第20話 帰還
前回迄の経緯
高校1年生の初冬、学校帰りに突如わたしを襲ってきたのは、鬼切部相馬党の剣士達で。
若杉の羽藤監視員・若木葛子さんが、わたしの悪い噂を振りまいた結果の職を失い、その
遺恨を晴らす為に、わたしを鬼と騙って鬼切りを呼び寄せ。美咋先輩迄攫って殺めようと。
冤罪が判明しても、鬼ではないと証しても、若木さんにわたしを生かす積りはなく。敵
を討つ為に出陣した相馬党も引っ込みが付かず。己が鬼と化して鬼切部の禍を退ける他に
なく。
何とか敵は退けたけど。美咋先輩も深傷負ったわたしも、寒空の中原野に佇んで。愛し
い人の元へ帰る為の、生きる為の闘いが始る。
参照 柚明前章・番外編第14話「例え鬼になろうとも」
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高校初めての学校祭も無事に終え、年内に残る行事は期末テスト位となった、羽藤柚明
高校1年の冬の初め。雪はちらついていても、積るには至らず。でも風は身を切る冷たさ
で。町外れの原野は闇空に半月のみが清く冷たく。
経観塚の町から羽様と反対方向に15キロ離れた、人気のない廃屋跡で。寒風の中、身を
隠しきれぬ汚れ破れたセーラー服を身に纏い、美咋先輩と2人互いを互いの肌で温め合っ
て。
近くでは、鬼切部相馬党6人と若木葛子さんが意識を失っている。この寒空に放置して
は風邪を引くけど、起こしてあげる訳にも行かず。彼らはわたしと美咋先輩の処断に来て、
己が打ち倒した相手なのだ。暫くは眠って貰わねば。せめてわたし達がこの場を去る迄は。
「柚明。あんたは暖かいね」「先輩もです」
美咋先輩の状況は相当酷かった。わたしと絆深いと言うだけで、下校時相馬党に攫われ、
今は消失した廃屋へ縛られた侭で抛り込まれ。わたしが退けねば、彼らは殺める積りだっ
た。縛られ転がされた為にセーラー服は汚れ破け、何度か殴られ蹴られして体の各所に痣
も残り。身の自由は取り戻せ、動ける様になったけど。
わたしの状況はそれに輪を掛けて酷いかも。即死は一応免れたけど、わたしは今尚遅効
性の死の脅威に面し続けている。早く適切な処置をせねば、この生命は明日の朝迄保たな
い。
時の浪費が生死を分つ事は分っていたけど。即動ける状態でもなく、助けを呼べる状況
でもなく……助けの訪れを期待できる状況でも。ここは田舎の更に外れで通り掛る者も居
ない。誰も来そうにない処だから、相馬党や若木さんはわたし達の呵みや抹殺の場に選ん
だのだ。
バス路線からも外れ、付近には民家もなく。羽藤の家族に連絡する為にも、経観塚銀座
通の美咋先輩の宅迄、歩く他に方法はないけど。美咋先輩は立てる状態ではなく。その心
労は限界を超えていた。生命の危難を経た直後なのだ。殺意に面した直後なのだ。今はそ
の昂ぶった心を鎮めに、女の子の柔らかな肌身を合わせ。体が冷えない様に暖かな肌身を
重ね。
「もう少し休んで心身を落ち着けましょう」
相馬党の女性剣士・朱雀さんに食い破られた左首筋は、呪的な所作だから破った今は唯
の軽傷だけど。左太腿の小刀による傷は、失血が生命を脅かし。蹴られ殴られ揉まれ吸い
付かれた傷は、生命に関らないけど。若木さんから受けた銃弾は、腕や体に複数食い込み。
殺傷能力のやや低い女性用拳銃の弾なので。体の中心線は防いだので致命傷は避けたけ
ど。美咋先輩を背に庇ったので弾は躱せず。心臓や脳を守る為に縦に揃えた左右の腕に、
肘から先に2発食い込み。その守りを外れた右肩と左腰、左脇腹と右乳房の外側にも1発
ずつ。
着弾時は鬼の強化が残っていたので、強化された筋肉に弾が阻まれ、内臓損傷に至らな
かったけど。放置すれば弾の金属成分が、毒素となって体内を巡り生命を脅かす。最善は
病院で手術を受ける事だけど、鬼切部と戦った経緯を明かせば、病院に迷惑が及ぶかも…。
目前の即死の危機は取りあえず退けたけど。
死神は尚もわたしの背後に張り付いている。
相馬党も若木さんも誰1人殺めてないので。
ここに留まり続ければいずれ彼らは目覚め。
再度わたし達の生命を奪う使命に動き出す。
そうなった末にわたしに抗う余力はない…。
【死ぬ程の痛みに苛まれても、全身が砕け崩れようとも、早急にここを離れなければいけ
ないけど……留まり続ければ風邪を引くどころじゃなく、先輩の生命にも関るのだけど】
わたしの無理は問題ではない。己は美咋先輩の為なら、無理でも不可能でもこの身を動
かす。問題は先輩の心身の状態で。即座には動かせない。先輩に落ち着く為の時間が要る。
『……怖かった。怖かった。刀を振るう男達が、人を殺せる拳銃が、鬼を切るという連中
の戦いが……とってもとっても、怖かった』
敵を全て退けて美咋先輩を助け起こした時。
剛毅で芯の強い彼女も心身の負荷が限界に。
『彼らを倒した羽藤柚明も、怖いのですね』
答は不要だった。わたしは正面から肌身合わせた侭黙した美咋先輩に、良いのですよと。
『わたし自身怖かったもの。鬼を狩る鬼の様な人達を倒すなんて、鬼の範疇も超えている。
真剣の立ち合いを怖れる先輩は、正常です』
『私は……所詮女の子だ。今宵はそれを思い知らされた。剣道幾ら習っても、真剣で斬り
合う覚悟は抱けない。大野にも見た事のない本物の殺意……奴らを思い出すと、助かった
今も震えが止まらない。理屈抜きに怖いんだ。競技じゃない、ルールもない。負ければ手
足切り落され、血を流して死ぬ、本当の戦い…。
それを受けて打ち勝てる柚明に、その鬼の様な強さにも、私は、見ていて怖くなって』
締め付けてくるのは。この肌身の柔らかさで事実を否定したいから。今見た鬼の羽藤柚
明を、嘘だ夢だ幻だと刷り込ませねば、平静を保てないから。鬼切部や鬼の戦いは、剣道
達人の想定も越え。神原美咋の心を壊しかけ。
人の内心を悟る感応の力を持つと知って尚、わたしと絆を繋ぎ続けてくれた人が。わた
しを庇って鬼切部に、炎の告発を叩き付けてくれた人が。あの戦いはその剛毅の限界を超
え。
『あんたは私を喰らわないよね。あんたは私を口封じしないよね。分っているのに、感じ
ているのに。何度も何度も肌身繋げて確かめたのに。奴らも柚明も余りにも遠く離れすぎ
た強さで。今迄柚明にも、こんな苛烈さが隠れていたなんて……怖い、怖い、怖いっ!』
柚明を傷つけると分って尚、身の震えが止められない。あんたは私を助けてくれたのに、
