第1章 廻り出す世界(甲)


 わたしが槐として迎える何度目の初夏だっただろう。天迄突き抜ける蒼い空に、細長い
白い雲が二筋三筋、くっきりその紋様を描き。でも風は結構強くわたしの枝葉を押しつけ
て。少しの後に、強い嵐が来る予兆かも知れない。

 その人が、槐のご神木を訪れたのは、その日の正午過ぎだった。やや癖のある長い髪は、
今日も白銀に輝いて力強いけど、その声にも声を宿す心にも、いつもの力強さはない。

 サクヤさんはまっすぐご神木に歩み寄って来て、わたしの硬い幹の皮にその手を触れて、

「真弓が、逝ってしまったよ……」

 ここを動けないわたしに、外の動きを時折報せてくれる。夏にしては涼やかな風の吹き
抜ける中、幹に手を当てた姿勢で俯くサクヤさんの表情は見えないけど、わたしは見る必
要もなく彼女の気持の浮き沈みも視えてくる。その哀しみも、その悔しさも、その孤独迄
も。それを受けて動き始める微かな嵐の兆し迄も。

「事故に遭った訳でもなく、病も怪我もなく、少し寝込んだと思っていたらその侭、だと
さ。過労の様な物だと医者は言ったけど、無理のしすぎなんだよ。1人で全部抱えようと
して。正樹もあんたもなしに、羽様の屋敷を離れて桂を女手一つで育てるのは、真弓でも
至難の業だろうに。あたしの手助けも極力拒んで」

 何かと言うと『あんたに約束した』からと。

『残された幸せを守り抜く位は、せめて私の手でやらないと。彼女は生きる事も死ぬ事も
許されない境遇にその身を捧げ、私達家族を守ってくれたのに、文字通り生命を尽くして
くれたのに、私はそれを守り抜けなかった…。

 せめて今残されてある幸せ位、私のこの手で守らないと。何も返せる物もなく、彼女の
想いも桂に伝え切れてない私は、日々の幸せと生命を貰った私は、せめてその位しないと。
本当に彼女に合せる顔がなくなってしまう』

 己を追い込む事が、贖罪になる訳でもないのに。あいつも、義理堅さではあんたに近い
物があったからねえ。あたしにも感付かせない内に、生命の使い込みが進んでいた様でさ。
最期を看取る事も出来なかった。あたしはまた手遅れだったんだ。みんな逝ってしまう…。

「あんたが無理をしすぎたからだよ、柚明」

 サクヤさんの頬を伝う滴は、寂しさの故か。
 突き抜ける蒼天を二筋三筋、白い雲が行く。

「せめて、あんただけでも、健在なら……」

 鬼切部の負う反動も代償も贄の血の力で吸収でき、この運命は避けられた。真弓さんを
助けられずとも、桂ちゃんに身内が皆無にはならなかった。それは非難と言うより願望で、
無理と分る故にサクヤさんも中途で口を閉ざし末迄言わない。言わずとも筒抜けなのが分
るから、サクヤさんも中途迄口に出したのか。

「笑子さんの血筋は、桂だけになった……」

 桂は白花の事は忘れているし、白花は終生名乗り出る気はない様だし。桂は1人残され
たよ。こうなって迄、桂が独りぼっちで涙を堪えているのを知って尚、素性を明かさない
のかと、逢えたなら問いつめてやりたいけど。

「鬼切部の本拠地の奥深くは、あたしも中々踏み込みづらくてさ。一度成功した手は次に
は使えなくなるしね。偶然にでも頼らないと、あたしも白花には逢えないのさ。そう言う
点でも、真弓の死はあたし達と白花の縁を更に細く遠くした。桂は1人になってしまっ
た」

 桂ちゃんは二親を亡くし、親戚もない天涯孤独となった。サクヤさんが心を寄せた笑子
おばあさんの血筋は、途絶え掛っている。桂ちゃんには尚サクヤさんがいるけれど、逆に
サクヤさんにも今や桂ちゃんしかいないのだ。

 サクヤさんは自分を棚上げして桂ちゃんを心配しているけど、わたしはサクヤさんの心
の奥深くに宿る孤独も知るだけに、危うさを禁じ得なかった。2人は今正に2人して、絶
対の孤独に歩み寄っている。わたしが癒してあげられれば良いのだけど、今となっては…。

「桂は、本当に何も知らされずに残された」

 真弓はまだ、桂に事実を伝えられる段階じゃないと、踏んでいたらしい。最後に逢った
時には、桂が進路を決める時には、その人生の行く方角を定めようとする時には、話さな
ければならないと、言っていたんだけどね…。

「最後迄、伝えられないで終ってしまって」

 最早あんたの事も、白花の事も正樹の事も、笑子さんの事も桂自身の羽様での日々も、
伝えられるのは、あたし1人になってしまった。話すか話さないか、いつ話すかの判断迄、
あたしに掛って来たじゃないかい。残された者の身にも、なってくれって感じだよ。真弓
は本当に、一人で無理をしすぎるから、こんな。

「こんな、ことに……真弓の、馬鹿っ……」

 唯でさえ短い寿命を、生き急ぐから……。

 人の寿命は巌の寿命を持つサクヤさんにとって短く儚い。数十年も経たぬ内に巡り来る
その末路に、彼女は幾度涙しただろう。今後幾度涙するだろう。わたしにもうその哀しみ
を拭う術はないけど。わたしは最早血筋を繋いでサクヤさんを語り継ぐ事は出来ないけど。

【サクヤさんに……、全て……任せます…】

 桂ちゃんを、守ってあげて。その幸せを、その笑顔を、迫り来る危険から守ってあげて。

 わたしはここを動けない。槐の巨木に宿り、最早肉を失って想いだけの存在になったわ
たしには、ここを動く術も声を発して語りかける術もない。こうして間近にサクヤさんに
来て貰えても、わたしの心を伝える事が精々だ。

 オハシラ様になってからの十年は、ご神木により深く同化して封じの要を引き継ぐのに、
充分な時間とは言えないらしい。サクヤさんが大切に想っていた竹林の姫は、オハシラ様
になって千数百年を、このご神木で主と過してきた。わたしはまだその百分の一に達して
ない。ここ迄も平坦な道程ではなかったけど、十年はわたしの感覚では短くはなかったけ
ど。

 まだ力が足りない。まだ順応が足りない。

 外から来る情報を受け容れる事は出来ても、外に何かを発信する、何かを為す事は難し
い。サクヤさんは、わたしの血が体内を巡るサクヤさんは、辛うじてご神木に触れてくれ
れば、ある程度の意志は伝え得るけど。

 そんなわたしの感触を、分っているのか、

「ああ、あんたに今更何かして貰おうなんて、思っちゃいないから安心しなよ。あんたは
やり過ぎ位にやってくれたんだから、ゆっくり自分の務めだけに励んでいれば良い。それ
以上何かしようとか心配とか考えなくて良いよ。今日は、真弓の訃報を告げに来ただけさ
…」

 オハシラ様になったって歳はこっちの方が上なんだ。相談なんてあたしが受ける方だろ
うに。これ以上あんたを煩わせる積りはない。こっちはこっちで巧くやるよ。あんたはも
う、

「あんたはもう、何も心配しなくて良い…」

 サクヤさんが両の瞼に溜まった水を拭う。

 桂が大人になって、無くした過去を取り戻せる強さを身に付ける迄、あたしがしっかり
見守るから。いつかはあんたの下に、この幹に抱きつける様に桂を、導くから。もう少し、

「もう少し、待っていておくれよ。あんたにはもう五年や十年、大した違いじゃない。結
果良ければ全て良しだろう。少し気を抜くと数十年経ってしまいそうな危うさはあるけど、
あたしもあんたも、飽きる程待てるんだ…」

 風が草木を撫でて、微かに音を生じさせる。遙か遠くに、雨を呼ぶ暗雲が漂い始めてい
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【浅間の長の、孫娘か。ご苦労だな……】

 サクヤさんが引き揚げて暫くの後、槐の中でむくりと別の意識の塊が動く。互いに肉を
持たず、ご神木に宿る想いだけの存在だけど。精悍な男性が寝た振りにも飽いた感じで動
く。

【帰りました。お騒がせし不快でしたか?】

 封じの中の虚像世界は、相変らず殺風景だ。巨木の内側を想起させる茶色い壁を持つ五
十メートル半径の円柱が、上に限りなく伸びるだけで、飾り気もない。唯一の光源である
地面は、槐の花のイメージか一面白色で、ゴムの様に柔らかだけど、茂みも岩も絨毯もな
い。わたしが生前の意識からもっと色々と思い浮べて作れば良いのだけど、この情景は千
年以上ここに居続ける主の影響が強い。今のわたしは、己の身や身に纏う衣の再生で手一
杯だ。ご神木に悠久に依り続けるわたしなので、余裕が出れば衣替えも、百年単位で考え
ようか。

 向き直って問うわたしに主は、静かな声で、

【いや。好意的な者でなくても、暇を持て余すこの身には、少しでも外の刺激がある方が、
気晴らしになる。それに今日は良い情報を聞けた。あの鬼切りが、逝ってしまうとはな】

 ギラリと獣の視線を、一瞬だけ輝かせる。

 子供なら卒倒しそうな殺意や闘志の籠もった眼光だけど、わたしはこの十年それを受け
続けて耐性が出来ている。静かに受け流して、

【大切な何かが欠けた事は感じていました】

 父も兄もわたしも失った桂ちゃんの、最後の家族だった真弓さんの喪失は、どれ程の心
痛だろう。親族も居ない桂ちゃんのこの先は、誰が見守り支えるだろう。わたしにしてあ
げられる事はない。桂ちゃんから忘れられ、ここを一歩も動けず、最早人でもなくなった
わたしに、為せる事はもう何もない。故にこそ。

【叔母さんには、長く生きて欲しかった…】

 強くて綺麗で、優しかった真弓さん。誰よりも人を想う故に、自身の強さの限界迄業も
定めも痛みも哀しみも負って、それを殆ど表に出さず、人の笑顔を力にしてきた真弓さん。
わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人、わたしに大切な人を守る術を教えてくれた
人。

 桂ちゃんの哀しみが想像できる。桂ちゃんの心細さが思い浮ぶ。震える肩を抱き包んで
あげたかったけど。涙を拭ってあげたかったけど。せめてその場にいてあげたかったけど。

【桂ちゃん……ごめんなさい……】

 わたしはやはり役立たずだ。本当にいなければならない時に、たいせつな人の傍にいら
れない。本当に助けが必要な時に、動けない。

 ご神木の中で手を震わせる事しか出来ない。本物でない身体で涙を堪える事しか出来な
い。駆けつけたい己を抑えつけ封じを保つ事しか。己が望んで受け容れた定めとは言え、
桂ちゃんと白花ちゃんの幸せの基盤の為に絶対外せないお役目の為とは言え、それが悔し
かった。

 そしてもう一つ、真弓さんの喪失で、運命の歯車が動き出す。サクヤさんには、巧く伝
えられなかったけど、迫る危険から桂ちゃんの身を守ってあげてとしか言えなかったけど。

【嵐の気配を、もうお前も感じているな…】

 主の問は確認程の意味もない。わたしが関知の力で感じ取れる以上、主は鬼神の察知で
騒擾の兆しを感じ取れていて不思議ではない。

 再び事が、動き出そうとしている。縁の絡む接点、双子の運命の輪の要にいた真弓さん
の喪失が、辛うじて抑えていた何かを動かす。それが吉凶いずれに向うかは、まだ見えな
いけど。誰にどの様に作用するかは、まだ見えないけど。嵐の兆しが心を覆い尽くしてい
く。その中心は贄の血の陰陽だ。贄の血を、笑子おばあさんの血を濃く宿す、正樹さんと
真弓さんの双子の兄妹、白花ちゃんと桂ちゃんだ。

【桂ちゃんは、経観塚に、羽様に来る……】

 桂ちゃんは失った何かを埋め合せる為、自身との繋りを求めて羽様へ来る。きっと来る。
桂ちゃんは唯一の家族を失った。人生の基盤と来歴を失った。真弓さんの死で、身近な過
去に繋る人の喪失で、失っていたと気付かざるを得なくなった。それを埋め合せなければ、
過去に向き合なければ、人は前には進めない。

 どの様な経過を辿るかはまだ見えないけど、桂ちゃんが遠くない将来にここを訪れる事
を、わたしは感じ取れていた。それが嵐の気配か。否、それだけではない。それだけで終
らない。

【分霊が、動き出すぞ……】

 あの女が居たから、わたしの分霊は今迄贄の血の陰陽の片割れ、器の心の奥に身を潜め
て機を窺っていた。今の千羽の鬼切り役も少しは厄介だが、もう分霊の焦りや情念は抑え
られまい。討ち滅ぼすか、逃げるかしてでもあれはここに戻り来る。わたしを解き放つ為
に、十年前の未遂を今度こそ成し遂げる為に。

 主の声の強圧に、わたしも心を強く保ち、

【来るのは分霊ではなく、白花ちゃんです】

 わたしの視た像は、主と同じ物だろうか。

 真弓さんの死、或いはそれが間接に招く何かの末に、白花ちゃんも羽様へと来る。今迄
彼がここに来る事を抑えて続けていた要因が、彼の衝動を押し止めていた要因が、消失す
る。

