第14話 例え鬼になろうとも(前)
それは、わたしが中学2年生の2学期始め。
銀座通中の職員室に向う廊下で、昼休みに。
下山さんと室戸さんが立ち止まって。事務員の若木葛子さんと、熱心に話し込んでいる。
珍しい光景だった。この3人の組み合わせが、ではなく。同じ学校に毎日通っているのに
職員室でも廊下でも。奇妙にわたしは、若木さんの視線や声が届く範囲にいた事が殆どな
い。
中学校では各教科を受け持つ先生が違うし。部活や委員会で別の学年の先生と逢う機会
も多く。他の大人達とは一通りお話ししていた。若木さんは教員ではなく事務員なので、
関りが薄いのも当然だけど。菱田さんが風邪で早退していなければ、部活顧問の藤田教諭
を訪ねて昼休み、わたしが職員室に行く事もなく。この様に若木さんを廊下で見かける事
も多分。
「だって彼女この前も、ねぇ」「そぉそぅ」
「……そう……そうなの? 面白いわね…」
若木さんは興味深げに話しの先を促すので。女の子達も話しに熱が籠もる。中身がわた
しの心霊や同性愛の噂だと何となく悟れたけど。利香さんとの関りを残したいわたしは、
彼女達には友達の引き抜きに見えて、心証が悪く。
わたしは特段関知や感応を働かせなくても。
己自身に関る人の印象や噂話は概ね悟れる。
特に心鎖しているとか訓練されてない限り。
顔色や仕草や声音に人の内心は窺える物だ。
「本当に霊が視える気でいるって聞いたし」
「大真面目に利香に助言していてお笑いね」
若木葛子さんはこの時三拾歳。黒髪長く艶やかで、整った容貌に背も高く。百七十セン
チはある。学校勤めを意識してか服装も地味で化粧も薄く、麗質を発揮し切れてないけど。
胸も大きく腰もくびれ、大人の魅惑や色香が漂う。感情の起伏を殆ど見せぬクールな人だ。
彼女達は昼休みを噂語りに費やし。熱中の余りわたしに気付く様子もなく。ここを通ら
ないと遠回りだし、わたしが退くのもどうかと思うので足は止めず。2人の背後へ近づく。
「心霊話も、女の子の気を惹く撒き餌かも」
「女漁りに見境ないからね、本当に羽藤は」
若木さんが廊下の端から現れたわたしに視線を移すと。熱心に話し込んでいた女の子2
人も、その先を追ってわたしの所在に気付き。気拙さに慌て出した2人を前に、若木さん
は、
「……面白いお話しだったわ。機会があれば、続きを聞かせて頂戴。楽しみにしている
わ」
動揺の気配もなく静かに退去を促す。2人は口を急停止させ。その促しに救われた様に。
視線も合わせず、そそくさと反対方向へ去り。その後で若木さんはわたしの間近を通り過
ぎ。
「あの、若木さん……」「……?」
無言の侭歩み去ろうとの姿勢が見えたので。
わたしの方から呼び止めて語りかけてみた。
「わたしの……事柄だったのでしょうか?」
羽藤柚明に、又は羽藤柚明に掛る噂に興味があるなら。当事者が提供できる情報もある。
彼女がわたしを誤解しているなら、解いておきたかったので。わたしは真沙美さんの様に、
『誤解したい奴には好きに噂させておくさ』
と迄割り切る事が出来ない。己の未熟や失陥が人の誤解を招き、その人の判断に影響を及
ぼすなら。それは源を辿ればわたしの所為だ。言って聞き入れてくれない時は仕方ないけ
ど。
若木さんはわたしが入学した昨春、銀座通中の臨時の事務員として採用された。でも壱
年半同じ屋根の下に通い続けて、言葉を交わした事もなく。教員ではなく事務員という立
場の所為もあるけど。縁あって、一日の半分以上を毎日一緒に過ごした間柄なら。未だも
う壱年半近く、中学生活は残っているのだし。
これを契機に挨拶交わす位の仲になれれば。
そう思って敢て話しかけてみたのだけど…。
「私は教員でありませんので、失礼します」
とりつく島もなかった。女の子達からわたしに纏わる噂を聞き出していた時の姿勢とは、
百八拾度異なる。素っ気なさ過ぎる答を返しただけで、足も止めず廊下を足早に遠ざかり。
嫌味を言われ捨て台詞を残された事はあるけど。話しの腰をこういう感じで折られた経
験のないわたしは。歩み去る妖艶な後ろ姿を眺め暫く言葉なく佇んでいて。興味津々な様
子の志保さんに、わたしが問われる側に回り。
「若木さんに嫌われた?」「そう見える?」
わたしの問い返しに志保さんは躊躇なく。
長い黒髪を揺らせて肩に軽く触れてきて。
「言葉も交わしたくない位、嫌いって感じ」
ねちねち嫌み言ったり虐めたりじゃなく。
触れるのもイヤな位に関りたくない様な。
「ゆめいさんの噂、真に受けているのかな」
志保さんは相変らず、わたしに関る噂を右から左へと流通させているけど。彼女本人は
尾ひれの付いたわたしの同性愛や心霊の噂を、面白がりつつ半分も信じてなく。噂を扱い
慣れている故に噂を軽々に信じない。そうでなくば、わたしにこうして寄り添う筈もない
か。
「元々クール美人で人当たりの良い方じゃないけど、明確にシャットアウトしてきたね」
わたしは頷きつつ、でも微妙に印象が違い。
感情で拒むというより、意思を宿した様な。
「嫌われるって言うより警戒されている?」
かもね。同性愛を嫌う人は多いよ。桜井さんの様に話しのネタに扱うのも嫌だって人も。
「わたしも良くゆめいさんの噂を訊かれるよ。ゆめいさんの噂限定じゃなく、校内や町内
で流される噂一般に。若木さんは地元人じゃないから、色々知っておきたいんだって。で
も、ああいう風に門前払いするのは初めて見た」
志保さんの印象にある若木さんも、やはり聞き上手で。噂話を巧く引き出して耳を傾け、
自身の事は余り話さず。問われると曖昧に返し、機を見て去る。志保さん達は気付いてな
いけど。若木さんは意外と他の多くの人にも、警戒し一線を引いている。情報は仕入れた
いけど、若木さんに噂を語る人は、若木さんの反応や印象も噂に語ると、心配しているの
か。
勤めの事情で地元を離れ、独り経観塚に来ている女性だ。気持は解らないでもないけど。
その上で羽藤柚明への反応に、冷淡さを強く感じるのは。やはりわたしが纏わせた心霊や
同性愛の噂の為か。わたしを嫌うと言うより、意思を持って近づかない・拒むと言う事は
…。
「わたしに関る事で噂になる事を怖れて?」
「うーん、どぉかな。若木さんは元々美人で、経観塚の外の人だから地元の人は目を向け
ちゃうし、噂にならずにいる方が難しいけど」
志保さんによると、若木さんはわたし達が銀座通中に入学した昨春、経観塚へ移り住み。
地元採用が原則の銀座通中の事務員になった。住処を変えて望む程に収入のある職ではな
い。別に事情があるのかも。経観塚や銀座通中への拘りとか。志保さんは県議のコネとも
言っていたけど。それ以上は子供の手に余る様で。
わたしもこの時はその位の印象で。冷淡で短い拒絶が、贄の血の関知や感応を避けて断
つ効果的な方法と気付けず。田舎に『力』への対処を知る人がいるのは想定外だったので。
若木さんが、羽藤家の動静を探る為に経観塚へ遣わされた若杉の者で。サクヤさんやサ
クヤさんに親しい笑子おばあさん達羽藤を監視する為に。地元の噂に耳傾け目を配りつつ。
贄の血の関知や感応の探りを避ける為、わたしとの接触を意図して避けていたと知るのは。
その数ヶ月後。白花ちゃん桂ちゃんのお陰で己の力の紡ぎが飛躍的に伸びてからだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏真っ盛り迄もう少しの七月初め。長い陽も落ちて暫く経てば、流石に風も幾分涼しい。
大野教諭の件に関る事情聴取で、学校の帰りがやや遅くなり。最終バスに間に合う頃に
は解き放たれたけど。既に殆どの店がシャッターを閉じた経観塚銀座通商店街を独り歩む。
観光シーズンに入っているので、旅館や民宿の並ぶ一角からは、光が空に漏れ出るけど。
少し外れれば田舎の店は夕刻には全て閉店し。表通りも人気は失せて街灯が寂しく照すの
み。
叫び声を出せば、店の奥から人も姿を現すけど。電灯の光は漏れ届くし、生活感は感じ
るけど。羽様と違って電柱や家屋や道路等人の手による物も多いけど。夜の町並は静寂で。
ふぅ。多少の疲れ以上に溜息が漏れるのは。
昨日今日、己の気持が少し沈み気味なのは。
大野教諭との経緯を明かして先生方や羽様の大人から、叱責と心配を頂いた為ではなく。
『若杉からの返事は、未だ来てないみたい』
正樹さんの処女作の出版記念パーティは来週末だ。随伴に真弓さんが県外へ出る了承を、
若杉に求めて暫く経つけど、未だに答はなく。
サクヤさんを討つ命を返上し、千羽党の鬼切り役も返上し。羽藤の家に嫁いできた真弓
さんは、千羽や若杉には敵前逃亡か裏切者で。若杉の了承なくば県外に出ないという約定
も。了承があれば出られると言うより、了承する気はないから終生出るなとの意図かも。
諏訪に隠棲を強いられた武神タケミナカタの様に。
正樹さんは都会の空気が肌に合わず、無理をすると体調を崩しかねない。パーティに来
る政財界の要人との接触も負荷になる怖れが高く。真弓さんが随伴して分けて負う事が出
来れば最良なのだけど。それが出来ないなら、わたしが贄の癒しを注げる様に傍に添わね
ば。
愛しい双子と暫く別離するのは寂しいけど。
愛しい双子に暫く別離を強いて、寂しい想いをさせてしまうのは本当に申し訳ないけど。
愛しい双子の父の為で、愛しい正樹さんの為で、羽藤の今後の生計にも関る重大事なら。
『正樹さんとの2人きりは、初めてかも…』
幼い頃はお風呂も褥も頻繁に一緒したけど。
ここ数年は同じ部屋に2人きりな事もなく。
サクヤさんや真弓さんや、桂ちゃん白花ちゃんが常に一緒だったので。サクヤさんとの、
真弓さんとの2人きりなら、時折あったけど。着替えや身に受けた傷の検分もお風呂や褥
も。わたしの成長に伴い正樹さんが遠慮する様に。
同じホテルの同じ部屋、同じ褥に横たわり。
星空や夜景を眺めつつも、四方山話に耽り。
息吹が届く程間近で、時に肌身触れ合わせ。
互いの親愛を強く感じ取れたなら、それも。
『わたし、どうして頬も胸も熱くなって?』
親しい人とより密になれる事は嬉しいけど。
愛しい人により近づける事には心躍るけど。
真弓さんには何となく悟られたくない様な。
サクヤさんや愛しい双子に後ろめたい様な。
そして最近は正樹さんを思い浮べると必ず、あの人物が連想され。爽やかに整った風貌
に肩幅広く、百八十五センチの長身に筋肉質で。切り揃えた柔らかな黒髪は、正樹さんの
若い頃を彷彿させる。美咋先輩を守る為に、つい先日この手で打ち倒してしまった剣道の
達人。
涼やかな語調に懇切丁寧な指導に公正で清廉な姿勢に。女の子にも甘い微笑みが好評で、
男の子の尊敬も人気も集め。でもその狡猾な仮面の裏で、彼は熱心な指導を隠れ蓑に。わ
たしのたいせつな人を、穢して脅し屈従させ。
姿形は正樹さんと、それもわたしが幼い頃に見た若い頃の正樹さんと酷似して。聡明に
涼やかで温厚に優しそうで。だからこそその裏にあんな、正樹さんとは似ても似つかぬ一
面を隠している事が受け容れ難く、許し難く。
正樹さんの善良さを、正樹さんを信じ親しみ身を委ねたいわたしの想いを。否定された
様で、否定されたくなくて。彼の件は末を悟れたにも関らず処置を躊躇い。彼の本性を底
の底迄示される迄、打ち倒す事に踏み切れず。最後迄正樹さんを蹴り殴る錯覚も抜け切れ
ず。せめて彼があんな酷い人物でなかったなら…。
『なかったらわたし、どうだったのかな?』
仮に彼が美咋先輩に為した事を悔いて詫び。
残り人生を注いで償う様な人物だったなら。
美咋先輩が受け容れた場合に限り、だけど。
責任を取って、2人が結ばれる展開はある。
そこには最早わたしの入り込む余地はない。
でもこの心に微かに去来した異なる期待は。
正樹さんに似た彼を赦し受け容れたく望み。
真弓さんのいる正樹さんは無理でも彼なら。
「……ふぅ」溜息を1つついて足を止める。
街灯と月明りのみ照す無人の商店街は昏く。
店と店の隙間の闇から届く風が左頬を撫で。
「やはり獣欲に、諦めはつけられませんか?
