第4章 月での一夜

 月に着くなりさっさと後部座席の向こうへ姿を消してしまった俊男を初めとする一団は、
船内にいた客のおよそ半分。残っているのは皆、宇宙旅行になれない者や子供老人だ。
 暫くたって俊男たちがバラバラ戻ってきた。何か抱えている。
「ほら、受け取れよ」
 俊男はその何者かを放り投げた。六分の一の重力なので、飛び方はスローだ。
 おっとと、武は受け取ってそれを見る。
 なんだあ?
「宇宙服だ……」
「当たり前だろ、今は非常時なんだ」
 ここは正式には観光用の空港ではない。観光都市と云っても多くはルナ・シティ経由で
地下を通った高速交通網でやって来るので、それ程客船の需要が多くはないのだ。常時に
は貨物船の発着場で、非常時にはこういった使われ方もする程度のローカル空港だ。空気
の詰まってる地下とは違う。
 ここは真空の宇宙なのだ。
「宇宙のベテランならばこそだ。さすがあ」
「ローカル空港だからね、セルフ・サービスが原則だよ」
 無駄口をたたく間にも熟練者たちはさっさと宇宙服を来て出口に殺到する。後で聞いた
話では、いつ地震が起きるか分からないあの状態では、宇宙船と云うのはエレベーターに
似ていて『空飛ぶ棺桶』。さっさと逃げ出さないと身が危ういのだ。船体強度を高める為
に非常口を極度に少ない構造にしてあるので、狭い入り口では逃げようにも逃げられない。
その事を知っていたなら、明たちの宇宙服に対する意気込みも、もう少し変わっていただ
ろうに。
 百年前の宇宙服よりもやや細くて動き易く、そして軽い。少し体より大きくて、空気の
渦が絶えず還流しながら浄化される構造になっている。頭のいいものだね、人間様は。ち
ょっとフニャフニャしている所が着ずらくて困ったけれど。機能性、柔軟性に富んでいる。
 あ〜あ〜あ〜、俊男はてんてこ舞いする。当然の事ながら、明たちには宇宙服と云う物
は初めてだったのだ。
「こりゃあ、地球で赤ん坊のオムツを取り替えてる方が、まだましだったかなあ」
と嘆くのも、無理はない。
 普段なら街の大部分が地下にある為、宇宙服などは必要ない。地上にあるのは月面都市
の重要エネルギー源である太陽電池(月には曇りはないのだ!)と宇宙船発着場、そして
通信施設とそれらに被せてあるセラミックスの防護壁くらいだ。少々の地震だったら、何
も明が宇宙服と格闘する必要はなかったのだ。
 ところが、今度の地震はこれまでの物とはケタ違いに大きな地震だったので、世界一を
誇る日本製の耐震構造も役には立たなかったらしい。地震のバカア!