 真弓さんの死が彼の運命の輪も回し始めた。ずっと話に聞くだけで、白花ちゃんの像は
殆ど視えなかったのに、それが視え始めたのは、彼がわたしの関知の届く領域に来る事を
示す。まだ遠すぎて来ると言う事しか視えないけど。まだ微かで、何を為しに来るか視え
ないけど。

 贄の血の陰陽が、十年の時を隔てて再び経観塚に揃う。それは十年前の再来を招くのか。

【白花ちゃんは優しくて強い子です。分霊や貴男の思惑に振り回されて、終りはしません。
きっと最期迄人として、白花ちゃんとして生きて終える。彼はここを、白花ちゃんとして
訪れ、白花ちゃんとして去っていきます…】

 言いつつも、嵐の兆しはわたしの一番たいせつな双子を包んで来たると、わたしも感じ
ていた。白花ちゃんが幾ら人の心を強く保っても、主の分霊が同居した状況に変りはない。
ここに来る事自体が危険の芽を孕む。鬼切り役の明良さんは終生それを認めない筈だった。

【そうだ。器が鬼切り役を裏切り逃亡したか、打ち倒したか。どちらにしても、既に鬼切
部は器の味方ではない。鬼切り役との私的な細い関りも、断ち切れたのは間違いない。天
涯孤独は娘の方だけではなかった様だな。他者の支えのない人など、分霊には敵でもな
い】

 鬼切部から追っ手が掛る。鬼切部を統括する権力が、追補の手を伸ばす。表の世間の守
りも期待できず、闇の追っ手に身を脅かされる中で、白花ちゃんは1人何を想うのだろう。
真弓さんの死を知って、今こそ時ぞと動き始めた主の強大な分霊を、その身の内に抱えて。

【終りが、見えてきた様だな。お前が身体を張って守り保ち続けてきた日々もこの封じも。
 お前に最早、外界で力になれる者はいない。鬼切りの女は死に、同時に鬼切部との微か
な繋りも消えた。分霊の器はその鬼切部に追われる立場で、分霊がいつ裏返るか分らぬと
言うより既に、裏返っていると見るべきだろう。浅間の長の孫娘はいるが、奴は間に合わ
ぬ事、出遅れる事を宿命の星に持っている。誰かの介在がない限り、危急の場には間に合
うまい。

 分霊が封じを外から解き放とうと来た時に、それを阻止し、お前の力になれる者はいな
い。贄の血筋が途絶え掛っているのが致命的だな。お前との十年も、意外と悪くなかった
が…】

 滅びも定めと受け容れる準備は出来ているのだろう。言葉に乗ってわたしに吹き付ける
神の気配が、いつもより重圧に感じられるのは気の所為ではない。主は確かに今迄になく
気力に満ちている。それも転機を察する故か。

【わたしの目覚めを望み願う者もいるらしい。その声に応えてみるも一興か】

 主は微かに笑みを浮べていた。でもそれは、乾いた笑い。望みが叶う筈なのに、全面的
に喜べない、どこか空疎で皮肉げな。主は分っているのかも知れない。本当に欲しい者を
失った末に得る自由の空しさを。自由を心から望み欲した主は、その為に竹林の姫を、先
代のオハシラ様を失ったと分っている。主の望みを叶える為だけに、主だけを大切に想う
2人の鬼の少女、ノゾミとミカゲが、主の本当に大切だった竹林の姫の魂を還してしまっ
た。

 主をご神木に封じるオハシラ様で、主の魂を還し行く敵対の立場であったけど。それで
も主は竹林の姫を大切に想っていた。竹林の姫も又、主を大切に想えばこそ、未来永劫に
主の封じの司を受け容れた。誤解に誤解を重ね漸く辿り着けた封じの中の永遠。それが…。

 たいせつな物を取り返す為に、たいせつな物を失う皮肉と悲痛。それでも、主は留まれ
ない。否むしろ、それだけの犠牲を払った故にこそ、絶対にその自由は得なければならず、
尊くなければならないと。最早引く事は出来ないと。主はオハシラ様を失う迄、自身がど
れ程彼女を大切に想っているか分らなかった。

 分った今、分ったからこそ、主は絶対に後に退けない。もう失う物はないけど、もう失
う物がないからこそ、喪失に見合う成果を得る迄主は止まれない。封じを破って外に出れ
ば誰も主を止められず、主は無限に荒れ狂う。

 まつろわぬ蛇の神、荒ぶる山の神、赤く輝く星の神。古に怖れられて厭われたその侭に。
封じの中で幾度となくわたしに為してきた様に。奪い、殺し、潰し、引き裂き、踏み躙り。

 でもそれは、同時に主自身の悲劇でもある。主と十年を過したわたしは分る。主は欲し
た自由を得た時が絶望の始りなのだと。封じは元々外界の為だけど今や主自身の為なのだ
と。

 喪失に見合う成果など得られない。竹林の姫に代りはいない。誰かを誰かの代りに等出
来ない。神でも鬼でも不可能な事は不可能だ。主の行く先は永劫の空疎と不毛が広がるの
み。

 主が自由を得れば今度こそ、自由の故に虚無に陥り自暴自棄となる。解き放たれた後に
為すべき事もない主は、共に自由を喜び合う大切な人もいない主は、八つ当たりに猛威を
振るう。その目が贄の血に向く怖れもあった。

 目標もなく、使命も定めもない侭力と自由を持て余し、行く処も居る処も戻る処もなく、
気紛れに猛威を振るう。そんな鬼神を外に出す訳に行かない。最早主に自由は毒だ。わた
しのたいせつな人に害を及ぼす訳に行かない。

 抱き竦められ、無尽蔵の力に晒されつつも、

【滅びは受け容れましょう。でもそれは今の話ではありません。貴男の魂を還し去る悠久
の彼方の話です。この封じは解けません。わたしが司る限り解かせません。貴男には未来
永劫、ここに留まり続けて貰います】

【己は滅びても構わないか。自滅的な思考よ。生き延びたいとは想わないのか。生きて贄
の血を啜って力の限り暴れ回ってみたいとは】

 主は目線をわたしに向けて、間近で問う。

 お前も今は鬼だ。肉を失い贄の血の力も槐に渡したお前は槐なしでは長く霊体を保てぬ。
だが贄の血を外から補充して、依代を持てば、お前も外界で鬼として生を送れる。身体に
力が満ちる実感は素晴らしいぞ。生気が霊体に漲る感覚は中々味わえぬぞ。どうだ、贄の
娘。

【お前にその気があるなら、お前とならわたしは贄の血を共有して良い。小僧の方は分霊
がどう出るか分らぬ故保留しても、もう片割れの方は手つかずだ。充分に啜り取れよう】

 断ります。わたしは迷う間もなく拒絶して、

【冗談でもおやめ下さい。わたしはその事態を招かぬ為に貴男を封じているのですから】

 その為に、わたしは鬼になったのですから。お父さんとお母さんと、そのお腹に宿って
いた妹を殺した、憎むべき鬼に。鬼になってあなたを抑え、天地終る時迄も封じ続けると
…。

【わたしは己の生存の為にハシラの継ぎ手を担った訳ではありません。わたしが鬼として
生きるのは桂ちゃんと白花ちゃんの為、2人の幸せの為です。そのわたしが己の生の為に
その血を啜るなんて本末転倒。それこそ鬼になって迄してここに生きてある意味がない】

 桂ちゃんの血は一滴たりとも流させません。
 勿論白花ちゃんの身体も、返して貰います。

 この十年で、それを何度繰り返しただろう。

 身動き叶わぬご神木の中で。常に主と対峙し続け。常にその答と問を繰り返し。今も尚。

【ではその娘は間接的にわたしの仇となるか。その娘を守る為にお前が継ぎ手になって我
を封じた。その娘を喰らえば、贄の血で力を増す以上にお前に意趣返しが出来る訳だ。そ
の希望を打ち砕き、身を捧げ尽くした行いを無に帰し、人の無力を思い知らす事も叶う
か】

 怖ろしい事を言う。この鬼神は言う以上それを為す気がある。堪りに堪った殺意ではな
く、殺人に抵抗を感じぬ者が、もう1人殺そうかという軽い殺意だ。強大に過ぎる者には、
人の生命など守るも潰すも気紛れ次第らしい。

【貴男にそれは出来ません。わたしがここにいる限り、この封じは悠久に解かせません】

 その根拠が崩れ掛っていても、わたしはそう応える他に術がない。主の情勢分析はかな
りの事実を含んでいた。具体的な話になると、真弓さんを失った現在のわたしは劣勢一方
だ。

 ハシラの継ぎ手は内向きに全ての力を注いで主を封じ、その魂を還す者だ。外から封じ
を解こうとする者に為せる術はそう多くない。主程の鬼神を中に抑え込むのだ。外に何か
為せる余分な機能を付ける位なら、封じの強化に使うのが順当な発想だ。元々のオハシラ
様だった竹林の姫も、危急の時には鬼切部や麓の羽藤の者の夢見に蝶を送って危機を伝え
て、解決して貰っていた。唯動かずに悠久を過すのがハシラの役目だ。それを外から壊し
に来る者を防ぎ倒すのは、封じの要の役ではない。

 故にご神木も封じの要も、受ける意志を持ち尚関りの深い者に心を伝えるのが精一杯で。
敵を防ぐ手だて等、役行者がこの封じを作り上げた時に置いた、主の眷属の鬼を近づけな
い間近の結界か、人を遠ざける広い結界位だ。

 主の分霊が白花ちゃんの身体を乗っ取って封じを解きに顕れた時、わたしに為せる術は
結界を強めて拒む位だ。それで拒める相手ではないけど、実体を持たないわたしに術は…。

 白花ちゃんは白花ちゃんとして来てくれる。そう信じる他にない。本当は来ない方が良
いのだけど。ここでわたしが永久に主を封じ続けるから、白花ちゃんは白花ちゃんの人生
を。

【楽しみだな。封じが解けた、その暁が…】

 主がその様を想像に思い浮べるのは、わたしにそれを視せたい故だ。わたしにそれを見
せ動揺を招き、絶望を誘い、諦めを促す為だ。蘇った主が桂ちゃんや白花ちゃんの血を啜
る姿を、生命を奪う様を。目を逸らしても見せつけようとする主に対し、わたしはそれを
見据え受け止め、尚その意志は挫けないと応じ。

 わたしは今ここで封じを保っている。いつの像か分らないけど、それは確定した未来で
はない。起りうる分岐の先の一つに過ぎない。わたしは絶対に諦めない。守りたい者を守
れる今の立場を捨てはしない。守りたい者を守る為に己を尽くせるこの幸せを捨てはしな
い。

【思う事は止められません。しかし、神にも鬼にも不可能がある事を、貴男もこの千年で
お分りになった筈です。この侭、わたしと大人しく魂が還りきる時を迎えましょう】

 わたしが抑えて置かないと。わたしがしっかり孕んで置かないと。わたしが、久遠に抱
き包んで置かないと。崩れない。繋ぎ続ける。己を保たせ、己の定めを忘れず。わたしは
ユメイ、主という鬼を封じ還し往く1人の鬼…。

【まあ良い。封じは外せずとも、お前は打ち砕けずとも、わたしは充分楽しめる。未来永
劫続けば、いつかその心が砕けぬとも限らぬ。何よりお前は中々可愛いからな、その反応
も。

 お前の心を擦り潰し、挽き潰し、摩耗させ、消え行くのを見るも一興。永遠に耐え続け
る姿を見るも一興。壊れて封じが外れるも一興。
 楽しませて貰うぞ。封じが解けるその時迄、お前が封じを解く気になる迄、この中で天
地終る迄生贄として、わたしの慰み者として】

 主が迫り来て、神の荒ぶる魂を重ね合せる。
 主はわたしを思いの侭に蹂躙し、挽き潰す。

 腕を千切り、足を裂き、内蔵を散らし。ご神木から無尽蔵に力を供給されるわたしは、
己を失わない限り封じの中では死に絶えない。そして常に再生が為される故に、主は再生
の端からわたしを焼き尽くし、塵と変え。肉を失った錯覚の身体だけど、想いだけの存在
となったわたしにはその痛みは本物で、真実で。死なない故に、その痛みも治る迄は終ら
ない。

 それでも。この日々を千年万年続けてもわたしは主を放さない。己を消せば楽になると
想うけど、封じの要であるわたしは己に消える事を許さない。わたしが一番たいせつな人
に尽くせる術はこれだけだから。ここに主を留め続ける事が双子の幸せの最低条件だから。

 何日何夜続こうと。天地終る迄これが続こうと。わたしの身が穢れようと、打ち砕かれ
ようと、後に何一つ残せなくても。この末に封じが解かれて、主に踏み躙られて終える事
があろうとも。それが明日来る物であっても。

 その瞬間迄、わたしはわたしが守れる物を守り続ける。成果は望まない。返る想いは求
めない。誰に知られなくても構わない。唯今出来る限りを尽くす。己の全てを、注ぎ込む。
一番たいせつな人の幸せの基盤を、守る為に。

