第17話 嵐の夜に



前回迄の経緯


 羽藤柚明は高校1年の夏休みに入りました。

 2週間前正樹さんの新刊発行祝賀に伴って訪れた首都圏で、操の危機や生命の危機を経
た事が嘘の様に、羽様の日々は静かに長閑で。

 でも、本当に終った訳ではない。首都圏で遭遇した不二夏美の鬼の禍は、首都圏を離れ
羽様に帰った事で、一時的に回避できたけど。逆にその故に阻む事も叶わず。誰かが解決
せねば、不二夏美を切って終らせねば、永遠に彼女を復讐の泥沼から救い出す事が叶わな
い。

 それが為せるのは、鬼切部の誰でもなく現在経観塚に住む真弓さん。羽様のわたしが手
放した禍は、ブーメランの様に再び羽様へ…。

 参照 柚明前章・番外編第12話「幼子の護り」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「嵐が……来るかも知れない」

 唐突に感じ取れたのは、夏の日の昼下がり。

 白花ちゃん桂ちゃんの子守を任せて貰えて。羽様のお屋敷に通じる緑のアーチで、幼子
の遊びにお付き合いして暫く経った頃。オハシラ様の祭祀も近い7月末にしては風は涼し
く。抜ける様な青空には、白い雲が幾つか浮いて。木陰なら、幼子も熱射病に掛る心配は
少ない。

 正樹さんの新刊出版の記念祝賀に随伴した、首都圏行きから帰着して2週間が過ぎ。県
立経観塚高校1年のわたしも、夏休みに入った。

 美咋先輩を虐げ、わたしに獣欲を抱いた大野教諭を退けた事に始り。首都圏で癒しの力
を持つ鬼・不二夏美に生命を脅かされ。報道関係者の八木さんに鬼との交戦を接写されて、
秘匿の代りに操を捧ぐ寸前迄至り。今年の春夏は本当に色々な事があった。今無事に愛し
い幼子と共に居られる事は僥倖で。羽様の家族の親愛に包まれたこの日常は、奇跡に近い。

 胸も大きくないのに幾度も操の危機を経て。
 首都圏では本当に幾度か生命の危機も経て。

 その半分は自ら危難に首を挟めた故であり。
 好んで関った末の自業自得とも言えるけど。

 だからこそ守り通せて無事に帰着した今は。
 自身の未熟を省みてもっと己を鍛え直して。

 自力で危難を退ける賢さ強さを、備えねば。
 愛しい人を確かに守り不安も抱かせぬ様に。

「桂ちゃん、白花ちゃん……どうしたの?」

 己の思索に耽りすぎると外界が留守になる。
 わたしは視えそうな像への集中を一時止め。

 双子の視線が古木に背を預けたわたしに向くのは。幹を伝って降りてきたリスが、左肩
に留まっていた為だ。四六時中『力』を紡ぎ続けるわたしは、害意がないと言う以上に活
力の源と見なされているらしく。最近野や森で足を止めれば、小鳥や小動物が寄ってきて。

 その仕草や感触で、わたしは彼らの心も視えて分る。童話や絵本に描かれる様に、演歌
に唄われる様に、鳥や獣の心が悟れる。空腹とか快いとか警戒とか安心とか、幾つかの感
覚はわたしも理解できる物で。勿論人と異なる部分もあって、全てが分る訳ではないけど。

 大人が近付くと警戒して逃げる。でも幼子なら激しく動かぬ限り留まり。伸ばしたその
手に時折触れたり、小さな肩に乗り移る事も。今も右脇に白ウサギが一匹身を添わせてき
て。小鳥が数羽、頭上の枝に止まって様子を窺い。鳥獣と違って虫の類には今の処好まれ
てない。

「リスさんだぁ……」「ウサギさんもいる」

 そうね。わたしはリス達を嚇かさない様に。
 極力体を動かさず、瞳輝かせた幼子に応え。

 間近な可愛い小動物に、触れたい気持は視えたので。わたしは『力』を紡いで動物達に、
心地よさを与えて弛緩させ。辿々しい歩みや甲高い幼子の声音にも、驚き難い様に状況を
整え。いらっしゃいと愛しい2人を招き寄せ。

『動物と遊ばせた後は、お屋敷に引き上げるべきかも。嵐はどうも天候ではなく人間関係
で、わたしや幼子に関りはなさそうだけど』

 白花ちゃんが左手で、わたしの左肩に乗って動かないリスを撫で。リスは大人しく撫で
られて両目を細め。直後に桂ちゃんがわたしの右脇に添った、ウサギの耳から背を撫でて。

 わたしは動物より双子の可愛さに目を細め。
 2人が間近で声を上げて喜ぶ様が嬉しくて。

 自身が幼子の為に役立てている今が幸せで。
 感じていた嵐に間近に接近される迄悟れず。

「何と。幼い座敷童2人に、天女か妖精か」

 正樹さんとほぼ同じ年頃の、精悍な男性の。
 なぜか驚きに瞳を見開いて、身構えた姿に。

 リスもウサギも逃げ出して小鳥も飛び去り。
 幼子を抱えて座した姿勢で、向き合う事に。

 筋肉質な中肉中背に白髪交じりなこの人が、かつて真弓さんが千羽で鬼切り役だった頃
は、その相方を務めた達人・千羽為景さんだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「失礼致した。人里離れた静謐な場で、鬱蒼たる木立の中に、座敷童と見紛う幼子2人を
左右に従え。この世の物とも思われぬ気配を漂わせ、整ったその容貌に艶やかな黒髪…」

 為景さんはお屋敷の居間で正座して。真弓さん正樹さんに対しつつ、左脇のわたしと双
子に頭を下げて。驚かせて申し訳ない、威かす積りはなかったと平謝りを。年長者に丁重
に謝られては、更なる追及も大人げないので。

 当初瞳を見開いた瞬間以外常に笑顔だけど。それは本心ではなく笑みの仮面だ。特に正
樹さんを見つめる時は、瞳の奥が凝視になって。真弓さんは羽藤に嫁して来る前は、若く
美しい鬼切り役で、千羽の誇りで憧れだった。真弓さんを娶った正樹さんや羽藤に抱く、
彼らの印象が複雑なのも、分らぬ訳ではないけど。

 桂ちゃん白花ちゃんは、出逢いの時の殺意、又は闘気に怯えた様で。初見の人や物に興
味津々な桂ちゃんも、敢て寄り付く様子はなく。白花ちゃんと共々わたしの左右にくっつ
いて。

「姿は人でありながら、その様は天女か妖精か。手に留まらせた小鳥と語らい、リスやウ
サギと共に歩み。陽光の中でもその佇まいは幻想的で神秘的で。思わず息を呑み、瞳を見
開かされた。儂は、誑かされているのかと」

 つい、戦いの体勢に入ってしまい申した。
 驚かせ、怯えさせてしまって申し訳ない。

 達人の気配を持つ成人男性が、年少の娘を饒舌に持ち上げすぎる姿は、やや滑稽に映る。
敢てそうする事で、表面だけでも場を和ませ。正樹さんも真弓さんも、わたしも諍いは好
まないから、謝罪されれば拒みはしないけど…。

