第2章 想いと生命、重ね合わせて(甲)


 何物にも覆い隠されず、満月にやや及ばない丸い月は、西の地平に消えようとしている。
その様を目線で追いつつ、硬い無表情で物思いに耽るサクヤさんの前にわたしが顕れた時、

「あんた、最期迄桂の間近にいなくても…」

 人気の失せた中庭で、一人月を眺めていた、癖のある銀髪の女性の驚きに目を見開いた
その前に、わたしは現身を取った侭降りたって、

「桂ちゃんがくれた血のお陰で、状況は激変しました。わたしの消滅は、免れそうです」

 前提が変ってしまった事を、伝えないと。

 わたしの短い言葉に、日本人離れしたスタイルを持つ美貌の人の、両の瞳が見開かれた。
 桂ちゃんが濃く宿す贄の血は、鬼と称される妖かしに膨大な力を与える。人だった頃は
その血の持ち主で欲される側だったわたしも、主の封の為にご神木に同化しており、贄の
血が力を与える事情は同じだった。桂ちゃんの血を力の源と狙って顕れたノゾミ達と同様
に。その昔竹林の姫を欲し封じられた主と同様に。

「桂の、血を……?」

 サクヤさんの顔色が、わたしの出現への驚きから、わたしの告げた内容への驚きに変り
行く様が表情で追えた。サクヤさんも羽藤の血筋に古くから関っており、その意味は分る。

「桂ちゃんの想いを受けてしまいました。
 いけない事とは、分っていながら……」

 守らなければならなかった人の、血を得た。
 助けるべき人の身体を傷つけて、力を得た。
 その生命を削る事でわたしは消滅を免れた。

 わたしが及ばなかった為に、わたしの想いと力が足りなかった所為で、たいせつな人を。
やはり鬼は、人の近くに長くいてはいけない。僅かでも近くにいる事が桂ちゃんの害にな
る。桂ちゃんの身を削って生き延びる為に、ご神木に身を捧げ、己を鬼にした訳ではない
のに。

 自身への慚愧は深く尽きないけれど。
 それはひとまず己の中に呑み込んで。
 悔恨は後で幾らでも胸に掻き抱こう。

 悔いる時はわたしには充分過ぎる程にある。
 消滅を免れご神木に永劫に宿るわたしには。
 それより今は、目の前の人に懺悔をせねば。

 目の前の人の、一番大切な人を傷つけさせてしまった事への懺悔を。わたしにとっても
大切なサクヤさんの、その一番である桂ちゃんを傷つけさせてしまった事への深い謝罪を。

「サクヤさんの一番たいせつな人を、傷つけさせてしまいました。その血を啜ってわたし
の力に変えてしまいました。その健康を害して身を繋いでしまいました。ごめんなさい」

 俯けたくて堪らない顔を上げ、まともに双眸を見つめるのは、向き合わなければならな
いから。わたしが招いたたいせつな人の哀しみを、わたしは見届けなければならないから。

 サクヤさんの怒りより、哀しみが怖かった。
 自身の行いが許されない事は、分っている。

 自身を裏切り、桂ちゃんを裏切り、サクヤさんを裏切った。その罪は深く重い。せめて
わたしはそれに向き合わないと。わたしが招いた事の結果に、反応に、向き合わないと…。

 なのに、サクヤさんは、瞳を深く潤ませて、

「……やるじゃないかい、桂も」

 ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮べた。それは、

「いよいよとなった時には、あたしも桂にそれをお願いしようかと考えていたんだよ…」

 隠しきれない嬉しさを素直に出せない照れ隠し。サクヤさんは、わたしがそのお陰で辛
うじて自身を残せる事を心から喜んでくれた。サクヤさんの一番大切な桂ちゃんの血を飲
む事で、わたしが己を保てる事を喜んでくれた。

「確かに桂は一番たいせつだけど。桂の生命が危ういならそれは求められないけど。でも、
あたしにはあんたも心の底から、大切なんだ。桂の血を少し分け与える位で、あんたが自
身を繋ぎ止められるなら。消えそうな程に消耗しきったあんたが一息つけるなら。あたし
の一番大切な桂を守る為に、無理に無理を重ねたあんたが、生き長らえる事が叶うのな
ら」

 どの位の血を注げば足りるのかが、一番の不安だったけど。あんたが受け容れた程度だ。
桂の健康に害が出る程じゃ、ないんだろう?

 それをあんたに守られた桂に求めても、鬼畜じゃない。あんたが自身を保ち力を戻せば、
桂の守りが一枚増える。桂だって話せば分ると思っていたけど、話す前に分ってやるとは。
血縁はやはり、気質が似てくる物なのかねぇ。

「自分の痛みを躊躇わない。自分が定めた大切な物の為なら、自分自身をも捧げられる」

 羽藤の血は己を顧みないばかが多いけど。

「桂にもその血は、受け継がれていたみたいだねえ……。羽藤の頑固の血と、一緒にさ」

 微かに瞳が潤んで見えたのは気の所為か。

「そういう処迄、似られても、困ります…」

 わたしはそのお陰で己を保てたにも関らず、と言うよりむしろその故に、桂ちゃんの自
身を省みない動きの危うさが、心配で堪らない。

 桂ちゃんは贄の血を持つだけで何の修練もない。一つ間違えると望んで死地に歩み行く。
唯でも鬼に膨大な力を与え、甘く匂う贄の血を持つのに、望んで危険に身を投げ出したり、
血を差し出すのでは、生命が幾つあっても…。

「だからさ、その足りない分の生命は、あたし達が払ってやれば良いだけの話だろうに」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

「少なくとも、あんたとあたしには桂の為に払う生命を惜しむ積りは、ないんだからさ」

「サクヤさん……」

「大丈夫だよ。もうあんたに無理はさせない。今からは現身を持った鬼であるこのあたし
が、しっかり桂をお守りする。あんたが消滅を覚悟して迄力を揮って戦う必要はない。荒
事はあたしが引き受ける。今度こそ、今度こそ」

 あたしは、桂もあんたもこの手で守るから。

 銀の髪が寄り添ってきて、上から被さってわたしの現身を抱き留める。わたしも随分大
きくなったけど、結局身長ではサクヤさんにかなり及ばない侭、成長が止まってしまった。
いや、身長だけではなく、胸や腰も含めて…。

「わたし、いつ迄もサクヤさんに頼って…」

 抱き寄せられる侭背中に腕を回すわたしに、サクヤさんの深い想いに応えきれぬわたし
に、

「あんたは気付いてないんだね。自分が一番、大切な人の役に立てているって事を。あん
たがいなければ何回あんたの幸せが断ち切られ、潰え去っていたか分らない事を。あんた
は人の助けも受けたけど、肝心な時には一人でも事に向き合って、逃げずに対峙していた
よ」

 だから誰かの助けが間に合えた。誰かの助けが届く迄保ち堪えられた。力は足りないか
も知れないけど、あんたが一番危うい処を繋いでくれなければ、とっくに全て終っていた。
あんたは、あたしの恩人でもあるんだよ。あたしの一番たいせつな桂を、守ってくれた…。

「あたしが返せる物は、何もないんだけどね。あんたを助け出してやるどころか、楽にし
てやる事もできない。一番たいせつな桂を助けて貰っても、何一つ。一番に想う事さえ
も」

 わたしの応えを待たずに、先んじる様に、

「だからせめて、抱き締めさせておくれ。あたしはあんたを一番に想う事もできないけど、
一番大切な桂を守って貰って何一つ守りも力も返せないけど、この想いだけは本物だから。
あんたを抱く腕と、一番じゃないけど、あんたを大切に想うこの心だけは本物だから!」

 本当に、本当に良かった。柚明が、その思いを、自身を残し続けられて本当に良かった。
桂には、幾ら感謝してもしきれない。面と向っては、恥ずかしくてとても言えないけどね。

 大きな胸に埋められたわたしの頭に、温かな雫が落ちてきた。それは哀しみの故ではな
く、嬉しさの故に。わたしたちは月明りの煌々と照す中、人気のないその一角で静かに身
を寄せ合って、想いを重ね合わせて時を過す。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 暫くの抱擁を解いた後で、わたしが桂ちゃんと烏月さんの仲直りの場を設けてと頼むと、
サクヤさんは渋い顔を隠さなかった。それはサクヤさんと鬼切部の険悪さの故と言うより、

「烏月は、あんたを斬ろうとしたんだよ?」

 あんたは、桂ほどお気楽じゃないだろう。

「烏月が桂に刃を向けたのは脅しでも、あんたを斬ろうとしたのは本気だった。あたしが
あの場に入らなかったら、烏月は桂を峰打ちか何かで気絶させて、あんたを斬っていた」

 烏月と桂を仲直りさせる事は、あんたが桂に近づけなくなるって事なんだ。桂を守りに
あんたが出ても、誤解した侭の烏月に斬られて終りかねない。そんな危険の種をわざわざ。

 サクヤさんの言う通りだった。烏月さんはわたしを斬る事を留保しただけだ。サクヤさ
んが来てくれなければ、疲弊したわたしは彼女の刃に掛って消えていただろう。彼女の疑
念は尚解けてはおらず、その視界に顕れればいつ彼女の破妖の太刀が身を貫くか分らない。

「それは、分っています」

「分ってるって、あんた。分っているなら」

「全て桂ちゃんの為です」

 その一言に、サクヤさんの全ての懸念が一蹴され往く様が、表情で見て取れた。わたし
が一番ではない。一番大切なのは桂ちゃんだ。桂ちゃんを守る人を、鬼や禍から守ってく
れる人を、一人でも多く。贄の血の陰陽を担う程に、尋常ではない程その血が濃く強く匂
う桂ちゃんのこの先を、日々の幸せを守るには。

 桂ちゃんが一番大切な事は、サクヤさんにも共通だから一言で足りる。わたしは尚言葉
を探したいサクヤさんの口の動きに先制して、

「烏月さんに分って貰うのが最善ですが、駄目な時はわたしが身を引きます。彼女が桂ち
ゃんを守ってくれるなら、頼れるなら、わたしが姿を顕す必要はありません。桂ちゃんが
安全を保てるなら、それに越した事はない」

 鬼と縁を結ぶ事は桂ちゃんの日々の幸せに影を落しかねない。わたしの守りは諸刃の剣。
夜しか現れられないわたしは昼間桂ちゃんの危機に為す術を持たないし、いずれ家のある
町に帰る桂ちゃんを守り続ける事は叶わない。

 ご神木に宿り、主を封じ続ける定めを受け容れたわたしは、この地を離れられない。桂
ちゃんと日々を共にできない。守りも助けも叶わない。だから少しでも桂ちゃんの守りを
硬く、強く、多く。桂ちゃんの重すぎる定めを未来を支えてくれる人を、分ち合える人を。

「あたしの守りでは不足かい?」

 サクヤさんの不満は、烏月さんとの不仲の故と言うより、烏月さんと桂ちゃんの仲直り
が、わたしを桂ちゃんから遠ざける故だろう。サクヤさんはわたしが桂ちゃんをどれだけ
大切に想っているか分っている。分っているだけに、目の前にいる桂ちゃんに尽くす幸せ
をお預けされるわたしを捨て置けない様だけど。

 桂ちゃんの近くにいるのがサクヤさんだけなら、わたしが近寄る余地は残る。烏月さん
がいなくても自分がいるというのは、桂ちゃんの為と言うよりわたしの為で、力点が違う。

「青珠には、力を補充しておきました……」

 わたしは笑子おばあさんを見て教わった話術で、搦め手から攻めてみる。羽藤の家に代
々伝わるお守りの青珠は、今は桂ちゃんの携帯電話のストラップになっているけど、その
真の効能は滲み出る贄の血の匂いを鬼から隠す事にある。贄の血の力の未修練な桂ちゃん
には死命を制する、必須の持ち物なのだけど。

「力が、枯渇し掛っていましたから。最後に力を注がれてから、暫く経っていた様です」

「あの夜以降は、真弓が青珠に力を込めていたからね……。真弓が逝って、もう一月か」

 青珠の力も無限ではない。電池の様な物で、定期的に力を込めなければ消耗して力を失
う。桂ちゃんの間近でそれが出来るのは、真弓さんだけだ。真弓さんは贄の血の持ち主で
はないけど、実家の千羽に似た術式があるらしい。真弓さんが亡くなった今、青珠に力を
注ぎ込める者は誰もいない。サクヤさんは話を振られて、その事に気付いた様だった。

「烏月に、青珠の力の補充を頼む積りかい」

 サクヤさんにそれができない以上、できる人に頼む他に方法はない。わたしは頷いて、

「彼女にできるかは分らないけど、彼女は千羽の鬼切部。繋りを持てば青珠に力を注げる
人にお願いもできるでしょう。わたしが青珠に力を注ぐ事はできるけど、羽様の山奥迄桂
ちゃんに定期的に足を運ばせるのは難しい」

