第12話 幼子の護り(後)


『世の中は、タダで傷や病が治せれば万事解決とはならない。病人や怪我人は助かるけど。
医療に携わって生計を立てる人は、タダで病や傷を治す者の為に、失職の危機に瀕する』

 これは唯の利権絡みの話ではない。製薬業界や病院や政治家の、利権も確かに絡むけど。
それ以上に医療に携わる人達に、ほぼ無償で癒しを施す不二夏美に倣えと言う事は、収入
を捨てよと言うに等しい。朝迄当直する看護士も、患者を診て手術や薬を処方する医師も、
新しい治療法や機器や薬を研究開発する製薬会社の人も、その事務を司る更に多くの人も。

 不二夏美の癒しは本物の故に、世間の秩序を激変させる。善意でタダだからと通せる事
柄ではなかった。適正な報酬がなければ医療に携わる人は職を喪い、医療制度は崩壊する。
それは彼女の力の範囲を越えて大きな不幸を呼ぶ。彼女も国中の病人や怪我人は治せない。

 でもその故に若杉が取った措置は苛烈だった。若杉は表でテレビや新聞雑誌を使い、裏
で暴力団を使い、奇跡の超聖水を集中攻撃し。『インチキ』『医師法違反』『金目当て』
と。

 彼女の家族や親族の所在を明かし、抗議文書を殺到させる。暴力団を使って団体幹部を
買収・脅迫し、情報をリークさせる。テレビや雑誌で告発し、悪のイメージを植え付ける。

 その先頭に立ったのが、当時創論編集長だった八木さんで。彼はその為に、奇跡の超聖
水の会員を利と脅しで釣って捏造証言を取り、それを掲載し執拗に叩き続けて、名を成し
た。

『私は確かに彼の糖尿病は治した。でもガンは治せなかった。それは言ってあったのに』

『私が治したから職場に復帰出来た人が、その後職場で受けた怪我を私の所為と偽って』

『私が治せないと断った人が、脅迫され金を取られて治らないと、テレビに向けて喋る』

「サクヤが言う様に、世に鬼の様な人は数多いの。例えそんな恩知らずな証言がなくても、
雑誌やテレビは証人を捏造しても、報道を止めない。意図があるから、利害が絡むから」

 夏美の善意で始った奇跡の超聖水は、効果を上げたのに、否むしろその故に、雑誌やテ
レビに非難され。その想いは自らの団体幹部にも理解されず、治し救った人々に裏切られ、
自身の家族や友人を傷つけられ、引き離され。

「善意を叩き折られた夏美は、鬼に成った」

 善意を分って貰えない世間に、絶望して。

「鬼という物はね、生れついての鬼よりも、人のなれの果てとしての鬼の方が、遙かに多
い物なのよ。敵陣に入った将棋の駒が、裏返って別の働きをする駒になる様に……」

 夏美は絶望し、そう追い込んだ雑誌記者やテレビクルーへの報復に走った。募る憎悪で
自らを鬼に変え、善意を利害で圧殺する世の中へ復讐を。癒したにも関らず証言を翻し嘘
八百並べた会員や、裏切った幹部への復讐を。

「行方不明は、報復の為に鬼と化した為なの。でも、鬼切部にはむしろそれは都合良かっ
た。斬った為に行方不明になるより、その前から行方不明だった方が、隠蔽工作は巧くで
きる。

 世間は複雑に絡まっている。善意が効果を上げる事で困る者や嫌う者もいる。柚明ちゃ
んが人を想う気持は分るけど、そんなあなた故に、夏美の哀しみや怒りも分るでしょう」

 わたしは今その絶望の末に直面していた。
 ここにいるのはもう1人のわたしの末だ。
 動き出した禍は最早止められそうにない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「八木さん、大丈夫ですか!」「んん…?」

 わたしと2人の間合は五拾メートル程ある。わたしの背後だけ小窓に月光が差し込むの
で。向こうからわたしは見えるけど、こっちの視界は効かない。2人は反対隅の闇の中に
いる。

 返事はないけど反応は悟れた。激痛に喘いでいるけど未だ意識は確かだ。わたしは視界
が全く効かなくても、行動に差し障りはない。

「今助けに行きます。少し待って」「私の名を知っている……お前、もしや鬼切部…?」

 彼女はわたしの声と気配に戦意を漲らせ、

「鬼切部の女には大きな借りがあってね!」

 暗闇の中、タンと床を蹴る硬質な音が聞え。
 次の瞬間、鬼の爪を寸前で屈んで左に躱す。

 わたしを追って鬼の右足が跳ねて迫るけど。
 それも躱し、素早く回り込んで距離を置き。
 彼女と正対し、八木さんを背後に庇う形に。

 視界は効かないけど、気配や空気の動きで動きは悟れる。でも、危うい処だった。憤怒
を宿した彼女の一撃は、まともに当たれば修練を経たわたしのブロックも腕ごと砕きそう。

「待って。わたしはあなたと戦いに来た訳じゃない。話しを聞いて」「戯れ言をっ…!」

 目の前で八木さんが括り殺されるのを止める為に介入しただけで。わたしは彼女を討と
うとは思ってない。わたしは鬼切部ではない。

 彼女が人に害を与えないなら、贄の血を与え心を繋ぐ事も選択の内だった。鬼だから悪
党で残虐非道とは限らない。人にも鬼の様な者がいる様に、鬼にも良い鬼と悪い鬼がいる。

 落ち着いて話し合いたい。でも彼女は怒りを染められて、復讐を阻む者には憤怒を返す
のみで。ほぼ真っ暗な廊下の中央部で、息遣いと足音と、拳や蹴りに伴う空気の音が暫く。

「つあぁぁ、死ねえぃ!」「……っ、くっ」

 彼女は鬼になる前は、武道や格闘に縁が薄かった様で。蹴りも拳も素人だ。唯、腕力も
脚力も鬼の強化の故に、攻撃は驚く程に鋭く強靱になって。まともに受け止めては危うい。

 躱しても拳や蹴りが掠めれば、セーラー服や素肌を引き裂く。それに気を取られて動き
が鈍っては致命傷になる。百分の一秒が生死を分かつ緊迫状況で、尚平常心は強く保って。
ブロックはせずに避けて躱して、後退しつつ。

「喰らえぇい……んん?」「今だっ……!」

 左右の爪を躱したわたしに、彼女の右足が伸びてくる。両腕を並べて強烈な蹴りを受け、
防ぐのではなく反動を使い、後方に飛んで距離を置き。彼女は蹴った反動ですぐ動けない。
空中で姿勢を立て直し、わたしは着地した廊下の隅で、壁を背に座り込む八木さんに添い。

 両肩を軽く掴んで癒しを注ぎ、その身を賦活しつつ、心に活力を戻させて。間近に囁き、

「ケガは浅いわ。そこの非常階段から下りて逃げて。彼女は長く止められない」「……」

 八木さんは失血がやや多いけど、生命に及ぶ程ではない。左肩の傷も内蔵の痛手も鬼の
治癒で治りかけだ。わたしの癒しを浸透させれば。力の塊を大量に注ぎ、中で時間を掛け
て溶けて作用させ。少し荒っぽい方法だけど、やむを得ぬ。翌朝には常の人に殴られ蹴ら
れた痛みに収まっている様に。寄り添って治せれば文句ないけど、今のわたしに余裕はな
い。

「逃がすかあぁぁ!」「くっ……早い……」

 凄まじい速さで迫り来る鬼を、わたしは迎撃の為に叶う限り前に踏み出し。待ち構えて
いては八木さんを巻き込む。これ程強大な敵を相手に、守勢に回っては持ち堪えられない。

 彼女の右手爪を左首筋を掠らせつつ躱し。
 懐に飛び込み、右脇腹に左の掌打を当て。

 贄の力を弾く力に変え、一気に流し込む。
 あの仇の鬼なら必殺になった程の一撃を。

「うがああぁぁっ!」女性の絶叫が響き渡り。

 鬼の体が後方に浮いて、床にドンと倒れた。
 手応えはあった。相当な痛手も与えた筈だ。
 でも必殺にはなってない。鬼は尚も健在で。

 本当は追い打ちして止めを刺すべきだけど。
 わたしは彼女を倒しに来ている訳ではない。
 鬼でも問答無用に生命奪う事は躊躇われた。

 逃げ帰ってくれれば最善だった。睨み合いに移行するなら、その間に八木さんは逃げら
れる。尚攻め掛ってくるにしても多少は怯む。でも、起き上がった彼女の対応は予想を超
え。

「ぐぬぬ、中々やるわね」「……まさか…」

 彼女はその手を右脇腹に当て、己の癒しを流し込み。贄の力を己の癒しで相殺し。わた
しは弾く力に変えた贄の力を、大量に注いだ。それは暫く身の内に残って彼女を苛む。時
間稼ぎも兼ねた好手を、彼女は打ち消して来た。

 人は戦闘中、己に癒しは使えない筈だった。癒しは体を弛緩させ、心から緊張を奪う。
接近格闘では僅かな応対の遅れが致命傷となる。彼女は戦いのセオリーを知らない素人な
のか。或いは鬼に、人の制約は意味を成さないのか。

「面白いわ、その力。私の力に良く似ている。癒しの力を強力にして、弾く効果を持たせ
て。お前も特殊な血を持つ私の同類?」「……」

 わたしが答を途中で止めたのは、斜め背後からシャッター音が届いてきた故で。深夜の
無人のホテルの闇で、カメラを動かす者など。

「ほぉう、これは面白い。良いスクープだ」

「八木さんっ。……写真なんか撮ってないで、早く逃げて。危ないのはあなたなのっ
…!」

 思わずわたしも声を荒げた。鬼との交戦を報道関係者に撮られた事も失態だけど、元々
危ういのは彼なのだ。彼こそ一刻も早く逃げねばならないのに。心がお留守になった瞬間、

「ホラホラよそ見は危険だよ」「いつっ!」

 鬼の爪が振り下ろされて。辛うじて致命傷は躱すけど、左の肩から肘の上迄を、縦にざ
っくり、セーラー服ごと切り裂かれ。贄の血が噴出し。追撃に繰り出される爪は躱すけど。

 形勢は一変した。左腕は致命の傷ではないけど。応戦して動くので、血の流出を完全に
止められぬ。わたしは戦闘中癒しを己に使えない。最初に噴き出た分も含め、生命を脅か
す量ではないけど、血が減れば血の力も減る。彼女は追い回すだけで、わたしを失血多量
に追い込める。失血が増えれば意識も保ち難い。

「八木さん、写真より自分の生命を考えて」

 そんな中で尚続くシャッター音に、わたしは再度声を掛けるけど。彼の心には届かずに。

『スポーツ紙に高く売れるぞ。奴らはショッキングな見出しが大事で、真偽などどうでも
良いからな。流血の絵も予想外に引き締まって凛々しい。タイトルは【人外の化け物と戦
うセーラー美少女、これは事実か特撮か?】【新刊出版の羽藤正樹、女子高生の姪と禁断
の触れ合い】二本立て。これはいけるッ!』

 明日の儲けより今瞬間が生命の危機なのに。
 わたしよりも、八木さん自身の危機なのに。
 彼はカメラに没入し、己の世界に没入して。

 鬼の爪は勢いに乗って、制服や素肌を掠め。
 回避に動き、堪えるだけで鮮血が流れ出る。
 声を掛ける暇がない。息継ぎする暇がない。

「はっははは。お嬢さんは写真に撮られる事が嫌いかい。そうだねぇ。私も新聞雑誌に追
い回されたから、気持は分るよ。私は最早どうでも良いけど。鬼と戦う可愛らしい姿が衆
目に曝されれば、人前に出づらくなるしねぇ。
 明後日にはあんたの戦う姿が写った紙面が、全国の駅や書店に出回って。鬼と戦うお前
達の存在が秘密が、公になる。いい気味だっ」

 あんたの血は特殊なんだろう。床に流れ落ちた血もこの返り血も、こうやって乾く迄に
舐めるか触れれば、相当の力になるんだろう。

 彼女はわたしの零した血を足の裏で、返り血の血飛沫も素肌で吸収し。わたしの贄の血
が鬼に力を与え行く。わたしが彼女に与えた痛手は既に復せたか。事は悪化の一途を辿り。

「んん……良い感じ。八木、戦うお嬢さんの写真をしっかり撮って頂戴。私とセットでも
良い。私を葬った者達を、暴き立てて社会的に指弾できるなら、それも又復讐の一つ…」

 彼女の勘違いを訂正するのは今は後回し。

「鬼はわたしを倒した後で八木さんも殺めて、写真だけ手に入れる積りです。早く逃げ
て」

 わたしは、そう長く、持ち堪えられない。

 一撃与え、怯ませて後逃げ走る。逃走しつつ彼は守り庇えない。その為にも彼に先に逃
げて貰わねば。でも彼は魅せられた様にわたしにカメラを向け続け、この攻防を撮り続け。

「そっちに声掛けている余裕があるのかい」

 彼女の爪がわたしを捉えようと更に迫る。
 最早シャッター音に気を配る余裕もない。
 痛みを堪え出血を抑え、回避はするけど。

 彼女は逆襲を招く大振りは控え。わたしを左右に振って失血を増やす攻撃に徹し。手足
の振りが小さくて隙がない。一撃与えるには小柄なわたしは懐への踏み込みが必須だけど。
この状況ではむしろ相手に決定機を与えそう。でもこの侭躱し続けても敗北はそう遠くな
い。

「ほらほら、この侭血を吹き出して死に絶えるかい。鬼を切りに来たのではないのかい」

 その鬼に、自ら切り刻まれてしまうかい!