「突然身構えられたので、わたしは少し驚きました。只者でない気配は分りましたけど」

 この抗議は、怯えた事実をしっかり表せない幼子の分迄含め。相手に反省を促し、今後
この様な事がない様に。その上で謝罪を受ける事で、今後に引きずらないとの意味も込め。

「ちょうど厄介な鬼に難渋して、真弓殿に助力を求めに来た処だったので……目に触れた
異質な物に、つい過敏に反応してしまった」

 彼にも多少の焦りがあったのは事実らしく。
『力』を強く紡ぐわたしを間近に見て訝しみ。

 反射で敵の可能性がある者への応対をした。
 その事情は今回の彼の来訪の用向きに繋る。

「真弓殿が千羽との縁を絶って、はや7年」

 久方ぶりにお逢いできて、お元気そうでほっとし申した。千羽におられた頃は、誰かと
結ばれる日の来るなど想像できず。花嫁になり母になった後の姿も、思い描けなかったが。

「儂の知る強く凛々しい真弓殿を残した侭で、嫁となり母となって主婦をこなしておられ
る。子供が2人いても何の違和感もない。月日の経過を感じますな。それに今尚若く美し
い」

「為景さんもお変りなさそうね。達人級の腕の持ち主を見ると、強さを量りたくて闘志を
見せつけてしまう処なんて、あの頃の侭…」

 真弓さんも、わたしの技量を量る為に威嚇して、幼子迄怯えさせた為景さんを、窘めて。
でも為景さんは、それを思い出話と受け止め。

「初見の真弓殿に腕試しを申し出て、三合保たずに打ち倒された。でも破られれば破られ
る程、今度こそはと逢う度逢う度立ち合いを。あの頃は儂のみならず、千羽党の皆が愛ら
しい鬼切り役に、一手所望と詰めかけました」

 遂に一度も真弓殿に勝つ事叶わなかったが。
 あの日々は今も儂の一番大事な想い出です。

『正樹さんやわたしの入り込めない千羽の頃の話しをする事で、正樹さんを焦らしている。
千羽の憧れで誇りだった真弓さんを、奪った正樹さんに好感を持てない気持は分るけど』

 戦う力を持たず、贄の血も歴代で最も薄い、一般人に近い正樹さんを。為景さんは真弓
さんの夫たる値を量りかね、訝っている。ここは千羽と羽藤、むしろ鬼切部と世間の価値
観のズレか。外の者を守られる庶民と低く見て。人の世の平穏を、生命懸けで守る使命に
誇りを抱く彼らの感触も、分らない訳でないけど。それは鬼切部の中でしか通じない物の
見方だ。

 流石に為景さんも露骨に見せはしないけど。
 言葉や仕草の端々からその感触は滲み出て。

 正樹さんが不快を返さぬ様に努めているのは悟れた。真弓さんが困惑を見せぬ様に努め
ているのも。為景さんは気付いて気付かぬふりの正樹さん達を、分ってその姿勢を変えず。
正樹さんの応対や器量を見定めている感じで。大人は何故か中々みんな仲良くとは行かな
い。

「叔父さん、叔母さん。わたしは白花ちゃんと桂ちゃんを見ていますので」「あ、ああ」

 幼子が受けるべき謝罪も終えた。後は子供が挟まるべき話しではない。幼子もせめて部
屋を変え、少し気楽にさせてあげたい。でも。

「幼子を寝付かせてからお戻り下され。話しは真弓殿や夫君のみならず、貴女にも関る」

 為景さんの真意は『力』で双子を寝付かせ、速やかにわたしにこの場へ戻って欲しいと
の。彼が羽様を訪れた事情はわたしも関りがある。わたしが人の心に作用する感応使いだ
と、彼は分って。正樹さんとの首都圏行きの影響か。

 為景さんの話題も、わたしは既に分るから。それはわたしも聞きたい中身だから。わた
しは短く頷いて。言葉少なく以心伝心に近しい情景に、正樹さんは複雑そうな表情を見せ
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 外で遊んだ幼子は、少々お疲れだったので。今日は客人との遭遇で心もお疲れだったの
で。『力』を及ぼす迄もなく。一緒に身を横たえ『小』の字になると、左右に添った白花
ちゃん桂ちゃんはすぐ眠りの園に。静かに身を起こし、2人が寝付いていると確かめて、
腕を抜き。2つの額に軽く唇で触れて再び居間へ。

 行く先の居間からは大人の話しが漏れ聞え。

 少し前からの経緯も関知の『力』で分るし。
 同じ棟で見知った人なら声も不要に感応で。

 盗み聞きにならない様普段は聞き流すけど。
 それでも自然と聞えてくる物音はある物で。

 為景さんには隠す積りもないと悟れたので。

「明良様が目に留めた訳が分り申した。あの若さで強い『力』に満ち、それ以上に武道の
技量が尋常ではない。真弓殿の薫陶を受けても在野の者が、あそこ迄至るのは困難な筈」

 坂田(さかたの)金時を思い浮べますな。

 為景さんが口にした名は、白花ちゃん桂ちゃんも絵本でご存じ、金太郎の成人後の名だ。
足柄山に住む彫り物師の娘・八重桐(やえぎり)が都に上った時に腹に宿したとも、金時
山の頂上で赤い竜が八重桐に授けた子供とも、雷神と山姥の間に生じた子供という説もあ
り。この場合、八重桐は実は山姥と言う事になる。

 山姥は鬼婆と混同もされるので、金太郎は神や鬼の血が流れている事に。その伝説的な
力量や活躍は、特殊な出生の故だと説く方が、人々も呑み込み易かったのか。山奥の羽様
で真弓さんに師事し修練に励むわたしを、金太郎と表現するのは、分らない訳でもないけ
ど。

 その例えは、続けて彼が述べたい話しの伏線も兼ね。彼は高校卒業後、或いは在学中で
も、わたしを鬼切部千羽党に引き取ろうかと。

【坂田金時の様に彼女の技量を、世の為人の為に役立ててはみませんかな? 千羽にお預
け頂ければ、羽藤が若杉に監視される現状も、家計の厳しさも、真弓殿の千羽党との絶縁
も若杉からの幽閉状態も、改善の可能性が…】

 何の考えもなく、女の子のわたしを鉞(まさかり)担いで熊の背に乗り、菱形の赤い腹
掛けを着けた元気な少年像に、当てはめた訳ではない。次に申し出る事に話しを繋ぐ為に。

【千羽の八傑に近しい剣士が野に居る事は。
 絶無ではないが若杉や千羽の注視を招く】

 わたしの『力』を鬼切りに役立てられれば、わたしや羽藤が若杉等に睨まれる怖れが減
る。その方が羽藤の家もわたしも生き易かろうと。彼は善意でわたしの異能を世に役立て
ようと。

【羽藤は半世紀若杉の監視を受けているとか。
 真弓殿の輿入れで監視が増えたとも聞いた。

 柚明殿の技量がこれ程と若杉に知られれば。
 更に監視を強化される事にもなりかねない。

 観月の彼女もいる羽藤の家を、下手をすれば若杉は危険視して、戦力低下を企んで分断
に掛るかも知れぬ。好まぬ形で引き離される位なら、その前に縁戚に引き取られる方が】

 でもその申し出は為景さんの口を出る前に。
 真弓さんの烈火の如き一声で食い止められ。

「柚明ちゃんを金太郎扱いしないで下さい!

