第1章 廻り出す世界(乙)


「微かに聞えていた虫の音も、これでシャットアウト。もう何も聞えないもんね」

 ちょっとばかり暑苦しいけど、その位はがまん、がまん。羊が一匹、羊が二匹……。

 桂ちゃんは動かない。わたしも動かない。
 なら、状況を変えたい者が動くしかない。

 部屋の向うで、廊下の向うで、苛立ちが気配と共に強まっている。刻は深夜、もう旅館
とはいえそんなに人が歩き回る時刻ではない。痺れを切らした赤い気配が、わたしの牽制
を無視する様に、或いは弾くかの様に直進を…。

 そこで、二つの気配が急に、動きを止めた。
 もう一つの何者かの接近を、悟ったらしい。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『鬼切部……?』

 ノゾミとミカゲが瞬時に一歩退いて、廊下をすり抜け、建物の壁の外側迄、浮いて後退
したのは、二度も鬼切部に破れたトラウマの故か。鬼切部でも、何もせず瞬時に引くとは。

 力量を読めない初見の相手故に、何か為そうとした瞬間への絶妙の介入故に、わたしと
対峙しながらの応対では不利故に、退いたと。冷静に考えれば妥当だけど。この時の俊敏
さは冷静さより危機感と怯えの為せる技だろう。

 それでも廊下の壁の向う側にすり抜けただけで、その外側の虚空に浮いて、わたしと同
じく様子を伺い、尚簡単に帰ろうとはせずに。二つの鬼の気配は、間近に滞空を続けてい
る。

 それに気付いてか、気付かないでか、その鬼切部は、その少女は廊下を静かに歩み来て。

【……千羽、烏月さん……だったわね……】

 桂ちゃんの心の多くを占めていた、黒髪の長く艶やかな高校生位の女の子。でもその印
象は女の子と言うより、綺麗に整った女の人。強い意志を静かに秘めた、鍛えられた名刀
の如き女の人だ。真弓さんに、似た感じがある。困難に立ち向かう時の、凛とした真弓さ
んに。

【この人が、桂ちゃんの、大事な出会い…】

 寝る前迄の、桂ちゃんの心の多くを彼女が占めていた。そしてご神木の中にいる時から、
関知の中でもひときわ確かに、大きく視えた。

 この黒髪の女性はきっと、桂ちゃんにとって大切な人になる。立居振舞い美しく、きり
りとした姿が意志の強さを表すけど、どこか悲しそうで脆そうで。その強さに匹敵する位
の重荷を心に抱いている。それが彼女を人から隔てる様に促している。他者を拒んでいる。
日常と切り離された空気は彼女が纏う心の鎧。

 そしてもう一つ、彼女は桂ちゃんだけではなく、白花ちゃんにも深い繋りを持っている。
それも抜き差しならない程に、絡まりあった。運命の糸が、絆が、絡み合い縁を紡ぎ始め
る。

【明良さんの、いもうと……?】

 部屋の壁の向うなので、わたしには彼女の動きは正確には見えない。受ける印象は桂ち
ゃんの心に映っていた『烏月さん』と、今感じ取れる気配からで。足音も聞えなかったけ
ど、気配で彼女が廊下を歩み来ていると分る。

 彼女は、わたしやノゾミ達の気配に感づいている。双方共に、相手を牽制する為に気配
を顕示し合った。これで気付けない人がいる方が信じられない。千羽さんの動きは感覚が
鋭いと言うより、剛胆と言うべき所作だった。

【助かったと言って、良いのかしら……】

 状況は複雑に絡んだ三竦みになった。ノゾミ達は、わたしだけなら打ち破って踏み入れ
ば良かった状況が、根本から崩れた。鬼切部の力量が読み切れない中、尚今夜桂ちゃんの
血を奪いに強攻するかどうか、悩ましい所か。

 千羽さんは左右に鬼の気配を感じて、どちらにどう応対すべきか考えている。わたしは
窓の外なので、桂ちゃんの部屋を踏み越えなければならないし、ノゾミ達は廊下の壁の向
うなので、やはり窓から外の虚空に出なければならない。その視線は当然ながら、右と左
のどちらに向けても警戒と威嚇の蒼い眼光で。

 わたしも今は鬼だった。鬼切部から見れば、斬るべき人外のあやかしで、化け物で。最
早わたしは鬼切部に守って貰う資格もなければ、協力を頼み得る存在でもないのかも知れ
ない。

「……そこにいる事は、分っている……」

 低く抑えた声だった。呟く様な声は、人であれば間近にいなければ聞き取れないだろう
けど、わたし達は意志を感じ取る事ができる。そして彼女も恐らくそれを承知で言ってい
る。

 話して誤解を解ければ最良だけど、わたしが敵ではないと分って貰えれば良いのだけど。
その隙を鬼の姉妹が利用しないとも限らない。わたしが桂ちゃんを脅かす鬼ではないと彼
女に理解して貰うには、やや時間が掛りそうだ。

 わたしは千羽さんよりむしろその実力を見定めようと尚漂い続ける鬼の姉妹を牽制して、
この場を離れられない。鬼の姉妹が次にどう出るかが読み切れない。ノゾミ達が千羽さん
に襲い掛る様なら、助けなければ。千羽さんの実力や、その戦意もまだ読み切れないけど。

 動く意思はあれど動きに伴う音はなかった。

 千羽さんは、廊下の端に寄って一気に窓を開け放つ。桂ちゃんの部屋を踏み越えねばな
らないわたしよりも、廊下の窓を開けるだけで視認可能なノゾミ達に対処する積りらしい。

 それで均衡は崩れた。ノゾミ達は即座にその動きを察知して、さかき旅館から大きく距
離を隔てて退く。余計な者に見つかった、尚人を呼ばれる怖れもある、斬りつけられる怖
れもある。予想外の要素が混じった時は、無理強いしない方が良い。そんな判断だろうか。

 千羽さんが窓を開け放って視線を向けた時には既に、二人の姿は虚空に消えて。普通の
人が見れば何の変哲もない只の月夜に見える。でも彼女は、その空気に鬼達の残り香を感
じ取れた様で、逃げ去っただけだと悟った様で、少し苦々しげな感じで、わたしを振り返
った。

【強い、威圧……。これは鬼への、憎しみ】

 壁を隔てても、距離を隔てても、その蒼い眼光はわたしの魂を貫いた。瞳から発される
蒼い輝きは、わたしを見定め牽制すると言うより、視線で滅したい程の敵意と戦意を映し。

 彼女は、わたしを斬る積りでいる。

 桂ちゃんの部屋を踏み越える事も、その外の虚空に踏み出す事も、わたしの抵抗の有無
も障害にしていない。只目前に鬼がいるから、見えたから即斬ると。敵意と言うより殺意
だ。

 次の瞬間にも入口を蹴破り入ってくる。
 為す事さえ為せば後は何とでもなると。

 彼女が一歩踏み出せば、その間合いに入る。
 彼女が持つ破妖の太刀の、届く範囲に入る。

 壁を隔てても、距離を隔てても、彼女の技量に大きな問題はない。彼女は練達の強者だ。
そしてその姿勢には迷いも躊躇も微塵もなく。

【斬られる……】

 わたしは逆にそれに縛られ動けなくなった。
 逃げようとした瞬間に、刃がこの身に届く。

 動きの先を、見定められて、回り込まれる。
 先に動かせ、それを躱さないと助からない。

 彼女は一撃で決める気だ。そして恐らく一撃で全ては決まる。あの破妖の太刀は、人よ
りむしろわたし達の様な物への武具だ。受けては、鬼となったわたしも無事では済まない。

 わたしは彼女の動きを一回なら躱せる。二回は無理か。先に彼女に動かせないと、わた
しの動きに対応した彼女の攻めは避け得ない。そして彼女はわたしの動きを一回なら捉え
られる。先にわたしが動けば彼女はわたしの動きの先に軌道修正が届く。でも彼女が先攻
し、それに応じた後迄は、彼女にも追いきれない。

「向うの鬼は逃がしたが、お前は逃がさん」

 声と言うよりは、その意思が伝わってきた。
 強い意志、確固たる意思、静かに潜む闘志。
 その底にある、鬼を全て滅したい強い想い。

 話して理解を求めるのは無理に近い。ここはまず一撃を凌いでから、落ち着いてから…。

「羊が一匹、羊が二匹……」

 この緊迫の中で、尚寝付こうとできる桂ちゃんの神経は凄い。何も知らない内に、何事
もなく終らせないと。ノゾミ達は引き上げた。後はわたし達2人が何事もなく終えられれ
ば。桂ちゃんは何事もなく、朝を迎えられるのだ。

 でも、千羽さんの鋼の如き目線はいよいよその機を窺う様に強く強く輝いて。睨み合う
だけでは埒があかないと、彼女も思ったのか。一撃に賭ける気になっている。先攻して、
わたしが躱せない程の一撃で、切り伏せる気だ。

 チャッ。金属音が、物音を失った深夜の旅館の廊下に意外と響く。それは千羽さんが手
に持った破妖の太刀を、持ち替えた故に発した微かな音だ。一気に薙いで倒す積りでいる。

「ひいっ!」

 その音がなぜ桂ちゃんの耳に届いたのか。

「いいいっ、いまっ、な、何か聞えた…?」

 その心はわたしと千羽さんには感じ取れた。
 声では聞き取れずとも、千羽さんも気配で。

「気のせい、気のせい、気のせいだってば」

 ここが桂ちゃんの部屋だと気付いた様だ。

 桂ちゃんは千羽さんを鬼切部だと知らない。千羽さんも桂ちゃんに己が鬼切部と伝えて
ないし、桂ちゃんを贄の血の裔と知らない様だ。微かに千羽さんは桂ちゃんに好意を抱い
ていて、『一般人の桂ちゃん』を、特殊な鬼切部の存在に触れさせたくないと望んでいる
のか。

 できれば自身が鬼切部だと知らせたくない、知って欲しくない。友達になる上で、鬼切
部という身分は余りに重く、動かし難い存在だ。千羽さんは桂ちゃんとそれらの関係を抜
きに、気の合う同年代の友達になりたいと微かに…。

 桂ちゃんを意識した瞬間、千羽さんの殺気に躊躇いが出た。微かに、踏み込んで桂ちゃ
んを叩き起す迄して、己が鬼切部であると知られ、それで始ったばかりの関係が終る事を、
残念に思う気持ちが兆していた。それが分る。

 その瞬間に、活路が見いだされた。

 わたしは全速で迷う事なく後退し、千羽さんが窓から虚空に飛び出しても刃の届かない
間合い迄離れる。もうノゾミ達はいない。千羽さんは、桂ちゃんに害意を抱く者ではない。
わたしが間近に控えているべき訳は消失した。彼女の誤解を解く事は、棚上げになったけ
ど。

「ふう、助かった……」

 千羽さんが苦々しそうな顔でわたしを逃した事を確認して、破妖の太刀を黄金の鞘に収
める所作が視える。彼女は恐らく旅館の中で、わたし達の再来に備えて夜中待機するだろ
う。

 わたしが守る事はできなくても、桂ちゃんが守られるならそれで良い。元気でいてくれ
れば良い。実際わたしは力不足だった。より確かな守りがつくなら、わたしに否やはない。
万が一千羽さんが桂ちゃんを守れない時には、わたしが再度、青珠に頼んであの部屋へ飛
ぶ。

 ご神木に身体を戻らせつつ、最後に桂ちゃんに意識を向けると、桂ちゃんは布団の中で、

「……えーと、何匹まで数えてたっけ…?」

 千羽さん、桂ちゃんの守りをお願いします。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 幸運にも、今夜わたしは消え去る事なくご神木に帰り着けた。千羽さんの介在のお陰で、
それ程力を使う事なく、ノゾミ達と直接ぶつかる事もなく、桂ちゃんの無事を、守り得た。
こんな幸運は人生にそうあると思えないけど。次の夜迄展望すれば、余り状況は良くなっ
たとも言えないけど。とりあえず、今夜は終り。

 故に力の浪費も少なく、身に受ける代償も反動も少ないのではと、微かに期待していた。

【ぬんっ……!】

 戻った瞬間、虚像世界でわたしは主の渾身の右拳を腹に受けて、一気に背中迄貫かれた。

 主はわたしを狙った訳ではなかったらしく、唯封じの綻びを作ろうと暴れていた様だけ
ど。わたしがその拳に貫通されて抜くにも抜けない状態にある事に、貫いてから気付いた
様で、

【帰り着けたのか……しかも、その様子は】

 双眸が驚きに少し見開かれていた。わたしが戻り来れた事自体、一種の驚きだったに相
違ない。わたしも消滅を覚悟しての出立だったし、主もそれを知っている。戻れたとして
も、五体満足でいられるとは思ってなかった。

【大して疲弊もしていない様子だな。よもやお前が己の志を曲げ、贄の子を見捨てて逃げ
帰る事等あるまい。戦い敗れた末に贄の子を失い、おめおめ帰ってくるお前でもなかろう。
幸運な第三者の介入か? 鬼切りの娘とか】

 主はわたしの実状もノゾミ達の実力も掴んでいる。鬼神の察知で桂ちゃんや白花ちゃん
を取り巻く定めも、ある程度は見通している。わたしが戻るには、千羽さんの介入・助力
が不可欠と承知か。それが場合によってはわたしに致命の刃になりかねない存在である事
迄。