正にその強さが怖い。奴らを上回ったその気迫が怖い……怖いの! お願い柚明。もっと
強く抱き締めて、この心の体の震えを鎮めて。
美咋先輩はわたしに強く肌身合わせ、自身の怯えを抑えようと。この感触が怖くないと
無理矢理肌身に刷り込ませようと。そこ迄せねば抑えられない。鬼を知らない常の人には、
鬼に対峙する事も心を削る。鬼を切る者に殺されかけたのだ。その心の痛手は如何ほどか。
美しく柔らかく、清らかに強く優しい人が。耐えきれない程の衝撃に心乱され。わたし
が巻き込んでしまった。己がこの人に限界を超えた傷み哀しみを強いた。この人の凛々し
さ麗しさに憧れて絆を望んだ所為で。わたしはこの人にその償いに、一体何を為せるだろ
う。
その答を美咋先輩は一つ、示してくれた。
『……柚明は感応の力で、私の今夜の記憶を消せる? 忘れさせる事出来る? 私の心を
操って、安らげる事が柚明には?』『……』
救いを願う様に、彼女は震えを纏わせて。
愛しい人の問には、常に事実を応えねば。
『記憶を消す事は出来ません。人の経験は生きても死んでも、魂に刻まれます。でもそれ
を忘れさせる事なら、今のわたしにも。心の中の記憶を呼び出す取っ手を隠し、思い出せ
なく促す事で。一生思い出せなく導く事も』
お望みですか? やや躊躇いつつ問うと。
美しい双眸が、わたしの瞳を覗き込んで。
『耐えられそうにない……生命を脅かされた事を、人を殺そうと迫る刃を、殺気を。私は、
あんな奴らが現実に潜んでいる世界を、平穏に受け止めて過ごして行ける程剛胆じゃない。
……寝ても醒めてもあの刀や怒号や、縛られ殴られ蹴られた感覚が、思い出されて。勉
強も色恋も剣道も何も出来ない。背後で草が揺れると心が竦む。傍で風が吹くと身が縮む。
月明りが陰るだけで怯えが騒ぎ出し。あんたに抱き留められてないと……ダメだよ私は』
お願い、助けて。その声は悲痛さを帯び。
そうさせてしまったのは、このわたしだ。
なら、それを補い償い購い復するのも又。
『生命狙われた事実を忘れてしまうのですよ。彼らが世間に潜む事を忘れてしまうのです
よ。それで良いのですか? 先輩は、今宵生命を落しかけた事を忘れて良いのですか?
今宵生命を奪いかけた者達がいた事を忘れても』
再び美咋先輩に鬼切部の禍が及ばない様にするのは、わたしの方で。鬼切部からの相応
の償いも、美咋先輩が気付かない形でさせる。でも問題はそう言う事があったという事実
を、神原美咋自身が忘れ去って良いのかという…。
『だから忘れたいの。思い出せなくなりたい。柚明に救われた事も忘れてしまうけど、柚
明に抱いた怯えも忘れたい。こんなに柔らかく心地良い柚明を、怖れてしまった己自身
を』
ごめん柚明。私はあんた程強くなれないよ。
溢れ出した美しい雫が、この胸元を濡らす。
強く清らかなその心は、今決壊の淵にいた。
自身の傷み苦しみを隠し通す先輩が、ここ迄怯えを明かし訴え縋る。取り繕う余裕もな
い逼迫が力も不要に窺えた。何の咎もないのにわたしの禍に巻き込まれ、心壊され苛まれ。
この侭では先輩は怯えに心掴まれて。見る物聞く物触れる物、世の中全てに震え塞ぎ込み、
閉じ籠もる人生を送る。輝きを失ってしまう。
『……お願い、ゆめい』『……美咋先輩…』
彼女の心を守る為に、わたしが為せる事は。
愛しい人への償いに、わたしが為せる事は。
わたしが為したい事ではなく、為せる事は。
『あなたの心を、これ以上壊させない為に』
わたしは奴隷も操り人形も欲してないけど。
美咋先輩に微かな不安さえ残させない様に。
この所作が彼女の未来も幸せも守ると信じ。
【わたしが償えない罪を負う事になっても】
罪への怯えより罰への怖れより、彼女の守りと幸せが優先。自身の赦されたい願望等後
回し。だからわたしは今から愛しい罪を犯す。この罰と報いは生命ある限りわたしが背負
う。
ごめんなさい。自ら唇を美しい唇に重ね。
贄の血の感応を直接大量に彼女へ流して。
贄の血の感応を、たいせつな人に強制力として及ぼして。傷みの記憶を大量の想いで塗
り潰し。その心を在り方を未来を一生を変え。
『神原美咋は、羽藤柚明のたいせつなひと。
清く正しく強く優しく美しい、憧れの人』
『わたしの禍に巻き込んで、傷つけてしまった愛しい女の子。守り支えたい人だったのに。
鬼のわたしに尚心を寄せて、怯えた自身を責めて悔い。でもその潔さが、逆に心を苛んで。
わたしはあなたが心安らかなら、憎み恨まれても、蛇蝎の如く嫌われても構わないのに』
もう一度顔を合わせて唇重ね。力を注ぎ。
『その傷み苦しみは全てわたしの所為。その苦味哀しみも全てわたしの所為。わたしがあ
なたと結んだ絆が禍の源に。羽藤柚明が禍に。
……だからこそ。愛しいあなたの安らかな日々はわたしが守る。例え鬼になろうとも』
その予後を見守る為にも、町外れの寒空の下で暫く動く事が叶わず。夜風と月明りの冷
たさに身を晒しつつ、肌身をひしと重ね合い。互いの温もりを交わし合いつつ、時を過ご
す。
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「ぐっ……あぅっ!」「柚明……大丈夫?」
思わず漏れ出た呻き声に、間近な美しい人が心配を見せ。正面から肌身を重ねていると、
苦痛による緊迫を隠しきれない。特に通常の殴打等による苦痛ではなく、呪物で己の内か
ら高熱に灼かれる痛みには、馴れてないので。
先輩はわたしが流し込んだ大量の感応『心の麻酔』の効果で、心の起伏を普段より小さ
く操作されている。わたしが血塗れで生命危うく見えても、先輩が切迫感を抱かないのは、
その様にした為だ。その記憶を封じるには及ばないけど、鋭敏さを弱め心が壊れない様に。
眠らせるのが最善だけど、今寝込んでは拙い。現状では己に先輩を担いで帰る事が叶わな
い。でもこの程度の『力』の行使で、体内に食い込んだ銃弾の呪は発動し、己の身を灼き
始め。
若木さんの銀の銃弾は、癒しを及ぼそうとしても、感応を及ぼそうとしても。血の力を
発動させれば同時に銃弾の呪力が発動し、この身を肉から骨から灼き始め。若杉の術は大
雑把で、鬼に限らず化外の『力』が全て敵か。鬼ではないわたしを抹殺しようとした若木
さんなら、敢てそう言う呪を選んだ可能性も…。
鬼の強化は暴走に繋り、己の理性も壊されるので。愛しい女性迄傷つけ、己が人に戻れ
