第12話 幼子の護り(前)
「羽藤正樹様と羽藤柚明様のご夫妻ですね。
ダブルのお部屋を、用意してございます」
ホテルのロビーへ、正樹さんに少し遅れて顔を覗かせたわたしは、若い受付女性の問に
まず戸惑って。彼女も驚いたのは、わたしが見るからに未成年なセーラー服姿だった為か。
「えっ……?」「いえ……ち、違います…」
電話とFAXで予約した時、漢字で柚明だと女性ではない印象を与えそうだと、女性の
一点を真弓さんは強調していた。祝賀の場に既婚の正樹さんと一緒に来て泊る女性は、奥
さんだと思われても、そう奇妙ではないけど。送信時に真弓さんは年齢の記入を忘れた様
で。
「正樹さんは叔父で、わたしは、姪です…」
「も、申し訳ございません。失礼をっ…!」
たいせつな人だけど、賢く優しい人だけど。だからこそ、彼には真弓さんの様な美しい
人が花嫁に相応しい。わたしの様な子供では明らかに不足だ。容貌も体格も賢さも。なの
で。
「その、申し訳ないが、もう一室シングルで取って貰えないだろうか? 一緒に暮らして
いる家族ではあるけど。僕は全然構わないんだけど。年頃の女の子と同室はちょっとね」
もう一つシングルの部屋を取る事になって。
わたしは同室も全然構わなかったのだけど。
7階のダブルの部屋は出版社の手配による。打合せや相談に、連絡先は変えない方が良
いので、9階に取れた部屋はわたしが。広い部屋を占めてわたしを追う形になったと、正
樹さんは申し訳なさそうだったけど。今回は彼の仕事が主目的で、わたしは付き添いだか
ら。
「充分すぎるお部屋です。中学校の修学旅行で泊った旅館の大部屋とは随分違いますね」
高級ホテルどころか、泊りの旅行も数少ないわたしの比較対象は貧弱で。政財界や芸能
界の大物も使う『グランドホテル扶桑』の設備やサービスの高級さを、巧く表現出来ない。
荷物を置いてから正樹さんのお部屋を訪れたわたしに、彼も同意と頷いて。正樹さんは
若い頃都市部に出ていたと聞いたけど、苦学生だった為にやはり高級ホテルには縁が薄く。
窓の外は夏の陽が落ち掛っていた。通りを挟んだ高級ホテルの閑散に不審を感じたけど。
具体的な危険を感じない今は、触らぬ神に祟りなし。羽様からの移動に丸一日を費やして、
疲れが堪っている上、この後も日程がある正樹さんに、余計な不安は与えない。それより、
「少し癒しの力を注ぎます」「済まないね」
ベッドに座った正樹さんの背に右手で触れ。
右頬を合わせこの身も添わせて癒しを注ぐ。
陽が落ちる前なので離れて力は及ぼせない。
今のわたしは手を握るだけでも充分だけど。一点から流すよりも広範に触れて及ぼす方
が、浸透が早く体への負荷も少ない。親愛の気持を込めるのは、贄の血の力の顕れ方や及
ぼす効果が、使い手の心の状態に左右されるから。
焦って大量に早く流しても、効果が薄い上に体に負荷となる。戦いに使う時と違い瞬発
力より持続力が重要だ。心身に広く深く安定的に浸透させ。正樹さんはわたしを信頼して
くれるので、砂に水が染みる様に受容も早く。
「ああ……随分楽になったよ、ありがとう」
少し頬が染まっているのは、血色が良くなった為だろう。正樹さんは今幼子の肌の様な、
お風呂上がりの様な暖かさを感じている筈だ。触れた身体の感触も、硬さが抜けて柔らか
に。わたしはその背に右頬合わせ身を添わせた侭、
「どういたしまして。わたしはこの為に随伴させて頂いたのですし。少しでも疲れた時は
遠慮なく言って下さい。軽く手を触れるだけでも多少の助けにはなれますから。でも…」
この様に男性と2人きりになるのは初めて。羽様では常に他の誰かがいた。家族として
近しく過ごしてきたけど。羽藤家唯一の男性を少し意識する。豊かな感性と深い識見を持
ち、優しく尊敬出来る人。家族を失い羽様に移り住んで以降、身近な男性は彼と白花ちゃ
ん位。
「わたしは同室でも良かったのに。高級ホテルです。新たに取った部屋は予定外だから叔
父さんの自腹になるのではありませんか?」
宿泊費や交通費は出版社側の負担と聞いたけど、この臨時出費迄求められるのかどうか。
それに同室なら本当に、いつ何があっても即座に癒しも守りも及ぼせる。人が多く泊って
気配も揺れ動くホテルでは、感応も関知も感度が落ちる。緊急時の即応に少し不安が残る。
正樹さんさえ良ければ、明日から同室しても。
「いや。同じ家に住んでも、同じ部屋で寝起きしている訳でもない。年頃の女の子だし」
『わたしは全然、気にしてはいないのに…』
流石にここ数年お風呂は一緒してないけど。護身の技の修練で衣服の破れ目から素肌見
られたり、湯上がりのふやけた様を見られたり、お互い間近にパジャマ姿で過ごしたり。
幼い頃から日々身近に接してきた。心遣いは嬉しかったけど。2人きりになって迄隔てを
感じるのは不本意で。わたしは正樹さんとなら…。
己だけの想いに耽りそうな時に、外から干渉があるのは世の常か。既に必要な癒しは終
えたけど、もう少し気持を繋ぐ為に身を添わせていたい頃合に、ロビーからの室内電話が。
「羽藤正樹様に、お客様です」「はい……」
今宵の夕食を共にする人達の来訪で、わたしと正樹さんの2人の時間は、終りを告げた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏休みを再来週に控えた週末、わたしは正樹さんの出版記念パーティ随伴で首都圏を訪
れていた。数泊する予定なので後ろは平日に及んでしまうけど、学校は休ませて頂きます。
正樹さんの職業は郷土史研究家兼著述家だ。郷土資料館の展示物の補修や更新・町史編
纂の監修等に携わる一方。中央の経済誌に独自の視点と切り口を持つコラムも掲載してお
り。サクヤさんのルポライターに職種は近いかも。
かつて正樹さんは、首都圏に進学していた。贄の血が薄い正樹さんは、修練も青珠もな
くても鬼に狙われる怖れはない。でも大病を患って大学を中退し羽様に戻り。以降正樹さ
んは激しい動きや無理が効かない体質になって。
大学の友人が正樹さんの才を惜しみ、その後を案じ。コラムを書く場を紹介してくれて。
元々強壮ではない正樹さんは、遠出や長旅が体に響く。なので郵送やFAXで原稿を送り、
電話で添削や意見交換を。日々の情勢や事件への即応よりも、底流の考察や全体俯瞰が主
なので、今迄特段の差し障りはなかったけど。
「今回は、出ない訳には行かないか」「おめでとう、あなた」「おめでとうございます」
今迄書き綴った正樹さんのコラムが好評で、一冊の本に纏められる事になり。それは物
書きとしての一つの到達点か。原稿料ではなく、売れ行き次第で一定比率の印税が大量に
入る。元大地主でも残った土地の殆どが山林で、農家もしてこなかった羽藤には、大きな
収入だ。
笑子おばあさんは旧家の娘として、茶道や華道・書道や和裁洋裁を一式マスター済みで。
経観塚の町へ教えに行って相当の収入を得ていたけど。笑子おばあさんの夫・わたしのお
じいさんが第二次大戦に出征しており、遺族年金も入っていた様だけど。今やそれもなく。
真弓さんも嫁いで以降は専業主婦で無収入で。
わたしも含めた羽藤の生計は、苦しい筈だ。町史の編纂も郷土資料館の展示更新も頻繁
にはない。桂ちゃん白花ちゃんの幼稚園費用や、わたしの高校授業料や教材費も重くのし
掛る。
これは癒しの力でも感応の力でも、護身の技でも何ともしがたい。羽様に住む限り帰宅
時間を考えればバイトも出来ないし、出来ても子供の稼ぎでは、幾らの助けにもならない。
女子高生には手が届かない。尤も最近は一晩で数万円を稼ぐ女子高生もいると聞いたけど。
故に傾きかけた羽藤の家には、久々の朗報で。
「今迄の積み重ねが読者にも出版社にも評価されたのよ、あなた」「編集部の鈴木さんも、
自分の事の様に電話口で喜んでいましたね」
問題は首都圏で行われる祝賀パーティへの参加が必須な事で。祝宴は厭う事ではないけ
ど。真弓さんが行ければ最善だった。奥さんなら隣に添っても同室同衾も問題ない。でも。
「申し訳ないけど……今回は柚明ちゃんに付き添いをお願いできないかしら?」「はい」
話しは、真弓さんが羽様に嫁いだ頃に遡る。
真弓さんはその細身にも関らず、鬼切部千羽党の鬼切り役で、当代最強を謳われており。
鬼切りの頭・若杉の暗部を公表しようとしたサクヤさんを、切る命令を受けていた。真弓
さんは若杉の過去を知らず、サクヤさんを世を騒がす鬼と信じ討伐に。でもサクヤさんも、
山神の眷属で観月の民で強く賢くしなやかで。
真剣の諍いは経観塚迄持ち越され、正樹さんを巻き込んだ末に決着した。若杉の過去を
知った真弓さんはサクヤさんと和解し、抹殺の命令を返上し鬼切り役も返上し。千羽の家
から絶縁されて、行く処も帰る処も失った真弓さんに。サクヤさんが正樹さんのプロポー
ズを仲立ちした結果、2人は結ばれ。でも…。
『この侭では済まないわね』『そうだねぇ』
それは若杉や千羽には敵前逃亡で裏切りだ。人の理を越える鬼を討つ鬼切部は、鉄の結
束で繋がれる。血の綱紀なしに、誰が生命を危険に晒し、公に誰の賞賛もない鬼切りの使
命を為せるだろう。金が欲しいなら、競技の道に進めば表社会で稼ぎ放題な一級の強者達
だ。彼らを突き動かすのは使命感や仲間への想い、或いは鬼への憎悪・憤怒、裏切りに用
意された報復への怖れ……。綺麗事ばかりではない。
若杉は鬼も鬼切部の存在も公にせぬ方針で。その為に富や権力、各種の裏工作も使う在
り方は秘密結社に近い。その存在を明かそうとしたサクヤさんが、一度は生命を狙われ、
今尚業界から干され。ルポライターでは稼げず、フォトグラファーで稼いでいるのもその
為だ。
だから千羽の家が真弓さんと絶縁したのは、実は温情だったかも。以後一切関らないと
言う事は討伐しないとも読める。当代最強を討てる強者等どこにいると言う事情はあって
も。
でも若杉はそう都合良くは動いてくれず。
真弓さんも含む羽藤との話し合いの結果。
真弓さんが行動制限を受ける事で合意し。
わたしがそれを知ったのは随分後だけど。
『羽藤真弓は、若杉の事前承認なしに県外には出ないこと。仮に承認なく県外に出たら』
若杉は真弓さんもサクヤさんも敵と見なし、羽藤の家族をその足止めの駒に扱う。笑子
おばあさんも正樹さんも、わたしもその瞬間からずっと人質だった。実質幽閉に近い提案
に、
『良いわ。その条件は、呑みます。その代り、条件を守る間は若杉も、わたしやわたしの
たいせつな人達に、一切手出ししないで頂戴』
羽様で専業主婦になる真弓さんに、県外に出る用はない。正樹さんも遠出しないので今
迄困る事は殆どなく。真弓さんはこの約定で、同時にサクヤさんへの若杉の手出しも封じ
た。若杉が直接サクヤさんを処断できず、出版業界に圧を掛けて干す間接手段に留めてい
るのもこの為で。危うい休戦の均衡は、今に至る。
若杉がサクヤさんに行動制限を求めなかったのは。サクヤさんの職業柄、それが難しい
以上に。真弓さんが行動制限で羽様にいれば、最早羽藤の安否を脅しの材料に使えない為
だ。元当代最強の鬼切り役を脅かす術なんてない。
最低限、真弓さんとサクヤさんが2人手を組んで、若杉に牙を剥かないだけで充分だと。
真弓さんとの約定が間接的にサクヤさんとの休戦を生み、これ以上の敵対行動を抑えると。
自身の受け容れる不自由が、他の人を生かす。人の世の錯綜は興味深く、学ぶべき処が多
い。
なので、真弓さんは若杉の事前承認なく県外に出られない。承認を得れば良いのだけど、
若杉は鬼切部を中途脱退した真弓さんに心証が悪い。明確な拒否も承諾もない侭日は迫り。
真弓さんは随伴を諦め、癒しの力を扱えるわたしに代役を頼み。桂ちゃん白花ちゃんを
看る人も必要だった。幼子に長旅は負担だし、2人はわたしより濃い贄の血を宿す。対策
はしても危険は拭えない。幼い双子は留守番だ。
『真弓さんもサクヤさんも、招いては拙い』
サクヤさんは写真の取材で今北海道にいた。禍を予覚したと言えば、サクヤさんは仕事
を投げ出しても、わたしと正樹さんに添って守ってくれるけど。この禍はむしろサクヤさ
んや真弓さんを呼ぶ事で大きく複雑になりそう。
わたしや正樹さんを直撃する感触ではない。泊るホテルに何か生じるのか、祝賀に来る
人に関るのか、近在の人に降り掛るのか。都会は近い範囲に人が密生しており、誰に何が
生じるかを、わたしも全ては読み切れないけど。
正樹さんの身に危険はないと、視えていた。それでも小さくない危難の影は、視えたけ
ど。禍には、唯逃げて躱すだけでは回避は叶わず、自ら踏み込んで退けなければならぬ時
もある。小の禍を躱す事が次に大の禍を招く事もある。
出版社社長の懇意な政財界の大物も来ると聞いた。いよいよ延期や中止は難しい。正樹