気配が漏れ出ています。意図も悟れます」
左右のどちらも向かず前方に声を届かせる。
微かな風の音の他は息遣いも聞えないけど。
数秒待つと隙間の闇と反対側の右前方から。
コト、と微かに物音が聞えた気がした瞬間。
左横の隙間の闇から、太い腕が伸びてきて。
この口を塞ぎつつ、腰に巻き付き身を絡め。
「掴まえたぞ、羽藤!」「……」
聞き覚えある声はわたしへの敵意も露わに。
街灯の光も届かぬ闇へと引きずり込まれた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「喰らえ、小娘が……ははっ、ざまぁみろ」
百八十五センチの長身で屈強な成人男性は。
乱暴にわたしを後ろ向きに地面へ放り投げ。
幾度もこの胴を手足を蹴って左右に転がし。
仰向けにした身に体重を乗せて覆い被さり。
平手と言うより左右の張り手を交互に頬へ。
不意を突けたと大野教諭は喜悦に充ち満ち。
「人気のない夜道を暢気に無防備に。襲って下さいって感じだな。簡単すぎて驚いたぞ」
届く声が途切れ途切れなのは、彼の張り手が脳髄を揺らすから。組み敷かれた状態では、
衝撃を後方に逃せないので痛手が甚大な上に。防ぎに翳す腕も掴まれ外され攻防は一方的
で。彼の腕はこの顔面を打ちつつ、時に胸を揉み。
胸を揉む手を止めようと両の手を伸ばすと、空いた顔面を打って来る。痛手と屈辱と無
力感で、わたしを服従させようと。唇を強引に奪って舌を入れ、唾液を喉に流し込んで来
て。噛み切る前に腹に拳が入って、押し入られた。
彼はわたしの息が上がる事も見越して長く唇塞ぎ。この四肢を体重と力づくで抑え込み。
でもわたしがまともに抗わないのは、正樹さんを戦い倒す錯覚への躊躇いの故ではない…。
漸く唇を離した彼は、わたしを見下ろし。
「ははっどうだ。簡単に組み敷かれやがって。幾ら武道について偉そうな事語っても、日
々の備えが杜撰すぎるぞ。俺の人生を潰して置いて、お気楽に日々を過ごしやがって
…!」
大野教諭の件は大事なので、学校では処分ができずに。通報を受けた県庁市の教育委員
会が彼の処分を検討中で。被害者の名誉を慮って、公には真相は伏せられ。処分が定まる
迄彼は病気休職扱いで謹慎に。でも逮捕拘留された訳でもないから、行動の自由はあって。
彼の目論見を砕いたわたしを彼は憎み恨み。美咋先輩を穢し脅していた事も曝かれて蹉
跌した今。わたしに抱いた侭で果たせなかった獣欲も鬱積し。わたしの帰宅を狙って行動
に。
「剣道は闘いだ。人生は潰し合いだ。そして武道とは敵に打ち勝つ技や発想・強さの事だ。
正しくても濁っていても、強さは強さっ。
暴力だろうが卑劣だろうが、勝利は勝利」
彼の哄笑も打撃も胸を揉む手も止まらず。
この体勢から反撃の拳を放っても届かない。体重を掛けた打ち下ろしが自在に出来る彼
と、重力に逆らうわたしの優劣は明瞭だ。彼とわたしの体重差も体格差も格闘には大きく
響く。
常の人なら男性でも頬骨が砕けているか。
「相手が再び立ち上がれない様に、再び逆らえない様に。体にしっかり止めを刺し、心に
怯えと震えを刻み込む事こそ、武道の本筋」
相手が女なら辱め、心を叩き折るのは必然。
それが、仮面を剥ぎ取った大野教諭の本性。
「立ち技で向き合った時に幾ら巧く戦えても、一度組み伏せられたら終りか。だから女は
虐げ易いんだ。俺の為の、生け贄なんだよ…」
問いつつ彼は何度も唇を繋ぎ、顔面を殴り、胸を揉んで肺を圧迫し。彼は言葉での答な
ど望んでない。彼はやはり体の反応のみを望み。汗だくになりつつ下着越しに股間を擦り
付け。
善意や好意を寄せられる事が、素肌を優しく撫でられる嬉しさを招くのと反対で、悪意
や害意を及ぼされると、全身を舐め回される不快を呼ぶ。特に身に触られると感応使いの
わたしには効果も激甚で。欲情や憎悪が強かったり、人数が多いと己の心が押し流される。
外部から押し入る想いに呑み込まれぬ様に、一層強く己を保つ。願いを想いを確かに抱
き。痛みや息苦しさや羞恥で想いを折られぬ様に。己が為すと決めた事は今正に順調に進
行中だ。
この前髪を掴んで後頭部を、舗装道路へとガンガン打ち付けつつ。未だ失神しないかと、
「この前は小娘だと加減したが、美咋と違って貴様に加減は不要らしいからな。どうせ俺
は教師を続けられず、元の職場にもエリートコースにも戻れない。そうしてくれた貴様に、
その礼も兼ねて。せめて俺の子種を宿せ!」
太い両手でこの首を絞める。解こうと両手を彼の手首に絡めるけど、中途で止めて絞め
られる侭に任せると。彼はわたしの脱力を見て手を緩め、漸く勝利感に安堵し見下ろして。
「こんな僻地で、非力で細身な娘1人にこの俺が。胸も小さく、色気も足りない田舎娘に
この俺が。告発されて全て暴かれ、名誉も信望も収入の途も鎖され……ふざけやがって」
既に普通の人なら顔の形が変る程の殴打で。
鍛えられた男性でも反撃可能な体勢になく。
太い足による鋼鉄の締め付けに腰骨も軋み。
「ぶち込んでやる。俺の怒りと絶望を欲情込みで、その細い体が弾ける程に貫いてやる」
俺の子種で貴様の女を埋め尽くし、清楚に可憐な制服姿も、淫らな精液色に染め変えて。
その心の内迄も、俺の性欲で塗り替えてやる。再び生意気言えなくさせる。俺に逆らった
事を後悔させる。女は所詮転がされ掴まったなら終りだと、その身に心に怯えを刻んでや
る。
「何か応えてみろ。絶望と無力に怯えて俺に救いを求めてみろ。赦しを願って泣き喚け」
助けの手は来ない。夜遅くに不用心に独り歩きして。俺を一度倒せたのも、俺が立ち技
に拘った故の幸運で、組み敷かれれば為す術もないバカ女。そう考えると、唯一度の負け
は悔しいが。それで全てを喪ったのは痛恨の極みだが。この俺が女如きに負ける筈がない。
「貴様の定めだったんだ。まぐれで一度勝って俺を失職させても、俺に狙われたその時に、
貴様は俺に犯され貫かれ、俺の子種を宿して人生を、染め変えられるのが定めだったんだ。
美咋の様にな。ああ、美咋にももう一度二度三度、俺の一本を喰らわせてやらないと…」
その顔に浮ぶ笑みは優越感に充ち満ちて。
無造作にこの頬を拳で左右数度殴りつけ。
「明日の陽が昇る迄貴様を犯し続けてやる。
存分に味わって生涯の想い出に刻み込め。
美咋もこうして虐げながら犯してやるよ。
それが貴様の最期の願いも断ち切る事に」
破れ掛けた制服を、剥がそうとする彼に。
わたしは最早無意味だと、分っていて尚。
「わたしだけで納得しては貰えませんか?」
わたしの操を捧ぐだけでは、あなたへの償いに足りないですか? この身を虐げ責め苛
むだけでは、その憤懣は満たされませんか? わたしへの憎悪を晴らし、わたしへの欲情
を放って、わたしを傷つけ奪うだけで、思い留まっては貰えませんか? それが叶うなら。
「最後迄抗わず、あなたの精も受けるのに」
彼の人柄からそれがあり得ない事は視えていた。彼の立ち直りは、女の子を打ち倒して、
己の強さを優位を再確認する事でしか得られなく。そうなれば彼は必ず、再び欲情を迸ら
せる。手近な女の子を害さずにはいられない。彼は力づくや恐怖でしか抑え込めない人物
だ。
彼が暫く静かだったのは、わたしが学校に彼の婦女暴行を告発したショックより。戦い
で女の子に敗れた精神的痛手の方が大きくて。それを克服できたなら、彼はやはり元の通
り。
「貴様らは俺の欲望を発散する性愛玩具だよ。
俺の性欲を満たして喘いでいれば良いんだ。
何もかも喪った今の俺はもう何も怖くない。
貴様の手で束縛を全て取り除かれたからな。
この片田舎で、事もあろうに剣道の素人に。
色香もない小娘に、まぐれでも負けるとは。
俺に残されたのはエリート剣士の誇りだけ。
貴様ら凡俗と異なる高貴な身分の誇りだけ。
貴様を孕ませてその誇りを取り戻せた後は。
美咋も孕ませてから雲隠れしてやるっ…」
言い淀んだ彼はこの時何に怯えたのだろう。わたしはこの時も心柔らかに平静で、憎悪
や憤怒はなく。この心を占めるのは、むしろ哀れみ哀しみで。彼は本心を全て明かし、勝
利を確信した瞬間から転落した前回の経緯を思い返し。不吉を感じ取ったのかも。それと
もこの時点で尚わたしがまともに喋れる事に?
「残念です、大野さん。あなたがそうなら」
街灯の光も届かない路地の隅で組み敷かれ。
誰も介入する者はなく既に形勢は確定した。
でも追い詰めたのは、彼ではなくわたしだ。
この状況に、今宵わたしが彼を誘い込んだ。
「わたしは、あなたが再び立ち直れない様に。その身にしっかり止めを刺し、心に怯えと
震えを刻み込む。望まないけど、好まないけど。そうせねば、あなたを止められないのな
ら」
わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。
反撃も報復も欲しないけど、極力厭うけど。
あくまでも、たいせつな人の害となるなら。
願いを届かせるのに最早他に術がないなら。
「わたしはその抑制も踏み越えて。禍根をこの場で全て絶つ……己の心を鬼にしても!」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「くそ、小生意気な視線が、癪に障る…!」
彼がわたしを最初から、全力で組み伏せ殴り蹴ってきたのは。彼は無意識に分っている。
女の子相手と言う思い込みが妨げているけど。本能は直感は皮膚感覚は、既にわたしに怯
え。
今尚わたしの痛手は大きくない。成人男性に組み敷かれ、好き放題に殴られても。わた
しは頬骨も砕かれず、目も鼻も潰れておらず。全く無事では済んでないけど。頬が腫れ口
が切れ、鼻血も出たけど。軽く叩かれた程度で。
肌身に触れた彼がこの身の無事に、不気味を感じても当然か。ここ迄優位な体勢から好
き放題されて尚健在な女の子は、非常識かも。
「二度と偉そうな綺麗事を言えなくして…」
更に左右の拳が両頬に振り下ろされるけど。
わたしは僅かに肌身を動かして打点を変え。
当たる瞬間も微妙にずらして衝撃を散らせ。
背後が舗装路面なので全ては躱せないけど。
当たる瞬間に贄の力と気合を強く通わせて。
散らせない衝撃は修練で培った耐性で堪え。
何発殴っても、効果が薄い事に焦った彼は。
太い両腕で、再度この首を絞めてくるけど。
「ういぐっ……ぐあ、ああ、ぁぁぁっ…!」
彼の両手首を軽く掴むと、簡単に彼の両腕は制御を外れて。わたしの促す侭に奇妙な向
きにねじ曲がり。贄の血の力を注ぐ迄もない。瞬間彼は手首から肘へ電流が駆け抜けた筈
だ。
合気道の達人が相手の手を掴むと、軽々と捻って抑え込む様を、幼い頃テレビで魔術の
様に眺めたけど。達人の誇り高い大野教諭が、それを女子高生にされるのは苦い想い出か
も。
「くそっ……、奇妙な、合気道紛いの技を」
反撃すれば組み敷かれた体勢も覆せたけど。
わたしは敢て彼の次の動きを待って受ける。
彼の振り下ろす両拳をわたしは両手で止め。
組み敷かれたこの体勢で、彼の顔面に反撃は届かないけど。彼の拳を掴まえる事は叶う。
今迄は敢て防御を弾かせていただけで、この体勢でも彼程度の拳なら完全防御は充分叶う。
そして一度拳を掴まえれば軽く捻るだけで。
反射と錯覚を作用させ彼の姿勢を崩し行く。
馬乗りになった侭、彼は奇妙に身を捩らせ。
最初からいつでもこの体勢は、脱せられた。
わたしは今尚手足も細く身も軽いけど。それでも鬼からたいせつな人を庇い守る闘いを、
元鬼切り役に習ってきた。普通の達人の攻撃を防げなければ、とても鬼には対応できない。
敢て中途で、掴んだ彼の両拳を解き放つと。
彼はわたしへの直接攻撃を止め、胸を揉み。
彼の誘いに乗ってわたしは、両の手を胸へ。
「奇妙な技を使う手も、掴んでしまえば!」
両手の甲を強靱な力で掴まれた。彼はその侭この手を捻り折るか、握り潰す積りだけど。
読めてそうさせたのは、彼の意図を挫く為だ。
「な、なん……なんで。まて、違う違う!」
重心や力の入れ具合、相手の錯覚や条件反射も巧みに利用し。密着し組み敷かれ、関節
を逆に極められても、わたしは活路を切り開ける。立ち技でなければ、剣やサーベルがな
ければ戦えぬ武道では、実戦の役に立たない。
一つの押しや引きに対応して、彼が体勢を保とうとしても、それが別のバランスを崩す。
防ごうと力を込める余り、他の箇所の抑えや力点がずれ。反発し体勢を立て直す動きが既
に錯覚の導く侭に別の綻びを作り。その隙にわたしの次の動きが食いつき、更に押し広げ。
「わたしは前回あなたの剣道を立ち技で、蹴りや投げで打ち倒した。でも、それで納得す
る人ではないと分っていたから。再度立ち技で退けても、あなたはきっと諦めきれない」
だから分ってあなたに組み敷かれた。敢て蹴られ殴られ首絞められた。あなたの気配は
夜の街路で既に察知済み。小石を使った音の誘導も読めていた。撃退だけならいつでも出
来た。全て承知で路地裏に引き込まれたのは。
「あなたが立ち直れない様に。その身にしっかり止めを刺し、心に怯え震えを刻む為に」
胴への太い足の締め付けも解け。彼は掴んだ筈のわたしの手の甲を、自ら外す事出来ず。
