第15話 少女剣士との愛しい夜
前回迄の経緯
羽藤柚明が県立経観塚高校に進学して3ヶ月と少し過ぎた、梅雨の滴る金曜日の夕刻に。
大野教諭の狡知と暴力を打ち砕き、美咋先輩を助け出し、絆を繋いだ土曜日から、ほぼ
2週間経過した。美咋先輩の招きで、お家に泊めて頂く事にはなっていたけど。その前に、
わたしは先輩が幼い頃から行きつけだった剣道場を、人気のない剣道場を訪れてと頼まれ。
どうやら美咋先輩は、今宵にわたしに、或いは美咋先輩自身に、期する処があるらしく。
美咋先輩がわたしに抱く想い、美咋先輩ががわたしに告げて明かす意志、そして美咋先
輩がわたしに求め願う行為とは、果たして…。
参照 柚明前章・番外編第11話「せめてその時が来る迄は」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
梅雨の滴る金曜日夕刻。学校帰りのわたしは美咋先輩の招きで、経観塚銀座通の外れに
ある人気のない剣道場を訪れていた。夏の陽は未だ没してないけど、雨雲の故に空は暗く。
普段は剣の鍛錬に励む人達で、夜迄活気に満ちる道場も。今はわたしを招く為に余人を
排され、涼やかな静謐を保ち。高校のセーラー服で、板敷きの広間に直に座したわたしは。
「初めてお目に掛ります、羽藤柚明です…」
「娘が世話になった様だね……神原武則だ」
美咋先輩と隣に座すそのお父様・武則さんと向き合って、ご挨拶を。2人は白の道着の
上に黒い防具を身に纏い。竹刀も傍に置く臨戦態勢で、面だけ付けてない。電灯が照す板
敷きの広間にいるのは、今はわたし達だけだ。
切り揃えた黒髪に白髪が交じる武則さんは、来月五拾歳になる。美咋先輩の整った容貌
や背の高さ・均整の取れた肢体は、お父様から受け継いだ麗質か。曲がった事を好まず弱
い者苛めを嫌う、表裏のないその人柄も同様に。一方、先輩のやや癖のある長く艶やかな
赤い髪や、人助けを厭わぬ面倒見良さや優しさは、亡きお母様から。その胸の大きさも同
様に…。
武則さんの鍛えられた痩身は、熟年の今も玄人の身のこなしを保ち。先輩やそのお兄様
達が剣の道に進んだのは、やはり父の影響か。
その強さは隙のない佇まいや、鋭い気配で感じ取れた。美咋先輩より強い。大野教諭に
は及ばないけどかなりの実力者だ。だからなのか、わたしを見つめる目線が訝しげに瞬き。
「こちらこそ、美咋先輩には良くして頂いて。何度か助けても頂きました」「そうか…
…」
元々寡黙で、初見の人との応対は不得意な様だけど。わたしの技量を推し量ろうとして、
見定めきれぬ戸惑いを感じた。確かにこの身は同年代でも、恵まれていると言えず。背も
高くないし腕も足も長くなく、真弓さんとの修練を経ても、女の子の体は筋肉質になれず。
強さを感じさせぬ外見に、一応武道を学んできたから息遣いや歩き方はそれなりなので。
武道を学んだ人には、わたしはやや奇特に映る様で。美咋先輩や健吾さんや大野教諭にも。
「ここは私が子供の頃から、って言うより父さんが子供の頃から行きつけでね。道場主が
父さんの古い知り合いだから、そこそこの我が侭が効くんだ。だからこうして貸し切り状
態にして貰えた。父さんや兄さんについてここに通ったのが、私の剣道人生の始りさ…」
今宵は余人を交えない処で、衆目に見せない羽藤柚明を、じっくり識りたいと思ってね。
そして父さんにも、それを見て知って欲しく。柚明にも私の父さんを見て知って貰いたく
て。
美咋先輩は意識していつもよりやや饒舌で。
まるで恋人と父の仲立ちをする娘の様に…。
そう言えばこの微妙な緊張感を含む空気は。
娘さんを下さいと言いに来た婚約者の様な。
「父さんは人付き合いが下手でね。腕の立つ人と遭うと、見定めに執心で相手との話しが
疎かになる。不機嫌で睨んでいる訳じゃないんだ。でも、そう言う父さんだからこそ、柚
明を知って貰うには道場が良いと思ってさ」
美咋先輩の言葉に武則さんは我を取り戻し。
「確かに……只者ではない。剣道ではない様だが、自然に柔らかな佇まいで全く隙がない。
威圧を受けても受け流し、怯えも警戒も出さぬか。美咋が懸想をする訳だ。娘の歳で…」
「実際に見れば見る程、迫れば迫る程、柚明の強さ深さは尚良く分るよ。表に見える部分
が全てじゃない様に、父さんが今感じた部分も柚明の全てじゃない。柚明を今宵ここに招
いたのは、私の全身全霊で柚明を識りたくて。
今宵人払いを頼んだのは、柚明が強さを人目に晒す事を好まないから。でも父さんにだ
けは、柚明を見て知って欲しくて。柚明にも父さんが立ち会う事を、許して貰ったんだ」
美咋先輩のわたしへの評価は、高すぎです。
先輩の強い要望に応えてここへは来たけど。
わたしの護身の技は、愛しい人と戦う為の物ではない。本当は立ち合いは避けたかった。
本物の戦いではないと分った上で、試合でも愛しい人に、苦痛を強いる事は望ましくなく。
「わたしは修練途上の未熟者です。それにわたしが教わっている護身の技は、武道ではあ
っても剣道でも空手でも柔道でもありません。立派な道場で人様に披露できる様な技で