さんや羽藤家の将来も掛っている。人間関係は絡みそうだけど、彼の心労はわたしが拭う。
真弓さんは、わたしが申し出ようとした期先を制し。正面から繊手でこの手を握りしめ、
胸の前に持ち上げて、瞳を覗き込んでくれて、
「正樹さんの事をお願いするわ。わたしが今頼める人は、サクヤかあなたしか居ないの」
美しい瞳は、子供のわたしに付き添いを頼む事への申し訳なさを宿し。正樹さんの護衛
を託された訳ではない。それはわたしが勝手に望む事で、2人の心の片隅にもない。その
心身に癒しを及ぼす程度の事で。立派な大人が子供のわたしに、律儀に真摯に頭を下げて。
わたしが禍を見通して尚行く事を決したと匂わせたなら、本の刊行を諦めても参加を取
りやめた。そう言う人達だから、無事に出版祝賀を終らせ、家の収入を確保して幸せの基
盤を保ちたい。わたしの手でそれが叶うなら。
『でも、今なら言える。わたしにもしもの事があった時には、桂と白花をお願いするわ』
真弓さんにそう言って貰えたのは、4年前のこの季節だった。当代最強の鬼切り役から、
強い信頼を寄せられた。非力で愚かで未熟な禍の子だったわたしのこの手を握ってくれて。
それから4年経っても己は尚貧弱な侭だけど。
この身を尽くせる機会が与えられたなら。
承諾以外の答がこの口から出る筈もなく。
数泊の間癒しを頼むだけの事なのに深謝を表す大人2人に。わたしは意図して軽やかに、
でも答には長久の守りの願いを密かに込めて、
「はい。任せておいて下さい」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「おう、正樹。変らないな」「まーちゃん、元気ぃ?」「羽藤先輩、お久しぶりです…」
正樹さんとほぼ同年配の男女5人は、1階ロビーに姿を現した正樹さんに歓声を掛けて、
次に添って現れたわたしに一様に瞳を見開き。
『幼妻、じゃないよな……女子高生だけど』
『娘って確か6歳になってなかっただろう』
『姉さんがいたと聞いたけど、妹なのか?』
『年の差からいって、妹はないだろうさ…』
夕食の席を7つ予約お願いしてあったのは、正樹さん夫妻の分だと彼らも思っていた様
で。わたしは1人で夕食を済ませて良かったけど。正樹さんはわたしの同伴を自然に思っ
て誘ってくれていたし、わたしも護衛の積りなので。
「お久しぶり。みんなも元気で変らないな」
正樹さんは彼らの挨拶に応えてから、横に並んだセーラー服のわたしをみんなに紹介し、
「ああ、姪の柚明だよ。姉さん夫婦が亡くなったので、羽様で一緒に暮らして居るんだ」
「羽藤柚明です。社会見学の為に無理を言って随伴させて頂きました。出来るだけ邪魔に
ならない様にします。宜しくお願いします」
パーティを明日に控えた今宵は自由時間で。正樹さんの大学時代の友人との会食に、陪
席させて頂く事に。みんな真弓さんより拾歳近く年上か。プライベートでも大人のお付き
合いなので、非礼や粗相のない様にしなければ。
「お久しぶり、柚明ちゃん。最近は益々綺麗になったね」「お久しぶりです、鈴木さん」
5人中唯一わたしを見て驚きのない鈴木治さんは、正樹さんの一つ後輩で現在は出版社、
青雲社に勤め。雑誌『創論』の編集部で正樹さんのコラムを担当している。百六十五セン
チの背丈に温厚な人物で。仕事柄何度か羽様を訪れていたので、わたしとも顔見知りです。
「小林武蔵だ。名前は厳ついけど性格は砕けた奴なんだ」「羽藤柚明です、初めまして」
正樹さんと同じ歳だけど、一浪して後輩になった小林武蔵さんは、その大学で現在助教
授です。身長百九十センチの豪放磊落な人で。握手を求めてこの掌をがっちり握り。柔道
の有段者で、わたしの佇まいに勘付いたみたい。
「荻田総司だ。宜しく……」「初めまして」
正樹さんの一つ年上で同期の荻田総司さんは百七十五センチの中肉中背で。端正だけど
印象の薄い容貌を買われて、平河赳夫・衆院議員の私設秘書になっていた。脇役は主役よ
り目立っては拙い。印象の薄い容貌も、努力では得難い天賦の才覚だと。明日ここで行わ
れる出版記念祝賀には平河議員も出席予定で、下見を兼ねて来た様です。平河議員は確か
政界では中堅で、未だ大物扱いされてない筈だ。
「福井さやかです。初めまして」
「初めまして……羽藤柚明です」
ショートの黒髪が艶やかな福井清佳さんは、正樹さんの一つ年下で。大きすぎない胸と
知的な容貌と、百七十センチと女性にしては高い背丈に、きりりと綺麗で。真弓さんに印
象が似ている。女性官僚の出世頭の1人だとか。
「かわいいわぁ。あたしにもこんな頃があったのかしらねぇ。まーちゃんは、羨ましぃ」
正樹さんの腕に縋っている、黒髪長い女性が真柄槙子さん。正樹さんと同じ歳で身長百
六十五センチ。サクヤさんの様に大きな胸に、赤い口紅が映えて華やかな人物だ。鈴木さ
んと同じ青雲社で彼の上司で『創論』の編集長。
ホテル1階の中華料理店で丸テーブルを囲んだ時も、わたしに正樹さんの左隣を勧めつ
つその右隣を確保し。陽気な親交と女性の魅惑を使い分け、正樹さんの歓心を狙う姿勢が、
彼の護衛を任じるわたしにはやや引っ掛る…。
「遂に芽が出た感じか。俺達の間では一番優秀なのも早く出世するのも、正樹だろうと」
小林さんが思い出話の口火を切るのに他の4人も揃って頷く。温厚で自己主張を好まず、
黙々と成果を積み上げ、でも自身の考えは確かに持ち。損得勘定で言動がぶれる事がない。
爽やかで優しく、人の為には損も傷も被れる。
若き日を思い浮べる場にいる事で、この脳裏にも若き日の正樹さんが生き生き映し出さ
れる。知的で爽やかで今より少しせっかちで、でも共にいればいる程恋したくなる魅力的
な。
「どの世界に行っても最終的に一番成功するのは羽藤先輩だと思っていましたよ、僕は」
「正樹先輩のコラムは霞ヶ関でも兜町でも一目置かれているわ。同期の間では必読なの」
「永田町でも。ウチの平河先生も好みでね。続けば続く程安定した思索が味わい深いと」
「まともすぎて面白くないって渋る社長を説き伏せて、書き綴って貰って成功だったわ」
『病で大学を中退していなければ、惜しい』
との想いを共有し、鈴木さんの答に清佳さんも荻田さんも槙子さんも頷いて。特に清佳さ
んと槙子さんにその想いを強く感じるのは?
正樹さんは恥じらいつつも賛辞を受けて、
「みんなのお陰だよ。僕はそれ程優れた才覚もないけど、みんなと一緒にいて学べた事が
多かった。それは今も僕を支えてくれている。特に治とマキには。海の物とも山の物とも
つかない僕を、好評が得られる迄辛抱強く使ってくれて。出版の件でも本当にありがと
う」
「そう言って貰えると、嬉しいです、先輩」
「まーちゃんの為だもの。あたしの大事な」
所有権を主張する様に、肌身を寄せる槙子さんに正樹さんは嬉し恥ずかし、やや困惑し。
学生時代も槙子さんは正樹さんにこんな風に、人に見せつける様に、接していたらしいけ
ど。
「マキ。幾ら何でも正樹先輩はもう既婚者よ。
年下の女の子もいる前で、はしたない…」
清佳さんが窘めるけど、槙子さんは正樹さんに両腕を預けた侭、わたしの方を振り返り、
「奥さんの前ではないもの、いーじゃない」
ねっ。と同意を求められると応えられない。
好ましくはなかったけど。妬ましい位だったけど。謹んで下さいと、初見の大人に言え
る程わたしも神経が太くない。槙子さんは周囲の困惑を愉しんでいる風があり。そんな槙
子さんを分って、みんな一定の悪ふざけは受容しており。正樹さんのお友達との、拾数年
ぶりの旧交を温める場を壊す事は躊躇われた。
そんなわたしの困惑も清佳さんは見抜き、
「柚明ちゃんが答に困っているでしょうに」
少し考えてと、重ねて窘めてくれるけど。
槙子さんは未だもう少し悪のりしたいと。
「まーちゃんだって、羽を伸ばしたいわよね。
鬼の居ぬ間にこそ、生命のお洗濯しなきゃ。
鬼の居ぬ間に、鬼の居ぬ間にぃ……って」
鬼見ぃつけた。突然わたしを、指さして。
年上女性は百戦錬磨か。心中を喝破された。平常心は崩さない様に努めても。年少者か
らこういう砕けた姿勢を見せる年上女性との距離感は測り難い。わたしが答に戸惑い俯く
と。
「ふふっ……奥さんの代りにまーちゃんを女共からガードする気だった? でもそれは至
難の業ねぇ。彼は女が惚れ込む程イイ男だし、都会は田舎と違って人の欲が露わに渦巻く
し、あたしは性悪女だし。清楚で可憐なだけのお嬢さんには難事業よ。貴女は可愛いけど
…」
まーちゃんを繋ぎ止めるには、未だ少し色香が足りないわね。もう少し女を磨かないと。
「目の前で触れ合う男女を見て学ぶのも勉強の内よ。あたしとまーちゃんの濃い仲を…」
真弓さんの前では槙子さんも、絶対こんな事は出来ない。わたしは小娘で、何も言えな
い子供だと見下されている。優越感に浸りたく見せつけたく、反発が返らないと侮って…。
正樹さんは、男性の腕で女性を突き放す事を躊躇って。槙子さんを傷つけると気遣って。
「マキ、いい加減になさい。私に見せつける位なら私が受け容れて終れるけど、多感な思
春期の女の子もいるの。こんな早い時間に」
「遅い時間なら良いの? 貴女も偽善者ねぇ、サヤ。お嬢さんの不快より、貴女が不快な
んでしょう。自分の不快を人に託しちゃって」
それも図星だったので。正樹さんと親交を深めたい想いは、実は清佳さんも同じだから。
本音を抉られて清佳さんが、その様を見て他の男性陣が瞬時言葉を失った時に。わたしが、
「真柄さん、お願いします……これ以上叔父さんを、困らせる事はしないで下さい……」
怒るのではなく、正対しつつ頭を下げて。
「真柄さんが叔父さんを好いている事は見て分ります。唯のお友達を越えて、男性として
信じ頼っている事も感じます。叔父さんは本当に穏やかで、賢く優しく強い人だから…」
わたしが感じた不快は清佳さんと同じ物だ。奥さんのいる正樹さんに抱いてはいけない
想いだ。わたしも清佳さんも彼女が為した事を己が為したく望むから、それを露わにして
迫った彼女を羨ましく不快に想った。嫉妬した。
槙子さんはわたしと清佳さんの嫉妬を煽り立て。清佳さんの欺瞞を逆に見抜いて問うた。
嫉妬では、わたしも槙子さんに何も迫れない。退けと求められる立場は清佳さんもわたし
も持ってない。求められるのは真弓さんだけだ。
「人の恋路は当事者だけで進める物。他の人が阻み促す物ではないと、わたしも想います。
でも今回だけは、事情が違います。叔父さんには愛を交わし合い、子供を為した奥さんが
経観塚で待っているの。5歳の桂ちゃん白花ちゃんと、正樹さんの帰りを待っているの」
悪ふざけな事は分っています。奪い取れないと承知で、試みた事も分っています。でも、
見ていられない。わたしのたいせつな人を困らせないで。正樹さんや真弓さんを、桂ちゃ
んや白花ちゃんを、哀しませる事はしないで。
「帰宅した叔父さんに、叔母さんや幼子を正視できなくなる想いはさせないで。ここ迄で
留めて。わたしは叔母さんも桂ちゃん白花ちゃんも、みんな好き。幸せを保って欲しい」
わたしが為すべきは。我欲で己が好きな正樹さんを、槙子さんから引き離すのではなく。
正樹さんと真弓さんの今後を保ち、正樹さんが幼い双子に曇りなく向き合える状態を守る。
己との幸せではなく、好いた人の幸せを願う。
槙子さんも清佳さんも正樹さんを男として好いていた。わたしも好いた素晴らしい人だ
から無理もない。清佳さんが槙子さんの為す侭に、正樹さんとの間に荻田さんや小林さん
を挟まれたのは。敢て挟ませたのだ。自身の想いを自覚して抑えていた。でも逢わずに済
ませられなかったのは、心底好きだったから。
そして槙子さんはより積極的で、砕けて散る事が諦めに繋ると、敢て無理な突撃に出た。
槙子さんはわたし等眼中にない。彼女の敵は正樹さんの心の内に住む真弓さんへの想いだ。
真弓さんに敗れる事で、正樹さんに拒まれて傷つく事で、彼女は自身に決着を付けようと。
「叔父さんは家族持ちです。自由恋愛出来る立場ではありません。真弓さんはこの位の事
で怒ったり絆に罅が入る様な人ではないけど。正樹さんは奥さん以外の女性と浮気できる
人ではないけど。取り越し苦労と分っていても。今の真柄さんを見過ごす事は、出来ない
の」
わたしは女の魅力では、清佳さんにも槙子さんにも及ばない。大人の女性の柔らかさ美
しさ上品さには逆立ちしても敵わない。羽藤柚明に正樹さんから槙子さんを引き剥がす力
はない。でも女ではなく家族として、正樹さんの娘として、槙子さんを退ける事ならわた
しにも。我欲を捨てれば家族を守り抜く事も。
「祝いの席でこんなお話しになってしまって、ごめんなさい。でもわたしは、正樹さんの
