第2章 想いと生命、重ね合わせて(丁)
ふと視線が合った。怪我は酷いけど、痛みを遮断され回復に向い始め、癒しの力を流し
込まれる桂ちゃんの表情は穏やかで、可愛い。
「……桂ちゃん、どうしたの?」
「んー、何でもない……」
やや眠そうな声だった。贄の血の力は疲労にも効くけど、今は傷の回復で手一杯だろう。
桂ちゃん自身も疲弊しているので眠りが要る。
「もう少しだけ我慢してね。これだけの力があれば、きっと何とかできるから」
「ん……大丈夫だよね……」
『これでユメイさんは大丈夫』
その心配は、こんな時迄もわたしを向いて。血は争えない。桂ちゃんも贄の血の裔だっ
た。
『だけどわたしは、重くなってきた瞼をこれ以上支えられそうにない』
桂ちゃんが眠りの淵に沈んでも大丈夫。
わたしにはそれが危機ではないと分る。
最早桂ちゃんに関知の力を使う必要はない。
今や桂ちゃんは、わたしなのだから。
そしてわたしは桂ちゃんなのだから。
生命を重ね合わせた。想いを重ね合わせた。
絆はもう引き剥がせない程絡み合っていた。
わたし達は共に『一』に満たない生命を持ち寄って、重ね合い、死を越えて生を紡いだ。
わたしにだけではなく、桂ちゃんにもわたしの赤い糸が絡みついた。わたしは桂ちゃんの
一部だった。桂ちゃんはわたしの一部だった。
桂ちゃんの死の定めをねじ曲げただけではない。わたしも死を越え、消滅の定めを突き
抜け、その先で生れ直した。わたしは桂ちゃんの生命と想いで、再び確かなこの身を得た。
傷口を塞いだ桂ちゃんを抱えると、間近な羽様の屋敷に歩いて向かう。直射日光はやは
りわたしに良い物でないし、外の風に当てるのは桂ちゃんに良くない。羽様の屋敷には使
える布団があった筈だ。幸い住環境は家出少女達のお陰で、悪くない位に整えられてある。
現身を取れても結局十年前から成長出来なかったわたしは、全力で桂ちゃんを抱えて歩
かなければならなかった。桂ちゃんが昨夜烏月さんを運ぶのに感じた苦労が、身にしみた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明、あんた……って桂、血塗れで…!」
血のべっとりついた服を纏った桂ちゃんを、わたしが抱きかかえて羽様の屋敷を訪れた
時、サクヤさんは何に驚けば良いのか分らない表情を見せた。真昼にわたしが濃密な現身
を取って顕れて、桂ちゃんは血塗れで意識がない。
「崖から落ちたんです。わたしに、逢いに来ようとして……。最悪の状況は脱しました」
でも、まだ休息と治療がないと危ういわ。
詳しい話は落ち着いてから。とにかく今は桂ちゃんの身を最優先に考えて。
サクヤさんが状況を飲み込めず困惑するのも分らないではないけど、今はとにかく急ぐ。
「布団を敷いてきます。尾花、こっちへ!」
わたしがサクヤさんに促すより早く、家出少女は必要な事を察して行動に移る。今は彼
女の様に、気の利く素早い人手が欠かせない。サクヤさんも一瞬だけ遅れて我を取り戻す
と、桂ちゃんをわたしの疲れた腕から引き取って、
「体力仕事は、あたしに任せておくれよ」
わたしが身を削られる心配は減退したけど、やはり昼の光はわたしの力の作用を阻害す
る。わたしは桂ちゃんを現身の体力で運んで来た。もう少し成長してから肉を失えば楽だ
った…。
開け放たれた戸口から、桂ちゃんを抱えたサクヤさんに続いて、わたしも羽様の屋敷に
戻り来た。あの夜以来十年ぶりに。こんなに間近だったのに、でもその月日は遙かに遠く。
「こっちです、サクヤさん!」「分ったよ」
家出少女の誘導にサクヤさんが歩み行く。
感傷に、浸っている暇はない。
今は目の前のたいせつな人を。
「浴衣を出しておくれ。奥にあっただろう。服は血でべったり汚れているし破れている」
「わたしが持ってきます。葛ちゃんはタオルと、バケツか桶に水を汲んできて頂戴」
「はいです! ……って、おねーさん?」
名乗りもせず、呼ばれるのを聞いた訳でもないのに言い当てる妙技に気付く家出少女に、
「話は後。今は動いて頂戴」「はいです!」
もう一度元気な返事を返すと、葛ちゃんは小走りに部屋を出て行った。引っ掛りを感じ
つつも、それを飲み込んで行動に繋げられる。サクヤさんが気に掛って絡みつく訳が分っ
た。賢くて聡い元気な子供を、演じて見せられる。
「あたしは桂を、脱がせておくから!」
背中からサクヤさんの声が届くのに、妙な気恥ずかしさを感じるのは、わたしが桂ちゃ
んと重なり合って、他人事でなくなった為なのか。出来るだけ早く浴衣を持ってこないと。
拾年来使ってない部屋に踏み入るなら、埃だらけになると一寸身構えたけど、葛ちゃん
が使っていた処だった様で、ある程度掃除されており、ほっと一息。今掃除に費やす時間
はないけど、取り出した浴衣に埃が付いたり汚れたりしては、傷口から細菌の侵入を許す。
傷の治癒は出来るけど、感染症に掛ったら大変だ。贄の血の力は病原菌をも活性化させる。
上にあったのは子供用の浴衣。葛ちゃんではもう着られない、幼い日の双子のサイズだ。
下から取り出したのはわたしの浴衣。更に下にあった真弓さんの浴衣と、どっちを着せよ
うか一瞬悩むけど、結論は妥当な物に収まる。
わたしの浴衣を手に桂ちゃんの元に戻ると、サクヤさんを手伝い桂ちゃんの服を剥ぎ取
る。出血や泥がこびり付いていたので、脱がすと言うより剥ぎ取る感じだった。葛ちゃん
がバケツとタオルを手に戻ってきた。水を含ませたタオルを絞り、汚れてしまった素肌を
拭く。
桂ちゃんは泥の様に眠り込んでぴくりとも動かない。傷口は塞いだので、濡れタオルで
拭き取ると生れた侭の姿が力なく横たわって、無防備で、その故にわたし達全員を竦ませ
た。
「早く寝かせよう」「そうね」「はいです」
年の功か、サクヤさんが先に正気を戻した。葛ちゃんが慌ててタオルをバケツに放り込
んで水を換えようと動き出し、わたしが掛け布団を剥いで、サクヤさんがその裸身を寝か
せ。一瞬止まった図の、一斉な再動も何やら妙だ。
「傷口は塞ぎましたけど、身体の本格的な修復はこれからです。わたしが添い寝します」
贄の血の力を、ご神木の力を、青い力を、身を繋ぎ触れ合わせ流す。生命を重ね想いを
重ね、その身を確かに抱き留め、繋ぎ止める。桂ちゃんに貰った有り余る生命を還流させ
る。
もう一度水を汲んで戻り来た葛ちゃんが、
「病院に行かなくて、良いんでしょーか?」
本当の問ではない。一応言って、反応を窺うその姿勢に、静かに瞳の真ん中を見据えて、
「今の桂ちゃんを、病院には預けられない」
正視された家出少女がたじろいで見えた。
経観塚には、重篤患者を処置できる設備も医師の用意もない。救急車で一番近い施設の
整った病院に運び込むのに何時間掛るだろう。赤兎で行くのが最短だけど、この辺の道路
は未舗装で車内は揺れて、その傷口を開かせる。
それに、現代医学では今の桂ちゃんの生命を繋げない。ここ迄持ち直すのも現代医学で
は無理だったけど、まだ生命の危機は全て乗り越えていない。わたしでなければ治せない。
彼女は、それを知っている。知って問うた。
だからわたしは彼女の問にではなく、彼女の問いたい事に応える。探り合いや隠し立て
は時を浪費させる。今は、一分一秒が惜しい。
「桂ちゃんの傷口を塞いだのはわたしです」
それを言うのは拙いのではと、口を挟みかけるサクヤさんを脇で見て、左手で制しつつ、
「あなたがわたしについて、勘づいている事は知っています。勘づいて敢て問わずにいる
事も。もう少し、状況に流されていて頂けませんか。わたしは悪意の存在ではありません。
わたしも、あなたを問い質しませんから」
正体を隠す積りはない。唯今は多くの段階を省略しないと、大切な人の守りに届かない。
暫く場に流されていて欲しい。それが求めだ。わたしも彼女の来歴や家庭事情に、触れた
り突っ込んだりはしないという交換条件を示し。交換条件と言うより、それは脅迫だった
かも。
「たはは……、分りました。協約成立です」
突っ込み処満載な我が身を忘れていました。
葛ちゃんは冷や汗を苦笑いに隠しつつ、わたしの申し出を受け容れてくれた。サクヤさ
んが横でほっと一息つく。緊張の一瞬だったらしい。平静を装い背を向けて場を外しつつ、
「そんなに真剣に身を案じてくれる身内がいるって言う事は、本当に幸せな事ですよ…」
その呟きだけは真剣に羨ましそうだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんにも外して貰って、わたしは一人桂ちゃんを布団の中で抱き留める。わたし
も衣を脱いでいた。この和服も、力で作り上げたわたしを守る効果を持つ力の変形だから、
消すも作るも自在だけど、濃密な今は出し入れするより作った侭置く方が安定するらしい。
一糸纏わぬのはお互い様だ。それが気恥ずかしくあり、気恥ずかしさを抑えてもくれる。
意識のない桂ちゃんに対し、わたしは意識しすぎない様に努め、両腕でその身を抱き寄せ、
静かに肌を重ね合わせ、想いを重ね、生命を重ね。わたしに満ちる、力と想いを流し込む。
柔らかな素肌は、わたしを受け容れてくれた。
「……んんっ……」
カーテンで閉ざされた薄闇の中、陽の光を阻む布団の中で、わたしは青い力を紡ぎ出し、
わたしと桂ちゃんを包み込む。2人を一つに。二つの唇を重ね合わせる。これに羞恥の意
識は余りない。十年前には良くされていた事だ。
桂ちゃんは、尚も昏々と眠り続けていた。
意識が沈み込んでいるのは、疲労の故だ。
あの夜の直前に、真弓さんを抱き留めた事を思い出す。鬼切りの業の反動で昏睡する程
弱った真弓さんを、わたしはこの様に素肌で抱き留めた。唇を重ね力と想いを注ぎ込んだ。
真弓さんも美しかったので眠り姫にキスする王子様の気分だった。今はそれを桂ちゃんに。
あの時も真弓さんを守り抜けた。今回も桂ちゃんを守り抜く。今のわたしはわたしだけ
の力ではなく、桂ちゃんから得たわたしより濃い贄の血の力に満ちている。絶対届かせる。
抱き留めて、冷たい肌をこの体温で暖める。
心から心へ、治って欲しい想いが流れ行く。
素肌から素肌へ、わたしの生命を流し込む。
桂ちゃんはその侭では、自身の血に宿る力を使えない。己を守れないし癒せない。今は
わたしが不可欠だった。今後どうなるかは分らないけど、桂ちゃんに不要となるその時迄、
桂ちゃんに益より害が大きくなるその時迄、わたしは寄り添い続けよう。その時が来れば
わたしは黙って消えれば良い。わたしのあり方は一番の問題ではなかった。わたしの一番
の問題は、常にたいせつな人の守りと幸せだ。
槐のつぼみを乾燥させた槐花(かいか)は止血の生薬。今日の為にわたしはご神木に宿
りその資質を身に馴染ませたのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「烏月も白花も、見えなかったよ」
桂ちゃんの容態が大丈夫と言える様になったのは、午後3時過ぎだろうか。尚昏々と眠
る桂ちゃんを布団に残し、わたしはサクヤさんの帰着を出迎えた。葛ちゃんはその前から
サクヤさんに赤兎の鍵を借りて、車内から工具類を運び出し、何かの作業に執心していた。
「臭いを追って森の奥にも入ってみたけど」
相当奥迄行ったみたいでね、追い切れないと見たから引き返してきたよ。辿った辺り迄
は二つの臭いは近接していた。あれは戦いながらって感じだね。血の臭いはなかったけど。
『……白花ちゃん……烏月さん……』
あの2人の戦いはどうやれば止め得るのか。
あの2人の想いはどうやれば繋ぎ得るのか。
桂ちゃんの容態が生命の危機を脱し始めた頃合いを見計らって、サクヤさんが状況を知
りたくて待ちきれず部屋の外から話しかけて来た。結局中途から、身体は桂ちゃんを抱擁
しつつ、言葉はサクヤさんの問に答えてわたしは事の顛末を語る形になった。
わたしは烏月さんと白花ちゃんのその後が気になって、サクヤさんに見てと頼んでいた。
2人が斬り合っていた森の奥と、桂ちゃんが墜落した崖下と。サクヤさんも、2人のどち
らかでも見つかればみっちり話す事があると、大股で歩んで行ったけど結果は空振りだっ
た。
いつ迄もあの場に止まるとは思わなかったけど。まさか桂ちゃんのあの様を見て戦いを
再開するとは。烏月さんが暴走して白花ちゃんに斬り掛る姿が瞼の裏に浮ぶ。守りたい人
を失った失意と哀しみを目前の敵に叩き付け。通常なら追い切れない白花ちゃんの逃げ足
に、怒りで増した力が追い縋って離れず奥へ奥へ。サクヤさんの話を聞けて漸くその図が
視えた。
白花ちゃん、今は烏月さんに斬られないで。烏月さんは桂ちゃんが生きていると知らな
い。望みを失い、為す事を失って自暴自棄になる。今は逃げ切って、烏月さんに我に返る
時間を。夜になれば蝶を放って事の経過を報せるから。
「そう……お疲れ様」「あんた程じゃない」
葛ちゃんが汲んだ飲み水を、コップで出す。
サクヤさんはお酒の様にぐいっと飲み干し、
「あたしは力仕事担当だからね。傷を治す事も出来ないから、これ位しか役に立てない」
「夜になったら、わたしが2人を捜します」
「それしかなさそうだね。悪いけど頼むよ」
昼の光の下に立てる現身は持てたけど、直射日光はやはりわたしの力を妨げる。夜しか
形を為せない蝶や青い力は、作り出せてもわたしから離れると数分保たずに消えてしまう。
ご神木に宿っていれば、羽様にいる殆どの人の気配を掴めたし、たいせつな人の気配は
所在だけなら経観塚より少し遠く迄把握できたけど。ご神木を抜け出てしまうと、関知の
力は若干鈍る。夜を待たないと探索は無理か。
もう少し言葉を交わしたいけど、わたしはふっと立ち上がる。サクヤさんの視線の問に、
「桂ちゃんが、目醒めた様です」
パタパタと存在を報せる為に、鳴らせる様に努めている軽い足音と気配が近づいてきて、
「桂おねーさんが、目を醒ましました」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂ちゃんの意識が確かさを取り戻すにつれ、状況を思い出しに掛る。天井を見つめなが
ら、
『そういえば、どうしてわたしはお屋敷を見に来てたのに中の様子を知らないんだろう』
それは、逃げ出してしまったから。
どうして、わたしは逃げ出したの?