 唯一つ、出来るなら。主とこの様に交わる様を、白花ちゃんと桂ちゃんには見て欲しく
ない。知られたくない。竹林の姫がサクヤさんに終生それを伝えなかった理由と同じく…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 森の奥に、わたしでも竹林の姫でもない者を訪ねる2つの声が訪れたのは、槐の花が咲
き始めた夏の夜更けだった。月の輝きに照された鬼の少女達は、ご神木に少し距離を置き、

「ハシラの継ぎ手、居るのでしょう? 姿を顕しなさいな。それとも、弱体に過ぎて人の
現身を取る事も出来ないのかしら」

 小鳥が歌う様な高く透った声で、挑発的に語りかけてきた姉の鬼は、十年前に真弓さん
が斬った筈のノゾミだった。ご神木の間近に張られた、主の眷属を寄せ付けない結界の外
側で、三十メートルも離れてない茂みで、その現身を月光に照されて。斜め後ろには、わ
たしが止めを刺せなかったミカゲの姿もある。十年前あの夜にわたしが見た姿形のその侭
に。

 姉妹の姿形は酷似している。白く透き通る肌、赤い鼻緒の草履履き、ノゾミは右足首に
ミカゲは左足首に金の鈴。双方共に太股が見える程着物の裾が短く、袴は膝に届く程長い。
非対称の振り袖は、ノゾミは右が鳩羽鼠に花の染め抜き、左は薄紅で、ミカゲがその反対。
共に色の薄い、毛先が少し外向きに撥ねたかぶろ髪で、その表情は姉が驕慢で妹が気弱で。

 2人とも中学生位に見えるけど、その発祥は竹林の姫の頃に遡る、老獪で強大な存在だ。
古ければ無条件に強い訳ではないけど、生命を繋げば強くなる訳ではないけど、長命を保
てた事実が想いや力の強さを示す。でも、ミカゲはともかくノゾミがここに今顕れるとは。

「私が顕れた事に、驚いているのかしら?」

 わたしはご神木から動かない。答を返さず、人型の現身を取る事もしない。人の形を作
って封じの力を消耗したくないし、声を返したい相手でもない。彼女達は主の封じを解こ
うとした鬼で、わたしは封じを続ける鬼だ。向き合っても、友好的な話になるとは思えな
い。

 ノゾミは楽しげに笑みを浮べ、わたしの無視にも全く怯まず、歌う様な語りを止めない。
相手は自在に動き回れるけど、ご神木に宿るわたしはその喋りを聞かざるを得ない。わた
しが動かぬのか、動けぬのかと、反応を窺い、

「あの双子にお礼を言わないといけないわね。
 あの双子が絶妙のタイミングで先代のハシラを還してくれたから、私は助かったの…」

 あの鬼切りの女は、確かに手強かった。危うく私も、斬られる処だったわ。世の中は何
が幸いするか分らないわね。千年の封じを解いた余波が、あの瞬間、鬼切りの刃の振り下
ろしに横殴りに吹き付けて、狙いを外させた。

「それは私にも強く吹き付けていた。なのに、普段ならあんな強大な余波は霊体を吹き散
らすから私も厭うべきで危険な筈なのに、あの時に限っては、一時的に希薄になったお陰
で鬼切りの刃を半ばすり抜けさせてくれた…」

 本当に、全て贄の血の陰陽のお陰。お陰で、痛手は蒙ったけど、十年近い年月の眠りは
必要としたけど、この様に甦る事が出来たのよ。

「間一髪だったわね。依代に戻る隙さえも与えてくれなかったのだから。ミカゲも……」

 あなた如きに後れを取っていた様だったし。

 目線を向け答を促す姉に、ミカゲは静かに、

「申し訳、ありません。姉さま」

 己の心がないかの如く従順に受け答えする。ノゾミは答に満足してか視線をご神木に向
け、

「まあ、良いわ。どっちにせよ主様を封じ続ける憎いハシラを、1人還す事は出来たもの。
代りのハシラが現れるとは思わなかったけど。でも、あなたを還してしまえば、もう代り
のハシラは出て来ないでしょう。あなたでお終いよ。そしてもうすぐ、あなたもお終い
…」

 ふふふふふ。鈴が鳴る様な笑い声が響く。

 全てが終りに向けて進んでいるわ。あなたの様にいつ迄も世の中の動きから取り残され
身動きも取れないなんて、流行らない。私が解き放ってあげるわね。あなたの背負った定
めも、あなたが守りたかったたいせつな物も、まとめて残さず、全部叩き壊してあげる事
で。

「自由に、してあげるわ。主様と、共々に」

 赤く輝く大きな瞳を動かして、ノゾミは、

「もうすぐここに戻り来る、贄の血の陰陽の血を頂いて、その生命を頂いて。あの双子は
本当に役に立つわ。私達を数百年ぶりに解き放ったり、主様の分霊を宿す器になったりと。
丁度良く私達も蘇れた事だし、今度こそ分霊の主様と力を合せて、槐の中の主様を解き放
ち、桂の血を全部吸い尽くして力に変え…」

「そんな事はさせないわ!」

 わたしは、人の現身で顕れていた。ご神木を背に2人の鬼の娘と正対し。青地に白いち
ょうちょの文様の、サイズの大きな和服姿に、姿形は身長も肩幅も顔立ちもハシラを担っ
たあの時の侭で。あの夜わたしは時を刻む事を止めた。以降は、悠久を主と過す鬼のわた
し。成長も老化もなく止まって動かないのが封じの要。だから動いたり顕れては拙いのだ
けど。

「おお、怖い怖い。鬼が出た」

 わたしが敵意を纏って威嚇するのにも、ノゾミは緊迫感に欠ける様に手を打って喜んで、

「ミカゲの言った通りね。桂かもう片方の名を出せば、どんな挑発より即顕れるって…」

 ご神木の結界のすぐ外で、ノゾミ達は夜故に形に出来る現身で立っている。鬼の力は夜
の方が強まるけど、今やそれはわたしも同じ。十年前の如く贄の血の力を振るう構えのわ
たしに、2人は怖れる様子もない。顕れたわたしの姿が半ば透けている為か。この程度で
は、鬼の姉妹に打撃を与える力にはまだ足りない。

 今のわたしに実体はない。十年前に対峙した時と立場は激変していた。互いに実体を持
たない同士であれば、力量の差がその侭出る。百戦錬磨で長命を生き抜いた鬼2人は難敵
だ。贄の血の力もご神木に譲渡したわたしは、ご神木を離れれば殆ど戦力になる力を持た
ない。ご神木から、わたしの心からもっと力を絞り出さないと、どちらか片方にも対抗で
きない。でもそれでは、肝心の主の封じが疎かになる。

 結界に籠もる限り、彼女達はわたしにもご神木にも手出し出来ないけど、わたしも外に
出て彼女達の魂を還す程の力はない。彼女達は、そうと知って挑発している。彼女達の目
的は、わたしを動揺させ、消耗させて、封じを綻ばせ、その安定を失わせ、崩し破る事だ。

「ふうぅん。それが今の限界?」

 赤い瞳を瞬かせ、ノゾミはわたしの全身を舐める様に見つめてくる。わたしはその朱に
輝く瞳を見つめ返す。邪視を恐れぬわたしに対し、彼女達も通じないと分るのか、敢て使
って来ない。ご神木に同化して鬼になった為か、わたしの邪視への抵抗力は向上していた。

 ノゾミは、封じに力の大半を割かなければならないわたしの希薄な姿に、瞳を瞬かせて、

「可哀相に。槐に絡め取られてまともに力を揮えない。鬼となって悠久に時を止めたのに。
折角、病からも老いからも解き放たれたのに。それで尚人の不自由よりきつい縛りを受け
て。その惨めな境遇はきっと、主様を封じた罰ね。それでは行きたい処にも行けないでし
ょう」

 ノゾミは心から哀れんでいる。自身が得た鬼の身を、自由を心から得心し、噛み締めて
見下している。その行いに悔いはなく、微塵の迷いも躊躇いもない。それが許せなかった。
そのノゾミの行いが十年前に、羽藤の家の幸せを壊したのだから。彼女の悔いない行いが、
わたしのたいせつな人を、傷つけたのだから。

 そんな自由をわたしは要らない。人を不幸せにする自由なんて要らない。不自由を幾ら
背負ってでも、わたしはたいせつな人に幸せになって欲しい。日々を笑って過して欲しい。

 痛みは全部わたしが背負うから。哀しみも苦しみも全部わたしが背負うから。背負った
事実も忘れて構わないから。わたしに自由があるならそれと引き換えに大切な人に幸せを。
それを壊しに来る者には今度こそ容赦はない。

「確かにこの縛りは主を封じる代償だけど」

 これはわたしが望んで受け容れた。全てを承知で選んだわたしの定め。あなたに同情し
て貰う事ではないわ。封じはわたしが司る限り解けはしない。わたしが絶対に解かせない。
その現身を消されたくなければ、去りなさい。

 左手を向けて威嚇に蒼い力を示すわたしに、ノゾミは尚挑発的な笑みで周囲をうろつい
て、

「自由を縛られて威嚇程の力しか持てないの。哀れねぇ。そこを動けない上、私達を追い
払う力もない。夜になる度にこうして訪れようかしら。あなたの取り澄ました顔が悔しさ
に引き歪む位お話ししてさしあげてよ。
 ……もうすぐ解き放ってあげるわね。勿論主様をお助けするのが一番だけど、あなたに
は色々とお世話になったし。特にミカゲが」

 ノゾミがミカゲに視線を向けると妹鬼は、

「生きる束縛の全てから解き放ってあげる」

 感情を見せる事の少ない妹鬼が冷徹に語る。十年前、力量では上だったのにわたしに追
いつめられたあの経緯が、引っ掛っているのか。

「良かったわね。感情を見せないミカゲが気に入るのは珍しい。あなたを好いたみたいよ。
その衣を全部剥いて、肌を裂いて、全身に赤い力を穴だらけに突き刺して注ぎ、悲鳴にの
たうち回る姿を見たいって。あなた可哀相」

 今の内に自ら消えてしまった方が良いかも。今すぐにでも主様を解き放って。そうすれ
ば、

「八つ裂きにしても飽き足らない程憎いあなただけど、残酷な殺し方はしないであげる」

 涼やかに滑らかに地獄絵図を語るノゾミに、

「あなたの哀れみは求めない。わたしは必要以上の力は要らない。不要な自由は望まない。
わたしはどこにも行きたくない。ここに留まるのがわたしの自由意思。わたしに要るのは
主を封じて大切な人を守れる力よ。あなたから何一つ頂く謂れはないわ。帰って頂戴」

 わたしも敵意を隠さない。無視し続ければ良かったのだけど、桂ちゃんの名が出た瞬間、
動いてしまっていた。挑発に乗せられた事に忸怩たる物はあるけど、一晩中彼女達に語ら
せる訳にも行かない。主もこのやり取りは聞いている。活性化のきっかけを与えたくない。

「あなた達では結界を越えられない。ご神木に近寄る事さえ出来ないのは承知でしょう」

「ええ。あなたがその槐から離れられず、私達を捕まえる事さえ出来ないのと同じ様にね。
私達はまだ、主様に触れられないけど」

 ノゾミの言葉をミカゲが受け継いで、

「贄の血の陰陽……」

「主様の分霊はこの結界の中にも踏み込める。そして陰陽のもう片方、桂の血を頂けば
…」

 私達もこの中に踏み込んで、主様を救い出せる。分霊の主様と一緒に、槐に閉じこめら
れた主様を救い出せる。あの濃い贄の血を全部のみ干せば。飲み干して、空っぽにすれば。
暖かな血を全部飲み干し、冷たい骸にすれば。桂の喉首に歯を立てて、生命を残さず頂け
ば。

「そんな事はさせないわ!」

 ご神木の力を無理矢理引き寄せて、わたしは2人の鬼の少女に、蒼い輝きを投げつけた。
それは本来内向きに働く封じの力を、無理に外に漏れ出させる、とんでもない愚行だけど。
激情は、知らずにその一線を踏み越えていた。余り鋭い一撃ではなく、力も不足だったけ
ど。

「あなた、自分が何をしているか分って?」

 ノゾミもミカゲもわたしの攻撃は想定してなかった様だ。素早く左右に分れて躱すけど、
その瞳は驚きに見開かれている。幾ら嘲っても挑発しても、出てこられない神木の寄生虫。
そんな認識を破られてか、笑みが消えていた。

 桂ちゃんや白花ちゃんの名を出して、無力を噛み締めさせ気落ちさせ焦らせ、わたしを、
封じを揺さぶろうとしたのか。何も為せないわたしを取り囲んで責め続ける気だったのか。
彼女達は土地に縛られてない。自由に動き回れる。ここを外せぬわたしを、間近で取り囲
んで徹底的に嘲り苛む積りでいたのか。でも、

「わたしは大切な人を守る為に封じの要を引き受けたの。その守りの為なら出来る事は何
でもやる。出来ない事でもやる。あなた達がわたしの大切な人の害になり危険になるなら、
どんな事をしてでもそれを防ぎ、妨げるわ」