家族として、真弓さんの代りになって、あなたのこれ以上の悪ふざけは、止めて頂きま
す」
その為に、人の恋路を妨げる事になっても。
その為に、人の心を踏み躙る事になっても。
『誰でも好きな人がいて当たり前。誰でもそれぞれ一番の人がいて当たり前。人が誰かを
好きになる事は悪くない。そう想っていた』
でも、それを通せない事も時にはあると。
それが、人の幸せを壊しかねない時も又。
わたしは何度も目の前で、人が絆を固く繋ぐ瞬間を見守り見送り見届けてきた。この手
を伸ばせば、一声挟めば、阻んだり遅延させられた絆を、その人の幸せを願う故に、笑っ
て苦味を酸味を噛みしめた事も、幾度かある。
夕維さんと翔君、可南子ちゃんと宍戸さん、麗香さんと健吾さん、南さんと北野君、博
人君と華子さん、サクヤさんと竹林の姫。でも。
それは己を殺せば済む物だった。己の欲求を抑え、苦味や酸味や傷や損失を己に受ける
事で、たいせつな人の幸せを守り通せてきた。痛むのが己なら己が納得できればそれで良
い。
でも今回は。わたしは清佳さんも槙子さんも退けて、たいせつな家族の幸せを守らねば。
2人の正樹さんへの想いは阻まねばならない。それは正樹さんの古い友を傷つけ哀しませ
る。その罪と業を承知でも。わたしは酷い人間だ。
頭を下げ続けるわたしの前で一つの声が、
「……柚明ちゃんにそこ迄言わせては、僕が夫失格で男失格だな。優柔不断で申し訳ない。
真弓に叱られるかな。ごめん、マキ……僕はもう独身だった頃の正樹じゃない。妻も子も、
美しく育った娘もいる、夫で父親なんだ…」
それはこの場の6人に、過ぎ去った歳月を実感させる言葉になった。開けた未来を前に、
肩を並べ議論を交わした日々。努力と想いでどこ迄も行けると信じ、希望に胸を膨らませ、
青い理想を語り合った、最早返らぬ学生時代。
正樹さんは病を患って羽様に戻り、真弓さんと結婚し桂ちゃんと白花ちゃんを授かった。
小林さんは母校の助教授になり、荻田さんは衆院議員の秘書となり、鈴木さんは出版社に
勤め。槙子さんは異例の抜擢で編集長に就き、清佳さんはキャリア官僚の出世街道を邁進
中。
各人各様の状況で、各々に人生を選び取ってきた。旧交を温め懐かしみ、親しく語り合
う事は出来ても、今から過去は取り戻せない。わたしが諦めた恋に今更幾ら手を伸ばして
も、そこには最早幸せの芽など残っていない様に。人は今迄の積み重ねの上を、歩み行く
存在だ。
だからこそ、積み重ねた友情や信頼は得がたく尊く美しい。滅多に都会に出ない正樹さ
んが訪れた時は、万難を排して集ってくれる。互いに互いを大切に想い合う、素晴らしい
友。
そんな友を持ち、同時にそんな友である正樹さんが、わたしは一層好ましく。拾年早く
生れていればと、心の隅で本気で悔しかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「身を離して貰って良いかな」「分った…」
槙子さんは正樹さんの静かな声に、あっさりとしな垂れ掛っていた身を離し、間近から、
「ごめんね、まーちゃん。少し調子に乗りすぎた。お嬢さんの言う通り、奪い取れる筈が
ないと見えているから、思い切り露骨に迫っちゃった。既婚者に、まともな大人のやる事
じゃないわね」「良いよ、分ってくれれば」
この世には、取り返しの効く物と効かない物がある。この悪ふざけは未だ充分に取り返
しが効く。槙子さんの想いは燃え上がる前に断ち切られ。正樹さんは彼女を大きく傷つけ
る前に小さな苦味で、嵌る前に深みを避けた。
夕食後、槙子さんに不快を与えたわたしは、場を外そうとして。その槙子さんに呼び止
められた。戸惑ったけど。お酒を飲めない子供が、大人の話しに夜遅く迄首を挟むのも、
如何な物かと感じたけど。槙子さんは積極的に、
「男女比を考えたら、お嬢さんに来て貰うべきね。貴女見かけより神経太そうだし、じっ
くり話すとまだまだ面白そう。あたしの恋を断ちきった以上、責任も取って貰いたいし」
最後迄しっかり見届けず、途中退場する積り? あたしやサヤは二次会へ一緒するのに。
もしそれでまーちゃんに何かあった時、貴女は経観塚の奥さんや幼子に何と弁明するの?
「逃がさないわよ。最後迄、見届けなさい」
槙子さんは辣腕の編集長だった。男優位の社会で、責任あるポストにこの若さで抜擢さ
れて成果を出して。それだけでも尋常の能力や気力の持ち主ではない。正樹さんにしな垂
れ掛ったのは『弱い女』を演じて見せただけ。決を下すと人が従う前に歩み出し、後から
みんながついてくる流れは、真沙美さんを連想させた。付いてこれる位に突出する見極め
も。
厳つい大男の小林さんが、打つ手なしと肩を竦めて、流れは定まった。正樹さんも含め
たみんなの同意も取り付けられて、わたしは誘いを断れず。最上階のバーにお付き合いを。
薄暗い一隅に座ると、街の夜景が見渡せる。
闇に浮ぶネオンの光は、人を誘う誘蛾灯か。
羽様では数キロ先迄民家もなく、夜に光るは星か月か、雪か蛍で。煩い程の輝きの乱舞
はない。羽様の静謐と対照的な賑やかさには、でもどこか虚ろに表層で騒いでいる様な感
が。
『昼に較べて、人の情念が虚空に染み出している。ビルの影で吹き散らされず熱が籠もり。
コンクリートに乱反射して増幅し。人が多すぎて、想いが拡散せず絡まり合って滞留し』
陽の光もないので、それらの情念は打ち祓われない。月の輝きもネオンに掻き乱され減
衰する中。暗さ故に力を増した想いの多くは、日中形に出来なかった悔しさを、宿して溢
れ。
止まったり浮遊したり、誰かに擂り付く様も視えた。鬼と呼ぶにも弱々しく、単体では
人に囁く力もない、霊能者にも定かに視えず、形も取れぬ程希薄に雑多な想念の欠片。で
もそれも、弐拾参拾と集えば事情も変ってくる。
人の想念が鬼も生むなら。人口数千万に上る首都圏は、巨大な鬼の産土だった。人の恨
みや憎悪、嫉妬や憤怒が渦を巻き、奔流となって蠢いて。気の弱い人や心臓を患う人なら、
霊感がなくても気が滅入り、疲れ果てる程に。
日中はこの浮遊する者を凌ぐ数の、生きた人が街を行き交う。強くブロックはするけど。
感応や関知はわたしや周囲の人に関る何かを常時拾い続け。わたしに抱いた誰かの印象を、
すれ違った人の数分先を、隣で信号待ちする人の家族の情景を、次々と視せてきて。情報
の海に、感情の大波に流され溺れそう。それに備えて人々が無意識に纏う、他者への隔て
も強く感じる。水圧を肌に常に感じる様に…。
わたしは、都会には不向きな人種らしい。
そして多分正樹さんも、そうだったのだ。
今のわたしはこの程度、百や弐百集っても退けられる。滅入らせたり疲れさせたり悪夢
を見せたりが精々で。彼らが人を破滅に導けるのは、怖れや嫉妬や罪悪感を煽り、冷静さ
を失わせる故だ。平常心を保つ限り害はない。
唯正樹さんには少し癒しを流し込むべきか。
禍の像も尚闇の奥に蟠って定かに視えない。
「向いのホテル、気になるかい?」「はい」
鈴木さんが、外を見つめ暫く動かぬわたしを案じて、声を掛けてくれた。とけ込めず落
ち込んでいると言うより、夜と夜景に魅入られ没入していると、思われた様で。軽く頷き、
「夜なのに、大きな建物が真っ暗なので…」
窓のどこにも照明もないし、気配もなくて。
都会の中枢で、そこは死に絶えたかの様に。
「ホテル・ユグドラシル。先月経営破綻して、閉鎖されたホテルだよ。支払いが滞ったの
で電気も止まって、警備も先週引き上げてね」
去年辺り迄、この『グランドホテル扶桑』と集客合戦を繰り広げ『世界樹戦争』と言わ
れて。弱肉強食を唱えて殴り込む様に立地してきたけど、老舗の総合力に負けた感じかな。
「管理人もいない、本当に空き家状態なんだ。築拾年に満たない近代高層建築の、壱千室
を超える高級ホテルが、何とも勿体ない事に」
それで人の動きも気配も感じなかった訳か。
生活感の欠片も感じなくて奇妙だったけど。
都会の一等地にも関らず、保安灯の一つもなく、黒い物体は屹立して。大きな建物は背
後のネオンも月明かりも隠すので、そこだけ真っ黒で良く目立つ。生きた人の気配も全く
ない黒々たる闇の異質さが、不気味に感じた。
「早くも幽霊が出るとの噂がある様だけど」
「残念だけどマキの雑誌では使えないわね」
小林さんの話に清佳さんがかぶりを振った。
槙子さんが編集長を務め、鈴木さんが担当し正樹さんがコラムを載せる雑誌『創論』は、
政治経済がテーマで怪談は扱わない。青雲社でも別の部署がホラー雑誌を出しているけど。
ホラー雑誌は子供向けで、社内では人事異動しても左遷降格扱いとか。出版社の王道は
天下国家を論じる事にあるらしい。正樹さんのコラムは、時に難しく堅苦しい議論に偏り
がちな誌面の中で、穏やかに柔らかに熱した頭を冷まさせる、一服の清涼剤を担っていた。
「正樹には、今回謝らないといけないな…」
折角のデビュー作の出版記念祝賀なのに。
荻田さんが俯きつつぼそっと語ったのは、
「お前が主役の筈のパーティを、政治ショーが乗っ取ってしまう、きっかけを作って…」
「それは荻田先輩の所為じゃないですって」
鈴木さんが慌てて声を挟むけど、荻田さんは申し訳なさを懺悔したくて堪らない様子で。
荻田さんの雇い主は、山陽地方に選挙区がある平河衆院議員だ。与党の中堅実力者であ
る彼も、正樹さんのコラムの愛読者で。出版記念パーティに参加したいと。元々正樹さん
のコラムを議員に勧めたのは荻田さんらしい。
「平河先生がパーティに出る事自体は、別に政治ショーでも何でもない。平河先生の参加
を知って、政治ショーにしようと考えたのは、うちの社長達なのだもの」「ああ、でも
…」
槙子さんの言う通り、政治家がパーティや結婚式に出る事は卑下する事でも何でもない。
その著作や人物を応援していれば、晴れの場で喜び祝うのは当然だ。応援していると示し、
名を売りたいとの思惑があっても悪ではない。脇役として主役を引き立てる限り問題はな
い。
清佳さんもそれには同意見だと声を挟み。
「松下元総理が出る事になったのは、荻田先輩の所為じゃない。平河先生がこのパーティ
に出て、松下元総理に衆目の前で許しを請う。そう言う手打ちの演出を考えたのは、平民
新聞の田辺社長と若杉よ。マキの処の社長も相当腹黒い人物だけど、今回は使われた側
…」
平河議員の属するグループの首魁である曽根元総理と松下元総理は、先月国会で誰を首
班指名すべきかで意見が割れ、対立していた。結局勝利を得たのは松下元総理のグループ
で、曽根元総理のグループは与党でも、中枢から弾かれた状態で。今回は曽根元総理のグ
ループが、衆目の前でわびを入れ、松下元総理がそれを許し受け容れる。その舞台に正樹
さんの冊子の出版記念パーティが、使われる事に。
曽根元総理も大物なので、衆目の前で頭を下げるのはメンツに関る。だから記念祝賀に
元から参加予定の平河議員が、曽根元総理の代理で頭を下げる。それが荻田さん達の言う
『政治ショー』だ。正樹さんの主張や著作と関連なく。唯そこが人目につくから。曽根元
総理に近い平河議員が来るから。利用された。
政権与党の内部対立は困ると。与党を応援してきた平民新聞の田辺社長が、若杉と話し
を付けて、青雲社の野田社長にそれを呑ませ。日本有数の巨大新聞社の意向は中堅雑誌社
には断れない。野田社長もそれで貸しを作って、後日報償を望む様な人なので、進んで受
けて。
「でもそれは、荻田先輩には何も責任ない」
「それどころか、平河先生だって被害者だ」
鈴木さんに続いて小林さんも慰めるけど。
折角の正樹さんの晴れの舞台を貶めたと。
荻田さんは責任を感じて頭を下げた侭で。
世の中には個人の力が及ばない事もある。
「俺も好んだ正樹のコラムが、俺が好きで仕えている平河先生が、全部この政治ショーの
為に利用されるかと想うと、情けなくて…」
ひとしきり悔いを述べ終るのを、正樹さんは待っていた。胸に詰まって一杯な想いを吐
き出させ、語らせて、受け止めて。確かに伝わったと感じさせる事が、ちゃんと聞いたと
示す事が大事な時もある。正樹さんは謝罪を受けていたのではなく、彼を想う故にその昂
ぶりが鎮まるのを待っていた。穏やかな声は、
「僕は今回、総司さんにお礼を言おうと想って来たんだ。総司さんが平河議員という愛読
者を増やしてくれた事に。そしてそれがきっかけで更に1人有力な愛読者が増えた事に」
先週の末に、羽様へ電話が掛ってきてね。
「松下元総理からだったよ」「えっ……?」
正樹さんが受けた電話の内容はわたしも知っている。政治的手打ちの舞台に使われるパ
ーティは、誰のどんな本の出版記念か。松下元総理はそう言う細やかな事に気を配る人で。
