第14話 例え鬼になろうとも(後)


 後ろ手に分厚い木の手枷を嵌められ、電柱程の太さの堅い木柱に括り付けられ。先輩は
縄で縛られただけだから、頑張れば尺取り虫の様に多少動ける。身動きを封じられたわた
しの方が、彼らにはより警戒されている訳か。

「すみません……先輩の無事に気力が抜けて。わたしは大丈夫です。痛手は結構大きいけ
ど、即生命が危うい訳ではありません。明日の朝迄この侭捨て置かれたら、少し危ういけ
ど」

 彼らはそれ迄わたしを放置しないだろう。

「そう言えば、先輩はどうしてここに…?」

 痺れ薬で気を失っていた為か、ここに運び込まれた記憶がない。関知で運び込まれた時
の過去の像を見ようとしたけど、巧く行かず。先輩とどっちが先に連れ込まれたかも分ら
ず。

「ああ、あんたは気を失っていたからね……ここに運び込まれたのは私が後だよ。学校帰
りに見た事もない男達に襲われて。かなりの使い手だったけど、それ以上にもう一人に背
後へ回り込まれていてね……不覚を取ったよ。

 私がここに連れ込まれた時には、あんたは既に柱に括り付けられて、気を失っていて」

 苦しげに時折か細い息を漏らして。刃が刺さった足がずっと出血していたから、心配で。

「出血の勢いは、弱まって来た様だけど…」

 ずっと声掛けてくれていたらしい。全く気付けなかった。肌身合わせた人が傍にいれば、
心深く通わせた人が間近にいれば、熟睡中でも分るのに。痺れ薬や殴打の失神は違うのか。

「申し訳ありません、先輩。わたしの為に」
「あんたが謝る必要は何もないんだ、柚明」

 あんたが私に注いでくれた愛に較べれば。
 あんたが私の為に負った危難に較べれば。

「そんな事ないです。こんな酷い目に遭っても尚、わたしなんかを気遣って。自身の事で
目一杯な状況で、喉が嗄れる程声を出し続けてくれて。本当にごめんなさい。唯でも大変
な中で、わたしの事で心配させてしまって」

 美咋先輩の想いは本当に嬉しかったけど。
 これ以上、彼女に気遣わせてはいけない。

 わたしが愛しい先輩を守り抜かなければ。
 彼女はわたしの禍に、巻き込まれたのだ。

 神原美咋に鬼切部に狙われる事情や背景のある筈がない。あるならそれはわたしと近し
く接した故で、わたしの所為だ。何の咎もない綺麗な人を、強く美しい人を。わたしが禍
に巻き込んだ。己の禍をたいせつな人に及ぼした。己の好いた想いの侭に近付いた所為で。
わたしがその優しさに甘えて絆を望んだ為に。

『わたしに寄り添ってくれる人が酷い目に。
 わたしを好いてくれる人が、危難を蒙る』

 和泉さんを守れたと安堵し気を失っていた己が呪わしい。この傷も痛みも美咋先輩の守
りに全く繋ってない。先輩を守らねばならないわたしが、傷ついて動き難く心配まで招き。

 何も見通せていなかった。目先の動きに引きずられ、事の本質を見抜けず、本当の傷口
に気付けず。大事な人の危難を防げず守れず。腹立たしさはこれを為した相馬党にではな
く、それを見通せず防ぐ事も出来なかった己への。

 一番大事な時に見通せなければ意味がない。
 愛しい人に迫る禍を防げなければ何の為の。

 これではとても詩織さんに逢いに行けない。
 己の禍をなすりつけに遷しに行く様な物だ。

 せめて己の禍を全て見通し片付け終らねば。
 でも今は、逆に掴まった事が幸いになった。

 守りたい愛しい人はここにいる。何とかして己の軛を解き放ち。彼らを退け美咋先輩を。

「絶対に、先輩を助けますから」「柚明…」

 致命傷でもない傷に苦しんで等いられない。
 目の前に守らねばならない愛しい人がいる。
 助けられる技や力を持つのはわたしだけだ。

 わたしが巻き込んだ禍なら、最後迄責任を持って。この手で助け救い守る。例えそれで
鬼切部を敵に回す事になろうとも。それに報いや償いや罰が要るのなら、わたしが払おう。

 己を責めている暇などない。相手が鬼切部なら一層強く賢くあらねばならぬ。己の愚か
さや無力に泣くのは、全てを終えた後で良い。為せる選択の全てを下し、最早変えられぬ
結果が出て、何も出来なくなった時で。それが最善の結末となる様に、今は己の全てを注
ぐ。

「大丈夫……為さねばならない事があるから。守りたい人がいるから。望んでくれるたい
せつな人もいるから。わたしは心折られない」

 美咋先輩が、他者を気遣う冷静さ強さを保ってくれている事は幸いだった。いざという
時にも、ある程度の動きをお願いできる。わたしが足止めする間に全力で逃げ走ってとか、
わたしが囮になる間声を出さず隠れていてとか。多くを求めてはいけない事は分っている。
危険や傷みは、わたしが負う事を前提として。

 どうせわたしはこの足では長く走れない。
 ここで相馬党を残らず粉砕できなければ。
 美咋先輩を逃す時間稼ぎ位しか叶わない。

 それは表情にも声音にも仕草にも表さず。
 傷みと脱力を堪えて気力を通わせるのに。
 美咋先輩はやや緊張の抜けた静かな声で。

「あんたは強いね、柚明。何が何だか分らないこの酷い状況でも……追い詰められる程に、
あんたの柔らかな強さ凛々しさを感じるよ」

 声を聞いて瞳を見ているだけで、何とか出来そうな気がして来る。私では及ばなくても、
柚明が届かせてくれる気が。刀を刺されたあんたを前に私は己を見失い。怯えて声かけ続
ける事しかできず。傷ついたあんたを前に年長の私の方が心折れかけて。逆に心支えられ。

「こんな状況でも、あんたと心通わせた事が嬉しく思える……その強さが心から愛しい」

 状況に色気は不足気味だけど、通わす声音にも視線にも、宿した想いは熱く繋り合って。

「わたしの今の気力は、強さではありません。唯の必死です。そしてその源は、己自身で
はなく美咋先輩に。たいせつな人の危難を前に、悔やんだり塞ぎ込んだりしてはいられな
い」

 神原美咋は羽藤柚明のたいせつな人。清く正しく美しい、憧れ惚れた愛しい少女剣士…。

 美咋先輩を支える事が己を支える事になり。
 己が崩れない事が先輩を崩さない事になる。

 闇の中、双方縛られて肌身も添わせられず。
 声で互いを支え合っていたわたし達の間に。

「女同士で仲睦まじいなぁ」「そう言う関係だったとは……」「この、異常性欲者共が」

 相馬党の男達が、土足で踏み込んできた。


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 鬼切部は、鬼切りの頭である若杉が、主に都市部に人員を配置する他に。日本を拾個程
度に区域分けして、鬼切部各党に人の世の守りを委ねている。各党は数百年の歴史を持っ
て地域に根付き。党首や鬼切り役を核として、鬼切りの頭に従いつつ、国土を影で鎮め司
り。

 全ての党に共通する役は、千羽ではかつて真弓さんが務め、今は明良さんが務める鬼切
り役のみで。その他は各党それぞれ。千羽では鬼切り役に近しい、その職も代行可能な8
人の強者・八傑がいると聞いており。相馬では5人の強者・五柱神と、それに次ぐ者とし
て拾七人の手練れ・奥州拾七万騎がいる様で。

 朱雀さんが相馬党五柱神の1人で、相馬さん南郷さんが奥州拾七万騎で。他の3人を論
ずる前に女子高生を襲う戦力ではない。わたしが大野教諭に感応を及ぼし心を塗り替えた
事や、千羽の八傑に近しい技量との情報を持つ一方で。わたしが元千羽党の鬼切り役に師
事する事や、贄の民である事は知らない様で。

 情報に粗密がある。その行動にも疑問符が。

 美咋先輩を拐かすなら、彼らが和泉さんを人質に取ろうと動く必要はない。先輩を捉え
たと告げればわたしは従う。なのに彼らはわたしを捉えた後で、先輩をここに抛り込んだ。

 これでは美咋先輩の捕縛は、逃亡阻止にしか役立たない。足に刀を刺し手枷を嵌め柱に
括り付けた後で、人質を取る程わたしを怖れると思えない。一般人に彼らの正体が知られ
る危険を冒して迄、そうする事情が分らない。

『全てが相馬党の想定通り進んでいる訳ではないのかも知れない。断定は出来ないけど』

 いずれにせよこの状況では、主導権は彼らの物だ。この侭止血されなければ朝迄にわた
しの生命が危うくなる。彼らの登場は望む処だった。状況打開に残された時間は多くない。

 彼らの登場と同時に天井の裸電球が灯り。
 漆黒の闇は少し退いて頼りない光が照す。
 室内は雑然と散らかって生活感に乏しく。

「貴様は本当に鬼畜だな。女なら手当たり次第に貪る積りか。確かに悪くない娘だが…」

 相馬さんは鬼と見なした相手への敵意より。
 女の子同士の関係への侮蔑を声に強く宿し。

「ケッケケケ。夜の密室で一緒でも、お互い縛られて、幾ら悶々しても手も握れねえの」

 南郷さんは卑猥な姿勢を隠す事なく。続いて入った兵卒の中年男性3人も、眉を顰めて。

「何と醜い」「恥知らずが」「やはり鬼畜」

 朱雀さんは居なかった。なので男性揃いになった彼らは、心理的に解き放たれた感じで。

「美咋先輩を解き放って。彼女は鬼の禍とは何の関係もない筈です……」「うるせぇ!」

 いきなり南郷さんに左頬を殴られた。その右拳は骨に響かない様に加減して蹴ったから、
一時の痺れが取れれば動かす事に障りはない。縛られたわたしの体を、軛の限度迄揺さぶ
り。一応当たる箇所やタイミングを、微妙にずらして受けているけど、本気の拳はやはり
痛い。

「結構な量の血を流したな。順調順調……」

 相馬さんはこの左太腿の小刀を軽く掴み。
 更に力を込めてずぶずぶ深く押し刺して。

「ぐっ……」「あんたら、一体何で柚明を」

 失神しそうな痛みを堪えて、悲鳴を抑え。

 美咋先輩の目の前で醜態は見せられない。
 己を強く保つ事で、彼女の心も支えねば。

 間近な男性達を強い視線で見つめ返すと。

「鬼で同性愛者とは最悪だ。ふん……鬼に鬼たる事を自白させて討てとの指示だったな」

 相馬さんはわたしの問にも瞳にも応えず。
 美咋先輩に目を向ける者は1人もいない。

「あなた達は人に仇為す悪鬼を討って、人々の安寧を守る鬼切部でしょう? どうして無
関係の美咋先輩を攫う様な事を……今からでも遅くない。お願い、先輩を解き放って!」

「お前に我らに命ずる権限等ない、鬼畜が」
「他人の心配とかしていて余裕だなぁおい」

 南郷さんがこの前髪を手に掴んで揺さぶり。
 左手で加える平手打ちはこの心を苛む為か。

「人外の力も二重三重に封じられ。後は俺達に切られるか、失血死を待つかしかないって
のに。今やてめぇは俺達に、化外の力で魅惑を掛けて、逃れる事も出来ないってのによ」

 ぴくと体が反応したのは、少し前にここで目覚めて以降、贄の血の癒しも関知も感応も、
全く使えてない事にではなく。特異な力の所持を美咋先輩に話してなかった為で。だから
先輩はわたしの贄の血について今初めて知る。

「そこの小娘も、こいつが化外の力を操る人外の鬼だとは知らなかったか。そりゃ言う訳
ねえよなぁ。餌に自分の正体を告げるオオカミなんて居ねぇ。こいつは他人の考えている
事を悟れる上に、自分の考えや感情を相手に流し込んで、操る力を持った化け物なんだ」

 何かが砕けた様な気がした。全ての音が消失したのにガラスが割れた様な音が心に響き。
それは美咋先輩との日々が壊れ行く音なのか。愛しい人との絆が喪われゆく怖れに身が震
え。

 殴られ蹴られるよりも今の哄笑が心に痛く。
 目を見開いた美咋先輩を正視するのが辛い。

「俺達の様に鍛練してなければ、呑み込まれ従わされる。好き放題に愛を抱かされ、金を
貢がされ、犯罪の片棒を担がされ。憎まぬ様に報酬を求めぬ様に、都合良く操られ。だか
ら鬼として討伐される。世間から排除される。

 お前が元々女好きかどうかは知らねぇが」

 お前がこの鬼に抱いた想いは、一体お前の本心か? 思い返してみろ。女に女が色恋抱
いて好き合うなんて、そうそうねぇだろうが。誰かの作為を考えた方が合理的と思わねぇ


「お前が先に好いたのか? それともこいつに好かれた後でお前が好いたのか? この鬼
の傍にいる内に生じた想いなら、それはこいつに想いも感覚も、自由自在に操られている
って証だぜ。それが自然であればある程に」

 そうやってこの鬼はお前の心に割り込んで。
 心を開放させ性愛を捧げさせて貪り喰らう。

 その内性愛だけじゃ収まらず血肉を欲する。
 この鬼の強さが人外である事も承知だろう。

 気付け、お前は既にこの鬼の罠の淵にいる。
 化外の悪しき力に心を丸ごと包まれ騙され。

「鬼なんだよ。魅惑の力を操る化け物なんだ。華奢に可憐な娘の姿で」「その上で女の癖
に女に淫らな獣欲を抱く等、正に人外の鬼畜」

 相馬さんが言葉を繋げ、更に兵卒3人が。

「女を好く異常はこの鬼の影響か、哀れな」
「化外の者は、穢れも淫らも遷すものかよ」
「操られた偽物の愛に気付けて良かったの」

 わたしは彼女に何を訴えたかったのだろう。
 今迄伝えずこの時になって伝えたいなんて。

「美咋先輩っ……!」「柚明、あんたさ…」

 彼女の言葉は何かを噛み締める様に重く。
 相馬党の音声よりわたしの答が欲しいと。

「あんたが特殊な力を持つって……本当?」
「……本当です、先輩。間違いありません」

 嘘は応えられない。その問が真剣であればある程、重ければ重い程、真を応える他に術
がない。それがこの愛しい繋りを終らせる答でも。恋しい美咋先輩との断絶を招く答でも。
そうであればこそ真を応えねば。彼女が化外の力を嫌うなら、わたしは近くにいてはいけ
なかった。愛しい人の真意が嫌悪であるなら、羽藤柚明が嫌われ遠ざかるのが、正解だっ
た。