 言いつつわたしは、自身の力が急速に弱り行くのを感じていた。相当無茶をやった様だ。
もう一撃出そうとしても力が出ない。逆にご神木に力が吸い取られていく。立ち続けるの
が辛い。人の形を取り続ける事が苦痛になる。何とか立ち続けるわたしの窮状に気付けな
いのは、ノゾミもまだ驚きが抜けきらない故か。

「素人は、何をやり出すか分らないわね…」

 内向きに働くべき力を外向きにねじ曲げて、攻撃に使う封じの要なんて、見た事がない
わ。ハシラの継ぎ手が、封じを壊しかねない事を。

「私達にはむしろ、都合良い事態でしょう」

 ミカゲが囁く意味はわたしもノゾミも分る。

「封じの力を外に出して消耗させ、力の均衡を崩せば、確かに主様の封じは緩むけど…」

「はい。私達にも、闘う程の力はまだ……」

 力不足は向うも抱える事情らしい。今夜の来訪も様子見で来ただけか。わたしがご神木
から動けないと侮って。或いは主を力づけようと。どちらにせよ、今ここでの決着はない。

 彼女達は結界に踏み込めないし、わたしも外に出られない。結界に入れない彼女達に主
の解放は不可能だし、攻撃の術を持たないわたしに彼女達は倒せない。互いに手詰まりだ。

「なら本当に、贄の血を、桂から生命を頂いて力を得るしか、方法がないでしょうねぇ」

 手詰まりの打開には外から別の要素を呼び込むのが手っ取り早い。それも簡単に手に入
る無力で従順な要素が良い。十年前に一度赤い糸で繋った事がある要素なら、文句はない。

「させないわ!」

 わたしは無理を承知でもう一度、ご神木から力を己に引っ張り寄せる。さっきの反動で、
力はむしろわたしからご神木に流れつつあったけど、それを意志の力で再度ひっくり返す。
さっきより早くて鋭い光が走るけど、相手もそれは想定していたのか、蒼い光は躱したノ
ゾミがいた地点の草藪を軽く撫でて照すのみ。

 ふふふふふふふ。鈴の鳴る声が遠くなる。

 2人は現身を解いて引き揚げに掛っている。その姿は既に闇に消え、気配は薄く、声の
みが遠ざかりつつ微かに届き。こっちへおいでと誘なう様に。ついておいでと差し招く様
に。

「あなたの始末は後回し。私達は順番を自由に選べる。あなたはそこで大切な人が骸に変
る様を、指を銜えて見守りなさい。絶望に身を震わせるあなたを、大切な桂から得た力で、
思う存分打ちのめして、消してあげるわね」

「あなたは自由と引き換えにハシラの継ぎ手になった。見守る事しかできない封じの要に。
あなたの選択が導いた結末を味わうと良い」

「行きたい処にも行けない。助けに行きたくても、守りに行きたくても。あなたの根は槐
に絡まって身動き取れない。しっかりと見守りなさいな。望んで得た定めに涙すると良い。
まあ、仮にあなたがその結界を出られても」

「実体を手放した今のあなたは、私達の敵ではない。朱で包み込んで、消してあげる…」

 ふふふふふふ。2つの笑いが連鎖して響く。

「そうそう、大事な大事なご挨拶」

 最早姿も見えぬ中、遠くから気配が声だけ届かせる。ノゾミの声に、ミカゲも唱和して、

「「主さまに宜しく」」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【くううっ……! ぅうっ】

 無謀の代償がわたしを襲ったのは、追いかけようとした身が、ご神木に引きずり戻され
るのと同時だった。結界の縁迄駆けていた両足の力が突如抜け、2人を見失うと同時に不
可視の力に引きずられてご神木に取り込まれ。己の意思では、どうにも出来ない動きだっ
た。

 主を抱えるだけで手一杯の筈の封じの要が、外に現身を顕し、あろう事か内に向けるべ
き封じの力を転用して、鬼を攻撃した。無茶の上に無茶を重ねるこの愚行は、封じのハシ
ラの千数百年の歴史にもなかっただろう。

 竹林の姫は正しく封じの要だった。オハシラ様として鎮座し、動かずに有り続けた。千
年の間夢見に蝶を送る位で、サクヤさんの生命の危機に現に蝶を送る位で。人の形を為し
た事等ない筈だ。それは力の不足故ではなく。

【うはっ、あうっ、ひうっ……いいぃっ!】

 このリバウンドがあった為なのだろうか。

 ご神木から無理矢理力を抜きだした代償か、わたしの力が残らずご神木に吸い上げられ
る。今やご神木と同化したわたしは、力も想いも繋っていて、お互いに環流し合う関係だ
けど、その故に無理に力を引っぱり出せば、反動は直接響いてわたしから残さず力を吸い
上げる。

 ご神木の中の虚像世界で、主が見下ろすその前で、わたしは1人芝居の様に身悶えした。
力がない。想いが足りない。肉を失って想いだけの存在になったわたしが、想いだけを力
に変えて存在を保つわたしが、力をご神木に吸い取られる。それはわたしが消えるに近い。

 ご神木は、わたしが本当に消える迄力を奪いはしないだろうけど。時が経てば収まるだ
ろうけど。それ迄の間、わたしは主に身を砕かれるよりも尚酷い苦痛に、苛まされる。

 主の破壊は外部からの物だった。内蔵に手を入れて掻き回されたり、心臓を遠隔から吹
き飛ばされたりもしたけど、痛みや苦しみはご神木から満たされる力で癒された。治りき
る迄痛みは身を苛んだけど、内は味方だった。

 今は違う。ご神木がわたしの生きる力を吸い上げている。わたし自身を希薄にしている。
無謀の代償をわたしから取り返そうと。肉を失いご神木と繋るわたしは、それを拒めない。
無理を利かせた以上相応の痛みは必須だった。先に封じの力を引き出し無理矢理使ったの
はわたしだ。でもそれは、身体を壊すと言うより、息を止められて放置される如き苦しみ
で。

 身体中の細胞一つ一つが水を断たれ、空気を断たれ、血の巡りを断たれた如き苦しみは、
筆舌に尽くし難い。治ろうとせず自ら崩れ行く様は、外から主に砕かれるより凄惨だった。

 その場に立っていられない。座って姿勢を保てない。転がっても全く楽になってこない。
息が出来ない。最早肉を失った筈のわたしが、窒息で苦しむ筈も死ぬ筈もないのに。否、
死ねない故に死ぬ程の苦しみは絶対に終らない。

 大地の力を吸い上げて使うご神木の、封じの力を流用したのだ。代償に求められるのは
当然大地の力。でもわたしは既に肉を失っていて、力と言っても定かではない想いの力で。
本能の侭に地を転げ回るのは、少しでも大地から力を吸い上げて補おうと言う事か。でも、

【そんな事をしても、意味はなかろうに…】

 主の言う事は分っていたけど、窒息を何分も続けたに近いわたしは他に術を知らない侭、
衣を自ら消し去って、裸で大地に身を擦りつけて、少しでも力を吸い上げる。指で床を引
っ掻いて、身体中の肌で新しい地面に触れようと、抱きすくめようと。それは正気を失い、
己を土にめり込ませて喜ぶ変態に見えたかも。

 生命の渇きに実際わたしは気が狂いかけた。己が何者かも忘れかける程の、凄まじい渇
き。でも肉を失ったわたしが吸い上げ得る力など、たかが知れている。その様に大地の力
を吸い上げるのは草木の得手で、人の得手ではない。

 わたしの所作に殆ど意味はなく、痙攣するしか術もなく。ここは虚像世界。積りの世界。
錯覚の世界。幾ら身を擦りつけても、まやかしの大地に、まやかしの身体が何をできよう。

【力を、力を補充しないと、全然足りない】

 人の現身を作りノゾミ達に一撃与える力を出す為に、これ程の苦痛を。竹林の姫が千年
の間に現身を為さなかった訳だ。こんな苦悶は誰も望まない。今迄も何度か外界に干渉し
たけど、震えを伝え風を吹かせたけど。蝶を飛ばした事も、人の現身を取った事もまだ…。

 身体中が乾いている。全身が疲弊している。何かあればかぶりついた。抱き締め、絞め
殺した。狂気の線を越えていた。わたしは唯屈み込んで、痙攣して時の経過を待つ他にな
く。

 そんなわたしを持ち上げる二本の腕がある。
 そんなわたしを求め欲する1人の鬼がいる。

 わたしは久しぶりに、本気で主の求めから逃げ出そうと足掻いた。よりによってこんな
時に。内から力を吸い尽くされつつある時に、外から破壊の嵐に晒される。逃げて逃げ得
る筈がない。わたしは封じの代償で、主のそれを受ける為にご神木にいる。己に逃げは許
されない。抗う術もないわたしは進退窮まった。

 今主に襲われたなら、身体を修復できない。ご神木が力に不足して悲鳴を上げているの
だ。わたしが無謀に力を流用した為に、わたしが封じを危うくしてしまった。正面から、
土にまみれたわたしを抱きすくめて見下ろす主に、

【主、お願いです。今だけは、今少しは…】

 一応お願いしてみたけど、そんな事を聞き入れる鬼神ではない。多少言葉を交わす様に
なったとはいえ、元々わたし達は敵対関係だ。封じのハシラと封じられた鬼神は、均衡し
ていれば関係も安定するけど、それが崩れれば。

【わたしの望みを知らぬお前でもあるまい。
 わたしの性分を知らぬお前でもあるまい。
 お前は唯あるが侭にわたしを受け容れろ。

 お前の願いなど不要だ。要るのは唯、わたしの意志と応える物の存在だけ。応える物に
意志など不要。神の意に応えぬ等許されぬし、応えぬ事等できぬのだから】

【い、いやっ……いや、止めて! 待って】

 主もその時が近いと知っている。主も桂ちゃんと白花ちゃんがここを訪れる日が間近だ
と分っている。わたしを求める頻度も激しさも増していたのはその為だ。わたしはここ数
週間、昼夜問わず主の相手を強いられている。それは良い。本当は良くないけど、わたし
が選んで受け容れた事だから。でも今日だけは。

 その求めにも、主は感情の起伏のない声で、

【己の招いた結末は己で乗り越えるのだな】

 わたしは何度悲鳴を叫び、何度抗ったのか。主はわたしの抵抗を全く受け付けず、時に
無視し、時に煩そうに一撃で払い落し。普段より尚激しい主のそれは、捕食なのか嗜虐な
のか性交なのか。内蔵が飛び散り、手足が縦に引き裂かれ、或いは擦り潰され灼き焦がさ
れ。わたしはご神木から力の供給を絶たれており、再生できない侭四肢を失い、胴と首だ
けに…。

【愚かだな。大人しく封じの責に甘んじていれば良い物を、挑発に乗って人型を取った上、
封じの力を攻撃に使い込むとは。封じの要とはわたしを抱き留めて唯見守るだけの存在だ。
 それ以上の事を為せぬのは、継ぎ手になったお前が百も承知だろうに、一体何を考えて。
わざわざ己から封じを揺るがす愚行に出る等。あれでは正に、ミカゲ達の思う壺だろう
に】

 最後にわたしを抛り捨て、見下ろしてくる主の視線に、仰向けの侭わたしは視線を合せ、

【考えてなんかいない。わたしは唯想っただけ。わたしは唯、桂ちゃんを守りたかった】

 あの2人が、わたしの大切な人を脅かそうとしている。生命を奪おうとしている。そん
な事は許せない。身を守る術もなく、危険が迫っている事さえ、桂ちゃんは何も知らない。

 守らなければ。助けなければ。何としても。

 考えより想いが優先した。限界も代償も考慮の外だった。唯守りたい物を守りたかった。
たいせつな人を、一番たいせつな人を、わたしの何に代えても、守らなければならないと。

 ハシラの継ぎ手がどんな物かは、主に言われなくてもこの十年で嫌と言う程思い知った。
ご神木から身動きできず、殆ど外へ訴えかける術もなく、草木の如く主を抱き包んで千年
万年、悠久永劫、主の魂を削って槐の花に変えて、それだけを繰り返して日々を過し行く。

 わたしは何もできなかった。助ける事も守る事も、痛みを代りに受ける事も。わたしが
ここにいると力づける事さえ、出来なかった。

 目の前で正樹さんが、白花ちゃんの身体を乗っ取った主の分霊に貫かれて息絶えた時も。
真弓さんを怖れて分霊が、泣き続ける白花ちゃんの身体を操って遠くへと逃げ去った時も。
桂ちゃんが病室で事を思い出そうとする度に、赤い頭痛に瞼の裏を灼かれて泣き叫んだ時
も。

 動かない事が必須だった。あり続ける事が封じの要の役割だった。ハシラの継ぎ手は外
と内を断ち切って、主を削る事だけが役目だ。その他の執着は、切り捨てなければならな
い。

【でも、わたしは切り捨てられなかった…】

 鬼になっても。己の全てを諦め捨てて鬼になっても。わたしが鬼になった理由が元々主
の為ではない。わたしは主を愛しても憎んでもいない。封じが一番大切だった訳ではない。

 鬼になっても尚、と言うより鬼になったのはその一つを守りたかったから。自分の全て
を諦めて捨てても守りたい執着があったから。今のわたしは執着だけが残った様な、正に
鬼。