歪な力の入らない体勢も脱せられず、わたしの想う侭に引いて押され。起き上がって屈む
わたしが二度三度、軽く腕を回すと。手を離せない精悍な長身は、左右に転がり泥に塗れ。
「うぐあぁぁ! は、放せぇ羽藤、このっ」
わたしは既にこの右手を掴ませた彼の左手を放させている。それでも彼は、残る左手を
掴む右手を放す事出来ず。不自然な体勢で身を捩り、軽く振ると左右に転がり這い蹲って。
逆らっても従っても、わたしが機先を制して促し操れば、彼はこの無間地獄を逃れられぬ。
ここは人気の失せた夜の路地裏。幾ら叫びを響かせても、容易に人は気付いてくれない。
彼も漸くそれが己の思いの侭ではなく、わたしの思いの侭に出来る状況なのだと、青ざめ。
「この……くそっ、……ぐあっ……ひっ、やめ……あわっ……、羽藤待て、頼むもう…」
見る間に彼の闘志が体力が消耗され失われ。一寸先も先行きも分らず、操られる一方な
状態は、体力も気力も急激に削る。残るのは重くて思う侭にならない体と、失意と敗北感
で。漸くわたしの言葉が届く状況になった。でも、戦い破ってここ迄追い詰めなければ、
言葉一つ届かせられない。何と寂しく虚しい関係か。
こんな勝利等わたしの望みではない。彼が自らを省みて、その意志で思い留まって欲し
かった。結局力で己の意図を他者に強要した。彼はわたしの奴隷でも、所有物でもないの
に。
「やめ……もうやめてくれ、頼む。俺が悪かった。もう襲わない。逆らわない。だからこ
の手を放し、放して……だのむ、ゆるじで」
精悍で強靱な彼が許しを請う等屈辱だろう。わたしもそんな姿は見たくない。敵でも堂
々倒されて欲しかったけど。技量が違いすぎた。見かけでは、彼とわたしは大人と子供だ
けど。技量ではわたしが弱い物虐めしているに近い。
でもわたしは尚彼を、解き放つ事はせず。
目的あって始めた事だ。それを達する迄。
己の情に、流され左右されてはいけない。
額の汗が滲んで、目も開けない彼に向け。
「せめてわたしだけで思い留まってくれたら。美咋先輩への報復を呑み込み諦めてくれた
ら。わたしはこの身も操も償いに捧げたのに…」
わたしはあなたを失職させた。生計の途を絶って一生を狂わせた。美咋先輩を救う為に、
今後あなたの毒牙に掛る女の子達を守る為に、この措置は必須だったけど。でもその所為
であなたは今後の人生を鎖された。この手があなたの幸せを壊した。それは事実だったか
ら。
「謝らなければいけないと思っていた。償わなければならないと。あなたが女の子に為し
た行いは非道だけど。謝罪し償い、報いを受けるべきだけど。それを力づくで排除したわ
たしも立場は同じ。例え誰かを守る為にでも、人の幸せを壊して良い筈がない。だから
…」
あなたを失職させ、一生を狂わせた償いに。
あなたの欲求に、応える余地はあったのに。
むしろわたしはあなたの赦しが欲しかった。
あなたの哀しみを少しでも埋められるなら。
「進んであなたを、受け容れたかったのに」
苦しげに引きつった端正な表情が固まった。
でもわたしはこの処置を下す手は止めずに。
「今後女の子を狙い襲い、他人の幸せを壊す非道を、思い止まる人になってくれたなら」
でも、あなたはやはり留まらない。わたしの操を捧げても、あなたはその成功を起点に
次の女の子を襲うだけ。あなたは己を取り戻せば、必ず欲情を迸らせ女の子を虐げ続ける。
「力も才能もある強い人なのに……己を抑える心の強さや他者を想う優しささえあれば」
あなたの求めに応える事が次の非道を呼ぶ。
あなたに償う事が女の子の悲嘆や涙を招く。
わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。
「己の償いが、それを妨げ危うくするなら」
ぎり……奥歯を噛み締め、下腹に力を込め。
わたしは、驚きに眼開いた侭の彼を見据え。
「女の子の悲嘆を、これ以上招かない為に」
美咋先輩に微かな不安さえ残させない様に。
この手であなたの未来も幸せの芽も摘んで。
「わたしが償えない罪を負う事になっても」
罪への怯えより、罰への怖れより、あなたへの償いより、愛しい人の守りと幸せが優先。
己自身の赦されたい願望等後回し。だから…。
この手は最後迄止めない。例え勝敗が確定しても。彼の気力体力が尽き果て疲弊しても。
今宵を凌げば良い訳ではない。今後彼の人生の傍を通り過ぎる、多くの女の子達の為にも。
「敢て夜遅く人気のない街路を独り歩いて襲われたのは。敢て小石の音の誘導に乗って組
み敷かれたのは。敢て蹴られ殴られ首絞められてから問うたのは。答が欲しかったから」
あなたは何度も虐げた美咋先輩ではなく。
敢て一度敗れたわたしを狙い襲いました。
なぜなのか、その心中に答は浮びますか?
彼の瞳が更に大きく見開かれて固まった。
「わたしがあなたに暗示を与えていたと言ったなら、信じず笑い飛ばしますか? 前回あ
なたを倒した時既に、後催眠を掛けていたと言ったなら、ある筈ないと言い切れますか?
あなたが己を省みず、逆恨みで報復や復讐を望んだ時。女の子を再度害しようと思い立
った時。美咋先輩ではなくわたしを襲う様に。既に導かれ、操られていたとするなら
…?」
彼が報復に走る像は視えていた。己の強さを信じる彼は、その蹉跌を招いたわたしと美
咋先輩への復讐を諦めず。組み伏せて勝てば、己を取り戻せると彼は信じて疑わず。成功
すれば、彼は女の子を虐げる己自身を取り戻す。
小柄で細身なわたしに破れても、納得をする人物でないのは分っていた。彼は立ち技で
巧く凌がれ、躱されたとしか思わない。掴んで組み敷けば、必ず勝つとの思い込みを断つ。
彼の万全の態勢から、彼の完勝の形勢から、彼の思い通りな状況から。殴られ蹴られ首
絞められても、わたしを倒せないと示した上で、打ち破る。彼を完勝の頂から完敗の淵に
落す。
「あなたの心を折る。怯えを刻み暗示を刷り込む。再び女の子に欲情を抱いた時は、己の
右手の甲を見て。右手首に激甚な重さを感じ、怯えを思い返して、身動きが取れなくな
る」
あなたは一生女の子を襲えない。出来なくさせた。夢で想う事さえ。あなたの心に入り
込んで踏み躙り。拭い去れない暗示を与えた。
仰向けで全身汗だくな彼の右手は、尚わたしの左手を掴み、否掴ませ続け。怯えと疲弊
で息も継げず、逃げる事も諦め、解き放たれる時のみを願う彼に、わたしは覆い被さって。
「あなたは、わたしを一生許さなくても良い。
わたしはそれに値する事をあなたに為した。
でも、否だからこそ、わたしはあなたに謝りたい。謝ってもこの手を止めはしないけど。
あなたへの処置は微塵も変らないけど。あなたに操を捧ぐ事も償う事も叶わないけど…」
ごめんなさい。自ら唇を彼の唇に繋いで。
贄の血の感応を直接大量に彼へ流し込み。
暗示が半永久的に続く様に蓄積させつつ。
同時に己の未練を断ち切る。終りにする。
わたしは少しだけ、彼を好いていた様だ。
それは、正樹さんに抱いた想いの屈折で。
彼を正樹さんの代用品にした酷い非礼で。
今や届かせても悟らせてもいけない想い。
わたしは彼に恨まれ憎まれ、怯えられる。
その人生を鎖した仇として忌み嫌われる。
この末はわたしの犯す罪への罰なのかも。
この苦味は、この酸味は、この虚しさは。
今宵初めてわたしは贄の血の感応を、相手に強制力として及ぼし。己の意に添わない相
手の想いを塗り潰し。『力』で暗示を与えてその心を在り方を未来を一生を、ねじ曲げた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「異色な作品です。読む人で好き嫌いが別れそう。確かに中身は女子高生の恋ですけど」
濃いブラウンのショートヘアを揺らせつつ。
右隣で和泉さんが躊躇いがちに感想を述べ。
県立経観塚高校の文芸部員として迎える最初の年末も間近い、師走初めの放課後図書室。
椅子に座した弐拾弐名の部員は全員女の子で、顧問教諭の春日先生が独り細身の中年男性
だ。
春日先生は発想力と行動力に富む人で。唯本を読むだけでなく。各々が自作小説を書き、
互いに見せ合う事を提案し。先生も含めた弐拾参人は夏休み中に、4つの条件を満たす作
品を描き、その感想を述べあう事に。弐拾参本あるので、最後は冬になってしまったけど。
「うん、うん。そうか、そうか……うむ…」
春日先生は誰の発言でも熱心に耳を傾ける。
みんなも和泉さんの感想を最後迄静聴して。
高校入学時は、中学入学時と違う複数の運動部先輩や教諭の熱心な勧誘に、少し驚いた。
県立経観塚高校は、銀座通中など経観塚の3中学校に近隣町村の通学者も含め、生徒数は
一学年二百人を越える。その中で己が注目に値するとは思ってなく。中学校で真沙美さん
と競った運動神経は、高く評価されたみたい。
結局わたしは、真弓さんとの修練や愛しい双子と過ごす時間を優先し。合宿や遅く迄特
訓がある運動部は断って、文芸部に入部した。
文芸部はここ数年、部員減で廃部の危機に瀕し。昨春今の2年生4名が入って一時的に
危機は脱したけど。3年生もおらず廃部の危機は尚燻っていて。わたしの在校時に、正樹
さんも所属していた文芸部の廃部は避けたく。
「女の子同士の恋に現実感は薄く、描写は刺激が強すぎます。あたしの感想は以上です」
和泉さんは最後、珍しく語調が慇懃無礼で。
声音は低く抑えても、不快感を隠しきれず。
小説の作者・C組の菅原幸恵さんを見つめ。
眼鏡を掛けた黒髪お下げの大柄な女の子だ。
手芸部に入らなかったのは、己の技量が他の人から浮いて見えたから。高校で再び下級
生になったわたしが、笑子おばあさん譲りの技を披露しては、波紋を招きそうだったので。
贄の力の修練の進展で、わたしは言葉や仕草に現しきれぬ、コツや感触を掴む術に長け。
良い師に学べた幸運もあって、書道も華道も茶道も護身の技も基本は身について。お料理
は本職の主婦である真弓さんに抜かれたけど。美術も音楽もスポーツも標準的にこなす様
に。
でも己の技量が向上した結果、級友達とのバランスが難しくなり始め。中学1年生の文
化祭に、憶え立ての機織りの技で反物を出品して、一度思い知らされた。わたしは褒めて
貰えたけど。他の仲間の作品の存在感が霞み。
頑張って労力注いで作りあげた作品なのに。
わたしが光を浴びた為にみんなが影に回り。
周囲を見ずに自分独りの想いで突っ走ると。
素人の頑張りを見せ合う場を壊してしまう。
同じ土俵で全力で戦っては拙い場合もある。
「……最後は、羽藤さんの感想ね」「はい」
2年生で部長の高岡千秋先輩の促しに従い。
わたしも用意してきた感想を作者に述べる。
黒髪ショートに端正な顔立ちの高岡先輩は。
銀座通中でも手芸部副部長を努めた女の子。
冷静で洞察眼の鋭い彼女には学ぶ処も多く。
聡美先輩との関係が露見した時も気遣われ。
迷惑掛けたにも関らず大変お世話になった。
「熱の籠もった作品だと思います。分量超過で所定条件は満たせていませんが、執筆に込
める想いが行間から溢れて。女の子が女の子に抱く恋心に、説得力を与えていました…」
文を通じて想いを感じ取るのも、わたしの贄の力の修練の一つ。行間を読むという奴だ。
作者や出版社、その本を運んだ人や図書館の司書、過去その書物を手に取った人の印象も。
文章のみならず、文字の並びや字体やページの折られ方、開き癖や汚れ具合でくみ取って。
古文や漢籍や英文を、描いた人の感性を胸の内に脳裏に映す様に感じ取り。言葉選びや
繋ぎから、描いた意図を背景共々読み解いて。現代語訳や日本語訳の場合、訳した人の傾
向や感性も感じ取って。手にとって読んだ他の人の感想や印象も視る事で、他者の思考発
想にも触れて、自身の想定の幅も更に深く広く。
「ケイとメイが、過酷な定めの中でも互いを深く想い合っている事は伝わってきました」
膨大な書物を前にすると、己の無知を実感する。生涯かけても学びきれない膨大な知識
や想いが溢れ。わたしが理解できる範囲には、限りがあるけど。得られた物は長く人生の
役に立つ。知らない事を知り行く課程も愉しい。
それは部員が描いた小説を読む時も、先生の学級通信を読む時も、商店街の特売ビラを
読む時も同じ様に。書物に限らず人の手を経た全てに、想いは宿る。大量生産の品にも機
械を通じて機械製作者や設計者の想いが滲む。原材料を獲った人や扱った人達の想いが潜
む。
それを唯受けるだけではなく。感想を返すという春日先生の発想は新鮮だった。形のな
い魂の欠片や言葉に出さぬ人の想いを、視て応えられるわたしだけど。書物や品物からは
受けて感じ取る一方通行だったので。自身が意見感想を返すと言う事は、想定の外だった。
「もう少し実感を伴う説明を描けば、読者に分り易いと思います。肌触りや香りや抱き合
った時の柔らかさや。唯それをしてしまうと、分量が規定を更に越えるので難しいです
ね」
笑子おばあさんを喪って、一時は己の進む途が半分位消失して見えたけど。おばあさん
から学んだ力の扱いが、尚先を切り開いてくれて。膨大な智恵と想いが前途に満ちて感じ
