第16話 不二夏美との邂逅



前回迄の経緯


 正樹さんの新刊発行祝賀に、真弓さんの代りに随伴して首都圏を訪れた、夏休み少し前。

 報道関係者の八木さんは、正樹さんに肌身添わせ癒しを注ぐわたしを盗撮し。その彼に、
報道関係者を憎む鬼・不二夏美が襲い掛る様が視え。彼を守って鬼と戦う様も写真に撮ら
れて。危うい所を千羽の明良さんに助けられ。

 八木さんは写真でわたしを呼び招き。愛しい双子の為にも正樹さんの為にも、それは秘
して貰わねば。買い戻すお金もないわたしは、操を捧ぐ覚悟を定め、訪れた彼の宅で。乱
入した不二夏美は彼と娘の腹を貫き。わたしは2人の生命を繋ぎ、遂に心も繋ぐ事が叶い
…。


 参照 柚明前章・番外編第12話「幼子の護り」


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 千羽の明良さんに伴われ、正樹さんが待つホテルに帰り着いたのは、正午少し前だった。
明良さん手配の車には乗れたけど。コインロッカーに寄って、写真の回収もしていたので。

 明良さんの携帯電話から、早朝正樹さんに連絡は入れたけど。許しもなく外泊した事実
に変りはなく。殆ど初見の男性の前で肌身を晒し、交わり掛けた事実にも変りはなく。明
良さんはわたしを気遣ってか、正樹さんに配慮してなのか、全てを明かしてはいないけど。

 ホテルに帰り着いて全てを話したその後を、思い浮べるとやや気が重い。己が頂く叱責
にではなく、わたしが原因でたいせつな正樹さんの心を乱し、心配させてしまった事の方
に。

「色々有り難うございました。明良さんも」

 運転手さんにお礼を述べて、車から降りるわたしに、なぜか彼も追随し。車を去らせて。

「お前を無傷で家族の元へ連れ帰ると、お前の叔父に約束した。最後の拾メートル、数秒
で何があるか分らぬ。確かに送り届けねば」

 真面目というか最後迄油断しないというか。
 そう言う訳で2人で最後数歩の道程を行き。

 燦々と陽の降り注ぐグランドホテル扶桑の1階ロビーで。正樹さんは待ちかねた様子で。

「只今、戻りました」「柚明ちゃんっ…!」

 無事と謝罪を、伝えようと思ったのだけど。
 思いが詰まって、言葉が巧く出て来なくて。

 それは駆け寄ってきた正樹さんも同じくて。
 両肩を逃がさないと言う感じで強く掴まれ。

 この日も本当は、正樹さんは財界人や学者、政治家の元を伺う予定だったけど。彼はわ
たしを気に掛ける余り、槙子さんに『体調を崩した』と偽り。所用の全てを、休養と首都
圏観光を兼ねた予備日とした明日に振り替えて。

 昨日出立時正樹さん宛に残した置き手紙と、早朝の電話で正樹さんは、余人に伝えては
拙そうな事情を察し。敢て誰も招かず独りわたしの帰着を待っていた。鈴木さんや槙子さ
んが傍にいれば、気も紛れたかも知れないけど。朝10時頃お見舞に訪れた2人は帰った
後で。

「簡単な置き手紙一つ残していなくなって」

 年頃の娘が外泊を示唆した手紙だけ残して。
 心配しないでと求めても無理な話しだった。

 強い情愛に思わず抱き返したくなったけど。
 肌身で己の無事を安心を伝えたかったけど。

 人前を意識してより今は甘えすぎてはダメ。
 親愛交わすのも弁明や経緯を語るのも後だ。

「ご心配をおかけして、申し訳ありません」

 深々頭を下げて、謝罪の言葉を告げてから。
 面を上げて、正樹さんを見つめ反応を待つ。

 頬を打たれるなら、この瞬間であるべきだ。
 未成年の娘が、首都圏で無断外泊に及んだ。

 信頼されて伴う事を許されたのに背信した。
 謝るだけで済まされる事態だとは思えない。

 だから正樹さんも、一度は逃がさないとの感じで強く掴んだこの両肩からその手を外し。
その手の行き場を、次の行いを、迷う感じで。

 昨夜はこの頬を、今間近にいる明良さんに叩かれた。正樹さんに下着姿で添って癒しを
注ぐ姿や、不二夏美との交戦を八木さんに撮られてしまい。非公開の代償に操を捧ぐ事を
求められ。明良さんは求めに応じたわたしの行いを、妨げた後で簡潔に叱責の意味を込め。

『お前に父か兄がいれば、こうされる筈だ』

 病やその故の大学中退等で、長らく芽が出なかった正樹さんの漸くの新刊発行に、スキ
ャンダルを挟ませる訳に行かず。わたしの不注意で失陥だから、この手で取り返さねばな
らなくて。でも高校生の財力では買い戻せず。

 羽藤の家が資金難という以上に、彼の様な人は一度食いつかれたら骨絡みになる。なら
ばわたしが骨絡みになるのが責任の取り方だ。己を捧ぐ事で彼の報道を止める事が叶うな
ら。

 わたしは愛しい双子を護る為でも、人を殺める覚悟は持てない。八木さんを口封じして、
贄の民や鬼の秘密は守れない。自ら手を下すのでも、鬼切部がそうする様を見過ごすので
も話しは同じ。羽様の双子と同じ歳の要ちゃんが父を喪う結果は同じ。そして愛しい双子
を想うなら血塗れの因果は忌避すべき。でも。

『尤も、要が援助交際など始めようものなら、俺も引っぱたいて怒鳴りつけている処だ
が』

 わたしが為そうとした事はそれに値した。
 正樹さんやお父さんに頬を叩かれる様な。
 顔向けできなくなる様な、汚らしい事を。

『怖かった……怖くて、心細くて、震えて』

 あの時実はわたしも完全に得心できてなく。
 明良さんの温もりや情愛に胸が喉が詰まり。
 彼の肩に取り縋って、涙と嗚咽を溢れさせ。

 二重に情けない処を見られ助けられ、己の弱さ未熟さを知り尽くされて。今更己が叱ら
れる様を見られる事にも、諦めはついている。叱責に値する事をわたしは為した。その原
因からして、わたしの不注意と失陥なのだから。わたしは罰を受けるべき、報いを受ける
べき。

 観念して、その瞬間を待っていたわたしに。
 正樹さんの手は、平手としては振るわれず。

「大丈夫そうで良かった、柚明ちゃん…!」

 その両腕に再びこの肩を強く抱き包まれた。
 正樹さんの愛しい頬が、この頬に唇に触れ。
 繋いだ肌身から流れ込む慈愛に心が痺れた。

「昨夜遅くに帰ってきて、柚明ちゃんの不在を知ってから、生きた心地がしなかった…」

 君は幼子達の大事なお姉さんである以上に。
 姉さんと母さんから預った大事な娘なんだ。

「早朝に電話を貰えた時も、顔を見る迄は安心できず、どれだけの間、気を揉んだ事か」

 正樹さんは年頃の女の子を気遣って、肉感が分る程締める事を避け。肩から上を引き寄
せて頬を合わせるに留め。叱責も、責めると言うより今迄どれ程心配したか、諭す感じで。

