第1章 廻り出す世界(丁)
扉が叩かれた。
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「桂さん、今の悲鳴は何事だ? 中に何かがいるのか?」
『ああ、この声は、この口調は』
桂ちゃんに微かな希望が兆すのを感じた。
『都合のいい幻聴でなければ、間違いなく』
ドアのノブが鳴る。
「鍵か。どうする? 壊して踏み入るか」
普通あり得ない強行策を呟く声に、ノゾミの視線がドアの方を向いた。その時、桂ちゃ
んの予測不能な動きが再び。その瞳が輝いた。
桂ちゃんは、体当たりでノゾミに突貫する。
『桂ちゃん、なんて無謀な……!』
でも、今度はその無謀は幸いに働いた。
「えーいっ!」
助走距離はごく僅か。だけど直前でスピードを緩める真似もしない。その結果が、身構
えていた桂ちゃんも、反作用で倒れる威力だ。それでも為した側である桂ちゃんは即座に
立ち上がり、入口に向いつつ横目で様子を窺う。
よもやの伏兵だったのか、ノゾミは受身も取れずに転がっていた。勝利に酔った瞬間は、
誰にも常に最大の隙であるらしい。
「烏月さん、今開けるから!」
「このっ……ミカゲ、止めるのよ!」
ノゾミの声に、直後に鈴の音が応えて動く。音は桂ちゃんに向って近付いて行く。わた
しは息が上がって動けず、起きあがろうとするノゾミの牽制以上は、見守る事しかできな
い。
桂ちゃんは振り返らずにドアに取り付く。
「桂さん……鍵を開けたら、横に退くんだ」
「うっ、うん」
鍵が外れた。
桂ちゃんは言われた通り、身体をひっくり返してドア前のスペースを空ける。その背後、
ミカゲはもう手を伸ばせば届く処迄来ている。
ドアが開き始めると同時に。
滑る様に踏み込んでくる影。
桂ちゃんの前を掠め部屋に踏み入った影は、手にしていたそれを振り下ろし、ミカゲは
とっさに後ろに飛び退いた。
銀光一閃。
ミカゲの身体を通り抜け、畳に触れる寸前で静止したそれは、研ぎ澄まされた鋼の刃だ。
大きくなびいた黒髪が背中に落ちる前に、千羽さんは姿勢を戻し、蒼い右目を見開いた。
「現身を崩して逃れたか」
鈴の音よりも早いか遅いか、飛び退いたミカゲに向って千羽さんが迫る。
「だが、この太刀を舐めて貰っては困る……。
この維斗は百邪を除き凶気を祓う霊刀。霊体であっても、唯で済むとは思わない事だ」
横一文字に斬られた傷口が、ボロボロと崩れて空気に溶けていく。
「それは鬼切部の……」
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽刀の鬼切り役」
長い黒髪の艶やかな少女が、整った容貌を崩さず、静かに力強い語調でそう名乗るのに、
「ふうん、あなたが」
ノゾミはひとまず後ろに引く。わたしに止めを刺すタイミングは逸したと察したらしい。
鈴の音も軽やかに飛び、ミカゲに並んだノゾミが、瞳の赤を瞬かせながら訊く。
「前からそれ程経っていないのに、もう代替わりしているのね?」
「人の寿命はそう長くない。それ程がどれ程かは知らないが、百年生きる人間は稀だと憶
えておくが良い」
「知っているわ。人の脆さなんて嫌になる程。病には罹るし、すぐに死んでしまうし」
「そう思って人を侮るのなら、つまらない小細工は止して貰おう。言っておくが、私はそ
の程度の邪視なら無効化できる」
その右目が蒼く、輝いていた。
「あら、それは残念」
ノゾミはそれ程応えた様子でもなく、
「だけど侮ってなんかいなくてよ。その太刀の持ち主には、随分お世話になったもの」
「前任のお役目から受けた借り迄、あなたに返してあげたい程に」
ミカゲの憤懣は言葉に出す時点で凄まじい物がある。それを受けて尚怯えぬ千羽さんに、
「「それで……」」
「あなたも私たちを封じに来たの?」
「だとしたら今回はやけに対応が早いのね」
ぴたりと静止していた剣先が動いた。
「……対応と言うからには、すでに何かをやらかした後という事か」
「あら、失言だったかしら」
「私がこの地に来たのは別件を追っていての事でね。とは言え、人に仇なす怪異を討つの
が、我ら鬼切部の使命。千羽党当代の鬼切り役としての勤め、果たさせて貰おうか」
とんっ。一歩踏み出す千羽さんと同時に…。
ノゾミとミカゲも後ろへ飛んだ。切っ先が数センチもない目前を走り抜ける。千羽さん
は練達の鬼切部で刀の使い手だけど、鬼の姉妹も百戦錬磨。簡単には決着は付けられない。
「うふふっ、こわいこわい」
「姉さま、そろそろ潮時でしょう」
ミカゲは尚も冷静だった。わたしと戦って消耗した力を、直ちに桂ちゃんから取り戻せ
る状況ではなくなったと分り、撤収を考えている。ノゾミもそれに促されて気付いた様で、
「そうね。所詮は遊びで来ただけだし、何だか興醒めしてしまったもの」
月に雲が掛ったのか、急に部屋が暗くなる。
「贄の血を諦めるのは残念だけれど、大事をとって退きましょう」
部屋の暗さに溶け込む様に、ふたりの姿も陰に隠れて、
「「では、ごきげんよう……」」
鈴の音だけを残し、姿を消した。
やがて残響も完全に失せて行き。
それでも……何も起らなかった。
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部屋の中には唯静寂があるのみ。
鬼の姉妹は本当に去ったらしい。
緊張の余り呼吸すら忘れていた桂ちゃんが、胸に一杯の二酸化炭素を吐き出した。
「はぁ〜〜〜」
身体を支える緊張感迄、一緒に吐き出した様に、その場にくてっとへたり込んで、
「あはは、すごい。まだ生きてる。やったよー、助かったよー」
「いや、まだだ」
千羽さんの視線は、わたしを見据えていた。
大多数の力を使い切っていて、素早く逃げる余力がなかった以上に、ノゾミ達が本当に
撤収するのかどうか、それを見通さないとわたしも不安だった。恐らく今この現身を解い
ては、もうここに立ち戻る事は出来ないから。
彼女達の撤退が偽装で罠で、再び反転して顕れても、もう一度ここに顕れる余力はわた
しにはないから。だから、満足に動けない身体を無理に撤収はさせず、留まり続けていた。
「えっ?」
桂ちゃんが慌てて部屋を見回している。
『脱力しまくりの今のわたしって、物凄く無防備で危険な状態なんじゃあ?』
その通りよ、桂ちゃん。心を読まれまくるその豊かな表情も含めてね。でも、わたしは、
その脱力した今の桂ちゃんが一番お気に入り。
その表情に再び緊迫の影が兆すのは、まだだと言った千羽さんが、青々と底光りする眼
光で、わたしをねめつける様を見た時だった。
「彼女も、人間ではないのだろう?」
「えっ!? えええっ!?」
へたり込んだ状態を忘れて進もうとして、桂ちゃんの身体が前につんのめる。わたしは
下手に動くとその瞬間に斬られると分っているので、身動きせず千羽さんを見上げるのみ。
桂ちゃんが、両手の助けを借りた四つん這い走法を駆使して、わたしの前に回り込んだ。
「ちょっと待ってよ! ユメイさんはわたしを助けてくれたんだよ?」
割って入って、根性を入れた膝で踏ん張る。
そして、膝立ちした桂ちゃんの目の前には、
「ひゃっ」
ギラリと光る本物の白刃が輝いていた。
時代劇で使うつるつる光る銀色の刀とは随分と違う。木目の様に波立つ模様が不思議な、
どっしりと黒みを帯びた鉄の板だ。縁には、魂さえ映しそうな程研ぎ澄まされた刃が光り。
「あなたの信頼を得る為の、偽りではないという保証は?」
千羽さんは鬼切部だ。桂ちゃんを斬る理由はない。あれは脅しだ。わたしを斬る為に、
桂ちゃんをその場から退かせる為の。だから桂ちゃんに向ける千羽さんの言葉に、気合い
はあるけど殺気はない。ない筈だった……。
「そんなこと……」
「ないと断定できる程、あなたは彼女の事を知っているのかい?」
「ううっ……それは……」
『知らないけど、知っていたかも知れないのに。とても大切なことを、たいせつな人を…。
何もかもを、忘れている自分が恨めしい』
「桂さん、そこを退くんだ」
千羽さんは改めて宣告する。余り時間をかけると、わたしがどう動く分らないと怖れて
いる様だ。背後から桂ちゃんの身を貫くとか、人質に取るとか、逃げ去るとか、そんな事
態迄を想定している様子が、関知できる。でも、
「いや!」
「どうしても?」
「どうしても!」
この段で、それが微妙に変った。桂ちゃんを守るべき人から、討つべき鬼を庇う者へと。
その場を退けさせる脅しの気合いはその侭に、本物の闘志が加わり始めて。斬る迄せずと
も、刀の背で叩き伏せて押し通る位はやれる瞳だ。
「そうか、ならば仕方がない
わたしは鬼を切る者……その邪魔をするならば、人とて許す積りはない」
無造作に刃を近づけてきたのには、流石にわたしも身が震えた。斬る積りはないと信じ
ていたけど、切っ先が産毛に触れた時には我知らず、わたしも応戦に力を集めかけていた。
桂ちゃんを傷つける者は、鬼でも人でも、正義でも鬼切部でも許さない。それが桂ちゃ
んの大切な人でも、桂ちゃんを哀しませその身を傷めるなら、わたしは唯では済ませない。
それが状況をより面倒にすると理性で分るので、感情の大波を何とか自身で抑え込んで、
「待って下さい、千羽さん」
桂ちゃんが硬直して、人の言葉が耳に入らない状態である事は見て分った。今は桂ちゃ
んに何か促すより、主導権を持つ千羽さんに、
「桂ちゃんに罪はありません。鬼切部は人に仇を為す鬼を斬る者の筈です。桂ちゃんから
刃を放して下さい。斬るのなら、わたしを」
人に害を為してないサクヤさんを斬り付け、瀕死に追い込んだのも、鬼切部だったけど
…。
感情を排除して冷徹な目でわたしを眺める千羽さんに、わたしは半ば透けて消え掛った
姿で訴えかける。千羽さんはノゾミとは違う。桂ちゃんを害する者ではなく守る者だ。相
打ちにしてしまっても桂ちゃんの守りが消える。
今のわたしに千羽さんの攻撃は防ぎきれず、躱せもしない。わたしは為される所作を受
け容れる他に術がない。わたしが消えても千羽さんが残るなら桂ちゃんの守りは尚保たれ
る。
「その代り、お願いします。桂ちゃんを、守って下さい。わたしには、守りきれなかった。
力が及ばなかった。あなたが、桂ちゃんをより確かに守ってくれるなら、わたしはここで
斬られて消えても良い。今尚桂ちゃんの生命は危うい。鬼の姉妹は又来ます。その時に」
必ず桂ちゃんを守ると、約束して。
一度はあなたに救われた生命。渡せと言われれば拒みはしない。唯、桂ちゃんの守りを。
「わたしの消滅と引き替えに、約束して!」
「戯れ言を……。執着を捨てられずに鬼と化した者が、自ら消滅を受け容れる筈がない」
言いつつ千羽さんの語調が微かに揺らぐ。
その瞳は信じないと言うより、むしろ信じてはいけないと己の心を縛っている様だった。
尚桂ちゃんの首筋から刃を放さず、視線はわたしを厳しく睨み付ける千羽さんに、
「わたしの唯一の執着は、たいせつな人の守りと幸せです。それさえ保たれるなら、その
人に日々の笑顔が残るなら、わたしは鬼にもなるし、消滅も受け容れる。その刃も受ける。
だから先に約束して。桂ちゃんを、守ると」
それさえ確かに約してくれるなら、今からわたしはあなたの刃を逃げずに受ける。でも、
「それが為されないなら」
「為されないなら……?」
千羽さんの双眸が微かに迷いの光を見せる。
わたしがその先を告げようとした時だった。
いきなり目の前が真っ白になる。
この光は、カメラのストロボか。
「大見出しは『ナントカに刃物! 某有名私立に通うUSさん真夜中の凶行!』って感じ
かねぇ」
艶やかで長い銀の髪を持つルポライター兼写真家の登場で、事の流れは又向きを変えた。
