第1章 廻り出す世界(丙)
取りあえず気休めに過ぎない悶え苦しみは、意思の力で抑え込んで。というより、白花
ちゃんに見られている羞恥の意識で抑え込んで。本当は泣きたくなる程の無理だけど、白
花ちゃんに向き合うのだ。その位は、耐えないと。
「その、美しいから、問題はないんだけど」
右腕で胸を隠して、白花ちゃんを見上げる。
白花ちゃんに、泣き叫ぶ姿を見せたくない。
わたしの羞恥と言うより、白花ちゃんの心を傷つけるから。罪悪感を抱かせるから。後
で一人で、思い切り転げ回って苦しめば良い。今少しはせめてこの姿でもまともに向き合
う。
【有り難う。そして、ごめんなさいね。白花ちゃんに、危険な事をお願いしてしまって…。
わたしも全力は尽くすけど、生命の限りは尽くすけど、ノゾミ達は想像以上に強くて狡
猾、百戦錬磨よ。子供の姿形に騙されないで。特にミカゲは力自体も脅威だけど、それよ
り技やその使うタイミングに異様に長けている。内に宿した主の分霊の事もあるから、叶
う限り鬼との絡みに関って欲しくなかったけど】
言葉を追うと、母親が子供を気遣う様な細やかな注意に、白花ちゃんは苦笑いを見せた。
「僕はもう子供じゃない。いつ迄も守られる側にいる気はないよ。もう今からでも、ゆー
ねぇを守る側に立てるんだから。大丈夫さ」
僕は嬉しいんだ。ゆーねぇに頼られて、頼まれて、力になれる日が来た事が。ご神木の
主の事は後でもう一度話すとして、今夜は桂の助けに向かうよ。僕が戦うから、僕が背負
うから、僕が守るから、僕が為し遂げるから。
「ゆーねぇは、今夜はゆっくり休んでいて」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
白花ちゃんは、夕刻前に山を降りていった。さかき旅館迄歩いていく様だ。追われる立
場は交通機関に足跡を残したくないのか。羽様の森から経観塚の町迄、彼の足なら4時間
だ。
わたしの様に青珠にお願いして飛ばして貰えないので、そこに居なければならないと分
ったけど、それ以上に白花ちゃんは今のわたしが苦手らしい。余裕を見て引き上げた様な。
目の毒だったろうか。年頃の男の子にはわたし程度の身体でも刺激になるのかな。サクヤ
さんを知るわたしは不足ばかり気に掛るけど。
最初の時に白花ちゃんから無秩序に流れ込んだ意識の中には、裸身のわたしを見た驚き
の他に、幾つかのわたしへの想いが混じってもいた。幼い日からの肉親の情、男の子とし
ての恋い焦がれ、その奥に性愛迄も。かなり奥深くに、抑えてはあったけど。訊いたら答
に窮すると目に見えていたので、あの場では触れなかった。年頃の男の子なら当然抱く欲
求だろう。問うて確かめる物ではないと思う。わたしがその欲求を、誘ってしまったのか
も。
わたしも望んではいないけど、服を作る力もない今は手も打てない。無理をすれば、白
花ちゃんに幻の左腕を作って触れた様に無理をすれば、その位なら可能かも知れないけど。
それで悶え苦しみが延びるのはご免被りたい。
それは所詮わたしの身を覆う物に過ぎない。誰かの為に不可欠なら無理を利かせるけど
…。
【封じの傷の回復は、まだ進まない様だな】
主はいつの間にか起きていた。というより、白花ちゃんが分霊を宿した侭来た時にも、
尚動かなかったのが不思議な位で。外を見ると、夕立が過ぎ去った後の空は綺麗に晴れ渡
って、森も夕焼けに赤く染まっていた。逢魔が時…。
経観塚の町の方角に、サクヤさんの気配を感じ取れた。桂ちゃんを追ってきたのだろう。
大切な人の感触はこの距離でも確かに掴める。羽様の屋敷にもご神木にも来ず、向うに気
配があり続けるのは、桂ちゃんと合流した故か。
漸く味方が来た。でもまだサクヤさんは桂ちゃんの危機は知らない。それを伝える術も
わたしが向うに行くしかない。白花ちゃんもサクヤさんも、互いの所在を知らないだろう。
わたしが向うに行かなければ、話は通じない。
【あなたの戦果です。ですが、よろしいのですか。折角一晩かけて広げた穴が、徐々にで
すが修復されつつあります。あなたはあなたの想いの侭に、封じを内から壊すのでは?】
この侭では修復が進む。その成果が目に見えるのは、わたしが一晩中ご神木に留まって
も翌朝だろうけど。折角付けた傷を治され行くのを主は唯黙って見守る積りなのだろうか。
【お前はどうせ、夜になれば封じを空けるのだろう。いる時に封じを壊すより、いない時
に封じを壊す方が効果が高い。それだけだ】
主はわたしが桂ちゃんを救いに行かざるを得ない事を計算していると言うけど、そんな
に計算高い主を見たのは初めてだった。わたしはむしろその姿勢に不審を感じたのだけど。
【戦略的なのですか? それとも消極的?】
鬼の居ぬ間の洗濯を狙うなんて、あなたらしくない。何を考えているのです? 考えな
ど無用で生き続けてきたあなたが。
最近主はいつになく考え込む事が多くて行動が鈍い。策略を練る、潜伏するという感じ
でなく、何かに躊躇い惑っている印象がある。
問われた事に主は微かに不快を感じた様で、
【問うのも封じを外すのも構わぬが、まずその腹と左手の修復と、衣の再生を先に為せ】
神の伴侶、封じの要、ハシラの継ぎ手が、
【そんなみすぼらしい姿では、話にならぬ】
わたしの力の不足が目に見えて分る様で、
【本当に今夜贄の子を救いに出られるのか】
逆にわたしの痛い処を突いて問うてくる。
【それは主のなさるべき問ではありません】
わたしの問題ですと、応える他に術がない。日が落ちてもご神木は殆ど力を回して来な
い。これでは傷の修復も衣の再生も、人の現身を取っての桂ちゃんの救援も難しい。主も
窮状を見透かしている。力の塊が間近で寝そべって動かぬのが、力に不足なわたしには悔
しい。
【そんなに敗れて滅ぶ為に出て行きたいか】
わたしの心の動き等読む迄もないのだろう。主が寝転んで目を閉じた侭声だけ向けるの
に、
【わたしの心は、既に主もご承知の筈です】
日が落ちて森は急速に闇に閉ざされてきた。まだ人気の失せる深夜には少し間があるけ
ど、わたしの身体の修復は遅々として進まず、封じの力を抜き出そうにもご神木にも力が
なく。この侭では主の言う通り、深夜になってもわたしはここを一歩も動けない。人の現
身を取る力もなく、蝶を飛ばす力さえない現状の侭。
【代償なら幾らでも払うから。反動なら幾らでも受けるから。お願い、力を貸して頂戴】
でもご神木も修復に追われている。吸い上げるそばから使われていくので、わたしが抜
き取れる分が殆どない。力は溜まらず、焦りばかりが募っていく。早く何とかしなければ。
折角方策を見つけたのに。折角覚悟を定めたのに。これではわたしは今でも役立たずだ。
じりじり時は刻まれる。夜でも電灯の元で賑わう人の時が過ぎ、人気の失せる深夜が迫る。
力が、足りない。どうやっても、足りない。
日が落ちた直後から、人の現身を取ってご神木の周囲の本物の土に身を擦りつけて、大
地の力を吸収してみようとしたけど、ご神木から人の現身を作る力が、抜き出せなかった。
最初に資金力がないと、借金もできない様だ。
白花ちゃんが行ってくれても安心できない。相手は百戦錬磨の鬼で、千羽さんは白花ち
ゃんを追ってきた立場だ。彼は主の分霊を抱えている。救援を頼む事が普通間違いだ。サ
クヤさんはどれ程状況が危ういか把握してない。
行かないと。やはりわたしが、行かないと。
でも力の不足に虚像世界の中でも己を保てずに悶え苦しむ今の状況では、とても人の現
身は取れないし、取れてもまともに守りなど。
【どうやら、身動きがとれないらしいな…】
【あなたにとって望ましくない事態ですね】
封じの要が動けないという事は、ここに留まり続ける故に封じの修復が進むと言う事だ。
それはむしろ主が嫌う事ではないのか。一応、主の言葉尻を辿ればそうなるのだけど。
今朝からの主は奇妙に動かなかった。力を出し惜しむ主ではないし、策略や思惑と縁の
なく見えた主が、一日様子見に徹して。封じの破壊もせずに、わたしの動きを捨て置いて。
【行くなら早く行け。間に合わなくなるぞ】
わたしが動ける状態ではないと分って言っている。こんな希薄な力では、蝶も作れない。
青珠に身を飛ばす間に消えてしまうかも知れなかった。力が、どうやっても力が足りない。
瞼の裏にさかき旅館の一室が映る。桂ちゃんの心を、ノゾミ達の赤い夢が浸食している。
即血を吸う姿勢ではなく、桂ちゃんの痛みを、記憶をぶり返させて、嬲ってから襲う積り
か。ああ、ほんの少し時間はまだある。あるけど。
【ご神木……力を、力を、寄越しなさい!】
わたしは遂に、その一線を、踏み越えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
赤い夢は、桂ちゃんの魂を包み込んでいた。
もう釣り上げる為の餌ではない。ノゾミ達は桂ちゃんの所在を確定していた。この夢は、
桂ちゃんの記憶を呼び起させる彼らの悪戯だ。自分達を思い出させる為の古傷の開き直し
だ。桂ちゃんが思い出してはいけない過去を無理に思い出させようとする、悪意に近い悪
戯だ。
わたしはそれを、桂ちゃんの部屋に置かれた青珠を通じて知る事が出来るけど、介在で
きる力がない。駆けつける力も、妨げる力も、呼びかける力さえ今のわたしは絞り出せな
い。
【桂ちゃん、桂ちゃん……目を、醒まして】
誰か桂ちゃんを揺り起して。ああ、でももう二人の鬼は夢の存在ではなく、間近に現に
顕れている。起すだけでは、足りない。助けないと。守らないと。鬼達を防ぎ止めないと。
わたしが力を求めて尚もがき苦しむ間にも、悪夢は桂ちゃんの意識を連れて進む。今の
わたしに出来るのは、それを見守るだけだった。
『ここは一体どこだろう』
しみが広がっている。
しみが広がっていく。
赤く歪んだ世界の中で、雫の滴る音に誘われ、しみがどんどん広がっていく。両の頬を
伝った雫が、顎で交わり滴り落ちた。
なぜかわたしは泣いていた。
歪む歪む、世界が歪む。
泣いているから歪むのか。
この沢山の、しみはわたしの……。
【考えないで。見ないで、覗かないで】
ああ、わたしの声も届かない。
『どうしてこんなに泣いているんだろう』
しみが広がる。だけどだけど、涙だけで、こんなにしみは広がるだろうか。まるで水溜
まりの様に、夜空に浮ぶ月を映して……。
水よりも重い音。月は歪んでいる。
それは視界を阻む涙の所為でもあって。
止めどなく滴る、雫の所為でもあって。
ひとときたりとも円い姿を映さずに、ゆらと揺れては幾つにも別れ、歪んだ月の偽物が、
熱の失せた光を投げる。分らない。今空に浮んでいる月は、本当に丸いのだろうか。
わたしは顔を上げようとする。
【見ようとしないで。心を閉ざして】
ぱたっ……雫が頬を叩く。
ぱたっ……雫が額を叩く。
これは違う。涙じゃない。
考える迄もない事だ。降ってくる以上雨に決まっている。耳を叩く雨垂れの音。そう言
えば、夕方にも雨が降っていた。あれ……?