【贄の血の陰陽の為なら、槐に生気を抜き取られる苦しみ迄も、受けて耐えると言うか】

 わたしが尚も続く痛みを、受け止めつつ笑みを浮べている事に、主は呆れた声を上げた。
それはそうだろう。わたしもこの状況で笑えるとは思ってなかった。こうなる迄は。わた
しは主を静かに見上げつつ首を真横に振って、

【この位の反動で苦しんでなんかいられない。ノゾミ達に本当に痛撃を与えた時の反動は
こんな物で済まない。ノゾミ達の一撃に耐えられる現身を作った後の反動は、こんな長さ
では終らない。それでも、守らなければならないから。守りに行かなければならないか
ら】

 この程度の痛みに耐えて、終りではない。
 この程度の無謀を為せて、限界ではない。

 わたしの答に、主は心底不気味そうな目線を向けた。わたしの笑みは、突破口を見つけ
た故の喜びだと、漸く主も分った様だ。外へ干渉する術を見つけた事への、不可能を可能
に書き換えた事への、勝利と成功の笑みだと。この苦悶と激痛をその様に受け止められる
心の在り方にこそ、主は呆れたのかも知れない。

 わたしの全てで、届かせる事が出来るなら。
 わたしが鬼となり狂気と化す事で叶うなら。
 それでたいせつな人の守りになれるのなら。

 途方もない犠牲を払えば、不可能を可能に出来る。どれ程の法則を突き破るかは分らな
いけど、無理を通せば道理を引っ込められる。可能性は見えた。遙かな彼方に希望が見え
た。わたしの想いを阻む道理には、桂ちゃんを守る事を阻む道理には、全て引っ込んで頂
こう。

 わたしがハシラの継ぎ手を担ったのは、白花ちゃんと桂ちゃんの幸せの基盤を守る為だ。
双子が陽光の下で微笑んで過せる日々を保つ為だ。それを脅かす物は、誰であろうと許さ
ない。何があっても妨げる。どんな代償もこのわたしが払う。わたしに尚払える物がある
なら。わたしに尚差し出せる何かがあるなら。

 人の身体も、生も死も、人である事も捧げ終えたわたしだけど。それで尚今のわたしに
捧げられる何かが残っているなら。捧げます。遠慮なく持って行って。わたしには一つが
残れば良い。たった一つの望みが叶うなら、わたし自身、この想いが消え去っても構わな
い。

【糸口は掴めました。赤い糸が、わたしと桂ちゃんを、白花ちゃんを繋ぐ赤い糸の端が、
漸く掴めました。どんなに苦しみ悶えても】

 わたしは、この運命の糸を手放さない。
 理性が耐えられないなら、激情で凌ぐ。
 本能が怯えるなら、狂気で踏み越える。

 届くと分った以上、どんな犠牲も怖くない。
 真に怖いのは、何も守れない侭で終る事だ。

 守りたい物を守れず、失ってはいけない物を失い、為す術があるのに手を尽くせぬ事が、
わたしの真に怖れる事だ。代償を受けて救えるなら安い物だ。この身が悶え苦しみ消えて
守れるなら安い物だ。どんなに心を尽くしても届かない事も世にはある。傷を負い哀しみ
を受け犠牲を承知しても、及ばない物も世にはある。絶対戻せない物も、癒せない傷も…。

 出来る事なら何でもやろう。何でも為そう。反動も代償も、為せた後でこの身を襲う物
だ。出来た故の褒賞だ。なら、この身を襲う悶え苦しみさえ、わたしには全て愛すべき報
いだ。

 桂ちゃんの死を前に何も出来ず、この後千年万年ハシラの継ぎ手を続けても何になろう。

【わたしはハシラの継ぎ手に相応しくはないのかも。竹林の姫の様に、主を、あなただけ
を見つめ続ける者が、封じの要の本来の姿】

 主の封じはわたしには目的ではなく手段だった。主の封じより大切な物を持つわたしは、
主の封じより大切な唯一の執着をここ迄強く抱き続けるわたしは、ハシラの継ぎ手として
は致命的な欠陥を抱えているのかも知れない。

 封じを一番に出来ないわたしは、いつかたいせつな人の故に封じを解いてしまうかも…。

【お前に払いきれるか否かも分らないのだぞ。今はこれで終ったが、槐がお前から取り立
てられる範囲で済んだが、それで足りなかった場合はどうなる。竹林の姫も試してない事
を。
 戻れたから苦しみ悶えて終われたが、お前がミカゲ達に敗れて消されれば、ハシラは継
ぎ手を失う事になる。わたしは身を解き放てるから望む処だが、お前はそれで良いのか】

 主はわたしの覚悟を問うているのか。
 又はわたしの身を心配しているのか。
 わたしは、覗き込む主の赤い瞳孔を見据え、

【あなたの封じは大切だけど、桂ちゃんの生命には代えられない。あなたが桂ちゃんの身
を脅かすと分っていても、それより間近にノゾミ達が桂ちゃんを危うくすると言うなら】

 わたしが全てを防げない事は分っている。
 わたし1人では桂ちゃんを守れない事も。

 出来るのは精々時間稼ぎか、その場凌ぎか。
 それでも目の前にある危機に間に合うなら。
 今迫り来る生命の危険を防ぎ止め得るなら。

【全てを捧げ、時間稼ぎで終って構わぬのか。何もかも費やし、その場凌ぎで悔いないの
か。お前の生命を抛ち、贄の子の生命を数日延ばすだけで満足なのか。それでは何も残る
まい。
 しかも贄の子はお前が何者かも憶えてない。そこ迄悶え苦しんで助けに行く値があるの
か。わたしには、お前が苦しみと悲しみを自ら求めている様に見えるのだが、気の所為
か?】

 主は、わたしの心中が分らないというより、わたしの心中を分りたいと思ったのだろう
か。

 わたしは主の問いかけに微かに頷いてから、

【己に定めた事を、心から望み願った事を為すと、心が落ち着いて晴れやかになります】

 あなたも、そうなのではありませんか、主。

【無理だと諦めるのではなく、無理と分って無理に挑み、挑んで無理を噛み締める。わた
しは今迄何度も無力を味わってきた。あなたとの関りはその最たる物です。出来ない事も、
出来ないと己が飲み込む迄挑む。及ばない事も、及ばない結果が出る迄諦めない。そうし
た末、偶に限界を突き破れる事もありました。わたしが今あなたを抱いて封じを保てるの
も、多分わたしの限界を遥かに超えた地点の筈】

 わたしは白花ちゃんと桂ちゃんを守りたい。

 届かないと分っても、及ばないと分っても。勝てないと分っても。時間稼ぎでも足止め
でも。この身が尽きても、想いを使い果しても。その末にあなたを解き放つ事に?っても。
2人がわたしの一番たいせつな人だから。その笑顔がわたしの望みだから。その一つだけ
が。

 その為に出来る事は全てやる。出来ない事も全て為す。生きても死んでも、この想いが
消えてなくなろうとも。それがわたしの望みだから。それがわたしの幸せだから。一番た
いせつな2人にわたしの全てを捧げたいから。

 故にさっきからのこの苦しみ悶えは、

【嬉しかった。心の底から嬉しかった】

 まだわたしには捧げられる物がある。
 まだわたしには役に立てる事がある。
 まだわたしには力になれる術がある。

 それがわたしの新しい心の支えになる。
 それがわたしの新しい想いの力になる。

 主は、微笑を浮べつつ頬を静かに伝う涙を隠さないわたしへの話しかけを止め、ミカゲ
達が去った夜の森の奥深くへと視線を向けて、暫く無言で立ち尽くしていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ご神木から再び流れ込み始めた力の供給で、いつもより長い時間をかけ、漸く身体も衣
も修復できたわたしは、主の前に両手をついた。

【主……。力を、ありがとうございました】

 これは多分、わたしの誤解ではないと思う。

【あなたは今回唯わたしを欲した訳ではない。わたしとの性交を口実に、力を故意に無駄
遣いして、ご神木に力を回してくれたのですね。わたしにも様々な形で、力を注ぎ込んで
…】

 わたしを、助けてくださったのですね。

 わたしの身体は脆弱だから壊れてしまって、多くは溢れさせたけど、溢れた分はご神木
へ直接、わたしが受け止めた分はわたしからご神木へ吸い上げられて、不足分を補い。そ
れが漸く環流し、わたしの修復にも回って来た。

 わたしは正気を失っていた故、主の気遣いに気が付けず、拒もうと抗ってしまったけど。
主はその抗い等気にも留めず押し通ったけど。本当に主は、その所作が誤解に包まれ易い
…。

【その御心を誤解した事もお詫び致します】

【わたしはお前の意志等求めない。唯わたしが為したいと思った時に、為したいと思った
事を、為したいと思った形で為す。贄の血の陰陽が近付きつつあるのは、わたしも分る】

 食餌を前に奮い立つのはお前も同じだろう。

 確かにそうではあったけど。主もその動きが最近とみに、激しくなって来てはいたけど。

【それでも、助かりました。有り難う】

 わたしの笑子おばあさんから学んだ、分っていると言外に示して尚そう言わない所作に、

【わたしは好機に見えたから、お前を壊して封じを解こうとしただけだ。お前はかつてな
い程に苦しみ悶えていたからな。お前の心が壊れるか、お前が耐え切れずに槐を逃げ出し
て消えるか、どちらでも良かったのだ】

 言い放つ主にわたしは静かに首を横に振り、

【一番賢明な策は、あの侭放置する事でした。そうすれば力の補充のないわたしは今でも
悶え続けていた。先の見えない苦しみに時間切れで、わたしは自ら壊れていたかも知れな
い。あなたは竹林の姫と千年余を共にしています。外向きに力を使う代償も反動もご存知
の筈】

 わたしの言葉を、主は完全には否定せず、

【……今回程の無謀は、見た事もないがな】

【やはりあなたは、わたしの心からの行いが妨げられ費える事を、望まなかったのですね。

 己の想いを貫く事を心から欲し、己の意志を曲げる事を心から嫌うあなたは、他者の心
からの想いを妨げる事も、本来は好まない】

 それはこの十年、主と共に日々を過して肌で感じ取れた。主は本当に心から自由を尊ん
でいる。己の痛みや悲しみと、引き換えにしても。愛していた先代のオハシラ様を失った
のも、その深い自由への渇仰の故だった程に。

 故に例え敵でもその自由を妨げる事を主は望まない。主の行く手を遮るなら、正面から
想いをぶつけ合うけど。主の思いを貫く為に障害となれば、遠慮なく蹴散らすけど。そう
でないのに、嫌がらせで他者の思いや行いを妨げる事を主は望まない。自身に望まないだ
けではなく、間近で他者がそれを為す事も又。

 主は苛烈だけど己にも他者にも正直だった。強くて素直で無邪気で、考えなしだけど憎
めない。隠された思惑や悪意がないから。主は自身にも他者にも、不器用な迄に率直だっ
た。

 わたしは必死の想いで、ご神木から逆流させて迄ノゾミ達を討つ力を搾り出した。それ
を主は見ていた。その後にわたしが受ける反動と代償は、あの恥ずかしく悶え苦しむ様は、
主には愉快に映らなかった様だ。わたしの想いを貫く代償で願いを掴む反動だったそれが、
主にはわたしの自由を縛る妨げに見えたのか。

 敵でも味方でも、想いを貫く所作を妨げる者は好まない。願いを掴む為の自由を奪う者
は好まない。わたしはご神木に望んで同化した身だし、為した後の話だから単純に自由を
奪われた訳ではないけど。だから目に見える助けではなく、己の欲求・性交のついでにと。

【お前の想いが尋常でなかった事は認めよう。望んでハシラの継ぎ手を担う者だ。まとも
な感性の持ち主ではないと、思っていたが…】

 鬼神を封じつつ、その封じが一番ではないと言い、もっと大切な人を抱く想いの強さは、
認めよう。一番でないにも関らず、言うなれば片手間で鬼神の封じを保つお前は、竹林の
姫を上回るのかも知れぬ。お前が定めたお前の一番たいせつな人の為に、脆弱なその身で
どこ迄何が出来るのか少し興味が湧いてきた。

【最期迄見守ってやるから、その想いの限り迄突き進んでみるが良い。最早肉を失い、想
いだけの存在になったお前が、鬼切りの女を失い、助けも殆ど得られぬお前が、どこ迄想
いの力だけで、想いを貫き続けて行けるのか。
 鬼神の封じを片手間に、一番たいせつな人を守る為に、反動と代償を覚悟で戦いに行く。
勝てるのか、守れるのか、失うのか、涙に暮れるのか、諦めるのか。果してどうなるか】

 どうせわたしは何も出来ぬからな。結界の外に出るも封じの力を逆流させて戦うも自由
に為すと良い。お前が何かを為せば為す程に、わたしには好都合となるが、そんな事を気
にしていられる余裕は恐らく、お前にあるまい。

 わたしはここで事を見守りつつ、機を窺う。この想いの侭に封じを突き破れるその瞬間
を。

 ギラリと獣の視線を向ける主に、わたしは、

【この封じも、わたしは決して解かせません。あなたの封じは誰にも破らせはしない。後
は定めの導く侭に、あなたもわたしもお互いの想いをぶつけ合う他に術はないでしょう
…】