なくなる怖れが高いので。使い続ける積りはなくて、戦いの終盤から解き始めていたけど。
そのお陰で銀の弾は呪物としての効用を発揮しきれず。唯この身に肉に食い込んだ状態で。
弾丸を受けた当初は、鬼化の残滓が尚少しあったので。弾の呪力は鬼を灼き尽くそうと、
身の内で高熱を発し。ガスバーナーを、傷口の奥に吹き付けられた感触だった。光熱は傷
の奥から骨を肉を皮を、猛烈な勢いで溶かし。銃創からは金色の光が溢れ出し。荘厳な光
は己を浄化する如く。鮮烈な輝きはこの生命も断つかと思えたけど。抗う術もなかったけ
ど。
鬼化の残滓が、若杉の呪に灼き尽くされて。
新たな鬼の力・化外の力が湧き出さなくば。
銀の弾は呪力を秘めた侭その効果を停止し。
『力』を揮わなければ呪力も発動しない様だ。
その意味でも鬼化を解いていて幸いだった。
仮にそれが1分遅れていれば、わたしは…。
『鬼化を解いた後の残滓との反応だったから、何とか数十秒耐えたけど。体の内側から地
獄の業火に焼かれる激甚な苦痛……この弾を抜き取らないと、血の力もほぼ使えない。身
の内から高熱に灼かれては、打つ手がない…』
鬼化の影響は体のみならず、心にも負荷を残している。それは織り込み済みだったけど。
左足の刀傷や銃創の応急処置も出来ないのは、先輩の助けも殆ど為せぬのは、想定外だっ
た。今の己は唯のケガをした女子高生でしかない。
動けば、傷口からの失血が更に増すけど。
動かなくても朝迄には失血で生命危うく。
この場に残り続ける選択肢は更になくて。
己の生存の為より美咋先輩の明日の為に。
「先輩、歩けそうですか?」「あ、うん…」
美咋先輩の活動レベルはやや低くなっているけど、応対も叶うし自らの意志でも動ける。
少し夢心地なだけで、注意力や機敏さが若干落ちるだけで。歩く等の単純作業に障りない。
鍛えられた彼女の体なら、田舎道の15キロ位踏破できる。記憶の封鎖も未だ手が及んでな
いので。後で今の応対を思い出す事もできる。数時間前に和泉さんに為した技と効果は同
じ。
大野教諭に与えた様な、強い感応は及ぼさない。強いインパクトはその瞬間のみならず、
後々迄心の形や在り方に影響を残しかねない。流し込む想いが強すぎれば、相手の意志を
踏み躙り従わせる事にも。わたしは奴隷や操り人形を欲してない。本当は弱めても人の心
を操作する様な『力』の行使自体、好まない…。
『笑子おばあさんは、何拾年も鴨川と断絶し、周囲から忌避されても、誰も【力】で操り
引き寄せようとしなかった……何拾年隔絶されても、誰独り味方がいなくても、誠意を尽
くし笑顔で応え。己の意に添わない他者の在り方を、【力】で変えようとはしなかった
…』
笑子おばあさんは分っていたのだ。不用意な『力』の行使が、人の心に僅かでも引っ掛
かりや疑念を残せば、魂に刻み込まれる事を。他者の心を操れると言っても、四六時中監
視できる訳ではない。人の根気には限界があり、人が他人に費やし関れる時間にも限度が
ある。そして人の心とは、権力や財力や『力』や情愛で、望む選択に導ける程単純な物で
はない。
和泉さんや美咋先輩が、わたしの『力』に掛ってくれたのは。2人がわたしを深く信し、
受け容れてくれているからで。そう言う人だから、この様な関りは避けたかったのに…!
為してしまった事は変えられない。己は愛しい人に鬼の所業を為した。例えそれが当人
を守る為でも、受け容れてくれても、己の罪に変りはない。最早なかった事には出来ない。
覆水は盆に還らない。だからこそこれは完遂する。罪を負って迄為す行いを、彼女の切迫
した願いの成就を、しくじる訳には行かない。
「先輩、少し待っていて下さい」「うん…」
わたしは相馬党の苦内で己のスカートをびりびり破り。県立経観塚高校のセーラー服は、
破れ目の不揃いなミニスカートになったけど。太腿がスースーして涼しいけど。その切れ
端を包帯代りに、左太腿へ巻き付けきつく縛り。
動かせば失血が進むけど、これで少しは失血死を先へ延ばせる。若木さんや相馬党の着
衣を借りる事も考えたけど、どの様な『化外の力』対策が施されているか分らない。美咋
先輩の衣をこれ以上を剥がす訳にも行かない。風邪を引くという以上に艶やかになりすぎ
る。
銃創から漏れ出る失血は捨て置く。実は止血したいけど、そこ迄手が及ばない。銃創は
刀傷より傷口が小さいので、失血もやや少ないし。気合と根性で帰宅迄耐え凌ぐ事にする。
破れ汚れたセーラー服は、上半身も素肌を隠せてないけど。魅せられる程見事な肢体を
持たないわたしなので、とても見せられた絵図ではないけど。他に身を覆う布もないので、
人も通らぬ田舎の外れの原野なので。寒風と美咋先輩の視線に晒される事を、呑み込めば。
「柚明……汚れていても、あんたは綺麗だ」
微かな風で胸元の布が剥がれて露わに見え。
生地が破れているので戻してもすぐ剥がれ。
そこを美咋先輩はじっくり眺めて微笑んで。
その掌で胸元の布を胸に戻して触れて支え。
「乳房見えて恥じらう生きた柚明が愛しい」
「……本当に、美咋先輩には、敵いません」
神原美咋は羽藤柚明の生命を愛でて喜んで。
わたしの恥じらいを察し覆い隠してくれた。
心の活動はやや低下しても為人は変らない。
この人はわたしを愛しわたしの存命を慶び。
この侭身を寄せ合い続けていたかったけど。
重ねた肌の温もりに浸っていたかったけど。
創痍の満身は僅かな動きで悲鳴満載だけど。
死の眠りへ落ち行く誘惑にも駆られたけど。
『わたし独りじゃない。間近に愛しい人が』
美咋先輩を父・武則さんが待つ自宅へ送り。
己も生きて帰って今宵の事実を家族に伝え。
禍の芽を確かに摘み取る処置に繋げた上で。
最愛の幼子の為に尚この生命を尽くしたい。
今ここで安楽への誘いに乗る事は許されぬ。
死ぬより辛くきつい途でも生きて越えねば。
例えそれが体を心を生命を削る道のりでも。
誰の役にも立てず犬死にする訳には行かぬ。
「立つのかい、柚明。大丈夫?」「はい…」
間近で愛しい女性がわたしを支えてくれる。
自身疲労や寒さや打撲で動くのも大変な中。
禍の原因であるわたしを案じ触れて支えて。
その優しさ強さに、絶対わたしは応えねば。
わたし達の帰還に2人の明日が掛っている。
どんな犠牲を払っても必ず無事に帰り着く。
がくがく震える手足に無理矢理気合を注ぎ。
崩れる訳には行かない。無論倒れる訳にも。