 それは兄や父の『叩き付ける愛』ではなく。
 母や姉の女の子の『抱き留める愛』に近い。

 昨夜の明良さんと対照的で配慮の方が強く。
 大人で昼間で叔父と姪なら、これが正解か。

 正樹さんの想いを受け、わたしの謝罪と感謝と親愛を返し。彼が溜め込んだ想いの丈を
吐き出し終えた頃を見て。明良さんの存在に気付いた頃を見て。3人の場で詳しい経緯を。


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 明良さんは年下のわたしには、寡黙でやや無愛想だけど。年長者には一応礼儀正しくて。
正樹さんは、一晩わたしに伴った明良さんに、少し不快そうだったけど、努めて冷静を保
ち。

 経緯を説明するわたしと明良さんが並んで座り、聞く側である正樹さんに正対し。傍目
には、若いカップルが父と面談している様な。場所は近くの喫茶店だけど、わたしが
『力』でお客さんや店員さんの意識を逸らしたので。会話の中身を漏れ聞かれる心配はあ
りません。

 こうなった以上八木さんとの絡みを話さぬ訳に行かず。槙子さんには後で謝る事にして。
パーティ前夜、わたしも陪席した正樹さんの旧友の宴で。槙子さんに絡んで来た八木さん
をわたしが退け、因縁を繋いだ処から明かし。

「そんな事が、あったなんて。僕は全く…」

「槙子さんは叔父さんの、旧友との懐かしい時を壊したくなく。八木さんに強引に迫られ
た事も知られたくなく。この事は伏せようと。わたしがもっと早く、力づくで退けていれ
ば。ごめんなさい。彼を叩き出す頃合を見誤り」

 二次会会場だったホテル最上階のバーには、その時既に明良さんもいた。彼は翌日の政
財界の大物も来る出版記念祝賀を前に、前夜下見に来る者に不審者が居ないか見定めよう
と。あの夜に、一連の定めは紡がれていたのかも。

 憤りを抱いた八木さんは、わたし達の泊る部屋をホテル従業員から聞き出して覗き見を。
パーティに来て、その侭ホテルに泊る有名人の醜聞を、向いのビルから狙う準備を流用し。
顧客情報を漏らす等、あってはならない事だけど。ホテルの従業員は低賃金に喘いでいて。
僅かな銭でホテルマンの矜持も売り渡す程に。

『人件費をコストとしか考えず、削れる限り削る。唯安ければ良い、お客を呼べれば良い。
仕入れ業者や従業員を、幾ら泣かせ虐げても、社長や株主の腹は痛まないから、構わない
と言う経営手法は、必ずどこかに歪みを生む』

 正樹さんが雑誌のコラムで指摘した懸念が、当たってわたし達に降り掛って来た。わた
しもホテルに帰り着いて、漸く関知できたけど。内装は豪勢だけど人材は薄く貧しく劣化
して。

 わたしは当初正樹さんと同室になっていた。真弓さんが柚明という珍しい名を、男の子
と間違われぬ様に(ゆずあき、とか?)、女性の一点を強調した結果、夫と妻と間違われ
て。

 年頃の女の子と同室は拙いと、正樹さんは別に部屋を取ってくれたけど。人混みに疲れ
た正樹さんを、彼の部屋で下着姿で肌身添わせ癒す姿を、向いの廃ホテルから撮影されて。
2人きりの親しい時間に、心が弛緩していた。盗み撮りの所作を感じ取れた時には既に遅
く。

 正樹さんを己の失陥に巻き込みたくなくて。心配を及ぼしたくなくて。正樹さんに緊迫
を気付かれぬ様に、癒しを終えて部屋を出て…。

「直後、廃ホテルの7階にお前が馳せたのは、撮られた写真の非公開を頼む以上に。勘付
いたのだな。廃ホテルに鬼切部が張った結界を、あの男が破って入り込んだ所為で。奴を
追って侵入できた不二夏美の殺意を」「はい…」

 わたしは八木さんをどうすると言うよりも。
 彼の生命が危ういと視えたから全力で馳せ。

「僕は通りの向いで、柚明ちゃんが死の危険に晒されている時に、眠りこけていたのか」

 写真を撮られていた事に、気付けなかったのは兎も角。大事な姪が生命の危難に踏み込
もうとした事にも、僕は気付かず惰眠を貪り。

 正樹さんの声からは急速に張りが失われて。
 明良さんに抱いた微かな不快さえ影もなく。

「叔父さん、申し訳ありません。わたし…」
「いや……君が、無事で良かった。僕には」

『何も出来なかった。知る事さえ出来ないで。柚明ちゃんを喪う処だった。手を伸ばせば
届く程間近で、何も知らぬ侭に愛しい姪を!』

 僕は柚明ちゃんの役に立ててないどころか。
 守られて安全な処に置かれて全く気付けず。

 そもそもこの首都圏行きに随伴させた事が。
 僕が彼女を危難に巻き込んだのではないか。

「お願い、自身を責めないで。叔父さんは悪くない。責められるべきはわたし」「……」

「彼女の力量は遭遇した鬼にほぼ等しかった。先代が何を考えて、一般人の娘にこれ程の
修行をさせたのかは今も疑問だが。その成果が彼女を俺の到着迄保たせ、生き延びさせ
た」

 明良さんは正樹さんの不快を承知で。敢て口を開く事で関心を惹き。身内ではない者の
存在を示して、彼が自責に落ち込む事を妨げ。わたしが不二夏美の反撃で、危うかった事
は敢て語らず。彼が鬼を退けた事実のみを伝え。

「有り難う。僕の大事な姪を助けてくれて」

「もっと彼女を監視して、縛り付けておく事を勧めます。多少修行した程度の女子高生が、
他人を庇って鬼に立ち向かう等、自殺行為だ。柚明は人の欲望が渦巻く都会には、本質的
に不相応な人物だ。あなたもそうだが。早く田舎に戻って、静かに大人しく暮らすべき
だ」

 明良さんは、敢てややきつい語調で正樹さんの、落ち込みより反撥を促して話しを進め。

「俺は柚明に、二度と俺にも鬼にも八木にも関るなと、確かに言い聞かせた積りだが…」

「助言に逆らう結果になってごめんなさい。
 でも、その後も関らずにはいられなくて」

 この時は不二夏美も逃げ去って。八木さんもいつの間にか走り去り。翌朝ホテルに遣い
の男性が、写真と手紙の入った封筒を届けに来て。応じなければスポーツ新聞や雑誌社に、
わたしが叔父さんに肌身添わせた姿や、鬼と交戦する姿を送るって。わたしは手紙の指示
に従って首都圏郊外の、彼のお宅を訪ねたの。

 オヤジ狩りに遭っていた八木さんを、わたしが助け出した経緯は省く。わたしは女の子
の強さを誇る積りはないし、余計に正樹さんを心配させる。白花ちゃん桂ちゃんと同じ歳
の幼子・八木要ちゃんとの出逢は明かすけど。