 経観塚には鬼の目を攪乱する結界があって、青珠を身に付けなくても贄の血の持ち主が
鬼に見つかる心配はない。桂ちゃんが経観塚に居続けるなら、その匂いを気付かれないけ
ど。今後も桂ちゃんの人生の舞台は今迄育った町の家だ。桂ちゃんの今後を見守る人、桂
ちゃんの安全を確保できる人が、いないと危うい。

「わたしの事は脇に置いてください。桂ちゃんの事を第一優先に考えて。中途半端にわた
し迄心配すると、守りたく想うひとの順番を曖昧にすると、悔いの芽を残します。整理さ
れない対応は、思わぬ処で落し穴を生む…」

 わたしは大丈夫。わたしは、自分が桂ちゃんの近くにいないと耐えられない訳じゃない。
目の届く処で尽くして喜ばれたい訳じゃない。いつの間にかいなくて、気がつけば話題か
ら消え、知らぬ間に遠ざかっていて良い。逆に、

「桂ちゃんの血を得なければ、守る力も満足に揮えないわたしは、顕れないのが最善…」

 桂ちゃんを傷つける事が、その身を守る力を招き、守る為に啜る血が、その生命を削る。
わたしは桂ちゃんの近くにいる事自体が桂ちゃん自身の負荷になる。その健康に害を為す。

「お願い、サクヤさん。桂ちゃんの為に、そしてわたしの為に」

 サクヤさんの両の手を、わたしの両の手で胸の前に合わせて握って、見上げて頼むのに、

「……分った、分ったよ。羽藤の血筋に逆らえないのは、あたしの宿命なのかね。全く」

 サクヤさんは本心から渋い顔を見せつつも、わたしのお願いに了承してくれた。それで
も、

「あたしは場を整えるだけだよ。それ以上は烏月と桂の間の問題だ。2人とも子供じゃな
いし。結果が決裂でもあたしにはどうする事もできないからね。それは承知しておくれ」

 それは、サクヤさんの責任でも何でもない。
 わたしもサクヤさんの手を握った侭頷いて、

「はい。桂ちゃんが尚求めて得られないなら、そういう定めなのでしょう。わたしは唯、
桂ちゃんに烏月さんを求める気持が残っていて、求める機会があるのに、それをみすみす
見逃して、桂ちゃんに悔いの棘を残させる事が」

 そこからはわたしは言葉に出さず、

『もしわたしの推測が正しいなら、桂ちゃんは烏月さんの定めをねじ曲げてその心を引き
寄せられる。わたしの消えゆく定めをその想いと行いでねじ曲げた様に。桂ちゃんは…』

 わたしの関知の力も絶対ではない。大きな流れは感じても、個別の事柄はそうなる瞬間
迄確定しない。だから力を尽くす意味がある。だから一見駄目に視えても尚挑む意味があ
る。

「烏月は夕方風呂で桂から白花の話を聞き出していた。白花もご神木に来ていたらしいね。
烏月は明日朝から刀を持って出陣だ。桂もそれは承知だろうさ。鈍ければ、羽様の屋敷を
もう少し良く見ろとか言って、連れ出すよ」

「桂ちゃんが羽様に頻繁に来るのも問題…」

 わたしが抱く懸念はサクヤさんも承知だ。

「失った記憶に繋る赤い頭痛かい。今の桂は逃げない屋敷より、絆を繋ぎたい烏月やあん
たの宿るご神木の方が心の比重が大きい。屋敷を見るは口実で、できるだけスルーさせる
様に促すよ。羽様に行く車中でも、気付かない様ならそれとなく話を振って、烏月が羽様
の山中にいると示唆する。それで良いだろ」

 はい。日中動く術のないわたしはお願いする他に方法がない。本当にお世話になります。

「それと、ご神木には触れさせないで」

 桂ちゃんは濃い贄の血の持ち主です。

「何の修練もなくても、唯触れるだけで桂ちゃんはご神木と、わたしと感応してしまう」

「覚悟も準備もない侭に、赤い頭痛に繋る過去が全部甦ってきてしまう。それは拙いね」

 本当はそれだけではないのだけど。

「そこはあたしが上手くやるよ。桂の先に回り込んで、近づきすぎない様にガードする」

 相思相愛を隔てる悪役は、引き受けたよ。

 ま、全ては烏月があたし達の読み通り羽様に来てくれればの話さ。来ても白花を探して
山奥に入ってしまえば桂の足では追い切れないし、烏月が気付いても足を止めてくれるか
どうか。開けて見る迄分らない葛の様な物だ。

「何から何まで、お願い尽くしで……」
「あんたとあたしの大切な桂の為だよ」

 サクヤさんは再び表情を真剣に戻し、

「その代り、あんたはもう無理をするんじゃない。これ以上、身が消える程の無理をして
現身を作って戦う必要はないんだ。烏月が駄目でも、あたしがいる。あんたに消えられた
ら、桂が哀しむし、あたしだって哀しい…」

「そうですね。わたしの力は桂ちゃんの血から得た物、この身体は今や桂ちゃんの生命を
削って得た身。これを使い切る事に迷いはないけど、使い切った後で桂ちゃんがわたしに
更に贄の血を注ぎ込む事は、避けないと…」

 わたしの現身と想いを繋ぎ止めたのは桂ちゃんの犠牲だ。この身を戦いに投げ出す事は、
桂ちゃんの更なる失血を呼びかねない。わたしが拒めば良いのだけど。桂ちゃんの申し出
を拒んで一人消滅すれば良いのだけど。でも、

「桂はもう、あんたを大切な人にしているよ。
『柚明おねえちゃん』は思い出せなくても、『ユメイさん』は危険を承知で桂を守った恩
人で味方と分っている。血を差し出したのもそれに報いたい程大切な人になっていたから。
あんたに消えられて桂が寂しそうな顔を見せるのには、あたしが耐えられないからねえ」

 もう、桂が大切な人を失って、哀しみに瞳を曇らせる姿は見たくない。涙はもう沢山だ。
槐から離れられなくても、せめてあんたは健在で逢いに行けば話せると、桂の望みを繋ぎ
たい。あんたが消えたなんて言った日には桂に一体どんな顔をされるか、考えたくもない。

 サクヤさんの懸念は、わたしへの心配である以上に、桂ちゃんへの深い想いでもあって。

「分りました。烏月さんかサクヤさんが桂ちゃんを守る限り、わたしは直接戦いません」

 現身で居続けるだけで多少力は使いますが、直接戦う事を避ければ消耗はかなり防げま
す。わたしが力を揮って戦うのはサクヤさんも烏月さんも桂ちゃんを守りに来られない時
だけ。

 わたしが桂ちゃんを守るのは、誰も桂ちゃんを守れない非常時だ。わたしが桂ちゃんの
側にいられるのは、桂ちゃんが危機に瀕した時、他に守れる術がない時、禍の極みに居る
時だ。わたしが桂ちゃんの禍を招く如く。否、

『わたし自身が、桂ちゃんの禍になるから』

 より明確で切迫した危険が目の前にある時のみ、わたしは桂ちゃんの側でその身を守る。
でもそんな事は本来起るべきではない。わたしは本来桂ちゃんの側にいるべき者ではない。
わたしが桂ちゃんの禍だから。わたしが桂ちゃんの害だから。わたしが桂ちゃんを危うく
するから。いる事自体が、負荷になるから…。

 サクヤさんがわたしを気遣うのは分るけど。桂ちゃんの哀しみを想い、わたし迄案じて
くれる気持は嬉しいけど。贄の血に繋がれたわたしの本質はそこにある。わたしが動けば
動く程、守れば守る程、桂ちゃんは危うくなる。

「わたしは所詮夜の生き物。桂ちゃんに近づきすぎてはいけない者……」

 月は、いつの間にか西の地平に消えていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 結局、サクヤさんにそれ以上わたしの危惧は伝えられなかった。それはサクヤさんに話
して解決策が見いだせる物ではなかったから。自身の中から答を探さなければならないか
ら。

 夜明け前の闇に閉ざされた森の奥で、ご神木に右手をついて、わたしは一人思案に耽る。
未整理な心で主と向き合いたくない。贄の血がわたしの状況を激変させた。主がそれをど
の様に受け、応じてくるか細心の注意が要る。揺れる心で鬼神に対しては危険よりも非礼
だ。

『サクヤさんも人外の妖かしだけど。かつて笑子おばあさんの血で生命を救われ、一度は
わたしの血も飲んでくれたけど。わたしの吸血はサクヤさんのとは違う。較べられない』

 サクヤさんは肉を持って確かに生きている。大ケガを負わない限り、血を飲む必要もな
い。活力や生気の素だけど必須ではない。サクヤさんは酒豪だけど、酒がないと滅する訳
でもない。わたしとの違いはそこだ。自力で生きて戦う力も生み出せる。出力が多少違う
位だ。

 わたしの場合はそれと違う。わたしは肉を失ってご神木に宿り、確かに生きているとも
言えない、曖昧な想いだけの存在だ。わたしは現身を保つ力に不足し、無理に無理を重ね
て尚ノゾミとミカゲの片方に及ばない。わたしは桂ちゃんの血で漸く現身を保つ。桂ちゃ
んの血で漸くノゾミ達と戦う力を生み出せる。贄の血を飲まなければ、桂ちゃんを傷つけ
なければ、ご神木から生気を吸い上げた反動で、わたしの想い迄も吸い尽くされる処だっ
た…。

「今こうしてあるのも桂ちゃんの血のお陰」

 この腕も、足も、心も、何もかもが。
 わたしは桂ちゃんに生命を繋がれた。
 わたしは桂ちゃんの血で己を保てる。

 桂ちゃんを傷つけなければ存在できない。
 わたしの現身は今桂ちゃんに依っている。
 桂ちゃんを守る力さえ、桂ちゃんの血に。

 今あるこの力を桂ちゃんの為に使うのに躊躇いはない。桂ちゃんに危機が迫れば、いつ
でも己の持てる限りを注ぎ込んで守り助ける。それは前提だけど。それには迷いもないけ
ど。

『わたしの血を飲めば、ユメイさんも、元気になるんだよね?』

 桂ちゃんは、消耗したわたしに更に血を注ぐだろう。一度踏み越えたのだ。桂ちゃんの
方にも恐らく躊躇はない。わたしを大切に想ってくれるその気持は有り難いけど、身を震
わせるけど。わたしはそれを拒めるだろうか。

 どこかで、恐らく次で拒まないといけない。

 例えわたしが消滅しても、桂ちゃんからの血の提供は拒まないと。それを定着させては
いけない。際限がなくなる。わたしは現身を取るだけで力を消耗し、戦えば勝敗に関らず
力を消耗する。それを自前で補う術は殆どなく、ご神木からの補充は充分と言えないけど。
守る人の健康を害し、その生命を脅かすのは本末転倒だ。もう贄の血は飲んではいけない。

 そうでないと、桂ちゃんが本当に失血で生命を危うくしかねない。まだ安全な内に、ま
だ桂ちゃんに余裕がある内に。本当に危うい水準迄失血した後では、何かあったらおしま
いだ。一口目は受け容れてしまったけど、身に取り込んでしまったけど、もうこれ以上は。

「二口目は、絶対に拒むの。飲んでは駄目」

 こんな事は最初から分っておくべきだった。

【身体に力が満ちる実感は素晴らしいぞ。
 生気が霊体に漲る感覚は中々味わえぬぞ】

 本当に主の言った通りだった。

『贄の血は、とっても美味しいのよ。
 魂を酔わせる位に、素晴らしいの』

 本当にノゾミの言った通りだった。

『美味しい。魂をとろかす程に、濃くて甘い。
 これは本当に、鬼を酔わせる特別な血…』

 わたしが身をもって感じた。これは人の理性を壊す程に、暖かく甘美だ。力を欲する以
上に、贄の血を欲する鬼の気持が理解できた。痛みも抵抗も踏み躙り贄の血を欲する気持
が。

 鬼を酔わせ狂わせる程に甘く香る、力の源。その甘さはまだわたしの心を浸食してない
と思うけど。わたしが血の甘さと力の陶酔の誘惑に惹かれて、贄の血を求める事はないけ
ど。そんな事は、絶対わたし自身に許さないけど。

「二口目を拒めなかったら、別の意味でわたしはわたしを、保てなくなるかも知れない」

 これは麻薬に近いかも。

 ご神木から力を引き抜いた反動の悶え苦しみとは正反対の、快楽の津波にわたしは自身
を失ってしまうかも知れない。肉を失ったわたしの存在は、非常に危うく儚い。想いだけ
の存在が想いを乱される事は、致命傷になる。

 受け止めきれない程の力と充足の向う側に、何があるのか視えてこない。わたしの心が
蕩かされて、何も分らなくなって弾け飛ぶのが怖い。わたしがわたしでなくなる事が、受
け止めきれない程の力がわたしを埋め尽くして、わたしの想いも全て流し去っていくのが
怖い。