雨は上がって、わたしは月を……。
そうそう雨が降っているんだっけ。
月が出ているのに雨が降っているなんて不思議だ。出ているのが太陽なら狐の嫁入りだ
けど、月の場合はなんて言うんだろう。
ぱたっ……飛沫がわたしに掛る。
雨だろうか。雨だろう。
そう言えば今は夏だった。
だからこんなに雨が暖かいのか。
熱い位の雨の滴が、ぱたぱたと。
つうっと滑った頬の雫が、唇の端から滲む様にじんわりと口中に広がった。
ほんの少し、しょっぱい味で。
ほんの少し、甘い芳香を含んでいて。
ほんの少し、たった一滴だったにも関らず。
それが雨でも涙でもなく、もっととろりと濃い物である事が、分ってしまった。かあっ
と身体が熱くなり、そのくせ芯はぞっと冷たく、そのむせ返る匂いにくらりと……。
歪む歪む、世界が歪む。
赤く歪んだ世界の中で。
この赤は、この雫の赤は。
指の短い、頼りない程小さい、あの夢で《視た》子供の頃のわたしの手が……。
その両手のひらが、べっとりと……。
赤く赤く、濡れ輝いていた。
「あ……」
細く幼く怯えに掠れた、まるで他人の様な悲鳴。わたしの物とは思えない悲鳴。
「やだ……」
血塗れの手を否定したくて目を瞑る。
助けて、お母さん……。
いつもいつも、わたしを守ってくれたお母さん。でも、お母さんはもういなくて。
『助けて……』
あの人の顔が、ふっと浮んだ。
【桂ちゃん……】
手のひらが、わたしの両肩を包んだ。
その両手は大きくて、骨張っていて、あの人の手ではなかったけれど、何だかとても安
心できて。誰だろうと目を開くわたしの前に、ぽっかりと空いた穴があった。
そこから流れ出た血が、地面に大きな血溜まりを作っている。尚も吹き出る血の飛沫が、
ぱたっとわたしの顔に掛った。
「いや……なんで……」
わたしはむずかる様に身体を揺すって、両肩に掛る手を振り落す。するりと、力をなく
した手が落ちた。
ずるりと、生命をなくした身体が傾いで。
「桂……」
最期に、わたしの名前を呼んで倒れた。
わたしの手から滴った血が、血溜まりに落ちて雨垂れの音を作った。
わたしの身体は痛くはない。痛くないのは、これがわたしの血ではないから。
「いやあぁあぁあぁあぁっ!」
叫び声と共に夢が弾け飛んだ。悪夢の終り。でも今夜のそれは始りに過ぎない。夢の終
りが、それより厳しい現の始りになるのだから。
時間切れが、わたしの目の前に迫っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【ご神木……力を、力を、寄越しなさい!】
もう限界だ。お願いして駄目なら無理に奪い取る他にない。わたしの意識をご神木に深
く沈ませ、ハシラの継ぎ手が持つ封じの力の統御で、わたしの望みの為に封じの力を奪う。
主を、解き放つ危険を冒しても。
わたしの消失の危険は既に承知。
主が解放されればご神木は恐らく砕け散る。ご神木に依るわたしは数時間も保たない。
ノゾミ達に敗れなくても、わたしは消滅するだろう。桂ちゃんを守れなくなるけど、その
後はもうわたしの手も及ばないけど、桂ちゃんが今この瞬間に息絶えてしまうよりはまし
だ。
【絶対に、桂ちゃんは死なせない。
わたしより先に死なせはしない。
わたしの前で、死なせはしない】
疲弊したご神木の奥に手を入れて、不足な力を更に抜き取る。もう使い込み等ではなく、
強盗だった。ご神木はわたしを敵と見なすか。封じの要が封じに害を為すとは、役行者も
予測の外に相違ない。それでも構わない。それでも絶対桂ちゃんは助けるから。その為な
ら。
神も鬼も、人も秩序も正義だって敵に回す。
必要なら、本当に世界中を敵に回してでも。
【お前、一体何を考えて……?】
主が驚愕に言葉を失っていた。自分の解放に至近にある事より、わたしの異常を越えた
所作をどう受け止めて良いか分らないでいる。
【そんな事をして、封じの機構を全て乗っ取っても、今の槐は大した力を持ってないぞ】
そんな事は承知だ。今迄もご神木に力があれば、無理をすればわたしに流れを向けさせ
られた。そうできなかったのは、ご神木に本当に力が足りなかったから。吸い上げるそば
から使う、今使う為に必死に吸い上げている最中だったから。強盗に襲われても、銀行の
金庫は空っぽだ。それはわたしも知っている。
わたしが為すのはその先だ。一体になるというより、ご神木を押しのけ意思を乗っ取り、
【お前、槐の未来の生気を前借りするか!】
ご神木から力を貰うのではなく、ご神木の意思を奪ってご神木になりきって、千羽の技
である未来から生気を前借りする術で、力をご神木のまだ来ぬ日々から無理矢理引き寄せ。
わたしは肉を失っている。ご神木に同化し生命を差し出したわたしの未来には何もない。
わたしがそれを為すには、今わたしと繋っている、ご神木を乗っ取るしか他に方法がない。
【そんな術を、一体いつ。まさか日中の】
白花ちゃんの技を、盗んだ形になった。
日中の感応の、最初の混乱の時に……。
オハシラ様と感応すると言う事は、オハシラ様も感応すると言う事だ。わたしもかつて
そうだったけど、ご神木の蓄積が白花ちゃんに伝えられる様に、白花ちゃんの蓄積もわた
しに伝えられる。特に白花ちゃんは主の分霊を宿しているから、いつ暴れ出しても次の瞬
間に抑えられる様に、生気の前借りも常に臨戦態勢だった。身体に刻みつけた感覚だった。
【愚かな。悶え苦しむ時が長くなるだけだぞ。今の疲弊を補った上に人の現身を取る様な
力を呼びつけて、その反動や代償がどれ程の物になるのか、お前にも予測はつくだろう
に】
それを乗り切る力の当ても蓄積もないのに。肉を失った今のお前は、槐が力を復す迄も
がき苦しむ他に何もできぬと思い知ったろうに。槐も己の生存が危うくなれば、封じの要
とて容赦すまい。力に飢えた槐はお前から、その核となる想いの力を全て吸い上げる。そ
の傷を治すだけで、お前は一体何日悶え苦しむか。ミカゲ達と戦うにはそれに数倍する力
が要る。槐から逃れられないお前は、後で地獄を見る。槐に想いを、お前自身を喰われ、
消されるぞ。
【それも、生きて戻れればの話です。主よ】
主に貫かれた腹の傷が急速に塞がっていく。左の手首が断面から見る間に再生されてい
く。力に飢えて渇いていた身が、水を得た魚の様に満たされる。青地に白い蝶の文様の、
サイズの大きな和服が、わたしの身を包んでいく。淡く輝く白いちょうちょの髪飾りを忘
れずに。わたしの正装には、やはりこれが欠かせない。
この代償はどれ程の物になるだろう。
この反動はどれ程の期間続くだろう。
その後にわたしは尚己を保てるのか。
運良く生きて帰れても、わたしはもうわたしでなくなってしまうかも知れない。桂ちゃ
んを守れた事も、白花ちゃんと話せた今日も、思い出せないわたしに、なるのかも知れな
い。
桂ちゃんや白花ちゃんを認識できないわたしに。サクヤさんに話しかけられてもそうと
分る事できないわたしに。たいせつな人をたいせつな人と、分れないわたしになるのかも。
『ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁を愛おしく、哀しと思しつる事も失せぬ』
竹取物語の一節が心を過ぎる。心の在り方が変れば、事の受け止め方も変る。かぐや姫
は天の羽衣を着た瞬間、養父母や天子様への淡い好意も全て消え、怜悧で平静な唯の天女
に戻る。記憶が想いから情報になった感じか。
予感があった。幾つかの分岐の先に見えた事もあった。わたしがわたしの心を失い、桂
ちゃんを桂ちゃんとも分らなくなってしまう様が。それとは違う形で、わたしはたいせつ
な人を大切に想う心全てを、差し出すのかも。
【ルビコンは渡ってしまったのよ、ユメイ】
知っていたら怯えたかも知れない。
先に分っていれば、躊躇ったかも。
迷いの末に間に合わなかったかも。
為せてしまったのは、為してしまったのは、それもわたしの意思だったから。例えこの
先、わたしがわたしを失おうとも、守れたか否かさえ分らなくなっても、その一瞬の危機
を防げれば。その一回の致命の牙を止められれば。
わたしは本当に血の一滴に至る迄、その最後の一滴に至る迄、全てを絞り出した抜け殻
に到る迄、捨てられて土くれに戻った果ての末迄、生贄の一族の思考発想の持ち主らしい。
忘れられる事も受容できたわたしだ。
己の想いの消失も覚悟したわたしだ。
大切な人に怖れられ嫌われ憎まれる事も承知したわたしだ。浅ましく悶え苦しむ姿を見
られる事も知られる事も受け容れた。後は…、
【お訣れです。主】
主に向き合い、頭を垂れる。昨夜の挨拶も全滅覚悟の出陣だったけど、今夜の無謀もそ
れに勝るとも劣らない。勝って帰れてもわたしに待つのは、心を壊す代償と反動の長久だ。
この時点で既に、行っても行かなくてもご神木の未来から力をかき集めてしまった時点で、
わたしの帰り道は地獄に繋っていた。
まだ力が満ちてくる。まだもう少し蓄える。周囲に蝶の形で力を飛ばす。ご神木も今だ
けは力に満ちて、封じの修復に乗り出している。この後にご神木に待つ困窮を思うと、申
し訳なく思うけど。わたしも最期迄つき合うから。滅びの末迄、悶え苦しみも共につき合
うから。
関知の力はまだもう少し、ノゾミ達が桂ちゃんを嬲る積りで時間があると報せてくれた。
早く行きたいけど、あの二人に対抗できる力を持っていかないと意味がない。折角ここ迄
の想いをして引き寄せた力だ。できれば今宵あの二人を倒したい。そうでないと、わたし
に桂ちゃんを守れる機会は、もう巡っては…。
【そこ迄して行くのか……】
唖然とした呟きを主が隠さないのは珍しい。
【術が見つかりましたから】
わたしは頷いてから主を見上げて、
【わたしの心は、既に主もご承知の筈です】
もう少しで、満たせるだけの力が満ちる。
そうなればすぐ行く構えでいると知って、
【待て、行くな! 贄の娘】
主はわたしの左手を掴んで、引き留めた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「いやあぁあぁあぁあぁっ!」
精一杯に口を開いた、桂ちゃんの悲鳴が心に届く。鈴の音と共に赤い悪夢の幕が下りる。
瞼の裏にある赤い景色は、闇の帳に隠された。
ガバッと布団を跳ね上げて、桂ちゃんは意識を取り戻した様だ。昨日よりも月は明るく。
布団に落ちるその影も濃い。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
息が荒い。べっとりとした寝汗を拭うのも忘れ、桂ちゃんは荒い息を吐く。息苦しそう。
その悲鳴は掠れて、殆ど声になってなかったけど、でも聞いている方が辛くなる程だった。
「は……はははは……」
やがて呼吸は乾いた笑いに変る。虚ろで、掠れていて、桂ちゃんらしからぬ笑いだった。
「あはははははははっ」
それはヒステリックに吊り上がっていく。自分の中の嫌な何かを吐き出すそれは、悲鳴
の変形なのだろう。ひとしきり笑い続けて、漸く落ち着いたらしい。桂ちゃんは白い両の
手のひらで、可愛い顔を拭う様に覆って俯く。
「夢……だよね、やはり」
大きく嘆息。ほんの少しでも心が落ち着く。
「何だろう、この夢は。昨日の夢で見た物は、本当にある森で、家で、大きな木で……」
だとすると、だとすると。
今日見た不吉な赤い夢は。
「残念、起きてしまったわ」
遂に、来るべき時が来た。
「誰っ?」
怯える桂ちゃんをからかう様な、あどけなさを残した声に、恐る恐る声を上げると、
「うふふっ、楽しんで貰えたかしら?」
顔を覆った指の隙間から、声の主を覗き見る。細い陶器のような素足が、蒼い闇の中で
月光を弾いて、補の白く浮かび上がっている。
赤い鼻緒の草履履き。
右の足首には金の鈴。
その足が一歩前に踏み出されると。
【ノゾミ。その背後に、ミカゲ……】
そうか、この音はあの子が近付く音なのか。
桂ちゃんの視線はのろのろと、転んだ事のない様な綺麗すぎる膝から、柔らかな丸みを
帯びた、細くしなやかな太股へ上がっていく。
それが見て取れる程、着物の裾が短い。
女の子の脚だ。袴の長さは膝にも届く。右は鳩羽鼠に花の染め抜き、右は薄紅。非対称
の振り袖だった。それにしてもこの着物は…。
「……んっ」
思い出すなと、赤い痛みが桂ちゃんを襲う。
桂ちゃんは指に力を入れて、顔に食い込む爪の感触に、赤い痛みを紛らわせる。薄紅の
花が揺れる。足音の代りに鈴が鳴る。
「……あなたは……夢の中の……」
あの人の邪魔をする、歌う様な調子の声の、
「ふふふふ……」
桂ちゃんの身は既に鬼の呪縛に掛っている。口を、指先を、視線を、身体の隅々を微か
に動かせる程度に留められ、布団の上から立ち上がる事もできない。
ノゾミが、桂ちゃんの傍らに近付いて、身体を屈め、その顔を覗き込んだ。目の端に差
された紅。その紅より赤い血溜まりの様な大きな瞳の表面に、怯えた桂ちゃんの顔が映る。
その目が満足げに細められる。小さな唇の両端が、軽く持ち上がる。どこか含みのある、
獲物を捕らえた猫の様な微笑みだ。
「ふふふふふふふふっ」
くすくすという笑い声が耳朶をくすぐった。小悪魔めいた、からかう様な笑い声だった。
「あなたは……誰?」
部屋は鍵が掛っている筈と桂ちゃんが呟く。
なのにこの子は部屋にいて。
「あなたは……何者? あなたは……」
その問に、短く彼女は、
「ノゾミ」
鈴にも負けない、澄んだ高い声で言う。
「私はあなたを迎えに来たのよ」
「わたしを……、迎えに……?」
「そう。あなたは、あの女の、贄の血を引く家の子だから。そうでしょう、ミカゲ?」
「はい……姉さま」
鈴が鳴った。ノゾミは少しも動かないのに、鈴の音がした。彼女の背後から、すうっと
壁が滑り出て並ぶ。赤と黒の2色の振り袖。左足首には金の鈴。赤い瞳と、色素の薄い、
毛先が少し外向きにはねたかぶろ髪……。
並んだ二人は鏡写しの様にそっくりだ。
唯表情だけが似ておらず、驕慢な彼女に対し気弱に眉を下げていて。
……双子? そんな何の変哲もない言葉が、桂ちゃんの忘れた過去に微かに触れた。
「はっ……」
なんで、どうして、そんな言葉で。
『この痛みは、一体何なの?
