宇宙ステーションBUでの滞在時間は短く、そこでの思い出の大部分はこの非常事態に
よってかき消されて、思い出も何もないのだが、一つだけ明の心に……いや、六人の心に
残るエピソードがあった。
それは月行きの定期便に乗り込もうと発着場に少し早めに行って時間を余していた時…。
「あれは、何だ?」
武の指さした方角は通路の片隅。狭く入り組んで目立たない所に、一人の女性と三人の
若いお兄さんがいる。さて、
「俗に言う、チンピラですね」
「で、彼女は俗に言う被害者ってやつかい」
徹夫の口調をまねて和男は言った。
「何となく、どこかの漫画にありそうな展開だなあ」
明は今一つ気合いの入らない声で呟く。
「我々の作者の想像力の貧困さが伺えるよ」
(このとき明は作者の恐ろしい報復を受ける因を作ったのであった)
「だけども彼女、結構美人そうだね」
武は絵か何かを鑑賞するような口調で言う。女性に対しこいつはそれしか感じないの
か!明は思わず叫び出しそうになったが、事態は急を要している。
「スカートはいてる。きれいな女の人だよ」
「スカート位、ノルウエーの男だって……」
誠一にそう答えつつ、徹夫もそっちを凝視する。若い女の人だ、日系人かな。
「嫌がってるみたいだよ」
三人の男が一人の女性に絡んで、ハンドバッグやらスカートの裾やら手首を取ってみた
り、しつこそう。金目当てだろうか? そのあと彼らは彼女に○○して●●して◎◎して。
うう、いやらしい! 一人で頭を働かせた明は勝手に義憤して、
「助けよう、それが男というものさ」
明は、形だけ格好よくみんなの方を向いて演説をぶつ。キザったらしく。
全く困ったこの六人、一体何をやり出すものやら。
さてさて、か弱き女性に襲いかかる獣の様なチンピラがおよそ三人。明たち六人の即席
のナイトは、一躍彼女を救わん為に進み出すのであった。
『俺たちゃただの旅行者だった筈なのにイ』と今更云っても仕様がない。
彼らをこの余りにもありがちな設定に引きずり込んだのは、明の不用意な失言とそれに
対する作者の個人的な報復であり、彼はそのために全員から恨みを買うような事件の渦の
ど真ん中へと放り込まれてしまうのだ。
美女の困るのを見捨てちゃあ、彼らに主人公たる資格はない! いざ行かん、日本男児
よ! 君達の前には美女の感謝が待っている。
「助けよう、それが男とゆーものさ」
明は格好よくそういい切ってから、
「明らかな事が三つある。
ひとつ、レディーが困っている時に手助けをするのが紳士と云うものさ」
貧乏学生の無職青年が紳士も何もあった物かい!そういう野次は気にせずに、
「二つ、人類みな兄弟。困った時にはお互いさまだよ」
一日一善か、次の言葉は。
「三つ……」
ここからは口には出さず、
『六人対三人で負ける訳がナイ』
(こっちが一人や二人だったらどうする気だったんだ、おい!)
「美人とお知り合いになる絶好のチャンスだよ!」
SF小説では多くの仕事が機械任せだから女の子に会う場面はなかなかないんだよ!
舞台裏でメロメロの恋愛小説に出してくれと云って作者に断わられた経緯を持つ誠一は、
「夢を正夢にして見せるぞおっ!」
と全身でうなって見せる。犬みたいだ。
「社会の道徳と正義を守る為だな……犯罪者が罪を侵す前に止めさせるのが最善だが、そ
れがだめなら力ずくで止めさせるのが次善」
徹夫はいつも冷静だ。が、それでも幾らかは女性に視線が向いている様だ。この男には
果たして、美を鑑賞する以上の欲望という物があるのだろうか。
「人を傷つける様な行為は許されない!
特にか弱き女性に手を出そうなど不埒千万。 我こそは仮面の忍者、リボンの騎士、宇
宙戦艦波動砲、勇者ロトの血を引くセーラームーン……!」
和男の云う事はどんどん意味が分からなくなる。が、一応同じ考えだろうと思われる。
(今でも自信のほどはない)
そして反対に、ほとんど何も言わなくても通じてしまうのは武。云わなくても分かるの
だ。その顔に、その目の玉に『謝』と云う文字と『礼』と云う文字とが映っているのが、
見えるのだ。
俊男を先頭にした(俊男は無理やり六人の先頭に立たされてしまったのだが)六人は、
ずんずんずんずん歩いて行った。……で?
結果はどうなったかって?