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空いた侭のドアから身を覗かせたサクヤさんは、声は届くけどまだわたしが見える角度
にはいない。暗い室内で、彼女の視界の真ん中に千羽さん、その端に桂ちゃんが入る位で。
「おーい。桂ってば、生きてるかい?」
「……サクヤさん?」
「そうともさ。お陰様で良い絵が撮れたよ」
大きなレンズの付いた愛用のカメラを振る。
わたしがここに顕れる直前には、探ってもさかき旅館には、白花ちゃんもサクヤさんも
千羽さんも誰の気配も感じられなかったけど。泊っていればここに顕れても、おかしくは
…。
「それであんたら、何騒いでいるんだい?」
「それがね、サクヤさん。烏月さんがユメイさんを斬るって言って……」
「あん? ユメイだって?」
桂ちゃんの口から出るその名に、サクヤさんは瞬時、わたしに思い当たらなかった様だ。
桂ちゃんの口からは二度と出る筈のない名に。
「あ、ユメイさんってこっちの……人間じゃないんだけど、悪い人じゃあ、ないんだよ」
何と言えば良い対面なのだろう。電話や手紙でしか話してない長年の友達や親戚に会え
た感覚だろうか。心は、ご神木になった後の十年でも何度か通い合せていたから、十年ぶ
りとも言い切れないし、初対面でもないけど。
サクヤさんは難しい顔で、わたしの姿を穴が空く程眺める。わたしが人の現身を取れた
事自体が信じられないのだろうけど。別の妖かしが化けた怖れ迄、考えているのだろうか。
桂ちゃんが、何と説明しても理解を求められないと、困惑を隠せないでいるのが分った。
『ううっ、「人間じゃない」とか急に言われても困るだろうし、それで見た相手が実際に
半分透けてたりしたら混乱するだろうけど』
千羽さんも、その様を暫く見守っている。
わたしも初対面を装って見返すに止める。
そんな中サクヤさんの応対は大人の物で、
「……いいけどさ」
それで受け容れる。それで終らせる。
この応対には学ぶべき処が多いかも。
『わ、何だか知らないけど、流石だよ』
桂ちゃんの顔にそう浮ぶもより早く、
「それで烏月よ」「何ですか?」
サクヤさんは、千羽さんと知り合いらしい。名を呼ぶのは親しい故ではなく、関る者に
千羽の姓を持つ者が多い故だと、後でサクヤさんは弁明していたけど。果して、どうだろ
う。
「あんた、まーたそんなヒカリモノ振り回して、良くもまあ捕まらないもんだねぇ」
「登録証なら、持っています」
「持ち歩きにはそれで足りるだろうけど、抜き身で振り回すってのには、どうなのさ?」
傷害、殺人未遂の決定的瞬間の映像もあることだし。サクヤさんは、わたしを斬る斬ら
ないどころではない状況に千羽さんを追い込む積りか。話は暫く、わたしと桂ちゃんを置
き去りにして二人の間で進んでいく。
「今の写真を公表すると?」
「さーて、どうしようかねぇ」
「恐喝ですか。別に構いませんけど」
「へー?」
千羽さんがサクヤさんに注意を向けた間に、わたしは静かに桂ちゃんの首に突きつけら
れた刃を掴み、その首周りから外す。驚かすと千羽さんが力を込めるので、あくまでも敵
意を示さずゆっくりと。硬直した桂ちゃんを後ろから抱きかかえ、畳の上にリラックスさ
せ。
何気ない日常の如くそれを進め終えた事に、千羽さんは為されてから気付いた様子だっ
た。瞬間だけ視線が驚きに見開かれたけど、それ以上の動きは見せない。わたしを多少は
信頼してくれたのだろうか。わたしも力は使わず、人の姿で動ける程に止め、敵意はない
と示す。
「ナイフや包丁ほど日常的で現実味のある物ならともかく、ものが時代物の太刀ですから。
普通の人は芝居の稽古か何かと判断するでしょうね」
『烏月さんは女優裸足の美人だし、ユメイさんが映ってたら後ろの景色が透けてる訳で』
それに、ノゾミちゃんとミカゲちゃんと…。
桂ちゃんの思索が今は肌を通し感じ取れる。
『どう見てもフィクションだってば。特殊視覚効果満載だってば』
「仮に問題になったとしても、私はまだ実名や顔は伏せられる年齢ですしね」
桂ちゃんは話の先行きに気を取られて、己が楽な姿勢で座らされていると気付いてない。
わたしが後ろから寄り添って、疲れた上半身を倒れ込まない様に支えている事にも。桂ち
ゃんの無意識は、わたしとわたしの所作を素直に受け容れてくれた。わたしを、桂ちゃん
の身体はまだ憶えているのだろうか。身を委ねて良い相手だと、肌を許して安心な者だと。
「どうとでもなるってかい。最近は圧力でぺしゃんこになるような所を通さなくても、画
像や記事はバラまけるんだよ?」
「ますます恐喝じみてきましたね。匿名によるデジタル情報の公表などで、私を追い込む
だけの信憑性が得られるとお思いですか」
「ちっ」
柔らかな、でも十年前と違って大きく育ったその身体を後ろから抱き支え、二人でサク
ヤさんと千羽さんの会話を眺める。わたし達の命運を左右する会話にも関らず、それを聞
くわたしの姿勢は、やや緊迫感を欠いていた。桂ちゃんと肌通わせている所為かも知れな
い。この暖かな肌を、確かな感触を、支えていられる至福の後に、何が来ようとわたしは
もう。
サクヤさんが来た以上。千羽さんがいる以上。桂ちゃんは守られる。わたしは必須では
なくなった。わたしが滅んでも桂ちゃんを守ってくれる強い人がいる。それが、わたしの
緊張の糸を少しだけ、緩めてくれた。
「もちろん、どの様な状況においても、それなりの対策が取られる事になると思いますが
ね。若杉を通して」
「かぁーーっ、これだから権力もった親方に尻尾振ってる犬ッコロは」
「犬はあなたの事でしょう。己を揶揄して楽しいですか」
「忘れてもらっちゃ困るねぇ。誰かさんらのお陰で、あたしは正真正銘の一匹狼だよ」
「ほんと、仲悪いなぁ……」
桂ちゃんはこっそり溜息を吐いて、言い合う二人から視線を逸らす。その時点でわたし
の腕がその身を支えている事に気付いた様で、それでもその侭惰性で自然に受け容れてい
て、
「にしても一匹狼って、権力に媚びないフリーのルポライターって事を指して言ってるの
かな?」
半ば独り言だけど、わたしに視線を泳がせ、
「サクヤさんがしがないフリーで、しかも写真家としての方が売れてるのって、色々あっ
てスポイルされちゃった所為だとか?
そういえばさっき言ってた若杉って、若杉銀行とか若杉商事とか若杉生命とか、戦後の
財閥解体の処で教科書に出てるあの若杉?」
答を求められている訳ではないと、分っているので、わたしは綺麗な瞳を見返すだけだ。
『烏月さんに逆らったわたしも、社会的に抹殺されて、鬼とか言われちゃったりするんだ
ろうか』
桂ちゃんも流石にそれは口に出さなかったけど、それは決してあり得ない話ではないと、
サクヤさんもわたしも知っている。それも将来的に桂ちゃんの、不安材料ではあるけど…。
思索に耽って周囲が見えない桂ちゃんとわたしに、何度か千羽さんは視線を送ってきた
けど、わたしは座り込んだ侭逃げもせず攻めも守りもせず、黙って二本の腕で桂ちゃんの
身を支え、推移を見守る。動きは相手を刺激する。穏やかに、静かに、動かない事を示し。
この姿勢で、どの位心が通じ届いただろう。
サクヤさんを見つめ、わたしをも見つめて。
涼しげな金属音と共に、千羽さんは鞘に刀を収めた。音を聞いて、桂ちゃんが我に返る。
「烏月さん……」
桂ちゃんと、或いはわたしと視線が合うと、自嘲めいた笑みを浮べ、ドアの方へ歩きだ
す。
「先程の連中に少しだけ共感した。厄介者に乱入されて、後はどうでも良くなったりね」
「えっ……。じゃあ、ユメイさんは……?」
「好きにすると良い」
部屋の出入り口に陣取っているサクヤさんに、ぶつかる手前で足を止め
「仮にわたしが斬る気になっても、黙って見ている彼女じゃないだろうしね」
「はいはい、お帰りはこちらだよ」
千羽さんは、道を空けたサクヤさんを横目で一瞥して、部屋から出ていった。
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追いかけようにも、足腰が立たない。もどかしそうに千羽さんが去った入口を見つめる
そんな桂ちゃんの、腰の辺りに左手を添えて、軽く力を流し込む。疲れと緊張で巧く繋っ
てない身体の機能を、平常に戻る様にと促して。それに感づいた桂ちゃんの耳に背後から
囁き、
「桂ちゃん、行ってらっしゃい」
桂ちゃんは、驚きの顔で振り返った。
「えっ……、ユメイさん……?」
『今ユメイさん自身を斬ろうとした人を…』
追いかけようとしている。それを見透かされたと知り、複雑な表情を見せる桂ちゃんに、
その心情を説明出来ずに困り顔の桂ちゃんに、
「桂ちゃんのたいせつな人なんでしょう?」
わたしは気にしてないと、微笑みかける。
わたしは分っていると、柔らかに触れる。
千羽さんは、これからも桂ちゃんの大切な人になる。桂ちゃんのこれからの日々で喜怒
哀楽を共にする重要な人になる。わたしに叶わない、桂ちゃんの日々の守りを頼める人に。
桂ちゃんのこれからの心の支えを託せる人に。桂ちゃんに、彼女を求める想いがあるのな
ら。
「彼女は今行かないと、二度と得られないわ。桂ちゃんの真の望みを曲げる事なく、ね
…」
多くは要らなかった。柔らかな笑みに、桂ちゃんはこっくり頷くと、すっと立ち上がる。
十年の欠落があっても、昔を憶えてなくても、わたしの想いは通じている。当たり前の様
に心が通う。わたし達は互いを受け容れていた。
だからわたしは後回しで良い。
だからわたしは最後でも良い。
わたしには来なくても大丈夫。
今行かなければならない人に、行って来て。
「烏月さんちょっと待って!
悪いけどサクヤさん、ここお願い!」
部屋の中へ入ってきたサクヤさんと、バトンタッチする様に、桂ちゃんが入口へ駆けて
出る。サクヤさんが事の変転に付いて行けず、
「ちょっと、桂?」
問うけど、事情を説明する暇もない。
「ユメイさんの事よろしくね!」
「よろしくって、あんた……?」
その声も駆けだした桂ちゃんには届かない。殺気も妖かしの気配もなくなって、静かな
夜の旅館の廊下を、足音がぱたぱた駆けて行く。
「何をよろしく頼んだ積りだったのかねぇ」
入口から首を出して走り去った方角を眺め、就寝中の他の部屋のお客さんに動きがない
と一応確かめてから、サクヤさんは桂ちゃんを追いかける事は諦め、ドアを閉じ室内に戻
る。
習慣で電気の線に手を伸ばしかけ、拙いとサクヤさんが手を引っ込めた。鋭い。弱った
今のわたしには、電灯の熱と輝きも身を削る。自然な闇の中で、今少しこの身を保てる程
の力しかない。後は消えゆく刻を、待つばかり。
「桂ちゃんらしいですね」
想いの侭に真っ直ぐで。
とても可愛く育って。わたしがそう言うと、サクヤさんは苦味を含んで半ば呆れた感じ
で、
「あんたが甘やかすからだよ。烏月の所為で腰が抜けて立てなくなったのに、その烏月を
追いかけて行くなんて。あんたの力だろう」
「桂ちゃんの想いを、形に為しただけです」
静かにサクヤさんを見つめ返すと、
「桂には出来ても、四つん這い走法だよ。まともに走って追うなんて、出来る訳がない」
ふふっ。サクヤさんの読みは正しいです。
「あんたは昔から白花と桂に甘すぎたから」
「サクヤさんは、甘すぎませんでしたか?」
過ぎた日の回想は楽しい。笑子おばあさんが亡くなった人の想い出を楽しそうに瞼の裏
に浮べて語る様が、今更の様に思い出された。自然に顔が、微笑みにほころぶのを感じつ
つ。
「あたしは、厳しい一面も持っていたからね。
呑みたいと言えば5歳児の桂と白花に酒を呑ませたし、写真で見た山頂の日の出が見た
いと言えば羽様の山頂に肩車して行ったり」
それって、厳しい一面と言うのだろうか?