られ。わたしが手を伸ばす時を待っている様に想えて。わたしは尚おばあさんと一緒だと、
おばあさんの示した途を進んでいると想えて。
新たな知見はオハシラ様に、感応で伝える事も出来る。鬼神を封じる尊い遠祖に、平凡
な己の日々の諸々しか伝えられないのでは恐縮なので。山奥のご神木を動けない彼女には、
千年後の世界の姿や科学技術なども伝えたい。桂ちゃん白花ちゃんの愛らしさは勿論だけ
ど。
感想を述べ終ると、ショートの黒髪を揺らせた高岡先輩が。やや硬い表情の女の子達の
沈黙を破って。本日の部活はここ迄と仕切り。先生の短い言葉を頂いて今日の部活は終了
し。
帰り際、高岡先輩に頬寄せて耳打ちされた。
間近の和泉さん以外聞き取れぬ、低い声で。
「あなたは、どんな時もどんな相手の行いも、前向きに静かに柔らかに受け止められるの
ね。中学の手芸部からあなたを見てきたけど…」
わたしが大野教諭に操を奪われたとの噂は、文芸部員も概ね承知で。わたしが平静に否
定し続けたから、最近は下火だけど。わたしに非好意的な人や噂好きな人の間では尚燻っ
て。
菅原さんの小説は女の子が暴行される展開もあり。怖い想いを経た女の子には刺激過剰
か。先生も内心焦った様だけど。多くの部員も硬直したけど。わたしは平静に感想を述べ。
高岡先輩はそんなわたしの心中を気遣って。
目立たない様に、心を配っているよと声を。
その心配と親愛を、頂けた事が嬉しかった。
噂を招いたのは自身の不徳に過ぎないのに。
「こんなわたしでも、心配してくれる人がいますから。実際無事だった羽藤柚明としては。
余計な不安を招かない為にも、傷んでも萎れても怯えても居ないと、確かに示さないと」
わたしは間近の涼やかな瞳に軽く会釈して。
握って胸に持ち上げた両の手に親愛を込め。
「お気遣い頂いて有り難うございます。わたしは大丈夫。それより、菅原さんを気に掛け
てあげて下さい。刺激の強い作品だったので、彼女の方が今後、部で浮いてしまう心配
が」
機会を見計らってわたしも心繋ぎますけど。
今の状態では暫く月日が必要だと想うので。
心配させた上にわたしは人に頼み事をして。
本当に出来が悪くて世話の掛る後輩だけど。
「あなたの心配は常に他人の事なのね。時には己自身も気遣ってあげないと……みんなは
羽藤柚明に対して、羽藤柚明ほど毎日優しく繊細に、気配り助け支えてはくれないのよ」
やや呆れた様な声に、傍で和泉さんが頷く。
それでも先輩は、わたしの願いを了承して。
2人ともわたしに関る面倒を厭わずむしろ。
わたしと想いを共有する事を喜んでくれて。
「本当に興味が尽きないわね。再び同じ部で先輩後輩になれるとは、思ってなかったけど。
今度こそじっくりあなたの本性を、飽きる程観察させて頂こうかしら……ね、金田さん」
和泉さんは頬を染めつつ曖昧に頷いていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
春日先生は1年の学年主任で、わたしと大野教諭の件の真相も承知だ。密かにわたしを
気遣いつつ、表向きは何もなかったという公式発表に添って、わたしを多数の1人に扱い。
でも若木葛子さんが、町中に学校中に流した噂では随分気遣わせてしまい、心労も強いた。
今もわたしと和泉さんに、最終バスに遅れない様に一緒の帰宅を促してくれて。羽様地
方の生徒は2人だ。陽も早く落ちる季節だし。暴漢や不審者への怖れより、心細さや不安
を補い合う様にと。先生は複数の方が安心と言う以上に、羽藤柚明をより案じ。和泉さん
は、
「いざ鎌倉の時は九分九厘、あたしがゆめいさんに守られる形になっちゃうんだけどね」
とぼやきつつ、わたしの背に庇われる様を思い浮べて笑み浮べ。閉店間際の商店街を肩を
並べて歩む、近しい触れ合いを喜んでくれて。
真弓さんに頼まれた通帳記入の為に、信金のATMに付き合って貰い。正樹さんの原稿
料と本の印税入金を確かめ。気になってしまうのは、秋に記されたゼロの数が違う入金だ。
夏に真弓さんが一度だけと、鬼切りに力を貸して不二夏美を切った報酬は。庶民に手の
届き難い高額で。本の刊行で漸く収入が安定した正樹さんを、やや凹ませてしまった様で。
「もう終った?」「もう少しだけ待って…」
自分の通帳も記帳する。沢尻さんを通じて納めた反物の代金も入っている頃だ。こちら
も最近笑子おばあさんに近しいと好評を頂き、金額も子供のバイトでは済まない額に。そ
れも正樹さんを凹ませた様だけど。慰めても逆に一家の主のプライドに触るので敢て触れ
ず。
でも感性の豊かな正樹さんは、わたしが彼を気遣って敢て触れない事を知り。察して知
らない振りを保ってくれて。中途半端な気遣いが、逆に彼に複雑な苦味を与えてしまった。
同じ屋根の下で毎日を一緒しながら、話題選びにも気を使う感じになり。今から謝って
全て明かしても、わたしは構わないのだけど。彼はわたしを気遣って、知らない振りを保
ってくれている。そこ迄悟れてますと示すのは、正樹さんをもっと凹ませる事になりそう
で…。
余計な処で賢しくても、人に役立ててはいない。家計の助けも、笑子おばあさんに教わ
った技を形にする事も、良い品を納めて喜んで貰う事も、わたしの願いで望みだったのに。
『入金されている。サクヤさんが笑子おばあさんに紹介してくれた業者の、八割の額で』
沢尻が笑子おばあさんに紹介した業者の引取額は余りに安いと。数年前にサクヤさんは、
県外の別の業者を紹介してくれて。でもおばあさんは心遣いを喜びつつ、沢尻が紹介した
業者とも取引続け。双方に交互に納める事に。引取額の違いは承知で沢尻との仲を手放さず。
『沢尻さんもね、禍ばかりじゃないんだよ』
笑子おばあさんの静かな笑みが瞼に浮ぶ。
鴨川に睨まれ多くの隣人が羽藤から遠ざかる中。思惑込みでも羽藤に関り、助けになっ
たのは沢尻だけだった。笑子おばあさんが経観塚の町で、書道や華道、茶道や裁縫を教授
して報酬を得られたのも。沢尻の根回しのお陰で。その更に裏に、お母さんへの愛を抱き
続けた鴨川の平さんの配慮があったにしても。
わたしのお母さんも正樹さんも、間接的に沢尻のお世話になっている。それは昔の話し
のみならず、専業主婦の真弓さんも愛しい双子も、稼ぎのなかった幼いわたしも。正樹さ
んの原稿料だけでは、養えなかった筈だから。
歴代の羽藤の遺品も、あるだけではお金にも何にもならない。笑子おばあさんは羽藤の
未来を展望する為に、過去を沢尻に持ち出されても目を瞑り、笑みを保っていたのかも…。
サクヤさんが高い値を提示する別の業者を紹介しても。おばあさんは喜んで、有り難く
受け容れても。沢尻との関りを断つ事はせず。笑子おばあさんの死後もわたしはその方針
を保ち、双方の業者に交互に反物を納めている。
『沢尻の取り分が、多くあるといいねぇ…』
一度絆を繋げた以上、酸いも甘いも噛み締めて決して手放さず。おばあさんは多くを語
らなかったけど。正樹さんやサクヤさんも理解し難い甘さ優しさは、非合理にも映るけど。
わたしはその辺りは合理や正邪のみならず。
情やこれ迄の関りも勘案して考えたいけど。
正樹さんは笑子おばあさんが亡くなった今。
その方針に縛られる必要はないとの考えで。
不当に持ち出された羽藤の遺品返還も求め。
沢尻と関係が悪化しても正論を通すべきと。
羽藤の家計は正樹さんの本の印税で好転し。
おばあさんが沢尻に頼った処も最早不要で。
真弓さんも含め、反物の納入先についてお話しもした。沢尻の引取額はサクヤさんの引
取額の七割に満たず。高値の方に纏めるべきだったかも。わたしはおばあさんを懐かしむ
余り、後ろ向きになっているだけかも。でも。
わたしは沢尻との関係を断つ事は望まず。
沢尻とも価格交渉して欲しいとお願いし。
沢尻夫妻と真弓さん正樹さんとわたしで。
話し合った末まず七割に価格を引き上げ。
沢尻夫妻は苦虫噛み潰して了承したけど。
正樹さんにはそれは入口で。次の時には。
機織りに使う絹糸の売付価格も高すぎと。
確かにサクヤさんの業者から買う額より。
沢尻から買っていた絹糸価格は5割増で。
羽藤の、おばあさんの収益を縮めていた。
正樹さんは今や沢尻への不信を隠さずに。
業者も羽様のお屋敷に招いて一緒に話し。
沢尻は今迄高額の仲介料を抜いていた様で。それを省けば引取額を上げられると。正樹
さんはサクヤさんの業者の引取額の八割を求め。わたしの織物は双方の業者と顧客から、
笑子おばあさんの作品に遜色ないと高く評価され。多少高価でも顧客は買うと業者にも言
われて。今や沢尻と羽藤の立場は完全に逆転していた。
正樹さんは羽藤の遺品を持ち出した沢尻を。
ずっと腹に据えかねていて。断交も厭わず。
そうなると、正樹さんの主張が正論なので。
沢尻夫妻はわたしに縋り付く他に術がなく。
沢尻は羽藤から得た利益を、博人の学資や生活費に回している。沢尻との関係を絶てば、
都会の工業高校に通う彼の卒業が困難になる。合理や正論が、人の幸せに繋るとは限らな
い。
『どこにも角が立たない様に収めないと…』
正樹さんはわたしの願いを容れて、沢尻との取引を残してくれたけど。遺品返還を求め
るにも、暫くは関りを残して良いとの感じで。次はサクヤさん紹介の業者の9割を望む気
だ。
一度限りでも真弓さんに膨大な臨時収入があり、正樹さんの印税収入も継続的に見込め。
沢尻が取引を嫌うならいつでも羽藤が断れた。サクヤさんの業者に取引を纏めるだけで良
い。
なので正樹さんは正論を通す構えでいて。
わたしはそれ以上の口出しを憚る状況に。
若木葛子さんを失職させた事についても。
わたしは不賛成だったけど、述べきれず。
彼女は若杉の羽藤とサクヤさん監視要員だ。彼女を退けても次の監視要員が来るだけだ
し。厳しい対処を返すと、若杉の心証を悪くする。それで鬼でもない羽藤に報復する程、
若杉も愚かでないと思うけど。正樹さんの言う通り、彼女の所行を証拠付きで学校に処断
を迫れば、若杉もそれを妨げ難い。妨げれば、余計な処に若杉が理不尽に挟んでいると晒
されるだけ。
だから正樹さんも真弓さんも。わたしを深く想ってくれる故に。酷い噂を流した若木さ
んへの反撃に迷いなく。わたしはやや躊躇いがあったけど。微かに悪い兆しを感じたので。
『私は教員でありませんので、失礼します』
彼女には直に逢って訊きたかった。彼女はそれ迄淡々と、唯情報収集に努めていたのに。
なぜこの夏にわたしの誹謗中傷を始めたのか。直に話せば誤解が解けて心通わせられるか
も。
でも正樹さんも真弓さんも、わたしの近日の無茶を列挙して。わたしを深く案じる故に、
強く愛する故に。ここは大人に任せなさいと、わたしが動く事を禁じ。2人は先生達と連
携して若木さんの所作の証拠を掴み、学校に彼女の解雇を求め。今回はわたしが介在でき
ない侭その結果を報されて……胸騒ぎを感じた。悪い予覚が濃さを増して、近付いてきた
様な。
尤も感じた悪い兆しも曖昧で、この件に絡むのか否かは不明瞭で。若木さんは当然解雇
に反発し学校や羽藤を恨み憎む。その憎悪が何かの形を取るのか取らないのかも見通せず。
家族を守る意志を固めた正樹さん真弓さんに、説得力に乏しい侭で異論を述べる事は憚ら
れ。
幾ら技量を備えても、わたしは尚未成年で。
修練に励んで向上すればする程強く感じる。
大人にならねば言動に、説得力を宿せない。
危うさを感じていても告げる事さえ憚られ。
「お金入ったのに、何か表情が浮かないね」
愛しい人のわたしへの気遣いを宿した声が。
思索に耽っていたわたしを現へ引き戻した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは人を心配させる程、暗い表情だっただろうか。驚いて見つめ返すと和泉さんは、
「いつもと変りないよ。ゆめいさん、悩み事がある時は他の人を心配させない様に、努め
て平常心な人だから。……あたしは入金確認しても嬉しそうでないから、気付いただけ」
鋭いです。わたしにとってお金は生活に必要なだけあれば良く、重要度がやや低いので。
いつもなら入金に多少でも喜ぶ処を。ほとんど表情を変えず物思いに耽って流してしまい。
考えても即結論の出ない悩みは、棚上げて。
意識を今に、目の前の愛しい人に向き直る。
「やっぱりユッキーの、ゆめいさんを想定した百合小説、心に引っ掛ってる?」「ん…」
女の子同士の恋愛を『百合』と言い表すと、教えてくれたのは和泉さんだった。銀座通
の書店には、百合を描いたマンガや小説・雑誌も多少売っていて。和泉さんは少女マンガ
に混ぜ込んで、それらも購入して情報を仕入れ。
深夜の情報番組で、同性婚を法的に許めてと訴える女性同士のカップルも見た。日本中
を探せば、男の子同士、女の子同士で恋や愛を紡ぐ人は一定の人数いるみたい。性同一性
障害という言葉も最近憶えた。わたしがそれに当てはまるかどうは、分らないけど。因み
に男の子同士の恋愛は『薔薇』と言うらしい。
「菅原さんはわたしと和泉さんを思い浮べて、話しを書いていたみたいね」「そう思う?