そりゃもう、展開は単純。
「ああ、ああ、君たち。そういう事はだね、公衆衛生上、良くないんじゃあないかな。
そうは思わないかね」
(別に衛生がどうのこうのという問題では)
「社会的に見てだねえ、このような事は良くないのではないかと、思うんだよ。軽犯罪法
に触れるような事だし、第一君達は未来ある若者たちだろう。ああ、そのおだねえ……」
「もう少しまともな注意という物がないか」
「月に代わってお仕置きよとか、三つ醜い浮き世の鬼を、退治しようぞ桃太郎とかさ」
「必殺のライダーキックを見せてやれよ。今はお前が、日本のヒーローの代表なんだよ」
「アイスラッカーはどこやったんだ、セブン」(んなもんどこにあるっ!)
そういう呟きは後ろにいて余裕のある面々にのみ共通した物だろう。前に出て戦う人間
にとっては、できるだけ争いを避けたいのが人魚、じゃない人情なのだ。
六人と三人、明の人数意識は向こうにも働いた。不利を察した彼らは徹夫の注意だけで
潔く散って行ったのだ。
「ちぇっ、つまんねえの」
「いやあ、腕を振るいたかったなあ」
そういう武と和男の足は、誰がどう見てもがくがくがくがく、震えていた。それを二人
は揃って『武者ぶるい』だと云ったが、果たして……。
漫画も良く読む和男は、少女漫画の世界をそのままに再現するが、不幸な事に相手は少
女漫画の年齢ではなかった。
うまく手を取って、
「大丈夫かい?」
とそこまでは巧かったのだが、『あさましい仲間たち』が同じく危険を分かち合った配当
を求めて一息に押し寄せるので、彼のキザッたらしい目論見は十分の三秒でついえ去った。
「おまえら来世で餓鬼道に落ちるぞ……。
みんなで美女の周りにむさぼり集まって、何てやつらだ!」
と和男は言っていたものの、徹夫の、
「その言葉、そのまま返してやるぞ」
との明快なお答えに返す言葉なく沈黙。
「どうもありがとう、私は大江春美……」
さてこの女性、大江春美さん。当年二十六才は後で分かる事。未婚女性なので、数才は
若く見えたと誠一は言っているが本当に綺麗なお姉さんだ。
身長百七十センチ、体重五十七キロ、血液型はB型、国籍は金星の南極州。誕生日は七
月二十日。服の上から見ただけでもスリーサイズは上から…(そこまで聞くなよ、おい)。
洋風な顔立ちは日系ながら幾つかの外国の血も混ぜて明るく輝き、知的で気品あふれる
才媛と云った感じのお姉さん。仕事の関係で月に向かう途中、なんだけど。
彼女は明たちよりもひとつ遅い定期便で、ニュー・ニューヨークに向かうのだそうだ。
明たちの行く予定のグレン・タウン(或いはルナ・シティ)とはまさに表裏。
どーしようもない。
ちなみに彼女、名門女子大を中退してからアメリカへ海外留学し、物理学を専攻して、
幾つかの論文でなかなかの業績も修めているその道ではちょっとした有名人なのだそうだ。
背も高いし、体系もいいし、美人だし。
目立つ訳だ。
「もっと話したい事はあるけれど」
もうそろそろ時間だからね。和男のその座を奪い取って春美に向かって一人でしゃべり
続けていたのは、俊男だった……。添乗員のくせに客の楽しみを独り占めにするなんて、
酷い! 何てこったい!
少々年上だろうとも、美人ならばなりふり構わぬ誠一の悔しさはひとしお。和男の書庫
から『女性の心理』『女性の心の謎九十九』なる書物を借り出し雪辱を期するのだそうだ。
しかし何する積もりで勉強するんだろうね。成功した俊男ならともかく、お話に失敗し
た和男から借りるなんて……。
その和男君いわく、
「あれこそ美だ……芸術だよ!」
千葉の宇宙空港前の公園でテントウムシにも“美”と云ってたから、……どうだか。
徹夫の態度たるや自然すぎて全く目立たない。本来格好よく彼女を助けたナイトの明が
しゃべる筈の、セリフ。
「淑女に礼を尽くすのは当然の行い。何も感謝される程の事ではありません。
通りすがりの男が一人(むろん自分の事)と五匹、それだけです」
「んなばかなあ! 助けようって云ったのは俺なんだぜぇ」
明は春美と別れた後で涙声。
「だって、一人で助けた訳じゃないだろう」
という誠一に、
「俺が一人で助け出せば良かった……」
(それこそ今になって云える事なのだが)
しかし一番悲惨だったのは多分、武だろう。
おっかない思いして、嫌がる勇気をだましなだめて、やっとの事で行ったのに……。
みんな美人に弱くて俊男以下六人、謝礼は全くご無用と言い切ったのだ。これが自分で
言ったのならともかく、俊男が言い出して決めてしまったのだから、悲嘆の淵のマリアナ
海溝。
武のやつはショックでしばらく、目の焦点があってない様だった。何しろ、彼の論法で
行けば、大事な物をつぎ込めばつぎ込むほど、それに見合う報酬も大きくなければいけな
いのだ。またそうでなくては大切な財産を投資に使うなどという事はありえないのだ。ま
してや今回武が投資したのは、それらの全ての資産よりも高い価値を持つ『彼自身』なの
だ。
せめてその心をくみ取って、彼らにくれる謝礼ぐらい受け取らないでは……。それが!