顔を出す以上著作を読んでおこうと、雑誌のバックナンバーを取り寄せコラムの一部に
目を通し。中々有意義で面白いと感想を述べ。今後は意識して購入し、人に勧めたいと語
り。
「祝賀会場で僕の本を具体的にアピールしてくれると言ってくれた。新しい愛読者として。
総司さんは平河議員を通じて、松下元総理迄も僕の愛読者にする機縁を繋いでくれた」
政治的ショーに使われる事実は変らない。
世間でも多分その事が大きく報道される。
でも一過性の耳目を集める政治報道より。
新しい有力な愛読者が増えた事実の方が。
未来に大きく伸びる芽になるに違いない。
だから謝る事は何もないと。むしろお礼を述べたいと。正樹さんは荻田さんの手を握り、
頭を上げるよう促して。心も確かに繋ぎ合い。
世の中で個人の力が及ばない事が全て、悪しく害になるイヤな事ばかりとは、限らない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ちょっとあたしに付き合って。今宵まーちゃんを諦める代りよ。今回だけまーちゃんは
サヤに譲るから。あんた達で精々愉しみなさいな。あたしは彼女に、愉しませて貰うわ」
槙子さんがわたしの右の手を握り、別の一角に引っ張ったのは、その少し後の事だった。
正樹さん達はやや心配そうだったけど、わたしも想う処があって2人でお話ししたかった。
「何も取って喰う訳じゃない。鬼婆でもあるまいし。唯少し2人きりでお話ししたいの」
それともあたしが怖い? 彼女の挑発気味な問に、わたしはかぶりを振って立ち上がり。
同じバーでもやや離れた窓際へ。壁や柱で遮られて、鈴木さん達からもこちらは見えない。
「さて、まず貴女の話しから聞きましょう」
槙子さんはわたしが誘いに応じた理由を察していた。わたしも槙子さんと話したいから、
誘いに尻込みしなかったと。さっきの経緯を経た槙子さんが、わたしに好意的な筈がない。
それを承知でわたしが2人きりに応じるのは。
「先程は本当に、申し訳ありませんでした」
確かに謝っておきたかった。槙子さんの望みを断ちきった事、恋路を妨げ傷つけた事を。
祝いの場に冷水を浴びせる結果を招いた事は、あの場で謝ったけど。槙子さんには心から
謝らねば。それを人前で為しては拙い。特に正樹さんの前では。槙子さんに二重の屈辱に
なる。2人きりになれる場は、わたしの望みだ。
非好意的な溜息が、下げた頭の上で漏れる。顔を上げる様に促されて、正面のソファに
座った槙子さんを見上げて、視線を合わせると。
「何を謝る事があるの? 貴女は大切な彼にすり寄ってきた、不埒な悪女を退けたのよ。
勝利に誇ったり、追い打ちの罵声を掛けたり、ほっと安堵する事はあっても。頭を下げて
哀しげに謝る必要など、ないのではなくて?」
謝られる事自体が敗北を実感させる。それが目的なのかと、憤りを抑えつつ訝しむ瞳を
向ける美しい人に、わたしは静かな声を返し。
「真柄槙子さんは羽藤柚明のたいせつな人」
正樹さんの大事な人は、わたしにとってもたいせつな人。そのたいせつな人をわたしは、
この手で傷つけ退けてしまいました。大事な人の恋路を妨げ、願いを望みを断ち切って…。
「叔父さんは槙子さんの幸せを願っています。今もその健やかな日々を笑顔を望んでいま
す。わたしはそれを求め望み、支え助けるべきなのに。守り力づけるべきなのに。役に立
つどころか、この身であなたを阻んでしまった」
改めて口に上らせると何と酷い所行なのか。
「……それで、貴女、あたしに申し訳ないと思っているんだ? あたしとまーちゃんの絆
を断ち切ってごめんなさいと? ふぅうん」
不意に瞳に剣呑な輝きが宿る様が見えた。
間近で彼女はすっくと立って見下ろして。
「優等生的なお答えね。謝るって事は悪いと思っているんだ。なら、あたしがまーちゃん
にもう一度迫っても、もう邪魔しないでよ」
辛そうな哀しそうな顔して、何を言うのかと思ったら。人の恋路の邪魔がいけないと分
っているなら、邪魔しなけりゃいーじゃない。その覚悟もない癖に、人の想いを阻んだ
の?
間近の斜め上から叩き付けられる憤りに、
「邪魔します……何度でも、防ぎ止めます」
わたしは敢て面を上げて、正視を返して、
「槙子さんはたいせつな人だけど。一番にも二番にも出来ない。わたしの一番たいせつな
人の幸せな家庭を、解れさせる訳に行かない。わたしは大事な槙子さんを何度踏み躙って
も、幾度恋路を阻んでも、羽様の家族を守ります。
わたしはどれ程槙子さんを、大事に愛しく想っても、正樹さんとの男女の絆は認めない。
わたしの一番たいせつな桂ちゃんと白花ちゃんの、母父を裂く行いは見過ごせない。この
手が大事な槙子さんを、傷つけ哀しませても。わたしが恨み憎しみを、買う事になって
も」
槙子さんの瞳の奥が、やや怯んで見えた。
「許しは望みません。納得も求めません。唯、伝えたい。叔父さんが大事に想った槙子さ
んは、わたしにとってもたいせつな人。心を込めて尽くしたい強く賢く美しく、愛しい
人」
その幸せを支えたいのに。その笑顔が望みなのに。そうできない事に、そうなれない事
に。己の想いを表したくて再度、頭を下げる。槙子さんはそんなわたしを見つめて暫く黙
し。
想いを形に表せない己の無能が。槙子さんの役に立てず、傷つけ哀しませる結末を招い
た自身の無力が。心底悔しく、情けなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「邪魔するぜ」「貴男、八木さん」「…?」
痩躯の中年男性がわたし達の間に割り込んで来たのは、話しの最中だった。ボサボサな
黒髪もしわしわの服も清潔と言えず。ギョロリと視線を向けてくる様には、一種独特の迫
力がある。年齢は槙子さんよりも拾歳位上か。
承諾もないのに、勝手に向いの槙子さんの左隣に座り。槙子さんの知り合いらしいけど、
非好意的な空気は感じた。でも彼の方は槙子さんの意向など歯牙に掛けない押しの強さで。
わたし等眼中にない様で。その風体からして、高級ホテルの入口で拒まれそうな人物だけ
ど。
語らいに割り込まれたと視線を向けた時、
『この人だ……今回の、わたしの禍の核は』
触れる事なく感じ取れた。間近に現れただけで、気配だけで先行きの暗雲が晴れ上がる。
全てが見通せた訳ではないけど、この男性が。
「八木博嗣さん。『創論』の前々代編集長よ。
あたしの元上司で今は確かフリーの記者」
その名には微かに憶えがあった。確か青雲社が出していたホラー雑誌の編集長の名前だ。
わたしも通常、片隅に書かれる雑誌の編集長まで詳しく見てないけど。あれは4年前の秋、
【あっ、八木の奴、こんな形であれを…!】
サクヤさんに関る重要な事件を掲載した。
創論ではなくホラー雑誌の方に。それは、
【Y県M村の村ぐるみ消失の謎! 皆殺しにあった村人の怨念が、今も漂う様を取材…】
今から五拾年も前の話で定かではないけど、村一つが夜襲にでも遭ったかの様に焼け落
ち、村人全てが行方不明になる事件があったとか。今もその村人達の無念が霊となって彷
徨うと。
その話しに行き着くと、彼は初めてわたしを視界に捉えて。少し口を歪めて苦い笑みを、
「ほう、アレに注目してくれていたとはねぇ。俺が創論からホラー雑誌に左遷される原因
で、マキが編集長になる原因にもなった記事を」
それは若杉の暗部。第二次大戦末期頃、若杉の命を受けた鬼切部千羽党が、サクヤさん
達観月の里を襲撃し、唯1人を除き皆殺しに。若杉や千羽を助け世の秩序を守ってきた観
月の民を、人に害を為してない鬼を、虐殺した。
サクヤさんは家族を失い仲間を失い、独りぼっちになり。深手を負って生きる希望を失
ったサクヤさんは、せめて竹林の姫の元で息絶えようとご神木に辿り着き。若き日の笑子
おばあさんに巡り逢い。生命を心を救われて。
サクヤさんは若杉の暗部を世に明かす為ルポライターになった。復讐は仇討ちではなく、
世間にその存在を過ちを公表する事で。若杉や千羽の皆殺しは難しいし、サクヤさんもそ
の虚しさは分っている。でも抑え得ぬ憤怒を晴らすには、その理不尽や真相を世に曝すと。
それが若杉の危機感を呼び、千羽党の鬼切り役だった真弓さんに、サクヤさん討伐の命
が下って。2人の出逢いと戦いと和解に、真弓さんと正樹さんの出逢いと恋に、桂ちゃん
と白花ちゃんの誕生に、繋って行くのだけど。
ホラー雑誌の件は彼も印象深かった様で。
「あぁ浅間のサクヤか。一大スクープと思ったから受けたけど。とんだ貧乏くじだった」
サクヤさんは若杉の圧を受けた出版業界から干され、書いた記事はどこにも採用されず。
最後に持ち込んだのが当時『奇跡の超聖水』批判報道で名を上げていた創論の八木編集長。
【それは、大人向けの月刊誌にあたしが持ち込んで掲載が決まっていた、ボツ記事だよ】
4年前怪奇特集の記事を前にサクヤさんは、
【記事をボツにしろと若杉の圧が掛ったんだけど、八木って編集長が中々骨のある男でさ。
だからあたしも信用して持ち込んだ訳だけど、圧に屈した会社の方針に楯突いた末に、突
然月刊誌からホラー雑誌の別部門へ左遷されて。
ああ、その記事は結局掲載されなかったよ。発刊前夜にそのページだけ差し替えられ
て】
それでこの人は創論の編集長を逐われて。
『ほんとにあった怪奇話』の編集長になり。
【何が何でも絶対載せるって、確かにあたしに約束してくれたけど、まさかこんな形で】
報道記事としてではなく恐怖特集として。
でもそれはサクヤさんには二重の蹉跌で。
【報道特集としての公表ではなく、ホラー雑誌の一文では記事の重みが違う。その編集長
の意地は認めるけど、逆にオカルト扱いされる事で世の中に与える影響は殆どなくなった。
幾ら『本当にあった』と主張しても、ホラー雑誌の話を真に受けて殺人の捜査を始める
程日本の警察も甘くないわ。折角の記事の信憑性がこれで大きく損なわれた。むしろ若杉
はこの動きを捨て置いたのではないかしら】
真弓さんの考察にサクヤさんも苦笑いで、
【だろうね。大勢に影響なしと捨て置いたか、却って好都合だから見過ごしたか。発刊さ
れて柚明の手元にある事自体がその傍証。……この編集長が改めて若杉にマークされ、あ
の業界で日の目を見る芽を断たれた位かねえ】
ホラー雑誌への掲載で、記事はサクヤさんの目的だった巨悪への有効打ではなくなった。
同じ案件でも扱う場所が違えば影響が変ると。
突如編集長を替えられた創論は、暫く編集機能が不全で誌面も乱れ、結果部数も減少し。
後任の編集長は一年保たず更迭され、槙子さんが後任について立て直しに励んで今に至る。
正樹さんの出版記念は、創論の完全復活アピールも兼ねた青雲社の晴れの舞台でもあった。
「運が良かったな。俺の後任の片山は社長同様に能力もなくお偉方に諂うだけの無能野郎。
その失策の穴埋めさえすれば、大した功績がなくても元の線迄は辿り着ける。体を使って
編集長の座を掠め取り、楽して成果を残し」
『八木さんは、槙子さんが会社幹部に体を売って、編集長の座を得たと、誹謗している』
それを直接関連のないわたしのいる場で。
それだけで八木さんの悪意は充分過ぎた。
槙子さんの体に身を擦り付け、嫌味を込めて語る八木さんに、槙子さんも不快を露わに、
「貴男の失敗は人を掌握し損なった自業自得。誰が社長や若杉に寝返るかも分らず。片山
副編集長を侮って。一介の編集部員だったあたしには、スクープばかり追って、内部を顧
みないとどうなるか、良い反面教師だったわ」
人を責めるばかりで己を顧みない。他人の失態や悪行や付け狙い暴き立てるけど、自身
が狙われていると気付かない。ガードが甘い。クビになった時も社内で誰も助ける者もな
く。
彼は痴漢の検挙を口実に解雇された。若杉の暗部を匂わす記事を載せ、その敵視を招い
たのに。己が憎悪や恨みを買って、狙われ嵌められる怖れを考えず。社会的な抹殺を狙う
者達には、無防備過ぎて拍子抜けだったかも。
八木さんは、槙子さんの応戦には構わず。
身をずらす女性の体に、更にすり寄って。
人を呼ぼうと腰を浮かせたわたしを、槙子さんは視線で押し止め。ここに現れた彼の意
図が読めてないので、もう少し彼に話させたいと。出来れば正樹さん達を関らせず、ここ
で彼を追い返したいと。槙子さんは彼を良く思わない以上に禍の種と感じ、正樹さんに縁
を繋がせたくないと考え、防波堤を担おうと。
「けっ、大したスクープも面白いスキャンダルもない雑誌しか作れない癖に。お前の成功
は、俺の後を受けた片山が酷すぎて滅茶苦茶になったから目立つだけで、そうでなきゃ」
「好景気に助けられた面は否定しないわ。景気が良い時はまっとうな誌面作りさえすれば、
