第2章 想いと生命、重ね合わせて(丙)
わたしの笑みは、成功の笑みよ」
或いはあなたの、失敗への笑み。
視界の隅に蝶が一羽映っている。
「蝶はさっき、私が全て消した筈」
まあ良い。一羽位いても幾らの戦力にもならないし、姉さまと私で抑え付けているから
あなたの指示は届かない。予め与えられた指示以上に動けぬ蝶が一羽いても脅威ではない。
己の所作の綻びが見えぬミカゲにわたしは、
「姉の忠告は、聞いておくべきだったわね」
止めは刺せる時に刺しておくべきだった。
「一体、何を、あなた?」
「わたしの一番は常に、たいせつな人の幸せと守りよ。あなたにも、何度かそう言った筈
だけど、聞いてなかった?」
身体を捧げ、生命を捧げ、この想いの消滅迄も受容したわたしが、今更現身を壊された
位で己を砕かれ、心が闇に沈むと思ったの?
わたしの何を失わせた積りか訊かないけど。
「あなたは桂ちゃんの血を得られない。ここでわたし相手に時を浪費した為に。自身の悲
願を脇に置き、私的な恨みを晴らしに道を逸れた故に。それはあなたの甘さ、不徹底さ」
あなたは一体何者で、何を目的にあり続けてきたの。あなたの一番たいせつな願いは何。
さっきから為しているこれは、その為の事?
「……」
その双眸が見開かれていた。弱気な外見の奥で、さっき迄憎悪を煮え滾らせていた妹鬼
が、勝利にあと一息と詰め将棋を楽しんでいた老獪な鬼が、上手の手から水が漏れる様に
直面し、自身の内なる何かに怖れ戦いていた。
「想いに不純物が混じっているわね。それでは、千年生き抜いたって悲願には届かない」
わたしは情けでノゾミを見逃した訳ではない。実際ミカゲの妨げは間一髪だった。ノゾ
ミに拘っていれば、桂ちゃんは奪われていた。ノゾミが無理を押して出てきて挟み撃ちに
逢うとは思わなかったけど、こうなった末で尚わたしはこの判断が間違いないと言い切れ
る。
わたしはたいせつなひとを常に一番に想う。それ以外はわたしの想いも後回しで構わな
い。必要ならば切り捨てる、必須ならば手放そう。想いの強さ深さは年数に関係ない。千
年生きた末に数回妨げられた位の憤りで、脇に置く様な軽い悲願に、わたしの想いは折ら
れない。
「わたしは時間を得たわ。痛み苦しみと引き替えに、少しの時間を。この状況をひっくり
返せる、強い味方が来てくれる迄の時間を」
血塗れの笑みは、凄絶だったかも知れない。
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「……」「ミカゲ、早く止めをっ!」
虚を突かれて呆ける妹鬼に、姉鬼は叱咤するけど、少し遅かった。せめてわたしの右乳
房を貫く前に、彼女をその気にさせないと…。
ミカゲの左腕も力を失って透き通っていた。
それは尚ミカゲ本体を危うくはしないけど。
少し力を込め直せば、すぐ元に復するけど。
その少しの時間、ミカゲは両手が使えない。
ここ迄弱ったわたしに、止めを刺せない…。
普段感情的にならない者は、一度感情に揺さぶられると却って御し難いのか。ミカゲは
姉の叱声への反発とわたしの挑発で、その手を二本とも暫く使えなくされていた。負った
打撃は甚大だけど、生命の危機に瀕したけど、逆に心臓への致命傷は、暫く回避できた訳
で。
「ミカゲ、この、ばかっ……」「……」
時が稼げたと言っても本当に少しだ。その代償に、わたしはかなり深手を負った。無理
が祟ったノゾミも足の先が透けてきているけど、状況は流動的だ。そんな中、関知の力が、
「ミカゲ、この魂の気配は、まさか……?」
「はい、姉さま。これは主さまの依代です」
「白花、ちゃん……?」
わたしが深い傷を与えた白花ちゃん。心乱れた侭烏月さんとの戦いを強いられた白花ち
ゃん。優しく強い故に、苦しみの多い白花ちゃん。守りたかったのに、助けたかったのに、
傷つける一方だった白花ちゃん。彼がここに。
ノゾミ達が再会を待ちこがれているのは十年前に解き放った主だけど、ここに来るのは、
「「主さま……!」」
姉妹の鬼の喜びを醒ます様に冷たい声は、
「君達か……ここで、出会う事になるとは」
月光の照す公園に、細身でしなやかな姿は滑る様に足音もなく顕れた。主の分霊を内に
宿らせつつ、人の心を強く込めた気配と共に。
白花ちゃんはわたしの視界ではミカゲの影で見えない。白花ちゃんからもミカゲが妨げ、
わたしは見えてない。わたしの気配は既に希薄で、ミカゲの気配に紛れて察知も難しいか。
白花ちゃんは敵意と警戒が宿る視線と動きで、
「僕は君達2人を、あの鏡の行方を追ってここに来たんだ」
ミカゲにゆっくりと近づいていく。ミカゲの両腕に、漸く濃い存在感が戻り始めてきた。
わたしは透け掛る自身を必死に保ち、機を窺い続ける。声を発するタイミングにも注意
しないと、白花ちゃんを混乱させる。わたしがここにいる事を、どの時点で彼に報せよう。
「主さまが、わたしを追って……?」
ノゾミが頬を赤らめて出す声にも、
「その存在を……、消し去る為にっ」
白花ちゃんの声は冷たく突き放す。
「主さま、お戯れが過ぎるのではなくて?」
目前のミカゲが気になるので、気配を掴むだけに止め、白花ちゃんはノゾミに声で答え、
「残念ながら僕は君たちの主じゃない。むしろ君たちの敵方にいる者だよ」
ミカゲが白花ちゃんに敵意を感じ問い直す。
「鬼なのに?」「鬼でもさ!」
それにしても、僕が鏡の所在を掴んだその晩に、郷土資料館から盗まれるなんてね。
「主さまが迎えに来て下さらないからですわ。……一部なりと魂を解放してさしあげてか
ら、長い時間が過ぎたのに。鬼切りの手に掛ったその時から、長い時間が経っているのに
…」
姉鬼が瞬時遠い目線を見せるのに、妹鬼も、
「目覚めた時は瑠璃の箱の中」
「途方に暮れていた処、私たちを熱心に訪ねてくる殿方がおりましたの。余りにも足繁く
通って下さるものだから……」
「縁の糸を繰り糸にして」
「連れ出して貰いましたの。それから次の傀儡を見つけた処で、ご馳走して頂きました」
ノゾミはピンクの舌をちらつかせて、
「贄の血程では、ありませんでしたけど…」
「久方ぶりの血でしたから」
「乾いた時の一滴は、何にも勝るとお分りでしょう?」
「……分りたくはないね。僕は一日早くこの地に来て、鏡を叩き割っておくべきだった」
「あら……。主さまは、怖い事を仰るのね」
「言っただろう、僕は君たちの主じゃない」
否定され続け鬼の姉妹は漸く疑念の声を、
「では、あなたは誰? あなたの名前は?」
「あなたの真名は? 言霊は?」
「僕は……」
「あなたは?」
「僕はケイだ」
一瞬詰まった言葉を、強い言葉と強い眼差しで、白花ちゃんははっきりと口にする。
「これは僕の為に考えられた言霊。そして僕がケイである限りお前達の主は沈んだ侭だ」
「……そうなの、面白くないの」「本当に」
なら、面白くしましょう。
ミカゲは赤い紐の縛りを尚強くして、わたしの現身から右手首を切り落し、抑えた悲鳴
が届くより早く、白花ちゃんの前に放り捨て、
「十年前に主さまを再び封じた継ぎ手です」
それが誰の手首かを知った瞬間、白花ちゃんは心の中まで、怒りに染め尽くされていた。
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既に力を失い掛けていたわたしの右手首は、切り離されると見る間に透き通って形を失
い、夜の闇に消えて行った。最初からそこには何もなかったかの様に、血の跡さえも残せ
ずに。わたしももうすぐあの様に消えてなくなる…。
「白花ちゃん……! わたしは……」
まだ生きている、と迄は言えなかったけど、声は届いた。ミカゲは白花ちゃんを怒らせ
て、怒りに我を忘れさせ、主の分霊を出させようと目論んだのか。わたしはそれを妨げた。
わたしの動きを抑えきれなかったのは、ノゾミももう限界に近い為で、ミカゲは白花ちゃ
んの対峙に多くの注意を裂かねばならない為で。
「……どけッ!」
白花ちゃんは青い力を込めた拳を振るう事でミカゲをどかせる。ミカゲは退かせる為の
一撃・牽制と分って、むしろわたしの惨状を見せた方がよいと言う判断でか、飛びさする。
瞬間白花ちゃんが凍り付いた。その心迄も。
見られて綺麗な状態とは言えなかったけど。
今日は、白花ちゃんの心を痛めてばかりだ。
本当に、優しい人程辛い想いをするのかも。
「わたしに気を遣わず、鬼を、滅ぼして…」
夜でも煌々たる月光の元、わたしの惨状は白花ちゃんにも分った様だ。人質になる愚は
犯さない。鬼の姉妹がそれを目論んだ際には、この現身を全て力に代えて自爆する。
その機を見定めつつもわたしは、白花ちゃんの理性を保とうと声を届かせる。何より大
切な白花ちゃんに、白花ちゃんでいて貰いたいと。肺は動いてくれないけど、喉は血に詰
まっているけど、現身は消え掛っているけど。
「ゆーねぇ、そんな、まさか、なんて……」
白花ちゃんは必死に自身を抑えていた。怒りに身を任せてしまう事を嫌い己に枷を填め、
自分の制御に置こうと、拳を強く握りしめて、
「……僕は今、本当に腹を立てているんだよ。
僕が一日遅かったばかりにこんな事になるなんて、自分の不甲斐なさに我慢が出来なく
なる。だけどそれ以上に、君たちに対してだ。
僕がどれだけの物を君たちに……君たちと主に奪われてきたか、分るかい?」
敵意より、殺意の籠もる足音が踏み出した。
「君たちは逃がさない。過去の過ちを繰り返さない為にも、封じるのではなく滅却する」
「っ、主さまぁ」
ノゾミがその怒気に思わずため息を漏らす。ノゾミには白花ちゃんはあくまでも主であ
り、主に怒られる錯覚を憶えた様だ。更に言えば、触れて初めて分ったのだけど、ノゾミ
は怒りでさえ主に反応して貰う事を喜びとしている。絶え間なく関り続けなければ、反応
して貰えなければいられない、歌い続ける小鳥の様な。
「いいえ、来る」
ミカゲの瞳から発する金色の光に心臓を射貫かれ、白花ちゃんは崩れる様に膝をついた。
「くっ……まさか……本当に来たのか……」
抑え切れてない。白花ちゃんがわたしの為に、わたしを想う故に怒りに呑み込まれかけ
ている。囚われている。己を見失っては駄目。己の願いを、一番の想いを見つめ返して。
立ち返って、取り戻して。あなたは白花ちゃん。
十年前のあの過ちを、繰り返しては駄目っ。
「今のあなたは鬼だった。鬼では主さまは抑えきれない」
白花ちゃんの中で、渦を巻く何かが大きくなっていき、白花ちゃんが隅に押しやられる。
染め尽くされまいと、白花ちゃんの意識が必死に押し返しているけど、両者は伯仲して…。
「ぐっ……はっ……」
締め付けられる胸を抑え、息と一緒に内側にある黒い何かを吐き出そうとする。乱れた
呼吸を整えようとする。ゆっくり、深く……。
でも、その間をミカゲは許さない。必死に己を保とうとする白花ちゃんに衝撃を与え分
霊を再度活性化させようと、一歩踏み出して、
「危ない、白花ちゃん!」
白花ちゃんは内なる鬼との戦いで外に気を向けられない。防げない、躱せない。ミカゲ
は白花ちゃんが気絶するか痛みに我を失えば分霊への支援になると、遠慮ない一撃を加え
る気だ。わたしの現身は尚ノゾミに囚われている。妨げる術も届かせる力も、残ってない。
間に合わない。ノゾミを振り解くのが、白花ちゃんを助けるのが、わたしの大切な人が。
その時だった。
ベキィッ! ミカゲの華奢な現身を、叩き折る程の勢いで殴りつけたその腕は、蝶に導
かれて漸く辿り着いたサクヤさんの物だった。
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「大丈夫かい、白花、柚明!」
予測外の打撃に、かなり吹き飛ばされて漸く地に転がったミカゲが起き上がる。それに
尚警戒を払いつつ、わたしと白花ちゃんの様子を気にかけるサクヤさんに、わたしたちは、
「白花ちゃんを、守って」
「ゆーねぇを助けてくれ」
お互いに、自分を後回しにと頼んでいた。
「……互いに少しは保ちそうだね。速攻でミカゲを始末するから、少し待ってておくれ」
サクヤさんは肉を持つのでミカゲに相性が良い。邪視や呪縛は余り効かないし、赤い紐
もサクヤさんが速攻に出れば展開の暇もない。
「あんたがミカゲかい。ノゾミの妹って聞いたけど……気に入らない臭いをしているね」
蛇の臭いだ。それも、大嫌いなあの蛇の。
「挨拶もまだだけど、逝ってもらうよっ!」
形勢は逆転した。白花ちゃんは夜で力を増した主の分霊を抑えるのに手一杯で尚動けな
いけど、サクヤさんは一対一でもミカゲに打撃を与え、優位に戦いを進め。わたしもノゾ
ミの呪縛だけになり状況は好転した。徐々に呪縛を押し返し、ノゾミに消耗を強いている。
太股まで透けたノゾミは今や、その呪縛だけが生命綱だ。断ち切られた瞬間、ノゾミは…。
「観月の不出来な子、待ちなさい」
劣勢を感じたのはミカゲだけではない。わたしを尚抑え続けるノゾミも、サクヤさんに、
「大人しくしないと、継ぎ手がどうなるか」
瞬間サクヤさんの動きが止まるのに、
「サクヤさん、大丈夫。今のノゾミなら、力をぶつけ合えば先に消えるのはノゾミの方」
動きを止め、ミカゲが赤い紐を巡らす間を稼ごうとしたのだろうけど、そうはさせない。
「継ぎ手、まだ、力を、残しているの…?」
それはわたしの身も削るけど、この状況で弱音は吐けない。サクヤさんや白花ちゃんの
足を引っ張る訳には。その呪縛を押し返すのに既に疲弊していたノゾミは耐えきれなくて、
「保たない……ミカゲッ!」
ノゾミは力を振り絞って、
「逃げなさい。わたしはもう、間に合わない。現身が消え掛っている。それより、あなた
を。もう少し時を稼ぐから、あなただけでも…」
本当にノゾミも消滅に瀕していた。それでも尚わたしを呪縛する動きは止めず、むしろ
その生命ある限りしがみついて、張り付いて。
「あなたと相討ちなんて最悪だけど、この際文句言っていられない。早く、逃げなさい」
ミカゲが驚きに我を失うのは今宵何度目か。
「姉さま……」「逃がすか!」
ミカゲも既に消耗していた。サクヤさんの攻め手は凌ぐけど、力が足りず防ぎきれない。
受け止めても衝撃が身体に伝わって。サクヤさんは月の輝きと怒りを拳に乗せて威力を倍
加させ、防御の上からその身と力を削り取り。
「あの、ばかっ。逃げる隙を、みすみす…」
逃げる暇がない。攻め手への対応を半瞬誤れば拳や蹴りをもろに食らい、致命傷になる。
彼女も逃亡できない状況に追い込まれていた。
「ノゾミ、聞きなさい」
しがみつくのに精一杯の姉鬼に語りかける。
「今更何よ、継ぎ手。生命が惜しくなった?