「……つぁっ……、くぅっ……ぁっ……!」

 今は乱れずに冷静さを保って戦機を窺う。
 わたしはここで生命を落す訳に行かない。
 生きて為さねばならない事を残している。

『桂ちゃん、白花ちゃん……サクヤさん…』

 左半身を紅に染めつつ自壊は己に許さずに。
 最後迄羽藤柚明の意志で体を心を制御する。
 たいせつな人を想う為にも必ず生きて残る。

 回避が追いつかず、制服を素肌を鬼の爪が掠め始めるけど。わたしの失血を取り込んだ
彼女は一層強化されつつあるけど。それでも。敗北が確定する迄、わたしは望みを手放さ
ず。

「流石にしぶといね。いい加減、死にな!」

 鬼が必殺の爪を振りかぶった、その瞬間。
 白刃の煌きが鬼に迫り、局面は一変した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 不二夏美は真弓さんに一度切られている。
 鬼切部に単独行動が少ないと分っていた。

 わたしを鬼切部と誤解した彼女は、優位の故に相棒の存在を考慮に入れる余裕があって。
わたしを追い詰めつつ脇に警戒も配っており。故に彼の白刃は、彼女に致命傷を与えられ
ず、その左腕を浅く傷つけるに止まり。彼もわたしの助けを優先して、敢てそうした様だ
けど。

 鬼を背後から刀で斬りつけつつ、その脇を駆け抜けて、わたしの目の前で鬼を振り返り、

「お前の相手はこの俺だ。夜に蠢く鬼よ…」

 あの若い男性だった。昨夜ホテルのバーですれ違い、少し前には祝宴で要人を警護して
いた、2人の男女の片割れ。歳は二十歳少し過ぎか。僅かに差し込む月光に照された狩衣
姿は、幻想的に美しく。怜悧な容貌は整って。

 身長は百八拾センチに少し足りない位。手足も余り太い訳ではないけど、均整が取れて。
歩き方が違った。並の使い手ではない。もしかしたら真弓さんやサクヤさんに近い位の…。

「大人しそうな姿形して、何て無謀を。先代はとんでもないお転婆娘を、育てたものだ」

 己に害を為す者を庇って危機に陥るとは。
 その瞳をずらしてわたしを見つめるのに。

「ケガは浅いです。傷は自力で癒せますから、わたしに気を取られないで鬼に備えてっ
…」

 後から考えれば失言だったかも知れない。

 わたしに注意を惹かれ傷ついては危ういと、急ぎ告げたのだけど。贄の力も常の人が持
たぬ力だ。鬼切部の疑念や敵意を呼びかねない、不二夏美の鬼の力と同種の力だ。でも、
彼はにこりともしない侭、わたしの顔を向いた侭、

「心配無用だ」「しゃああぁぁ……ぐいぅ」

 片手間で不二夏美の鬼の爪を撃退し。気配で察する事は出来ても、鬼の爪の威力や速さ
を見切る事は難しい。わたしも集中すれば無理ではないけど、彼は本当にそれを片手間で。

 カラン、と乾いた音を立て。鬼の爪が指ごと数本、床に落ちる。刀の切れ味も凄いけど、
それを扱う彼の技量も相当凄い。その剣の舞の力強さに、痛みも荒い呼吸も忘れていると。

「痕も残さず治せるか?」「3時間あれば」

 わたしの答に若い男性は微かな笑みを見せ、

「なら、ここは任せろ。お前はここを立ち去って、二度とこの件には関るな。良いな?」

 答を待たずに彼は鬼へ向き直り。鬼の憤怒も寄せ付けぬ、凄まじい闘志が冷たく満ちて。

「鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽明良が、千羽妙見流にてお相手いたす。覚悟願おう!」

 彼が真弓さんの後を受けて千羽党の鬼切り役になった、千羽明良さんだった。強い戦意
と自信にも関らず、その表情は冷たく透徹し。気配は夏の夜の空気の淀みを散らす程清涼
で。

「うぬ。鬼切部千羽党……やはりあの女の」

 強さの格が違う事は彼女も感じ取れた様だ。わたしに対した時と違って、不二夏美は明
らかに気圧されている。鬼切り役という言葉に、真弓さんを想い出していたのかも知れな
い…。

「気をつけて、明良さん! その鬼は少量でもわたしの血を、濃い贄の血を呑んで、格段
に力を増しています。ごめんなさい。わたし、彼女の痛み悲しみを分りたくて、聞きたく
て、お話ししたくて、倒せる機会を一度見逃し」

 その鬼の名は不二夏美。かつて真弓さんが切った、癒しの力を持つ鬼です。報道関係者
を恨み憎み、わたしを覗き見ようと結界を破って侵入した八木博嗣さんを、狙って来たの。

 わたしの甘さが鬼に力を与えた。それが鬼切部を手こずらせ、無辜の人の生命や幸せを
奪う原因になるなら。わたしは彼らに少しでも協力する事で、何とか禍を小さく留めねば。
知る限りの情報を声に載せて届けるわたしに、

「俺は鬼切部でもない者に、鬼を討って貰う期待はせぬ。血を得て力を増した鬼等、既に
多数切ってきた。お前の関与など事を左右せぬ。一般人は大人しく守られていて貰おう」

 冷たさを装ってはいるけど、その答はわたしの罪悪感を減じようという暖かさに満ちて。

 傷ついた今のわたしに彼の助けは為せない。
 わたしは足を引っ張らぬ様に見守るのみで。

「ご武運をお祈りします。どうかご無事で」

「ちえぇぇええぃ!」「ぬっ、はったっ!」

 鬼は明らかに劣勢だった。彼の一撃に応じつつ退き躱し、逃走の機を窺う感じで。技量
に大きな隔たりがあった。鬼でも戦う術で素人の彼女が、明良さんに勝つ事は至難の業か。

「羽藤柚明……」「……千羽、明良さん?」

 廊下の闇の半ば迄、鬼を追い立てた処で、
 明良さんは再度わたしをふっと振り返り、

「鬼を屠る鬼切部と、鬼の好餌たる贄の民」

 我らが巡り逢う時とは、お前が鬼に関って脅かされている時だ。だから我らは逢わない
事が最大の幸運。逢えた時は袋小路の深奥よ。

 再び逢うまい、互いの為に。だがしかし。

「もう少し、話してみたかった気もするな」

 追い立てられ行く鬼と共々、明良さんはその場を走り去り。ふと気付くと、八木さんの
姿も消えていて。階下へ逃げ去った様だけど。

 わたしは独り、漆黒の闇に取り残されて。
 禍は、今漸く口火を切ったばかりだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしは暫くその場に止まって傷口を塞ぎ、ホテルに戻った。わたしはある程度人の心
を操り導く術を心得ている。感応の力の応用で、相手の注意したい方向に心に留まる物を
見せ、紅に染まった左半身に目を向けさせない様に。

 多くの人に長くは効かせられないし、防犯画像等があればお終いだけど。正樹さんと同
室でなくて良かった。この件は全て終ってからでなければ話せない。千羽党と因縁の深い
サクヤさん・真弓さんの助けも呼んでは拙い。禍の全景はさっきの遭遇でほぼ全て見通せ
た。後はわたしの覚悟と選択が、未来を左右する。

 今宵はシャワーで血と汗と汚れを洗い流し、消毒し。眠りつつ癒しを作用させて完治さ
せ。翌朝は何気ない感じで正樹さんと朝食を共に。セーラー服は何着か、替えを持ってき
てある。

 鈴木さん達と大手書店などへの挨拶回りに赴く正樹さんに、今日はわたしは随行せずに。

「東京見物も、悪くないかも知れないね…」

 高校生の女の子が、折角訪れた都会を見て歩きたく望むのは、そう無理な口実でもない。

「余り帰りが遅くならない様にね」「はい」

 正樹さん達の出立を見送って暫く後、ロビーに封書が届けられた。わたしか、不在なら
正樹さん宛に。持ってきた男性は唯の遣いだ。封を切る迄もなく、中身もその意図も読め
た。

 時刻は正午近いけど昼食は取らず、電車を乗り継ぎ郊外の指定場所へ独り赴く。中小の
部品工場や廃棄場・処分場が軒を連ね。工員向けアパートや倉庫も散在するけど。多くが
潰れ、その幾つが尚稼働中なのかは不確かで。中には不穏な若者の溜まり場にもなってお
り。地元人でもない女の子が赴く処ではないかも。

 昼尚人影の殆どない平日の小路は、セーラー服で明らかに学生と分るわたしが場違いで。
でもわたしが出向かなければ、話しは数時間で正樹さんに行く。この禍の種は元々わたし
が蒔いた。わたしが突き抜けて解決せねば…。

 指定場所から遠くない処迄来た時だった。
 わたしの未来を変える出逢いがもう一つ。
 羽様の幼子と同じ位の歳の女の子が1人。

 黒髪をショートに切り揃えた可愛い姿は。
 迷子ではなく何かを探す様に彷徨い歩き。
 見かけた瞬間わたしは彼女が誰か悟れた。

「初めまして。羽藤柚明です。お父さんの知り合いなの。宜しくね」「……かなめです」

 要ちゃんは、初対面のわたしにやや戸惑い気味だけど。助けを求めていた様で、お父さ
んの知り合いという名乗りに安心してくれて。服の色彩はくすんで汚れてやや埃っぽいけ
ど。男親1人で職に就きつつ子供を養うなら、家事全般に手が回り切らないのも無理はな
いか。

「お父さんを探しているの? わたしと待ち合わせているの。一緒に来る?」「うん…」

 伸ばした右手を繋いでくれて、一緒に歩み。
 わたしを待っているのは要ちゃんの探し人。

「要ちゃんのお父さんは、どんな人? 優しい?」「パパとてもやさしいよ。たまご焼き
焼いてくれたり、さとー牛乳作ってくれる」

 手を繋いだ幼子は、わたしの問に瞳を輝かせて答えてくれて。歳を訊いたら左手の指を
5本全部開いて前に突き出し、見せてくれた。

「砂糖牛乳?」「うんっ、牛乳をあたためて、おさとーを少し入れるの。おいしーんだ
よ」

 おねーさんの分もパパにお願いしてあげる。
 無邪気な瞳に善意を宿し、お話ししつつも。

「きてないね」「ええ……ここの筈だけど」

 でも指定された空き地にその人はいなくて。
 来てないのならこちらから逢いに行くだけ。
 要ちゃんの家に向けて、2人で小路を進む。

 要ちゃんは幼稚園に通ってない様で。お父さん以外の人と、お話しする事は滅多になく。
わたしに心を開いてくれたのか、父不在の不安を埋めたいのか、堰を切った様にお話しを。
幼子とのお話しはわたしの日常。くりくり動く瞳と柔らかな頬と、手足の仕草が愛らしく。

「カップめんやおべんとー食べてるよ。おみそ汁好きなんだけど、パパ最近は忙しくて」

「お買いもの? 余りいってない。食べものも着るものも、パパが買ってきてくれるよ」

「パパはしゃしんが上手なの。しゃしんのおしごとに昨夜もお出かけで。お星さまになっ
ちゃった、ママのしゃしんもきれいなの…」

 でもパパは、本物のママには敵わないって。
 要ちゃんのお母さんは、彼の奥さんであり。

 壱キロ位歩いただろうか。右側の閉鎖された工場跡から、呻きや肉を殴り蹴る音が届く。
わたしの未来と、羽藤家の命運を握る人はそこにいた。要ちゃんの探し人が、そこにいた。

「パパっ!」「八木さん」「ああん?」「何だお前ら?」「要っ。それに、お前羽藤…」

 要ちゃんの父でわたしの未来と羽藤家の命運を握る八木博嗣さんは、閉鎖された工場で
男女拾数人の若者のオヤジ狩りに遭っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あんだぁてめぇ」「こいつの知り合いか」
「見られたぞ」「この辺の制服じゃねぇな」

 最年少で中学生、最年長で二十歳過ぎか。

 男女弐拾人弱の若者達は、学校がある者も学校に行かず。鉄パイプやチェーンを持って、
浮浪者や通行人を、人目に付かない工場跡で殴り蹴りして鬱憤を晴らし。テレビや新聞で
報道されていたけど、生で見たのは初めてだ。

 八木さんは待ち合わせ場所に行く途上で彼らに遭遇した。通勤通学時間を外れ、商店も
ない道筋は買い物に歩く人もおらず。人目が届かぬ故に、彼らは集団なら無法も通せると。

「見られた以上この侭返す訳にも行かねぇ」
「よそ者なら多少ヤッても後腐れないしぃ」

 大人しげな女の子の姿形が、相手に弱さを誤認させたのか。成人男性も囲んで好き放題
に殴り蹴りした彼らには、わたしの口を封じる事など当たり前で、警戒にさえ値しないと。

「要ちゃん、少し下がって待っていて。あなたのパパを、助けてくるから」「うん…?」

 わたしは八木さんの話を伺いに来た。彼らがわたしをこの侭帰してくれぬ以上に、わた
しもこの侭彼と話さずに帰れない。交番も民家も遠く、助けを求める声も届かせ難いけど。
禍には、唯逃げて躱すだけでは回避は叶わず、自ら踏み込んで退けなければならぬ時もあ
る。

 要ちゃんを巻き込む訳には行かない。わたしは彼らの真ん中に、自然な歩みで進み出て。

「彼を……八木さんを、解き放って下さい」

 わたしの姿勢は生意気に見えただろうか。

「ああ?」「何を言ってやがる」「自分の置かれた立場を分ってねぇな」「ちょっと苛め
て泣かせてよ」「任せとけ、スミレ姐さん」

 彼らは己の欲求を通す事しか念頭になくて。
 わたしの求めは力づくでなければ通らない。

 逃げ道を塞ぐ様に散開し、彼らは哄笑して。
 体を捕まえれば終ると無造作に腕を伸ばし。

「ぐひっ!」「なんだ?」「何があった?」

 右側面から掴み掛る、男の子の腕を躱して。
 勢いは殺さず、逆にその腕を掴んで足払い。

 投げ飛ばし、左から迫った男の子にぶつけ。
 視線を尚拾数人残る驚愕の表情に向け直し、

「……やればやる程、痛い想いをしますよ」

「このクソ畜生っ」「手加減していればいー気になりやがって」「真っ昼間からひぃひぃ
泣かせて欲しい様だな」「ぶっ倒すぞコラ」

 抵抗を見ても彼らは諦めず。一撃与えるか身を捉えれば、女の子1人位どうにも出来る
との認識を変えず。一層いきり立って間近に迫り腕を伸ばし。わたしの覚悟は整っていた。