そこそこ部数も伸びて行く。貴男の様に毎月新たな敵を探すやり方は、危なっかしくて」
2人は馬が合わないけど、編集方針も全然違う。どちらが良い悪いではなく重点が違う
のだ。読者を煽るスクープやスキャンダルを好み、成果だけ望む八木さんと。日々の諸々
より底流を、読者を唸らせる分析や考察を好み、成果の為にチームワークを望む槙子さん。
創論が、旧友である正樹さんのコラムを載せて好評を得たのも。その担当に、温厚で押
しが弱く社内でお荷物扱いだった後輩の鈴木さんを当てて、成功したのも。槙子さんの情
実人事は、人の適性を見極めた適正配置でもあった。それで創論は立ち直り部数を伸ばし。
「お祝いに来てやったんじゃねえか。碌なスクープも出さず、好景気に乗るだけで、毒に
も薬にもならねぇ本を刊行して図に乗って」
その成功が気に食わないと。槙子さんが前任者の様に失敗すれば、喝采だった。でも彼
を捨てた青雲社も創論も今も順調で。それが彼には自分を忘れられた様に、憎く悔しいと。
「松下の政治ショーまで巧く招きやがって。
野田(社長)の馬鹿にそんな力量はないし、お前には才覚がない。降って湧いた幸運だ
な。地味な本一冊の刊行に、松下目当てのテレビや新聞雑誌も来る。本も創論も青雲社も
黙って宣伝効果を得る。どこ迄ラッキーだか…」
だから彼はこの成功を全て運だと捉えて。
槙子さんの才覚や在り方は全く評価せず。
この現況は不当だと憤懣をぶつけに来た。
今の彼はフリー記者でサクヤさんに立場が近い。若杉に睨まれて業界に干された現状も。
彼の名前では記事は売れず、偽名で裏ルートから記事を持ち込んでも、安く買い叩かれる。
創論の編集長迄務めた彼には転落人生だった。
「お前に摺付いてその幸運を、分けて貰おうと思って来たんだよ。その毒にも薬にもなら
ない本を出す、著者も一目見ておきたくて」
彼は明日の祝賀にも招かれてない。彼はパーティに集う有名人のスキャンダルやスクー
プを漁りに蠢いていて。見知った槙子さんに絡んで来たけど。彼の目的は祝賀会場下見で、
ついでに正樹さん達に鬱憤をぶちまけようと。
「お前がどうやって社長や部長に取り入って、編集長に抜擢されたか、俺が逐一語ってや
る。女の武器を使い幹部の心を寝取りやがって」
胸に手を伸ばす左手を、槙子さんは叩き落すけど。わたしという他者の前でも彼はへこ
たれた様子もなく。槙子さんは嫌悪を込めて、
「……あそこにいる面々は、みんな心の通じ合った人達。根拠のない誹謗中傷に心揺らさ
れる者なんていない。あなたが恥を掻くだけ。摘み出される前に逃げ帰った方が良くて
よ」
「クククッ、お前は本当に脳天気な女だなぁ。信憑性ゼロの噂でも、面白けりゃ反応があ
るのが人の世界だぜ。お前が皺だらけの社長に抱きついて、アンアン叫び声を上げる様を
俺が捏造して語るだけで、充分な恥だろうに」
わたしを見つめて、槙子さんの視線を誘う。他人に聞かれるだけでイヤだろうと。それ
は無言で槙子さんの心に痛手になる。彼は人目を憚るどころか、わたしに観衆役を担わせ
て。更に彼は槙子さんの右肩に右腕を回して囲い。
「九割九分信頼されずとも、一滴疑念が浸透すれば噂は成功だ。そうやって俺は『奇跡の
超聖水』の連中を次々引き抜き、便宜を与えて都合良い証言をさせ、スクープしてきた」
真偽なんてどうでも良い。興味を引く話しなら良いんだよ。女の出世には体の売りが付
き物だって、言えば言っただけ浸透するんだ。誰もがそうと思ってしまう。女は男と絡ま
る様に出来ているからな。人の世の常って奴だ。
「叫びたければ叫んでも良いんだぜぇ。向こうにいらっしゃるお友達を、呼んで来いよ」
このお嬢ちゃんに呼んできて貰っても良い。
俺に肌を密着されて、されたい放題になって喜び喘ぐ絵を見て欲しいなら。今ここで何
をやっても、向うのお友達には見えないし聞えない物な。そのお嬢ちゃんが黙っていてく
れれば。その方が恥にならなくて良いだろう。
「お前のカラダで、今晩は我慢してやるよ」
今度こそ彼は、密着した槙子さんの抵抗を押し破っても、その胸を鷲掴みしようと試み。
唇を奪おうと、体を顔を寄せかけたその時に。
「止めて下さい」「んんっ?」「貴女……」
この右手が彼の左手首を掴んで止めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
彼は槙子さんの左に密着して座り、その右腕を背中から彼女の右肩に回し。後は唇を重
ねて倒れ込むだけだった。薄暗い照明のバーは人気が少なく、柱や壁で遮られ、店の人か
らも正樹さん達からも一目で状況は分らない。助けは呼べたけど、ここ迄迫られた姿を男
性、特に正樹さんに見られたくない気持は分った。
「腕力で敵わない女の人の、恥じらいを弱味に握って好き放題に迫るなんて、酷い事を」
テーブルの向いから右手を伸ばし、彼の左手首を掴み。痛む程強く掴まないけど、これ
で彼はその侭槙子さんに唇を繋ぐ事も難しい。わたしがそんな事はさせない。セーラー服
で女子高生と分るわたしの正視と行動に、彼は瞬時怯んだ様で、呆けた様にわたしを見つ
め。
「槙子さんの背中に回した、右手を放して」
わたしの声に憤りはなかったと思う。わたしの焦点は常に守りたい人にあり、脅かす側
は二の次だ。彼女を放して欲しい意思を伝え、分ってくれればそれで良い。でもこの平静
を、彼はむしろ気弱と取って、怯えを深読みして、
「大人の話しに、首を挟む物じゃあない…」
彼は槙子さんを掴んだ右腕を放し。向き直りつつその手をわたしへ伸ばし。この左胸を
掴んで来て。拒む事は出来たけど、激しい動きはテーブルのグラスや飲み物を散乱させる。
グラスが割れれば槙子さんを傷つける怖れも。今は彼の胸を揉む手を受けて動かず瞳を返
し。
「生意気言うと、こんな目にも遭うんだぜ」
「柚明ちゃん……ちょっと、八木さんっ!」
解き放たれた槙子さんが、慌てて声を挟むけど。彼は動じる様子もなく、薄笑みを浮べ。
「言う通り右手をマキから放してやったが。
次はどうして欲しいかね、お嬢ちゃん?」
大きくないこの胸を彼はむにっと揉みつつ、
「女にして欲しいというなら、夜中付き合ってやっても良い。マキの代りにお嬢ちゃんが、
俺を愉しませてくれるかな」「八木さん!」
槙子さんがその腕に絡みつくけど、彼は逆に彼女を振り払って突き飛ばし。再度この左
胸を鷲掴みして。わたしが怯えて黙っていると嵩に掛って。わたしはこの間ずっと彼の意
向に反し、その左手首を掴み続けているのに。
「一瞬でその服を下着迄破られても構わないなら、遠慮せず大人を呼ぶと良い」「……」
その手はこの胸を愉しむ様に強く握りしめ。
わたしの急所を掴んだ積りで薄笑いを浮べ。
「乳房を揉まれて喘ぎたい様だな、援交女子高生。小娘の癖に夜遅く迄大人の関係に首を
突っ込んで、生意気な。引っ込んでいろ!」
いっ。言い終えた瞬間、彼が短い叫びと共に身を捻るのは。わたしがこの胸を揉む彼の
右手に構わず、彼の左手首を強く捻ったから。この手は弾き飛ばすより、彼自身に放させ
る。戸惑いの視線を浮べつつ笑みが固まった彼に、
「この胸から汚い手を放して頂けますか?」
わたしの声は少し鋭くなっていただろうか。
全力で、左手首を引っ込めようとする彼を。
腕力に体重を込めて引っ張る大人の男性を。
わたしは一歩も動かず強く手首を握り続け。
彼の右手は既にこの左乳房から離れている。
でもわたしは握りしめた腕の力は尚抜かず。
「有り難うございます。では次は、あなたに今この場から引っ込んで頂きたいのですが」
最早言葉遣いをどうこう言う状況ではない。この人は誰とも関係ない己の憤懣をぶちま
けに来た。槙子さんを辱めた。正樹さん達の前は回避できたけど。わたしという他人の前
で押し倒し唇繋ごうとして。非力な者を、想いもなしに、力でねじ伏せ、鬱憤を晴らそう
と。
いぐっ。もう少し力を込めると、小娘の求めに等応えるかと言う彼の意地が瞬時に砕け、
呻き声が漏れ。彼は標準より腕力もあるけど、習った武道も部活等で、実戦に使えるレベ
ルにない。女性を虐げる時位しか使えない物だ。
「どうぞ声を上げて下さい。大の男が高校生の女の子に、腕をねじ上げられた様が人目に
印象づけられますけど。それで良いなら…」
誰を呼んでも呼ばなくても、あなたはこの場から叩き出されます。人目に付かない内に、
「自発的に帰って頂けると助かるのですが」
「こ、この娘っ。一体、武道でも学んで?」
彼は空いた右腕を添えて尚必死に抗うけど。
体重を掛けて左腕を引き戻そうとするけど。
わたしはその手首を掴んだ侭微動だにせず。
腕力と気力の均衡はそう長く続かなかった。
「……わ、分った。分った。引き上げる…」
でもわたしはすぐにこの手を放す事はせず。
意思を込めた視線を向けながら力は緩めず。
「真柄槙子さんは羽藤柚明のたいせつな人」
強く賢く美しい、尊敬できる華やかな人。
わたしのたいせつな叔父さんを心底愛し。
わたしのたいせつな叔父さんに愛された。
わたしも深く慕い想う艶やかで愛しい人。
「今後あなたが槙子さんの笑みを曇らせる様な事をするなら、わたしが承知しない。今後
あなたが槙子さんを苦悩させ涙させる様な事をするなら、わたしが許さない。今後槙子さ
んを困らせる事は二度としないと約束して」
口約束が大人の世界で効力が薄い事は分っている。子供の間でも約束は時折破られるし、
わたしも果たせなかった約束はあった。でも、それでも口に上らせた言葉は、心に引っ掛
りを残す。強要されたにせよ言霊の効果は及ぶ。
首都圏に住む事のないわたしに、槙子さんを守り続ける事は叶わないけど。この程度の
薄い効果しか残せない己の非力は残念だけど。だからこそ出来る事には全身全霊を注ぎた
い。
「……分った。約束する。もうマキには手出ししない。困らせる事もしない。本当だ…」
左手首を放すと彼はその侭出口へ走り去り。一度出口で振り向いてわたしを強く睨みつ
け。憎悪や恨みを、買ってしまったかも知れない。わたしは今、己の禍の種を蒔いたのだ
ろうか。苦々しい舌打ちの印象が、脳裏に届いてきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ごめんなさい。助けるのが遅くなって…」
介入のタイミングを読み違えた。槙子さんと旧知の人なので、大人の話しへの割込みを
遠慮した為に。槙子さんのこの事態は避けられた。生意気と言われても口を挟んでいれば。
「もう少し早く彼を退けておくべきでした」
槙子さんを抱き起こしに間近へ屈み込むと。
槙子さんはわたしの両肩を強く抑えて来て。
「貴女こそ、胸を強く掴まれて、大丈夫?」
自身の怯えや痛みより、わたしの事を案じてくれて。本当に優しく強い素敵な人。正樹
さんが心揺らされた程柔らかく魅力的な女性。
男の太い指にかき乱されたセーラー服の左胸に、細い指を静かに当てて、慰めてくれて。
みるみる頬に血の気が集まって行くのが分る。
「あ、ありがとう、ございます。その、わたしは、大丈夫」「大丈夫じゃないっ、全然」
ちょっと恥ずかしかったけど、本当に心配してくれていると分るので。大丈夫だと感じ
て貰う為にも、敢て逆らわず触れられる侭に。
わたしは槙子さんの斜め上から、その両肩を軽く抑えて。こちらももう大丈夫ですよと
肌に感じさせる。悪意な男性に迫られて突き飛ばされ、怖い想いをした直後だ。女の子の
滑らかな感触は、その心を解すのに丁度良い。
「こんなに可愛い女の子の胸を、無遠慮に揉み潰すなんて、デリカシーの欠片もない…」
体勢はわたしが王子様で槙子さんがお姫様だったけど。わたしに王子様は荷が重すぎて。
娘が母に甘え抱きついている様に見えたかも。通常なら絶対あり得ない、美しい年上の女
性との密な触れ合いの暫くの後で、槙子さんは、
「貴女もしかして、都会の女共からまーちゃんを守り隔てる以上に、本当に彼のガードを、
護衛をする積りで、付いてきていたの…?」
最早隠しても意味は薄いので否定はせず。
その美しく開かれた黒い瞳を覗き込んで、
「叔父さん達には内緒にして頂けますか?」
わたしが勝手にその気でいるだけなので。
言えば叔父さんにも余計な心配を掛ける。
「女の子が強いと知られても嬉しくないし」
そう付け加えると槙子さんはふっと笑い。
息を吸い込んで一気に憤激を向けてきて。
「本当に生意気な娘ね、貴女。暴漢を退けた直後なのに。勝利に誇ったり、追い打ちの罵
声を掛けたり、ほっと安堵する事はあっても。強さや勝利を見せた上で嬉しそうでもな
く」
年上なのにまともに貴女を庇う事も出来ず、逆に守られたわたしを、助けて最初に掛け
る言葉が『ごめんなさい』? 貴女は一体何を謝っているの? 貴女は誰に申し訳ない
の?
