第2章 想いと生命、重ね合わせて(乙)
【はい、わたしと2人だけの秘密ね】
「だけど、学校でもずっと冬服なの?」
「役目があるから、申し訳程度にしか出席できていないけれどね」
「それって、苛められたりしない?」
「問題は何も。実力行使で私をどうにか出来る学生がいるなら、人材不足の千羽党に引き
入れたい位だよ」
「だけど、みんなで無視したりとか……」
「わたし自らが、人との関りを抑える様にして生きてきたんだ。それこそ何も問題ない」
「……」
それ迄の彼女の生き方に、桂ちゃんは物言いたそうだったけど、黙した。それ迄の彼女
と今桂ちゃんの前にいる烏月さんは違うから。桂ちゃんと関ると決めた烏月さんは違うか
ら。物言うのなら、これからの関りの中で言うと。
「それに鬼切り役なんてやっているとね、普通の学生には付きようのない傷が付いたりす
るんだよ。その傷を見た大抵の人は、私のこの格好を受け容れてくれる」
「……そんなに傷だらけになっても鬼と戦うんだ、烏月さんは」
桂ちゃんには烏月さんの定めが悲壮に見えている。実際楽な定めではないけど、女の子
に鬼切りはかなり厳しいだろうけど、しかし人は己の定めを捨てて幸せになれる程簡単な
生き物ではない。人には生れ持って与えられた状況がある。変えられない物も少なくない。
定めを受け止めて、荒波に身を乗り出せる強さを持つ烏月さんだから、桂ちゃんも好いた。
桂ちゃんは、自分が好きになった烏月さんがそこ迄己を尽くすその定めを、理解しよう
と努めている。せめて理解する事で、少しでもその目線に近づきたいと。わたしのお父さ
んが何もできなくても、近くで力づけたいと、お母さんの贄の血の定めに寄り添った様に
…。
「私が鬼を切らなければ、誰かが鬼に喰らわれるからね」
喰らわれ……、あ。
桂ちゃんの腹に潜む、もう一人の桂ちゃんが声を上げた。それはもう、逃れ得ない定め。
「……ああ、桂さんも人以外の何かを食べないといけないようだね」「ううっ……」
今はもう、ここでこうしていても仕方ない。桂さんに他の用事がないなら山を降りよう
か。
「実は、ご神木にも行きたいと、思って…」
それを口に出して良いのかどうか、少し迷う感じで口の端に上らせる桂ちゃんに、返っ
てきたのは烏月さんの答ではなくて、
「そっちは諦めた方が良いよ。
オハシラ様は日中姿を顕せない」
サクヤさんがご神木の方角から現れて口を挟む。この間も神の寵愛を受け続けるわたし
は桂ちゃんの想いに応えられない。何よりわたしの中にある過去の記憶が、思い出しては
いけない桂ちゃんの幼い日々が、修練もない心に無秩序に、奔流の如く流れ込むのは拙い。
話すなら、現身を取るか、或いは夢の中で。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんは単刀直入に、嘘なくして桂ちゃんにご神木への途を諦めさせ、更に続けて、
「で、なんで烏月がいるんだい?」
百も承知で訊ねるサクヤさんに桂ちゃんが、
「この山に来てると思って、会いに行ったんだよ。わたしの読みも捨てたものじゃないみ
たいだね」
「……烏月。なんで桂に限って、いつものガンくれで追い返せないんだい?」
話を思う方角に引っ張っていく術も見事だ。
「刃物までおまけしましたよ、今日も。昨日は鬼の実物付きでしたしね」
烏月さんのそのため息だけは、本音だった。
「あはは、今日も鬼と間違えられて転ばされたりしたけれど、我慢比べはわたしの勝ち」
「あんたは、何をのほほんと」
サクヤさんの嘆きに烏月さんも同じ想いで、
「この調子では、何を言い含めた処で無駄でしょう」
「……まったく。羽藤代々の太平楽さ加減と、真弓の強情さが合わさると、こうも非常時
に扱いづらい性格になる訳だ。そりゃ、頑固一辺の烏月の方が折れるしかなくなる訳だ
よ」
サクヤさんの呆れた顔つきも、本音だった。
「わ、さりげなく悪口言ってる? それって全然、誉めてない?」
「当然全然誉めてないよ。あんたはとっとと向うに帰るべきだって意見は変ってないんだ。
それを『まだ見てないもんお父さんの実家』なんて言うから連れてきてやれば、いつの間
にか抜け出して、自ら鬼に関りに行くし…」
「烏月さんは、鬼じゃないよ?」
「似た様な物さ。夷を持って夷を制すって言うのが、大昔からのこの国のやり方さ。大昔
の鬼切りの元締め、陰陽寮の頭を張ってた安倍晴明なんか、化け狐との愛の子だしねぇ」
うー。桂ちゃんの抗議の声は受け流して、
「で、烏月。あんたはどうする積りだい? どんな方針固めて桂と関っていく積りだい」
「そんな、わたしが勝手に……」
「駄目駄目。将来の展望が何一つない様じゃ、桂との付き合いを認める訳にはいかない
ね」
「わ、そんなのお母さんにだって言われた事ないのに……保護者代理、出しゃばりすぎ」
桂ちゃんの抗議の声を烏月さんは流して、
「私が傍にいる限り、桂さんを鬼から守る事は出来ます。あの双子の鬼を切れば、当面の
脅威は祓えるでしょう」
「まあ、その位はやってもらわないとね」
「ですが、問題は贄の血が次の鬼、その又次の鬼を桂さんの元へ引き寄せるという事です。
この地に張られた結界が、外にその存在を悟られないよう隠す役を果している様ですが、
桂さんは私と同じ時期に外からやってきた」
だけど桂さん、あなたはつい最近まで鬼の影すら知る事なく、ここではないどこかで育
った。そうだね?
「うん。この十年は全然遠くで」
「サクヤさん。桂さんはどうやって贄の血を隠していたんです?」
「ああ、それは多分アレのせいだね。桂、携帯貸しな」
「……桂と携をかけた洒落?」
「馬鹿言ってるんじゃないよ。お守り、ストラップにしているだろう」
「あ、お祖母ちゃんが持ってたって言う?」
なる程。桂ちゃんもピンと来た様だった。
『鬼に狙われ易いのが遺伝なら、ご先祖様も同じ問題を抱えていた訳で。経観塚にいれば
大丈夫で、昔の人は本当の意味で定住していた人が多かったとはいえ、流石にお伊勢参り
にも行けないのはちょっと不便だ。そこで登場するのが、羽藤の家に伝わるお守り。効能
は普通の人並みに鬼に狙われにくくなります。これで弥次喜多ファンのご先祖様も一安
心』
「はい」「ほれ」
桂ちゃんが渡した携帯電話を、右から左でサクヤさんが烏月さんに渡す。烏月さんは携
帯電話に付いた蒼い珠を、左眼を眇めてじっと見つめる。真弓さんがかつて何度か見せた
様に、深い夜色の瞳が蒼い光を放って見える。
「……なる程、そういう事か」
「なに? どうしたの?」
「この珠には、わたしの知っているやり方で力が織り込まれている。その力が今迄桂さん
を護っていたんだ」
「あ、やっぱり。この珠を持っていたら、羽藤の家の事を知らない鬼は、わざわざわたし
を狙わないって事だよね?」
「その通りなんだけど、この珠の力はそう長く保たない様だ。定期的に、少なくとも半年
に一回は力を織り込まないと、力を失うね」
ええっ! お守りの効力って、くっついている携帯電話のバッテリーみたいに、充電し
ないといけないものなんだ……じゃなくって。
「どうしよう? どうしよう? やっぱりわたし、帰っても駄目だよサクヤさん」
「……ああ、気に食わないけど、烏月が役に立つみたいだね」
「でもでも、わたしは別に良いんだけど、家も学校も違うんだから、いつも一緒って訳に
はいかないし……。
そりゃあ烏月さんがつきっきりで護ってくれるなら嬉しいけど、わたしの成績じゃ烏月
さんの居る学校に編入なんて絶対無理だし」
わたしの学校だって、地元じゃあそんなに悪くない方なんだけど……。あいたっ。
平手でぺしんと叩かれて、無駄にぐるぐる高速回転していた頭にブレーキがかかる。
「あんたねぇ、烏月の話をちゃんと聞いてなかったのかい? ……烏月の知っている術と
やらでって、言っていたじゃないか。つまり烏月は力を補充できるって事だろう?」
「一朝一夕でと言う訳には、行きませんが」
「烏月がそいつの有効期限が切れる前に、デリバリってくれるんなら話は楽なんだけど」
「私はそれでも構いませんが」
「駄目だよ、烏月さん。そんなに迷惑かけられないよ。大丈夫、わたし待ってるから」
「とか言って、その方が迷惑だったりして」
「ううっ……わたし足手纏い……」
「そういう事だよ。桂を守りつつだと、あんたの大事なお役に影響出るんじゃないかい」
「問題ありません」
「そ、それにわたしが狙われてるんなら、囮位にはなれるよ?」
桂ちゃんは本当に自ら死地に進み出す子だ。
「その必要はないよ。少なくともあの子は、桂には手を出さない筈だからね」
白花ちゃんである限り、それは確かな事だ。
「そうなの?」
「問題はノゾミとミカゲの方だ」
「そちらが動くのは日没後でしょうし、呪符を使えば侵入を防ぐ事が出来ますから、桂さ
んの安全を確保しつつ、役目を果す事は可能です。そういう訳だよ。桂さん、これを」
烏月さんは、制服の内ポケットから短冊状の紙の束を取り出して、桂ちゃんに渡す。
複雑な漢字っぽい文字とか模様が、墨痕(ぼっこん)鮮やかに書き付けられている。
「お札?」
「魔除けの呪符だ。肉体を持つ相手には効果が薄い反面、霊体に対してなら保証できる」
これを部屋の四隅に貼って結界を作っておけば、昨夜の二の舞は防げる筈だ。
「……でも、ノゾミちゃんとミカゲちゃんは、わたしの血が欲しいって、確固たる目的を
持ってくるんじゃないかな?」
「大丈夫だよ。この呪符による結界は、人払いの様な強制力の薄い婉曲的なものではなく、
霊体の進入を阻む障壁その物だからね」
通ろうとする者には、相応の代価を払って貰う事になる。例えるなら、高圧電流を流し
た鉄条網で部屋を囲う様な物だよ。
「わっ」
ぱちっと静電気に打たれた様な気がして、呪符を持っていた手を離す。
木の葉落としに舞う呪符を、地面に着く前に指で挟み取った烏月さんが、苦笑気味に、
「肉体を持っている私たちには無害だから、そう怖がらなくても良いよ。霊気の流れも滞
るから、時折換気をする必要があるけどね」
「はぁ……」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
山登りをして話し込んでいた桂ちゃん達は、その時点でお昼もおやつの時間も過ぎてい
た。日中は現身を取れないわたしに会う事を断念した桂ちゃんは、サクヤさんに連れられ
烏月さんと経観塚の町で、遅い昼食を取った様だ。
サクヤさんは帰りがけに、ご神木の方角を振り返って、視線を泳がせていた。わたしを、
気遣ってくれたのだろう。寂しそうに切なそうな視線が一瞬わたしをドキリとさせたけど。
それはわたしの想いがそう見せたのだろうか。
白花ちゃんは羽様から離れた様だ。心を閉ざし、わたしにも勘づかれたくないと気配を
潜めている様で、詳しいその動向は分らない。最低限、主の分霊に身体を奪われてないと
は分ったけど。身体の主が入れ替わる時は心ががら空きになる。気配を隠せない。大きな
揺れを感知できない事は、白花ちゃんが己の暴れ出す心を抑え戦っている事の傍証だ。白
花ちゃんが尚白花ちゃんであり続けている事の。
その事が、彼をどれ程苦しめているのかは最早推測さえも及ばないけど。その事が、彼
の寿命を着実に縮め、その身も心も蝕んでいる事は、留めようもないのだけど。その原因
がわたしである事が、最大の悔いなのだけど。
「あんたを、隔ててしまって、済まないね」
サクヤさんは食事の後、桂ちゃんを烏月さんに任せて羽様へと戻ってきた。ご神木に手
をついて、弱気にわたしの応えを求めてくる。
「折角桂があんたを求めてここ迄来たのに。
折角桂が記憶を辿ろうとここ迄来たのに」
あんたの頼みとはいえ、桂をあんたから隔て遠ざける様に動いてしまった。呪符の話も
そうさ。ノゾミ達は良いけど、あんたも桂に寄りつけなくなるのに。あんただって本当は
桂ともっと話したいだろうに。一晩じゃ語り尽くせない位交わしたい想いはあったろうに。
【桂ちゃんを、連れては帰らないの……?】
わたしは自身の想いを振り切って敢て問う。
主に抱き竦められた侭だけど、己の心を強く律して、サクヤさんにはそうと分らせない。
サクヤさんは感応の力が低い。わたしの血を呑んで身体を巡っているから、わたしが望
みサクヤさんが触れれば辛うじて心が通じる。特に日中は尚その繋りは薄く、封じの中の
実情を絵でも声でも匂いでも全て知らざるを得ない贄の血の持ち主と状況は違う。それで
も、己をしっかり強く保たないと、サクヤさんの不審を招くから、わたしは想いを絞り込
んで。
【ノゾミ達は夜になれば必ず来るわ。呪符で防ぐのも良いけど、烏月さんやサクヤさんが