迎えに来たとか、あの女とか、贄の血とか、もっと重要そうな言葉が出ていると言うの
に、どうしてわたしはこうズレているんだろう』
【ああ、深く考えないで。考えないで】
今はそれどころではないから。今は。
「さあ、私達と行きましょう」
「……待ってよ。わたし全然分らないよ。あなたは誰? 贄の血って何? 行くって、一
体どこに?」
混乱した桂ちゃんの訊ねに、ノゾミは傲然と顎をあげ、冷たい目でわたしを見下ろした。
「私はノゾミよ。さっきも言わなかった?」
「私はミカゲ……」
「私の妹。お父様に捨てられちゃった、可哀相な私の妹」
ミカゲの後ろに回ったノゾミが、ミカゲを押し潰す様に抱きつきながら、言葉を継いで。
「私は妹がいるなんて知らなかったのだけど、可哀相だから助けてあげたの。そうよ
ね?」
「はい、姉さま」
「それにしても」
滑る様な動きでミカゲから身体を放したノゾミは、今度は一瞬の内に桂ちゃんのおとが
いに指をかけ、強引に視線を吸い付けてくる。
「あなた、本当に忘れてしまったのね?」
「ほんの少しも憶えてないの?」
「折角思い出させてあげようとしたのに」
「あなたは途中で目醒めてしまった」
え……? あの夢は、この子達が?
だとすると、この二人はわたしの知らないわたしの事を知っている。
【駄目。その二人に求めないで。関らないで。その二人は敵なの。桂ちゃんの血を吸い尽
くし、生命を奪おうとする、怖ろしい敵なの】
しかし起きてしまった桂ちゃんにはわたしの声は届かず。ああ、この侭では桂ちゃんが。
「ね、ねぇっ。だったら知ってるかな? ちょうちょの柄の蒼い着物を着た……」
「「あはははははははっ」」
桂ちゃんの質問を、二人は笑い声で遮った。
確かに悪意を感じさせる、嫌な笑いだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【……主? 今、何と】
主の表情には、拭い難い苦味が兆している。
わたしの左手首を掴んで、それも砕く感じではなく、恐る恐る捕まえる感じで、
【わたしは、お前に行って欲しくはない…】
幾ら力に満ちていても、主に捕まれてはわたしの自由はないも同じだ。どこ迄行っても
わたしと主の差異は生け贄と鬼神で、抗う術はなきに等しい。わたしの動きは封じられた。
【ノゾミ達が桂ちゃんの血を得て、あなたを解き放ちに来るのを待つ積り、ですか?】
わたしは人生で一番厳しい目線をしていたと思う。それが主らしからぬ行いである以上
に、桂ちゃんを救いに行けなくなるから。間に合わなくなるから。この手を解かせないと、
わたしの大切な人がいなくなってしまうから。
【あなたはわたしの不在の間に封じを解けば良い。ご神木は力を増しても、その力は大多
数わたしが持って行く。封じの要は不在です。昨日の様に為せば良い。わたしがノゾミ達
に勝っても負けても、あなたが自身で封じを解けば、ハシラの継ぎ手も消失します】
わたしは戻って来れても多分まともに機能しない。わたしとして残れない。その場合で
もあなたはそう遠くない未来に封じを解ける。
どの道に進んでもあなたは封じを解ける。
わたしはもう封じを保つ事は諦めている。
桂ちゃんの数時間を、数分を守る為に、自身も封じも抛つ覚悟はできています。あなた
も封じが解けて自由になれるなら、それで良いでしょう。望み続けた自由は目の前にある。
【だから行かせて下さい。わたしの最期のお願いです。あなたは、わたしを留めても行か
せても、どちらでも封じは解ける。今迄の恨みで、わたしの行いを妨げたいのですか?】
主の瞳を見て、問いかけるのに、主はなぜか視線を逸らせた。こんな主も、初めて見る。
常に己の想いに真っ直ぐで、射抜く眼光を見せていた主が、わたしの視線を嫌うなんて…。
【わたしの想いを貫かせて下さい。お願い】
わたしが行けなければ、封じは尚暫く保つ。わたしがここに留まる故に、尚暫く解けな
い。それはあなたが望む事ですか。自身の復活を遅らせて迄して、わたしの願いを挫きま
すか。
【わたしは、お前に行って欲しくないのだ】
言ってから、口に出してから諦めた様に主は視線をわたしに戻して、
【行けば確実に戻れない。今身に纏うその力でも、恐らく尚ミカゲ達のどちらか片方に勝
つにも足りぬ。お前が憶えたての千羽の技で、前借りできた生気の量はそう多くない。幾
らかき集めても、届かぬ事は承知であろうに】
主の言う通り。それは全て承知の上で尚、
【勝つ事が目的ではありません。守る事、桂ちゃんの生命を救う事が、目的ですから…】
と言うより主は、わたしを心配している?
或いはわたしの覚悟を尚も問い質したい?
主は初めて自身の苦味を噛み締める顔で、
【昨夜お前が消滅を覚悟で出た後の虚しさは、自身予期しない物だった。あれ程自由を欲
し求めていたのに、目の前に届く処にあるのに、感じるのは虚しさと満たされなさで。何
が足りず何に欠けるのか、分らぬ侭に暴れ回った。
分ったのは、お前の腹を貫いた瞬間だった。お前が万に一つの幸運で存在を保てた侭戻
り来た事に胸をなで下ろした時、漸く気付いた。昨夜の喪失感は、竹林の姫の喪失の時と
同じだったのだと。わたしは、竹林の姫に寄せた思いと似た想いを、お前に抱いていたと
…】
主の赤い瞳の中で、わたしの目がまん丸に見開かれていた。言葉も思考も瞬間止まった。
【わたしは、竹林の姫を好いていた事も長く分らなかった。お前に言われて、振り返って、
初めてそう感じた程だ。姫を失った故の哀しみを分らない侭己を持て余し、ハシラを継い
だ直後のお前に力を叩き付けた。失っても尚、大切だと分らなかった。今回も、そうだっ
た。失っても尚分らず、何に苛立つのか分らぬ侭、封じを壊すより暴れる事を目的に猛る
心を】
戻ってきて漸く、取り戻せて初めて分った。
お前はもう、わたしのたいせつな人だった。
ハシラの継ぎ手で、封じの要で、神の後妻。贄の血と、底知れぬ心の強さを持つ最高の
敵。わたしの猛威を受けて尚屈せぬ魂を持つ希有の者。鬼を封じる為に、自身を鬼に為し
た鬼。
【お前を失いたくない。お前がこの侭消滅に向い行くのを見てはおれぬ。お前を欲する己
の心の侭に、わたしはお前を行かせない!】
【主……】
時間の経過は気になるけど、主はわたしを放す積りはない。正面から向き合って、全身
全霊で応えなければ、主はわたしを解き放ちはしない。主は主の全ての歳月の積み重ねで
わたしを求めてきた。わたしも、わたしの全ての想いでこれに応え、拒んで理解して貰わ
ないと。わたしは必ず、桂ちゃんの元に行く。
【わたしは結局千年の間、竹林の姫にこの様に想いを告げられなかった。わたしは自身の
想いを分ってなかった。己の心を分らぬ侭に、整理できぬ侭に、わたしは竹林の姫の想い
に包まれて千年を過し、その末に自由を求めるわたし自身の想いの故に、姫を失った。失
って尚分らず、なぜ空しいのかも分らず、自由のない封じの中の千年がなぜ満たされて感
じられたかも分らずに、お前との日々に入った。
結局わたしはお前を失っても分らなかった。お前が帰ってきて、戻ってきて初めて。遅
すぎると言うだろうが、漸く。漸く分ったのだ。
わたしは、望み欲した自由と同じ位竹林の姫を愛していた。そして今は願い求めた自由
と同じ位お前を求めている。失いたくない】
主の言葉は真実を宿していた。それが嘘か真か位、関知の力を使わなくても分る。それ
は驚きだったけど。多分わたしの人生で最大の驚きだったけど。同時に、少し残念だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
耳障りな哄笑の後でノゾミは真顔に戻って、
「全く、苦労をかけてくれるじゃないの。
どうやったのかは知らないけど、つい最近迄綺麗に血の匂いを隠していたし。都合良く
こちらに来たと思ったら、邪魔者迄一緒だし。あなたの言う、蝶の着物のあの女と」
「当代の鬼切り役」
「本当にあなた、苦労をかけてくれるのね」
すっと細まった目の中で、地をはった水鏡のような瞳が揺れて、妖しげな光がゆらりと。
「だから……」
長い髪を払う様にして、おとがいから滑る指がくっと曲がり、力が込められた。
「こんな処ではしたないけど、少しだけ貰ってしまおうかしら」
柔らかな喉に、ノゾミの爪が食い込んだ。刃物を突きつけられた様に、身体が縮こまり、
唾を呑み込む事さえも、恐る恐るの物になる。
「も……、貰うって、何を……?」
「あなたの、血」
「……特殊な血」
後ろからの声と共に髪の毛が掻き上げられ、一瞬桂ちゃんの首筋が露わになった。背筋
に寒気を感じたらしく、ぶるっと震えが伝わる。
「か、勘違いしてないかな?
わたしの血って、普通だよ?」
桂ちゃんはまだ事を受け容れられていない。
「そうかしら?」
「そうだよ」
でも、獲物の事情を捕食者は考慮等しない。
「ふふっ……知らないのね」
「本当に何も知らないのね」
ノゾミは桂ちゃんに、噛んで含めるように、
「羽藤だったかしら? あなたの血は特別なのよ。紛れもなく特別な血を伝えているの」
「それが贄の血」
「にえの血……」
「あらゆる呪術で使われている様に、血その物に特別な力があるのは知っていて?」
「力の『ち』であり、命の『ち』……」
ミカゲが言葉を繋げ、更にノゾミが続けて、
「形ある肉の一部でありながら、形のない魂の一部でもあるの」
「すなわち、両極を生む太極」
「万物の根源」
「トコタチ、サツチ、カグツチ、オロチ……チは神霊その物を表す言霊」
「だから人は血を捧げるのよ」
「贄の血を」
「贄の血……」
生贄の贄だと、桂ちゃんも理解したらしい。
「血には貴賤があるのよ。あなたの血はね、とても純粋で尊い」
「やしおりの酒が、主さまの遠祖を酔い潰してしまった様に」
「とても濃くて強いのよ」
「八十、八百、八千の人の血を、飲み干しても尚釣り合わない程」
「神でも鬼でも、何でも良いわ。あらゆる人でないモノは、あなたの血を呑む事でより大
きな存在になる事が出来るの」
「より大きな……?」
「そう、強い《力》を手に入れられるの」
「だからとても特別なの」
「だからみんなが欲しがるのよ」
「そして奪い合いになる」
「この土地には強い封印があるから、ここにいる限り、外の妖かしに嗅ぎつけられる事は
ないけれど」
「だから血が絶えず今迄残っているけれど」
「今も昔も贄の血の持ち主は珍しいのよ。誰もがあなたの様に、血の匂いを隠せる訳では
ないから」
「もし、隠せなかったら……」
桂ちゃんは今、そのもしに直面しつつある。
「ふふっ、分るでしょう」
ノゾミが笑みを零す。楽しげに、嬉しげに、
「隠れないと」「逃げないと」
「鬼に捕まったら、食べられてしまうのよ」
「「うふふふふふ」」
可愛らしい唇の端が酷薄そうに吊り上がる。
「故にその貴重な血の持ち主は、大事に大事に育てられ、崇めるモノに喜んで貰う為に」
「怖れるモノの機嫌を窺う為に」
「生贄として捧げられてきたのよ。ずっと神代の昔から」
「……知らなかった。わたしが、わたしのお父さんやおばあちゃんが、そんな血を身体に
宿していたなんて。ああ、あの夢……。あの人、お父さんは、お化けの所為で……」
違う、違う、違う、違う!