応えない事を許さない剣幕だった。正面から両肩に掴み掛られた。それはジャーナリス
トの探求心・知的欲求だったのかも。わたしは槙子さんの瞳を静かに見つめ、己の真の想
いを紡ぐ。本気の問には本気の答を返さねば。
「怖い想いをさせてしまいました。たいせつな人なのに、お祝いの席なのに。わたしは槙
子さんの恋路を阻んで苦味や悲痛を与え、その上で悪意な人からの守りも満足に為せず」
せめて力になれる事ではしっかり役に立とうと思っていたのに。少しでも槙子さんを守
り庇いたいと望み願っていたのに。わたしは、愛しい人を守る力を持ちながら、初動が遅
れ。
「わたしは愚か者です。未熟者です。人間経験の浅い子供です。その事が悔しい。槙子さ
んの様な素晴らしい人に逢えたのに、この胸の想いを伝える事も叶わず、守りも為せず」
わたしは何も返せない。今後も決して槙子さんの叔父さんへの恋は応援できない。阻む
事しかできない。これ程たいせつな人なのに、わたしは真弓さんと桂ちゃん白花ちゃんを
選ぶから。どうやっても役に立つ事が叶わない。
「謝る事しかできない。言葉や仕草に表す事しかできない。賢く強く綺麗な大人の女性を、
わたしの大好きな正樹さんも心動かされた愛しい人を、わたしは哀しませる事しか…!」
ごめんなさいと、その胸元に頭を下げる。
本当は深々と下げたかったけど、密着していてそれが叶わなかったので。出来る限りを。
傍目には娘が母に取り縋った様に見えたかも。
槙子さんは憤りを込めた声を尚も抑制し、
「どうあっても阻む選択は変えないんだ? 立ち塞がる事は絶対に止めないと? その上
で阻む手は緩めない侭、あたしをたいせつな人だという想いも抱き続けると? 本当に」
あなたは愚かしい程に甘いお嬢さんねぇ。
「あたしの様な女はキライだと、対立した以上は仇だと、言ってくれれば。こっちも気楽
に憎めるのに。その苦味を分った上で、その手は全く緩めない侭、許されなくても理解さ
れなくても、心底大事な愛しい人? 言われたあたしの身にもなってよ。本当に身を尽く
して助け出された年上のあたしの立場にも」
細い左手の親指と人差し指で、顎を掴まれ間近に正視を強要された。逆らわず、妖艶さ
を纏わせた大人の女の視線に、舐め回される。この頬を張られる覚悟は既に、出来ていた
…。
「悲しみ一杯な顔をして、涙は絶対流さない。張り詰める程の想いを宿し。本当に強情
ね」
「わたしは傷つけた側です。哀しませた者が、哀しまされた者の前で泣く事は許されな
い」
頬を張られても当然な事をわたしは為した。その結果は受け止める。槙子さんにそこ迄
させた事は、心底申し訳なく想うけど。何度あの場に戻ってもわたしにはあの選択しかな
い。だからこそわたしは己の選択の末を受けよう。
槙子さんの右平手は、わたしの左頬に静かに当てられた。平手打ちではなく触れられた。
「貴女はまーちゃんも奥さんも、あたし迄も本当に大切に想っているのね。こうなった末
の今に貴女が心を痛めていると、声にも仕草にも現れている。偽れる様な想いじゃない」
偽る意味もないしね。貴女とあたしの関りはまーちゃんを挟んで尚遠く薄い。この関係
を偽って迄して繋ぐ意味はない。イヤならイヤな人だった、で終りだもの。その後に付き
合いが続く訳でもなく、損得勘定も絡まない。そんな女を怖い想いや危険を承知で守り庇
う。
「甘ったるいにも程があるわ、貴女本当に」
「年下の癖に生意気だと、良く言われます」
「分って尚その生き方を、変えないんだ?」
「生意気は未熟の現れで申し訳く想います」
わたしは槙子さんの胸元に再度頭を下げ。
「全てを満たせる程に、わたしは強くも賢くもありません。後はたいせつに想った人の為
に、出来る事に全身全霊を尽くすだけです」
たいせつな人の幸せと守りがわたしの願い。
たいせつな人の喜びと笑顔がわたしの望み。
泣き顔や悲痛・苦悩に俯く姿は見たくない。
真柄槙子さんは、羽藤柚明のたいせつな人。
子供に出来る事・届く事に限りはあるけど。
役に立ち、支えになり、庇い助け守りたい。
わたしの頷きに槙子さんは、呆れた笑みを、
「本当に、まーちゃんの姪ね。強さも優しさも賢さも、強情さも甘さ愚かさも何もかも」
槙子さんの双眸は、嬉しさと哀しさと苦味と情愛を混ぜ合わせ、複雑に揺れて潤みつつ、
「あたし……この侭貴女に、惚れ込みそう」
大人の女性に、正面から抱き留められた。
柔らかな腕が背中に回り、結び合わされ。
頬に頬を重ね合い、胸に胸が潰され合い。
暫くの間、感銘と憤慨の混在した想いを。
わたしもその背に腕を回して受け止めて。
想いに溺れたくて暫く鎖した心を叩くは。
「楓、行こう。ここに標的はいない様だ…」
短い男声に『はい』と女性の声が答を返し、少し離れた席で若い男女が席を立つ。この
光景は、ずっと見られていた? 声と仕草と気配から、二拾歳代の男性と更に年下の、二
十歳前位の女性だった。双方とも知的で冷静で酔いの欠片も感じさせず。槙子さんやわた
しを素通りして、その侭バーを去っていくけど。
只者でない以上に彼らに、特に男性の方に、わたしとの、又は視えた禍との関りを感じ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
男女の気配はバーを出た瞬間に追えなくなった。わたしの、又は他の誰かの索敵を躱す
意図が視えた。そんな事を為せる者をわたしは多く知らない。彼らはずっと気配を潜めこ
こで何かを探っていた。今宵は祝賀の前日だ。
気懸りではあったけど、直接言葉を交わした訳でもなく、敵意を向けられた訳でもない。
禍の兆しは感じたけど、深入りは躊躇われた。わたしはついさっき、八木さんと縁を繋い
だ。それで見通せた禍の確度は、急激に高まっている。安易に追って下手に首を突っ込め
ば…。
今のわたしは己の想いで事をかき回せる立場にはいない。守るべき人がいる。真弓さん
から託された、白花ちゃんと桂ちゃんの父を、愛しい人を、無事羽様に連れ帰るのが優先
だ。
槙子さんに寄り添って、正樹さん達の元に戻ったわたしは。その後も暫くジュースで大
人の話しに首を挟み。明日の祝賀には全員出席予定なので、深酒は控え再会を約して別れ。
八木さんの事も若い男女の事も、正樹さんに伝えない。話せば槙子さんの羞恥を曝すし、
視えた禍の前途も台風の進路に似て不確かだ。サクヤさんも真弓さんも呼んでは拙い状況
で、正樹さんの心を乱すだけになる。八木さんへの深入りを避ければ、たいせつな人に禍
は及ばないと視えた。わたしが巧く回避できれば。
お酒は強くない正樹さんだけど。明日を考え量を控えたのと、気心許した人だった為に。
今宵は心地良い疲れの様で。わたしが添って癒す必要はなさそうで。別々の部屋で眠り…。
「お早うございます」「お早う柚明ちゃん」
翌朝も、わたしは正樹さんの間近に添って。午前中は鈴木さんを始めとする青雲社の人
と夕刻の式典の打合せを。槙子さんは編集長の仕事が別にあり、夕刻迄来られない。午後
もスピーチの推敲や、明日以降の日程を打合せ。
わたしは傍にいるだけで役に立てる事もない。時折気分転換を勧め、何気なく触れて癒
しを流し。社会勉強に来た事にしている以上、わたしも間近で出版業界の実態を見て学ぼ
う。
夕刻のパーティでは、正樹さんも正装に着替え。わたしは経観塚高校の校則で『校区外
に出る時は、常に当校の制服を着る事』とされている為に、昨日と同じセーラー服姿です。
松下元総理が来る為か、祝賀会場は来賓で混雑していた。自動車や鉄鋼、電機や製薬会
社等、経済の話題を主に扱う正樹さんの故か、財界人が多い。大学教授などの経済評論家
も。
政財界の関係者と、それを追い回すテレビクルー等の報道記者達と、正樹さんの大学時
代の知人恩師と、迎える側の青雲社関係者と。見渡すと、そんな感じで出席者は四百人強
か。
清佳さんや小林さんは、正樹さんやわたしと同じテーブルになった。槙子さんや鈴木さ
んは裏方なので席はない。荻田さんは平河議員の随行で今会場に姿を現した処で。彼は議
員の指示で、一旦外に駆け出して行ったけど。
槙子さんや正樹さんに付いて、わたしも一緒にご挨拶を。奥さんの代役には不足だけど、
槙子さんが手を引いてくれて、正樹さんも頷いてくれたので。粗相のない様に気をつけて。
「叔父の文をご愛読頂いて、有り難うございます。姪の柚明です、宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しく。可愛らしいお嬢さん」
平河議員は真弓さんの父で通じる歳だけど、高齢者の多い政界では未だ中堅とか。厳つ
い顔に怒り肩で、時折タカ派の政治姿勢を報道されて強面な印象だけど。ふと笑みを浮べ
ると温かそうで。明後日には青雲社で、正樹さんと昨今の政治経済について対談の予定で
す。
槙子さんが平河議員を案内する様を見送っていると、鈴木さんが正樹さんに駆け寄って
来て、離れた処に引っ張って行って耳打ちを。広い会場で1人浮き上がったかなと思えた
時、荻田さんが戻り来た。それを待ち構えた様に、
「平河赳夫も損な役回りだな」「自分のボスの尻拭いとは」「衆目の前で頭を下げる役を
押し付けられて」「見捨てられた様な物さ」
荻田さんや正樹さんと同じ位の年齢の男性が6人いた。松下元総理が来ると知って、急
遽参列した系列の若手議員やその秘書、関りの深い報道記者で。荻田さんとも顔見知りで。
今宵の政治ショーは、松下元総理が許し迎え入れる形なので、彼らは勝者の気分でいて。
直接関係ない番記者迄が浮れ気分で。平河議員の行方を訊こうと近寄ってきた荻田さんと、
2人で彼らを迎える形になり。彼らはわたし等やはり眼中になく、足を止めた荻田さんに。
「今回許されても、所詮曽根系は政治の傍流だ」「その子分に迄オイシイ話は来ないさ」
「しかも平河はその曽根に捨てられた立場」
彼らは勝利を実感したくて群がってきた。
強い言葉を返せない立場を承知で難詰し。
荻田さんも元々果断な性格の人ではない。
想いを言葉や姿勢に表すのが苦手で、責められると内向きに心を鎖す。優しく繊細な人
だけど、思慮深く着実な人物だけど、悪意や敵意を抱く人との、議論の喧嘩や押しに弱く。
そんな荻田さんを知って、大学時代や職に付いてから知り合った彼らは、時折荻田さん
が1人でいる時を見計らって、この様に囲い。何か口実を見つけて日頃のストレスを晴ら
し。苛めは子供の世界の話しだけではないらしい。
「お前もこっちに、乗り換えたらどうだ?」
「今なら悪くない再就職先を紹介できるぜ」
山下という恰幅の良い秘書の若い男性は、
「俺、次の衆院選で大阪から出馬させて貰える事になったんだ。これから色々忙しくなる。
お前1人位養う事も難しくはない。旧知のよしみだ。先細りする船からは飛び降りろよ」
「お前も今後に望みを持っているんだろう」
「早い見切りが身を救う事も時にはあるさ」
口々に心配を装うけど。肩に手を載せ間近に囁きかけるけど。いかにも善意で誘うけど。
それは本気の誘いではない。受けた瞬間冗談だと切り捨てられる。平河陣営は士気低く内
部統制も取れてないと、証人多数の前で見せつけに。彼らは松下元総理の前で更なる点数
稼ぎを考えて。この祝賀の趣旨に遠慮もなく。
善意の顔色で毒まんじゅうを勧める彼らに。
確かに対応できる様に、わたしは荻田さんの背に軽く触れ、気付かれぬ程微かに癒しを
流し。心の怯みを拭い、冷静な判断力を支え。
「選挙、出るのか。頑張ってくれな。俺は平河先生の秘書で忙しいから、大して力になる
事も出来ないけど、応援はしているからさ」
偽装の善意に荻田さんは本物の善意を返し。
荻田さんは出世する為に議員秘書になったのではない。平河議員の政治信条に共鳴して
秘書になった。である以上利得や出世の途が示されても、食指が動く筈もなく。わたしは
余計な事を為したかも。荻田さんは一見気弱そうでも、他人の助け等不要な強い人だった。
「俺は平河先生が好きで付いている。大した望みは持ってない。平河先生の助けになれて、
世の中がまともな方向に向かってくれれば」
無欲な者に利得を餌にした罠は通じない。
でも彼らは自分達の失敗を認めたくなく。