守ってくれるのも良いけど、一番安全なのは経観塚から、桂ちゃんを遠ざける事よ……】
「あんた、それが何を意味するか分って言っているのかい? 経観塚から、羽様から桂を
遠ざける事がどういう事か。あたしや烏月は動けるから会いに行けるけど、あんたは…」
【『わたし』は一番に大切な問題じゃない】
わたしの声は怒気を纏っていただろうか。
サクヤさんの、思わず怯む姿勢が見えた。
【わたしの為に桂ちゃんを経観塚に留めるなら、やめてください。わたしは、桂ちゃんを
危険に晒して己の欲求を貫く気はありません。一番の問題は、たいせつな人の幸せと守
り】
今は桂ちゃんの生命が危うい非常時なのだ。桂ちゃんが自身の来歴を、過去との繋りを
確かめたい想いは、この際二の次にしなければ。わたしが桂ちゃんの側にいたい想い等番
外だ。
【桂ちゃんは自らの身を守れない。できるだけ早くに、町の家に帰って貰うべきです…】
「ああ、分っている。分っているんだけど」
サクヤさんの心の浮動は珍しく弱々しい。
「桂も烏月と仲直りして、喜んでいるんだ。
今日帰すのは雰囲気的に無理って物だよ」
桂を烏月にくっつけたのはあんただしね。
それを言われるとわたしも弱い。何より桂ちゃんの残念がる顔が瞼の裏に浮ぶのが辛い。
わたしは2人のいとこにとことん甘いらしい。
「呪符とあたし達で守るから。もう一晩だけ、桂を経観塚に留める事情を分っておくれ
よ」
明日には桂が何と言ってもあたしの赤兎で、町に連れ帰るからさ。それに、桂はやっぱ
りあんたの事も気にかけている。できれば今夜、結界のすぐ外に現れて桂と話して貰える
なら。
「桂にも悔いが残らないと思うんだけどね」
【逢えば逢う程、未練が募るだけです……】
わたしこそ、維斗で絆を断ち切らなければならない過去の残滓だ。桂ちゃんが忘れ去っ
て、思い出してはいけない過去に繋る亡霊だ。烏月さんと仲良くなれて、その守りを得ら
れて、喜怒哀楽を共にするなら、わたしはもう。
想いは振り切る。わたしは平常時には顕れる必要はない。呼び戻してはいけない過去に
繋るわたしは、顕れないのが最善だ。サクヤさんの促しは、わたしの為であって桂ちゃん
の為ではない。それを受け容れてはいけない。
取りあえず桂ちゃんの安全はメドが立った。後はもう一人、わたしの一番たいせつな人
を。
【お願い。白花ちゃんを、助けてあげて…】
今のわたしは追い縋れても話して貰えない。でも彼は今支えになる誰かが居ないと危う
い。頼めるのは、サクヤさんだけだった。わたしが抱き留めなければならないのに。わた
しが白花ちゃんを傷つけたのに、哀しませたのに。日中は現身も取れない儚い存在である
以上に、わたしはいつ迄経っても役立たずの禍の子だ。
サクヤさんはそんなわたしの、頼みばかりで満足に想いも返せないわたしの願いを受け
てくれる。かつてわたしの血を受けてくれた唇を、ご神木の幹に静かに重ね合わせ。その
生命も想いも、節くれ立った硬い幹の皮に重ね合わせてくれて、本当に愛おしんでくれて。
「分ったよ。他ならぬあんたの願いだ。あたしに叶う限り、応えるからさ」
だからサクヤさんには本当に、天地終っても尚、封じの中の実情は教えられない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
主の求めを受けつつ、心は白花ちゃんと桂ちゃんを想い応じるわたしを、主はどう感じ
ていたのだろう。普段わたしが外の誰かと話す時は、その行いを止めて話に聞き入る主も、
今日はそれに関心を示さず性交を続けていた。最後故に、昼間は主も譲りたくなかったの
か。
白花ちゃんを追って出たかったけど、消失を承知で追いかけようとしたけど、主に抱き
留められてそれは叶わなかった。皮肉にもその故に、わたしは消滅せず夕刻を迎えられた。
サクヤさんに受け答えする間も、主は微かに不快そうに見えたけど、無視に徹していた。
封じの要が、封じるべき鬼神を脇に置き、或いは『ながら』で別に何か為す事を認めたく
なくて、見ない事にしたのか。わたしが主より大切に想う人がいる事を認め、諦めたのか。
白花ちゃんは心を閉ざした侭羽様を離れた様で、その関知も途切れ途切れだ。経観塚の
どこかにいるという以上は、夕刻を迎えても所在が掴めなかった。わたしを避けている?
無理もないけど放置もできない。桂ちゃんはさかき旅館にいたけど、烏月さんの不在が
気掛りだった。日中商店街で戦いに入った辺り迄は追えた。羽様なら気配を潜めても日が
落ちれば感じ取れるけど、それより遠ければ。
日中は外に出る事の叶わないわたしは、白花ちゃんの事はサクヤさんに任せて夜を待つ。
主に身を任せ、主の所作を受ける。夜になればハシラの空白という鬼神への非礼を為さね
ばならない。せめて誠意を尽くしておきたい。
日が落ちれば鬼の姉妹も動き出せる。電灯の下で人がまだ蠢く頃合いはノゾミ達も動き
を控えるだろうけど、深夜からも朝迄は長い。桂ちゃんは、貰った呪符を貼った様だけど
…。
【来ている。ノゾミに、ミカゲ……】
桂ちゃんが、結界を内から崩さなければ問題はない。鬼の姉妹の力量では、あの呪符を
破るのは困難だ。でも、それを知る相手方は、多分桂ちゃんを動かして結界を解かせに掛
る。
桂ちゃんには呪術の知識がない。何を為してはいけないのかも分ってない。教えてない。
烏月さんは自分が戻るから良いと思ったのか、サクヤさんがいるから大丈夫だと思ったの
か。これでは桂ちゃんは唆される侭誘われる侭に。
【行くのだな。やはり……】
主は複雑そうな顔を見せた。呪符の結界で桂ちゃんがしっかり守られるなら、わたしの
出陣は不要だった。ノゾミ達が手出し不能な迄に守られていればわたしの危険もなかった。
ノゾミ達が桂ちゃんの血を求め力を欲するのは、主を解き放つ為だ。わたしはそれを防
ぐ為も兼ねて、桂ちゃんを守り鬼の姉妹に対峙する。わたしを大切に想ってしまった主は、
わたしが出る迄もなくしっかり桂ちゃんが守られていれば、諦めが付いたのかも知れない。
わたしの勝利は主の自由を遠ざける。わたしの敗北・消失は主の大切な者の喪失に繋る。
どちらになるにせよ、主自身は何もできず事の成り行きを待つのみで。止められもしない。
主はわたしの真の想いをも止められないので、その結果も選べず、受け止める他に術がな
い。
【最期迄見守ってやるから、その想いの限り迄突き進んでみるが良い。お前が、どこ迄想
いの力だけで、自身を貫き続けて行けるのか。
鬼神の封じを片手間に、一番たいせつな人を守る為に、反動と代償を覚悟で戦いに行く。
勝てるのか、守れるのか、失うのか、涙に暮れるのか、諦めるのか。果してどうなるか】
主も一瞬両の瞳を閉じ、迷いを吹っ切った顔でカッと双眸を見開いた。それは人を喰ら
う山の神、猛り狂う蛇の神、赤く輝く星の神。戦意に満ち、闘志に満ちたその気配を隠さ
ず、
『最早止めはせぬ。最期の最期迄、唯己の真の求めの侭に、その身が真に欲するが侭に』
主はこれから起る全てを定めと受け容れた。
わたしの喪失、或いは自由の芽の喪失。
どちらになるにせよそれが己の定めと。
世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。主程の鬼神でも、全てを得られない事があ
る。
それを全て受け止めて。自身に向き合って。
【一つだけ言って置く。お前がミカゲ達に破れて消え、わたしが解き放たれた後の事だ】
主はわたしの瞳にその意志を叩き込む様に、
【わたしは贄の血の陰陽を決して生かして置かぬ。お前を今迄苦しめ哀しませて来た元凶
は、わたしであると同時にあの双子だからだ。あの双子が居なければ、お前はそこ迄身を
捨てて尽くす必要もなく、封じのハシラにのみ専念できていた。お前の無謀を越えた行い
が贄の血の陰陽の為なら、その消失は紛れもなく贄の血の陰陽の所為だ。だからこそ
ッ!】
主は両腕でわたしの両肩を固定し、わたしにその応えを求めず、己の意志を叩き付ける。
【わたしは、わたしから大切な物を奪う原因、贄の血の陰陽を決して許さない。それがお
前のたいせつな人だろうと、お前の哀しむ望まぬ末路だろうと、お前を消失させた原因を
わたしはこの地上に決して残さない。わたしはどこ迄も追い縋って双子を殺す。その血を
一滴残さず啜って息の根を止める。その血を絶やす。誰が妨げようと拒もうと、絶対
に!】
わたしが自由になれた暁には。
わたしが解き放たれた末には。
わたしが封じを失った時には。
【わたしのたいせつな物を奪う者には、必ず報いをくれてやる。鬼神の名において必ず】
主はノゾミもミカゲも生かしては残さない。
そして多分全て殺し終えた後で、自身をも。
強い愛の喪失が激越な憎悪を生む事もある。
主は正真正銘、狂気と自暴自棄の淵にいた。
主が主であり続ける為の極限に踏み止まり。
初めてたいせつと自身で確かめた者を失う。
それに自身の全てで向き合った末の回答だ。
【お前が誰を大切に想おうが構わない。わたしを一番に想わなくても。わたしは返される
想いなど求めぬ、押しつけ奪うだけの山の神、鬼の神。だからこそ、応えぬ事など許され
ないし、できないその身を失わせる者は、神の贄を横取りする者は、誰であろうと許さな
い。それがお前の一番たいせつな者だろうとも】
その言う意味が、わたしには分ってしまう。
その言う意図が、わたしには見えてしまう。
その導く正解を、わたしは一つだけ出せる。
【わたしは必ず、生きて戻ります】
わたしはミカゲ達を退け、桂ちゃんを守り、必ずご神木に己を保って戻り来ます。それ
で、
【あなたはわたしを失わない。そしてわたしは、あなたが望まない不自由を課し続ける】
千年万年、未来永劫に。あなたの魂が還りきる遠い時の彼方迄。天地の終りの果て迄も。
主はわたしの答に、満足げな笑みを浮べて、
【お前とミカゲ達の勝敗にわたしは関与せぬ。
わたしはまつろわぬ山の神、荒ぶる蛇の神、赤く輝く星の神。今更誰かにこの身を解き
放たれよう等と望まぬ。わたしはわたしの意志と力で、お前からこの身を解き放つのみ
だ】
戦闘的な笑みを浮べ、両肩から手を放すと。
【早く行ってくるが良い。わたしはお前を打ち破って封じを解くのだ。お前が居ない内に
封じを解いて、鬼の居ぬ間の洗濯などと鬼神が言われても、笑い話にもならぬ】
戻ってきたら、思い切り鬼の憤怒をやろう。引きちぎり、灼き、捻り折ってその身を苛
む。心を削り、理性を壊す。待っているから、お前を叩き壊すのはわたしだから、戻って
こい。
【想いの侭に生きようではないか。君も我も。
己の真の望みを曲げる事なく、貫こうぞ】
まっすぐで精悍な主の瞳をわたしは好いた。
わたしはこの時もそれに短く確かに頷いて、
【はい。必ずお互いにその様に】
昨夜桂ちゃんに貰えた力の殆ど全てを使い、現身を作り青珠を通じてさかき旅館に飛ば
す。これを戦いに使い果すと、わたしは結局一夜遅れて想いの核を槐に吸い取られて消滅
するのだけど、それを怖れていては何も為せない。わたしはやはり、己の全てを引き替え
に出さなければ、必須な所作に届かぬ星回りらしい。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふぁ〜〜〜」
敷いてあるお布団の上を転がると、大きなあくびが漏れた。わたししかいないから良い
けど、ちょっと人には見せられない程の。
【わたしはそんな桂ちゃんを見るのも好き】
わたしは既に桂ちゃんの所在を特定している。それは数年を共に過した繋りと血縁故か。
覚醒した意識や日中は、わたしの声は届かないけど、夜の夢に沈めばわたしは桂ちゃんに
話しかけられる。日が沈めば意識がある内でも桂ちゃんの感触や思考の表層も視えてくる。
わたしは桂ちゃんの心に自らを重ね合わせ、その安全を桂ちゃんの感触と視点で確かめ
る。
桂ちゃんはお風呂に入ってさっぱりすると、睡眠時間が充分でも、眠くなるタイプの様
だ。
『……何時ぐらいだったっけ?』
横臥した状態の侭這ってちゃぶ台に近づき、携帯電話に手を伸ばす。液晶画面に浮んで
いるのは「23:45」のデジタルな文字列だ。
よしっ。なぜか小さくガッツポーズ。
毎日一回必ず訪れる、何てことない時間の表示なのに、ふと見たタイミングでこういっ
た並びに出くわすと、妙に嬉しかったりする。
それにしても、あと十五分で日付が変わる。
『今日は随分と長湯してしまったのか、髪を乾かし終ったらこんな時間になってしまった。
普段のわたしなら、あと一時間は起きてたりするけど、今日はもう寝る事にしよう……』
……はて。何かを忘れてる様な気がするんだけど、何だったっけ?