 つましく暮らしていた人が宝くじに当たって逆に人生を狂わせてしまう様に。一度の博
打の大当たりに、高揚感を忘れられず、のめり込んでいく様に。身に不相応な力の流入は
逆に自身を見失わせ、狂わせる。それが怖い。

 贄の血は一口でわたしの定めをねじ曲げた。膨大なその力が、次にどこを指すのか、誰
にも桂ちゃんにも制御できない。それを次々と受け容れ続ける事は。ノゾミ達ももしや…
…。

 わたしは拳を握りしめている事に気付いた。握りしめないと震えて止まらない拳に今に
なって気付いた。それは怖れというより怯えか。桂ちゃんの僅かな血がわたしの定めを一
変させた。次はどうなるか全く分らない。予測不可能への怖れ。自身を改変される事への
怖れ。

『わたしの怯えは、烏月さんのそれに近い』

 自身のあり方が改変されて行く。定めの末が変えられるという事は、定めの末に至る道
も変えられるという事だ。その定めを進み往くわたし自身迄も作り変えられるという事だ。

「血は力、想いも力。だから、血は心……」

 特にわたしは桂ちゃんの血を得てしまった。肉を持たず想いだけのわたしは希薄で、桂
ちゃんの血は特に濃い。その心が入り込んでくれる事は、わたしには幸せだったけど。血
と共に流れ込む桂ちゃんの想いは、この上なく嬉しかったけど。桂ちゃんと身も心も永遠
に一緒になれるのは、望ましくさえ感じたけど。

 でも今は非常時だ。鬼達は桂ちゃんの血を欲している。まずそれを防がなければ。食い
止めなければ。この身が鬼達の朱で焼き尽くされようと。守る力を得る代償に悶え苦しん
だ末に、ご神木に自身を吸い取られようと…。

 身を抛つのは前提だった。たいせつなひとを守る為なら生命を何度投げ出しても、悠久
の封印を受け容れても、地獄の悶え苦しみに晒されても良い。それは今に始る話ではなく、
わたしが続く限り終る話でもないけど。でも、

『桂ちゃんの心は、わたしが桂ちゃんを守る為にこの身を抛つ事を、許すだろうか……』

 桂ちゃんはノゾミ達にわたしの助命をお願いした。その身を委ねるから助けてと。烏月
さんにも立ち塞がって、斬らないでと頼んだ。破妖の太刀を首筋に突きつけられて尚退か
ず。

 助けに行った積りだったのに、桂ちゃんが身を投げ出してわたしを助けようとしていた。
わたしの力不足が諸悪の根源だけど、それ以上に桂ちゃんも自身が助けたい物の為に身を
惜しまぬ羽藤の裔だった。その桂ちゃんの血が、桂ちゃんの心がわたしの中に入って、わ
たしの薄い現身と想いを満たして、その後で、

『わたしが桂ちゃんを助けようと身を投げ出す時に、現身はそう動いてくれるだろうか』

 消滅を承知で立ち向わなければならない時、敗北を覚悟で踏み止まらなければならない
時、身を裂く痛みの中退く事を許さない時、わたしを占める桂ちゃんの血は、それを許す
だろうか。従うだろうか。引き留めないだろうか。

「わたしの想いに、揺らぎはない。でも…」

 己を律する事が難しい。希薄な存在が大きな力を得る事は、少人数の団体が突如多数の
新規参入を得て、統率が取れなくなるに近い。その向う側に何があるのか、その霧を突き
抜けた所にいるわたしは、果してどの様に変り果てているか。怖い。変わりゆく己の末が
怖い。一番守りたいたいせつなひとを、確かに抱けなくなるかも知れない、己の変質が怖
い。

「……ふう」

 そこ迄見通せて、漸く心が微かに落ち着く。

 解決策が見えた訳ではない。諦めた訳でもない。唯、自身の怯えの正体が見通せたから。
対処法がなくても、防ぎ止められない物でも、得体の知れぬ何物かより、どの様に恐ろし
いか見定められれば、怖さはずっと少なくなる。

 少なくとも心構えはできるし、余計に心を揺さぶられ他の事に迄影響が及ぶ事は防ぎ止
められる。迷いや躊躇いの要素が少なくなる。大切な人の危急に際して、誤りがなくなる
…。

「所詮は、わたし自身の怯え」

 たいせつな人が危うい訳ではない。的確に守れなくなる怖れは残るけど。二口目を口に
しなければ良い。わたしが自身を強く保てば。桂ちゃんの心が何と言おうと、わたしは桂
ちゃんと白花ちゃんの為なら、何度でも全てを捧げる。わたしの中で桂ちゃんの血が何を
言い、その心が何を望みその力が何を願っても。わたしの中で桂ちゃんは哀しむかも知れ
ないけど。その泣き顔は叶う限り見たくないけど。

 受け容れる。わたしは大切な人の為に最善なら、その哀しみも受け止める。泣き顔も悲
嘆もその人の為ならわたしはやり遂げて被る。本当にわたしは鬼の素養を持っているらし
い。

 忘れられる事も受容できたわたしだ。
 己の想いの消失も覚悟したわたしだ。

 大切な人に怖れられ嫌われ憎まれる事も承知した。浅ましく悶え苦しむ姿を見られる事
も知られる事も受け容れた。今更、桂ちゃんの哀しみが怖くて、身を捧げられないなんて
できようか。哀しんでくれる桂ちゃんが残るなら、この生命の使い切り方にも意味がある。

 何がどう変ってもわたしの本質は変らない。桂ちゃんの血がわたしの心を占めて嫌々し
ても、わたしはそれを踏み越えて身を捧げよう。その泣き顔も最期の幸せを繋ぐ為に必須
なら、その哀しみも彼女の未来を守る為に必須なら。わたしは鬼で良い。悪鬼で良い。大
切な人の血を啜る鬼で構わない。憎まれても嫌われても怖れられても、哀しまれても良い。
それでも尚守りたいから。守れる限り守りたいから。

 人であっても鬼になってもわたしはわたし。
 桂ちゃんと白花ちゃんを一番に想い続ける。

 傷ついても敗れても滅んでも、消え去ってもなくなるその瞬間迄、わたしはわたしだと。

 たいせつなひとの為に、己を尽くしたいと。
 いつの間にか、朝はもうそこ迄迫っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 羽様のバス停でバスから降りた桂ちゃんに、すかっと抜けた青空を透過してきた陽射し
が、たっぷりと降り注ぐ。肉を失ったわたしなら、ご神木を抜け出れば数分も経たず身を
灼き尽くす陽光も、桂ちゃんには眩暈を呼ぶ程度で。

 日中でも羽様まで来れば、桂ちゃんの動向以上に、その感触や心の表層が視える。血縁
でかつて共に日々を過した愛らしい人の魂は、見ただけで何を感じ考えているか迄視通せ
た。

 陽光の差し込む間は、わたしに心を伝える術がない。陽光は無慈悲に苛烈で、力を届け
ても現身を取っても数分で霧散する。わたしにできるのは、桂ちゃんの動向を追ってその
想いや感触にわたしの心を重ね合わせる位だ。

「あっ……」

 早速滲み始める額の汗を拭い、吸い込まれそうな程遠い空から視線を戻す。

 何もない処だった。

 目の前にはつらつらと道が続いていて、次の停車場へと走り去っていくバスが見えた。

 地面は舗装されていない田舎道。ぬかるんだら歩くのも大変そうで、この暑さを差し引
いても今日は晴れて良かった。

 眩しさに慣れた目で見回すと、右手に広がる畑とあぜ道。後ろには前と同じく、今通っ
てきたでこぼこ道。左手には蒼々たる深い森。

『停留所から少し離れた処に切れ込みが入っていて、車がすれ違えるかどうかの幅で、ず
っと奥まで続いている。お父さんが生れた家はその先にあるらしい』

【わたしが育ち、桂ちゃんも生れ育った家。
 白花ちゃんや真弓さんと日々を過した家】

「さて、行きますか」

 この暑さの中、重い荷物を持ち運んだなら、すぐへたり込んでしまう処だけど、荷物を
旅館に置いてきている今、とても身軽だ。軽い足取りで、森の奥へ続く道に足を踏み入れ
た。

「わ……」

 鎮守の森と称されるのが、分った気がした。

 たった一歩で世界が違って見えた。

 頬を撫でる風が、涼気を含んで清々しい。

 深呼吸しながら仰ぎ見ると、道なりに並んだ背丈の高い木々が伸びやかに腕を広げ、空
一面に緑の木の葉を敷き詰めていた。

 風にかき乱される度に隙間を透かした陽が降りてきて、白や黄色や薄緑の光の乱舞は万
華鏡さながら、刻々と変幻自在の様子を見せ。

 桂ちゃんはしばし声もなく、その映像に見入っていて……もしくは魅入られていたのか。

 余り上ばかり見ていたので、二歩、三歩と後ろによろけて、その領地から外れてしまう。

「痛っ……」

 カッと照りつく太陽を、まともに瞳に入れてしまい、両手で目を庇いながら顔を伏せた。

「……暑いし……」

 目の奥を刺す痛みが和らぐと、肌を焼く陽射しから逃げる様に、桂ちゃんは再び森へ入
った。今度は立ち止まらずに、前を見て進む。緑のアーケードは、ずっと先まで続いてい
た。

 余りにも雰囲気があるので、不思議の国に辿り着きそうな気さえする。そんな中を進ん
でいると、やがて距離感も覚束なくなり。道の終りが見えたのはどれ位歩いてからだろう。

 森の切れ目から、白い光が差し込んでいる。
 まるでトンネルの出口のよう。

 そして、境の長いトンネルを抜けると……。

 桂ちゃんは呆然と立ちすくんだ。

「え……なに、これ……」

 今度は目を痛めないよう、細くしかめていたにも関らず、目の奥の奥、頭の中の中に…。

 これは、昨日の、夢の痛みだ。

 電車の中と昨日の夜と。この土地に近づくようになって、二度も続けてみた夢の。綺麗
さに意識を奪われて気付かなかったけれど、森の様子からして夢の景色の写しだったのだ。

 詰まる胸から無理矢理息を吐き出し、目を固く閉じてかぶりを振る。

 気の所為。気の所為。気の所為だ。

 記憶をほじくり返そうとすると、痛みは酷くなる。だからこうして、この既視感は気の
所為だと言い聞かせれば。

【桂ちゃん……】

 どこからか蝉時雨が聞える。

 ああ、静寂をもって良しとする鎮守の森にも、当たり前だけど生き物がいて。

 何てことはない。ここも普通の森なんだと。大きく息を吸い込み、心を決めて目を開け
る。

 今度は大丈夫。何も起らなかった。

「はぁ〜」

 安堵の息をつくと同時に、漸く周りを見回すだけの余裕が出来た。

 まず、家は平屋で相当に古い。古い上に敷地は広く、離れには蔵の様な建物さえ見える。

 門や垣根はないものの、この森自体がその役割を果しているのか、家の周りだけがドー
ナツの真ん中の様に、ぽっかりと開いている。生え放題の草花にすっかり野原となった庭
さえ大目に見れば、これはお金持ちの住むお屋敷だった。黒瓦はすっかり苔生して、家迄
が周りの自然の一部となった様な風格さえある。

「すご……」

 お父さんの家はお金持ちだったのか、由緒正しい旧家だったのか。とにかくもうこれは
予想を超えている。そういえば、この辺りの大字は羽様って言ったけど、これってもしか
して『羽藤様』とかから、来ていたりする?