「あんたにも、相当厳しかったと思うけど」
はい。わたしは敢て、サクヤさんの言葉に突っ込みを入れず、ゆっくりと肯定し頷いて、
「わたしの告白を受けてくれたり、抱き合ってくれたり、わたしの血を呑んでくれたり、
この髪飾りをご神木に持ってきてくれたり」
首を僅かに傾げて、白く淡い輝きを放つ髪飾りに左手を当てて、それを示し。それから、
「本当は、先代のオハシラ様……竹林の姫に、こうして逢えたら良かったのでしょうけ
ど」
視線を俯かせず、精一杯サクヤさんの瞳を見上げて、わたしはわたしの苦味を語る。
彼女はもうご神木にいない。この世のどこにもいない。わたし達が守れなかった所為で。
サクヤさんの一番たいせつな人、封じの要を、守れなかった。サクヤさんにも姫にも絶望
を。
「ごめんなさい。こうして現身で出て来られたのが、わたしでしかなくて。サクヤさんが
一番逢いたい人ではなくて。わたしが守って、受け継がなければならなかったのに…
…!」
消えそうに透けた現身で、語りかけると、
「ばかな事を、言うんじゃないよ。あんたに、こうしてあんたに逢えて、謝られる筋合が
どこにあるんだ。姫様は姫様、あんたはあんた。あんたに逢えて、嬉しくない訳がないだ
ろう。こうやって、こうやって又抱き合えるんだ」
サクヤさんが涙目を見られたくなくて、わたしの背中に手を回す。まだ、しっかりとそ
の手の感触がある。ぶかぶかの和服の上から強く抱き締められて、苦しい位の感触が分る。
「もう、もうないと思っていたよ。あんたに、あんたにこうやって語りかけて貰って、こ
うやって抱き合える日が来るなんて、二度と」
姫様の事は、今夜はもう言うんじゃない。
サクヤさんは記憶の淵の苦味を呑み込み、
「今夜は、あんたの為の夜だ。あんたが顕れてくれた夜なんだ。彼女が顕れた訳じゃない。
あんたとあたしが再び逢えた、夜なんだ」
最高に、最高に嬉しいよ、柚明。
語りかけるサクヤさんも涙声なら、応えるわたしも涙声だった。心を揺るがす津波を抑
える術が、見つからない。唯互いを確かめ合うその感触だけが、そのうち歓喜に沸き返り
沸騰する二つの心を鎮めるだろう。それ迄は。
「嬉しい……。サクヤさん……そう言ってくれるのが……。わたしも、もう一度、こうや
ってサクヤさんを感じ取れる日が来るなんて、思っていなかったから。諦めていたから
…」
心にいつもサクヤさんを抱いていたから、いつでも想い続けていたから、寂しくはなか
ったけど、心細くはなかったけど、繋っていると分っていたけど。でもっ、でもっ。
「この腕で抱き締める事は出来なかったから。
幾らサクヤさんに触れて貰っても、幾ら真弓叔母さんに抱き締めて貰っても、わたしの
身体は硬い幹でしかなくて、節くれ立った枝でしかなくて、散って行く花や葉でしかなく
て。ずっとずっと想いを返せる腕がなくて」
こうして、肌を合わせられる事が嬉しい。
こうして息遣いを感じ合える事が愛しい。
二度と離したくない程に、この侭一つに溶け合ってしまいたい程に。
「ああ、そうだねえ。そうだったねえ」
本当に、久しぶりだねえ。こんなに満たされた瞬間は。サクヤさんは心から嬉しそうに、
その大きな胸の谷間にわたしの顔をぎゅっと抱き留めて、沈めて、埋め込んで、
「お帰り、柚明」「ただいま、サクヤさん」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
何もなければこうしていつ迄も肌を合せていたかったけど、日が昇る迄一言も話さなく
ても感触を確かめ合うだけで至福だったけど。
そうも言ってはいられない。そもそもわたしが無理に無理を重ねて現身を取った時点で、
何もない等と言う事は、あり得ないのだから。
桂ちゃんと千羽さんの話はまだ終ってない様だ。2人の気配が廊下のどこかで近接して
あり続けているのが分る。ノゾミ達の再来の心配は少ない。千羽さんもいるし、既にサク
ヤさんも来ている。わたしはともかく、下手に再来すれば痛い目を見るのは彼女達の方だ。
わたしがサクヤさんの肩に手を当てて、抱擁の終りを姿勢で示すと、サクヤさんは名残
惜しそうに了承してくれた。サクヤさんもわたしがわざわざ現身を取る程の、よくよくの
事情があると、この経過から既に分っている。
わたしが、桂ちゃんが鬼に狙われている事、贄の血を求めて十年前の鬼の姉妹が再来し
た事を告げると、サクヤさんは表情を変えた。
「ノゾミって……それは、十年前に真弓が斬ったって言う、桂と白花を連れ出したあの」
はい。わたしは静かに頷いて、近日の目に見えた限りの鬼の姉妹の動きを伝えた。十年
前の夜にノゾミが致命傷を回避して生き残れていた事も、ミカゲと共に復活し策動を始め
た事も、白花ちゃんに宿る主の分霊との連携を模索しつつ桂ちゃんの血を狙っている事も。
二人は既に贄の血を二口三口桂ちゃんから吸い上げており、その力は格段に強まっている
事も。わたしが、それを防げなかった事迄も。
「白花ちゃんも経観塚に来ています。実は昼間にご神木を訪れ、桂ちゃんともその前で逢
って、桂ちゃんの危機を知って、ここに助けに来てくれる事に、なっていたんですけど」
状況をかいつまんで話すと、サクヤさんは疑問が一つ解けたという顔を見せて、
「夜十時を回ってから、烏月が刀を持って外に駆けだしていくのを、見たんだよ。あたし
もカメラ片手にさっきみたいに後を付けたんだけど、結局烏月は暫く近辺の気配を探り続
けた末、捕まえ損ねた感じで引き上げて来て。あたしもスクープ映像を取り損ねた訳だけ
ど。
多分、白花だったんだね。気に食わない奴だけど、烏月は最近めきめき腕を上げている。
白花はまだ気付かれないと思って、気配を隠してきたけど察知されて、近づけなくなった
って処かね。その後の動きは分らないけど」
それで当初の関知では、さかき旅館に白花ちゃんも千羽さんも、サクヤさん迄感じ取れ
なかったのか。良かれと思い引き受けてくれた白花ちゃんも、頼んだわたしも裏目に出た。
わたしは自ら何かを投げ出さないと巧く行かぬ定めを持つ様だ。誰かや何かに頼ったり
効率を求め近道を行くと、逆に巧く行かない事が多い。主ならどんな星回りと言うだろう。
紆余曲折の末に、何とか間に合ったから良かったけど。これはやはりわたしが自身を抛
ち痛みを負ったから、間に合えたと言う事か。この場にいない白花ちゃんが心配だったけ
ど。
「わたしがもう少し早く形になれていれば」
何とか桂ちゃんの生命は救えたけど、その身は鬼に囚われずに済んだけど、桂ちゃんの
健康に及ぶ程失血の量は多くないけど。でも、鬼の姉妹は桂ちゃんとの運命の絡みを掴ん
だ。
桂ちゃんの血は彼女達の身に取り込まれた。繋りが出来た。わたしや笑子おばあさんの
血が、サクヤさんの身体の中を今も流れ続けて繋っている様に。切っても切れない赤い糸
が。それは魂と魂を繋ぐ。心と心を無意識に繋ぐ。運命と運命を引き合わせる力の、一つ
となる。
今後に禍根を残してしまった。自身の力不足を明かすわたしに、サクヤさんは、
「いや、柚明は、良くやってくれた」
あたしは全然、状況を知らなかったから。
前にご神木のあんたと感応した時も、それ程切迫した危険があると感じてなかったから。
桂が経観塚に行ったと聞いて、記憶に繋る事で倒れでもしたらと心配して、駆けつけた
だけだったからねぇ。そんな酷い状況が待っているとは、思っても見なかったよ。
主が言う通り、サクヤさんは間に合わない事、出遅れる事を宿命の星に持っている様だ。
気付かせる者がいないと、危急の場に間に合わない巡り合わせで、今回も間に合ったのは
わたしと千羽さんだった。間に合えば、一番頼れる戦力なんだけど……。
「あの鬼が、十年前に斬られて倒されたと思っていた鬼が、あの悲劇を招いた鬼達が…」
あの場に不在だったサクヤさんの噛み締める苦味は、ひときわ大きい。あの夜に自分が
いられれば、ノゾミもミカゲも纏めて倒したのにと。握り拳が、無言の侭に慟哭している。
桂ちゃんと白花ちゃんを邪視で操ってご神木に導き、サクヤさんのたいせつな人の魂を
還してしまった2人の鬼。主の封じを解き放って双子の生命を危険に晒し、羽藤の家を分
解させた2人の鬼。あの2人から、全ては始った。あの2人があの夜の悲劇を招いたのだ。
この2人が、わたしのたいせつな人達を……。
正樹さんの死も、白花ちゃんがその身に鬼の分霊を宿す苦しみの多い人生を歩んだのも、
桂ちゃんが赤い痛みに囚われて過去を忘れざるを得なくなったのも、真弓さんが苦労を重
ねて生命を縮めたのさえ。サクヤさんが拠り所にしていた羽藤の屋敷が廃墟になったの迄。
その2人が、今尚残ったわたし達の幸せを壊そうと蠢いている。わたし達の大切な人を、
奪い去ろうと画策している。襲ってくる。サクヤさんは過去を噛み締め、今を噛み締め、
「あんたが、あんたがここ迄してみんなを守ってくれたのに、あたしは何もできなかった。
笑子さんとの約束さえ守る事が出来ないで」
『分ったよ。笑子さんの大切なひとたちの幸せは、あたしが守るよ。必ず、守るからさ』
「六十年前と同じ様に、あたしは大切な人の役に立てなかった。姫様の時と同じ様に、あ
たしは何一つできなかった。あたしはあんたに謝って貰う前に、自分でオハシラ様を守る
事も出来ず、あんたを守ってやる事も…!」
長く生きれば、後悔の数も増えて行く。
心に刻まれる哀しみの数も増えて行く。
でも、それでも尚、今何かできるなら。
その苦味を乗り越えて、全て呑み込み受け止めて。サクヤさんは目の前の事に向き合う。
取り返す物があるなら、守る物があるなら。
今度こそ、今度こそ守る。絶対に守るから。
「あんたが、身を投げ出したその先で迄無理を重ねているのに。忘れない事を失った者達
との絆にしてきたあんたが、忘れ去られても尚尽くし続けているのに。ここで迄何もでき
ない様じゃあ、あたしは自分を許せない!」
間に合わない苦味を噛み締めるのは沢山だ。
わたしもサクヤさんも共に思い出している。
『あたしは何度手遅れを見れば良いんだ!』
わたしの宿るご神木を叩き付けた、十年前のサクヤさんの慟哭を。もう二度とあの様な
思いはしたくないと。鬼の姉妹の生存はサクヤさんに復讐戦の機会を提供してくれたのだ。
怒りを叩き付ける時と場を与えてくれたのだ。
それで戻ってくる物はないけど、それで取り戻せる物はないけど、これから失うかも知
れない物を守り防ぐ事は出来る。大切な人を、危険から救い遠ざける事なら出来る。
「最期にそれを聞けて、安心しました……」
わたしの笑みは透き通っていただろうか。
「柚明? あんた、今、なんて?」
戸惑うサクヤさんの右の手を両手で握り、
「こうして最期に触れ合えて、幸せでした」
もう時間はあまりない。わたしが、わたしを保っていられる時間の余裕は、それ程ない。
そう告げられて、サクヤさんは息を呑んだ。いや、サクヤさんにそれが分らない筈がな
い。見たくない物は、見せられる迄見えない物か。サクヤさんは、ご神木の千年余を知っ
ている。この様に封じの要が人の形の現身を取る事がどれ程異常であり得ないか、一番承
知の筈だ。
「竹林の姫が出来なかった事を、無理に無理を重ねてやってしまいました。本当ならこの
現身を作る事さえわたしには夢のまた夢、ノゾミやミカゲと戦う力なんて、ご神木にはあ
りません。千羽の技で、白花ちゃんから盗用した技で、ご神木の数十日分の生気を前借り
したわたしは、これからその反動と代償を受ける事になっています。狂気を招く程の渇き
と衰弱が、ご神木とわたしに待っています。
その狂気の日々が過ぎ去った後に、わたしがわたしを保っていられるかどうか。恐らく、
その前に主が弱った封じを破ります。わたしはここに現身を取って顕れた時点で、自身の
消滅を覚悟していました。だから、最期に桂ちゃんとサクヤさんに会えて、良かった…」
「あんた、そこ迄して……、出来ない事迄、無理をして……」
サクヤさんが哀しそうな顔をする事はありません。わたしが望んで選んだ事です。わた
しは、大切な人の役に立てる術を見つけ、全てを注ぎ込んだだけ。成功して、桂ちゃんを
守れて、それで満足です。この後の桂ちゃんや白花ちゃんの守りには、手が及ばないけど。
サクヤさん、お願いして良いですか?