助けてなんて言ったって、緩めないわよ」
憎まれ口にも余裕がない姉鬼にわたしは、否定も肯定もせず、唯静かに一つの提案を、
「ノゾミ。妹を連れてこの場を引きなさい」
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休戦の申し出に、ノゾミは言葉を失った。
状況はどう見ても鬼の姉妹に不利だった。
後数分押し続ければ姉鬼も妹鬼も力尽きる。そう見える故に、今の時点で優位な側から
の休戦の申し出自体が、ノゾミは俄に信じ難い様だ。しかも痛みと憎悪が充満する筈のわ
たしから。呑み込めない素の顔を見せる姉鬼に、
「追撃はしない。サクヤさんはわたしが止めるから、今宵はあなたたちもこの侭依代に」
あなた達も今宵はもう勝ちは望んでないでしょう。痛み分けという事で矛を収めなさい。
「……あなた、一体何を考えて?」
訝しげに問うけど、その間も互いに相手に及ぼす力は緩めない。苦しい息の中で、互い
に相手の限界を見つめ合って、天秤を揺らせ。戦いも話し合いも、全力で為さねば届かな
い。
「あなたも相討ちは望まないでしょう。ミカゲもサクヤさんから逃れるのは至難の業…」
白花ちゃんは尚主の分霊と戦い続けている。額に滲んだ汗が屈み込んだ頬から地に何滴
も落ちていた。こちらも予断を許さない。優勢だからと言って延々と戦える余裕はなかっ
た。
「あなたのたいせつな物は何? あなたの成し遂げたい事は何? あなたはここでわたし
と相討ちで消える事が千年の望みだったの? その生と死は誰の為に捧げるの? その存
在と想いは何の為にあるの?」
今ならミカゲはまだ大丈夫。あなたも、静かに歩けば依代迄、辿り着けるかも知れない。
「わたしは消滅を望まない。桂ちゃんと白花ちゃんを守らなければならないのに、一番た
いせつな人を守る為以外の事で、自身が消えるのは望まない。生命は惜しい。たった一つ
しかない、たいせつな人を守る為にこそ抛つ生命を、今ここで無駄に失う事が惜しい!」
わたしの言葉にノゾミは暫くの沈黙の後、
「……騙したりは、しないでしょうね?」
「わたし達の約定が破り難い物だという事は、あなたも承知の筈よ。わたしは自身を助け
る為にも言っているの。わたしは大切な人を守る為に、尚在り続けなければならないか
ら」
わたしを消せば主の封じは解ける。でも彼女達は、主と自由な日々を分ち合いたいのだ。
己を引き替えにし、己を滅ぼして悲願を果そうとは考えない。主が喜ぶ様を見つめる己が
なければ、誉めて貰える己がなければ、主と日々を共にする己がなければ、一体何の為の。
主の為に確かに役に立てたと分って欲しい、認めて欲しい、立ち会って自身の目で確か
め、喜びたい。喜びを共にしたい。分ち合いたい。故に、自身が消えてなくなるのは望ま
ない…。
「それにあなたよりむしろ妹が危ないわよ」
ミカゲはサクヤさんに押しまくられていた。吹き飛ばして逃げる暇を与える大振りは控
え、数多く打ち据えて削りつつ射程から放さない。下手をするとノゾミより先に消されそ
うだ…。
「不出来な妹の失敗の尻拭いは、姉の役目」
だったわよね。先程ノゾミが口に上らせた言葉を間近で囁く。あなたが今退く事を受け
容れれば、ミカゲも助かる。その促しに、敵からの休戦の申し出に、ノゾミは不快そうに、
「偽りだったら、唯じゃ済ませないわよ?」
それはわたしへの疑いと言うより、サクヤさんを確実に止めてという事だ。確実に約定
が為されるかを心配している。自身よりノゾミは妹の身を案じている。その惑いと不安に、
わたしは敵対の立場を越えて奇妙な共感を…。
「……互いに、妹には苦労させられる様ね」
ノゾミが口にした事はほぼわたしの想い。
でも彼女がそんな事をわたしに語るとは。
「その苦労こそが姉の楽しみであり幸せよ」
わたしの応えに、ノゾミははっとした顔を見せた。それがノゾミの心の中をも言い当て
ていた為だと、驚きに凍った顔に書いてある。世話の掛る子程可愛いとの諺は普遍の真実
か。
「あなたが桂を守るのに、身を惜しまない理由が少し分った気がする……」
勿論、次に逢う時はあなたを朱で消滅させ、桂の血は吸い尽くす。主さまは私達の手で
必ず解き放つ。手は緩めない。ミカゲは馬鹿だからあなたを苦しめる積りで、長らえさせ
た。
「その愚は冒さない。速やかに消し去るわ」
ノゾミの真の想いにわたしも真の想いで、
「あなたがあなたの想いに忠実である様に、わたしもわたしの想いに忠実であり続ける。
後は定めの導く侭、あなたもわたしも最期迄、互いの想いをぶつけ合う他にないでしょ
う」
相手の事情や立場を理解しても、尚譲れない物はある。押し通さねばならない事はある。
だからそこはわたしも絶対譲らない。相手が譲れない事も承知で。後は定めの導く侭に…。
「ノゾミ!」「サクヤさん!」
わたし達は同時に互いを削ろうとする蒼と朱の力を収束させ、身体を離し、肩を並べて
戦いを続ける2人に強く呼びかけた。今宵だけの休戦を、向うの2人の間にも及ぼす為に。
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ミカゲも現身を保つ限界に達しつつあった。もう少し攻め続ければ、本当にサクヤさん
は妹鬼を倒せただろう。それだけに残念そうだったけど、わたしとノゾミが仮にでも手を
携えた様を見て、諦めて力を抜き従ってくれた。
それでも、ノゾミに較べれば状況はましか。ミカゲなら『跳んで』依代に帰り着く事も
できたけど、ノゾミは静かに歩いても尚危うい。
ミカゲとサクヤさんが互いを警戒しつつこちらに歩み寄ってくる。わたしもノゾミも立
ち上がる余力が無く、身を起すのが精一杯なので、ミカゲは姉に歩み寄って、抱き上げる。
ノゾミは、足が太股の下は殆ど透けて消失し、腕も肘の先は月光に照されても見えなくな
り。左脇を抱えられ、ミカゲに漸く掴まっていた。
その疲弊度合いは、わたしと良い勝負かも。
「礼は言わないわよ、ハシラの継ぎ手。この休戦は、あなたの生命をも繋いだのだから」
ノゾミの憎まれ口にわたしは平静な声で、
「ええ、構わないわ」
返礼は求めない。返される想いを期待しないのがわたしの生き方だ。わたしはわたしの
想いの侭に、必要だと想った事を為しただけ。
わたしの答に、ノゾミは尚何か言いたそうな表情だったけど、己を抑える感じで黙して、
「行きましょう、ミカゲ」「はい、姉さま」
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サクヤさんが2人の歩み去る姿を、ミカゲが上半身だけのノゾミを抱えて歩み行く姿を、
わたしの間近に立って警戒心を隠さず見送る。わたしも精一杯の強がりで座った侭見送っ
て、視界から消えた途端に背後にひっくり返った。
白花ちゃんが気になったけど、もう限界だ。
「柚明あんた、酷い。こんな状態になって」
感応の力の低いサクヤさんは、間近に歩み寄って初めて衣の下から染める朱に目が届き、
わたしの実情に気付いた様だ。現身を保てない程力が薄れている事は感じていた様だけど。
「わたしの本質は霊体だから大丈夫。肉を保つ身なら致命傷だったかも知れないけど…」
苦痛に我を失わない限り、己を強く保つ限り修復は為せる。問題は、その源になる力の
方が大部分破壊された事だ。サクヤさんを導いた蝶を現身に吸収するけど、焼け石に水か。
幾らも回復の力を生み出せない。出血が減って体温が下がり始めるのは、現身がその形
を失う前兆だ。もう人の身体の偽物としても機能しなくなりつつある。折角桂ちゃんの血
を貰ったのに、結局消滅が少し延びただけか。
主を、甦らせる訳にはいかないのだけど。
「治るから大丈夫って問題じゃないだろう」
痛いじゃないか。苦しいじゃないか。見ているだけで、こっちの胸が締め付けられるじ
ゃないか。あいつら、幾ら敵でも女の子にここ迄酷いことするのかい。身体の傷は癒せた
って、あんたの心には深い傷が残るだろうに。
正にミカゲの目論見はそれだったのだろう。
わたしは正にそれを受けてはね退けたけど。
「やっぱり奴ら、生かして返すべきじゃ…」
まだ鬼の姉妹はそう遠くない。追いかけていって止めを刺すべきか。瞳が怒りに燃えて
いるサクヤさんをわたしは静かに声で制した。
「これで良かったの。主の影響を受けた鬼が近くにいると、特にミカゲが近いと白花ちゃ
んが悪い影響を受けます。白花ちゃんと言うより、その内の主の分霊が活性化される…」
夜と言うだけじゃない。主に近いだけじゃない。ミカゲに肌の内まで貫かれてわたしも
分ったの。主の分霊とミカゲは連動している。深く繋っている。近くにいさせてはならな
い。
喉から血が、もう一度溢れ出る。
「あんた、無理しすぎなんだよ!」
あたしの気持にもなっておくれよ。こんな状況を、桂にどうやって伝えれば良いんだい。
その問にはわたしは首を左右に振るだけだ。伝える必要はない。わたしは桂ちゃんに苦
労を分って欲しい訳でもないし、尽くしたと認めて欲しい訳でもない。桂ちゃんが守られ
た事も知らず安穏に日々を過すならそれも良い。守るのが必須なのであって、守ったと知
って貰う事は必須でも何でもない。そうでしょう。
「あんた、いつもそうやって、いつも」
こんな痛み迄負って。こんな、酷い。
思いが詰まりすぎて、言葉が詰まる。
「わたしは大丈夫です……サクヤさん」
封じの中で主相手に慣れっこになっていますから、とは言えなかった。それを言う事は
彼女の更なる悲嘆と怒りを招く。手が届かぬ事への情けなさと悔恨を増す。敢て触れない。
サクヤさんがわたしに触れられないでいる。血に塗れたわたしに触れたら、サクヤさん
が汚れてしまうからそれは良いのだけど、触れる事も憚る深手に見える事は、良くなかっ
た。サクヤさんにいらない心配をかけてしまう…。
「桂ちゃんを守る為の時間稼ぎだと想えば、サクヤさんが来る迄の時間稼ぎだと想えば」
必ず来てくれると思っていました。この状況になると想って放った蝶ではなかったけど。
微笑みかけた積りだった。右手首はミカゲの赤い紐で断ち切られている為、左手を伸ば
してサクヤさんに触れようとする。するけど、もう筋肉が幾らも反応を返してくれなかっ
た。
「ごめん。ごめんよ、柚明。また間に合わなかった。また必要な時に守ってやれなかった。
何度も何度も繰り返しているのに、あたしはまた大切な人が危うい時に守ってやる事が」
大粒の涙が血塗れの衣に落ちる。ああ、こんなに透明で綺麗な雫が、わたしの血に汚れ
た和服の上に落ちる。勿体ない。月光を凝縮したより美しい、サクヤさんの想いの結晶が。
「折角蝶を放ってくれたのに、あたしを頼ってくれたのに……何にもしてやれなかった」
「間に合って、くれましたよ。有り難う…」
サクヤさんは、わたしが深手を負った事を言っているのか。それとも、わたしが消えゆ
く事を指しているのか。でも、わたしの答は、
「白花ちゃんも、助かった様ですし」
漸く白花ちゃんの呼吸が、落ち着いてきた。ミカゲが遠ざかった為か主を押し戻せた様
だ。全身の気力と体力を使うので、疲労と緊張が抜けるのに少し時間は掛るけどもう大丈
夫だ。
「あんた、こんな時に迄人の事なんかを…」
「サクヤさん」
強く窘める声に、サクヤさんが叱られた桂ちゃんの様な顔を見せる。何を間違えたのか
は、指摘した瞬間に分っていますという顔だ。
「あんたは大切な人が常に最優先だったね」
はい。わたしは声を柔らかに戻して頷き、
「わたしは、守りに役立てる事が幸せです」
負う痛みも苦しみも、全てが幸せの一部。
「でもあんた、姿が、透けて」
白花ちゃんの安心を感じて気が抜けた為か。意識がふっと遠ざかる。肉を持たず想いだ
けのわたしにとって、想いの途絶とは消滅を…。
「駄目だ、ゆーねぇ、絶対に死なせない!」
力強い声がわたしを現に引きずり戻した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
なぜか月明りもなく視界は真っ暗だった。
「白花、頼む。何とか柚明を助けておくれ」
「分っている。分っているさ。絶対にゆーねぇを、僕の前で死なせはしない」
サクヤさんの腕とは違う、細いけどしっかりした男の子の腕が、わたしの現身に触れる。
「白花、ちゃん……?」
視界は真っ暗な侭だ。煌々たる月明りはある筈なのに、公園は照明も幾つかあったのに、
少し前迄はサクヤさんの姿も見えていたのに。声も遠い。身体の感触も何か軽くて、気配
も。
「少し待って。今、贄の血を」「だめっ!」
白花ちゃんの声に、気力を振り絞って拒む。
「わたしはもう贄の血は飲まない。人の血は、飲まない。飲んじゃ駄目、絶対に……」
闇に沈み込む己を引っ張り戻す。この侭では生きたい想いから身体が血を求めてしまう。
差し出される血を受け取ってしまう。それは駄目っ。もうこれ以上、わたしが生き延びる
為にたいせつな人を傷つけるのは。
「柚明、あんた……」
「わたしはサクヤさんとは違う。現身を保つ為に、守り戦う為に、血を必要としてしまう。
ないと保てない。でもその為に、守りたい人が傷ついて生命を削られ、死に歩んでいく」
漸く瞳を開く事を思い出す。微かに開けた視界には、沈痛な面持ちのサクヤさんと、白
花ちゃんが間近に見えた。
「ゆーねぇ、早く飲まないと、身体が……」
切り裂いた右の手のひらの傷口を差し出し、白花ちゃんが飲んで欲しいと言う。頬にか
かるたいせつな人の鮮血を、わたしは喉から手が出る程求めていた。生きたいと、身体中
が渇仰していた。大切な人を傷つけたその成果を欲して堪らなかった。哀しい迄に欲深い
…。
わたしはそこ迄して生き延びたがっている。大切な人を傷つけて迄、大切な人の生命を
削って迄、生き延びて欲しい人の生命を喰らって迄、わたしは生き延びたいと、欲してい
た。
何という浅ましい。呪わしい。これ程身を苛む瞬間は初めてだった。ミカゲに胸を潰さ
れても、主に身体を引き裂かれても、こんな絶望は抱かなかった。己が己に背信している。
たいせつな人の為に、自身の何もかもを抛てると信じていたわたしが、捧げられると想
っていたわたしが、差し出せる筈だったわたしが、その人を傷つけ、その生命を欲すとは。
そんな酷い真実を見せられるなんて。わたしが今ここにいる事が悔しい。この生命を保
つ事が禍の根源だった。わたしの存在自体が罪であり禍であり、たいせつな人の仇だった。
飲まなくても、肌に触れるだけでも、極端な話近くにいるだけでも贄の血は鬼に力を与
えてくれる。飲んだ時程ではないけど、白花ちゃんの尋常ではない程濃い贄の血が、わた
しの意識を闇から引き戻したのだ。わたしが意識を戻したのは、己の想いの所為ではない。
「わたしは、大切な人を傷つけないと己を保てない。大切な人の生命を削らないと存在で
きない。大切な人を、守りたかった筈の人を、害する事でしか自身を保つ事もできない
…」
わたしがいる事自体が災厄になる。
わたしがある事自体が負荷になる。
「わたしは桂ちゃんの血を受けてしまった」
望んで差し出されたとはいえ、その血を啜って力に変えた。己に受けて生命を繋いだ。
わたしは桂ちゃんの身体に害になる事を為してしまった。その害になる存在に堕ちていた。
わたしは正に、悪鬼だった。その上で、その上で尚白花ちゃんの血迄飲むと? 啜ると?
本当にわたしが誰の為にあるか忘れそうで怖い。生きる為に血を啜る鬼になりそうで怖
い。血を飲む事でわたしがわたしを失っていく気がして怖い。大切な人も分らなくなって
しまうかも知れない、己の変質が心から怖い。
「今はあんたが危ないんだ。白花だって納得している。百も承知なんだ。あたしも、白花
も桂も、あんたに消えて欲しくないんだよ」
それは血を飲む前の、羽藤柚明への想いだ。血を飲む鬼となったユメイへの想いではな
い。血で力を得て変質するわたしへの想いでは…。
「血を飲む事で、わたしがわたしでなくなるとしても、ですか……?」
サクヤさんは、そんなわたしの問い返しに、
「あんたはどんなに姿やあり方が変ってもあんただ。あたしの二番目に大切な柚明だよ」
「ゆーねぇは、僕にはいつ迄経ってもゆーねぇだから。鬼になっても、人の身を失っても、
どんなに変り果てようとも」
そこ迄言ってくれる。そこ迄受け止めてくれる大切な人達。わたしはこの大切な人達を、
その生命と健康を削って生き延びようとして。罪深い。わたしは生命がある事が既に罪深
い。
その血は飲まないと固く決意した筈なのに。
その人の害にだけはなりたくなかったのに。
その人を傷つける事だけは、嫌だったのに。
その人が今目の前で、わたしに取り縋って、
「ゆーねぇ、頼むから僕の血を飲んでくれ」
一度で良い。今生命を繋ぐ為だけで良い。
僕の一番はゆーねぇなんだ。僕に助けさせてくれ。僕にその生命を繋がせて欲しいんだ。
主の封じが解けるという以上に、桂の守りがなくなるという以上に、僕はゆーねぇに生
きていて貰いたいんだ。ゆーねぇの幸せはもう望めない。僕が与えたかった幸せは、僕の
手では与えられなくなった。でも、それでも。
「生きていてくれるだけで良い。
そこにいてくれるだけで良い。
僕の唯一の願いなんだ。最期の望みなんだ。
僕の為に、ゆーねぇを愛する僕の為に、生きて貰いたい。悪鬼でも良い。血を啜る鬼で
も良い。人に害を為しても罪深くても構わない。僕の生命が必要なら全部あげるから!」
その罪は全部僕の血が受け止めるから!