 ぬん! 主は腹を貫く右手を思い切り上下に振って、わたしを床に叩き付ける。それで
身の自由は確保できたけど、再生の力は流れ込んでこない。感じ取れるのは、むしろわた
しから力を吸い上げようとする流れで。前回ほど凄まじくはないけど、わたしの全身から
力と想いを吸い上げて、気を遠くさせて行く。

【わたしが引き連れていった、ちょうちょ達の取り込みが優先なのね。それが終ってから、
本格的にわたしからも力の吸い上げを……】

 青地に白い蝶の和服が鮮血に彩られ、輝く白い髪飾りが飛んだ。それを追う余裕もなく、
わたしは傷口を抑えるのに精一杯で。激痛が、身体と心とを覆い尽くすのにも、もう慣れ
た。本当は慣れるべきでないのかも知れないけど、

【今夜は、桂ちゃんは、守られました……】

 右手で傷口の出血を抑える。まやかしの身体でも、出血が意識を朦朧とさせる事に変り
はない。まやかしの身体の組成は想いの力だ。砕かれ散らされれば意識が保ち難くて当然
か。

 この損傷が治る迄どの位掛るだろう。次の夜迄に治るだろうか。治らなければ、この侭
ででもわたしは桂ちゃんを守りに行く。こんな身体で何ができるかと、言われそうだけど。

【お前は役に立たなかったと、言う事か?】

 率直に過ぎる主の問いに、わたしが微笑んで頷き、応えられるのは、結果が全てだから。

【わたし自身の活躍が、目的ではありません。桂ちゃんを守るのが誰でも良いのです。桂
ちゃんが無事であれば、桂ちゃんが明日の朝を迎えてくれれば良い。ノゾミ達が諦めて手
を引くなら、それでも。わたしは桂ちゃんに忘れられた存在です。むしろ表に出ない方
が】

 千羽さんが確かに桂ちゃんを守ってくれるなら、わたしに出番がなくても、否ない方が
むしろ望ましい。誤解を解く迄もなく、わたしが寄りつく必要もないなら。それで桂ちゃ
んが安全に経観塚での日々を過し終え、町の家に戻ってくれるなら。再びわたしとの縁を
結ぶ事もなく、日常の中に帰って行くのでも。

 それが最良の展開だったのかも知れない。
 わたしは桂ちゃんが忘れた過去の存在だ。
 わたしの今はご神木に宿る故に動けない。

 その未来を千羽さんが支えてくれるなら。
 わたしは、その過去を抱き留めるだけで。

【わたしは今や鬼です。わたしと少しでも縁を結ぶ事は、その行く末を日常から異界へと、
昼から夜へと、ねじ曲げる事になりかねない。元々桂ちゃんは鬼に縁の深い生れ。その幸
せを望むなら、その日々に幸を願うなら、今更わたしと知り合って鬼に首を突っ込むよ
り】

 何も知らない侭昼の世界で、その一生を…。

 手で抑えても止まらない出血に、なかなか始らないご神木からの力の供給と身の修復に、
伏した姿勢でも尚喋る事が難しくなってきた。それでも、満足そうに笑みを浮べるわたし
に、

【守られた事も知らず、守る為に生命を懸けた者の存在も知らず、その生命が誰の故に繋
がれて今あるかも知らずにいる事が幸せか】

 主はわたしに、一体何を問いたいのだろう。

【鬼切りの娘は確かに多少腕が立つ。巧くやればミカゲ達を退ける事も、不可能ではない。
贄の子を守って戦う事も為すだろう。だが】

 贄の子が鬼切りの娘を頼り、信じ、感謝し、心を通わせ合うのに対し、お前は何も得ら
れない。お前は何も返されない。鬼切りの娘には贄の子に害を為しに来た悪鬼とだけ思わ
れ、贄の子には鬼切りの娘によって追い払われた悪鬼の一人としか思われず。それで良い
のか。

【お前自身の望みはどうなのだ。お前は…】

 忘れ去られても構わない事は良しとしよう。

 だが、そこ迄尽くす今のお前さえ知られず、唯悪鬼として逐われる結末に、お前は満足
できるのか。まかり間違えば、贄の子にもお前は唯の悪鬼、生命を脅かす敵と思われるの
だ。

【怖れられ、嫌われ、憎まれるかも知れぬ】

 主の言葉は、わたしの心を抉る様に問う。

 破妖の太刀を抱えた千羽さんの後ろに縋り、怯えた目線をわたしに送る桂ちゃんの像が
目に浮ぶ。可愛い顔を嫌悪に歪め、千羽さんの無事を祈りつつわたしを忌避する桂ちゃん
の姿は、主の言う通りこの先にあり得る光景だ。

 それは愛しくも悲しい光景。

 それは無事を喜べつつも胸張り裂ける光景。

 怖れられ、嫌われ、憎まれて良いのかと。
 それを受け容れる事に悔いはないのかと。

 よりによって桂ちゃんに。一番大切な人に。
 守りたい人に怖れられ、嫌われ、憎まれる。

【生きても死んでも、報われぬ人生だな…】
【ええ、わたし以外に引き受けられない役】

 微かな涙の気配を自身に感じつつ、それでもわたしは静かに笑みを浮べ、揺らがぬ心で、

【だからこそ、わたしが引き受けなければならない役。わたしのみにしか為し得ない役】

 だからわたしが、為すのだと。
 だからわたしが受けるのだと。

 愛した人に嫌われるのは、悲しい事だけど。
 尽くした人に怖れられるのは辛い事だけど。

 それがその人に最良で、あるのなら。
 それがその人の幸せに、繋るのなら。

 わたしがその人に、他の手段で与えられる全てより豊かなら。わたしはその途を望む…。

【正気か、お前は。その深い想いを仇で返される事迄、受け容れるのか。お前の助けで生
命を繋ぎ、お前の犠牲の上で安楽を得て、お前の尽くした事も知らぬ侭、贄の子がそのお
前に刃を向ける事迄、受容できると言うか】

 主はなぜか苛立つ声で畳み掛けてきたけど、

【成果を分ち合おうとは思わない。結果を共に味わおうとは望まない。想い出してくれる
日なんて夢想しない。わたしはわたしのたいせつな人の為に、己を尽くしたかっただけ】

 返される想いは、求めない。何も返らなくても構わない。わたしはわたしが為したかっ
ただけ。わたしはわたしが愛したかっただけ。生きても死んでもそれがわたしの幸せだか
ら。

【桂ちゃんには、それが必要だったのです。
 わたしの様な、幸せの苗床が、一人位は。
 贄の血の陰陽という、抱えきれない程重い生れつきを負わされた桂ちゃんが、その生を
謳歌し日々の幸せを享受するには。望んで得た訳でもない、取り替えも利かない、尋常で
はない程に濃い贄の血を身に宿す桂ちゃんが、人として当たり前の人生を、過し行くに
は】

 白花ちゃんの様に想像を超えた厳しい人生を経ない限り、誰かがその定めの重さを代り
に受け止めなければならなかった。わたしが受け止める事で、悟られもせず全て受け止め
る事で、桂ちゃんが日々を笑って過せるなら。

【わたしは桂ちゃんに尽くせる事が幸せです。幸せに報償は要りません。例え事の成り行
きで誤解が生じ、桂ちゃんがわたしを怖れ嫌い憎む事があっても、それを解く事ができな
くても、それがこの身に害になっても、桂ちゃんの為に沈黙の保持が最良ならそうしま
す】

 わたしがそうしたい故にそうするのです。

【愛した者に憎まれ害される迄許容するか】

 わたしは小さく、でもはっきりと頷いて、

【わたしは、それを満身で受け止めたい。
 わたしは、それを渾身で受け止めたい】

 わたしは全て受け止められる。あなたの封じを何とかできるなら、その為にわたしは黙
って消えても、滅んでも良い。桂ちゃんの刃で滅ぶのでも、桂ちゃんを想う者の刃で滅ぶ
のでも。報償は既にわたしの中で得ています。それ以上の何物もわたしに真に必須ではな
い。

【尽くせている事が既に幸せですから。
 守れている事が望みの成就ですから。
 元気で生きてくれている事がわたしには】

 わたしに、尽くさせてくれて有り難う。

 桂ちゃん、白花ちゃん。わたしの大切な人。

 今この頬を伝う涙は、感謝の涙で嬉し涙だ。

 今ここにこうしてある事への、今こうしてある事が桂ちゃんと白花ちゃんのお陰だとの。

 主は欲した答を得られたのか、諦めたのか、

【最早問うまい。お前には、鬼神を封じる使命も自身の生命もその深い想い迄も、大切な
人の幸せの為に躊躇なく抛てると言うのだな。そして実際全てを抛った己を受容できてい
る。
 ……お前こそ、鬼神の敵に不足はない。わたしを封じる為に、叶う限り悠久永劫、この
封じに留まり続けるが良い。最期の最期迄退屈せず、想いを叩き付け合えるに相違ない】

 その夜、主はわたしを求めなかった。深手を修復できないわたしを慮ったのか、疲弊し
たわたしを放置する方が封じを揺るがすのに有効と考えたのか。わたしには、主がやや混
乱して、考え込んでいる様にも、見えたけど。

 ご神木がちょうちょを全て取り込み終えて、わたしから反動と代償の吸い上げに取り掛
ったのは、その少し後、日の出近くの事だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【相当、綻びが広がったであろう】

 日がやや高く昇った頃になって、主はわたしに話しかけてきた。わたしが漸く封じの内
側の虚像世界の変貌に、多少でも目を向けられる様になった頃合を見計らってなのだろう。

 日の出の少し前から、ご神木はわたしに無謀の代償と反動を求め始めた。それ迄もご神
木はわたしが引き連れた力である蝶を取り込んでいた。尚不足な故か、傷ついた封じの要
へ力の供給はない。わたしは主の腕に貫かれて風穴が空き、内蔵が一部鮮血と共に漏れだ
す腹部を抑えつつ、自身の想いの力による自然治癒に身を委ねるけど、遅々として進まず。

 本当はこの傷が自然治癒する事が嘘だけど。本当は麻酔がなければ数分も正気を保てな
いだろうけど。現代医学でもあり得ぬ治癒を見せるまやかしの身体は治る迄苦痛を刻み続
け。

 治りきらず、傷口がまだ流血を続ける内に、ご神木はわたしの力を吸い出しに掛った。
遅々としていた治癒も停止して、むしろ悪化し傷口が開き始める。その痛みも激甚だけど、
生気が吸い上げられる苦しみは悶絶に値して、わたしは数時間窒息に似た苦しみに晒され
た。

 一秒一秒が正気を削り、瞬間瞬間が理性を壊す。己の力では到底足りず、衣を全て取り
去って、まやかしの大地に身体を擦りつけるけど、それは前回もそうだった様に気休めで。

【ひうっ、あっ、あう、はあぁっ……】

 ご神木の外に出て現身で、本物の大地に身を擦りつけたら、浅ましく恥ずかしい図でも、
多少足しになったかも知れない。でもそれは叶わない。現身を取る事が力の浪費な以上に。

 今は日の光が燦々と射し込む真夏の日中だ。現身も数分保たず消失する。容赦ない陽光
はわたしの様な実体のない存在を、あるかないか両極端に振り分ける。昼間は肉があった
頃も、贄の血の力を身体の外に出しにくかった。

 オハシラ様の力も含め、多くの不可思議な物は陽を苦手とする。ノゾミ達が昼間に顕れ
られないのだ。更に力の劣る今のわたしにそれは自殺行為だ。その制限がわたしを昼間は
安心させてくれる。昼間だけは桂ちゃんは安全だと。夜迄に身体を復し、次の夜に望む力
を蓄える間を、考える間を与えてくれるから。

 わたしは虚像世界で悶え苦しみつつ時の経過を待つ。槐の花を思い起させる白い大地に、
満足に動けない裸身を擦りつけて擦りつけて気休めに代え。この様な姿は、主にも誰にも
見られたくなかったけど、信じ難い渇きに襲われたわたしに、時と場を選べる余裕はない。

 淡く白く輝くまやかしの大地は、踏みしめるとゴムの様な弾力があったけど、指を突き
立てると意外と簡単に崩れて掘れる。掘っても掘っても白砂に似た色の淡い白色の輝きが、
手のひらの中で簡単にこなれて崩れる。感触は微かに湿気を含み、匂いは槐の花のそれで、
均質で石の混じらない土が無尽蔵にあって…。

 何もせずに耐えている事は、できなかった。
 思う侭に動けないけど不動ではいられない。

 前回よりその苦しさはやや減じていたのは、慣れの故か、結局戦いにならなかった所為
か。それでも渇きはこの身を激しく苛んだ。封じの中では、わたしの生み出せる力は殆ど
ない。わたしはご神木が主や大地から吸い上げてくれる力を扱うだけで、預るだけで、わ
たし自身の想いの力等、己を保つ程度に過ぎなくて。

 人から預ったお金を運用するのに似ている。使い込みした後でその分の回収を迫られれ
ば、返せる当て等ない。わたしの悶え苦しみは至当だった。自身で吸い上げた訳ではない
封じの力を勝手に持ち出し、人の現身を作るのに使ったり、他の鬼への攻撃に使ったり。
本来目的の主の封じが揺らぐのも、お構いなしに。