「ごめんなさい。わたし、先輩に全てを伝えていませんでした。己の血が宿す力の事を」

 わたしが贄の血と言う特殊な血を濃く宿し。修練せねば、鬼と呼ばれる人外のあやかし
に甘く香り好まれて、狙われ襲われ喰らわれる。修練して血の匂いを隠せる様になった頃
から、その副次効果で、心身の疲れを癒し傷を治し、自身や身近な人にこの後起きる事や
今起きている事も分る様になり。この後為そうとする事や思っている事、感触や印象を悟
れる様に。

「言えてなかったのはわたしの落ち度です」

 例えそれを美咋先輩に、使う積りがなかったとしても。一度も使ってなかったとしても。
それを為せる事実を、告げておくべきだった。全て明かした上で恋し愛し合うのでなけれ
ば、公正ではなかった。そう言う力の持ち主とお付き合いするのだと、予め報せるべきだ
った。

 それで嫌われ怖れられ離れられるなら、それこそが美咋先輩の真意だ。そこにわたしが
口を噤んだ侭で、愛を恋を紡ぐのは。和泉さんが言った通り、嘘ついて愛を盗む事になる。

 わたしは美咋先輩を愛していながら、愛されていながら、愛しい人に誠を尽くせてない。
贄の血の事情を軽々に語れない背景があっても尚。何も伝えず近しく関ったのはわたしだ。

「本当にごめんなさい。わたしの所為でこんな禍に巻き込んで。先輩が囚われたのもきっ
とわたしと近しかったから。何かの間違いだと思うけど、この人達はわたしを捉えに来た。

 わたしが関りを持たなければ、先輩も今宵酷い目には遭わなかった。わたしが先輩に憧
れて近付いたから酷い目に……幾ら謝っても謝りきれないし、償いきれる罪でもないけど。

 先輩だけは必ず無事に助け出しますから」

 震えても愛しい人を正視して声を届かせ。
 信じられなくても当然な実体を晒した今。

 受け容れられなくても己の誠を届かせる。
 それしかこの人がくれた愛に応える術が。

 美咋先輩は黙してわたしの声に耳を傾け。
 わたしの声が途絶えると静かに口を開き。

「あんたは、その贄の血の感応の力を使って、私を、神原美咋の心を操っていたのか
い?」

 私にあんたへの愛を植え付けていたのかい。
 私の愛を操ってあんたに向けさせたのかい。

「そんな事は今迄も今後も決してありません。
 わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。

 美咋先輩が素晴らしい人と好き合って結ばれる事はわたしの望み。先輩を一番にも二番
にも想う事のできないわたしが、先輩の愛を己に操り招いても無意味な以上に。人を操っ
て愛を盗んでも、その強さ賢さ美しさは手に入らない。己の纏わせた卑しさ醜さ情けなさ
が、掴んだ人も汚すだけ。それは己の望みを遠ざける以上に、相手に対して酷い事です」

 事実を告げなかっただけで酷い背信なのに。そこ迄堕ちては先輩を想う資格も失う。床
に額づいて謝るべき処だけど、想いの限りを仕草と声音と表情に現し。信じて貰えるか否
かは問題ではない。今は唯己の誠意を尽くし…。

 そんなわたしへ返る答は静かに柔らかで。

「そうかい。なら、良いよ」「……先輩?」

 愛しい人は揺れる視界の中で笑みを浮べ。

「辛い告白をさせて済まなかったね、柚明。

 私に明かせなかったって事は、あんたの側に明かしては拙い事情があったからだろうに。

 あんたがそう言うなら私はそれを信じる」

 その笑みが苦いのは、わたしの様な者を信じた事への悔いではなく。事実を知らされな
かった事への悔しさでもなく。感応を使えなくても見て取れる。今のこの人の苦い笑みは。

「一瞬でも驚きに我を失って、あんたを疑って悪かった。私が柚明を愛し信じたのは、あ
んたの言葉や仕草以上に、その行いにだったのに。柚明は危険を負って危難を越えて、私
を忌まわしい軛から解き放ってくれた。身を尽くして救ってくれた。あんたが鬼の強さを
持っていても、あれが危うくない筈がない」

 言葉や仕草は人を騙し誤魔化せる。でもあんたが私を助けた行いは本物だ。そうでなけ
れば私は今もあの男に、人生を握られ嬲られ続けている。身震いするよ。あんたは自分が
そうされる危険を承知で踏み込んで、私を救い出してくれた。あの時私はあんたに惚れた。

 男にも女にも恋した事なかった私が。その深い愛に応えるには他に術を思いつかなくて。
あんたの一番も二番も私は欲してない。私はあんたを、羽藤柚明を愛させて欲しいんだ…。

「私が柚明を信じ愛を抱いた。女を好いた訳じゃなく、柚明だから肌身を許し唇を重ねた。

 柚明は他人を操って平然としていられる程、器用な人間じゃない。誰かを庇い支える時
は、太腿に刀を突き刺されても痛い顔一つ見せないけど。嘘で騙す迄しなくても、尽くす
誠を僅かに欠いただけで、己自身を責めて悔いる。心寄せた相手を騙し続けられる人間じ
ゃない。もし事情があってそうしているなら、私の心の傷よりも、柚明の心の傷の方が深
い筈だよ。

 あんた達は鬼と言う物をご存じな様だけど、神原美咋は羽藤柚明をもっと深く識ってい
る。初対面な以上に、私を力づくで襲って攫った奴らの言葉より。私は愛しい柚明を信じ
る」

 だからもう心の中で怯え震えるのはお止め。

 この人は、わたしの心の内を全て把握して。
 暖かな視線を声音を想いを、注いでくれて。

 あんたが何者でも羽藤柚明は神原美咋の…。

「……清く正しく美しく、賢く強く愛おしい、掛け替えのない妹だよ」「美咋先輩っ
…!」

 最初は喋らせておけという姿勢だった相馬党の男性達は、後半になって逆に言葉挟めず。
わたし達のやり取りを、見守って佇むのみで。

 夜は果てしなく終らないけど。希望の光は欠片も見えないけど。わたしは今宵、何が何
でもこの強く愛しく美しい女の子を守り抜く。例え己がその為にどれ程の犠牲を払おうと
も。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「同性愛者が……女の分際で、小娘の癖に……鬼畜共が……」「どうやって助け出すのか、
見せて貰おうじゃねえか。鬼さんよぉっ!」

 相馬さんは憤怒と侮蔑で暫く言葉に詰まり。
 南郷さんは哄笑と嗜虐の姿勢を崩す事なく。

「この足に刺さった小刀は、元々鬼や魔物を切る霊刀だが、朱雀が霊力を込めて刺した分、
威力も倍増している……痺れ薬だけじゃねぇ、失血を呼ぶ為だけじゃねぇ。剣術はともか
く、あの女は神獣使いの候補だったからな。刺さって内部で、てめぇの力を掻き乱すんだ
よ」

 神獣使いとの言葉が出た瞬間、他の面々がぴくと動いた。問題発言らしい。流されたか
ら、重大ではないのかも知れないけど。唯相馬さんも南郷さんも、上司たる朱雀さんへの
敬意が薄い。言葉や仕草の端々に軽侮が潜み。

「首筋の傷にも気付いているか。朱雀の技だ。異国の吸血鬼が良く似た技を使うと聞いた
が。霊力を込めて噛み付く事で、貴様の魂や力を破いて傷つける。幾ら力を使おうと溜め
ても、穴の空いたバケツの様に、この傷口から漏れ出して形を取れず、使い物にならない。
俺も何度か朱雀の技は見てきたからな。剣技はともかく、人外の怪異には奴の技は使える
…」

 相馬さんも得々と種明かしすると言う事は。
 この処置は最早破られないと確信している。
 幾多の鬼を屠った鬼切部相馬党の精鋭達が。

「貴様を戒めるその手枷も、化外の力を封じる若杉の仕様だ。嵌められた侭成敗された鬼
やあやかしの怨念を、負に転換させ。封じる能力に変えていると聞いた。その括り付けら
れた柱も、貴様の様な鬼を封じる為の物だ」

「俺達がやってくれば魅惑して、俺達に枷を外させ縄解かせようと企んでいたのだろうが。
残念だったな、全く効いてないぞ。あぁ?」

 美咋先輩が後から連れてこられても、気付けなかった訳だ。関知も感応も全く使えない。
肌の上からブロックされて。封じられた力も内圧が高まる前に、首筋から漏れて消失し…。

 その上幾ら力を紡ごうとしても左足から邪魔が入って。紡ぎ掛けた力が霧散して消える。
少し前から感じていたけど。こういう経験は初めてなので、話してくれると確かに悟れる。

 彼らの思惑を推察しようとしても。普通に悟れる程の事しか分らない。こういう時こそ、
彼らの来歴や近い過去を視たいのに。今のわたしは見た目通り、普通の女の子でしかない。

 相馬党が廃屋に近付く感触も悟れなかった。彼らが今どんな思惑を秘めているかも、声
音や顔色や仕草から見て取れる分しか分らない。この先の像を視ようとしも力が紡げてこ
ない。

 せめて首筋の傷と左太腿の小刀がなければ。封じられても外に出せないだけで、自身の
中で力を紡ぐ事は叶うのに。状況はかなり拙い。

「無駄と分っても魅惑してきて良いんだぜぇ。俺はちっとも構わない。てめぇも今宵で散
る生命なら、女なんかと色恋の偽物に耽るより、本物を入れられてみたいとは思わねぇ
か?」

 前髪を掴んだ侭で脂ぎった頬を合わせて。
 わたしに性愛を交わさないかと囁く彼に。

「美咋先輩を、解き放って下さい」「っ!」

 誘いに乗っても彼に解き放つ積りはなく。
 誘いに乗らなくても彼を止める術もない。

 それよりわたしは大事な人の解放を願い。
 生意気だと更に頬を強く殴られて。でも。

 一瞬彼らが気圧された気配を感じ取れた。

「わたしは人を喰らう悪鬼ではありません。

 少し人と違う力を扱えるけど。女の子と近しく触れ合う事もあるけど。人を害する気も
ないし、血肉を喰らう必要も旨味も感じない。

 あなた達の倒すべき敵には当たらない筈」

「鬼の見極めは鬼切部が行う。鬼の言葉になど左右されるか。女の同性愛者の分際で…」

 相馬さんがわたしの顎を掴んで顔を寄せて。
 感応の力も不要に侮蔑と憎悪が良く視える。

「鬼の正体を自白させて処断せよ、ってか」

 明々白々な正体を殺す前に自白させるとは。
 若杉が何を考えているか今一つ分からんが。

「正体が割れている以上、手控える事はない。宗正、お前の嗜虐を思う存分喰らわせてや
れ。女を貪る事を好むこの鬼畜に、人生最期に存分に男を味わわせ、喰らわせ、ねじ込ん
で」

 お前らも。相馬さんは控えていた兵卒にも、南郷さんの手伝いを指示し。それは指示と
言うより、南郷さんの所作に分け入る許諾かも。兵卒の中年男性3人の短い返事は勇み立
って。

 無明の夜は微かな物音と共に更けて行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あんたら、柚明を。これ以上傷つけな…」

 美咋先輩の声に男達を阻止する力は持てず。

「はっははぁ」「お任せを」「存分にっ…」
「男って奴を肌身に思い知らせてやるぜ!」

 南郷さん達は4人でこの制服に手を掛けて。

「ふん、悪鬼には地獄以上の報いが似合う。
 安楽に冥府には行けるとは思うな、鬼畜」

 相馬さんは一歩下がってその行いを見守り。
 必死に声を発し続ける美咋先輩のすぐ傍で。

 わたしに触るのも穢れると蔑んでいる感じ。
 彼らの行いを阻止する術はわたしになくて。

 胴も手首も縄で固く縛られているので。南郷さん達はそれを避け、破れかけた肩口をは
だけさせ、胸の下着をもぎ取って。小刀刺さったスカートや靴下や、下の下着もまさぐり。

 一気に脱がせず、じっくり胸に首筋にお尻に太腿に、手で頬で触るのが気色悪い。徐々
に汗ばんで肌が露わにされるのが羞恥を増す。好いた人に為されるのなら、嬉しいのだけ
ど。

「胸はやや小さくても、感度は良い様だな。
 こりゃ、本格的に楽しませて貰えそうだ」

「役得ですな」「天罰覿面」「悪の報いぞ」

「柚明、柚明。あんたら、やめっ、だめ…」

 彼らは美咋先輩の悲鳴をも楽しんでいる。
 それを止められぬ己の無力が心底悔しい。
 己の悲鳴を噛んで抑え込むのが精一杯で。

 善意や好意を寄せられる事が、素肌を優しく撫でられる嬉しさを招くのと反対で、悪意
や害意を及ぼされると、全身を舐め回される不快を呼ぶ。特に身に触られると感応使いの
わたしには効果も激甚で。欲情や憎悪が強かったり、人数が多いと己の心が押し流される。

 外部から押し入る想いに呑み込まれぬ様に、一層強く己を保つ。願いを想いを確かに抱
き。痛みや息苦しさや羞恥で想いを折られぬ様に。今泣き喚いたら美咋先輩の心を折って
しまう。