 そんなこんなで慣れない道を、慣れない足取りで進む明たち一行は、俊男の導くままに
しばらく歩いて空気の詰ったグレン・タウンに入る。そのまま彼らは真っ直ぐに、予定の
ホテルへと向かった、筈だった……。
「おい、これをホテルと呼べって言うのか」
 誠一は、笑って良いのか怒って良いのか分からないままに体を震わせて言った。
「民宿って感じだね、どっちかというと」
 この殺風景でこじんまりした部屋割り。さびが見える鉄の壁、四隅はすべて湿ったごみ
に占められていて『四角い部屋を丸くはく』の典型だ。天井は低いし、ライトは旧式ので
しかも暗く、部屋の備品といったらテレビがひとつある位。冷蔵庫さえない。
 しかもこれが六人一部屋、つまり相部屋。
『ここは牢屋かよ……』
 明は思わず心の中でぐちった。一等級のホテルは彼も期待してなかったがまさかこんな
……。これじゃ閉じ込めらるのと違わない。
「窓もないぞ。地下都市だからといって、大きくくりぬいた町の風景が全く見れないのは
残酷だな」
「水道も空気浄化機も何となく不安だし」
 トイレは異臭がして入る気にもなれないし、出される飯はスーパーの売れ残りの味がす
る。「廃棄場に放り込まれる感じだな、こりゃ」
 武の率直な感想は珍しく皆に支持された。
「ホテルを頼むって言ったらさ、
『民宿風の新感覚ホテル、わびとさびの滲み出る静寂の城』っていうタイトルのここを紹
介されたんだが」
 俊男もあまりのボロさに弁解の言葉も働かないのか、先が続かない。
「非常時だって事は分かるが、俺たちも人間なんだ。ゴキブリじゃあないんだ」
 徹夫は余り住いには文句は言わないタイプだが、しかし衛生面には厳しい。
 何十年も前の建物が、必要最小限の手入れのみでここまで放置されてきて、果たして彼
らの使用に堪えうるのか不安でしようがない。
 何と言っても彼らは地球人で、この設備は月の基準で作られた機材だ。六分の一の力で
使用して下さいと来られても、どうしよう。
 大震災の衝撃をまともに食らったルナ・シティ近辺の衛星都市と違って、それほど街の
破損は厳しくなかった物の、それ故に却ってこの街は一躍ルナ・シティ救助センターなる
物の本部に指定されて却ってごった返す始末。
 難民は溢れて対処し切れないし、被災状況目当てで自分の命も放り出すジャーナリスト
共はうるさくたかってくるし、いつも呼んでも来ない政府のお偉いさんが、こんな時に限
って意味なく視察にここに乗り込んでくるし。
 本物の救助隊だけでもう満員状態のこの小都市に一体何人の人間が詰めかけてくる物か。
商店は閉まっていたし買い物も何もできる様な状況ではないのだが、それなのにこの街の
生産活動は、フル回転の三倍位してなお足りない。静かな観光の街が、一夜にしてこんな
に変貌しようとは、誰が信じただろう。
 食料・水・電池・酸素……何でも自ら働いて買わねばならぬ宇宙の民は、流通機構の崩
壊と共にパニック寸前になっている。それでもこのグレン・タウンではまだ、街が大部分
生き残っているだけ、余裕がある(だからこそ緊急○○センターが置かれるのだろうが)
「ま、泊まれただけでもよしとしなよ」
 俊男はいたって脳天気だった。
 どこのどいつだ、こんな野郎を『サービス部』なぞに入れおったのは!
 そして更にいわく、
「いいじゃない、別に。ただで旅行する様な物なんだから」
 ただ一人珍しく(!)いつもより寡黙だった和男がこの時になって既に立ち読みし始め
ていた本から顔を覗かせて、
「こんな暗いジメジメした雰囲気でこそ『月怪談全集』を読むべきだね。そうは思わない
かね」
「和男君こそ文学者の鏡だよ」
 ここで和男を持ち上げないでは俊男は一体他に誰を相手にすると言うのだ。
「諸君も和男君の様に月開拓の草創者の偉業と苦労を思い返しつつ、一夜を過ごして欲し
い物です。彼らはもっと劣悪な状況にありました……」
 何かうさん臭い演説だな。誠一の直感は当を得ていたが、そうと認められないのが厳し