「苦しみばかりの生命を繋がせるのかも知れない。哀しみの多い生を、縛られたハシラの
継ぎ手の余命を強いるだけかも知れないけど、この僕の為に。僕の為に死なないでく
れ!」
昼の事も全部受け容れる。それがゆーねぇの心からの望みなら、それも受け止めるから。
白花ちゃんはサクヤさんに具体的な内容を報せぬ様に努めつつ、わたしと主の関り迄を
受け容れると。飲めない物も飲み込むからと。
心に無理を強いる様が、痛々しい。果してわたしに、白花ちゃんにそこ迄させる値があ
るだろうか。幼い日々を過しただけで、そこ迄苦痛や困難を与えたわたしに。わたしは彼
を、過去や想い出に縛り付けているのでは…。
「だからゆーねぇも、今回だけで良い、これを飲んで。お願いだから、白花の心からのお
願いだから、これで自身を取り戻して。僕のゆーねぇを、僕の前から失わせないで!」
「白花ちゃんの、願い……」
十年前のあの夜、最後の願いを叶えてあげられなかったわたしに、白花ちゃんの願いが
もう一度、巡ってきた。鬼を取ってあげる事ができなかったわたしの前に、今度は、
「せめて僕の為に、もう少し在り続けて!」
それが、白花ちゃんの真の想いなら……。
断れなかった。白花ちゃんの手のひらから流れる贄の血を口に受けて、わたしは悪鬼を
越え鬼畜になった。その苦味にそぐわない血の甘さは、わたしをどこへいざなうのだろう。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「白花ちゃん、ごめんなさい」
まだ足りないと血を注ごうとする細目な腕を無理に拒んで、拒む為に添えた腕からわた
しは、白花ちゃんのその切り傷を治しに掛る。啜る血はできるだけ少量で抑えたいわたし
と、安心できる迄注がないと納得しない白花ちゃんの綱引きは、このあたりに落ち着いた
けど。
有り難うではなく、ごめんなさいなのには理由がある。わたしが悪鬼を越え鬼畜になっ
たという理由もそこに。白花ちゃんはもうその余命が殆ど残ってない。わたしは彼の生命
の最後の残り火に、手を付けてしまったのだ。
「柚明……白花、それはどういう、まさか」
わたしはサクヤさんに首を振って答を返す。
主の分霊は恒常的に白花ちゃんの身体と魂に、生命に負担を強いている。元々二つの魂
が一つの生命に同居する事自体が無理なのだ。分霊は健康とか後の事とか考えない。乗り
潰すだけ乗り潰して後を考える位の感触でいる。
白花ちゃんは既に生命の前借りを何度となくして、酷い時には一日に何回も前借りを繰
り返して生気を補充し、裏返ろうとする主の分霊を抑えてきた。その負荷は確実に身を蝕
んでいる。内臓も血管も、千羽で憶えた自己保全や修復の力を越えて破壊され、まともに
食事で栄養を取れない状態になりつつあった。それで尚戦う力は残せているけど。尚鬼切
りの業を揮える力を残せている事は驚愕だけど。
強靱な意志の力で、未来から呼びつけた生気の前借りで、贄の血と千羽の修行で何とか
抑えてきたけど、もう限界に近い。白花ちゃんは分霊を抑え続けた代償に、短い生命を更
に縮めていた。もう、余命幾ばくもない迄に。
わたしの吸血は白花ちゃんの息の根に繋っている。その生命を終らせる方向に押し出し
ている。桂ちゃんの場合とも違う。白花ちゃんの血の一滴は、生命に直結した一滴なのだ。
「わたしは、その血を啜ってしまいました」
そうして力を得てしまいました。正に鬼畜。
もう伏せる意味もない。絶対血は口にしないと決めた想いを破ってしまった。わたしは
幾重にも業が深い。わたしはこの手で白花ちゃんの首を絞めたに等しい。白花ちゃんの身
を蝕むと分って尚、生命を縮めると知って尚、害するにも関らず、願いに応えてしまった
…。
そんなわたしを、柔らかな微笑みは静かに、
「分っているよ。でも、僕は余命が少ないからこそ、この生命を渡したかったんだ」
それでゆーねぇを哀しませたけど、それで罪を被せてしまったけど、それでも生き抜い
て欲しかったから。僕は消えても、ゆーねぇに消えて欲しくなかったから。せめて僕の生
命が、そう遠くない内に確実に消えるこの生命が、大切な人の存在を繋ぎ止められるなら。
「僕こそが、ごめんなんだ。僕のエゴで、僕の想いだけを押しつけて、罪も押しつけて、
哀しみも押しつけてしまったから。でも!」
それでも生き続けて欲しかった。許して。
生きる事さえ、在り続ける事さえ確かに幸せとは言えない今のゆーねぇを、僕は僕の気
持だけで生きる方向に、無理矢理押しつけた。
「僕の我が侭を、生涯最期の我が侭を。僕が我が侭を言える相手はもう、ゆーねぇかサク
ヤさんしかいないから。2人にはどんな形ででも、生き続けていて欲しいから」
サクヤさんがかける言葉を失い黙り込む。
「お互いに、どうにもならない者同士……」
わたしも白花ちゃんも、己の罪から逃れられず、罪を重ね償う術も無い侭に、己の定め
を進むしかない。途中下車は自身に許さない。尚守りたい者がある限り、尚大切な物を抱
く限り、尚暫くはその存在を続けねばならない。
その罰はいつか己が受けるけど。
その報いはいつか己に巡るけど。
「業を噛み締めて、尚暫くは在り続けねば」
わたしは悪鬼でも良い。鬼畜でも良い。元々、清く美しい生き方を目指した訳ではない。
桂ちゃんと白花ちゃん、一番たいせつな人の守りと幸せの為になら。二人が本心から望む
と言うのなら。わたしはどこ迄堕ちても良い。
ある限りの力と想いを、たいせつな人の守りと幸せに。叶う限りの全てを傾け。その人
から得た血も力も、最期はその人に還し行く。わたしには最期に何も残す必要はない。わ
たしには、過ぎ去った日々の想い出が在れば…。
切断された右手が形を取り戻した。胴に穿たれた二つの大穴が、血飛沫を上げつつ閉じ。
血が噴き出すのは、現身が人の偽物の機能を取り戻しつつある証拠だ。その朱に内から染
められた蒼い和服も、色合いと存在感を確かにして、鮮血の色を消して行く。
贄の血がわたしの魂も現身も満たしていく。急速な復調は尋常ではない程に濃い血の故
か。でも逆にわたしに生命を渡した人の顔色は…。
「白花ちゃん!」「白花、あんた」
白花ちゃんの姿勢が揺らいでいる。今の彼はぎりぎりの状態だ。僅かな出血もその均衡
を崩す。そんな中でわたしに血をくれたのだ。その意識が揺れている。体力が、尽きてい
る。
サクヤさんが白花ちゃんを、隣に寝かせる。今度はわたしが起き上がって、白花ちゃん
の心臓に手を当てて、癒しの力を流し込む。夜なのでわたしの力も強化されていた。全身
に回せば、主の分霊も出てこられない。出て来れば、その端から灼き尽くしていた。むし
ろ、白花ちゃんの魂と身体の奥深くに潜む分霊迄、この力が届いてくれれば灼く事もでき
るのに。
「白花、しっかりおし!」
白花ちゃんが微かな意識の籠もる瞳で、焦点の合わない侭遠くを見つめる。サクヤさん
が揺さぶるのに、気力の抜けた笑みを見せて、
「思い出したよ、この感覚」
こうやって、贄の血の力を注いで、擦り傷や切り傷を治してくれた事が、昔は何回も…。
わたしは頷いて、その右手を左手で握り、
「お転婆な桂ちゃんが危ない事をして、抑えようとしたり庇ったりして、大抵は白花ちゃ
んが怪我をしていたのよね」
虫に刺されたり、棘に刺さったり、木の幹で身をこすったり、石に躓いたり、転んだり。
「あんたも小さい頃から無理ばかりしてさ」
「桂が新しい冒険に行くのを僕も半分好んでいたんだ。次はどこに行くんだろう、何を見
つけるんだろうって。桂は本当に楽しそうに、面白い事を探し出しに、森に行ったり、麓
に出たり。僕も、止めたくなかったんだよ…」
止めなかった以上、楽しませてくれた以上、その尻拭いはしないと。妹の失敗の尻拭い
は、姉だけの役目じゃない。
サクヤさんは白花ちゃんの答に頷きつつ、
「どうなんだい、白花の状態は」
癒しの力を流し込み続けるわたしに問う。
「危険は脱しましたけど、良い状態とは…」
何と応えて良いのだろう。とっくに息絶えていておかしくない身体に、癒しの力を流し
込む。多少復し、多少癒し、状態が良くなっても、まだ普通の人で言えば死に近しいのに。
主の分霊に取り憑かれて拾年、千羽の技で生気の前借りを始めて5年か6年位だろうか。
その身体に殆ど余力はなく、未来に吸い上げの利く生気も殆ど残ってない。精神力で肉体
を保たせる極限迄、全てが使い込まれていた。
わたしの力が、砂漠に放ったコップの水の様に吸収され消える。それは白花ちゃんの身
を癒すけど、本当に焼け石に水だった。幾ら注いでも破壊された内蔵の機能が回復しない。
治癒に向い始めても目に見えて効果が出ない。そこ迄疲弊と損傷が深い。届かせるには、
力を何日も何日も注ぎ続けないと。それでも尚、拾年分の損耗をどれだけ掛れば取り戻せ
るか。
とても肉体の奥に潜む主の分霊に、青い力を及ぼせる状況ではなかった。及ぼせても尚、
あれ程強大な分霊を封じるならともかく還す事は、限りなく難しい。白花ちゃんの身体の
中魂の中で成長と共に、分霊も力を得ていた。
「ゆーねぇ、無理をしないで」
無理をすれば、折角現身を取り戻したのに。
言いかける白花ちゃんに、これ以上の治癒は意味が薄いと身を起しかける白花ちゃんに、
「わたしの想いを受けて頂戴」
あなたの血を飲んで得た力を、返させて。
「それでわたしの罪が拭われる事はないけど。
鬼畜のわたしの本質が変りは、しないけど。
目の前にいるたいせつな人に、尽くしたい。
わたしの想いをたいせつな人に届かせたい。
守りたかったのに、助けたかったのに、何もできないで、傷つけるばかりだったたいせ
つな人。せめてその人の身を癒す位の事は」
身を起すのは止めないけど、その右手首を握り、贄の血の力を流し続ける。注ぎ続ける。
贄の血を得たわたしには、それを一晩中続けても苦になる程の疲弊はない。今夜はもう桂
ちゃんを襲う者はいない。残り全てを白花ちゃんに、その身に幸薄かった白花ちゃんに…。
サクヤさんがわたし達に気を遣って、桂ちゃんの様子を見てくるとの口実で場を外した
のは、それから間もなくの事だった。わたしは三人で朝迄居続ける積りで、いたのだけど。
「先達優先だよ。年齢だけならあたしの方が少し上だけど、白花と桂を一番に想い続けた
年数だけは、柚明の方が先だったからねぇ」
「少し、ですか……」
わたしの想いを白花ちゃんが口に出す。
「その代り、明日羽様の山で、会う事に」
サクヤさんはわたし達の苦笑を流して、
「あたしもあんたと積る話もあるし、今夜の事で気に掛った事が幾つかあるんだ。羽様の
山奥なら結界の人払いで余計な邪魔はないし、必要ならすぐオハシラ様に連絡が付く。あ