 これが人生最期の夜かも知れない。気高く堂々と、迄は行かずとも。何があっても己を
失わず、心はいつも柔らかく。吸い付かれても噛み付かれても、掴まれ抓られ揉まれても。
女の子の体が反応を返し始めても。わたしの想いは折られない。今だけは折れてはダメ…。

 何度か唇を重ねられ。己の力が紡げない侭。
 南郷さん達の想いが流入し、中で暴れ回る。

 両の乳房が代る代る男性の指に歯に嬲られ。
 残された僅かな気力も吸い上げられようと。

 貧弱でも美咋先輩に喜んで貰えた女の子の体が、今は彼らを喜ばせる物にされて抗えず。
幾度も肌身合わせた愛しい女の子の目の前で。愛しんでくれたその想いを裏切り穢す結末
に。

「おっと、彼女にはしっかり見せてやる必要があるかもなぁ。女の鬼に貪られるのが好き
な女ってのも、世には偶に居るらしいから」

 すっかり男の物になった鬼娘を見せてやる。
 てめぇも淫らなその醜態を観て欲しいだろ。

 南郷さんが一歩引いて、首筋や肩口や乳房の肌も汗ばんで露わな状態を、美咋先輩に見
せて。先輩とわたしの心を叩き折ろうと試み。兵卒の3人もその促しで一歩引いて、口々
に、

「すっかり蕩かされおって」「これはもう見るに堪えぬな」「艶っぽくて良かろうて…」

 でもそのお陰で、わたしを心配して涙流しつつ声を発してくれる愛しい人の姿が見えた。
清く美しい人と再び視線を声を交わせられた。こんな姿を見られる事、見せてしまう事は
本当に悔しく情けないけど。それでも、否だからこそ、わたしは伝えねばならない事があ
る。

「柚明、柚明しっかり……」「見ないで……とは言いません。情けない姿だけど、せめて
先輩の前では止めて貰いたかったけど。ごめんなさい。わたし、先輩の想いを傷つけて」

「俺達もしっかり見せて貰ったからなぁ。俺達は見るだけじゃなく、お触りも含めてだが。
顕胤にも惜しまずこの欲情を見せてやれよ」

「最早慎みも恥じらいもない」「男も女もないと来た」「見られて喜んでおるぞ鬼娘が」
「最早悪鬼でも鬼畜でもなく、唯の淫乱か」

 顕胤さんの隔絶を宿す声も心を苛むけど。
 今こそわたしは己の真の想いを強く紡ぎ。

「あなた達には観られたくありません。でも、好いた人に観て貰うなら。余り大きくない
から、誇らしげに見せられる肢体じゃないけど。

 愛しい人になら、美咋先輩になら、見られても良い……これが、羽藤柚明です。美咋先
輩が想い描く程に、強くも綺麗でもないけど。これが今のわたしの精一杯……だからむし
ろこのわたしは美咋先輩だけに、見て欲しい」

 彼らはわたしが心折れて泣き叫び、全てを諦め思う侭に自白する事をお望みだけど。そ
れには添えない。わたしは決して折られない。それが少しでも、愛しい人の守りに繋る限
り。わたしの姿形や在り方はそれ程大切ではない。何を為すか為せるかが、常に一番重要
だった。恥じらいも悔しさも怖れも心の奥に収納する。

 美咋先輩にはその想いも意図も届いていて。
 その瞳も声も震えても未だ折れてはおらず。

「柚明……あんた、綺麗だ……どうやっても及ばない程に、今のあんたは綺麗で清い…」

 逆にわたしの意図を汲み取って励ましを。
 この状況になって尚、人を気遣うなんて。
 その強い想いに応える為に、報いる為に。

「ふん……次は下半身を剥ぐぞ。女のあそこを晒されて嬲られた後でも、俺達に貫かれた
後でも同じ事を言えるかどうか、じっくり見せて貰おうじゃねえか」「「「ははっ」」」

 最期迄わたしは己を失わない。彼らの所作を受けるだけ受けて、為されるだけ為されて、
その後で再度美咋先輩の解放を願う。曲がらず折れず砕けない、真の想いを最期の最期迄。

 スカートを破り取られようとした時だった。
 鋭く涼やかな女性の声が彼らの手を止めて。

「何をやっているのだ、お前達は一体…!」

 相馬党五柱神の1人、朱雀さんが戻り来た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 朱雀さんはまっすぐ歩み来て。憤りを秘めて見えるその動きに、兵卒は気圧されてわた
しから離れ。南郷さんも少し遅れて傍を離れ。剥ぎ取られかけたスカートからも、手が離
れ。

「朱雀さん?」「羽藤、柚明と言ったな…」

 初めて名を呼ばれた。間近に見た女性剣士の素顔は、なぜか優しげに哀しげな無表情で。
敵味方を越えて麗しい人だった。戦いを決意して受け容れた女性の美しい強さが凛々しい。

 彼女は言葉なく傍に屈むと、剥ぎ取られた胸の下着を拾い上げ、この胸に戻してくれて。
剥ぎ取られた勢いで千切れていたから、元通りにはならないけど。幾分か心救われた気が。

「朱雀様、一体何を?」兵卒の1人の問に。

「済まなかったな。我が配下が酷い事を…」

 彼女は応えず、乱されたセーラー服を出来るだけ整えて。嬲られ苛まれて汗ばんだ肩口
や胸元の素肌を人の目から隠し。この戒めを解く積りはない様だけど。その仕草は優しく。

「鬼切部は人に仇為す悪鬼を討つのが使命。
 鬼を苛み虐げ辱めるのは、使命ではない」

 それが周囲の男性達への彼女の答だった。
 美咋先輩も含め一時鎮まった廃屋の中で。

「有り難うございます」「勘違いするな…」

 彼女はわたしを討つ事を止めた訳ではない。
 だからこの左太腿に刺さった小刀は抜かず。

「感謝など不要。お前が人に仇為す鬼であり、私が悪鬼たるお前を討つ鬼切部である事に
何の変りもない。お前に人生を狂わされた者は、こんな配慮等不要だと言うだろう」「は
い」

 即答を返すと、不意に瞳を覗き込まれた。
 何かを言いたげに、瞳が瞬いていたけど。

「朱雀。我らは若杉の要請に従い、鬼に鬼たる事を自白させようと責めていただけだぞ」

 不満と弁明の声を上げたのは相馬さんで。

「宗正も久秀達も任務遂行中だ。邪魔を…」

 それで自白は取れたのか? 涼やかな声は、相馬さんの苦情を正面から見つめ返して問
い返し。朱雀さんの冷やかさに、微かに怒りを感じたのは。女性故に、戦いを越えて女の
子を辱める男性達の行いに、憤りを抱いたのか。

 彼らもその様子が分るのか。今になって後ろめたさを感じたのか。口を噤んで黙り込み。
でも、決して男性達は彼女に信服している訳でも、敬意を抱いている訳でもなく。もっと
上からこの人事配置されたから、従っているとの姿勢が窺え。南郷さんと相馬さんは特に。

「鬼であると分っているのに、討つ前に自白を取れと言う若杉も若杉だが。お前達は鬼娘
を辱めても、自白を取れてないではないか」

 取りあえず正面から逆らう者もいない中で。
 彼女が視線を泳がす内に目に留めた物とは。

「あの娘は……一体何だ?」『えっ……?』

 美咋先輩を拐かす事は、彼らの当初プランにはなかったのか。この中で最上級者である
朱雀さんが、今ここで気付いたと一般人の混入に問を発し。久秀と呼ばれた兵卒の1人が。

「若杉の命令にございます。朱雀様が鬼切り役への報告に場を外した後で、追加指示を受
けまして。朱雀様の電話が長引いた為に、顕胤様と宗正様の指示で、我らが為しました」

 微かなすれ違いが、漸く見え始めてきた。
 朱雀さんはその答に納得出来てない様で。

「一体、何を考えて……鬼はもう捉えたのだ。後は若杉の望み通り、自白させて切るだけ
ぞ。無関係な一般人を無闇に攫って。鬼や鬼切部の存在が露見する危険を増やしてどうす
る」

「鬼の関係者だって話しだ。鬼娘と対面させ、その場でその正体を明かしてやれとの指示
で、その後の処置は相馬党にお任せと聞いたぜ」

「愚かな。一般人に鬼や鬼切部の存在を知らせた上でお任せとは。相馬党は剣士の集まり。
事後処理こそ若杉の範疇、我らに若杉程巧く処理出来ぬ事は、彼らこそ知って折ろうに」

「自ら口を噤まねば口封じしかないだろな」

「美咋先輩は鬼の禍に無関係です。わたしの事は別で良いから、先輩だけでも帰して!」

「今更無事に返す訳には、行かねぇんだよ」

 南郷さんに続いて相馬さんが口を開いて。

「せめてこの娘が鬼に誑かされていたと悟り、我らに感謝でも示せば救いの芽があった
が」

「一体、柚明が何をしたって言うんだい…」

 美咋先輩が問を発したのはその時だった。

「化外の力だの人外の鬼だのって、あんたらは好き放題に罵るけど。一体柚明がいつどこ
の誰を傷つけて、討たれなきゃいけない事になったんだ。誰がどこで柚明に酷い目にっ」

「黙れ、同性愛者が!」相馬さんが美咋先輩を黙らせようと、その腹に蹴りを入れるのに。

「美咋先輩を傷つけないでっ」「やめい!」

 朱雀さんの制止で相馬さんの動きが止まる。

「柚明に酷い目に遭わされたなんて、大野俊政位だろう。あの男は酷い目に遭わされたっ
て当然というより、天罰が下るべき男だった。柚明に叩きのめされても自業自得な奴だっ
た。

 あんたらが正義の味方を名乗るなら、ここで女の子を虐げ辱めるより先に、やる事があ
るんじゃないのかい。奴の方がよっぽど鬼畜生な奴だった。柚明は私を救い守る為に…」

「……それは、どういうこと? あなた…」

 ここでもう一つ何かの歯車が、噛み合った。

「この鬼娘が、高校教諭を化外の力で魅惑し、弄んで破滅に導いた。同じ高校の女子を好
き放題に漁り貪り、制止しようとした男性教諭に冤罪を被せ。多くの無辜の人々の人生を
狂わせた、感応の力を持つ鬼だと、情報では」

「鬼に魅惑されていて、何が何だか分ってねえのさ、この娘は」「同性愛者の言う事だ」

 微かな惑いを見せた朱雀さんに、南郷さんと相馬さんが取り合う事はないと、言うけど。

「あんたら、まさか本当にあの一件を知って、柚明を始末に来たって言うのかい? 柚明
が私を守る為に大野を打ち倒した、あの件を」

「その男性教諭は……情報では教育熱心で生徒に好かれる、剣道部顧問で達人だったと」

「名前は確か大野俊政、二十八歳でしたか」
「半年前から、心の病で休職扱いでしたな」

 兵卒が情報を補足するのに頷く朱雀さんに。
 美咋先輩は双眸に憤りを宿して言葉を連ね。

「あぁ表の顔はね。でも、あんたら柚明の裏情報を重箱の隅ほじくる様につつき出す癖に。
世間の情報には疎いんだね。学校は柚明や私の名誉を気遣って、事実を伏せてくれたけど。
どこかの愚か者が噂に流した所為で、この界隈ではとっくに奴の所行は露見しているよ」

 あのケダモノが、私の処女を奪い進学先も握って言いなりにして、性欲のはけ口に扱い。
汚い欲情を柚明にも向け。柚明は己を守る為と言うより、私を救う為に、敢て踏み込んで
あの鬼畜を叩き潰してくれた。その強さを鬼というならそうかも知れない。でもあんた達。

「その現場にも居ないで、事情を知りもせず、結果だけ見て大野が敗れたからお咎め無し
で、勝った柚明を始末って。そりゃないだろう!