 定めを全て受け容れ、尚守りたい物を守る。
 代償さえ払えば、反動さえ受け止めれば…。
 わたしは本当に、苦しみを求めている様だ。

 自嘲気味なわたしの微笑みに、主は静かに、

【定めを前に、打ち砕くか、打ち砕かれるか。互いに己の想いだけは曲げたくない物だ
な】

 想いを曲げる位なら打ち砕かれる迄進むと。

 想いを曲げ竹林の姫を諦める位なら、負けも承知で戦い続けた主の言葉故に、千年の封
じの末に悔いなくそう語る主の言葉故に、その重みはとてつもないけど。わたしは迷わず、
最強の敵からのエールを好意に受けて頷いて、

【あなたは、本当に不器用な人。正直すぎて、誰もあなたの言葉をまともには受け取らな
い。思惑や裏ばかり考えてしまう。あなたは常に純粋に、言った通りに行動しているのに
…】

 多分竹林の姫は即座にそれを見抜けたのだ。
 わたしの様にご神木で共に過すその前から。

 わたしは微かに主に好意を抱き始めている。
 竹林の姫が主を好いた理由を実感している。

 勿論、主を解き放つ事は、ありえないけど。
 今更この敵対関係は、覆しようがないけど。

 一番たいせつな人の為に、未来永劫、絶対封じ続けなければならない相手だけど。でも、

【この悠久永劫も、悪くないかも知れない】

 主の自由を求める想いは分っても受け入れられない。主の率直で邪心のない魂は理解し
ても応えられない。同情しても解き放てない。でも、せめて最期迄。わたしは主の魂が還
り切る時迄、共に過す。竹林の姫が為せなかった最期の看取りを引き継ぐなら、わたしに
も。

 封じの手は緩めない。たいせつな人の幸せの基盤の端を支える為に、主の魂を還す力は
尚強く。全力を注ぎ続ける。主の消滅に?るそのお役目に。その終りが、主を還す事を使
命とするわたしの消滅にも?るそのお役目に。

 いつの間にか、昇った陽が傾き始めていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 それは夢への介入だった。

 わたしが見慣れた羽様の森の、夜の情景だ。

 高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠してしまっている。
わたしが手を伸ばしても抱えきれない程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る
狭い道を、視界は前に進み行く。その視点はどうやら子供の目線で、その進み方は早歩き。

 視界がふと後ろを振り返る。

 少し離れて開けた処に、瓦の並ぶ屋根が見えた。平屋の大きな日本家屋。わたしが見慣
れた、わたしが育った羽様の屋敷。離れに見えるのは蔵だった。羽籐の歴代の遺物が収蔵
された、外から見たより随分奥行きの深い蔵。

 涼しげな鈴の音に、視界が前へと向き直る。その鈴の音には聞き覚えがあった。ぐっと
誰かに手を引かれ、視界は更に足を速めた様だ。

 道の勾配が段々急になる。羽様の山の森に入った様だ。手を引かれる感じで、視界は山
道を登っていく。獣道でもまだ道らしく開けていた処を外れ、視界は草を分ける様に進む。

 速く、早く、はやくはやく。

 視界の揺れが大きくなるのは、手を引く動きが強くなって、ついていくのがきつくなっ
た為か。何かに追われ、急かされて、視界は足元の草を踏みしめ急ぐ。ざっざっざっざっ。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

 わたしが何度も何度も見た、今は外から見る事は殆どなくなった、ご神木。通り過ぎる
風に、咲き誇る白い花がゆらりと揺れて散り。

『この景色には、見憶えがあった』

 誰かの意識が、呟きを漏らした。

『それがどこかは、知らないけど』

 テレビか映画で見たんだろうか。

 いや、違う。そうじゃない事は分っていた。

『これは……、この、景色は……』

「……これは、わたしの……」

 たいせつなひとが、いなくなってしまった。

 風にもがれた花びらが、蝶の様にひらひら舞っている。わたしが十年そうしてきた様に。

 奇妙な既視感と喪失感への戸惑いが、誰かの意識の中で膨らみ始めている。いけない…。

『何だろう、この感覚は。
 そして今迄、気にしていなかったけど…』

 誰かの意識は、今漸く気がついた感じで、

『……この景色は、この世界は、赤いインクを落した水槽越しに見る景色の様に、重くて、
遠くて、揺らめいていて……』

 一旦気になりだすと、気になってしようがない。見る程に、赤は濃くなり、視界を遮る。
それでも誰かは目を凝らす。それでも見つめよう、思い出そうと、心を前に、前に。

 そこで視界を今迄にない鮮烈な朱が染めて。

 そこが彼女の限界だ。そこから先へ踏み入る事は彼女に痛みを蘇らせる。そこから先を
見る事は彼女の傷口を開かせる。そこから先を思い返す事は、その夢を示して誘い、探り
の網を広げる、鬼の姉妹に知られてしまう…。

【駄目……】

 桂ちゃんの現在位置を、桂ちゃんの所在を、報せる訳には行かない。あの姉妹の鬼はま
だ、桂ちゃんの今いる地点を確かに掴めていない。

 故にこうして網を広げる様に、桂ちゃんが釣られる夢を広げ、まどろんで無防備な桂ち
ゃんの意識が動き、反応を示すのを、針に魚が掛るのを待っている。捕まえて食する為に。

 故にわたしはその網を逆用し、鬼の姉妹が桂ちゃんの心の動きや反応に気づく前に、反
応が微かな段階で先に桂ちゃんの心を特定し、働きかけて、忘れさせ、心を静め、眠らせ
る。

【駄目……】

 お願い。進まないで、思い出さないで。

『呼ばれている、誰かに、呼ばれている』

【駄目……ここにいては、いけない……】

 向うに行ってはいけない。呼ばれる侭に進んではいけない。動かないで、思わないで…。

 眠りの世界から、速く目醒めて。2人の鬼の関与できる、夢の世界から速く抜け出して。

 少しでも長く気づかれない様に。少しでも安全を保てる様に。桂ちゃんは今釣針を前に
見た魚の状態にある。気になって食いつけば所在を知られてしまう。待って、少し待って。

 誰かが、誰かが桂ちゃんの身体の外から何かをして、桂ちゃんを目醒めさせてくれれば。
わたしは想いの存在でしかない。まだ人の現身も取れる刻限ではないし、距離が遠すぎる。
肉体に、桂ちゃんの肉体に何か衝撃を与えて。

 目醒めてしまえば、ノゾミ達の網も徒労に終る。ああ、でも桂ちゃんが今乗っている経
観塚行きの電車はローカル線で乗客は少なく、隣の車両迄見渡しても人の姿は見当たらな
い。

 いつ迄も留められない。人の好奇心は押し留めるのが至難だ。桂ちゃんが過去に見憶え
あるのなら尚。この侭ではいずれ食いつく。この侭ではいずれ心が動く。耐えられなく…。

 何とかしなければ。でもわたしに為す術は。

 その時だった。桂ちゃんの間近から電子音の音楽が鳴り響き、その意識を一気に現実に
引き戻したのは。それは音その物と言うより、電車内で携帯電話を鳴らしたマナー違反へ
の冷や汗だったと、後でわたしは知るのだけど。

「はい、もしもし?」

 わたしは既に、桂ちゃんの所在を特定した。これは数年を共に過した故の優位か。目醒
めた桂ちゃんの意識や、日中ではわたしの声は気付かれもしないけど、夜の夢に沈めば、
わたしは桂ちゃんに話しかけられる様になった。

「やっほー、はとちゃん」
「あ、陽子ちゃん……」

 お友達の電話が、桂ちゃんを助けてくれた。電話口の向うで元気そうに語る、ショート
カットのボーイッシュな女の子の像が瞼に浮ぶ。

【奈良、陽子ちゃん。桂ちゃんのお友達…】

 お友達、何と懐かしく遠い言葉か。その隔たりは、わたしの今いる世界とのその距離は、
正に今のわたしと桂ちゃんとの隔たりだけど。わたしは今や桂ちゃんとは住む世界も生き
る時間も異なる。触れ合う事も、言葉を交わす事も通常あり得ぬ、希薄な微かな関係だけ
ど。その人生に殆ど何の役にも立てない物だけど。

 ひとまず、危機は回避された。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ノゾミ達が網を張るのを中断したのは、その少し後だった。逢魔が時とはいえ、まだ日
が没してないのに、成果が出るかどうか分らない網を張り続ける徒労と消耗を感じたのか。
恐らく彼女達の網張りは、次は深夜になろう。

 彼女達の勘は、かなり良い時間帯に探りを入れていた。わたしが留めなければ、そして
陽子ちゃんの電話がなければ、桂ちゃんは多分吊り上げられ、所在を確かに捕まれていた。

 助かった。危うい処だった。まだノゾミ達は桂ちゃんの所在を掴めてない。今回彼女達
の張り巡らせた網は、無駄骨に終らせた。否、わたしが桂ちゃんの特定に、使わせて貰っ
た。ノゾミ達はその事実も知らないだろうけど…。

 状況は大して良くなってはいない。桂ちゃんは今電車で経観塚に向いつつある。距離は
徐々に縮まっている。この距離だから、ノゾミ達は桂ちゃんの心の起伏に気付けなかった。

 でも今後は違う。どんどん距離が縮まれば、探査の精度は上がっていく。わたし程の深
い繋りがなくても、桂ちゃんの所在はじきに知られる。むしろそうなってからが真の戦い
だ。

 出来るだけ長く知られぬ様に。知られたら即守れる様に。その後は一刻も早くノゾミ達
の手の届かぬ町へ戻る様に。誰の助けも期待できない現状で、わたしの為せる事には限り
があるけど。わたしの力には限りがあるけど。

【桂ちゃん……元気に、大きくなって……本当に、可愛らしくなって。……本当に……】

 嬉しさで涙が出るなんて、何年ぶりだろう。
 報われた気持に浸れる贅沢は、久しぶりだ。

 姿形は変っても、魂を視る迄もなくわたしは即座に分った。この人がわたしの求め人だ
と。この人がわたしの一番たいせつな人だと。この人が、わたしの全てを捧げ尽くす人だ
と。

 十年の想いが弾け飛びそうで怖かった。張り詰めた覚悟も決意も、全部溶けてしまいそ
うで怖かった。これからなのに。真の困難はこれからなのに、ここで嬉し泣きに浸っては
いけないのに。わたしは抱きとめる物もなく、まやかしの腕で己の胸を抱きしめて泣き崩
れ。

【真弓おばさん、正樹おじさん、有り難う】

 十年前の夜に身を犠牲にして桂ちゃんを守ってくれた正樹さん。それ以降十年、女手一
つで桂ちゃんを、育て守りてくれた真弓さん。その想いの結晶が、今経観塚に、わたしの
前に戻ってくる。近づきつつある。元気でいる。

 柔らかな笑顔。喜怒哀楽の豊かな表情。健康そうに育った身体。明るいブラウンのスト
レートの髪は長く艶やかで。全てが愛らしい。ここにこの様にいてくれる事が無上に嬉し
い。

 敢て何も語らず興味なさそうに沈黙する主を前に、わたしは暫く一人抑えきれない涙と
震えに身を浸して、次の決意への力に変えて。全ては始ったばかり。全てはまだこれから
だ。

 この涙は桂ちゃんには見せられない。
 桂ちゃんにはわたしは初対面だから。
 初めて逢うどこかの誰かなのだから。

 わたしはこの時、桂ちゃんを即座に追い返す選択肢を採らなかった。今夜の夢で脅した
り、無意識に囁いて明日即帰る事を促すとか。

 でも、わたしが動けばそれが逆に、ノゾミ達に桂ちゃんの所在を報せてしまう。桂ちゃ
んの過去を求める想いの尊重は二番目で、わたし自身が桂ちゃんの側にいたい欲は番外だ。
それに、わたしの所作が桂ちゃんにどう影響を及ぼすかは分らない。追い返そうという動
きが逆に、桂ちゃんの興味を招く怖れもある。

【桂ちゃんは経観塚で、たいせつな出会いを経る。それは桂ちゃんの人生に、大きな大き
な意味を持ってくる。それを妨げるのも…】

 ノゾミ達がいつどの様に動くのか。それを見定めないと、使える力に制限の掛るわたし
は容易に動けない。暫くは注意深く様子見する他に策もない。緊張感の持続が難しいけど。

 主がわたしの身体を背後から抱きすくめる。桂ちゃんの到来は、主の動きも活性化させ
た様だ。肉を引き千切られつつ、骨を折り取られつつ、それでも今日のわたしは微笑んで
主の求めを受け容れられる。砕かれ潰された身体の修復が、いつもよりかなり早かったの
は、わたしの想いも活性化されていた為だろうか。

 月が昇り、鬼の刻限が訪れる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 虫の声が聞える。……虫の声?