たしは漠然としか心が伝わらないからあれだけど、白花がいれば感度に問題はないだろ
う」
サクヤさんは封じの内側の事情を知らない。
白花ちゃんがどうかという顔でわたしを見るのは、わたしの事情を推察できる故だけど、
「わたしに問題はありません」「ゆーねぇ」
大丈夫よ。姿は顕わせないけど、桂ちゃんと白花ちゃんの為の話なら、わたしに問題は。
「わたしは一番たいせつな人が常に最優先」
白花ちゃんは無言で、降伏する感じでそれを了承した。羽様のご神木は、主とわたしが
交わる場だと、白花ちゃんは知ってしまった。本当は苦々しいのかも知れない。表情に出
し過ぎるとサクヤさんが不審を抱きかねないと、白花ちゃんは努めて平静を装い話を受け
流す。
「烏月さんが羽様に来るかも知れませんが」
できれば戦いを避けたい。その意味も込めて、彼女と鉢合わせたくないわたしの懸念に、
「さて、それは五分五分かねぇ」
サクヤさんは首を捻って、考え込みつつ、
「日中に羽様で烏月と会ったのは確かだけど、その後白花は商店街でも烏月と会っている
んだろう。それ以降ずっとこっち側の丘陵地帯や町外れで鬼ごっこしていた。どっちに白
花がいると烏月が考えるかは、烏月次第さね」
桂の守りを万全にとか唆して張り付かせたい処だね。ご神木間近の結界は鬼を阻むと烏
月も知っている。間近迄先に入り込んでいれば烏月はあんた周辺を確かめに来ないだろう。
「もう少し信頼関係を築ければ、白花ちゃんとの仲を取り持つ事もできるかも」
「それは難しいよ。あいつは、石頭だから」
石頭かどうかは別として難しいのは確かそうなので、わたしもそれ以上食い下がらない。
「じゃあ明日午前中、羽様のご神木の前で」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ご神木の間近の方が治癒の力は強まるけど、白花ちゃんが嫌う顔が予期できたので勧め
なかった。嫌うのはご神木というより、中に潜む主だけど。それに夜は彼に宿る主の分霊
も力を増す。結界の中迄招き入れ、その後で裏返ったら大変と、きっと白花ちゃんは考え
る。
ご神木を何周りか小さくした様な公園中央の大木を背に、わたしが寄り掛って座り込み、
その膝枕に白花ちゃんの頭を乗せて、その身体を撫でつつ贄の血の力を全身に浸透させて。
朝迄の間だけでも、彼に力を与えたい。疲弊した彼の身体と心に、安らぎをと休息を……。
「サクヤさんは僕を捜して旅館を外したんだ。桂が呪符を貼って結界を作った事を確認し
て、烏月の帰りが遅いと外に様子を見に出た処で、僕の出血の臭いに気付いてしまったら
しい」
僕も烏月を躱す為に商店街迄来たんだけど、そこでも彼女と遭遇するとは。商店街に目
を向けない子だったからね。桂を伴っている事は考慮の外だった。掠り傷だけど、流した
贄の血がサクヤさんの鋭すぎる鼻に引っ掛って。
「僕は正直今日一日中、自身を抑えるのに精一杯だったから。烏月に気取られない様に気
配を隠すのにも失敗したし、裏返ろうとする主の分霊を抑え付けるのに、かなり掛って」
その上掠り傷を負って、臭いでサクヤさん迄引っ張ってしまった。桂の守りを、僕は引
きはがす役になって。そのお陰で、ゆーねぇを危ない目に何度も遭わせた。その身が消え
かねない程に消耗したのは、僕の所為なんだ。
「そうじゃないわ。そうじゃない」
自身の失策が招いた危機だと、拳を握りしめて己を断罪する白花ちゃんの、頬に触れて、
「わたしが、白花ちゃんの心を騒がせてしまったから。もっと早くに、あなたには伝えて
おくべきだったの。わたしと主の関係を…」
白花ちゃんは記憶を繋いでいるのだから。
白花ちゃんは手を触れればご神木に感応できると、分っていたのだから。
白花ちゃんがわたしに話しかけに来るのは、当然考えて置くべきだった。せめて昨日来
た時にでも、話せておけたなら。
「わたしが逃げていたから。現実に向き合う事を怖れていたから。棚上げし続けたから」
ごめんなさい。それであなたの心に傷を刻んでしまった。一番たいせつな人だったのに。
一番傷つけたくない人だったのに、わたしは。
「ゆーねぇ、自分を責めないで」
泣かなくても、哀しんでいる心が見える。
涙を抑えて、自身を責めている心が分る。
僕は謝って欲しくてゆーねぇの元に帰ってきたんじゃない。その身を投げ出させる為に
ゆーねぇの元に帰ってきたんじゃない。僕が守りたくて、心の底から微笑んで貰いたくて、
ここに来たのに。だから、僕の感情なんか本当は脇に置いておくべき話だった。それを…。
「僕はつまらない自己愛で独占欲で、ゆーねぇの心を見もせず聞きもせず確かめもせず」
勝手に幸せの枠を作ってしまっていた。
僕が幸せにできると思い上がっていた。
「ゆーねぇだって女の子だ。と言うよりもう、女の人の歳だよね。肉を失っても、人の心
は身体から影響を受けている。性愛だってある。誰かと愛を紡ぎたくなって、当たり前だ
った。
ご神木を出られなければ、ゆーねぇと主しかいなければ、そうなって不思議ではないと、
分っておくべきだったのは、僕の方だった」
子供だったよ。幾ら修行を重ねても、鬼切りの奥義を会得しても、贄の血の力を修めて
も、子供が爆弾を持って騒ぐ様な物だったよ。分りきった話に向き合った瞬間我を失うと
は。
自嘲気味な苦い笑みが、青白く照される。
「僕が救いたいと想っていたのは偶像だった。本当のゆーねぇではなかった。救って喜ん
で欲しいと求め、この腕で助けて微笑みかけて欲しいと望んだ、僕の願望の偶像だった
…」
僕の助けなど、欲してないかも知れないと。僕に救われるなど望んでないかも知れない
と。露程も考えた事がなかった。心の内で思い描いたゆーねぇに喜ばれる姿だけ、抱いて
いた。僕が不要かも知れない等、想いもしなかった。
「白花ちゃん……」
僕がゆーねぇを一番に想っていても、ゆーねぇが僕を一番に想っていると限らないのに。
もっと大切な人がいても当たり前だったのに。
それを知らされるのが怖くて。
それを受け容れるのが辛くて。
僕は走って逃げた。自分と現実から逃げた。
「それが本当のゆーねぇをどれだけ傷つけるかも分らずに。一番たいせつな人を本当に傷
つけたのは実は自分だった。この僕だった」
それを謝らないと。どうしても謝らないと。
その想いを伝えられない侭消えられるのだけは嫌だった。ご神木から最期に感じたあの
哀しみを、あれを抱いた侭消えるのは絶対に。
「結局僕は、僕の謝罪や想いを届かせたいだけで、ゆーねぇの意志を踏み躙って、その身
を生き長らえさせた。その哀しみを、積み重ねさせてしまった。きっと僕の見てない所で
ゆーねぇはまた涙を流す。僕はそれを止める術もないどころか、逆にその罪を重ねさせ」
ごめんなさい。本当に、ごめんなさいっ。
僕の想いだけで、僕の気持だけで、ゆーねぇがどう想っているかも考えないで、僕は…。
「ゆーねぇの幸せだけが、望みだったのに」
その想いが、例えようもなく尊くて美しい。
その深く強い想いは、わたしに勿体ない程。
わたしに身を預ける男の子の額に左手を置いて、その心を過ぎる哀しみを癒す力を注ぐ。
生命と想いを重ね合わせ、その魂に力を注ぐ。
「有り難う、白花ちゃん……嬉しい」
わたしは、どんなに変り果ててもあなたと桂ちゃんが一番だから。わたしの一番たいせ
つな人は、常にあなた達だから。わたしは誰と交わっても、誰に奪われても、愛し愛され
ても、あなたと桂ちゃんの幸せを一番に想う。
あなたが、わたしの太陽だから。
あなたが、わたしの生きる値で目的だから。
わたしの全てを抛って守りたい幸せだから。
「……主とは、色々あったわ」
それが白花ちゃんを傷つけたのも事実。他に術がないという以上に、主の求めをわたし
も受けて応えていた。応えたく想ってしまった。それもわたしの心からの想い。主は敵だ
けど、絶対解き放てない鬼神だけど、それでもわたしにはとても哀しい存在で、真っ直ぐ
な心の持ち主で、不器用だけど憎めなかった。
「サクヤさんには、絶対伝えられないけど」
主もわたしのたいせつな人。でも一番ではない。幾度身体を重ねても、何年想いを交わ
しても、わたしの一番は常にあなたたちなの。最期に何も残らなくても、何も残せなくて
も。
だから許してとは望まないけど。
だから認めてとも求めないけど。
わたしの一番は、白花ちゃんと桂ちゃん。
千年万年、未来永劫、天地の終りのその果て迄、わたしにはあなた達だけが必須。白花
ちゃんと桂ちゃんの、幸せと守りの為になら。
「わたしは久遠長久に封じのハシラに身を捧げても悔いはないし、その封じを捨ててこの
想いが消滅する事にも悔いはない。生きても死んでも、あなた達の為だけにわたしはあっ
たと、それこそがわたしの幸せだったと…」
その必要の為なら、あなた達の血も飲む。
もう迷いは突き抜けた。後は進むだけだ。
一線は踏み越えた。賽は再び投げられた。
わたしは白花ちゃんの血も飲んでしまった。
残り少ない生命を繋ぐ貴重な血を、その身を害して飲んで己を生き長らえさせた。誰の
願いだったとしても、誰の望みだったとしても、わたしの行為が鬼畜である事に違いない。
今のわたしは人の血を飲んで力を得る鬼だ。
今のわたしは贄の血を力に変えて揮う鬼だ。
わたしの存在は間違いなく桂ちゃんと白花ちゃんの負荷になる。鬼は人に災厄を及ぼす。
わたしはご神木の中で主を抱き留めるだけの存在でいるべきだ。現身さえ取らなければ、
外に意志を及ぼさなければ、誰にも害を与えずに済む。それが、封じの要の本来の役割だ。
今のわたしは異常事態。まともな状態でいられず、変質を続けていくのは当たり前だった。
白花ちゃんや桂ちゃんに接し続けるのは、わたしの本来のあり方ではない。嬉しいけど、
心を震わせる程嬉しいけど、涙が止まらない程嬉しいけど、これは今のわたしの本来では
ない。目先の感情に、押し流されかけていた。だから、自身の行く先が確かに視えなかっ
た。
視たくなかったから視えなかったのだ。
見通す覚悟が出来れば全てが見通せる。
わたしが何を為すべきか、為せるかを。
できるだけ早く事を解決し本来のあり方に戻る。ご神木に宿るだけの存在に戻る。たい
せつな人の為にもそれがわたしの最善だった。2人が偶々ここに来ているから、わたしも
諸々の変転に、その場凌ぎに応対してきたけど。
2人の守りが第一優先と分った上で。
本来の封じの要のあり方に早く戻る。
桂ちゃんと白花ちゃんの危機を早く退けて、又は誰かに退けて貰って異常事態が速やか
に終る様に。わたしも速やかにハシラの継ぎ手に専念できる様に。主との日々に戻れる様