「わたしの幸せを、守って下さい」
真弓さんが笑子おばあさんに為した約束を。
わたしが真弓さんに履行を求めた、約束を。
今度はわたしが、サクヤさんに求めていた。
「わたしのたいせつな人を、一番たいせつな人を、守って、助けて。鬼の姉妹から、主か
ら、その他この世のありとあらゆる禍から」
わたしは近日中に、燃え尽きる。万が一の幸運で主が封じを破らなくても、長期に渡る
生気の枯渇に、わたしの精神は耐えられない。封じとご神木が生き残れても、わたしの意
思は残らない。それで尚意思が残ったとしても、わたしは所詮ご神木を離れられない封じ
の要、ハシラの継ぎ手。白花ちゃんや桂ちゃんの為にしてあげられる事はない。わたしは
たいせつな人の為に、その未来に為し得る術がない。
「それもわたしが望んで選んだ定めだから。
それを選ばなかったら今がないのだから。
わたしはそれを、受け容れます。だから」
お願い、サクヤさん。
わたしは、忘れられて良いから。
わたしは過去を抱き留めるから。
その今と未来を、サクヤさんに。
わたしの手の届かないその先を。
「封じは最低あと何日かは保ちます。わたしが意地で、保たせます。だから、その間に桂
ちゃんと白花ちゃんを、経観塚から遠ざけて。どこか遠くで、気付かれない処で、安らか
に。わたしがわたしでいる限り、封じは解かせないから。その間に、出来るだけ早く、遠
く」
「あんたはどうなるんだい。あんたはっ!」
わたしは目を閉じて沈黙した。わたしに何が待っているのかは、関知の力を使えば分る。
分ってどうかなる物でもないと、言う事迄も。サクヤさんがわたしを想うが故に発する問
に、答の代りに、わたしは静かに瞳を開いて問う。
「サクヤさんにとって一番たいせつなものは、何ですか?」
「そりゃ、今一番たいせつなものは、ゆ…」
言いかける唇を、指先で軽く触れて止め、
「わたしには、この生涯を捧げて尽くさなきゃいけない人がいる。尽くしたい人がいる」
わたしはいつかの冬に、ご神木で語ったあの侭に、サクヤさんを見据えて、言葉を紡ぐ。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
「桂ちゃんと白花ちゃんが、わたしの一番たいせつなひと。サクヤさんは、その次です」
サクヤさんの心に響く様に、強く言い切る。
「だからわたしは2人の為に、2人を愛する自身の為に、定めを全て受け容れました。サ
クヤさんの為ではありません。今のお願いもサクヤさんの為じゃない。サクヤさんは大切
な人だけど、特別に大切な人だけど、でも一番じゃない。わたしがこれからこの身を襲う
地獄を全て受け容れるのも、桂ちゃんと白花ちゃんの為です。サクヤさんの為じゃない」
言い切って、残酷な迄に強く言い切って、
「サクヤさんは、誰を一番たいせつに想いますか? 誰が一番、たいせつな人ですか?」
本当に、わたしが一番大切なのか。それで良いのか。そう応えて、間違いはないのかと。
簡単に応えてしまわないで。わたしを大切に想う心は有り難いけど。わたしを心配に想
う心は嬉しいけど。わたしは、サクヤさんに一番に想われないと耐えられない訳じゃない。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「柚明、あんた……」
「サクヤさんの一番は千年オハシラ様でした。
オハシラ様を失った今、サクヤさんの一番たいせつなひとは誰ですか。誰でも良いけど、
何でも良いけど、今のサクヤさんの本当の一番は何ですか、誰ですか? 応えて下さい」
わたしはそれを知っている。
わたしはそれを感じている。
知っているからこそ、感じているからこそ。
わたしはそれを、サクヤさんから聞きたい。
わたしが、わたしの口から直接告げた様に。
関知ではなく、伝聞ではなく、その唇から。
わたしがサクヤさんの中では今尚二番目で、一番の人が別に確かにいるのだと、いう事
を。
その人を、最優先に考えなければならない。順番を間違えてはいけない。一番大切な人
を想う心の侭に。そうじゃないと、悔いを残す。わたしの視線に、サクヤさんは力の無い
声で、
「あたしの一番たいせつな人は柚明じゃない。
あんたはそれを感じているから、止めたのかい。オハシラ様がいる限り、姫様がいる限
り、笑子さんもあんたも遂に一番に出来なかった。そのオハシラ様がいなくなって、いな
くなって、その後は間違いなくあんたが一番になる筈だったのに。その筈だったのに…」
目を閉じて、下腹に力を込め、絞り出す様な声でサクヤさんは、苦虫を噛み締めて潰し、
「あたしにも、生きてある限りこの身を捧げて尽くしたい人がいる。守りたい人がいる」
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
「桂が、あたしの一番たいせつなひとだ…」
ごめん、柚明。あんたは尚一番じゃない。
「今尚、あんたを一番にしてやれない……」
最期を迎えようとしているあんたに、今から絶望を迎えようとしているあんたに、嘘で
も喜びを持たせるべきなのかも知れないけど。
他ならぬあんたの気持ちには、叶う限り応えたいんだけど、こればかりは許しておくれ。
あたしの一番は、この世に1人だけなんだ…。
「あたしは、あたしは相当酷い奴だよ」
わたしを正視できずにサクヤさんは、
「あんたの気持に、ずっと応えられなかった。オハシラ様が、姫様がいたから。だったの
に、その姫様がなくなっても、あんたの想いには、尚応えられない。酷い意地悪じゃない
かい…。
あたしはあんたを好きなのに、あんたの為なら何でもしたいのに、叶う限り応えたいの
に、どうしてもあんた以上に好きな人が…」
千年の間竹林の姫を想い続けた程純情なサクヤさん。その想いが、竹林の姫を失った後
で誰かに向かう時、向わなければならない時、サクヤさんは初めてその種の苦味を味わっ
た。わたしがサクヤさんより大切な人に、桂ちゃんと白花ちゃんに出会ってしまい、惑い
悩み、申し訳なく情けなく思ってしまった様に。誰かより誰かを大事に想ってしまう心の
痛みを。
「柚明を特別に大切だと想うあたしの気持ちは本物だよ。それでも、あんたの真剣に過ぎ
た想いに、今尚一番で応えてあげられないのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明」
桂なんだ。あたしの一番は、桂なんだっ。
病室で泣き叫んであたしの腕を掴んできた小さな腕が、真弓と2人きりで身を寄せ合っ
て暮しあたしが訪れると弾けた様に喜ぶ姿が、記憶も想い出もなくして強ばった顔が徐々
にほぐれて笑みを取り戻す様子が、あたしには何にも替えられないたいせつな物だったん
だ。
分ったんだ。寂しかったのはあたしだって。あたしが桂を慰めたんじゃなく、あたしは
桂に慰めて貰っていたんだ。桂の笑みが、あの瞳が、声が、あたしに尚希望を残してくれ
た。
あんたじゃない。あたしには桂が、桂が!
『だからこそ、わたしはサクヤさんが好き』
桂ちゃんと白花ちゃんの、すぐ次に大切。
サクヤさんは実はとても純情で臆病で、可憐で義理堅い。義理堅いにも程があると人に
言う前に、サクヤさんは己を見つめ返すべき。
わたしは、大粒の涙を零すサクヤさんを正面からもう一度抱き留めて、
「それで正解です。サクヤさん」
それがサクヤさんの真の想いなら全て正解。
わたしもサクヤさんも、気持を返して欲しいなんて思ってない。最初から、返される想
いなんて求めてない。あの言葉は、幼い日の言葉は、真実その侭、わたし達の想いだった。
『わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない』
結局わたし達はここに帰り着いた。互いに好きだから好きと言う。深く愛し大切に想う。
でも返される想いは最初から最期迄欲しない。
お互いにもう一番は望まない。わたし達は、お互いを一番に出来ない星の定めなのだろ
う。サクヤさんは月の寿命を生きる巌の民で、わたしは近日消えて散る定めだ。サクヤさ
んは間近に始って終りの見えぬ長い別離を味わう。しかもその僅かな間でさえ、わたしに
もサクヤさんにもお互いに、一番大切な人が確かにあって、お互いを一番にし合う事は出
来ない。
一度は交われても、二度は交われないとは、誰に言った言葉だったろう。わたし達は最
初から一度も交わり合えなかったけど、一度も互いを一番同士にする事が出来なかったけ
ど。
こんなに大切に想い合っていても通じない。
誰かを大切に想う心が強い故に、届かない。
それは分っているけれど、納得するけれど。
望んで選んだ運命だから、受け容れるけど。
「あんたとは、最期迄通じ合えないのかね」
「いいえ、通じ合えましたよ。サクヤさん」
わたしは、サクヤさんの弱々しい涙声に、
「わたし達は、同じひとを一番に出来ました。
同じ人を、一番大切な人を共有できました。
同じ想いを、同じ願いを、同じ人に向け」
サクヤさんの息が、止まる音が聞えた。
わたしの想いは、その侭サクヤさんに受け継がれます。わたしの桂ちゃんを一番に想う
心は、わたしが消えても残り続ける。サクヤさんの内にもあるから、同じ想いがあるから。
初めて、遂に、とうとう、辿り着けました。
サクヤさんとわたしは、本当に一つに……。
「お願いは不要でした。ごめんなさい」
そうであるなら、桂ちゃんが一番なら、わたしの願いなんかなくても、サクヤさんは身
を盾にしてでも桂ちゃんを守る。当たり前の話だった。わたしは漸く、安心できるのかな。
サクヤさんは、抱き締める腕に力を込めて、
「ああ、そうだよ。間違いない。それは、それだけは間違いない事だから。あたしは、桂
を誰よりあんたより大切に想うから。だから、あんたがやった様に、これからは、この身
も心も、何もかも捧げて桂を守るから。だから。
あんたはもう何も心配しなくて良い。
あんたはもう何も悩まなくても良い。
あんたの血はあたしの中に流れている。
あたしはあんたなんだ。あんたの一部なんだ。だから、あたしはあんたが尽くした様に
桂に尽くす。そして、あたしが桂に尽くせる幸せは、常にあんたと山分けだ。未来永劫に、
久遠長久に、天地の終りのその果て迄も!」
嬉しい。わたしは力強すぎる抱擁の中で、
「ありがとう、サクヤさん。
わたしは今、とても幸せです」
今この時を確かに強くしっかり刻む。
後から幾度振り返っても、思い返せる様に。思い出せない程心が摩耗し、果てしなく長
い時が過ぎ去り、振り返れぬ程遠ざかった果ての末にも、素晴らしかったと応えられる様
に。全てを失う絶望の闇の向うでも光抱ける様に。わたしがわたしでなくなっても尚保ち
たいと。
夜は進んでいく。時は一歩一歩運命を刻む。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「最期迄、あたしはあがき続けるからね!」
サクヤさんは尚、わたしの運命を何とか救う術を考えると言う。桂ちゃんを第一に考え、
その身を最優先にして、主の封じを保ちつつ、尚ご神木の要も大事だと、溢れた涙を拭っ
て、
「何とか定めをねじ曲げる。あんたが、尋常じゃない強い想いで不可能を可能に書き換え
た様に、あたしだって無理の十か二十位重ねれば、良い方法に辿り着けるかも知れない」
出来るだけあんたはあんたを保っておくれ。
折角方法を見つけても、あんたがアウトで救えなかったら、あたしが救われないからね。
「はい……サクヤさん」
多分そんな都合良く定めのレールを切り替える方法はないと思うけど。桂ちゃんを守れ
なくなる様に定めを切り替える術なら、幾つも関知に浮ぶけど。主や鬼の姉妹に深く魅入
られ、贄の血の陰陽である程血の濃い桂ちゃんの守りは、相当難しい様だ。わたしの関知
に浮ぶ分岐の先を幾つ視ても、かなり厳しい。
その上でわたしの身を守る様に定めを乗り換えるなんて。今のわたしは主の封じを担っ
ているので主の定めも関ってくる。鬼神の定めの重みが関れば、いよいよその見通しは…。
それでも、尽くすだけ尽くすというサクヤさんの好意は有り難い。わたしは、出来る限
り己を保とう。それが数日か、数時間かは、なってみないと分らないけど。わたしでいる
間は、少なくとも主の封じは、効くのだから。
サクヤさんは明日にでも、桂ちゃんを町に連れ帰ると言う。それが今となっては最善か。
少し寂しかったけど、それは当然来る訣れだ。
廊下の少女達の話も、決着した様子だった。千羽さんの気配が歩み去り、桂ちゃんの気
配がこちらに戻ってくるのが分る。わたしの表情でサクヤさんはそれを察し、涙の痕を拭
い、
「まだ現身は、保つのかい?」
「はい。あと二、三時間なら」
問に答えた時、ドアが開いて桂ちゃんが戻ってきた。でも、その姿はシュンとしていて、
出ていった時の勢いとは対照的だった。
『こりゃあ、恋文突っ返された乙女だわ』
サクヤさんの顔には、そう書いてある。
入口まで迎えに出て来たサクヤさんに、
「ただいまサクヤさん……ユメイさんは?」
サクヤさんは手振りでわたしを指し示す。
「お帰りなさい、桂ちゃん」
「ただいま、で良いのかな」
旅館の部屋への帰着の表現に、今更ながら戸惑う桂ちゃんに、
「じゃ、あたしは行って来るから。
柚明、桂をよろしく頼むよ」
「って、サクヤさん、一体どこへ?」
桂ちゃんが間近のサクヤさんに問うのに、
「自分の部屋に寝に行くに決まってるだろ」
夜なんだし。とぼけた声で、応えてから、
「と言いたい処だけど、そうも行かないね」
ノゾミやミカゲが近くに潜んで、尚襲撃の機会を窺ってないかどうか、目を光らせるよ。
「烏月はああいう感じだから、いざという時はともかく巡回迄頼めないし、あいつらも柚
明の話じゃ余力を残して引いたみたいだから。もう来ないと決めて掛るのは、危険だろ
う」
外の巡回と守りは、あたしが引き受けた。
それが口実だと言う事は明々白々だけど。
「柚明は桂の、お守りをしてやっておくれ」
確かに必要な事であるのも又事実だった。
その役割分担は、サクヤさんの気遣いだ。
「サクヤさん……」
「巧くやるんだよ」
一体どちらに言ったのか、或いはどちらに向けても言ったのか、意味深長な言葉を残し、
サクヤさんは廊下の外へ消えて行った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「後で、サクヤさんにお礼を言っておいてくれる?」
わたしは桂ちゃんとの時間で終る。それが分っているから、先にサクヤさんの気遣いへ
のお礼を、頼んでおかないと。わたしは立ち上がって、桂ちゃんを部屋の奥に招き入れる。
「ユメイさん、顔色……、大丈夫?」
わたしはサクヤさん程大泣きしてないけど、涙の痕は消した積りだけど、そう言う表情
の繕いは人の現身の方が容易だけど、感情の浮動を完全には消せない。サクヤさんは電気
を点けたら、泣き顔が明瞭に見えていただろう。月光が照す程の明るさだけど、気付かれ
た?或いは、現身を作る力の弱りを気付かれた?