ああそれが!全てが、空中で夢散したのだ。
「ああ!」
そういう訳で六人は、春美を近くの喫茶店に誘ってコーヒーとあんみつとフルーツパフ
ェとソフトクリームと……をおごってから、別れる事になった。その間俊男はずっと一手
に彼女を引き受けて、宇宙旅行が久しぶりな事、大地震に驚きと共に深く悲しんでいる事、
それでも人類は必ずそれを乗り越えて発展して行くだろう事などなどを話す春美にうんう
んと頷いていた。
何て酷いやつなんだ! セールスの奥義を、 こんな場面で使うとは、反則だぁ!
「宇宙船発射準備完了……。船内気圧正常、圧力隔壁OK。イオンエンジン順調……。
乗客搭乗率百パーセント」
「発進準備完了了解……!ステーション発射台異常無し、予定通り航行されたい、以上」
補助ロケットが作動して宇宙船は軽く進む。少し進んで離れてからでないと、主力エン
ジンの熱と衝撃で宇宙ステーションも痛むのだそうだ。緩やかの港を出るロケットの尻尾
に、ふっと灯火がついた様に見えて、軽い衝撃。
「発射……」
ほとんど衝撃は感じなかった。加速度を上げる時に感じるあの、軽く背中を引っ張り戻
される様な感触と共に、明たちを載せた宇宙定期便は進み出す。
外からの轟音が全くと云って良い程伝わって来ないのは真空のためか。
眼下に見えるのは限りなく生命を育み宿した碧い命の星。行く手に広がるのは全てを包
み込む大いなる真理の深遠。その深淵がどこまで続くのか、どこで終わるのか、果てとい
う物があるのかどうかを、人は探究し続けてきた。今、彼らは確実に真理へと近づきつつ
ある、二十一世紀。
今、かぐや姫の時代から千数百年を経て、明も月へ向かう。それは、一度は体験してみ
たかった、輝く星への旅だった。
ルナ・シティ。
政治面では月面州連盟の議事堂があり、地球本星向きの位置から地球の援助を受けるに
も最適で行政の中心地。経済力でも火星市、ニュー・ニューヨークと共に宇宙都市として
は第一級の経済力を誇る。多くの惑星間航行用宇宙船の母港であり、地球側を向いたその
都市は、天気のいい日なら肉眼でも見えるかも知れない。
人口三十万人弱。地球から比較的近い上に大地にいるという安心感があって、その上重
力が少なくて暮らしやすく。重力をまったくなくした訳ではないので、体の機能も無重力
に比べればそれ程劣化しないし、観光・保養・休養にとその有利さは金星や火星に一歩先
んじる物がある。
年間の観光客は人口の数百倍に達し、ピーク時には空気が足りないとの理由で入国制限
を行って多くの入れざる客などは、他の月面都市に回らざるをえない事がしょっちゅうだ。
広さにしても既に都市の富に群がる貧しき民のスラムに囲まれて、次第に手狭になりつ
つある地球上の諸都市に比べて、四国と九州を合せた位の広大な都市設計は、正に理想峡。
月故に、辺地故に最も整備され、最も丹精込めて作られ、最も緑を大切にされ、最新の
科学技術を動員した『美の都』。
「人はその生ある内に三つの物を見んと望む。
宇宙の深遠に浮かぶ碧い星と、美の都ルナ・シティと、そしてはるかなる土星だ。これ
以上を望むのは私も少し贅沢だと思う」
イタリアかどこかの詩人の言葉だった様に思う。
そしてその周囲に展開する衛星都市群の中でも、グレン・タウンはやや離れて見える。
二千二十九年、地球からの初めての大規模な月への移民団の団長、グレン・マッカーシー
中佐にちなんでつけられた名前である。
彼らは栄光と新世界創造への大いなる希望を持って月に降り立ったが、到着後間もなく
その短い希望に終止符を打って、記念碑に納まる事となる。
月到着後間もなく、全く予期しえなかった大地震が起こったのだ。宇宙船は元々、開拓
の為に資材を積んできていて帰りの分の燃料もない。当面はそれだけの資材で生産活動を
行って、地球や既に月にあるいくつかの観測基地と連絡を取りあい、その内に多くの燃料
も運んでもらおうという考えだったのだ。
また、帰りの燃料迄積んでては、ロケットの質量が大きすぎて話にならぬ。貴重な資材
を積むスペースを少しでも確保したかった、その苦肉の策が裏目に出た。
宇宙船は大破炎上して次々と希望の大地の上で彼らの命を飲み込んでいき、彼らの悲劇
は三十万キロ離れた地球で絶叫となって響き渡った。
「オー、マイ、ゴッド!」
地球の初めての大規模な移民。それは科学と技術と、そして人類の希望だったのに!