『……それはわたしが……』
どんどん遡っていく。でもそれは危うい。
「駄目よ、桂ちゃん。思い出そうとしては」
痛みに繋る思索を言葉で散らせ、わたしとサクヤさん、葛ちゃんが部屋に入った。
「あ……ユメイ……さん……」「桂!」
駆け寄るサクヤさんの大声は心配の大きさ。
「あんた、ちゃんと目を覚ましたんだね!」
サクヤさん……。首を傾げる桂ちゃんに、
「あたしはちょうど屋敷にいたんだけど、そうしたら柚明の奴が、血塗れのあんたを担ぎ
込んできてさ……」
言葉を詰まらせ、口を押さえる。そこからは乗り越えても尚心臓を潰す程の酷い状況だ。
「ごめ……心配かけちゃ……」
「ホントだよ、このばか娘! 四十九日もまだなのに、あんたがそんなに危なっかしいん
じゃ、真弓もゆっくり寝れないだろうが!」
「あはは……ごめんなさい」
「ごめんじゃないだろ。あんた、そんな風に綺麗に治っているから、危機感も沸かないだ
ろうけどねぇ」
サクヤさんは、ぺしゃんこに潰れたモノを取り出した。桂ちゃんの服を剥ぎ取る時に引
っ掛って落ちたそれは、金属質の表面に茶色く乾いた泥の様な汚れが付着している。
「これが何だか分るかい?」
「わたしの……携帯……?」
持ち主の桂ちゃんが疑問形を発する程、携帯電話の標準形から大きく歪んで外れていた。
「酷いだろう? 滅茶苦茶だろう? 硬い携帯がこうなんだから、柔いあんたがどうなっ
てたか、考えるだけでぞっとするだろう?」
桂ちゃんの中で、何かがぷつりと切れた。
それは糸電話の糸だったのかも知れないし、目の中の配水管だったのかも知れない。
可愛らしい瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。
「あ……。や……やだ、何か止まら……」
「ちょっと、桂? もしかして、あたしが脅かしすぎたのかい?」
大声だったサクヤさんが、いきなりしぼむ。サクヤさんも、見かけより憔悴していたの
だ。
「ちが……陽子ちゃんに、電話できないって思ったら、急にね……」
「あ〜、そんな事で泣くんじゃないよ。電話したいんならあたしのを貸してやるからさ」
「う、うん、そうなんだけど、何かね……」
「良いのよ桂ちゃん。そういう時もあるわ」
自身では止められない涙もある。誰かに止めて貰う迄止められない涙も。緊張が切れた
証であるその涙を、涙を零し続けられる生きた桂ちゃんを、わたしはぎゅっと抱き締めた。
心が不安定に乱れるのは、乱れて大丈夫と思えたから。抱き包んで、鎮めて欲しいから。
わたしの腕の中で、胸の中で、今迄の心細さを揺れて乱れて訴えて、大人しく静まって…。
「あ……」
零れた涙が着物の藤色にしみて濃い色を広げているのを見て、桂ちゃんも気付いた様だ。
「ユメイさん、当たり前だけど……身体がある。ちゃんと柔らかくてあったかい……」
『より強い光の前では、幻灯の描く絵は儚く消えてしまうと、そう言っていたのに』
「まだ昼なのに、その格好……」
「ええ。桂ちゃんからもらった力のお陰よ」
身体を離して眺めて貰う。わたしの今を、桂ちゃんに与えられた確かな生命を。真昼の
光を身に浴びて、黒々とした影を畳に落して。
「はい、桂おねーさん。お水です」
葛ちゃんがコップの水を手渡すのに、
「あっ、えーと、どうも……」
「わたくし若杉葛と申します。こっちの白いのが相棒の尾花です」
桂ちゃんが名を呼ぼうとして引っ掛るのを、察して自己紹介する。聡く口達者な面を見
せ、
「わけあって、暫く前からこの家に逗留させて頂いている不法入居者でございます。てっ
きり空き家だと思っていた処を……」
「桂は疲れてるんだ。それ位にしときなよ」
「了解しました、サクヤさん」
相棒の尾花ちゃんが沈黙を守るのと好対照。
「油はあたしが絞ったから、もういいだろ」
「うん、別に構わないよ。わたしも忘れてた様な所だし、却って掃除とかして貰っちゃっ
たみたいだし……。いきなり迷惑かけちゃったみたいだけど、よろしくね」
「桂おねーさん、ありがとうございます!」
葛ちゃんと尾花ちゃん、揃ってぺこり。
「まだあと暫くご厄介になりますけど、御用とあらば掃除洗濯布団の上げ下げ、何なり構
わずお申しつけてください!」
「あはは……、お手柔らかにお願いします」
「それ、あんたの台詞じゃないだろうに……。
それより桂。今の状況は分っているね?」
「うん」
「とりあえず、ノゾミとミカゲが今晩また襲ってきたりしたら、他の客の迷惑になるね」
「うん」
「今のあんたを運び込んだら、人のいい女将さんは卒倒しちまうし、柚明もこっちの屋敷
の方が、馴染みがあって動き易いだろう」
「そうですね。旅館に宿泊するとなると、お金も相応に掛りますし」
「わ……」
「どうしたの、桂ちゃん」
「ユメイさんって、オハシラ様なのにすごく庶民っぽい……」
「ふふっ、そうね……」
一時的に人の肉の様に濃い現身を持てたけど、やはり人ではない今を指摘されると少し
複雑な気分になる。わたしは言葉を選びつつ、
「水が器に従うように、人の生き方もモノのあり方も、形に縛られやすいものなのよ。
こうして人の形になった以上、わたしも人の理に縛られたりするの」
「じゃあ、いつもみたいに、消えたりは?」
「これだけ安定しているなら、出たり消えたりよりこの侭維持した方が負担は少ないの」
願いを込めた問に、事実で答える。
「あ……それじゃあ、その侭の格好で一緒にいてくれるの?」
「ええ、そうね。暫くはこの侭よ」
「わ、すごい、すごい」
可愛らしい顔を満開の笑みが染めていく。
「……桂、何だらしのない顔してるんだい」
「え? だらしないって……」
「桂おねーさん、顔にしまりないですよ?」
「うふふっ、でも桂ちゃんにはそういう顔の方が似合うわ」
桂ちゃんが返事に困り赤面する様も可愛い。
その表情に微かに懸念の色が影を差すのは、
「烏月さんとケイくん、どうなったのかな」
「柚明に頼まれて、見に行ったんだけどね」
2人が戦っていたっていう森の奥にはもういなかったよ。あんたが落ちた崖下にも来た
形跡はなかった。戦いながら場所を移動した様だけど、出血の痕や死体はなかったし…」
あたしの知る限りでは、決着が付いてない。どっちも一応生きている。そう言う感じか
ね。
「日中は、ご神木を離れるとわたしも気配を追いきれないから」
日が暮れたら、術を尽くして探してみるわ。
「うん、お願い……烏月さんも、ケイくんも心配だから。烏月さんには悪いけど、どっち
も大ケガせずに、無事でいると良いな」
「そうね」
桂ちゃんの心が、烏月さんに届いて欲しい。
「それじゃ、あんたとあたしの部屋と荷物を引き払ってくるよ。柚明、今更頼む迄もない
だろうけど、あたしがいない間のこと……」
「はい。任せておいて下さい」
サクヤさんは、取り出した車のキーを指に引っかけて回しながら、部屋から出て行った。
それを追うように、葛ちゃんが立ち上がって、
「あー、さてさてさて。わたしも暗くなる前にひと仕事済ませるですよ」
「……仕事って、何かあるの?」
その動きに引っ張られた、桂ちゃんの問に、
「急に賑やかになりましたから、少しばかり生活環境の改善をしようかと。幸い、サクヤ
さんの車に、工具や資材がありましたので」
「何をするの?」
「それは開けてのお楽しみです。上手くいかなかったら糠喜びになってしまいますから」
それじゃあ尾花、行こう。
葛ちゃんと尾花ちゃんも部屋の外へと行く。
部屋に残ったのはわたしと桂ちゃんだけだ。
「それじゃ桂ちゃん。もう少し眠って頂戴」
「えっと……えっ?」
これから何を話そうかと、話題を探していた様子の桂ちゃんは、いきなりの打ち切り宣
言に、考えを止められて表情が固まっている。
「ほら、そんな顔しないで」
わたしは、微笑みながらその頭を撫でて、
「今の桂ちゃんに必要なのは、たっぷりとした休息よ。身体についた傷はすっかり治して
しまったから、後は休んで癒すしかないの」
「うん……」
「大丈夫。桂ちゃんが寝ている間に、いなくなったりはしないから」
幼い頃寝付かせる為にした様に手を伸ばし、
「なんなら、ずっと手を握っている?」
桂ちゃんは恥ずかしそうに、お布団の中に顔を沈めながらも。
「……うん」
しっかりと手を握ってくれていた。
「おやすみなさい、桂ちゃん」
「おやすみなさい、ゆめいおねえちゃん…」
そのあいさつが胸を強く強く締め付ける。
安らかな寝顔だった。わたしはこの安らぎを守る為に在り続けた。わたしはこの全幅の
信頼を受け止める為に生も死も越えた。もうわたしが何者であるかに拘りはない。それは
一番大切な問題ではなかった。悪鬼でも鬼畜でもわたしは桂ちゃんと白花ちゃんを守る者。
それだけで良い。それ以上は望まない。
そしてその為になら、わたしはやはりこの身に残る何もかもを抛てる。握る手の温かさ
がわたしの心を温めてくれる。遠からずこの現身も保てなくなるだろうけど、その時迄は、
「桂ちゃんに、この確かな感触を返したい」
陽が、傾き始めてきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夕刻を迎えると周囲の光の弱まりを感じる。真昼の光の下で保てる現身でも、周囲に散
乱する光の圧力の違いは、肌の上で感じ取れた。水に浸かり続けていると水圧を感じるに
近い。
桂ちゃんの手を握った侭、日が落ちるのを待ってわたしは自身の力を解き放ち、お屋敷
からご神木に向け何頭もの蝶を飛ばし始めた。
「壮観だねぇ。まるで狐の嫁入りだよ」
帰ってきたサクヤさんは、開け放った戸口から列をなしてご神木に向かう青白い輝きが、
周囲の闇から浮いて映えるのに目を輝かせた。
葛ちゃんは作業疲れでお昼寝すると別室に籠ったけど、寝てない事は分っている。わた
しの所作を見て見ぬふりする為に、その場に居合わせる事を遠慮した様だ。わたしに隠す
積りはないけど、彼女が自身についての詮索を嫌うが故に、深入りは拙いと考えたらしい。
尾花ちゃんと窓から首を覗かせ、唖然としている様は分るけど、わたしもそれには触れず。
わたしは全身全霊をつぎ込んで現身を作り、ご神木をほぼ空にして桂ちゃんを助けに出
た。封じの要が還った訳ではないから封じ自体は有効だけど、力は落ちている。破ろうと
思えば、夕暮れ前に可能だった。なぜ主がそれを為さなかったかは、多分わたししか分ら
ない。
取りあえず封じは未だ有効なので、日暮れと同時にわたしはその強化の為に、桂ちゃん
に貰って満ち満ちた力の一部を蝶に変え、ご神木に送り出す。力と想いを送る事は、送り
主の健在をご神木と主に報せる。主がこれを受けてどう想うかも大凡予測が付いた。今は
まだ桂ちゃんの側を離れられないけど、これだけの力を送り出せれば数日は保たせられる。
「桂にも、見せてあげたい位だねぇ」
力を送り出す事は結構な負担だけど、まだ現身の維持に影響を及ぼす程の低下ではない。
わたしは更に数頭の蝶を山奥に向け、烏月さんと白花ちゃんの捜索も並行して為していた。
手を握り続けるわたしの間近に来るのに、
「わたしが力を使ったと知れば心配します」
サクヤさんはわたしがまだ大丈夫と感じ取れるけど、桂ちゃんは素人なので力の残量や
疲弊を図る基準がない。心配させかねないので、寝ている間に為して終えた方が良かった。
「自分が生死の境を彷徨った直後に、白花や烏月の心配をする様な子だからねぇ……ん」
白花ちゃんの名を出してから、わたしの視線に気付いてサクヤさんは、はっと右手で口
を塞ぐ。羽様の屋敷にいる所為で、わたしの濃密な現身を前にした所為で、桂ちゃんの容
態が安心できる様になった所為で、昔の感覚に浸っている。その名をここで桂ちゃんに聞
かせては記憶を戻せと唆す様な物だ。赤い痛みに苦しめと促す様な物だ。桂ちゃんは相変
らず眠っていて、耳に入ってない様だけど…。