 わたしの行いは、封じの安定と均衡を危うくする愚行だった。ハシラの継ぎ手は基本力
を全て内に注ぐ。それで漸く鬼神を封じ得る。外に力を漏出させるのは、封じの要として
は失格だ。それは分っている。分っているけど。

 主の語りかけは、わたしの悶え苦しみがまだ終らない内に、漸く峠を越えた辺りに為さ
れた物だ。主は今回はわたしを犯してくれなかった。それがわたしやご神木に力を回す行
いになるとは、前回既に承知だった様だけど。毎回敵に塩を送る訳にも、行かないのだろ
う。

 前回はわたしは無意識に力を浪費してしまっていた。今回はこうなると承知の確信犯だ。
わたしはわたしの自由を為し、その結果を身に受けただけだ。その意味でもわたしは前回
から既に、主の情けを受けるべき用件も満たしてなかった筈だけど。あれが鬼神の気紛れ
だったなら、今回の応対がむしろ当たり前か。

 主に助けを求めたい想いを喉の奥で止めて、姿を視界に入れない様に目を瞑って顔を背
け。主に自分から身体を許すのが嫌だった訳でもないけど、既に自身の羞恥とかは番外だ
ったけど、そこは敵対者として一応けじめがある。

 主の情けに縋って一時を凌げても、それが麻薬になると、しっかり敵対もできなくなる。
大事な時に無意識にも手を緩めてしまう様な布石は残したくない。これは己の中で耐えて
乗り越えないと。今回一回で済む話ではない。この渇きには何度も直面せねばならないの
だ。

 今夜も明日も明後日も、わたしが生きてある限り、白花ちゃんと桂ちゃんを害する者が
いる限り、この無茶を繰り返す気なのだから。為せる事が分った以上、道を切り開けた以
上。

 であれば、これは正にわたしの問題。わたしがこの身で受け止めて、対処しきらないと。

【身の消滅を承知で出陣するお前と約定を交わしたのだ。わたしも手を抜く訳に行くまい。
久々に、全力で封じを壊しに掛った訳だが】

 主の本気の凄まじさを、改めて実感する。

 わたしを壊しその抵抗を踏み躙る時に見せた力など、ごく小さな一部にしか過ぎない事
が事実として呑み込めた。それは荒れ狂う濁流であり、押し寄せる泥流だった。

【不在だったのは4時間に満たないのに…】

 主は主の想いの侭に、今こそ自由を求めて勇躍したのか。封じの要が不在で、綻びの修
復が進まない今こそ機会だと。確かに主は全力だった。わたしの腹を貫く瞬間迄、近寄り
難い闘志が宿り。でもそれはむしろ何かを振り払う様で。本当に主は喜び勇んでいたのか。

 否、微かにあの瞬間の主には、自暴自棄の色が見えた。あれは間近な自由の虚しさを感
じた故なのか。先代のオハシラ様を、竹林の姫の魂を失った直後、わたしが代替りした頃
に見せた様な。己の想いの侭に生きる故の哀しみが、己の想いの侭にしか生きられぬ故の
哀しみが、己の想いの侭に生きる故に避け得ぬ哀しみに抗う様な瞳が、なぜか痛々しくて。

 主の猛威を前に、槐の巨木の内側を模した虚像世界は、各所に亀裂や歪みを生じていた。
ご神木は元々封じを保つけど、オハシラ様が的確に繕わないと、草木の自然治癒は方向性
も優先順位もなく、致命的な綻びを小さなそれと同列に扱う為に、封じを長くは保てない。

 草木は意図を持たない。人の如く、獣の如く、神の如く鬼の如く。彼らは唯あるだけで、
唯来る全てを受け止めるだけで。故に封じた鬼神の綻びを望み、作り押し広げる意図を悟
って、その所作を防ぐ為には、封じの要が必要となる。それを暫く外すと言う事は当然に、

【ここ迄封じが、傷つけられてしまうの…】

 大きな分霊が出て行ける程の隙間は開いてないけど、封じはずたずたに寸断されていた。
茶色い円柱の壁面が、あちこち無造作にざっくり切られている。それは唯壁を切りつけた
だけではなく、それによって隔てられていた筈の外界と虚像世界を結びつけている。

 そこから身を乗り出せば、通り抜けられれば封じの外へ歩み出せる。わたしの手首しか
入らない傷だから、主はまだ出られないけど。こんな感じの傷が、壁の傷と言うよりは空
間の傷が、そこにも、ここにも、あそこにも…。

 一つの傷口を押し広げようとすると、ご神木もその傷口を塞ぎに掛る。だから主は無造
作に力の赴く侭に各所の壁に傷を穿つ。ご神木を混乱させ、修復の力を分散させ、手が回
らなくさせる。ハシラの継ぎ手がいなければ、ご神木はどこが主の本当の力点かが分らな
い。

 どこを優先して防ぐかを指示するのが封じの要の役割だ。封じの力の統御とは本来その
為にある。そこに人の意識が求められるのも、そこに吸い上げられた封じの力が寄せ集め
られ預けられるのも。でも、わたしが人の目と意図で眺めた限りでも、主はどこか数カ所
に力を集めて封じを突き抜けようとはしてない様だった。囮やダミーに隠して本命を幾つ
かという感じではなく、唯己の力を思い切り叩き付けて、重点も何もなく封じ全体を突き
破る迄暴れ続けるみたいな、戦略も何もない…。

 わたしが気付けない意図を更に隠しているのだろうか。主はわたしの腹を貫いた一撃を
最後に、その暴発に近い暴れ方を一挙に収束させていた。今目の前にいる主は平常の主だ。

【鬼の居ぬ間の洗濯……?】

 心に思いつく侭の印象を述べると、主は面白そうに笑みを浮べた。腹部からの流血も止
まらない侭、白い大地に裸身を擦りつける事を気休めに時の経過を待つわたしを見下ろし、

【今はお前も鬼だったのだな】

 わたしがいない間だけ暴れて、ハシラの継ぎ手が戻ってくると諦めて猫の皮を被り直す。
そんな器用な人物だとは思ってなかったけど、

【どうせお前は今夜も、贄の子を守りに赴くのだろう。……消滅の危機を、承知の上で】

 はい。わたしは短く頷いて、息を継いで、

【鬼の最大の強みは、一念の強さだと聞きました。痛みや怖れを乗り越え、執着の一念に
突き進めるのが、鬼の本当の怖さで強さだと。今や鬼になったわたしに、その執着を貫く
為だけに鬼になったわたしに、その一念に磨きをかけて突き進む事の他に、どんな生き方
があるでしょう。戻る事はわたしに許せません。留まる事も、躊躇う事も、身を惜しむ事
も】

 わたしは、最期の最期迄わたしです。
 守りたい物を守る。たいせつな人を。

 今更何の確認なのかというわたしの目線に、

【明日には自ら解ける封じをわざわざ力づくで外すのに、意味を感じなくなっただけだ】

 そういう事か。わたしがわたしであり続ければ、今夜もわたしは桂ちゃんを守りに出る。

【わたしが今夜ノゾミ達に敗れて消失すれば、という事ですね。継ぎ手を失った封じは
…】

【お前の様な愚かな継ぎ手が担った所為で、我が宿願があっという間に成就する。全く】

 主の声は妙に力がなく感じられた。黙っても明日に封じが解けると分ったなら、もっと
喜んで明日を待てるだろうに、この脱力は一体何なのだろう。力の浪費もなく明日に自由
が戻り来ると見通せたのに、千年の封じの先に希望が見えたというのに、主は一体何を…。

【わたしは、尚戻り来る積りでいますけど】

 わたしは、桂ちゃんを守った上で生き残る。そうでなければ、次の夜に桂ちゃんを守れ
ないかも知れないから。この身を惜しみはしないけど、桂ちゃんの為ならどんな悶え苦し
みでも受けて、生き残って、次の夜も守ろうと。

【せいぜい、頑張るのだな】

 主はごろんと横になって、寝入ってしまう。折角穿った虚像世界の傷が、徐々に修復さ
れていく様にも、興味がない様子で。何か言い足りなさそうに見えるのは、気の所為か。

 ここ迄崩れた封じを放置する手もないと思うけど。ご神木は尚わたしから力を吸い上げ
る程力に不足している。本格的修復は、わたしがここに夜通し留まっても明朝以降だ。し
かも夜には、わたしはノゾミ達を迎え撃ちに行く。今宵封じが解ける可能性は充分あった。

 わたしが置かれた状況は、冷静に見ると四方八方破れかぶれで勝算がなくて、味方がな
く敵は強大で、為せる事も力も限られていて、相当厳しい。敗色濃厚というか、玉砕覚悟
というか、『勝てない戦いを挑むのはばか』を地で行く状況だった。主が何を考えてか万
事に消極的なのが微かに嬉しい誤算だったけど、それで幾らも希望が見えない程現状は厳
しい。

 だからこそわたしが為さなければならない。
 だからこそ、わたしにしかそれは為せない。

 敗れる事も滅ぶ事も、それで何も得られない事をも覚悟できければ、為せない事を。尽
くす事自体が、為す事自体が報償であり幸せである、わたしにしか為せない事を。わたし
の想いを全て捧げ、わたしの生命を全て捧げ。

 主が昨夜わたしに掛けた言葉が、耳に甦る。
 想いの侭に生きようではないか。君も我も。
 己の内の真の望みを曲げる事なく貫こうぞ。

 あのまっすぐ精悍な瞳を、わたしは少し…。
 わたしはそれにもう一度短く確かに頷いて、

【はい。必ずお互いにその様に】


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 その人物がご神木の前に至るのは、十年ぶりだった。逢いたいと願い続けていたけど、
無事をこの目で確かめたいと祈り続けていたけど、逢う事はむしろ彼の側に許されなかっ
たのに。その彼がここに来た。来てしまった。

「ゆーねぇ、お久しぶり……」

 柔らかな声で、静かな物腰で、そして何より白花ちゃんは人として、白花ちゃんとして
ご神木の前に立ち現れた。遮る物のない夏の日差しに照りつけられ、白花ちゃんはご神木
の周囲に開けた最後の数歩を難なく歩み来て。

 ご神木の結界が拒絶しないのは、主の分霊を内に宿しても、白花ちゃんに害意はないと
分る故か。槐の白い花が一つ二つ、散ってその上に降り注ぐ。それを右の手のひらに受け、

「長く、待たせてしまって、ごめん……」

 言葉が途切れる。途切れた時間を象徴して、その先に言葉が続かない。わたし達が共有
できた幼い日々は、遠く過ぎ去って戻り来ない。共に紡いだ想い出はあの夜絶筆になった
侭だ。

 長かった。そこにどんな事情があるにせよ。白花ちゃんも同じ想いなのか。槐の白い花
を愛おしむ様に軽く握って、その感触を確かめ。最早わたしより背が高くなった白花ちゃ
んは、

「ここに、戻ってきた。全てが終って始ったここへ。全てを終らせて、始め直す為に…」

 白花ちゃんにはここは懐かしいだけの場所ではない。ここは大切な人と最後にいられた
だけの場所ではない。暖かい想い出を、家族との日々を、掛け替えのない者を、己の手が
断ち切った、悪夢の始りの場所でもあるのだ。

 それが、白花ちゃんの意思による物ではなくても。それが、白花ちゃんの意思ではどう
にもできない主の分霊の所為であるにしても。白花ちゃんは、己の手が大切な物を断ち切
り、羽藤の家を分解させる様をここで為したのだ。

 その苦味は、真弓さんを凌ぐかも知れない。真弓さんは防げなかった事に終生責任を感
じていたけど、白花ちゃんは正にそれを為した事から、自身の罪から終生逃れられないの
だ。

 せめて暖かな過去は捨てたくない。せめて大切な人達を心には抱き続けたい。でも、そ
れを想い出す度に、心に兆すのは甚大な悔恨と哀しみと、無力感と絶望で。取り返せない。
やってしまった事は最早取り返しようがない。桂ちゃんの様に、忘れる事が、できたなら
…。

 その痛みはいか程か。その苦しみはどれ程か。その哀しみは、その悔しさは。それらを
全て呑み込んで、それらを自身に受け止めて、白花ちゃんは今ここに来た。決して許され
ない筈の、主の分霊を身に宿した侭で、ここへ。

「一昨日に経観塚に来ていた事は、感応の鋭いゆーねぇは、もう分っていたと思うけど」

 白花ちゃんは優しげですらりとした男の子に育っていた。顔立ちは正樹さんの若い頃に
似ているけど、しなやかで筋肉質な身体つきは真弓さんに似ている。微笑むと周囲を暖か
にして、人の居場所を作り出せる。放っておきたくない程に、可愛い男の子になっていた。

 表情に時折差す陰が、その故に余計に痛ましい。日の下にいる事が桂ちゃんと同じ位良
く似合う、素晴らしい笑顔の持ち主になれたのに。その身を縛る定めの重さが、呪わしい。
わたしがその禍を拭い取ってあげられたなら。