「僕が出版社や書店への、挨拶回りに行っていた間に、そんな展開になっていたとは…」

 写真の秘匿を願い出て、買い戻すお金のないわたしが、操を捧ぐ様に求められた経緯は。
簡潔にでも触れぬ訳に行かなくて。明良さんに助けられた事実も込みで。正樹さんがホテ
ルに帰着したのは、丁度その頃だったみたい。

 瞬間、温厚な彼の双眸に憤怒が視えたのは。体を求めた八木さんへの激越な反撥と、強
い自責と、わたしの無謀への憤り。わたしを大事に想ってくれる故に。わたしの危難を憎
み嫌い。嬉しさ以上に今は本当にごめんなさい。

 明良さんはわたしへの平手打ちも明かして。
 他家の娘に手を上げた事について謝りつつ。

 操を売る行いはその様に叱って阻むべきと。
 でも正樹さんの右手は握られた侭動かずに。

「明良さんに連れ出された直後、背後に……八木さんの部屋に、不吉を感じたの。明良さ
んと戻った時には、八木さんは不二夏美に腹を貫かれていて。彼女は要ちゃんの腹も貫い
て逃げ走って。明良さんが鬼を追って共々去った後、わたしは2人を見捨てられなくて」

 2人共大量出血の上に内蔵を貫かれていて。
 即座に病院に運んでも助かる見込はなくて。

 死なせられなかった。わたしは例え己を害する者の娘でも、その当人でも。たいせつな
人の危難を見捨てられない。絶対失わせはしない。幼子が物心もつかない内に、縋り付け
る親を全て失う悲痛は、わたしだけで充分だ。わたしは決して不二夏美には、なりはしな
い。

『心折られないよ。わたし、不二夏美にはならない。サクヤさんが、いてくれるからっ』

 小学6年生の己自身の声がこの背を押す。

『たいせつな人がいるから。守りたい人がいるから。人の心を捨てて復讐に生きるなんて、
出来ない。わたしは今たいせつな人の為に』

 例えこの後で愛に仇を返されたとしても。

「2人の生命を繋ぎ止めた後、様子を見に来てくれた明良さんと朝を迎え。叔父さんに電
話した早朝に、子細を伝えられなかったのは。わたしが八木さんの妻か妾にして貰う申し
出をして、その答を持ち帰る積りだったから」

「柚明ちゃ!」正樹さんが大声を慌てて塞ぐ。

 でもその衝撃は、表情にも仕草にも窺えて。

「ごめんなさい。でもわたし、これ以外に八木さんの納得も得て、写真を非公開にする途
が視えなくて。せっかくの叔父さんの新刊を、わたしの所為でダメにしたくない。鬼との
交戦を晒す事は、鬼の存在以上に贄の血筋の存在を明かす事になりかねない。白花ちゃん
桂ちゃんの、生れ育つ場を危うくしかねない」

 八木さんも家族を養う為に懸命で。それ以上に彼は若杉や鬼切部に因縁があって。写真
を手放す積りもなくて。放置すれば八木さんが若杉の標的にされる。でも彼はそれを話し
ても思い留まる人物ではないし。写真の非公開を願うには、鬼の存在の非公開を願うには。
操を捧ぐ以上にこの生涯を捧ぐ必要があって。

「最後に八木は柚明の申し出を断った。写真の公開を強行する拒絶ではなく。柚明を妻に
も妾にもせず、写真を非公開の侭返す拒絶で。己の生命を何度も救われ、娘の生命迄救わ
れ、救われた側が救った側を穢し放題な展開には、流石の八木も寝覚めが悪く感じたのだ
ろう」

 正樹さんの肩から力が抜ける様が見えた。

「あの場で八木は唯一の正解を出した。もしあれ以外の答なら、俺は構わず奴を処断した。
柚明の話しの成否等、関係ない。あの侭柚明を奴に穢させては、俺が先代に縊り殺される。
それ以上に俺が、とても見てられなかった」

「その時は、わたしは己を盾にして彼を護っていました。不二夏美から彼を護った様に」

 あの場の決裂は、桂ちゃんと白花ちゃんを、要ちゃんと八木さんを脅かす。この身に替
えても護っていた。明良さんがわたしを大事に想ってくれる事は嬉しいけど。この末は計
算して導ける物ではない。己が彼の妻か妾になる他に、禍を避ける確かな途は視えなかっ
た。

 わたしは自身に出来る事に全身全霊を注ぐ。
 痛むのが己なら己が納得すればそれで良い。

「柚明ちゃん、君は余りに勝手すぎる…!」

「自分勝手をしてしまいました。その事もお詫び致します。ごめんなさい。わたしは幾ら
修練を重ねても未熟な侭で。今回わたしが無事だったのは、明良さんのお陰が最も大きく。
幼子の護りにも、何度も助けられました…」

 要ちゃんの生命を助けた事や心繋げた事が、八木さんを最後に思い止まらせた様に。不
二夏美の猛攻で窮地に陥った一昨日の夜、明良さんの助け迄持ち堪えたのも。己の力量で
はない。桂ちゃん白花ちゃんを心に抱き、絶対死ねないと己を叱咤したから。でなければ
…。

「わたしは幼子の護りになる事を望んできたけど……実際は幼子の護りに救われました」

 瞼の裏に、この頬を打ち据える正樹さんの右手が何度も視えるのは。わたしが罰を受け
るべきと思っている以上に。正樹さんが罰を下すべきと思っている、又は迷っている為か。

 わたしは罰を下される様な所作を為した。
 全てを守り通せた今逃げ回る積りはない。

 子供が大人の事情に首を挟めたのは事実。
 この身に心にしっかり叱責を刻み込もう。

 でも傍で正樹さんはわたしの瞳を見つめ。
 頬を叩く事はせずこの両手を両手で握り。

「君は叩かなければ分らない愚か者じゃない。言って聞かせれば分る子だ。否、言わずと
も、聞かずとも分ってしまう賢い子だから。時に先回りして、大人が対処すべき処に首を
挟めてしまうけど。自分勝手する事もあるけど」

 男性にしてはやや細めな腕の強い締めが。
 叩いては拙いと抑えた想いの強さを示す。

「叩いて矯正すべきじゃない。唯でも酷い思いや苦悩を経てきたばかりの君を、更に痛め
つける事で、良い効果が望めるとは思えない。真弓が為している修練とは違う。素人の僕
が手を下しても、それは唯の感情の発散だ…」

 それが正樹さんの明良さんへの答でもあり。
 背信や自分勝手を為したわたしへの答でも。

 明良さんが頬を打って、想いを伝えた様に。
 正樹さんは両手で触れて言葉で想いを伝え。

 明良さんが千羽明良である様に、正樹さんはどこ迄も羽藤正樹で。わたしを話せば分る
相手だと見なし、手を下す事を嫌い通して…。

「言葉が通じない幼子なら。どうしても許せない事を、痛みと共に刷り込む事もあるだろ
うけど。君は僕の想いを分る子だ。叩く必要はない。でもお願いだ柚明ちゃん。もうそん
な迷いを僕に抱かせる無茶はしないでくれ」