い俊男の立場。そこは話題を一変させて、
「ここの宿の清潔は、我が○○製菓の名誉に掛けて保証します。もし皆さんがここの食事
で食中毒を起こすような事があれば、当社はその全てを費用負担致します」
 社長でもないのに格好の良い事を言ってしまった俊男だったが、言ってしまえば勢いだ。
なんにも起こらなければ良いのだ。
「そこまで言うんなら」
 徹夫は安全に眠れる宿があればそれで良い。清潔さえ保証してくれるなら、後は大丈夫
だろう。月を行きて出られれば良いのだ。
(殺しても死なない様な連中ならば、泊めたって死にはしまい、と言うのが俊男の本心だ
った、かどうかは定かではない)
「ただし、食事はまともにしてくれよ」
 何のかんのと文句を言っていた明と誠一は、いつの間にか枕投げをやって遊んでる。何
とみがわりの早いやつ! 彼らには節操という物はないのか(ない、と明は即座に答え
た)。
 身がわりの一番遅いやつは意外にも武だ。
「ただじゃないぞお!この懸賞を当てる為に一体チョコレート代にいくらかけたと思って
るんだっ! チョコレート代から、ホテル代を返せえ」
と憤慨していたが、結局そこにしか泊まる所はない。普段ならばともかくこの非常時に、
一体どこに泊まれる部屋があろう。○○製菓でさえこの程度の部屋しか用意できないのだ。
「ああ、夢情!」
 武のその叫びに、
「ああ、無情!」
 和男と徹夫は同時に訂正した。

 夜。
 明は和男から『月怪談全集』を借りてみた。
 宇宙に進出する科学の時代に、怪談?などと笑う読者諸君もいるかも知れないが、結構
こういう怪談物の人気は衰えない。
 いつの世でも神秘を求め、分からない物に対する好奇心は衰える事はなく、科学も発達
して空前の繁栄を遂げたこの時代だからこそ、この様な絵空事を信じようという余裕もで
るのかも知れない。読者諸君にも、宇宙の怪談と言われている物の幾つかを、紹介しよう。
 ただ明は、これで意外と雰囲気に流され易い性なので、このぼろホテルの古びた部屋で
は雰囲気が出過ぎて、全部読めないかも知れない。彼、こう見えても結構臆病なところも
あるのだ。
 そこはあしからず。

『グレン中佐の怨念』
 西暦二千二十九年。団長グレン中佐率いる第一次月移民団百二十人が、月着陸直後の大
地震によって、全員死亡した事件は宇宙開拓史第一の惨劇としてあまねく人に知られ、心
に焼きついている事だろう。
 しかしこの事件に、意外な裏工作のあった事を知る物は少ない。
 当時、若く行動力溢れるグレン中佐の立身出世を煙たがるグループがいた事は、今尚軍
事機密扱いで公表されていない。統合本部の実力者であるL准将や、参謀総長のM少将が
その親玉だったといわれるが、真相は不明だ。
 彼らは、グレン中佐に自分達が得てきたこれまでの特権的利益(軍需業界からのワイロ
らしい)を公表すると迫られて、密かに中佐の抹殺・あるいは失脚を狙って動いたという。
 一方、月移民団の初代団長として向かう筈だったバート大佐は、肝臓ガンが発覚して任
を解かれる事になる。代わりの団長にグレン中佐がなったのは、軍部内でかなりのゴリ押
しが行われた様だ。
 彼らはグレン中佐を島流しならぬ『星流し』にしようとした訳である。中央の表舞台か
ら追っ払えば良い、後はどうとでもできる、とでも考えたのだろうが、甘かった。
 彼らの目論見は外れ、彼は移民団長として世界的英雄になってしまった!(当たり前だ。
どこの誰が遠くに飛ばしさえすればいい等と、何かの一つ覚えみたいに……)。
 グレンは必ず戻ってくる。そして彼らより上の地位になり、彼等に借りを返すだろう。
 グレンを挫折させねばならない! グレンを抹殺しなければならない。断じて彼に成功
と帰還の二文字を与えてはならないのだ。
 彼らは予測可能な地震の情報を握り潰し、そのまま移民団を送り出した。
 彼らはグレン中佐を殺したとも言える。移民団百二十人の命を道づれに!