 がさがさと、背丈の高い草を掻き分けて。

 年端の行かない小さな子供の視点が、緩やかな勾配のついた道のない道を、懸命に登る。

 深い緑に沈んだ世界。人里離れた静寂の森。

『わたしには憶えのない、でも不思議と懐かしい……ああ、そうだった』

 この景色をわたしは見ている。これは夢だ、名残の夢だ。黄昏の中をひた走る、電車に
揺られて見た夢の残り火。違っているのはわたしの視点。その子は誰かに手を引かれてい
る。手を引かれているのはわたしだった筈。その感触はある。まだ、ある。なのにわたし
は今、まるで第三者の様に、その背中を眺めている。

 手を引いているのは誰だろう。着物の様な服を着ている。小さな白い手は、大人の男の
人の手ではない。その手の先に見える人は…。

【駄目……】

『ああ、まただ。またこの≪意志≫だ……』

 この先には大きな樹がある。わたし達はそこへ向かって急いでいる。どうしてそれを止
めるのか。それを止めるこの意志は一体誰?

【駄目……】

 反応しないで。心を動かさないで。想い出そうとしないで。思わないで、考えないで。

 気付かれない程微かに密かに、わたしは蒼い力で赤い夢を侵食する。釣針を、口の先で
突付く状態の桂ちゃんの前に、タコが墨を撒き散らす感じで目隠しをして、感覚を乱して。

 これで、どれだけ保つかは分らないけど…。
 いつ迄、気付かれずに済むか分らないけど

『目の前に、もやが掛った』

 薄絹を重ねる様に、何枚も、何枚も、青白い光の膜が、赤い夢の世界を覆い隠していく。

『邪魔をしないで。何が駄目なの?』

【駄目……】

 それを考えても駄目。反応しては駄目。

『そんな事を言われても……』

 どうして駄目なの?

【ああ、それを問い始めてしまったら】

 人の『なぜ』は止め得ない。ますます強く、ますます明瞭に。それはもう寝付かせられ
ぬ。

「駄目なの、桂ちゃん」

 赤い夢を蒼い力で霧散させる。当然ノゾミ達に気付かれてしまうけど、もう限界だった。
桂ちゃんは釣針に食いつきかけていた。もう、どの様に目晦ましをしても、桂ちゃんの心
を眠らせる事は出来ない。その為に力を揮えば、わたしの介入を悟られて結局所在が露見
する。

 時間稼ぎでも、赤い夢を霧散させて、ノゾミ達に探索をやり直させる。その間にわたし
は桂ちゃんに直接語りかけ、心を落ち着かせ、寝付かせる。心を鎮められれば、今晩だけ
でも桂ちゃんは、鬼に見つかる怖れはなくなる。

 起してあげられれば一番良いのだけど。桂ちゃんの身体に物理的に触れて、声か何かで、
夢から引き上げて上げられれば良いのだけど。でも今は夜だ。さっきの午睡とは違う。結
局桂ちゃんは、夜には人は眠りについてしまう。

『緑の世界が、掻き消えた』

 繋いだ手のひらの感覚が消えた。
 わたしだけが取り残されてしまった。

 きゅうっと胸が締め付けられる。
 ここは一体どこだろう?

 夢から醒めてしまったのだろうか。
 だけど夜はまだ明けてない。

 息苦しい程の静寂の中。暗い夜の、闇の中。

 夢の途中の狭間の国で、わたしは一人迷子になってしまった。自分の感情に追い立てら
れる様に、必死に辺りを見回すわたし。

 だれか、なにか、わたしのほかの。

「桂ちゃん……」

『これは単なる記憶のリフレインだ』

【そう、あなたの奥深くに眠る記憶の反復】

 昼の記憶の反復ではない、遙か昔の記憶の。

『でも、あの声がいい』

 わたしの夢を途中で終らせた、あの声の人に責任を取ってもらおう。例えどんな人だと
しても、あの声の人はわたしを知っている。わたしの名前を知っている。

 あの声の人に逢おう。あの声の人を探そう。

 前も後ろも、右も左も、上と下の区別さえつかない、あやふやな世界をぐるりと見回す。

 真っ暗な空に、小さな星が瞬いた。

 わたしは近づく。夏の夜のぬるい空気をかいて、星を目指してわたしは進む。

 瞬く、ひらひらと、踊る様に。

 星ではなく、蝶だった。
 月の光を集めた様な青白い蝶が舞っていた。

『まるで、月の精……』

 憑かれた様に、わたしは手を伸ばす。
 触れられなかった。

 本物の蝶がそうするように、月光蝶はするりと身を躱して飛んでいく。

 わたしは追いかける。でも、追いつけない。
 かと言って、引き離されもしない。

【わたしの方にいらっしゃい。ノゾミ達に気付かれる前に、わたしの力に誘われ来つつ、
わたしの心に包まれて、その魂を静めて…】

 どれ位進んだのか。

 羽ばたく度に闇に散り、溶ける様に消える光が、溶け切る前に何かに当たった。蝶はそ
の周りをくるくると舞う。青白い光に浮び上がったのは、悲しそうな目をした、女の人だ。

「桂ちゃん……」

 ああ、この声は、この顔は……。

 痛みが、走った。

「駄目。考えては駄目」

『知っている。誰かに似ている。それはとても懐かしく、毎朝毎晩見ている鏡の中の…』

「あつっ!」「桂ちゃん」

 目頭を抑えて蹲る桂ちゃんに、わたしは思わず手を伸ばす。気が遠くなる程の痛みが目
から頭に突き抜ける様を、わたしも感じ取れる。考えてはいけない。想い出そうとしては。

「桂ちゃん、考えないで。お願いだから…」

 桂ちゃんの頭を撫でる。ああ、久しぶり。
 幼い頃何度も何度も撫でた様に、今も又。

『少し冷たい指先が、痛みを吸い取ってくれるみたい。風邪をひいた幼い日の夜、苦しい
処を撫でさすってくれた、お母さんの手にも似ている。ああ、やっぱりこの人は……』

「駄目」

 話しかける事で、桂ちゃんの思索を遮る。
 話しかける事で、桂ちゃんの痛みを防ぐ。

 敢て姿を見せたのは、何も目に映らなければ余計な事を考えさせてしまうから。同じく、
桂ちゃんに考えさせない為に、喋って動いて、その目先を変えないと。直接語りかけて、
想い出そうとする心の動きを、止めさせないと。

「ねえ、約束して」

 名乗りはしない。今夜限りの出会いなら、この名を心に刻ませるべきではない。わたし
は忘れ去られた存在だ。何事もなく経観塚を離れれば、桂ちゃんはその侭わたしに関りの
ない人生を進む。躓きの元を残すべきでない。思い返すきっかけを作らず、誰かに話す取
っ掛りを与えず、時の風化に身を任せる為に…。

 わたしは、憶えていて欲しいとも望まない。
 わたしは想い出される日なんて夢想しない。

「約束?」

 桂ちゃんの問い返す声が愛おしい。
 桂ちゃんの見上げる顔が愛らしい。

 もう届かないと思っていた筈の桂ちゃんが間近にいる。夢に思い描いた桂ちゃんが、夢
の中だけど、確かにわたしの手の中にいる…。

 その愛着を全て噛み締めて。
 この想いを全て振り切って。
 己の未練を全て断ち切って。

 この胸を埋め尽くす想いも悟られない様に。

「わたしの声も、姿も、あの景色も、夜の淵に沈めてしまうと。明日の朝日に溶かしてし
まうと……」

「それって、忘れろってこと?」

 桂ちゃんの問い返しに、わたしは頷いて、

「夢は、唯の夢だから」

『赤い痛みも、頭を撫でる手も、この懐かしさも、全てを。布団から出ると忘れてしまう、
ずっと今迄見てきた筈の、思い出せない何千の夢の一つと括ってしまえと、そう言うの』

 夢の中で人の心は、意識しても隙だらけで、その心は筒抜けだ。己と他者との境も曖昧
になって、桂ちゃんの見た像もわたしが共有でき、その抱く思いもわたしが同時に抱けた
り。桂ちゃんの意識がわたしの心と同調できたり。

 桂ちゃんの心の動きが、手に取る様に分るのも夢の中だから。桂ちゃんが、わたしにそ
れを為せないのは、夢の感応に慣れない故か。確かにこういう経験は常の人には少ないけ
ど。

 桂ちゃんは困惑した表情で首を横に振った。

「桂ちゃん、どうして?」

 わたしが訊ねたのは、桂ちゃんの心のもう半ば位に、頷こうかと言う迷いが見えた為だ。
桂ちゃんの心の奥に、わたしの促しを拒みたくない想いが宿っている。わたしの言葉に従
うべきだという感性は、尚彼女の底の無意識で残り続けているらしい。それを振り切る様
に敢て首を横に振った、振らせたのは一体…。

「だって……」

『分らない。だけど、忘れたくはないの…』

 例え目が醒めると忘れてしまう儚い記憶だとしても。桂ちゃんはもう子供じゃなかった。

「……忘れたくない物は、忘れたくないんだもん……」

『自ら忘れてしまうと約束するのは、何かたいせつな物を手放してしまう様な気がする』

 最後の絆を、手放してしまう様な気がする。

 それに頷くのが、この人への正しい対応だとしても。それに頷くのが正解で、この人の
望みだとしても。その正解で、この人との絆が切れてしまう気がして、頷けない。

 その想いが、その表情から読み取れる。
 忘れた筈なのに、憶えてない筈なのに。

「桂ちゃん、お願いだから、聞き分けて」

 桂ちゃんはわたしの強い求めに、強くぶんぶんと首を横に振る事で抗う。それは微かに
嬉しい事でもあったけど、それ以上に今は桂ちゃんの身が危うかった。考えないで、想わ
ないで。眠り込んで、何も思い出さないで…。

「桂ちゃん……」「嫌っ」

 三度目の拒否と同時に、時間切れが来た。

「ふふっ、うふふっ……」

 小馬鹿にする様な、誰かの笑い声が届く。

「だっ、誰?」

 桂ちゃんの問に、応えたのは鈴の音だった。

「そんな……」

 間に合わなかった。鬼の少女達も桂ちゃんを特定した。もう隠れられない。相手は桂ち
ゃんの魂を憶えた。青珠を持って、贄の血が匂わなくても、ノゾミ達は桂ちゃんを追える。
2人は以前微かでも桂ちゃんの血を得ている様だ。故にその?りは、簡単には断ち切れず。

 鈴の音が更に続く中、歌う様な声が被さる。

「隠されっ子、みぃーつけた」

 甘い夢は終った。厳しい現が、待っている。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしも、夢から一気に意識を引き上げる。ノゾミ達はこの夜の内にも行動を起すだろ
う。標的が見つかったのだ。躊躇う理由などない。彼女達の依代がどこにあり、現身が桂
ちゃんの元に辿り着くのに何分掛るか分らないけど、朝迄桂ちゃんが無事でいるとは思え
なかった。

【ミカゲ達に見つかってしまった様だな。予期していた事とはいえ。さて、どうする?】

 贄の娘。お前は贄の子を守るに何を為す?
 主の視線が、興味深そうに見下ろすのに、

【……桂ちゃんを、守りに、行きます!】

 わたしの答は期待に沿う物だっただろうか。
 衣の袖をはためかせつつ、わたしは決然と、

【ノゾミ達は今夜の内にも桂ちゃんを襲うでしょう。彼女達は待ちかねていましたから】

 今夜防ぎ止めないと桂ちゃんに明日はない。
 今夜守りに行かないと、守る物が費え去る。

 例え封じを空ける事になっても。明らかに劣勢で勝ち目が見えないとしても。例え戻れ
て後もう一度あの悶え苦しみが待つとしても。

 自身の何を犠牲にしても守ると決めたのだ。
 漸く守りの手が届く処に迄来てくれたのだ。

 今行かなければわたしの生命に意味はない。
 わたしの生も死も、犠牲も全て無駄になる。

【朝迄には戻ります。ハシラの継ぎ手は消滅した訳ではなく、不在なだけ。ここにもわた
しを一部分霊で残していきます。だから、内から封じを破ろうにも一昼夜では破れない】

 主を解き放つ訳には行かない。ここにもある程度封じの力を残しておかなければ、向う
で桂ちゃんの生命を救えても、その直後に鬼神に喰われて終る。どっちつかずの戦力分散
は叶う限り避けたかったけど、やむを得ない。

【ほう……。だが、朝迄に戻れなければ?】

 興味深げな問に、わたしは目線を伏せて、

【わたしは陽の光の下で己を保てる程に濃密な存在ではありません。朝迄に戻れなければ、
この身は陽の光に照され消えているでしょう。わたしはご神木に依る者。戻ろうと思えば
ここに戻るのは瞬間で済みます。それが叶わない時がどう言う時かは、ご想像に任せま
す】

 わたしが敗れて消えれば戻る事も叶わない。

【竹林の姫は何度か分霊の形で蝶を送った事があった。多くは夢見にだったが、何度かは
現に人の目に付く形で。だが、その時でも送った蝶に込めた意之霊と魂は、姫自身に比べ
ほんの僅か。今回のお前が為すのはその逆だ。魂と生命を千切る痛みも尚尋常ではないの
に。
 ここに幾分かの分霊を残し、大部分が贄の子を救う為に戦いに赴こうとしている。今迄
千数百年の封じの中で、誰も一度も試した事もない途方もない無謀だぞ。怖くないのか】