 柚明ちゃんは、白花や桂のお姉さんとして、末永くこの屋敷に留まって貰うの。嫁にも
出しません。柚明ちゃんを欲しい男が居るなら、婿入りの覚悟を定めてから、来て頂きま
す」

「真弓……?」「さようで、御座いますか」

 真弓さんも当初から、為景さんがわたしの技量を持ち上げていたのが、千羽党でも役に
立つと繋ぐ為だと読めて。わたしを外に出す積りはないと、千羽党にも預ける気はないと。
為景さんが申し出を、口にする前に防ぎ止め。

 正樹さんは、為景さんの意図を読めてないので展開を呑み込めず。為景さんに何かを言
わせなかったと言う事だけは悟れた様だけど。急な強い拒絶に驚かされて、言葉が続かず
に。

 真弓さんは、彼の申し出が明良さんの意向か否か、千羽党の意向か否か訝った様だけど。
為景さんが真弓さんの先制拒絶を前に、申し出せなかった結果から彼の独断だったと悟り。
上役の指示なら、例え拒まれても、話しもせず諦める事はあり得ない。せめて言葉にして
伝えた上で、正式な拒絶を答として持ち帰る。

 でもこの上は余計な話しを振られない為に。
 真弓さんは為景さんに来訪の本題を問うて。

「世間話はもう好いでしょう。あなたも絶縁されたわたしを、羽藤の家を訪ねた以上、伝
えねばならない話しを預ってきている筈…」

 真弓さんも為景さんを嫌ってはいないけど。
 羽藤と千羽の互いの立場は護る物が違った。

 それを懐かしい想い出と共々に噛み締めて。

 再会の気易さが醒めた頃合にわたしは戻り。
 わたしの再参加で本題の話しの場は整った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「今回、絶縁した千羽の使いとして羽様を真弓殿を訪れた事情は、他でもございません」

 為景さんの来訪目的は、わたしと正樹さんが首都圏で遭遇した、不二夏美の案件だった。

 明良さんには、わたしの帰郷前日正樹さんと2人で彼女に対峙した事も、電話したけど。
全てを余さずに、伝え切れた訳ではないので。その後一体どうなったのかは気に掛ってい
た。わたしも思索に耽らないと視えてこない部分があって、羽様に帰ってから悟れた事も
あり。

 真弓さんにも、首都圏から帰り着いた直後、事情は話した。でもその時は、八木さんの
事柄と同様、既に終った話しと言う側面が強く。わたしは不二夏美の仇ではない。彼女は
贄の血も強く欲しなかった。彼女が復讐を諦め又は後回しにして、羽様に来る怖れはほぼ
ない。

 だからわたしも正樹さん真弓さんも、その先の見通しは。鬼切部が犠牲者を何人に抑え、
いつ迄に不二夏美を討ち取れるのかに収斂し。癒しの力を持つから、致命傷を受けても中
々死に至らないけど。技量はわたしと同程度なので、千羽にも彼女を倒せる強者はいる。
明良さんも為景さんも、力量では彼女より上だ。

 一撃で討ち倒す事が出来なくても、回復が間に合わない打撃を与え、或いは何度も致命
傷を与えれば。彼女の癒しとて無限ではない。『力』が疲弊する迄、打ち倒し続ければ良
い。千羽党はその力を持っている筈だった。でも。

「明良様が……鬼に重傷を負わされ申した。
 しかも奥義・鬼切りを振るったその上で」

 渋い表情と声音で話しを進める為景さんに。
 正樹さんもわたしも真弓さんも異口同音に。

「千羽の彼が鬼に?」「深傷を負わされたのですか?」「鬼切りが鬼に通じなかった?」

 為景さんは3つの問に1つの頷きで肯定を。

 鬼切部が鬼に敗れた事が重大事案な以上に。
 鬼切り役が倒れたのなら千羽党は一大事だ。

 そして何よりもわたしは明良さんが心配で。

「生命に別状ありませぬ。そこはご安心を」

 数月の療養は必要だけど。千羽の癒し部は、余り強力な癒しの『力』を使えない様だけ
ど。若杉の術士と現代医療を併用すれば、後遺症の怖れもないと。贄の癒しの出番は今回
はなさそう。為景さんの招きに応じていれば、わたしも役に立てたろうか。彼の力になる
事も。

 でも、一つ間違えば鬼切り役の明良さんも、鬼に生命を脅かされる。つい半月前に言葉
を交わし想いを繋げた涼やかな人が、死に瀕し。鬼切部は本当に生命懸け、危難に踏み込
んで、人の生命や世の平穏を守る職と思い知らされ。

 ほっと出来るのは今だけだ。復すれば明良さんは、再び危険な鬼切りの使命に復帰する。
鬼切部に最愛の人がいるなら、自身も鬼切りに踏み込んで、肩を並べて共に戦い、その手
で直に守らねば、心安らぐ日は来ないのかも。わたしも桂ちゃん白花ちゃんが鬼切りにな
った時は、願い出て鬼切部に加えて貰う。この身の非力や未熟は承知でも、必ずそうする
…。

「真弓殿もご存じと思うが、鬼切りは身と心が宿す『力』の全てを集約し、一撃に載せて
叩き付ける業。絶大な威力で鬼の精神を砕く。霊の鬼や悪霊等にも有効で。体を傷つける
事なく心の濁りのみそぎ落す。不二夏美の様な、強さより『力』の効果で倒しきれぬ相手
には、最も効く業だが……一撃必殺であるが故に」

 放ち終えた後は明良様とて無防備になる。
 その後に反撃がある事は想定外だからの。

「でもその想定外が、起こったと言うのね」

 真弓さんの真顔に為景さんは笑顔で頷き。

「ある筈のない反撃に、明良様も致命傷回避が精一杯で。楓が挟まって退けた故、鬼は逃
げ去ったが、取り逃がしたとも言える訳で」

 千羽党の大黒柱の明良さんが倒れたのだ。
 混乱や動揺の全く生じない方が嘘だろう。

「先代当主……明良様の父君が、真弓殿を招くべしと強く申して。真弓殿が討ち果たした
筈の不二夏美の禍なれば、今は現役を退いたと言えど、再び討ち果たす義理があろうと」

 最初は絶縁した真弓殿に縋る様な申し出に。
 今の千羽党は力不足かと憤った他の者達も。

 先代の唱える責任論に心傾く者も顕れ始め。
 明良様という大黒柱がなければこの有様よ。

「真弓殿に、一時的に現役復帰して、不二夏美を倒して頂きたく、お願いに訪れ申した」

 多少の紆余曲折の末、真弓さんが自身の仕事のやり残しを完遂する為に、不二夏美を討
つ為に。一時的な現役復帰を承諾し、旅立つ意を決したのは。正樹さんがそれを承諾した
のは。幼子が昼寝から起きてきた頃合だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 為景さんはお屋敷に一晩泊り。真弓さんの出立準備を待って、翌朝2人で羽様を離れる。