サクヤさんも分った様なので、それ以上は追究しない。サクヤさんは頭を掻いて苦笑し、
「少し頭を冷やしてくるよ」
「烏月さん達の何かが掴めたら、伝えます」
眠り姫が瞼を開いたのは、その少し後だ。
「おはよう……ではないわね。こういう時は、何て言うのかしら」
握った侭の手と反対の手で、額に掛る髪を払い、身を乗り出して桂ちゃんの様子を覗き、
「顔色も少し良くなっているわね」
「少し? だいぶん良くなってるんじゃないかな。もう普通に動けそうだよ」
お腹と背中に力を入れて、横たわった身体を起しに掛るので、その手を引いて助け起す。
「烏月さんとケイくん、どうしているかな」
まだしっかり回らない頭でも、たいせつな人の心配は忘れない。そんな桂ちゃんに、
「夜になったので蝶を飛ばせて探しているわ。まだ確かな所在は掴めないけど、かなり遠
いみたいね。蝶でここ迄導くから、安心して」
幸い2人とも、生命に関る大ケガはないみたい。長時間戦い続けて疲れている様だけど、
掠り傷と疲労なら、わたしの力で癒せるから。
「力を使わせちゃって、ごめんなさい」
申し訳なさそうな表情の桂ちゃんに、
「桂ちゃんのたいせつな人の為だから」
「わたしが探しに行ければ良いんだけど…」
近く迄来たら、出迎えたい。可愛らしい顔にそう書いてあるのに、わたしはやんわりと、
「まだ、無理をしては駄目よ」
「ぜんぜん無理はしてないよ。これ以上はごはん食べないと、治らないんじゃないかな」
時間的にも、夕食の頃合いだった。
「そうね。何か食べるものがないか、サクヤさんに訊いてみるわ」
「サクヤさん、もう戻ってきてるんだ?」
「ええ、あれから随分経っているもの。もう外も真っ暗でしょう?」
「わ、本当」
部屋は明るいけど障子戸の向うは真っ暗だ。
「それじゃあ、ちょっと待っていてね」
立ち上がろうとして、思わぬ感覚に動きが止まり、眉根を顰める。ほんの少し困惑した。
「あの……ユメイさん?」
桂ちゃんがそれに瞬時に不安な顔を見せた。
『何か気に触る事をしてしまったんだろうか。
だけど心当たりが見つからなくて、恐る恐る声をかける。
嫌われたらどうしよう。
見放されたらどうしよう。
そんな事を考えて不安になるわたしは、何だかお母さんと一緒の時より、気持が幼い』
知らずに力が入った手を、同じ位の力で握り返し、わたしは唇をゆるりとほころばせた。
「何でもないのよ。少し足が、痺れただけ」
『足が? わたしが寝てる間、ずっと座ってて……。あ……眠っている間中、手を握って
離さなかったわたしが何を言ってるんだか』
「ごっ、ごめんなさい!」
桂ちゃんが慌てて手を離し、わたしの身柄を解き放つ。謝られる事は何もない。ずっと
握っていてくれた事はこの上なく嬉しかった。頼ってくれる手に応える程、嬉しい事はな
い。
「いいのよ、別に。だけどこんな感覚があったなんて、すっかり忘れていたわ」
肉を失っていた十年は、短い様で長かった。再び得た確かな身体に困惑気味に、それで
も微笑んでから立ち上がって部屋を出る。入れ替わりに葛ちゃんが入って来た。容態の落
ち着いた桂ちゃんに改めて自己紹介する積りか。
サクヤさんが台所で水を張った鍋と携帯コンロを持ち上げる処だった。わたしは脇にあ
ったレトルト食品を手に取る。戻る先の部屋から桂ちゃんと葛ちゃんの会話が漏れ聞えた。
「……あ、ここって電気使えるんだっけ?」
「少々細工しまして。水も出る様になりましたから、生活がぐっと楽になりましたよ」
「そうだね。水と電気があれば、普通に生活できるよね」
「それは随分と、見通しの甘い考えだねぇ」
サクヤさんは身体も話も部屋に入り込ませ、
「とりあえず三大ライフラインの内、料金未納で止められる順番を考えてごらんよ」
「電気、ガス、水……そっか、ガスが抜けてるんだ」
火がない事に桂ちゃんも勘づいた様だった。
「そうなんですよ。ガスも調べてみたんですけど、ボンベで配給されるタイプだったんで、
いじった処でない袖は振れないんですよね」
「でも、電気よりガスの方が、重要なの?」
その問は現代に生きる人の素直な感覚か。
「人間は火を手にする事で文明を手に入れたんだよ。今じゃ電気が何にだって化けるけど、
それだって充実した電化製品あっての事さ」
サクヤさんは障子戸の外の縁側に携帯コンロを置くと、つまみを捻って火を付けた。
「さて、住がそれなりに片付いた処で、食としようか。桂も食欲がある様で何よりだよ」
「はい、桂ちゃん。好きなのを選んでいいそうよ」
桂ちゃんの前にレトルト食品のパックを並べて見せる。基本的に煮沸三分とか七分とか
で食べられる物ばかりで、現在コンロには水を張ったお鍋がかけられている。一応鍋物か。
「これ、全部買ってきたの?」
「あたしの車の常備品さ。そうそう、あんたは身体が弱ってるんだから、賞味期限が切れ
てないかちゃんと確かめるんだよ」
「はーい……あ、お赤飯とか炊き込みご飯以外に、白いご飯もちゃんとあるんだね」
「カレーを赤飯にかけるのアレだしねぇ。まあ、それもそれ程不味くはないんだけどさ」
「あ、ハンバーグとかも美味しそう」
「そうね。お肉を摂った方がいいかも。それとほうれん草なんかはないかしら?」
血が不足な桂ちゃんを考えたわたしの問に、
「ほうれん草入りのグリーンカレーならあるよ」
「じゃあ桂ちゃんはそれにしましょう」
「うーん、ハンバーグカレーとかは普通にあるけど……」
「あのー、カップめんとかないですか?」
僅かに乗り気ではない桂ちゃんの戸惑いを、葛ちゃんの問いかけが忘れさせて、流し去
る。
「幾らまともに調理できない状況だからって、病み上がりにインスタントを勧めるかい」
「それは残念。いまだカップめんってヤツを食べたことないんですよねー」
「はいはい。恵まれた家庭でお育ちで。あたしは草木の根っこも食べたことあるよ」
「それならわたしもあるですよ。根菜類は栄養価豊富ですからねー」
ご飯のメニューを選んでいる内に、お鍋がぐらぐら煮え立った。形のある人の食物を口
にしたのは久しぶりだ。桂ちゃんは夕食を美味しそうに食べつつ『烏月さんはお腹を空か
せているかな』と呟いて、サクヤさんの呆れた声を招いていた。烏月さん、罪作りですよ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「食べた、食べたーー。お腹いっぱい……」
「温かいご飯は久しぶりです。幸せですー」
「わ?」
カメラのストロボが2人の姿を照射した。
「んー、中々いい感じの絵面で撮れたねぇ。題するなら『食い倒れ姉妹』って辺りかい」
「やめて、やめて。こんなだらしない格好撮らないでー」
「そのだらしないのが桂だって、ちゃんと受け容れてあげたらどうだい。カメラが写すの
は、ありのままの事実だけなんだよ」
「ううっ……。言われなくても分ってらい」
サクヤさん、あとで一枚お願いしますね。
「……サクヤさんって、自然とか野生動物撮る人じゃなかったの?」
桂ちゃんの持って行き処のない抗議の問に、
「仕事は仕事。プライベートで何撮ったっていいじゃないか」
それはそうなんだけど、撮られる方にだって、プライバシーとか肖像権とかがあってね。
「そーゆー事ですので、人様の目に触れる処に掲載する場合は、キチンと修正入れてくだ
さいね」
葛ちゃんの危惧はサクヤさんも分っている。
「別に変な所に送ったりはしないから安心おし。それに桂の偏見通り、野生動物だって一
応は一緒に写ってるよ」
「尾花ちゃんは野生動物じゃないと思う、だって、自分でごはん獲ってないもん。……そ
ういえば、尾花ちゃんもちゃんと食べた?」
部屋の隅で丸くなっていた尾花ちゃんは、ぞんざいにしっぽを一振りすると、つまらな
さそうに目を閉じた。葛ちゃんが桂ちゃんに、
「尻尾を引っ張ったら起きますよ?」
「いいよ、いいよ。そんな事しないであげて。お腹いっぱいの時って眠くなるし、起した
ら可哀相だよ」
「そうそう。丁度いいから、そのまま寝かせておきなよ」
サクヤさんが口を挟むのに、葛ちゃんは、
「何がちょうどいいんです?」
「今から町に出て、一風呂浴びてこようかと思ってね。尾花は一緒に入れないだろ?」
「まあ、男の子ですから」
「狐だからだよ」
「あはは……普通はそうだよね」
桂ちゃんが笑みを浮べる横で、
「それより葛。あんた、暫く風呂に入ってないだろ?」
問われて葛ちゃんは、二の腕を顔に持って行って小鼻を動かす。桂ちゃんはそれを見て、
「……もしかして、本当に入ってないの?」
「あちらの川で行水などは、ちゃんと行なってたりするんですけど……臭います?」
「行水? それって辛くない?」
「夏の間はまあなんとか、それはそれで気持ち良かったりはするんですけど……。
たはは、やっぱりお風呂がいいですねー」
サクヤさんには、烏月さん達の一応の無事と、現在地が相当遠いこと、招いても日付が
変る迄にお屋敷に着くのは難しい旨は伝えた。鬼の姉妹は、経観塚の町を中心に動いてい
る。わたしの関知は、ノゾミ達が今宵襲い来るにせよ、丑三つ時より更に遅いと視せてく
れた。
無防備な迄の呑気さも大人のペース配分か。常に緊張しっぱなしでは、肝心な時にガス
欠になる。真弓さんも『余力はいざという時の為に取っておく物よ』と、言っていたっけ
…。
「じゃあ、決まりだね。準備おし」
「そういえばわたし浴衣だ。サクヤさんの車で行くなら、このままでも大丈夫かな?」
ドア・トゥ・ドアなら問題なさそうなんだけど、やっぱり少々はしたないかも。ぶっち
ゃけ言えば寝間着で歩く様な物だし。うーん。
「やっぱり着替える。ちょっと待ってて」
「別に着替える必要はないよ」
「そうかな? おかしくないかな?」
「おかしくないさ。布団の中に戻るのに、他のどんな格好が似合うって言うんだい?」
え? 驚きに見開かれるその瞳も愛らしい。
「あんたは留守番。内風呂ならともかく、外に病み上がりを連れ出す訳ないじゃないか」
えー。がっかりするその声も顔も愛らしい。
「柚明がお守りにつくから、食べられるだけ食べたら寝て、少しでも体力つけておきな」
この先、何があるか分らないんだからね。
「何だか良く分りませんけど、お風呂って意外に体力使いますからねー」
「桂ちゃん、今日は我慢して」
むー。わたしの言葉にも諦め難い様子で、
『お風呂には入りたいけど、余り心配かけるのも悪いし』
桂ちゃんは不承不承、頷いてくれた。
その様が愛おしく堪らなかったのか。
「よしよし、いい子だね」
桂ちゃんの頭に、サクヤさんのしなやかな左腕が降りてくる。くしゃっと髪の毛を掻き
回す様に強く撫でる。わたしもかつて良くああやって撫でて貰った。幼い頃を、思い出す。
「う〜、ひどい。髪の毛ぐしゃぐしゃ」
『頭を撫でられることの是非はともかく、サクヤさんはちょっと乱暴すぎる。もっとこう、
ユメイさんみたいに優しくしてくれれば…』
目線で見比べられているのが分る。
「それを望むのはちょっと無理かも」
「うん? 何が無理なんだい? 希望があるなら、土産ぐらいは買ってきてあげるよ」
「お土産?」
代りの物に釣られる辺りも現金で可愛い。
サクヤさんもそれを分って食べ物で釣る。
「桃缶とか、アイスクリームとか」
「いいですねー、アイスクリーム。夏ですし、暑いですし、お風呂上がりに食べたらさぞ
美味しいんでしょーねー」
食べ盛りの子供を演じる葛ちゃんの問に、
「だろうねぇ。とはいえ、夏の風呂上がりといえば、定番は別じゃないかい? 冷えたの
をこう一気にキュッと」
「喉越し滑らかフルーツ牛乳でしょーか?」
「いーや、喉に爽快、スッキリ刺激の」
「ビールは駄目です、残念ながら」
わたしが車の免許持ちなら、幾らでも飲ませて差し上げられるんですけど、飲んだら乗
るな、乗るなら飲むなの箴言によってですね。
「って、桂おねーさんどうしました?」
「桂?」
「……2人ともさりげなく自慢してる?