 主はわたしの覚悟を問いたいのか。
 或いはわたしを心配しているのか。

【例えまともに帰ってこれたとして、その後にどんな反動と代償が待つかは想像もつかぬ。
分霊を残し、全て連れて行けない以上、力でミカゲ達を上回る事は出来まい。どちらか片
方に勝つ事さえ至難だろう。半ば以上負けを承知だから、その表情が硬いのではないのか。
お前が消えれば残った分霊で封じを保つのは無理だろう。いずれわたしは自由を得るが…。
 何も残せず、敗北と苦しみだけが待つ贄の子の守りに、尚行く気か。悔いはないのか】

 主の言う事は事実だった。勝ち目が殆どない事も見えていた。ご神木に残す分全部を持
って行けても、尚どちらかに勝つ事も難しい。2人の鬼は百戦錬磨。ハシラの力は封じの
為で、守りや回復はともかく、攻撃用の物ではない。わたしが継ぎ手になる迄に、真弓さ
んから学んだ技能を生かして活路を探すしか…。

 かなりの可能性でわたしは力尽きてしまう。わたしは桂ちゃんを守る為に消滅する迄抗
うから、桂ちゃんを見捨てて逃げる事は己に許さないから、わたしの敗北は消滅を意味す
る。その後で、桂ちゃんは恐らく自身を守れない。

 最悪の像は見えていた。そしてそれがかなりの高い確率で実現しそうな事も。それでも、

【幾ら悔いを残しても、幾つこの身に痛みを刻んでも、自身が為すと望んだ事ですから】

 勝算の有無は問題外だった。護るべき物がある限り、避けられないなら、戦うしかない。
あの時のお母さんもお父さんも、そうだったのだろう。力を知恵を絞り出し、及ばない・
届かないと分って尚立ち塞がった。痛みと苦しみと生命迄を引換に。今こそあの時の様に。

 万が一、成功して生きて戻れたなら、どんな悶え苦しみも甘んじて受けよう。怖いけど、
それは今も尚身体の震えを止められない程怖いけど、それよりももっと怖い物があるから。
絶対に失ってはならない物が、今危ういから。

【悔いは……、桂ちゃんを守りぬけなかった時に、まとめて】

 白花ちゃん。あなたを守ってあげられる力が残せないかも知れない。精一杯頑張るけど、
生命の限り戦うけど、折角経観塚に来てくれたのに何もしてあげられない。ごめんなさい。

 本来はハシラの継ぎ手としては失格な行いだけど、ありえない愚行だと分っているけど、

【朝迄、外させて頂きます。心ならずも、あなたを慕う者達を討ちに出る事になりました。
封じの要があなたの前を外れる無礼の購いは、戻ってから致します故に、どうかお赦し
を】

 許されなくても行く意志を固めたわたしの挨拶に、主はにやりと笑みを浮べ、

【今から抱きとめようかと思っていた処だが、気が変った。良かろう、外す事を赦す。お
前が外すその間に、わたしも封じの綻びを作って引き伸ばしておくとしよう。お前が戻る
迄に封じが解けていた時には、諦めて貰うぞ】

 主はわたしの想いを妨げるよりも、己の想いを封じに叩きつける方を優先すると答えた。

 わたしが空ける以上、封じがこの侭で保てない事は予想できた。主自身が出られる大き
な綻びになる前に、戻り来れればそれで良い。分霊が出ても、近くに依り憑ける人はいな
い。夜明けと共に日の光に消去されるだけだ。戻ってさえ来れれば、綻びの修復に問題は
ない。問題は、わたしが帰って来られるか否かだけ。

 主は瞳を戦意に赤く輝かせてわたしを見て、

【武運を祈っておこう。わたしを慕う者を討ちに出るとはいえ、面と向って挨拶されては、
その位はしておくのが礼儀だろうからな…】

 想いの侭に生きようではないか。君も我も。
 己の内の真の望みを曲げる事なく貫こうぞ。

 主の言葉は、敵に向けての物というより戦友に向けてのそれに近い。或いは主には敵味
方を越えて、わたしは同志なのかも知れない。どこ迄も、己の想いを貫こうと足掻き続け
る。

 わたしも覚悟は定まっている。
 主の瞳を正視して静かに強く、

【はい。必ずお互いにその様に】


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 夜の空では満月にもう少しといった感じの大きな月が、中天を通り過ぎようとしていた。

 わたしは人の現身でご神木の外に出て、軽快な歩みで結界の間近に至る。このご神木間
近の結界が主の眷属の鬼を弾いて近づけない。わたしには関りのない結界だけど、前回ノ
ゾミ達を追って出て、この結界に足を掛けた辺りで、ご神木に引き戻されたのを憶えてい
る。

 あの時は、封じの力を勝手に転用して不足したご神木が、わたしからそれを取り戻そう
としたのが偶々そのタイミングだっただけで。何もこの結界が、わたしを阻んだ訳ではな
い。

 その筈だった。何も、問題はない筈だった。

『……、早く、行かないと……』

 こんな処で、ぐずぐずしてはいられない。

 己の中に兆す恐れに、無理やり逆らってわたしは結界の縁に足を踏み入れた。ざわっ…。

 草を撫でる夜風が吹き抜けていく。それだけだった。わたしはまだ人の現身を取っただ
けに過ぎない。まだ力は持ち出しただけで使ってはいない。実際には人型を取ってご神木
を離れた時点で、徐々に使い込みは始っているのだけど、まだそう多くはない。周囲に連
れている何匹かのちょうちょ達は、ご神木から引き抜いてきた力に、仮に形を与えた物だ。

「行けた……」

 十年ぶりに、ご神木の周囲から外に出た。
 何と長くも、果てしない年月を経た物か。

 背後が透けて見える、儚くも薄い現身でも、外に出て想いの侭に進めると言う事は、こ
んなに開放的な事だったのか。足の裏にも感触は希薄だけれど、感慨はひとしおだった。

「急がないと。想いに耽っている暇はない」

 ご神木の強制的な引き戻しは、来ない様だ。ちょうちょは何匹か戻されていた。ご神木
は力の不足を感じ始めたけど、離れると引き戻す力も弱まる様だ。全てわたしに取り込ま
ず、ちょうちょで連れて来たのは、その囮だ。わたしが戻った時どうなるかは想像したく
ない。

 少し離れた処で足を止める。物理的に羽様から経観塚のさかき旅館迄は相当距離がある。
走っては時が掛りすぎ、危急の場合間に合わない。ノゾミ達は今この瞬間、牙を突き立て
ているかも知れないのだ。この状況はわたしもある程度想定出来、故に方策も考えていた。
桂ちゃんの携帯電話についていた青珠に頼る。

 桂ちゃんの守りに持たせたのは、真弓さんだろう。羽籐の家に代々伝わるお守りの青珠。
贄の血の匂いを隠す、血の力の未修練な者には生命を左右する必須のお守り。桂ちゃんが
持つ前はわたしが何年か身につけていた。青珠との?りなら、わたしも浅くはない。そし
て青珠は呪物。不可思議な力を込められた物。

 あの青珠にわたしを飛ばす。わたしはご神木に依る者だから、どこにいてもどれだけ離
れていても、ご神木に戻る事だけは瞬時で出来る。ご神木と深い繋りがあるから。ならば、

『わたしはあの青珠とも、深い繋りがある』

 わたしの生命を守ってもくれた。わたしの幼い日々を見守ってもくれた。わたしの悲し
みや怒りや喜びと共にあってくれた。今は桂ちゃんの手元でお守りの任についているけど。

 わたしは青珠に力を流し込みもした。贄の血の力とは想いの力でもある。その中にわた
しの想いは尚残ってあるだろうか。あるなら、共鳴して。桂ちゃんを守る為に、守りに行
く為に青珠、あなたの助けが要るの。わたしは今は鬼だけど、肉も持たない執着の塊だけ
ど、

「青珠(あなた)の様に、贄の血の者を、桂ちゃんを守りたい者です。お願い、応えて」

 想いを飛ばす。先程は桂ちゃんに向けてだったけど、それを今度は青珠に向けて。羽籐
の家の歴代の想いが込められ続けた青珠なら、笑子おばあさんや真弓さんや、わたしの想
いが込められた青珠なら、きっと応えてくれる。

 桂ちゃんを救いたい思いを、助けてくれる。
 わたしとの繋りに必ずきっと応えてくれる。

 身が月光に照される。世界が青く輝いていく。周囲の空も風景も全て、塗り替えられて。
この青白い輝きは、月の光か、贄の血の力か、それともハシラの封じの力か。その全てか
…。

 気がつくと、わたしはさかき旅館の桂ちゃんの部屋の窓の外に、人の現身で浮いていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂ちゃんは、携帯電話を窓際に置いた様だ。その故に、室内ではなく部屋の外になって
しまったけど。部屋の中に顕れて、夢以外では初対面のわたしと鉢合せるのも問題あるの
で、これで良いのかも。わたしは落ちる心配はないし、万が一、傷を負っても治癒は本職
だし。今のわたしは肉がないから、壁もすり抜ける。

 青珠が微かに輝きを強めている。それは月光に照されるだけではない。わたしに応える
為に、わたしを招く為に、青珠にも力を使わせた。でもそれに見合う働きは必ず為すから。

『有り難う、青珠……』

 これで、遅れる事なく、桂ちゃんを守れる。

 それを口にする暇もなく、わたしは部屋の入口の向うに尋常ではない気配を感じ取れた。
間違いない。彼女達が血を啜りに現れたのだ。

 チリーン。微かに聞える鈴の音。

 桂ちゃんは窓の外に漂うわたしに気付かず、廊下の向こうの鈴の音に、強く反応を見せ
た。

「目醒めた積りで、これもまだ夢?」

 動揺と言うより、怯えが心を浸食していく様が手に取る様に分る。身体が強ばっている。

「ううん、きっと虫の声を聞き違えただけ」

 それとも、まさか。怪談話じゃあるまいし。

 桂ちゃんが、耳を澄ましている様子が分る。
 わたしもその向うに意識を集め様子を窺う。

 二人はいた。確実にいた。桂ちゃんの訳もない怯えは間違いではなかった。桂ちゃんの
所在を特定し、周囲に人の気配の有無を窺いつつ、この部屋に足踏み入れようとしていた。

 わたしのそれは示威だった。向うの出方を窺うと言うより、わたしの存在を気配で示し、
動きを牽制する。廊下を踏み越えて部屋に入ってくるのなら、わたしも応戦に突入すると。

 向うはそれに気付いたのか。動きが止まる。止まって暫く、動かない。向うも、様子見
か。

「止せば良いのに、わたしは耳を澄ましてしまう。ばか、知らなきゃ何も怖くないのに」

 桂ちゃんは、大人しく布団に潜っている。
 否、むしろ怖れを肌で感じ動けないのか。

 ここで朝迄牽制を続けても良かった。実際戦いになればわたしの不利は目に見えている。
桂ちゃんを守る為には、わたしはできるだけ戦力を温存しつつ対峙し続けるのが望ましい。
でも、相手はわたしの望む様に動きはすまい。

 いつかの時点で戦端は開かれる。二人の鬼は桂ちゃんの血を欲しており、待ちかねてお
り、どちらか一人でもわたしより確実に力が上だ。この侭わたしに睨まれるだけで、朝迄
動かないでくれるとは、とても思えなかった。

 鈴の音が鳴る。それは、桂ちゃんの興味を誘うと言うより、わたしへの威嚇だ。わたし
の反応を窺う動きと言うより、警告に近しい。

「部屋の外に、何かがいる様な気がする。
 廊下に人ぐらいはいるだろうけど。ここは旅館だし当たり前。夜中だってお手洗いに起
きたりする。そんなの、良くある普通の事」

 だけど、そういった他人事に無関心な気配と違い、息を潜めてこちらを窺っている様な。
わたしは別に霊感があるとか、そういう気配に敏感な方じゃないんだけど。

【この気配は、感じない方がおかしい位よ】

 桂ちゃん。わたしの視線迄も、含めてね。

「ううん、気の所為。気の所為だよね」

 自分に言い聞かせる様に桂ちゃんは、

「大体、寝起きのわたしの感覚なんて、信用できた物じゃない。洗顔フォームで、歯を磨
いた事だってあるよ。ううっ」

 何もそんな処迄真弓さんを見習わなくても。

「だから寝るよ。わたし寝るよ。ホントに寝るんだからね……」

 この状況で尚眠ろうとできるなんて、桂ちゃんも強者だった。普通の人なら無意識に苛
立ちや不安を感じて、手洗いや散歩に出てしまう。誘い出される様に起きあがって、人外
の者達の開けた口に飛び込んでいく事も多い。

「もし本当に何かいても、放っておいてね」

 お願いだから。

【ああ、その願いがノゾミ達に届くなら…】

 ここは危険だけど、動く事がきっかけになる怖れもある。わたしは桂ちゃんの動きに善
し悪しの判断が付きかねる侭、とにかく部屋の向う側の気配の一挙手一投足に注意を払う。
何かあれば動ける様に。即戦いに入れる様に。

 桂ちゃんは丸まる様に横になると、頭迄すっぽり布団を被った。目を閉ざし耳を塞げば
災いは通り過ぎると、己に信じ込ませ。頭を低くして、嵐が過ぎるのを待つ。でもこの災
いは桂ちゃんを狙って訪れた。鬼から身を隠す術を知らない桂ちゃんは、どんなに身を低
くしてもやり過ごせない。


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