ヒロインのメイは多分ゆめいさんで、主人公のケイがあたしってコトで良いのか
な?」
和泉さんの推察にわたしは静かに頷いて。
「和泉さんの名前は巧く縮められないし、菅原さんも装う必要を感じて。桂ちゃんの名を
借りたのね。わたしは学校でもたいせつな人の名を口にしているから」「それにしても」
和泉さんは不満を隠さず頬を膨らませて。
「ちょっと酷いよ。ゆめいさんが今一体どういう状態なのか、誰もが大凡分っているのに。
あんな内容の話しを、部活でみんなや先生に読ませるなんて。確信犯も良いトコロだよ」
わたしは中学校以来、女の子同士の恋仲を数多く囁かれ。それらの一部は誤解や曲解や
嘘偽りだけど、一部は真実に近く。勿論それが世間に受容され難い事は分るから、たいせ
つな人に迷惑が掛らない様に努めているけど。
若木さんが夏に広めた、わたしが大野教諭に襲われ犯され貫かれ、孕まされたとの噂は。
部の女の子を怯えさせ。和泉さん等ごく少数以外の人は、声を掛けかね暫くはわたしを遠
巻きに。最近漸く再び打ち解けてくれたけど。
「あんな内容の小説を部員に読ませる時点で、異様だよ。百合にレイプに。敢て痛い処を
突いて、ゆめいさんの反応を伺っているみたい。ゆめいさんは柔らかに平静に応えたけど
…」
「本当に何もなかったなら、わたしが怯む心配もわたしを気遣う必要もない。菅原さんの
答は、問を想定した様に明快だったわね…」
菅原さんの描いた話しは、主人公のケイとヒロインのメイという2人の女の子の恋物語、
百合小説で。2人は男子拾人に性的暴行され、心身の傷を共有し絆を深めるという。高校
生の文芸部には相応しくない、刺激的な内容で。
出身中学の違う菅原さんは、わたしの中学1年の時の、塩原先輩との噂を聞いて、想像
力で補った様だ。真沙美さんとの関りも描くのは大変なので、和泉さんとの絆に的を絞り。
春日先生が夏休み前に示した、休み中に完成させる自作小説の4つの条件は。@四百字
詰め原稿用紙50枚以内、A主人公は女子高生、B恋を描く、C現実にはないトンデモ設定
を、読者の突っ込みを想定しつつ作中で明示する。
菅原さんは分量超過以外、全てを満たした。わたしの護身の技を知らない彼女は、メイ
が処女喪失の代償に霊能力に目覚めたと設定し。再度襲ってきた男子に幻覚を及ぼし撃退
して。羽藤がオハシラ様を祀る家系という、消え掛っている伝承を、トンデモ設定に取り
込んで。
でも執念深い男子達はケイを人質に取って、メイの心を乱して霊能力を無効化し。2人
を捕らえ人里離れた山中へ連れ去る最中、車が崖から次々転落し。生き残れたのはケイ1
人。メイと男の子1人の遺体は、遂に発見されず。
傷の治ったケイが数ヶ月後、崖を訪れると。悪霊と化した男子達の魂が渦巻いて、ケイ
も地獄に墜とそうと集団で群がり。谷へ墜ちそうになった時、メイの霊が悪霊達を打ち払
い。
メイは近くの霊木に己を宿らせ、ケイに追い縋る悪霊達を繋ぎ止めていた。でも一対拾
では霊能力も分が悪く。繋ぎ止めるのが精一杯で、メイは逆に悪霊達に好き放題に犯され。
その光景に身震いするケイの前に、唯一未発見だった男子の骸が、悪霊を1人憑依させ
て迫り来て。逃げ出すケイを、町迄追ってきたその骸を退けて助けたのが、凛々しいフェ
ンシング使いの女の子。2人は守り守られ緊密に接する内に、互いへの恋心を芽生えさせ。
「途中に挟まるサキって女フェンシング使い、ユッキーは山田里奈を想定したみたいだ
よ」
「夏に話題になった『奇跡の女剣士』ね…」
フェンシングの世界選手権で、日本人で初めて準優勝という快挙を成し遂げた女性剣士。
日本は剣道の隆盛に押されてフェンシングは余り盛んでないので、優れた選手が現れ難く。
男女共世界のベスト8に入れてなかったので。整った顔立ちや見事なスタイルも注目を浴
び。
警備会社に広告塔を兼ねて高額年俸で雇われて話題になり。虐めの撲滅を訴えて全国を
講演に回って話題になり。最後はこの夏突如、講演も仕事も雑誌取材も放り出し、豪邸に
引きこもった侭説明もなく引退して話題になり。確か年齢は、真弓さんより2つ上だった
筈だ。競技者としてはまだ引退の年齢ではないけど。
「野試合で、剣の勝負に敗れ引退したって噂……ゆめいさんが叔父さんの本の出版記念パ
ーティで羽様を少し外した、翌月位だよね」
和泉さんはわたしの護身の技を知って以降、女性の格闘家や武道家の情報に目を通す様
に。山田里奈も名前が売れ始めた頃から着目して。わたしと較べどの位強いか問われ答に
窮した。彼女の技量はテレビで少し見た程でしかなく、言葉での説明も困難なので。少年
マンガの様に戦闘力を数字や色で示せれば楽なのだけど。
「もしや、山田里奈の突然の引退にゆめいさんが関係していたとか。山田里奈を野試合で
破った女剣士って、ゆめいさんだったとか」
「相手は女剣士って話しになっているの?」
夏休み中盤、ワイドショーは山田里奈の突然の引退に群がっていたけど。野試合で敗れ
たとの噂はテレビでは流されず、一部雑誌で見ただけで。相手が女性と言う記事をわたし
は確認できてない。間接に関りはあったけど。
「そこはあたしの全くの憶測……だけどね」
幾ら強くても女だよ。男に野試合や実戦で敗れても、仕方ないし当然でしょ。神原先輩
の様に勝てば凄いと思うけど。それなりにプライドのある女剣士が、塞ぎ込んで引退する
程のショックなら、女に敗れた場合かなって。
和泉さんは、時々超能力並に読みが鋭い。
「世界準優勝の女剣士を破ったのに、相手の名前が出ないでしょ。武道の世界で名の通っ
た強者なら、名前が出ていておかしくないし。奇跡の女剣士もそこ迄ショックはないと思
う。世間的に全く無名で、素人だと思っていた女の子に倒されれば、ショックかもねって
…」
特にゆめいさんは全く強そうに見えないし。
誇り高い女剣士が敗れればショックは甚大。
「そう言えば、ゆめいさんが羽様に帰ってから半月も経たない夏休み前半、真弓おばさん
も実家の手伝いって首都圏に行っていたね」
ゆめいさんが師と仰ぎ、未だに全く歯が立たない程強い女性。実家は剣道の道場だっけ。
『真弓さんに話題を飛び火させては拙い…』
わたしと山田里奈に直接の接点はないけど。
真弓さんとは直接の接点が夏にあったのだ。
「わたしは山田里奈と直接の面識はないけど、フェンシングで彼女に勝つのは難しそう
ね」
「フェンシングの女性世界準優勝に、相手の土俵で戦って勝つのが簡単な筈ないでしょう。
っていうか今ゆめいさん、難しいとは言ったけど、勝てないとか無理とは言わなかったね。
それって勝ち目あるってコト? それもフェンシング限定で難しいって言った? フェン
シングでなければ、勝つのもそう難しくないって言い方にも聞えたけど」「そうかしら」
和泉さんの興味を巧く真弓さんから離して。
話題を再び菅原さんの百合小説に移行させ。
サキは話しの中でも、ヒロインのメイに対する引き立て役で。颯爽と登場しケイの心を
惹くけど、メイへの疑念を囁き2人を引き離そうと。骸を倒した勢いで、メイをさっさと
成仏させる為に悪霊を討つと、ケイと山へ行くけど。敵の数に怯えてケイを見捨てて逃げ。
「その辺は、予定調和で読めていたけどね」
和泉さんはその次の段に納得いかない様で。
「ケイがメイの霊を平手打ちするシーン?」
「そう。あれ、ありえない! メイはケイを守る為に、自分も霊木に宿って悪霊を繋ぎ止
めているのに。それで一緒にいられないから寂しい、どうしてくれるのって、ケイがメイ
を叩くなんて。戦力にならない癖に戦っている人を非難して。メイをゆめいさんだと思っ
て読んでいたから、あたし本当腹が立って」
『自惚れるのもいい加減にして』なんて台詞、守って貰えたケイのどこから出てくる物や
ら。
和泉さんの真の憤りは、菅原さんが羽藤柚明を想定しつつ、違う物を描写した事の様で。
「メイの言い返しもゆめいさんには絶対ない。『ならどうすれば良いって言うのよ! わ
たしにこれ以上の事は出来ないの。どうにもならないわよ!』なんて自分の苛立ち任せに
大声に大声返す様な事を、ゆめいさんはしない。あなたは言われる相手を考えて語りかけ
る」
和泉さん、少々わたしの評価が高すぎです。
その様に、日々努めているのは事実だけど。
「『ケイの為なら死んでも良い』って台詞も。ゆめいさん絶対そんな事言わないでし
ょ?」
「……そうね。『死んでも良い』なんて嫌々死に赴く様な台詞を、たいせつな人に残した
くないわね。責任を感じさせてしまいそう」
わたしなら。一度足を止め、一緒に足の止まった和泉さんと正対し。両手を両手で握っ
て胸の前に持ち上げて、瞳を間近に正視して。
「生きるも死ぬも、喜んであなたの為に…」
って感じかしら? 死が前提ではないけど、この生命を使い切る事が必須なら。己の生
命を惜しんだ結果、愛しい人を守り通せなくなったのでは。何の為に生きているか分らな
い。
「わたしは常に全身全霊で……和泉さん?」
突然和泉さんはわたしの言葉を唇で塞いで。
閉店間際の商店街は人気も少なかったけど。
強く抱き締めてくるその双眸には涙が滲み。
「ありがとう。あなたはいつもあたしの想像の斜め上で。拾に対し百ではなくて千を返す。
嬉しかった。あたしは柚明の一番じゃないけど、柚明の甘さ優しさを深く強く感じ取れ
たから。その一番が誰に向くのでも良い。あなたは3番以下のその他大勢にも、それに近
しい程の想いを与えてくれる。今だって…」
唇を離しても和泉さんはわたしに頬近く。
「ユッキーは百合をいっぱい知っているけど、羽藤柚明を識ってない。……志保ちゃんの
台詞だけどね。柚明を碌に知らないで、噂だけ聞いて幾ら百合小説を描いても、柚明が女
の子に寄せる想いを、半分も描ける筈がないよ。
メイを柚明と思って読んで、力んだあたしがバカだった。メイはメイで柚明じゃないし、
ケイはケイであたしでも桂ちゃんでもない」
あー気分が楽になった。心が軽くなった。
和泉さんは両手を空に上げて伸びをして。
「ゆめいさんが平静でいられた気分が分った。例え自分を描いていると分っても、まるっ
きり異なった代物を見せられたら、本気で怒る気しなくなるものね。あたしが子供でし
た」
もしかしてこの長話に付き合ってくれたのって。あたしが気付く迄待ってくれていた?