 桂ちゃんはドキドキを隠さず、森の出口から玄関先に点々と続く、飛び石伝いに家へ近
づく。ぴょこぴょこ石から石へ跳んでいくと、小さい頃にやった「けんけんぱ」を思い出
し、(但し「ぱ」の石はない)気持が弾んでくる。

「よっと。けーん、けーん……?」

 風が草を揺らすより重い、踏みしだく様なそんな音に、桂ちゃんは驚いて動きを止めた。

「だ、誰かいるの?」

 返事の代りに、草ずれの音。

「ねえってば」

『ふと怖い事を思い出してしまう。昨夜はあの夢を見た後に人の気配を感じた訳で、わた
しはさっき夢の風景をこの場所に視た訳で』

 耳を澄まして気配を探る。

『お化けだったら、どうしよう』

 そんな不可思議な物じゃなくても、怖い人なんかが住み着いていたらどうしよう。こん
な所で悲鳴を上げても、誰かに届く可能性はひたすらゼロに近そうで。

『一生懸命逃げたにしても、短距離・長距離おしなべてクラス平均に半歩届かずのわたし
の足は、きっと追いつかれてしまう。そうでなくても、次のバスが来る時間にドンピシャ
ならともかく、どこに逃げ込めば良いのか』

 どうしよう。

『そういえば、この町の郷土資料館に泥棒が入ったとか。全然関係ないかもしれないけど、
ここって身を潜めるには丁度良さそうだし』

 どうしよう、どうしよう……。
 何だか頭の中がぐるぐる回って、何も考えられそうにない。

 近づいてくる。音はこちらに近づいてくる。

 逃げようにも足から力が抜けて……いや、入りすぎているのか、ガクガクと笑ってきた。

【大丈夫よ、桂ちゃん】

「落ち着けわたし、こわくないこわくない」

 自分に言い聞かせる様に、呟く。
 ほら、この音、全然小さい。

『そもそも幽霊なら音も立てないだろうし、わたしより大きくて強い人なら、音だってず
っと(少なくともわたしが立てる音より)大きい筈だ。という事は……ほら、やっぱり』

 草の隙間から顔を出して、桂ちゃんを覗いているのは、片手で持ち上げられそうな小さ
な子狐だった。頭の先から尾の先まで真っ白い、北極にでも住んでいそうな子だ。そうと
認識した途端、わたしの両足から力が抜けた。

「驚かさないでよね、もうっ」

 へたり込んだ桂ちゃんはちょっと泣きそう。

「本当は怖かったんだからねっ」

 ぶちぶちと愚痴をこぼすと、その子は後ろ足で立ち上がり、頭を上下に動かしながら、
両手を胸の前で拝み合わせた。

「……それ、もしかして謝ってくれてる?」

 こくこく。

「……わたしの言葉、分るの?」

 こくこく。

 可愛らしい仕草に、桂ちゃんの機嫌が直る。

「いいよ、許してあげる」

 すると白い子は四つんばいに戻って、ふさふさのしっぽを振ったり。

「わ、本当にわたしの言葉、分ってる?」

 ぷいっ。顔をそむけたりして、今のはちょっと生意気かも……って、あれ? 本当に?

 今度は少し遠くで、さっきとよく似た音がした。大丈夫。今のわたしは落ち着いている。

 この子の家族か友達かな?

 それにしては、ちょっと音が大きい様な?

 人語を解するかの追求はひとまず置いて、お尻をついた姿勢から、首を伸ばして様子を
窺うと、人間の、それも小学生位の小さな子が、森の中へ入っていくのが見えた。

「わ、ちょっと待って! 危ないよ?」

 わたしが来た道とは違う、獣道すらなさそうな木と木の隙間を縫うように走る。

 その背中がすっかり隠れてしまう程のリュックサックを背負っているのに、驚く程速い。

 少なくとも、わたしより絶対に速い。

「ねえ、待ってよ! わたしは何もしないから、怖がらなくてもいいんだよ?」

 止める声に振り向きもせず、奥へ奥へと入っていく。すぐに見えなくなってしまった。

【桂ちゃんとの縁は、今は繋らなかった…】

 それは、果して良い事なのか悪い事なのか。まだ彼女と桂ちゃんとの縁は、繋っていな
い。

「わたしの声って、逃げなきゃって思う程怖く聞えるのかな?」

 愚痴というかぼやきをこぼすけど、聞いてくれる筈の子狐は、すっかり姿を消していて。

「……わたし、化かされてる?」

 流れる程の汗に気付くと、炎天下にしゃがみ込んでいるのが、ばかみたいに思えてきた。
わたしは立ち上がると、お尻についた土をぱんぱんと払った。ハンカチを出して額を拭う。

 よしっ、人生前向きが一番。

 今のがお化け狐だったりしたら、もう家にいた怖い物はいなくなってしまった訳だ。後
は安心して、お父さんの家を見る事が出来る。

【桂ちゃん、無理はしないで。記憶に近づく程赤い痛みは強くなる。なるけど、苦しめる
けど、それは尚真の哀しみじゃない。それを突き抜けて真実を知った時、桂ちゃんは…】

 玄関の引き戸に手をかけると、大して力を入れる迄もなく、それは軽い音を立てて開く。

 鍵が開いていたのは、前に見に来た管理の人が閉め忘れたか、誰か、例えばさっき森に
逃げていった子とか、が開けてしまったのか。

 まあ、それはいい。いいけど、頑張ってもなかなか開かない立て付けの悪さを予想して
いただけに、何だか拍子抜けしてしまった。

「……おじゃまします」

 一歩、二歩、三和土に足を踏み入れる。

「わ、意外と綺麗かも」

 少なくともぱっと見、土足で踏み入った様な跡や、どっさり積る埃、張り巡らされた蜘
蛛の巣等、立ち入る気を削ぐ要素はなかった。上がってすぐの部屋の畳も、すっかり古び
てはいるもののからりと乾いている様で、足を乗せた途端に沈む、なんて事はまずなさそ
う。

 鼻をひくつかせても不快な臭いはなかったので、上がりかまちに腰をかけて靴を脱いだ。

 ぐるりと一通り見て回る。
 改めて、とても広かった。

 小さい子供なら、走り出したくなる程広い。

 鬼ごっこ。
 隠れ鬼。

 家の中だけで充分に遊べそう。

「はぁ〜〜〜」

 ため息を吐く程広くて、懐かしい感じのする家だった。えっ。

 ちょっと待ってよ。なんで、懐かしいの?
 やっぱりわたしはこの家に来た事がある?
 それとも、写真か何かで見たことがある?

 いや、それはない。ない筈だ。
 写真は全部、焼けてしまった。

 十年前わたしの家は火事になって、写真も、お父さんも、覚えていた色々な事も何もか
も。

 みんな焼けてなくなってしまっているから。

 ……分らない。

 やってくる痛みの気配を感じて、わたしは思考にブレーキをかける。

 そうだった、考えちゃ駄目だったんだ。
 だけど、だけど……。

 駄目だよ。また頭が痛くなる。こんな所で倒れても、誰も助けてくれないんだから。
 だけど、だけど、だけどわたしは……。

 お母さんだってもういないんだから、わたしは一人なんだから。だから、せめて、家族
の想い出だけでも取り戻せるなら……。

【駄目、桂ちゃん……思い出しては駄目…】

「……えっ?」

 聞える筈のない音が、耳に。
 大きく息を呑みながら、見回して。
 何てことはない適当な広さの和室。

 古びて黒ずんだ柱。
 視線を上げる。

 鴨居の高さには縦長の柱時計。
 揺れている。

 振り子が揺れている。
 催眠術師がする様に、右に左に同じ早さで。

 右、左……。

 右、左、右、左……。

 右、左、右、左、右、左、右、左……。

 視線は吸い寄せられた侭、逸らす事も瞬きする事も出来ずに……。

 何かが噛み合う音がした。
 何かが填った、音がした。

 時計は唯の時計に戻り、振り子は単なる振り子でしかなく、桂ちゃんは漸く目を瞬かせ。

 やっと普通に戻ってくれた。
 だけど、違和感が少しだけ。

 人の気配に振り返ると、その原因が分った。
 それは桂ちゃんの奥から沸き出す過去の像。

 思い出せない、思い出してはいけない、でも思い出したくて堪らない、深い哀しみに繋
り行く幸せの一枚絵。わたしではなく、桂ちゃんが自身の深奥から拾い上げた微かな残滓。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ほらほら、そんなに急がなくても」

 まだ若いお母さんが、笑っていた。

 とても元気そうで、見ているわたしも嬉しくなり、ついつい声をかけたくなった。そし
てお母さんの手を、引っ張っているのは……。

「お母さん、遅いよ。早く早くっ」

 そうだ、記憶にある最初のわたしは、あんな風に髪の毛を短くしていたんだっけ。ああ、
わたしはこの頃からお母さんっ子だったんだ。

「まったく、お前はいつもそれだ。そんなに急がなくても大丈夫だぞ」

 あの男の人は……お父さん?

 写真でも見た事がないお父さんの笑顔は、とても優しそうだった。そして、そして……。

 わたしの名前を呼んでいるのは、お父さんでもお母さんでもなく……。

「どうしたの、桂ちゃん?」

 この声を、わたしは知っている。

「ほら、いらっしゃい」

 その絵を眺める今のわたしを見て、その絵の外にいるわたしを見て、あの人が微笑んだ。

 あ……。

 わたしの声は声にならない。
 言いたい事が沢山あるのに。
 聞きたい事が沢山あるのに。

 もどかしさばかりが募る静止した一瞬を…。

「ねえっ、早くってば!」

 少し笑顔を困らせ、それでも楽しそうにその人は、今のわたしから小さいわたしへ顔を。

 離れてしまう。

 また昨夜の夢の様に遠くに。

 声を出せないわたしは、懸命に手を伸ばす。

 待って。待って、待って……。

 丸みを帯びた幼い手が、その人の服の裾を掴んだ。それはとても幸せそうな、どこにで
もある家族の肖像。そして一瞬の白昼夢。

 だけどわたしを混乱させるには充分で。

 ぐらり……。世界が揺らいで白くぼやける。
 ずきん……。そして襲ってくる、あの赤い。
 ずきん……。あかいあかい、真っ赤な痛み。

 なだれ込んでくる痛みと眩暈にとても立っていられなくなり、時計の柱に縋る様にして、
危険な形で倒れ込むのだけは防ごうとする。

 あれ……?

 こんな時にも関らず、指が柱の表面についた不自然な凹凸の存在を探り当てた。立った
時のわたしの胸の辺りから下に向い、彫刻刀で付けた様な傷が数センチ刻みで続いている。

 水平に引かれた目盛りの様な傷と、指先だけの感覚で判別できないけど、複数の組み合
せからなる、恐らく文字らしい傷。その引っ掛りが気になって、わたしは未だ座り込めず。

「なに……これ……」

 揺らぐ意識の侭、ぼんやりと目で傷を読む。

 ハクカ。

 ケイ。

 ハクカ。ケイ。

 ハクカ。ケイ。ハクカ。ケイ。

 目盛りの脇には二つの名前が繰り返し、どんぐりの背比べ状態で……。

 ……喩えじゃなくて、本当に背比べの傷だ。

 そしてさっきのあれが捏造ではなく、焼けてしまった筈のわたしの記憶の燃え残しなら、
刻まれている片方はわたしの名に間違いなく。

 ケイ、桂、羽藤桂。

 それは分る。住んでいた家ではないにしても、ここはお父さんの実家なんだから。

 でも、それなら、もう片方は?

「ハク……カ……?」

 呟いた途端の痛みに、わたしは膝を折り、畳に突っ伏した。

 誰? 誰なの? ハクカって誰?

 痛い。痛い。わたしがここ数日の夢について考える度に、赤い痛みが襲ってくる、

 駄目……、考えちゃ。

 忘れてしまえと、夢の中の、あの人も……。
 考えなければ、痛みは嘘の様に消えて……。

 なのに。なのにわたしは、思い出したいと思ってしまった。

 ハクカって誰だろう。

 目の中のあの人や父さんと同じで、忘れちゃいけない人の筈。

 もしかして、あの人がハクカさん?

 分らない。思い出せない。唯、痛みだけが。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 わたしは荒い息で、体内の痛みを少しでも吐き出そうとする。

 駄目。そんなのじゃ間に合わない。心臓が大きくなる度に、痛みは頭にやってくる。

「駄目……出ないと……」

 気がつくとわたしは、ふらふらとした足取りで山道を登っていた。夢の記憶が示した、
森の奥のご神木へと続く山道を。その先にある何かに会いに、取り戻しに、又は確かめに。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 それは幸せの残り香だった。

 昨日桂ちゃんが羽様のお屋敷を訪れて、自身の心の狭間から呼び起しかけた温かな記憶。
わたしの心には永遠に刻まれて消える事ない、今はもう取り戻せぬ過ぎ去った日々の想い
出。

「ほらほら、そんなに急がなくても」

 まだ若かった真弓さんが、笑いかけていた。

 鬼切部の負う代償や反動は間欠的に身を襲っていたけど、不調時にはわたしが贄の血の
力を注ぎ込む事で、深刻な事態は回避できていた。強くて美しい真弓さんは、健在だった。

 この日は確か、正樹さんが経済誌に載せていたコラムが一冊の本になったお祝いで、み
んなで経観塚の町に夕飯を食べに行こうと…。

 真弓さんの手を引いている髪を短めに切り揃えた子供は、白花ちゃんだ。みんなでお出
かけの時は桂ちゃんの面倒を誰かが見るので、普段より白花ちゃんも伸びやかにはしゃい
でいる。逆に言うと幼子の頃から、白花ちゃんはお兄さんとして桂ちゃんを思いやってい
た。

 正樹さん達もわたしも、そんなお兄さんの責任感を一歩引いて見守っていたけど、それ
は白花ちゃんには成長の糧になると同時に結構な重荷だったかも知れない。こうしてみん
なで動く時位それから解き放ってあげようと。