【桂ちゃん。大事な事を忘れて……呪符を】
「……!」
がばっと身体をはね起し、荷物を纏めてある部屋の隅へとばたばた向う。途中で浴衣の
裾を踏んで転びそうになったけど気にしない。その勢いで一気に壁際へ移動し、両手を壁
について惨事を回避し。
「ふぃ〜、危ない、危ない。危なかったよ」
こんな大事な事を忘れていたとは、備えあれば憂いなしを座右の銘に据えている桂さん
らしくない大失敗だ。畳んだ私服を再び広げ、ポケットから烏月さんに貰ったお札を出す
と、
「烏月さんもまだ帰ってきてないみたいだし、自分の身は自分で(?)護らないと」
これを四枚、部屋の壁に貼っておけば、お札同士を結んだ空間−結界の中には、現身を
持たない霊的な存在は、入って来れなくなる。
面を作れば良いなら三枚でいいかとも思ったけど、間違っていたら怖いので言われた通
りちゃんと四枚張る。一応、テープの代りに四枚の絆創膏を用意したのだけど、お札は壁
に当てただけで、その侭ぴたりとくっついた。
『静電気……じゃあないよね。不思議な力を持っているお札なだけに、この位のおまけ能
力もついているのかもしれない』
「なんまいだー、あと一枚だー」
【ふふっ……桂ちゃん、可愛い】
変な歌を口ずさみつつ部屋を一周して、桂ちゃんは最後の一枚をドアの上に貼り付ける。
「よし、これで今日は安眠できるよー」
お布団の上に立って自分の仕事にご満悦…。
「わ、しまった」
……できなかった。
わたしは部屋の四隅ではなく、四方の壁の真ん中辺りに張っていた。つまり、□の中に
◇が入ってる感じで、四つ角四カ所に無駄な隙間が空いてしまっている。
『でも、大丈夫……だよね。多分』
お布団を敷いた真ん中は余裕でセーフだし、自慢できる程じゃないけど、寝相は悪くな
い方だ。ユメイさんが来てくれたりするかもしれない。座れる広さ位確保した方がいいか
も。
【取りあえず、これで結界は有効だけど…】
大体、一度剥がして貼り直すにしても、それで破いたりなんかしたら目も当てられない。
むしろかなりの確率で失敗しそうだから怖い。お買い物をした後に、値札シールを剥がそ
うとしても、最後まで綺麗に剥がせる方が稀だ。手先はそれ程、器用な方じゃなかったり
する。ぺりっと一気に剥がせなくても、消しゴムでこすれば綺麗になるから、いいんだけ
ど……。
閑話休題。
立って半畳、寝て一畳に比べれば、随分と広い安全領域を確保できている訳だし、これ
で満足する事にした。
消灯……。
お布団に横になって暫く。
大あくびを漏らす程眠かった筈なのに、どうにもこうにも寝付けなかった。
とはいえ完全に目が冴えている訳でもなくて、半分程はまどろみの中、寝ぼけた様な意
識の上を、とりとめのない考えが流れていく。
あれから随分経つけれど、烏月さんはまだケイくんを追っているんだろうか。もう実力
行使の争いになったりしたんだろうか。
もしかして、帰って来れない様な大ケガをしたりしたんじゃないだろうか。段々悪い考
えばかり浮んできて何だかとても心配だった。
お札がなかったら、自分の心配で手一杯だったかもしれないけれど、今はその分の心配
迄烏月さんの方へいってしまっている感じだ。風が相当強いのか、家鳴りの音が聞えてく
る。
【来ている。ノゾミに、ミカゲ……】
そうか、天候不順なら余計心配だ。昼はあんな天気が良かったのに。昨日は夕立が凄か
ったっけ。烏月さん、本当に大丈夫だろうか。
「……さん」
心配の余り、声まで聞えてきた様な。
「桂……さん……」
幻聴ではなく、声が聞えた。
部屋の扉が弱々しく叩かれて、その音に被さる様に、絶え絶えの声が続いた。
「桂さん……。ここを……この扉を、開けてくれないか……」
お布団を跳ね上げかけて『赤頭巾』、声色に騙されるのは『狼と七匹の子山羊』だった
っけ?、を思い出す。多分烏月さんは、どんな重傷を負っていたとしても、わたしの部屋
に逃げ込んでくるような真似はしないと思う。
【応えては駄目、桂ちゃん。それは罠なの】
幸か不幸か、桂ちゃんが置いた携帯電話は結界の外で、その間近にわたしを招くのに支
障はない。問題は桂ちゃんから貰えた膨大な力をさかき旅館の一室に届かせる時間だった。
桂ちゃんに助言するにも、守るにも、現身でその間近に行かないと。烏月さんは旅館にい
ない。サクヤさんもなぜか旅館を外していた。今夜も危急に間に合えるのは、わたしだけ
か。
「呪符を切らせてしまってね……不覚を取った。安全な場所で休ませて欲しい……」
「烏月さん!」
我慢できなかった。今度こそ本当にお布団を跳ね上げて、扉を開く。
【桂ちゃん、駄目……!】
その勢いで、扉についていたお札が剥がれ、あの木の白い花びらの様に舞った。ああ、
貼り直さなくっちゃ、でもそれは後回し。まずは烏月さんを助けないと。
「烏月さん、だいじょ……」
赤い光が目に焼き付き桂ちゃんが言葉を凍らせたのと、わたしがさかき旅館の一室のす
ぐ外側に現身で顕れたのは、ほぼ同時だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「うふふ、おばかさんね」
唇の端を意地悪に釣り上げ、ノゾミが呟く。
無意識に危険を察し、桂ちゃんは部屋の真ん中まで後退り、距離を取った。
「ご機嫌よう。中に入れていただけるのね」
桂ちゃんが退いて素通し状態になった入口から、ノゾミが部屋に踏み込んでくる。
「歓迎してくださるなんて、嬉しいわ」
青白い光が身体に巻き付いて、ぱちんと弾ける音がした。
「っ……大した歓迎ね……」
眉をしかめたノゾミが、振り向きもせず後ろに控えた妹鬼の名前を呼ぶ。
「ミカゲ」「はい、姉さま」
ノゾミの隣に並んだミカゲが、剥がれ落ちた呪符に目を向けると、すぐに変化が訪れた。
理科の授業で虫眼鏡を使い、黒い紙に穴を開けた事があるけど、呪符が焼け焦げていく
様は正にそんな風だった。燃える様な派手さはないけど、確実に一点ごとに蝕まれていく。
ノゾミが更に一歩桂ちゃんに近づいてきた。でも、青白い光はもう弾けない。結界の効
力はもう消えてしまっている。
「これでもう安心ね。ご苦労様」
「まだ安心するには早いのでは。昨夜の様に邪魔が入るかもしれません」
「何も心配要らないわ。あの怖い鬼切り役は、結界を張った事で安心しきって、今頃まだ
鬼ごっこに夢中じゃないかしら。それにあの女の力では、私達の邪魔なんて出来やしない
わ。
ねえ……あなた、その硬い表情は、お互いの力の差を分った上での物なのでしょう?」
本当に時間稼ぎで消える積りなのかしら。
「えっ?」
ノゾミは桂ちゃんの肩越しにわたしを見据えている。わたしの現身が昨日に較べ格段に
強化されている事も、それでも尚贄の血を得た鬼の姉妹には到底及ばない程度である事も。
桂ちゃんが勘づいて、わたしの方を振り返り、
「ユメイさん? 駄目だよ、ユメイさん危ないよ!」
ノゾミ達の存在感の濃さと強さは、桂ちゃんの目にも一目瞭然らしい。昨夜鬼の姉妹が
贄の血を飲んだ時点で、今夜の力関係も定まっていたのか。わたしは桂ちゃんの生命と健
康を害しない程度しか、飲めなかったけど…。
「あら、あなたも贄の血を飲んだみたいね」
昨日は綺麗なお言葉を口にしていたと思ったら、わたし達が居なくなった後で桂から贄
の血を啜って口にしていたの? 本当、鬼ね。
ノゾミは余裕ありげに、わたしの心を抉りに掛る。美味しかったでしょう、と微笑んで、
「遠慮なんかしないで、悪鬼は悪鬼らしく桂の生命を空っぽにする迄飲み干しなさいな」
どうせわたし達を退けたその後で又贄の血を飲む積りなのでしょう。桂を守った対価だ
とか言って。ふふっ、どっちが鬼なのかしら。
「力が欲しくて飲むわたし達も、桂を守る為とその血を呑むあなたも、所詮は同じ血を啜
る鬼、人に害を為し桂の生命を縮める悪鬼」
ミカゲの言葉は昨夜から既に千回以上わたしを苛んでいる。でも、だからこそ、わたし
はその2人の視線からも指摘からも逃げない。それは全て受け止める。全部事実なのだか
ら。
「違うよっ! わたしは、ユメイさんには望んで血を飲んでもらったの……」
「良いのよ、桂ちゃん」
桂ちゃんが必死に『任意』を強調しようとするその肩を、後ろから軽く触れて押し止め、
「経緯はどうであれ、彼女達の言う事は事実。わたしは確かに、桂ちゃんの身を害したの
よ。わたしは紛れもなく血を啜る悪鬼。桂ちゃんの生命を削って力に変えて、身を保てた
…」
でも、否だからこそ、
「せめてその力を全て桂ちゃんの守りに使う。悪鬼故に、悪鬼であるあなた達に対抗でき
る。わたしは悪鬼に落ちても消滅しても構わない。結果だけが残れば良い。桂ちゃんが無
事に明日の朝日を迎えられる、その結果だけが!」
力と力の削り合いになれば、わたしに分がないのは明らかだった。昨夜の戦いよりは少
し長く保ちそうだけど、まともに戦えば勝ち目はない。一発逆転なんて技量が明らかに上
でなければ為せない奇跡だ。後は烏月さんかサクヤさんを呼び、来る迄を何とか保たせ…。
「っ!」
わたしが密かにサクヤさんに向けて放った蝶を、ミカゲは見逃しておらず朱で絡め取る。
一室は既に鬼の姉妹の朱で半ば包まれ敵地に近い。2人はこの侭わたしを桂ちゃんごと朱
で包むだけで、わたしの息の根を止められる。
ミカゲは弱気そうな上目遣いの侭、わたしを見つめてその意図を伝えてくる。救援は呼
ばせない。完全包囲はできずとも、わたしの放つ救援要請を悉く叩き落す位ならできると。
やはりわたしが何とかせねばならない様だ。2人を2人とも足止めし、桂ちゃんを逃が
す。鬼の姉妹が難敵である以上に、その両方から逃れきる様に事を主導するのは、至難の
業だ。
本当に、時間稼ぎかその場凌ぎが精々かも。
この身の消失は覚悟の内だけど、敗北も滅亡も承知の上だけど、唯桂ちゃんの生命を…。
「ふふふっ、何をしに来たのかしら。今日こそ止めを刺されに来たの?」
ノゾミは嬉しそうに、楽しそうに、歌う様に、さえずり笑う。
「私は歓迎するわ。消滅し果てる迄、逃げずにいて下さるかしら? 封じを支えるハシラ
が消えれば、主様に窮屈な想いをさせずにすむ。主様を封じ、私から主様を……くっ?」
痛みか苦痛が生じたのか、ノゾミが顔をしかめて頭を抑えた。結界の残滓に触れてしま
った時より、見た限りは辛そうだった。微かな齟齬は、その言い直しに絡むのだろうか?