 若杉には千羽から話しが通っていて、真弓さんが県外に出ても、羽藤が若杉に敵視され
る心配はない様だけど。守ってくれる訳でもない。真弓さんが戻る迄、羽藤の最大戦力は
未熟でも非力でもこのわたし。正樹さんも白花ちゃん桂ちゃんも、この身で守り通さねば。

 為景さんも同席した夕飯時、真弓さんから幼子に『暫く実家の手伝いに、独りで往かな
ければならない』旨が話されたけど。真剣に向き合って語る真弓さんに、幼子2人は座っ
た侭で手を繋ぎ合い、真剣に耳を傾け頷いて。

 今迄真弓さんは、県外どころか泊りで出かけた事もなく。幼い双子は、未知の事態にど
の様に答を返すか、密かに心配していたけど。

「お仕事がんばってね」「早く帰ってきて」

 わたしが泊りでお屋敷を外す時とは違って。
 桂ちゃん白花ちゃんは驚く程大人の応対を。

 泣き喚く事もなく取り縋る事もなく平静で。

 サクヤさんが羽様を出立する時とも違って。
 元気に手を振り声張り上げて迄はないけど。

 幼い相方と手を握り合って不安を和らげて。

 お仕事を終えたら帰って来るとの、真弓さんの真剣で親身な語りに、全面的に信を置き。
淋しさの予感を、今の温もりで埋め合わせて。よい子にしていれば、必ず帰って来ると信
じ。

「お父さんと柚明ちゃんと待っていて頂戴」

 夕飯時やその後は、鬼切部の諸々や明良さんの近況を尋ね。逆に為景さんの問に答えて、
羽様での真弓さんの日々を話し。新刊の印税で漸くつけた、ガスで涌かしたお風呂に入り。

 本当なら戦いに赴く前夜、最後の夜を真弓さんは、愛した正樹さんと過ごすべきだけど。
きっと2人共そう願っているに違いないけど。正樹さん真弓さんの前で額を畳に擦り付け
て、わたしは真弓さんに今宵褥を共にと願い求め。わたしでなければ、為せない事があっ
たから。

「わたしが知る限りの不二夏美を、声も肉感も動きも気配も印象も、言葉に表しきれない
全てを感応で肌身に伝えます。かつての彼女とは違う、わたしの贄の血も得て強化された、
今の彼女の強さや弱さ・思考発想や目的を」

 繋げた肌身を通じてわたしの記憶を注ぎ。
 強く紡いだ守りと癒しの『力』も一緒に。

 修練を経た今のわたしは、呪物ではないガラス玉に『力』を注ぎ、守りや癒しの効果を
宿す青珠の代用品にする事が出来る。人の体に『力』を注いで、疲れを復し傷を治す事も
叶う。心に『力』を及ぼして、悪夢を遠ざけ嫌な記憶の印象を薄めたり。五感を調整して
緊張を緩めたり、逆に感覚を鋭くする事も…。

 真弓さんは千羽で当代最強を謳われた鬼切り役だ。羽藤柚明と類似した、生きた呪物の
様な者だ。その身に心に守りや癒しの『力』を大量に注いで溜め込む事は、無理ではない。
真弓さんとはこの7年間、修練でもお風呂でもそれ以外でも、何度も肌身に馴染んでいる。

「心を奮い立たせる効果なら、わたしより叔父さんと添い寝して、想いを繋げた方が良い。
最愛のめおと同士ですから。でも不二夏美の情報は、口で伝えるより感応で伝えた方が…。

 わたしは明良さんに肌身を添わせて、全て伝える事をしなかった。その時は分りきれず、
羽様に戻って思索の中で気付けた事もあって。あの時に全て伝える事は元々無理だったけ
ど。

 でも、わたしが最善を尽くさなかった末に、明良さんの負傷や危難が生じたなら。二度
とその様な事は……叔母さんにだけは絶対に」

 だから今度こそ自身にも悔いのない様に。
 女同士なら肌身繋げても誤解は生じない。

 その柔肌に自身を沈み込ませ溶け込ませ。
 吐息も鼓動も共有し肌触りや肉感を重ね。

 真弓さんの意識をわたしの内に招き、わたしの視た像を視て貰う。他者の内心を覗く事
は好ましくないから、己の内心を解放して視て貰う。伝えようとの選別が、像を歪める怖
れも拭えない。わたしが視た侭感じた侭を最大限視て貰う事で、わたしも気付かぬ不二夏
美の何かに、真弓さんが気付くかも知れない。事は真弓さんの生命に関る。己の醜い内心
や、恥ずかしい過去が漏れてしまう怖れは後回し。

 注げるだけの癒しを注ぎ終えて明けた朝。

 真弓さんは押し入れから、嫁入り以来しまい込んでいた鬼切りの太刀を取り出し。正樹
さんに伏して出立の赦しを貰い。今は真弓さんは羽藤家の一員だから。夫であり家長であ
る正樹さんの許諾が要ると。得られなければ、取り付けるとの意志の強さは感じ取れたけ
ど。同時に正樹さんの立場にも配慮した形を採り。

『私が今出立しなければ、千羽や若杉は柚明ちゃんを差し出せと求める怖れが……為景さ
んは独断で先走ったけど、それを現実にしない為にも、ここは私が一度応じておくべき』

 正樹さんも真弓さんから、その事情背景を昨夜耳打ちされていて。真弓さんの出立を望
まぬながらやむを得ないと、唯一度の例外にしようと心を合わせ、無事な帰着を願う事に。
2人はわたしをそこ迄大事に、想ってくれて。

「行って参ります!」「体に気をつけて…」
「行ってらっしゃい」「早くかえってきて」

 桂ちゃん白花ちゃんは最後迄、泣き出す事も取り縋る事もしなかったけど。元気に手を
振って、声を張り上げて見送る感じでもなく。伸ばしたい手を我慢してわたしの左右に繋
ぎ。

「真弓の事……宜しくお願いします」「為景さんも危険な任務です、お気を付けて……」

 朝十時に迎えに来た若杉の黒塗り乗用車に。
 2人は微かな緊張を漂わせつつ乗り込んで。

 車が去った後も長閑な夏の日は尚続くけど。
 羽様のお屋敷は少しだけ広々と感じられた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「真弓は……大丈夫かな」「ええ、きっと」

 1時間に1回位正樹さんの問に答えつつ。
 温もりを欲して歩み寄る幼子を抱き留め。

 真弓さんの出立を了承しても、その不在に感じる寂しさは拭えない。それは無理に抑え
我慢させるべきではなく、わたしの肌身で補おう。言葉では幼子も、その欠乏を表しきれ
ないし、補いきれる物でもない。正樹さんは、わたしも気軽に抱き留める訳に行かないけ
ど。

『いつもいるべき人がいないと、その分の空白が、目立って感じられてしまう物なのね』

 わたしは今迄、お泊りに行く側だったから。
 お屋敷で、誰かの不在を感じる事は少なく。

 帰ってくると迎える人のいる日々に馴染み。
 この様に帰着を唯待つ他に術のない立場は。

 何を愉しみ喜んでも心の隅に気懸りが残り。
 白花ちゃんや桂ちゃんの気持を実感できた。

 笑子おばあさんが亡くなって初めて迎えた、この春を想い出した。草木が芽吹き、リス
やウサギや蝶々が動き始める季節だけど。去年迄それを共に眺めていたおばあさんの不在
は、却って寂寥感を伴い。暫くの間、何かが欠けている感じが拭えず。否、それは実は今
も尚。