 明良さんは脇で肩を竦めつつ無言だった。


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「鬼を屠る鬼切部と、鬼の好餌たる贄の民」

 明良さんは別れ際、一昨日の夜わたしに掛けたあの言葉をわたしに向けてもう一度発し。

「我らが巡り逢う時とは、お前が鬼に関って脅かされている時だ。だから我らは逢わない
事が最大の幸運。逢えた時は袋小路の深奥よ。お前はこの様な人の欲望や憎悪が渦巻く所
に不相応だ。あなたもです、羽藤さん。柚明を心配させぬ為にも、柚明を心配せずに済ま
す為にも、あなたも都会に長居すべきではない。

 互いの為に再会は望むまい。だがしかし。
 先代に宜しく伝えてくれ、守り通せたと」

 最後に昨夜この頬を叩いてくれた右の掌を、この頬に今度は軽く触れ。無事を確かめる
所作の後で、済まなかったと謝って。わたしは、

「いえ……あの時は、ううん今も。叩いて貰えた事に感謝しています。あの時は、わたし
も誰かの強い平手か拳を、欲していました」

 あの時も今も顕れ方は違えど想いは同じ。

 清涼で揺らがぬ強い情愛に満たされつつ。
 触れる彼の右腕に、頬を両手を絡めつつ。

 間近で正樹さんは瞳を見開いていたけど。

「有り難うございました。たいせつなひと」

 もう少し一緒したかったけど、未だ話したい事もたくさんあったけど。彼はわたしと正
樹さんに気を遣ったのか。任務がある、と言い残して去って。わたし達は2人きりになり。

「叔父さん! 大丈夫ですか?」「うん…」

 緊張が抜けて正樹さんは、胃の痛みを思い出し。大病を患って大学中退して以降、正樹
さんは精神的にも肉体的にも、無理の利かない体質になっていた。昨夜からわたしを心配
する極度の緊張状態で、一睡もせず今に至り。ふっと気が抜けた処で、朝槙子さんに告げ
た『体調を崩した』を、現実の物にしてしまい。

 年頃の女の子に、寄り掛る事を遠慮する正樹さんに。わたしが望んで肌身を寄り添わせ。

「病院に行く程重くはないみたい。わたしの癒しで対応できます。少し、堪えて下さい」

「済まないね……まだ3時過ぎだから、一緒に首都圏見物に行ければと、思ったのだけど。
予備日の明日に仕事を振り替えたから、自由が利きそうな時間は、今日位しかないのに」

 苦しげな表情で、それでも空いた時間をわたしの為に使えない事を、正樹さんは謝って。
そんな事を気に病む必要はないのに。正樹さんの体調を崩した原因はわたしなのに。そも
そもわたしは、ここに遊びに来た訳ではない。

「わたしが叔父さんに伴ったのは、首都圏見物の為ではありません。叔父さんに無理をさ
せず、疲労した際には癒して回復させる為で。そのわたしが原因になって、昨夜から心配
を掛け通しだったから、負荷が掛ってしまった。

 ごめんなさい。叔母さんから叔父さんの事任をされたのに、わたしは期待に応えきれず。
謝っても取り返せはしないけど、心配を掛け無理をさせ、不調を招いてしまった後だけど。
今からなら、わたしも叔父さんの役に立てる。その疲労や不調は今度こそわたしが拭いた
い。どこにも行かなくて良い。唯傍に添わせて」

 わたしは手を繋いで彼に癒しを注ぎつつ。
 連れだってホテル7階の彼の部屋に入り。

 肌身を添わせて癒しを注ぐ。覗く者も居ないと分った上で、今度は薄くてもカーテンを
閉じて、誰にも見られぬ様に。その背中に30分程身を添わせ、頬を重ねて。彼はわたし
の癒しの浸透で、赤ん坊の体温の様な、風呂上がりの様な暖かみを感じている。その身と
心の弛緩は、癒しの成功の証で回復の結果だ。

「ふぅ……母さんにも時折、体調の悪い時は贄の癒しを注いで貰ったけど。柚明ちゃんの
『力』は本当に暖かく安定していて心地良い。それに、微かに若い頃の姉さんも感じる
…」

「お母さんに……似ていますか? わたし」

 サクヤさんや亡くなった笑子おばあさんにも、そう言って貰えたけど。羽様のお屋敷で
正樹さんと、肌身添わせた事は最近ないので。その印象はわたしには新鮮で。前にお風呂
を一緒したのは、小学校低学年か。真弓さんが嫁いできて以降、添い寝する事もなかった
し。桂ちゃん白花ちゃんが生れてからは、尚更に。

「うん。姉さんは戦う術を学ばなかったから、今の柚明ちゃんとは少し違うけど。贄の血
も柚明ちゃんより薄くて『力』は弱かったけど。心の優しさや静かな柔らかさ、困難に直
面しても折れない強さは同じ。受け継がれている。母さんや真弓やサクヤさんの影響を受
けながらも、姉さんの娘なんだって思えて嬉しくて。

 人の想いや生き方在り方は、子や孫に受け継がれていく。そう思えると。真弓の涼やか
な強さが、白花や桂にも受け継がるんだって。柚明ちゃんの賢さ優しさ愛らしさも同様
に」

 正樹さんに褒めて貰えると本当に嬉しい。

「であるなら、一層自分勝手や無茶は出来ませんね。この悪い資質を、大事な白花ちゃん
桂ちゃんに、受け継がせる訳には行かない」

「分っているんだね。全て分って、僕や羽藤の家族の為に、痛み苦しみを一身に引き受け
ようとしたんだね……申し訳ないのは、それに気付く事も出来ず、しっかり妨げて守れな
い僕の方だ。大人が未成年に無理を強いて」

 自嘲気味な笑みは彼自身の無力に向けての。
 真弓さんと違って正樹さんに戦う術はない。

 若い頃に大病を患った彼は、以降激しく体を動かす事の出来ない体質になって。修行も
鍛錬も肉体労働も出来なくなって。不二夏美とわたしが戦う場に居ても、彼が為せる事は
ない。八木さんの狡猾な脅迫に向き合っても、事態の打開は至難だったと、彼も感じてい
て。自身が役に立てないとの苦味は、わたしが年来噛み締めてきた物だから、他人事に思
えず。

「叔父さんは何も悪くありません。この禍は、わたしが首を突っ込んだ故の自業自得で
す」

 正樹さんは一緒に座していたベッドの上で。
 背を向けた姿勢から向き直って首を左右に。

「年頃の娘の親代りとしては失格だよ。君を守るどころか、その悩みに気付く事も出来ず。
本当に母さんにも姉さんにも、義兄さんにも合わせる顔がない。君の強さ甘さ優しさは分
っていた積りだけど、分った積りに陥って甘えていた。羽藤の家の命運迄支えさせていた。