『ここ数日、わたしが赤い痛みに襲われているときも、傍から見れば、ああなんだろうか。
だけど、何だかよく分らないけど、チャンスといえばチャンスだ』
桂ちゃんが周りを見渡して、この状況をどうにか出来ないか頭を巡らせている。でも無
理をしないで。桂ちゃんは、何の修練もない唯の人なのだから。わたしが何とか守るから。
『わたしが扉を開けてしまったから、結界のお札を剥がしてしまったから……お札?』
右左と後ろの壁には呪符が貼り付いている。
「……私たちから主様を奪った責任を、今ここで、取って頂こうかしら」
桂ちゃんが後ろ向きに足を運ぶのと同時に、ノゾミから赤く透ける霧が立ち上った。そ
れは明らかに昨夜を凌ぐ。贄の血はあの後も2人に力を与え続けたらしい。桂ちゃんから
貰った一口が今もわたしに力となっている様に。それに加えて彼女達は、更に誰かの血を
も…。
「桂ちゃん、出来れば隙を見て逃げて」
下がる桂ちゃんと入れ替わり前に進み出る。
攻めや一発逆転を考えず、守りに徹すれば、尚暫くは保たせられる。朝迄保たせるのは
無理でも、2人を焦らせる位は長引かせられる。どちらか、多分ノゾミが業を煮やし、局
面打開に大技を使ってくる。その隙を待ち、撃つ。
敵の失陥を待つ他力本願で危うい橋だけど、その瞬間を逆用してどちらか片方に大打撃
を与え、もう片方に撤退か戦うかの選択を迫る。尚戦うと言うなら、再度朝迄でも守りに
徹し。
そんなに巧く行くとは思えない。相手の鬼こそ長命を保ち狡猾で百戦錬磨だ。わたしが
生き延びるだけなら芽はあるけど、桂ちゃんを守ってそれを為すのは一種の奇跡だ。
それでも、何としても守り抜く。まだ多少でも、為せる事があり力がある以上は、諦め
る事を己に許さない。投げ出す事を認めない。最期の最期迄、わたしはたいせつな人を守
る。
すれ違いざまにわたしに触れた手の感触は、温かく確かで、絶対に守り抜きたい物だっ
た
「ふぅん、逃げ出す気はないみたいね。潔さに免じて、苦しまない様に消してあげるわ」
赤い霧が、ノゾミの手に集まる様が見える。
『どうしようなんて迷っている場合じゃない。
上手くいくかどうかも分らないけれど、わたしが今すぐやるしかない』
この時点で、漸くわたしは桂ちゃんの身体と心に緊張を感じた。桂ちゃん、一体何を?
『お母さん。わたしがどじを踏まない様に、できる事なら見守っていて。
烏月さん。怖い鬼に立ち向っていく勇気を、ほんの少しで良いから分けて』
「さあ……」
ノゾミが手を振り上げたその時だった。
「ユメイさん、横に避けて!」
後ろ手に呪符を引き剥がし、身体ごと前へ。
ノゾミに向かって、桂ちゃんは呪符を握った手を突き出す。
「桂ちゃん!」「何を……?」
赤と青の光がぶつかり合って、爆ぜた。
「ああ……っ!」
ノゾミの悲鳴が響き渡る。
突き刺さる光の中で、力を使い果した呪符が桂ちゃんの手の中で、崩れ行くのが見えた。
その効果を確かめずに、桂ちゃんは右に飛ぶ。
『あった!』
二枚目の呪符を手に、部屋の真ん中に向き直る。あんなに痛そうな悲鳴だったんだから、
ちゃんと効いている筈と、桂ちゃんは強気に、
「帰って! 帰ってくれないと、もう一回同じことするよ! ……?」
でも、その抵抗は正に蟷螂の斧でしかなく。
「ふふ……、あはははははっ、まさか、そんな使い古しの呪符で刃向かってくるなんて」
ノゾミの悲鳴は、演技過剰か、驚きの故か。
桂ちゃんはそれに振り回されたと感じつつ、
「……い、痛くないの?」
「痛かったわ。とても、とても」
痛々しく焼けた手のひらに、ぺろりと赤い舌を這わせる。
「……だから同じ様にあなたを傷つけて、そこから流れる贄の血に癒して貰おうかしら」
「近づかないで!」
桂ちゃんが呪符を構えて突きつけても、ノゾミがそちらに目を向けたのはほんの一瞬だ。
赤く滾る瞳に獲物を捕らえ、足首の鈴をりんと鳴らしながら、小さな歩幅で近づいてくる。
「ふふふっ、第一印象ほど弱くないのは認めるけれど、足が震えていてよ?」
可哀相。その震え、私が止めてあげるわ。
カッと瞳の奥の熱量が増す。
桂ちゃんは反射的に視線を逸らし、呪符を持った手で顔を庇う。烏月さんが邪視と称し
た視線、あの瞳の輝きには、人を蛇に睨まれた蛙に為す力が宿ると桂ちゃんも分った様だ。
でも桂ちゃんの本当の危機はそれではなく、この数秒の動きで四人の立ち位置が変った
事だ。桂ちゃんは時々予測不能な動きを見せるけど、今回は結果わたしと桂ちゃんの間に
…。
「もう引っかからないよ。それに余計なお世話様。わたしのは武者震いだもん」
外した侭の視線の端にノゾミを捕らえつつ、強気な声は桂ちゃん自身に言い聞かせる物
か。
「……あら、そうなの?」
桂ちゃんの視線はノゾミと目を合わせない様に、その足に注意して下を向いていた。桂
ちゃんは意外にも、尚戦う意志は捨ててない。真弓さんの血がそうさせているのだろう
か?
「そう、それなら遠慮する事ないわよね?」
ノゾミの真っ白な素足が真っ直ぐに伸びた。重さを感じさせない、スローモーションの
様な緩やかさで、それでも、常の人間には反応しきれないだけの、確かな速さで跳んで行
く。
鈴の音に桂ちゃんの身体が反応した時には、もう目の前にノゾミの顔があった。
「触れられる程近くに来たわよ。息が掛る程傍にいるわよ。あなたに流れる血の熱も、胸
の動悸も感じられるわ」
それで、どうしてくれるのかしら?
「こっ……。こうするの!」
桂ちゃんは呪符を持った手で、ノゾミを突き飛ばそうとした。
それを待ち構える、小さな白い手のひら。
ぶつかり合った手のひらが、油を熱したフライパンに水を一滴垂らした時の様に弾ける。
赤と青が混ざり合い、紫電に似た光が溢れる。
「……ああ、痛かった」
受け止められた桂ちゃんの手は、ノゾミに握りしめられていた。やはり修練がなければ、
贄の血の力は作用させられない。使い古しの呪符でも、昨日の白花ちゃん位に贄の血の力
を使えたなら、もっと痛手を与えられるけど。
「それで、この次はどうするの?」
合わさる手と手の隙間から、灰と崩れた呪符が零れ落ちていく。
「まだ後があるのかしら?」
呪符は後一枚ある。あるけど、それは反対側の壁に貼ってあって、桂ちゃんの位置から
では頼みにならないし、例え使えたとしても。
背の低いノゾミの肩越しに、わたしと桂ちゃんの視線は合うけど、その間には、桂ちゃ
んの目前にノゾミが、そしてわたしの目前に、
「駄目。姉さまの邪魔はさせない」
ミカゲが立ち塞がって、逆に足止めされた。わたしより力が上のミカゲに、固く守りに
徹されると、殆ど打ち破る術がない。躱す事も目眩ましも、一撃与えて怯ませる事さえも
…。
進退窮まった。どうやっても、桂ちゃんをこの位置から救い出す力が、わたしにはない。
後はこの現身を丸ごと叩き付け、相手の怯みを祈る他に打つ手がない。それでミカゲが怯
まずわたしを受け止めて朱で包めば、終りだ。
「ふふっ、向うの呪符が欲しい? 私は別に構わないけど、あれを使ったその後は、一体
どうする積りなの?」
「後……。あれを使ったその後のこと……」
そこで遂に桂ちゃんの闘志に陰りが出た。
『四枚のお札を使った結界は、直列に繋いだ電池が豆電球を切ってしまう様に、強い力で
鬼を阻めるのだろうけど、一枚ずつでは…』
「もう抵抗はおしまいかしら?」
背中を後ろの壁に預けて、何とか立っているけれど、桂ちゃんは既に膝を屈する寸前だ。
「それじゃあ、そろそろ、頂きましょうか」
紡いだ言葉の形の侭開かれた桜色の唇から、白い肌より一層白い歯が零れていた。
『あの歯がわたしを破って、食い込んで、血を流させるんだ』
両肩を掴まれて壁に押しつけられると、蜘蛛の巣に掛った蝶の絶望が、押し寄せてくる。
赤い瞳から延びる視線の糸が、合わせた目から入り込んで、内から桂ちゃんを絡め取る。
ノゾミが笑う。
獲物を捕らえた捕食生物の笑みだった。
桂ちゃん意識が深く遠くへ突き落とされる。
「ユメイさん、ごめんね。わたしはもう良いから、やられないうちに逃げて」
「桂ちゃん……」
それは絶対にできない。それでは何の為に桂ちゃんの血を呑んでしまったのか。絶対に、
絶対に桂ちゃんを諦めはしない! わたしの生命や想いで足りないのなら、どこからでも
かき集めて間に合わせるから。必ず助け出す。
力を集約させる。一点突破だ。極限まで密度を高めて、わたしそのものを、わたしの核
である想いをその侭叩き付け、ミカゲを貫く。ミカゲだけではなく、その向うのノゾミ迄
も。
わたし自身は朱の中枢に突き刺さるから逃れ様はないけど、それでも尚この2人に突き
刺さるのが精一杯で、倒す力に至らないけど。わたしの消滅と引き替えに少しは時を稼げ
る。鬼の姉妹も痛手を蒙る。わたしの消滅をきっとサクヤさんは関知してくれる。烏月さ
んも。
『折角来てくれたのに、本当にごめんなさい。
それから、もう一人。……烏月さん、ごめんね。わたしがどじだったから、お札を役立
てられなかったよ。ノゾミちゃん達が強くなったら、後で烏月さんが退治する時に困るよ
ね。本当にごめんね』
桂ちゃんの声は聞き入れない。わたしは何が何でも桂ちゃんを助けるから。その呟きは、
絶対遺言にはさせないから。わたしが最期に向けて一歩進み出そうとした、まさにその時。
「桂さん……、桂さん!」
維斗の白刃が、赤い霧を断ち切った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
風を切る叫びが、桂ちゃんを縛る糸も断つ。力の入ってなかったその身体は、糸を切ら
れた操り人形の様に崩れ落ち。お尻を打った痛みのお陰で、意識が覚醒したらしい。
「……烏月さん?」
「遅くなった。暗くなる前には帰ってくる積りだったんだがね。……それにしても、昨日
の今日で懲りない連中だ」
部屋の中央に進み出て、銀光をもう一振り。
ノゾミとミカゲが刀を逃れて飛び退いた中、わたしは烏月さんをじっと見つめた。言い
たい事は幾つかあったけど、わたしが凝視した理由はそれではなく、彼女の身体の状態で
…。
「あ……」
桂ちゃんは昨夜の二の舞を恐れている。
でも、わたしはそれを心配はしてない。
烏月さんはそこ迄頑なな分らず屋ではないし、そうであったならわたしがこの場を引く。
一番大切なのは、桂ちゃんの守りだ。烏月さんが桂ちゃんに、害を与えるならともかく…。
「……昨夜はすみませんでした。それから、もう桂さんは大丈夫です」
「ですけど、あなたは……」
烏月さんは日中に銀座通商店街で白花ちゃんを見つけて追走を始め、この深夜迄ずっと
追跡・索敵・戦いを繰り返してきた。その疲労は、相手が白花ちゃんだけに鬼切部の烏月
さんでも並大抵ではないと、視なくても分る。
それ以上言うと目の前の敵方に余計な情報を与えるので言い淀むわたしに、
「私なら何も問題はありません」
有無を言わせぬ強い言葉で、わたしの言葉を呑み込んだ。それは強がりと言うより、桂
ちゃんを危機に晒してしまった失策の償いに、己の手で鬼を討って桂ちゃんを守りたいと
…。
「あなたが桂さんの血を呑んだ事は視て分る。桂さんの身を配慮し、量を抑えて飲んだ事
も。それ故に、そこの鬼達に対して尚劣勢な事も。それで尚桂さんを護ろうと必死だった
事も」
桂さんが心から信じた人だ。私も信じよう。
「烏月さん……」「しかし」
烏月さんは、桂ちゃんの喜びの声に被せ、
「ここは私が引き受けます。あなたは……」
力を使えば桂さんの血で補わざるを得ない。これ以上桂さんの血を呑む事を望まないな
ら、
「私が彼女達を退けます。さがって下さい」
その通りだった。わたしはあくまでスペアの守りで、繋ぎの守りだ。烏月さんかサクヤ
さんが守れる限り、わたしは直接戦わないと、サクヤさんにも約束した。状況はそうなっ
た。わたしの消耗は桂ちゃんの心配と失血を招く。
「ユメイさん、お願いだから無理しないで」
桂ちゃんの声に、今度はわたしは頷いて、
「……そうね」
烏月さんに向き直って、一礼し、
「桂ちゃんのこと、お願いします」
「任されました」
烏月さんの返事に頷くと、現身を溶かして消し、部屋の外に後退させた。ここでその侭
ご神木に戻らなかったのは、やはり疲弊した烏月さん一人に任せるのに不安が残ったから。
烏月さんは失陥を取り戻そうと必死だけど、それが彼女の力を絞り出しているけど、そ
の必死さは時に足下を掬われる危うさをも伴う。戦況を見守って、烏月さんが危うければ、
外からノゾミ達に不意打ちするなり支援を為す。
何より、烏月さんは桂ちゃんのたいせつな人だ。もしもの事があっては困る。念の為に、
サクヤさんに蝶を一羽放って置いた。サクヤさんはどうも今現在さかき旅館にいない様だ
けど、気配はそう遠くない。サクヤさんの気配を辿り、出会えたらわたしの元に戻る様に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「さて……」
烏月さんは部屋の真ん中を通り桂ちゃんの前へ来て、横に飛び退ったノゾミに剣を向け、
「一つ訊ねる。あの後人を襲って飲んだな」
「その子の物に比べれば、大したことない薄い血でも、飲まないよりはましですもの」
だけど、あなたの所為なのよ? あなたが付けた傷を埋める力が必要だったから、つい
吸いすぎてしまったんですもの。
「犠牲が出たのはあなたたちのせい」
ミカゲがその姉の言葉に唱和して、
「あなたがわたしの邪魔をするから」
「桂が私たちのものにならないから」
「え、わたしが……わたしの所為?」
違うわ、桂ちゃん。あなたの所為じゃない。
鬼の問に、烏月さんがその場で切り返した。
「桂さん、耳を傾けるな。尤もな恨みを抱いて鬼と成った者が、自分を鬼となさしめた相
手にのみ牙を向けるのであればまだしも…」
当事者以外の犠牲が出た場合、原因は鬼その物にあると言って良い。思い悩む事はない。
「ふうん、まだ若そうなのに揺れないのね」
少し残念そうにノゾミが言うのに、
「その程度の事で動揺する様では、鬼切り役は勤まらない。必要ならば人すら切る」
「そう……でも、その割には、随分と慌てていたんじゃなくて?」
ノゾミは上手に人の心の弱い処を突く。
「そんなに心配だったのかしら?