に。
未練に縛られていたのはわたしだった。
想いに不純物を混ぜてしまう処だった。
わたしの、一番たいせつな物は何か。
その為にわたしは何を為せば良いか。
血を啜る鬼で良い。親族の血を啜る悪鬼でも残り少ない生命を啜る鬼畜でも。その末に、
たいせつな人の危機を回避できてその人の笑顔を残せるなら。どんな称号で呼ばれようと。
わたしはたいせつな人から得た血も力も遠慮なく揮う。必要なら身を何度でも削り捧げる。
わたしの心のあり方に一番近いのは、実は主なのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
朝方迄わたしは白花ちゃんと公園に留まり、その身に青い力を流し込み続けた。それで
もまだ白花ちゃんの身体と心の損傷を癒すには足りなかったけど、改善の芽は掴めたと思
う。
主はご神木に戻り来たわたしの変遷を掴めた様だけど、精悍な笑みを浮べただけだった。
わたしの帰還を喜びつつ、そう見せたくない、そんな強がりが見て取れた。主は今回は日
の出とほぼ同時に性交に入った。それを受け止めつつ、主の想いにわたしも想いで返しつ
つ。
想いを重ね合わせる。生命を重ね合わせる。
日が高く上り始めた頃、サクヤさんの赤兎が桂ちゃんも乗せて羽様に着いた。昨夜の事
があったのに、日中でも桂ちゃんを出歩かせるとは。ご神木に触れたらきつく伝えないと。
サクヤさんは今日桂ちゃんを帰すと言っていた。そうなれば当面課題は白花ちゃんだけ。
集中できれば解決も早まる。最後という事で、拒みきれなかったのだろうか。少し寂しく
なるけど、そんな十年をわたしは過してきた…。
耐えられない訳ではない。桂ちゃんの今後は気に掛るけど、それはサクヤさんと烏月さ
んにお願いしよう。ここにいる事が危険を招くならその身を遠ざける事に異論はなかった。
白花ちゃんの身の上とノゾミ達さえ解決できれば、わたしは又主との日々に戻るだけだ。
十年は長かった様で、あっという間だった。この先の十年も二十年も、終ってしまえば
あっという間かも知れない。桂ちゃんが大人になって職を得て、良い人と巡り会えて結ば
れ、幸せな人生を過し、ここを思い出す事ない侭、ここに二度と巡り来る事ない侭、天寿
を迎え。そんな未来図もわたしの関知の内にはあった。
わたしは、その生を見る事も出来ないけど。
わたしは、その死を知る事も叶わないけど。
わたしは、その土台を終生支え続けるから。
ここで主を抱き留めて、過去を抱き留めて、あり続けるから。だから、幸せに。その未
来に、多くの出会いと微笑みがあります様に…。
サクヤさんは、最後にわたしに桂ちゃんを見せに来てくれたのかも知れない。戦いでも
なく、非常時でもなく、普通に日々を過す桂ちゃんを。逢いに行く事の叶わないわたしに、
もう二度と来ない可能性の高い桂ちゃんを…。
白花ちゃんも時を同じくして羽様に着いた。日の出頃から徒歩で来た様だ。相変らず朝
食も取らないけど、消化器を修復できておらず、食事を取れないので仕方ない。今晩その
辺を癒せば、白花ちゃんも食欲に目覚め直すかも。
白花ちゃんは獣道も関係なく羽様の山に入るので動きが直線的だ。茂みも岩も坂も崖も
彼を阻めない。身軽にご神木に近づいてくる。
対してサクヤさんは、桂ちゃんを伴っている為か、車を羽様の屋敷の前に停め、降りて
桂ちゃんと2人で何事か話し込んでいる。日中でも羽様迄来れば、意識の表層位は視える。
屋敷の前で桂ちゃんの耳目に入る情報は…。
「シッ!」
いきなり聞えたのはサクヤさんのやや緊迫した短い指図だった。静かにしろと。何が…。
桂ちゃんが急に立ち止まったサクヤさんの背中に、鼻をぶつけた。しかも勢いを弱めら
れないジャンプで。ううっ、はないひゃい…。
「静かに。何かいる」「ふえっ?」
思わず声を上げてしまってから、鼻を押さえていた手を口元まで引き下げる。
『何だろう。ずっと空き家だっなら、誰かが住みついていてのおかしくないけど……』
「すんっ……すんっ、すんっ」
『臭いを嗅ぐ音が、意外と大きく耳に届いて、これは大きさからして熊でも出たんじゃか
ないかと思ったら、何と発生源はサクヤさん』
鼻をひくつかせながら、ゆっくりと首を巡らせて、臭いの出所を探そうとしている。
そういえば鼻が利くって言っていたけど、耳を澄ました方がいいんじゃないかと思う。
『もちろんわたしの鼻では、草いきれの他の臭いなんて察知できない。ってゆーか、ぶつ
けた痛みがまだ残っている』
成果を得たのか諦めたのか、サクヤさんの動きが止まった。
「そこだ……−っ!」
静から動への切り替りは、陸上競技百メートル走のロケットスタートより早い、野生動
物の急加速だ。長い足を大きくスライドさせ、ざんざんと草を蹴立てて目線の先に直進す
る。
「うわあっ、こっち来た?」
まだまだ小さな子供といった感じの、女の子の声がして、向うの茂みががさがさ揺れた。
揺れた茂みから飛び出してきたのは、真っ白い毛並みの生き物だった。その生き物は、
薄(すすき)の穂を束ねたようなふさふさのしっぽをくねらせて、森の方へと走っていく。
『時折立ち止まっては振り返り、こちらの様子を窺い見ているので、素早い動きにも関ら
ず、いまだ視界の中にいる。前に見た子?』
「わ、狐だよ狐! ちっちゃくて可愛くて真っ白で、シャッターチャンス!」
犬や猫じゃない動物を間近で見る機会は滅多にないので、ちょっと興奮していた……。
……と、そこではたと気がつく。
「あれ? 女の子……じゃない?」
視界の先には白い狐。狐がする悪戯の定番と言えば。
「サクヤさん、わたし化かされたりした?」
『そんな落語の様な話も、今のわたしには受け容れられる素地がある。血を吸う鬼がいる
なら、狐狸の類だって人を化かすだろう…』
「桂、それで納得したら化かされた事になるよ。そっちは囮だよ!」
狐を無視して直進し続けていたサクヤさんは、止まって茂みに手を突っ込んだ。
うわわわわっ。先程聞えた女の子の声だ。
「音や姿は他に託せても、臭い迄は分散させられないからねぇ」
ずぼっと引き抜いた手の先には、襟首を掴まれた小学生位の女の子が。あれ、一昨日…。
「たはは、捕まってしまいましたー。そんなに臭いますかねー」
前腕を鼻に近づけて、くんかと臭いを嗅いでみせるあたり、悪びれた感じがない。
「あたしの鼻は特別でね」
「はぁ、それは運がなかったですけど、引き時を弁えなかったのが一番の敗因ですよねー。
この処この辺も騒がしくなってきたんですけど、中々心地良いもので、ついぐずぐずして。
早く逃げとくべきだったんですよねー。
逆に機を逃してしまいました」
機を逃すという言葉に、桂ちゃんの心がピクと反応した。それは、
『ユメイさんに、もう一度会いたい』
烏月さんとの縁を繋ぎ直すきっかけをくれた人。昨夜も消滅を覚悟してわたしを守りに
来てくれた人。でも、昨日は烏月さんと縁を繋ぎ直すのが精一杯で、夜も余り話せないで。
今迄わたしは烏月さんを優先していた。その為に、ユメイさんと会う機を逃したのかも。
サクヤさんは今日中に経観塚から帰るようきつく言っていた。烏月さんもそれに賛成した。
心配してくれている事は分るけど、危険な事も分るけど、わたしにはまだ心残りがあった。
【桂ちゃん……】
烏月さんとの縁を繋ぎ直せたわたしの今の心残り。夢の記憶もそうだけど、ノゾミちゃ
ん達がわたしに見せた記憶の欠片も気になるけど。一番の心残りは、ここを離れたら逢え
なくなってしまう、とてもとても逢いたい人。どこか懐かしい、わたしが知ってて忘れた
人。
『機を失ってしまう。今日じゃないと』
あの女の子の言う通り、ぐずぐずしてはいられなかった。今しかなかった。だから烏月
さんがケイくんを探しに出かけた後で、サクヤさんにお願いして、もう一度お屋敷に連れ
てきて貰った。駄目だったらバスで来ようと。
『サクヤさんは、日中オハシラ様は姿を顕せないと言っていたけど』
ご神木まで行けば、何か分るかも知れない。
何か思い出せるかも。何か感じ取れるかも。
【……それは……】
会いたい。会って話をしたい。
わたしが今日ここ迄来たのは、本当はこのお屋敷を見る為じゃなく、ユメイさんの何か
を掴みたかったから。逢えなくても、何かそれに繋る物をわたしの中から呼び出せるなら。
『予め言ったら、サクヤさんは反対するかな。サクヤさんは、記憶を戻そうとする度に来
る赤い痛みを心配しているから。それはそれで有り難いんだけど。でも、思い出したい
…』
「あんた、ここは管理者不在だったとはいえ私有地だよ。直接あんたが罰せられる様な事
はないだろうけど、立派な不法侵入だ」
「たはは、おっしゃる通りです。確か百三拾条でしたよねー」
「はん、なかなか肝の据わったお子様じゃないか。あたしの質問にちゃんと答えてくれる
かい。何だか今から不安だねぇ」
瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
「ちょっとおねーさん、笑顔が怖いですよ」
「そう見えるとしたら、あんたに罪の意識があるからさ」
「それは違いますよう! 客観的に見て怖いですよう!」
「ふふふふふふふふっ……」
……サクヤさんは捕まえた子とのやりとりに集中していた。
一歩その場で後ろに下がって、あの場所へ向う脇道に、ほんの少し近づいてみる。
「お待ちください、おねーさん。捕虜の虐待は禁止されてますよ? 拷問で得た証言は証
拠としての能力を持ちませんよ?」
「うるさいね。拷問じゃなくて詰問だよ」
二歩、三歩と足を運んでも、桂ちゃんの動きは見咎められない。
桂ちゃんを見ているのは、いつの間にか近づいてきていた、白い子狐だけだった。
『しー。一本だけ立てた人差し指を唇に寄せ、静かにしてねの合図を送ると、子狐はこく
りと頷いた。……分ってるのかな?』
一声も鳴かずに大人しくしている様子からして、何だか分っているっぽい。さっきの陽
動作戦と言い、かなり頭のいい子なのかも。
『ごめんね、サクヤさん……』
桂ちゃんは心の中で謝ると、そろりとその場を抜け出した。
「ですから、問い詰めないでも答えますよう。
答えないだなんて言ってないですよう」
「じゃあんたの名前と年齢は? 保護者はどこにいるんだい? そのなりからして家出で
もしてるのかい? いつから居るんだい?」
2人の声が遠ざかる。
昨日もやった事だけど、巧く成功したし…。
『この侭森の道を引き返し、途中の脇道に折れ込んで山を登ろう。お屋敷の中を見てしま
ったら、後はわたしはもう今夜には経観塚にもいない。チャンスは今しかないんだから』
【桂ちゃん……ご神木に、来る積りなの…】