転び倒れて傷口が広がれば失血が更に増す。
今の己に何度も転んで再起する余力はない。
銃創と刀傷から血潮を吹かせ汗を流しつつ。
気を失う程の激痛に耐え抜いて立ち上がり。
「銀座通へ……先輩のお家へ帰りましょう」
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夜風も月明りも凍てつくけど。美咋先輩と肌身を重ねて歩むわたし達は多少熱く。己の
熱は刀傷や銃創の化膿の熱も含むけど。無理に動かした体力浪費も含むけど。今は愛しい
人と肌身や想いを重ねた故と捉え。進める処迄行き、動けなくなった時にその先を考える。
結局鬼切部の7人はわたし達が立ち去る迄、意識を戻さなかった。雑兵でも銃を失った
若木さんでも、追撃に来たなら今のわたしに対処は難しかったけど。覚悟を求められたけ
ど。
その意味でも、鬼化の影響も受けつつ加減をかなり省いて、彼らをかなり強く打ち倒し
た効果が、自身を助けている。どの位加減を省けば、殺さない程度に退ける事が出来るか、
初見の敵の力量も見極めつつの綱渡りだった。
加減が少なければ殺めてしまう怖れもあり。1人でも殺めればどんな事情でも、羽藤柚
明は彼らの仇となって、和解の期待は鎖された。逆に加減が過ぎれば彼らが早く意識を戻
して、自身が危うくなりかねない。常人を上回る技量を持つ鬼切部だから、その見極めは
難しく。
「後ろが気になるかい、柚明?」「いえ…」
歩き始めて5分程で、一度振り返ったけど。
寒空の闇の中に動く気配や姿や物音はなく。
彼らはこの時点では尚気絶中と悟れたのみ。
ひとまず安心という以上の意味は特にない。
彼らが気付いて血の跡を辿り追って来ても。
先輩を守り逃がす他に己が為せる事はもう。
最早走れる状態ではない。足止めが精々だ。
今は力の限り愛しい人を早く先へ導くのみ。
「今は先を見つめましょう、先輩」「うん」
支え合いつつ歩むけど。実際は左太腿に刀傷を持つ己の歩みが覚束なく。今のわたしは
何の『力』も使えない。刀傷や銃創を考え合わせれば、普通の女子高生以下だ。美咋先輩
の肩を借り、支えられて一緒に歩み。先輩に負担を掛けすぎない様に、左肩への直接の支
えは避ける。左半身は無理でも己で動かして。その負荷を受ける右肩を、先輩に支えて貰
い。
美咋先輩も疲労や打撲の負荷が掛っている。
己の負荷を乗せては、先輩が家迄保たない。
羽様の屋敷より銀座通への距離は近いけど。
この状態で進めば2時間は掛り日付が変る。
「車の一台でも通り掛ればいいのに」「…」
車が通り掛れば通り掛ったで問題は生じる。
先輩は、わたしの負担軽減しか考えられず。
その明晰さを失わせたのは、己の『力』だ。
『心の麻酔』流し込んだ膨大な感応の副作用。
低下した美咋先輩の思考は、血塗れで制服も破れ素肌見える女の子2人が、人を呼び止
めて招く不審迄推察が及べず。それでも銀座通へ送り届けて貰えるなら、助かるとの考え
もあるけど。事実の一端にでも触れた者が増える程、秘密保持は難しい。鬼切部を生かし
て帰し、今宵の事実を伏せての和解を最善と考えるわたしは。この件が公になる展開は避
けたく。関る者の頭数を最小に抑えたかった。それも己が生きて帰り着ける事が前提だけ
ど。
でも通り掛る車が在れば、隠れる余力がない以上に目先の便利を渇仰し、自身も車を呼
び止めたかも。例えこちらがそうしなくても、血塗れで制服も破れ汚れた女の子が見えれ
ば、呼び止める効果は自然生じる。感応を使って相手を操らねば、警察や学校を巻き込む
事に。
『銀座通へ早く着ければ、生き残りの期待は増すけど、禍根も残る。でも果たして車を通
り過ぎさせて、先輩は兎も角、この脚で己が銀座通に辿り着けるか否か……どちらでも車
の乗員には感応を及ぼし、わたし達の印象を薄めねば。でも、仮に車の乗員が運良く1人
だとしても、今のわたしは【力】を使えば』
傷の熱が頭に回っている為か、思索が巧く紡げない。考えても栓ない事なのか。今の己
に為せる事が少なすぎ、対応の幅が狭すぎて、策が殆ど浮ばない。思考の明晰さも心身の
状態に左右される。寝ぼけ眼でテストに挑めば、間違い続出する様に。今のわたしは使え
ない。
「今宵のわたしは、運が良いのか悪いのか」
田舎町の外れの原野は、途は通えど車など一晩に1台も通らぬ事も少なくなく。未舗装
の砂利道は外灯もなく、月明りの照す冷たい静寂を保ち。わたし達は誰ともすれ違えずに。
降雨のない事も幸いだった。濡れれば体が重くなるし、急激に体温を奪われる。幾ら肌
身重ねても、雨風に晒されつつの移動は危うかった。冷たいけど風も微風だ。これも幸運
と受け止めて、平坦な細い田舎道を歩み続け。
「美咋先輩、銀座通の灯りが段々近付いて」
「そうだね。電気の光って人の心に灯るね」
周囲が太古から続く無明の闇だから。人の手の及ばぬ原野と森だから。物言わぬ遙か遠
い月明りしか輝く物がないから。闇の大海に浮ぶ文明の輝きは人の心を勇気づけ。羽様の
お屋敷へ、夜に帰り着いた時にも感じるけど。
羽様の一軒家と違って、銀座通の人々の生活が生み出す輝きは膨大で。闇の中で導くが
如く映り。そこに行けば助かる、そこに着けば大丈夫と。人の活力を招く効果を錯覚する。
『保たせなきゃ……。後もう少し、何とか』
左足の感覚は既になくなっている。刀傷に巻き付けたスカートの切れ端は、血がべっと
り滲んで乾きかけ。勢いよく溢れる血が既にこの身にないのか。右半身も関節や筋肉は悲
鳴を上げ通しだけど、休めない。倒れたり座り込んだら、もう立ち上がれないとの怖れが。
少し止まる事さえ、次の一歩が出せなくなるのではと怖く。限界は既に遙かに超えていた。
鬼化の反動だけで数週間は動けない筈なのだ。
「柚明、だいじょうぶかい?」「はい……」
美咋先輩は鋭敏さが低下した為に、痛みや疲れの感覚も鈍り。鍛えた体力を普段以上に
絞り出しても支障はなく。後で疲れの形で反動は来るけど生命には障らない。でもわたし
を想い案じる心の底部は変らないから。わたしを気遣い、その優しさ強さで支えてくれて。
「済みません、先輩。本当は疲れ傷んだ美咋先輩を、わたしが支えないといけないのに」
少しでも先輩の負荷にならない様に、気力体力を振り絞って足を進めるけど。それでも、
足を引きずって遅れ掛るわたしに美咋先輩は。