 狙いは当たりすぎる程当たっていた。
 一説には、もっと延長して行う予定だった大規模な地下核実験をわざわざこの時期に併
せて強行し、地震を誘発したとさえ言う。
 着陸直後の大地震で全く無防備な月移民団は壊滅。移民団の人々の多くは、宇宙船から
出られず月の大地を踏む事さえ叶わず死亡し、漸く数歩を記した人々の運命も、明達の知
る歴史のとおり。
 その時のM少将の送った打電文が、ABC放送の通信衛星に傍受されて記録されている。
彼はグレン中佐を『励ましたのだ』と言っているが、暗号通信(いまだに未解明)である。
 遭難者たちを励ます声に、果たして暗号を使うだろうか。ましてや、この時生き残れた
十二人の多くは民間人で、彼等を励ますのには何よりも、暖かい肉声を持ってするべきで
はなかったのか。当時の大統領さえが涙ながらに励ましの言葉を送っていると言うのに、
不可解ではないか。
 そしてまた、仮にグレン中佐を『励まし』であったなら、その励ましの声に対するグレ
ンの返答がこんな物で納得できるだろうか。
 はっきりと聞き取れた中佐の最後の言葉は、「殺してやる!」
 こうしてグレン中佐を追い落とすのに見事成功した彼らだったが、奇怪な事にM少将は
翌年、精神分裂症によるピストル自殺で、L准将は急性心臓マヒで翌翌年に、いずれもグ
レン中佐の命日に死んでいる。
 Lの側近のある者は『グレンが襲ってくる』とか『許してくれ!』とか叫び、異常なほ
ど恐れ怯えるL准将の凶行を証言している。
 これをグレン中佐の怨念と言わずして何と言おうか……。

『扉のそと』
 トン、トン。
 外から扉を叩く音に、狭い研究室内で暇を持て余していた研究員のスタンリーは首をか
しげた。思いっきり伸びをすればつっかえそうな広さでしかないこの部屋にはうんざりだ。
 時は二千十六年七月二十二日。場所は月面、アルキメデス観測基地。
 ここは月の地下に作られた地質観測の為の小規模な基地で、数百キロ離れた中継基地に
物資の配給を受けに出掛けいてるミハイルの他には、誰も来る者とて居ない。
 まだ月は、開発される以前の観測研究の時期だったので百人も人間はいなかったし、彼
らは中央基地以外は広く各所に点在していて、基地同士の交流は通信機器をもって為され、
訪問者もいない。
 ミハイルの帰ってくる時間でもないし……。
 トン、トン。
 再び聞こえる。その音はいったい誰なのか。外は真空の極低温、人間はおろかどんな生
物だって生きてはいけまいに。
 おかしい、スタンリーは不審に思いつつ腰を上げた。誰かが居るなんて事はありえない
のだ。ここはびっくり箱の中ではないし空気の詰まった地球上でもない。いかなる生き物
とて存在しえない死の砂漠、それが月なのだ。
「まさか、な……」
 スタンリーは恐怖と不安を隠す為に薄笑いを浮かべて扉に向かう。誰かが来たのであれ
ば出ない訳には行かないし、観測基地の機密構造の狭い空間にはうんざりだ。それよりも
居る筈のない訪問者って言うのが何となく嘘っぽいではないか。
 うそっぽいからこそ、確かめたい。
 そんなスタンリーの気まぐれにな足取りが、
「どれ、いま、いくよ……」
 扉につけられた覗窓から外を見ると、誰もいる様には見えない。しかしだからといって
誰も居ないのだと断言はできなかった。
 トン、トン。三たびドアの音。
 彼は疑わなかった。
 数時間後、アルキメデス基地に帰ってきた相棒のミハイルは、基地の気密性を保証する
筈の扉が開いてるのに気付いて近づいてみると……。
 宇宙服も着ないで、扉のふちに凍結して倒れて居るスタンリーの無残な姿があった。
『広い外、青い空、深い海』
 彼の手にはそう記された紙切れがあった。
 この様な事件は、月開拓の初期まで所中あった物らしい。狭い限られた空間に閉じ込め
られる者の鬱屈が警戒心を忘れさせ、広い空間に躍り出たいというその願望がありもしな