 だからサクヤさんが不在で、真弓さんも出掛けると、お屋敷は広く静かになった印象で。
双子も同じ感触なのか、常に正樹さんかわたしを視界に収めないと、安心できない様子で。

 正樹さんはコラム執筆もあって、四六時中幼子の相手は出来ない。集中する為に奥の部
屋へ籠もった後は、年代物の建物は双子とわたしだけの空間に。お屋敷は広い上に作りが
古く。廊下の奥や隅の暗がりに、その静謐や人気のなさに、双子が抱く不安や怖れは分る。
そこはわたしが先頭に立って、安心を証して。

「お洗濯にお掃除に、庭の手入れにお料理」

 元々好んで家事に携っていたけど。真弓さんが不在の間は、わたしが主婦の代りとなる。
夏休み前半は、買い物に出た以外は、幼子を見る必要もあって、わたしは羽様に籠もる感
じで。お友達の遊びの誘いにも応じられずに。

「柚明ちゃんがいてくれて本当に助かるよ」

 夕飯時正樹さんにそう言って貰えた。真弓さんの代りにしては、未熟で拙い事は承知だ
けど。彼に負担が及ばない位には出来ている。その成果を見て貰えたと思えて、嬉しかっ
た。

「僕も真弓と結婚する迄は、母さんから料理も習ったけど。真弓は『台所は女の城』だと
入れてくれなくてね。元々確かな腕でもないから、子供に食べさせるには自信がなくて」

 真弓の料理に優るとも劣らない出来だよ。

 それで最近の食がやや細いのは、真弓さんの不在、と言うより無事を案じての事だろう。

 幼子には、見せない様に務めているけど。
 正樹さんも、繊細な神経の持ち主だから。

 こればかりは、真弓さんが帰って来ねば。
 幼子もわたしも、真の安心は得られない。

 それを分るから敢てわたしはにこやかに。
 感謝や親愛の想いに己の親愛を表し伝え。

「有り難うございます。褒めて頂けて嬉しい。お料理では叔母さんに抜き去られ、追う側
になって久しいけど。及ばない事は承知の上で、叔父さんの口に合う様に、桂ちゃん白花
ちゃんの口に合う様に。心を込めて作りました」

「おいしーよ、おねいちゃん」「おいしぃ」

「有り難う、桂ちゃん白花ちゃん。次のご飯も頑張って作るわね。叔父さん、お風呂が沸
いていますので、いつでも入れます」「ん」

 本当に柚明ちゃんが嫁になった様な生活だ。
 君の作るご飯を食べる夫や恋人は羨ましい。

 人数の減った寂しさは、緊密な繋りで補う。
 叔父さんの声にわたしは首を左右に振って。

「でもわたしの愛する人は、桂ちゃん白花ちゃんで、叔父さん叔母さんサクヤさんです」

 当分はどこかへ嫁に行く予定もありません。
 ここで大好きな人に末永く尽くす積りです。

「有り難う。僕も柚明ちゃんは大好きだよ」
「良かった……。わたし、とっても嬉しい」

 首都圏に赴いた時、わたしは正樹さんの奥さんと間違われ。誤認された事は光栄であり、
恐縮でもあり。わたしの様な小娘では、正樹さんの花嫁には到底力不足だけど。彼には真
弓さんという、強く賢く美しい素晴らしい花嫁が居るけど。いっときでもその現実を飛び
越えた、愛しい叔父との2人旅は胸を躍らせた。彼と間近に親しく接し、時に肌身を重ね
合わせ。羽様では最近中々叶わなかったから。

 そして今は羽様で幼子の母代りを担いつつ、愛しい叔父の妻の代役を。所詮一時的な代
打だと分っていても。己が真弓さんの代りになるには余りに力不足だと承知でも。こうし
て間近で親身に接し、独占的に尽くす事の叶う今は心底幸せだった。真似事でも愛しい叔
父の最愛の人の位置にいられる事が、嬉しくて。

 真弓さんの早い帰着を祈りつつ。白花ちゃん桂ちゃんや正樹さんの最愛の母で妻で、わ
たしの愛しい叔母の、無事な帰還を祈りつつ。今のこの幸せが長くは続かない事を望み願
い。それ迄の限られた尊い日々の幸せを享受して。矛盾は分っている。どちらが優先すべ
きかも。分った上で与えられた望外の幸せに身を浸し。

 2人で幼子を1人ずつ、お風呂に入れて。
 正樹さんとわたしで幼子2人を間に挟み。

 夫婦が子供を安らかに寝かしつける如く。
『?(れんが)』の字の形で閨を共にして。

 4人家族の時が静かに平穏に過ぎて行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「はい、羽藤です……大丈夫です。はい…」
「……柚明、ちゃん……。誰からの電話?」

 執筆で奥の部屋にいた正樹さんが、気付いて出てきた時は、わたしが電話を切り終えて。
親密そうなわたしの声に、真弓さんからの連絡かもと思った様で。でも、その推察は外れ。

「サクヤさんです。お仕事長引いていたので、来るのが遅れていたけど。後少しで終るか
ら、オハシラ様のお祀りには、間に合いますって。戦いに赴いた叔母さんの、様子伺いも
考えた様だけど、叔母さん以外の人はサクヤさんと関係が微妙だから、サクヤさんの助け
が要る状況でもないから、直に羽様に来ますって」

 サクヤさんが来て、諸々を分担してくれる事は。正樹さんは、わたしの負荷軽減以上に、
人が増えてみんなの気が紛れると考える事で。真弓さんからの連絡ではなかった残念、今
この時の最愛の人の無事を確かめ得なかった落胆を。埋め合わせ、他の人に悟られまいと
…。

「サクヤおばちゃ?」「そうよ、桂ちゃん」

 なのでわたしも落胆は微塵も表に出さず。
 親しい人が来てくれる喜びを幼子に伝え。

「でもその前に、嵐が来ると天気予報では」
「応急でも屋根を直さなければならないか」

 羽様のお屋敷は年季を経た古民家なので。
 この夏も雨漏りが数カ所散見されていた。

 大規模な改築は資金難の羽藤には難しく。
 傷みを見つける度に小補修していたけど。

「雨漏りが酷くなっても拙いし、風が吹き込んでも困る。大工に頼むにも間に合わない」

 僕が修理すると、立ち上がる正樹さんに、

「わたしがやります。わたしの方が身が軽いから、屋根に乗っても痛まないと思うし…」

 申し出たけど、正樹さんは首を横に振り。

「大工仕事は男の領分、と迄は言わないけど。板を剥がしたり釘を打ったりの作業は、腕
力に勝る成人男性がより適任だよ。腕の太さでは尚僕が優るしね。柚明ちゃんには家の中
で、白花と桂を見ていて欲しい。誤って破片や釘が落ちた時、下に幼子がいると危ないか
ら」