わたしはその問に答は返さず見つめ返し。
濃いブラウンのまっすぐな髪に軽く触れ。
「堪っている想いがあるなら、時と場を選んで吐き出させるのも手だと思って。今のあな
たの憤りは、わたしにこそ受け止められる」
冷静になれたのも、自身で蟠りに決着を付けられたのも、わたしではなくあなたの力よ。
わたしが何かしなくても、金田和泉は賢く優しい女の子。羽藤柚明のたいせつな愛しい人。
和泉さんは夕日より少し赤く頬を染めて。
普段は髪もショートで気性も爽やかで、中性的な印象だけど。頬を染め目線を逸らすと、
女の子らしさが愛おしい。胸が余り大きくないのはわたしも同じ。深い瞳はキラキラ瞬き。
「ゆめいさんに褒めて貰うと、本当にそうかも知れないって想えてくるから不思議。人の
心から綺麗な部分や純粋な処を引き出す様な。そうじゃなくてもそうなろうと想えてく
る」
ゆめいさんと識り合えて本当に良かった。
惚れ込んだ事も深く心通わせ合えた事も。
「そう言って貰えると嬉しいわ。有り難う」
街灯が瞬いて店も殆ど閉まり終った夕闇を。
わたし達は再びバス待合所に向け歩み始め。
「じゃあ今度はあたしの番ね。今回は、元々あたしがあなたの悩みを訊く積りだった…」
友達関係はお互いなの。一方通行はないの。
あたしもあなたの想いに、想いを返したい。
真正面から確かな意志で問いかけられては。
羽藤柚明にごまかしや無視の選択はなくて。
わたしは小さく頷いて己の蟠りを話し出す。
それは近日手紙が来た詩織さんの事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
和泉さんはわたしが悩みを繕って平静でいると察し。菅原さんの小説や大野教諭に関る
噂が原因かと推し量り。わたしが先に彼女の憤りに耳を傾けたから、後回しになったけど。
「詩織さん、容態良くないの?」「うん…」
詩織さんの容態も心配だったけど。その心の容態も気懸りだったけど。手紙で近況が窺
い知れただけに、今わたしの心に兆す迷いは。
【写真送って下さい。ゆめいさんの最近の姿を見たい。でもわたしの写真は暫く勘弁して
……薬の副作用とかで、現状見た目も可愛いと言い難いので。我が侭だけど、ゆめいさん
には転校前のイメージを抱いていて欲しい】
詩織さんが遠くに移り住んで4年が経った。その身に宿した遺伝的な難病は、二十歳迄
の生存率が半分に満たぬ上に治療法も未確立で。回復の見込も悪化を止める手段もなく。
分析と研究を重ねて、悪化の加速を食い止めるのが精一杯で。生命の砂時計は着実に時を
刻む。
病状悪化に伴って気力体力の衰えも進んで。
手紙も去年から手書きではなくワープロに。
手書きが難しい程に握力が落ちて来ている。
それを知られたくない気丈さも、わたしを心配させたくない配慮も、想いが届かなくな
るかもとの怖れも。感応や関知が深化したわたしは、全て読み取れたけど。想いは確かに
届いているよと、書き綴って励ましたけど…。
昨夏階の違う病室に、1つ年下の男の子が長期入院で入ってきて、心に留めていた様で。
田中先生が、愛は体にも心にも良く効く薬だと言っていたから。わたしも手紙で丁寧に愛
を送り続けたけど。詩織さんの想いを叶う限り後押ししたけど。逢いに行く事は出来ずに。
気力体力も衰え、歩行も覚束なくなり始めていた詩織さんは。身近に好意を抱いた人が、
同じ様な病と闘う『同志』が出来た事により。暫く状況持ち直し、或いは悪化が食い止め
られていた様だけど……先日亡くなったらしい。
【急に体調悪化して、お別れも励ましも直に言えない内に、亡くなって。人の生命って儚
いです。つい何日か前まで、少し苦しそうでも不自由そうでも、言葉を返してくれたのに。
微笑み返してくれたのに。もう二度とわたしの声も届かないし、答も返してもらえなく】
わたしもああなっちゃうのかな。他の人に哀しみや喪失感を与えて終ってしまうのかな。
声も交わせなくなって、繋りも切れて。どこか解らない処に1人で逝って……。怖いです。
今が苦しいより先が見通せない事が。ううん、視えてきてしまう事が、本当に怖い、怖い
…。
詩織さんの手紙には。崩れゆく気力体力を立て直そうとの悪戦苦闘が、助けを求めたい
けど求められない苦衷が滲み。想いを寄せた人の死に受けた悲嘆や喪失感以上に。似た境
遇の同志の死は、詩織さんには自身の先行きを暗示して見え、微かな希望を断つ様に視え。
解れ行く蜘蛛の糸を掴もうと。わたしの返信を生きる力に、最後の救いにしようと必死で。
手を握って励ましたかった。直に語りかけ、直に声を聞いて頷き。瞳を合わせ、胸に抱
き、頬擦り合わせ。唇寄せて肌身繋げ、己の全てでその悲嘆と絶望を、受け止め支えたか
った。
わたしはそうすべきだったのかも、或いは。
そうせねば、ならなかったのかも知れない。
『わたしの憧れた人、わたしの恋した人、わたしの心に踏み込んでくれた人、そこ迄大事
に想ってくれた初めての人、わたしのたいせつなひと。愛しています、羽藤柚明さん!』
そこ迄強く想ってくれたたいせつな人を。
そこ迄強く想いを寄せたたいせつな人を。
『わたしも、確かにあなたを愛しているわ』
直に逢って励ます事も慰める事も叶わない。
迷いと同時にそれはわたしの慚愧と悔恨か。
遠方と言っても地球の裏側の異国へ行った杏子ちゃんとは違う。その気になれば、逢い
に行く事自体は、数日学校を休めば叶うけど。
【暗いお話ししかできなくて、ごめんなさい。もう少し前向きな、希望のあるお話しした
いけど、今はとても出来なくて……ゆめいさん、写真を送って下さい。写真を送って下さ
い】
「逢いたいとは、書いて来ていないんだ…」
和泉さんも『写真を送って下さい』の繰り返しに『逢いたい』『逢いに来て』ではない
意図を察し、複雑そうな表情を見せた。わたしに想いを寄せてくれる競合相手にも関らず、
この相談に和泉さんは素直に真剣に乗ってくれて。詩織さんの事柄を相談できる羽様小学
校の出身者はもう、和泉さんしか残ってない。
「ゆめいさんに縋りたい想いより、ゆめいさんに残した綺麗なイメージを、壊したくない。
恋する女の子の最後のプライド?」「うん」
平田詩織はその現状を羽藤柚明に見られる事を望んでない。逢いたい想いの強さと同じ
かそれ以上に、詩織さんはわたしに絶対姿を見られたくない。その拒絶を乗り越えてでも、
心を注ぐ為に赴くべきなのかも知れないけど。
2年前わたしは詩織さんからの手紙を手に。
その近況を知りたくて何気なく視てしまい。
『視るべきでは、ありませんでした。幾ら逢えなくても、寂しくても。この力は己の為に
使う物ではないと、思い知らされました…』
各種の薬の併用で酷使された肝機能・腎機能が低下し、顔や全身にむくみが出る。汗の
滴る真夏でも、自力で入浴できない詩織さんの現状は、視てはいけなかった。彼女はわた
しの写真を欲しても、自身の写真は送ってこなかった。見せられる状態ならわたしが望む
迄もなく、彼女が送ってきたに違いないのだ。
【写真ありがとう。どんどん綺麗になっていくゆめいさんの姿に、羨ましさと嬉しさが百
%ずつです。胸、少し大きくなっていますね。わたしももうすぐ、そうなれると思いま
す】
必死に隠して元気を装い、わたしに手紙を出す姿が視えた。衰え行く己に苛立ち、閉ざ
され行く未来に怯え、尚その末に向き合い続けねばならない姿が。わたしは役に立てない。
贄の癒しは、傷や疲労に効いても病や老化には効かない。高度に紡いだ力なら、一部の
病や対症療法位なら叶うけど。結局わたしは平さんを、愛しい真沙美さんの父を救えなか
った。たいせつな人だったのに、己の父に近しい人だったのに。詩織さんには疲れを拭う
程の癒しも、病原を賦活させ病を悪化させる。この手に詩織さんを助け救う事は、叶わな
い。
正樹さんの時と状況は似ていた。わたしは詩織さんの現状が視えている。彼女の真意も
分っている。そして彼女はわたしに悟られている事実を知らず、知られてないとの前提で、
わたしにだけは秘したいと。そこで悟れていると伝える事は、彼女の気力を折る事に……。
その上でわたしは彼女に日々寄り添う事が叶わない。わたしの生活の基盤は羽様のお屋
敷にあり、一番たいせつな愛しい白花ちゃん桂ちゃんに、寄り添い続けなければならない。
詩織さんの気力を折った末に、その日々に心細さ寂しさを残すのは、余りに無情な行いだ。
そしてそれ以上にわたしの心に兆す怯えは。
己が愛しい人に禍を呼び招く事への怖れで。
不確かな禍の予覚は、大野教諭を退けても、八木さんや不二夏美との関りを経ても、拭
い切れず燻って。一体何が誰とどの様に絡むのか、感応の力でも未だ全く見通せてないけ
ど。
羽様の家族に、一番たいせつな桂ちゃん白花ちゃんに禍や害が及ぶなら。4年前にはお
父さんとお母さんの仇の鬼が、わたしを求めて羽様を訪れ、愛しい双子を脅かした。わた
しが不在だったなら、鬼は幼子を喰らったかも知れぬ。羽藤柚明は簡単に羽様を外せない。
『詩織さん、ごめんなさい……わたしは、白花ちゃんを桂ちゃんを抛って、あなたの助け
に行く事は出来ない……たいせつな人だけど、心底愛しい人だけど。一番にも二番にも想
う事は叶わない。こんなに強く綺麗な想いを寄せて貰えても、等しい想いさえも返せな
い』
そしてわたしの最大の不安は。その危難が、羽藤の家族でも愛しい双子でもなく、羽藤
柚明に纏わる禍である怖れで。病に悩み苦しむ詩織さんへ、己が禍を運び込む怖れの方で
…。
「近しく親しくしてくれた愛しい和泉さんに、塩原先輩の禍を及ぼした中学1年の時の様
に、わたしが禍を呼ぶのなら」「ゆめいさん…」
大野教諭の件は羽藤柚明を狙った禍だった。昨年初夏に大島健吾さんと闘ったのも。昨
年初頭可南子ちゃんの中学校で男女拾四人と対峙したのも。わたしが首を挟めた末の展開
で。
禍は、わたしが経観塚の外に出て誰かに何かに関る事で生じるのかも。不二夏美の件も、
羽藤柚明の力量で首を挟んだ末にあの展開を経た。正樹さんの随伴が真弓さんだったなら、
同じ鬼が相手でも結果は全く違っていた筈だ。
人の縁は何がどう繋るか解らない。今感じている幾つかの禍が、輪郭でも視えない間は。
羽藤柚明が平田詩織に禍を及ぼす怖れが残る。己の想いの侭に動いてはいけない局面だっ
た。
この判断で、わたしが愛しい人に与える心細さ寂しさは、己が負って償う他に術がない。
仮に償いきれぬなら、終生己が負い続けねば。幾ら負っても償えなくば意味ないと分って
も。
羽藤柚明は平田詩織に、逢いに行けない。
改めてそれを確認し、迷いを内に収納し。
現実に、目の前の愛しい人に向き直って。
「ごめんなさい。答の出せない迷いを聞かせてしまって。一番良くない愚痴の語り方ね」
でも言葉にして出す事で、少しは事情も整理できて、楽になった様な気が。和泉さんの
わたしへの心遣いを感じられて。和泉さんも詩織さんを大事に想ってくれていると分って。
「わたしが嬉しかった。有り難う和泉さん」
「ううん……あたしこそごめんね。逆にゆめいさんに、気遣わせた感じになって。あたし
のつまんない憤りにも付き合わせて。詩織さんの事も、少し分け入りすぎたかも……でも、
余り役立てなかったけど、少しでもゆめいさんに喜んで貰えて、元気の素になれたなら」
あたし詩織さんに柚明を譲る気はないけど。柚明が詩織さんに抱く想いも、詩織さんが
柚明に抱く想いも応援する。それであたしの想いが届かなかったら、少しじゃなく悔しく
寂しいけど。それを妨げたり見て見ぬ振りして、柚明に誠意を尽くせなかったって悔いる
方が、情けなく辛いから。仮にそれで柚明の一番になれても、嘘ついて愛を盗んだ様で喜
べない。
「……だから、詩織さんにあなたの叶う限りの愛を注いであげて、柚明」「和泉さん…」
和泉さんが詩織さんに抱くわたしの想いを気遣い、肌身添わせる事を憚っていると分る
ので。わたしからその細い肩を軽く抱き包み。詩織さんに抱くわたしの愛も本物である様
に、和泉さんに抱くわたしの愛も本物だよと伝え。
わたしは女の子同士で恋し愛し合う以上に。複数の女の子に同時に恋や愛を抱き惑わせ
る、ふしだら極まる魔女なのか。それともこの想いは女の子が女の子に抱く恋や愛と違う
のか。この時は理性より正邪より行動を優先させた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
双方多少お話ししつつ歩む積りでいたので。
学校出立は早かったけど既に周囲は薄暗く。
見上げれば街灯瞬き商店街も殆ど店を閉め。
歩み出そうとした時に、わたしが声を上げたのは、やや唐突に感じられたかも知れない。
「和泉さん……先にバス乗っていて」「?」
忘れ物したみたい。取りに学校戻らなきゃ。
和泉さんの瞳に、僅かに訝しむ光が見えた。
「今から取りに戻らないと、拙い物なの?」
「うん。明日迄の宿題で、何とかしないと」
和泉さんは一瞬考え込んでから口を開き。
「付き合うよ。先生に一緒に帰りなさいって、言われているし」「大丈夫、バスの出発迄
未だ少し時間あるから、走れば間に合うかも」
実際この位置とタイミングでは、鍛えられたわたしの足でも、間に合うまい。和泉さん