い外からのノックの音という幻覚・幻聴を産んだのだろうと、精神科医達は話している。
 スタンリーが長期にわたる月の勤務で心身共にやや疲れていたとは数日前の診断書だが、
それ程心配する事はないとも診断されていたのだ……。
 宇宙におけるハッチの外とは、普通の部屋などで言う外とは意味を異にする。単に外と
内とを隔てる接点というだけではない。
 それは命の缶詰とも言うべき生活空間と、真空の極低温である宇宙空間とを隔て守る、
宇宙の民にとってまさに命綱であるのだ。
 それ故に、その生と死の狭間には、単なる機械ではない、もっと有機的な意志の働きの
様な物を感じるのは、命持つ者にとって当然の事なのかも知れない。
 良く『三途の川』を渡った、とか渡らないとかいう話を聞く。本当にそんな川があるの
かどうかは別として、川は生と死の境として扱われてきた。
 宇宙においてはそれは扉であり、『扉の外』とは死の世界を意味するのだ。

『暗黒空域の恐怖』
 暗黒空域と言う言葉を、諸君は知っているだろうか。
 それは地球から決してみる事のできない、月の裏側の空域の事である。そこは地球から
の追跡電波も届かず、地球側を向いた多くの月面基地とも表裏でその様相を異にしていた。
 事件の始まりは、二千三十年代の後半。
 まずイギリスの有人探査衛星クリフトンが、月の裏側に墜落炎上。乗員二人は即死。事
故の直接の原因は、加速ロケットの調整ミスによる地表への激突と断定された。が、それ
は果たして偶然だったのか。と言うのも……。
 数日後、クリフトンの事故調査に来ていたアメリカ宇宙軍の小型ステーション、リンク
Uがこれまた暗黒空域で墜落。原因は調査の為に低速飛行中、岩山に遭遇した時点で上昇
ロケットの不調による……激突。山腹をえぐった大爆発で、乗員三人は全員即死。
 その八時間の後、事故の発生を知って急行したソ連の有人宇宙船ハバロフスクは、原子
炉の暴走によって爆発、乗員八人全員が死亡。
 この三つの事件に全て共通する事は、月の裏側に入るまでは全てが順調その物で、航行
の支障になりそうな故障はもちろんの事、何一つと言って良い程落ち度がなかった事、不
調になったと言われる計器にはその兆しさえ見えない事である。
 事態を重視した国際連邦は、新造宇宙戦艦『李瞬臣』を差し向け実態調査に乗り出した。
既に被害は兆を越える騒ぎ、捨ててはおけぬ。非常時でも連絡がつく様に、念を入れて無
人衛星を幾つも中継にばらまき、月の裏だろうともどこだろうとも、電波を全て傍受でき
る万全の態勢だ。
『国連政府と人類科学の威信をかけた』作戦が始まったのである。何が何だか分からない
がとにかく月に墜落するなんて言う、理論も何もないセイレーンの様な事態の跳梁を許し
ていては、人類の宇宙進出などとてもおぼつかなくなってしまう。
 ちなみにこの『李瞬臣』、豊臣秀吉の侵略軍を撃退した朝鮮の英雄である。韓国は二十
世紀終盤に目覚ましく発展し、見事先進国の仲間入りを果たし意気盛ん、その活動舞台を
宇宙に伸ばそうとしていた。韓国のこの船にかける意気ごみはすごい。
 この船なら、仮にも故障等という事はない。ないのだ。(ほかの三つの事件もそう言え
たのが気がかりなのだが)
 やはりこの船も順調だった……、月の裏に入るまでは。
『万事順調、異常なし、これより問題の空域に入るので警戒する』
 この後、大事を取って『李瞬臣』は三十分毎に定時報告を行う事にした。
 三十分後の報告、六十分後の報告である。
『万事順調、異常なし。警戒を続ける』
『万事順調、異常なし。警戒を続ける』
 何もないのだろうか、ないならば良い。
 単に故障が続いただけだ。数百億分の一の偶然にしか過ぎなかったのだ。きっとそうだ。
 そう思いたい、既に計器と睨めっこで目が充血してる彼らも何もない事を信じたいのだ。
 ……が六十八分後、緊急報告が入る。