辛うじて爆発の危険を逃れた十二人の仲間たちも全ての資材を失って手の打ち様がなく、
地球の同胞たちに希望と勝利の勇姿を伝える筈だった通信回路は彼らの最後を伝える事と
なってしまった。
何と言う! 何と言うむごい!
助け出し様がないのだ。彼らは今、三十万キロの彼方にいる。彼らは今、手の届かない
遥か遠くで、刻々と迫り来る『死』の告知を待つしかないのだ。
酸素ボンベが残ったのは、奇跡と云う他はなかったが、所詮分け合ったとしても十数時
間長く死を待つだけに過ぎぬ。月の各地の基地からも救援隊は出ていたが、救出が不可能
なのは明らか過ぎていた。
『彼らはその時どうしたか?』
アメリカで、ソ連で、フランスで、中国で、イギリスで、ドイツで、日本で、宇宙を目
指す若者たちにそれは連綿と受け継がれている。
『彼らは取り乱さなかった。
まだ十才の子供もいたと云うのに、未来輝く大学生もいたと云うのに、恋する人・愛し
た者を失った人もいたと云うのに。死を避けられぬ、その事実を厳然と突きつけられた時
から、彼らは真に偉大な英雄になったのだ』
彼らは実にすがすがしかった。なぜなのだろう。どうしてこうまで静かにいられるのだ
ろう。人がいつも恐れ続けていた『死』を、彼らはこの非常時になって乗り越えたのか?
見解はさまざまある。しかし事実は事実だ。そしてその気持ちは半分だけ、明にも分か
りそうな気がした。
「たった一度しかないの『死』だし、騒いでも叫んでも助からないのなら、カッコよく死
にたいってのも、分かる」
その反面、例え仲間の酸素を奪い合ってでも、一分一秒でも長生きしたい、そんな心も
明の中にはあった。彼らがそうしたとしても世界は誰もそれを非難できないだろうと、明
は思うし、彼なら多分そうしただろう。
それが醜いというのかどうかは、明には識別できなかった。ただグレン中佐他十一人の
仲間たちの姿が美しく素晴らしいのは紛れもなく事実で、明はその映画を始めて見た時、
手が真っ赤になる程拍手したのを覚えている。
彼らは紛れもなく『絶対の物』を持っていたのだ。『絶対にして永遠・不滅の物』を。
だからこそ彼らは、そんなにも強くあれたのだろう。
後にそれを記念してその大事故の現場には記念碑が建てられ、その維持管理にと人々が
集まり、やがて縁起が悪いと云う一部の声を押しきる様に一つの街が、形成されていく。
グレン・タウン。
その街はそう名づけられた。
その後これを記念したグレン・タウンの地上部には、グレン中佐たちの銅像が立てられ、
その上部には常に明るい灯がつけられていて、道行く船を導く様に輝き渡る。『宇宙の灯
台』の始まりである。
月までの所要時間は約四時間。
この旅もまた、月への定期便だけあって飛行機の座席の少しゆったりしたのとそれ程違
わない。違うと云えば無重力状態になるので、常にシートベルトの着用が必要であるくら
い。
しかし彼ら五人の時間潰しは様々だった。
誠一と明は他の数人の若者たちと共に機内サービスの漫画を買って、金の節約とばかり
回し読みしあってスチュワーデスに睨まれて、それでも気づかぬ暇つぶし。
武は誠一に協力してもらって、金星行きの宇宙船の燃費を計算していた。万が一金星に
行けなくなった時にはその燃料にプラス金星での宿泊費を請求するのだと云う。他のサー
ビスについてはジュース一杯から夜更かしした時の電気料に至るまで計算し尽くしている
武も宇宙船の描く軌道についてだけは徹夫の理論と電子頭脳を借りる他はなさそうだ。
和男と俊男は何か分厚い本を読みふけっている。和男はともかく、俊男が?