「お前も分っているのかよ、今日の趣旨を」
「曽根も松下総理の威光に屈したんだ。それを見せつける為の、今日のパーティなんだ」
「その上で曽根は平河に尻拭いを押し付け」
「もうどうでも良い奴だって言う事だろう」
「そんな奴に付いていても先行きは暗いぞ」
尚食い下がる彼らは最早、狡猾よりも浅ましく。荻田さんの心は動かない。それを分ら
ず悟れず、言葉の数や勢いや声の大きさで補えば何とかなると。靡かない女の子を、なぜ
靡かないか考えず、唯執拗に口説く男の様に。
荻田さんは困惑気味だ。答は確かに返したのに、彼らが尚も言い募るので。知己との話
しを断つ気にもなれず、彼らの声に耳を傾け。それを彼らは未だ脈ありと誤解して。荻田
さんは主の傍にいる必要がある。若手議員やその秘書やマスコミと違って、冷やかしに来
た訳ではない。いつ迄も足止めされては拙い…。
「皆さん、業務ご多忙な中、本日のパーティの趣旨である、叔父・羽藤正樹の本の出版祝
賀に訪れて頂き、誠に有り難うございます」
本日の趣旨を取り違えた彼らの心に刺さる様に、やや強く声を挟んで。わたしは彼らに
正対し柔らかに頭を下げる。男性達は今迄眼中になかったわたしの介入にやや驚いて黙り。
「荻田さんも、叔父のコラムを平河議員に勧めて、共々にご愛読頂き本当に有り難う…」
荻田さんや平河議員は、正樹さんのコラムを応援し愛読してくれている。本日の趣旨に
添った人達だと。あなた達とは違うと。荻田さんへの謝辞に心を込める事で、言外に示し。
「今後も叔父の文を応援頂けると幸いです」
荻田さんも含む全員へ、お願いに頭を下げ。
この場の絡みは、終りにしようと暗示して。
年長者を相手に、かなり生意気だったかも。
でも表向き彼らも突っ込み処を探し出せず。
荻田さんの手を引いて歩み出そうとした時、
「お嬢さん、あんたも高校生なら、もう何も知らない子供じゃ済まぬ。少し聞きたまえ」
山下さんがわたしに声を掛けてきた。高校生の女の子に、表向きは謝辞だけど、実質話
しを断たれた苦味は、呑み込み難かった様で。表向きではなく、生々しい政局の話しを自
ら、
「与党内で非主流の曽根や平河に媚びを売っても、先は暗いぜ。今後も叔父さんに出版業
で成功して欲しいと思うなら、我々に鞍替えした方が良い。それも早い内に。どうせ平河
は曽根にも見捨てられた様な扱いなんだ…」
『この人達は、物事の表面しか見ていない』
この侭大人の問いかけを無視しても波風を立てる。乗り掛った船だ。わたしは振り返り、
「本日のパーティの趣旨は叔父の本の出版記念です。それはご承知頂いた上で。わたしは
2つの政治勢力の和解手続を任されて、片方の全権大使となった平河議員を尊敬します」
曽根元総理は平河議員の力量も信じている。和解の成否を決する大事な場面に、捨てて
も良い様な者を赴かせる筈がない。百戦錬磨の政治家が、その程度を理解してない筈がな
い。
曽根元総理は高齢で活動に衰えがあるけど、容易に瓦解する勢力ではない。政局は今後
も波乱が予想される。松下元総理はその影響力を未だ大きいと見て、力を合わせたく望ん
だ。若手議員達の様に目先の勝利に浮れていない。
「その上で今宵の件は、平河議員に収穫です。和解成立の実を上げ、松下元総理と直接逢
ってお話しできる。皆さんも政権与党に長くおられる様ですけど、松下元総理と一対一で
直にお話しした事は何回あるでしょう? 平河議員は曽根元総理の名代として交渉役とし
て、印象に残れます。今回はむしろ曽根元総理の平河議員への、抜擢だった様に思えます
…」
彼らの話しの前提を断つ。政局の話題への深入りは好まないけど。荻田さんをこの後も
揺さぶり続けそうな彼らは一度、黙らせたい。話しの侵入口を塞いでおく。今宵の趣旨を
蔑ろにして浮れる彼らには、一刺ししたかった。
「叔父の先行き迄心配して頂いて、わたしの様な小娘に助言を頂き、有り難うございます。
今後も叔父の文を応援頂けると、幸いです」
政界を縦横無尽に泳ぎ回る若手議員や議員秘書や、彼らと近しい記者達が。揃って言葉
を失い押し黙る。好意的な反応は貰えないと承知の上だ。頭を下げて立ち去ろうとした時、
「私も、貴女の叔父さんは応援しているよ」
背後から年老いた穏やかな男声が届いた時、山下さん達はわたしの背景を見て凍り付い
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
振り向くと視界には、老いた男性2人とそれを囲む様に付き従う秘書やSPが多数いて。
『松下元総理と、平民新聞の田辺社長だ…』
現職の総理でも、時に政界の闇将軍に踊らされる傀儡な人もいる現代日本で。松下元総
理は現職を退いても、尚隠然たる勢力を保つ数少ない大物政治家だ。にこにこ微笑む容姿
は小柄で特徴は薄く、真っ白な髪も相当薄く。好々爺とはこんな感じを言うのかも。でも
その実は気配りとバランス感覚に優れた、齢七拾に近いのに尚精力的な永田町の住人であ
り。
むしろ隣に並んだ男性の方が、背も高く恰幅も良く鋭い目付きで、強面で威厳がありそ
うだ。公称八百万部を誇る日本有数の大新聞、平民新聞を率いる田辺社長は、御年六拾八
歳。
2人の後ろに付き従う中肉中背で、五拾歳位の黒髪の薄い男性が、青雲社の野田社長だ。
槙子さんや八木さんの評価は『俗物』らしい。
間近を囲むは秘書やSPのみならず、新聞雑誌の番記者やカメラマン、テレビクルーで。
右斜め後ろに、昨日ホテル最上階のバーですれ違った若い男女がいた。直接逢った訳では
ないけど気配で分る。きっと2人もわたしを。
「含蓄のある読みが、興味深くて愉しかった。羽藤さんの姪御さんだったかな?」「は
い」
松下元総理はわたしと山下さん達との会話を聞いており。高齢にしては確かな足取りで
歩み寄ってきた。背丈はわたしより少し高い位で、男性にしては小柄。肩幅も広くはなく。
「初めまして、羽藤柚明です。この度はご多忙中、叔父の本の出版祝賀においで頂き…」
粗相のない様にご挨拶すると、松下元総理はにこにこと眼を細め、挨拶を返してくれて、
「美しい上に洞察に優れる。唯のテスト勉強ではなく、人間を確かに視ている様だね…」
君の叔父さんの文も、唯の分析や理論を越えて、人の心の動きを捉えた考察が良かった。
「今の応対を見ていて分ったよ。大事に想う者の為に尽くしたい。それを柔らかに成し遂
げる度胸と賢さと美しさ。君の様な人物を傍に置いて育て上げたなら、相当な者だろう」
「わたしは、未熟者です。人前で賢しげに浅い読みを晒してしまいました。本日も、尚学
ぶべき事が多いと、痛感させられました…」
「人は生涯学び続ける者だよ。最近の若者は才知を誇り、人に見せつけ自己満足に浸る者
が多いが。今宵は久々の収穫か。対峙すれば凜と美しく、頭を下げれば柔らかに美しい」
松下元総理は珍しく饒舌で。わたしを気に入って頂けたみたい。過剰な位の賛辞を頂き。
正樹さんと槙子さんも傍に来て、田辺社長や野田社長も歩み寄ってきて、お互い挨拶を
交わし合い。新聞記者やカメラマン達もここに集ってきて。何かわたしと松下元総理の対
面を、みんなが囲う様な状況に。あの若い男女は巧みに、その写る圏外に身を引いていて。
わたしは元総理や田辺社長の席への誘導を。
正樹さん達と一緒に仰せつかる事になって。
「一番下の孫が君の一つか二つ上なのだがね。ロックをやりたいとか言って突然髪を立た
せて茶色に染めて、全く何を考えているのやら。地元も親戚も呆れかえってね。君の様な
才色兼備の大和撫子に、添い遂げて貰えれば…」
どこ迄本気か不確かな呟きを漏らす傍に、
「平河先生がいらっしゃいました」「おう」
荻田さん達を引き連れた平河議員が現れて。2人の政治家は、わたしや正樹さんを挟む
様にフラッシュを浴びつつ握手を交わす。政治ショーに乗っ取られた今宵の祝賀を、わた
しは少しだけ羽藤に取り戻せたのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
公の場で逢えたので、話しかけてみようと想っていたあの男女とは、結局お話しできず。
わたしが列席者の注目を浴びた為に、次々と話しかけてくれる人に応対する内に見失った。
政治経済の場にいる女子高生は、異色で注目を集めた様で。真弓さんの代りに来た以上、
力不足は承知で正樹さんの介添え役をせねば。こういう海千山千の人達との折衝や交流は
正樹さんの胃に響く。わたしが少しでも分けて持ち、傍に添って触れ断続的に癒しを及ぼ
し。
「今日はお疲れ様でした。それと、差し出がましい真似をして済みません。女の子はもっ
と慎ましやかでなければ、印象悪いですね」
祝宴は万事恙なく終え、わたしは正樹さんの部屋で2人きり。癒しを及ぼしに来ていた。
「いや、総司さんを庇ってくれた事は嬉しかった。その上で柚明ちゃんの柔らかな応対が、
松下元総理に気に入って貰えて良かったよ」
可愛く賢く柔らかに丁寧。今時の女子高生に期待し難い美点を備えているから、印象も
鮮烈な様で。今宵の僕は、田辺社長や他のマスコミや経済人の間でも、柚明ちゃんの叔父
と言う事で、注目され印象に残れた感じかな。
「褒めすぎです。でも、少しでも叔父さんの大事な人や、叔父さんの役に立てたと想うと
嬉しい。これが羽藤の家に良い流れを呼び込んでくれるなら、白花ちゃんや桂ちゃんの幸
せに繋ってくれるなら、わたしの幸いです」
正樹さんも今宵は緊張や気苦労で疲れが堪っている。わたしはセーラー服の上を脱いで、
より素肌を密着させて、正樹さんに癒しを浸透させて。正樹さんはやや困惑していたけど。
「幼い頃はお風呂も一緒に入って、添い寝もして頂きました。今でもわたしは叔父さんと
なら全然大丈夫なんですよ。一緒のお部屋も一緒のお風呂も。せめて背中に添う位は…」
わたしのたいせつな愛しい人。穏やかに爽やかで強く賢い憧れの人。お父さんを失って
羽様に住み着く前から、長く近しい人だった。
『良く頑張り通せたね。桂と白花を守って貰えて、本当に今日はありがとう』
わたしの両親を殺めた鬼が羽様に来て、桂ちゃんと白花ちゃんを脅かし。わたしが死に
瀕しつつ守り戦った小学6年生の初夏の夕刻。おんぶされた正樹さんの背は広く、父を思
い出したっけ。安心を肌で感じると、涙が滲み。自身を預けて心安らげる、数少ない人だ
った。
『柚明ちゃんは、恋人の家に外泊だそうだ』
『……じゃあ、柚明ちゃんは平田さんのお兄さんやご両親に公認された訳だ。これは恋人
と言うよりもう、フィアンセじゃないかな』
『まあ、柚明ちゃんへのなつき具合を見ると、桂も白花も最初の恋する人はもう確定か
な』
『柚明ちゃんにとっては大変かも知れないけどね。1人でも手に余る元気印が2人だから。
当分は舅と姑の助けがいるかも知れないよ』
一番たいせつな桂ちゃん白花ちゃんの父で。
『痕も残ってない傷を、あったと証明出来る人はどこにいるんだい。痕も残ってない傷は、
最初からなかった事と、どう違うんだい…』
『刃で服は切られたかも知れない。ひょっとしたら掠り傷位は負ったかも。でも金田さん
が顔に傷を負ってない事位は、逢えば分る』
『大好きな人の前では、狼さんになってしまう事もあるんだ。大好きな人が、食べてしま
いたい程可愛いと、思える時もあるんだよ』
優しく穏やかで要所を締めてくれる賢い人。
『無事で良かった。柚明ちゃんは賢く強いけど、やはり華奢で可憐な女の子だからね…』
『愛される事は男女共に悪い事じゃないさ。
柚明ちゃんが誰かを想う様に、誰かが柚明ちゃんを想う事もある。助けたく想う事もね。
人は常に守る側で居られはしない。時にはしっかり守られ、気持を受け止める事も良い』
清佳さんや槙子さんが惚れた、暖かな人。
わたしもずっと仰ぎ見てきた身近な男性。
『叔父さん……大好きだよ。ずっと前から』
そう語りかけた去年の今頃、正樹さんは、
『有り難う。僕も柚明ちゃんは大好きだよ』
『良かった……。わたし、とっても嬉しい』
溢れ出そうな想いを抑えるのが辛い事も。
正樹さんの若き日に似た大野教諭をすぐ打ち倒せなかったのは。敢て劣勢になって彼の
本音を求めたのは。女子を襲う教諭の絵を残す他にも。最後迄迷いがあった。中身は全然