「暫くの間、心を閉ざしていたんだ」

 近付くにつれて、内に宿した主の分霊に語りかけてくる声があったから。僕の心にでは
なく、僕の内にいる主に語りかける声だったから。主を呼び醒まそうとする声だったから。

 千羽では、余り感応の修行はできなかった。何と言っても、彼らは鬼切部だからね。贄
の血の力も、戦いに使える部分は修行したけど、それ以外は余り教えを請える人もいなく
てさ。

 正直、感応はまだ未熟なんだ。誰かの呼びかけだけに反応して誰かには閉ざすとか、そ
ういう器用な使い方は、僕にはまだできない。分霊を勢いづかせたくなかったから、全部
纏めて水際でシャットアウトしたんだ。だから、

「ゆーねぇから語りかけがあったかどうかも分らないんだ。もしかしたら、何回も夢見に
蝶を飛ばしてくれていたかも知れないのに」

【だから、遠方から白花ちゃんの存在を感じても、心の浮動を感じ取れなかったのね…】

 白花ちゃんは桂ちゃんと違って過去の記憶を保っている。ここに来る以上、わたしを憶
えている以上、何らかの心の浮動が感じ取れる筈だった。主の分霊が身体を占めていても、
その場合分霊の心の浮動を関知する筈だった。

 しかも、ノゾミ達は赤い夢を広げて、その心を釣り上げる構えでいた。あれは桂ちゃん
だけでなく、白花ちゃんの心も釣り上げる策だった。でも白花ちゃんの心は動かなかった
ので、わたしにもその正確な所在が分らずに。

 どちらにも深い関りを持つ羽様に近付けば、心はご神木を向く筈だった。白花ちゃんは
意図して、その鍛えた精神力で、語りかけを拒み、自身を堅く保ち、己の中の主に対峙し
て。

「本当は、夜に来れば良かったのかも知れないけど、夜は主の分霊も活性化するから…」

 白花ちゃんは、一見分らないけど、魂にも身体にも酷い痛手を受けている。主の分霊を
身に宿し続けて、慢性的に負荷が掛っている。生気も不足だし内蔵も限界迄酷使されてい
る。全身が潜在能力を満度に迄使いこなしている。そんな状態を、何年も続けて無事な筈
がない。

 それでも、強い意志と修行とで何とかその限界を引き延ばして、引き上げて、今日この
時迄生きてきた。その辛苦は一体どれ程の物になるのか、わたしには想像がつかなかった。

 それで尚微笑む事ができる。
 それで尚白花ちゃんは笑みを浮べ得る。
 その強さに、わたしは驚嘆を隠せない。

 あの小さな白花ちゃんが。あの可愛かった白花ちゃんが。ここ迄強く大きくなるなんて。

「母さんが、亡くなったって、聞いたんだ」

 その白花ちゃんが沈痛な声で、語りかける。

「鬼を宿した僕を、最期迄想い続けてくれた。
 人に仇なす鬼を斬る鬼切部なのに、人に仇なしたこの僕を、最期迄信じ続けてくれた。
 父さんを、母さんの最愛の人だった父さんの身を貫いたこの手を取って、強く生きてと、
励ましてくれた。最期迄勇気づけてくれた」

 何一つ親孝行もできないで、不幸ばかり招いて、何も返す事ができない内に。心配と負
担ばかり、掛けてしまった。本当に、本当に。

 泣きたい思いを堪えて静かに白花ちゃんは、

「もう僕には、時間がない。それが分った」

 カウントダウンが始った。否、それはもうとっくに始っていたんだけど。あの夜主の分
霊を宿した時に始っていたんだけど。母さんの死でそれを強く意識せざるを得なくなった。

「人は長く生きられない。主の分霊を宿す僕の寿命も、そう長くはない。生きている間に、
身体が動く内に、ここに来なければならなかった。例え明良さんの許しが貰えなくても」

 一刻も早く。この苦しみに耐えられる内に。
 一刻も早く。ゆーねぇを主から、救い出す。
 この身が動かせる内に。僕が人である内に。

 少しだけ、待っていて。もう少しだけ。
 本当に長く待たせたけど、後少しだけ。

 まだもう少し、やらなければならない事が。

 必ず助け出すから。僕の全てを賭けて助け出すから。主を、鬼を切り倒すから。この身
に学んで刻みつけた、鬼切りで主を斬るから。漸く身につけたから。最強の業を、身につ
けたから。大きな犠牲を、払ってしまったけど。

 その双眸が、苦悩と哀しみに一瞬歪むけど、それを乗り越える強い意志を瞳と声に宿ら
せ、

「この為だけに、僕は尚生きてあるんだから。
 この為だけに、僕は死なずにいるんだから。
 僕は鬼切りの修行をして、今ここに帰り着いたんだから。全てを失ってでも、唯一つを
得るその為に、唯一つを取り返すその為に」

 彼の気が急くのは若さの故ばかりではない。時間制限は、むしろ白花ちゃんを縛ってい
る。彼にこそ、本当に僅かな時間が、貴重なのだ。

「母さんに、心配かけたくなかった。だから、僕も明良さんの言葉に従って千羽の私有地
に、鬼切部の中に潜んでいた。腕が未熟だという事もあったけど、恩人で師匠の明良さん
に逆らい難いという事もあったけど、何より母さんが悲しむ顔だけは、見たくなかったん
だ」

 もう十二分に、哀しませてしまったから。
 一生かけても償えない程哀しませたから。
 せめてこれ以上、哀しむ顔は見たくない。

 ゆーねぇを早く助け出したい想いは山々だけど、一分一秒でも早く主を斬って解き放ち
たかったけど、僕はまだその業を持たなかったから。僕はまだその力を持たなかったから。
鬼切りを修得する迄は、ここに来ても意味がない。だからそれ迄は、修行に全力で挑むと。

「それに、僕は鬼をこの身に宿し、人を殺め、既に明良さんに斬られた筈の、存在だか
ら」

 僕が抜け出せば、明良さんが僕を斬らなかった事が分ってしまえば、僕の生存が明らか
になれば、明良さんは僕を追わなければならなくなる。それ以前に、主の分霊を宿す僕が
ここに来る事を、明良さんは絶対に認めない。

 いつ鬼に身を乗っ取られるか分らない不安定な僕が、その本体である主を解き放って斬
ろうなんて、正気の沙汰じゃない。僕にも分かるよ、その判断は。しかも相手は伝説にそ
の名を止める、人に斬られた事のない鬼神だ。

 母さんは黙っていられない。手を拱いていられる人じゃないからね。鬼切部と僕を追う
のでも、僕を庇って鬼切部に対峙するのでも、どっちでも母さんが傷つく。母さんは優し
いから。どこ迄も暖かさを、捨てられないから。

 真弓さんを哀しませない様に、何とか明良さんを説得して、合意の上でここに来る事が、
白花ちゃんの願いだった。千羽の鬼切りの業を全て修得し、絶対勝てると安心させた上で、
ご神木から主を解放し斬る事が、叶わなかった彼の望みだった。できれば、真弓さんと明
良さんと、三人で鬼切りをと考えたのかも…。

 客観的に視てそれは不可能だった。主程に強大な鬼神を斬る術は、千羽どころか今の世
の全ての鬼切部に存在しない。三人がその身に宿る全ての力と業を出し尽くし、それぞれ
の寿命の延長上にある全ての未来から力を前借りで呼び集めても、きっと主には敵わない。

 そして主を一度解き放ってしまえば、誰にも再度封じる術等ない事を、真弓さんも明良
さんも分っていた。故に封じを解き放つ事は許されない。主を斬る事も許されない。主は
悠久永劫に、ここで封じておかねばならない。

 ハシラの継ぎ手が遠い未来迄封じ続け、遙かな時の彼方に、その魂を還し行くから。だ
からどうか今を生きる人は、今の幸せを掴んでと。今残された幸せを守って、噛み締めて。
わたしは良いから。もう、十分に幸せだから。

 白花ちゃんと桂ちゃんの幸せの端を支えられるだけで、わたしは報われているから。苦
しみも哀しみも痛みも全て、しっかりとそれを支えられている証だから。受け止めるから。
わたしは一人になっても絶対に崩れないから。

「母さんが死んで、明良さんが死んで、もう僕を哀しんでくれる人はいなくなった。鬼切
部に追われる立場になっても悩ませ苦しませる人は、いなくなった。そして、僕が千羽の
中にいられる微かな足掛りも、消滅した…」

【……明良さんは、亡くなったのね……】

 爽やかな人だったのに。優しくて強くて、厳しさと寛容さを持ち合わせた、素晴らしい
人だったのに。鬼切りという影の職に相応しくない程、涼やかで暖かな人だったのに。

 白花ちゃんは戻るべき処、居るべき処を失い、心を預け得る人も失った。全てを失った
故に、死ぬ前に最期の望みを果す積りでいる。白花ちゃんの前にも途は残されていなかっ
た。

「全てから解き放たれたというか、見捨てられたというか。自由って、空しくも寂しい物
だね。僕を僕でいさせてくれる縛りが、僕が人であり続ける縛りが、どんどん切れていく。
居るべき処も、行くべき処も、戻るべき処も、僕にはない。残されたのは、為すべき事だ
け。生命を費やしても成し遂げようと心に決めた、唯一つの最期の望みが僕に残っている
だけ」

 母さんは、草葉の陰で、泣いているかな…。

 でも、もう良いよね。一生懸命、我慢はしたよ。急かす想いを、抑え付けて抑え付けて。
僕は助けたいんだ。ゆーねぇを助けたいんだ。一刻も早く、一分一秒でも早く、ゆーねぇ
を。

 僕の為に全てを失ってしまったゆーねぇを、僕の所為で人生を全て棒に振ったゆーねぇ
を、僕の全てで取り返すんだ。僕の生命をかけて。絶対幸せになって貰うんだ。僕のこの
手で…。

「この想いはもう止められない。主の分霊が何を考えているかは大体分るけど、その囁き
に敢て乗った。主の分霊としてじゃなく、僕として。僕の最期の望みを果す、その為に」

 真弓さんの存在が、白花ちゃんの運命の車輪を止める最後の車止めだった。真弓さんの
死で、白花ちゃんは主の分霊が動き出す事を、直面せねばならない時の到来を、悟ったの
か。そして自身の想いも最早、抑えられない事を。白花ちゃんにも、時が余り残されてな
い事を。

「主の分霊も母さんの死を知った。母さんと明良さんが両方いるから、分霊は機を窺うと
この身の中で大人しくしていた。どっちか片方でも欠ければ、それが奴の動き始める時」

 明良さんは、僕が死なせてしまった様な物だった。僕の生命を救って、導いてくれた人
なのに。僕に戦う術と希望を与えてくれた人なのに。掛け替えのない大切な人だったのに。
僕は結局、禍の子だった。明良さんにも、その妹の烏月にも、取り返しのつかない事を…。

【千羽さんとの運命の糸の絡み・縺れとは】

「それでも尚、否それだからこそ、成し遂げなければならないから。絶対成功させるから。
やり遂げるから。必ず鬼を斬るから。だから、だからもう少し、もう少しだけ、待って
…」

 爽やかな風が白花ちゃんの髪を軽やかに嬲って吹き抜ける。陽は中点に至りつつあった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 白花ちゃんがわたしに語りかけつつ、わたしの答を求めて、ご神木に右手を伸ばした時、

「っつ! ゆーねぇ?」

 わたしは、感応を求めて出された白花ちゃんの右手を、ご神木の幹の上から弾いていた。
ご神木ではなく、わたしが、白花ちゃんの求めを拒んでいた。本当は拒む積りなんてなか
ったんだけど。本当に、本当に求め欲し願い望み続けてきた瞬間だったのだけど。白花ち
ゃんにわたしの心を伝えられる希有な、十年ぶりの機会だったのだけど。逆にだからこそ。

【だめっ! ……触らないで】

 わたしは幹の上で封じの力を転用し、その柔らかな右手を拒んでしまっていた。白花ち
ゃんが瞬間、ぽかんと呆けた顔を見せた。何が起きているか、理解できてないという顔だ。

 無造作に、拒まれる等考えもしてなかった感じで伸ばした右手が一時止まり、ほんの少
し躊躇いを見せた後で、やや慎重にもう一度ご神木の幹に伸ばされる。感応を求めて、わ
たしの心の内を求めて白花ちゃんの右手が…。

【だめっ。今は、だめなのっ】

 再度火花が散る感じで、白花ちゃんの伸ばしてきた右手首を拒む。ご神木に触れる事を
拒む。感応を拒む。心を開かしてしまう事を、白花ちゃんの求めを、わたしが拒んでいる
…。

「ゆーねぇ? どうしたの、僕だよ」

 まさか分らない訳じゃないだろう。

 分らない訳がない。百も千も知っている。
 だからこそ、分っている白花ちゃん故に。

【お願い。今は、今はだめなの】

 でも、幹に触れて貰わないと昼のわたしは、白花ちゃんに心を伝える術がない。白花ち
ゃんの語りかけは届くけど、わたしから応える術は今の処ない。拒絶に、拒絶以上の想い
を込めたかったけど、それは結局感応を導く…。