お風呂入りに行けること自慢してる?」
「そそっ、そんなことはないですよっ?」
「そうそう、桂の気の所為だろうね。それじゃあ葛、さっさと行くよ!」
「合点ですよ、サクヤさん!」
桂ちゃんの拗ねた声が2人を急かす。
「やだなぁ、2人とも。そんなに慌てなくても、お風呂は逃げたりしないよ?」
「いやいや少しは慌てないとね、のんびりしてると湯が冷めちまうんだ」
「そーゆーことです、桂おねーさん。それじゃあ行ってきます!」
ややだれた日常会話が、ばたばたした喧噪に取って代わられ、台風の様に足音が一気に
去ると、古いお屋敷は元の静けさを取り戻す。
「……もうっ。ごはん食べた後片付けもしないで行っちゃったよ」
「元気があって良いじゃないの」
「葛ちゃんはね。でも、サクヤさんはもっと歳相応に落ち着いてもいいと思う」
「そんなことになったら大変よ」
「大変って……」
『そりゃあ落ち着いたサクヤさんなんて想像つかないけど、大変は言い過ぎなんじゃ?』
「桂ちゃん、どうしたの?」
「ううん、何でもない……」
そう。わたしは頷いて立ち上がると、十年前の日常の如くみんなの食器を一つに纏める。
「あ、わたしも手伝うよ」
「手伝ってもらう程の量じゃないから。
それより桂ちゃんは寝ていて。サクヤさんだって、そう言っていたでしょう」
やんわりとお布団に追い立てる。
「ううっ、牛になる……」
「それで眠ってくれるなら、桂ちゃんが牛になっても構わないわ」
とっても可愛い牛になるでしょうね。
「でもね、本当にわたし、もう大丈夫なんだよ? 寒気だとか立ちくらみとか、身体に力
が入らないなんて事も、ぜんぜんないし…」
「用心はしておくに越したことないわ」
「だけど寝付けそうにないよ。お布団の中で横になってるだけでも、何だか暑苦しいし、
身体べたべたしてる気がするし……」
桂ちゃんが言う事もその通りだった。
「そう。ちょっとだけ待っていて」
わたしは桂ちゃんの返事を待たずに、部屋から出て行った。台所に行って食器を置くと、
水に浸すだけで洗いはせず、代りに洗面器に水を注いでタオルを持ち桂ちゃんの元に戻る。
「……桂ちゃん、もう寝てしまった?」
「ううん、やっぱり駄目っぽい」
眠っていれば不要なのだけど。ひそめた声の呼びかけに、桂ちゃんは薄目を開き応える。
「それじゃあ桂ちゃん、ちょっとだけ起きてくれるかしら?」「うん」
水を張った洗面器とタオルを脇に置き、布団に伏せる桂ちゃんの隣に座る。
暑いから、濡れタオルを乗せた方が眠りやすいかも知れないと、桂ちゃんも察した様だ。
「わたし、別に熱はないよ?」
「そうね。だけど身体を拭いて気持ち良くなれば、眠気も訪れるかもしれないわ」
タオルが絞られる水の音が涼しげだ。
「それに汗もかいたでしょう? 桂ちゃん、お風呂に行きたがっていたから、せめてこれ
ぐらいはしてあげようと思って」
……ほら、手を出して。
きちんとたたみなおしたタオルを片手に、もう片方の手で桂ちゃんの腕を取る。
「ん……」
手の甲に乗せられた濡れタオルの冷たさに、桂ちゃんは肩を縮こまらせ、小さく身じろ
ぎ。
「冷たかった?」
「大丈夫。冷や冷やしてて気持ちいい」
「そう」
返事と同時に、手の甲から前腕へタオルを滑らせる。わたしの手が桂ちゃんの浴衣の広
い袖から中へ滑り込み、タオルは前腕から二の腕へ、ゆっくり撫でつけつつ移動していく。
「ユメイさん。もう身体も不自由なく動くんだから、それぐらいは自分でできるよ?」
「そう? 手や顔はいいけど、背中なんかは大変でしょう?」
「それはまあ、たぶん……」
「それじゃ、こっちに背を向けてくれる?」
恥ずかしいけど、止めて欲しいとは思ってない。その心の動きも手に取る様だ。膝とお
尻をもぞもぞ動かし、身体の動きを調節して、
「これでいい?」
「ええ。それじゃ髪を寄せてくれるかしら」
下ろすと背中一面を覆う髪をまとめ、脇から前へ垂らして背中に掛らない様にする。
「後で髪もちゃんと梳きましょうか」
『耳元での言葉の余韻が消える前に、微かに甘い香り……あのご神木の花の香りが、ふわ
りと覆い被さってきた』
桂ちゃんの身体を懐に抱くように伸ばした腕が、慣れた手つきで浴衣の帯を解いていく。
「わっ、ゆめいさんちょっと?」
「何?」
「浴衣、その、はだけないと……駄目…?」
「隙間から手を入れても、ちゃんと拭けはしないでしょう?」
「はい……」
広がりきった襟が肩に引っ掛からなくなり、衣擦れの音を残し浴衣が身体から落ちてい
く。
桂ちゃんが反射的に両手で肩を抱き、肩越しにわたしの様子を窺っている。
「……どうしたの?」
「えっとその、何となく……恥ずかしくて」
「そう」
にっこり微笑みそれだけ言うと、わたしは身体を屈めてタオルを水に浸し直した。
『ううっ、心臓がドキドキいってる……』
肩を抱く手にぎゅっと力を入れて、緊張に震える身体を抑えつつ、桂ちゃんがタオルか
ら絞り出される水の音がやむのを待っている。
水の音がやんで、再び静けさが辺りを包む。
「桂ちゃん、そんなに緊張しないで。疲れてしまうでしょう?」
「それはそうなんだけど……」
「すぐに慣れるわ」
タオルがぴたりと当てられる。
「んっ……」「これぐらいでいいかしら?」
タオルがするする背中を滑る。汗や埃などの、皮膚の表面に張り付いた汚れが拭き取ら
れると、ふっと身体が軽くなり呼吸が楽になった気がするのが、わたしにも伝わってきた。
「どう、桂ちゃん?」「うん、気持ちいい」
タオルの通った後に残った水気が、夏の大気に溶け込む涼気が心地良さそう。うっとり
と目を閉じ、力の抜けた身体を委ねてくれる。
「少し腕を上げて、脇を空けてくれる?」
「あ、ん……うひゃっ」
タオルを持った手が、お腹の脇から肋骨の上を通って上って行く。
「ちょっとくすぐったかった?」
「うん……いまのはちょっと。もう少し力を入れてくれた方が、くすぐったくないかも」
「じゃあ、これ位なら大丈夫?」
「うん、それぐらい、なら……」
もう少し両手に力を込めて、タオル越しの手と、身体が泳がないように肩を支える反対
側の手でサンドイッチにする。今迄よりずっと強い、皮膚にめり込む位の力に、わたしが
今確かな濃い現身を持つ事を改めて実感した。
「あ……だけどユメイさん」
躊躇いがちな桂ちゃんの問はわたしも分る。身体を拭う動きが止まるのは、答を紡ぐ為
だ。
「ユメイさんこそ大丈夫なの?」
「何が?」
「……ずっとそのままだと、辛かったり苦しかったりしない?」
『ユメイさんが現身の侭でいるということは、それだけ力を使っているという事だ。
それは、ユメイさんにとって……』
「心配してくれて有り難う。まだ大丈夫よ」
願いを潜ませた問に、事実で答える。
「……まだ?」
「そんな顔しないで。いつそうなるのか、わたしにも分らないだけで、別に我慢している
とかではないのよ。……ただね、ずっとこの侭、なんて言えないから」
「うん……それは分る……」
『ずっと一緒にいる物とばかり思っていたお母さんは、わたしを残して逝ってしまった』
「……ねえ、ユメイさん」
「なあに?」
「ユメイさんは、無理しないでよ? 苦しかったら苦しいって、辛かったら辛いって、ち
ゃんと言ってよ?