 申し訳ない。これからは真弓と、もっと君をしっかり支え守る。君は白花や桂の唯一無
二のお姉さんで、僕の姪である以上に、義兄さん姉さんや母さんから預った愛しい娘だ」

 羽様のお屋敷でもなく庭でも森でもなく。
 都会のホテルの一室で2人これ程近しく。

 瞳も唇も、身を伸ばせば届きそうな処に。
 この両肩を支える様に逃がさぬ様に掴み。

 正視されて確かな声で、心に響く強い愛。
 誤解したくなる程に、好ましく望ましい。

「その代り約束してくれ。僕も君を子供扱いしない、頭ごなしに否定したりはしないから。
無理や無茶を為す必要を感じた時は、実行に移す前に、必ず僕達大人に相談して欲しい」

 最後の最後迄正樹さんは温厚な紳士だった。


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 結局その日は外で夕食を頂いて、少し街中を散歩した位で。翌日に備えて正樹さんの背
中に添って癒しを注いだ後は、早めに就寝し。

 翌朝訪れた槙子さん鈴木さんと共に出歩く正樹さんに、わたしも随行する。正樹さんは
明良さんの助言も心に留めていた様で。わたしも常に彼を傍で守れるなら、その方が良い。

「お守り? あたしの為に」「僕の分迄?」

「はい。最近はマスコミ人連続殺傷事件もあって不穏ですし。少しでも助けになりたく」

 2人に『力』を注いだガラス玉を、お守りとして渡したのは、鬼への備え。贄の血の匂
いを隠す程の効果はないけど。少しでも鬼の目を紛らす為に。昨日八木さん宅を出る前に、
彼にも要ちゃんの分を含めて2個渡しており。昨夜正樹さんに、羽様に着く迄肌身につけ
てと頼んで渡したので。5個全て『完売』です。

 青珠に『力』を溜める修練は、小学生から続けてきた。ガラス玉に『力』を注いで呪物
に変え、その代用品にする修練も中学生から。青珠は一つで使い切れば替えがない。羽藤
の代々の想いが宿る宝物は大事に扱いたいし…。

 青珠程長く保たないけど、青珠程強い効果はないけど。今のわたしなら一週間程肌身に
つけるだけで、自然とガラス玉は『力』を宿す呪物に変る。正樹さんの首都圏行きに伴う
可能性を感じた頃から、多めに用意していた。自分が『力』を使い果たした時の補充用に
も。

『やはり未だ、不二夏美は生きている…?』

 明良さんと3人の場で、わたしは正樹さんの問に頷いた。八木さんと要ちゃんに致命傷
を与えて逃げた彼女を、明良さんは追走して。

【左肩から袈裟切りに刃を心臓に届かせた。
 一応川に落ちた屍を探させてはいるが…】

【恐らく死んでないでしょう。叔母さんに切られて尚わたし達の前に現れた程の鬼です】

 癒しの力と激越な憎悪を持つ故に。強さはわたしが退けられる程だけど、切っても殴っ
ても痛手を復して、止めに出来ない。わたしの贄の血を加えた為に、その資質は一層強化
され。取り込まれた血を通じてわたしは彼女の意思や生存を漠と感じ取れる。不二夏美は
復讐を欲し続ける。心も体も尽き果てる最期の時迄。その悲痛や憎悪は説諭や利害得失で
止められない。止められるのは最早力だけだ。

 青珠の代用品の有効期限は一月程で。人の気配は贄の血の匂いと違い、完全に隠せない。
それに出逢ってしまえば鬼を退ける術はない。わたしに為せるのは時間稼ぎだ。明良さん
には要ちゃんや槙子さん達を重点的に守ってとお願いしたけど。『努めよう』との答は貰
えたけど。鬼を切る以外にこの禍は止め得ない。

「ふーん。唯のガラス玉の様だけど……色合が綺麗ね。心が落ち着く……貰って置くわ」

 槙子さんは気休めにという感じだったけど。
 鈴木さんはしげしげ眺めつつ微笑みを浮べ。

「有り難う柚明ちゃん。いつかお礼するよ」

 2人とも、最近のマスコミ人連続殺傷に不安を抱いていて。受け取って貰えて良かった。
鬼や鬼切部の事柄も、贄の血や『力』の事柄も話せないけど。それでも為せる事があれば、
役に立ちたく。一緒に動く間は叶う限り肌身に触れて、『力』を通わせ鬼の目を紛らして。

 新刊を推挙頂いた方々の元へ、お礼とご挨拶に赴く。正樹さんの旧友・荻田総司さんが、
秘書を務める平河衆院議員の東京事務所にも。でも、おまけの積りで訪れたのに、わたし
は印象深かった様で。なぜかどこを訪ねても声を掛けられ。好印象らしいので助かりまし
た。

 挨拶回りを全て終え、槙子さん達の勤める出版社『青雲社』に戻り。今後の正樹さんの
執筆の打合せを行って、外で夕食を摂った後。翌早朝、経観塚行きの列車に乗らねばなら
ない以上に、前日『体調を崩した』正樹さんを、深酒に招く事を槙子さん達は遠慮し。タ
クシーで、ホテルの正面玄関迄送り届けてくれて。

 車を降りるわたし達を鬼は待ち構えていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 走り去るタクシーを見送りつつ。わたしは正樹さんの右手を固く握り。敢て緊張を示す
のは、彼に最高度の警戒をしてと伝える為の。

「お帰りなさい、お嬢さん。待っていたわ」

 わたしは手を繋いだ彼を半歩後方に下げて。
 癒しの力を持つ鬼の女性に進んで向き合い。

「回復したのですね。心臓迄切られたのに」

 既に夜の帳は落ちたけど。未だ遅い時刻ではないから、道路沿いの店の灯りも未だ眩く。
ホテル正面の通りは、時折通り掛る人もいる。でも鬼の本性を隠している為か、不二夏美
は人だった頃の色白で細身な体に整った容貌で、眼光だけが炯々と。服装も盗んだのか奪
ったのかラフな普段着で、傍目には不審も招かず。

「お嬢さんから頂いた美味しい血のお陰よ」

 昨日鬼切り役の明良さんと3人で入った喫茶店に、今宵鬼の彼女と3人で入る事になり。
昨日は明良さんと並んで正樹さんに向き合ったけど、今宵は正樹さんと並んで夏美さんに。

 彼女はわたしの抵抗を考えたのか、傍に鬼切部の監視や妨害を警戒したのか、大通りで
即座に行動には出ず。でも、いつでも鬼の剛力で、周囲の無辜の人を殺傷すると脅しつつ。
話しがあるから付き従うようにわたしに求め。

『彼女が多くの生命を殺め、一度は真弓に切られたという癒しの力を持つ鬼・不二夏美』

 正樹さんも凶悪な鬼に遭遇した経験はなく。その不吉さや狂気の禍々しさに、魂を打ち
抜かれた様に魅入られて。驚愕に暫く己を失い。わたしが鬼を初めて見た時にそうだった
如く。

 逃げ切れない。正樹さんに贄の『力』を注いでも鬼の様には動けない。彼を鬼の攻撃か
ら守りつつ、安全な処迄待避するのが至難な以上に。戦いになれば、鬼は周囲の人を見境
なく殺傷する。無辜の人を巻き込んでしまう。わたしの技量では彼女を完全に止められな
い。