「何かの間違いだよね。ゆーねぇ……」

 ああ、弾かれる事を覚悟で白花ちゃんが腕を伸ばしてくる。弾く力を堪え忍んでわたし
の幹に触れ、感応に挑む積りだ。そうなれば、わたしには最早防ぐ術もない。ここ迄近付
かれた以上、根の生えて動けぬご神木は逃げる事も躱す事も出来はしない。受け止めるし
か。

【やめて。触らないで、今はだめなの。
 白花ちゃん、お願い。わたしは、今】

 わたしの三度目の拒絶を乗り越えて、白花ちゃんがご神木の幹に触れる。触れてしまう。
そして、その尋常ではない程に濃い贄の血が、触れると同時に修練の必要もなく、ご神木
に宿るハシラの継ぎ手、封じの要と感応を始め、

「ゆ、ゆーねぇ。これは、一体……?」

 その唇から愕然とした声が漏れる。伸ばした右手を幹に触れさせた侭、白花ちゃんは心
を打ち抜く衝撃に石像となって、その場に立ちつくす。それは白花ちゃんの、十年の希望
を壊してしまった瞬間かも知れない。

【白花ちゃん……見て、しまったの】

 せめてもう数日早ければ、わたしの醜態を見せずに済んだのに。きちんと封じの要とし
て機能し、平静を保つわたしで応対したのに。今のわたしは、ご神木から力を吸い上げら
れて悶え苦しんでいる最中だ。主に貫かれた腹部を塞ぐ術もなく、衣を再生する余裕もな
い。

 力を吸い上げられ飢えと渇きに狂気と化したわたしの姿が。虚像世界で大地に裸身を擦
りつけて、悶え苦しむわたしの姿が。夥しい流血と内蔵を散らせ、痙攣するわたしの姿が。

 表情にも瞳にも、飢えと渇きが映し出されているに相違ない。それでも尚、サクヤさん
ならそこ迄明瞭には関知させない事もできた。でも白花ちゃんは尋常ならざる程に濃い贄
の血の持ち主だ。わたしが拒んでも感応は進んでしまう。ご神木は、来る全てを受け容れ
る。

 まだ覚悟が足りなかった。自身の事は諦めた積りだったけど。己の全てを捨てた積りだ
ったけど。白花ちゃんには、見て欲しくなかった。覚悟して受け容れたこの悶え苦しみだ
ったけど、その過程を、その全てを、知っている人に見て欲しくない。わたしはこの時に
至っても尚、自身への執着を捨てきれてない。

 白花ちゃんには綺麗で優しい『ゆーねぇ』の侭でいて欲しかった。二度と会う事ができ
ないから。二度と抱き合う事もできないから。でも、そんな望みを抱いた事が間違いだっ
た。

 誤解されて怖れられ、憎まれ、嫌われる事も覚悟したわたしだったけど、真実を見つめ
られる程怖い事はない。今のわたしは名実共に鬼だった。執着の侭に、人として持ってい
た一つ一つを捨てる事で新しい力を得るけど、その代償はこの浅ましくも恥ずかしい醜態
で、身を襲う悶え苦しみで、今のこの事態を招き。

 真実を見つめられる事が、今のわたしの実状を見られる事が、怖い。直面してわたしは
漸く気がついた。人気のない山奥だったから、誰にも見られぬご神木の封じの中だったか
ら、視線は気にしなかったけど、忘れていたけど。

 白花ちゃんも桂ちゃんも濃い贄の血を持つ。わたしがご神木に触れて感応し、オハシラ
様の視点を共有した様に、二人はご神木に触れる事で、わたしの視点を全て持つ。わたし
の経験を全て知る。ご神木に入ってから、ハシラの継ぎ手となったわたしの今に至る全て
を。

 だから弾いてしまった。だから拒んでしまった。だから感応されたくなかった。漸くわ
たしは自身の無意識の怖れに気がつけた。この時点に至って漸く。見たくない物は見えな
いという人の諺は、人を止めても有効らしい。

 白花ちゃんの意識がご神木からわたしを見下ろしている。その瞳が、目の前の幹ではな
くそれを透過して、中から見上げるわたしの視線を捉えているのが分る。わたしは諦めて、
最早隠れる間合いも物もないと承知して、封じの中の虚像世界からその双眸を見つめ返す。

「これは、どういう……ゆーねぇ!」

 白花ちゃんの瞳が大きく見開かれた。驚愕に、想像を遙かに超えた情景に、心の反応が
ついていけない様が分る。せめて数日前なら、落ち着いて封じの任に当たっているわたし
を見せられたのに。今更それを言ってもきっと。

【白花ちゃん、落ち着いて!】

 驚きに心が空っぽになっている。白花ちゃんが空白になっている。危険だ。彼は心を開
け放ってはいけない人なのだ。彼は驚きや哀しみや怒りや喜びに、我を忘れてはいけない
人なのだ。常に己を保ち続けないと。

 ご神木の幹に当てた侭の白花ちゃんの右手に、わたしは人の現身の左手を幹から伸ばし
て掴んで、その心を揺り戻させようと。瞬間、吸い上げられる封じの力の流れを逆転させ
る。

 無茶苦茶だ。無謀の代償に力を吸い上げられている最中に、再度使い込みを為すなんて。
でもやむを得ない。わたしは全て承知の上で、白花ちゃんの正気を取り戻す方を、優先し
た。この後に倍する取り立ての到来を承知の上で。

 虚像世界でもわたしは苦しんでいられない。立ち上がって、ご神木に流れ行こうとする
封じの力を統御して、わたしに引き寄せ。服を纏うのも傷を治すのも後回しだ。とにかく
今、目の前で為さねばならない事だけに力を注ぐ。

 ご神木の中から伸ばす形で左手だけを、白花ちゃんの右手に寄り添わせる形で触れさせ。
でもそれも、日中には余りに無謀な行いで…。

 白花ちゃんの右手に触れ、その感触に気付いてくれたかと思えた瞬間、最早時間切れが、

【きゃっ!】

 ビシッと言う何かが弾ける音共に、わたしの漸く作り上げた左手の幻が、日の光を受け
て霧散する。十秒、保たなかった。昼の光とはここ迄苛烈で厳しいのか。白花ちゃんが白
花ちゃんの意識を取り戻したのは、その直後、

「ゆーねぇ、大丈夫かっ?」

 わたしが触れた事もそうだけど、むしろわたしの悲鳴に白花ちゃんは己を取り戻せたら
しい。虚像世界でも左手首から先を失って修復もできず顔を歪めているわたしを見下ろし、

【正気を、戻してくれた?】

 わたしの問いかけに、短く頷いて、

「その、ごめん。突然だったから、驚いて」

 まだ瞳は驚きに見開かれた侭だけど、取りあえず白花ちゃんは戻ってきた。ここで主の
分霊に出られた時には、手の打ちようがない。きっと分霊もわたしの醜態に驚いたのだろ
う。千数百年封じられても、竹林の姫は決してそんな事はしなかったから、この様は初見
の筈。

 取りあえず良かった。わたしは胸をなで下ろし、尚身動きできない様子の白花ちゃんに、

【お願い、感応を抑えて。出力を、下げて】

 無秩序に力が行き交って、見たい像も見たくない像も洪水の様に、互いを荒れ狂うのは、
どちらにも良くない。心を通わせ合う感応だけに、互いの心を整理し鎮めて、行わないと。

 もうこの様は見られてしまった。
 もうこの姿は知られてしまった。

 それはやむを得ない。いつかは知られる事だったのかも知れない。サクヤさんと違って、
贄の血の持ち主は、特に感応に優れた者や血の濃い者は、触れればその侭感応してしまう。
桂ちゃんも、わたしのこの姿を知る日が来る。

 微かにその事に、忸怩たる想いがあるけど。
 できれば見ないでと、呟く自身がいるけど。

 この上尚羞恥を憶える自分に、情けなさを感じたけど。全てを捧げて悔いがないなんて、
言っておいて。尚己の中で、綺麗なお姉さんだったあの頃を取っておきたい雑念が、欲が。

「ごめん、ゆーねぇ。見てはいけない物を」

 わたしが失った手首に痛みを感じて顔を歪める様に、白花ちゃんが悲しそうな目をする。
それにわたしは、いいえと首を左右に振って、

【感応は止めないで。手を離したら、わたしの声も届かなくなる。わたしは、良いから】

「でも、ゆーねぇ。その……」

【大丈夫。わたしはもう、大丈夫だから…】

 あなたに見られる事を嫌がったのは、わたしの私的な想い。小さな拘り。でも、今のわ
たしには、あなたにも、そんな事に拘ってはいられない、切迫した大事な事があった筈よ。

 わたしはそれを、あなたと今会う事で教えて貰えた。あなたに見つめられる事で分った。

【あなたが悪い訳ではないの、白花ちゃん。わたしの覚悟が足りなかったから。こうなる
事は、少し考えれば分っていた筈なのにね】

 服を繕えないのも身体の傷を治せないのも、自身の選択の結果だ。これは望んで受けた
定めの末だ。見られて望ましい姿じゃないけど。白花ちゃんの夢を壊す事になってしまう
けど。

 これがわたしの、今の真実。見た侭の事実。

【わたしには、こうする他に途がないの】

 唯少し感応の出力を、レベルを下げて。
 全部を知らせてしまうのは、まだ拙い。

 知られる事、見られる事は、覚悟した。
 でも一度に行うと混乱を招く事もある。

 白花ちゃんに一度に衝撃を与えない為にも、感応で全てを開け放つのはまだ早い。今迄
の主との日々を、封じの要を担ってからの日々を知らせてしまうのは、まだもう少し時間
が。

「ゆーねぇ。僕は、感応は未熟なんだ……」

 出力を落とすとか、レベルを下げるとか、言われても対応する技術がない。言った様に、
今迄の修練は戦闘用で、感応とか関知とかは最低限、惑わされない位にしかできないんだ。
白花ちゃんが、ばつが悪い感じで応えるのに、

【分ったわ。わたしから、操ってみるから】

 今度はわたしは、白花ちゃんがご神木に触れた右手の内側から自身の想いを進入させる。
日の光に遮られないので、白花ちゃんはわたしの近い血縁なので、何より白花ちゃんが受
け容れてくれる体勢なので、浸透は速やかだ。

「ん……ん……、何か、こう、むず痒い…」

【ごめんなさい。もう少しだから我慢して】

 身体の中に入り込んで、配線をいじる感覚に近い。筋肉の奥の骨との接点辺りで、わた
しは白花ちゃんの感応の力の制御を操作して。

 遠い昔、白花ちゃんと桂ちゃんに文字の読み書きを教えた時を想い出す。あの時はまだ
肉があったから、その利き腕を上から握って操り、感応を二人には分らない位低く落しつ
つ併用して、感覚を流し込んで憶えて貰った。

 二人とも憶えが早く賢くて、これ以上ない位可愛かった。目を輝かせ、新しい何かを憶
える事を楽しんでいた。白花ちゃんもあの時を想い出しているだろうか。暖かな記憶を…。

【はい。取りあえず終り】

 わたしもオハシラ様に感応した時に、力の使い方で示唆を受けた。その感触を試したり
活かして、別の使い方や効果に驚いた。オハシラ様には先人の体験が感応の経験と共に蓄
積されている。わたしはその蓄積から白花ちゃんに、感応の力の制御、強さの段階や集中
と分散、識別や深浅、範囲の広げ方や繋りの捉え方を一部、植え付けられるだけ馴染ませ。

【千羽では、本当に戦闘に直接使う一部に特化して修行しただけなのね。その他にも間接
的に、戦いに役に立てる事は沢山あるのに】

 贄の血の力が、戦闘向けに役立つと見なされてない事は、良い事なのかも知れないけど。

 わたしがそう言うと白花ちゃんは苦笑して、

「千羽は鬼切部。贄の血の血筋じゃないから。
 それなりに感応や関知の力を持つ者もいるけど、実戦主体の千羽ではそれらの力だけで
は扱いが軽いんだ。明良さんは例外で、僕の血に眠る力を評価してくれた方だったけど」

【そう、それはきっと……。ううん】

 わたしは、白花ちゃんの言葉に導かれる様に、過去の回想に入りかける己を押し止めて、

【どう? やれそう?】

 今に話を戻す。白花ちゃんも即応して、

「あ、うん。できそうだ。こんな感じで、抑えるのかな。開けっ放しのここを、扉で…」

【そう。そこを全部ゲートで閉じてしまうのではなくて、半開きで固定する感じ。そう】

 二人で肩を並べて作業する。白花ちゃんは贄の血が特別に濃くて、優しくて強くて賢い
子だ。コツさえ覚えればすぐに使いこなせる。千羽で精神修養等も基礎は一通りできてい
る。技術を憶えれば使いこなす基盤は整っていた。

「ありがとう。新しい感覚を、憶えたよ」

【どういたしまして。これで白花ちゃんもわたしとノゾミ達の呼びかけを、識別して対応
できる筈よ。白花ちゃんから呼びかけたい場合も、呼びかけたい人だけに、ね】

 これ迄の間に流入した部分はやむを得ないけど。それは白花ちゃんの中で消化して貰う
しかないけど。今後の流出はブロックできた。そして白花ちゃんも、全てを開け放たず、
見せたくない心は見せない為の選択肢を持った。