 確かに腕はわたしの方が細いけど。真弓さんやサクヤさんの修練を経たこの腕は、正樹
さんを組み敷く事が可能で。大工仕事は腕力に勝るわたしがより適任だと思う。でもそれ
を強く主張しても、大人の男性のプライドに触れるので、その先は黙して彼の考えに従い。

 わたしの修練は、たいせつな人を危難から庇い守る事が目的で。強さを示したり納得さ
せたりする事が目的ではない。最近は明良さんにお転婆と言われた。修練の成果が無意識
に、己の日頃の姿勢や態度を変えていたかも。少し自覚して、慎ましく淑やかにしなけれ
ば。

「気をつけて下さい」「ああ、大丈夫だよ」

 工具と資材を持った正樹さんが、梯子伝いに屋根に上る様子を。一抹の不安を残しつつ、
白花ちゃん桂ちゃんと見守って。後は双子に危険が及ばぬ様に、屋内に導き一緒に過ごし。

「おかあさん……あした帰ってくるかな?」
「そうねぇ……早くお仕事終ると良いわね」

 白花ちゃんの問にそう答えるけど。真弓さんのお仕事終りとは、不二夏美の絶命を指す。
中途半端な結末はない。でも真弓さん程ではないけど技量で優る明良さんが、彼女を倒し
切れなかった。今の彼女は昔の不二夏美ではない。真弓さんの優位は動かないと思うけど。

 彼女はわたしの濃い贄の血も多少呑んでいた。人の血は、形ある肉の一部でありながら、
形のない魂の一部でもあり。水分塩分糖分等の物質的な側面を持つ一方、霊的な『力』も
宿し。呑めば鬼に強い『力』や活力を与える。

『血は力、想いも力。だから、力とは心…』

 わたしが不二夏美の来歴を読み取れたのも、その生存や交戦を羽様で漠と感じ取れるの
も。彼女に血を呑まれた為に想いが繋った影響か。わたしの濃い贄の血が彼女の身と心に
浸透し、その血に伴ってわたしの心迄が彼女を巡り…。

 己の思索に耽って心が留守になっていた。
 愛しい幼子は無意識下でも守り庇うけど。

 極間近以外は心が遠方を向いていた為に。
 周囲の諸々に配る注意を疎かにしていた。

 瞬間心に映ったのは青空の下で吹く強風。
 それは涼やかと言うより圧を感じる程の。

 心臓を掴まれた様な不吉の兆に心が凍り。
 脱兎の如く走り出したけど既に時は遅く。

 うわっと言う叫び声に続けて。相応の重量が地に落ちるどさっと言う音が、耳に届いて。
中庭に飛び出すと、突風に煽られて屋根から落ちた正樹さんが、動けずに丸く蹲っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「叔父さん、しっかりして! 気を確かに」

 大工道具や木片等は、傍の地面に刺さっていたけど。幸い正樹さんは掠り傷で深刻な外
傷はなく。でも屋根から落ちた衝撃で全身を強く打って。声を掛けても呻き声が返るのみ。

「おねえちゃ?」「どうしたの、ゆーねぇ」

 置き去りにしてきた幼子が顔を覗かせる。
 今屋根の下に幼子を歩み来させては拙い。

「白花ちゃん! 桂ちゃんをその場で抱き留めて、縁側から動かないで。お屋敷の中から
出てこないで。未だ木片が落ちてくるかも」

 桂ちゃんと同時に白花ちゃんの足も留め。
 彼は好奇心よりわたしの言葉に従うから。

 空を眺めると銀座通の方角に黒雲が見えた。三十分掛らず羽様も嵐の領域に入る。この
近く迄嵐が迫っていたとは! 迂闊だった。雨雲が予報を外れて動く事も、珍しくないの
に。それを考慮してなかった。空を見てなかった。

『わたしが己の思索に耽ってしまった為に』

 早く気付いて、彼に一言声を掛けておけば。
 そもそもわたしが、屋根を修理していれば。

『己の行動一つでこの事態は、回避できた』

 天気は良くても何の兆しもなくても、時折強い風は吹く。嵐の前に終えねばと、焦る正
樹さんは不意を突かれたのか。屋根の修理は未完だけど、今はそれより彼を早く治さねば。

『救急車を呼んでも、すぐには来られない。
 銀座通からここに着くのに三十分は掛る』

 嵐が本格化すれば、未舗装の道で外と繋るだけの羽様は、容易に陸の孤島となる。嵐は
間近で、これから救急車を呼んでも手遅れだ。仮に到着できても、出立できない。病院に
運び込めなければ、機材なしに医師だけ来ても。

「わたしの癒しで治す他に、方法がない…」

 己の失陥で招いたこの結果なら、己が償う。
 己が取り返す術を持つ今は、不幸中の幸い。

「叔父さん、気を強く持って下さい。生きようっていう想いを、強く抱いて」「うん…」

 わたしは言葉以上に合わせた肌身で感応で、正樹さんに語りかけ。癒しの『力』を全開
で流し込みつつ、彼の体を抱き上げ。修練を経たこの腕は、成人男性のお姫様だっこも叶
う。女の子の慎みや淑やかさと、そぐわなくても。今はお転婆でも何でも愛しい人の助け
が優先。

 敷いた布団に寝かしつけ、汚れた作業着も下着も脱がせ。肌身を繋げ賦活を試み。正樹
さんはわたしと血の繋った叔父だ。修練や実践で何度も癒しを注いできた。症状は重篤で
予断を許さないけど、絶対助ける。わたしはこういう時の為に、今日迄修練を重ねて来た。

 幼子の前で、父と従姉が裸で肌身を重ねる情景は、本来避けるべきだけど。重傷の彼の
癒しには肌身を添わせねばならず。今他に幼子を任せられる大人は居ない。昼でも空を暗
く覆う黒雲が、雨風と共に迫る前で。幼子を目の届かない処に隔てて置く訳にも行かない。

 肌身を繋げて、迅速に大量に癒しを注ぎ。
 生命の危険は、回避できると視えた処で。

 少しの間だけ、正樹さんから身を剥がし。
 このお屋敷で、今動ける人はわたしだけ。

 不安げに縋り付いてきた幼子を、左右に受け容れ抱き。正樹さんにしたと同様に、それ
以上に親密に、温もりを交わし頬擦り合わせ。不安を怯えをわたしの肉感で肌触りで拭っ
て。

「少しだけここで待っていて」「「うん」」

 服を着てから白花ちゃん桂ちゃんを、意識のない正樹さんと同室に残して。既に嵐の中、
雨風に晒されつつお屋敷の雨戸を閉じて回り。未だ日没迄時間はある筈なのに周囲は薄暗
い。

 畳や絨毯が濡れない様に、雨漏りの箇所に桶を置き。水差しとコップ、濡れタオルを手
に正樹さん達が待つ部屋に戻る。強風や豪雨が戸や壁を叩きつける音は、部屋の中迄届き。

「叔父さんは屋根から落ちて大ケガをしたの。手当の為にわたしが寄り添うから、桂ちゃ
ん白花ちゃんはわたしの背中側で休んで頂戴」

 仰向けの正樹さんの左に身を添わせ。わたしの背中の感触は桂ちゃんか。白花ちゃんは
桂ちゃんを、わたしと挟む感じで肌身を繋げ。白花ちゃんに迄及んで心を安らかに保つ様
に、正樹さんの深傷を治す為に強く『力』を紡ぎ。