「ええ、大丈夫よ」
改めて見れば、綺麗に取り繕ってある筈だ。
力の方も、気力次第でもう少しは保つ筈だ。
『顔色はやっぱり普通……かな?』
桂ちゃんの顔色の方が読み易い。
「それより桂ちゃんこそ、目が真っ赤よ?」
「え……?」
今宵の変転は、何の修練もない普通の女の子には、皆きつい波の連続だったに違いない。
ノゾミとミカゲの襲撃から始って千羽さんに首筋に当てられた刃迄、生命が幾つあっても
足りないとは今夜の桂ちゃんを指すのだろう。
柔らかなその頬に手を伸ばし、軽く撫でて、
「ごめんなさい。わたしがもう少し早く、形になれれば良かったんだけど。桂ちゃん?」
何かを堪えていた桂ちゃんの、限界に迄張り詰めた風船が弾ける音が、聞えた気がした。
「ごめんなさい! ……わたし、わたしっ」
桂ちゃんが、正面からわたしの胸に飛び込んだ来た。確かな感触が、何度目でも嬉しい。
「わたしの所為で、ユメイさんが危うく消えちゃう処だった……。わたしの無茶で、考え
なしで、勝手に危ない事しちゃってっ…!」
わたしが余計な動きをしなければ、わたしがあそこでノゾミちゃんに逆襲なんて考えな
ければ。2人ともあの侭引き上げて、ユメイさんも痛い思いも危ない思いもしなくて良か
ったのに。生命迄落しそうになってっ。
わたしの所為で、消えちゃう処だったっ!
わたしがユメイさんを消しちゃう処だった。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……」
『柚明お姉ちゃん、ごめんなさいっ……』
謝る言葉が桂ちゃんの幼い日のフレーズに重なって聞える。錯覚が二重三重に響き合っ
て嬉しい。心の奥から暖まる。桂ちゃんにそれを伝えては拙い事が、申し訳ない位に幸せ。
「たいせつな人なのに、失ってはいけない人なのに、わたしの、わたしの考えなしで…」
昨日の夜の夢もそう。忘れろって、わたしの為に言ってくれたのに、わたしの我が侭で、
わたしの憶えていたい想いで拒んで、言う事を聞かないで、ノゾミちゃん達に見つかった。
ノゾミちゃん達の言う通りだった。わたしは、ユメイさんの足を引っ張ってばかり、駄目
な方に向ってばかり。その所為で、その所為で。
溢れ出す悔いの嵐に、懺悔の嵐に、放置しておくと、桂ちゃん自身が、傷ついてしまう。
「大丈夫よ、桂ちゃん。烏月さん……だったかしら。彼女のお陰で、こうして形を保って
いられるわ。わたしは、大丈夫」
わたしは桂ちゃんを抱き留めて、その心をも抱き留めて。その涙をも受け止める。その
悔いは、わたしの物だったから。考えなしで重大な喪失を招いたのは、わたしだったから。
桂ちゃんの今は、少し前のわたしだったから。
考えなしの行動が、たいせつなひとを失う結果に繋った。それで尚愛され望まれ、守り
通され生き残れたわたしは、せめて人に寛容でありたい。生命ある限り、取り返しは利く。
わたしが傷つく事も苦しむ事も問題ではない。唯桂ちゃんの涙が、愛おしい。わたしは桂
ちゃんの垂れたこうべを、胸の内に受け止めた。
「桂ちゃんが、わたしを大切に想ってくれる気持は伝わったから。暖かくて優しい心はわ
たしの力になってくれるから。桂ちゃんには泣いて欲しくない。わたしは、桂ちゃんを泣
き顔にする為に形になった訳じゃない。桂ちゃんを守る為に、その笑顔を守る為に、わた
しは形になったのよ。だから、泣かないで」
サクヤさんや笑子おばあさんは、わたしを何度もこの様に受け止めてくれた。2人のた
いせつなひとを失わせる引き金を引いたわたしを。2人のたいせつなひとの生命と引換に
生き残ったわたしを。禍の子だったわたしを。
無条件に愛をくれた。無限大に愛をくれた。無尽蔵に愛をくれた。あの様に、わたしも
…。
例え致命傷の失敗をしても、わたしはわたしのたいせつなひとを、この様に力づけて、
抱き留める。そうしたいから。守りたいから。大切にしたいから。心を、汲み取りたいか
ら。
桂ちゃんの嗚咽と鼻を啜る音が胸から聞える。わたしの危険を招いたと悔いていたのか。
自身の失敗が他者の不幸に繋ると怖れたのか。十年前の桂ちゃんも可愛かったけど、今の
桂ちゃんも本当に目に入れて痛くない程可愛い。
その怯えが愛おしかった。その哀しみが有り難かった。守り通せた幸せを全身で感じる。
これが無理を重ねた末の報償なら充分すぎた。これがあるのなら何度この身が尽きても良
い。何度でも無理を為せた。後に何が待とうとも。
わたしは守りたかった。力づけたかった。哀しんでも苦しんでも欲しくなかった。いつ
も笑っていて欲しい。涙を零さずいて欲しい。その一翼を担いたい。幸を守る力になりた
い。
「大丈夫、大丈夫だから。わたしはもう…」
一つ一つの仕草が愛しい。寄せられる思いが全て愛らしい。これはわたしだけの錯覚か。
でも、今わたしの胸で泣き伏す桂ちゃんは理屈抜きに愛らしい。抱き留めてあげたくなる。
その心を癒したい。その心を温めたい。裁きや非難を望む心を解き放ちたい。桂ちゃんが
桂ちゃんであり続けるだけで、わたしは良い。
わたしは桂ちゃんに、許しをあげたかった。確かな形で安心を与えたかった。もう嘆く
事はない、もう悔いる事はない。全てわたしが受け止めた。だからもう二度とこの事で涙
を流さないで。わたしが人一倍過去を引きずる人間だから。心配や哀しみや悔いを引きず
らないで。未来を見つめて生きて欲しい。わたしはあなたの未来には共にいられない。だ
からその過去は、わたしが全部受け持つからと。
柔らかな頬を受け止めて、清らかな雫を受け止めて、愛おしい嗚咽を受け止めて、代り
に腕を絡みつかせ、細いその身を抱き留めて。暫く、桂ちゃんの泣き伏す侭に共に時を過
す。
こんな贅沢は、もうないだろうから。
こんな至福は、もうないだろうから。
こんな時間は、わたしの先にはもう。
だから、訊かなければならなかった。
桂ちゃんのこの先を守る人との関りを。
桂ちゃんを促して畳の上に寄り添って座り、
「烏月さんとは、巧く行かなかったの?」
泣き腫らした目で、それでも漸く少し落ち着いた桂ちゃんは、わたしの胸の前でこっく
りと頷いてから、わたしを見上げてきた。
「維斗で、2人の縁の糸を切られちゃった」
折角仲良くなれたのに、あんな形でけんか別れなんて嫌だよ。ユメイさんを諦めろって
言われても、困るんだけど。桂ちゃんの顔色を見ていると、大凡のやりとりが視えてくる。
『鬼に関るのなら、私に近付かない方が良い。私も関係者からは距離を置くようにしてい
る。
鬼という物はね、生れついての鬼よりも、人のなれの果てとしての鬼の方が、遙かに多
い物なんだ。敵陣に入った将棋の駒が、裏返って別の働きをする駒になる様に、業の深く
に踏み込んだ人が裏返ると……』
「そうね。わたしも、業の深い存在だから」
「ユメイさんは違うよ」
桂ちゃんが首をもたげて、そう言うのに、
「良いのよ。鬼の生を選んだのはわたしなの。全て承知で、この様な存在になると、望ん
だのだから。唯一つの執着に拘り続ける為に」
それは、悔いてないから。静かに微笑む。
『私が斬ってきたのも、大半がそうした鬼だった。……もう幾度となく、繰り返した。鬼
となった人の家族や知人に憎まれるのは、馴れているよ』
「とても哀しい笑いだった」
それに面した桂ちゃんの瞳が潤む程。
「追いつめられていたものね、視線が」
わたしの答に首を傾げる桂ちゃんに、
「わたしを斬ろうとした時、桂ちゃんがわたしを庇って立ちはだかってくれた時の彼女」
追いつめた側なのに、追いつめられたのはわたしだったのに、その視線は怯える様に、
内なる怯えを隠す様に、追いつめられてそうする他に術がないかの様に、切迫していて。
「わたしは破妖の太刀で追いつめられていたけど、彼女自身も追いつめられていた。斬ら
ないと、鬼を斬らないと自分を許せない、自分でいられない、そんな切迫した瞳をしてい
たわ。綺麗だけど、強いけど、強さの限界迄痛みを背負い込んだ様な、そんな瞳だった」
「ユメイさん……、もしかして」
その美しい哀しみが分ると言う事は。
その清らかな強さが分ると言う事は。
『ユメイさんも、同じ様な痛みを……』
桂ちゃんの瞳が潤みがちなのを、思いに耽ってしまうのを、話を引っ張る事で防ぎ止め、
「彼女が、桂ちゃんを守ってくれるなら…」
わたしが長くない事は言う必要はない。唯、少しでも桂ちゃんの守りを硬く、強く、多
く。贄の血が濃い桂ちゃんの重すぎる定めを未来を少しでも支えてくれる人、分け合える
人を。
「……わたしは、斬られても良かったのに」
彼女は約束を違えない。長くないわたしと引き替えに彼女が桂ちゃんの守りになるなら。
「だめっ!」
桂ちゃんは、強くわたしの言葉を否定して、
「烏月さんが守ってくれても、ユメイさんが斬られちゃだめ。それは、わたしが嫌だから。
烏月さんは大切な人だけど、縁を切られたってまだ諦められない人だけど、でもその為に、
ユメイさんを諦めるなんて、わたし出来ない。
ユメイさんを諦めるわたしは、わたしじゃない。そんなわたしなら烏月さんを求めない。
烏月さんもそんなわたしと仲良くなんてなりたがらない。だから、そんな事言わないで」
「……そうね。桂ちゃん、有り難う」
そうだった。わたしにはまだ、白花ちゃんがいる。まだ、斬られて終る訳には行かない。
残りがもうごく僅かでも。在り続ける限りは。
「ごめんなさい。大きな声、出しちゃって」
「良いのよ。気持は、伝わってきたから。暖かくて強い気持が、わたしを想ってくれる気
持が、嬉しいから。桂ちゃんの気持だから」
桂ちゃんは理屈抜きに真実を射抜いていた。桂ちゃんだから、烏月さんも心を開きかけ
た。桂ちゃんでなければ、彼女は敢て縁を切る必要はない。唯解けるに任せれば良い。遠
ざかれば、己が距離を置けば良いだけの話だった。斬るという所作は、未練を断ち切る事、