「お母さん、遅いよ。早く早くっ」

 白花ちゃんが普段よりはしゃいで伸びやかになると、いつも白花ちゃんより元気でみん
なの注意を引く桂ちゃんの影が相対的に薄くなる。なので、白花ちゃんが元気いっぱいに
なると桂ちゃんは遠慮気味だったり、やや拗ねたりしてしまう事もあった。半歩後ろに下
がり、いつもの白花ちゃんの位置取りでみんなを眺める桂ちゃんは、わたしが受け止める。

「まったく、お前はいつもそれだ。そんなに急がなくても大丈夫だぞ」

 みんなで出かける時に、弾けた様に喜びを出す白花ちゃんに、正樹さんはいつもの事な
がら困惑気味で、それでも優しそうに微笑み。

「どうしたの、桂ちゃん?」

 桂ちゃんの気持は、察している。それで尚問うのは、桂ちゃんに自身の気持を整理して、
自分で表し伝えて欲しいから。察したからと全て先回りして応対しては、桂ちゃんが為さ
れる事だけを憶えて、自ら為す事を憶えない。

 家族の中だけで生きるならともかく、世間で色々な人と向き合い交流するには、気持を
整理して把握し、分って貰える様に自ら努める必要がある。そうできる様に、導きたいと。

「ほら、いらっしゃい」

 白花ちゃんの喜びを中心に回る家族の図に、少し羨ましそうに外から眺める桂ちゃんに
向け、わたしは微笑みかけた。あなたは大切な家族の一員、わたしの一番大切な人、あな
たが求める事をあなたの意志で表して伝えてと。

 あなたの求めにわたしは渾身で応えるから。
 あなたの願いにわたしは満身で応じるから。
 あなたが心を表す瞬間を、待っているから。
 何でも投げかけて。全てを受け止めるから。

「ねえっ、早くってば!」

 白花ちゃんが、真弓さんの手を引いている。はしゃぎ過ぎな白花ちゃんを暫く任せてし
まう事に申し訳なさを感じる。笑顔を困らせて見えたのはその所為か。それでもわたしは
微笑みつつ、白花ちゃんから桂ちゃんへ視線を。

 白花ちゃんの、丸みを帯びた幼い手が、わたしの服の裾を掴んだ。自身の幸せをみんな
に分かち与えたい白花ちゃんに、笑顔を返す。それはとても幸せそうな、どこにでもある
家族の肖像だった。幼い日に桂ちゃんが眺めた、記憶の狭間から浮び上がった一瞬の白昼
夢だ。

 桂ちゃんの後ろの柱には、背比べの跡が刻まれている。白花ちゃんと桂ちゃんの、3ヶ
月毎の身長がそれぞれに。わたしが柱に傷を付けてしまったけど、亡き笑子おばあさんが
古い屋敷だから良いよと笑って許してくれた。

 目盛りの脇に二つの名前が繰り返し、どんぐりの背比べで続く。桂ちゃんと白花ちゃん、
わたしの一番たいせつな人の成長の記録が…。

 それを、桂ちゃんは思い出してはいけない。
 それを、わたしは思い出させてはいけない。

 それは蓋をして封じなければならない記憶。
 温かいけど決して甦らせてはならない記憶。
 取り戻す事が痛みを越え哀しみに繋る記憶。

 わたしの過去も桂ちゃんの無意識の底に封じ続ける。忘れ去られた存在として留め置く。
触れさせてはならない。掘り返させてはならない。だから、余り近づきすぎてはいけない。
鬼が贄の民の害になる以上に、わたしは桂ちゃんの記憶を呼び起しかねないので、その心
に深く残る事も留められる事も、忌避せねば。

 わたしは見知らぬ他人の助けで良い。サクヤさんや烏月さんのスペアで充分だ。もっと
確かで強い人達が、守りに来られぬ時だけ補う存在で。彼らが守りに来る迄の間の繋ぎで。

【成果を分ち合おうとは思わない。結果を共に味わおうとは望まない。想い出してくれる
日なんて夢想しない。わたしはわたしのたいせつな人の為に、己を尽くしたかっただけ】

 桂ちゃんが想い出せなくても、わたしは記憶に刻み込んでいる。肉は失ったけど、想い
だけの儚い存在になったけど、その想いの核にわたしは、双子との日々を刻み込んでいる。

 わたしは絶対忘れない。それで幸せ。身に余る程幸せ。2人と過せた日々があった事が、
それを確かに抱ける事が、消える瞬間迄その記憶と共にいられる事こそが、わたしの幸せ。

【誰に知られなくても、わたしが知っていれば良い。誰に忘れ去られても、わたしが守り
通せれば良い。返される想いなんて求めない。わたしが、たいせつなひとを守りたかった
の。
 わたしはわたしが愛したから為しただけ。気持を返して欲しいなんて、思わない。憶え
ていて欲しいとも、感謝して欲しいとも…】

 人の身体も、生も死も、人である事も捧げ終えたわたしだけど。それで尚今のわたしに
捧げられる何かが残っているなら。捧げます。遠慮なく持って行って。たいせつな人の為
になら、わたしは己に尚残る全てを捧げられる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【帰り着いたか。しかもその現身の濃さ…】

 わたしの帰着を迎え、その濃く確かな存在感を見た時、主も驚きに目を見開いた。今度
ばかりはわたしも帰途はないと思っていたし、帰れてもまともな状態でないと予期してい
た。

 出陣に際しご神木から吸い上げたのは、唯の封じの力ではない。白花ちゃんから盗用し
た千羽の技で、ご神木のまだ来ぬ日々の生気迄吸い上げた。真弓さんや白花ちゃんがそう
だった様に、それは当然に代償と反動を伴う。

 本来は内向きにしか働く事を考えておらず、主を封じる為のみに使われるべき力の殆ど
を、数十日分も一気に前借りして現身を取り、返す当てもなく外に向け鬼との戦いに費や
した。

 例え勝って戻れても、待っているのは心を削り理性を壊す絶望的な渇きの長久だ。力に
不足したご神木も悶え苦しみ、生存の為に手段を選べず、わたしから力を吸い上げる。わ
たしに差し出せる力の当て等なく、肉を失い想いだけの存在となっているわたしは、その
想いを、わたし自身を吸い上げられ消失する。

 昨夜ここを出る時点で、それはほぼ確定していた。封じの要が外に出て戦うという事は、
それに必要な力を抜き取るという事は、そう言う事だった。それはわたしも承知していた。

 帰り道のない事は前提だった。それを考えては守りに出られなかった。助けに行けなか
った。だから全てを抛って駆けつけた。わたし自身に勝敗は意味が薄かった。唯今夜桂ち
ゃんを守り抜ければそれで良かった。この身も想いも消えてなくなる事は覚悟の上だった。

 だから、この様にして戻れたわたしを見た主の驚きはそう長くなく、原因の推測に向く。
ご神木の中の虚像世界で、戻り来たわたしの両肩を掴んで感触を確かめる手は震えていた。

 主も鬼神の察知でわたしの概要を掴めた様だ。驚愕の色が薄れ、瞳に意志が戻って来る。

【贄の血を得たか……そうか、そうかっ!】

 はっははは。主が哄笑を見せるのは珍しい。

 笑みと言えば何かを含んだ様な皮肉な物か、戦意と闘志が宿る獣の視線を伴う笑みが殆
どの主が、全てを突き抜けた哄笑を見せるとは。それはまるで、己が運命に勝利したかの
如く。

【お前も遂に正真正銘の鬼になり果てたか】

 主の哄笑はわたしの心に抉る様な傷を穿つ。それはわたしが尚わたしであり続けられる
事、生き長らえた事を喜ぶ主の想いを表していたけど、その指摘はわたしの心を削る物だ
った。

 どの様な理由であれ、どの様な経緯であれ、桂ちゃんが傷ついて血を失った事と、わた
しが桂ちゃんの血を飲んで力を得た事実は動かせない。わたしは正に、血を飲む悪鬼だっ
た。

 わたしの行いは、主やノゾミ達と変らない。
 わたしの存在は、主やノゾミ達と変らない。

 この悔しさは、主に向けるべき物ではなく自身に向けるべき物だ。この怒りは、主に向
けるべき物ではなく、自身に向けるべき物だ。この哀しみは己の行いと選択の末で、哀し
まれるべきはわたしではなく、桂ちゃんだった。

 桂ちゃんは何の咎もないのに。望んで贄の血を継いだ訳でもないのに。自身の過ちでノ
ゾミ達に襲われた訳でもないのに。その末にわたしに迄血を吸われなければならないとは。

 肉親に血を吸われ、信じた者に血を飲まれ、身を委ねた者に血を与え。記憶を失ってい
た事が救いだった。桂ちゃんが血を飲まれたのは初見で他人の『ユメイさん』だ。『柚明
お姉ちゃん』ではない。それが不幸中の幸いか。

【大した分量ではないのにその力の強さ…】

 流石は贄の血の陰陽か。さぞ旨かったろう。
 それを否定できないわたし自身が呪わしい。
 生命を繋いだ贄の血はこの上なく甘かった。

 わたしの現身を満たし、心を満たし、近日消えてなくなるわたしの定めを、ねじ曲げた。
消えゆく想いを繋ぎ止め、霊体を賦活させた。

 それによって、主は尚封じ続けられる事になったのだけど。千年の時の末に甦る寸前で、
またもや封じの壁に阻まれてしまうのだけど。その悔しさ迄含みなのか、主の問いは鋭く
て、

【どうだった、たいせつなひとの血の味は】

 守ろうとした者の生命の味は。
 助けた者の身体を害した味は。

 主は本心から喜んでいる。わたしが悪鬼に堕ちた事よりも、わたしが生命を繋げた事を。
わたしが守りたい人の血で自身を保てた事を。

 主はわたしを大切に想っている。それは間違いないけど。敵同士でも封じられた鬼神と
封じの要の関係でもそれは真実だけど。その想いにわたしは絶対応えられない。主の流儀
の愛はその侭では害だ。竹林の姫を好いた太古から、主は全く変ってない。唯己の想いを
叩き付けるだけで、相手の想いを斟酌しない。考慮しない。気遣わない。それは主が強大
に過ぎて他者の意向を伺う必要がなかった故か。大切に想う人にも、大切に想う物がある
事を、主は今尚知りもしないし、知ろうともしない。

【悪鬼に堕ち果てた気分はどうだ。己の課した縛りから解き放たれた感触はどうだ。それ
が自由だ。妨げる者のない自由の味だ。それを口にして、身を浸して、お前は何を想う】

 主は贄の血を注いでわたしを長らえさせれば良いと本気で考えている。桂ちゃんや白花
ちゃんを害してでも、わたしの生存を望むと。主にとってはわたしだけが大切な人で、他
はそうでないから。故に主は、躊躇いなく桂ちゃんや白花ちゃんの生命を奪い、その血を
わたしに注ぐだろう。それが主の流儀の愛情だ。

 でもそれはわたしには害以外の何でもない。
 それはわたしの悲嘆と絶望を意味している。

 故に主をいよいよ解き放つ訳には行かない。
 身体は主に抱き寄せられるのに任せつつも、

【わたしはそんな自由なんて、欲しくない】

 大切な人を傷つけ、不幸にして、生命を危険に晒して得る自由なんて要らない。不自由
を幾ら背負っても、わたしは大切な人に幸せになって欲しい。日々を笑って過して欲しい。

 痛みは全部わたしが背負うから。哀しみも苦しみも全部わたしが背負うから。背負った
事実も忘れて構わないから。わたしに自由があるならそれと引き換えに大切な人に幸せを。

 今迄主を解き放てなかったのは、主には最早大切な物がない為だった。深く愛した竹林
の姫を失った主は、己が自由を欲し求めた末に主を慕う鬼達の手でオハシラ様だった竹林
の姫の魂を還された主は、最早真に求め欲する物がなく取り残された。共に自由を謳歌し、
生を分かち合う大切な者がいなくなった末に自由を得ても、使命も居場所も戻る所もない
主は、自由の故に自暴自棄に陥る。その末に、八つ当たりに贄の血を求め力を欲する。そ
の事態を防ぐ為に、主の為に封じは必須だった。

 今や状況は変った。変ってしまった。それを変えたのはわたしだった。まさか主がわた
しを好いてしまうとは。生贄として貪るのでなく、敵として打ち砕くのでなく、慰み者と
して弄ぶのでなく、大切な物として愛すとは。

 封じの要と封じのない自由と。竹林の姫を好いた太古から、主は矛盾を求め続けていた。
よりによってその後任者に迄同じ想いを抱くとは。本当に、救われない鬼神。救いようの
ない蛇神。でも、微かに愛しい。されど解き放つ訳には行かない山の神。赤く輝く星の神。

 主が己の想いを自覚した以上。外に出て自由を共に謳歌したい者ができた以上。主はそ
の為に己を尽くす。主は常に己の想いにのみ率直な鬼神だった。他者の意向など斟酌せず、
大切な人の想いも考えない。己の意志が先にあり、それを向ける事しか考えないのが主だ。