 及ばなくても真弓さんの代役を担った以上。
 自身の未熟で愛しい人の深傷を招いた以上。

 怯み躊躇う余地などない。迷う必要もない。
 わたしの全てを捧げても愛しい叔父を救う。

 暗雲と雨風は、時が過ぎても一向に過ぎ行く気配を見せず。お屋敷は陸の孤島になった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 日が暮れた事も定かに分らない程空は暗く。
 羽様のお屋敷は強い雨風に揺らされ軋んで。

 枝葉の撓る音や折れる音、強い雨音が屋内迄届き。それ以外の日常の物音は掻き消され。
テレビもアンテナが折れたのか画面は砂嵐で。午後3時過ぎに、日中でも暗いからと付け
ていた電灯が消えた事で、停電を知った。自然の猛威を前にして、人の手に対処の術はな
く。唯一の情報源となったラジオは嵐が尚も続くと語り。今夜は蝋燭や懐中電灯で過ごす
事に。

『正樹さんも今晩一晩は、動けそうにない。
 生命の危険は回避したけど、未だ重傷ね』

 懐中電灯の光が頼りなく、人の文明の名残を留め。夜になって贄の『力』は増したけど、
科学や現代からお屋敷ごと切り離された様で。太古から森に包まれた羽様だけど今は尚更
に。人の意志も努力も願いも受け付けず荒れ狂い。

 暗い部屋で意識のない正樹さんを背に座し、縋る幼子を左右に抱き。肌身を添わせ
『力』を注いで3人の身と心を賦活させ。お屋敷を揺らす強風と、壁や屋根に叩き付ける
豪雨に対し。身を寄せ合ってわたし達は夜を迎える。

「おねいちゃん、こわいよ」「ゆーねぇ…」

 サクヤさんも真弓さんも居ない。正樹さんは意識がない。桂ちゃん白花ちゃんは、嵐の
脅威に怯えを隠せずぴったり縋り付いて来て。わたしも不安に思う程なのだから無理もな
い。縋り付く小さな腕をわたしも強く抱き返して。不安や怯えを努めて抑え、幼子を慰め
愛しみ。

「大丈夫。わたしも、叔父さんもいるから」

 ピカアァァァッ! ズドオオォォォォン!

 一瞬の稲光はむしろ怖れる心を曝く如く。
 わたし達の視界に濃く深い影を映し出す。

 かなり間近に落ちたのか雷鳴は凄まじく。
 空気の振動がお屋敷の壁や床を揺らして。

「おねいちゃああぁん!」「桂ちゃん…!」

 2人の怯えや不安や心細さは、縋り付く小さな腕の力の込め方で悟れる。特に雷の恐怖
は間近に見て聞いて、初めて実感できる物で。人間の存在の無力さ小ささを思い知らされ
る。わたしも怯えを抑え、表さぬ様に努めるけど。瞬間の竦みは肌身を繋ぐ幼子に悟られ
たかも。

 ピカアァァァッ! ズドオオォォォォン!

 大地が揺れて空気が騒ぐ。肌身が震える。
 落雷は何度落ちても馴れる事が出来ない。

「ゆーねぇ、こわい」「おねいちゃあぁん」
「大丈夫。わたしが最後迄一緒にいるから」

 たいせつな人を守る強さを求めて、修練を重ねてきたけど。悪意な人や凶暴な獣や、自
然の禍からも愛しい人を守りたく、己を鍛えて来たけど。所詮人の努力など、天が一度猛
り狂えば手が付けられず。人の手ではどうにも出来ない・ならない事も、世にはあるのか。

『嵐が空気を掻き乱していて、関知も感応も余り遠くに及ばない。目も耳も鼻も利かない
状況で、【力】だけ有効に働く筈もないけど。わたしも所詮、限りある人の端くれなの
ね』

 静かな月夜なら、オハシラ様のご神木迄視える様になったわたしも。今はお屋敷の隣室
を視ようとしても朧気で。外は荒れている事以上は殆ど分らない。真弓さんを心配する余
裕などなく、今ここが危難のど真ん中だった。

 ピカアァァァッ! ズドオオォォォォン!

 大地が揺れて空気が乱れ。身も心も竦む。
 血管の深奥から怖れが怯えが湧き出づる。

「いやあぁぁん!」「こわいよ、ゆーねぇ」
「大丈夫。わたしは絶対に、離れないから」

 正樹さんに縋り付きたくなる己を抑えて。
 幼子を強く抱き支え、わたしが柱になる。

 意識を失った侭の怪我人に縋れぬ以上に。
 守り支えたい最愛の幼子を目の前にして。

 自身を見失って、乱れる訳には行かない。
 剛毅ではなくても鈍感を装う位は出来る。

 雨風の大音声に、安眠も阻まれ許されぬ様な錯覚の中で。微かに何者かの動きを気配を、
感じ取れた気がした。獣だろうか人だろうか。今のわたしはその有無さえも定かに見通せ
ず。

 正樹さんの癒しや幼子の心の賦活に、わたしは日中から殆ど絶え間なく『力』を強く紡
ぎ続けていて。この強さでこの長さ、自覚して『力』を紡ぎ続けた事は今迄にも余りなく。
外界を見通す『力』を更に紡ぐのは流石に…。

『この大嵐の中で、まともな来訪者があるとは考え難い……強盗や盗人が訪れるとも考え
難い状況だけど。気の所為? 遠雷や暗闇や嵐に抱いたわたしの怯えが、何もない処に視
えた様な聞えた様な錯覚を導いた? でも』

 玄関の引き戸が、微かに動いた音がした。
 鍵を掛けたから、開く筈はないのだけど。

 何者かが開けようと、押し引きした様な。
 雨風が打ち付けて軋むのとは、違う感触。

 何かがお屋敷の間近にいる。入ろうとしている。この大嵐の最中、一体ここに何の用が。
錯覚ではない。確かに何かが引き戸を押し引きしている。開けて入ろうとしているのか?

『何かがお屋敷に入ろうとしているのなら』

 今、様子を確かめに行けるのはわたしだけ。
 今、ここでみんなを守り庇う事が叶うのも。

 人か獣か、何の意図かも見通せないけど…。
 見通せないからこそ、わたしが先頭に立つ。

「ちょっと三和土を見てくるから、白花ちゃんと桂ちゃんは叔父さんとここにいて頂戴」

 ピカアァァァッ! ズドオオォォォォン!

 巡り合わせの悪さか、正にその瞬間落雷が。
 わたしも思わず幼子と共々に竦んでしまい。

「けいも行く! おねいちゃんといっしょ」
「ゆーねぇ、はなれて行ってしまわないで」

 暗闇に取り残されたくない気持は分るけど。
 2人が心配してくれる気持も有り難いけど。

 何があるか見通せぬ処に幼子を伴う訳には。
 でも無理に引き剥がすのはその心を乱す…。

 一度座り直し2人を肌身に強く抱き留めて。
 叔父さんを見ていて頂戴と幼い耳に囁いて。

 付いてきてしまわぬ様に、幼子に『力』を注いで眠気を促し。改めて独りで三和土に向
かう。引き戸を押し引きする感触で、力も相当強いと悟れた。嵐で空気も気配も激しく掻
き回されて、屋外へ『力』が届かず。外も先も視えないけど、奇妙に危険は感じなかった。

 引き戸は一層強く前後左右に揺さぶられ。
 確かな意図を持つ者の訪問で間違いない。

 廊下から誰何しても、豪雨と暴風で外に声が届かないので、引き戸の間際に行かねばな
らぬ。三和土でサンダルを履いた瞬間だった。

 バンッ! 激しい音と共に引き戸の鍵が壊されて。一気に大きく開けられたその瞬間に。

 ピカアァァァッ! ズドオオォォォォン!