 今はこの求めに応じる他に術がない。鬼切部の監視は付いている筈だけど。戦う力のな
い者が監視員なら、状況を見て鬼切りを呼び、ここへ辿り着く迄に時が掛る。それ迄の間
叶う限り人命の損傷を抑える。わたしを求めて訪れた禍なら、守り通すのはわたしの責任
だ。正樹さんが添う事になったのは想定外だけど。

『これ以上柚明ちゃん独りに、全てを負わせる訳には行かない。見た感じ相手も大人なら、
未成年の君には大人である僕が添うべきだ』

 反対したけど。わたしが招いてしまった危難に、愛しい人を巻き込みたくなかったけど。
素人の正樹さんを伴うのは、彼が危ういけど。3人の対峙になったのは、彼の意志の堅さ
以上に。鬼がわたしに添う彼を目に留めた為で。

『へぇ……その男がお嬢さんの養父かい…』

 鬼の要求は、わたし独りで付き合え、から、正樹さんと2人で付き合え、に変り。わた
しを案じる正樹さんの申し出も、簡単に断れず。危険に踏み込む時は相談すると、約束も
した。彼が退かないなら傍に添って、この身に代えても守り通す。わたしの血を呑んで心
も取り込んだ彼女なら、わたしの発想も想定済みか。

「あなたも、鬼の気配を隠す事が出来るのですか? 今のその印象は、前に二度遭った時
の鬼の形相とは、随分違う気がしますけど」

 相手が激昂せぬ限り、向うの話したい事に沿うのみならず、こちらの訊きたい事や伝え
たい事を振って、話しを引き延ばす。早く話しを切り上げて逃げる事は難しい。話す事が
なくなった時は、捕食の時となる怖れが高い。時を稼げば稼ぐ程、鬼切部の来援が見込め
る。

 コーヒーをお願い。夏美さんはお店の人に普通の声音で注文をする。わたし達も不審を
招かない様に紅茶を頼み。でも話しの内容に聞き耳を立てられぬ様に、周囲には彼女の感
応の『力』が、聞き耳を逸らす様に巡らされ。一方で多少でも『力』を行使しつつ、もう
一方で『力』も気配も隠し通す。わたしも可能な技だけど、他に出来る人を見たのは初め
て。

「お嬢さんの血のお陰よ。あなた、鬼に目を付けられぬ様に、気配を隠す術を憶えたのね。
『力』を使いつつ気配ごと隠すなんて妙技も。廃ホテルで遭遇した一昨昨日の夜、あなた
から貰えた生き血は、本当に美味しかったわ」

 彼女はその血を取り込んで『力』に血肉に変えた以上に。その血に宿る想いを吸収して。
わたしの記憶から高等な『力』の扱いを憶え。だから今宵もタクシーを降りる迄、鬼がホ
テル間近に潜んでいると悟れなかった。わたしも鬼の気配が壱キロ範囲にいれば悟れるけ
ど。気配を潜めて近付かれる事は想定になかった。

「君は、柚明ちゃんを傷つけ、贄の血を!」

 思わず身を乗り出した正樹さんの、額に彼女は指一本を突きつけて動きを止め。細身で
も成人男性を、指一本で抑える膂力は鬼の物。そして憤った正樹さんを、一瞬で圧する気
迫も又鬼の物。彼を鎮めつつ座り直させる前で。

「あなたは黙っていて。あなたはお嬢さんを縛る為の人質に過ぎない。付いて来るとの申
し出は、都合良いから許したけど。私はお嬢さんに話しがあるの。戦う力もない役立たず
が余り邪魔すると、弾みで殺しちゃうよ!」

「ぐぅ……!」「叔父さん、心を柔らかに」

 理不尽への怒りは分るけど。わたしを案じる故の義憤は分るけど。今彼女を刺激しては。

「戦う力もない凡人が首を挟めて。美味しい血もないけど、鬼切部への盾に出来る以上に。
軽妙さ俊敏さが戦いの要で、動きを止められる事が決定的な不利となるお嬢さんを縫い止
めてくれて。好都合だから今は殺さないけど、好んで足手纏いになる神経が分らないわ
ね」

 大人とか子供とかじゃない、今ここは鬼と鬼に対応できる者の対峙なのと。彼女は正樹
さんの、成人男性のプライドを砕いて嗤って。わたしには語らう資格があると、笑みを向
け。

「あなたから得た濃い血がなければ、一昨日あの男に心臓迄切られた私は、今も身動き取
れなかった。その侭死ぬ事はなくても、満足に動けない処を襲われたら、終りだったかも。
本当、美味しくて良く力になる生命の血…」

 更なる欲してその手がこの頬に伸びて触れ。
 わたしは憤る正樹さんの太腿を抑えて鎮め。

 彼も自身の事ではなくてわたしの事だから。
 想い案じてくれる熱い気持は嬉しいけど…。

「わたしの血を尚お望みですか?」「ん…」

 気配も表情も仕草も柔らかさ平静さを保ち。
 彼を守る為にもここで戦いに入るのは拙い。

「欲しいわね、鬼として。美味しかったから。

 あなたの肌は柔くて滑らかだし、鍛えていても年頃の娘の肉は男と違う。その宿す血は
鬼の渇仰を招く程に甘美で、何より美しいわ。あなたを組み伏せて思う存分貪り尽くせた
ら。

 女の私から見ても欲情を抱く程に可愛い」

 鬼の糧になる以上に、あなたの血である事に値がある。あなたを貪る事に意味があるの。

 鬼が欲しいと言う事は、奪うと言う事にごく近い。鬼切部に追われる夏美さんは、強大
な力を欲している。鬼になった目的を果たす為に、生きる為に。その力の源が目前にある。
抵抗を踏み躙っても貪りに来て不思議はない。

『柚明ちゃんを傷つけさせはしない。例えこの身に代えても、これ以上年頃の女の子を』

 正樹さんもその答の意味を分って。敢て動きは控えつつ、触れた肌からは覚悟が伝わり。
わたしは逆に、鬼の殺意から身を守る術のない正樹さんを、己を盾にして庇う積りだけど。

「望めばその血をもっと頂けるのかしら?」

 わたしの血を得る事を考えただけで、彼女は喜悦の笑みを漏らし。想像の中で夏美さん
は羽藤柚明を、どの様にして貪っているのか。八木さんに操を捧げた夜と違って、必ずし
も怯えや不快のみではないのが奇妙だけど。人の頃の整った容貌と、長く艶やかな黒髪は
大人の美しさで。獲物を狙う瞳は躍動感に満ち。

「……贄の血を、差し上げても良いです…」

 柚明ちゃん! 正樹さんが思わず大声出すけど、他のお客さんも店員さんも、こちらに
注意を向ける様子はない。夏美さんの術は尚効いている。取り縋る正樹さんを両手で宥め。

「大丈夫です、叔父さん。落ち着いて最後迄話しを聞いて……。わたしの血を上げるのは、
条件付きです。復讐を諦めて。あなたとあなたのたいせつな人を守る時以外、もう誰も殺
めないで。それを約束してくれるなら、この血をわたしが死なない程度、上げても好い」