 今迄は解き放っても無自覚に荒れ狂う鬼神だったけど、これからは解き放てば自覚して
荒れ狂う鬼神となる。わたしが望まなくても、不要だと生命がけで頼んでも主はわたしに
贄の血を注ぐだろう。拒む為にわたしが己の生命を絶てば、そこで主は再び自暴自棄に陥
る。鬼神が贄の血の民に害になる状況は、全く好転していない。解き放つ事が全てを壊す。
結局主は何があっても絶対解き放てない存在だ。

【わたしがどういう存在かは身をもって知りました。あなたの言う通り、わたしは既に肉
親の血を啜る悪鬼です。この身を今保てているのは、桂ちゃんの身体を傷つけ、その生命
を削った故。わたしは今や、この現身も存在も想いさえ、大切な人の犠牲の上にある…】

 その想いは今も身を苛むけど。わたしがわたしであり続ける限り永劫に苛み続けるけど。
それでも尚。生きたいという己の欲求以上に、桂ちゃんを見守りたいという己の願望以上
に。

【わたしはわたしの意志では死を選べない】

 わたしは主を封じ続けるハシラの継ぎ手だ。鬼神を抱き留め還し行く封じの要だ。そし
て、間近に桂ちゃんを脅かすノゾミ達からその身を守る為に。わたしは自身を保たねば、
己の職責を果たす事さえ叶わない。これ以上の血は絶対受けず、貰えた力は確実に桂ちゃ
んと白花ちゃんの為に使い切って応えて行く他に。

 主の腕が背中に回り、わたしは主の胸板に右の頬をつけて抱き留められる。わたしの両
手は主の腹部に張り付き、力を込めれば剥がす体勢に入れるけど、抗いが無意味な以上に、
今はわたしに拒絶の気持もない。ご神木の中での主との長久も、わたしの受容した定めだ。

【遠慮せずに、飲み干せ。贄の血を力に変え、その生と自由を謳歌するが良い。何を躊躇
う。最早悪鬼に堕ちたお前に、迷い等無意味ぞ】

 主の言葉は事実だった。やってしまった事を、なかった事にはできない。取り戻せない。
この身は業の深奥に踏み込んだ。その生命を空にする迄飲み干しても、一口でも二口でも、
人の血を啜る悪鬼である身に最早違いはない。

 問題は、桂ちゃんの生命と健康だ。わたしが穢れた悪鬼でも、罪深くても死に値しても、
それは一番の問題ではない。桂ちゃんの健康と守り、その身体と心を常に最優先にせねば。

【わたしはもう、桂ちゃんの血は飲まない】

 例え桂ちゃんが望んでも、差し出しても、それを拒む事で桂ちゃんが哀しんでも。力に
不足しても、己が消失しても。贄の血の甘さに理性を失う怖れより、そのもたらす圧倒的
な力に心迄呑み込まれる怖れより、大切な人を一歩一歩死の淵に押しやる事が何より怖い。

 わたしが関れば関る程、桂ちゃんの生命が危うくなる。わたしが守れば守る程、桂ちゃ
んの身が削られる。それだけは避けたいのに。わたしの存在自体が、桂ちゃんの負荷にな
る。在るだけで、居るだけで、桂ちゃんの害に…。

 今更ながらに、己の業の深さを噛み締める。

 噛み締めたとしても、わたしにはこの途しかなかったのだけど。主を封じ続ける為には、
桂ちゃんと白花ちゃんの幸せの基盤を支える為には、非力なわたしは己を鬼と変える他に
術はなかった。一番大切な2人とどれ程隔てられようと、それを為さなければ2人の幸せ
が保てないなら、選択の余地はなかったのだ。

 わたしは全て承知で受け容れた。だからこそこの今がある。わたしは今を捨てはしない。
過去も決して捨てはしない。ずっと確かに抱き続ける。間違っていたかも知れない選択も、
わたしの中に受け止める。その結末も、苦痛も悲嘆も絶望も、全部わたしは受け止め切る。

 わたしに、生きる意志をくれたひとの為に。
 わたしの心を照し出してくれたひとの為に。
 桂ちゃんと白花ちゃんを想う己自身の為に。

 わたしはどこ迄堕ちても良い。何を失っても憎まれても、怖れられても哀しまれても耐
えられる。重要なのは大切なひとの守りだけ。絶対に、絶対にこれ以上その血は口にしな
い。

 伝えると言うよりわたしの意志の再確認である答に、主は思念では応えなかった。代り
に主は、わたしを抱き竦めた侭無言で性交に入る。それはこの十年、主がわたしに為して
きた鬼の憤怒ではなく、感応の中で視た事もある、竹林の姫に為してきた神の寵愛だった。

 いつの間にか、東の空が白み始めていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 主は心の底から自由を尊んでいる。己の痛みや悲しみと、甚大な損失と引き換えにして
も尚。愛していた先代のオハシラ様を失ったのも、その深い自由への渇仰の故だった程に。

 故に例え敵でもその自由を妨げる事を主は望まない。主の行く手を遮るなら、正面から
想いをぶつけ合うけど。主の想いを貫く為に障害となれば、遠慮なく蹴散らすけど。そう
でないのに、嫌がらせで他者の想いや行いを妨げる事を主は望まない。自身に望まないだ
けではなく、間近で他者がそれを為す事も又。

 故に主は、己の大切な者が真の想いを貫く様も止められない。昨夜は止めたけど、必死
になって止めたけど、己の自由を諦める寸前迄思い詰めてわたしの死出の旅を止めたけど。

『お前を失いたくない。お前がこの侭消滅に向い行くのを見てはおれぬ。お前を欲する己
の心の侭に、わたしはお前を行かせない!』

 それでも止め得なかった。わたしの自由と真の想いを阻む事は、本意ではなかったから。
わたしの敗北が目に見えても消滅が分っても、最期は掴んだ手を放し、見送る他に術はな
く。

 最後に判断の天秤を傾けたのは、主の自由への想いだった。わたしを留める事は封じを
尚もう暫く保たせる。自身の自由と、桂ちゃんを助けに行きたいわたしの自由。阻む事は
二重に主の信条の妨げだ。幾ら苦い思いを噛み締めても、主は見送る他に術がなかった…。

 その主が、そこ迄自由を愛する主が、その自由を封じる封じのハシラを、心から欲する。
何と皮肉な定めなのか。それも封じられる前から欲し求めた竹林の姫ならともかく、継ぎ
手として最初から敵対以外にあり得ない立場のわたしに迄、似た思いを寄せてしまうとは。

【はっ、いうっ、うっ……】

 鬼の憤怒でも神の恩寵でも、抗う術も力もわたしにはない。封じられても外に力を及ぼ
せないだけで、封じの中では主は今尚鬼神だ。主はその所作に相手の受容を求めない、意
志を欲しない、返る想いを求めない。主には奪う他に術がない。踏み躙る他に術を知らな
い。他者の意向を図らない、考えない、思わない。

 あるのは己の意志のみで、あれば良いのはその意を受ける者の存在だけで。意を受ける
者に意志など不要と。受けない事など許されないし、受けない事などできないのだからと。

 その主が、戻り来たわたしに望む所作とは、

『最早止めはせぬ。最期の最期迄、唯己の真の求めの侭に、その身が真に欲するが侭に』

 想いの侭に生きようではないか。君も我も。
 己の内の真の望みを曲げる事なく貫こうぞ。
 まっすぐで精悍な主の瞳をわたしは好いた。

【だからお前が槐に宿る昼間は、外に出られぬ日中は、わたしの真の求めの侭に、この身
が真に欲するが侭に、己の望みを貫くぞ!】

 ご神木の内側の虚像世界で、主はわたしを抱き締めて力強く愛し続ける。わたしに抗う
所作はないけど、あっても認めないと先回りする感じでがっちり組み伏せ、抱き締め、挟
み込み。まともに組めば逃れる術はないのに。その先に待つ定めから、喪失からわたしを
隔てたいとでも言う様に、その豪腕は強く強く。

【贄の子を助けに行くのは止めぬ。危険を承知で敗北も覚悟で、消滅も受け容れて己の想
いを貫くのなら、為せば良い。唯ここにいる間だけは、封じの要として、神の後妻として、
鬼神を抱き留め還し行くその使命に生命を尽くせ。今暫くは、わたしだけの為にあれ!】

 いつもの様に主はわたしの腕を千切りはしない。いつもの様に主はわたしの足を焼き尽
くしはしない。いつもの様に主はわたしの胴を貫き、内蔵を掴み出しはしない。人であっ
た頃、オハシラ様に感応した時に、わたしも竹林の姫が主とその様に交わる様を視たけど。

 蹂躙している様で、彼女が必ずしも満身で拒絶する程嫌ってないと気付き、サクヤさん
にそれを言うべきか否か悩んだけど。わたしの今も外から眺めれば、そんな感じなのかな。

【鬼神の封じを蔑ろにして出歩くのだ。せめてその位はして貰う。この心に、お前との日
々を刻む。余りにも短すぎる日々だったが】

 竹林の姫と千年を共に過ごし続けた主には、わたしとの十年も瞬間なのか。主にはそれ
は余りに手触りが薄く儚く。確かめないと、何度でも抱き締めて触れないと、堪らないの
か。その肌を重ね合わせ、その想いを重ね合わせ、

 言葉にする迄もなく、気持は伝わって来た。どの様な経緯を辿ろうと、唯わたしがわた
しを保っていられる事を喜び、主は今を全力で過そうとしている。末期の関りになると覚
悟して、叶う限りの全てをわたしから奪おうと。

 主も分っている。わたしが尚その存在を繋ぎ難い危機にあると。桂ちゃんや白花ちゃん
の危機は、2人を守りたいわたしの危機だと。故にこの交わりが最期になる怖れが高い事
を。

 主はこの先も尚千年万年生き続ける。封じが続いても破れても、鬼神の寿命はサクヤさ
んを越えて久遠長久だ。故に心に刻みたいと。永劫の時の彼方にも己の終る時迄抱きたい
と。

 わたしにこそ、その気持が分る。
 わたしにこそ、主の想いが分る。

 一番たいせつな人と過せた日々を想う事で未来永劫、封じの要を担っても幸せに得心し
たわたし故に。身体も生命も、生も死も人である事も、この想いさえも抛てたわたし故に。

 主の未来にある長久の空洞を想う時、わたしはその定めを切なく想う。大切な者を失い、
その先を果てしなく死ぬ事も許されずに過し行かねばならぬ定めを哀しく想う。わたしに
為せる事はもう殆ど何もないけれど。わたしは最期迄主の封じを解き放つ事もないけれど。

 応えられる物ならば、叶う限り応えたい。

 それが主の真なる想いなら。

 それが、一番ではないけど、わたしが大切に想ってしまった鬼神の、心からの求めなら。

 わたしに叶う限りの想いで、応えたい。

 わたしもいつ果てるか分らない存在だから。
 明日の朝日を見られるか否か分らないから。
 わたしも主を、心に刻みつけたかったから。

 主は殆ど言葉を発しなかった。言葉が気持を表しきれないとでも、言う様に。唯わたし
の身体を捉えて放さず、肌を重ね合わせて時を過す。過ぎゆく時を惜しむ様を肌で感じた。

 今夜がわたしの最期になりうる状況は、尚変ってない。今日が主との、と言うよりわた
しの最期の日になる怖れは、依然濃厚な侭だ。

 サクヤさんは今日桂ちゃんを町に連れ帰ると言っていたけど、町に帰る情景が関知に映
る一方、経観塚に居続ける情景も視えていた。桂ちゃんは尚ここに居続ける可能性があっ
た。まだ分岐の枝はどちらにも開けている。なら、

【わたしは今夜も、桂ちゃんを守りに行く】

 サクヤさんと約束したけど、烏月さんかサクヤさんが桂ちゃんを守れる時には戦わない
と約束はしたけど。顕れる事は、約束の外だ。そして状況がどうなるかはその時迄分らな
い。

 昨夜も、白花ちゃんが向った上に烏月さんもサクヤさんも同宿して尚、危機一髪だった。
時間稼ぎや繋ぎにわたしが求められる可能性はある。それがわたしに致命傷となる怖れも。
桂ちゃんを守れるなら満足だけど。その身を脅かす者を食い止められるなら得心するけど。

 己を惜しんでは、ノゾミ達に対抗できない。わたしも贄の血は得たけど、あの2人は遠
慮もなく吸い付いていた。わたしの飲んだ量が一口なら、ノゾミは三口、ミカゲは五口位
か。非常時なので、わたしも得た力はできるだけご神木に渡さず己の中に保つけど、主の
封じの為にも全く渡さぬ訳に行かない。多少還流したので、鬼の姉妹とわたしの戦力比は
凡そ拾対壱か。贄の血を得ず贄の血が身体に馴染んだノゾミ達に対峙した昨夜よりましだ
けど、互いが贄の血を飲む前より力の差は開いて…。