 柚明が負けていれば、あんたらは大野を鬼だと始末してくれたのか。柚明が奴に奪われ
ていれば、救いに来てくれたのか。事後に来ても取り返しの付かない傷もあるのに。鬼畜
なのは奴の方だろう。なんで柚明を傷つけ」

 あんたらこそ何が何だかまるで分ってない。
 誰が女の子の敵で守り手なのか見えてない。
 私が柚明に惚れたのは。柚明を愛したのは。

「柚明が己の危険を承知で私を、将来の不安迄除去し、救ってくれた賢さ強さ優しさに」

 柚明が並外れて強いのは分っている。特殊な血と力を持っているのは本当らしい。でも、
自分や身近な人を守る為に、やむを得ず反撃した柚明を、極悪人扱いして抹殺するなんて。
人目も届かぬ処で虐げ辱めるなんて。間違っている。絶対に間違っている。私は今宵巻き
込まれて正解だった。大野の件で柚明の無罪を証言するのに、最も適切なのは神原美咋だ。

「柚明に掛けられた罪は濡れ衣だ。冤罪だ」

 火を噴く様な告発に、動揺の色を見せたのは朱雀さんだけではない。相馬さんも南郷さ
んも兵卒も、鬼を討つ根拠を崩され戸惑って。

「話しが違う。与えられた情報と、状況が」
「そんなバカな。照合済の若杉の情報では」

 でも今はわたしは彼らの動揺を見るより。
 美咋先輩に感謝ではなく謝罪を述べねば。

「美咋先輩、ごめんなさい。先輩の辛い話しを口にさせてしまって。秘すべき中身を…」

 女の子が一番話したくない事を。拭いきれない辛い過去を。初対面の敵に近しい者達に。
禍に巻き込んだわたしを守る為に、心の傷を。

「わたし、先輩に妹と呼んで貰う資格がない。禍に巻き込んだだけじゃなく、一番明かし
たくない処迄を話させて。全然心を守れてない。わたしは先輩に微笑んで欲しかったのに
…」

 全ては己の行いが招いた末だった。故に罰も報いもわたしが受けねばならなかったのに。
一番負わせてはいけない人にそれを及ぼして。わたしはどこ迄も禍の子だ。愛しい人に傷
みを及ぼしてしまう。己の力量不足が呪わしい。

 なのに、忌み嫌われるべきこのわたしに。
 傷み苦しみばかりを持ち込む羽藤柚明に。
 気高く美しいこの人は尚も凜と清々しく。

「今度は私があんたを守る番だ。柚明は強く賢く優しく綺麗な、掛け替えのない私の妹」

 その強い想いにこの胸も喉も瞼も溢れて。
 零れる愛しさを止める事が出来なかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あーあーぁ……折角良い処だったのに…」

 局面の再度の転換は、その少し後だった。

 廃屋の壁の裏側に潜む彼女に、気付けた者は誰もおらず。関知も感応も使えぬわたしも、
予め隠れる為に用意した空間があるとは気付けず。相馬党もその気配を悟れなかったとい
う事は、気配を隠す術を身につけているのか。この舞台設定も相馬党ではなく彼女の所作
で。

「何で止めちゃうのよぉ。この堅物があっ」

 相馬党が美咋先輩に、想定の綻びを問われて動揺したその時に。若木葛子さんは、相馬
党の男性達に媚びる様に腰をくねらせながら現れ。ずっと隠れて見守っていたのだと語り。
拾五台の監視カメラで様々な視点から、わたしを苛み嬲る映像を撮り続けていたと明かし。

「最後迄ヤッてくれないと、彼女も欲求堪った侭で放置されちゃうでしょ。凄く可哀想ぅ。
人生最後の夜なのに、心残りがあったら鬼になってしまうかも知れないじゃない、彼女」

「若木、葛子、さん……」「これは若杉の」

 美咋先輩はこの局面で知った顔が現れた事が予想外だった様で。朱雀さんも他の相馬党
もこの突然の登場には驚きを隠せず。でも漸く糸は繋った。若木さんが若杉として、相馬
党を動かしたのだ。羽藤柚明に報復する為に。

 先月末で依願退職扱いで。今月に入ってからは、姿を見た人も少ないと聞いていたけど。
わたしは羽様の大人に接触を禁じられたので、何を目的にあんな噂を流したのかも問えぬ
侭。

「良い感じで喘ぎ声上げていたのに。見ている私もゾクゾクしてくる位、色っぽかったっ。
本当あなた、男だけじゃなく女にも欲情抱かせるのかしら。自分が獣欲抱くだけじゃなく、
周辺の女達も巻き込んで。淫らな生れねぇ」

 廃屋中央で縛られたわたしにゆっくり歩み寄ってきて。今傍にいるのは朱雀さん1人だ。

「エロい絵を撮らせて貰ったけど、やっぱり交尾は最後迄やらなきゃ。鬼切りが生命を絶
って終る様に。淫行も子供孕む迄やらないと、スッキリしないでしょう。男の側だっ
て!」

 南郷さんも流石にそうですと頷けない中。
 若木さんは間近に屈んで覗き込んできて。

 朱雀さんに整えて貰った制服を再度はだけさせられ、乱されて。胸の下着を抜き取られ。
朱雀さんが抑えようとするけど、睨み返すと、配下ではない彼女の動きは止められない様
で。

 わたしに抗う術はない。再び両の乳房も首筋も衆目に晒され。一瞬目を閉じそうになる
けど、堪えて彼女を見つめ返す。若木さんは不満そうな顔で一度わたしから視線を逸らし、

「折角あんたが外れる様に、相馬の鬼切り役に娘鬼の強さを過剰に吹き込んで、不安がら
せ長電話する様に導いたのに。もう少し長く場を外していれば、黙って見過ごしていれば、
この娘鬼が処女膜破られ、のたうち回る様を見られたって言うのに。この、役立たずっ」

 逆に彼女は朱雀さんを上から目線で罵って。
 わたしにも屈み込んで頬触れる程傍で囁き。

「驚きが少ないわよ。それと羞恥や哀しみも。私が潜んでいる事を知っていた? 分る訳
ないわよねぇ。力を十重二十重に封じられ、私は気配を隠す事についてだけは絶対だし
ぃ」

 同性に見られていたと分ると、恥ずかしさも倍増でしょう。愉しませて貰ったわぁ。そ
れを後から報せて二度三度心を嬲るのも良い。年頃の女の子なら、あの程度でも結構きつ
いのでしょう。それとも女の子相手に交尾を重ねて、もうあの位は慣れっこになってい
る?

「良い素肌しているのね。柔らかで色白で」

 外気に晒されたこの両乳房を、鋭い爪を立てながら揉みしだき。血を滲ませつつ哄笑し。

「やっぱり貫かれて、子種宿さないと不足ぅ。
 唯殺すだけじゃ、私の気持が収まらないぃ。

 ほら、泣き喚きなさい。悲鳴上げなさいよ。
 もっと助けを求めて、叫びなさいって…」

「若木さん、わたしに何をお望みですか?」

 関知も感応も使えない以上に。わたしは傍で接してもこの人の思考発想が追いきれない。

「可愛いわねぇ。神原美咋も倉田聡美も、青島麗香もあなたを犯してみたくなる訳だわ」

 朱雀さんの付けた首筋の傷口に唇合わせて。
 ちゅうっと吸い上げる音が周囲にも聞える。
 美咋先輩も朱雀さんも相馬さんも渋い顔を。

「これが贄の血かぁ、初めて呑んだ。でも余り美味しくないわねぇ。私が化け物ではなく、
唯の人間だからかな。あなたの血より肉感や喘ぎ声の方が、私には美味しく感じられる」

 若木さんはわたしを責め苛む事を目的に。
 悪鬼の冤罪を被せて相馬党を呼び寄せた。

 自白の求めはわたしを責め苛み嬲る為の。
 わたしが悪鬼ではないと拒む事を見通し。

 女性の視線があってはやりにくかろうと。
 彼女は朱雀さんをこの場から暫く遠ざけ。

 自身も気配を潜めて隠れ。わたしを嬲り苛み虐げる様を眺めて撮って愉しんで。この心
を叩き折る為に。今宵を企図したのは彼女だ。

 彼女はわたしの股間にも手を伸ばし。下着の上から、女の子の大事な処を撫で回しつつ。

「女好きなら、これ以上私が蹂躙してもあなたを悦ばせるだけね。この先は相馬党の逞し
い男達にして頂きましょう。本当に最後迄」

 小さいけど、可愛いおっぱいだったわよ。
 この歳で散らせてしまうのが、惜しい位。

 鋭い爪を両乳房に立てて握り潰しながら。

「犯って頂戴。思う存分この鬼娘に、女の定めを思い知らせてあげて。その後で殺して」

 相馬党が全員がすぐに動けなかったのは。

 朱雀さんの意向が気懸かりだった以上に。
 わたしが鬼か否か怪しくなってきた為か。

 わたしをここ迄追い詰めるには、鬼切部を使う他に術がないとの彼女の見立ては正しい。
でも若杉の要員である彼女も、鬼切部を私怨や復讐では動かせない。わたしは人に害を為
してないから、討つべき悪鬼にも該当しない。わたしが人を傷つけたと言えば、首都圏に
出向いた時以外では、大野教諭を退けた時位で。だからその事実を歪めて伝えて、彼らを
招き。

「わたしへの復讐ですか? でも、なぜ…」

 美咋先輩を拐かした事や、わたしを悪鬼とする根拠に用いた事柄。彼女がわたしに纏わ
る噂を流し始めた時期。全てが大野教諭との絡みを指し示している。でも辻褄が合わない。

「あなたは大野先生を愛していた訳ではないのに……どうして自身も危うくする真似を」

 瞬間、右頬を平手打ちの電光が走り抜け。
 哄笑は、一瞬で修羅の憤怒に変じていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「俊政の復讐ではないって事は、見抜いていたんだ……中途半端に賢いと早死にするね」

 夏から秋にかけ流されたわたしの噂の源が。若木さんと悟れた時に最初に感じた違和感
は、『なぜだろう』だった。若木さんはわたしと殆ど接触を持たないので、日頃その声音
や仕草や顔色から、悟れる事柄も少なかったけど。彼女がわたしを憎み恨む理由を思い浮
かばず。

 大野先生を好いて愛していたから。彼を撃退し、失職に追い込んだわたしを憎み恨んだ。
との推察は最初に却下された。噂はわたしの中傷と共に彼の品性も貶めた。教え子に暴行
した等と囁かれては、彼の名誉も守られない。

 若木さんは大野教諭を、愛してはいない。
 でも、彼を打ち倒したわたしを恨み憎み。

 元々嫌われ憎まれ恨まれていた訳でもない。この夏迄、若杉の監視員としてわたしに距
離を置きつつ、心隔てつつも情報収集の任務に励むだけで。特段敵視して来ても居なかっ
た。

 大野教諭の件の後から、若木さんは動き出してわたしの噂を流した。今日の件も、大野
教諭との絡みが原因になっている。美咋先輩を巻き込んでしまったのもその所為だ。でも。

 なぜ若木葛子がそうせねばならないのか。
 なぜ羽藤柚明を標的にするかが分らない。

「分らない? 分らないのね。あなたも所詮、凡俗の一般庶民。私の心境なんて分る筈
が」

 推察も付かなかったから。真弓さんや正樹さんが若木さんを失職させる動きに出た時に、
わたしも強く止められなかった。その背後に何があるのか、どんな想いが宿るか見通せず。

 省みればそこに目を配り、踏み込むべきだったかも。正樹さんや真弓さんを説き伏せて、
協力や援護を願って一緒に事に臨むべきだったのかも知れない。若木さんに真意を問うて。

『彼女の想いをもっと早く確かめていれば』

 こんな事態に至らず済んだかも。若杉は合理的に考え、次の監視役を派遣するだけとの
推察は、半分当りで半分外れだった。若杉という組織は合理的でも、組織を支えるのは人
間で、人はそれ程合理的に動くとは限らない。

「こうなったからお話ししてあげましょうか。

 こうやって前髪掴んで、頭を柱に打ち付け放題出来る様になったから。あなた達庶民が
犯してはいけない、知っておかなければいけない世間の裏ルールを。もう最期だけどね」

 人の玩具に手を出しておいて、唯で済む訳がないでしょう? 私は若杉なのよ。お気に
入りのイケメンを勝手に潰されて、納得できる筈がないでしょうに。私の折角の楽しみを。

「あなたは……大野先生を、愛しては…?」

「愛してなんかいる訳ないでしょ。あんな凡俗の庶民。遊び道具よ。適当に剣道強くてそ
こそこイケメンだから、玩具にしてあげたの。田舎では見るに堪える男が少ないからぁ
…」

 私は若杉の一員なのよ。世俗の剣士もどき、真剣に相手にする訳がない。唯ここに赴任
して動けない間、退屈を紛らわす為の玩具として適当に目を掛けてあげていただけで。そ
う。

「俊政が、神原美咋を弄んでいた様にね…」

 あの男が娘を犯し進路を握り、言いなりに操る様がおかしくて。それで優越感に浸って、
人の一生を未来を好き放題に出来ると思いこむ愚かさが。それで自分は望む処に行けるっ
て思い込みが。所詮人の中で生かされているに過ぎないのに。勘違いして、思い上がって。

「どうせ私の掌の内から動けないってのに」

 あの男はお気に入りだから、異動なんてさせないわよ。あいつがほとぼり冷めて、経観
塚から母校に戻ろうとしても、人事に介入して阻むもの。私がここに勤め続ける間、あい
つは私の箱庭から逃れられない。あんた達羽藤が若杉の監視の中で、終生保護動物で居続
ける様に。己が囲われていると気付かぬ侭に。

「愛して、ない……のに、わたしを憎み?」

「おやぁ、お子様にはちょっと難しかった?