わたし鈍いから、言われないと分らないから。言われないと何もしてあげられないから。
お母さんが過労で倒れちゃう位疲れていた事に気付いてあげられなかった、全然駄目な
子だから……」
うな垂れる桂ちゃんの頭に、わたしの手を乗せる。真弓さんが幼い桂ちゃんに良くして
いた様に、ぽんぽんと柔らかくその頭を叩く。
「有り難う。桂ちゃんはいい子ね。その気持だけで充分よ」
桂ちゃんの、その願いは受け容れられない。わたしは無理をしてでも桂ちゃんを守るか
ら。わたしは生命を削っても桂ちゃんを守るから。でもわたしを想いやってくれる気持は
嬉しい。その優しい気持には精一杯の想いで応えたい。
「……違うよ、わたしいい子じゃないよ。わたしはわがままな子だよ。
わたしはわたしのために言ってるんだもん。後になって自分を責めるのが嫌だから…
…」
『大切な人が、いなくなってしまうのが嫌だから。ユメイさんが、突然消えてしまったら。
わたしは……わたしは、そんなの嫌だった』
「ねえ、わたしの血を飲んで」
桂ちゃんの声は真剣で、強く確かだった。
「ユメイさんが消えてしまわない様に、わたしの血を飲んで」
「桂ちゃん。そんなに心配しなくても……」
「昨日朝のニュースで言ってたんだ。体中の血がなくなっている遺体が発見されたって」
証拠はなくて勘なんだけど、それって昨夜のあの子たちが犯人だと思うんだ。
わたしの返事を遮って、桂ちゃんは訴える。
「……そう。お亡くなりになった人が」
「あの子達は本当に鬼なんだ。そしてわたしは、その鬼に目を付けられているんだよね」
「そうね。あの子たちの目的は他にあるのだけれど、桂ちゃんを諦めたとは思えないわ」
うん。そこで桂ちゃんは下腹に力を込めて、
「だからユメイさんには、今の内にわたしの血を飲んで、力を蓄えておいてほしいの」
「わたしは既に、真昼の光の中に立てる程の力を貰ったわ。こうして桂ちゃんと触れ合え
る程の力を貰っているわ」
「だけど、そんなのすぐに足りなくなるよ」
「そんなことは……」
「あると思う。その身体を維持するのにも力が必要なんだよね? 血を飲まないと、減る
一方なんだよね?」
桂ちゃんも、わたしの本質を見通していた。
そして、わたしが常に全身全霊で桂ちゃんを助けに動くだろう事も。力があればあるだ
け、なければ身を削って桂ちゃんを助けに出た事実が、今は桂ちゃんの不安を招いていた。
「オハシラ様のご神木が力を集めてくれているから、減る一方というわけではないのよ」
「だけどユメイさんって無茶する人だよ?」
昼間なのに、わたしを助ける為に出てきちゃうような人だよ?
「だからユメイさんには、無茶しても大丈夫な様に備えてもらうの。力をいっぱい使って
も、なくならない様に。……わたしの前から、姿を消してしまわない様に」
桂ちゃんが口を噤むと、部屋はしんと静まった。わたしは暫く言葉を返せず、僅かに思
案しつつ手を桂ちゃんの背中にそっと触れた。心臓の上に、温かな贄の血の上に触れてい
た。
「……ユメイさんが吸ってくれないとね、この身体の中の血が、全部なくなっちゃうかも
しれないんだよ?」
『わたしの心臓はどきどきどきどき動いている。わたしに身体の中には、まだこんなにた
くさんの血が流れている』
「あの2人は、本当に死んじゃうまで血を吸う様な子だから。そういう子たちが力を蓄え
て来るかもしれないんだよ?」
わたし、吸われるならユメイさんが良い!
強い声がわたしに残っていた迷いを消す。
「……分ったわ」
血はもう充分すぎる程だった。ノゾミ達は桂ちゃんから吸い上げた贄の血の残余で、依
代に戻ればもう一度昨夜位の現身を作り得る。でも、わたしはその濃さを凌いでいた。二
対一という要素が不安を残すけど、わたしは初めてあの姉妹2人に対し優位に立てる。で
も。
真の問題はそこにはない。真の問題は桂ちゃんの中にある。わたしの消失に抱く桂ちゃ
んの不安は、理屈や言葉で拭える物ではない。何度も消えそうな窮地を見せてしまったか
ら。何度も力と想いの限界を見せてしまったから。
その不安を拭わないと、心が身体に負荷をかける。自身を追い詰める。足手纏いと言う
意識を拭わないと、不安な震えを抱き留めないと、優しい心に応えないと。その身を少し
傷つけてでも、心に深い傷を残さない為に…。
うなじにわたしの吐息が掛る。
その身にわたしの想いが届く。
「桂ちゃん、いいのね?」「うん……」
わたしの歯が、桂ちゃんの柔く温かい肌に触れた。さわさわと背中の産毛が立ち上がる。
歯が食い込んでいく。圧力を感じている。
「うっ、んんっ」
「桂ちゃん……」
肌を破った。その感触はわたしも分った。
「だ、大丈夫。ほんとに大丈夫だから」
『甘い花の香りを溶かした吐息。それがわたしの感覚を麻痺させているのか、不思議と痛
みを感じなかった。……じわりと、わたしの身体から熱い血が染み出していく』
歯形についた傷をわたしの舌がなぞっていく。赤ちゃんがお乳をねだる様に傷口を吸う。
「……んっ」
「桂ちゃん、痛くない?」
「平気。それより、ちゃんと出ている?
出てなかったら……その、もっと吸ったり、噛んだりしてくれても……」
「これ以上は駄目よ。桂ちゃんはかなりの出血をしているんだから、これ以上は駄目。
わたしは傷を治す事はできるけれど、それ以上はできないんだから、身体を傷つけるの
は良くないわ」
吸う量は問題ではなかった。吸われた、わたしの力になったと、桂ちゃんが安心する事
が大切だった。だから余り多く吸わない。桂ちゃんの身体と心を落ち着かせるのが目的だ。
「でも……」「大丈夫。もう充分よ」
桂ちゃんの言葉を、やんわりと止める。
「例え今晩あの2人が襲ってきても、わたしは消えずに桂ちゃんを守れるから」
「うん……」
「それに桂ちゃんだって、ご馳走をいっぺんに並べられても、困ってしまうでしょう?」
「うん……」
「だから、ね」
もう一度、唇を傷口に触れさせる。今度は吸わずに、わたしの癒しの力を吹き込んで…。
熱いお湯に浸かった時の様な、じんと痺れる感じがして、ほわほわと温かくさせていく。
眠気を催す浮遊感が桂ちゃんを捉えていた。それは傷口から吹き込んだ眠りへのいざな
い。
『さざめく波の音が遠のいて、世界が静かになっていく様な……』
月を溶かした凪の海をたゆたう感じに誘われて、桂ちゃんは更に深い場所へ沈んで行く。
お屋敷の扉が叩かれたのは、間もなく日付が明日に変ろうという、夜も更けた頃だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「夜分失礼します。ユメイさんは、こちらにいらっしゃいますか」
扉を叩いたのは烏月さんだった。白花ちゃんはいない。その事情もわたしは近づいてく
る途上から分った。サクヤさんと桂ちゃんを起し、葛ちゃんは『子供だから』とサクヤさ
んが止めるのに従い声をかけない。耳を澄ます様子は、サクヤさんも知って知らぬふりだ。
一日中森で戦い続けた烏月さんは、埃や泥が付いて決して綺麗とは言えない状態だった。
その身を包むのは疲労感と心の消耗。気力が衰えている。凛とした姿勢は保っているけど。
「わたしの蝶は、受けてくれなかったのですね……疲れたでしょう」「いえ、この位は」
わたしが放った蝶は単なる捜索用ではない。わたしの意志を込め、身を分けた蝶は癒し
の力も持つ。蝶に込めた想い迄分らずとも、受け容れれば傷や疲労を癒すと分っただろう
に。
『烏月。どうやら、桂は生きて無事らしい』
陽が落ちても森の奥で転戦を続けた2人に、わたしの蝶が届いた時、白花ちゃんが先に
それを受け容れた。わたしの想い、伝えたい心を察し、感応の力を使って読み解いてくれ
た。
蝶を身に吸収した白花ちゃんは、桂ちゃんの無事を知って気力も取り戻し、烏月さんに
それを知らせてから自身はより山奥へと逃げ去った。烏月さんは蝶の癒しを拒んだ。鬼の
助け或いは情けなど受けはせぬと。故に疲弊した身体ではそれ以上彼を追えない。そして
白花ちゃんが逃げ切れれば、烏月さんは諦めて桂ちゃんの無事を確かめに山を降りられる。
『白花ちゃん。本当は、桂ちゃんの無事をその眼と腕で、確かめたかったでしょうに…』
烏月さんと鉢合せれば戦いになってしまう。烏月さんが桂ちゃんを大切に想う事をも知
る白花ちゃんは、その間近を彼女に譲ったのだ。烏月さんがその気遣いも理解してくれれ
ば…。
その帰途は吸収されなかった蝶が道を示す。烏月さんは必死に平静を装っていたけど、
その足は白花ちゃんを追った時よりも速かった。
「あなたは……その濃い現身……飲んだ…」
それを為すのにどれ程の血が必要か、鬼と深く関ってきた烏月さんが知らない筈がない。
嫌悪と警戒と、敵意が瞬時その身に兆すのが見える。思わず維斗の柄に手をかけた烏月さ
んを、わたしは警戒もなく柔らかに出迎えて、
「お上がり下さい。桂ちゃんも待ってます」
まず桂ちゃんの無事を確かめる。そう考えた烏月さんは、背を向けたわたしの後に続き、
「烏月さん。無事、だったんだ」「桂さん」
桂ちゃんは、寝起きとまだ本調子ではない体調なので、夜風に当てたくないとサクヤさ
んが部屋の中に引き留めていた。誰かが脇にいないと、戸口へ迎えに出そうな勢いだった。
素直に近づけない烏月さんに対し、桂ちゃんは病み上がりの身体を全力で抱きつかせて、
「心配、したんだからっ……!」「桂さん」
サクヤさんの渋い顔は、冒頭に一発きつい事を言いたかったのに、出鼻を挫かれた為か。
烏月さんへの微かな焼きもちか。烏月さんは桂ちゃんの無事を確かめた歓喜と、その身を
守れなかった事への後ろめたさで、抱擁には応えるけど声が詰まって返事が出ない。桂ち
ゃんが烏月さんの無事を肌に納得させた頃合いを見計らい、わたしは2人に着座を促した。
「……桂はあんたと鬼の戦いに巻き込まれて、崖から落ちたって話じゃないか」
対座する相手を睨み据えながら、押し殺した声でサクヤさんが言った。受ける烏月さん
も一見静かに落ち着いている様に見えるのに、周りの空気は肌に痛い程ぴりぴりしている。
「その、直接巻き込まれたって訳じゃ……」
立ちこめる一触即発の気配に、桂ちゃんは当事者なのに、おずおずとしか口を挟めない。
「はん、鼻息の荒さの割には、随分とだらしないんだねぇ、今の千羽の鬼切り役は」
先代の実力はよく知らないんだけど、先々代の足元にも、及んでないんじゃないのかい。
「その事に関しては返す言葉もありません」
烏月さんはそれでも持ち前の毅然とした姿勢を失わず、桂ちゃんに顔を向けて頭を下げ、
「済まない桂さん。早々に奴を始末できていたならば、あの様な事態は起りえなかった。
ひとえに、私の能力不足が招いた事態だ…」
「いいんだよ。ユメイさんのおかげで、わたしはこの通りぴんぴんしてるしね」
烏月さんは複雑そうな顔で、桂ちゃんとわたしを比べ見た。鬼切り役が全身全霊で守る
と約束した桂ちゃんを守れず、鬼のわたしが助けた事に忸怩たる物があるのだろう。その
課程でわたしは、膨大な力と濃い現身を得た。
敵ではないにせよ、鬼が力を得る事は本質的に好ましくはない。その烏月さんの考えに
わたしも基本的に同意するけど、今は例外だ。
桂ちゃんはその烏月さんの視線に問いかけ、
「……ねぇ、烏月さん。
ケイくんってどんな鬼なの? どうしてケイくんは、退治されなきゃいけないの?」
鬼にも良い鬼と悪い鬼がいる。人にも良い人と悪い人がいる様に。桂ちゃんはそう考え
ている様だ。そして、白花ちゃんが果して悪い鬼かどうかに桂ちゃんは疑念を抱いている。
「どうしても何も、奴は既に何人もの人を殺し、その血肉を喰らった文字通りの鬼だから
だよ。故に鬼切り役である私に命が下った」
「そんな風には……」
「見えないかい?」
しかし桂さん、考えてもごらん。昔話に語られる典型的な鬼婆とて、表向きは旅人に宿
を勧める善良な老婆に見えるものだろう?