断ち切らなければ解けない程未練がある事を示す。
「烏月さんが、わたしに未練を?」
「ええ、桂ちゃんは、可愛いから」
正面から言われて、桂ちゃんが答に窮する。その困惑迄も可愛く映るのはわたしの偏見
か。
「意図して切り離さないと切れない程、烏月さんも桂ちゃんの事が好きなのよ。きっと」
烏月さんが桂ちゃんのこれからの人生に大切な人になるという事は、烏月さんのこれか
らの人生に桂ちゃんが大切になるという事だ。なくてはならない位、そのあり方を変える
位、大きな存在になるという事だ。故に烏月さんは未然に斬って防ごうとしている。変化
を怖れている。自身こうあるべきと考えた生き方、あるべき鬼切部の姿を外れる事に怯え
ている。
「わたしが、大切……」「ええ」
『あなたとて私が彼女を斬っていたら、こうしてここには来なかっただろう。
私と親しくなる程、私があなたの近くで鬼を斬った時に辛い思いをする事になる。関係
者に見知った顔が混じる事は珍しくないから。
そしてあなたと鬼が親しい程、あなたの生命は危なくなる。私は役目の為ならば、人す
ら手に掛ける鬼切りなんだ』
『もし彼女が、人に害を為す悪鬼となるなら、私は何があろうと必ず斬る。あの時の言葉
に偽りはない。加えて、もしあなたの家族や友人が鬼となったなら、私はそれを絶対に切
り伏せる。良いかい、絶対にだ。
あなたは優しい人だから、感情をぶつける相手を見つけられず、辛い思いを抱える事に
なる。私は私である前に千羽党の鬼切り役』
「最初に烏月さんを見た時に、日常とは切り離された空気を付き従えている人という印象
を抱いて、それを綺麗だと想ったのだけど」
その綺麗さが、今は哀しかった。
「烏月さんはあの侭じゃ寂しすぎる。
烏月さんはあの侭じゃ哀しすぎる」
放って置けない。そう顔に表す桂ちゃんに、
「烏月さんは、心を閉ざしているのね。
鬼にだけではなく、人にも。きっと……」
明良さんの死と白花ちゃんが、関っている。
彼女は、本来そんなに冷徹な人物ではない。彼女は本来もっと柔らかな人、その中に芯
の強さを兼ね備えた人だ。もっと魅力的な人だ。
わたしと話した時の微かな揺らぎは、素の自分を出してはいけないとの自身への縛りか。
彼女は鬼を斬らねばならないと己を追い込んでいる。鬼を憎むよう自身を追い込んでいる。
人を守る為に刀を振るうのではなく、鬼を斬る為に刀を振るっている。鬼を憎む事を己
に強いている。憎んで心を固めないと、拒んで心を閉ざさないと、己を保てないと感じて
いる。そこ迄しないと己を保てない、耐えられない程の、深い心の傷が、彼女の強い心の
限界近く迄膨れ上がっていて、苦しめている。
それに桂ちゃんは気付いている。
それを桂ちゃんは捨て置けない。
危険だと分って歩み寄っていく。
桂ちゃんが烏月さんに歩み寄るのは、烏月さんが強い以上に、守ってくれる以上に、美
しい以上に。彼女がとても危うく脆く、放っておけないから。桂ちゃんが支えたいと望む
から。役に立ちたい、守りたいと、願うから。
桂ちゃんは自覚してないけど、烏月さんは自身の限界迄頑張れる人だから弱みを見せな
いけど、だから一見桂ちゃんが唯好き好んで付きまとっている様にしか、見えないけど…。
『桂さん、あなたはサクヤさんの知人であり、ユメイさんの様な存在が取って立つ人であ
り、あなた自身が鬼に縁ある定めの持ち主だ。今ここで別れた後も、いつに日にか運命が
重なる事があるだろう。そしてその時はきっと、私たちは対峙している事だろう。だから、
ここで私たちの縁の糸を断ち切ろう』
諦めきれない。何とかしたい。放っておけない。桂ちゃんの顔には、誰が見ても分る程
大きくそう書き込まれていた。泣き出しそうな程大きく見開かれた瞳は、自身の為ではな
く、烏月さんの哀しみを救いたい想いに満ち。
桂ちゃんも、もう守られるだけの子供ではなかった。大切な人を支える事を願い、大切
な人を守る事を望む、強い心を、持っていた。それを桂ちゃんは、自分が烏月さんとの仲
直りを求めているとしか、自覚してないけど…。
「桂ちゃんは、烏月さんが好きなのね」
わたしの問に桂ちゃんは恥ずかしげに俯き、
「う、うん……。黒髪が艶やかでとても綺麗だし、立ち居振る舞いが美しくて凛々しいし。
最初は、それだけだったの。見てはっとして、引き込まれて、ジロジロ見つめてしまって、
その後、偶々宿も一緒で、お話し出来て。
でもその強さの後ろに、それと同じ位の影がある様で、何か放っておけなくて。わたし
も、どうして気になるのか分らない侭、まさか鬼とか鬼切りとかに話が向うなんて、思っ
てもいなかったけど……」
どこから本気になってしまったか分らない。
気付けば大切な人になっていた。もう切り離せない位に。斬られても断ち切り難い程に。
わたしの、たいせつなひとに、なっていた。
そんな桂ちゃんに、わたしは柔らかく、
「最初からよ。桂ちゃん」
一目惚れしていたのよ。
烏月さんは、確かに引き込まれる美しさを持っていた。桂ちゃんでなくても、見かけれ
ば気になったかも知れない。でも、そこから踏み込めたのは、単に気になったと言うだけ
ではない。既にその時点で、一目見た時点で、烏月さんの奥底の魂に、惹かれていた為な
の。最初の時点で決まっていた。桂ちゃんは烏月さんに惚れていた。そして烏月さんもき
っと。
「強くて美しくて、でも危うくて切なくて」
「ユメイさんも、そう思う?」
桂ちゃんの顔が更に赤みを増すのが分った。
好きな人を誉めて貰えると、その人を好きになった自身も誉められている様で、嬉しい。
泣き顔が、恥ずかしげに笑みを浮べるのに、わたしは静かに語りを紡ぎ、問いかける。
「桂ちゃんはどうしたいと望んでいるの?」
「烏月さんと、その、仲直りをしたい……」
わたしの前だから素直なのか、烏月さんの事だから素直なのか、桂ちゃんの率直な答に、
「仲直りするには、どうすれば良いかしら」
「縁の糸は、維斗で切られちゃったし……」
烏月さんの決意は簡単には覆せない。その思いが桂ちゃんを萎縮させていた。わたしは、
どうすれば良いかを敢て助言せず、桂ちゃんに考えて貰う。わたしは桂ちゃんの側にいら
れない。桂ちゃん自身が途を切り開ける様に。
「切られた糸は、なくなってしまったの?」
「え……?」
わたしは、残り少ない力で虚空から少し太めの赤い糸を作り出した。桂ちゃんの目前で
両手に持って、それを力ですぱっと断ち切り、
「はい。桂ちゃんは、どうしたいの?」
それぞれの手に、糸の端を持たせる。
「この侭では、烏月さんとの糸は切れた侭ね。桂ちゃんは、この赤い糸をどうしたい
の?」
「……切られた縁を、結び直したいっ!」
わたしが烏月さんと仲良くしたいから。
その顔は、告白を決意した乙女だった。
「正解よ」
それが桂ちゃんの真の想いなら、全て正解。
わたしがいなくても、桂ちゃんは立派に自分の想いを整理できた。自分の想いを行動に
繋げられる。行くべき途を見いだし、進み出す事が出来る。桂ちゃんはもう子供じゃない。
「後は、どうすれば良いかだけね」
この為には、桂ちゃんが烏月さんを追う事が必須だった。烏月さんが桂ちゃんとの縁の
糸を断ち切る事が、一度は必要だった。唯解れるに任せておけば、それは再び繋る事もな
かっただろう。意図して斬った事が意図した結び直しを呼び、雨が降ればこそ地は固まる。
でも、関知の力で幾ら見通せても、桂ちゃんにその気持がなければ何も始らない。桂ち
ゃんがあの時誰よりわたしより、烏月さんを気遣って追いかけなければ、この先の展望は
開けなかった。まだ分らないけど、まだ先は確定しては見えないけど、少なくとも桂ちゃ
んは人生の分岐の一つで、悔いを残さない途を掴み取れた。桂ちゃん自身の、想いと力で。
それは必然ながら、烏月さんの定めのレールも改変する事に繋る。桂ちゃんはもしや…。
「維斗で切られた縁の糸を、意図して繋ぐ」
いとをかし。
桂ちゃんは、どこ迄も桂ちゃんだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「はうー、疲れたぁ」
心を重くする懸案を解決できたお陰で、桂ちゃんは漸く一息付ける状態になれたらしい。
表情からも身体からも力が抜ける桂ちゃんに、わたしは身を乗り出して近付いて、すっか
り乱れたその髪を、幼い頃の様に手櫛で梳いて。
「あ……」
『そういえば、お母さんにも良く梳いてもらってたっけ』
懐かしい手の感覚の安心の故か、緊張がすっかり解けると、耐えていた分がポロポロと。
「うくっ……」
『お母さんの事があってからここしばらく、涙腺の締まりが悪くて困る』
「うー、ハンカチどこだー」
普段は持っているみたいだけど、生憎と桂ちゃんは今、寝起きの浴衣姿だ。旅行の荷物
から探し出すより、わたしが部屋備え付けのボックスティッシュを見つける方が早かった。
「はい、桂ちゃん」
「あ、ありがとうございまふぅ」
ティッシュにすっかり涙を吸わせた後で、もう一枚。
ぷぴ〜〜〜っ。
その姿迄が可愛らしくて、思わず凝視してしまう。そんなわたしは、少し変だろうか?
「鼻をかんだらすっきりした……と?」
気付いた様に、わたしを見つめ返してきて、
「あの……」「なあに?」
桂ちゃんは少し恥ずかしそうに、
「あのですね、鼻をかんでる処を見られるのって、何だかすごく恥ずかしいんだけど…」
目の次は、顔全体を赤くした、その訴えに、
「ふふ……」
その通りね。わたしは心からの笑みで応え。
「あ……」
「ごめんなさい。桂ちゃんも、もう子供じゃないのよね」
「……」
「……桂ちゃん、どうしたの?」
「ううん、何でもない。それよりユメイさんこそ、本当に大丈夫?」
「心配してくれるのね。大丈夫よ」
そう言った瞬間、透明な微笑が本当に透け、
「……って、何!?