かつてない大きな変動の予感が身を包む。
この上なく不吉な変動の予感が心を覆う。
それは何を視せるのか。それは何を招くのか。それは一体、桂ちゃんとわたしの定めを
どの様に導くのか。わたしはそれを正視する。その先に視える物は、そして視えない物は
…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
頭上を厚く覆う葉っぱのお陰で、陽射しは帽子がいらない程に和らげられている。
透き通る緑のフィルターを通した光は爽やかで、木々の香りを含んだ空気は自然ならで
はの清々しさに満ちていた。
とはいえ、爽やかだからといって暑くない訳ではなく、むしろ昨日の雨の為か蒸し暑い。
日が高くなるにつれて気温はぐんぐん上昇し、地面から立ち上る蒸気のせいで、目の前
が揺らいで見えるのではないかという程で。
「ふぅ……」
暑いと体力の消耗も速くなるので、用意周到といった類の言葉を座右の銘とするわたし
としては、ペース配分も抜かりなくしておきたい処。そろそろ小休止する頃合いだと立ち
止まり、背負っていたリュックを下ろし、その中から取り出したハンドタオルで汗を拭う。
そうそう、脱水症状には要注意だから、休憩ごとの水分補給も忘れずに。電解質も一緒
に補給すると更にグッド。
とりあえずミネラルウォーターのボトルを開けて喉を潤す。但し飲み過ぎるとすぐ疲れ
てしまうので、飲み足りない辺りで我慢我慢。
その代りにローカロリーで栄養豊富な「塩こんぶ飴」を口に放り込む。これでナトリウ
ムとカリウムの電解質補給もばっちり。
ほんのりしょっぱい飴を舐めながら、ハンドタオルとハンカチを交換。濡らしたハンカ
チを軽く絞り、額や頬や首筋にぴたぴたとあてて、ささやかな涼をとる。
「あ……風……」
木の葉が一斉にさやさや音を立て、その音量が増した分だけ暑苦しい蝉の声が遠のいた。
ハンカチお絞りで拭いた肌に風が当たると、そこだけひやっとするのが気持良い。
「うーん、何だか微妙な贅沢感」
目を閉じてこもった湿気を飛ばしてくれる風を肌に感じていると、ふと奇妙な違和感を
覚えた。……なんだろう?
その違和感の正体は、暫くして葉風がぴたりと凪いだ後に明らかになった。
「蝉が……」
鳴いていなかった。
幾ら深い山の中でも、日中途絶える事なく蝉の声が続くという事は、幾ら何でもあり得
ない。間が空くのも至って普通の事。
だけど、この間は絶対におかしいと思った。
オハシラ様のご神木がある、あの開けた場所でも蝉の声は聞えなかったけれど、あの心
落ち着く静けさとは随分違う。確か昨日も…。
まるで山中の生き物が耳をそばだてて、震える事すら忌むように、恐ろしい物から隠れ
ている様な静止だった。勿論、わたしを怖がっての事じゃないだろう。
余りにも静かなので、脈打つ自分の心臓の音が、やけに大きく思えてきた。
「すう……はあ……すう……はあ……」
大きすぎる呼吸音を抑えようとすると、途端に息苦しさに襲われる。
とても嫌な感じだった。全身の肌を何となく押してくるような、圧迫感が不気味だった。
わたしは可能な限り音を立てない様にして、休憩の為に広げていた荷物を片付け、すぐ
にでも逃げ出せる準備を始める。こうして息を潜めてから、心臓は何回程鳴っただろう。
時間ばかり過ぎていって、一向に埒が明かない。
そこでわたしは一つの決断をした。
こんな所に留まるより、ご神木迄行ってしまった方が安全だ。ユメイさんの処迄行けれ
ば、きっとわたしは大丈夫。彼女の使いの蝶の様な花の咲く、あのご神木迄辿り着けば…。
そんな考えをしっかり自分に言い聞かせてから、抜き足差し足で移動を始める事にした。
……何だ、別に何ともないじゃないか。
そう思ったのは、歩き始めて暫く経ってからの事だった。それは何となく憶えの強い場
所迄辿り着いた安心感による物かもしれない。
「ふへぇ〜〜〜」
思いっきり気が抜けた。
その場で座り込みそうになるのを堪えて、お尻をついても大丈夫そうな乾いた場所を、
あたりに探す。それにしても……。
周囲に気を配りつつ慎重に静かに歩くという行為は、気力と体力を卸し金にかけてすり
減らす様な、ひたすらに燃費の悪い歩き方だ。
一度座り込んだら、暫くは立ちたくないと思うぐらいの消耗っぷりだった。
さて、乾いた場所を見つけたのはいいんだけど、座ってしまうべきか、我慢するべきか。
う〜ん……。もう少し我慢する事にしよう。
もう少し我慢して登れば、オハシラ様のご神木が聳え立つ、あの開けた場所に辿り着く。
そうしたらご神木の根元に座り込み、疲れた足を投げ出してたっぷりと休もう。荷物の
小型軽量化の都合上、ブロック状の栄養調整食品なのは哀しいけど、お昼ごはんにしよう。
朝ご飯の鮭などすっかりこなれてしまったお腹をさすりつつ、わたしは足を先に進める。
靴底が草を踏みしめ、がさがさと音を立てるのももう気にしない。ただ転んだり捻った
りしないよう、そういった面にだけ注意しながら、汗をふきふき道のない斜面を登る。
もう少し。
もう少しで視界が開ける。
木々の切れ間が見えるのと同時に、ふいに風が鋭く鳴った。吹き抜ける風の音ではなく、
何かが風を切り裂く音だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
烏月さんの気配を感じたのは、桂ちゃん達が来て暫くの後だった。烏月さんは、サクヤ
さん達が通り来たバスも通る道を使わず、山伝いに別方向から羽様に入ってきた。昔わた
しが通った山沿いの羽様小学校から山に分け入ったらしい。白花ちゃんの想定は外された。
白花ちゃんにも山側からの初撃は意外だった。
サクヤさんは屋敷で見つけた家出少女に絡んでいる。少女と言うより童女の年齢だけど、
年齢不相応な応対に引っ掛りを感じた様だ。羽様の屋敷に少し前から住み着いた事は知っ
ていたけど、害になる訳でもないし、ハシラの継ぎ手にできる事はないので放置していた。
一緒にいる子狐は、只者ではないと、サクヤさんも勘づいた様だ。先代のオハシラ様と
感応したわたしは、その実相も知る。子狐もこの少女も、桂ちゃんと縁が絡む可能性が…。
サクヤさんでなければ2人の戦いは止められない。サクヤさんでも止められるかは分ら
ないけど、他の誰にも烏月さんは止め得ない。白花ちゃんは、今迄ずっと絞って耐えてき
た身体が癒しを得て、緊張が僅かに緩んでいる。
負けはしないだろうけど、技量は上だけど、ケガを負う怖れがあるし、それより手加減
に失敗し烏月さんを傷つけてしまう怖れもある。どちらが傷ついても桂ちゃんが哀しむ。
しかもその桂ちゃんが、サクヤさんの目を盗んで山に入り始めた。2人の戦場に近づいて
いる。
桂ちゃんはその2人の戦いの狭間で……。
関知の像に映るのは、血塗れの桂ちゃん。
誰かから逃れようと森を突っ切り、崖から真っ逆さまに落ちて、五体を砕かれ息絶える。
致命傷は幾ら贄の血の力でも癒しようがない。
桂ちゃんのその後が映らない。
わたしの先も、何も視えない。
それはまさか、存在しないから映しようがないと言う事なのか。
幾つか映っていた筈の未来図が。
幾つか視えていた、別の分岐が。
ここに来た事で全て斬り捨てられたのか。
ここを訪れる選択で全て収束されたのか。
視えるのは桂ちゃんとわたしの定めの絡み。
降り注ぐ陽光の中、桂ちゃんにわたしが…。
何をしているのかは分らない。どうなっているかは定かでない。眩しすぎて、瞼の裏を
貫く光が眩しすぎて、肉を持たないわたしには身を焼き焦がす苛烈な輝きで。この陽光に、
その輝きの中に踏み出しているという事は…。
わたしは夥しい光の中で桂ちゃんを抱き締めていた。桂ちゃんは光の渦の中でわたしに
身を預けていた。外傷は、ないと思う。でもその身体はぴくりとも動かずに。わたしが光
の中へ進み出す事が、降り注ぐ真昼の輝きに包まれる事が、桂ちゃんの守りに必須なのか。
【わたしの消滅が、必須……?】
背筋を走る冷や汗は、己の消滅への怖れではなく、それを遂げて届くか否かへの怖れだ。
消え去ればわたしはもう桂ちゃんを守れない。桂ちゃんのその後も守りたいから、その先
も支えたいから、可能な限り生きたかったけど。わたしの先が視えない様に、桂ちゃんの
先も視えないのは、両方共助からないと言う事か。
【……構わない】
とうに覚悟は出来ていた。迷いもなかった。
その後に何が待とうとも。何も待っていなくても。待つ物が存在しなくても。わたしは、
たいせつな人を守る為に鬼の生を選んだのだ。
【昼の光が目に入らないのか。器の血を得て力を増しても、全ての魂をつぎ込んでも、現
身は数分保たぬ。一昨日の左手を思い出せ】
わたしの身を抱き締める腕が、強く締まる。
主がわたしを止めようとしていた。主は本気でわたしを案じていた。己を封じるハシラ
の継ぎ手の身を想い、自由を求める己の本意に反しても、わたしの生命を繋ぎ止めようと。
【これは賭けではない。陽光はお前を唯照射して消すだけだ。例え成功してもお前は絶対
に生きては戻れぬ。わたしを解き放つ気か】
容赦のない陽光は、わたしの様な実体のない存在を、あるかないか両極端に振り分ける。
白花ちゃんの贄の血を得て尚、この現身は数分と保たない。それは分っていた。この定め
がわたしには動かせない類の物だという事も。
例え桂ちゃんを救えても、わたしの消滅は確定だった。今度こそわたしに帰り道はない。
そしてわたしの消滅は主の復活も確実に招く。わたしはその後に何も守れない。何も残せ
ない。関れない。為し得ない。わたしの消滅は桂ちゃんを助けに出る時点で確定する。で
も、
【それだからこそ、届かせられる!】
生命を差し出せば、生命を救える。
わたしだからこそ、それが為せる。
確信に満ちたわたしの声に、主は、
【贄の娘、お前ミカゲに、己の星を】
驚きの故か、身を抱き留める主の手が緩む。
その表情が、何とも複雑に苦味を噛み締め。
『あなたは届かせる者、引き替えに叶える者。あなたの心が折れない限り、あなたが心を
塞がない限り、あなたは代償や反動を承知で自身の何かを引き替えに成し遂げ、届かせ
る』
わたしは両手で主の解けた両手を握り締め、
【教えてくれたのは、主、あなたですよ】
だから微かでも道が開けた。有り難う。
微笑みかける。心からの感謝の笑みで。
そんなわたしに、主はかける言葉を失った様子で軽くかぶりを振った。呆れたのだろう。
わたしも本当に、己の行いを笑いたくなる。でもその笑みは、突き抜ける青空の様な笑
み。悔いを残しつつやれるだけの事をやりきれた、砕け散る迄挑み続けた末の、充足感の