 争いや人を傷つける事を厭うわたしだけど。誰かを守る為に力の行使が不可欠な時もあ
る。無力と無知で招いた幼い過ちは繰り返さない。この手が誰かに痛み苦しみを与える事
になっても。わたしは己が為すべき事を確かに為す。

 掴み掛る男の子の腕を捻って、次の男の子の前に抛り出し。縺れる間に、背後から迫る
男の子の頬に、振り返りつつ掌打を回し打ち。贄の力は込めずとも彼は暫く起き上がれま
い。

「てめぇ、ふざけやがって」「ぶっ殺すぅ」

 女の子が2人鉄パイプと木刀を振りかぶる。
 女の子の方がこういう状況では遠慮がない。

 躱して間近に踏み込んで、手刀で木刀を叩き落してから、1人の腹に掌打を当てるけど。
男の子と違って唯浮せて退けるだけに留める。髪を黄色に染めても、顔を黒くお化粧して
も、わたしに害意を抱いても。出来る限り女の子は痛めたくない。彼女が尻餅をついた時
には、わたしは既にもう1人から、左手で鉄パイプを絡め取り。足払いで転ばせつつその
脇腹に右手を添え、擦り傷を与えぬ様にそっと置き。

「スミレ姐さん!」「ユッキ、大丈夫かっ」
「こいつ、もう許さねぇ」「数で押すぞぉ」

 衆目がわたしに集まる事はむしろ好都合だ。
 八木さんや要ちゃんを暫く忘れてくれれば。

 彼らは集団で弱者を苛められても、戦う訓練は経ていない。今のわたしなら彼らが刃物
を振り回しても、大ケガさせずに退けられる。勿論女の子には、傷も残さず顔面打ちもせ
ず。

 ラグビーの様に腰を落し、前後左右から迫るけど。掴み掛られるのを待たずにわたしは、
彼らの首筋や頬を打ち据え昏倒させて。彼らが蹉跌を実感したのは、頭数が半減した頃か。

「タカ、トシ、何を手こずっているんだい」

 髪を黄に染めた顔の黒い女の子の促しに、

「スミレ姐さん、こいつ強いよ。やばいよ」
「一旦出直して、もっと数揃えて来ようぜ」

「何言ってんだいバカ共っ。相手は華奢な娘1人。どんな手を使っても捉まえてしまえば、
頭数と腕力で犯りたい放題好き放題だろー」

「あたしに任せてっ!」背後からの女声は。

「この娘を人質に取って、言う事聞かせる」

「やった!」「流石ユッキ」「頭いーぜぇ」

 さっき痛めつけずに退けた女の子が1人。
 ナイフを右手に要ちゃんへと駆け寄って。
 でも彼女が要ちゃんを捕捉するより早く。

 間に立ち塞がる男女6人を躱して駆け戻る。この展開も想定の内だ。わたしは一瞬で戻
れる範囲迄しか離れないし、彼らにわたしの動きは止められない。速度を落される事もな
い。

「ひっ……!」「動きを止めたのは正解よ」

 ユッキと呼ばれた女の子は、要ちゃんにナイフを振り下ろせる位置で、わたしの蹴りの
寸止めを鼻先に見て硬直し。動きを止めなかったなら、わたしは右後ろ上段の回し蹴りを、
先に彼女の顔面に叩き込んでいた。わたしの行動には優先順位がある。幼子を刃で傷つけ
る相手なら、女の子でも傷つけてでも退ける。勿論痕が残らない程度には、手加減するけ
ど。

 硬直したユッキの間近に添って、右手首を後ろ手に捻ってナイフを奪い遠くに抛る。そ
の侭自由を拘束しつつ、一緒に前へ進み出て、

「わたしは貴方達を憎んでいる訳でもないし、戦いに来た訳でもない。警察を呼ぶ積りも
ないし、彼の弁償や謝罪を求める気もないわ」

 彼とお話しに来ただけよ。彼を解き放って、ここから引き上げて頂戴。それだけでいい
の。

「スミレ姐さん」「勝てねぇよ」「数を揃えて出直そうぜ」「小娘が……憶えておきな」

 時には力や覚悟が途を切り開く事もある。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「パパっ!」「痛みますか?」「う……ん」

 彼らが不納得でも走り去って引き上げた後。
 わたしは要ちゃんと2人で八木さんに添う。
 骨は折れてない様だ。内臓にも損壊はない。
 顔も腫れてはいたけど言葉も意識も確かで。

「全くひでえ巡り合わせだ。昨夜も今日も」

 傷を確かめる為に袖を捲り、軽く抑えて肌身に触れて癒しを流す。気付かれぬ様に賦活
を促し痛手を減じ。彼は近くのカラオケルームで2人で話したかった様だけど。右足を挫
いた様で、これをすぐ治せば逆に不審を呼ぶ。

 要ちゃんを家に戻す必要もある。彼は外出は諦め、自宅にわたしを招く意を決した様だ。

「パパだいじょうぶ?」「ああ、まぁな…」

 大の男がオヤジ狩りにあった末に、お嬢さんに助け出されるなんて、格好悪い限りだが。
一応礼は言っておくぜ。言葉はタダだからな。

「どーもありがとぉ」「どういたしまして」

 八木さんの言葉を受けて、要ちゃんが頭を下げ。わたしもそれをにこやかに受けて返し。
要ちゃんは、わたしが彼女やその父を戦い守った事を分って、感謝と信頼を伝えてくれて。
この身に小さな体を預けてくれて。温もりと柔らかな肌触りで親愛も伝えてくれて。可愛
い童女の父親は、血と埃に塗れた顔で驚いて、

「って、お前らいつの間に、そんな仲に?」

 2人はお互いその驚きに、何を驚く事があるのと少し戸惑って、暫し相方を見つめ合い。

「それは、女の子の間の秘密です」「ねー」

 子供の絆が大人の事情を大きく左右できない事は分っている。生活や人生を賭けた大人
の利害の前では、子供の想いや正しさ等通用しないし、させてはいけない時もある。でも、
否、だからこそ、わたしは要ちゃんとの絆は、その父との関係とは別に強く繋いで残した
い。わたし達は2人の家迄、大中小と並んで歩む。

「お前さんの強さを再認識したよ。昨夜のあれも、やっぱり夢や幻じゃなかったんだな」

 昨夜の遭遇は、好ましい展開ではなかった。明良さんは爽やかな人だけど、贄の民が鬼
切部に接する事も、鬼の不二夏美に接する事も。特に鬼との交戦を、因縁のある報道関係
者の八木さんに撮られた事は失態だった。見通せたわたしの禍は、要ちゃんの父と不二夏
美…。

 一度ならず二度三度、彼と関ってしまった。
 助ければ助ける程己の害と成り行く人物を。

 関らずに済ませられぬ状況だったとは言え。
 踏み込んで関係が絡む事を防ぎ止められず。

 彼は昨夜の危機をどう感じているのだろう。
 昨夜は彼自身の生命が危うい処だったのに。

 喉元過ぎれば熱さは忘れられるのだろうか。
 少し自身の思索に耽っていたかも知れない。

「奴らに戦って勝ったのに、嬉しそうじゃないな。強さを褒められて嬉しくないのか?」

「女の子の強さは誇れる事ではありません」

 右足の痛みを口実にわたしに右の腕を絡め。
 彼が怪我人で歩みが危ういのも確かなので。
 頬に首筋に胸に擂り付かれても敢て払わず。
 要ちゃんを困らせない様に不快感も抑えて。

「女の子はお淑やかな方がお好みでしょう」
「まあ……要にはそう育って貰いたいかな」

『小娘の癖に、いい肉の感触返しやがって』

 彼は女の子の潔癖症を刺激して、心を乱す事も目論んで。意図した彼のセクハラを冷静
に受けるわたしに、やや意外そうに目を瞬かせ。拒まないならと尚その右腕を絡ませつつ、

「お前が俺を助けるとは。恩を売った気か」
「わたしはあなたのお話を伺いに来ました」

 話を聞かなければならないのはわたしです。
 あなたに逢わねばならないのもわたしです。

 それに要ちゃんのお父さんなら、見捨てて去る事も出来はしない。あなたを助けたのは。

「出会った事と同じく、定めなのでしょう」

 閉鎖した工場の工員住宅だった2階建て木造アパートは、他に住人もおらず。軋む階段
を上って2階隅の部屋に入るけど、中も外と同様古くくすんで薄汚れ。羽様の日本家屋も
幾星霜の風雪を経ていたけど、それとも違う。

「ただいまぁ……」「要ちゃん?」「要…」

 要ちゃんは家に着くと眠い瞳で座り込んだ。日頃お昼寝の頃合に、起きて外を歩いた為
に、疲れていた様だ。帰着して緊張の糸が解けたのか。八木さんは要ちゃんが夕刻迄眠る
ので、安心してわたしを呼びつけ出向いた様だけど。

 屈んだわたしに身を預け、すーすー寝息を立て始める小さな女の子を前に、八木さんは、

「悪いな、奥の間に寝かせて貰って良いか」

 頷いて上がり込むけど。家の中も雑然として足の踏み場に迷う。口の開いたポテチの袋
や飲みかけのペットボトルは、何日前の物だろう。八木さんはそれらに足を引っ掛けつつ
台所に消え。わたしは指示された奥の部屋の、敷きっぱなしの布団に要ちゃんを寝付かせ
て。

 窓から見えるは廃車や廃タイヤや廃材の山。
 空気にも独特の金属や薬品の臭気が混じり。
 床も棚も数週間掃除されてなくて埃っぽい。

 男1人の子育てが大変だとは推察するけど。
 仕事を持って家事をこなす困難は承知で尚。
 幼子を育む環境はもう少し配慮すべきでは。

「こっちに来てくれ。話をしよう」「はい」

 床の踏み処を選びつつ彼に従い居間へ行く。居間は半ばをベッドが占める以上に、弁当
空き箱や新聞雑誌が散乱し。それらを掻き分け座る処を作ってくれた彼と、丸テーブルを
挟んで向き合う。何に使うのか投光器や各種機器も天井に支える程で、圧迫感を増してお
り。

 差し込む夏の陽は角度が低くなっていた。
 帰りが遅くなる事は最初から覚悟の上だ。

 缶ビールを勧められるのに、わたしは未成年ですと断ると、ジュースを渡された。彼は
既にビールを飲んでタバコに火を付け寛いで。

「まあそう固くならず、腹割って話そうぜ」
「はい……わたしは正座が常の姿勢なので」

 お気になさらずに。そう応え終る前に既に、彼は丸テーブルに大きく身を乗り出して来
て。

「送った封書は見て貰えた様だな」「はい」

 八木さんが人を介して、ホテルに届けた封書には、わたしが正樹さんの背に下着姿で添
う姿や、不二夏美と戦う様が数枚入っていて。わたしか正樹さんに指定場所へ来るように
と。

 彼は未だ傷の治ってない体で、帰着してから寝る間も惜しんで現像したのか。彼に注い
だ贄の癒しは、無理を利かせる為にも使われてしまった。彼の写真の腕は確かで、高価な
機材は夜の遠距離や闇の中での素早い動きを、しっかりそれが誰なのか分る様に収めてい
た。

 この段階で彼の優位は確実だった。正樹さんに下着姿で身を添わせたのは不用意だった。
真弓さんがいる前では、ふざけてでもあんな事は出来なかった。わたしの心に隙があった。

 前夜に槙子さんを庇って彼の恨みを買った事は仕方ないけど。覗き見の気配を察してホ
テル・ユグドラシルに馳せる最中に、人外の気配の登り行く様も視えた。彼の生命が危う
い事も視えたから、一層引き返せなくなって。

 最初に不二夏美を全力で打ち倒していれば、彼のカメラを取り上げられたかも。尤もあ
の段階で彼女を打ち倒せたかには疑問符が付く。彼女の奥も尚深い。そして今の彼は好き
放題に何枚でもどこにでも写真を現像して送れる。その状態にあるからわたしを招いてお
話しを。

「お願いします。その公表は思い止まって」

 己の事実が世に明かされればどうなるか。
 羽様の大人はこの事態を最も怖れていた。

 サクヤさんはジャーナリストに近い立場だけに、わたしの危なっかしさを案じてくれて。
贄の血の事情や護身の技を人に秘する様にと。

『……世の中は必ずしも善意な者ばかりじゃない。鬼の様な人もいるんだ。それこそ本物
の鬼が、贄の血を狙って来るかも知れない』

 特に人を癒すなんて物珍しい力を持つ血筋は興味の的だろう。見知らぬ記者に四六時中
カメラやマイクを突きつけられ、付き纏われ、生活に踏み込まれる悪夢は間際に迫ってい
た。

『贄の血筋は知られない事で長く安穏を過せたんだ。少しでも違う者を見つければ、人は
よってたかって来るからね。鬼切部の様に権力で口を封じでもしないと、魔女狩りに遭う。
 羽様のみんなの為にも、あんたの可愛い桂や白花の為にも、血の力を晒すのは拙いよ』