も同じ推察に至った様なので、わたしは更に、
「間に合わなかったらバスに乗って帰っていて良いよ。わたしは歩きでも問題ないから」
わたしは毎日登校の方は徒歩で為している。
バスで帰っているのは時間を惜しむからで。
田舎道は不審者も出ない程人通りが少ない。
冬の夕刻は風も冷たいけどわたしは大丈夫。
「うん……でも、ゆめいさん」「今日はとても嬉しかった。心が温まったわ、有り難う」
微かな引っ掛りに、訝しげな和泉さんの。
両の手を軽く握り、間近に瞳を覗き込み。
その唇に唇を重ね、感応の力をやや強く流し。和泉さんの疑念を、驚きと共に流し去り。
バスで家に帰る様に暗示を与える。この口づけは、愛を繋ぐ為ではなく。それを装って力
を流し込む為に。それが心底申し訳ないけど。
『ごめんなさい。あなたを今ここに留まらせる訳に行かないの……【力】を行使しても』
謝って済む様な事ではないと承知の上で。
愛情も信頼も裏切る類の所作だと分って。
「じゃあ、また明日、ゆめいさん」「うん」
和泉さんの心身の活動状態を少し落して。
寝ぼけたに近い状態に導いて帰宅させる。
彼女はわたしが『忘れ物を取りに戻る』と言った事も憶えている。暫く経てばわたしが
忘れ物をしたと述べた『違和感』も思い出す。なぜかわたしの促しに従って1人バスに乗
り、帰宅してしまったと、帰着してから振り返る。
大野教諭に与えた様な、強い感応は及ぼさない。強いインパクトはその瞬間のみならず、
後々迄心の形に在り方に影響を残しかねない。流し込む想いが強すぎれば、相手の意志を
踏み躙り従わせる事にも。わたしは奴隷や操り人形が欲しい訳ではないから。こういう使
い方は好まないし、その危険も分っているけど。
『今だけわたしに、愛しい人を助けさせて』
和泉さんがやや遅い歩みで薄闇の中へ去る。
わたしはその背を守り庇う意識で振り返り。
店が全て閉じて街灯のみが照す街路に佇み。
「お待たせしました。わたしに御用ですか」
微かな嘲笑の気配と共に、誰かが現れたと思った瞬間。音もなく何かが目前に飛来した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……っ!」『危なかった、本気で危害を』
一直線に飛来した、何かをわたしは右手で払い墜とす。それが一体何か分らない時点で、
素手で触る事は危険だったけど。躱すと後背を歩む和泉さんに当たりかねない投擲だった。
払った手は、血が滲む程度の掠り傷だけど。
右掌の感触は痛みに加え、固く重い金属の。
「飛び苦内(くない)……忍者の武器…?」
本物の刃は刺されば肉も抉れる。悪戯や冗談で使える物ではない。彼らの敵意は本物だ。
和泉さんは気付かずに後背を歩み去っている。無事に離れ行く事を祈りつつ、次の飛来に
警戒を示し。今は和泉さんをわたしから引き離すのが精一杯で、真弓さん達の助けは呼べ
ず。
和泉さんには頼めなかった。巻き込めば塩原先輩の時の過ちを繰り返す。彼らは口封じ
も躊躇しない。頼む所作を見せた瞬間、和泉さんも標的にされる。この局面は独りで受け
て凌ぐ他にない。警察や学校や付近の人達を頼っては拙いと言う事は、何となく悟れた…。
「良く防げたわね。辛うじてって処だけど」
低く良く透る女声と共に数人の影が現れ。
人気の失せた商店街で闘志を立ち上らせ。
間合は弐拾メートル程で、人数は6人か。
全て初対面の、誰かも分らぬ人達だけど。
これ程近い間合迄、ぎりぎり直前に至る迄、彼らの所在も悟れなかった。彼らは関知も
感応も躱したのか。肌身を合わせた事ない人は、声を交わした事ない人は、関りが薄いの
で所在も動きも掴み難いけど。わたしに関ると決した時点で脳裏に浮ぶ事が多いのに。そ
して前列の女性を含む3人が纏う狩衣や、後列の男性3人の剣道着や、腰に下げた刀はま
さか。
「あなた達は、鬼切部なの?」「その単語を口にした時点で、お前も『こっち側』だな」
感情を感じさせない、低い男声の答が返る。
わたしから見て前列左の、長身な男性の影。
身長も百九十センチを超える精悍な肉体は。
百六十センチ弱のわたしには仰ぎ見る様で。
「覚悟なさい。人の世に仇為す悪鬼よ…!」
前列真ん中には、長身な女性のシルエット。
百七十五センチ程の均整取れた美しい肢体。
抑えても良く透る、艶やかな声音は平静で。
闘志や敵意を制御する強い意志を感じさせ。
「鬼の生を後悔させてやるぜぇ、今からな」
前列右のやや背の低い男性も、身長は百七十センチ近い。筋肉質な手足が街灯に照され。
この3人、鬼切部でも並々ならぬ強者揃いだ。真弓さんや明良さんには、流石に遠く及ば
ないけど。後列の3人は中年男性だけど、気配が前列の3人程鋭くない。援護要員の兵卒
か。
何れも本気の闘志を身に纏い。店の全て閉まり終った人気のない商店街の薄闇に佇んで。
普段なら散歩する人が少しはいてもおかしくないのに、今日はなぜか人通りも全くなくて。
風がやや強くなって来ていた。閑散とした商店街も看板や草木がざわめき。店の奥に人
が住んでいても、大声を響かせねば危難を報せられない。それに誰が顔を覗かせても、巻
き込むだけで。鬼切部は気絶させてでも目的や意志を押し通す。容易に助けは求められぬ。
「わたしは鬼じゃない。戦う積りもないわ。
話しなら受けて応えます。敵意はないの」
濃厚に感じていた禍はこれだと、わたしも既に悟れていた。敵意を宿した彼らの登場が、
この対峙がわたしの中で符合していた。背景や事情は未だ読み取れないけど、仲良くでき
そうに思えない。でも、関知の像が未来の全てではない事もある。あると信じたい。今迄
外れた事は僅少だったけど。わたしは己に為せる事を為す。敵意を返さなければ彼らとて。
何よりわたしに鬼切部に討たれる理由がない。これはきっと何かの行き違いが招いた結果
だ。
和泉さんはバス待合所に着いた様だ。強く流し込んだ感応がなくても、肌身を添わせた
人は、数キロ範囲で気配や動きを感じ取れる。ややぼうっと心寛ぎつつ、バスの到着を待
ち。わたしもその出発を心待ちにしつつ、己の警戒姿勢を解いて、彼らの戦意も解こうと
試み。
「今の経観塚に鬼の禍はありません。鬼切部の出動は何かの間違いです……刃を収めて」
「情報通り簡単には自白せぬか。どうする」
長身な男性はわたしの言葉には答を返さず。
わたしと話す積りはないと女性に問を向け。
彼らの筆頭者は正面の涼やかな女性らしい。
彼女は毅然と強気な男言葉で周囲を睥睨し。
「構わん。我らは我らの流儀で鬼を処断するのみ。生命の危機に晒されれば正体を現さぬ
訳に行くまい。つまり常と同じで良い。刃で追い詰め叩き伏せ、人の仮面を剥ぎ取れば」
わたしの言葉に応えるのではなく。告げるべき事を告げるだけと、刀を鞘から抜き放ち。
風に雲が千切られ届く月光の元、刀はキラリと輝いて。照し出された容貌は整って若く美
しく。二十歳過ぎ、真弓さんより少し年下か。長身で均整取れたスタイルに、ストレート
の黒髪長く艶やかで。その気配も視線も凛然と。
「人に仇為す憎き鬼よ。娘の姿を装っても無駄ぞ。その命脈は我らが断つ。我は奥羽を鎮
め司る鬼切部相馬党・五柱神が1人、朱雀」
次いで長身な男性が刃を抜いて煌めかせ。
「同じく鬼切部相馬党・奥州拾七万騎が第七席、相馬顕胤(あきたね)」「同じく鬼切部
相馬党・奥州拾七万騎が第八席、南郷宗正」
背の低い男性も刃を抜き放ち。わたしは事もあろうに鬼切部に討伐されようとしていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
相馬党は、東北地方を所管する鬼切部だと、真弓さんから聞いていた。経観塚は東北地
方なので、羽藤に関る案件は本来相馬党管轄だけど。サクヤさん絡みで五拾年前から、千
羽党が関って今に至り。千羽党は元々関東が管轄と言うより、東国の鬼切部の総元締め的
立場なので。贄の血や観月の民等の重要案件には、直接関り続けるべきとの判断だった様
で。
真弓さんの話しでは、渡辺党・千羽党・それに九州を所管する菊池党が鬼切部の三強で。
相馬党はそれに次ぐ精強さと規模を誇ると…。
「待って……わたしは本当に鬼じゃないの」
逃げる積りもないから。嫌疑を晴らす為に、お話しに付き合いますから。力づくじゃな
くてもあなた達の求めを満たしますから。いきなり戦うのは止めて。わたしは本当に敵で
は。
「覚悟して貰おう!」「とっとと狩られな」
でも全てを語る前に彼らは動き出していて。
この敵意を受け止めては本当に身が危うい。
中央で刀を構える朱雀さんの指示で、援護の男性3人が。懐から苦内を数本取り出して、
前列の隙間からわたしに向けて投げ。躱す動きを前列3人で、追って囲んで切り倒す気か。
『っ……飛び苦内は、動きを見極め難い…』
手裏剣やブーメランと違って苦内は棒だから。標的からは一つの点にしか見えず、遠近
感を測り難い。しかも彼らは本職の使い手で、太い物と細い物を同時に用い、点の大小を
見極めようとする者・出来る者を攪乱に掛り…。
人数と本数を活かし、躱して動く位置も予測して苦内を放つ。玄人でも初撃の回避に気
を取られれば、躱し終えた時点で餌食となる。致命傷は狙わず、それは前列の刀武者に任
せ。並の達人でも、この集中攻撃は躱し難いけど。
「その位は躱してくれないと、面白くねぇ」
右から南郷さんが刃を真横に振り抜いて。
斜め左に退いて躱すけど、躱した地点に。
「貰った!」「っ……!」「尚も躱した?」
左に展開していた相馬さんの刃も躱すけど。
冬用制服の肩口を掠められて布を切られた。
「でもこれで終り!」「切られる訳には…」
止めと正面から刃を振り下ろす朱雀さんの。
その動きより速くわたしは右をすり抜けて。
「なっ……私の刀を、前進して躱した…?」
後退し続ければ彼らは前進して狩り立てるので、止まる必要が生じない。簡単に間合を
とって語りかける事も叶わない。だからむしろ彼女達の刃をかい潜り、その後背に出て彼
らの動きを一度止め、距離を置いて話そうと。
攻撃はしなかった。すれ違いざまに掌打を放つ事も、男性2人の刃を躱す時に、踏み込
んで一撃与える事も。無理ではなかったけど。害する意図がないと分って貰いたかったか
ら。
護身の技はたいせつな人や己を守る為の最低限の実力行使で。報復や反撃の技ではない。
力で迫る相手でも力で黙らせるのは好まない。やむを得ず力で退けてしまった事はあるけ
ど。彼らが人の世を守る使命に生きる鬼切部なら。何かの誤解でこうなったなら話しを尽
くせば。
「お願い、わたしの話しを聞いて」「……」
でも剣士達を躱せても、彼らの後背には援護要員の男性達がいて。剣士程強くないけど、
武器と実戦の覚悟を持つ者の攻撃は侮れない。彼らは直接切り込んで来ず、巧みに散開し
てわたしを牽制し、剣士達が追い縋る迄の少しの時を稼ごうと。時折苦内を投げつけて来
て。
強くなければ強くないなりに、力量に合った戦い方をする。倒されず戦意を保ち続ける
事が、相手に脅威を残し精神的な圧ともなる。そしてその牽制が時を稼いで主力を呼び寄
せ。
「今度こそ」「覚悟しろっ」「その首貰う」
息の合った苦内が散発的に飛来するさなか。
精強な剣士達の攻撃を躱すのは楽ではない。
いっそ反撃を返せば状況を打開できるけど。
そうすれば本当に彼らを敵に回してしまう。
「即死させず、生かして捕らえるようにとの指示だが」「こう動き回られては面倒だな」
男性剣士の会話に朱雀さんの鋭い声が飛ぶ。
「五体満足でなくても良いとの指示だ。腕や足を切り落して、動けなく追い込めば良い」
女性からの叱責はやはり好ましくないのか。
男性2人の無言に微かな不満を感じ取れた。
彼らには闘志はあっても殺気は薄い。女の子を傷つけるのに躊躇はないけど、致命傷は
狙ってなく。彼らにも彼らの事情がある様で。歴戦の戦士は実戦では、味方に感じた苛立
ちさえも敵に振り向け、勝利と生命を掴み取る。そこに付け入る隙を見いだすよりもわた
しは。
「お願い、少しだけ刃を止めて。話しを…」
わたしは贄の血を持っていて、力を紡ぐ事も出来るけど。それで人を害しようとは思わ
ないし、今迄だって。鬼にたいせつな人や自分自身を脅かされて、抗った事はあったけど。
「あなた達の敵でもないし、人にも害は!」
飛来する苦内を躱しつつ、南郷さんと相馬さんの刃を避ける。盾も鎧も刃もないので受
け止めて防ぐ事が出来ず、動きは躱す一方で。そんなわたしに朱雀さんは漸く言葉を向け
て。
「白々しいのね……お前は化外の力を使って、人を1人再起不能に導いた前科持ちなの
に」
でもその言葉の刃は今迄のどの真剣よりも。
胸に心に突き刺さってこの意志を折ろうと。
「半年前この商店街で夜遅く、男性教諭を魅惑し『力』でその心を蹂躙して、廃人にした。
お前の行いよ。若杉も相馬も何の嫌疑もない小娘を、鬼と疑う程暇ではない」「……っ」
飛び苦内が髪を戦がせ、服を掠める。自身の回避が鈍っていた。彼女の言葉は確かにわ
たしが半年前に為した事だった……。相馬さんと南郷さんの刃が、肌を掠めて出血を招き。
それでも深傷は避けるけど、回避で体の姿勢が崩れ。飛び苦内は何とか躱せたけど、でも。
「危うくなれば可憐な少女ですと逃れる気?