笑みで。
意識をご神木に深く沈ませる。ご神木の機能を司り、その意志を膝下に置き、その力の
流れを統御する。主の力を吸い上げる力を増す。その力を槐の花びらに変えて、散らせて。
【及ばせる。届かせる。例え昼の光の中でも、現身が全て灼き尽くされても、想いが欠片
に迄砕けても、絶対死なせない。その定めを】
「ねじ曲げて、手繰り寄せ、引き寄せる!」
奇跡は求めない。唯わたしの出来る限りを、唯わたしの及ぶ限り、唯わたしの想いを最
期の最期迄。わたしは、生贄になったその後迄も何かに身を捧げないと堪らない存在らし
い。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ざんっ、と強く地面を蹴立てる音が続き、わたしはわたし以外の生き物がこの山にいる
事を、暫くぶりに思い出した。
思い出すのと同時に認識する。
ぎょっと棒立ちになって周りを見渡すと、強い光に瞳を射貫かれた。露に濡れた草木に
よる自然な光の反射と違う、もっと固くて強い、太陽をその侭跳ね返した様な輝きだった。
真っ白にくらんで閉ざされる視界。生存本能の賜物か、少しでも多くの情報を得ようと
敏感さを増した耳が、人の声を拾い上げた。
「くっ、あんな場所で打ってくるなんて…」
「深山幽谷は想定済み。むしろそうした地での役目の多い代々の伝承者が、編み上げ、磨
き、伝えてきた技だ」
なる程、これならうるさい蝉も黙らせられるだろう緊張感をはらんだ男女一組2人の声。
そのどちらにも、聞き覚えがあった。
「私とて、本家の血だけで役目に就いたのではない!」
裂帛の気合いに続き、風を凪ぐ音が響く。
何が起っているのだろう。
瞼を閉じた侭、瞬かせる様に目頭に力を入れて、失った視界を早急に取り戻そうとする。
声の方向で、大まかな位置は掴めている。
目を開きそちらの方を見やると、まだ薄ぼんやりとした視界の中に黒い影と白い影を捉
えることができた。
「さすが明良さんの妹だね」
「その口でその名を呼ぶな」
凛と張った声を残して、しなやかに黒い女性の影……烏月さんが動いた。
寝かせた太刀を横に構え、低く低く疾駆する制服姿は地を這う影のよう。
そんな姿勢では引きずってしまうのではないかというほど長い黒髪の先端は、身体を追
って宙を泳ぎ、地に濡れて汚れる気配はない。
たんっ……。
右足が強く地面を踏みつけるのと同時に、丈のある邪魔な草をものともせず、手にした
太刀が逆袈裟掛かった角度で横に薙がれる。
その切っ先の先にいる白い影は、一昨日この山で会った人。彼女が探していた写真の人。
『ケイくん、危な……』
余りに突発的な出来事なので、注意を促す声を出す暇もない。
後ろに跳ぶケイくん。受け止める武器を持たないケイくんは下がるしかない。
刃は紙一重で太股の前を走り抜ける。
烏月さんは草を刈るだけに終った刃を止めずに振り切ると、踏み込んだ足を軸に、その
勢いの侭に身体をくるりと回転させる。
「せいっ!」
左足が跳ね上がりブーツの踵がケイくんの右の脇腹を襲った。気合いからしてこっちが
本命なのかも。
「この程度っ!」
ケイくんはそれ以上は下がらずに、むしろ前に踏み込みながら右の肘を落す。それは防
御の為ではなく、カウンターを狙った一撃だ。
ふいに蹴り足の膝が曲げられて、軌道を変えた踵は宙を薙ぐに止まり、その足首を狙っ
て落とされた肘も空を切る。
右肘を下げる動きに連動して、ケイくんの左半身が前に出る。そのまま突き進む。肩を
烏月さんにぶつけに行く。その体当たりで烏月さんがよろけたなら、腰溜め位置についた
右の拳がそこを衝くのだろう。
一回転を終えたものの、まだ蹴り足を地に着けていない烏月さんの姿勢は不安定。
『駄目だ、ぶつかる……』
わたしがそう思った時は既に、烏月さんは太刀を縦に構えて盾としていた。剣先近くの
峰に片手を添えた、垂直過重に強い二点支持。
「くっ」
鋭利な刃や尖った先は、通り道に置くだけで牽制力を発揮する。
ケイくんは全身のバネを使って急制動。その侭後ろに飛び退き間合いを離す。
恐らく牽制なのだろう。ケイくんの身体があった格闘の間合いを銀光が走り抜けた。
「ふぅ〜〜〜」
一瞬の攻防が終わり、睨み合いになったところで、わたしは大きく安堵の吐息。烏月さ
んには悪いけど、どっちかが大怪我する結末はやっぱりわたしは見たくない。烏月さんが、
「体術も少しは通じるかと思ったんだが、考えが甘かった様だ」
「そうだね。それ程身体に恵まれていないんだから、太刀を使える時に威力のない足を使
うなんて相手を舐めすぎだよ。だから隙ができる。……もっとも、僕を切る積りがなくな
ったのなら、ありがたいんだけど」
「そのようなことは、断じてない」
「……だろうね。君は僕を許さないだろう。僕が僕を許せないように」
「私の個人的な感情はどうでも良い。私がお前を切るのは、与えられた役目故のこと」
「分ったよ。それならせめて明後日の夜……いや、明明後日(しあさって)の朝まで待っ
てくれないか? その時にまだ生きていたなら、大人しくこの首を差し出すよ。その維斗
の太刀で刎ねれば良い」
「……何を企んでいる?」
「何も。唯、僕は目的を果す迄は死ねない。だから今はまだ、大人しく切られもしない」
「お前の目的とは何だ?」
「大切な人を解き放つ事」
唯その為だけに、明良さんを僕の運命に巻き込み、鬼に憑かれた度し難い生命を繋ぎと
めてきたんだ。
『鬼……?』
鬼と鬼切り役。
ケイくんと烏月さん。
なんだ、ぴったり当てはまるじゃないか。
だけど、だけど、オハシラ様のご神木のすぐ近くに迄、どうして鬼が来ているんだろう。
「桂さんっ!」「えっ?」
烏月さんの放った鋭い声に我に返ると、こちらにケイくんが向かってくるところだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『どうしてこっちに?』
わたしの頭が高速回転して答を出す。
決まってる。ケイくんが鬼なら決まってる。
ノゾミちゃんもミカゲちゃんも言っていた。
『隠れないと』『逃げないと』
鬼に捕まったら、食べられてしまうのよ?
『『うふふふふふふ……』』
そうだ、そうだ。隠れないと、逃げないと。
「くそ、何だってこんな所に桂が……」
回れ右では追いつかれる。だからわたしは横に逃げる。むき出しの肌を苛める茂みの中
に飛び込んで逃げる。普通の人なら躊躇する。
【桂ちゃん、そっちは駄目!】
「……駄目だ、そっちはっ!」
すぐ後ろから聞えるケイくんの声。
こんな処にまで、追ってきた。
やっぱりケイくんは鬼なんだ。
「桂! 待つんだ! そっちは危ない!」
「危ないのはどっちだ、ばかあぁぁっ!」
追いかけてさえ来なければ、わたしだって逃げないのに。
丈の高い草の縁が、太股をひっかいて傷だらけにしてくれた。枝に引っかかった髪の毛
が、ぷちんとちぎれて泣けてきた。
涙で前が見えなくなるけど、その前から枝に刺さるのが怖く、閉じっぱなしなので今更
だ。踏んづける地面の感覚だけを頼りに走る。
よく転ばないものだと、ほんの一部だけ残っている冷静なわたしが感心する。
【止まって、桂ちゃん! お願い、白花ちゃん、桂ちゃんを止めてっ!】
「桂! 止まれ! 止まるんだ!」
「……えっ?」
わたしを捕まえようと伸ばしたケイくんの手が、わたしの頭上を空振りする。
身長差もあったけど、お互い男子と女子の平均ぐらい。こんなに差が出るはずがない。
そんなことより、空振りしたのはケイくんの手だけじゃなくて。わたしの足が踏んづけ
るはずの、地面がそっくり消えていて。
視界はいつの間にか開けていて、青空が大きく広がっている。わたしに触れる葉や枝は
なく、足下には地面すらなく、わたしに触れているのは空気だけだった。
「ええっ!」
お尻から背中にかけ、何とも言い難い感覚が襲ってくると同時に、世界が縦に流れ出す。
「桂……っ!」「桂さーん!」
聞こえる声は、ずいぶんと上の方から。
流れた世界がどんどん縦に延びていく。
強い風がわたしの髪やスカートをばさばさと痛い位にはためかせる。
高い所から下を見た時の、お尻から背中にかけてのキヤキヤとしたあの感覚が、何倍に
もなってわたしの中を這いずり回る。
「あ……落ちてるんだ……」
落ちているという実感がわいて初めて、わたしが走って逃げた先が、先の続かぬ崖だっ
たという認識に至った。
追いかけられていたという事もあるけれど、己の不注意が原因で落ちているのだと思う
と、怖さよりも情けなさがこみ上げてくる。
多分、これは助からない。
せっかくユメイさんや烏月さんが助けてくれた生命なのに、わたし自身の至らなさが、
これ以上ないという無駄な終らせ方を選んでしまった。こんな事になる位なら、その前に
わたしの血をすっかりあげておけば良かった。
「ごめんね、烏月さん、ユメイさん……」
本当かどうかは知らないけれど、飛び降り自殺をする人は、落ちている途中で気を失う
ので、痛みは感じないのだと聞いた。
なのにちっとも気絶する気配がないのは、わたしからの罰なのだろうか。それならばと、
わたしは最期の景色をきちんと見届けようと。
その気概に動体視力が追いつかず、世界は縦方向の流線に埋め尽くされていた。
すべてのものが、歪んでいた。
いや……。
ひらひらと、ひらひらと……。
まるで最初の夜の夢のように。暗闇に取り得残されたわたしを導く月光蝶のように。
歪んだ世界のただなかに、綺麗な形を保ったものが、ひとひら、ひらひら、舞っていた。
「ちょうちょ……?」
蝶ではなく花びらだった。
オハシラ様のご神木が咲かせる、満開の花の内のひとひら。近くまで辿り着いていた筈
なので、風の具合によってはひとひらぐらい、ここ迄運ばれてきたりもするのだろう。
「ユメイさん……」
せめてものよすがにと、強い力の前に動かすのもやっとの腕を伸ばした。
わたしが死んで幽霊になったら、一緒にいられるのかな……。
指先が花びらに触れたその時。
「やっと……やっと繋った……」
ユメイさんの意識が流れ込んでくるのと同時に、群れ飛ぶ蝶と舞い散る槐の花びらが、
一瞬にしてわたしの頭を真っ白にした。
「桂ちゃん……まだ諦めないで……」
甘い香りがわたしを包み、ほんの少しの浮遊感。全身を打ち付ける透明な力が弱くなる。
「あれ……どうして……?」
わたしは未だ落ち続けている。それは身体が感じているけど、先程より怖いと思わない。
たとえ幻聴であったにしろ、ユメイさんの声を聞いたせいだろうか。
いつの間にかつぶっていた目を開くと……。
「ふぇ……?」
……どちらが現で、どちらが夢かを知る方法など、あるのだろうか?