 深く愛した相手だから、傷つけられて恨み憎む。そんな対等に近い関係は、若杉と一般
庶民にはあり得ないの。身分が違うのだから。俊政も時々言っていたわね、エリート剣士
の誇りが何とかって。庶民の癖に、ちょっと腕が立つ位で。少し人より優れているから他
人を見下す、その優越感の儚さがおかしくて」

 俊政があんたを襲う処も、しっかり映像に収めていたのよ、神原美咋。観察日記だもの。
夕刻の進路相談室で犯された処も、休日の女子トイレで交尾強いられた処も。武道場で羽
藤柚明を襲って撃退された処も。夏の商店街で夕刻襲い掛って粉砕された処も。彼の動き
そうな処には常に監視カメラを潜ませている。

 私は羽藤の監視名目で、弐百台以上の監視カメラを密かに操っているの。商店街の防犯
カメラにも侵入して盗み見て。置きっぱなしにしておけば、感応でも気付き難いでしょう。
俊政だって気付いてないし気付ける筈もない。

「私が大野に脅されていた事も知って…?」

「分っていたわよぉ。でも私はあんたを助ける気もなかったし。あんたは羽藤と違ってお
っぱいも大きいから、色っぽくて良い交尾シーンだった。わたしは放し飼いが主義なのよ。
家畜に一々触れていたら、手が汚れるでしょ。こうして羽藤に触るのも珍しい事なんだか
ら。

 事実を明かすと脅して跪かせ、私を抱かせる考えもあるけど。それはいつでも出来たし。
私は若杉なの。権力使えば幾らでもやりたい放題好き放題。何も知らず愚かな思い上がり
を抱く彼を、影で見守るのも愉しいでしょ」

 彼女は大野教諭の人生を掌に乗せて弄び。
 その愉しみを妨げられた事に憤っていた。

 大野教諭と羽藤柚明の噂話を幾度も流して、美咋先輩の名を噂に一度も流さなかったの
は。わたしへの牽制だった。美咋先輩は剣道部の紅一点で、噂を流されるだけで致命傷に
なる。

 彼女はわたしの新情報を幾度も流し、美咋先輩の名前を実質伏せて。わたしに噂の源を
探りに動かない様に、正体を見せぬ侭脅しを掛け。だから彼女が噂の源と分っても、わた
しは軽々に動けず。羽様の大人に軽挙妄動を慎む様に、重ねて求められた事もあったけど。

 彼女は大野先生の人生を掌の上で弄ぶ様に。
 羽藤柚明の人生も掌の上で弄ぶ積りだった。

 困り苦しみ哀しみ傷み孤立する様を導いて。
 わたしや周囲の人達の在り方を観て愉しみ。

 それを正樹さん真弓さんに砕かれて。安全な処から好き放題に攻撃できる訳ではないと。
自分にも傷みが返るのだと、知らされた瞬間。彼女は憤激した。自分は違う積りで居たか
ら。人の人生を好き放題に操り観察し愉しんだ末、己がその当事者に何かされるとは思っ
てなく。

 慌てて若杉の威光に縋り、失職を免れようとしたけど。真弓さん正樹さんが先生方と揃
えた証拠は覆せず。若杉も彼女を積極的には助けず。彼女には給与の問題等ではなかった。
若木葛子がここで生活を続ける名目を失えば、真の目的である羽藤やサクヤさんの監視も
出来ず。任務をこなせず、逃げ帰る事に近しい。それは彼女の若杉内での面目も失わせる
事に。

 だから彼女は激怒して今宵の様な報復を。

 真弓さんや正樹さんの対処は間違いではなかったけど。若木さんの反撃が理不尽だった
けど。世の中は合理や正論だけでは通らない。鬼切部を使ってくると迄は思わなかったけ
ど。わたしの想定の限界が、禍を見通しきれなかった原因なのか。或いは彼女の応対が突
き抜けていて、関知の力にも予見不能だったのか。

「身分の違いも弁えず、若杉に属する尊貴な者の玩具に、手を出して壊す女はね……何も
かも奪い尽くされて、殺されて当然なのよ」

 美咋先輩も相馬党も、言葉を失っていた。
 わたしを苛み虐げ嬲るのは彼女の私怨だ。

 相馬党を動かした、悪鬼の話しも虚偽で。
 引きずり込んだ今だから明かして良いと。

「多少面倒な力を持っているから、追い込むのに少し手間暇が掛ったけど。これで終り」

 反撃の返らない安全な処で、噂を流してあなたの人生を操って愉しんでいたら、突然反
撃が来た。任務の基盤を突然崩されて、愉しむどころではなくなって。庶民の分際で、私
の玩具を壊した上に、大人しく操られもせず、私の立身迄妨げようとして。小生意気なの
よ。

「だから任地を離れる前に、あなたにも返り血を浴びせてやろうと思って。その取り澄ま
した美貌が、哀しみや悔いや叫びに歪む様をどうしても見たくて。鬼切部を呼んじゃった。

 監視役で、本部に戻るのを待つだけの私に、鬼切部を呼ぶ権限は本当はないけど。本部
に戻る前に大きな功績を挙げて箔を付けないと、組織内でいい顔も出来ないし。大丈夫、
私が権力を増せたら、相馬党も懇意にしてあげるから。ここ迄来た以上、お互いに一蓮托
生…。

 千羽の鬼切り役があなたの動静を尋ねてきたのも好都合だった。あなたの力量について
事前情報を仕入れてなければ、相馬も雑魚を遣わして、撃退されて終ったかも知れない」

 全ての流れが、私に向いているのが分るでしょう。念入りに力を封じ、神原美咋も攫い。

 美しく妖艶な表情が凄絶な笑みを浮べて。

「報復は、あなたの全てを奪い尽くす事よ」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「犯って頂戴。思う存分この小娘に、女の定めを思い知らせてあげて。その後で殺して」

 若木さんの再度の命令にも。相馬党も流石に動き出すのに惑い。美咋先輩も緊迫する中。

「何をやっているの。早く鬼を始末して…」

 もう自白なんて要らない。犯し貫き孕ませる間に自白するなら良いけど。しないなら最
期迄嬲り尽くして殺して。楽になったでしょ。最期迄自白を取れなくても罪に問われない
の。

「だが、この娘は鬼では、ないのだろう?」

「鬼よ。鬼切部相馬党が討ったなら、鬼か鬼に与した人間しかあり得ないの。違う…?」

 相馬さんが気合い負けするのは初めて見た。
 南郷さんもやや判断に迷う感じで問を発し。

「けど、人を喰らった事も血を啜った事も」

「あったと報告しておけばいいじゃない。あなた達意外とマジメね。私達全員が口裏合わ
せれば、誰がその真偽を確かめられるの?」

「我々は鬼切部相馬党。人の世を脅かし人に害を為す悪鬼を討つのがその使命。悪鬼でも、
まして鬼でもない娘を討つのは使命では…」

 朱雀さんの抗弁に、若木さんは苛立ちを。

「ちょっとあなた達、今更ここ迄来て何を言っているの。この侭鬼を討てなくて、戦果も
なくノコノコ本拠に帰って、失笑されるのはあなた達よ。使命を請け負った当主や鬼切り
役の顔に、泥を塗るだけなのよ。娘達をこの侭帰して、それで済む筈がないでしょうに」

 鬼切部がミステイクなんて。しかも無関係な一般人まで巻き込んで、鬼切部や鬼の存在
を知らせ。下手をすればあなた達も首が飛ぶ。相馬党全体に火の粉が及ぶ程の大事になる
わ。

「あなた達、この娘達に今迄何をしてきたと思っているの。今更和解など出来る筈がない。
この2人を鬼と鬼に与した者として切る他に。

 相馬党は警察とも繋って居るんでしょうに。
 こんな不祥事を今迄幾つもみ消してきたの。

 何の為の人脈で癒着なの。若杉からも手は回すから。2人は女同士の恋愛が縺れて無理
心中した、それで済ませておけばいいのよ」

 2人にしたのは。美咋先輩を選んだのは。
 大野教諭の件で傷を共有したわたし達が。

 互いの先行きを儚んで共に生命を絶つと。
 勝手な脚本を書いてそれに沿わせようと。

「待って。わたしに敵意はないから。美咋先輩ともよくお話しするから。早まった事は」

 若木さんの独走が見えた今なら。わたしが悪鬼じゃないと悟れた今なら。相馬党は敵で
はない。為された事への謝罪や賠償は後回し。今は美咋先輩の身の安全を。わたし達を害
さないとの保証を。身柄の拘束を解き放ってと。彼らにも、決して悪い様にはしないと伝
えて。

 訴えかけるわたしに、間近の若木さんは、

「あなたが助かる途はないの。諦めなさい」

 羽藤真弓も浅間サクヤも、守るべき幼子を2人も抱えていては、若杉に戦いを挑めない。
生きていれば助けようとするけど、死んでしまえば諦めるわ。取り返しが付かないものぉ。
後腐れなくする為にも死んで貰った方が良い。

「無理が通れば、道理の方が引っ込むのよ」

 あなた達はここで今宵最後を迎える。もうあなたが悪鬼でも悪鬼でなくても関係ないわ。
鬼切部の正体を知った一般人も、野放しには出来ないでしょう。口封じしなきゃいけない。

「そうそう。あなたのたいせつな人達も後追いさせてあげるわね。神原美咋だけじゃない。
若杉の尊貴な身分たる私に、神の血筋たる若木葛子に、恥を掻かせてくれた報いだものぉ。
あなたのたいせつに想った人達を、根刮ぎ悲嘆の淵に叩き落し、死の後を追わせてあげる。

 若杉の権力を使えば、何でも出来るのよ。
 やりたい放題好き放題に、人脈を介して。

 悪鬼を討った功績を持ち出せば、若杉内部は平伏するわ。かなり遠く迄意の侭に動かせ
る様になる。あなたの討伐で私の発言力が増して、あなたの大事な人達に悲憤が及ぶっ」

 倉田聡美も、青島麗香も、海老名志保も。

「どこかで突然事故に遭う。不幸な犯罪被害者になる。若い身空で可哀想にぃ。あぁ!」

 ついさっき生命がけで庇った金田和泉も。
 不良に絡まれて、犯されて自殺するとか。

「あなたの近しい人間が次々不幸に見舞われたら、あなたの詛いと言われるかしら? あ
なたが寂しがって冥土に引きずっていると」

 首都圏に進学した鴨川真沙美も、佐々木華子も、朝松利香も。中学校に難波南が居たわ
よね、可愛い女の子だったけど。あなたと関りを持ったお陰で、とばっちりで酷い目に…。

「寂しいのも僅かの間よ。私はあなたをよく観察してきた。あなたの近しい者は全て知っ
ている。白川夕維も結城早苗も篠原歌織も」

 あなたの住んでいた周辺の人口がかなり減っちゃう! 過疎化一気に進行中。でもねっ。

 若木さんはわたしの顎を掴んで言葉を封じ。
 間近で憎悪の籠もる視線を叩き付けてきて。

「経観塚だけじゃないでしょう。あなたのたいせつな人は。父方のいとこの、3つ年上の
仁美と、一つ年下の可南子。あなたあの2人ともいい仲だって言うじゃない。それにスコ
ットランド在住の幼友達も。海外なら自爆テロに巻き込まれるなんて筋書もいいわぁ…」

 それに、福岡の病院で死を待つばかりの。

 彼女はわたしのたいせつな人達を、次々と『死の名簿』にリストアップして。その最後、

「平田詩織の命運も、少し縮めてあげるっ」

 庶民の人生を好き放題に操れる、若杉の逆鱗に触れた愚かさを、噛み締めながら逝くと
良い。全てあなたの手には届かない。あなたを悪鬼として討った功績で、昇進できたなら。

「全員の死は哀しみは、あなたの所為って話しになるかもぉ。最初からこうしておけば良
かったわ。こんな片田舎で地味な監視任務に努めるより、あなたを鬼として討った功績で
本部栄転する方が、ずっと早くて効率良い」

 あなたにそれは止められない。もう止める力もない。出血はかなりの量だし、化外の力
は封じられ、体は枷と縄で縛られて。千羽の八傑に近しい程の技量も使えない。ねぇねぇ。

「何か言ってよ。何かわたしにお願いする事はないのぉ? 聞いてあげるわよ。聞くだけ
だけど。叶える積りなんてこれっぽっちもないけど。おっぱい嬲られながらお願いする?
 首筋吸われながらお願いする? あなたの操を差し出しても何しても、今更私に止めて
あげる積りはなくてよ。身分の違いってのは、そう言う事なの。やりたい側は人生も未来
もやりたい放題好き放題に、遊び半分で操れて、される側はどんなにどんなに頑張っても
手が届かない。その隔絶が身分なの。分った?」

 前髪を掴むとこの後頭部を柱に叩き付けて。
 若木さんはやりたい放題好き放題を連呼し。

「さあ相馬党。余計な迷いや躊躇いはそこら辺に捨てて、さっさと2人を始末なさい!」

 ダメだった。どの様に願っても。この人は真っ黒な憤怒を心に宿し。人を操り生かし殺
すその権力に酔いしれて。どの様に頼んでも。

 わたしは局面打開の希望を求めて視線を。

「朱雀さん……わたしは、あなた達を許せます。どうかこれ以上の過ちは繰り返さないで。
一つの過ちを隠す為に、更なる過ちを繰り返さないで。あなた達は鬼切部。人に害を為す
悪鬼を討つのが、その使命でしょう……?」

 朱雀さんがこの上ない困惑の表情を見せた。
 考えてみれば、この人も未だ年若い女性だ。

 これ程困難な局面は、想定してないのかも。
 言葉にも行動にも迷いを見せた彼女に対し。

「やむを得ん。ここは娘達の口封じだ朱雀」
「手ぶらでは帰れねぇ立場は、お前もだろ」

 相馬さんと南郷さんは、躊躇いつつ体面を重んじて、若木さんの指示に沿う意向を示し。
ここで完全に口封じできれば、隠蔽できると。相馬党は己の不祥事を覆い隠す道を選ぶの
か。

「美咋先輩には何一つ罪がありません。感応の力も何もないし、誰1人傷つけた事もない。
今咲き誇ろうとしている美しい人を、あなた達は無実と分って殺めてしまうのですか?」

「柚明だってそうだろ。私を救う為に鬼畜を打ち倒しただけで。人に害を為した訳でもな
い女の子が、冤罪で殺されるなんて。冗談じゃない。これではあんたらが鬼じゃないか」

 鬼で良いのよぉ。相馬党の誰もが応えられない中、若木さんの声だけが強く響き渡って。

「鬼切部は、元々鬼を殺せる程の連中の集まりなの。鬼の様な奴らじゃなきゃ、鬼なんて
やっつけられないでしょう。力も性格もっ」

 若杉に付いた側の鬼が鬼切部で。若杉に討たれる側の鬼が悪鬼。極論すればそう言う事。

「若杉の血に神の血に、民衆は飼い慣らされて従っていればそれで良いの。異国でも言う
じゃない、迷える子羊たちって。その先行きを指し示すのが私達尊貴な若杉で。その手先
として働く猟犬が鬼切部なの。分ったぁ?」

 いつ迄善人ぶって迷っているの。若木さんの突如低く響いた声に、朱雀さんも意を決し。

「やむを得ない。相馬党も鬼切部の一員。その指示に従うのが我らの職分……不憫だが」

 悪鬼から人の世を守る鬼切部に、過ちはあってはならない。あっては、ならないのだ…。

 朱雀さんは、沈痛な面持ちで刀を抜き放ち。わたしへ歩み寄ってくる。彼らの意は決し
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 夏に首都圏に赴いた際に、不二夏美はわたしにこう告げた。忠告というか予言というか。