贄の血が私達の物になるのが怖かった?」
「……お前達には、関係のない事だ」
心に突っ込まれる手を払い除ける。
「あら、冷たいのね」
「もう夜も更けた。長話がしたいのなら、昼にでも出直してくるんだな。もっとも……」
それが出来ればの話だが。
維斗の太刀で話を絶った。
「これはとんだ藪蛇だったみたいね」
「どうしましょう、姉さま」
姉の判断を仰ぐミカゲに、
「さて、どうしましょうか。大事の邪魔にならない様に、そろそろ舞台から降りて頂く頃
合いかしら」
「ですけど姉さま、私たちの力はまだ」
「そうね。鬼切り役が来る前に、あの子から血を貰えれば良かったのだけれど……」
こちらに首を回したノゾミと桂ちゃんの目が合った。またあの瞳でどうにかされては大
変だと、慌てて視線を逸らす。それは正解…。
「ふふふっ……ねえ、ミカゲ。わたし、良い事を思いついたわ」
「それはどのような?」
「今日の処は諦めるの。その代り、他の処で他の血を頂くのよ。……ねえ、桂。あなたも
その方が良いでしょう?」
え……。桂ちゃんが揺さぶられた。
「あなたの代りに他の人の血で我慢するの。あなたは痛くも痒くもないから、そちらの方
が良いでしょう?」
「そんな……」
「あはっ、狼狽えちゃっておかしいったら」
烏月だったかしら、鬼切部の鬼切り役。あなたと違って、桂は面白い顔をしてくれるわ。
「明日の朝日が山から登って……」
「ひのふの、みのよの、いつむう、もっと」
「身体から血の失せた骸が見つかったと、聞かされた時の顔は、さぞや見物でしょうね」
「そんなことっ……」「させはしないっ!」
桂ちゃんの言葉に続けて、気合いと共に踏み込んで、烏月さんが維斗の太刀を突き込む。
鋼の切っ先が、ノゾミの身体を突き抜けた。
人なら血飛沫が飛び散る処だけど、現身も儚い鬼なので、時代劇で聞く様な、桂ちゃん
が予測した様な、ずびしゃと濡れた音はない。唯わたしの予測をも外したのは、鬼切部の
烏月さんが破妖の太刀を振るって尚ノゾミの霊体を断ち切れず、霧散させられなかった事
で。
「くすっ……ふふふ……」「ちいっ」
笑い声と舌打ちの中、ノゾミの身体が赤い光に霞み溶けかけていた。刃が突き抜け素通
りしている。いや、刀身に触れる端から、赤い霧は跳ね、爆ぜ、弾けて、線香花火の様な
火花を散らしているのだけれど。ノゾミの現身が贄の血を得て強化されている。砕けない。
「その破妖の太刀もあなたが持てばそんな物なの? これなら逃げる必要ないかしら?」
「決め手に欠けるのは、こちらも同じです」
「そう、千日手ではつまらないわね」
「残念ながら姉さま、朝まで掛る程少しずつですけれど、力を削られていますから、分は
向うにあります」
「……そうね。大した痛手ではないのだけれど、相性が悪い相手であるのは確かね」
肉を持って鬼への対処を心得た者は、肉を持たない鬼には厄介だ。わたしが十年前にミ
カゲに力量で劣りつつ優勢に戦いを進められたのも、確かな肉を持つ身だった事が大きい。
「とりあえず、一人追加かしら」
「だっ、駄目だよ! そんな事しないで!」
「あなたが私達の物になるなら、有象無象の塵芥なんて、どうでも良くなるんだけれど」
「それは……烏月さん、何とかならない?」
桂ちゃんの救いを求める声に応えはない。
「……烏月さん?」
「あはは、弁の立つ鬼切り役も、答えに詰まってだんまりなの? ちゃんと聞える様に言
って欲しいのだけれど?」
烏月さんは、ノゾミの挑発にも応えない。
「あらあら、本当にどうしたのかしら。本当にどうしましょうか。……ねえ、ミカゲ。何
とかして桂を連れて行けないかしら」
応えられないのではない。それは、
「違います、姉さま。早く去りましょう」
「何を弱気な……」
ノゾミは自身を傷つけられる者のいない優位に酔いしれている。隙だらけだった。
「……そうだな、聞える様に言うとしようか。私が先程から呟いていた文言はだね。オン
・マカ・シリエイ・ジリベイ・ソワカッ!」
裂帛の気合いと共に閃光が迸る。破妖の太刀に、その気合いを流し込んで、叩き付けて。
「くあぁぁぁっ! このっ、何をっ……!」
今迄のノゾミにない痛み故の叫びが迸る。
可愛らしい顔が本当の痛撃に歪んでいた。
「千羽妙見流『魂削り』。……私の属する千羽党は、現身の鬼を切る事に重きを置く剣術
主体の鬼切部だが、中にはこういう技もある。
私も役を受けた身。奥義と維斗をもってして、小鬼一匹滅しきれぬ未熟者だが、そう侮
られては代々の伝承者に申し訳が立たない」
「つっ……ああ……」
烏月さんが顔をしかめているのは、それに要する力が激甚で、保つのが大変だから。速
戦即決で決めなければ、自身がその負荷に長く耐えられない程の大技だから。この数分を、
この大技を外すと逆に烏月さんが危地に陥る。
ノゾミは維斗を引き抜かれても辛うじて立っているけどその痛手は大きくて、依代に戻
るか血を即補充でもせねば、現身を保てない。戦うどころか、この場に長くいる事も危う
い。
「では、覚悟してもらおうか。逃がすと多くの犠牲者が出るだろうからね」
次で留めとばかりに維斗の太刀を構える烏月さんの前に、代りにミカゲが進み出た。
「どちらが先であれ、結果は同じだよ」
ミカゲはその宣言に何も言い返さず、唯ずっと俯きがちだった顔を持ち上げて、血の色
の炯眼で烏月さんを睨み付ける。
『ミカゲが……大技を、為す?』
息苦しさを伴って、ピンと張り詰める空気。狭い処に閉じこめられた圧迫感に、桂ちゃ
んが胸を押されて苦しくなる様が、見て取れた。
「言った筈だ。私にその程度の邪視など…」
……効きはしない!
烏月さんは閉じた左の瞼で視線を受け止め、大きく見開いた右の瞳で弾き返し、構えて
いた維斗を振り下ろす。でもその位置と向きは。
世界が粉々に砕け、きらきらと月光に輝き、ばらばらと崩れ落ちた。窓ガラスが割れる
様な光景は、先程とは余りに反応が違っていた。
「幻術……いや、私に暗示は掛らない」
だとすると……。
「それは私たちの姿の投影」
砕けた『ガラス』の向う側で、ノゾミを支えたミカゲが呟いた。
「力でこさえた障壁に私たちの姿を写した、まやかしであっても幻ではない確かな現象」
烏月さん達が見ていたのは、彼女達の姿を写した、鏡の様な物だったのか。太古に主も、
あんな技を使った事があると感応の中で……。
ミカゲの瞳が輝いた後の数コマを飛ばした様に、2人は維斗の間合いから距離を置いて。
妹に抱き支えられたノゾミは、痛みと怒りに口元を歪めつつ、尚強気を装う薄い笑みを
浮べ、桂ちゃんと烏月さんに燃える瞳を向け、
「あなたに言われた通りに出直す事にするわ。
長話はまた今度にしましょう」
撤退宣言らしい。2人の姿が闇に溶け込む。
「待て!」
ここ迄追い詰めて逃す手はない。烏月さんは2人の気配を追って、廊下に出て行き……。
誰かの倒れる音が聞えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「もっ、もしかしてっ……」
『帰る振りをして待ち伏せていたノゾミちゃん達に、何かされたりしたとか』
本当はそうだとしたら、のこのこ出て行くのは物凄く危険なのだけど、考える前に桂ち
ゃんは廊下に飛び出していた。その目の前に、
「……?」
烏月さんが、倒れていた。……外傷はない。
『俯せに倒れ込んでいるので良く分らないのだけれど、少なくとも血溜まりに沈んでいた
りとかの、見て分る大きなケガはなさそう』
気を失っているだけと、視て分ったけど…。
「烏月、さん……?」
「……、……、……」
近づくと、緩やかに上下する背が確認でき、少しだけ安心出来た。早くも遅くも苦しげ
でもない、安らかな眠りと似た呼吸をしている。
『もしかして……本当に、寝てる?』
「烏月さん。烏月さんどうしたの?」
声をかけながら、肩に手をかけて軽く揺さぶってみる。反応はない。
「ねえ、烏月さん。烏月さんってば。こんな処で寝てると、風邪ひいちゃうよ?」
更に揺さぶると、顔に掛っていた髪がさらりと流れて、整った顔が月明かりに晒される。
『うわっ、まつげ長い……じゃなくて』
とりあえず2人揃って隙だらけにも関らず、襲われそうな様子はなし。ノゾミとミカゲ
は本当に帰ったらしい……。
『だから当面の問題は烏月さんをどうするかなんだけど、ちょっと起きてくれそうにはな
いし、こんな所に寝かせておくのは言語道断。
とはいえ、わたしより背の高い烏月さんを、部屋まで運んでいくというのは骨だ。
そりゃあ、わたし一人の苦労ですむ問題ならいいけど、ずるずる引きずって、いらない
擦り傷や打ち身を付ける訳にもいかないし。
だけど、わたしの部屋ならすぐそこだし、何とかなる……かな?』
「……ふぅ、大変だったよー」
何とか烏月さんをお布団まで運び込み、漸く桂ちゃんも、人心地つくことが出来た様だ。
わたしも手を貸したかったけど、生憎今わたしの現身はそこにはいない。この像は、桂ち
ゃんの部屋の間近に残した蝶が見守った物だ。
「烏月さんが取り落とした維斗も回収したし、制服の内ポケットに入っていたお札を貼っ
て安全も確保したし、これで一安心と」
その呪符は違うのよ、桂ちゃん。それは結界用ではなくて、さっき桂ちゃんがやった様
に直接相手に貼り付けるタイプの、呪符なの。
それで面を作っても、ノゾミ達は防げない。烏月さんがそれを桂ちゃんに渡さなかった
のは、複数種の呪符が桂ちゃんを混乱させる以上に、ノゾミ達の動きを追いきれない桂ち
ゃんに使えないと考えた為か。実は桂ちゃんは尚安全とは言い難い。頼みの烏月さんは今
…。
「それにしても、本当に寝てるだけなのかなぁ。全然起きないけど大丈夫なのかなぁ…」
一応全力は尽くしたのだけど、気概だけで天地がひっくり返る程不安定な世の中ではな
い訳で、為せば為るのは能力的に可能な範囲。
『運ぶだけで精一杯のわたしに、静かに優しくを要求するのは高望みも良い処。普通なら
絶対に起きる刺激を、何度も何度も与えてしまった。それなのに、烏月さんは死んだ様に
眠った侭で、一向に目を覚ます気配がない』
昏々と眠る様は、紡錘で指先を指して百年の眠りに落ちた、茨の森の眠り姫を彷彿させ。
としたら、王子様のキスで目覚めたりする?自然、視線が薄く開かれた唇に向ってしまう。
「うわーっ」
桂ちゃんが、一気に耳まで瞬時に赤面した。
『何だか急に恥ずかしくなって、誰が見ている訳でもないのに、自分の唇を手で抑え隠し
て辺りを見回す、挙動不審なわたし』
蝶の気配には、勘づいてないと思うけど…。
『ばか、一体何をやっているんだか』
どう考えても守られてばかりのわたしは、王子様なんて柄じゃないし。
いやね、お姫様なんて柄でもないのは重々承知なんだけど、百年早く生れていたらって、
教えてもらったばっかりでもあるし。はぁ…。
「ばかな事考えてないで、わたしも寝よう」
そう自分に言い聞かせて、宣言通りに動こうとした矢先に、桂ちゃんははたと凍りつく。
「あ……わたし、どこに寝よう」
部屋にあるお布団は一組で、そのお布団には既に烏月さんがいる。まあ夏だから、そこ
ら辺で寝ても最悪風邪を引く位で済むだろうけど、やはりお布団が恋しい事は恋しい訳で。
「どうしよう、どうしよう……」
問えども答える人はなし。辺りを見回して、結局目が留まるのは烏月さんの眠るお布団
だ。
「ううっ、いいのかな……」
『女の子にしては背の高い烏月さんだけど、羨ましい位スマートで。十センチ以上身長の
違うわたしと、一センチ程しか変らないウエストという、この不公平さ加減といったら』
不公平って言えば、容姿から身体能力から頭の中身まで、何から何まで不公平尽くしの
様な気がするけど、そんなのは今更だし。
『今一番重要なのは、烏月さんはスマートで、もう一人ぐらい隣に入っても、そんなに窮
屈じゃなさそうということ』
女の子同士だし、わたしは寝相いい方だし、お母さんとも良く一緒に寝てたし、別に問
題もないと思うけど。どうしよう、どうしよう。
『何気に選択権はなかった様な気がするけど、気にしたら負けだと思う』
「……失礼します、烏月さん」
結局桂ちゃんは烏月さんの隣に潜り込んだ。
『わたしの胸のどきどきは、くっついた二の腕から伝わってくる、緩やかな鼓動の二倍強。
ううっ、ちょっと背中を向けてみようかな。でも寝るときはいつも仰向けだから、横向
きになった処で寝れないだろうし……』
すぐ隣に感じる、暖かな鼓動。
こんな風に誰かと一緒に寝るのは、本当に久しぶりだった。最後にお母さんと一緒に寝
たのは、一体いつのことだったか。
お母さんの事を思い出すと、いつもなら胸がきゅっと縮こまるけど、すぐ隣にある温か
な鼓動のお陰で今はそうならない。
どきどきどきどき、わたしの胸は破裂してしまいそうな位に膨らんでいる。
「お母さん、わたし大丈夫だよ……」
ずっと溜め込んでいた、色々な事を思い出している内に、それがいつの間にか夢に溶け
込んで眠りにいざなう。桂ちゃん、良い夢を。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
本当にノゾミ達は引き上げたのだろうか?