 結局の処、わたしの裸身は白花ちゃんの印象に強すぎた様で、続くその他の像を受け付
ける余裕を失わせたらしい。続く像の中には、わたしの十年余のご神木の中での、主との
日々もあった。それらもいつかは知られる事になるだろうけど、見られず終らせようと言
うのは虫の良い考えだろうけど、今はまだ拙い。

 今は見られないで良かった。わたしの羞恥はもう良いけど、白花ちゃんの心の痛みが…。

【わたしの所為で、混乱させてごめんなさい。
 折角わたしを想ってここ迄来てくれたのに。
 危険を冒し、全てを抛ってきてくれたのに。
 わたしは、その心に応えられる様な者じゃない。見て分ったでしょう? わたしは今は
唯の鬼。この様にして、白花ちゃんに応える間も理性が危うい、執着だけで生きる鬼…】

 だから苦しんで迄して助ける必要はない。
 だから危険を冒して尚助ける必要はない。

 だからわたし等捨て置いて幸せに生きて。
 そう告げるわたしに白花ちゃんは静かに、

【鬼でも、良いんだ。ゆーねぇなら鬼でも】

 世界で一番、綺麗な鬼だよ、きっと……。

 白花ちゃんは言葉にせず、想いだけを伝え、

【ゆーねぇがゆーねぇであるなら、鬼でも人でも僕は構わない。大体今は僕も鬼なんだよ。
主の分霊を内に宿し、父さんを始めとする多くの生命を殺めてきた、僕こそ鬼に相応しい。
 鬼が鬼を助けるなら、構わないだろう?】

 自嘲気味な苦い笑いは、白花ちゃんには似合わない。白花ちゃんはもっと明朗闊達に…。

【ゆーねぇは今でも美しい。本当に、僕が幼い頃から憧れた侭のゆーねぇだ。痛みや苦し
みに泣きそうでも我慢して、涙を流しても逃げ出さない。そんな感じで僕や桂を、守って
くれたね。常にその時に叶う限りの全力で】

 その姿も、その痛手も、その酷い状態も、ゆーねぇが誰かを守ろうとした、その結果な
んだって、僕には分るよ。決して、醜くない。僕の中の美しかったゆーねぇは、今も更新
されて美しい侭だ。僕の、一番たいせつな人だ。

 白花ちゃんは暖かな視線でわたしを見つめ、

【これからは、僕が守るから。
 これからは、僕が助けるから。
 これからは、僕が力になるから。
 これから、その涙を嬉し涙に変えるから】

 だから、だから、だから。

【本当に、遅くなってごめん】

 僕が痛みを受けるから。今迄の分も纏めて、これからの分は勿論、今抱えている痛みも
全部、これから僕が引き受けるから。何もかも、何もかもこの身で全部受け止めるから!

【白花ちゃん……】

 返される想いを期待しなかったのは、実は悪い事だったろうか。相手の意を介せずに己
の想いだけを注ぐのは、実は相手の軽視だったろうか。返す想いを持つ相手に返される事
を期待しない事は、失礼に当たっただろうか。

 返された想いに、返ってきた想いに、わたしは受け止める術を知らなくて、まごついて、

【こんなになったわたしを、美しいって…】

 両親と妹の、家族全員の死を招いた禍の子のわたしを、尚守ってくれると。あの夜の惨
劇を防ぎ止める事もできなかった役立たずのわたしを尚助けてくれると。それで残された
桂ちゃんを守る力に不足し、僅かな力の代償に悶え苦しむわたしの、力になってくれると。
わたしの受けるべき痛みを代りに受けてくれると迄。流しているこの涙は、既に嬉し涙だ。

 何もできなかったのに。サクヤさんの一番たいせつなオハシラ様を守る事も。桂ちゃん
と白花ちゃんの大切なお母さん、真弓さんを癒す事も。昨晩桂ちゃんが無事を保てたのも、
わたしの力ではない。わたしは何も為せてない。なのに世界はわたしを慈しんでくれる。
愛すべき人を遣わしてくれる。返す想いも力も足りないわたしに返しきれない想いと力を。

【もう少し、もう少し待っていて。あと少し、やらなきゃならない事があるんだ。片づけ
なきゃならない、十年前の後始末が】

 その後で主を切り倒しに来るから。鬼切りで、明良さんに教わったこの業で、十年前か
ら始った全ての悲劇を終らせるから。ゆーねぇを助け出して、絶対幸せになって貰うから。

 嬉しい。想ってくれるその強い心が、この上なく嬉しい。忘れずに、ずっと抱き続けて
くれる事が、こんなに心の力に、なるなんて。

 でも。わたしはその幸せを満身に感じつつ、

【主の封じは、解きません】

 その心以上は絶対に受け取らない。そこは、わたしが望んで引き受けた、譲る事のでき
ない一つだから。決して解き放ってはいけない、絶対の不幸を招く相手だから。わたしの
中に胎児の如く包み込んで、留めるべき者だから。

 白花ちゃんの顔が微かに、哀しみに歪んだ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしが白花ちゃんの説諭に応じず、頑として主を放さないと、答え続けて暫く経った。
互いに互いを大切に想い合う故の説諭と拒絶の応酬なので、その意地の張り合いは、傍目
に見れば、兄弟喧嘩か痴話喧嘩に見えたかも。

 お母さん曰く『羽藤(はとう)の血には頑固の血も流れているの。言い出したら聞かな
いって言うのは、私の母さんも正樹も本当』と言っていたけど、その血はわたしのみなら
ず、白花ちゃんにも連綿と流れているらしい。

「もう止めてくれ。そこ迄痛い想いや苦しい想いをして、誰かに尽くす必要はないっ!」

 白花ちゃんはご神木に右手を当てた侭で、

「ゆーねぇが自分の為に哀しむ姿を僕は見た事がない。自分の為に苦しむ姿も、自分の所
為で傷つく姿も、見た事が。僕が見たゆーねぇの涙は、全部自分以外の誰かの為だった。
一度もゆーねぇ自身の涙だった事がない!」

 白花ちゃんは、ご神木に問いつめる様に、

「僕はゆーねぇに、いつも笑っていて欲しかった。それを分ってゆーねぇは、いつも哀し
みや苦しみを隠し、暖かい笑みばかり見せて、影で一人で泣いていた。それに気付いて僕
は、愕然とした。僕の願いの為にゆーねぇは人前で泣く事もできなくなったんだって。僕
が心配する事が負担になったんだって。僕はゆーねぇに隠れて泣いて欲しかったんじゃな
い!

 僕はゆーねぇに痛みや苦しみを堪えて微笑み掛けて欲しかったんじゃない。どこかで一
人声を忍んで泣いて、僕や桂の前でだけ微笑んで欲しかったんじゃない。心の底から、幸
せに満面の笑みを見せて貰いたかったんだ」

 その綺麗な顔に、満開の槐の花の笑みを。

「そして、泣きたい時には僕の前で、僕のこの胸で泣いて欲しいって。その為に早く大き
くなりたかった。その為に生きて早く大人になりたかった。ゆーねぇを迎える為に、ゆー
ねぇを包み込む為に、ゆーねぇを守る為に」

 ゆーねぇが喜んでくれたから、あの夜迄僕は桂のお兄さんを頑張り続けた。ゆーねぇの
為だから、僕は泣かない強い子を目指して頑張った。鬼切部の修行にも、耐えられたんだ。

 僕は追われる身になったから、鬼を宿したから、もうゆーねぇを最期迄幸せに導いてあ
げられなくなったけど。もう迎える事も、包み込む事も、愛する事もできなくなったけど。

 でも、守る事ならできる。この槐から解き放つなら、主を切ってゆーねぇに人の幸せを
掴める基盤を戻す位なら、僕の生命を注げば。ゆーねぇが捧げてくれた日々のお返しは、
僕のこれからの全ての日々で。この魂の全部で。

「先の長くないこの生命を全部捧げるから」

 これ以上人を気遣わなくて良いんだ。これ以上自分以外の誰かの為とか、考えなくても。
僕が代りに全部負うから。僕がこの生命を注いで主を切り倒して、解き放つから。だから。

 もう自身の幸せだけを考えて生きてくれ!

「もう良いだろう。もうここ迄尽くしたら充分じゃないか。僕は、僕はそんな顔をして傷
を負って迄して、守られたいと思わない!」

 主を解き放ってくれ。封じを解いてくれ。
 僕が、奴を斬れる場を整えるだけで良い。

「ゆーねぇを二度と苦しませない。
 ゆーねぇを二度と哀しませない。
 この僕が、僕が全部引き受けるから」

【白花ちゃん……有り難う……嬉しい】

 白花ちゃんの語りかけは、わたしの心に強く届くけどわたしの意思を揺るがせはしない。
わたしを強く想う心に涙が溢れ出そうだけど、それとこれは話が別だ。この封じは解かな
い。

 わたしは、白花ちゃんが守ってと願ったから守っている訳じゃない。白花ちゃんが守り
は不要と言っても、それを止める積りもない。わたしが守りたいから、守っているだけな
の。

 求めに応え守るのでなく、沸き出ずる想いに従い守りを為す。わたしは封じを解かない。
白花ちゃんの言葉でも、白花ちゃんの為にならないならわたしは従わない。報酬も代償も、
返す想いも求めないとは、そう言う事。無条件の行いは守られる者の意図も受け付けない。
わたしが、たいせつな人を守りたかっただけ。

【白花ちゃんは、白花ちゃんの人生を、残された生命を人として、生き抜いて頂戴……】

 人として。悔いを抱いても、傷を負っても。もうわたしは共にいてあげられはしないけ
ど、ここに来てくれれば、できるだけの事はしてあげられる。あなたの為ならわたしの全
てを。

 白花ちゃんが、最期迄白花ちゃんとして生きてくれる事がわたしの望み。わたしの願い。

 わたしは衣を再生できない侭、傷の治癒もできない侭、取りあえず意思を確かに持って、
虚像世界でふらつく足で立ち上がって、見下ろしてくる白花ちゃんの目線を見つめ返して、

【主は解き放てない。主は誰にも制し得ない。歴代の鬼切部も誰も主を切れる力を持たな
いから、この封じに任せる他に術がなかった】

 真弓さんも明良さんも絶対に勝てないと判断した鬼を、白花ちゃんは斬れるというの?

 わたしの問いかけに白花ちゃんは、

「二人は、贄の血を持ってない……」

 白花ちゃんには白花ちゃんなりの成算がある様だ。一言で、わたしは事情を呑み込めた。

 贄の血の力を修練すれば、鬼を灼く事や弾く事ができる。他人の意識を乗っ取った鬼や、
人の内面が肥大化した鬼なら、内に潜む鬼の心だけを灼き、肉体を傷つけない事も出来た。

 わたしの両親や妹を死に追いやった鬼も、生命を絶ったのは真弓さんだったけど、その
絶命の前にわたしが贄の血の力で、鬼の面を灼く事で人に戻せた。贄の血の蒼い力は鬼の
赤い力と対になるらしい。白花ちゃんは修得した鬼切部の業の他に、贄の血をも濃く宿す。

 鬼切りの業に贄の血の力を通わせ鬼を斬る。濃い贄の血が生む力は膨大で、鬼切りの業
を飛躍的に強化する。主以外ならどんな鬼でも一撃で沈め得る程に。ああ、だけど主だけ
は。

「主は千年以上食を得てない。魂が還されて弱っている以上に、飢えで力を出せない筈だ。
その初撃に、主の一番欲しい贄の血の力を込めた必殺の一撃をくれてやる」

【白花ちゃん。主を甘く見ないで】

 主は千年の封じでも、殆ど力が衰えてない。何も食してなくても飢えに苦しむ様子もな
い。戦いの勘が落ちている様子にも見えなかった。この十年余はオハシラ様の交代等で何
かと騒がしく、主も外に出られる『風』を感じる日々だった。不意をつける状況ではない。
主は待ち構えている。主はいつでも全力で戦える。

「鬼切りの腕で言えば、漸く奥義を修得した程度で、明良さんや母さんにはまだ及ばない
けど、鬼に対する戦力で言えば、贄の血の力を併用できる僕は、当代で最強の筈なんだ」

 僕なら、主に勝てる。逆に僕以外に主に勝てる者はいない。千羽でも、渡辺党でも、鬼
切りの力しか持たない者では主には勝てない。だから、僕が動ける内に、僕が己を保って
戦える間に、主と決着をつけなければならない。

【白花ちゃんが、白花ちゃんでいられる間】

 主の分霊は恒常的に白花ちゃんの身体と魂に、生命に負担を強いている。元々二つの魂
が一つの生命に同居する事自体が無理なのだ。分霊は健康とか後の事とか考えない。乗り
潰すだけ乗り潰して後を考える位の感触でいる。

 白花ちゃんは既に生命の前借りを何度となくして、酷い時には一日に何回も前借りを繰
り返して生気を補充し、裏返ろうとする主の分霊を抑えてきた。その負荷は確実に身を蝕
んでいる。内臓も血管も、千羽で憶えた自己保全や修復の力を越えて破壊され、まともに
食事で栄養を取れない状態になりつつあった。それで尚戦う力は残せているけど。尚鬼切
りの業を揮える力を残せている事は驚愕だけど。