 わたしの禍は、己の真実を写真付きで全国に報じられ、桂ちゃんや白花ちゃんが育ち行
く羽様の静謐を壊される事なのか。興味本位な覗き見や報道記者に入り込まれ、愛しい人
の笑顔が凍り付く事なのか。今彼を止めなければ。彼に公表を思い止まって貰わなければ。

 諸々の駆け引きは最早無意味だ。わたしは求めを一点に絞って、頭を下げて訴えるけど。

「中々そうはいかねぇんだよなー、これが」

 彼はペットボトルや弁当箱を蹴散らして。
 丸テーブルをぐるりと回って左から迫り。

 槙子さんに迫っていた一昨夜を思い返す。
 彼は肌身にピタと身を寄せて左耳に囁き。

「俺は職業がジャーナリストな訳。真実を追い求め世に公表する。崇高な使命がある訳よ。
誰かの圧力やお願いでそれを選別していたら、公正な報道は保たれない訳でしょう。ね
ぇ」

 彼の言葉は正論だった。誰かに都合良い又は悪いからと、情報を選別していては、真相
の報道にはならない。与党の癒着のみ曝いて野党の癒着に目を瞑るとか。被害者の主張の
み載せて加害者の反論を載せないとか。真相を伝えなければ、人は何も信じられなくなる。

 でもわたしは羽様の家族を、白花ちゃんと桂ちゃんを守る責任を持つ。真相の報道を止
めてでも。己の事なら諦めた。興味本位な群衆が詰めかけても、報道記者に四六時中覗き
見されても。でもこれは己1人の事ではない。

「わたしには守りたい人がいます。5歳児の双子、女の子の桂ちゃんと男の子の白花ちゃ
ん。わたしのこの世で一番たいせつな人です。この人生に光をくれた愛しい人。わたしの
失態で、興味本位な人達を呼び込む訳には行かない。幼子を育てる場の静謐を失う訳に
は」

 肌身をぴったり添わせてくる彼に、わたしは不快を表せず、逆に肌身に添って願うけど。

「個人的な事情を言い出されちゃ、困るわな。お前さんに大事な人がいる様に、俺にも大
事な人はいる。お前さんが仲良くなってくれた要だ。この歳で会社をクビになって、一人
娘を抱え俺も明日の糧を稼がねばならんのよ」

 生命懸けでスクープに迫るのも。罵られつつ遺体や加害者・被害者や家族の顔写真を曝
くのも。真相公表の使命感以上に。俺達も生活が掛っている。家族がいるんだ。これ程良
い金づるを『お願い』で留める訳に行かねぇ。あんたは別嬪だから、この写真も高く売れ
る。

「あんたには感謝しているんだぜ。少し生意気だが昨夜は生命を救って貰い、さっきも不
良共から助けてくれた。要とも仲良くなってくれた上に、自ら特ダネも恵んでくれて…」

 一応礼は言っておく。言葉はタダだからな。
 これで要に少しまともな物を喰わせられる。
 綺麗な服を買えて、いい処に引越しだって。
 二拾万、三拾万、五拾万か。尤もあんたが。

「買い取ってくれるのなら、話しは別だが」

 彼の求めは、既に肌身に感じ取れていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「わたしにそれ程の貯金はありません。羽藤の家計も厳しいの。叔父さんの本が刊行され
て漸く今後、収支が好転しそうな状況で…」

 わたしの答は彼も予想済み。八木さんは、

「なら、他の物を売ってくれればいいだろ」

 何も現金だけが、取引材料な訳じゃない。
 望む物を差し出してくれれば、俺だって。

「俺は血も涙もない鬼とは違う。お前さんがどうしてもって願うなのら、そうだなぁ…」

 彼の右手がわたしの左乳房を握りしめる。
 わたしが抵抗しない事を分ってがっちり。

「条件次第では、聞いてやらない事もない」

 後はお前さんの判断だ。俺は強要しない。
 何を差し出すも差し出さないも自由だが。

「大事な双子の親父に素肌で張り付いて操を捧げるより、他人の方が未だましだろ。近親
だぞ相手は。養われて文句を言えぬ立場でも、正妻と同居で妾とか、援助交際とかは非道
すぎる。良いスキャンダルにはなるだろうが」

 瞬間だけど、憤りで平常心が吹き飛んだ。

「勘違いしないで! 正樹さんはわたしが勝手に好いているだけで、彼はそんなふしだら
な人ではありませんっ。……確かに高校進学も援助して貰っているけど。日々お世話にな
っているたいせつな人だけど。彼には若く美しいお嫁さんがいます。可愛い双子もいるの。
わたしの様な小娘を、女として見る事はっ」

 記事を捏造もするこの人だけに。わたしは体の向きをずらして、正視して詰め寄るけど。
逆に彼はわたしの弱味を的確に見抜いて来て、

「女として見て欲しいのかね、ふしだらなあんたとしては。若く美しい嫁さん持ちの叔父
さんに性愛を抱いた小娘としては。ええ?」

 彼の腕は改めてこの両の胸を掴んできて。
 わたしはそれを振り払えない。怯む身に。

「別に良いさ。適当な恋人がいなければ傍の男を性の対象に見る。そう異常な事じゃない。
娘は父親の影を恋人に追い求めるとも聞くし。但し、想いは抱いても実行に移しちゃ拙
い」

「正樹さんとわたしは、そんな関係には…」
「その言い分、写真と一緒に公表するか?」

 むにっと、男の指がこの乳房を強く揉む。
 一昨日夜の仕返しを彼は確かに意識して。

 簡単に弾き飛ばせる筈の手を、わたしは受けて躱す事も避ける事も、逃げる事も叶わず。

「お願いします。写真の公表は、しないで」

 もう彼に己を捧げる他に打開の術はない。

「わたしの体は、同じ年齢の女の子の間でも。決して豊満でもなければ大きくもないけど
…。
 心を込めて尽くしたら、貴男の求めを満たせたら、写真を公開しないで頂けますか?」

「殊勝な心がけだな。考えてやっても良い」

 彼はやや意外そうな感じで、念の為にと。

「お前さんなら力づくでフィルムを奪いに掛るのではないかと思っていた。一昨日夜から、
お前さんの強さを見せられ続けてきたからな。
 先に言って置くが、写真のフィルムはここにはない。写真入りの封書拾数組と一緒にコ
インロッカーに入れ、鍵も知り合いに預けた。1日2回の電話がなければ、封書の宛先の
侭、スポーツ紙等拾数社に郵送される手筈だよ」

 俺が定期的に電話して止めないと、自動的に発送される仕組みだ。手配に怠りはないぜ。

「分っています。わたしも腕っ節で全てを解決できると思う程に、子供ではありません」

「心身共にすくすく健全で、素直で宜しい」

 覚悟があるなら手早く始めようじゃないか。
 そこにベッドがあるだろう。早速そっちで。
 外は夏の日が暮れて薄闇が広がりつつある。

「ああ、そこ。そこに座って、こっち向く」

 投光器がベッドに座ったわたしに向けて光を注ぐ。写真のフラッシュより強く肌を灼き。
そして電源を入れられる複数の機材を前に…、

「あなたに操を捧げる光景も、証に残す積りですか?」「ビデオ撮影はアマチュアだが」

 夜逃げした知人のAV撮影機材だ。奇跡の超聖水の時も、女の会員の羞恥の絵を撮って。
好き放題に情報を語らせ、捏造証言もさせて。クビになって借家を放り出され、ここに要
を連れて住み付いて以降は、使ってなかったが。

「お前が自発的に関係を望んだ証も撮らせて貰う。親族に詰め寄られた時に困るからな」

 抗議に来ればこれをバラ蒔くと威す積りか。
 或いはもっと積極にこれで脅迫する積りか。

 彼に操を捧げても、事は悪化の一途を辿る。
 彼はわたしの、羽藤の生殺与奪を握る気だ。

「あなたの考えは分っています。あなたは写真の公表を止める確約もなく、わたしを…」

「お前、本当に小生意気だな。その歳で賢すぎる。後で『約束が違う』って泣き付かれる
のを張り倒すのも、楽しみの一つだったのに。そうだよ。俺は何も確約しない。唯俺が次
の電話を思い止まらない為だけに、事実隠しを半日延期する為に、お前は俺に穢されるん
だ。

 一昨日の夜俺はお前と、マキには手出ししないと約束した。困らせる事も、しないとな。
だがお前には、手出ししないとか、困らせる事をしないとかは、何も約束してないぜ…」

「今回もあなたは何も確約しないのですね」
「じゃあどうする? 止めて逃げ帰るか?」

 正面に、右に左に、真上。撮影機器を起動させた彼の前で、わたしは問にかぶりを振り、

「いえ。わたしに今その選択はありません」

 今のわたしは、あなたの情けに縋るのみ。
 ここで逃げ帰っても、彼を叩き伏せても。
 写真の流出は止められない。途は一つだ。

「お願いします。あなたに己を、委ねます」
「いい覚悟だ。本当に、生意気な程に潔い」

 その冷静な意思の顔が、俺に組み敷かれてひぃひぃ言い出して崩れるのが心底楽しみだ。

「脱げよ。上半身を、全部だ」「……はい」

 強要ではないと言い繕うには、脱がされるより自ら脱ぐ方が都合良いのか。わたしは八
木さんの指示の侭に、セーラー服の上着を脱いで、下着を脱いで。胸を両の腕で隠すけど、

「見せろ。乳房を、晒すんだ」「……はい」

 流石に視線を向けてくる彼を正視は出来ぬ。
 両腕をスカートの上に下ろして正座した侭。
 わたしは彼の次の指示か動きを待つ立場だ。

 心は常に柔らかく。最後迄絶対に崩れない。
 この男性に己の操を捧げ終えたその後迄も。
 わたしの真の挑戦はむしろ喪失の後にこそ。

「ほう……言う程小さくもないじゃないか」

 高校1年生なら、標準って処だろう。大人の女の柔らかさはないが、体の線も美しいし。

「どれ、直に触らせて貰うぜ」「……はい」

 一昨夜とついさっき、セーラー服の上からこの胸を揉んできた男性の太い指が、今度は
わたしの素肌に直に触れ。両方がっしり確かに掴み。わたしはそれを避けてはいけなくて。

 大野教諭に為された感触を、想い出した。
 正樹さんに為されたのなら、喜べたのに。

「生の感触はやはり違うな。少し愉しんで」

 その後唇を合わせるか。スカートを脱がすのはその先だ。じっくり存分に楽しんでやる。
じりじり絶望に落ちて行く姿を、怯えに固まり行く顔を、失う様を確かに残して愉しんで。

 覚悟を固めて、顔を上げ直した時だった。

「……八木さん、待って」「何だ、お前?」

 唇を繋ごうとする彼の両肩を腕で抑える。

「今更怖じ気づいたか? 無意味な抗いを。
 拾五の小娘なら無理もなかろうが、今更」

 力でねじ伏せようとする彼を、弾きはせず。
 もう少しわたしはそれを、受けて保ち堪え。

「お願い、少し待って。後ろを見て」「?」

 後ろ? わたしの視線が肩の向う側を見ている事に気付き、八木さんは首だけ振り向く。
そこで彼も欲情していた股間を一度縮まらせ。

 要ちゃんがこちらを見つめて立っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 彼もこの事態は考慮に入れてなかった様で。この両乳房を握った侭背後を向いて固まっ
て。奥さんに浮気の現場を抑えられた夫の硬直だった。わたしは固まった八木さんの頬に
囁き。

「一度延期しましょう。要ちゃんを寝付かせる迄。わたしは、逃げませんから」「あ…」

 まず胸を掴んでいる両の手を放して貰い。
 彼が向き直る間に下着を纏い制服を着て。

 子供の目にも乳房が出た侭は不審に映る。
 何もなかったかの様に心迄平静を繕って。

 そんなわたしの耳に届いた近くの会話は。

「か、要あのな……」「パパ、お腹すいた」

 要ちゃんは多少の不審を感じつつ、わたしも八木さんも、泣いても叫んでもいないので。
首を傾げつつ起きてきた理由と欲求を告げて。

「わ、分った。晩飯だな。今、用意する…」

 男女の営みは一旦全て仕切り直しになり。
 わたしの操は幼子に、暫くの間守られた。

 台所に移る彼の間近に、要ちゃんと一緒に追随し。冷蔵庫を覗き見る。時刻は夕飯時だ。
夕飯作りを手伝おうかと声を掛けたのだけど。

「カップ麺がある。今お湯を沸かしている」

 他にはポテチ位しか食べる物がない様で。
 味噌も果物も野菜も豆腐もない。これは、

「毎日朝夕カップ麺食べているんですか?」
「弁当やパンは、長く保存が利かなくてね」

 砂糖牛乳とカップ麺を3人で食するけど。
 味は悪くないけど、でもこれが毎日では。

『カップめんやおべんとー食べてるよ。おみそ汁好きなんだけど、パパ最近は忙しくて』

「明日野菜類を買ってきて、要ちゃんにご飯とお味噌汁を作ります」「……お前さん?」

 八木さんの為ではありません。要ちゃんの為にもう少し豊かな味わいを。それとお部屋
も少し片付けさせて。弁当の空き箱や空きペットボトルを纏めれば足の踏み場も。幼子の
暮らす環境は、清潔と安全に配慮して欲しい。

「それで恩を売ったとか思うなよ。幾ら要と仲良くなって、情けに縋ろうとしても。俺は
写真の件もビデオの件も、絶対譲らないぞ」

「それは、承知の上です。期待はしません」

 この後で彼はわたしを犯す。その翌朝にわたしは要ちゃんに朝ご飯を作る。それだけだ。
その父が誰で何者でも、要ちゃんに罪はない。羽様の双子と同じ歳の、元気に可愛い女の
子。少しでも要ちゃんの役に立てればそれで良い。