『たいせつな人を喪った悲憤で鬼になる位なら、たいせつな人を喪う前に、守り庇う為に
鬼になりなさい。あなたにはその資質もある。

 力及ばず守り通せなかったとしても、諦めが付くし……仮に守り通せたなら、自分が切
られて終っても得心できる。私はそれに気付くのが少し遅かったから、たいせつな人を喪
った後に憎悪と憤怒で暴走して鬼になった』

 こんな局面を迎える事を彼女は分っていたのだろうか。最早滅び去った彼女に尋ねられ
はしないけど。その言葉は妙に心に残り続け。

『わたしの事を案じてくれて、有り難うございました』『誤解するな。俺は八木の状況を
確かめに来たに過ぎぬ。それと、お前が不二夏美の後を追わないかどうかも、見定めに』

 わたしが心を折られて鬼になっていたなら。
 切る積りだったと明良さんが語ったあの時。

『見定めは終りましたか? 未だご覧になります?』『否、もう充分だ。お前は鬼にはな
れぬ。甘すぎて、周囲の者には毒に近いが』

 その言葉が彼の願いの様にも感じられた。
 そうあって欲しいと敢て言霊にした様に。
 絶対に鬼になるなという願いは裏返せば。

 彼も羽藤柚明の先行きを案じて、若杉の末端である若木さんに、わたしの動向を尋ねた。
それが彼女の犯行に利されたのは不運だけど。

 真弓さんがどこ迄進んでも、わたしの修練を続けてくれたのは。わたしの願いに応えて
くれたという以上に。わたしに道を誤って欲しくないと願い、その怖れを感じていたから。

 今この様な事を、思い浮べてしまうのは。

「せめて、辱めや苦しみ少なく済ませよう」

 朱雀さんが、最上位者の責任を負う感じで、渋い表情で刃を抜いて近付いてきて。若木
さんが少し退いて、美咋先輩や相馬さんの傍に。

「どうしても……過ちを重ね続けるの…?」

 わたしの願いは届かないのか。わたしの想いは響かないのか。この人は決して悪意な人
ではない。話せば通じると、思っていたけど。

「鬼切部の失陥は鬼の跳梁を許し、無辜の民の犠牲を増やす。鬼切部はいつでもどんな場
合でも、鬼を討てる体勢を保たねばならない。相馬党の体勢にひびが入れば。立て直す迄
の間に無辜の民が、悪鬼に襲われ喰らわれる」

 鬼切部に過ちは、絶対に許されないのだ!

 朱雀さんは、苦しみを残さぬ様に一刀で済ませる気だ。残された時間は、数拾秒もない。

 この時になぜ、不二夏美の声が耳の奥に。

 鬼になれば、鬼になったら、鬼の力なら。
 そんな言葉ばかりが頭の中を巡り巡って。

 わたしは鬼になっても生きたく望んでいるのだろうか。お父さんお母さんを、そのお腹
にいた妹を殺めた鬼に。鬼になっても生きたいと? 鬼切りの刃を前に、本当に鬼になろ
うかと、なれるかと。考え、迷い、躊躇って。

「柚明……柚明……! お願い、柚明を殺さないでっ……」「お前の処断は彼女の後だ」

 視界の隅では、美咋先輩が相馬さんに首筋へ刃を突きつけられていた。先輩は縛られた
侭で、鬼切部の強者がし損じる可能性はなく。わたしが討たれれば、先輩も生きて残れな
い。

 わたしが生命尽きる事が先輩の生命も絶つ。
 これは自身の生命のみの問題ではなかった。

 わたしの死を悲しみ涙してくれる人もいる。
 簡単に諦めて良いとは思えないけど、でも。

 朱雀さんは、正面間近にすっくと立って。
 刀を構えた侭で、流麗な瞳で見下ろして。

 生命を絶つ刃はもう振り上げられている。
 この時に胸の内に湧き出す懐かしい声は。

『お前に生きて微笑んで貰う事が、父さんの幸せなんだ。それを守る為なら、大切なお前
の笑みを守る為なら、父さんは何でもできる、何でもやれる。鬼の一匹や二匹、怖くはな
い。腕の一本や二本、痛くもない!
 だから生きて、生きて幸せになってくれ』

 お父さんはそう言い残し、生命尽きる迄鬼と戦い続けた。今目の前で愛しい人に迫る理
不尽な危難を、己の絶命を前にしてわたしは。

『母さんとお前の幸せがあれば、父さんはそれで良い。それだけが残れば、それだけ…』

 わたしも、たいせつな人の守りと幸せが保てればそれで充分だった。それさえ残せれば。

『この生命ある限り、お前はここで止める』
『誰かの為に、役に立てる人生を、柚明も』

 己の生命ある限り、例え鬼になろうとも。
 たいせつな人の守りと幸せを保てるなら。

 さっきの和泉さんの時とは違う。今わたしが彼らの思う侭に切られても、誰の守りにも
繋らない。わたしは誰の為にも役に立てない。愛しい双子の傍にも添えず。わたしが寂し
く哀しいより、桂ちゃん白花ちゃんを涙させる。

 そしてもう一人この胸に響く懐かしい声は。

『あなたが生きてくれないと、お父さんの想いも生命も、浮ばれないのよ。あなたは、生
きてくれないとダメなの。……私の為にも』

『父さんと母さんの生命を無駄にしないで』

 この生命は既に己一人の物ではなかった。

『父さんと母さんの子供として、生きて頂戴。あなたの幸せが父さんと母さんの願いだか
ら、あなたが笑ってくれる事が私達の願いだから。あなたには、これからが、あるのだか
ら…』

 これから……。これからが尚わたしには。
 絶対に生きて為さねばならない事がある。

 愛しい人を守る為に、救う為に。例えどれ程の犠牲を払っても。わたしはここで切られ
て終る訳に行かない。必要ならば戦ってでも。

『お父さん、お母さん、サクヤさん、笑子おばあさん、真弓さん、白花ちゃん桂ちゃん』

 周辺の空気が騒ぎ始め、風を巻き始める。
 鎖された廃屋の中で、扇風機もないのに。

 固定された柱を中心に、わたしを中心に。
 体の奥、筋肉の奥から膨大な力が湧いて。

「羽藤柚明……覚悟っ ……ん、なっ…?」

 次の瞬間。ガス爆発にも似た轟音が、廃屋の屋根も壁も吹き飛ばし。羽藤柚明は全ての
軛を、己自身の抑制さえも、断ち切っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 憤怒も憎悪も解き放つ。全ての想いを込めるとは、好意や愛や信頼のみならず。己が抱
く想いの全てを滾らせて。一つの執着の為に集約させる。嫉妬も我欲も情念も不安も苛立
ちも。唯一つの目的の為に限界を突き抜ける。

 左太腿に刺さった霊刀から侵入して乱れる霊力を押し返し。己の想いを強く紡いで、逆
に霊力を包み囲み、霊刀へ退かせ。左首筋の傷口から力は流れ出るけど、流れ出るに任せ。
集中豪雨と同じで、出る量を超えて溜めれば水位は上がる。内圧を高め、若杉の呪力が籠
もる手枷を柱を、内側から破裂させる感触で。

 手枷の呪力を組み従える。鬼やあやかしの詛いを圧し、枷を逃れたかった当初の想いへ、
わたしの力で途を示し。負に転換された効果をもう一度負に転じて、正に戻す。力づくで。
鬼にならずとも討たれて終る身なら。鬼になって死中に活を望む他に、生き残る術はない。

 腕力は不要だった。若杉の呪術は解かれた瞬間、込められた呪力が手枷を粉砕して散り。
身を括り付けられていた太い木の柱は、縦に真っ二つに割れて機能失い。勢いで廃屋を壁
も屋根も吹き飛ばし。若木さんも相馬党も美咋先輩も吹き転がし。鬼の力は加減が難しい。

「くそっあの娘、本当に鬼になりやがった」
「ならば好都合。討って正解という事よっ」

 吹き転がされた南郷さんと、相馬さんが起き上がる。2人も兵卒達も若木さんも、やや
離れていたから、驚きはあっても痛手は軽い。美咋先輩は横たわっていた為に、余り転が
されず、比較的近くで気を失っていて。そして、

「鬼にしてしまったのか。追い詰めた末に」

 額を浅く切った朱雀さんが、近くに立っていて。整った色白の素肌を流れる紅が美しい。
廃屋が吹き飛んだ為に電球はなくなったけど、月明りがわたし達をわたしを照し出してい
て。

「我らが鬼を、作り出してしまったのか…」

 筋肉の奥から沸々と力が湧き出でる。贄の血の力の青い輝きが月明かりを越えてこの身
を包み、溢れ出て。力の暴走は、修練でサクヤさんを灼いてしまった中学2年生の秋以来。
制御しきれない力を放散するなんて、笑子おばあさんの教えに背く愚行だけど。それでも。

「たいせつな人をこれ以上傷つけさせない。
 わたしも一番愛しい双子の元に必ず帰る」

 生きて帰らねばこの生命を役立てられない。
 戦って倒さねば愛おしい人も守り救えない。

 濡れ衣の侭で討たれては美咋先輩の生命も己の未来も残せない。若木さんの無差別な復
讐を許す事になって。誰の為にも尽くせず役立てず終ってしまう。通常の方法で生き残る
事が叶わないなら。例え正義でも鬼切部でも。

「打ち破ってでも退けます!」「ぬっ……」

 わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。
 反撃も報復も欲しないけど、極力厭うけど。

 あくまでも、たいせつな人の害となるなら。
 願いを届かせるのに最早他に術がないなら。

 罪への怯えより、罰への怖れより、鬼切部の正義よりも、愛しい人の守りと幸せが優先。
己自身の赦されたい願望等後回し。だから…。

「わたしは全ての抑制を踏み越えて、降り掛る火の粉を払う。鬼と呼ぶなら呼べば良い」

 己の姿形や在り方はそれ程に大切ではない。
 何を為すか為せるかが常に一番重要だった。

 羞恥も怖れも悔いも全て心の奥に収納する。
 今は唯尽くしたい者の為に届かせる限りを。

 首筋や肩口を乱されたセーラー服や、破られ掛けたスカートが、己の力の気流に煽られ
て更に素肌を晒すけど。今はそれを抑え整える事はせず。魅せられる程に素晴らしい肢体
でない事は、分っているけど。今暴走を抑えては、わたしの生き残る途が消える。大量失
血で贄の力も強く紡げない今のわたしは、鬼の暴走で力を増して敵を退ける他に術がない。

 装い等どうでも良く思えて来るのは鬼の思考発想か。鬼は己の執着と基本的な欲求以外、
身繕いも他の事もどうでも良くなってしまう様だ。長く暴走を続けると己の意志を持って
行かれる。暴走の開放感に酔いしれる前に戻らなければ、危難を凌いでもわたしの理性が
侵される。その面でも早い決着が必須だった。

 美咋先輩が目を醒ました感触を悟れたけど。
 関知も感応も封じを解かれて、使える様に。
 でも鬼の暴走の故か失血の故か感度は低い。

 敢てそちらには注意を向けず。美咋先輩の反応が微かに怖かった為もあるけど。今は相
馬党や若木さんの注意もわたしに向いている。美咋先輩に向け直すのは好ましくない。先
輩も縛られた侭なので、暫く様子を窺う様だし。

「遠慮はせぬ。我が過ちを断つ思いで…!」

 狩衣姿の朱雀さんが、刀を振りかぶって正面から迫り来る。相馬党の技の名を唱えてい
た様だけど、全て聞かず。こちらも一歩二歩前に踏み出し。振り下ろされる刀よりも早く。

 この中では一番の強者でも、真弓さんや明良さんに較べれば、その動きは遙かに遅く緩
慢だ。今のわたしは大量失血や深傷のマイナスと鬼の強化のプラスがほぼ均衡し、いつも
通りの技や力を使える状態にある。無手でも、刀持ちの彼女達を全員倒す事は無理ではな
い。

「ぷるああぁぁっ!」「「「朱雀様っ」」」

 顔に掌打を当てる、一応爪は立てないけど。相手は女性でも鬼切部だ。一手誤ればこち
らがやられる。わたしが倒れれば、先輩を守る人はいない。それでも女性の顔に当てたの
は鬼の影響か。掌打は内部へ浸透する技だから、涼やかな美形が歪む心配は拳より少ない
けど。

 長身な女性は軽く浮き上がった後で後ろに倒れ、白目を剥いて起き上がれず。剣士とし
ても感応使いの術者としても優れた人だけど、打たれ強さには欠ける様で。否、真弓さん
やサクヤさんに鍛えられた羽藤柚明は、通常の鬼切部の強者の想定も、超え始めているの
か。

 若木さんも兵卒達も動揺を隠せないけど。
 意外と冷静なのが奥州拾七万騎の2人で。

「あーあーあ、やられちまったよ朱雀サマ」
「五柱神と言っても所詮女だ、この程度よ」

 南郷さんも相馬さんも、自分の方が朱雀さんより強いと思っている。五柱神の女性枠で、
女で一番強いから上の地位に就けただけだと。女性は全て男性に劣る物だと確信して疑わ
ず。

 配下扱いも本当は不納得で。打ち倒された彼女を見下しつつ、己の感覚が立証されたと。
そして今わたしを討てば功績を掴め、己が彼女の地位を越えられると。勇み立ち奮い立ち。

「一撃でやられるとは五柱神の名折れだな」
「引退して貰おうじゃねえの、もうここで」

 とっとと鬼を切って。それから朱雀を犯して黙らせようぜ。実際朱雀は鬼に敗れたんだ。
その鬼を討ったのは俺達だ。若杉の姉さんはその辺考えが柔軟そうだから。俺達の出世を
若杉から口利きして貰うって事で。この女は、