欲する侭に人に力を及ぼし、貪り食って。
化外の力で為す非道を、警察は裁けないけど、世間も疑わないけど。そう言う脅威を討
ち果たすのが、我ら鬼切部の役目。覚悟!」
好き放題に男や女の心を惑わせ。力で操り従わせ、恋い焦がれさせ。自在で愉しかった
でしょうね。害虫は一匹見つければ三百匹が潜むと言うけど、お前は既に何人喰らったか。
「さっきも同じ学校の友に鬼の力を及ぼして、貪り食おうとして。視えたのよ。罪もない
女の子に化外の力を注ぎ、意志を塗り替え従わせる様が。女の子と唇を重ねる淫らな様
が」
朱雀さんはその左目を眇めて青く輝かせ。
でもそれは単純な鬼切部の見鬼ではなく。
相馬さんや南郷さんの眇めた眼とも違う。
感じさせられたのは感応の『力』の所在。
彼女は剣士でありつつ高度な感応使いで。
だからわたしの贄の血の感応も悟れると。
「それは違う! ……和泉さんはわたしのたいせつな人。貪り食うなんて、あり得ない」
「化外の力を及ぼして操った上で何を言う」
「俺達がいなければあの娘も喰らった癖に」
相馬さんも南郷さんも刃を振りつつ言葉を放ち。それがわたしにこれ程効果を持つとは、
己自身が驚きだった。わたしが贄の血の感応の行使を、これ程後ろめたく感じていたとは。
「わたしが『力』を及ぼして、和泉さんの意志を弱めたのは、早くここから去らせる為で。
あなた達が敵意を抱いて迫って来たからで」
目前の相手の動きに、注意しなければならないのに。感情に心の重心が引きずられ行く。
注意力を保てず、平常心が崩れ掛り。包囲する彼らの次の挙動を、見て読むのが難しく…。
「年頃の娘は女鬼も好んで喰らう旨さとか」
「友と信じて寄り添う娘を犯すとは鬼畜な」
「女が女の唇を奪う等常の人の所作に非ず」
「唇だけでなく下の穴からも精気を吸うか」
男性剣士が、その効果を知って言葉を続けると。援護の男性達も続々とそれに唱和して。
「ほうそれは」「何と奇態な」「穢らわし」
わたしの心を掻き乱す気だ。人外の膂力や技能を持つ鬼を倒すには、力でぶつかるのみ
ならず、精神的に苛んで気力を削ぐ事も重要だけど。まさかわたしがそれを為されるとは。
左右の上腕を刃に掠められたけど傷は浅く。最初に飛び苦内を弾いた右手の甲も含め、
失血も少ない。でも問題は、わたしの心が崩れかけている事で。例え心を立て直してもう
少し粘っても、彼らに話しに応じる意志はなく。
心が揺らぎ始めた時だった。朱雀さんの、
「そうでないと言うなら、その娘をここに呼んで問うてみようではないか。お前の友を」
その言葉がわたしの平常心を突き崩した。
彼らが何を意図しているかは問も不要だ。
人質でわたしの動きを封じようと。鬼切部は一般の人に知られる事を著しく嫌う。時に
口封じしても存在を隠す。ここに和泉さんを招いた時点で、彼女の未来が鎖されかねない。
わたしの禍に、愛しい人を巻き込んでしまう。
それを避ける為の『力』の行使だったのに。
その為に自分独り残って彼らに対したのに。
「行けっ」「「はは!」」「させないっ…」
朱雀さんの指示で、援護要員の2人がバス停留所に向け駆け出して。止めようと進み出
すわたしの前には、南郷さんが立ち塞がって。
「訊かれて都合悪いのは、後ろめたいかよ」
わたしに隙を見て、連携を外れ勝負に来た。
危うい。全力で対処せねば本当に切られる。
でもここで彼に対峙していては和泉さんが。
「……邪魔、しないでっ……!」「ぐあぁ」
わたしも思わず加減を忘れ、彼の刀を握る手首ごと、左足で蹴り飛ばす。彼が痛みに顔
を顰めつつ、傷めた右手を左手で庇って半歩退き。刀が闇に消える中、先行2人を再度追
おうと馳せるけど。相馬さんが更に刃を振るって迫り来て。これでは2人に追い縋れない。
「待てぃ。貴様の相手は俺だぁ」「っ…!」
わたしの技量では、愛しい人を守れない。
必死に相馬さんの刃を躱し、再加速しようとするけど、飛び苦内に足止めされ。そこへ
朱雀さんが刃を構えて急接近し。身動き取れない。彼らの連携を抜けて、和泉さんに走り
行く2人に追随する事が、今のわたしには…。
飛び苦内と朱雀さんの刃を何とか躱すけど、バランスが崩れ。体勢を立て直せず、反撃
も回避も叶わぬ状態で、目の前には南郷さんが。
「丁度良い、さっきのお返しだ。喰らえ!」
胃袋に彼の左拳が突き刺さる。鬼切部は剣術のみを鍛えている訳ではない。剣が折れた
時や落した時に備え、無手の技も鍛えている。筋肉質の彼が放つ拳は的確に急所に食い込
み。
「くはっ!」体がくの字に曲がるのが分った。
次の瞬間苦痛よりも頭上に危険を悟るけど。
僅かな間防御にも回避にも動かずにいると。
「おらよ!」組んだ両拳が延髄へ叩き落され。
俯せに倒れた上から、首筋を右足の裏で今にもねじ折る勢いで踏みつけて来て。相馬さ
んも既に間近に来ている。和泉さんの元に馳せようとした2人を『もう不要だ、戻れ』と
呼び戻し、朱雀さん達も歩み来て。囲まれた。
進退窮まったわたしは身動きを諦め。実戦は結果が全てだ。わたしは彼らの手に落ちた。
朱雀さんの涼やかな声が上から降ってくる。
「千羽の八傑に近しい強者との情報だったが、この程度か……五柱神の出る幕ではなかっ
たかも知れぬな」「幾ら鬼でも、所詮は小娘」
我ら相馬党の敵ではない。南郷さんの答に。
相馬さんのやや皮肉っぽい嗤いを含む声が。
「宗正は、多少窮鼠に噛まれた様だが…?」
「討ったのは俺だぞ、顕胤!」「2人とも鎮まれ……まだ使命は完遂できてないのだぞ」
呼吸荒く身を横たえて、観念したわたしに。
柔らかに歩み寄る感触は女性、朱雀さんか。
殺気は最後迄感じなかったけど。次の瞬間、屈み込んだ彼女はこの左太腿に小刀を刺し
て。筋肉に、ぞぶりと太い金属の刃が割り込む感触に、抑えても悲鳴が漏れて身が強ばる
けど。激痛以上に彼女の意図を強く感じた。小刀には即効性の痺れ薬が塗ってあり、意識
を薄め。
「どれだけ傷めても良い、生かして連れて来いとの命だからな。縛り上げて連れ帰るぞ」
最終バスの走り去る音が微かに届く。和泉さんは無事に乗れた様だ。良かった。愛しい
人にわたしの所為で禍が及ぶ事を止められて。余計な手出しをして人目に付く事を嫌うな
ら、わたしを捉えた鬼切部は和泉さんに手を伸ばす必要を感じない。最低限の仕事は果た
せた。
「手間かせさせやがって。この、糞がぁ!」
和泉さんに謝らねばと思いつつ。南郷さんに内蔵を蹴られる痛みと、朱雀さんの間近な
息吹を最後に、わたしの意識は一時途絶えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは、愛しい人を守れたのだろうか。
『力が全てじゃないけど、力がないと護れない時もある事を、柚明は身を以て知った筈』
決意が、運命を切り開く事があるんだよ。
決意が、及ばない筈の何かに届く事もね。
非力に哭いたわたしに途を示してくれたのは笑子おばあさんだった。お父さんとお母さ
んが鬼からわたしを守る為に、生命を抛ってくれた様に、身体を張って助けてくれた様に。
わたしは真弓さんに、強さを教わる事を望み。
『少しでも強くなりたいの。わたしを守る為に身を投げ出す人がいなくても良い様に。わ
たしの前で犠牲が出ない様に。大事な物を守れる様に、たいせつな人の力になれる様に』
わたしも誰かを救い守る人になるのだと。
わたしに託された生命は無駄ではないと。
『たいせつなひとを守る。もう失わせない』
わたしは誰かを守りたい。守れる様になりたい。与えらるだけの人生から与える人生に。
生命の購いは生命で、守られて継いだ生命は次の生命の護りに使う。それでわたしはわた
しに生きる値を認められる。愛されたなら愛を返したい。守られたなら誰かを守りたい!
悔しいけど、残念だけど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力ではど
うにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない事がある。だから人の
手でどうにかなる事は、努力で何とかできる事は、何とかしよう。全身全霊立ち向かおう。
そうして修練を望み始め重ねてきたけれど。
愛しい人が傷つかぬ様に努めてきたけれど。
今宵も迫り来る禍を察知できなかった上に。
全く関係ない筈の和泉さんに及ぼしかけて。
それでも漸く、たいせつな人を己の禍に巻き込まぬ程には成長できただろうか。己の全
てを抛てば、関らせずに済ませられる位には。
『本当に些細な前進で、蝸牛の歩みだけど』
和泉さんに迫る相馬党を止めるには、彼らの手に落ちる事が必須だった。鬼切部6人を
敵に回し和泉さんを守り通すのは至難の業で。撃退できても、一度関われば後々口封じに
来る怖れがある。最後迄関らせずに済ませねば。
素手にした南郷さんの前に出れば、切られない率が高い。彼らもわたしを生かして捉え
る必要があった様だし。女の子に刀を蹴り飛ばされた彼には余計に敵視された様で。余分
に内蔵も蹴られたけど、即死を避けられれば。
激痛も体の汚れも、身を縛る枷も敗北の悔しさも。愛しい人を禍から遠ざける代償なら、
その引替なら喜んで受ける。己の傷や苦痛や不利や羞恥は、耐え凌げば良い。たいせつな
人が傷み哀しむより遙かに良い。でも現実は。
分厚い木の枷を後ろ手に両手に嵌められて。
月明りも微かな闇の中で柱に括り付けられ。
座した姿勢で廃屋で意識を戻した目の前に。
傷み哀しみに震える女の子の声音は視線は。
「柚明あんた、目を醒ましてくれたのかい?
……取りあえず、良かった。良かった…」
「……美咋、先輩……どうして、ここに?」
間近の土の床に縛られ転がされていたセーラー服の女の子は、わたしの愛しい人だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
気絶していたのは二、三時間という処か。
小刀は傷口に刺さった侭で、止血処置は故意に為されず。逃亡や抵抗を防ぐ積りか、既
にかなりの失血は。小刀で縫いつけられたスカートを染め、土の床に乾きかけの血溜りを
作り。生命に関る程でないけど、血が減れば動きも鈍り、紡ぐ力も弱くなる。破傷風など
の感染症は、今の処心配ないけど。動く事も考える事も、少しなら戦う事も未だ叶うけど。
殴られ蹴られ制服も乱されて。痛手は内蔵にも響いていたけど。傷を塞ごうにも贄の癒
しが掻き乱されて巧く紡げない。左の首筋に若干の痛みを感じた。引っ掻き傷か噛み傷か。
こちらは余り深くない様で出血も僅かだけど。
状況は決して良くはない。羽様の家族を心配させてしまっている頃だけど。経観塚から
羽様と反対に数十キロ離れた、離農した農家の廃屋に抛り込まれた現状は、知る筈もなく。
サクヤさんなら贄の血の匂いを辿れたけど…。
現状を羽様の大人に伝える術はない。助けを求めようにも羽様と同じ位、隣家は隔たり。
その距離を、傷ついた足で鬼切部から逃れ切るのは至難の業だ。まして今のわたしは1人
ではなく、間近に守らねばならない人がいる。
「先輩。お体、大丈夫ですか。怪我は…?」
やや癖のある赤く艶やかな長髪に、肢体は大人の女性の豊かさと丸みを帯び。整った容
貌は2歳上である以上に意志と美しさを備え。でも今は流石にその美貌にも、疲れが色濃
く。
室内はほぼ真っ暗だけど。壁の継ぎ目から微かに光が差し込む様で。慣れれば何とか互
いの状態を見て悟れる。こんな時に限って効いて欲しい関知や感応も、巧く働かないのは。
「ん……私は大丈夫。掴まる時に少し手荒にされたけど、切られても刺されてもいないし。
唯縛られて、床に転がされただけ。でも…」
あんたは酷い状態だよ柚明。そう言われて、己の現状が先輩の心配を招く程に酷いと知
り。彼女は縛られて俯せになっているだけだ。その美貌も見事な容姿も少し汚れているだ
けで。わたしの識る強く愛しい美咋先輩は尚健在だ。それを悟れた瞬間に、体が心がどっ
と脱力し。
「安心しました、不幸中の幸いです……先輩が生命に別状なくて、綺麗な肌に傷跡残る様
な深傷もなくて。本当に無事で良かった…」
女の子も容赦なく斬りつける敵だったから。美咋先輩もその柔肌が、美貌や手足が胸や
お尻が、傷つけられたかと気懸りで。胸が潰れそうだったので。その無事に思わず涙が零
れ。
「柚明。しっかりおし! 気を確かにっ…」
美咋先輩はこの脱力を、大量出血の昏睡かと逆に心配し。必死に声掛けてくれて。客観
的に見れば、セーラー服の乱れで殴られ蹴られた事が推察でき、左太腿に小刀を刺され放
置されたわたしの方が、危うく見えるらしい。