「あんたには世話になり通しだったからね。
少しでも役に立てるのは私の幸せだよ…」
遠くからは眩かった銀座通も、近付いてみると人気はなく。起きている人も多くは家の
中で、窓から光が漏れ出るのみ。もうそろそろ日付が変る。微かな賑わいを感じるのはさ
かき旅館などがある一角か。土産屋や飲み屋等が遅く迄開いているけど、もうすぐ閉店だ。
なのでわたし達はこの酷い艶姿を、誰に見咎められる事もなく。西に傾いた月に代って、
外灯が照す舗装された歩道を歩み。暫くの後、銀座通の外れにある美咋先輩の家へ辿り着
き。
「着きました美咋先輩。お家です」「うん」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
呼び鈴を鳴らす必要はなかった。電気を点けた玄関の中で、美咋先輩のお父様・武則さ
んは娘の帰りを信じ、この刻限迄3時間も仁王立ちで待ち続け。わたし達の足音を悟って、
辿り着いた処で戸を開けたので対面する事に。
「ごめんなさい、父さん。遅くなって……」
「申し訳ありません。お父様!」「……!」
年頃の娘が連絡もなく深夜迄帰宅せず。その制服は破れ汚れ、殴打の跡と分る痣を残し。
その相方は深傷で血塗れ。驚き呆れるのも当然か。武則さんは両目を見開いて。美咋先輩
が喜びと謝罪の諸々を兼ねて、父に倒れ掛り抱きつくのを。取りあえずその身で受け止め。
その間近でわたしが崩れ落ちて土下座する。
玄関前は、隣近所からも見える位置だけど。
騒ぎにならねば夜に起きてくる人はいない。
力尽きて、立っていられないという以上に。
せめてこの位せねば己の気持が収まらない。
まず、禍の因であるわたしが謝らなければ。
「わたしが美咋先輩を禍に巻き込みました。
先輩に全く咎はないのに、わたしと絆深いとの理由のみで攫われて、酷い目に遭わされ。
わたしが先輩を守らなければいけないのに。
逆に先輩に心を救われ勇気づけられました。
その上で先輩に痛い思いさせ怖い思いさせ。
辛うじて生命や操の危難は防ぎ止めたけど。
完全に守り通せなかったのも、そもそもこの禍に巻き込んでしまったのも、わたしの咎。
本当に、申し訳ありませんでしたっ…!」
許しなど願える立場でない事は分っている。
己が招いた危難なのに、守り通せなかった。
己の技量や賢さが招く危難に及ばなければ。
己は永遠にたいせつな人の禍であり続ける。
己の傷み苦しみは自業自得で良いとしても。
武則さんは全く関係ない事で、最愛の娘を。
謝ってどうにかなる訳ではないと分りつつ。
今は想いを形に表す他に、為す術を知らず。
「酷いケガじゃないか。そんな足で歩いてきたのか。事情は後で良い、まず入りなさい」
武則さんは美咋先輩の緊迫感を欠く様子を、微かに訝り。血塗れのわたしと一緒な割に
は、余りに動揺が少ないと。でもそれは逆にこの状況では幸いと、泣き喚きも昂ぶりもし
ない娘を、ひとまず家の中へ導き入れ。続けて壊れ物を扱う様に、わたしも招き入れてく
れて。
わたしも最後の力を振り絞って玄関を跨ぎ。でも中に入った後で再び玄関の床に座り込
み。美咋先輩も間近な廊下の端に座り込んで呆け。家に帰着出来た安心で、気力が抜けた
みたい。
夜風は体に悪いと、武則さんがわたしの背後に手を伸ばして、玄関の戸を閉めてくれる。
確かに美咋先輩のお肌に良くないし、わたしも一応女の子だから。その心遣いに感謝して。
今のわたしはその程度の動きも難しく。本当に生命危ういかも。でも取りあえず、これで
隣近所の人が外に出てきても、この姿を見られ即座に異変を悟られる心配は、なくなった。
『先輩はこれで大丈夫。武則さんが布団に運んで休ませてくれれば、疲労さえ抜ければ』
【問題はわたし。心身共に、限界に近い…】
「救急車を呼ぼう。少し、待っていなさい」
武則さんは、深傷を負ったわたしの為に救急車を呼ぼうとしてくれて。非常時でも我を
失わず、為すべき事を確かに為す、冷静で優しく心の強い人。電話を掛けに廊下の奥へ歩
み行く彼を、わたしは『待って』と呼び止め。
「最初の電話は羽様のお屋敷に掛けさせて。
まず羽様の家族にこの事態を報せたいの」
武則さんもわたしの言葉には頷いたけど。
座した侭で立ち上がらないわたしを前に。
「家族を呼ぶだけでは足りぬだろう。一体どこで何があったかは、訊ける様になってから
訊かせて貰うが。警察と病院にも電話せねば。美咋はともかく、君の容態は生命に関る
…」
普通の人なら血塗れのこの姿に怯え、何を為すべきか考えられなくなって不思議はない。
胆力のある武則さんだから、自身の娘は大丈夫と一時脇に置き、わたしの方が重体と見て、
最善の対処を考え、救急車を呼ぼうとしてくれて。優しく賢く心の強い人。だからこそ…。
『武則さんを、警察や病院への繋りを作った人として、後々の諸々に巻き込みたくない』
今宵の事を伏せる為に、警察や病院に関りたくない以上に。武則さんの関与の証を残さ
ない。彼や神原家から警察や病院に話しを繋げさせては拙い。仮にそうなるにしても羽藤
が為す。そうすれば今宵の事が公になっても、反動や報復は羽藤に返る。その途上に神原
美咋も武則の名も登場させない。させてはダメ。
「お気遣いを、有り難うございます。でも。
わたしは大丈夫。生命に別状ありません」
血塗れの姿でも敢て平静を装って嘘は避け。
わたしが息絶えなければ、嘘にはならない。
深刻な状況は分ってもそれを露わに見せず。
「わたしの無事を、まず羽様の家族に見せたいの。お父様が美咋先輩の無事を見て安心で
きた様に、叔父さん叔母さんも白花ちゃん桂ちゃんも、わたしが夜遅く迄帰れてない事を
心配している。心配させてしまっている…」
既に感応の『力』は発動させている。正常な判断では、この血塗れの姿を見れば、即救
急車だ。羽様の家族は病院に来て貰えばいい。でもそうさせてはいけない。今宵の事は鬼
や鬼切部に精通した羽藤の大人の処置に委ねる。その為に武則さんの行動や思考を己が鈍
らせ。それが身の内に潜む銃弾の呪を発動させても。
「電話を貸して貰えれば、自分で掛けて家族を呼びます。見かけは酷く見えるけど、実は
わたし、それ程危うい状態では、ないし…」
それは半ば己自身に言い聞かせる言霊だ。
ガクガク言う膝を一見滑らかに駆動させ。
無理に立ち上がって動けると見せつけて。
動けるから己は大丈夫と屁理屈を繋げる。