 光と音が同着なのは本当に落雷が近いから。

 一瞬だけ鮮烈な輝きに照されたその人物は。
 見上げる程に背の高く髪長い影を濃く映し。

 わたしは、強い雨と激しい風に晒された侭。
 身動きもせず少しの間、立ち尽くしていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 嵐は去って、多少の雨漏りはあったけど。
 お屋敷は、大きな損壊もなく朝を迎えて。

「本当にびっくりしたんですよ……サクヤさんだって分る迄の僅かな間だけど。丁度間近
に雷が落ちた瞬間で。高い背丈も肩幅も艶やかな銀の髪も、全てが真っ黒なシルエットで。
帰って来るとは聞いていたけど、あの強い雨風を、夜に強行突破するとは思ってなくて」

 日の照す中庭で、洗濯物を干すわたしに。
 外に出て遊ぶ幼子を、一緒に見守りつつ。
 乱れた中庭を片付ける銀髪の愛しい人は。

「こっちも連絡の間を惜しんで、赤兎を走らせたから。隣町側から羽様に入るには、何本
か小さな橋の架かった道を行かなきゃならず。増水すると通れない怖れがあって。正樹の
ケガは知らなかったけど、真弓も居ないし心細いんじゃないかと思ってね。どこかで足止
めを食って緊迫の夜を無為に過ごす位なら、無理しても羽様に着いた方が良いと思って
さ」

『あれ程の嵐なら、戸締まりしてみんな家に籠もっているのは、当然だけど。中々誰も出
て来ないからさ。雨風に晒され続けるのも肌に悪いし。最後は思い切り引き戸を開けて』

 引き戸は元々立て付けが悪く、錆びていて。
 開かない時は力づくで開けたりもしていた。
 直さなければならないと、思っていたけど。

『何度か声を掛けて引き戸も叩いたんだけど、届いてなかったかい? あたしの遠吠え
は』

『すみません。雨や風の音に紛れて全く……空気があれ程激しく乱れると、関知も感応も
掻き乱されるみたい。お屋敷の外は殆ど見通せなくて、サクヤさんの気配も感じ取れず』

 月夜でなくても日中でも、通常サクヤさん程近しい人の接近なら、十キロ以上離れてい
ても感応で悟れるのに。サクヤさん程愛しい人なら、羽様に向けて出立した時にその来訪
を関知で悟れるのに。一つ条件が変れば全てが見通せなくなって。わたしは尚も未熟者だ。

「でも正樹との良い雰囲気を、邪魔しちまったかも知れないね。子供2人の夫婦生活を」

 その語調が冷やかす感じなのは。正樹さんの治癒に、わたしが肌身を添わす必要があり。
サクヤさんを迎え入れた後も為していたから。わたしが彼を幼い頃から好いていたと、又
は今尚好いていると、サクヤさんも周知だから。

「叔母さんが耳にしたら、切られますよ…」

 同時にその語調が冷やかす感じに留まるのは。わたしがその愛欲を叶えに動く事が、絶
対ないから。一番愛しい白花ちゃん桂ちゃんの、涙を招く事を羽藤柚明は決してしないと、
サクヤさんも周知だから。冗談にも出来ると。

「なに、鬼切りの居ぬ間の洗濯って奴だよ」

 正樹さんは、肌身を添わせた癒しの効果で、傷も治りかけでかなり体調も復し。サクヤ
さんも同じ屋根の下なので、肌身を重ねる事は遠慮し。でも手を握って尚癒しは注いでい
る。

 サクヤさんの危惧の通り、羽様に繋る県道は全て、川の増水や落石で通行止めになって。
救急車も来られぬ侭、わたしの癒しの方が治りが早い為に、結局正樹さんは病院に行かず。
通行止めの解除はついさっきラジオで知った。

「わたし達を大事に想ってくれるのは嬉しいけど、無理はしないで下さいね。あの大雨と
大風の中、見通しが悪い上に道路も危ないし。どこかで立ち往生してしまったら、逆にわ
たし達が心配する側になっていたのですから」

 サクヤさんに何かあったらと思うと。無事に終った今だから、逆に心臓を掴まれた気が。
わたし達を案じる余り、愛しい女性を危難に踏み出させてしまうなら。それは心配させて
しまう脆弱さ未熟さを持つ、わたしの所為だ。守られる必要も薄く思われる位強くなけれ
ば。

 今目の前にいる銀髪の美しく強い人の様に。
 でも愛しく想う人はやはり心配してしまう。

 なんか矛盾というか迷路に填り込んだ様な。
 思い直せば今己が案じるべき人は別にいた。

 わたしの為にみんなの為に、人の世の為に。
 生命の危険を承知で戦いに赴いた強い人が。

 わたしの思索の辿る途をこの人はご存じで。
 右手が伸びてきて左頬を髪を軽く触られて。

「真弓は大丈夫だよ。主婦の日常を過ごす上ではちょっとアレな処もあるけど、非日常に
際した真弓に隙は全くない。それに今の真弓には、ここに守るべき夫と子供と柚明がいる。
その内しれっとした顔をして帰って来るさ」

 わたしの焦燥を、鎮めようとしてくれる。
 銀の髪の人の優しさ繊細さが、愛おしく。

 わたしは心地良い痺れを、心に感じつつ。
 今少しの間はその心遣いを、受け止めて。

 頬を髪を触られる侭に身を任せ心を委ね。
 視線で声音で気配で仕草で、幸せを伝え。

「そうですね。きっと、まもなくその様に」

 日の照す元では、色気に欠けるわたしでは、雰囲気に妖しさを伴えないけど。躍動的な
美人との間近な触れ合いは、好ましく望ましく。サクヤさんの、わたしとの近しさに競争
意識を抱いた幼子が。この足下に縋り付いて来て。サクヤさんとわたしの間に、割って入
ろうと。

「桂ちゃん、白花ちゃん、……?」

 いつもの様に、幼子の渇仰を埋め合わせようと。肌身に左右に抱き留める積りで、屈み
込んだのだけど。いつもならそれを待ち望み、好んで望んで頬を重ね身を預けてくれるの
に。

 幼子も無自覚ながら感じ取れたのだろうか。
 この手をすり抜け緑のアーチへと走り行く。

 その向こうから、歩み近付いてくる人影は。
 わたしも幼子も待ち望み恋い焦がれていた。

「「おかあさあぁぁぁぁ〜ん!」」
「ただいま。サクヤ、柚明ちゃん」

 愛しい真弓さんが、無事羽様へと帰着した。


「柚明前章・番外編・挿話」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る