桂ちゃんは今尚安全とは言い難い。桂ちゃんが貼ったあの呪符は、結界用の物ではなく、
鬼の現身に直接貼って動きを封じる類の物だ。面を作っても結界は弱く守りに信を置けな
い。烏月さんは力を使い果して眠りに沈んでいる。サクヤさんに放った蝶は、まだ帰って
来ない。
桂ちゃん達を見守る蝶を一羽残し、わたしはノゾミ達の気配の残り香をやや慎重に辿る。
依代に戻るならその所在を確定させられるし、血を求めて無関係な人を襲ってないかも気
掛りだった。それで力を増して来られても困る。
「烏月さんは、朝迄目を醒ませない」
あの時、烏月さんは『魂削り』を放つ為に、千羽の技でまだ来ぬ未来から自身の生気を
前借りしていた。でも、まさかその反動が数分後に来るとは。どうやら烏月さんは真弓さ
んと正反対で、前借りが極度に難しい、その範囲が非常に近い未来に限定される体質らし
い。
真弓さんは、個人差の範囲を超えてほぼ特異体質で、遠い未来から次々と幾らでも前借
りを為せて、故に当代最強と呼ばれたと聞く。
故に必要時はいつ迄も全力で闘い続け得る。必要と思った瞬間、いつでも己の最大限を
引き出せる。幾ら闘い続けても疲弊がない様に、必殺技を繰り出しては勝てる。元々一撃
必殺の鬼切り役の業の数々を、何度出しても更に打ち出せるなら、大抵の鬼切り役が霞む
訳だ。
白花ちゃんにも明良さんにもある程度視えたその資質が、烏月さんにはほぼゼロに近い。
彼女は数分先の未来からしか、生気を持って来られない。逆の意味での特異体質と言えた。
彼女は未来から生気を借りられない。借りたら数分で決着を付けないと、意識を失って
後は敵のやりたい放題だ。こんな危うい技は使い物にならない。烏月さんは桂ちゃんの想
いに応えようと力を振り絞ったのだろうけど。
こればかりは生れつきだ。真弓さんは別として、白花ちゃんや明良さんにも、多分歴代
の鬼切り役の水準にも、烏月さんは至れない。修行次第でそれも一定程度伸ばせると、真
弓さんは言っていたけど、烏月さんはここ迄修行を積んで来た上での話だ。故に先も見え
る。それは烏月さんも承知だろう。彼女は前借りには頼らず、己の持久力で戦う他に術は
ない。
『唯、烏月さんの真価はそこにはない……』
彼女はどうやら、気付いてない様だけど。
千羽でも多分誰も気付いてない様だけど。
『彼女は己の限界以上を、絞り出せていた』
彼女はまだ修行途上の、成長期なのだろう。その業も力も、維斗を振るってノゾミを滅
するに至らなかった。それが今の彼女の力量だ。でもあの時に、生気を前借りして出せた
力は、『己の最大限』ではなく『己の最大限以上』。
そんな千羽の業は、わたしも視た事がない。わたしは白花ちゃんと感応した。それは十
年千羽の業を明良さんの下で修練し、奥義を身につけた白花ちゃんが知りもしない業だっ
た。
真弓さんも明良さんも、生気の前借りで得られた力は己の最大限、初撃と同じ迄だった。
それ以上は出しようがなかった。故にどれだけ生気を前借りしても、初撃を当てて倒せな
い相手には勝てない。自身の最大限で届かない相手には真弓さんも白花ちゃんも及ばない。
でも烏月さんは違う。烏月さんは自身の最大限が届かない相手にも、それを越える力を
絞り出して勝てる。その可能性がある。今は技量が未熟というか成長中で気付かれてない
けど、彼女は真弓さんや白花ちゃんと違うタイプの当代最強になれる可能性を秘めている。
自身の限界を超えた力を瞬間でも出せる事で。数分後に来る昏睡のリスクは非常に高いけ
ど。
短い商店街を抜け畑の間の舗装道を行くと、
「ノゾミ……なぜ?」
ミカゲの姿が見えなかった。ノゾミは道路脇の雑草の影で、一人倒れ伏し苦しんでいる。
『罠? 追跡に気付き、待ち伏せされた?』
気付かれる程迂闊ではなかった積りだけど。瞬間、周囲に関知の力を走らせて様子を探
る。でも、周囲には力の痕跡もなく、ミカゲの気配さえ探り出せなくて。ノゾミは一人だ
った。
「ハシラの、継ぎ手……くっ!」
身構えようとしても、起き上がれずに崩れ落ちる。膝も肘も身体を支えられない。魂削
りは相当な深手だった様だ。細身な現身は苦痛に歪み、その手足はうっすらと透き通って。
「ミカゲはどこに行ったの?」
ノゾミは今脅威ではない。立場は逆転した。今ならわたしの力で消してしまう事も可能
だ。周囲に他に罠が張り巡らせてある様子もない。わたしの問にノゾミは憎々しげな目を
向けて、
「あなたに応える必要はないわ……っく!」
答を放つだけでも苦しそうだ。よく見ると可愛いと言えなくもない。あどけなさの残る
顔が、苦痛に歪むのは見て心地良い図ではなかった。見かけに流されそうになる心を抑え、
「相当な痛手を受けた様だけど、あなたの妹は姉をこんな処に置いてどこに行ったの?」
ノゾミが不快そうなのは、わたしを前にした為だけではない。敵に追い詰められた危機
感の故だけではない。味方に放置され、捨てられた悔しさが、それをわたしに言い当てら
れた情けなさが、その表情に満ち満ちている。
「ミカゲ、あの、馬鹿……私を置いて……」
瞬間、わたしの背筋を走り抜ける物がある。
関知の力が、ノゾミの少し前の像を映した。
『姉さま、ここでお休み下さい』
『依代迄は、まだあるじゃない』
ノゾミの現身は深手を負って非常に危うい。依代迄飛んで帰ろうとすれば、消えかねな
い。歩いて戻らねば、衝撃を少なく身を保たねば。その状況にわたしも昨夜何度か隣り合
わせた。
ミカゲはそんなノゾミの肩に回した腕を外し草藪の影に寝かせると、来た道を振り返り、
『追っ手の気配が全くない。旅籠には今力の存在感がない。贄の子を守る気配がない…』
これは、絶好の機会かも。
ミカゲはそう呟くと、動けないノゾミを一瞥もせず、その侭道を反転し。妹鬼は気付い
たのだ。追撃が全くない事を、烏月さんが今動けない事を、桂ちゃんが無防備な事を。そ
の血を生命を啜る為に、姉を道端に捨て置き。
「桂ちゃんと烏月さんが、危ない!」
既にミカゲは旅館に戻っているかも知れぬ。ノゾミを置いていったのは、足手纏いにな
る故か、追撃があった場合の捨て駒か。どちらにせよ、わたしもここに止まっていられな
い。
『でもその前に、ノゾミをどうする……?』
「継ぎ手……あなた、私を、滅ぼすの…?」
ノゾミが抵抗の姿勢を見せる。抵抗の姿勢など見せなくても、十年前の経緯がある上に、
羽藤の血筋に深く影を落し、昨日も今日も桂ちゃんを危険に陥れた、許し難い相手だった。
今のノゾミなら、今のわたしなら、一分もあれば姉鬼の現身を消してしまえる。依代は健
在でも、彼女に依代に戻る時間も方法もない。
彼女の生命は今わたしの手に握られてある。
十年前の仇は今わたしの手の内に捕捉した。
今後の危険を消し去る最も確実な機会が今。
手のひらに、青い輝きが集まり始めていた。
意識せずとも、叩き付けるべき相手を前に身体が臨戦態勢に入る。ノゾミが何度かわた
しにやろうとした様に、今わたしがここで力を込めた手を振り下ろせば、ノゾミは消える。
多少の抵抗はあっても、一分保たず消失する。
それを前にして、手の届く所に感じて。
すぐ後に、ノゾミの消失は見えていた。
確実だった。間違いなかった。なのに。
わたしの手は力を散らせてから降りる。
わたしの宿願はノゾミの打倒ではない。
「私を、滅ぼさない……それは、情け?」
ノゾミの瞳に浮ぶ不審はわたしにも分った。姉鬼はわたしの一撃を数十秒でも耐え凌ご
うと、最期の力をかき集め始めた処だったのだ。必ず致命の一撃が来る、それは避けられ
ない。少しでも耐え抜こう、僅かでも生きていたい。それは当然の想いだった。必然の動
きだった。そしてノゾミに振り下ろされる致命の刃も又。それが来ないとなれば、不思議
に思うだろう。
焦点も既に定かとは言えぬ上目遣いの瞳に、
「でも、その一分の時間と、力とが惜しい」
その一分で、桂ちゃんの生命が奪われ得る。それに費やした力で桂ちゃんを守れなくな
り得る。ノゾミは脅威ではない。怖いのは今この時にミカゲが桂ちゃんに牙を突き立てる
事だ。ここで時と力をかけて一匹の鬼を滅ぼすのと引き替えに、たいせつな人を失う怖れ
だ。
「あなたへの情けじゃない。これはわたしの真の望み。わたしの目的はあなたではない」
わたしの一番大切な目的は、たいせつな人の守りだ。敵を倒す事ではない。恨みを晴ら
す事ではない。この身に滾る憎しみを返す為にわたしは今、現身で顕れている訳じゃない。
今、急を要するのはたいせつな人の守りだ。
常に最も大事なのはたいせつな人の幸せだ。
わたしはノゾミにもう一度、目線を向けて、
「あなたが桂ちゃんの生命を脅かさなければ、わたしにあなたと戦う理由はない」
自力で起きて歩けなければ、依代に戻れず朝日を受けて消えるのを待つだけのノゾミに、
かける言葉は不要だと、心の片隅で囁く声はあるけど。戦わないで済ませられるなら、そ
れに越した事はない。わたしも相当甘いかも。
わたしも今来た道を反転し、さかき旅館へ駆け戻る。ノゾミは尚何か語りたそうだった
けど、耳を傾ける時間がない。無視して馳せる。わたしが彼女の味方ではない以上に、今
は桂ちゃんの身が危ういのだ。微かに危惧したけど、背後からのノゾミの攻撃はなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「贄の血……、主さま……」
ミカゲは無感動な声で短くそう呟くと、熟睡した2人の部屋を囲む微弱な結界にその手
を翳し、立ち上る赤い霧で音もなく打ち破る。
桂ちゃんも烏月さんも、疲れ果てて寝入っていた。朝迄起きる様子がない。間近に鬼の
気配が顕れてもぴくりとも反応しない。2人揃って食べて下さいと、お皿に乗った状態だ。
「無防備に過ぎる」「……あなたも!」
ミカゲの目の前に突如現れて襲う青い蝶は、わたしが桂ちゃん達を見守る為に残した物
だ。わたしがその場に駆けつけたのは、ミカゲがそれに襲われて、慌てて後退した直後だ
った。
桂ちゃん達を見守る為に残した蝶が、無防備な2人しか想定してないミカゲへの伏兵と
なった。わたしはそれを遠隔で操り、不意打ちに来たミカゲを不意打ちした。力なら尚わ
たしより強いミカゲも思わず仰け反り、場を離れざるを得ない。旅館の外の虚空に引いて、
「ハシラの、継ぎ手……こんな処で?」
折角、贄の血を。あと一歩で、主さまを…。
青い蝶を躱しつつ体勢を立て直そうとする。状況を把握しようと、尚反撃の機を掴もう
と。わたしはその暇を与えず、次々と蝶を放ってミカゲを左右に追い立て、応対に忙殺さ