 でも食後に要ちゃんが寄り添って来たのは。
 彼やわたしの僅かな硬さに不安を抱いての。

「大丈夫。わたしと要ちゃんのパパは嫌い合っている訳ではないの。仕事の難しいお話し
をしていたから、難しい顔をしていただけで。わたしは要ちゃんを大好きだし、要ちゃん
のパパも決して嫌いではないわ」「ほんと?」

 ええ。わたしは屈み込んで要ちゃんと同じ目線で、その幼い瞳に映る様にしっかり頷き、

「八木要は、羽藤柚明のたいせつな人。そしてわたしのたいせつな要ちゃんが大事に想う
人は、わたしにとってもたいせつな人。要ちゃんの大事なパパなら、わたしにも大事よ」

『例えわたしの幸せを壊す脅迫をして、操を奪い犯し貫く人だとしても、たいせつな…』

 要ちゃんを涙させたくない。わたしが全て受け止めれば。要ちゃんが全て知って涙して
も何も変らない。彼は娘を養う糧を得る所作を止めない。幼子には時に優しい嘘も必要だ。

 八木さんを不二夏美から戦い守った選択は、正解だった。槙子さんや正樹さんに嫉妬し
て、古い友人の語らいを壊しに来た様な人だけど。それでも要ちゃんを大事に想い、深く
慕われた唯一の家族だ。引きずり関ってきた選択は、正解だった。それに伴う損失はわた
しが負う。

「また……パパがいなくなったら、助けてくれる?」「ええ、勿論。必ず力になるわ…」

 日中オヤジ狩りで傷ついた父の姿は、要ちゃんの心に強く残っていた。彼を助けたわた
しの印象も。昨夜の帰りも血塗れだった。彼は特ダネに心躍って、幼子の不安を見落して
いたけど。彼女が昼寝からふと目を醒ましたのも、父を探しに外に出たのも、不安の故だ。
わたしはその不安を鎮める存在に映っていた。

 そのわたしが父と揃って難しい顔でいては、起きても眠っても、要ちゃんは安心できな
い。頬に頬合わせ必ず助けると約束し、想いを肌身に浸透させる。一度たいせつに想った
人は、わたしにはいつ迄もたいせつな人だ。それが羽藤柚明の真の望みで真の願いで、真
の想い。

 八木さんは、要ちゃんを抱き留めたわたしの囁きを耳に挟みつつ、何も語らず。その後
は、要ちゃんが普段見ている夜のテレビ番組を3人で見た後、やや早く彼女を寝付かせて。

 大人の時間には、約定した事を確かに為す。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「初対面の要を、大事に想っているんだな」

 一応礼は言っておく。言葉はタダだから。
 幼子を寝付かせた後は何も遮る者はない。

 ベッドの上で照明を浴びつつ、今度は全裸になったわたしは、裸の彼に組み敷かれつつ。

「今でも、この状態でもその気になれば、俺を跳ね返せるのか?」「……出来ますけど」

 出来てもわたしはそれをしない。羽藤のスキャンダルを、贄の血や鬼の絡みを隠し通す
には、最早他に術がない。漸く成果の出る処迄辿り着けた叔父さんに迷惑は掛けられない。
一番たいせつな白花ちゃんと桂ちゃんの為に、生殺与奪を握った八木さんの求めは拒めな
い。

 後は為される侭に全てを受ける。唯受けるのではなく、積極的に受けに進み出て。彼の
心に訴えかける。羽藤柚明の初めての喪失は、それに続く身と心を注いだお願いの始りで
…。

「ゾクゾクするな。賢く強く勇気に満ちた優しい娘。年上の俺も歯が立たぬ高嶺の花が」

 最初逢った時は小生意気で腹が立ったが。
 何度も助けてくれたよな。時に生命迄も。

 娘とも仲良く心を繋げてくれてその上で。
 俺に何一つ逆らえない侭に体を繋ぐかよ。

「心を込めて尽くしたら、あなたの求めを満たせたら、写真を公開しないで頂けます?」

 判断は八木さんにお任せします。精一杯尽くします。身と心を捧げます。全てを受けて
拒みません。満たせた時は、わたしの願いを。

「それは実質約束になってないぞ」「はい」

 今のわたしに望めるのはその辺り迄だから。
 女としてあなたを満足させる様に努めます。

『桂ちゃん、白花ちゃん……サクヤさん…』

 真弓さん、正樹さん、お父さんお母さん。

『……わたし、どうしても、この人を……』

「心ゆくまで、羽藤柚明を、ご賞味下さい」

「じゃ遠慮なく。少し青いが、うまそーだ」

 降りてきた唇はわたしの左乳房に軽く触れ。
 その先端を軽く咥えつつ、甘噛みして吸い。

 吸い上げて引っ張って、ちゅぽんと放して。
 再度吸い付き、舌で舐め回して反応を求め。

 弾き返そうとする両腕にベッドを掴ませる。
 いやいや言う感情の声を、意思で押し殺す。

 絶対に拒んではいけない。必ず完遂させる。
 わたしを捧げる事で彼を確かに繋ぎ止める。

 羽藤柚明の真の望みは己の幸せにではなく。
 たいせつな人の日々の笑顔を支え守る事に。

「どれ、次は右も頂くとするかな」「はい」

 湿った音と舐め回す舌の感触が身を震わせ。
 素肌に迫り来る欲情と昂奮が心を震わせる。
 乳房を男に吸われるなんて中学2年の冬に。

 あの後はサクヤさんにみんな清めて貰った。
 サクヤさんは穢れたわたしを厭わず嫌わず。
 身を重ね開けた傷口から心を温めてくれて。

 サクヤさんに己を捧げた様で、嬉しかった。
 故にこれはサクヤさんへの裏切りに等しく。
 真弓さんや正樹さんをどれ程哀しませるか。

「泣かないんだな。いいんだぞ、涙しても」

 軽くこの頬を叩いて涙を促そうとする彼に。
 勝利感に浸りたく瞳を覗き込んでくる彼に。
 いいえ。わたしは間近な双眸に否定を返し。

「今は泣く頃合ではありません。八木さんの求めに確かに応え、あなたの男を満足させて、
わたしの願いを届かせる。一番たいせつな人の守りの為にわたしは己を捧げています。戦
いの最中に泣いていられないのと話は同じ」

 泣くのは全て終った後で。やり尽くして最早変らぬ結果が出た後で。出来る事がある限
り、泣いて等いられない。今は貴男の心にこの願いを響かせる為に、己の全てを注ぎます。

「本当に最後迄賢く生意気だな。ここ迄堕ちて己の先行きよりも、双子が大事なのか?」

「わたしが今こうしているのもその為です」

 だから誰に許されなくても、己は為せる。
 最後の最後迄、わたしは己を見失わない。

 八木さんはその瞳を少しだけ見開いて後、

「唯々諾々と従うのもその為であり、その為でしかないか。いいだろう。ならばこそ、俺
もそんなお前をしっかり破って貪るからな」

 手慣れた男性の愛撫は、わたしの熱を呼び覚まし。この身をまさぐる太い腕にも、素肌
を舐め回す男の舌にも、筋肉の奥で虫が蠢く。嫌悪とは別の何かがわたしの中で目を醒ま
す。

「ん……今更だけど、お前、初めてか…?」

 都会では中学生から援助交際をやるバカもいるのに。田舎育ちは初々しくて気持良いな。

「尤も、要が援助交際など始めようものなら、俺も引っぱたいて怒鳴りつけている処だ
が」

 両の胸を揉まれつつ、降りてきた唇が唇に繋って。太い足がこの胴を締め、この太腿に
絡みつき。成人男性の筋肉質な硬さを感じる。感応の力を持つわたし故に、彼が女の子の
素肌の柔らかさに、喜び奮い立っている感触も確かに分る。後はいつ入れてくるかだけの
…。

 漏れる吐息の彩りの違いを彼も悟っている。
 交わす視線の虚ろな光りを彼も分っている。

 汗ばんできた身が勝手に熱情を帯び始めて。
 怯えや怖れが、麻痺して小さくなって行く。

 わたしは拒めない故に、素肌から流れ込む彼の欲情を防ぎ止めず。己の中に浸透を許し。
征服する意思を受け容れ己を明け渡し。今宵、わたしは女の子の初めてを要ちゃんの父に
…。

 脳裏に浮ぶ多くの顔に許しを請いつつ、彼を受け容れに両腕をその背に回した時だった。

 玄関のドアを蹴破る様な音が鳴り響いた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 八木さんはわたしを破ろうと緊張していて。
 この営みを乱入し妨げる者等は想定できず。
 わたしも彼に伝えられる心の余裕がなくて。

「ぐえっ」彼は延髄を刀の柄で叩かれ失神し。

 欲情と喜悦に張り詰めていた男の体が、突如意思の抜けた縫いぐるみになり。八木さん
は今、この太腿の上で崩れて気を失っている。半身を起こしたわたしの前に、現れた人物
は。

「千羽、明良さん?」「羽藤柚明、お前…」

 なぜかその視線の前にいる事が、非常に申し訳なく恥ずかしかった。ベッドの上で一糸
纏わずに、男性に組み敷かれていた場を見られれば、相手が誰でも羞恥の極みだろうけど。
正樹さんやお父さんにこの場を見られた様な。

 女の子の体は八木さんの愛撫に応え始めていた。汗ばんでふやけた姿勢も気配も悟られ
ている。どんな事情も弁明も無意味に思えて。醜態を晒して彼の目を汚した事が申し訳な
く。

「……こんな処で、一体何をやっている?」
「……ごめんなさい」なぜか、謝っていた。

 要ちゃんは起きてこない。眠らせる特段の処置はしてないけど、明良さんもドアを蹴り
上げた時以外に、特段音を立てない。隣の部屋で小さな寝息は尚夢の園だ。八木さんが気
を失った今、この場はわたしと彼の2人だけ。

 語りかけようと俯く面を上げた時だった。

「早くこれを身に纏え」「え? あ、あの」

 下着やセーラー服を、投げて渡してきて。

 明良さんは涼やかな瞳で、太腿の上に倒れ伏した八木さんと、身を起こしても上半身は
裸の侭で、両腕で胸を隠したわたしを見つめ。硬質な表情と冷静な声音を鋭い視線を保っ
て、

「いつ迄男の前で素肌を晒している積りだ」

 は、はい。慌てて八木さんの体を退けて。
 わたしは下着を、セーラー服を身に纏い。

 八木さんは怪我はたんこぶ程だけど、目を醒ます気配はなくて。ぴくりとも身動きせず。
服を着て向き直って漸く、わたしはその間明良さんが、背を向けてくれていたと気付いた。
このみすぼらしい裸を見ないで、いてくれた。

 八木さんの気絶と明良さんの乱入で、状況は激変した。今即八木さんが目を醒ましても、
この侭続きは出来ぬ。でも明良さんは一体?

「こっちへ来るんだ!」「……明良さん?」

 服を着て向き合うのを待って彼は、わたしの右手首を強く掴むと、玄関の外に歩み出し。
その侭外にわたしを引っ張り出して。声の届く範囲に他に人の気配は感じなかった。でも。

「待って明良さん、一体、どこへ行くの?」

 百メートル程引きずられた処で、何度問うても答がないので、わたしは踏み止まって答
を求める。明良さんは無言で引っ張れる処迄引っ張る積りだった。諦めた彼は振り返って。

 ぱぁん。彼の右平手がこの左頬に当たる。
 驚きで立ちつくすわたしに、怜悧な瞳は、

「お前に父か兄がいれば、こうされる筈だ」

『尤も、要が援助交際など始めようものなら、俺も引っぱたいて怒鳴りつけている処だ
が』

 わたしは、それに値する事を為していた。
 正樹さんやお父さんに、頬叩かれる様な。
 顔向けできなくなる様な、汚らしい事を。

 この人にされてしみじみそれが感じ取れ。
 それを叱りつけ叩き付ける深い情愛も又。
 これが男親の、或いは兄の親愛なのかも。

 もろもろの事情も背景も全て突き抜けて。
 想いの強さ深さがこの身も心も痺れさせ。
 なぜか胸が喉が詰まってきて声が出ない。

 心の枷が取れてしまったみたいでわたし。
 喋った事さえ多くない彼の肩に取り縋り。
 その温もりの中で、涙と嗚咽を溢れさせ。

「怖かった……怖くて、心細くて、震えて」

 他に選択肢はなかったけど。あれしかわたしの取り得る途がないのは、今も同じだけど。
でも誰かにこの苦衷を訴え聞いて欲しかった。己の弱さは全てを1人で抱え込むのに一杯
一杯で。警察にも先生にも相談できない。正樹さんも真弓さんもサクヤさんも、頼れなく
て。

 状況は袋小路だった。わたしが己を捧げてもその先に展望が開けるか否か分らない位に。
だからこそ己を八木さんに絡みつかせてでも、確かな成果を掴まねば。たいせつな双子の
育つ場の静謐を守るには、桂ちゃんと白花ちゃんの笑顔を守るには最早、他に術はなかっ
たけど。今もないけど。この弱い心は小さな喪失に、己の先行きの心細さに、震えて怯え
て。

 情けなくも、己の為に涙を零していた。
 関係もない筈の彼に、身も心も預けて。
 本当に子供の様に、立場も外聞も忘れ。

 どうにもできない事は分っている。
 どうにもならない事は知っている。

 為さねばならない事には何の変化もない。
 唯この荒れ狂う心の波を表す事が出来た。
 それがわたしの僥倖で望外の幸せだった。

 肌身に感じた暖かみが、己の意思に推進力を再度与える。これは天がわたしに賜った寄
り道なのだろう。心弱く女々しいわたしが確かに正解へ進めるようにとの、配慮なのだ…。

