
良月。この唐渡りのかねの鏡は、十年、百年のみならず、千年を経ても朽ちずにいるか
も知れない。少なくとも、今この瞬間生命の火も消えてしまいそうな弱い身体に比べれば。
「……」
もう話す事も辛い身体で答を告げる。
そして私は、人ではない物に成った。
私を鬼に変えたのは、主さま……私は山神様の事をそう呼ぶことにした……の、ほんの
気まぐれだったのかもしれない。
気紛れだろうと何だろうと構わない。
主さまは私に自由を与えてくれたのだから。
主さまと、私のあるじと認めても、主さまは私を縛らない。私は自由になったのだ。
そして世界は、あの部屋の中にも、読んだ無数の蔵書にもない、新しい物で満ち溢れて
いた。楽しい。生命がある事が楽しい。生きて生を繋いであり続ける事が。
「ねえ、主さま、知っていて……」
「ねえ、主さま、今日は都で……」
「ねえ、主さま、私は……」
「ねえ、主さま……」
殆どの場合、主さまは応えて下さらない。
だけれど機嫌がいい時には、私の相手をして下さる。
だから私は返事があろうとなかろうと色々な事を話す様になった。幾ら話をしても咳が
出ないのも良い。本当に私は生れ変ったのだ。
「ねえ、主さま……」
それが私の春だった。
そして、やがて、夏が来た。
槐の白い花が咲く、嫌な季節がやってきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
たいせつなひとが、いなくなってしまった。
贄の血を手に入れようとなさった主さまが、役行者と観月の民に封じられてしまった。
私が都で聞いた、贄の血を持つ竹林の長者の姫の話をしたばかりに、役行者と観月の民
に封じられてしまった。
そして、私は、ひとりになってしまった。
「主さま……」
ねぐらに帰っても、そこには誰もいない。
「主さま……」
暫く私は信じられずに、今迄通りの暮らしを続ける事にした。応えが返ってこないのは
いつもの事だから。それから暫く、私はあの場所へ行ってみる事にした。
何もできない侭、火花を散らせて弾かれる。
強い力に阻まれて、封じの柱に近づく事すらできなかった。
悔しい。
私は悔しさのたけを、ねぐらの中で語った。
勿論応えはない。
それは主さまがいた頃と同じ。
だけれど随分長く続いたので、私は少し寂しくなって、自分で応えを返してみた。
「……そう」
単なる相づちを偶に打つ。
少し寂しさが薄れた様な気がした。
いつからだったろう……。
ふと、誰かに見られている様な気がした。
視線は良月からのもの。
覗き込むと、中にいる少女と目があった。
私とそっくりな、だけれど私は、こんなに辛気臭い顔をしていただろうか。まだ人間で
あった頃の私は、こんな顔をしていたかもしれないけれど。ならばこれは……。
これはきっと、私の妹の顔だ。きっと未だ人の身の侭の、私の妹の顔に違いない。
昔は憎くて憎くて堪らない顔だったけれど、今ではこんな顔でも、あるだけましだと思
う。ましとはいえ、可愛がる気にはならず、私はつんけんとした態度をとる事になる。
「あなたなんて嫌いよ」
様々な呪いの言葉を吐きかけると、その顔は萎れた物になる。
「どうしてあなたが、ここにいるの?」
そういえば昔、鏡は遠く離れた地を移す呪具として使われる事があると、書物で読んだ。
「お父様に可愛がられてたのではなくて?」
だけれど、花よ蝶よと愛でられ笑っている筈の妹が、なぜこんな顔をしているのだろう。
ああ、そうか……。
「あなたも、捨てられてしまったのね?」
いつかの私と同じ様に。
残酷に斬りつけてみた積りだった。私だったなら怒りに声を荒げるに違いない酷い事を。
でも鏡の中の妹は、怒るどころか俯き萎れて。
「少しは言い返しなさいな、情けない子。私は弱い子は嫌いよ」
いつかの自分を見ている様で。
「ねえ、何とか言ったらどうなのかしら?」
「ですが、姉さま……」
答が返ってきた。漸く、待ち望んだ答が。
私の問いかけに、応えてくれる声が漸く。
「ですがじゃないわよ……あら?」
「姉さま、どうかさないました?」
私は微かな心の引っ掛りを捉えきれずに、
「……あなた何という名前だったかしら?」
「ミカゲ……」
そうか。妹も父様に捨てられてしまい、私と同じ道を辿ったのか。それで良月に依って
いたのだとしたら、それならば、誰かに見られている様な気がするのは当然だ。
「どうしたのかしら?」「いえ……」
それにしても、ミカゲはいつも私の方を見ている様な気がする。
「姉さま……」
「なに、ミカゲ」
「主さまの事ですけど、お助けしないのですか?」
「どうやってお助けすれば良いのか、分らないのだもの」
あれからどれぐらい経ったのか。
あれは夢幻などではなく、主さまは本当に封じられてしまい、助けなければもう戻って
こないのだという事を、私は受け入れていた。
「……あら?」
「姉さま、どうかしましたか?」
「私、あなたに主さまの事を話したかしら」
「来る日も、来る日も」
そうだっただろうか。