『引っ張られる……、月の引力にしては強すぎる……。こんな強い、そんな……。
 上昇ロケット、点火……』
 点火しない! 恐慌した叫び声。やや乱暴に何度もボタンを押す音が、鳴り響いて、
「地表が近づいていく。ああ、あれは…!」
『李瞬臣』は、各エンジンの機能が次々にストップするという異常事態に遭遇しながらも、
次々と補助装置と緊急エンジンに切り替えて高度を下げつつも何とか『暗黒空域』を乗り
切ってルナ・シティに帰還できたものの……。
 乗組員達は、口々に言っている。
 重力を感じたと。地球の様に強い重力に、体中が下方向に向けて引っ張られる感じが、
確かにあったと。
 窓から近づいてくる月面を見た何人かの乗組員達は、震える声でこういっている。
「あれは……ロシア人だ。ロシア人がたくさんいて、宇宙服も着ないで我々の高度まで伸
び上がって、俺たちの船を引っ張るんだ。
 まるで、網でも引っ張る様に」
「引っ張られるんだ。彼らがひと引きする度に、船が高度を下げるんだ。エンジンの出力
が突然なくなって、ガクンとひと揺れして」
「動かないんだ。幾らスイッチを押してもレバーを引いても、船は加速も上昇もしない」
「そしてあの顔!ああ、あの無表情で寒そうな、何も語らない顔!」
 公式には認められてはいないが、あの地域では二十世紀末からの伝統を持つ某超大国が、
真空核実験に失敗して、極秘に設置された基地のスタッフ十数人が証拠隠滅のために救出
されずに、犠牲にされたと言われる。地球の本国政府は各国に援助をこわなかった。極秘
中の極秘で、しかも核実験。まだ大国のエゴとメンツとが、不毛な対立の残りを引きずっ
ていた時代の話である。
 この様な事を行ったのも悪いし、事故を隠した事も悪かろう。国際的なスキャンダルに
なるし、重大な協定違反である。しかしそれ以上に彼らの本国政府が後ろめたく後味が悪
いのは、自国の国民を見殺しにした事でろう。
(未だにその某超大国はその事実を否定し、なかったと言い張っている)。
 国の為に彼らの生死は伏せられ、その存在は最初からなかった物として社会的に抹殺さ
れ、彼らには名誉さえない。
 国の政策の為に送り出され、国の政策の為に命を捧げた彼らの心は……。
 この後、この航路は二度と使われる事はなかった。二千五十八年に、全ての真相が明ら
かにされるまで。その航路を通った宇宙船の墜落は、結局のところ真空核実験における残
留放射能が、コンピューターを狂わせた結果であると発表されるに至った。しかしそれら
の狂いが全て、月に引き寄せられる様に動いたのはなぜかは、今だに解っていない。
 我々は科学時代、宇宙時代と言ってこの怪異を疑い、偏見の目で見ようとする。しかし、
人の住む所は全てそれ人の心のある所、そして思いを残す処。
『李瞬臣』の乗組員達の見た物が集団幻覚であると言う人もいる。乗組員達が注目を浴び
たくて口裏を合わせてでっちあげた作り話だという見方もある。
 しかし考えてみよう、それらを全て疑ってかかるあなた自身がひとつの幻覚の中にいる
のではないか。彼らの見た物が幻で我々の理性が真実であると、一体誰に断言できるのか。
 あるいは、彼らこそが真実を語ったのかも知れぬのだ。

 明は背筋が震えてくるのを感じて、布団に潜り込んだ。このボロの民宿はまったく気分
作りには良い物で、みんなが寝込んでしまった後ではさしもの五人部屋もなにかしら恐ろ
しく、まるで自分の後ろのグレン中佐やロシア人の研究者が振り返るのを待っていそうな
気がして、しっかりと目を閉じる。
 街全体はざわついていたが、彼らには防音壁の向こうの事情は解らなかった。下手に騒
ぎ立てて狭い街の中をうろついたり、酸素を食いつぶすよりも、初心者はおとなしく寝て
いた方が良いのだ。


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