敢て一度倒れ掛って武則さんに肌身触れ。
彼にも心の麻酔を及ぼして思考を鈍らせ。
人の心を操る禁忌を己は今宵幾度為すか。
最早己は鬼に成らずとも鬼の業に染まり。
それでも鬼に墜ちてもわたしはこの人を。
神原父娘をこれ以上禍に巻き込まぬ為に。
電話を借りて座って羽様の家族に連絡し。
電話機の前で崩れる膝を叱咤して立たせ。
「お父様には後で今宵の事情をお話しします。大切な美咋先輩を襲った危難を、その背景
を明かさない訳に行かない……今は全てを明かす猶予がないけど。わたしはお父様に今宵
の事情を話す為に、必ず再び生きてまみえます。
それ迄の、今からの美咋先輩とお父様の安全は、わたしが保証します。そしてわたしは
どんな状況に陥っても大丈夫。ですからどうかわたしが事情を明かす迄、動きを待って」
納得できる筈ない事は分っている。それを、わたしに抱いてくれた信頼や好意を足掛り
に、感応の『力』による『心の麻酔』で何となく呑み込ませ。己が生きて残れた後日の予
定を静かに語る事で、今の己が生命危うくはないと錯覚させ。積極的な行動に出ない様に
わたしが導く。他者の判断や行動を操る等、特にわたしに好意を抱き信頼を寄せてくれた
者の判断や行動を操る等、重大な背信と承知して。
この身を灼く光熱は鬼の所業への天罰かも。
でも余り苦しみ悶えると間近の愛しい人の。
『心の麻酔』を揺らがせ解かせかねないから。
そうなっては折角の鬼の所業も意味を失う。
だからわたしは鈍感を装い平静を保ち続け。
叫び転げ回りたい衝動を肌の下に封じ込め。
『6つの弾丸が【力】に反応し、高熱を発して血肉を融かし、ドロドロに液化させて行く。
癒しを掻き乱し、無効化し。弾丸の食い込んで触れた血肉から、生命ごと燃やし尽くし』
金色の輝きがやや地味なのは、電気の輝きの下だからか。体内では先程以上に荒れ狂っ
ているけど。己がやせ我慢をすれば、言葉や仕草でその視線や注意を巧く逸らせば、集中
力や洞察力の低下した今の2人は気にしない。
化外の『力』は電気や磁力と打ち消し合う。己の『力』も、電灯やテレビの傍ではやや
効きにくく。電源を切った闇の方が良く効いた。若杉の呪も鬼や贄の血の『力』と同じ、
化外の物と言う事か。電気の光の届かない体内では、傍若無人に暴れ回って生命を脅かす
けど。
銃弾の食い込んだ6つの傷口から、わたしの血肉が崩れて液化した物が滲み出る。銃創
から体が崩壊し心も削られ。『心の麻酔』は一瞬の術なので『力』は既に紡いでないけど。
若杉の呪は停止しても、その呪が発した高熱は暫くこの身の内に残り。肉を骨を血管を神
経を灼き続け。更に溶かし続け液化を続けて。
武則さんも美咋先輩も、わたしが起きて確かに答を返せないと心配な様で。心の麻酔は
効いていても、2人とも深傷の人を捨て置けない優しさを持ち、わたしも全く無傷は装え
ないから。羽様の家族の迎えが来て神原宅を退去する迄、わたしの状態を気に掛け続けて
くれて。わたしは愛しい美咋先輩や大切な武則さんを心配させる訳に行かず。意識遠のく
訳に行かず。最後迄気を失わずに済んだけど。
この数拾分が人生で最も長く感じられた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
接近する車のエンジン音は、赤兎のそれだ。
「柚明ちゃん、大丈夫?」「柚明っ……!」
止まりきらぬ内に車のドアを開け、神原宅へ飛び込んできた真弓さんと。車を止める動
作の為に僅かに遅れて駆けつけたサクヤさん。2人はわたしの血塗れの姿に驚愕し、同時
にそれを見た故に非常時へスイッチが切り替り。
「武則さんと先輩には『力』を及ぼしたの」
事情を長々話すより、今は神原宅の退去が優先だ。間近に頬を寄せこの惨状に瞳見開く
2人に己を委ね。2人とも神原家を巻き込みたくないとの意図を察し、それ以上にわたし
の処置にはここから運び出さねばならないと。
「武則さん、美咋先輩を巻き込み、心配を掛けて申し訳ありませんでした。先輩、わたし
の禍に巻き込んで痛い目に遭わせ、怖い目に遭わせてごめんなさい。二度とこんな事を起
こさせないのは当然だけど、可能な限りの償いをするのは当然だけど、心の隅にも不安や
怖れを欠片も残させないのは当然だけど…」
『その為にわたしは愛しい人の心を【力】で促し導いた。奴隷や操り人形の様に扱った』
その苦味は生涯わたしが受ける事として。
「いつ迄も愛しています。たいせつなひと」
無理でも何でも己の足で立ち、武則さんと美咋先輩の前では無事を装い続け。玄関を跨
いで外に出て、戸を閉め終えた瞬間崩れ落ち。真弓さんに抱かれて赤兎の後部座席に置か
れ。
これ迄の経緯を全て話す時間や気力体力の余裕はない。わたしは2人に、敵手が若木葛
子さんと彼女の招いた鬼切部相馬党であると語り。左太腿の深傷や銃創6つの存在を伝え、
失血や細菌の感染・脱水症状等の危険を加え。心身を蝕む若杉の呪の侵食を報せてその上
で。
「病院へは行かないで。鬼切部の存在を経観塚の病院や警察や学校に、明かしてはダメ」
「だけど、その酷いケガは、癒しの力を使えない今のあんたには」「まさか柚明ちゃん」
サクヤさんは、羽様の屋敷に行ってとのわたしの願いに、迷いを見せたけど。神原宅を
離れる為に車を進めつつ、病院に駆け込む事も尚視野に入れていたけど。後部座席で肌身
に添う真弓さんは、わたしの意図に勘付いた。それは真弓さんが元・鬼切部だからこそか
も。
「この弾は叔母さんが取り出して。経観塚の病院でこの深傷は処置できない。県庁市の大
学病院に運ばれると、移動に時を浪費するわ。それより刃物を持たせれば、肉を切らせれ
ば、どこの医者よりも叔母さんの方が腕は確かよ。問題は、若杉の呪の籠もった6つの銃
弾なの。
この銃弾がわたしの治癒の『力』を使えなくしている。これを取り除けばわたしは自身
を治せる。夜の内に、わたしの体力が尚残り、贄の血も少し残る朝迄に弾を全て取り出せ
ば。わたしの癒しも夜の方が強く効く。生命は繋げます。その後の治癒には時間が掛るけ
ど」
素の侭のサクヤさんの指や爪は、人のそれと変らないし。観月になった時の指や爪なら、
若杉の呪が反応しその爪や指も溶かそうと光熱を出す。己の血肉が灼き滅ぼされる以上に、
その指や爪を溶かされ弾が摘出できなくなる以上に。たいせつなサクヤさんに危害が及ぶ。