うちにお父さんがいないのは、火事の所為だってお母さんがっ!
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
記憶が、赤い記憶が桂ちゃんを苛んでいる。もう考えないで、思い出さないで。わたし
の事も思い出さなくて良いから、痛みを呼ばないで。もう桂ちゃんの泣き顔は見たくな
い!
「……ふふっ、強情なのね」
「ごっ、強情なんかじゃっ」
「良いわよ別に。弱い子よりはその位の方が好きだもの。……ますます、あなたが欲しく
なってしまったわ」
首筋に食い込んでいた手が引かれ、僅かに気が緩んだのも束の間。まだ下半身を覆った
侭の掛け布団越しに、桂ちゃんの脚に跨る様に、ノゾミは膝を突いた。
桂ちゃんが見下ろす形になったけど、立場が変った訳ではない。上目遣いに見つめる赤
い瞳は、獲物を前にした小型の肉食獣だ。珊瑚色の舌を唇に伸ばして、舌なめずりをして。
「あ、あなたも、血を吸う、お化けなの?」
「あら……」
ノゾミの目が意外そうに丸く開かれ、すぐに潰れて細くなる。楽しげに、嬉しげに。
「私が人間だとでも思っていたの」
背後左右の頬から顎に回されたミカゲの両手が、桂ちゃんの首をそらす形で上を向かせ。
首筋に息が掛る。体温を感じさせない冷たい吐息に、ぷつぷつとその肌があわ立っていた。
「はっ……、やっ、やめ……」
がっちり押さえられている訳じゃないけど、桂ちゃんは既に鬼の呪縛に絡め取られてい
る。身動きできない桂ちゃんの両肩に、ノゾミの手が乗せられた。
「だから、少し貰うわよ。大丈夫、痛くはしないから……ね?」
首筋に冷たく柔らかい唇が触れる。
「やっ……やだっ、いやだよっ……」
桂ちゃんの拒みを、受け容れる鬼ではない。ノゾミはゆっくり食いついていく。当てら
れた上下の歯が、地均しをする様に肌に食い込みながら、首の皮を間に挟んで、歯が閉じ
た。
噛まれたといってもごく軽く、痛みはなさそうだったけど、ショックの故なのか、表面
張力いっぱいに溜まっていた、涙が零れて…。
「あら……痛くしないって言ったのに、こんなに怯えて可哀相」
からかう様な猫なで声で、一旦口を放したノゾミは、桂ちゃんの目元に指先を伸ばした。
「……ひあっ」
何を思ったのか。目を瞑って、ぎょっと身体を細める桂ちゃんの涙をノゾミは拭い取り、
「……え?」
それを舐め取ったのか、少し湿った様な音。
「んっ……やっぱり血じゃないと駄目ね」
「姉さま、美味しい?」
「しょっぱいわ」
本当に、桂ちゃんはおもちゃにされていた。
『どうして、こんな事になってしまったんだろう。昨日あの人に言われた様に、全てを忘
れてしまえば良かったのかな』
ああ、もう少しだけ頑張って、桂ちゃん。
必ず、必ずわたしが、助け出すから。
あと少し、あと少しだけ堪えて頂戴。
鬼神を振り切ってでも、そこに行くから!
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【主……それは少し、遅すぎました】
わたしの微笑みは、嬉しかったのだろうか。
主がわたしを、わたしの心を、求めた事が。
わたしは、初めてで必死な赤い瞳を見据え、
【わたしはあなたを嫌ってはいません。封じは絶対解きはしませんけど。あなたはいつで
も自身に誠実で率直な神でした。怖れは抱きましたけど、恨み憎しみを抱いた事はありま
せん。あなたはあなたの想いに忠実に、そう生きて来たのだと、今はその気持も分る…】
微かに、その求めに応えても良いかもとわたしは想っていた。封じの要として千年万年
居続けるなら、主と二人で居続けるなら、それも悪くない未来図かも知れないと、微かに。
世の中、一番たいせつな人と一緒に暮らせるとは限らない。サクヤさんはオハシラ様を
千年大切に思い続けたけど、一緒に過ごせた日々は僅かだった。一番たいせつな人でなけ
れば、一緒に暮らす事が無意味な訳でもない。二番目でも三番目でも、失礼な話になるけ
ど、大切な人と日々を過せるのは悪い事ではない。それは、身に余る程の贅沢で、大きな
幸せだ。
主が滅びを受け容れてくれるなら、長く衰滅を共にするのも悪い話ではなかった。封じ
の中で迄敵対し合う必要はない。桂ちゃんと白花ちゃんの、子々孫々迄をも見守りつつ…。
『きっと、みんなに愛される、愛されたくない者に迄愛されてしまう、そう言う運命みた
いな物を指しているんだよ。おばあさんも優しくて強い人なんでしょう。その血を濃く受
け継げば、ゆーちゃんの様に綺麗で強くなっちゃうよ。それはもう、避けられない定め』
昔そう言われた事があった。鬼を呼び寄せる贄の血の定めを、そうと知る術もないのに
推測のみで、半ば言い当ててくれた人がいた。今はもう、遠く想い返す事しかできないけ
ど。もうこれからは、手が届かないだけではなく、想い返す事もできなくなるかも知れな
いけど。目の前の主も、サクヤさんも、桂ちゃんも…。
【でも、もう賽は投げられました。わたしは、既に生気を前借りしてしまいました。あな
たに留められてここを動けなくても、わたしがわたしでいられる時はそう長くない。あな
たの想いは嬉しいけど、時計の針は戻せない】
もう奇跡は起してしまいました。これから巡り来るのは、その結果と代償と、反動です。
主が今日一日動かなかったのは悩みの故か。わたしを引き留める事は、封じの強化に繋
る。それは主の求め欲した自由を遠ざける。わたしの想いを妨げる事は、己の願いも拒む
事だ。
封じの要と封じのない自由と。竹林の姫を好いた太古から、主は矛盾を求め続けていた。
よりによってその後任者に迄同じ想いを抱くとは。本当に、救われない鬼神。救いようの
ない蛇神。でも、微かに愛しい。されど解き放つ訳には行かない山の神。赤く輝く星の神。
【あなたは、あなたのどの想いを貫きますか。
わたしは、わたしの唯一の想いを貫きたい。貫かせて欲しい。あと何日、何時間保つか
分らないにしても、わたしがわたしでいる間は、わたしの想いに悔いなく全てを捧げたい
から。
為せる限りを為して、少しでも助けになりたいから。桂ちゃんに、一分一秒でも長く生
きて欲しいから。守れる限り守りたいから】
わたしの瞳を開き直ったのか主は見返し、
【尚行かせないとしたら、お前はどうする】
わたしは僅かな間でもお前と共に過したい。
僅かな間だからこそ、お前を失いたくない。
ミカゲ達はお前に勝てる相手ではない。結局滅び去るなら、消えて戻らぬなら、せめて
この手の中で。わたしの手で絞め殺したい!
ああ、何と苛烈な。それこそ正に主の愛だ。
運命に取られる位なら己の手で終らせると。
欲する侭に食らいつき貪り尽くす獣の如き、でも正真正銘、間違いない主の流儀の愛情
だ。
それを前に、それに阻まれ、それと対峙し。
わたしの左手首を掴む主の力は尚緩む気配もない。わたしはその目線を正面から見据え、
【あなたはわたしの何も得られません。この腕を断ち切ってでも、身を引きちぎってでも、
蝶の一つになってでも、わたしは桂ちゃんの元に行き着きます。辿り着いて、守ります】
静かに覚悟を固めて言い切る。
阻むならあなたとでも戦います。消える迄、消えてなくなる迄わたしは、たいせつな人
の為に。この身に残る全てをつぎ込めますから。
もう何も惜しむ物はない。惜しむのは時間だけ。もうノゾミ達の赤い夢は終った。我に
返った桂ちゃんを、現でノゾミ達がいたぶる様が瞼の裏に映る。早く助けに行かないと…。
【わたしの想いを、阻まないで!】
結局何も残せない。結局何も残らない。
夢は夢。わたしも想いだけの儚い存在。
消えゆくばかりの、淡い物。でも……。
【わたしの想いだけは、届かせたい】
返される物は求めないけど。憶えていてとも求めないけど。消える己も受け容れるけど。
思いも残らず伝わらなくても良しとするけど。消えてなくなる迄は、この想いを届かせた
い。
羽藤柚明であった頃の、全身全霊の想いを。
鬼のユメイになった後の全身全霊の想いを。
結果迄は求めない。唯、届かせたい。
主の瞳の奥で、鬼神を見つめるわたしの視線は、殺気とも哀しみとも違う透明な輝きを
帯びて。こんな輝きはわたしも見た事が……。
ああ、あれはお父さんとお母さんが、わたしを守る為に立ち塞がって、死を迎えた時の。
もう選ぶ事を全て終えて、為せる事を全て為して、多少でも役に立てた事に喜びを感じて、
それを胸に従容として死に臨んだ、あの時の。
『わたし……なります。必ず……なります』
幼き日、お父さんとお母さんを失った後で、わたしが立てたわたしのわたし自身への誓
い。保証も担保も不要なわたしのあの時から今に向けての約束。渡された想いを、生命を、
享受する為に、最低限必要と感じた己への縛り。
わたしは生きて、幸せになります。
わたしは誰かの為に尽せる人になります。
わたしは誰かを守り通せる人になります。
それを目指し続けて、目指し続けて、今。
『ここ迄、来ました。でも、まだ終ってない。まだ届かせてない。まだ想いも生命も尽き
てない。まだ、まだ続いている。続く限りは』
【……わたしは、砕け散る迄、諦めない!】
主が握りしめる左手首に、力を込め始める。弾き飛ばす力を威嚇に注ぎ入れる。わたし
の意思を示す為に、覚悟を示す為に。主の妨げを本気で突破しようと思うなら、この程度
ではどうにもならない事は承知しているけれど、尚妨げるなら本当にこの程度では終らせ
ない。
手始めにこの手首を自ら破裂させる。本気の主は即座にわたしの両足か右手を捉えられ
るけど、次々に捉えられた処から破裂させて、その手を逃れ続け、一気にご神木の外に出
る。力に満ちた今のわたしは、多少の損失は修復できる。痛手は大きいけど、己を消滅さ
せずに主から逃れられるなら、それでも大成功だ。
【時間がないの。主、即答してっ!】
求めと言うより命令に近い語調で、
【わたしを放して。わたしを行かせて。
わたしの想いを貫かせて、届かせて。
あなたが許してくれないなら、わたしはあなたからその自由を戦い取る!】
多分、わたしの気合いより自由という言葉に、主は道を開いたのだと思う。主にとって
自由とは、そこ迄大切な物だったのだ。深く愛した竹林の姫を失う因になる程に。捉えた
わたしを手の中から解き放たざるを得ぬ程に。
左手首を捉える主の手のひらの力が抜け、
【お前も、お前の想いの侭に生きるが良い】
万感を込めた声だと分る。主がわたしの視線を見ずに手を離し、未練を断つ様が見えた。
それに応えさせて。今少しだけ応えさせて。
時間がないのは分るけど。わたしの時間も、主と過せる時間ももう、残ってはいないか
ら。
わたしはいつかの様に、主の背に両腕を回してひしと抱きついた。でもそれは、かつて
の様に逃がさない為ではなく、放さない為ではなく。たいせつな物を全身で感じたいから。
わたしの全てで、主を抱き留めたかったから。
身長がかなり違うので、主が精悍な大男なので、子供が大人に抱きついた感じに近い。
【主、この感触を、心に刻んで下さい。
わたしも、この感触は忘れない。わたしの心がある限り。敵でも絶対解き放てない鬼神
でも、あなたは間違いなくわたしの大切な人。わたしはわたしでいる限り絶対忘れないか
ら。あなたの言葉を、あなたの心を。あなたのそれらを受けて嬉しく想った、わたし自身
を】
その想いには応えられなかったけど。
鬼神の求めを、拒んでしまったけど。
まともに戻って来れても尚敵だけど。
それでも大切に想う心も真実だから。
主はわたしをその上から、軽く抱き包んだ。逃がさないと言う姿勢ではない。わたしの
それに応じての、恐る恐るの抱擁だ。わたしは簡単にその太い腕をすり抜けて、一歩下が
り、