「桂ちゃん、諦めないで。わたしが何とか……何とかしてみせるから」
昼の光が降り注ぐ中、わたしはユメイさんに抱き締められていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂ちゃんの落ちる崖はご神木のごく間近だ。槐の花びらが届く場所だ。吹き散らされて
舞い踊る場所だ。あの花びらにわたしを飛ばす。わたしはご神木に依る者だから、どこに
いてもどれだけ離れていても、ご神木に戻る事だけは瞬時で出来る。ご神木と深い繋りが
あるから。なら、その花びらとも繋っている筈だ。現身で飛んで行くよりは、身も削られ
ない…。
問題は、どの花びらに飛べば良いのか不確かな事だった。崖下の風は気紛れで、瞬間瞬
間向きを変える。一瞬近づいても、次の一瞬には遠ざかり、全然別の方向に吹き流される。
触れて貰わなければならなかった。桂ちゃんの手で。どれでも良い。近く迄散らすから、
槐の白花に桂ちゃんの身を触れさせて。その花びらにわたしを飛ばす。その瞬間桂ちゃん
に取り憑く。その後は血の絆で、結んでしまった赤い糸で、その身に憑いて離れないから。
【間に合って! 届いて! 桂ちゃんに…】
ここで届かなかったら、わたしの全てが意味を失う。ここで及ばなかったら、これ迄の
全部が霧散して何も残らない。わたしには何も残らなくて良い。わたしの足跡も爪痕も何
一つ残らなくても。唯桂ちゃんを、残したい。
届かせる。何が何でも、必ず届かせる!
その想いが、その願いが、その求めが。
真昼の光の下でも、桂ちゃんを抱き留められる濃い現身を、少しの間だけでも作り出し。
この身に確かに、桂ちゃんを抱き留めていた。
落下速度は緩んでいた。
でも、余裕のある状況とはとても言えない。
青白い光として放たれる力が、次々と透明な力に引きちぎられて、上へ流れ溶けてゆく。
わたしの現身を為す力が、わたしの想いの核である力が、容赦ない陽射しに次々と削れる。
「……ユメイさん? こんなことしたら、ユメイさんが……!」
「大丈夫。大丈夫だから桂ちゃん……」
力を及ぼせる領域が見る間に狭まっていく。間もなくわたしは現身の外に力を及ぼせな
くなる。その次は現身を削られ、桂ちゃんを抱き留められなくなる。その核となる想いを
打ち抜かれ、蒸発し消えて行く。わたしは桂ちゃんを更に引き寄せ、強く強く力を紡ぎ出
す。その時を少しでも遅く、守りを少しでも長く。白い香りが桂ちゃんの頭の中を満たし
てゆく。
せめて落ちる迄。地面に叩き付けられる衝撃をこの身で緩和して、桂ちゃんの生命を…。
「死なないで」
大きなトンカチで叩かれた衝撃に、わたしの身が砕け散った。わたしの現身は、桂ちゃ
んを庇って地に落ちた所迄しか保たなかった。桂ちゃんの身体を衝撃から守り切れなかっ
た。
二度、三度、四度……。
幾度となく叩き付けられる桂ちゃんの身体を追って、左手と胴だけの現身で転がり進む。
両足と右腕は岩と桂ちゃんの間に挟まれ、砕け散って消えた。周囲にまき散らされる血も
肉片も、陽光を受けて数秒保たずに消失する。急がないと、わたしもあと僅かであの様に
…。
桂ちゃんは痛みを感じてない。極度の緊張が痛覚を遮断しているけど、それ以上に痛み
を感じる中枢がもう……。おもちゃの人形の様に尚数度、岩に叩き付けられて下迄落ちる。
力なく横たわった桂ちゃんの身体を、一瞬だけ電流が流れ、身体がビクッと大きく跳ね。
「かはっ!」
押し潰された桂ちゃんの中身が、出口を求めて喉から口へと噴火した。その勢いの侭に
吐き出せる物を吐き出すと、大量出血に特有の生臭い鉄の臭いが、あたり一面に充満した。
「ひゅー」
笛を間違えて吸った様な音と共に、桂ちゃんが呼吸を再開した。何とか、即死は避けた。
桂ちゃんは大ケガを負ったけど、まだ生命は。
「ちゃん……桂ちゃん……」
現身が消え掛っていた。もう肌の外に出せる力もなく、陽光が身を灼くに任せる。青い
衣も、白いちょうちょの髪飾りを挿した髪も、右腕と両足の付け根から溢れ出る出血も、
灼かれる侭にその色が薄れ始め、儚くなり始め。
一切の力が使えない。外に出すどころか内に作用もさせられない。わたしは左腕一本で
残った胴を引きずって、その間近迄辿り着き。
早く、早く癒しの力を注ぎ込まないと。
桂ちゃんの生命が危うい。そしてそれ以上に、わたしが消えてしまうその前に。渡す生
命を使い切り蒸発させられてしまうその前に。
目に映るのは一面鮮血の海。
俯せに横たわるは桂ちゃん。
その身が微かに震えていた。
今抱き留めてあげるから。今助けてあげるから。少しだけ、ほんの少しだけ耐えて頂戴。
「桂ちゃん頑張って。すぐに治してあげるから、生きようって強く想って」
消え去る前に、この生命を全部あげるから。
ああ、背中が陽射しで透けていく。衣が消えるより早く、その中身が分解する。今はこ
の握る左手を、桂ちゃんに生命を流し込む左手さえ守れれば。心臓も頭も保てなくて良い。
わたしの意志が最期迄あれば、左腕から残った全てのわたしの想いと力を、流し込めれば。
「……ユメイさんこそ……無理しないで…」
『冷めていく身体の中で、握られた手だけが温かい。そんな風に握られている感覚はある
のに、霞んだ目に映るのは眩暈を起す程の赤。ユメイさんの姿は瞳を凝らしても見えな
い』
「ユメイさん……もう形が……」
「……わたしは大丈夫よ。でも桂ちゃんはちっとも大丈夫じゃない」
「でも……」
流し込める力は途切れ途切れで弱々しくて、夏の終りの蛍の様に、今にも消えてしまい
そうな儚さだ。陽の光に打ち据えられ、熱と光に散らされて、わたしの存在が急速に薄ら
いでいる。もう、桂ちゃんに流し込む生命さえ。
ダメだ。消えて行く。流し込む力が出ない。
身が焼き尽くされて、心が消し飛ばされて。
繋りが、桂ちゃんと現世への繋りが切れる。
わたしは良いけど。わたしは、諦めるけど。
『桂ちゃん……桂ちゃん……桂ちゃん……』
後はわたし自身を流し込む。もう半ば消え掛ったわたしだけど、この身を全て力に変え
て桂ちゃんを生かす苗床にする。共に生きる。桂ちゃんの血がわたしの一部となった様に
…。
生命を重ね合わせる。想いを重ね合わせる。
わたしは、最期の最期迄あなたを諦めない。
でも真夏の太陽は容赦なく、この世の理は斟酌もなく、桂ちゃんの生命を削って殺いで。
『駄目だ。この侭じゃあ共倒れだ』
ああ、そうだ……。
桂ちゃんの上に天啓が降りたのはその時だ。
「ユメイさん……いいこと、考えたよ」
苦しい息の中、殆どその可愛らしい発音は聞き取れないけど、わたしは心が読み取れた。
「……桂ちゃん?」
「2人とも、助かる、すごいアイディア…」
運が良ければ、ちゃんと2人とも助かるかもしれない、そんなアイディア。
「わたしの血って、特別……なんだよね?」
人ではないものに力を与える、特別な血。
その特別な血がここにこんなに浴びる程。
「……ねぇ、ユメイさん……飲んで?」
「桂ちゃん……」
「身体から出ちゃったら、やっぱり駄目?」
わたしの最大の分岐が今目の前にあった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
……ぴちゃ。
子猫がミルクを舐めるみたいな水っぽい音。
「んっ……ぴちゃ……ぴちゃ……」
喉に絡む血を飲み下すうめきを織り交ぜながら、わたしは力を補充する。迷いも躊躇い
も許されなかった。陽の光の照射を受け、最早周囲を視る余裕も考えるゆとりも失ってい
たわたしに、桂ちゃんは啓示を与えてくれた。
わたしが、桂ちゃんを助けられる方法を。
わたしが、桂ちゃんの役に立てる方法を。
ばらまかれた濃い贄の血が、たいせつな人を守る為に必須だった。それを飲む事が、身
に取り込んで力に変える事が、不可欠だった。
その膨大な贄の血は正直わたしを震わせた。車にタンカーの油を満たす所作だから。痛
み止めを、適量を超えて致死量飲む行いだから。わたしは一口飲んだ贄の血で、消滅を免
れ己を繋ぎ止めた。滅びる定めを掛け替えられた。
わたしはこの量の贄の血で、何度死を越えられるのだろう。何度現身を作れるのだろう。
膨大な力はわたしの心を弾き飛ばして暴走するかも知れない。抑えきれずこの場で弾け飛
ぶかも知れない。力の核である想い迄塗り替えられ別物に変質する怖れもある。怖かった。
食べ過ぎで死ぬ笑えない笑い話が間近かった。
それでも。これは必須だった。桂ちゃんを助ける為には、今ここで消える訳に行かない。
ここでの消滅は、わたし一人の問題ではない。何があっても、守り抜きたい人の未来を繋
ぐ。
「あ……」
『わたしの血を飲み始めてから間もなく、ユメイさんの姿が再び見えるようになった』
「んっ……んんっ……」
受け容れる。何もかも飲み込む。唯一番たいせつな人の守りと幸せの為に。その想いだ
けを繋げれば、わたしに何も残る必要はない。
血が招く膨大な力が陽光を遮断する。現身が戻り始め、人の五体が修復し、和服が濃い
色合いを戻す。その周囲に青白い力が及び…。
容赦のない陽光は、わたしの様な実体のない存在を、あるかないか両極端に振り分ける。
鬼神の領域には至らないけど、ある程度を越えた強い力で現身を取れば、陽光の照射も肌
の上で弾き、ある方に振り分けられるらしい。
わたしは既に桂ちゃんにもその力を及ぼし始めている。力を得つつ、桂ちゃんが息絶え
てしまわぬ様に、どんどん還流させてその身を賦活させようと。桂ちゃんは、例え致命傷
を受けても、わたしが絶対死なせはしない!
桂ちゃんの頬が緩むのは、身体が急激に回復に向い始めた事を感じてなのか。痛みがシ
ョック症状を呼ぶと困るので、わたしの力で神経を鈍麻させた。故に痛くはない筈だけど。