「それに……奴が鬼である他にも、私には奴を切らねばならない理由がある」
奴の存在その物が、我ら千羽党にとっては他の鬼切部に顔向けできない程の恥だからね。
「あの、それは明良さんという方と……」
桂ちゃんの地雷を踏む才能は、十年の歳月を隔てて健在だった。不快の念を露わにした
厳しい瞳にぶつかって謝りながら目をそらし、
「ごめんなさい」
「いや……そのことに関しては、そちらの方にも色々と言いたい事があるんだがね」
サクヤさんに? 桂ちゃんの視線が向く。
「その件に関しては平行線って事で話がついてるだろう? それにこの子の前で、そんな
関係ない話を持ち出すんじゃないよ、全く」
「そう、でしたね」
「で、あの子……ああ、その鬼とやらは一体、どうしたんだい?」
「逃げられました。流石にこう暗くては人の身には分が悪い。奴が逃げ際に、ユメイさん
の蝶に感応して桂さんが無事だと告げたので、蝶の軌跡を辿ってこちらに」
桂さん、全身全霊の力をかけて守ると言っておきながら、守れなかった。その仇を取る
事も出来ず、助ける事も叶わずに。済まない。わたしに、あなたの抱擁を受ける資格はな
い。
「そんな、烏月さん……」
美しい顔を歪める悔しさは、自身の失陥と無力さへの物だ。桂ちゃんが拭おうとしても、
それは彼女自身で受け止めきる他に術がない。そしてその真摯な沈痛さに、サクヤさんも
非難の度合いがやや鈍る。怒気が僅かに薄れて、
「それで、今後はどうする積りなんだい?」
烏月さんの覚悟次第で、再度傍で桂ちゃんを守る立場を許しても良い線迄、戻していた。
桂ちゃんに言わせれば『保護者代理出しゃばりすぎ』なのだろうけど。烏月さんは意志を
込めた目線をあげて、サクヤさんに向け直し、
「この失態は、必ずこの手で取り返します」
サクヤさんは、やや迷う感じで桂ちゃんに視線を向けて答を求めた。本当はサクヤさん
は烏月さんを嫌うより、白花ちゃんを斬ろうとする人を、桂ちゃんの近くに置きたくない。
記憶を失っていても、否、失っていればこそ。肉親と大切な人が切り合う悲劇を避けたい
と。せめてその目の前からだけでも遠ざけたいと。
でも桂ちゃんは、既に烏月さんと浅からぬ関係になった。昨日和解し、夜の戦いを乗り
越えもした。今後も見通せば桂ちゃんに鬼切部との絆は必要だった。何より桂ちゃんと烏
月さんが、互いにその関係を望むなら。サクヤさんも実は、わたし以上に双子に甘かった。
「……それを償いにするから、今回の失態は許して欲しい、桂さん」
「そんな、わたしは、烏月さんが心配だっただけで……無事に帰ってきてくれただけで」
充分だよ。余り無理をしないで。
桂ちゃんの求めに考え込みつつ、
「確約は出来ないが、努力するよ」
鬼切りは危険や無理を避けてはこなせない。烏月さんの返事は彼女の精一杯の誠意だろ
う。
サクヤさんが諦めた姿勢を視線に漂わせた。桂ちゃんが許してしまえば、元の鞘に収ま
る。既に2人の絆は断ち切り難く絡み合っていた。
ふと桂ちゃんが思い出した様に烏月さんに、
「えっと……。だけど、ケイくんは何をしようとしているの? そう、確か……。
明明後日の朝迄待ってくれないかって言ってた筈だけど。明後日の夜は何があるの?」
「明日の月は小望月。明後日の夜には月が満ちきる」
「月が……?」
満月が人ではないモノにどんな影響を与えるか、桂さんだって聞いた事があるだろう?
「その、狼男とか?」「そーだよそれそれ」
桂ちゃんの答にサクヤさんは苦笑いを浮べ、パタパタ手を振って語り手を烏月さんに譲
る。
「満月の夜は、ある種の鬼にとって最も力が強くなる時期なんだよ。そしてある種の儀式
を執り行うのに、最も適した時期でもある」
「……儀式?」
「儀式という呼び方をすると、少々大仰に聞こえてしまうかもしれないけど、例えば盆踊
りは、夏の満月の晩に行われる物なんだよ」
「はぁ、盆踊り……」
話の流れ上、おどろおどろしい物を想像していたらしく、桂ちゃんは拍子抜けした様だ。
「盆踊りかぁ……」
「その名の通り、お盆に踊るから盆踊りという訳だけど、桂さん、お盆については?」
「えっと、確かお盆始めにご先祖様の霊をお迎えしてから……えっ? 霊をお迎えっ?」
驚き顔の桂ちゃんに、烏月さんが頷いた。
「正確には盂蘭盆と言ってね。これは集合した仏事に由来する名前で、日本には古来から
魂祭りという風習があったんだ」
要するに満月の夜は、月の光がそうさせるのか、果ては引力がそうするのか、何かを呼
び寄せ易くなるんだよ。魂にしろ、鬼にしろ。
「鬼を……呼び寄せる?」
「奴はあの槐が封印している鬼を目覚めさせ、解放しようとしている」
「それは、ケイくんとは別の鬼?」
「別の鬼だよ。そうだろう、オハシラ様」
サクヤさんがわたしに話を振るのに応えて、
「それは緩やかな死を迎える為に、槐に抱かれ眠らされている鬼。強大な力を持っていた
が故に、滅しきれず封じるしかなかった鬼」
「そんなに強い……鬼」
桂ちゃんの呟きに烏月さんがゆっくり頷く。
「単に鬼と言うよりは、その霊格からして鬼神と言うべきだろうね。或いは悪しき神、ま
つろわぬ神と……。この経観塚の言い伝えでは、単に主と呼ばれている様だがね」
「……あっ!」
桂ちゃんの頭の中でも話が繋った様だ。
『……私たちから主様を奪った責任を、今ここで、取って頂こうかしら』
そう言えばノゾミちゃんとミカゲちゃんが。
「あの双子の鬼も、主を甦らせようと?」
「うん」
それは厄介だな。烏月さんは顔をしかめて、
「私たち鬼切部は、人に仇なす人ではないモノを総称して鬼と呼んでいるのだけれど…」
鬼にも色々とあって、大きく分けるなら現身を持つ物と、持たない物に二分されるんだ。
現身を持つ鬼なら、首を落とせば大概は片がつく。だが、現身を持たない鬼は、切ったか
らと言って必ずしも滅びるとは限らない。
「十年前にこの地で二匹の鬼が切られている。
その鬼は互いを鏡に映した様に、そっくりの姿をしていたそうだよ」
「それがノゾミちゃんとミカゲちゃん…?」
だろうね。烏月さんは尚思案を重ねつつ、
「私が斬って十年封じることができるのなら、当面はそれで間に合わせてもいいだろう。
だが、先程サクヤさんに言われた通り、わたしは鬼切り役としてはまだ未熟。昨夜も退
けはしたものの、滅する事は出来なかった。
仮に切った様に見えても、直後に再び形を成しているかもしれない。滅びたフリをされ
たりすると、厄介極まりない相手になる」
とにかく拙い。三匹の鬼が、一柱の神を復活させる贄として、あなたの血を狙っている
この状態は、非常に良くない。
烏月さんが苦虫を噛み潰すのは、守ると約束した自身の口で、それを告げる悔しさ故か。
烏月さんも、本気で桂ちゃんを気遣っている。安全な所に逃した上で、敵を滅ぼすべきだ
と。
「桂さん、悪いことは言わない。今すぐ……は無理にしても、日が昇ったら電車に乗って、
あなたはあなたの世界に帰るべきだ」
「……帰れば、安全なの?」
「少なくとも、目の前にある脅威を遠ざける事はできる。
双子は何かしらの呪物による存在だろうから、依代から離れる程に力を弱める筈だ」
「神様クラスの力でもない限り、霊体だけじゃ、長くこの世に留まれないものなんだよ」
サクヤさんが距離を置く意味を説明する。
「人間だって死んで身体がなくなると、魂も別の場所に逝くだろう? 残るには、人に依
るか、物に依るか、土地に依るか……。
土地に依り着くのがその代表、夏の心霊番組なんかでお馴染みの地縛霊さ」
「浮遊霊は?」
「あれはそう危なくないって言われてるだろう。放っておいてもその内消えちまうから」
「とにかく、距離を置く事が双子の鬼への対処に繋る筈だよ。桂さんへの干渉が始ったの
も、あなたがこの地へ近づいてからの筈だ」
確かにその通り。桂ちゃんがこの地を離れれば、多分ノゾミ達は町まで追って行けない。
「そしてもう一匹の鬼。自らの足であなたを追う事ができる、現身を持つあの鬼は、私が
必ずこの地で止める。千鬼を切った維斗に誓って、私が必ずこの地で仕留める」
音もなく抜き放たれた鋼鉄の刃が、窓から指す月光を反射して、部屋に薄く蟠っていた
闇を両断した。自分の覚悟を示したその刃の先で、烏月さんは桂ちゃんにも決断を迫る。
「だから桂さん、あなたは昼の世界に帰るんだ」
「でも、この土地を離れると……」
桂ちゃんの視線はわたしに向く。
「ええ、今はこうして形をなしているけれど、わたしもご神木に依っている存在だから」
桂ちゃんの問にわたしは常に事実で答える。
「だったらわたし、帰りたくない」
ここで離れ離れになってしまったら、もう二度と会えない気がするから。安定している
という今の形をなくしてしまったら、もう二度と形をなしてくれない気がするから。たい
せつな人と会えなくなるのは、もう嫌だから。
桂ちゃんは、胸にわき上がる思いの侭に、
「ユメイさんと一緒にいられなくなるなら、わたし帰りたくない」「桂ちゃん……」
その胸を締め付ける想いの強さが分るだけに、即座に駄目とは言えなかった。
「わたしがここにいちゃ駄目?
足手纏いのわたしがここにいると迷惑?」
そう応えれば諦めたのかも知れない。
そう告げれば帰ったのかも知れない。
心を鬼にすれば。桂ちゃんの心を凍らせれば。縋る手を振り捨てて、想いを断ち切れば。
「そんなことはないけれど……」
明確な意向を告げられないのは、わたしの迷いではなく、その応えが桂ちゃんの心にど
う響くか視えない為だ。サクヤさんが察して、
「できれば、帰って欲しいって処だろう?」
「……」
否定はしない。でもそれは、桂ちゃんが納得か諦めかついた後の話だ。そして今の桂ち
ゃんをその方向に納得させる事は、恐らく…。
サクヤさんはそれを可能と思っているのか、
「桂、真弓の事があったばかりだし、あんたが過敏になってるのは分るよ。
だけど、あんたが柚明の事を知ったのは、昨日今日の話だろう。どうして自分の生命を
賭けてまで、一緒にいたいと思うんだい?」
サクヤさんは桂ちゃんの覚悟を問う。烏月さんのそれに向き合う程の覚悟があるのかと、
勢いや成り行きではなく、本当に心の底から生命の危険に向き合う理由が、あるのかと…。
「何でって、一緒にいたいからだよ。何だかよく分らないけど、すごく優しくて懐かしい
んだもん。お母さんみたいだけど、お母さんじゃなくて。ユメイさんと一緒にいると、幸
せな気持になってくるんだもん。
それにそんな事言うならユメイさんだってそうだよ。ユメイさんは自分が消えちゃうか
もしれないのに、わたしを助けてくれたよ」
「そりゃあ柚明にしてみれば、あんたは大事な昔から知ってる桂ちゃんだからね」
「え? 昔から……知ってる?」
桂ちゃんの思考と表情が、驚きに凍結した。
サクヤさん、それは桂ちゃんに聞かせては。
「赤ん坊のあんたは、そりゃあよく泣く子だったから、困った顔して笑子さんや真弓に助
けを求めていたものさ。ちょっと育ったあんたは、かなりのお転婆だったから、追い回す
のに四苦八苦していたものさ。
柚明にとって、あんたは娘みたいな物で、妹みたいな物で、直接の親子でも姉妹でもな
いけど、とにかく家族同然の身内なんだよ」
「サクヤさん」
桂ちゃん自身の忘れた過去に触れては駄目。
サクヤさんが言わずにいられないのは、わたしと桂ちゃんを想ってくれるから。桂ちゃ
んの身を案じ、わたしの桂ちゃんを想う気持を分ってくれるから。でもそれを告げる事は、
「あんたのぼやぼやした何となくとは違って、柚明が生命がけであんたを守ろうとするの
には、ちゃんとした理由があるんだ」
「サクヤさん!」「……あ」
サクヤさんが気付いた時は、手遅れだった。
「ずるい。そんなの、ずるいよ……。
ユメイさんがわたしのこと知ってるのって、わたしの記憶がなくなった、わたしも知ら
ない火事よりも前のことばっかり!
それならいいよ、分ったよ! わたしも思い出せばいいんだよね? ユメイさんが家族
同然の人だって思い出せば、生命かけても納得してくれるんだよね?