今、何かゆらって揺れて消えちゃいそうだったよ? 全然大丈夫じゃなさそうだよ?」
「大丈夫なのよ、桂ちゃん。
こうしてなした形を保つのに必要な力が、足りなくなってきただけだから」
もう本当に残り少ない位迄に。
「それって、ちっとも大丈夫じゃ……」
『特別な力を使わなくても、この形を保つだけでも消耗して、結局は消えてしまうの?』
「……そんなのって」
桂ちゃんの瞳に涙が溜まりかけるのに、
「桂ちゃん、そんな顔しないで」
「でもっ」
「この形はかりそめだから。保てなくなっても、わたしがなくなってしまう訳じゃないの。
ぜんまいに溜められた力を使い切ってしまった時計は、ねじが巻かれるまで時を刻む事
を止めてしまうでしょう? でもそれは、壊れてしまった訳じゃない。そういう事なの」
今はまだ。この想いが、わたしが消失してしまう瞬間迄は。
「でも、それならユメイさん、そんなにのんびり構えてないで、早く楽な形に戻ってよ」
焦れて焦れて。
「そうして笑っているのだって、実はすごく大変なんだよね? 力の無駄遣いしているん
だよね? 勿体ない事しているんだよね?」
問いつめるように早口になる桂ちゃんに、
「それは違うわ、桂ちゃん。
別に勿体なくも、無駄でもないのよ。少し大変なのは本当だけど、わたしが好きでやっ
ている事だから」
わたしはゆっくりと首を左右に振って、
「形があるから……。
こうして桂ちゃんに触れる事もできる」
わたしは現身の手を伸ばし、頬を掠める様に桂ちゃんの艶やかな髪に確かに梳き入れた。
「あ……」「ねっ?」
触れ合える幸せが、お互いを暖めてくれる。
「うん……」
「こんなに伸ばすの、大変だったでしょう」
「お母さんが、伸ばせ伸ばせって」
「そう……。よく似合っているわ」
『真弓さんに似て、とても綺麗よ』
「あはは、だと良いけど」
「でもこれだけ長いと、この櫛では少し足りないかしらね」
虚空から、想いの力で作りだした梳き櫛をじっと見つめ、ふうっと息を吹きかけて無に
戻す。息に触れる端から櫛は光の粒に変って、さらさら形を崩していった。力の限界が近
付いている。ブラシを作ったら和服が解れそう。
「桂ちゃん、あなたのを貸してくれる?」
「あ、うん、ちょっと待ってね」
ブラシは頻繁に使う物だから、荷物の中でも出し入れしやすい処に入れてあるの。
「立った侭ではやりづらいから、見つかったらこっちに座ってね」
「はーい」
荷の詰まったカバンに歩いて行きかけた桂ちゃんが、気付いた様に足を止めて振り返る。
「ね、ねえ、ユメイさん」「どうしたの?」
「わたしの血……飲む?」「桂、ちゃん?」
それも一つの大きな分岐の曲がり角だった。
「わたしの血を飲めば、ユメイさんも、元気になるんだよね?」
わたしの中に流れている血は、人間以外の者に強い力を与えるという、余り普通じゃな
い物らしい。わたしの為に使った力を、わたしの血で補うのは、とても道理に叶っている。
「だからユメイさん……」
「良いのよ桂ちゃん、気にしないで」
首をゆっくり振る仕草で、桂ちゃんの言葉を押し止める。わたしは、血が欲しくて顕れ
た訳でもなければ、長居している訳でもない。
「でも……」
「桂ちゃん。大きな矛盾があればある程、それを突き通すには、相応の代償が必要なの」
道理を引っ込める為には、無理を通す必要がある。
「この形はまやかしの様な物だから。今のわたしは明確な形を持たない、想いだけの存在
の様な物だから」
『無い筈の物を有る事にするには、どれだけの力が必要になるんだろう。
形なき物を、世界に影響を及ぼす確かな存在とするには、どれだけの法則に逆らい、そ
して打ち破る必要があるんだろう。
それはきっと、気が遠くなる程の……』
「夜の暗さは、矛盾や不確かさを包み隠してくれるわ。だから、わたしの力でも、こうし
て形をなす事ができた」
闇の中では確かな物さえ不確かになるから、結果として両者の位置は近付いた様に見え
る。
「だけど……」
その認識こそが錯覚。
「明日の朝日が昇ったら、わたしは消えてしまう。例え桂ちゃんの血を飲んだとしても」
結局はそういう事。違いは白日の元に晒されて、まざまざと思い知らされるだけ。
「だから、そんな事の為に、桂ちゃんが身体を傷つける事なんてないのよ」
「でも……、だからと言って……」
ついさっきのノゾミの言葉が思い出される。
『あなたも愚かねぇ。桂を腕に抱き留めた時に、さっさと贄の血を頂いておけば良かった
のに。そうすれば、私たちを凌ぐと迄は行かなくても、結構な力を得られたでしょうに』
あの時の桂ちゃんの瞳が、忘れられない。
あなたも彼女達と同類の血を啜る鬼なの?
わたしの血を呑む事で力を得る、鬼なの?
本能的な怯えだったけど、驚きの連続の中で瞬間兆しただけの怯えだったけど、桂ちゃ
んに怯えられた事が何よりも寂しかった。否、怯えさせてしまったわたしが、呪わしかっ
た。
烏月さんに刀を向けられるのも無理はない。
わたしは今や、鬼なのだ。
自ら鬼を望み選んだのだ。
こうして守れて胸に抱き留めて、ユメイさんと語りかけてくれるけど、心も身体も預け
てくれるけど。血を呑む事で、それが唯の鬼と贄の民の関係になってしまうのが嫌だ。力
を得る事が、心を失う事に繋る気がして怖い。
『そんな力なんて、要らないわ!』
桂ちゃんを傷つけて、哀しませて得る力なんて、わたしは欲しくない。わたしが欲しい
のは、桂ちゃんを守れる力、桂ちゃんを幸せに導ける力、桂ちゃんの微笑みを呼び起す力。
言い切った時、桂ちゃんは更に驚きに目を見開いた。あれは、わたしの想いが通じた為
だと、思いたい。わたしの心が届いた為だと。
『わたしは桂ちゃんを守る為に顕れたの。
その血を啜る為に、顕れた訳じゃない』
例えこの身が滅びても、この想いが消えてなくなったとしても、桂ちゃんを裏切る事は
しない。自身を裏切る事はしない。血も力も要らない。要るのは桂ちゃんの微笑みだけ!
『わたしは、桂ちゃんの血は、欲しない…』
定めの先が見えたわたしには、最早不要。
「桂ちゃん?」
暫くわたしも考え込んでしまっていたけど、どうやら桂ちゃんもそうだったらしい。血
縁はやはり、気質が似てくる物なのだろうか。
「うん……」
桂ちゃんは荷の中を覗き込んでいる。電気を点けるとわたしに毒になると気遣っている
為に、暗さの中で中々探し当てられない様だ。
「……よし……、……ごくっ……」
物を探すにしては少し違う声も聞えるけど。
少し様子が違う気がしたのは、時間が掛る以上にその後ろ姿がそわそわして、落ち着か
ないから。何かを、迷い躊躇っている様な…。
「桂ちゃん、見つからないの?」
「あああ、あったよ。今見つかった処!」
「……そう?」
その直後、少し抑えた、変な悲鳴が聞えた。
「いっ!」
後ろ姿が数秒間停止し、微かに震えている。
ゆっくりと振り返るけど、動きが不自然だ。
作り置きした様な笑顔で、わたしを向いて、
「あはは、ユメイさーん」
左手の人差し指を上に向けて、押し頂く感じで、ブラシを右手に、
「ちょっとソーイングセットが、荷物の中でバラバラになっていて、それで針がね……」
桂ちゃんの少し不自然なポーズの原因、左手の人差し指を見た瞬間、その意図が見えて、
思わずわたしは眉を顰めた。わたしは、無意識にでも血を求めてしまっただろうか。暗に
血を流す様にと促してしまっていただろうか。
「桂ちゃん」「はい……」
その声は、その視線は、その姿は、いけない事をして叱られた幼い日の桂ちゃんだった。
心を鬼にして叱るべき時に迄、可愛くて、抱き締めたくなってしまう、そんな桂ちゃんが。
「桂ちゃん、何てことするの」「ううっ…」
桂ちゃんは昔から聡い子だった。なぜ叱られるのかは、叱られる瞬間に大抵分っている。
分っていてやってしまう。それが又叱られる要因なのだけど。わたしの為に、わたしを想
う故にそうしたと、俯きながらの愛らしい上目遣いに、隠しても書いてある。読みとれた。
「でも、もうやっちゃった事だし……」
「……仕方のない子」
桂ちゃんはわたしの元気を願っている。想いを返したく望んでいる。わたしはそれを拒
みきれなかった。可愛らしい顔が曇り、ダメをダメと言われ萎縮する様を末迄見ていられ
なかった。叱っても、その直後に抱き締めたり微笑むので、本当に叱っているのかいとか、
叱った効果が残らないとか、良く言われた…。
最後迄叱りきれないのも、昔と同じ。
ため息混じりの言葉には、かつての様にそれでも微かな笑みも混じっていて。
「ほら、こっちにいらっしゃい」「うん」
ほっと肩の力を抜いて立ち上がると、その勢いでぷっくり膨らんだ血が弾けて広がった。
「ああっ……」
慌ててブラシを放り出した右手で、こぼれ落ちる雫を受け止めつつわたしの元に早足で。
「桂ちゃん、見せて」「うん」
差し出された左手をわたしの両手で包み込む。わたしの手を染める桂ちゃんの赤い血が、
既に力を与え始めていた。握った手と手の僅かな隙を流れ込んだ血が埋める。わたし達の
距離を埋める赤い糸、わたし達を繋ぐ赤い糸。
「……」「……」
真っ赤に濡れた人差し指を、顔の間近に引きつけて見つめる。朱がわたしを誘っていた。
そのわたしを桂ちゃんがじっと見つめている。
桂ちゃんの想い。桂ちゃんの心。桂ちゃんの血。桂ちゃんの身体を巡る、赤い糸。本当
に、受けてしまって良いのだろうか。
もう一度その瞳を真っ直ぐ見つめる。ほんの少しでも怯えはないだろうか。ほんの少し
でも悔いはないだろうか。ほんの少しでも、躊躇いや迷いは、ないだろうか。
「……いいの?」
「うん。じゃないとわたしの痛い損」
即答だった。正にそれを望んでいると分る。心は一層強く繋る。力を得ても失いはしな
い。
わたしの力になりたいと。桂ちゃんはもう、守られるだけの子供じゃなかった。ならば
受けよう。桂ちゃんの想いを、桂ちゃんの心を。赤い糸をわたしの中に取り込んで、運命
を絡みつかせよう。わたしの力に変えて、桂ちゃんに更なる守りを。一つの分岐を折れ曲
がる。
「そう、分ったわ」
顔を俯かせて指先に唇を近づける。
赤い花の蜜に惹かれるかの様に、髪留めの蒼白い蝶がゆっくり降りて行く。視界を埋め
ていくのは桂ちゃんの白い肌と手のひらの朱。
「……ごくっ」
桂ちゃんの喉が微かに鳴ったのは、緊張の故だけど、そこに怯えはない。肌で感じてい
るから分る。桂ちゃんは、受け容れてくれる。わたしを、鬼となったわたしを、受け容れ
て。
「はーー」
しっとりと水気を含んだ吐息が指先に掛る。
そろりと伸ばした舌が、その指先に触れた。
「んっ」
恐る恐る、小鳥が餌を啄む様に、舌の先端だけで控えめに拾い上げる。
傷口の熱と舌の熱とが一瞬だけ溶け合って、次の瞬間に割って入る空間が熱を奪ってい
く。
何とも言えない感覚が幾度か繰り返された後、わたしは舐め取る動きで舌を引っ込めた。
こくっ……。
小さく喉が上下に動く。口に入った生命の素を、飲み下す。続いて、少し長いため息が。
「ふう……」
美味しい。魂をとろかす程に、濃くて甘い。
「……ねえ、ユメイさん」
桂ちゃんの問に顔を上げたわたしの頬には、僅かに赤みが差していたと思う。熱を感じ
た。
「凄く今更なんだけど、わたしの血って、本当にその、特別なの?」
「ええ。桂ちゃんの血は、特別よ」
声迄、うっとりとしてしまっていた。
本当に、こんなに血が美味しいとは思わなかった。わたしも自身の血なら、贄の血なら
何度も口に含んだ事はあったのに。桂ちゃんの血の濃さの故か、わたしが鬼になった故か。
『これは本当に、鬼を酔わせる特別な血…』
力が満ちていくのが分る。力が魂の中を濃く強く満たしていく様が分る。ノゾミ達が激
甚な力に酔う訳だ。僅かな量で、わたしの定めの行く末迄変えてしまう程の、膨大な力…。
「元気出そう?」「ええ……」
熱い吐息混じりの返事をすると、さっきよりも深く俯き、さっきよりも長く舌を伸ばし。
「は……んっ」
指の根元辺りから指先へ向って、べっとりと赤い表面を拭う様に舌を這わせる。
「ひゃうっ」
少しザラザラした舌の表面が、ずぞっと血をさらっていく感覚が桂ちゃんの背筋を震わ
せたらしい。それでも、不快感はなさそうだ。
指先がすっかり綺麗になると、口を離して、
「んっ……くすぐったかった?」
「だだっ、大丈夫!」
「わたしならもう良いのよ?」
「ううん、折角だから、どばどばーっと飲んじゃってよ。ほら、まだ止まってないし」
桂ちゃんの朱は、もうぷっくりとした珠にはならず、じわっと指紋に沿って、滲む様に。
『……どばどばーっての言うのは無理だ…』
「でも、それで桂ちゃんが弱ってしまったら、元も子もないわ」
「大丈夫、大丈夫。ほら、献血だと二百ミリとか採る訳だし、そうそう、トマトジュース
1缶分位なら全然平気?」
『いや、だから無理なんだってば、わたし』
「……有り難う、桂ちゃん」
桂ちゃんの自問自答が見えて、微笑ましい。
桂ちゃんの失血量はまだ少ない。ノゾミ達に吸われた分を含めても、明日の健康に影響
する程は吸われてない。血というより、もう少し、桂ちゃんの温もりに触れていたかった。
「あはは。この傷だと、流石にそんなには出ないと思うけどね」
「充分よ」
ふふっとほころばせた唇を、桂ちゃんの指に押し当てて、その侭指先を口の中に含んだ。
「はふ……んっ」
今度は吸い込む感じでやや引っ張ってみる。
互いに吸って、吸われている実感があった。
桂ちゃんの赤い糸を、心と身体に馴染ませ。
縁の糸を、濃く深くこの身に縫い込ませる。
「んっ……んっ……」
桂ちゃんは状況に慣れて来たのか、今度は微妙に手持ち無沙汰な様子を見せ始め、じっ
と吸い上げるわたしの顔を眺めつつ考え込み。
『……美味しいんだろうか』
試しに、所在なげに固まっていた右のてのひらで受け止めた、生乾き状態の血を舐めて、
「……うわー」
その反応に、わたしはふっと我に返って、
「はっ……桂ちゃん……?」
「あ、いや、何でもないよ」
血の甘さに、心を奪われてしまっていた?