 わたしはもう桂ちゃんの血は呑まない。どれ程劣勢に陥っても、血の甘さが心を蝕んで
も、桂ちゃんがわたしの疲弊を嫌い哀しんでも。わたしは絶対にその身を生命を害しない。

 心をよぎるのは幸せの残滓。わたしが一番尽くしたい人の、一番守りたい人との過ぎ去
った日々。わたしが守り通せなかった戻らぬ幸せ。でも、もう手が届かない物であっても。

 その日々が確かにあった事が、想い返せる事が、そして今尚その欠片だけでもこの手で
守れる事が、わたしの今から未来に残る幸せ。わたしの手の届く処迄来てくれた事が、幸
せ。生きても死んでも、人でなくなっても、わたしはその想いと共にいられるから。悠久
の封印も、地獄の悶え苦しみも、存在の核である2人を想うこの意志の消滅も受け止めら
れる。

 主は夕刻迄、この睦み合いを続けるだろう。わたしとノゾミ達が出歩ける夜が先約で一
杯と知る主に、せめて昼の間は尽くせる限りを。敵同士でも、未来永劫封じが必至な鬼神
でも、一番大切な人を危うくする者でも、それでも主もわたしにとってたいせつな人だっ
たから。

【あなたの想いに、応えられる限り応えます。
 わたしのたいせつな人。わたしを愛してくれた人。あなたを解き放つ事はできないけど。
一番たいせつな人を生きても死んでも抱き続けるわたしは、あなたを一番にできないけど。
寄せてくれた想いに等しい心は返せないけど。それでもあなたは、わたしのたいせつな
人】

 応えられる限り、せめて応えられる限り。

【あなたの愛に、わたしも愛で応えたい…】

 覆い被さる主のその遙か上方に、虚像世界の外側から、わたしに焦点を合わせて見下ろ
す気配があると気付いたのは、その時だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ゆーねぇ、ごめん。昨日は行けなくて…」

 分霊が、今迄にない程強硬に騒ぎ出して。

「烏月に追い払われて以降は……。っ!?」

 疲れを押してきたと分る陰った表情で、ご神木に手をついた白花ちゃんが視てしまった
のは、わたしが主と交わる姿だった。衝撃に、心が打ち抜かれ瞬時その瞳から意志が消え
る。

 瞬間、白花ちゃんの時が停止した。
 驚きが呑み込めきれず猛っている。
 その心を、黒い嵐が渦巻いていく。

 一番見せてはいけない図を。段階を踏んで説明しなければ、心に受け容れられない図を。
白花ちゃんがそこ迄来ていたのに、気付かなかった。目の前の主に集中していたとは言え。
彼が来る事位、少し考えれば分った筈なのに。

「ゆーねぇ、これは。これは、……一体?」
【白花ちゃん、落ち着いて。話を聞いてっ】

 組み敷かれた侭、わたしは手を伸ばすけど。

 わたしが語りかける前に白花ちゃんは手を外して感応を断ち切った。接触しないと日中
わたしは外に心を伝える術が絶たれてしまう。白花ちゃんは腹に沸く己の想いに向き合う
事を拒み、それを招いたわたしと話す事を拒み。

 白花ちゃんの心の支えが、崩れ掛っている。
 彼を人に繋ぎ止める意志が解れ掛っている。
 内なる鬼を抑える強い心の弁が揺れている。

「ゆーねぇ、主に……封じのハシラとは…」

 主と2人きりで悠久を過す真の意味とは。

 全てを捧げる事、生贄になる事、封じのご神木で主と悠久を過す事の、本当の意味とは。

 全てを受け容れたくないと瞳が語っている。
 視なかった事にしたいと、心が叫んでいる。
 でも心に刻みつけた図は決して消せなくて。
 心が乱れていく。心が染まっていく。心が。

「……くそっ!」

 白花ちゃんは振り返ると、その侭脇目もふらず走り去る。直面した現実から逃れる様に、
直面したくない現実から逃れる様に。追いかけようと、虚像世界から身を乗り出しかけた
わたしを背後から組み伏せたのは、主だった。

【待って、白花ちゃん……放して、主っ!】

 白花ちゃんを追いかけなければ。今の彼は、放っておいて良い状態ではない。わたしが
行って良い状態でもないけど、誰もいない以上わたしが行かなければ。あの侭では、白花
ちゃんが主の分霊に、心も身体も乗っ取られる。

【そうは行かん。夜迄はわたしに付き合って貰わねばならないからな。それに、この燦々
と降り注ぐ陽光の下に身を乗り出せば、お前は間違いなく夜を迎える前に消失するぞ…】

 白花ちゃんは心を閉ざした侭、疾風の早さで森に消える。今から追っても追いつく迄に、
わたしの現身が陽光に引き裂かれて消失する。諦めて座り込んだのは、それ以上に今のわ
たしこそ白花ちゃんの心を苦しめた原因だから。

【白花ちゃん……】

 鬼を切る為に、主を切る為に、自身に主の分霊を宿した侭、必死に鬼切りの修行に励ん
できた白花ちゃん。わたしの為に、わたしを解き放つ為に死ぬ程の想いを重ね漸くここ迄
辿り着いた白花ちゃん。その彼にわたしは…。

『おかあさん、おとうさん、助けて、痛いよ。
 ゆーねぇ、鬼が、鬼がぼくの中にいるの』

 いたいよ、いたいよ。苦しいよ、助けて。

『とって。はくかの頭の中の、鬼を取って』

 幼い日にはあの泣き声を止められなくて。

『これからは、僕が守るから。
 これからは、僕が助けるから。
 これからは、僕が力になるから。
 これから、その涙を嬉し涙に変えるから』

 想いを重ね合わせても何の力にもなれず。

『先の長くないこの生命を全部捧げるから』

『ゆーねぇを二度と苦しませない。
 ゆーねぇを二度と哀しませない。
 この僕が、僕が全部引き受けるから』

 そこ迄言ってくれた人を。最早明確に生きているとも言えないわたしに、その確かな生
命を全部捧げると迄言ってくれた人を。力になりたかった、守りたかった、その当人に…。

【わたしは、彼の希望を、砕いてしまった】

 寄せてくれた想いを裏切った。美しく清い心を打ち砕いた。伸びやかな微笑みを苦悩に
変え、爽やかな瞳を曇らせた。一番たいせつな人を哀しませ、一番守りたい人を傷つけた。

 誤解に基づくすれ違いではなかった。わたしは確かに主を大切に想い、その心を受け容
れた。逃れる術がないという以上に、わたしは主の真の想いに応えていた、応えたかった。
その故に、白花ちゃんの哀しみは大きく深い。

【白花ちゃん……。もう、わたしは……あなたに、謝る資格さえ、ないのかも知れない】

 わたしは守りたかった人を、救いたかった人を、一番たいせつな人を、力になるどころ
か、哀しませ憤らせ、失意の底へ叩き込んだ。罪深い。わたしは、どこ迄も罪深い鬼だっ
た。

 血を啜らなくてさえ、大切な人を傷つけ害になる。守りたい人を哀しませ、助けたい人
の身を削る。例えようもなく呪わしく罪深い。本当に救われぬ業の深奥に踏み込んだ我が
身。

 心を閉ざした侭、白花ちゃんが山を下っていく。心を閉ざしていても尚、その表情が胸
に腹に籠もる、一杯一杯の想いを表していた。心は弾け飛ぶ寸前だった。理性は焼き切れ
かけていた。何とかしてあげたかったけど、日中わたしに為せる所作はない。それに仮に
できたとして、わたしの所為で苦悩を抱え込んだ白花ちゃんに、わたしが何を為せるだろ
う。

 沸騰する想いを置き去りにしたい。そんな疾駆を続ける白花ちゃんに正面から迫る刃は。

「見つけたぞ、人を喰らう鬼め!」

 羽様に来ていた鬼切部の烏月さんの物だ。

 流れる黒髪も艶やかな彼女の放った銀光は、白花ちゃんには至近に至る迄意識の外だっ
た。

「くっ!」

 不意を打ったという表現は、適当ではない。烏月さんは、森を隠れる事もなく直進して
きた白花ちゃんを、正面から迎え撃っただけだ。白花ちゃんが、他の事に目が向かない状
態にあっただけで。それでも、白花ちゃんは烏月さんの刃を寸前で躱して、我に返る。

 2人の間で幾度か言葉と剣撃の応酬がある。応酬と言っても、剣を持たない以上に白花
ちゃんは烏月さんに敵意を抱いてなく、一方的に攻撃を避けて躱すだけだ。それに対し烏
月さんは重たい刀を遠慮なく全力で振り回して。冷やかな以上に烏月さんの表情は頑なだ
った。

【白花ちゃん……烏月さん……】

 止めに入る事もできない。日中はあそこ迄行くにもわたしの現身が保たない。桂ちゃん
の大切な人と、白花ちゃんが互いに傷つけ合うなんて。何とかしないとどちらかが傷つく。

 どちらも傷ついて欲しくないのに。誰にも楽しく笑って過して欲しいのに。どうして世
の中はみんなで幸せを分け合える様にできてないのだろう。この身の無力が切実に悔しい。

 白花ちゃんが反撃に転じる。それが烏月さんに受け止めさせ、足を止め、逃れる為の一
撃と見えて分った時には、烏月さんの視界から白花ちゃんは姿を消していて。でもまだだ。

 まだ終ってない。取りあえず視界は外れたけど、2人とも練達の鬼切部だ。姿は見えず
とも、微かな物音や気配で所在を察せられる。互いにそれを隠す術位は持つだろうけど、
逆に言えばそれに対応し見抜く術も持つだろう。

 白花ちゃんの醸し出す雰囲気に非常に良く似た、余程の達人でも達人の故に見間違えそ
うな位に酷似した気配の持ち主が、羽様の山を登り始めたのは、丁度そんな頃合いだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「で、なんで桂まで乗って来たんだい?」

 ついでの仕事で山の写真を撮りに行くというサクヤさんの車に同乗し、桂ちゃんが羽様
に着いたのは、日も高く昇った頃合いだった。

「もうちょっと家の中とか良く見て置こうかなって。今日は使い捨てカメラも買ったし」

 サクヤさんの促しは、不要だったらしい。

「そうかい。じゃあ、車は屋敷の方に止めるから、あんたはあたしが帰る迄は、大人しく
しているんだよ」

「バスとか使って勝手に帰る時は、ちゃんと携帯で連絡……って、あれ? サクヤさんわ
たしの番号、知らないんだっけ?」

「知ってたら、あんな回りくどい手を使ったりはしなかったよ」

「そうだね。普通は、電話帳で陽子ちゃんの家の電話番号を探してかけたりしないよね」

 サクヤさんが、過保護な程に桂ちゃんを気遣ってくれている事が分って、少し嬉しい。

「だけど自宅に電話あるんだから、携帯の番号を知ってるのは友達位じゃないのかい?」

「そうだけど、最近お世話になってる税理士さんとかは知ってたのに。ほら、サクヤさん
が紹介してくれた人」

「あ……」
「意外と抜けてるんだ」

「うるさいね。とりあえず、あんたの番号入れといて」

 ダッシュボードから取りだした携帯を、桂ちゃんに向けてぽいっと投げた。

『……ところで。
 わたしもあの家では大人しくしている積りなんて、全然なかったりする。わたしの今日
の目的はオハシラ様のご神木にいく事だった。ご神木に行けば、ユメイさんに会えるかも
知れないし、昨日見かけた少年、ケイくんを追い求める烏月さんにも、会えるかも知れな
い。夢の記憶をもう一度確かめてみたかったし』

 サクヤさんが森の一角に踏み込んでいくのを見送ってから、桂ちゃんは密かに進路を山
奥のご神木に向ける。一方、サクヤさんは獣道を伝ってその先に回り込もうと歩みを早め。

 でも2人とも烏月さんと白花ちゃんが既に戦闘状態と知らない。剣戟の真っ只中に入る
のは幾ら何でも危険すぎる。特に桂ちゃんは。白花ちゃんは、烏月さんよりやや技量が上
だから、通常なら先に気配に感づいて、逃げるも潜むもできる。探索に手間取る烏月さん
に、桂ちゃんが追いつく展開が順当だったのに…。

 わたしが、白花ちゃんの心を乱した所為か。それが白花ちゃんの危険を招き、桂ちゃん
の身も危うくするとは。事を報せたかったけど。全体を見通せても、わたしに伝える術は
ない。

『この侭森の道を引き返し、途中の脇道に折れ込んで、手ぶらだけど山を登ろう。お屋敷
の中を見てしまったら、用は済んだねと帰されてしまうかもしれない。だとしたら、チャ
ンスはもう今しかないんだから』