 彼はそんなわたしの両肩を軽く抱き留めて。
 八木さんと対照的に控えめな抱擁で受容し。

 その故に感じ取れる心の温かさ涼やかさは。
 強さ以上に確かな優しさと好意が感じられ。

 暫くはこの啜り泣きの他に風の音もなくて。
 夏の夜は月明りに彩られ深みを増していた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「有り難うございます、明良さん」「……」

 ほぼ初対面のわたしの嗚咽を受け止めてくれた事に謝意を述べ。わたしの気配から彼は、

「まさか、あの男の元に戻る積りか、お前」

 今度は、柔らかな微笑みを返せたと想う。

「……はい。たいせつな人の守りには、彼の納得が不可欠ですから」「待て、羽藤柚明」

 その察しの鋭さも尋常ではなかったけど。

「もうこの件には首を挟むなと言った筈だ」
「出来れば首を挟みたくなかったのだけど」

 わたしが簡潔に彼との関りを説明すると。
 明良さんは冷やかな容貌に微かな苦味を。

「写真か。あのハイエナがやりそうな事だ」

 明良さんはわたしの事を少し知っていた。
 真弓さんは千羽から絶縁されていたけど。

 気心の知れた人とは尚微かな繋りがあり。
 年に数度、電話でお話ししていたみたい。

 わたしもほんの少し漏れ聞く事はあって。
 贄の血の感応や関知で多少、悟れた事も。

 彼がわたしの動きや気配に真弓さんを感じた様に。わたしも彼に真弓さんを感じており。
その鋭さも涼やかさも凛々しさも。彼は真弓さんが戦う術を直に教えた一人目で、わたし
が二人目で。千羽でも真弓さんは他に直に修練を付けた人はなく。兄弟子と妹弟子の関係
だった。故に彼は昨夜わたしを守る事に躊躇なく、わたしも彼に親近感を抱き縋り付けた。

「あの男は俺が片付ける。お前はもう帰れ」
「でもわたしの事で、明良さんに迷惑は…」

「お前の為ではない。鬼や鬼切部の存在を世に秘匿するのは若杉の方針で、我らが任務」

 八木さんはわたしと戦う不二夏美を撮った。わたしの真実を世に明かすと言う事は、不
二夏美という鬼の存在を世に明かす事でもあり。

「若杉に告げて、処理を任せても良かったが。あの男の動きも気になっていた。奴も青雲
社に怨恨がある。鬼に連なる怖れはあった…」

 後は俺が処理しておく。お前は叔父に心配されている筈だ。早く連絡してホテルに帰れ。

 それは有り難いけど。でも問題は残って。

「若杉や千羽を素人娘と同列に考えて貰っては困る。奴の口を塞ぐ位造作もない話しだ」

 今の日本で拷問なんて受けた者は、殆どいない。罪を犯した政府高官や会社社長を見ろ。
逮捕迄は強気でも暫く拘留されるだけで罪を自供する。まともに拷問せずともだ。まして
鬼切部は警察ではない。使う術に制約はない。

「彼がどこに何を隠していても、公表を思い止まり、差し出さざるを得ない様に仕向ける。
写真はこっちで処分させて貰うが、鬼切部の事情で公表はあり得ない。問題はあるか?」

 桂ちゃんと白花ちゃんの育つ環境の静謐は、これで保たれる。絶体絶命の窮地は回避さ
れ、己が犯した失態は取り繕われる。残る問題は。

「彼は……八木さんは、どうなるのですか」

 彼は羽藤柚明を知ってしまった。証拠を全て奪っても。彼はわたしを狙い続けるだろう。
醜聞を捏造するか。或いは羽様を訪れるかも。わたしだけではなく不二夏美や鬼切部の事
も。わたしの危惧は、証拠を抑えても消失しない。

 明良さんはそれを分って言っている。八木さんは例え一時の苦痛から証拠を手放しても、
それをきっかけにわたしや鬼切部に付き纏う。サクヤさんから得た若杉の暗部を、突然の
人事異動で左遷されても、ホラー雑誌に載せた前科がある。明良さんは証拠を奪って済ま
す積りではない。済ませられるとは想ってない。

「あの男に犯されに部屋に戻る積りなのか」

 逆に彼に、わたしの意思を問い質された。
 短く無言で頷くわたしに、彼は冷やかに、

「あの男に、惚れたのか?」「いいえ……」

 今尚彼の元に戻るのは怖い。抗う術を持たず彼の意の侭に、女の子を破られ身を貫かれ
初めてを喪うのは。それを撮られた上で更に深みに嵌るのは。叶う事なら避けたいけれど。

「あの人は要ちゃんのたった1人の父です」

 あの人はわたしに対しても他の人に対しても決していい人じゃないけど。己の娘は深く
愛し、深く愛されています。失わせられない。要ちゃんは未だ5歳。羽様で帰りを待って
いる白花ちゃんや桂ちゃんと同じ歳で母もなく。

「お前は……選ぶと言う事を知らないのか」

 己にとって大切な物を選び、他を切り捨てると言う事をせねば、人は生きていけないぞ。

 呆れた声が更に強く響くのに、わたしは、

「わたしは選び取りました。羽様の幼子を育む環境を保つ為に、写真の公表は思い止まっ
て貰う。己を捧げれば不可能じゃない。あの人も娘を愛し愛された優しさを持っている」

 わたしは彼にとことん添う事で想いを届け。
 どちらのたいせつな人も、失わせはしない。
 明良さんに助けられた事は嬉しかったけど。

 それはこの幼心を解き放つ為の少しの猶予。
 わたしの為すべき事は変らない。否むしろ。
 明良さんにそれをさせない為に、わたしは。

「愚かしい、正気かお前は」「今一番たいせつなのは、わたしが正気かどうかではないの。
たいせつな人が大事に想った人へ抱く想いを、どう守り支えるか。わたしは桂ちゃんも白
花ちゃんも、要ちゃんもたいせつ。……両方を満たす答がなければ愛しい双子を選ぶけ
ど」

 その解がある限り、己の痛みは呑み込める。
 両方の笑顔を壊さない解に、己を注ぎ込む。
 それがわたしの生きる目的で、在り方だと。

「鬼切部はあの写真を回収し、事実を秘匿する確証があれば目的は達成の筈です。その保
証はわたしが取り付けます。ですから…!」

「己を奴に犯させ穢させた上で情に縋るか」

 彼の問は確認と言うより、事実を突きつけわたしを怯ませようとの力を持っていたけど。
わたしは震える心を抑えて彼への正視を返し、

「本当に取り返しの付かない事は回避したい。その為に出来る事があるなら、わたしは
…」

「今一瞬は良いとしてお前に悔いは残らないのか? そんな事をして守られて、守られた
側は満足か? そんな犠牲迄負って守って欲しいと、守られた者が望むと思うのか…?」

「悔いを越えても為さねばならない事はあります。時には心を裂かれても退けない事も」

 何かを得るには代償が不可欠な時もある。
 幼子の護りに必要ならばわたしは為せる。

「わたしは望まれたから護り庇う訳じゃない。望まれなくても、不要と言われ、厭われ嫌
われ拒まれても、わたしは護りの手を止めない。わたしがたいせつな人を守るのは、わた
しが愛し守りたいから。わたしの我が侭なの…」

 求めに応えて守るのでなく、沸き出ずる己の想いに従い守り庇う。誰に止められようと。
例え白花ちゃん桂ちゃんが拒んで涙流しても。それがたいせつな人の護りや幸せに繋らな
いと思えばわたしは従わない。無条件の行いは守られる者の意図も受け付けない。わたし
が、たいせつな人を愛し想い、守りたかっただけ。

「わたしが彼の保証を取り付けます。わたしの話しが失敗する迄、見守って。お願い…」

 この身を捧げ情を絡めても、彼が止まらない怖れはあった。その時はもうわたしに想い
を届かせる術はない。鬼切部が鬼切部の動きを為すのを、止められはしない。唯その前に、
可能性がある間は、わたしに任せて欲しいと。

「お前があの男に貫かれ犯される様を、俺に見届けろと言う積りか。黙って見ていろと」

 わたしの求めの成否を最後迄見極めるとはそう言う事だ。わたしは正視して頷きを返し。

「彼が写真の公表を自らの意思で控えてくれれば、鬼切部が彼を処断する必然は消えます。
余計に関って手数を増やす事は好まない筈」

 それで要ちゃんは父を失わず、白花ちゃんや桂ちゃんを育む場の静謐も保たれる。八木
さんは求めを満たされ未然に危機を回避でき。鬼切部も鬼の存在を世に明かされなくて済
む。

「愚かな……お前は、一体何を」「お願い」

 彼の両腕を揺さぶって願い求めていた時。
 ぷるるる。彼の胸の内から、微かな音が。

 携帯電話の着信だった。経観塚の様な郡部では電波が弱くて殆ど使えず、持つ人もいな
いけど。都市部では最近注目を集めていて…。

「楓か」『明良様、今警察から情報が入りました。昨日のパーティに欠席した月刊春秋の
副編集長が、惨殺遺体で発見されたそうです。鑑識の詳細は未だ出ていませんが、昨日夕
刻、会場に行く途上でやられた物と見られます』

 明良さんの表情が、微かに険しくなった。

 月刊春秋はかつて、創論と並んで奇跡の超聖水批判を展開していた雑誌だった筈だけど。

『獣の爪で裂かれた様な傷と失血多量。ここ数月のマスコミ人連続殺傷と同じ手口です』

 瞬間、構図が見通せた。鬼や鬼切部の、そしてわたしのたいせつな人に迫る動きが全て。

「明良さん。鬼切部は、若杉は不二夏美に裏を掻かれました。彼女の本当の狙いは、政財
界の大物ではありません。彼女が真に憎み恨んでいたのは、一線の編集者や記者達です」

 彼女は確かに政財界の有力者も憎んでいたけど。彼らが背後にいる事も知っていたけど。
頭での理解より彼女は感情で、目の前で指弾し叩いて、大切な物を貶め傷つけて来たマス
コミの、一線の記者編集者への憎悪が濃くて。

 若杉も政財界の首脳も、次は自分達だと誤認した。記者達の殺傷を自分達へ来る予告と
受け取り。祝賀会場向いのビルを結界で塞ぎ、大物達を鬼切部に護らせ。でも彼女の真の
狙いは背後の黒幕や大物ではなく。現場で自身やたいせつな人を傷つけ晒し者にして糧や
名声を得た、個々の記者編集者への復讐だった。

『明良様……?』「彼女の言う通りらしい」

 鬼切部が祝賀会場を固める外側で、空隙になった記者編集者を殺め。彼ら1人1人に迄
鬼切部も若杉も警護を届かせられぬ。全員は護りきれない。対処の術は鬼を倒す他にない。

 なら、今危ういのは一線の編集者や記者である槙子さんや鈴木さんの様な人。そして…。

「……八木さんが危ない!」

 瞬間、わたしは全速で身を反転させていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ぐあああぁぁっ!」「パパああぁぁっ!」

 古い木造アパートの2階で叫びが響いた。

 僅かに遅れた明良さんとほぼ同着で、その部屋に数拾分ぶりに戻り来たわたしの前では、

「又逢えたね、お嬢さん。それに千羽……」

 振り向いた不二夏美は、右手に要ちゃんの首筋を後ろから掴んだ状態で持ち上げていて。
切られた筈の指も、完全に再生を終えていた。幼子はその指に掴まれ涙を零しつつ、悲鳴
を、

「パパあぁ……」「娘を、娘を助けてくれ」

 八木さんはその裸身を腹を鋭い爪に貫かれ、大量の血を迸らせて蹲りつつ、尚腕を伸ば
し。

「鬼め」「おっと、切るなら幼子諸共だよ」

 狭い室内で、明良さんは前に出ようとするけど。不二夏美は要ちゃんを盾にその攻撃を
封じる構えで。失血多量な八木さんに添いたいけど、鬼に近すぎて屈み込めない。鮮血の
量は、幼子にも彼の生命が危ういと分る程で。

「お願い。要ちゃんを傷つけないで。今なら八木さんも生命は繋げられる。もう止めて」

「おねーちゃ、パパを、パパを助けてっ…」
「娘を、要を殺さないでくれっ。頼むっ…」

「ふんっ。取材対象は好き放題に晒し者にしてペンで叩けても、己の家族は大事かい!」

 お前は一体今迄何人の、取材対象の涙を踏み躙ってきた。お前は一体ここで何人、私の
仲間や同志を虐げ辱めてきた。お前は一体何度人の悲痛の涙で、己や娘を養い続けてきた。

「何が真実の報道だ。捏造証言ばかり載せて、権力を叩くと言いつつ裏でしっかり繋っ
て」

 お前らを信じた者が、何人裏切られ涙してきたと思っている。何人がお前らを憎み恨み
つつ声を届かせられず、無念に沈んできたと。お前らマスコミは大嘘つきだ。悪の元凶だ
っ。

「お願い、もうこれ以上人を哀しませないで。幼子には罪はない……もう罪を重ねない
で」

「甘いお言葉だね、お嬢さん。お前はこの男に犯されていたんだろう。昨日の写真で脅さ
れて。途中迄だけど画像は見せて貰ったよ」

 その男を治す積りかい。明かされては拙い特殊な力を晒して、瀕死の傷を治す積りかい。
放置しておけば死ぬ。お前の悩みは黙って見ていれば消失する。逆に手を出せば出す程に、
お前の状況は悪くなる。その証を刻みつけて、いよいよ脅される中身を充実させるだけだ
よ。

「これはこいつの自業自得だよ。娘に罪はないけれど、因果な生れの所為だと諦めて…」

「要ちゃんの父を失わせる事は、断じてさせません! わたしはその為にここに来たの」

 ほう。微かに鬼の瞳が見開かれて見えた。

「せめて要ちゃんを置いて、ここを去って。
 そうしてくれれば、わたしは彼を癒せる。
 わたしにたいせつな人がいる様に、要ちゃんにも誰にもたいせつな護りたい人はいる」

 たいせつな人を護りたい想いを、分って。

「たの、む……かなめ、には手を、出さ…」

 わたしの声と八木さんの声に不二夏美は、

「たいせつな人、守りたい人。私にもいたよ。愛しい人、庇い支えたい人が。そしてその
想いをみんな抱くと思うから、癒しの力を世に役立てたくて、奇跡の超聖水を始めたの
に」

 微かに優しさを帯びた声は、一度沈み込み。
 次の瞬間、くわっと見開かれた鬼の形相は、

「その想いを砕いたのはマスコミだ。その行いを壊したのはこいつらだ。折角集い慕って
くれた、同志の仲間の絆を断って、不審と疑念を割り込ませ、捏造報道繰り返し、偽りの
正義で善意を抹殺し。大切な仲間を同志を裏切らせ、晒し者にして、傷つけ引き裂いて」

 マスコミが私の大切な物を根刮ぎ奪い去った。こいつらが、私の愛した守りたい者を!