 強靱な意志の力で、未来から呼びつけた生気の前借りで、贄の血と千羽の修行で何とか
抑えてきたけど、もう限界に近い。白花ちゃんは分霊を抑え続けた代償に、短い生命を更
に縮めていた。もう、余命幾ばくもない迄に。

 その若々しく爽やかな姿からは想像もできないけど、もう白花ちゃんには前借りできる
生気が未来に殆ど残ってない。白花ちゃんの寿命は、全てが主の分霊に喰われた様な物だ。

「ゆーねぇなら、もう分っているんだろう。
 僕が、もう余り長くないって事位。この先鬼切部に追われつつこの世界をどの様に彷徨
い歩いたとしても、内に宿した分霊からは逃れられない。この先望みもなく唯人として生
き延びても、年と保たずにこの生命は尽きる。
 ここに戻れるかどうかも分らない。それに、僕の生命が尽きた後で、分霊がどうなるか
も。僕と一緒に死んでくれるのか、僕の骸を使って動き回るのか、別の誰かに乗り移るの
か」

 いずれにせよ、僕にはもう後がないんだ。

【わたしの、贄の血の力で、オハシラ様の力で鬼を、主の分霊を灼いてあげられれば…】

 それは不可能ではなかった。ご神木の力が充分に満たされていれば、ハシラの継ぎ手が
しっかり力に満ちていればの、話だったけど。

【今のわたしでは、それもできない。それ以上に、今夜も出なければならないわたしに、
明日以降だってその力は満たせそうにない】

 白花ちゃんを救う為に全力を尽くせば、桂ちゃんを救えない。桂ちゃんを救いに出れば、
白花ちゃんを救える力が残らない。しかもそのどっちに行っても、わたしの力は尚不足で。

「こんな大きな分霊を消した事は、千年の間にもないんだろう。ゆーねぇが消えてしまう。
僕は、自分が助かる為にゆーねぇに消えてしまわれたら、今度こそ自分を絶対許せない」

 今のわたしでなくても、封じの要として順調に職責を果せている状態のわたしでも、白
花ちゃんに宿った分霊を灼き尽くすのは至難の業だった。それ程にこの分霊は大きく強い。
わたしが想いの力を全て注ぎ込み、わたし自身を為す力を注ぎ込んで、わたしが消える事
と引き替えにして尚、焼き尽くせるかどうか。

 わたしの消滅は、ハシラの継ぎ手の消失は、ご神木の内の主本体を甦らせる。今のわた
しでは、自分が消失するだけで終りかねない…。

『おかあさん、おとうさん、助けて、痛いよ。
 ゆーねぇ、鬼が、鬼がぼくの中にいるの』

 幼い日の白花ちゃんの声が心の奥に甦る。
 いたいよ、いたいよ。苦しいよ、助けて。

『とって。はくかの頭の中の、鬼を取って』

 取ってあげられなかった。取りに行けなかった。ここを離れられなかった。主の封じを
空ける事はできなかった。白花ちゃんと桂ちゃんの日々の基盤を保つには。鬼だった。わ
たしはまさしく、鬼以外の何物でもなかった。

 あんなに必死に助けを求める白花ちゃんは、初めてだった。いつも桂ちゃんを気遣った
り、大人の事情を推察したり、自分の望みを後回しにしてきた白花ちゃんが、生れて始め
て何より優先に、必死に助けを求めたのに。わたしに救いを求めてくれたのに。その唯一
の時に、わたしは動いてあげられなかった。守る事も助ける事も、役に立つ事もできなか
った。

 そして今日この時に至っても尚役に立てず、

【……白花ちゃん。ごめんなさい……!】

 今は目の前にいるのに。今は心通わせ合えるのに。それでも助けてあげられない。鬼だ。
わたし程に酷い鬼が、他にどこにいるだろう。

 溢れ出そうな涙を堪える。白花ちゃんの前で涙を流す事はしない、絶対に。本当に苦し
んでいる人の前で、それに何もできない程度で涙を流す非礼は許さない。わたしは白花ち
ゃんも助けるのだ。絶対に、何があろうとも、今は想いだけでしかなくなったあやふやな
この身が、引き替えに消滅する事があろうとも。

 今これから助けなければならない人の前で、泣く等という贅沢は己に許さない。それは
選択が全て終った後に為すべき事だ。何もできなくなった事を受け容れた後で為すべき事
だ。

 わたしにはまだ為せる事がある。僅かでも為せる力がある。これを使い切る事で、選択
し使い切り終えて初めて泣く事を己に許そう。

【今はあなたの鬼を、灼いてあげられない】

 優先は桂ちゃんだ。桂ちゃんは今日明日に生命を絶たれようとしている。その危機をま
ず回避しないと。順番を間違えてはいけない。間違えれば、助かる物も助からなくなる…
…。

【何もしてあげられないで、ごめんなさい】

 終ったら、終ったら必ず何とかするから。

 白花ちゃんを桂ちゃんと関らせるのは拙い。桂ちゃんは千羽さんと行動が絡み合ってい
る。その千羽さんは恐らく白花ちゃんを追ってここに来た。鬼切部の追っ手と見て間違い
ない。せめて明良さんだったら、わたしが仲介も…。

「ゆーねぇが謝る事は何もない。悪いのは、分霊と主なんだ。どんな経過を経たにせよ、
僕はこうしてここに戻ってきた。父さんも母さんも失ってしまったけど。今は今できる事
だけに集中しよう。後悔は、後でもできる」

 僕は今できる事をできずに、後悔の種を増やす事だけはしたくない。僕なら主を斬れる。

 主を、解き放ってくれ。

 白花ちゃんが改めての求めに、わたしは改めて首を左右に振って拒む。わたしは静かに、

【なら、贄の血の力の使い手として言わせて。
 あなた程度の力では、主に勝てない。あなたは濃い贄の血を宿しているけど、血に眠る
力を使い切れてない。とても全部使いこなしたとは言えない。確かに鬼に対する戦力では、
明良さんや真弓叔母さんを多少越えるかも知れないけど、その程度では主に勝てないわ】

 心を鬼にして、白花ちゃんの希望を砕く。

 白花ちゃんは贄の血の力の扱いでは初歩だ。鬼切りの業を増強する効果にしても、もう
少し贄の血の力を修練すれば、倍増で済まない強化が可能なのに。実戦と言うより剣撃主
体の千羽では、白花ちゃんは贄の血の力は独習だったのだろう。これだけ濃い贄の血を持
っていて尚、及ぼせる効果の範囲も深さも強度も持続時間も、わたしより遙かに劣ってい
る。

 わたしの贄の血の力も、主には全く通用しなかった。主は回避も忍耐も不要で、唯平然
といるだけで、肌の上からそれを受け付けず、弾いていた。どう叩き付けても通じなかっ
た。

 わたしは肉を失った故進歩は停止したけど、白花ちゃんはまだ先へ行ける。役行者の領
域も、白花ちゃんならそう難しくはないだろう。そうなって初めて微かな可能性が見える
程か。

【勝てない戦いに挑むのはばかよ。それより、今は白花ちゃんの中の分霊を、何とか…
…】

【それじゃ、ゆーねぇはどうなる。ご神木に囚われ、主に捧げられて、身動きもできない。
青春も人生も、ゆーねぇにだってあった筈なのに。今も、これからも、ある筈なのに!】

【『わたし』は一番に大切な問題じゃない】

 わたしに一番たいせつな人は、白花ちゃん、あなたと桂ちゃんなの。その幸せの為にな
ら。

 わたしの言葉を中途で白花ちゃんは遮って、

「僕にとって一番大切なのはゆーねぇなんだ。
 今の僕にとって大切な物はそれ以外にない。

 その先は言わないで。頼むから言わないで。
 いつもそうやって、身を投げ出してくれた。
 いつもそうして笑って痛みを耐えてくれた。

 でももう良い。もう充分だ。僕はもう子供の白花じゃない。いつ迄も守られてばかりの
子供じゃない。僕もゆーねぇの為に尽くしたいんだ。尽くされ、捧げられ、犠牲になって。

 もう充分だよ。これ以上はもう良いから!
 僕をこれ以上、哀しませないで……」

 涙だけは決して見せず、でもその声はどんな号泣より痛々しくて。わたしに守られる事
が、白花ちゃんの負担になっている。わたしに尽くされる事が、白花ちゃんの罪悪感を生
んでいる。わたしの助けが白花ちゃんを苦しめている。それでも主の封じは解き放てない。

 わたしも掛ける言葉を失って、暫くは2人風の靡きにに身を任せ、時の流れに身を任せ。

 もうすぐ日が、中点に昇る。天は幾つかの綿雲が散る他は、突き抜ける様な青空だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 それは、誰の導きによる物だったのだろう。
 運命は一体何を考えてこの日の巡り合せを。

 十年ぶりに白花ちゃんが訪れたその時に桂ちゃんもこの場に来るなんて。桂ちゃんは記
憶を失っている。失っているから分る筈もないけど、分る筈もないのにここに来るなんて。

 あの時にここで別れ別れになった者が揃う。正樹さんと真弓さんは居ないけど、もう二
度と揃う事はできないけど、残った者はここに。あの夜雨の中、涙と哀しみで引き裂かれ
た筈の絆が、再びここに。赤い糸が尚繋っている。

 あの時の如く、槐のご神木は天に向けて枝を伸ばし、小さな白い花を沢山咲かせている。
微かに吹き抜ける風、蒼く澄み渡った空、燦々と照りつける日光。比すれば小さな人の姿。

「……あれ?」

 風は、桂ちゃんからわたし達に向けて吹く。

 白花ちゃんが、彼女の登場に気付いて顔を上げた。わたしの幹から手を離し、桂ちゃん
を桂ちゃんと知らぬ侭に向き合って。柔らかそうな、少し長めの髪が風になぶられて、枝
を離れたわたしの花びらと一緒に、流れ行く。

 わたしの伝達は一瞬遅く、伝わらなかった。

「……あれ?」

 桂ちゃんが再度同じ呟きを漏らした。でも、その意味は少し違う。さっきは存在に気付
いただけ。今回はその人に見覚えがあった為だ。何か想い出そうとする様に眺める桂ちゃ
んに、

「僕の顔が、どうかしたのかい?」
「あ。えっと、その……」

 白花ちゃんは、桂ちゃんが即答できずにしどろもどろになるのを見て、もう少し話しか
ける事で場を解す気だ。部外者には早く退出頂きたい姿勢だろうけど、それをそうと出さ
ない辺りが、正樹さん譲りの温順さだろうか。

「人の事は言えないんだけど、こんな処に人が来るなんて珍しいからね」

 もしかして、道にでも迷った?

「いえ、そういう訳じゃ……」

 桂ちゃんの顔には、何と応えて良いか分らないと書いてある。ノゾミ達の赤い夢の為に、
朧ろながらここを思い出したのか。関知の力も不要で、わたしは桂ちゃんの表情の動きを
見れば、考えている事の大体が読めてしまう。

「えっと、地元の方ですか?」

 答に詰まると問を発するのは良くある話だ。白花ちゃんはそれを知りつつも知らぬふり
で、

「そう。いや、昔はこっちに住んでいたんだけど、今は違う。そういう事を尋く君は?」
「わたしも余所から」

 桂ちゃんにはここに住んでいた記憶がない。

「なるほど。それじゃ知っているかな? もうすぐ、この土地のお祭りがあるんだけど」

「あ、はい、泊っている旅館の女将さんに」
「僕はその関係で、ちょっとね」

 その答に、桂ちゃんが考え込む顔を見せた。

「あのー、つかぬ事をお尋ねしますけど、千羽烏月さんをご存じですか?」

 桂ちゃんには、地雷を踏む才能がある様だ。
 白花ちゃんも流石に即答できなかった様で、

「千羽……」

 白花ちゃんの反応に迷う顔に、桂ちゃんはそれが地雷原だった事を後付で知ったらしい。
拙いという表情も顔に出ているわ、桂ちゃん。

「ううっ……」
「……どうしたんだい?」

「今の質問、忘れて貰えませんでしょうか」

 桂ちゃんらしい依頼だった。

「そう言われて忘れるのは難しいかな。今ので余計に印象深くなったし」

 白花ちゃんの答は正直と言うより、桂ちゃんのくるくる変る表情を楽しみたい為か。人
の表情を見るよりも自身の思索に耽りがちな桂ちゃんは白花ちゃんの微笑みにも気付かず、

「ですよね……」
「フリで良いならできるけど?」

 助け船を出して反応を窺うと、

「ううっ、やっぱり良いです……」

「良いんだ?」「はい……」

 気拙い沈黙に囚われた桂ちゃんに、わたしは白い花びらを揺らせて、微かに風を送り出
す。向い風なので多少力を使うけど、今はご神木に力を抜き取られつつある最中だけど。
それでも、少し位の無理はやってしまう。

 こんなに近くに来てくれるのは、もう二度とないだろうから。羽様の屋敷に来てくれた。
ご神木迄来てくれた。緑のアーチをくぐってもくれた。みんな、みんな、待っていたのよ。

 最終ページを糊付けして開けなくしたかぐや姫の絵本も。真弓叔母さんに憧れた桂ちゃ
んの為に画用紙で作った模造の刀も。蛍を見に行こうと約束して新調した子供用の浴衣も。