「そう……。それより、わざわざ有り難う」
「あれ? もう良いの?」
返事の代りににっこり微笑み、わたしは桂ちゃんの指先に手を翳した。
桂ちゃんの指先を覆い隠す白く柔らかい光。
気化する水が熱を奪っていく様に、光が消えていくのと一緒に、指先の熱が引いていく。
「あ……傷が……」
光の中から現れた指には、針の刺さった痕も、軽くついていたわたしの歯形も見えない。
「桂ちゃんの血のお陰で、使えるようになった力よ」
「そ、そんなの使っちゃって、平気なの?」
桂ちゃんが慌ててわたしの姿を凝視する。
じぃ〜〜〜っ。
さっきの様に揺らぐ気配はないし、表情も穏やかで、無理もしてない。僅かの血でこれ
程力を得られるとは、わたしも予想外だった。首の両側にノゾミ達に付けられた傷も癒す
と、
「……本当に大丈夫なんだよね?」
「ええ、この位なら」
さっき放り出したブラシを拾い上げて、桂ちゃんの後ろに回り込む。
「ほら、髪を梳くから座って」「うん……」
わたしは手櫛で桂ちゃんの髪の解れを直しつつ数房により分け、その一房を手に取った。
毛先に入れたブラシは特に引っ掛る事もなく、櫛通り良く外に出る。
「桂ちゃんの髪、柔らかくて綺麗ね」
「うん。けっこう自慢なんだ」
わたしはゆっくりと丹念に、髪を傷めないよう少しずつ桂ちゃんにブラシをかけて行く。
「桂ちゃん、眠いの?」
「あ、別にそんな事は……」
ごにょごにょと口ごもる。
散々疲れた後だし、真夜中だし、日中はわたしのご神木迄、山登りなんかもしたものね。
「ふふっ、良いのよ寝ちゃっても」
「ううん、大丈夫。それよりユメイさん?」
「なあに?」
「その形でいるのって……今も大変?」
「大変ではないけど、少しずつ力が減っているのは、何となく分るわ」
願いを込めた問だったけど、事実で応える。
「……じゃあ、やっぱり駄目なんだ」
「そうね。流石に昼の光にはね」
「そっか……」
「少しなら耐えられそうだけど、それで力を使い切ってしまうのも、勿体ないでしょう」
「うん……」
言葉が詰まると、するすると滑る柔らかいブラシの音が大きく聞えた。桂ちゃんはかな
りお疲れの様で、言葉が止まるとすぐに眠気が兆して来る様だ。でも、寝る時は疲れを取
り去る為にも、きちんとお布団に入らないと。
「はい、おしまい」
ぽんと頭を叩かれて、桂ちゃんは掴まえかけていた睡魔の尻尾を握り損ねる。
「あ……」
「それじゃあ、桂ちゃんはもう寝なさい」
「でも……」
もう少し一緒の時を過したいと、顔には書いてあったけど、もうこの辺りが潮時だった。
「あなたは昼の世界に生きているんだから。その事を忘れては駄目」
所詮わたしは夜の生き物。それは言わずに、
「うん……」
「ほら、お布団に入って目を閉じて」
「うん……」
瞼の上に手のひらを乗せ、障子越しの僅かな月明かりも遮る。槐の香りに誘われたのか、
桂ちゃんはすぐに睡魔の虜になった。
「お休みなさい桂ちゃん。もう悪い夢は見ないから、安心して眠りなさい」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
月光に照されるその寝顔を、見つめながら。
守り抜けたわたしの幸せを、見つめながら。
「桂ちゃん……ごめんなさい……」
このお詫びは、起きている桂ちゃんには伝えられない。起きている時にそれを伝えたら、
桂ちゃんが哀しむから。桂ちゃんが望んで差し出した血を受けた事を、わたしが哀しんで
いると知ったら、桂ちゃんも必ず哀しむから。
桂ちゃんの気持は、とても嬉しかったけど。
その想いは、わたしを生かしてくれたけど。
幸せは力以上に、心に満ち満ちているけど。
「わたしは、桂ちゃんを裏切ってしまった。わたし自身を裏切った。わたしはやはり、桂
ちゃんの血を啜る、鬼になってしまった…」
桂ちゃんがわたしを想う気持は無上に嬉しかった。その血はわたしの存在を繋ぎ、想い
の消滅を防ぎ止めた。わたしは尚暫く、わたしであり続けられる。膨大な量の力が、現身
も魂も満たした。それを受ける幸せは身を震わせた。それでもと言うより、正にその故に。
わたしはわたしを裏切った。桂ちゃんを裏切った。桂ちゃんを傷つけさせ、その血を啜
って力を得た。桂ちゃんを守る為に使うけど、それは当たり前だけど。桂ちゃんの身体に
害になる事を為してしまった。その害になる存在に堕ちていた。わたしは正に、悪鬼だっ
た。
この身が生き延びる事は、桂ちゃんの生命を削る事だ。この身があり続ける支えは、桂
ちゃんの生き血だ。わたしの存在自体が桂ちゃんの負荷になっている。桂ちゃんはまだ失
血が少量だから、その事に気付いてないけど。
「わたしは余り長く側にいてはいけない…」
桂ちゃんを守る為にその身が削られては意味がない。桂ちゃんが守られて衰弱するのは
本末転倒だ。わたしは桂ちゃんの想いを拒めなかったけど、力を得る為その生命を啜った。
桂ちゃんの想いは嬉しかった。わたしを温めてくれた。だからこの事実を桂ちゃんに気
付かせてはいけない。その想いが彼女の身を蝕むと悟る前に、わたしが居なくなれば良い。
寝顔に向けて謝るのは、わたしの心の整理だ。
たいせつな人の健康を害して得た、その人を守れる力。たいせつな人の生き血を啜る鬼。
そうして漸く存在を保つ呪わしい生。わたしは本当に、早々に烏月さんに斬られるべきな
のかも知れない。これ以上人に害を為す前に。たいせつな人の、害になってしまうその前
に。
「桂ちゃんの血のもたらす、膨大な力……」
鬼を酔わせ狂わせる程に甘く香る、力の源。その甘さはまだわたしの心を浸食してない
と思うけど。わたしが血の甘さと力の陶酔の誘惑に惹かれて、贄の血を求める事はないけ
ど。そんな事は、絶対わたし自身に許さないけど。
贄の血の力がわたしを満たしていた。強く濃く深く、わたしの魂も現身も支えてくれる。
わたしの定めの行く末迄、それはねじ曲げた。
ご神木に戻っても差し出す力もなく、想いを吸い取られ消える他にないわたしに、正に
力の塊をくれた。これが有れば、わたしは消えずに済む。ご神木に戻っても、この力を還
流させれば生気の前借りの反動も凌ぎ切れる。封じの力を転用した反動も代償も全て賄え
る。
わたしの、主の、桂ちゃんと白花ちゃんの運命がこの瞬間激変した。贄の血の陰陽でも、
僅かな血でここ迄効果が劇的とは。その行く末はまだ見えないけど。吉凶いずれとも判じ
難いけど。わたしの目の前から地獄が消えた。
でもそれは果して幸せなのだろうか。桂ちゃんに、大切な人に害となる前に消えた方が、
わたしは幸せだったかも知れない。桂ちゃんの血で支えられ、繋がれたこの生命。桂ちゃ
んを守るには他に術を持たない、業の深みに踏み込んだ生命。ある事が既に罪深い生命…。
「肉親の血を啜る鬼。その身を守る為と血を啜る鬼。申し出させ血を差し出させ啜る鬼」
そうして赤い糸を繋いでも、所詮喰う者と喰われる者の糸なのに。繋ったと喜べたわた
しが、愚かだった。わたしはそんな繋りを欲して現身になった訳ではなかった筈なのに!
「桂ちゃん……、桂ちゃん……」
漸く、抱き締められたのに。
こんなに間近になれたのに。
この隔ての遠さは一体何なのだろう。
いる事自体がその身を削り、守る事が生命を縮める。近くにいても、抱き締めても、わ
たしの幸せは、桂ちゃんから遠ざかるばかり。わたしはやはり、禍の子だ。大切な人の、
本当に大切な時には役に立てない、役立たずだ。
「桂ちゃん、ごめんなさい」
なるべく早く、その前から居なくなるから。その幸せの為に、鬼はやはり人の近くにい
てはいけない。わたしは桂ちゃんと僅かな時を共にする事も危うい存在だと、桂ちゃんに
とって危うい存在だと、痛切に思い知らされた。
『でも……それでも尚……』
今はいなければならない。今少しは、桂ちゃんを守る為に。その身を、同類であるノゾ
ミ達から守る為に。同類だからこの力が届く。烏月さんと違ってわたしは、同類故の力で
ノゾミ達を退けられる。桂ちゃんの血を啜る鬼のノゾミ達を、同じ所行で力を得る同類故
に。
絶望から生じる希望、希望が導く絶望。桂ちゃんを傷つける事がその身を守る力を招き、
守る為に啜る血がその生命を削る。どちらにせよわたしの為す事は一つ。それは絶対やり
遂げる。桂ちゃんの血迄得たのだ。わたしはどこ迄堕ちても良い。その想いを無にしない。
そんなわたしに待つのは、地獄の代りに、
「血に飢えた餓鬼道か、戦いの修羅道か…」
それでも尚、業の深奥に踏み込んでも尚、
「桂ちゃんの微笑みは、必ず守り通すから」
桂ちゃんと白花ちゃんの、今を支えられる事がわたしに残された幸せ。今為せる限りの
全てを為すから、代償は全て身に受けるから。
「今少しだけ、この幸せを、わたしにも…」
愛しくも哀しい夜が更けて行く。