『……彼女は、人の世に、絶望したのよ…』
『善意を叩き折られた夏美は、鬼に成った』

 その深い愛故に、その強い想い故に。反転すれば、その憎悪も恨みも憤怒も激越になる。
受けた悲痛と絶望の濃さが痛々しい。彼女にとってこの世は理不尽だった。彼女を指弾し
た者達の非道は恨みに値した。彼女を討った鬼切部の行いは、やむを得ない物だったけど。
むしろ人の世が鬼を作っているのではないか。

「その気持が分るからこそ。その痛み悲しみを肌に感じるからこそ。憤怒を叩き返せる今
は身が震える程に嬉しい。この身を焦がす憎悪を返せる今が、涙が零れる程に嬉しい!」

 大切な物を喪わされる想いを、お前も感じて涙するが良い。どうやっても届かず護り得
ぬ己の無力に、砂を噛んで拳を岩に叩き付けるが良い。己の与えた想いを返されるが良い。

 人の気持を分る故に、その悲痛を知る故に。
 敢てそれを為す、それを選びそれを及ぼす。

「要ちゃん!」「ひぶっ」「つああぁっ!」

 明良さんが斬りかかったのは、鬼が要ちゃんを貫いたから。彼女は幼子を己を守る盾に
使う事も止めて。八木さんに恨みを返す為に、背中から腹を貫き、鮮血迸る幼い体を放っ
て。

「ざまぁみろ。娘共々地獄に堕ちるが良い」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 言い捨てて窓から逃げ去る鬼を、明良さんは無言で刃を振るって窓から飛び出して追い。
わたしは鮮血の滴る海に残された。届く声は、

「た……のむ。俺は、良い。娘を、要を…」

 妻の忘れ形見なんだ。唯1人の家族なんだ。
 俺をパパと好いてくれた、可愛い娘なんだ。
 その声は生命の最期の一滴迄絞り出す様に、

「たすけて、くれ……」「はい……必ず!」

 2人とも必ず助ける。わたしは例え己を害する者の娘でも、その当人でも。たいせつな
人の危難を見捨てはしない。絶対失わせはしない。幼子が物心もつかない内に、縋り付け
る親を全て失う悲痛は、わたしだけで充分だ。

 要ちゃんも八木さんも腹部を貫かれていた。失血は生命を危うくする量に達して、内蔵
も損壊していた。今から救急車を呼んでも間に合わない。現代医療では、2人とも救えな
い。

 わたしは後先を考える事を止めて、今迄も今後も想い返す事を止めて、今だけの想いの
侭に、この父娘を抱き留める。わたしに流れる力と生命を注ぎ込む。死なせられなかった。
この侭生命が消え行くのを捨て置けなかった。わたしは決して不二夏美には、なりはしな
い。

『心折られないよ。わたし、不二夏美にはならない。サクヤさんが、いてくれるからっ』

 小学6年生の自身の声がこの背中を押す。

『たいせつな人がいるから。守りたい人がいるから。人の心を捨てて復讐に生きるなんて、
出来ない。わたしは今たいせつな人の為に』

 例えこの後で愛に仇を返されるとしても。

「必ず、助けます。わたしになら、叶う筈」

 わたしは周囲の電気を全て消し、服も下着も脱ぎ捨てて、裸身だった八木さんと、幼子
の体を挟み込む様に抱き、この手を彼の背に伸ばし。癒しの力を全精力をかけて注ぎ込み。

 生命に至る程の深手の癒しは未経験だけど。
 今のわたしの力なら朝迄に治す事も叶う筈。

 今宵は月夜で、贄の血の癒しも強化されている。何とかする。溢れた鮮血を口に含んで
取り込む事で、癒しをより2人に馴染み易くして。素肌を重ね手足を絡ませ、唇を2人の
傷口にも、幼子の口にも父の口にも合わせて。

 要ちゃんを挟んでも、八木さんの素肌に添う事は、少し前の続きの印象が拭えないけど。
生暖かな肉感も汗ばんだ素肌も荒い息使いも。厭わず腕を確かに繋ぎ、贄の癒しを還流さ
せ。

 2人が虎口を脱したのは夜明け前だった。

「ごめんなさい。今暫くは素肌で」「あぁ」

 明良さんは1人で戻ってきた。わたしを気にしてくれていたと分る。でもどうやら鬼は。

「左肩から袈裟切りに刃を心臓に届かせた。
 一応川に落ちた屍を探させてはいるが…」

「恐らく死んでないでしょう。叔母さんに切られて尚わたし達の前に現れた程の鬼です」

 癒しの力と激越な憎悪を持つ故に。強さはわたしで退けられる程だけど、切っても殴っ
ても痛手を復して、止めに出来ない。わたしの贄の血を加えた為に、その資質は一層強化
され。取り込まれた血を通じてわたしは彼女の意思や生存を漠と感じ取れる。不二夏美は
復讐を欲し続ける。心も体も尽き果てる最期の時迄。その悲痛や憎悪は説諭や利害得失で
止められない。止められるのは最早力だけだ。

「わたしの甘さが鬼の脅威を世に残した…」

 八木さんや要ちゃんの深手もそう。今後生じる不二夏美の被害もそう。わたしの所為で。

「気にするな。お前のお陰で鬼の正体が掴めた。攻略法も探せる様になった。生きていて
も奴は瀕死の深手だ。暫くは夜も動けまい」

 鬼を討つのは鬼切部の使命だ。お前の負うべき定めは別にある。全てを護りきれはせぬ。

「……そうですね、お願いします。そして、有り難う……優しいのね」「相手にもよる」

 彼が電気を付けずそっぽを向いているのは、わたしが素肌で2人を抱き留めている絵図
を、見てしまわない様にとの配慮で。そんな彼に、

「頼み……? ふ、うむ、分った。ああ…」

 彼が戻ってきたのは、日の出から少し経った頃か。傷口を塞ぎ充分な癒しを流したので、
明良さんの目の毒にならぬ様に、服を纏って。

「お帰りなさい。有り難う。都会は弐拾四時間営業しているお店もあるから、便利ね…」

 千羽党の鬼切り役にお使いを頼んでしまいました。羽様の大人に話したら笑われるかな。

「己を穢そうとした男に飯を作る神経が分らないので、様子を見てみたくなっただけだ」

 味噌と米と魚と野菜と納豆と卵と海苔と。
 余り手の込んだ物は作れないけど朝食を。

「贄の血の癒しは、人の自然治癒力を強く後押しします。でも、それは多くの体力を費や
すの。食べて眠って体力を補充しなければ」

 傷ついた事だけでも相当な疲弊だ。癒しの力の後押しはあっても、治癒にも体力を使う。
失血を取り返すにも、食事と休息は不可欠で。

「はい、柚明です。叔父さん、ごめんなさい。
 今いる処は、電車で弐時間位の郊外です…。
 大丈夫です。千羽の明良さんと言う男性と一緒に。叔母さんに聞いたら分ると思います。
爽やかで素敵な年上の方です。はい。正午前には帰り着けると思いますけど。はい……」

 明良さんの携帯電話を借りて、ホテルの正樹さんに一報する。相当心配させてしまった。

「事情は戻ってから、折り入ってお話しを」

 正樹さんは明良さんと暫くお話ししていた。
 不二夏美の件は後でわたしも話す積りです。
 八木さんに写真を撮られた件も含め全てを。

「何だ、お前。確か、鬼を切るって言う…」

 八木さんが服を纏わぬ侭起きて来て、わたしの傍に立っている明良さんを見咎めるのに、

「明良さん。……わたしの生命の恩人です」

 もうすぐ朝ご飯が出来るので、要ちゃんを起こして着替えさせて貰えますか。それと…。

「朝なので、八木さんも、服を着て下さい」

 彼の体にも室内にも、飛び散った鮮血は残っている。彼は失血を補えてないので、ぼう
っとする頭で事を思い返しつつ、居間に消え。

「明良さんも、一緒に朝ご飯をどうぞ……」

「俺は良い。別に腹は減ってない」「わたしのお礼の気持です。どうか、受けて下さい」

 彼には食後のお話しの立ち会い人を頼んであった。八木さんも話しがあると察している。

「だが俺は……」「明良さんは納豆に葱がダメならば、買ってきてある梅干しをどうぞ」

 4人分の食卓の準備は終りつつある。断り切れず着座した彼と、顔を洗った要ちゃんと
その父とわたしの4人で朝食を。要ちゃんは初対面の明良さんを、意外と素直に受容した。

 要ちゃんは昨夜の惨劇をどう捉えて良いか迷っていて。無理もない。父と自身の腹を貫
かれたのに、目覚めてみれば治っているのだ。唯怯えや苦痛は、幼心に深く刻まれていて
…。

 父に抱きつき、わたしに縋り。肌身に人の無事を確かめねば、自身の無事も信じ難いと。
食後わたしは、要ちゃんと同じ目線の高さに屈み込んで。間近に瞳を覗き込んで語りかけ、

「さあ、少し休みましょうね」「うん……」

 鮮血の飛び散った居間は、出来るだけ幼子に見せたくない。幼い体は生命の危険を乗り
越えて、その疲労が堪っている。大人の話しをする間、奥の間で眠っていて貰う方が良い。

「ねている間に、いなくならないで。おねーちゃん帰る時、バイバイしたい」「ええ…」

 見上げてくる瞳が不安に揺れているのは。
 わたしとの別れが近いと悟っているから。
 でも要ちゃんはわたしも帰る処があると。

 一時の別れは避けられないと呑み込んで。
 知らない内にいなくなってはいないでと。
 小さいのに強く優しく賢い子。愛しい子。

「八木要は、羽藤柚明のたいせつな人。そしてそのお父さんも、わたしのたいせつな人」

 小さな体を抱き寄せて左頬に頬を合わせ。
 わたしはこの身に宿る想いを確かに伝え。

 幼子を寝付かせて後、明良さんを振り返り。
 鬼切部としての立会を願い、話しを始める。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 絨毯を剥がし窓を開け、生臭い匂いも少し和らいだ、朝日も未だ眩しい居間でわたしは、

「八木さんに、お願いがあります」「ん…」

 彼に正対して、正座の姿勢から額づいて。

 明良さんは話し合いと約束の立会人として、左側面で胡座の上に腕組みをして結論を待
つ。

「わたしを、あなたの妻か妾にして下さい」
「なっ、な?」「羽藤、お前、一体何を…」

 八木さんも明良さんも言葉を失い惑う中、

「わたしのこの生涯全てをあなたに捧げます。その代り、羽藤の血や鬼については内密
に」

 わたしの一番たいせつな人は、経観塚に住む5歳児の双子、桂ちゃんと白花ちゃんです。
わたしより濃い特殊な血を宿し、わたしと同種の定めを宿した愛しい子、いとこ。わたし
は2人に生きる希望を貰い、生きる目的を授かりました。2人の為に生き、2人の為にこ
の人生を使い切る。それがわたしの望みです。

「あの写真を、わたしの技能を、公表せずに胸の内に留めて欲しい。白花ちゃんや桂ちゃ
んが育つ場の静謐を保つ為に。どうしても」

 あなたはその証を手に入れ、わたしの技能の幾つかを知りました。新聞や雑誌に売れば、
幾許かのお金が入るかも。わたしにそれを買い戻すお金はない。職にも就いてない学生の
身分では。後はこの人生をあなたに捧げます。女の子の初めてだけじゃなく、生涯の全て
を。

「妻でなければ妾で結構です。小娘が好みでないなら。後添えを迎えるなら。新しい奥様
にも仕えます。邪魔になった時は捨てて良い。使い物になる間存分に使い回して。唯、真
実の公表を思い止まって。わたしと、引替に」

 要ちゃんのお世話もします。炊事も洗濯も掃除も家計簿も全部やります。高校も辞めて
収入を得る為に働きます。夜のお相手もお望みの侭に努めます。あなたの人生を支えます。

 その代り、わたしの一番は生きても死んでも白花ちゃん桂ちゃん、2人のいとこだとご
了解下さい。その幸せと護りに不可欠だから、わたしはあなたに身を委ね、捧げます。あ
なたを愛する様に努めるけど、要ちゃんはたいせつに想うけど、一番は譲れない事を許し
て。

「お前な。今は遊郭や奴隷の世じゃないぞ」

 わたしの願いは時代錯誤に聞えたろうか。

「わたしは、八木さんに儲けを諦めてと求めている。報道記者の魂を封じてと求めている。
真実を隠して下さいと。金銭以上に魂を引替にしなければ、とても代償にはなり得ない」

 了承の答を頂ければわたしが保護者を説得します。わたしはもうすぐ拾六歳。その了解
があれば結婚は可能です。籍を入れて頂けるならのお話しですけど。本当は、女の子の初
めてを破られてから願う積りだったのだけど。