「綺麗事ばかりで、五月蠅くてかなわねぇ」
「くくっ、俺もそう思っていた処だ、宗正」

「早く、早くあの鬼を切り捨てて頂戴っ!」

 朱雀さんの敗北に焦った若木さんの叱咤に。
 望みは叶えてあげるからとの答に笑み浮べ。

 2人はわたしを左右に挟み込む様に展開し。
 兵卒3人も苦内を持って散開して囲むけど。

 その間、わたしは左太腿に刺さった小刀を引き抜き。意外と出血が少ない。この体に残
る血が少ない以上に、鬼の筋力が傷口を締め。お父さんお母さんの仇の鬼も、警官隊の銃
弾を多数受けて、現場に殆ど血痕残さなかった。

 青い光が溢れてうねり、力の気流で衣が煽られ素肌晒される外。外見でわたしに顕著な
変化はなく。角も生えず爪も伸びず牙も出ず。変化には多少の時間が掛るのか。失血が多
すぎてそうなる力を欠いているのか。筋力が多少増したけど、手足が盛り上がる程の変化
はなく。通常時も気合を入れればこの位は増す。

 唯筋肉の奥から、心臓の奥から、脳髄から。
 打ち倒したい、粉砕したい、叩き壊したい。

 破壊衝動が沸き上がってくる。憎悪も憤怒も嫉妬も性欲も、その他の負の面の想いも全
て解き放っているから。今はそれに適度に乗せられ操りつつ、生き残らねばならないけど。
やはりいつ迄も巧く続けられるとは思えない。

「覚悟しろ、鬼畜!」「さっさと死にな!」

 飛び苦内でわたしの動きを制約し。左右から次々と斬り掛ってくるけど。その早さ鋭さ
は朱雀さんとそれ程変らない。客観的に見れば今宵対した相馬党の3人の剣技は同レベル。
無手で応戦しても傷つけずに退けられるけど。退けた後で蠢動されても困るし、今のわた
しはそれ程手加減したい心理状況でもないから。

 左足は少し不自由だけど。痛みは感じても動かせる。自由自在とは行かないけど、この
2人相手なら対応できた。明良さんのレベルならこの不自由は、きっと致命的だったろう。

 右てのひらを刃に掠めさせつつ身を躱し。
 更に迫る相馬さんに向けて右の拳を放つ。

「愚かな女だ、リーチが短すぎる。貰った」

 彼が振り下ろす刃の方が、鬼になっても女の子の拳より、遠く迄届くのは承知だ。それ
を分って仕掛けた事を、悟れてないのは彼の方だ。彼の顔面を狙うのは、この拳ではなく。

「くあっ!」彼が思わず振り下ろしを止め。

 この掌から飛ばせた贄の血が目に入って。
 慌てて顔を瞼を手で拭い、後退するけど。
 左右も前後も見えぬ彼を追って倒すのは。

「愚か者に敗れて下さい」至極簡単な事だ。

 心臓に掌打を当てて昏倒させると。相馬さんの刀を奪って、右後方に振り払う。南郷さ
んが功を焦って、もう少し踏み込んで来れば、その身を切れた。彼が寸前で踏み止まった
から牽制に留まったけど。その相馬さんの刀で飛来する苦内を巧く弾いて、別の兵卒に当
て。

 ぐあっ。腹部を抑えて屈み込む彼は、もう今宵の戦闘には役立てない。一応致命傷は避
ける積りで狙ったけど、わたしも余りそこには丹念に気を使えなく。時が進めば進む程打
ち倒す事に比重が傾き、傷つけない事や手加減には留意しがたく。早く打ち倒さないと…。

 更に飛来する苦内を南郷さんに向けて弾く。
 彼も流石に予測出来たらしく剣で防ぐけど。

「待て、飛び苦内は控えよ」「はっ……は」

 兵卒の久秀さんが、もう一人に声を掛けた。その声に動きが止まる瞬間が狙い目に。相
馬さんの刃を右手一本で南郷さんに、挑戦する様に伸ばすと同時に左手で。少し前までこ
の左太腿に刺さっていた朱雀さんの小刀を放ち。

 投擲が得意な者も投げられる事は不慣れか。
 左太腿を小刀に貫かれ兵卒はその場に蹲り。

「て、てめぇっ!」「な、何という手練れ」

 残るは2人。南郷さんと久秀さんを見つめつつ、少し遠くに若木さんの動向を確かめて。

「あの時わたしを犯しておけば、こんな状態になっても、わたしを怯ませ従えられるのに。
そう思っていますか、南郷さん」「……!」

 どっ。南郷さんが怯んだ瞬間、久秀さんが地に倒れ伏す。彼に語りかけたのは、久秀さ
んを狙う動きを紛らす事と、一瞬でも驚かせ怯ませ硬直させて、妨げられぬ様にする為で。

 相馬さんから奪った刀は、投擲して久秀さんの右肩に刺したから失ったけど。わたしは
南郷さん相手なら、無手でも充分打ち倒せる。久秀さんも太刀を投げるとは想定の外らし
く。鬼切部は侍の系譜にあって、愛刀を己の相棒として大事に扱う。苦内や小刀ならとも
かく、太刀を手放すのは鬼切部の想定にはない筈だ。

「糞がぁ! 鬼娘1人に、鬼切部相馬党が」

 やられる筈がねぇ。怒号で気合を入れ直し。
 彼は渾身の刃を振るって、迫り来るけど…。

「相馬……、ん? ぶはっ!」「……遅い」

 流儀や技の名を言い終える前に、わたしの方が距離を詰め。振り下ろす前なら、刀を防
ぐ必要も避ける必要も躱す必要もない。相手の技が発動する前に、己の技を届かせ当てる。
間合に入り込んだなら、長い刀より無手の方が動き易い。更に言えば小柄な方が動き易い。
腹部への掌打で彼も気絶して。残るは背後の。

「ば、バカな……そんな……相馬の、鬼切部相馬党の精鋭が。五柱神に奥州拾七万騎が2
人もいて、女子高生1人に敗れるなんて…」

 若木さんが、愕然とした呟きを漏らす中。
 愛しい声が、わたしの名前を叫んだ瞬間。

 鈍い銃声と共に、この右肩が弾け飛んだ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「まさか奥の手を使う事になるなんてねぇ」

 相馬党の刀剣所持で既に銃刀法違反なら。
 若木さんの拳銃所持にも不思議はないか。

 彼女は当初わたしを狙って発砲しようとしたけど。それなら関知も感応も使えるわたし
は、その照準が付いた時点で身を躱せたけど。彼女の動きに気付いた美咋先輩が、その意
図を察して声を上げて。若木さんはそれでわたしが銃弾から外れてくると瞬時に考え直し
…。

 縛られた侭で声を発した美咋先輩に銃口を。
 気付かれた先輩は躱せず隠れる物陰もなく。

「させないわ!」2人の間に、己を挟めて。

 美咋先輩を確実に庇う為に、身を横たえた先輩を背に、地面に滑り込んで己の致命傷に
ならない処に銃弾を受ける。若木さんの読みはわたしがその様に動くから必ず当たるとの。

「柚明……! あぁあんた」「やったぁ!」

 拾メートルの距離を置いて彼女を見上げ。
 座り込んだ姿勢でこの右肩に銃弾を受け。

 鬼の強化で弾丸は傷浅く食い止めたけど。
 貫通ではなく打ち込む事が彼女の狙いだ。

 青い力のうねる中、右肩の傷口から金色の光が漏れ出て、身の内側を灼いて行く。筋肉
で血管で油が沸騰する感覚は、弾に込められた若杉の呪力が、鬼の力も血肉も燃やす故の。

 あぁっ……。思わず座り込んだ姿勢が崩れ。
 慌てて美咋先輩を背に庇う形を、戻すけど。

 身の内側から炎が吹き出す様なこの感触は。

「呪力入りの銀の弾丸よ。中に食い込んで鬼の力も血肉も灼いて、苦しめ滅ぼす霊的な力。
その傷と失血で良い動きを見せてくれたから、当てられるかどうか不安だったんだけど
ぉ」

 最後はあなたをよく観察していた私の勝ち。

 食い込んだ弾丸は手刀なんかじゃ取れない。
 鬼の爪では触れた瞬間相殺して掴めないわ。

「その侭体の内側から燃やされて、死んでおしまい。苦しんで、苦しんで、苦しんで!」

「そんな、柚明……私は、あんたをっ……」
「大丈夫です。美咋先輩は……悪くない…」

「はっははははは。いい顔になってきたぁ」

 相馬党の男達にむしゃぶりつかれて、喘ぎ声上げていたあの顔に戻ってきたぁ。それ!

 若木さんはわたしが美咋先輩を庇う位置を外せないと知って、次々と銃弾を放ってくる。
わたしは動けないから、致命傷回避に両の腕を並べて体の中心線を守り。銃弾を受け止め。

「動けない的! 動かない的! どんどん当てて、鬼をやっつけましょお」「柚明っ…」

 足や脇腹や並べた両の腕に銃弾を受けつつ。
 食い込んだ弾からは次々金色の輝きが漏れ。

 唯血肉が力があれば相殺され、燃やされる。
 抜き取る事も叶わず、反応は防ぐ術もない。

「銃弾は人に当たっても充分痛いです。少しの間、身を伏せていて下さい」「あんた…」

 美咋先輩へのお願いは。彼女の自責を減じる為に。若木さんの銃弾を受けるのはわたし
の願いで、先輩の所為ではないと伝える為に。

 内側から神経も血管も筋肉も溶かす高熱に。
 悲鳴を抑えきれず先輩を心配させてしまう。

 もっと己を強く保たねば。銃弾は致命の位置には当たってない。呪力さえ何とかすれば。

「化外の青い力が、鬼の力が消え掛ってるぅ。
 金色の光も減っているのは、相殺の結果ね。

 もう反応するだけの、鬼の血肉も力もない。
 最後の切り札の、鬼の力も燃やし尽くされ。

 銃創は致命傷じゃなくても、もう動けない。
 今度こそあなたもお終いね。お終いね!」

 贄の血の青い力は急速に薄れている。無秩序に放散させていた輝きは、もう殆ど体の外
に出ず。でも、この間に彼女もかなり銃弾を。

「どおぉ? 苦しい? 苦しい? 苦しい?
 これが若杉と庶民の身分の違い、隔絶なの。
 あなた達地の雑草と、神の血筋の違いなの。

 若杉が鬼切部を使って鬼を狩るのは、世が乱れて若杉の収益が減るのを避ける為。1人
1人の民草等知った事ではないの。あんた達が何人いなくなっても、世界は何も変らない。
若杉は神の血は君臨し統治し支配し続ける」

 気に入らない稲が生えていたら、一本位いつでも抜き取れるのよ、若杉は。私達尊貴な
身分と、あなた達大量生産の庶民との違いを。

「思い知って、悔し涙の内に死になさ…?」
「その銃弾が尽きる時を、待っていました」

 わたしは既に若木さんの間近に迫っていた。

 足にも銃弾を受けたけど。小刀の傷は尚痛むけど。体と鬼の力が灼かれ、崩れて行く熱
は感じても暫く堪え。その拳銃を絡め取って。彼女は格闘は全くの素人だ。簡単に抑え込
み。

「この銃を奪えば、身分の違いは終りですか。
 雑草の血と、尊貴な若杉や神の血の隔ても。

 部下や武器や立場を失えば、それ迄の物に過ぎないと言う事でしょうか」「なんで?」

 わたしは彼女に彼女自身の言葉を告げる。

 銃弾が宿す呪力は、今のわたしには致命傷にはならない。贄の血の青い力も抑え込んで。
鬼を解いて人に戻り行く、今の羽藤柚明には。

「……人の一生を未来を好き放題に出来ると思い込み。それで自分は望む処に行けると思
い込み。所詮人の中で生かされているに過ぎないのに。若木さん、あなたもそうなのに」

 人に何かを為せば当たり前に報いは返る。

 天上界からやりたい放題好き放題に操って、己のみは安全なんてあり得ない。何かを為
すなら返り血を浴びる覚悟が要る。例え若杉でも相馬でも、因果の理法からは逃れられな
い。

「若木葛子は今宵の一件の当事者で首謀者。
 あなたの行いの結果はあなたに返ります」

 わたしがその胸倉を掴んで静かに告げると。
 若木さんは漸く自分の危機を悟ったらしく。

「私を殺せば若杉を、鬼切部を敵に回すわよ。
 私は尊貴な若杉よ。神の血も引く葛子なの。

 私の生命を奪えば、羽藤は必ず殲滅される。
 羽藤真弓や浅間サクヤが、幾ら強くたって。

 幼子や足手纏いの夫を連れ、全国の鬼切部からは逃れられない。戦いを挑める筈もない。
仮に倒せても、鬼を切る物を失ったこの国で、鬼に生き血を狙われる羽藤が、この先一体
どうするの? 鬼切部を失ったこの国の先行きも考えて。民草は一体何に守られ囲われ生
きていける? もっと大きな視点で考えて。私を殺す事は、若杉に弓を引く事に等しい
…」

 わたしは変形した彼女の生命乞いを聞いて。
 徐々に怯えに歪むその表情を冷やかに眺め。

 まさかそんな、ある筈ないと、疑念に揺れ。
 わたしの沈黙に、冷や汗が滲み始めた頃に。

 本当は手を下したい気持にさえなったけど。
 この時は既にわたしも落ち着き始めていて。

「民草の1人に過ぎないわたしに、神の血筋を引く尊貴な身分の者の気持は分りません」

 銃弾はこの身に食い込んで、更なる出血と苦痛を強いている。長くは動き続けられない。
意識を失えばお終いだ。結局相馬党は誰も殺められてない。目覚めればそれなりに動ける。
美咋先輩を連れてここを離脱する迄、安全な処に辿り着く迄、わたしが気を失っては拙い。

 わたしも早く決着を付けねばならなかった。

「わたしは自分のたいせつな人達を守りたい。傷つけたくない涙させたくない。そう望み
願って生きてきた。血の力や護身の技の修練も、誰かを守り助けられる強さ賢さを求めて
の」