 死なない限り血は多少減っても補いが効く。わたしの血は幸か不幸かかなり濃い。癒し
の力を使える彼女なら、他の鬼より有効に使いこなせる。全て呑み干そうとするなら話し
は別だけど。傷を復したり生きるに必要な程度なら、この生命を絶つ程の量にならない筈
だ。

「この町にはわたしのたいせつな人がいます。
 あなたの復讐の標的である報道関係者です。

 別に一番の人を抱くわたしは、生命を抛って守る事が出来ない。鬼切部でない以上に技
量が及ばないわたしは、あなたを倒して守る事は叶わない。明日には愛しい幼子の待つ田
舎に帰らねばならない。あなたがたいせつな人に殺意を抱くと分っても、為す術がない…。

 もしこの血を捧ぐ事で、復讐を思い留まってくれるなら。わたしも愛しい双子に人生を
捧ぐ為に、ここで生命尽きる訳には行かない。わたしに生命を残した上で、夏美さんが復
讐を思い留まってくれるなら。血を捧げます」

 ダメだ、柚明ちゃん! そこで正樹さんが声を挟め。わたしを案じ想う故に、鬼の憤激
を身に受けても構わないと、翻意を促そうと。わたしの腕を肩を、両手で掴んで揺さぶっ
て。

「鬼が約束を守るとは限らない。例えその気があったとしても、呑む内に甘さに酔って気
が変り、生命迄貪り喰らうかも。信用できない。柚明ちゃんの血を呑めば鬼の力は増大し、
血の減った柚明ちゃんの力が弱まる。力関係が不利に傾いた後では、抗う術がなくなる」

 わたしは正樹さんへの答より、彼女が正樹さんに手を下す事を怖れて、夏美さんの応対
に神経を集め。でも彼女は今回は、正樹さんの挟めた言葉や行動を、邪魔には感じなかっ
た様で。興味深そうな視線をわたしに注いで。

「流石は大人ね。多少は思慮がある。でもお嬢さんもその位は、考えているのでしょう?

 大切な叔父さんを守る為にも、あなたは間違えてはいけない局面にいる。味方と言えな
い鬼を信じて運命を委ねる程、愚かな子供には思えない……申し出に勝算があるのね?」

 わたしはその視線を平静に見つめ返して。

「大切な叔父さんを守る為に、わたしは間違えてはいけない局面にいます。味方と言えな
い鬼に、先に種明かしする気はありません」

 瞬間彼女は戦闘的な笑みを見せた。それは怪盗が名探偵の力量を認めた様な、武者が敵
将の覚悟を認めた様な、精悍な笑み。時折真弓さんやサクヤさんも見せる真剣勝負の笑み。

「話し合いも取引も、一挙一動言葉の端々が、鬼との対峙は生命懸け。分っているのね
…」

 彼女がそんな躍動的な笑みを見せた理由は。
 わたしが同種の笑みを浮べている様を見て。

 正樹さんが戸惑う様子も、見て取れたけど。
 今は全力を注いで夏美さんに、応対せねば。

「断るわ。惜しいけど……あなたの美味しい血を貰う代りでも、復讐を諦められはしない。
覚悟しておきなさい。あなたなら既に、大事な人には鬼切部を通して、逃亡か守りの措置
をしているのでしょうけど。私が鬼切部に討たれるのが先か、私が彼らを殺すのが先か」

 彼女はやはり復讐を諦めない。鬼になって、一度真弓さんに切られて絶命した後で甦っ
て、成し遂げようとしている復讐だ。わたしが頼んで止めてくれる見込は、正直薄かった
けど。

「……わたしの血は……諦めるのですか?」

 ええ。夏美さんは急に脱力した声になって。
 既に冷めていたコーヒーに、口を付けつつ。

「あなたを貪れるなら、それも好いと思ったけど……既に飲み過ぎかも知れないわ。あな
たの血に宿る想いが、心地良いというのは」

 長く艶やかな黒髪を、左手で掻き分けつつ。
 瞳を横にずらしたのは、敵の襲来ではなく。

 一瞬怒った様な、でも妙に愛らしい表情が。

「一言、謝っておきたくて……お嬢さんを鬼切部と勘違いして、殺そうとした事を……」

 流石に、わたしも目が丸くなっていたかも。
 今目の前にいる女性は、鬼の凶悪さもなく。

 不器用に己の過ちを侘びる、年上の女性だ。

「関係者だけど、お嬢さんは鬼切部ではなかったのね。自分を犯そうとした八木の生命を
救ったり、私に本当に血を与えようとしたり。奴らの発想じゃない。あなたの血を呑んで
その心を得て、感じてはいたけど。鬼を見ても怯まない挙動や、その身のこなしで、奴ら
だと誤解して。一度は鬼切部の女に殺された因縁もあるし。復讐を邪魔されたから、つ
い」

 ごめんなさい、悪かったわ。勘違いで殺され掛けたあなたには、意味も薄いだろうけど。
これは私の自己満足。怒るか笑うかして頂戴。

 呟く彼女の横顔は、謝罪を恥ずかしがって、強がる感じが愛らしく。彼女には羽藤柚明
は、復讐相手でも敵でもなかった。そしてこの時に漸く思い返せたのは。不二夏美は鬼に
なる以前は、広く人に癒しの力を及ぼそうとした、基本的に甘く優しい善人だったと言う
事で…。

 敵や復讐相手は憎むだけど、彼女は人を全て敵と見なす訳ではなく。鬼の生を謳歌する
為に人を喰らう訳でもないのか。それでも贄の血は鬼の好餌だから、安心とは言えぬけど。

「生命が喪われる前に、わたしがあなたの敵でも仇でもないと、分って貰えて良かった」

 油断はしないけど、気配は少し和らげて…。
 幻でも僅かの間でも、想いを繋げたく願い。

 正樹さんが驚く前で、彼女の両手を握ると。
 夏美さんも目を見開いて、次に呆れた声を。

「どこ迄も甘々ね。まぁ、そうでもなければ八木の娘は兎も角、八木本人迄救いはしない。
人だった頃の私も及ばない、愚かに近い甘さ優しさ。それに致命傷も治せる強力な癒し」

 彼女はわたしの絡めた両手を、敢て外し。
 でも不快ではないらしく視線は横に泳ぎ。

「他人事には思えないのよ。脇の甘さがね。
 今の処鬼切部と敵対はしてない様だけど。

 都合が悪くなれば、異能の持ち主はいつでも即座に排除される。誠を通せば通じる程人
の世間は甘くない。私があなたの血を呑んで心が繋った様に、あなたも私に血を呑まれて
心が繋った筈よ。私があなたを分った様にあなたは、私がどの様に心折られたのかを…」

 癒しの『力』を持ち人に役立てる事を望む。
 その甘さ優しさ・強さ清らかさが分るから。

「私にはあなたが私の後を辿る様が視える。
 限界を超えて軋んだ末に心裏返る瞬間が」

『善意を叩き折られた夏美は、鬼に成った。
 善意を分って貰えない世間に、絶望して』

『鬼という物はね、生れついての鬼よりも、人のなれの果てとしての鬼の方が、遙かに多
い物なのよ。敵陣に入った将棋の駒が、裏返って別の働きをする駒になる様に……』

 それは真弓さんもわたしに抱いた危惧で。
 わたし自身も感じている己の末路の一つ。

 その故にわたしは、終生田舎を出るべきでないのか。明良さんの言葉通り、羽様で幼子
を見守りつつ、静かに余生を過ごすべきかも。笑子おばあさんは、お母さんや正樹さんに
は、町へ出る事を了したけど。わたしには羽様残留を了してくれた。都市圏の高校へ進学
せず、羽様残留を選んだのはわたしだけど。人の思惑や都合が複雑に絡む都市部では、贄
の民は静謐な暮らしを掴み難いと、視えていたのか。