「お前、そんな事を企んでいやがったのか」
『危うく引き返しが効かなくなる処だった』

 八木さんが冷や汗を流すのは意味が薄い。

「昨夜の時点で話しても、はったりだと思って信じて頂けなかったでしょう?」「ん…」

 結局処女を喪わされて後に話す事になった。明良さんや不二夏美が現れて、状況が激変
し。わたしが明良さんの前で、先に八木さんの答を貰わねばならなくなった。だからこう
して。

「わたしに引き返す積り等ありません。たいせつな人の幸せと護りの為なら、帰り道も帰
る処がなくてもわたしは進む。あなたが充分と思える代償を積み上げる迄、わたしは己の
持てる全てを捧げます。この生涯の全てを」

 彼が想定した範囲を超えて、不要と思う迄積み続ける。彼の内懐に入り込み、彼を引き
返せなくする。己の全てを注げばそれも叶う。彼が損益の分岐点だと思う処を越えれば良
い。

「あなたを脅かす者がいれば、わたしが防ぎ護ります。あなたが傷つけられたなら、わた
しが癒し治します。あなたを慕い愛します」

「何の為にそいつはいるんだ? お前のお仲間じゃないのかよ。不利な話しになった時に、
強い腕っ節で助けてくれるんじゃないのか」

 八木さんの問に明良さんは無表情を保ち。

「彼の求めは鬼の写真の秘匿です。わたしと違う立場だけど、求めは同じ。あなたがわた
しの願いを容れて、公表を思い止まってくれるなら、彼はそれを見届けて去るだけです」

 今は彼を考えず、わたしの申し出に応えて。

 八木さんは明良さんを『それで良いのか』と無言で見つめ。明良さんも無言を保つ中で。

「どうして言わないんだ。その男は若杉の手先だろう。一声掛ければ俺を締め上げてでも、
写真も奪い口も塞げる。お前が犠牲を負って俺を口止めする必要なんか、ないだろうに」

 状況の激変は彼も分っていた。最早彼の相手は娘1人ではなく、明良さんの背後の若杉
だと。なら若杉から話しがある。わたしの代償に意味はないと。若杉が金銭取引を望むか
力づくで奪い取るのかを、彼は見極めようと。

「今のわたしに人を殺める覚悟は持てない」

 若杉との話しになれば、金額の問題であなたは絶対合意できず、力づくを招くでしょう。
あなたの口を塞ぐ為に、若杉は非情な手段も用います。要ちゃんの父は、失わせられない。

「見て見ぬふりする選択もわたしにはない」

 わたしは纏まった即座のお金は出せないけど。働きつつ家計を支えれば、数年でかなり
の金額に相応する筈です。癒しの力も護身の技もこの体も、あなたの意の侭に使い回して。

「女の子の初めてを捧げるのは、手付け金の様な物です。これは代償の全てでもなければ
終りでもない。始りです。わたしの願いを聞いて羽藤柚明の生涯を受け取って頂ければ」

 若杉の提示より確実に良い条件をあなたは得られます。それで思い止まって。真実の公
表を諦めて。今の儲けを放棄して。それ以上を求めれば、あなたは全てを失ってしまう…。

「俺の為だというのか。お前は、惚れてもいない俺の為に一生を差し出すというのか?」

 その犠牲を、俺の為に受けるというのか。
 わたしは彼の正視を受けて迷いなく答を。

「八木博嗣は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 わたしのたいせつな要ちゃんの大事な父。
 この生命を尽くしても、助けたい人です。

「わたしは、愛しい人を護る為に人を殺める覚悟は持てない。白花ちゃんと桂ちゃんの為
でも、人の生命が奪われる事に耐えられない。自ら手を下すのでも、誰かがそうする様を
見て防げないのでも話しは同じ。あなたが、要ちゃんの父が失われる事は同じ。それに人
の生命を犠牲にして護られた事実が、わたしだけではなく守った双子の行く末にのし掛
る」

 愛しい2人を血塗れの因果に関らせたくない。その為に必須なあなたの納得を得るには。

「わたしを受け取って。豊かな体つきでない事は分っているけど、心を込めて尽くします。
わたしは納得出来ています。後はあなたに」

「……本当に、良いのかよ」

 促されて面を上げると、彼が間近に迫っていた。左手の指で顎を持ち上げられ正視され、

「惚れた訳でもない男に。己の為でもない事情で、妻でなければ妾でも良いと。傍に力づ
くで解決してくれる、頼れる男がいるのに」

 俺に犯された上、終生俺の軛の元で生きるなんて。援助交際なんかと話しが違う。お前
は俺の娘の為に、この俺の為に、俺の言いなりになるんだ。こんな卑しい男の為すが侭に。

 八木さんは突如わたしの左胸を強く掴んで。

「今ここで俺に操を捧げる覚悟もあるのか?
 今この男の前で犯される納得もあるのか」

 明良さんが腰を浮かせるけど。わたしは左手を八木さんの手を抑える為ではなく、今に
も動きそうな明良さんを抑える為に軽く上げ。八木さんはそれを傍目に、この胸を揉みつ
つ、

「お前の申し出を俺が受ける様を見届けるのがこの男の役割か。成約の様も見守る気か」

 本当に俺に犯され貫かれ穢され、一生を棒に振って従い続けて良いのかよ。他人の為に、
俺や俺の娘の為に、俺に全て差し出すのかよ。

『明良さんの目の前で、彼に犯される……』

 微かに身が震えたけど。僅かに怯んだけど。

「羽藤柚明が一度たいせつに想った人は、いつ迄もたいせつな人。あなたも間違いなく」

 失う事を許せない、わたしの大事な人です。

「明良さんの前で為されるのは女の子として情けなく恥ずかしいけど。この申し出を信じ
られなく思うのも無理はない。望まれるなら受け容れます。己を終生捧げます。どうか」

 わたしは左胸を揉む彼の右手を、引き離すのではなく、己の両腕も体も絡めて添わせて。
受容の想いを肌に伝え、瞳を閉じて答を待つ。

 暫くの沈黙の末に、この胸から手を外し。
 応える声は、意図して低く感情を抑えて、

「バカ野郎が。そんな話しを受けられるか」

 一歩下がって座した彼はちゃぶ台を叩き、

「ふざけやがって。少し頭が良くて顔が綺麗だからと、いい気になって。冗談じゃねぇ」

 俺は決して善人じゃねえが、時に鬼畜だが。
 人の涙や悲嘆を餌に糧にして生きてきたが。

 娘の生命の恩人を犯す程に外道じゃねぇぞ。

『俺の事なら、俺の生命の恩人位なら、何度裏切っても苦味噛みしめ鉄面皮でいられた』

「俺は家族を、娘を養い育てる為に糧を稼いでいる。時に汚い仕事や危険な仕事に手を染
めてきたのも、要の為だ。俺の為じゃない」

 だがその要を助けられて、生命救われて。
 救われた側が救った側を、踏み躙れるか!

「鬼畜にだって、恩義を感じる心はあるぞ」

 彼の拒絶は、真相の公表の強行ではなく。
 何かを記したメモを、わたしに投げ渡し。

「コインロッカーの鍵を預けた知人の住所だ。『黒ヤギ』の使いで来たと言えば、鍵を渡
してくれる。煮るなり焼くなり、好きにしろ」

 八木さん? 見つめ返すと彼は瞳を背け、

「忌々しいが、もう俺にお前は、穢せない」

 要が心開いた友達で生命の恩人は貫けない。
 娘の拾年後を襲う様な感じが拭えないんだ。

「要と同じ歳のいとこか……本当に大切に想う様が、要への応対から見えて分る。女じゃ
なくて母だ。俺と同じ立場に見えてしまう」

 この胸を掴んできたのも、わたしの本気度合を確かめる為で。明良さんがいてもいなく
ても、彼はわたしを犯し貫く積りは既になく。

「俺は元々、豊満な体型の大人の女が好みなんだ。5年か拾年経ったら相手してやる…」

 悔し紛れの言葉はわたしの耳には入らずに。
 わたしは性愛ではなく親愛の想いを込めて。

「有り難う。わたし、八木さんを大好きっ」

 彼に正面から抱きついて、背中にこの両腕を回し、ざらついた彼の頬に頬合わせていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 要ちゃんに別れを告げ、2人でアパートを出たのは午前拾時過ぎか。明良さんはわたし
の応対に、最早付ける薬がないという表情で。

「……あの男は唯一の正解を出した。もしあれ以外の答を出したなら、あの場でお前を穢
そうとしたなら、俺は構わず奴を処断した」

 話しの成否など関係ない。あの侭お前を奴に穢させていては、俺が真弓さんに殺される。
それ以上に俺が、とても見ていられなかった。奴が鬼でなくても、維斗を振り下ろしてい
た。

「その時は、わたしは己を盾にして彼を護っていました。不二夏美から彼を護った様に」

 あの場の話しの決裂は、桂ちゃんと白花ちゃんを、要ちゃんと八木さんを脅かす。この
身に替えても護っていた。明良さんがわたしを大事に想ってくれる事は嬉しいけど、有り
難いけど。この末は望外の僥倖で、計算して導ける物ではない。わたしが彼の妻か妾にな
る外に、禍を避ける確かな途は視えなかった。それはわたしの関知が尚も未熟な所為だけ
ど。

 わたしは自身に出来る事に全身全霊を注ぐ。
 痛むのが己なら己が納得すればそれで良い。

「救えないな、本当に」「かも知れません」

 一度微笑み返してから彼の正面に回り込み、

「わたしの事を案じてくれて、有り難うございました」「誤解するな。俺は八木の状況を
確かめに来たに過ぎぬ。それと、お前が不二夏美の後を追わないかどうかも、見定めに」

 わたしが心を折られて鬼になっていたなら、切る積りでもあったと突き放す様に語るの
に、

「見定めは終りましたか? 未だご覧になります?」「否、もう充分だ。お前は鬼にはな
れぬ。甘すぎて、周囲の者には毒に近いが」

 再び肩を並べて歩き出す。彼はわたしをホテル迄送り届けると正樹さんに約束しており。

「でも、今回はわたし、明良さんにもそうだけど、幼子の護りに何度も助けられました」

 要ちゃんの生命を助けた事や心繋げた事が、八木さんを最後に思い止まらせた様に。不
二夏美の猛攻を受けて窮地に陥った一昨夜、崩れず乱れず明良さんが来る迄持ち堪えたの
も。羽藤柚明の力量ではない。桂ちゃんと白花ちゃんを心に抱き、絶対死ねないと己を叱
咤できたから。そうでなければ、今頃わたしは…。

「わたしは幼子の護りになる事を望んできたけど……実際は幼子の護りに救われました」

「何を甘い事を。そんな事を言っている内は、幾ら先代に鍛えられて相応の力量があって
も、一人前の鬼切りには……んん……」「はい」

 明良さんは言いかけて、わたしが鬼切部でも千羽党でもないと思い返した様で。わたし
は珍しく言い淀んだ彼をフォローして頷いて、

「羽藤柚明は、鬼にも鬼切りにもなりません。
 叔母さんに鍛えられているのは護身の技で、鬼切りの業ではありませんし。わたしの願
いは白花ちゃんと桂ちゃん、愛しい5歳児の幸せと笑顔を護り支える事です。今迄も今も
これからも、それがわたしの幸せで正解です」

「俺も6歳の妹がいるから多少気持は分る筈だが、お前の優しさ甘さは尋常ではないぞ」

 脳裏に浮ぶは明良さんに似たまっすぐな瞳の整った顔立ちの女の子。黒髪艶やかに長く。

「可愛い盛りですよね。いえ、もっと小さい時もこれからも、子供はいつでも可愛い盛り
なのだけど。男の子も女の子も本当に……」

「ユッキ、いたっ」「スミレ姐さん、あれ」

 聞き覚えある声が挟まったのは、その時で。
 人の気配と足音が、人気のない小路を埋め。
 前方から迫り来るのは、五拾名程の人影だ。

 昨日オヤジ狩りを妨害され、女の子1人に撃退されて憤怒を抱いた彼らは仕返しを考え。
昨日の教訓を生かしてかチェーンや木刀や鉄パイプ等、武装もほぼ全員に行き渡っていて。
男の子も女の子もみんな戦意を満々に漲らせ。

「今度は頭数揃えてきたよ」「ぶっ潰すぅ」

 多少疲れていても彼ら程度なら撃退できる。
 前に出ようとしたわたしを明良さんが抑え、

「俺に任せろ。殺さない程度に打ちのめす」

「彼らの目的はわたしです。わたしが招いた荒事に、あなたを巻き込む訳に行かないわ」

「女は黙って男に護られる物だ。お転婆娘」

 彼はわたしを押しのけ、彼らに向き合う。
 一瞬迷ったけど、わたしはそれを受容し。

「では、わたしにあなたの背中を護らせて」

 羽藤、柚明? 戸惑う表情を見せる彼に、

「千羽明良は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 強く賢く爽やかで、心許せる凛々しい人。
 わたしは彼が半歩前に立つ事は許容して、

「あなたがこの程度の相手に不覚を取る筈がない事は分っています。でも、わたしの所為
でわたしの為に、たいせつな人が荒事に立ち向う時に、黙って見送る選択はわたしにはな
いの。せめてその背中をわたしに護らせて」

 ふぅ。それはわたしに聞かす為の溜息で。

「大人しそうな姿形して、無茶を言う。先代はとんでもないお転婆娘を、育てたものだ」

「羽藤の血筋は頑固の血筋です。真弓さんも正樹さんの頑固さに折れたと聞きました…」

 彼は諦めた様に、でもなぜか清涼な声で。

「俺の背を預けられる女はこの世に1人……。先代を含めても2人だけだが……良いだろ
う。お前は3人目だ柚明。付いて来い」「はい」


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