 もう来ないかも知れないと、思いながら。
 いつの日か来てくれるかもと想いながら。

 想い出さなくても良い、忘れ去っても良い、元気な姿を一度で良いから、見せて欲しい
と。それさえ期待しないと、必須ではないと、定めを受け容れたわたしだけど。望めるな
らと。望んで良い物ならばと。ああ、長かった……。

「ところで、さっきの質問なんだけどね」

 白花ちゃんは桂ちゃんの様子を窺いながら、

「あ、はい」
「君の方こそ、その千羽烏月さんとどう言った関係なのか、良ければ教えてくれるかな」

「わたし……ですか?」
「名前を出して来る位だから、全く無関係って事はないよね」

「その、関係って言っても、泊った旅館が偶々一緒だったってだけですから……」

 偶々? 白花ちゃんが、首を傾げるのに、

「ほら、ここってあんまり泊れる処がないじゃないですか。それに、わたし達位の年頃の
人もいませんし……」

「それじゃ君は千羽党の人間ではない訳だ」

『千羽は良いとして、党って何だろう。時代劇に出てくる盗賊団とかじゃ、あるまいし』

 本当に桂ちゃんは考えている事が分り易い。わたしも真弓さんや笑子おばあさんに喜怒
哀楽を見透かされたけど、桂ちゃんはそれ以上だ。白花ちゃんもそう察する事ができた様
で、

「ああ、千羽は地名でもあってね。何しろ土地に住んでいる人の殆どが、千羽の姓を名乗
っている位だし。かくいう僕も親戚繋りでね。一口で言える程に近くないんだけど、彼女
とは遠縁に当たるんだ」

「えっと……つまりはあなたも千羽さん?」
「ははは、僕はケイだよ」

 白花ちゃんは、桂ちゃんの名前を名乗った。

 いや、確か白花という名は元々女の子用に考えた名前で、桂という名が男の子の名前で、
真弓さんが出生届を出し間違えて、女の子が桂ちゃんで、男の子が白花ちゃんになったと。

 元々自身の為の名前だから?
 白花は鬼になって斬られて、いないから?

 わたしが鬼になって、柚明からユメイに己のあり方を変えた様に。変えなければこの身
に定めを受け容れられなかった様に。白花ちゃんも、今は白花ではなく、ケイなのだと?

 笑って名乗れる強さの影に、その強さを必要とする程の、なくしては耐えられない程の
哀しみと痛みが感じ取れた。それを乗り越えて、踏み越えて尚、彼はケイとして生きると。
その最期の望みだけの為に、自身の幸せの為ではなく、わたしなんかの為に。

 でも、何がどう変わろうと、鬼が住もうと鬼となろうと、わたしにとって白花ちゃんは
白花ちゃんだ。わたしにとっては、いつ迄も。

「うん? そんなに変な名前かな?」
「いえ、わたしも桂なんで」

「……それはまた」

 彼が微かに困惑の表情を浮べたのは、妹の桂ちゃんを思いだした故か。目の前にいる女
の子がまさかその妹だとは、気付きもせずに。

「奇遇ですねぇ。羽藤桂です」

 桂ちゃんは、あははと笑ってお辞儀をする。
 それこそが、彼には正に青天の霹靂だった。

 あと一秒ご神木に手を長くついていれば、前もって伝えられたのに。動揺を隠せずに、

「ハトウ……ケイ……?」

 オウム返ししに呟いてしまうその前で、

「はい、全国的に山田さんを圧倒して多数を占める、佐藤さんの『佐』の字を、千羽さん
の『羽』の字とお揃いにして、羽藤です。
 桂は将棋の桂馬の桂……ってあれ? どうかしました?」

「いや、別に……」

 背中を通じ、漸く憶えたばかりの感応の力を目一杯発動させて、わたしに確認を求める。
でも、日中の感応は接触しないとわたしの答を伝えようがない。それに気付くのに暫く掛
かる辺りが、その動揺の大きさを表している。

 わたしは、再度少しの緊張を含んだ空気を解きほぐす為に、槐の花の甘い香りを含んだ
風を二人の間に吹かせる。風に任せて、花びらも二つ三つ、飛ばして落とし。

「わ、紋白蝶みたい……」

 桂ちゃんが話題を変えたのに、

「槐の花びらは良く蝶の形に例えられるね」
「エンジュ?」

「鬼の木と書いて槐。この木の名前だよ」

 白花ちゃんがわたしを紹介したのは、桂ちゃんに何か思いだして欲しいとの願いなのか。
或いは、わたしも話の輪に入れているというわたしへの気遣いなのか。

「鬼の……こんなに綺麗な木なのに?」
「こんなに綺麗な木、だからだろうね」

 紹介されてお辞儀をする感じで、何枚か更に花びらを落とす。桂ちゃん、お久しぶり。
いえ、ご神木としては、初めまして、かな…。

「揚羽蝶、今で言う華やかな紋の蝶だけでなく、羽を立てる蝶をみんなそう呼んでいたら
しいけど、揚羽蝶は鬼車という別名があってね。それらが魂の乗り物と言われているから
なんだろうね。中国では鬼という字は『キ』と呼んで死者の魂の事を指しているんだ」

「鬼の木。死者の魂の木。
 魂を運ぶ、蝶の形をした白い花……」

 ひらひらと、花びらの蝶が舞っていた。
 桂ちゃんは荘子の胡蝶之夢を連想した様だ。

『蝶になった夢を見た。
 私は私である事を忘れて飛んだ。
 しかし目覚めれば私は私だった。
 私が、蝶になった夢を見たのか。
 蝶が夢を見て、私になったのか』

 それは誰にも分らない事だけど、なぜ蝶の夢なのかは分った様な気がする。

「北の地に住む人達にもね、死んだら蝶になるという伝説がある。彼らは槐を魔よけの木
としていて、死者を弔う墓標としても使っているんだよ」

「魂が迷わずに、蝶に変われる様に?」

「それはどうかな。だけどこのご神木は、君の言う通りの意図をもって植えられた物だよ。
還ろうとしないある魂を、槐の花の形に変えて散らそうとしているんだ」

 そこで桂ちゃんは何かに気付いた様子で、

「あ……。そうか、あの夢……」
「夢?」

「月の光の様に、青白く輝く蝶。
 微かに香る槐の花の甘い香り。

 あの人が現れたのは、あの夢の後。
 誰かに手を引かれた小さいわたしが、この場所へとやってくる、赤い夢を見たその後…。

 わたし、夢を見たんです。
 そうだ、彼女がオハシラ様なんだ……。
 ハシラ様。羽白さま。白い羽の……花びらの蝶が、舞っていた」

「見たのか……。夢を、君は見たんだね?」

 白花ちゃんが険しい視線を見せた。それが自分も一度受けて、暫く心をシャットアウト
する要因になった、ノゾミ達の語りかけだと感じ取ったのだろう。記憶の夢で人を釣る…。

「小さいわたしがここに来た夢を『忘れろ』って。わたしはその頃の事を、憶えてないん
です。だから、あの夢の記憶だけがわたしの昔の記憶なのに、それを忘れろって……。
 ここで、何があったのか。わたしが忘れてしまっている何かが。何か……」

 桂ちゃんが混乱している。想い出してはいけない物を想い出そうと、記憶の淵を覗き込
んでいる。その奥には、泣き叫ぶ幼き日の桂ちゃんがいる。あの夜に深い心の傷を受けて、
もう思い返したくないと心を閉ざした桂ちゃんがいる。手を伸ばしては、いけないのに…。

 混濁する意識に頭が追いつかず、身体が力を失って倒れ込む。今のわたしは、堅い幹と
節くれだった大小の枝だ。わたしは現身を取る力を持たないので、風を吹かせて気付く様
に促す他に術がない。緑の葉も白い花びらも、桂ちゃんの身を支える力にはなれない。涼
やかな風を、正面から送るのが今の精一杯で…。

【桂ちゃん!】

 助けになれないわたしの代りに、桂ちゃんを抱き留めてくれたのは、白花ちゃんだった。

「おっと、……大丈夫かな?」
「あ……有り難うございます。大丈夫です」

「長話が過ぎたかな。日射病かも知れない」
「そんな事は……」

「それなら……余り思い詰めない方が良い」

 白花ちゃんは真剣な眼差しで、

「彼女が忘れろと言ったのなら、それは想い出さなくても良い事なんだ。……忘却は、人
に与えられた恩寵の一つだよ。君はそれを受け容れた方が幸せになれる。今更、藪をつつ
いて蛇を出す事はないんだ。

 忘れている事を、無理に想い出そうとするのは、止した方が良いね。何が出てくるのか、
分った物じゃない。それこそ……」

 鬼が出るか蛇が出るか、果ては両方か。

 白花ちゃんは声にしてないのに、桂ちゃんはそれを聞き取れている。双子同士は近くに
いるだけで自動的に感応を始めるのだろうか。わたしは触れないと自動的に感応なんてで
きなかったけど、二人はわたしを遙かに越えて濃い贄の血を持つ。触れなくても、或いは
…。

「……え?」
「さあ、こんな話はこれ位にしておこうか」

 白花ちゃんは拍手を意識して、これでお開きと両手を一度打ち鳴らして笑った。場の流
れを、鬼の異界に流れ始めた話を、桂ちゃんに深く首を突っ込ませない内に、断ち切った。

「本当に長話をしてしまったね。君はそろそろ山を下りた方が良いよ」
「今から何かあるんですか?」

「山の天気は変り易いからね。特に最近の夕立は、ご神木を押し流してしまおうって位の
勢いがあるから」

「はあ、それは凄いですね」
「道もあんなで危ないし、慣れてない人は余裕を見て行動した方が良いんじゃないかな」

「でも、それは余裕を身過ぎじゃないですか? 夕方迄は時間があるし」
「いやね、ここは一応、神域だから」

 白花ちゃんは桂ちゃんを、最後迄一般人扱いする積りだ。わたしもそれに、異存はない。

「あ……、はいっ、邪魔してすみませんっ」
「邪魔なんて、思ってはいないんだけどね」

「いえ、もう帰ります。
 それじゃケイ君お邪魔しました。それとお祭りの準備、頑張ってくださいね」

 桂ちゃんはぺこりとお辞儀をして、ご神木の近くから退出した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【桂ちゃんは、羽様の屋敷に寄ってきたみたいね……。最初少し冴えない表情だったけど、
記憶の揺り戻しに多少触れてしまったのかも。ここに来たのももしかしたら夢より記憶が
…。
 白花ちゃん、お疲れさま】

「僕はもう、ケイなんだけど……まあ良いや。その代り、ゆーねぇの事もオハシラ様とは
呼ばないからね。ゆーねぇは、僕にはいつ迄経ってもゆーねぇだから。鬼になっても、人
の身を失っても、どんなに変り果てようとも」

 右手を当てて、今度は苦笑気味だった白花ちゃんが語調を変えたのは、桂ちゃんの身に
迫る危機を感じ取れた故か。話の経過からも桂ちゃんがノゾミ達の夢に引っ掛ったと推察
できたし、双子なら片割れの危機は分るのか。

「ゆーねぇが疲弊していた理由が分ったよ」

 白花ちゃんの顔が厳しさを帯びて見えた。

「無理に無理を重ね、桂を守りに出たんだね。ノゾミ達から桂を守る為とはいえ、封じの
要がご神木を外すなんて、なんて無茶を…!」

 ゆーねぇは力を使い果しちゃいけない立場じゃないか。白花ちゃんが正論を述べるのに、

【無茶は承知よ。それも、一度だけじゃない。
 昨夜は千羽さんが来てくれたから、睨み合いだけで戦いにはならずに済んだけど、それ
で諦める二人とは思えない。今夜も、行かなければならないわ。恐らく今夜の二人は、多
少の妨げがあっても退かない。わたしは…】

 その先を呑み込んだのは、消滅を覚悟している段を白花ちゃんに言わなかったのは、白
花ちゃんを関らせたくない為だ。白花ちゃんが手助けしてくれるなら有り難いけど、それ
は千羽さんに彼を差し出す事になる。わたしは千羽さんに、唯の悪鬼としか思われてない。
わたしに白花ちゃんとの絡みは仲介できない。

 そんなわたしの思索を全て承知してなのか、

「僕が行くよ」

 白花ちゃんは短く結論だけを述べた。

「あの二人には、ノゾミとミカゲには僕も十年来の因縁があるんだ。あれに決着をつける
事も、今回ここに来た理由の一つなんだ…」

 白花ちゃんは煮えくり返る自身の想いを意識して抑え付け、平静を保ちながら、

「ゆーねぇは、今夜は来なくても良い。僕が、桂を守る。烏月が邪魔してくるかも知れな
いけど、巧くやるよ。烏月だって、人に仇なす鬼を目の前にしては捨て置けないだろうか
ら。
 その、これ以上無理をしたら、傷の治りも服を纏うのも、いつになるか分らなくなるし。
僕も、目のやりどころに困る」

 確かに、現状のわたしは目の毒だったかも。

 相変らずご神木は封じの修復に力が足りなくて、わたしの修復に力を回してはくれない。
力を抜かれる苦悶は尚続いていたけど、腹の傷口は修復も進まず血を流し続け、日の光に
消去された左手首から先も修復はされないけど、衣一枚作る余裕さえなかったけど。


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