せて。
「そんなことはさせないわ!」
その現身を削り行く。こちらの蝶は攻撃させつつ相手の捕食は躱し、痛手を与えて痛手
を受けず、相殺もせず。相手が百戦錬磨でも完全無欠な訳ではない。一対一で、桂ちゃん
を間近で守る必要がなければ、戦い方はある。
防戦に追われ状況を把握できないミカゲは、前後左右三百六十度に赤い力の大波を放っ
て、蝶の除去と状況の整理を望む。わたしはその大技の発動を見逃さず、蝶を上方に待避
させ、上からまとめて大きく重い一撃を叩き付けた。大技直後の硬直を撃たれ、鬼の妹の
華奢な身体が夜の公園に墜落した。桂ちゃんからは充分な距離を置かせ、障害物の多い地
上に落し。
『いや、激突の寸前で体勢を立て直した…』
地面に叩き付ける事はできなかった。でも、地面への激突を避けようと力を全開に出し
た跡が視える。気配を隠す余裕はなかった様だ。状況の把握に追われるミカゲの左右に、
既にわたしの蝶が数羽舞っていて、その身を削り。
「そ、そんな、……主さま……、うう……」
ミカゲは力で作った赤い紐を周囲に巡らせたかったのか。でも既に各所にはわたしの青
い蝶が展開していた。赤い紐を伸ばす先から断ち切り、伸ばそうとするミカゲの赤い霧を
逆に引き裂くので、ミカゲは消耗するだけで状況を優位に転換できない。先攻し場の主導
権を握った優位を、最大限活用し追い詰める。
これは機先を制し続けて意味を成す優位だ。攻撃を止めれば消え去る類の不安定な優位
だ。だからそれを、消耗や深手等の確かな結果に反映させる迄、わたしの攻勢は止められ
ない。
ミカゲが攻めを諦め消耗を防ぐ守りに回る。周囲に赤い霧を濃く纏い、それで全ての攻
撃を防ぎ絡め取る姿勢だ。わたしは蝶に一撃離脱の指示を出し、赤い霧を切り裂きつつ絡
め取られない動きで、迂遠でも確実にその力を削り。状況は十年前と似ていたかも知れな
い。
力量の大きな相手を、機先を制し巧く包囲して削る。堅い守りと強大な力は簡単ではな
いけど、攻勢を緩めず手を間違えぬ限り、ミカゲは時間は掛るけど倒せない相手ではない。
「あなたの姉にも言った言葉を、あなたにも言うわ。聞くか聞かないかはあなた次第よ」
あなたが桂ちゃんの生命を脅かさなければ、わたしにあなたと戦う理由はない。
「あなたが桂ちゃんの生命を狙わないと約束するなら、今だけあなたを見逃しても良い」
ミカゲを消し去るにはまだ結構時間が掛る。わたしの力の消耗も無視できない。もし戦
う必要なくミカゲが桂ちゃんを諦めてくれれば。彼女達の悲願である主の復活は持ち越し
だけど、それは彼女達も絶対譲らないだろうけど。当面は桂ちゃんの安全が保てれば充分
だった。
霊体の者の約束は、肉を持つ者のそれと違って簡単に反故にできない。想いだけの存在
が一度でも己の口に上らせた想いを覆す事は、自身の否定に繋りかねないのだ。受け容れ
て明言すれば言霊になって心を縛るし、約定を破れば心に棘となって刺さり続け、判断を
鈍らせ意志を挫き全ての所作に差し障り続ける。外からそれを指摘すれば、効果を倍増さ
せられる。極端な話、生殺与奪を掴む事も出来る。
一言承諾させられれば、絶対と言わない迄も相当の効果を見込める為に、守る気のない
約束は簡単に口にできない。故に妹鬼も気易く承諾しないだろうけど、一度承諾させれば。
「この侭消される事を選ぶのもあなた次第よ。どちらでも桂ちゃんの危険は減るのだか
ら」
ミカゲを包囲し、その力と生命を削る手は緩めない。承諾する迄否とみなし攻め続ける。
ミカゲは尚大きな余力を残している。心の動揺を抑えて状況を把握し、そう遠くない時
点でミカゲは残る余力を投入して反撃に出る。尚力で劣るわたしには、その瞬間こそが勝
敗を分つ。決して、間違えてはならない一手だ。
だからミカゲに全神経を集中していた。
正面の敵にのみ全能力を投入していた。
後ろから突然わたしを羽交い締めする者の存在など、考慮の外だった。不安定な優位が
消失し、余力を尚残したミカゲと背後に絡みつく腕に挟まれ、わたしは一転窮地に陥った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ミカゲっ、今よ!」
突如現れてわたしの現身を羽交い締めした華奢な腕の持ち主は、その力でわたしの遠隔
に働かせる力を全て無効化させた。間近で妨害電波を出されては、蝶達に指示が届かない。
今のわたしに較べ、大きな力ではないけど。わたしを抑える為に力を費やせば、先に消
えてしまいかねない危うい状態だけど。それでも姉鬼の介入は、わたしに重大な危機を招
く。
「ノゾミ、あなた……」
「悪いけど、情けを仇で返させて貰うわ。ミカゲの生命には代えられないから。……って、
情けでは、なかったのよね。確か」
呟きは自嘲気味だけど、行動に迷いはない。
ノゾミの表情には、既に脂汗が浮いている。あの侭倒れているだけで苦痛なのに、ここ
迄歩いてきて力を使ってわたしを抑え込むのだ。その無理は、彼女の存在を危うくしかね
ない。
「姉さま……」「何をしているの!」
意外な助けに驚き、立ちつくしているのはミカゲの方だった。動けないノゾミを見捨て、
一人で好機を掴もうとしたミカゲの危機を助けに来た。動きが遅れたのは、状況の飲み込
みに時間が掛ったのは、己の行いを知る故だ。
「不出来な妹の失敗の尻拭いは、姉の役目」
姉の叱咤に無感動な妹の目が見開かれた。
「早く、ハシラの継ぎ手を始末しなさい!」
私が継ぎ手を抑えていられる時間は、そう長くない。あなたもその事情は分るでしょう。
ノゾミも自身が消える危険を、冒している。
「今の内に、早く反撃を!」
羽交い締めで身体に絡みつき、その力でわたしの力を抑え込む。わたしはノゾミを弾き
飛ばさない限り、力を揮えなくなった。それは難しい話ではない。ノゾミは疲弊しており、
現身の維持も危うい。時間さえあればわたしは呪縛をノゾミの現身ごと粉砕できる。でも、
「はい、姉さま」
その時間がわたしにはない。わたしより濃く強い現身を保つミカゲが、大きな余力を残
した侭、その全てを解き放って攻勢に転じる。力の量で言えば尚ミカゲの方が遙かに大き
い。
「っ!」
わたしの指示が届かず制御を失った蝶達が、次々とミカゲの赤い霧に捕捉されて消失す
る。昨日と違い桂ちゃんの血を得たお陰で現身にも力が濃密で、蝶の全滅が即わたしの存
在を危うくはしないけど、大きな痛手で、力を削られる痛みは腕や足を千切り取られるに
近い。
姉鬼の呪縛を解こうと身に力を込めるけど、ノゾミは弱った力を気力で保たせ腕を解か
ず、
「ミカゲッ、早く。私が保たない……」
ミカゲの赤い紐が、わたしの手首足首と首筋に巻き付く方が早かった。絡みつくと同時
にそれはピアノ線の様に強靱にわたしの現身を締め上げて、わたしの自由と力を封じ込め。
シュッ、という音は、わたしの身を縛ると言うより締め付けて、血を噴き出させるミカ
ゲの赤い紐の動きだ。ミカゲの濃密な朱が織りなす赤い紐は、切り裂ける程に強靱らしい。
首筋と左右の手首足首から、本物ではない鮮血が細く噴き出し、月光の青を染め変える。
「やったわね、ミカゲ」
「まだです……姉さま」
人なら失血多量で死に瀕していた。現身でも血管を切られ神経を断たれ、筋肉を半ば切
断されたこの状況では身動きできない。それも唯物理的な打撃なら、修復も可能だけど…。
「っつううっ!」
濃密な朱が滲み出すので、傷口に手を突っ込まれ、掻き回され、開かれている様な物だ。
わたしの現身に宿る力の核を、想いを触れて削って、還そうと。身悶えして振り解きたか
ったけど、為せば為す程絡みつくと分るので、無理をして悲鳴を抑え、己を強く保って凌
ぐ。
ノゾミもわたしの現身に触れているけどそれは肌の上だ。ミカゲは作り出した紐がわた
しの体内に入り込んでいる。一方的にわたしが想いの核を食い破られていた。ミカゲも消
耗するけど、それは彼女の先端で取替が利く。想いの核を踏み躙られる程に、深手ではな
い。
苦痛と消耗に遠くなりかける意識を呼び戻して、尚自身を保つわたしの視線を見つめて、
「もう少し、抑え付けていて下さい」
ミカゲはが間近に歩み寄ってくる。
「抗う力と気力を削り取りますので」
両足の甲に、ミカゲが作り出した五寸釘が刺さる。紐だけでは心許ないのか、わたしを
痛めつけたいのか、肉に深く食い入る五寸釘は、わたしの動きを完全に大地に縫いつけた。
そこからも、わたしにミカゲの朱は入り込む。入って内側から、血管や神経筋肉から、わ
たしの現身を為す力を燃やして相殺し食い潰し。
ミカゲは即座にわたしを消しはしない様だ。今心臓か頭に全力の朱を叩き付ければ、身
動き取れないわたしは逃げる術もない筈なのに。
「何をしてるの、早くやってしまいなさい」
今わたしを抑え付ける拘束は前後両方から、ノゾミとミカゲ2人がかけているから盤石
だ。決まった技は力量が違っても容易に覆せない。関節を極めてしまえば、腕力で外すの
が至難な事に似ている。それを知るノゾミは、己の消耗を承知で尚わたしに絡めた腕を放
せない。それが自身の現身の危機も呼ぶので、早く決着を付けたいと、やや焦った声を上
げるのに、
「私の十年来の、恨みの相手ですから……」
弱気な表情は変らないのに、心の内が煮え滾っている。身体の動きは静かなのに、身に
纏う朱は荒れ狂って暴発寸前だ。姉への頼みが宣告に聞える。全く聞き入れる積りがない。
「もう少しです、姉さま」
「ミカゲ、あなた……?」
「もう少しで、私の恨みが全て晴らせます。
生きる束縛の全てから解き放ってあげる」
十年前、彼女達が桂ちゃんと白花ちゃんを操ってオハシラ様を還し、主を解き放とうと
した時、妨げに立ち塞がったのは真弓さんとわたしだった。真弓さんはノゾミを斬り捨て、
わたしはミカゲをあと一息の処迄追い詰めた。当時のわたしは肉の身体を持ち、霊体でし
かないミカゲに相性が良かったとはいえ、千年以上の長命を生きた鬼には不本意だったの
か。己より格下の者に追い詰められたその経緯が。
オハシラ様の魂は還されたけど、彼女達が企んだ主の解き放ちは失敗に終った。わたし
が代りに主の封じを担ったから。わたしが封じの要を、ハシラの継ぎ手を引き受けたから。
ミカゲにも、わたしは最大の障壁だったろう。本当に後一歩だっただけにミカゲの憤懣も
…。
昨夜もぎりぎりの処迄抗って保たせ、烏月さんの来援に繋げる事ができた。桂ちゃんの
血を得たとはいえ、最後迄飲み尽くせなかった事、完全に虜にできなかった事は、失敗か。