【有り難う。やはりあなたは、最期迄主ね】
想いの侭の行いは、敵であっても妨げる事を望まない。それが最愛の者の死出の旅路に
なろうとも、主は行く手を塞げない。主の想いがそうであっても、わたしの想いの妨げが、
わたしを哀しませると分る故に。わたしであり続けないと、愛する値がない事を知る故に。
【竹林の姫はきっと、残念には想ったけど悔いてはいない。その人生は、終りは唐突だっ
たけど、受容できていた。わたしはあなたを最期迄引き受けられそうにないけど、わたし
はハシラの継ぎ手としては失格だったけど】
有り難う、主。あなたに逢えて、良かった。
主は不敵な眼差しと笑みを再び取り戻して、
【最早止めはせぬ。最期の最期迄、唯己の真の求めの侭に、その身が真に欲するが侭に】
想いの侭に生きようではないか。君も我も。
己の内の真の望みを曲げる事なく貫こうぞ。
このまっすぐ精悍な瞳を、わたしは好いた。
わたしはこの時もそれに短く確かに頷いて、
【はい。必ずお互いにその様に】
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ノゾミはからかう様な猫なで声で、桂ちゃんの肩越しに指示を出す。
「ミカゲ」
言葉と同時にミカゲが手を離し、支えを失った桂ちゃんの首はがくんと落ち込んだ。ノ
ゾミの細すぎる位細い首、滑らかな頬のラインが繋る顎、白さばかりが目に付く視界の中、
上の方で鮮やかな唇の色が異彩だった。それは緩慢な動きで、桂ちゃんの視線を引きつけ。
「……ほら、わたしの目を見なさい」
紡いだ言葉の糸を使って視線を引き上げる。赤々と明々と。自転車の反射板の様な輝き
が、邪視の発動を窺わせた。血色に濡れた視線が、真正面から桂ちゃんを見据えて、にっ
と笑む。
「ふふっ、これで大丈夫」
ノゾミは含みのある笑顔のまま、やにわにてのひらを振り上げた。桂ちゃんがふらつく。
「……え?」
「どう? 痛くないでしょう?」
桂ちゃんは目を丸くする。言われる迄、頬を叩かれた事に気がつかなかったらしい。
「あれ、なんで? 触っただけじゃ……」
「ふふっ、これでもう怖くないでしょ?」
「姉さまが暗示をかけたの」
「暗示? 催眠術? 待ってよ、待って。幾らわたしが単純でもこんなに簡単に掛る訳が。
それに最初に『痛くなくなるよ』とか言われてそう思いこむから、催眠術は利く訳で…」
え? 言う暇もなく、肩を押され桂ちゃんの身体はあっさりと倒れ込み、左の手首をノ
ゾミに、右の手首をミカゲに押さえ込まれる。
「もういいわよね?」
「いただきましょう」
「そうしましょう」
「やっ! だからやだってばっ!」
布団や浴衣が乱れるのも構わずに、桂ちゃんは必死にじたばたと暴れて拒む。ミカゲが、
「まだ覚悟ができないの?」
ノゾミと代る代る、諦めなさいという様に、
「人がせっかく痛みを消してあげたのに」
「なのにまだ拒むの?」
「あんまり聞き分けがない様だと、今度は痛みを倍にしてあげても良いのよ」
「大人しくしていた方が」
「あなたの為にもなってよ。ね?」
手首を握る冷たい手に力がこもった。
「ふふっ、心臓がどきどき言っているわよ」
近付いてくる。ノゾミは歌う様に、
「この肌の下で、血が駆け巡っているのが分るわよ?」
ふたりの口が、その血を求め近付いてくる。ひんやりとした呼吸が少し、早くなってい
る。
「あ……」「うふふふふふふっ」
首の左右をくすぐる息に、きゅっと身体を縮こまらせた桂ちゃんの、はだけた襟から覗
く肩胛骨の上を。肩と首を繋ぐ骨のない噛み易そうな処に、ふたりは歯を突き立てた。
【桂ちゃん……!】
痛くは、ないのだろう。
痛みを感じない様にされていたから。でも。
温度の違う異物が、肌を裂いて身体の中に入ってくる感覚はちゃんとある筈だ。心臓が
動く度に傷から噴き出す、自身の血の暖かさはちゃんと感じる事ができる筈だ。その血を
貪る唇と舌の動きを感じるだけの感覚もまだ残っている筈だ。桂ちゃんはまだ生きている。
わたしも既に青珠を通じ状況は知っている。わたしも既に青珠を通じ、わたしの力をさ
かき旅館の桂ちゃんの部屋に飛ばし始めている。でもまだ足りない。全部届いてない。桂
ちゃんの部屋の窓際に、月光に紛れ蒼い力は滞留し始めているけど、わたし本体が行かな
いと意志を持たせられない。妨げも何もできない。
主はそんなわたしを脇で黙って見守るのみ。
さかき旅館に白花ちゃんの気配は感じない。
千羽さんの気配も、今は旅館の中にはない。
なぜか、サクヤさんの気配さえも感じない。
状況は把握できないけど、関知の力を働かせてそれらを視る余裕もなかった。順番を間
違えてはいけない。何よりも急ぐべきなのは、今正に生命の危機に瀕している桂ちゃんだ
…。
わたしはご神木から抜き取った力を次々とちょうちょに変えて、青珠を通じて桂ちゃん
の部屋に飛ばせ、自身も送り出しているけど、流石に即座に全部は出来ない。今ここでわ
たしの姿が薄れ始めているのは、向うにわたしが顕れ始めているから。もう少し、もう少
し。
間に合わせる。必ず間に合わせる!
この輝きを全て桂ちゃんを守る力に変えて。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂ちゃんの目線がとろんとしている。
桂ちゃんの意識が、朦朧としている。
考えが纏まらず感情の波が遠くなる。
桂ちゃんは人形にされ掛かっていた。ノゾミ達に血を供給するだけの、邪視に魅入られ
て言いなりに動かされるだけの、心の自由もない人形に。飲み干されるだけの、血の器に。
「んんっ……」
やがて満足できたのか、ノゾミは桂ちゃんから唇を離し、喉を鳴らして口の中の残りを
飲み下した。桂ちゃんの生命を。
「あなたの血、やっぱり本物よ」
口の端から零れた雫を、指の先で拭いつつ、
「あなたのこと、手放すのが惜しくなっちゃった。ねえ、ミカゲ?」
「んんっ……っ……んくっ……」
ミカゲは姉の言葉も応えず、桂ちゃんの首筋から血を貪り続けている。桂ちゃんの血を。
「ふふっ、よっぽど餓えていたのね。この子もあなたを離したくないって」
満足そうに細めた瞳の赤は、指先の赤より深く透明で、《力》に満ちている様に思えた。
「あなた、名前は?」
「……」
応える意思を、失いかけている桂ちゃんに、
「聞えなかったの? 私はあなたに名前を訊いているの」
視線に《力》が込められる。
「……桂。羽藤桂」
桂ちゃんは動かされる。桂ちゃんの意思ではなく、外部からのかき回しで、介在で、逆
らえないで動かされてしまう唇と舌。ああ…。
「佐藤さんの『さ』の字を袴羽織の『は』の字に……」
「いい名前ね。気に入ったわ」
桂ちゃんの返事を、遮って、
「ミカゲ、その位いにしておきなさい」
聞えているのかいないのか。
「んふっ……はっ……」
ミカゲはとろんと放心した瞳で、血の湧く歯形に口づけていた。ノゾミは気にする様子
もなく、指に付いた血を舐め取ると、
「わたしもね、この味がとても気に入ったの。だから、主さまにあげるのは止めにする
わ」
ぴくりと反応があって、ミカゲの口がわたしの身体から離れた。未だ焦点の定まり切ら
ぬ目をノゾミに向けて、小さく呟く。
「……姉さま?」
「こんなに汚してしまって、はしたない子」
「姉さま、ごめんなさい……」
「ふふっ、別に謝らなくても」
ノゾミは指を伸ばし、血に染まったミカゲの唇を清める様に撫で回してから、
「……夢中になるのも、分るもの」
微笑を含んだ己の唇に、その指を押し当て、
「だから桂は私たちで貰うの。だから、そんなに焦らなくても良いのよ」
「姉さま……」
「逃がしたりはしないもの。ここで獣の様に貪る必要はないのよ」
「でも姉さま、贄の血は……」
「良いの、決めたの。構いやしないわ。元々桂はいらない子。まさかの時の念入れに過ぎ
なかったんだもの」
「巧く隠れていましたから」
「でしょう? こうして姿を現したのは偶々。この贄の血は余録の様な物。それなら…
…」
桂ちゃんに視線を向けて、逃がさないと、
「私たちが貰ってしまっても、良いんじゃないかしら?」
桂ちゃんの意志に関係なく、その未来が決められようとしている。その双眸が、自身の
先行きを感じ取れたのか強ばって見開かれる。息遣いが再び荒くなってきている。危機感
が、身体を何とか己に取り戻そうと足掻く。でも、
「そうでしょう、桂。違って?」
その赤い瞳が、再び桂ちゃんを覗き込む。
赤い赤い、熟れに熟れた鬼灯の様に赤い瞳。
見ては駄目。それは獲物を呪縛する蛇の瞳。
見ては駄目。これは心を惑わせる妖幻の瞳。
桂ちゃんの心が、必死に意思を紡いでいる。呑み込まれまいと、懸命に邪視に抗ってい
る。
『わたしの血を飲んで本当に《力》を得るのだとしたら、今度こそ捕まってはいけない』
でも既に桂ちゃんは邪視の真ん中に置かれていて、自力で視線を逸らせない。修練も何
もなく心の準備もない桂ちゃんが、一度掛ったノゾミ達の邪視を逃れるのは不可能に近い。
『誰か、誰か、誰か助けて……』
今こそ、その声に応えないと。
この声に応える為に、わたしは何もかもを捧げたのだから。この生命を守る為に、わた
しは定めを全て受け容れたのだから。この涙を拭う為に、わたしは己の悶え苦しみも忘却
も消滅も承知したのだから。覚悟したのだから。最期に残った唯一つを守る、その為にっ。
【間に合って! 届いて! 桂ちゃんに…】
ここで届かなかったら、わたしの全てが意味を失う。ここで及ばなかったら、これ迄の
全部が霧散して何も残らない。わたしには何も残らなくて良い。わたしの足跡も爪痕も何
一つ残らなくても。唯桂ちゃんを、残したい。
「あなたは、私たちのモノになるのよ」
『わたしは彼女たちのモノになる……』
ノゾミの目が次に光ったらわたしはきっと。
「そんなことはさせないわ」
わたしの声が届いたのは正にその時だった。
まだだけど。まだわたしはそこに着いてないけど。声だけでも、想いだけでも届かせる。
流れを止める。状況を変える。桂ちゃんを…。
『……絶対に、守る!』
月光の差し込む部屋の窓際から、わたしの声が静かに響き、わたしの届けた蒼い輝きが
赤光を掻き消して、ノゾミ達の動きを阻んだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「誰なの?」
声の主を探してノゾミの視線は飛び、桂ちゃんが金縛りから解放される。
ぼんやりと形もなく広がっていた月の光が、部屋のそこかしこに生じた点を核にして、
周りの光を吸い取り、徐々に密度を増していく。すうっと暗さを増していく部屋と、その
中に浮ぶ幾つもの小さな白い月光の欠片。
欠片は一定の光度に達すると、一点での静止から運動へと、その在り方を切り替える。
それは、盛りを迎えた槐の白い花びらが風にはらはらと舞い散る様にも見え、一斉に羽化
した蝶が、ひらひらと群れ飛ぶ様にも見え。
真夏だというのに、しんと降る雪を見上げた冬の夜を、思い起させる光景かも知れない。
笑子おばあさんが亡くなった夜を、思い出す。
そのひとひらを、桂ちゃんの肩に伸ばしたノゾミの、袂から覗く白い腕の上へと落とす。
肌に触れた雪が溶ける様に、欠片は砕けて消えて行く。でも現象はそれだけに留まらず。
「……!?」
ノゾミも、熱い物に触れたかの様に、ばね仕掛けの勢いで手を引っ込めた。ミカゲもそ
れを避ける様に、桂ちゃんの顔から手を放す。
自由を取り戻した桂ちゃんが、ずっと上を向かされ、息苦しそうだった首を正面に戻せた。
『光の蝶の群舞の中に、夢の中のあの人が』
「桂ちゃんから、離れなさい」
ノゾミもミカゲも瞬間驚きに目を見開いた。それはそうだろう。主を封じる為にご神木