わたし、思い出してくる!」
「……桂?」「桂さんっ」「桂ちゃん」
居間を飛び出した桂ちゃんは、お屋敷の中のとある場所へと向っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
一昨日の昼間に初めてお屋敷を訪れた時に見た、古びて黒ずんだ柱のある部屋へ。
柱には、縦長の柱時計が掛っている。
とても懐かしい感じがする、今では余り見ない古時計。寄りかかるように柱に手を押し
やると、指先が傷に触れて……しまった。
まだこの傷を見ちゃ駄目だ。まだこの傷のことを考えちゃ駄目だ。まだこの……。
わたしのどこかで警鐘が鳴る。それなのに視線は柱を下っていき、頭は傷の情報を大急
ぎで取り揃える。
わたしの胸より低い高さには、ケイと……何だったっけ、もう一つ名前を刻みつけた、
ふたりの背比べの痕が残っていた筈。
そうだ。ハクカだ。ハクカ。ハクカだった。
どんな字を書くんだろう?
ハクと読む字はまり思いつかない。
やはり、ストレートに白だろうか?
それならカは? 花? 香? 佳?
白い花、白い香り、白くて、形の良い……。
なんだ、どの字を当ててもイメージは……。
白を蹂躙する、痛い程の赤。
……ああ、やっぱり来たっ。
目の奥から頭に突き抜ける赤い痛みが来た。
待ってよ、待って。これじゃ順番が違う…。
一昨日はこの部屋でこの痛みに襲われるより前にユメイさんのいる昔の風景を視ている。
だからこの部屋に来れば、何かを思い出せると踏んだのに。わたしを貫くこの痛みに我
慢できる内に、思い出さないと。昨日の続きを視ないと。何だったっけ。一昨日はどうし
ていたっけ。そうだ、時計だ。止まっている筈の時計の音が聞えれば、多分成功。
違う……これは心臓の音。
違う……これも心臓の音。
違う……。
違う……。
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違
う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違……。
「ちが……っ!」「桂ちゃん、しっかり!」
白い花の香りが、血の海のようなひたすらの赤に沈み込んだ意識を、浮かび上がらせた。
「あ……あぁ……」
赤の洪水に溺れかけていたわたしは、白を染め抜く赤に負けない、強い白にしがみつく。
本当に溺れていたみたいに、わたしの息は荒く乱れて、胸が詰まって苦しくて。
「桂ちゃん、もう大丈夫よ。大丈夫だから。わたしはちゃんとここにいるから」
「うん……」
手触りの良い着物の感触と、着物越しの柔らかく温かい感触に、ぽろぽろと涙が零れた。
「桂ちゃん、何が違ったの?」
「思い出したい事が、思い出せなくて。思い出そうとすると、痛い赤いのばっかりで…」
わたしはしゃくり上げながら、ユメイさんの胸に顔を埋めた。昨日はお父さんと、お母
さんと、小さいわたしと、ユメイさんが一緒にいる風景が浮かんできたのに……。
「ねえ、ユメイさんは……ハクカなの? わたしと背比べをしたハクカなの?」
「……いいえ、わたしは違うわ」
そうだ。あの一緒の風景では、わたしは小さいわたしだったのに、ユメイさんは今の侭。
「じゃあ……ああっ!」
赤い痛みに竦む身体。瞬間、ユメイさんにすがりつく腕の力が何倍にもなる。
「やだよぉ……わたし思い出せないよぉ…」
「桂ちゃん、無理に思い出そうとしないで」
まだずきずきと痛む頭を撫でてくれる、ユメイさんの優しい手。その白い手の感触を確
かに知っている筈なのに、どうしても思い出せないのが悲しくて、悔しくて、情けなくて。
「でも、思い出せないと……わたし、思い出さないといっしょに、いら……いちゃだめだ
って……うっく……」
「……桂」
サクヤさんが歩み寄ってきた。
「うっ……ううっ……」
桂、もうおよし。もう思い出そうとなんてするんじゃない。今のあんたは凄く不安定だ。
「……でも……わたっ、わたし……やだ…」
「分るよ。あんたはまだその歳だし、母親べったりだったんだし。いい年した大人だって、
身内を亡くして一人になるのは堪えるもんだからねぇ……」
「ううっ……」
「真弓が逝っちまった後も、見た感じはいつものあんたみたいだったから、血の件さえ何
とかすれば大丈夫って思ってたんだけどさ…。
あんた、見かけ以上に頑固だから、葬式の後は我慢してたんだろう? 友達とかに心配
かけない様にずっと我慢してたんだろう?」
「……うっ……うん……」
「あんたみたいのは根性締めてる間は強いけど、緩むともうどうしようもなくなるから」
はぁ……全く、呆れるほど長生きしているっていうのに、察してやれなくて悪かったよ。
サクヤさんはその長い腕で、背中の方からユメイさんごとわたしを抱き締めた。
「……聞いての通りだよ、烏月。桂を帰す訳には行かなくなった」「そのようですね」
ボリュームのある胸がわたしの肩に乗せられて、つむじのあたりから声がする。
「贄の血が連中に渡る事まで心配しなきゃいけないあんたには悪いと思うけどさ、今の状
態で帰しても、却って危険な感じなんでね」
「では……当面は呪符で結界を張り、屋敷内の安全を確保することにしましょう。
現身を持つ鬼の物理的な侵入は防げませんが、あの双子の様な霊的存在ならば、よほど
の鬼でない限り防げる筈です」
「ここが安全になる対策なら、遠慮なく何でもできる限りの事をやっておくれよ。桂だっ
て、いつ迄も夏休みって訳にはいかないんだけどね……。まあ、あと暫くは仕方ないさ」
わたしはここに残れることになった。
いや、わたしはここにしかいられなくなったのかもしれない。
ユメイさんのいる、この経観塚にしか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂ちゃんは、烏月さんと一緒にお札の位置をその目で確かめて来て」「……へ?」
結界は呪符で囲んだ面の内側を守る。屋敷の四隅と言っても、貼る箇所次第で微妙に外
れる処も出る。烏月さんが貼る場に居合わせて、箇所を確かめて。外へはみ出さない為に。
「柚明も結界の外に出られなくなるからね」
烏月さんやサクヤさんに問題はないけど、わたしの守りは結界で隔てられ及ばなくなる。
サクヤさんの指摘で桂ちゃんもそれに気付いた様だ。さかき旅館での失敗(?)を思い
返した様で、素直に頷き烏月さんに付き従う。親鳥の後ろを歩くヒナの様に、桂ちゃんは
少し嬉しそう。意味ありげな目線の烏月さんに、
「桂ちゃんをお願いします」「分りました」
彼女は、わたしの言葉の意味を分っている。
2人を送り出してから残ったサクヤさんに、
「少しの間だけ、桂ちゃんをわたしから遠ざけてください……心配、させてしまうので」
「柚明、あんた?」
サクヤさんが問を発した時、第一波が来た。
「……うっ、く……あ……!」「柚明?」
座った姿勢から、突然身を崩して苦しみ出すわたしに、サクヤさんが屈んで寄り添って。
「顔色が真っ青じゃないか。一体何が…?」
「大丈夫……呪符で、お屋敷が霊的に隔離されつつある証拠です……ご神木との、繋りが、
段階を経て、順調に断ち切られている事の」
現身を持つサクヤさんは分らなくて当然だ。
霊体を阻む障壁が、お屋敷を囲んで形成されつつある。それに伴って、わたしとご神木
の繋りが断ち切られる。面が出来れば完全に。
わたしは現身がここにあるとはいえ、本質はご神木に依る物だ。霊的に繋っている。そ
れが切れる時とは、依代を失う時とは、霊体消失へのカウントダウンだ。代りの依代を早
急に見つけないと、依代からの供給を絶たれ、根無し草になって浮遊霊として消えゆくの
み。
「あんた、それは……烏月っ!」「待って」
慌てて烏月さんを、呪符を貼る作業を止めに行こうとするサクヤさんに、しがみついて、
「大丈夫。苦痛は、最初の少しの間だけ…」
いぐっ。第二波に、しがみついた侭身を震わせる。声を抑えて、気付かれない様に努め。
「止めないで。桂ちゃんの、安全の為です」
霊体のあり方は動物より植物に近い。千切られる痛みは感じてもその為に消えはしない。
千切れたら千切れたなりに互いにあり続ける。細分化すると消失の危険が増すけど、それ
は千切られなくても巡り来る力の大小の問題だ。
蝶の形を取らせても青い力として放っても、癒しの力として流し込んでも、似た話だっ
た。身を千切る痛みはあるけど、耐えられない訳ではない。ご神木との繋りも同じ。茎を
断たれてもその断面から根が生えて生命を繋ぐ植物の様に、依代からの力の供給の途絶は
今は生死を分つ問題ではない。今のわたしはここ迄濃い現身を作れている。暫く供給も不
要だ。
「でも依代のない霊体は、外界の様々な流れに晒されて、放っておいたらその内消えて」
サクヤさんはさっき自らが触れた浮遊霊の話を反芻して、身を震わせた。その心配顔に、
「心配いりません。痛みは、最初だけです」
苦しい息の内でわたしはかぶりを振って、
「結界に封じられれば安定します。依代と断ち切られても、むしろその方が……はうっ」
第三波に、わたしの現身がぶるぶる震えて、サクヤさんに強くしがみつく。情けないけ
ど、主に身体を挽き潰された時に近い激甚な痛みで何かに掴まってないと大声の悲鳴が出
そう。この姿は桂ちゃんに見せられない。羞恥より、きっと桂ちゃんは呪符を剥がそうと
言うから。自分の安全よりわたしの苦痛を気にするから。
だから烏月さんに付いて行って貰った。烏月さんはそれを分っている。あの呪符の持ち
主なのだ。烏月さんがこれを申し出た時から、わたしがそれを受け容れた時から承知の話
だ。
切断が終れば傷口は自然に塞がる。今のわたしはその余力を持つ。少しの時があれば状
態は落ち着く。ご神木と断たれるけど、霊的な風通しの悪さはわたしを結界内に安定させ、
依代の機能を代替する。暫く間を置けば何事もなかった様に桂ちゃんに受け答えも出来る。
わたしは逆に暫時結界に存在を保たれる形になる。依代と違って、力の供給はないけど…。
「だからサクヤさん。少しだけ、この侭で」
ひぎっ……い、うっ。最後の波が、本当の切断の痛みが身を襲う。サクヤさんの身体に
抱きつく腕の力が瞬間的に倍加する。抱くと言うより、締める感じだ。息を止めて悲鳴を
抑え、身体を震わせ転げ回りたい衝動を堪え。
この痛みを乗り越える事で、桂ちゃんが安全になるのなら。戦う必要もなく守れるなら。
「はぁっ、はあ……、はぁ、はぁ」
汗が滲んでくるけど、激痛は引いてきた。
抱きついたサクヤさんの身体の感触が、思い出した様に腕の中で、全身で感じ取れる。
息はまだ荒いけど、表情も平静ではないけど、身を預けた姿勢の侭で、凭れ掛った体勢か
ら首をもたげて、見下ろしてくる間近な美貌に、
「ごめんなさい。いつ迄も頼りっぱなしで」
一人で耐え凌ぐ積りでいたのに、わたし。
見下ろしてくる双眸はなぜか潤いを含み、
「あんたはいつもそうやって無理を押して」
サクヤさんは言葉を失い、唯わたしを抱き留めて時の経過を待つ。本当にわたしが言う
通り、暫く待てば容態が落ち着くのかを見定めつつ、わたしを抱き留めて、支えてくれて。
「少しの間は桂にも渡さないから覚悟おし」
煌々たる月夜が静かに更けていく。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
……鈴の音がして、がたがたと窓が鳴った。
……鈴の音がして、みしみしと梁が軋んだ。
……鈴の音がして、扉が叩かれた。
窓の外で火花が散った様な光が一瞬輝いて。
「ひっ……」
「大丈夫よ、桂ちゃん。心配しないで」
思わず飛び起きそうになる桂ちゃんの身体を優しく抑える。心配は要らないと、
「烏月さんの貼ったお札が効いているから、あの子たちは脅かす位の事しかできないわ」
何があっても窓を開けてはいけないと、就寝前に桂ちゃんも烏月さんに注意されていた。
わたしは夜を通じて桂ちゃんに癒しの力を注ぎたいと、就寝後も側にいさせて貰っている。