考えてみれば、彼女達の行いは寸前でわたしに妨げられてきた。彼女達の行いの妨げに
は、何らかの形でわたしが関っていた。そしてわたしは今夜の不意打ち迄も打ち崩して…。
「あなたがいる限り私達の望みは叶わない」
あなたの望みを絶つ事が悲願成就への途。
赤い力がわたしの衣を斜め縦に切り裂く。
この和服も、わたしの力で作り上げた以上わたしを守る効果を持つ、力の変形だけど…。
わたしは自身を支えられず後ろに倒れ込む。ノゾミもわたしを支える力が残ってない様
だ。それでも背後で、わたしにしがみついて離れない。一緒に倒れる。足の甲に打ち込ま
れた五寸釘が、僅かでも身体を動かすと筋肉や神経に障り、朱を掻き回し身体の中で暴れ
回る。
左の肩から右の腰にかけて、斜め縦に裂かれて血が滲む。傷が開く。現身を朱が溶かす。
その様にもミカゲは尚笑みもせず、弱気な瞳の奥に憎悪を滾らせ。それは主の怒りに近い。
ご神木の中でわたしの腕を捻り取り、足を塵に変え、胴を裂き、内臓を掴み出し引きちぎ
った主のそれに、良く似ていた。ミカゲは…。
「だからあなたに絶望を与える。あなたをひれ伏させる。あなたを戦意の根から掘り崩し、
自ら消え去りたくさせる。あなたの生きる意欲の根を断つ。ここにある己を後悔させる」
向うが見えぬ程の朱を身に纏ったミカゲが、仰向けに倒れ座り込んだわたしを追って屈
み込む。息を吹きかければ届く程に間近に来て、
「あなたは届かせる者、引き替えに叶える者。あなたの心が折れない限り、あなたが心を
塞がない限り、あなたは代償や反動を承知で自身の何かを引き替えに成し遂げる、届かせ
てしまう。怖れを教えないと、怯えをすり込まないと。迷いを疑いを、その心に植え付け
ないと。肝心な時程に、あなたが妨げになる」
あなたさえ居なくなれば、あなたが諦めさえすれば、あなたが人を守る意志さえ失えば。
「私達を妨げられる者はいない」
「ミカゲっ、何をしているの!」
早く生命を絶ちなさい。継ぎ手は、時間をおけば何かを為してくる。早く倒すの。慈悲
というよりそれは私達にとって必要なのよ…。
姉鬼の声も耳に入ってない。こんなに個の感情が先行して饒舌なミカゲをわたしも見た
事がなかった。わたしが尚そんな観察をできる己を保っている事が気にくわなかった様で、
「流石は主さまと十年共にいられた継ぎ手ね。肉体の痛みも消滅の怖れも分って尚抗え
る」
なら。ミカゲはこの時点で尚表情を変えず、帯が切れたわたしの衣の内に、右手を入れ
た。朱を帯びてないので、それは素肌に触れるだけに過ぎないけど、滑らかな手のひらだ
けど。
「ミカゲ、あなた一体、何を?」
「姉さまは、黙っていて下さい」
姉鬼の問にもまともに答えず、
「鬼と鬼の戦いでは、力で圧倒できてもあなたを泣かせる事はできない。技で倒してもあ
なたを悔恨に堕とす事はできない。あなたが自らの存在を悔い、消して欲しいと願う迄に
追い込めない。戦意を根から断ち、生きる希望を失わせ、その心を闇に閉ざせはしない」
わたしの憎しみを充分その身に刻めない。
消滅も苦痛も覚悟ある者には怖れが薄い。
わたしの屈辱を倍の倍にしては返せない。
「でも、鬼として破るのではなく、女として辱めたなら、あなたの心はどうなるか…?」
懐に入り込んだミカゲの右手が、わたしの左乳房に触れた。わたしの青い力はノゾミに
抑えられ、肌の下で激しく弾き合っている。ミカゲがわたしに絡みつけた赤い紐も青い力
の発動を抑えていた。今のわたしはミカゲの所作に対応の術はない。為される侭に、小さ
く華奢な手がわたしの乳房を握り、緩め、又強く握り。感触を確かめる様に、わたしの反
応を確かめる様に、自身の敵を確かめる様に。
「何をされるのかは、分った様ね」「……」
わたしは言葉では応えず、唯ミカゲが挫きたくて堪らない強い意志を込めた瞳を向ける。
やっても決して砕かれはしないと。わたしは絶対自らは崩れないと。その意図を越え、こ
の想いも心も、折れもせず、挫けもしないと。
「怯えないのね。最期迄怯えない積りなの?
良いわ、怯える迄、やってあげるから…」
手首足首や首筋に絡む赤い紐の戒めがきつくなる。わたしが身悶えしたらその侭肉を切
断できる様にきつくきつく、薄く切り裂く程に迄締め付けて。それもミカゲの舞台設定か。
「あなたの大切な処から焼き尽くして抉る」
弱気そうな顔つきから発される言葉は憎悪の弾丸だった。懐の内で左乳房を掴んだ華奢
な右手が、ひときわ強く抓る様に力を込めて。
バチバチバチ、青い衣の上に見える程の朱が迸る。瞬間、わたしの肌の上で何かが爆発
した。ミカゲの手に纏った濃密な朱と、わたしの現身を作っていた青い力が、ぶつかって。
ミカゲはわたしの現身を手に纏う朱で溶かして消す気だ。現身も想いも、消し去る積りだ。
想いの力が宿る現身の内、青い力の本拠に、ミカゲは膨大な朱を叩きつけ、流し込み、
相殺させて消そうとし。ノゾミの抑えで外には出せないけど、体内に迄朱が流れ込めば当
然、青と赤は激しく反発し、悲鳴を上げて互いを撃つ。凶暴な迄の朱が、わたしの現身を
為す青い力を蹂躙し、引き裂き、食い破って行く。
「く、……うぅっつっ……!」
ミカゲの右手が、わたしの現身を、左乳房を焼き尽くす。わたしの現身を為す力を破壊
して、そぎ取って、わたしの身体を抉り取る。真っ赤に燃えた鉄の棒を押しつけ突き刺さ
れ、ねじ込まれるに近い。視覚的にもミカゲの腕は肘から先が朱の霧に包まれて激しく爆
ぜて。
ビシャッ。左乳房、ミカゲの細腕のめり込む傷口から鮮血が迸る。青い衣を真っ赤に内
から染め、尚もミカゲの腕は押し進む。肋骨を砕き、肺を破り、背中へとわたしを貫いて。
細い腕がわたしの背の衣を突き当てた所で前進が止まった。それ以上進むと背後に密着
しているノゾミに当たる。ミカゲは呼吸を整え直して、突き刺した右腕を一気に引き抜く。
詰まっていた物が消え急にがら空きになった。
「かはっ!」
喉から鮮血がこみ上げる。人なら致命傷だ。想いの核を貫かれてはわたしも唯で済まな
い。でも問題はこれで終りではない事だ。必死に己を強く保ち、想いを現身を保ち続ける
けど、
「どう? たいせつな物を失った気分は…」
左手でわたしの顎を持ち上げ、瞳を向かせ、
「そう? 悔しい? 哀しい? 憎らしい?
痛みと苦しみに染め尽くされて楽しそう」
正直余りの痛みに思考が弾けて、暫く何も考えられない。顎を持ち上げられても、目線
の焦点も合わなかった。食いしばった奥歯が、消え去りそうな心を辛うじて繋ぎ止めてい
る。ご神木の中でも、何度か主に類似した事はされたけど、現身でそれを壊されるのもき
つい。
「もう片方も、しっかり焼き尽くして抉る」
顎を持ち上げていた支えが消えてすぐ、ミカゲの左手がわたしの衣の右側に突っ込まれ、
「もうすぐ全部なくなる。あなたの全部が」
生命乞いをなさい。助けを呼びなさい。哀れみを請いなさい。私に逆らった事を心の底
から悔いなさい。あなたの残された全部を握っているこの私に、頭を下げてお願いなさい。
ミカゲの左手がわたしの右乳房を強く掴む。いつでも朱を放てば消せると、想像を超え
た苦痛と喪失を前に、自ら膝を屈しなさいと言葉と視線と姿勢で求め、欲し、強要して来
る。
「何もかも失ったあなたを、贄の子の前に連れて行って、余さず見せつけ処刑するも良い。
あなたを紐で切り刻んで肉片にする様を見せつけた後で贄の血を啜るのも良い。意志も美
しさも失ったあなたを、衣を全部剥いで、肌を裂いて、全身に赤い力を穴だらけに突き刺
して注ぎ、悲鳴にのたうち回る姿を見たい」
その弱い心を自ら折って、屈従しなさい。
それを妨げる別の声はわたしの背後から、
「ミカゲっ、そんな遊びに時を使ってないで、早く止めを刺してしまいなさい」
継ぎ手はまだ反撃の意志を捨ててない。まだ抵抗の機を窺っている。この女は最期の最
期迄、諦める様な相手じゃない。諦めさせようとなんてせずに、さっさと討ち取らないと。
早く心臓か頭を朱で打ち抜いて、消しなさい。
「私が保たない以上に、何をしてくるか…」
「姉さまは、今少し保たせていて下さい!」
ミカゲが声を荒げるのは、初めて聞いた。
怒鳴るという訳でもなく、正面から強く言い返す程度だったけど、感情の浮動が極度に
少ない、操り人形を思わせる程無感動なミカゲが、なぜか今夜に限って。今夜に限って?
「姉の言う様に止めを刺さなくて良いの?」
苦しい息の中からだけど、揺さぶってみる。
今夜のこの姉妹は、微妙に息が合ってない。
さっきはノゾミの妙手に痛手を被ったけど。
2人の意志の齟齬の間に、隙が見えるかも。
ミカゲは、冷徹な声を取り戻して、
「あなたの女に止めを刺してあげる」
これだけ痛手を与えては、あなたもまともに動けない。何をしようにも手遅れで力不足。
ミカゲが右腕を使わないのは、わたしの左胸を打ち抜く為に消耗し、透き通って来てい
るから。赤と青は相殺する。ミカゲもわたしの核を掠めた以上唯では済んでない。わたし
の存在を保つ中枢と、ミカゲの手足の先とではちょっと釣り合いが取れないけど。その左
腕が凶暴な迄の朱を纏い、わたしの右の胸を。
「く、はうっ……ぅ」
ミカゲは、姉の言葉に反発したのだろうか。
或いは、わたしの挑発を受けて立ったのか。
激甚な痛みに、抑えようとしても全身がビクンビクン撥ねるのが分る。主に何度も身体
を砕かれ馴れてなければ、耐えられなかった。それに馴れるわたしもどうかとは、思うけ
ど。
唯この一撃で、わたしの現身を保つ力は完全に削られた。桂ちゃんから貰った贄の血も、
ここ迄浪費が続けば保たないだろう。この身の消滅は主の自暴自棄を招き、桂ちゃんと白
花ちゃんの死を呼びかねない。もう少しでも、在り続ける限り諦めず自身を保ち続けない
と。ああ、わたしは本当に諦めの悪い執着の鬼だ。
背中の衣に達する迄貫いた左腕を、抜き取ってミカゲが、反応を窺いに見下ろした時…、
「なぜ笑っているの?」
理性が壊れたの。それとも、壊れた振り?
わたしが浮べた笑みを見咎めミカゲが問う。
「あなたにもう抵抗の力はない。それどころかもう現身を保つ力も少ない。想いの核は残
っているけど、その両脇を打ち抜かれたあなたは、修復を為すにも槐に戻るにも力不足」
勝敗は決した。あなたは敗れた。
あなたはもうすぐ滅び去る。私の止めが無くても、こうしてあるだけで一歩一歩消滅へ
進み行く。助けは来ない。助けられる者はいない。あなたはここで孤独に無意味に消える。
「諦めの笑い? 捨て鉢の笑い? 或いは」
わたしは静かに瞳を閉じてから再び開き、