から離れられない筈の、離れてはいけない筈のわたしがここに顕れたのだ。昨夜も壁を隔
てて対峙したけど、その時既にわたしが主の封じを第一に考えてないと承知しだだろうけ
ど。
本当にやるのかという唖然とした顔が分る。それはすぐに、不敵な笑みに取って代るけ
ど。
ノゾミとミカゲは、桂ちゃんとわたしの間に二人並んで立ちはだかって、
「あら、獲物を横取りする積りなの?」
「また……私たちの、邪魔をするの?」
「するわ。わたしは桂ちゃんを守る為に、こうして形になったのだから」
わたしの意思というよりは覚悟を伝える。
「……ふうん、やる気なのね?」
「姉さま。これの力を弱めればあの封印も」
清涼を感じさせる青みを帯びた光の群舞とは対照的な、熱のこもる紅の瞳を見合わせて、
「そうね、それではそうしましょうか」
「はい、姉さま。そうしましょう……」
ふたりは頷きあった。やはり戦意は満々だ。
「そう……」
その答に、わたしはまつげを僅かに伏せた。
『状況は、有利とは言えない。短期決戦…』
十年前の夜、ミカゲの力量はわたしより上だった。あの時巧く戦えたのはわたしが肉を
持つ身で、相性が良かった事が大きい。ご神木と同化して肉を失ったわたしの力の進歩は
停止し、彼女達と同じ想いだけの存在と化した為に、力量の差は今はその侭優劣に直結す
る。しかもあの時ノゾミを引き受けてくれた、わたしより強かった真弓さんは、今はいな
い。
『二人の呑んだ贄の血が効果を顕して、その力を強め始めてしまっては遅い。その前に』
二人にはまだ、贄の血の効果が現れてない。弱りすぎていて、最初の一口を消化する力
を欠いている様だ。その前に、倒すか追い返す。目に見えて効果が現れ始めては多分手遅
れだ。
もう少し早く来たかったけど。もう少し早く来ていれば。今更悔やんでも時は戻せない。
今は出来る限りの事を為し、その先に展望を。
羽を広げる様に、すっと真横に腕を伸ばす。
薙ぐ様に腕を振るうと、ひるがえる袖に染め抜かれた白い蝶を舞い飛ぶ様だ。その指示
を受けて月光蝶が群れをなし、桂ちゃんの元へと飛んで行く。ひらひらと、ひらひらと…。
散らす光の鱗粉で、軌跡を描き。
花を求める様に桂ちゃんを求め。
「姉さま、それに触れては……」
「うるさいっ、言われなくてもその位っ」
ふたりはわたしの力の質を知っている。
蝶を嫌って、桂ちゃんの傍から離れた。
青白い光の蝶の乱舞が室内の闇を彩る。
桂ちゃんの顔に、浮ぶ印象が透けて見える。
『この光の蝶は、この花びらは、あの山の大樹に満開のそれと良く……』
先程のノゾミの反応を思い出してか、触れる寸前、思わず桂ちゃんは身を強ばらせ、目
を瞑る。でも大丈夫。痛くもなければ熱くもなく、冷たくもない。これでさえ、ここ迄の
想いをして形に為した力でさえ、わたしは桂ちゃんに微かな感触しか及ぼせないのだから。
そよ風が産毛を撫でる程の、どこかくすぐったい僅かな感触が精々だ。それが、精々…。
「あ……、……これは?」
目を開けると、仄かな燐光が桂ちゃんの身を縁取って、薄ぼんやりと浮び上がっている。
それに気付いて自身を見つめ直す桂ちゃんに、
「心配しないで。大丈夫でしょう?
その光が消える迄、あの子たちが桂ちゃんに触れられなくなる、おまじないだから」
「……触れられなく?」「ええ」
「この……よくも……」
桂ちゃんがはっと様子を窺うと、可愛い顔を怒りに歪めたノゾミが、桂ちゃんを睨んで
いる。彼女は片一方の手を抑えていて、その手の下は、淡く後ろが透けて。そこがさっき
月光の欠片が落ちた処と気付いた桂ちゃんは、
「……えっ!? なんで!?」
「……あの子やわたしは現身を持たない、幻の様な物だから」
桂ちゃんに届かせたい想いは、ここ迄して尚微かにしか届かない。ノゾミにはこんなに
しっかり力も想いも及ぼせたのに。本当に届かせたい相手に、わたしの想いは伝わらない。
その苦味を噛み締めながら、確かめながら、
「より強い光の前では、幻灯の描く絵は儚く消えてしまうだけだから」
わたしも、跡も残さず消えて行く身だから。
今日が始りなのではなく、今日が終りだと。
今から何かが始るのではなく、わたしは今から終り行く。でも桂ちゃん、最期にあなた
と微かにでも交わり合えたから、それで幸せ。それに今はまだ、為せる限りを、尽くす時
だ。
「ほら、桂ちゃん。こっちへいらしゃい」
「……う、うん」
布団に入りっぱなしの両足を抜いて立ち上がり、ノゾミとミカゲの間を割って、桂ちゃ
んがわたしの元に歩み来る。二人は強攻には出なかった。憎々しげな目を向けつつ、大人
しく身を退いて、道を空けてくれた。
「急いで。余り長くは保たないから」
促しに足を速めた桂ちゃんは、その焦りで浴衣の裾に脚を取られ、前に身体を泳がせる。
「あっ!」「大丈夫」
その身をふわりと抱き留める。確かに抱き留められた。すり抜けなかった。わたしは確
かに桂ちゃんをこの手で身体で、抱き留めて。これがわたしには奇跡だった。桂ちゃんが
わたしに、槐の花の香りを感じているのが分る。
『夢と同じ微かに甘い香り。その香りは、あの山奥の大樹に裂いた白い花の物。ああ…』
桂ちゃんの中で、記憶ではなく推論が繋っていく。桂ちゃん自身の体験ではないから、
それはまだ赤い痛みには直結しない。
『あれだけ大きなお屋敷に住んでいた、そしてあの辺りにある唯一の家だけに、羽藤の家
がオハシラサマを祭っていた家なんだろう。
正しいお祭りが失われてしまったのは、お父さんが死んでしまった十年前か、それより
もっと前なのかは分らないけれど。
特別な血を、お化けに狙われる血を持っている羽藤の家系がわたしの代迄続いているの
は、きっと、誰かが守っていてくれたから』
それはきっと。
そしてきっと。
わたしを守ってくれているこの人が。
ご神木と同じ香りの、蝶と白花を付き従えるこの人が。
「……あなたが、オハシラ様?」
わたしは否定も肯定もせずにふわっと笑う。
「わたしはユメイ」
曖昧で仄かな笑みを浮べた侭唇を動かして、わたしは自身の名を告げた。桂ちゃんの奥
深くにいるかも知れない、あるかも知れないその名を。赤い記憶の痛みに繋げてしまうか
も知れないその名を。わたしもやはり、何かを残したかった。最期に欲を捨てきれなかっ
た。
柚明を思い出してくれなくても良い。せめて今目の前で、あなたを抱き留めているユメ
イは、心に残してと。誰と分らなくても良い。わたしの影にある痛みや苦しみは、全部わ
たしが望んで受けた物だから、知らなくて良い。唯わたしがあなたをたいせつに想い、今
ここに顕れた事を。その心の片隅にでも残させて。
ユメイ……。桂ちゃんは初めての様に呟き、
「ユメイさん……?」
「そうよ、桂ちゃん」
名を呼んでくれた。わたしを呼んでくれた。
その唇が、もう一度わたしを求めてくれた。
それで至福だった。返される物を求めないと言いつつ、返される物に喜んでしまうわた
しは、何と弱くて脆い存在なのだろう。でも、でももうこれで良い。これで全て満たされ
た。
本当に今迄、生きても死んでも幸せだった。
この瞬間の為に、わたしは今迄いたのだと。
後はもう、消えても良い。何も怖くない。
ノゾミ達に強い瞳を向けて、言葉を紡ぎ、
「消えなさい。本当に消えたくないのなら」
言葉に合わせ周囲の光を威嚇にうねらせる。
本当にここで戦いに入れば、一対一でも尚ノゾミ達の方が有利だけど、わたしが捨て身
になって相殺を望めば、今ならまだ無傷では済ませない。二人に手傷を負わせ、足止めし、
桂ちゃんを逃した上で徹底抗戦すれば、たじろがせ、退ける事も可能だった。今ならまだ。
「……」
ノゾミは無言で敵意を込めた瞳を返すけど。
「姉さま、今一度は退くべきかと」
ミカゲは冷静に姉の手綱を握る。
「……退いて、どうするのよ?」
不満そうに、問い返す姉に妹は、
「《力》を蓄えましょう。私たちも弱っているから」
「……そうね……別に特別じゃなくても、それなりには、精がつくものね」
「はい、姉さま」
鬼は誰でも皆強い執着を持つ。強い拘りや想いがあるからこそ、鬼になってしまうのだ。
故に己の消滅を嫌う。これは人も同じだろう。消えては鬼になって迄拘りたい執着をも失
う。
だから、わたしが桂ちゃんを守る執着の為に己を全て投げ出せる程強い想いで、二人が
桂ちゃんを欲するのでない限り、わたしの全てを尽くせば、鬼の姉妹は退く事を選ぶ筈だ。
わたしには最期の一つが桂ちゃんだけど、鬼の姉妹には、桂ちゃんがそうではない以上…。
「ならそうしましょう。手を出したのは余計な色気にすぎないもの」
本当は、どうでも良かったんだし。
実はどうでも良くなかった事が逆に分る語調で語りつつ、悪戯っぽく細めた瞳でこちら
を見やるノゾミの様に、桂ちゃんがピクと反応した。どうでも良かったなんて、ばかにし
てる。こっちは本当に怖かったって言うのに。そんな憤懣の渦巻きが肌を通じて感じ取れ
た。
「やられっぱなしで帰るのはしゃくだけれど、こんな遊びで手傷を負うのも、よくよくば
かげているものね」
『ううっ、やられっぱなしなのはわたしだよ。
特別な血を持っているとか言っても、食物連鎖で言えば食べられる方で、一矢報いると
かそういう事は、できそうにないけれど…』
そこで桂ちゃんは視線を落とし、自身の手をまだ包み込んでいる燐光を、見つめ直した。
わたしは、ノゾミ達の動きに気を取られていた。桂ちゃんは抱き留められてここにある
から、それには安心していた。否、油断だったかも。気掛りだったのは、最後迄ノゾミ達
だった。言いつつも中途で気が変ったり、或いは油断させる罠である怖れは、充分にある。
早く二人を追い返さなければならなかった。
今現在のわたしの最大の敵は、時間だった。
その盲点は、大きな代償をわたしに強いる。
桂ちゃんは、すうぅっと大きく息を吸って、
「えいっ!」
桂ちゃんは両手を前に伸ばして、ノゾミの方へ突撃した。いわゆる大相撲の突き出しだ。
突然なので、留める術がなかった。桂ちゃんは時々だけど、予測を外した動きを見せる。
この時もそうで、わたしの腕は引き留め得ず。
まさか蒼い力を纏っているからと、それでノゾミ達に逆襲するなんて。そんな危ない以
上に難しい事を。相手は百戦錬磨の鬼二人だ。わたしが真弓さんから学んだ護身の技をフ
ルに使っても、簡単に捕まえられはしないのに。
姿形は桂ちゃんより年下の、可愛い年頃の女の子でも、あの心も肉体も技量も、並の武
道家では及ばない。鬼を追いかける鬼ごっこは桂ちゃんに勝ち目がない。修行を重ねた白
花ちゃんなら、捉える事も可能だろうけど…。
「桂ちゃん、危ない……」「えっ!」
反射的に目を瞑った桂ちゃんは、敷き布団の段差に脚を取られて、見事に転んでしまう。
幸い、転んだ先が布団の上なので、勢いの割には痛そうでもなかったんだけど。
「あはははははははっ」
甲高いノゾミの哄笑が室内に強く響き渡る。
『ううっ、こんな筈じゃなかったのに……』
顔に浮んだ表情で、桂ちゃんが無事だとは分るけど。それより、桂ちゃんを包む輝きが、
「姉さま、見て下さい」「あら……」
「どうなさいます?」
「やっぱり贄の血は惜しいわね」
「えっ? えっ? ええぇっ!」
桂ちゃんは布団に埋めていた顔をガバッと上げて、慌てて自身の両手を見て事態を知る。
『自ら燐光を発していた先程迄は、手のひらのしわから指紋迄、見えていたというのに』
わたしが形を与えた光も、輪郭を朧に変え、部屋は元の蒼い闇で満ちた空間に戻りつつ
…。
「時間切れ……」
桂ちゃんの言葉に、ノゾミは更に甲高く、
「あはははははははっ、この間抜けた子のお守りをするのは、大変なんじゃないかしら?