 夏美さんにはわたしを殺める積りはなく。
 この血を奪いわたしを貪る積りさえなく。

 唯幾つかの心残りを精算したかっただけ。

 正樹さんはこの急変に心がついて行けず。

「私が人だった頃に逢えていれば。あなたに力づけて貰えたかも知れないし、あなたを助
け支え導く事出来たかも知れない。残念ね」

 彼女はそれを、本当に残念に想っている。
 殆ど唯一の『仲間』になれていたかもと。

「鬼である今の私が示せるのは鬼への誘いか、この道を辿らぬ様にと敢て見せる鬼の途だ
け。お嬢さんは鬼に向けても途が開けているわ」

 今のわたしはそれに否定を、返しきれない。

 一番愛しい白花ちゃんと桂ちゃんを胸に抱く羽藤柚明は、絶対鬼にならないけど。なら
ないけどでも。贄の『力』の修練が、護身の技の修練が、鬼への備えが皮肉にも、鬼に近
しい程の力量の充実を、鬼への途を開かせて。

 今目の前にその可能性の末がいるのだから。

「だからあなたが鬼切部側の、今の私には敵方にいる者だと承知で、一言遺しておくわ」

 夏美さんは感情の抑揚を排除した声音で。

「たいせつな人を喪った悲憤で鬼になる位なら、たいせつな人を喪う前に、守り庇う為に
鬼になりなさい。あなたにはその資質もある。

 力及ばず守り通せなかったとしても、諦めが付くし……仮に守り通せたなら、自分が切
られて終っても得心できる。私はそれに気付くのが少し遅かったから、たいせつな人を喪
った後に憎悪と憤怒で暴走して鬼になった」

 そこにはどれ程の痛恨と悲哀が宿っているのか。語り終えると背を向ける。その侭去り
ゆくと視えた夏美さんをわたしは一度、後ろからその左手に、両手で取り縋って足を止め。

「あなたはどうしても、復讐を止められないのですか? 虚しいと承知で、最早得る物は
ないと分って、鬼切部に追い回されて切られると承知で。それでも思い留まれないの?」

 今の侭では、余りにあなたが哀しすぎる。
 せめて今からでも前を向いて生きる事は。

 わたしの問に、彼女は諦めを宿した答を。

「もう私の意志では、止められないのよ…」

 あなたなら分っているのでしょう。分った上で、尚縋ってくれる。あなたを殺しかけた
私を想う故に。あなたは本当に愚かな程甘い。

 夏美さんはもう、後ろを振り返る事はせず。
 背中越しに届く声音は、深い哀傷を宿して。

「もう二度と逢わないわよ。次に逢った時は、美味しい血の詰まった袋として貪り喰ら
う」

 振り払って歩み出す彼女をわたしは追わず。
 これが限度だった。彼女とわたしの関りは。

 わたしに、彼女の絶望を救う事は出来ない。
 その復讐を狂気を止めて終らせる力もなく。

 わたしが彼女に出来る事はもう、何もない。
 だからせめて最後にわたしも想いの限りを。

「いつの日か……あなたの無念や憎悪の炎が、鎮まる時の来る事を、心から祈っていま
す」

 それは復讐の完遂か、鬼切部による抹殺か。
 静かな最期が望み難いと、確かに視えて尚。

 僅かでも夏美さんの充足を、望み願って…。

 月の輝きが冷たくも思え、清めにも感じた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 鬼の女性を見送った人気のない夜の歩道で。

「叔父さん……申し訳、ありませんでした」

 自身感傷的になりすぎて、鬼に踏み込みすぎたと分るから。鬼の爪や牙の届く間近で肌
身合わせる無謀は、叱責に値すると分るから。

 一緒に寄り添い応対したけど。今回も己の行いは相談抜きの側面が強く。何とか愛しい
正樹さんを守り通せたけど。白花ちゃん桂ちゃんや真弓さんに、顔向けできなくなる事態
は避けられたけど。大事な人を危険に晒した。

 その失陥も込みで、深々と頭を下げて謝り。
 面を上げて、正樹さんを見つめ反応を待つ。

 頬を打たれるなら、この瞬間であるべきだ。
 瞼の裏に頬を叩かれる像が幾度も映るのは。

 彼がそれを為すべきと感じているからこそ。
 冷静な大人の、わたしを想う故の判断なら。

 わたしは叱責受ける事で彼の想いに応える。
 お互い生きて残れたのだから、不満はない。

 だから正樹さんも、一度は逃がさないとの感じで強く掴んだこの両肩からその手を外し。
その手の行き場を、次の行いを、迷う感じで。

「……、柚明ちゃんっ……!」

 次の瞬間その右掌はこの頬に触れたけど。
 それは叩くのではなくそっと触れる感じ。

 彼はこの時も身を震わせてその手を抑え。
 この瞳を正視して愛おしむ様に頬を撫で。

「漸く分ったよ……僕が本当に許せないのは、柚明ちゃんじゃない。君の無茶や甘さより
も、僕は己の情けなさに憤っていたんだ。君を守る事が出来ないどころか、君に守られ。
助けになるどころか、君の足を引っ張る存在で」

 人の世では暗黙の了解で、大人は大人扱いされ、子供は半人前扱いで。どれ程君が強く
賢く優しくても、僕よりどれ程優れていても、それが反映される事はない。でも鬼の禍は
人の理に囚われないから、人の真価を暴き出す。

 それが露わになるから僕は君に憤っていた。それは君を想う故ではなく、己の小さなプ
ライドを守る為に。千羽の彼が君を叩いたのは、彼の正解だ。誰かを傷つけても、君を傷
つけても、断固として守るとの意志と力の裏付け。

「それのない僕に君を叩いて叱る資格はない。
 君を守る力も持たず足手纏いになる僕では。
 手を下しても、それは唯の八つ当たりだ」

 立派な大人の男性が高校生の女の子を前に。
 己の無力を受け容れる苦渋は想像を絶する。

 無力と無知の招いた悲痛が原点のわたしに。
 彼の辛さ情けなさは痛い程良く分ったから。

 今は年下のわたしのどんな言葉も不適当か。
 唯愛しい叔父の告白を聞いてその手を握り。

「今後も僕は柚明ちゃんを、叩く資格を持てないだろう。大人の立場や世間知で支える位
は可能でも、今後も尚賢く強く成り行く君を、守る事は多分叶わない。だから今からは僕
の為というよりも、君の一番たいせつな白花と桂の為に、出来るだけ無茶はしないでく
れ」

 今度こそあなたの願いは心に強く刻みます。


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