「考えてみれば叔母さんには、中学1年の時、生き死にを委ね終えていました」「そう
ね」
真弓さんがこの身を最小限裂いて、弾を摘出する。真弓さんの刃には若杉の呪も反応す
まい。身に食い込んだ弾を取り出すには、最小限でも多少大きく肉を裂く必要があるけど。
その出血や痛みは承知で。その先にしかわたしの生き残る途はない。サクヤさんの指や爪
で弾を取り出そうとすれば、出来ても血肉をもっと抉る。それでは多分この身が保たない。
「あんたは……それで生命繋げるのかい?」
サクヤさんが車の進路を羽様へ向けつつも。
その声音が気配が視線が微かに震えるのは。
「真弓の技量は疑わないけど。深傷を負って失血し、疲弊し消耗した今の柚明が。若杉の
呪を取り除いただけで、自力で生命を繋げるのかが、あたしは不安なんだ。病院に行って
も現代医学と医師の手が及ぶかどうか、今のあたしは見定められないけど。大丈夫だよね。
あんたは真弓に切られた後も、しっかり生命繋いであたしの前に戻ってきてくれるよね」
運転に注意も払えぬ程サクヤさんは動揺し。確かにサクヤさんは『力』を使えぬ鬼だか
ら、わたしの癒しを見定められない。この疲弊と消耗の末にどの程度治癒が使えて、大丈
夫なのかは。わたしも実は危ういと見ているけど。その愛しい不安をわたしは受け止めて
微笑み。
「大丈夫。わたしは絶対に死にません。愛しい叔母さんやサクヤさんの前で、最愛の白花
ちゃん桂ちゃんの前で、屍を晒す訳には行かない。少しの痛み苦しみも喉元過ぎれば…」
わたしが息絶えなくばこの公約も真になる。
わたしは必ずこの言霊を己の力で真にする。
サクヤさんはわたしの現状や内心を、どの程度分っているだろう。繋りの深い人だから、
騙し通せるとは思えない。強がりでもはったりでも、わたしに見通しがあると感じて貰う。
真弓さんにもそうだけど、わたしが成算のない賭はしない者だと、この半生で示してきた。
賭に出る自体が己らしくはないけど、その中でも羽藤柚明らしさを失わない事で信を望み。
「分ったよ。あたしは柚明を信じたからね」
「わたし達は柚明ちゃんを信じるわ。だからあなたもわたし達を信じて、身を委ねて…」
銀座通を離れると月も沈み、外灯もない無明の闇が続くのみだけど。その闇の向う側に
希望の光があると信じ。この先に羽様のお屋敷の輝きがある様に、己の未来も必ずあると
信じ。わたしは愛しい女性達に自身を委ね…。
羽様に帰り着いたのは丑三つ時に近かった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「叔母さんにはもう一つ、お願いがあるの」
わたしは羽様へ帰る車の上で、真弓さんに赤兎を降りてと願い。わたしは車を運転でき
ないので、サクヤさんに運ばれ、羽様に先に着いて安静にして、真弓さんの再合流を待つ。
「鴨川香耶さんに、今宵の状況を伝えたいの。事情を伝えて、羽様のお屋敷に招いて…
…」
「……柚明ちゃん!」「柚明、あんた……」
若杉の羽藤監視員は、若木葛子さんのみではない。千羽党で当代最強と謳われた真弓さ
んが、観月の鬼であるサクヤさんと和解して、千羽党を抜けサクヤさんと縁のある羽藤へ
嫁して来た時に。旧来からの若杉の羽藤監視員と別に、真弓さん監視要員として香耶さん
が、ご近所である鴨川家の後妻としてやってきて。
香耶さんと葛子さんは若杉内でも別系統で、上下関係にもない。だから葛子さんがわた
しを憎み、わたしの悪い噂を流した時も。香耶さんは葛子さんを支援も妨げもせず、唯淡
々と事実を上部へ報告し。正樹さん真弓さんが先生方と連携し、葛子さんの所作の証を掴
み、彼女を失職に追い込んだ時も。彼女を助ける動きはせず。唯淡々と事実を上部へ報告
し…。
「葛子さん達を誰も殺めなかったのは、意図してだけど。この侭彼女を若杉へ帰るに任せ
ては、どんな歪めた報告をされるか分らない。こちらから先手を打って若杉に、出来れば
相馬党の長にも、今宵の真実を伝えたい。羽藤が咎なく処断され掛り、無辜の民も巻き添
えに殺められそうになった。今宵の真実を…」
香耶さんに、羽藤に味方してとは願わない。
鴨川香耶は、真弓さんや羽藤の監視要員だ。
でもだからこそ、事実を正確に伝えるのは彼女の職責で。羽藤の言い分を伝えるのもそ
の一部だ。職責に忠実な彼女なら、羽藤の言い分を伝える一方で、羽藤に有利な証言も不
利な証言も、収集可能な全ての情報を上部に伝える。だから今宵の真実を香耶さんに伝え
れば、羽藤の主張は上部に届く。その先、若杉の上部がどう受け止めるかは分らないけど。
先月漸く、わたしは鴨川香耶さんを若杉の羽藤監視員だと知っていますと、伝えた上で。
『人には1人1人、今に至る迄の事情や縛りや背景があります。誰とでも仲良くなるのは
難しい。でも、譲れない物は譲れないとして、それ以外の面で心通わせ合えるなら……わ
たしが学び倣いたい事は多いですし、わたしが香耶さんの力になれる事も、多少はある
と』
互いを分り合うのは、味方にする場合も敵に回す場合も、決して損ではないと思います。
事情の許す限り、わたしは香耶さんをたいせつに想い、その幸せの為に尽くしたい……。
『これからも、末永く宜しくお願いします』
『……監視対象から宜しくなんて前代未聞』
良好な関係を築きたいと告げ。香耶さんの使命が羽藤の監視なら、羽藤はしっかり監視
されれば良い。彼女は任務に精励してくれれば良い。見られ聞かれて拙い中身は特にない。
わたしも真弓さん正樹さんもサクヤさんも、人の世に仇為す積りも、若杉に敵対する意
図もない。千年そうだった様にたいせつな人への想いを紡ぎ、平穏に日々を過ごす事が望
み。羽藤の事実を真意を、見て聞いて伝えて貰う。
『あなた達とも良好な関係を、保ちたいの。
敵対も断絶も、互いを傷つけ哀しませる。
たいせつに想う人は、双方にいる筈です。
利害や損得は調整出来る。譲れない処はあるけど。誠心誠意を尽くせば歩み寄れる処も。
若杉とサクヤさんの断絶を繋ぎ直して欲しい。その為に出来る事があるなら己を尽くしま
す。
不束者ですが、宜しくお願い致します…』
その了承は香耶さんの権限を越えたけど。
だから単純に呆れられ奇妙がられたけど。
漸く己の願いを若杉に届かせる術を得た。
間接的でも何も出来ないより遙かに良い。
若杉は特別邪悪な者ではない。その多くは人の世を鬼の脅威から守る鬼切部の理念を心