どうせこの子を守っても、あなたはもうすぐお役後免になってしまうのだし」
「私たちに、譲りませんか」
「八つ裂きにしても飽き足らない程憎いあなただけど、それなら見逃して上げても良くっ
てよ」
今更言葉で応える必要はなかった。
わたしは口を噤んだ侭手を伸ばし、部屋の空気に溶けかけていた、蒼い光を呼び集める。
差し伸べた手のひらに触れるそれらが、最初の強さを取り戻す。代りにわたしの姿が一瞬、
ふっと揺らいで透けた。力が不足し始めた…。
「……えっ?」
桂ちゃんが目をしばたたかせる。でもその反応に気を回せる余裕はなかった。わたしが
再度力を見せたにも関らず、ノゾミは微笑み、
「そう……、それが答えなの……?」
「あくまで見捨てる積りはないと?」
「もう一度言うわ。消えなさい」
早く引き上げて。本当に、時間切れが来てしまう。わたしのではなく、鬼の姉妹の方の。
悟られない為に力押しの姿勢を保つわたしに、
「あなたたちって、揃いも揃って強情なのね。ふふっ、消えるのは一体どちらかしら
ね?」
消えるのは……、
「ユメイさんっ!」
わたしの身体がもう一度透ける。それも気力を振り絞ってもう一度戻すけど、本当の問
題はわたしではない。わたしの時間切れはわたしの気力で尚伸ばし得る。それよりむしろ、
『やっぱり見間違いじゃなかったんだ。あの力を使いすぎると、ユメイさんはきっと…』
本当に桂ちゃんは、心が顔に現れやすい。
「大丈夫よ、桂ちゃん。そんな顔しないで」
わたしは、桂ちゃんにそんな悲しげに張りつめた顔をして欲しくて顕れた訳じゃないわ。
「でもっ」
「……わたしは消えても、なくなる訳じゃないのよ」
微笑みを作るけど、透けた姿で笑いかけても、効果は薄いのかも知れない。桂ちゃんの
顔は、死に行く人を引き留めるかの様に張り詰めている。それも可愛いけど、必死な姿も
美しいけど、わたしが一番見たい桂ちゃんは。
「うふふっ。それは私たちだって同じ」
それに応じてノゾミが歌う様に口を挟む。
「消せたとしても、その力では一時しのぎ」
更にミカゲが言葉を継いで瞳を輝かせる。
「私たちを本当に消すなんて、あなたでは無理でしょうね。あなたは……」
「全ての力を使い切る訳には行かないから」
「あなたが弱れば……ね?」
わたしは表情を硬くして沈黙し、きゅっと唇を噛む。それは彼女たちの言う通りだった。
わたしはやはり、最後の瞬間迄主の封じも考え続けねばならない。最後の瞬間にはその
職責を捨てる覚悟もしたけど、桂ちゃんと白花ちゃんの為にも、最後の最後迄主の封じを
諦める訳にいかなかった。身の消滅の瞬間迄。
捨て身で拙いのはわたしの方だった。でも、捨て身を避けて乗り切れる程に甘い相手で
はない。故にわたしは死中に活を求め、背水の陣を構える。消滅を片方の秤に乗せ、苦痛
をもう片方に乗せ、相手に答を求める。望むなら、わたしの消滅と引き替えに相応の痛み
を。
何があろうとも桂ちゃんだけは守るから。
「まあ、良いわ。今日の処は引いてあげる」
その姿勢に、ノゾミが改めて引き上げを告げたその時だった。それ迄姉に対し一歩引く
姿勢で主導権を持たせていたミカゲが、すっと前に出てきて、小さいけれど揺らがぬ声で、
「姉さま……引く必要が、なくなりました」
時間切れが鬼の姉妹の側から訪れてきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ノゾミ達が口にした贄の血がその身に回り始め、効果を顕し始めているのが、見て分る。
元々どちらか一人でもわたしより強大だったその力が、存在感が、身体から滲み出す朱が、
手が付けられない程甚大に変じていく。もう、わたしの力では如何ともし難い程に、強大
に。
「……どうやら、そうみたいね」
自身の感触を確かめてそう応えたノゾミが、わたしの視線を見返してきた。満ち行く力
の充実感に心地良さげに目を細めつつ、
「贄の血が、漸く馴染んできたみたい」
「はい。私たちが弱りすぎていて、最初の一口を吸収するのに、時間が掛りましたけど」
「もうこれで、万全ね」
「次からは、呑めば即馴染むでしょう。もう継ぎ手を怖れる必要も、なくなりました…」
「しかも、桂も手元に戻って来てくれたし」
二人の身体から立ち上る濃密な紅は、今迄の憤懣を全て叩き返そうと煮えたぎっている。
その間近に捉えられて、再び身動き叶わずに、
「えっ、えっ、ええっ?」
桂ちゃんは状況の変転に付いて行けてない。
せめて、桂ちゃんが間近にいてくれたなら。
「元からあなたなんて敵ではなかったけど」
ノゾミはそんな桂ちゃんとわたしを隔てる様に一歩前に踏み出して、わたしに正対して、
「今ではあなたに消えて貰う方が話は早い」
ミカゲは念入りに桂ちゃんを間近に確保しつつ、敵意の視線と力を後方から援護に送る。
二人が示威に出した程度の朱でも、わたしには壁の様に聳えていて、触る事さえ叶わない。
わたしの全てを注いでも、この濃厚な朱は…。
「桂の失敗の所為で、あなたは消えてしまう。
可哀相に。折角もう少しで、私たちを追い払う事もできたのに。それももう全て水の泡。
贄の血が回り始めたわたし達の力は、見て分るでしょう。桂の所為で、あなたは消える」
小鳥が歌う様にノゾミが語るのに、背後で、
「そ、そんな……ユメイさん?」
桂ちゃんが愕然とした顔を見せるのに、
「大丈夫よ。もう少しだけ、我慢して。
今、助けてあげるから……」
言いつつも足を踏み出せないわたしの前に、わたしの存在を脅かす程の朱に身を包んだ
ノゾミが歩み来る。距離を置いて対峙したかったけど、今退く事は、桂ちゃんを手放す事
だ。ノゾミ達の手に、委ねる事だ。見捨てる事だ。
それは絶対に許されない。誰に対してより、己自身に許せない。わたしは持てる限りの
蒼い力を身に集め、驚異的な迄の朱に対抗する。小細工は通じない。右に躱しても左に躱
しても、ノゾミは対応してくるだろう。そして正面から打ち合えば、力の差は無慈悲な迄
に…。
その瞳が笑みを浮べている。圧倒的な優位で、ノゾミは最早敵意の上に、余裕を被れる。
濃厚な朱をわたしに向け徐々に発散させつつ、
「せめて桂があんな事をしてなければ、今もあなたの手元にいたのに。連れて逃げる事も、
桂だけ先に逃がして私たちを足止めする事もできたのに。鬼の怖さを碌に知りもしないで、
借り物の力で逆襲しようとして自滅するなんて愚かの極み。あなたの想いを無にする様な、
あんな桂に、あなたは尚生命を注ぐ積りなの。
絶対に勝てない、この状況になっても尚」
ノゾミへの返事は不要だった。わたしは唯想いを伝えたい人に向け、ノゾミの向う側に、
「もう少し待っていて。今、助けに行くから。少し時間は掛るけど、後少しだけ頑張っ
て」
ノゾミが不快に端正な顔を歪めるより早く、
「それは無理」
ミカゲの声は、わたしの心を砕くと言うより、桂ちゃんの心に傷を刻む為に、
「贄の血が回り始めた私たちに、あなたは勝てない。あなたは私たちと相打ちにも持ち込
めなくなった。幾ら抗っても、あなたが消えてなくなるだけ。贄の子が時を稼いでくれた
お陰で、手元に転がり込んできてくれたお陰で、あなたは逃げる事もできなくなった…」
桂ちゃんの瞳が、恐怖と言うより罪悪感に見開かれていく。可愛い顔が強ばって、凍て
ついていくのが分る。その呟きは、状況を理解し呑み込んでしまえた故の、掠れた小声で、
「ユメイさん……わたし……」
「考えなしの子供が何もかも壊す。当事者だったあなたはそれを嫌と言う程味わった筈よ。
懲りないのねぇ。何度も何度も裏切られて、何度も何度も足を引っ張られて。何の報い
もなくて、一つの感謝も謝罪もなく忘れられて。あなたが好きで選ぶ途をとやかく言う気
はないけど、見ていると本当哀れに思えてくる」
「助ければ助ける程、守れば守る程次々に危険と困難を運んでくる考えなしの贄の子を」
ノゾミとミカゲが、交互に言葉の刃を放つ。
「あなたに禍ばかり持ち込んでくる、考えなしの贄の子を、あなたはまだ見捨てないの」
「考えなしの贄の子の為に生命を落しても」
それはわたしと桂ちゃんに向けた言葉の呪縛だった。効かなかったから、わたしの心は
惑いも揺らぎもしなかったから、正面から紅の瞳を見据えても、全く効果がなかったけど。
「ええ……生命を落しても、見捨てないわ」
一言で、言葉の鎖を引きちぎった。同時に桂ちゃんの、強ばりかけた心を引き戻そうと。
「それが、それだけがわたしの望みだから。
桂ちゃんが、元気で微笑んでくれる事が」
桂ちゃんの、泣きそうな瞳が見開かれた。
わたしは尚も蒼い力を紡ぎ出す。結果は求めない。唯この想いを、届かせたい。最期の
最期迄、桂ちゃんを守りたいわたしの想いを。
考えなしの子供とは、過去の日のわたし。
考えなしの行動とは、幼い夜のわたしだ。
それでも、お父さんもお母さんもわたしを守ってくれた。生命を落しても想いを捨てず、
わたしを庇って立ち塞がった。お父さんとお母さんとお腹の中の妹と。多くの生命と引き
替えに、わたしの生命が残された。わたしは想いを託された。禍を呼んだのはわたしだっ
たのに、過失があったのはわたしだったのに。
その絆がわたしを今迄、生かしてくれた。それを受け継ぐ事で、結び続ける事で、わた
しは漸く己に生きる値を認められた。生きる目的を見いだせた。生きる意欲を絞り出せた。
ここで桂ちゃんとの絆を断つ事は、わたしが過去との絆を断つ事だ。わたしがわたしに
生きる値を認めた理由が崩れ去る。わたしが失っても尚たいせつな人達との絆を、この手
で拒む事になる。それだけは絶対に出来ない。
わたしが受けた想いを、多くの生命と引き替えに残されて繋いだ生命を、ここで伝え継
ぐ事が出来なければ、わたしはあの夜から今日この時迄、一体何の為にあり続けてきたの。
「桂ちゃんが禍を招いたのでは、ありません。
禍が桂ちゃんを使ったのです」
桂ちゃんが禍を起したのではない。禍が起きる時起きる場に、そこにいてしまっただけ。
「だから哀しまないで。桂ちゃんが悪い訳ではないの。必ず助けてあげるから。必ず…」
「なら、生命を落しなさいな」
桂ちゃんを包みかけていた言葉の縛りをも破った事が、ノゾミは気に入らなかった様だ。
右手をかざして、赤い奔流をわたしに向ける。
「っつ!」
絞り込んだ力で防ぐけれど、押し戻される。
破壊的な迄の朱に蒼い力が引きちぎられる。
まだ本気でないのか、数秒で波は引くけど。
力の差が明確に分ってノゾミは満足そうに、
「あなたも愚かねぇ。桂を腕に抱き留めた時に、さっさと贄の血を頂いておけば良かった
のに。そうすれば、私たちを凌ぐと迄は行かなくても、結構な力を得られたでしょうに」
桂ちゃんの瞳が、再び見開かれる。
わたしもノゾミ達と同類なのだと。
わたしも血を吸う鬼だと思い出す。
それは誰の心にひびを入れるのか。
「贄の血は、とっても美味しいのよ。
魂を酔わせる位に、素晴らしいの」
生きていた事を、感謝したくなる位にね。
ノゾミの言葉にわたしは今度は即答した。
「そんな力なんて、要らないわ!」
桂ちゃんを傷つけて、哀しませて得る力なんて、わたしは欲しくない。わたしが欲しい
のは、桂ちゃんを守れる力、桂ちゃんを幸せに導ける力、桂ちゃんの微笑みを呼び起す力。
わたしは桂ちゃんを守る為に顕れたの。
その血を啜る為に、顕れた訳じゃない。
例えこの身が滅びても、この想いが消えてなくなったとしても、桂ちゃんを裏切る事は
しない。自身を裏切る事はしない。血も力も要らない。要るのは桂ちゃんの微笑みだけ!