違うけど、正樹さんに手を下す錯覚が拭えず。迷いを振り切る為にあの手順が不可欠だっ
た。
もし正樹さんに真弓さんという人が現れなかったなら。今尚独身であったなら。叔父と
姪の関係は近親婚で許されないけど。でも…。
「柚明ちゃん?」「もう、充分でしたか?」
正樹さんの問に、わたしは背に身を添わせ頬寄せた侭静かに応え。真弓さんに見られて
も誤解されないだろうけど、人目に見せては拙い絵図かも。人の助けになる力を求め欲し、
早く大人になりたく望み続けたわたしだけど。今は子供の様に気軽に添えない事が少し残
念。
槙子さんに見抜かれた通り、わたしは正樹さんに家族の親愛のみならず大人の恋愛も性
愛も抱いている。全て込みで愛し望んでいた。身近にいられる事は幸せだけど、近しい故
に絶対結ばれる事はない。桂ちゃん白花ちゃんや真弓さんとの幸せを守り保つ為に、一線
は絶対越えられない。未来永劫手を伸ばせない。
「もう少しだけ、お願い」「柚明ちゃん…」
分っている。わたしは分っている。羽藤柚明は羽様でも人魚姫の役回りだ。正樹さんと
真弓さんの夫婦の幸せを支え守るのがわたしの役だ。正樹さんがどれ程素晴らしく愛しい
人でも、親愛を越えて男女の絆は求めないし、求められてもわたしはそれを、受け付けな
い。
正樹さんも真弓さんも、わたしが心底好いた大事な人で。一番たいせつな幼子の父母だ。
幼子の幸せを包む家庭を壊す事は、わたしの最も厭う事。己を踏み躙ってもこの意志は貫
徹する。槙子さんを傷つけ退け迄してその恋路を阻んだのは、己の欲求を通す為ではない。
唯今だけは、暫くは、この温もりと肌触りに添っていたかった。恋愛や性愛は求めない。
家族としての親愛を。少し前迄は子供として、何気なく抱きついて触れ合わせてきた感触
を。
暫く背中に身を添わせ、頬合わせ。見えるのは街の夜景と、通りの向い側で閉鎖された
ホテル・ユグドラシルの闇。今宵の祝賀でも大きな禍は来なかった。巧く回避できたのか。
或いは今宵ではなく未だ少し先なのか。夜景のネオンを遮って、黒々とそそり立つ影は…。
「柚明ちゃん……?」「何でもありません」
瞬間の反応に正樹さんが問うけど。即座に平常心を取り戻し、再度その背に柔らかに頬
を当て。明日も挨拶回りで忙しい正樹さんに、不安は与えない。もう一分位、わたしは愛
しい背中に身を重ね。もう充分ですと身を放し。時刻は日付が変る頃合だ。正樹さんが年
頃の女の子を気遣って、部屋に戻る様に促すのに従い。危険に赴く緊張の欠片も、感じさ
せず。
「今日は有り難う、柚明ちゃん……明日も宜しく」「お休みなさい。大好きな叔父さん」
この夜がわたしの命運を分つかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは自室に戻らずその足で、階下に降りてロビーを抜けて。通りの向いのホテル・
ユグドラシルの闇に馳せる。禍を感じたけど、感じたからこそ捨ておく訳には行かなかっ
た。
ホテル・ユグドラシルは呪符の結界に包まれていた。パーティに来る政財界の大物を守
る措置か。わたしが察せる禍は、鬼切部が察せておかしくない。人の寄り付かぬ場は人外
の物が寄り憑き易い。グランドホテル扶桑を向いに控えたこの位置は、絶好のポイントだ。
入り込めない様に先に結界で封じたのだろう。
霊体の鬼なら余程強い者でなければ弾かれ拒まれ、肉体を持つ鬼でもその霊圧に動きや
意思を鈍らされる。破られても設置者は結界の破綻を即座に悟れる。警報装置の様な物だ。
その結界が、破られていた。呪符を貼った非常口の扉が開け放たれて。同時に呪符も破
られ結界はその効力を殆ど失い。誰かが入り込んだ痕を感じる。それも1人ではなさそう。
禍はこの時点でかなり明瞭に視えた。踏み込めば危険と苦難に当たると、分ってもいた。
でも飛び込まない訳には行かなかった。助けなければ、今わたしが馳せなければ手遅れに。
『電気が止まっている。階段を上る他ない』
7階に人の気配を感じた。人外の気配も。
結界は霊体の鬼には堅固だけど、肉体を持つ鬼が呪符を剥がせば破れる。逆に人の方が
それは容易く。呪符を破ったのも、まず入り込んだのも人だ。彼は呪符の意味を知らず…。
僅かの迷いの後で、わたしは非常階段を駆け上る。わたしも不法侵入だけど。もうすぐ
鬼切部が結界の破綻を知って駆けつけ、鉢合わせると視えたけど。彼らでは間に合わない。
事の直接の原因は、わたしが昨日蒔いた種だ。
修練を経た足はこの位の動きを苦としない。
階段を上り行く間も心に届いて来る感応は。
彼と人外の者の叫びや諍いを次々映し出し。
『い、い、一体何者なんだ。あんた、あっ』
ぎいやぁぁぁ。肩口を貫く激痛に、血飛沫と絶叫がわたしの耳迄届いてきた。致命傷で
ないけど、人外の者を前に彼は進退窮まって。
『憶えていないのかい、八木博嗣。余りにもこの姿は、変り果ててしまったからね。でも、
私は絶対忘れない。お前達マスコミ、特にお前が編集長を務めた創論に、記事を捏造され、
徹底的に叩かれ全てを失わされたこの私は』
声は女性の印象だった。姿は異形に変り果てたけど、心も憤怒に染められたけど。百六
十弐センチの背丈はわたしより少し高い。返り血に染まった巫女の様な装束を細身に纏い。
でもその袖も裾も胴体もボロボロに解れて穴が穿たれて。覗く素肌は緑色に乾いて硬質で。
肉を持ち人に害を為す程強大な鬼を前にするのは、小学6年生以来か。以降も修練を積
み重ね、力を技を鍛え続け。両親の仇の鬼なら打ち倒す技量は備えたけど。鬼の強さは1
人1人全く違う。半端な推測での介入は死に繋る。でも今介入を躊躇っては彼の生命が喪
われる。彼がわたしに害となる人であっても。
種を蒔いたのはわたしだった。八木さんは、正樹さんや祝宴出席者のスキャンダルを狙
い、主な宿泊客の部屋番号を非合法に聞き出して。昨夜の事を根に持った彼は、通りの向
いからわたし達を覗き見て、誤解を招く写真を狙い。でも彼は己を狙う影には全く気付く
事出来ず、
『人を責めるばかりで己を顧みない。他人の失態や悪行や付け狙い暴き立てるけど、己が
狙われていると気付かない。ガードが甘い』
鬼は彼を付けていた。鬼は彼を狙っていた。彼は散々他人を妬み恨んでおいて、己が恨
まれ憎まれる事を考えず。誰も察せられぬ処で、誰も助けられぬ処で、自ら1人追い詰め
られ。
『ぎゃあぁぁぁ!』『叫べ、もっと苦しめ』
女性でも鬼と化した相手に八木さんの抵抗は虚しく。内蔵を痛める程殴られ蹴られ。鋭
い爪で左肩を貫かれ、死に瀕していた。でも。
『簡単には殺さない。お前が散々インチキと言い募った癒しの力で、奇跡の超聖水で傷を
治してやろう。何度も何度も傷つけては治してやろう。死ねば一度で終る苦しみを、何度
も何度も。お前が何度も何度も私達の記事を捏造して執拗に非難した様に。お前も苦しめ。
誰の助けもない中で、私が死ぬ事を許す迄』
鬼は癒しの力を扱っていた。贄の血の持ち主かどうかは分らないけど、一度傷つけた八
木さんの右肩に触れ、体細胞を賦活させて傷口を塞ぎ、出血を止め。流れ出た血は戻せな
いけど、感じた激痛や恐怖はなくせないけど。
『ぐふっ、ぐあっ』『ふふっ、いい気味っ』
深手はすぐに治らない。治る迄、傷口が完治する迄激痛は身を苛む。傷口が塞ぎ終る前
に再度開いたり揺さぶったりして、鬼の女性は八木さんを執拗に虐げ苦しめる事を愉しみ。
死ぬ程の苦痛が、死ねないが故に終らない…。
『インチキ、捏造、奇跡の超聖水、まさか?
お前、まさかあの、死んだ筈だと聞いた』
『想い出した? 親の仇の様に責めてくれたのに。次の標的に執心で、過去には興味なし
かい。でも。あんたに用はなくても、私は用があるんだ。踏みつけた側は簡単に忘れても、
踏みつけられた側は恨みを決して忘れない』
彼が青雲社や若杉を恨み妬んでいる様に。
『平民新聞の田辺も青雲社の野田も、松下も、評論家もテレビも新聞雑誌も全部憎いけ
ど』
彼女は、八木さんが持つ世間への鬱憤を恨みを憎悪を共有しつつ。その憤りを八木さん
に向けても抱く故に。その手で彼を屠ろうと。
「ひい、いいぃぃぃ」「今こそ恨みを…!」
治りきってないその左肩を再度その手刀で貫こうと。鬼の女性が腕を振りかぶった瞬間、
「待って、殺さないで……不二、夏美さん」
到達したフロアの廊下の隅から、わたしは反対隅の2人に向けて声を発し。背後突き当
たりの窓から僅かに差し込む月光は心許なく。わたしの前途は灯もない暗闇に鎖されてい
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明ちゃん……もう行く事は止めないから、出立の前に一つ、聞いて欲しい事がある
の」
あれは小学6年生の晩秋に。交通事故で顔に深手を負った仁美さんを癒す為に、羽様の
大人を説き伏せ、街へ赴こうとしたわたしに。真弓さんは、当時八木さんが編集長だった
ホラー雑誌『ほんとにあった怪奇話』を開いて、
「あなたが今例に出した『奇跡の超聖水』の前代表・不二夏美は、わたしが切った癒しの
力を持つ、鬼だったの。本当、皮肉な物ね」
それは真弓さんの過去に深く関っていた。
「奇跡の超聖水については、知っていて?」
「確か、この団体の代表の不二宗佑という人が触った水に癒しの力が宿り、難病や心霊現
象に悩まされる人に効くと、この雑誌には」
ホラー雑誌の広告が謳う侭を応えるわたしに、真弓さんは少し気力の抜けた声で頷いて、
「今は唯のインチキよ。今の代表には何の力もない。先代が作った実績と知名度に乗って、
何でもない水を売って、金儲けしているだけ。
でも先代は違ったの。5年前に亡くなった、と言うより、このわたしが斬った先代は
ね」
不二夏美は鬼切部に討たれた筈の鬼だった。
9年前真弓さんに絶命させられた筈だった。
「本物だったって、言うのかい? 先代は」
確か5年少し前に突如行方不明になったって聞いたけど、あんたが関っていたとはねぇ。
サクヤさんの問に、真弓さんは静かに頷き、
「彼女は癒しの力を持っていた。贄の血の持ち主かどうかは分らないわ。彼女は幾つかの
病もその力で治していた様だし。贄の血の力とは由来の違う癒しだったのかも。でも…」
大事な事は、彼女は元々人の苦しみや痛みを救いたい善意で癒しの力を揮い、『奇跡の
超聖水』を立ち上げたという事よ。柚明ちゃん、あなたの様に。人の為に役立とうとして、
癒しの力を世のみんなに及ぼそうとしたの…。
「終盤マスコミに叩かれていたのは知っているよ。治癒を名目に暴利を貪ったとか、治ら
ないインチキだと訴える会員とか、勝手な医療行為は法律違反とか、幹部の豪遊贅沢が酷
いとか、週刊誌やワイドショーで騒がれてさ。行方不明も、当初は報道陣から身を隠した
んじゃないかって、勘ぐる向きもあったねぇ」
サクヤさんの言葉に続けて、正樹さんも。
「本人が出なくなってから報道の量が激減し、芸能人の離婚や政治家の汚職で話題も移っ
た様だね。その間に密かに二代目は組織を立て直して、今の形に持ち直してきていたと
…」
「夏美が居なくなった後の団体なんて、どうでも良いの。あの団体で本当に力を持ってい
たのは夏美だけよ。彼女抜きで団体を運営しても、それは鬼切部の関与する処ではない」
「何が、あったんだい?」
世に怪しい癒しを謳う団体は星の数程ある。騙したい者と騙されたい者がいて、それら
は下支えされている。根絶は難しい。鬼切部は人に仇為す鬼を切る者で、悪徳商法や詐欺
を取り締まる者じゃない。実際人を治したからと言って、その真偽を騒がれたからと言っ
て。
若杉や鬼切部が動き出す案件じゃない筈だ。
サクヤさんはわたしをちらりと視界に収め、
「不二夏美に生じた事が、柚明に起り得ると、あんたは恐れている。それは、何なんだ
い」
「……彼女は、人の世に、絶望したのよ…」
組織幹部が夏美への癒しの取次に、膨大な金品を依頼人から貪って懐に入れ、豪遊して
いたのは確かね。癒しの水の売上に目が眩み、夏美が力を込める前の、唯の水が売られて
いたのも事実よ。でもそれ以上に夏美に対するバッシングは、病院や製薬業界をバックに
し、誰かを叩いて注目を浴びたい人の思惑による。