に抱き、任務遂行に誠意を尽くす普通の人だ。だから敵意や隔絶ではなく、慈悲や情に縋
るでもなく、相手の立場を慮って誠意尽くせば。
「わたしの生死は、羽藤の若杉や相馬党への姿勢に大きく影響します。香耶さんもその目
でこの生死を見届けようと、望むでしょう」
わたしは絶対に今生命尽きる訳に行かない。
己の死は羽藤側から鬼切部との決裂を導く。
だからわたしは必ず生存を香耶さんに示し。
己の惨状を見せ若杉上部に事実を伝えさせ。
若杉に末端の暴走・管理不行届を認めさせ。
今後こんな不始末は起こさないと約させて。
今宵の事に適切な償いと処罰をさせた上で。
わたしが羽藤の側も抑えて和解の要になる。
サクヤさんや真弓さんの憤激は、己が生き残れば抑えきれる。逆にわたしが生命絶えれ
ば、誰にも抑える事が叶わないかも知れない。
止めなければ。幾ら元・当代最強と、その当代最強が倒せなかった最後の観月が居ても。
若杉や鬼切部と全面戦争に入るのは、悪夢だ。一手一手撃退は出来ても、抗う事は出来て
も。
買い物に出る正樹さんを、幼稚園に通う桂ちゃんを、お友達と遊びに行く白花ちゃんを、
日々狙われては守りきれない。四六時中寄り添って守っても、それ自体日常を壊し幸せの
基盤を崩す。羽様に住み続ける事は叶うまい。追っ手に怯え糧を得る術もなく、彷徨う様
が目に浮ぶ。勝って鬼切部を倒しても事は同じ。
鬼を切る者を喪ったこの国で、贄の民に平穏な日々が残る筈がない。倒せても白花ちゃ
ん桂ちゃんの笑顔に繋らない。守りや幸せは保てない。愛しい幼子を育む日々を残すには。
幸い若杉にわたしや羽藤を滅ぼす気はない。
今宵の全ては末端である葛子さんの暴走で。
若杉こそ今宵の真相を知れば驚愕し慌てる。
向うに非があり損失が軽いなら和解を望む。
「だから誰も殺さなかったし、あたし達の報復や反撃も、止めて欲しいという訳かい?」
「自身を危うくされながら、白花や桂の事を、わたし達を考えて和解の途を残す戦いを
…」
「香耶さんは叔母さんの監視員です。若杉に遺恨あるサクヤさんより、話すには適任かと。
わたしが行ければ良いのだけどこの有様で」
わたしの生き残りと同じ位、香耶さんの迅速な報告は、今宵の件の解決に重要だ。だか
らわたしはサクヤさんの赤兎で先に、羽様の屋敷へ帰着して、安静にして待っているから。
「羽藤の為に、叔母さん。お願い」「……」
真弓さんは早くお屋敷に帰って、この身の弾丸を取り出したいのだ。心優しい人だから。
わたしを愛してくれたから。でもその情を一度抑え視野を広く持ち、白花ちゃん桂ちゃん
を含む羽藤の未来を、若杉との関りを見通し。
「分ったわ……鴨川の後妻を引っ張ってくる。サクヤ、柚明ちゃんを頼んだわよ」「真
弓」
失踪中の車の後部座席からドアを開いて飛び降り。後ろ手にドアを閉めその侭夜道を走
り去り。赤兎は鴨川家の傍を走って居たけど。この速度の車から降りてその侭走り去ると
は。
「柚明はもう少しの辛抱だよ。羽様迄もう5分も掛らないからね」「はい、サクヤさん」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏なら東の空が白み始める頃だけど。冬至も近い今時期は、尚夜明け前の闇が滞り続け。
新聞紙を幾重にも敷き詰めた、羽様の屋敷の奥の間で。破れ汚れたセーラー服も下着も
剥がされ、大事な処迄素肌を晒したわたしは。サクヤさんと香耶さんに、左右から身を抑
え付けられ、小刀を持つ真弓さんの前に身を横たえ。香耶さんは当初羽藤の主張を聞くだ
け、事を見届けるだけと言っていたけど。『どうして私が』とぼやきつつ、付き合ってく
れて。
正樹さんは、わたしが猿ぐつわで声封じられ手足縛られ、抑え付けられ別室に隔離され
ても。虫の報せでわたしの悲鳴に幼子が割り込んで来ぬ様に。その眠りを見て貰っている。
或いは貧弱な裸を晒すから、それへの配慮か。見られる己ではなく見てしまう正樹さんへ
の。
「今から柚明ちゃんの肌と肉を裂いて、若杉の銀の銃弾を摘出するわ。柚明ちゃんは贄の
癒しを使えないので、麻酔も治癒も効かぬ侭、6回銃創を切開され、肉を抉られる事にな
る。どれ程心身を鍛えても、激痛に体が暴れ出さない筈がない。しっかりその身を抑えて
ね」
暴れさせて柚明ちゃんが動いてしまうと…。
真弓さんの言葉を受けたのはサクヤさんで。
「余計に身を裂く事になり、柚明の失血や苦痛が割増になるんだろ? 分ったよ。身動き
も出来ない様に、全力で抑え込む。あたしは柚明をねじ伏せるのは嫌いじゃないからね」
左半身の素肌を抑える香耶さんに声を掛け。
「あんたも、柚明に弾き飛ばされない様にお気をつけ。細身だけど柚明の鍛え方は半端じ
ゃない。若杉の償いの一環として参加させてやるんだ。せめてしっかり役をこなして…」
「戦闘要員でない私に期待されても困るけど、一応柔道の心得はあるわ。それより浅間さ
ん。あなた全力は良いけど観月になれば、彼女に食い込んだ弾の呪が発動する……注意し
て」
若杉の香耶さんと若杉に遺恨あるサクヤさんでは、今宵の事案も含め犬猿の仲か。でも
真弓さんも含め、この生命を繋ぐ為にみんな。
「わたしは柚明ちゃんの肉を裂いて、弾を取り出す事のみに集中する……後は頼むわよ」
冷たい金属がわたしに肌に触れ、肉に入る。
既に痛みが蔓延している傷口を更に裂いて。
猿ぐつわのお陰で何とか声にならないけど。
拘束を全力で弾き返そうと、体が暴れ出し。
縛られた上で、女性2人に抑えられたから。
辛うじて身は動かず処置は遂行されるけど。
麻酔もない激痛は息を止めても耐えられず。
一瞬だけど、死んで楽になりたいと思えた。
特に肉に食い込んだ弾を取り出す為に、肉を抉られ摘み出されるこの瞬間は。女の子か
ら大人の女性になる、あの痛みも凌ぐと思え。女性から母になる、あの痛みをも凌ぐと思
え。
「もう少しよ。後5つだから……」「っ!」
それでも何でも、わたしは生きて残らねば。
白花ちゃん桂ちゃんの守りに己を捧ぐには。
今ここで生命潰えてしまう訳には行かない。
激痛は永遠に続いて心を苛むと思えたけど。
わたしは例え永遠の業火に灼かれようとも。
溶けて崩れ朽ち果てようとも絶対滅びない。
最愛の幼い双子・桂ちゃん白花ちゃんの将来を未来を、この身で生命で守る為に。この
執念、わたしは実は鬼にごくごく近いのかも。