「ユメイさん……どうして、そこ迄……?」
桂ちゃんの問を阻んでノゾミとミカゲは、
「なら、私たちが頂いてあげるわ。あなたの大切な桂から得た力で、あなたを思う存分打
ちのめし、悲鳴も残さず消してあげるわね」
「あなたが存在した欠片も痕も、残さない」
彼女たちの意図した時間稼ぎももう終りか。贄の血が完全に回りきって、その力が満度
に活かせる状況迄の、引き延ばし。本当はそうなる前に勝負を挑むべきだけど、手を拱い
て見守るしかない程、力の差は既に開いていた。
鬼の姉妹の連携に隙はなく、あっても今のわたしに打ち破れそうにない。残された術は、
『向うに動かせる。油断させる』
勝利を確信させる。ミカゲの意図とノゾミの意図が連携する限り、二人は破れない。そ
れが解れる時を探す。それが離れる時を狙う。それは彼女達が劣勢な時でもなく、拮抗し
た時でもなく、睨み合いに緊迫した時でもなく、
「わたしが桂ちゃんを守るから。桂ちゃんの微笑みを守るから。血の最後の一滴になって
も守るから。それがわたしの生きる値で目的だから。桂ちゃんの為に今迄繰り越してきた
わたしの生命だったから。だから、大丈夫」
桂ちゃんの為だと思えば力が出せる。
たいせつな人の為なら己を尽くせる。
わたしの生命の値は守りたい者の生命の値。
わたしの生命の目的は守りたい者を守る事。
だから大丈夫。最後の最後迄大丈夫。わたしが生命を使い切ってもそれは負けじゃない。
わたしの負けは自分の値や目的を投げ出す事。守りたい者を守れず、目の前で奪われ失う
事。それを防ぎ止められるなら、わたしに悔いは。
ノゾミが、わたしの強情に不快そうな顔を見せる。それに先んじる様に背後のミカゲが、
「勝てる見込みはないのに、なぜ?」
鈴の音と共に双子が近付いてくる。
「勝ち目がないのは、分っているわ」
手を差し出すと、その指先に止まっていた蝶がふわりと飛んだ。蝶は光の鱗粉で青白い
軌跡を描きつつ、ノゾミに向って飛んでいく。でも、それは先程の月の欠片の様にはなら
ず。
赤い霧が動いた。それはあでやかな赤で獲物を誘う食虫植物の、捕食する瞬間にも似て。
蠢く霧に捉えられた蝶は、触れる端から消化され、唯の闇へと還ってしまう。
よく見れば蝶だけが消えてしまう訳ではなく、赤と青は相殺し、霧も消えているのだけ
れど、それでも絶対量に差があるせいか、唯蝶だけが消えてしまった様に見える。
桂ちゃんも状況は見えている。さっきとは力の比が激変している事も。最早双方の力の
差は開きすぎた。優劣は確定した。それでも、わたしが戦い続ける限り尚、全ては終らな
い。
「随分とお粗末だったけれど、今のを開戦の矢合せと思って良いのかしら?」
優位を確信したノゾミの問に、わたしは、
「ええ、構わないわ」
わたしの存在を賭けてでも、桂ちゃんだけは助ける積りだから。
「うふふっ、随分とばかなのね。どう考えてもそれは無理」
「先に消えるのはあなた……」
「でしょう? あなたが消えてしまったら、誰がその子を守るというの?」
わたしはその問には答えず、今度は全ての蝶を一気に放った。桂ちゃんのみならず、ノ
ゾミもミカゲもその量に、瞬時目を奪われる。花嵐の様に乱舞する蝶の群れ。部屋中が月
光色に満たされ、視界は全て青白く霞んで見え。
一面が青白く染まる中、ノゾミとミカゲの周りだけが、異彩過ぎる赤光で抉り抜かれて。
その境界線で、青と赤の光がぶつかり合い、断末魔の閃光を発して消滅する。光が失せ
て残った闇が、その濃度を上げるや否や、それを払う様に赤と青の光が再度、押し寄せる。
青白い光の核である蝶が、一頭一頭消え行く度に、わたしの形が揺らいでいくのが分る。
ノゾミ達も無傷ではないけど、二人である以上に贄の血で得た力が強大で、余裕が見える。
出来れば、この力をご神木に持って帰りたかったけど。反動と代償に、少しでも差し出す
力を残せて置けば、わたしも己を残せたかも知れないけど。でも、この結末も覚悟の上だ。
力を惜しんでも退いても、たいせつなひとは守れない。生命の限り進まないと。想いの
限り貫かないと。尽くせる限り届かせないと。末に何があるのかは、辿り着かねば分らな
い。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「あははははっ、本当に捨て身なのね」
「ですが姉さま、これでは流石に……」
優劣は最初から見えていた。順調に赤と青は数を減らし、残る光に占める赤の割合がど
んどん増え。ノゾミは勝利に酔い始めている。ミカゲは、わたしが敗北を承知で本当に正
面決戦を挑むとは考えてなかったらしい。
「良いじゃないの、やらせてあげましょう。ここで自滅して貰えるなら、それはそれで」
「けれど姉さま、私たちも……」
「構いはしないわ。減った分は贄の血が癒してくれるんだもの。ねぇ?」
月光の空間を隔てて尚、ノゾミの瞳が放つ赤い光は桂ちゃんを硬直させるに充分だった。
今のわたしでは、それを妨げる事もできない。桂ちゃんの顔色は見ただけで心が読み通せ
る。
『そうだ、そうだ、そうなんだ。狙われているのはわたしなんだ。どうしてその身を削っ
て迄、守ってくれているのかは分らないけれど、この侭だとユメイさんが消えてしまう』
「もう良いよっ! 充分だよっ!」
「桂ちゃん、そんな事言わないで」
わたしの勝敗はどうでも良い。唯、桂ちゃん自身を、諦めては駄目。
「でも……」
『ユメイさんが先に消えるというなら、その後にわたしはわたしの身を守れるだろうか』
それは無理。きっと無理だ。
なら、それならいっそ。
身体を壊して迄わたしを育ててくれたお母さんに申し訳ないけど、わたしの事は諦めて。
「ユメイさんだけでも……」
「桂ちゃん」
「良いの! わたしだって嫌だけど、だけど結局わたしも駄目なら!」
ああ、また桂ちゃんを哀しませてしまった。
また桂ちゃんが泣くのを止められなかった。
幼い日も、あの夜も、あれからも今日迄も。
わたしは本当にいつ迄経っても役立たずだ。
「駄目なら、その女だけでも助けて欲しいの?」
「見逃して欲しいの?」
「あなたのその、贄の血の流れる身体と引き換えに?」
ノゾミ達の言葉に桂ちゃんが頷く。止めて。わたしなんかの為に、既に確かに生きてい
るとは言えないわたしなんかの為に、その暖かな生命を差し出さないで。わたしは、桂ち
ゃんに一分一秒でも長く生きて貰う事だけが…。
「あら、どうしましょう」
「お願いだから!」
「でもね、あなたの事だけじゃなくて、個人的な恨みもあるのよ。八つ裂きにしても飽き
足らないぐらいの。だから……。
だからやっぱり、許してあげない」
残酷な笑顔で宣言する。
桂ちゃんの顔が絶望に引きつり、わたしの心が怒りに沸き立つ。桂ちゃんの絶望が自身
の為じゃなく、わたしを助けられない事への物と分ったから。己よりわたしを、知らない
筈のわたしを大切に想ってくれる暖かな心を踏み躙る行いが、何よりも許せなかったから。
桂ちゃんの心を弄んで、掻き回して、楽しんでいる。桂ちゃんを哀しませ、振り回して
楽しんでいる。それが何よりも許せなかった。なのに、わたしの怒りも愛も、無尽蔵なの
に。
透けて行く身体が恨めしい。赤い壁を突破できない自身が焦れったい。桂ちゃんの声は
間近にあるのに。わたしの力には限りがあるのか。桂ちゃんを想う心は限りないのに。桂
ちゃんが寄せてくれる想いにも限りないのに。
「うふふっ、あなたの様なばかを指して言うのかしらね。飛んで火に入る夏の虫って…」
赤光は地獄の炎の様に渦巻くと、舌を伸ばして残された全ての月光蝶を絡め取った。蒼
い輝きが消えていく。わたしの力と生命と、想いが消える。勝敗は決した。そう見えた。
「……っ」
わたしは自身の落した薄すぎる影に手をついて、漏れる悲鳴を噛み殺した。
部屋に満ちていた青白い光はとうに消えて、この姿もその影も今にも消えそうな程儚げ
で。
「さあ、そろそろ終りにしましょうか」
場にそぐわない優しい声で囁くと、ノゾミは右手を前に突き出した。
奔放に、無秩序に、唯彼女の姿を取り巻くようにという法則にだけ従っていた光が、そ
の手に向って移動していく。とどめを刺しに、来るのだろう。ミカゲの援護が、なくなっ
た。わたしの抵抗はもう脅威ではないと見た様だ。
「私にだって、慈悲はあるのよ?」
うっとりと細めた目で、光を集めた右の手を見つめて言う。
「そうね、これ位なら楽に逝けるかしら?」
眩しすぎて、反対側が透けて見えない程に凝縮された、赤い光の塊だ。今のわたしなら、
影も残さず消し去るだろう禍々しくも強い光。
鈴の音も軽やかに、ノゾミがわたしの傍らに来る。それが最初で最後のチャンスだった。
「逃げてっ!」
桂ちゃんの声は聞えるけど。それには従えない。一度位なら飛び退く力はあったけど、
そうした処でノゾミの手を逃れられはしないし、逃れて何をできる訳でもない。それより、
『残された力を全てつぎ込んで、ノゾミを』
幼い夜、お母さんがあの鬼にやった様に。
羽様の森にあの鬼が来た時に、わたしがやろうとした様に。密かに最期の力を結集する。
防ぐ事はせず、攻撃の刃は受け止め、食い込ませ、それで相手の動きを封じて。防ぐ力
も逃れる力も全部つぎ込んだ一撃を、ノゾミの頭に叩き付ける。鬼の生命は奪えなくても、
意思を司る頭を失えば唯では済むまい。貫かれるわたしは、間違いなく消えてしまうけど。
この弱体な力でも、ここ迄近接して不意を付けば、直接この手で流し込めば、効かない
筈がない。跡形もなく噴き飛ばす迄出来なくても、大きな痛手を与えれば暫くは動けまい。
ミカゲの対応次第で、桂ちゃんが逃げ出す隙も出来るかも。この身の消滅は、確かだけど。
防御しても消滅を避けられぬ程の赤い塊を、防ぎもせず身体に受けるのだから、当たり
前だけど。それはわたしの選択だから良いけど。唯桂ちゃんに哀しみを残してしまう事が
残念。勝てない事より守れない事、わたしが消える事より桂ちゃんを哀しませる事が、心
底残念。
「早くっ! 早く逃げてぇーっ!」
その切迫した声に、わたしを想う優しくて強い心に応えられないのが、申し訳ないけど。
ノゾミの距離は、手を伸ばせば触れられる程。
「ふふふっ」
唇から笑みをこぼしながら、輝く右手を高々と振り上げたそのとき。