その上時々げらげら笑ってやがる。何だ?
近くによって良く見ると漫画の本を挟んである……ありゃりゃ。
千九百六十九年……今から一世紀以上も昔、アメリカの有人宇宙飛行船アポロ十三号が
月に軟着陸し、アームストロング船長が初めて異なる天体の大地を踏みしめた時、そこは
死の世界だった。
我々の大地とは異なる大地。生もなければ死もなかった、異世界。すべてが違っていた
別天地が、まさかたった百年で人類の命と希望を育む壮大な文化都市になっていようとは、
その時一体誰に想像できたろう。
一世紀あまりの間で、誕生以来数十億年を経てもなお空虚な命なき星だった月は一挙に
地球に次ぐ命あふれる星に変貌を遂げた。月は今や数十万人の人口を抱える一大生産基地
と化している。火星や金星の開拓のためにも前進基地としてその存在は代え難いのだ。
地下に網の目の如く広がる都市達の、その全てを覆い隠す事はできはしない。地上に残
る飛行場や通信・観測施設を見るに及んで、それだけでもその規模の偉大さが……それは
月にそれらを作り上げた人類の偉大さでもあり、その人類を育み育てた地球の偉大さなの
だが、分かってくる。
体が震えるのを、明は感じていた。今まで大して意識してなかった月への着地の、その
瞬間になって、自分でも理解できない『震え』が体を突き抜ける。
着地の衝撃かも知れない。しかし、明はそれだけではない事を“知っていた”。
『俺は、本当に運がいい男だな……』
明はまたもそう思う。
月では地震の歓迎を受けたものの、とにかくここまで来れたのだ。世の中には、体が弱
く生まれつき宇宙に出られぬ体質の人もいる。発展途上国の人達にとっては幾ら元気でも
宇宙なんて、おとぎ話にも遠い夢物語の存在だ。
ここまで大けがもせず、大病もなく育ってこれた。それだけで素晴らしい事ではないか。
ましてや、何千何万の応募者の中から選ばれたのだ。中には明と紙一重の差で落ちた奴も
いるかも知れないと云うのに、彼は当選した。
そして最大の幸運と云えば、今の今まで気付かなかった事ではあるが、明たちがルナ・
シティに着くのが大地震の終わった後だったと云う事である。ルナ・シティでのほほんと
ホテルに寝ている最中にこの地震に襲われたなら、一体彼はどうなっていただろう。
この世は一寸先は闇、などと暗い事ばかり言う人もいる。しかし要は見方の問題だ。
明はそう思う。
「着いた……」
誰かの呟き。それは誰の呟きだろう。
宇宙船が月の地表に接近していく。音のない世界だ。空気抵抗もない。宇宙船は静かに
下りていく。
「月へ来れて良かったな」
隣で誠一の声がした。誠一も明の肩の上に顔を出して宇宙を見つめているのが、ガラス
に映って見えた。
「うん……」
明は、振り向かないまま頷いた。
ゴーン、衝撃が船体を震わせる。どうやら、着いたらしい。
「ただいま、当船はグレン・タウン宇宙空港に到着致しました。
ただいま、当船はグレン・タウン宇宙空港に到着致しました。
グレン・タウン宇宙空港は地下にステーションがございますが、地中は揺り返しの余震
による地盤沈下の恐れがありますので、敢えて地上発着場に停止致しました。当船は、地
震による地盤沈下を避けて地上に停止し、まもなく発進致します……」
俊男は急に立ち上がって動き出した。?「どこにいくんだい?」
何か急ぎの用事だったみたいだけど……。
「今も尚揺り返しの危険がございますので、万事慌てずに、又敏速に行動下さる様お願い
申し上げます……くれぐれも敏速にご行動下さい……。
尚当船は、宇宙ステーションBTへ向かう傷病者緊急輸送船に変わります。下りる方は
お早めに……」
状況は緊迫しているらしく、何となく慌ただしい。この便に乗ってる人間は、宇宙ステ
ーションに『開き』を作る為に当初予定通り出発できた者と、緊急に空席に割り込んでき
たマスコミ報道陣が半々で、明もテレビに映ったろうか。
とにもかくにも月に来た。問題はこれから。
明は、自分たちが決して『死なない人種』である事を確信しつつ、少しの不安を取り混
ぜながら月の大地を踏み締めたのだった。
西暦二千○○年五月二十三日、彼らは月に着いた。彼らが無事に帰れたかどうかは、お
楽しみに。
第2章へ戻る
第4章へ進む