 わたしの周囲にいる人は、いた人は、みんなわたしのたいせつな人。未熟なわたしの幼
い日々を、教え導き支えてくれた、愛しい人。心から守り助け救い支えたく願う大事な人
達。

「その笑みを凍り付かせる者は、哀しませ涙零させる者は、生命や幸せを壊しに来る者は。
許さない。例えその相手が正義でも若杉でも、鬼切部でも神様でも。徹底的に抗いま
す!」

 彼女が羽藤柚明の声音の一々に、びくっと震えるのは。わたしが怖い為ではないと想う。
わたしはこの時もう既に心柔らかだったから。

「それに触れない限り、あなたを妨げる気はありません。元々わたしにあなたを害する意
図はないの。安心して若杉にお帰り下さい」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「今宵の一件は羽藤家から、鴨川香耶さんを通じて若杉本部に報告して貰いますから…」

 上の判断も経ず、監視員の権限を越え勝手に相馬党を羽藤の討伐に動かした。それは若
杉内部で深刻な問題になる。本部にその意図がないのに、部下が勝手に戦争を始めたのだ。
真弓さんやサクヤさんという、若杉が一目置いた者を敵に回しかねない事態を招き。相馬
党に大きな損失を生じさせ。若木さんは今後若杉の中で、立身の難しい立場に置かれる…。

 彼女達は生かして帰す。生かして帰せば相手方は自ら失陥を受け止める。殺めてしまえ
ばその事情がどうであっても仇となる。羽藤は鬼切部と戦うべきではない。この件は若木
さんが組織の枠を外れ独走した為で。若杉や相馬党が、羽藤家やわたしの抹殺を望んだ訳
ではない。幸い誰1人生命喪わずに済んだし。

 緊張が解けて気を失った若木さんは捨て置き。わたしは美咋先輩に歩み寄る。鬼を解い
た代償で、急激な脱力と倍加した激痛が襲ってくるけど。これは元々長く続けられぬ緊急
避難だった。それに酔いしれ慣れてしまうと、本当に鬼切部に討たれる鬼になる。その場
合切って貰うなら、真弓さんか明良さんが良い。どっちかを選べるなら、どっちが良いか
な…。

 それに鬼であり続けると、食い込んだ銃弾の呪力が身も心も焼き尽くしに掛る。これが
唯の物理的な損傷に留まっているのは。相馬党を倒した時に自ら鬼を解いた為で。鬼にな
るのも大変だったけど、鬼を解くのも大変な行程だった。すぐに浸透しないから、暫くは
凄まじい熱に内から灼かれ、死ぬ思いをした。鬼の強化の残滓が銃弾を物理的に一定程度
食い止めてくれたから、功罪相半ばなのだけど。その所為で今も尚贄の血の癒しを使えて
ない。

『……あなたには、その資質もある……』

 不二夏美の助言か予言は、この事迄想定していたのだろうか。羽藤柚明が自身の想いや
力を操る事に長け、鬼になれるだけではなく、鬼から人に戻る事も叶う事を。滅んでしま
った彼女に、再び問う事は最早叶わないけど…。

 鬼も常に鬼で居る訳ではない。サクヤさんを見れば分る様に、鬼でいる時とそうでない
時がある。人にも修羅な時とそうでない時が、獣な時とそうでない時がある様に。でもわ
たしのそれは、悪鬼が人目を憚り忍び騙す為に、人の皮を被るのと違い。一度暴走させた
全ての想いを、人の枠に押し止め戻す行いなので。裏返った胃袋をもう一度無理矢理裏返
す様な。

 鬼になるにも膨大な憤怒や悲嘆や憎悪を必要とする様に。鬼を解くにも膨大な意志の力
を必要とする。否むしろこちらの方が難しい。解放ではなく抑制を、解放した後で為すの
は。キーワードはどちらも執着か。一つの強い執着がなくば、鬼になる事も解く事も叶わ
ない。

 短時間とはいえ、操りきれるかどうかは博打だったけど。己の意志を欲求や感情に持っ
て行かれないか、不確実だったけど。あの状況では他に術がなかった。失血で出力の落ち
た贄の力では、あの封じを破れはしなかった。

 呪力を込めた弾は癒しの力も弾くので真弓さんに摘出をお願いする。病院には行けない。

 そんな訳で無理が祟って傷むこの身だけど。
 気力を振り絞って堪えれば即死しないので。

「美咋、先輩……」「……ゆ、め、い…?」

 今少し無理をして、愛しい人に寄り添うと。
 美しい肢体は、微かな震えに包まれていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月が傾き行くけど夜明け迄は未だ少しある。
 初冬の夜の野原は寒気の中で静まり返って。

「今、戒めを解きますから。少し待って…」

 相馬党もまだ起きてくる気配はない。感応の力が覚醒を事前に察知できるから、今は彼
らは放置して。勝手に借りた朱雀さんの刀で、美咋先輩を縛っていた縄を切る。きつく締
められていたので、やはり解く事は出来なくて。

 こんなに柔らかに美しい人を。飾り気もない縄で長時間縛り付けるなんて。なんて酷い。
それを今迄助けられなかった己の力量不足も。

「……柚明……柚明っ……」「美咋先輩…」

 先輩は長い赤毛を揺らせつつ、見事な肢体を投げ出して、この小さな胸の内に頬を寄せ。
受け止めるわたしの背に細い腕がきつく回り。

「もう大丈夫です。敵は全て退けました…」

 風に靡いても痛い身を忘れ。わたしも渾身で美咋先輩の豪奢な体を抱き留めて。破れ掛
けたセーラー服は、血や泥に汚れて酷いけど。今は唯たいせつな人の不安や怖れを受け止
め。

 百万言を尽くすより、肌触りや肉感が安心を伝える時もある。わたしも愛しい乙女の無
事を肌身に感じたかった。守り通せた実感を。

「怖い想いをさせて、本当にごめんなさい」

 美咋先輩は、縄を解かれてこの腕の内で。
 女の子の感触に、漸く身心の緊張も解け。
 この胸の内で、肌身合わせて何度か頷き。

「……怖かった。怖かった。刀を振るう男達が、人を殺せる拳銃が、鬼を切るという連中
の戦いが……とってもとっても、怖かった」

 ひしとこの身に縋り付く。その声に頷きを、肌身合わせた侭で返し。更に声音を柔らか
に、

「彼らを倒した羽藤柚明も、怖いのですね」

 答は不要だった。わたしは正面から肌身合わせた侭黙した美咋先輩に、良いのですよと。

「わたし自身怖かったもの。鬼を狩る鬼の様な人達を倒すなんて、鬼の範疇も超えている。
真剣の立ち合いを怖れる先輩は、正常です」

「私は……所詮女の子だ。今宵はそれを思い知らされた。剣道幾ら習っても、真剣で斬り
合う覚悟は抱けない。大野にも見た事のない本物の殺意……奴らを思い出すと、助かった
今も震えが止まらない。理屈抜きに怖いんだ。競技じゃない、ルールもない、負ければ手
足切り落とされ血を流して死ぬ、本当の戦い…。

 それを受けて打ち勝てる柚明に、その鬼の様な強さにも、私は、見ていて怖くなって」

 ぎゅっと締め付けてくるのは。この肌身の柔らかさを感じる事で事実を否定したいから。
今見た鬼の羽藤柚明を、嘘だと夢だと幻だと。刷り込ませないと、心平静でいられないか
ら。鬼切部の、鬼の戦いは、剣道の達人の想定も遙かに越え。美咋先輩の心を壊しかけて
いた。

 贄の血の感応の力を持つと知って尚、わたしとの絆を繋ぎ続けてくれた人が。わたしを
庇って鬼切部に、炎の告発を叩き付けてくれた人が。あの戦いはその剛毅の限界を超えて。

「あんたは私を喰らわないよね。あんたは私を口封じしないよね。分っているのに、感じ
ているのに。何度も何度も肌身繋げて確かめたのに。奴らも柚明も余りにも遠く離れすぎ
た強さで。今迄柚明にも、こんな苛烈さが隠れていたなんて……怖い、怖い、怖いっ!」

 柚明を傷つけると分って尚、身の震えが止められない。あんたは私を助けてくれたのに。
正にその強さが怖い。奴らを上回ったその気迫が怖い……怖いの! お願い柚明。もっと
強く抱き締めて、この心の体の震えを鎮めて。

 美咋先輩はわたしに強く肌身合わせ、自身の怯えを鎮めようと。この感触が怖くないと
無理矢理肌身に刷り込ませようと。そこ迄せねば抑えられない。鬼を知らない常の人には。
鬼に対峙する事も心を削る。鬼を切る者に殺されかけたのだ。その心の痛手は如何ほどか。

 美しく柔らかく、清らかに強く優しい人が。耐えきれない程の衝撃に直面し。わたしが
巻き込んでしまった。わたしがこの人に限界を超えた傷み哀しみを招いた。この人の凛々
しさ麗しさに憧れて絆を望んだ所為で。わたしはこの人にその償いに一体何を為せるだろ
う。

 先輩の抱きつきが微かに弱まった時だった。

「……柚明は感応の力で、私の今夜の記憶を消せる? 忘れさせる事出来る? 私の心を
操って、安らげる事が柚明には?」「……」

 救いを願う様に、彼女は震えを纏わせて。
 愛しい人の問には、常に事実を応えねば。

「記憶を消す事は出来ません。人の経験は生きても死んでも、魂に刻まれます。でもそれ
を忘れさせる事なら、今のわたしにも。心の中の記憶を呼び出す取っ手を隠し、思い出せ
なく促す事で。一生思い出せなく導く事も」

 お望みですか? やや躊躇いつつ問うと。
 美しい双眸が、わたしの瞳を覗き込んで。

「耐えられそうにない……生命を脅かされた事を、人を殺そうと迫る刃を、殺気を。私は、
あんな奴らが現実に潜んでいる世界を、平穏に受け止めて過ごして行ける程剛胆じゃない。

 ダメだよ……寝ても醒めても、あの刀や怒号や、縛られ殴られ蹴られた感覚が、思い出
されて。勉強も色恋も剣道も何も出来ないっ。

 背後で草が揺れると心が竦む。傍で風が吹くと身が縮む。月明かりが陰るだけで怯えが
騒ぎ出して。あんたに一日中抱き留められてないと、声も出せない。ダメだよ、私は…」

 お願い、助けて。その声は悲痛さを帯び。
 そうさせてしまったのは、このわたしだ。

 なら、それを補い償い購い復するのも又。
 わたしは静かに語りかける。彼女の心に。

「生命狙われた事実を忘れてしまうのですよ。彼らが世間に潜む事を忘れてしまうのです
よ。それで良いのですか? 先輩は、今宵生命を落しかけた事を忘れて良いのですか? 
今宵生命を奪いかけた者達がいた事を忘れても」

 事実は変らないのに。変えられないのに。
 美咋先輩は月明りの元、瞳の雫を輝かせ。

「だから忘れたいの。思い出せなくなりたい。柚明に救われた事も忘れてしまうけど、柚
明に抱いた怯えも忘れたい。こんなに柔らかく心地良い柚明を、怖れてしまった己自身
を」

 ごめん柚明。私はあんた程強くなれないよ。
 溢れ出した美しい雫が、この胸元を濡らす。

 強く清らかなその心は、今決壊の淵にいた。

 自身の傷み苦しみを隠し通す先輩が。ここ迄怯え怖れを明かして訴え縋る。取り繕う心
の余裕もない逼迫が、力も不要に見て取れた。何の咎もないのに、わたしの禍に巻き込ま
れ、心苛まれ壊されて。この侭では先輩は山田里奈の様に怯えに心臓を掴まれて。見る物
聞く物触れる物、世の中の全てに震え、塞ぎ込み閉じ籠もる人生を送る。輝きを失ってし
まう。

「……お願い、ゆめい」「……美咋先輩…」

 彼女の心を守る為に、わたしが為せる事は。
 愛しい人への償いに、わたしが為せる事は。
 わたしが為したい事ではなく、為せる事は。

「あなたの心を、これ以上壊させない為に」

 わたしは奴隷も操り人形も欲してないけど。
 美咋先輩に微かな不安さえ残させない様に。
 この力が彼女の未来も幸せも守ると信じて。

『わたしが償えない罪を負う事になっても』

 罪への怯えより罰への怖れより、彼女の守りと幸せが優先。自身の赦されたい願望等後
回し。だからわたしは今から愛しい罪を犯す。この罰と報いは生命ある限りわたしが背負
う。

 ごめんなさい。自ら唇を美しい唇に重ね。
 贄の血の感応を直接大量に彼女へ流して。

 暗示が半永久的に続く様に蓄積させつつ。
 憧れの女の子の心の一部を操作して鎖し。

 贄の血の感応を、たいせつな人に強制力として及ぼして。傷みの記憶を大量の想いで塗
り潰し。その心を在り方を未来を一生を変え。

「神原美咋は、羽藤柚明のたいせつなひと。
 清く正しく強く優しく美しい、憧れの人」

 唇を離し、その整った容貌を間近に見つめ。
 先輩の視線は寛いで、気力を失い弛緩して。

「わたしの禍に巻き込んで、傷つけてしまった愛しい女の子。守り支えたい人だったのに。
鬼のわたしに尚心を寄せて、怯えた自身を責めて悔い。でもその潔さが、逆に心を苛んで。
わたしはあなたが心安らかなら、憎み恨まれても、蛇蝎の如く嫌われても構わないのに」

 もう一度顔を合わせて唇重ね。力を注ぎ。

「その傷み苦しみは全てわたしの所為。その苦味哀しみも全てわたしの所為。わたしがあ
なたと結んだ絆が禍の源に。羽藤柚明が禍に。

 ……だからこそ。愛しいあなたの安らかな日々はわたしが守る。例え鬼になろうとも」


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