 額に浮いた汗が玉になり、流れ落ちようとする気配を感じて、そろそろ小休止する頃合
いだと立ち止まる。

「……喉、渇いたな……」

 とはいえ今は手ぶらの身で、見回した処で喫茶店も自動販売機も何もない。

「がまん、がまん……辛抱だよ」

 普段はお水かお茶のペットボトル位抜かりなく用意するんだけど、流石に今回は余裕が
なかった。それを承知で選んだ強行軍だけど、下手に根性で無理をしたら日射病や熱射病
が怖い。手持ちの駒が少ないからこそ、ミッションは計画的に、焦らず冷静に進めないと
ね。

 少しでも身体を冷やそうと、上着の袖をぱたぱたさせて肌に直接風を送る。

「さて……そろそろ行きますか」

 ハンカチはしまわずに手に持った侭、立ち上がる。ぎゅっと握って入れた気合いを、脚
に回して歩き出す。

 それにしても妙だった。
 妙に思える程静かだった。

 幾ら深い山の中でも、日中途絶える事なく蝉の声が続くという事は、幾ら何でもあり得
ない。間が空くのも至って普通の事。

 だけど、この間は絶対におかしいと思った。

 オハシラ様のご神木がある、あの開けた場所でも蝉の声は聞えなかったけれど、あの心
落ち着く静けさとは随分と違う。

 そろそろと歩く。

「……?」

 何が何だか分らない内に、桂ちゃんは地面に転がされていた。

 土の地面は柔らかだったけど、思いっきり背中を打ち付けて、吐き出した侭息が止まる。
すっかり肺から出て行った空気を補充する間もなく、焦点がぼやける迄開いた目が眩しく
光る何かを捉えた。仰向けの体勢で見上げる、緑と青のまだらの空から、輝く星が降って
…。

 恐ろしさとまぶしさに目を閉じると、冷気を含んだ風が首を叩いた。

 痛くはなかった。

 恐る恐る目を開けると、顎の向うの首元で、鏡の様に磨かれた見覚えのある鋼鉄が葉陰
をすり抜けて届いた陽射しをはねて輝いている。

 停止していた呼吸が復活……。

 一瞬で冷え切った身体に、同じだけの時間で温度が戻り、急激な変化に心臓が激しく鼓
動を打ち始める。

「……ストップ。たんまして」

 首を刎ね飛ばすすんでの所で静止しているのは、昨日も突きつけられた特徴のある刀身。

 地金に木の年輪のような模様が浮んでいる、鬼切りの霊刀・維斗の太刀。危うい所だっ
た。烏月さんは桂ちゃんを白花ちゃんと誤認し…。

「あはは、烏月さんに刀を向けられるのはこれで二回目……ううん、三回目かな。二度あ
る事は三度あるんだねぇ」

 桂ちゃんは烏月さんが己を傷つける事がないと信じ切っている。お気楽の裏に、動かし
難い程、強くて硬くて重い信が鎮座している。

「……あなたか」

 落胆した響きの混じった声と共に、引かれた刃が元の鞘に収められる。白花ちゃんはわ
たしも所在しか掴めない位遠くに去っていた。

「見事にしてやられたな。こうしている間に、奴には逃げおおせられたか……」

 遠くへ視線を飛ばしつつ、寝転がった侭の彼女に、手を差し伸べる。桂ちゃんはその手
を両手で握り、充分な補助を得て立ち上がる。

「奴って、ケイくんのこと?」

「……その質問に答える義務はない。貴方との縁は昨夜切った筈だ」

 握った侭の手が払われた。

『考え事をしていたみたいだから、相手がわたしだって意識は全然なしに、手を差し伸べ
ていたのかも知れない。それならそれで誰にも手を差し伸べる基本的に優しい人って事に
なるんだけど。それは何だか、少し寂しい』

「縁を切られても、わたしの方には答えて貰う権利はあるんじゃないかな」

 うん、あるよ、多分あるよ。

「人のこと転ばせて、刀を突きつけておいて関係ないは、ないんじゃないかな。人違いな
ら人違いで、尚更事情を説明するべきだよ」

 ちょっとだけへそを曲げた桂ちゃんも、この上なく可愛い。憎可愛らしいと言う言葉が
あるのかは知らないけど。小憎らしいかな?

「その辺ちゃんとしてくれないと、わたし烏月さんのこと鬼って呼ぶよ。
 ……それで、奴ってケイくんの事? もしかしてわたしの事、ケイくんと間違えた?」

「……ああ、あなたの言う通りだ」

 相手を良く確かめないで乱暴するからだよ。

「それに関しては済まない事をした」

 烏月さんも済まないとは思っているらしい。彼女は本心にない事を口先に乗せられる人
ではない。故に出た言葉は基本的に信じられる。

「だけど現身を持つ鬼の多くは、見かけを凌ぐ膂力を持っている物なんだ。童女や老婆の
姿をしていても、易々人を引き裂いたりする。
 だから、機先を制する事で封じられるなら、そうするに越した事はないんだ。気配の質
を見れば、奴か別人かは分る積りだったしね」

「つもりじゃ困るよ、烏月さん。いくら同じ名前だからって、間違えるなんてひどい」

 間違えられるのも、無理はないのだけど。

「そんな事で気配まで似たりはしないものなんだけどね。幾ら言霊が影響するとはいえ」

 偶然なのか、奴があなたを利用したのかは分らない。だが、あなたの気配を奴の物と誤
認した所為で、こうして逃げられてしまった。

「……もう追いつけないだろうな」

 大きなため息を吐かれた。

『そんな風にされると、何だか謝らないといけない様な気がしてくる。ううっ、弱気にな
るわたし。何も悪い事してないんだから』

【そうよ、桂ちゃん。頑張って。いつもわたしが、憑いているから】

「……それにしても、どうしてあなたがこんな所にいるんだい?」

「こんな所って、昨日もわたしここに来てるよ。ケイくんとここで会ったって教えてあげ
たの、わたしだよ。……それに、お祭りだってあるんだから、オハシラ様のご神木を見に、
町の人も来たりするんじゃないかな?」

「その可能性は低いと見ていた。参拝に来る様な信心深い人は、この山が禁足地という事
も知っているだろうし、結界の効果もある」

 本当に縁を切りたいなら言葉も交わさず歩み去れば良かった。烏月さんは基本的に優し
い人だけど、それ以上に桂ちゃんとの縁を切りたいと心の底から望んではいない。だから
自覚しない内に、問答も会話も進んでしまう。

「結界……?」
「界を結び囲いをする事で、内と外と、世界を二つに切り離す。それが結界だ」

 パスポートを所持していなければ、国の行き来に不自由がある様に、資格を満たしてい
なければ、結界内外の行き来に不自由が課される。障壁と言う程に強い物ではないけれど、
ここの結界には人払いの効果があるんだ。

「それに抗う強い意志、踏み入るに足る目的がないなら、無意識が避けて通る様に働きか
ける。例えば急に別の用事を思い立ったりね。
 先程の様な事故が起ったのも、結界の効果を当て込んだ行動の所為なのだけれど、もし
かすると、《力》が弱まっているのか……」

「わたし、ちゃんと目的があって来てるよ。
 昨日はご神木を見ようと思って来たし、今日は烏月さんと会いたくて、話したくて」

 ケイくんを見たって話をした時の烏月さん、変だったから。昨日の夜で烏月さんがケイ
くんを探している理由、分っちゃったから。

 だから今日は、鬼切りの烏月さんがこの山に来てるって思ってた。ちゃんと会えたしね。

「……私と会って、一体何を」

 そこで漸く烏月さんは自身の思索から目の前の桂ちゃんとの関りに目を向けて、再度表
情を引き締め直した。心に壁を張り巡らせる。

「切られた縁をね、結び直したいんだよ」

 桂ちゃんの真っ直ぐな双眸を、烏月さんも見返さざるを得ない。これも真剣勝負だった。

「そんなことをして何になる。昨夜説明した筈だ。私は警告をした筈だ」

「鬼を引き寄せやすいわたしが、鬼切りの烏月さんと関わると、辛い思いをするって?」

「その通りだよ。唯の人とさえ関らない様にしているんだ。ましてやあなたは贄の血の持
ち主。それなら……」

「それでもっ!」

 遮る声が木霊した。

 響きが吸い込まれる迄の間で、ゆっくり大きく息を吸う。吸った息をゆっくりと、言葉
と共に静かに吐き出す。全てを承知した上で、覚悟した上で、桂ちゃんは烏月さんと繋り
を望む、求める、欲する。張り巡らせた心の壁を乗り越える波となる。波となって浸食す
る。

「わたしね、烏月さんみたいに強くないから、『今あれをしないと』とか思っても何も出
来ない侭時間切れになっちゃうタイプなんだ」

 それで後になって『ああしていれば』『こうしていれば』って後悔するの。

 最近だと、もっとお母さんのお手伝いをしとけば良かったって……そうしたらお母さん、
過労で死んじゃったりしなかったかもって…。

 だからね、わたしはずっとそういうふうに生きてるんだから、後悔するかもしれない予
約が今更一つ位入ったって、全然構わないよ。

「それに烏月さんの話だって、やっぱり『もしも』の話だもん。そんな脅しに負けて逃げ
たら、わたし絶対に後悔する」
「どうして……」

 ここ迄拒んでも求める者の存在が信じられない。断ち切れない絆に烏月さんが困惑して
いる。それは彼女が心中欲し願う想いだから。彼女も心の底で、桂ちゃんを求めているか
ら。

「わたしが烏月さんと仲良くしたいから」

 正面から顔をしっかり、見つめて言う。

「やっぱり、烏月さんは一人が良いの?
 わたしと友達になるのは嫌?」

「桂さん、あなたという人は……」

 見つめ合う。

 目を逸らしたら負けだ。

 じっと烏月さんの強い瞳を見つめる。

 風が吹いて木の葉が涼しげな音を立てた。
 届いてくる木漏れ日がちらちらと揺れた。
 額に浮んだ汗が玉になって、流れ落ちた。

「ふう……」

 沈黙を破ったのは烏月さんのため息。

 先に目を逸らしたのは烏月さん。
 そして、先に言葉を発したのも。

「わたしも桂さんと過した、何でもない時間は心地良かった」
「烏月さん……」

 桂ちゃんはこの瞬間、一つの定めを変えた。一人の人間の行く先を、生き方を切り替え
た。それが桂ちゃんと烏月さんを取り巻く人々にどの様な影響を与え、波紋を投げかける
か…。

「その心地良さを、手放したくないと思ってしまった事を、きっと私は後悔するだろう」

「そうかな?」
「そう遠くない未来に」

 うーん。難しい顔で考え込む、桂ちゃんに、

「だけど、すぐ傍にある後悔を、一つ避ける事ができたのかも知れないね」

「だと良いな。少なくともわたしは避けれたよ」

「はは、桂さんも奇特な人だ」「あはは」

 それから暫く、桂ちゃん達は顔を見合わせて、笑いあった。二つの想いが重なり合った。

 千羽烏月を、心から求めてくれる人がいる。
 怖れられる鬼切部の己を求めてくれる人が。

 鬼切部と分った上で、鬼に縁のある定めを持ち、場合によっては巻き込まれ、或いは敵
対さえあり得る贄の血の持ち主が、自身をそうと自覚して尚、千羽烏月を求めてくれる…。

 奇特を越えて、烏月さんにはそれは奇跡だった。その笑いは、心からの抜ける様な笑い。
自身に値を見いだせた、気付かされた。鬼を切る以外にも、千羽烏月はこの世に在る事を
認められるのだと、居て良いのだと、桂ちゃんの近くに、その心に、住んでも良いのだと。

 心からの充足に満ちた笑みが、わたしの心も満たしてくれる。頑なに纏っていた心の鎧
に隠れていた、本当の彼女の柔らかな強さが、微かに視えた気がした。今はまだ兆しに過
ぎないけど、今はまだ見え隠れする程度だけど。

 いつの間にか蝉が鳴いていた。

 夏を遠ざける張り詰めた空気は、どこか遠くに去っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……そう言えば烏月さん、それ冬服だね」
「ああ、やはりこの格好は人目を引くかな」

 その、人目を引くっていうか……。

 烏月さん程の美人だと、着ている物が何であれ注目されるのは間違いないし、服装以前
に刀剣所持を何とかしないといけないと思う。

 だから、見た目はともかくとして。

「……暑くないの?」
「暑いね」

 いや、そんな涼しげな顔で言われても……。

「心頭滅却すれば、だよ。生命には代えられないからね。この服の裏地には、呪を縫い込
んであるんだ」

「わ……」

 襟元に指を引っかけて、めくって裏地を見せてくれた。

「ラフカディオ・ハーンの『耳なし芳一の話』みたいだろう?」
「うん」

 小泉八雲さんの小説より先に、大時代な不良マンガに出てくる改造学生服を想像してし
まったのは、この際内緒にしておこう。


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