「わたし達の方から出て行きさえしなければ、何も心配しなくて良いのよ」「うん……」
とはいえ、台風の直撃に晒されている様な家鳴りは、桂ちゃんを不安に陥れるに充分で。
「眠れない?」
こくり。素直に円らな瞳が頷いた。
「そうね、それならわたしと一緒に寝る?」
え? 思わず綺麗な瞳が丸く見開かれた。
「ふふふ、もうそんな子供じゃないかしら」
「お布団、そんなに大きくないし……」
桂ちゃんの答も少し残念そうだった。
「そうね、桂ちゃんも随分と……わたしと、余り変らない程大きくなったものね」
改めて十年の時の経過を感じる。
「うん、でも……」「なあに?」
いつもの通り、敢て桂ちゃんの意志を問う。
桂ちゃんは少し恥ずかしそうに瞳を俯かせ、
「手だけ……握ってても良い?」
「それで、桂ちゃんが怖くなくなるのなら」
お布団の中から伸ばした手をキュッと握る。
「それじゃあ桂ちゃん、おやすみなさい」
桂ちゃんを眠りの園に送ってから、わたしはもう一人の客を迎え入れる。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「失礼します」「……どうぞ」
烏月さんは話をする為にわたしを招きに来た様だけど、ずっと桂ちゃんの手を握ってな
ければならないわたしはここを離れられない。
「後ろ向きで失礼ですが、お話はこの侭で」
「桂さんは……?」
「大丈夫、起きません」
わたしの答に、2人の話を桂ちゃんに悟られない様眠らせるとのわたしの意志を確認出
来て、烏月さんはここでの話に応じてくれた。背後で維斗を床に置く抑えた金属音が聞え
る。
烏月さんが維斗を持参したのは、わたしを斬る為ではない。彼女にとって維斗は歴代の
鬼切り役からの大切な預り品であり、最も頼りになる戦友であり、心の支えだった。彼女
は事に挑む時、維斗に武器以上の役割を望む。
維斗にかけてと誓いを為したり、維斗を振るう事で覚悟を示したり。先程も桂ちゃんに
町へ帰る様に勧めた時、維斗を用いた。殺意はないけど、彼女が話に込める想いは真剣だ。
「桂さんを助けて下さり、有り難うございました。私が守れなかった、私の大切な人を」
礼儀正しく、理知的な声で謝意を述べる。
それにわたしが特段応えないのは、それが枕詞だから。烏月さんが口に出す以上それは
彼女の本意だけど、それ以上に告げたい事があると分るから、黙して頷きその続きを促す。
「その課程であなたが血を必要とし、それを得た事はやむを得ない。だが応えて欲しい」
どうして桂さんを、町へ帰さなかったのか。
烏月さんは、わたしの背中を鋭く見据えて、
「桂さんは町へ帰すべきだった。鬼の姉妹も奴も想像以上に手強く狡猾だ。少なくともこ
こを離れれば危険は回避できる。私もサクヤさんもそれを勧めていた。桂さんは難色を示
していたが、あなたの一押しがあれば諦めた。桂さんは明日安全を手に入れられた。守ら
れた。なのにあなたの中途半端な答が桂さんの未練を招き、彼女をここに留める事に繋っ
た。
あなたが情に流されて、桂さんの心の浮き沈みや、自身の桂さんへの未練に引きずられ
て判断を見失うとは思わなかった。それが桂さんの涙を招き、サクヤさん迄動揺させた」
結界で依代との繋りを断たれる激痛さえ覚悟し耐えられるあなたが、なぜ最悪の結論を。
呪符の結界は弥縫策に過ぎない。奴らの依代は特定できていないから、攻めにも出られず、
状況は防戦一方。これでは危機の先延ばしだ。
「桂さんの守りが最優先ではないのですか」
「桂ちゃんを町へ帰す事が守りになると?」
わたしの問に烏月さんはやや不快そうで、
「今更あなたには、確認の問も不要な筈だ」
「それで桂ちゃんの何を守れるのですか?」
わたしの更に掘り下げた問に眉を顰めた。
「桂さんの身体と生命、では不足ですか?」
全身全霊をかけて守る。それに違いはない。唯桂さんの間近で守るか、桂さんを安全な
場に逃がしてから敵を迎え撃つかの、違いだけ。後は何としてもあの鬼達を討ち果たす。
特に桂さんを追える現身を持つあの鬼は、確実に。その身を狙う鬼を全て討つ事で桂さん
を守る。
当然の事をこれ以上言わせるかという声に、
「……今のあなたに、桂ちゃんは守れない」
背に、鋭い視線と烏月さんの敵意を感じた。
「あなたは人を守るという事を分ってない」
任せられない。だから、わたしが傍にいなければならない。守り、救い、支えなければ。
「桂ちゃんの想いを汲まず、生命と身体だけが在れば良いと思う人に、桂ちゃんを守れは
しない。救えはしない。支えられはしない」
愕然とした語調はそれ迄の力強さを失い、
「……それは……。だが今は非常時だ……」
非常時だからこそ、見失ってはいけない。
危ういのはその身体と生命だけじゃない。
「あなたは本当に、桂ちゃんの身体と生命だけがあれば良いと、思っているのですか?」
想いは不要ですか。大切ではないのですか。桂ちゃんの心が壊れてなくなっても良い
と?
わたしは身体を半分振り向かせ彼女に問う。
「桂ちゃんの心を受け止めずに町の家に帰し、さっきの様に泣き崩れた時に、誰がその心
を受け止められますか。サクヤさんさえ一度は見落した桂ちゃんの哀しみが向うで弾けた
時、溢れる涙を拭い震える心を抱き留める事が誰に出来ますか。あなたにそれが出来ます
か」
あなたは本当に、桂ちゃんを守れますか?
「明良さんの事を訊かれて門前払いしたあなたに、桂ちゃんの心に分け入る事が出来るの
ですか。明良さんはあなたが追う彼の心に分け入りました。あなたにそれが為せますか」
わたしは地雷を踏み砕く。烏月さんが向け直してきた強い視線を、正面から見つめ返す。
人の心に分け入る事は、自身の心に分け入らせる事だ。そうでなければ相手も心を開か
ない。さっき拒んだ彼女がそれを為せるのか。
「わたしは桂ちゃんの血を飲みました。夕食後、このお屋敷で。崖下で大量の贄の血を取
り込んだわたしに、もう血の必要は薄かった。
わたしは血が欲しかった訳じゃない。桂ちゃんの不安を鎮めたかった。わたしがその素
肌を少し傷つけて、血を飲んだ事で、漸く桂ちゃんはこうして安らかに眠る事が出来た」
「あなたは、血の甘さの誘惑に負けている」
烏月さんが床に置いた維斗に手を伸ばす。
わたしは烏月さんの挑み掛る瞳に静かに、
「わたしは、そうではないと言い切れます」
あなたに信じて欲しいとは、求めません。
「わたしは常に一番たいせつな人が最優先」
でもそれは、その人の肉体が在れば良い訳ではない。その人の生命があれば良い訳でも。
愛でるのは姿形だけじゃない。愛おしいのは生命だけじゃない。愛したのは魂まで含めて。
わたしの全てをかけて桂ちゃんの全てが大切。
常ならそんな事はしない。わたしも桂ちゃんの前に顕れない。でも今は非常時。必要な
ら、桂ちゃんを守る為に必須なら、その身を傷つける事もわたしは為す。その罪と業は皆
わたしが負う。責めも罰も報いも全部受ける。
わたしは何であろうと構わない。信じて身を委ねた人の血を啜る悪鬼でも、残り少ない
生命の残り火を口にする鬼畜でも。唯たいせつな人の為に。その守りと幸せに役立てれば。
「人を守るという事は、その身体や生命と同様に、その心も守る事。その人の想いも守る
事。その人の大切な物迄守る事です。全身全霊を賭けて守るとあなたは桂ちゃんに約束し
てくれました。でも本当にあなたはそれを為せますか? 逃げ出さずそれをやり遂げられ
ますか? 力量は問いません。心まで守って。桂ちゃんの想いを汲み取って守って下さ
い」
あなたはそれが出来る筈。明良さんの教えを受けたあなたに、それが分らない筈がない。
答はあなたの中に既にある。後は気付くだけ。
「今即言葉の答は求めない。行動で示して」
それより応えて欲しいのは、
「わたしから問います。あなたは桂ちゃんを本当に、一番たいせつに想っていますか?」
わたしの問に烏月さんが気圧されて瞳を見開く。敢て問う重みを彼女は感じ始めている。
掴んだ維斗を、手繰り寄せる事も忘れて黙し。
「なぜ、崖下に降りて桂ちゃんの生死を確かめなかったの? なぜ、落ちた時点で諦めて
仇討ちに走ったの? 骸を確かめもせず、息が絶えた事を見もせず、その最期に立ち会い
もせず。あなたの一番たいせつな物は何?」
「それは奴が、桂さんを失わせた仇だか…」
桂ちゃんが崖から落ちた直後、猛然と維斗を振るって白花ちゃんに迫る、烏月さんの姿
が瞼の裏に浮んた。その故に白花ちゃんも崖下に桂ちゃんの生死を確かめに行けなかった。
「それは誰の為の行い? 桂ちゃんの為?」
そうではなかった事を自覚させる為の問に、答は要らない。言葉を失い視線が泳ぐ彼女
に、
「想いに不純物が混じっているわね。それでは桂ちゃんを守り抜けない、任せられない」
最優先できてない。お役目や私的な憎悪に目移りし、大切な人の守りを脇に置いている。
「その心を汲み取れず、最期迄寄り添う覚悟もない人に、たいせつな人は守り切れない」
わたしは、眠りの底にあっても尚握りしめて放してくれない、温かなその手を見つめて。
「生きているとは、思わなかったの? 虫の息でも、助けようとしなかったの? 助から
なくても、最期にかける言葉はなかったの? 桂ちゃんの最期の想いを、受けようとしな
かったの? 最期の時を共にしようとは?」
あなたは、全身全霊を尽くしたと言える?
烏月さんの答はない。ない事が答だった。
「あなたは向き合えなかった。己の失敗と罪悪感から逃げ出した。己可愛さに桂ちゃんの、
たいせつな人の生死を分つ瞬間から逃げた」
それであなたは守れると、言えるのですか。
最期迄助けようと足掻けない者に、一番たいせつな人を絶対に守ると、言えるのですか。
「明良さんの最期の想いに向き合えなかった者に、彼の遺志を受け取れなかった者に、桂
ちゃんの守りを委ねられるとは、思えない」
あなたが彼から学んだ一番大切な事は何?
傷口を敢て抉る言葉に烏月さんの瞳が怒りに見開かれた。何を分るかと、神聖な領域を
冒された怒りが身体を逆流する。でもわたしは敢て踏み込む。わたしにも余り猶予はない。
桂ちゃんはいつ迄も経観塚に留まれない。
わたしはいつ迄もこの姿では居られない。
人と鬼との隔てはなくなった訳ではない。
今は一時的に糸が絡まって見えるだけだ。
本質的な立場は実は何も変ってない。桂ちゃんは人で、わたしは鬼だ。桂ちゃんは昼の
世界に生きて桜花の民の生を精一杯駆け抜け、わたしは主を抱き永劫ご神木に留まり続け
る。
桂ちゃんには桂ちゃんの人生がある。夏休みは秋には終る。今の危機を凌げば、町の家
に帰って陽子ちゃんやサクヤさんとの平穏な日々が待つ。学校生活があり、受験や就職が
あり、出会いや別れが昼の世界に待っている。
わたしは、主を抱き留めるお役目に又戻る。桂ちゃんと白花ちゃんの幸せと守りの基盤
を保つ、絶対外せない役目が永劫に続く。それは既に承知した。それは既に納得した。で
も。
『真弓さんの居ない桂ちゃんのこの先を…』
この手をどんなに伸ばしても届かせ得ない。
どこ迄濃い現身を作っても所詮は封じの要。
わたしに桂ちゃんの日々の支えは出来ない。
わたしに桂ちゃんの日々の守りは叶わない。
この手に桂ちゃんが今後流す涙は拭えない。
だからこそその心に踏み込んででも、斬りつけてでも、返り血を浴びてでも、伝えねば。
烏月さんに、桂ちゃんのたいせつな人にわたしは何と酷い事を。それでも尚、鬼となって。
『烏月さん、どうか桂ちゃんを守れる様になって。あなたとサクヤさん以外には頼めない。
どうか気付いて。あなたは分らない人ではない。それを目指していた筈。学んでいた筈。
真弓さんや明良さんの様に、人を守れる鬼切り役になって。あなたならできる。必ず叶う。
あなたなら、桂ちゃんを受け止められる…』
この手の温もりを、保つ為に。
この安らかな寝顔を守る為に。
重ね合わせたこの生命と想いを、繋ぐ為に。
わたし達を包む夜の先はまだ、見通せない。