は」
女の子が強いと知れても嬉しくない以上に。正式に剣道の鍛錬を重ねた人に、まともな
流派もない己の技を見せるのは。否道場に上がり込む事が既に、失礼ではないか。真弓さ
んの実家は世を忍ぶ仮の姿に、剣道場を営んでいる様だけど。真弓さんに教わってもわた
しの護身の技は、剣道でも千羽妙見流でもない。
誰かと力や技を競ったり、試合や大会での勝利が目的ではなく。賞賛も報酬も欲しない。
強さの獲得も手段ではあっても目的ではない。たいせつな人を愛し守る技量を求めただけ
で。元から目指す方向の違う護身の技が、同じ武道の土俵の上で、立ち合う事を許される
のか。
羽様の大人には、敢て他流試合を禁じられてはいないけど。わたしが戦いを避けてきた。
誰かを助け救う危急の時以外で、護身の技を見せた事も僅少で。でも、大きな危難を共に
乗り越えた戦友である美咋先輩に、愛し恋し憧れた2つ年上の女の子に、強く願われては。
「柚明への挑戦状だよ。私と立ち合って貰う。
前から柚明とは一度やり合ってみたかった。
只者じゃないって以上に、信じられない程強い事は先日知らされたけど。私とは段違い
じゃなく桁違いな事は承知で。神原美咋は一応剣士だから。相手の人となりを一番良く識
る方法は、肌身に感じ取る事さ。その相手が剣道ではなくても武道の使い手なら、尚一層。
見定めるには、全身全霊で挑まないとね…」
美咋先輩はわたしへの親愛を隠さぬ以上に。
羽藤柚明を見極めたいと強い闘志を宿して。
それを前にした瞬間、わたしの退路は閉ざされた。全身全霊には、全身全霊で応えねば。
美咋先輩の意志が確かな以上答は視えていた。贄の血の事情と違う。己の武技を人に知ら
れたくないのは、わたしの好みに過ぎないけど。先輩の想いに応えたいのは、わたしの願
いだ。
「正式に剣道を学んでいる方に、わたし如きが挑むのは、身の程を弁えぬ非礼ですけど」
羽藤柚明が神原美咋に返せる答は唯一つ。
「試合をお受け致します。つたない技ですが、先輩の想いを受けてわたしの想いを返す為
に、全力を尽くします……宜しくお願いします」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
大野教諭を打ち倒し、美咋先輩を助けた土曜日から2週間が経った。真弓さんやサクヤ
さん達を驚かせ、心配させた事は申し訳ないけど。無謀への叱責は受け止めた上で、先輩
を教諭の軛から解き放つ、目的は叶えられた。
美咋先輩は昨秋、大野教諭に蹂躙され操を奪われていた。剣道一筋で進んできた先輩は、
お兄様2人の大学進学で逼迫した家計を見て、進路に悩み。教諭が持ちかけた学費安い剣
道推薦の話を、罠と悟れず応じてしまった後で。
全国大会にも出た県内有数の少女剣士でも。剣道部の紅一点ながら男子が誰も敵わぬ強
い女の子でも。相手が悪かった。成人男性で全国級の達人である大野教諭に勝るのは無理
だ。
『私はこの関係を利益に繋げている。とても酷い事されたなんて言い出せる立場じゃない。
身体を売って剣道推薦を得たに近い状態だ』
美咋先輩は辱められた映像を撮られ脅され、大野教諭に剣道推薦で縛られて身動き取れ
ず。家族にも学校にも剣道部員にも真相を話せず。独りその暴力と奸智に拉ぐ日々を重ね。
それで彼は熱く爽やかに、武士道や剣の道を語っていた。濁った心だの、正義だのを口に
して。
彼は美咋先輩を虐げつつ。彼の野獣の本性を知らぬ羽様出身の杉浦先輩を使って、美咋
先輩に憧れ目指す部員達を使って、わたしの剣道部入りも画策し。人の善意を利用し操り。
『羽藤。お前、剣道部、入ってみないか?』
『大野先生が羽藤の体育での動きを見て、文化部に置くのは勿体ないって……小柄でも羽
藤の運動神経なら期待できると』
『美咋(みさ)先輩も女の子が入ればきっと喜ぶ。今剣道部に女子は1人だから。先輩は
銀座通中の頃から何かと羽藤を気に掛けていたし。どうだろう? 考えて貰えないかな』
『俺も羽藤が入ってくれると嬉しい。羽様地方で剣道やっているのは俺1人だし。同じ道
を歩む仲間って、青春な感じで良いだろう』
次の標的は羽藤柚明だった。でもこの展開はむしろ幸いで。辱められた映像と進路を握
られた美咋先輩に、教諭の非道告発は難しい。心の傷を知られたくないのは、年頃の女の
子の当然だ。彼の欲情がわたしにも向くのなら。
唯彼を倒しても先輩の憂いは払拭できない。
真相を人に知られる事さえ彼女には怖れで。
教諭は彼女の日々を雁字搦めに縛っていた。
先輩は尚も必死に己を保ち続けていたけど。
取り返すのも解き放つのも、容易ではない。
美咋先輩に恋心を抱く杉浦先輩に、踏み込んだ問を発したのは。彼の本音を知りたくて。
『男の子の感触を教えて欲しいの。男の子は、告白する女の子の何を重要と見なすのか
を』
わたしが好いた人に恋心を告げるとして。
胸に秘めた想いの真実を打ち明ける時に。
『わたしが必ずしも清い身ではない真実迄、全て打ち明けるべきと先輩は想いますか?』
杉浦先輩は本当にまっすぐで、色恋に疎く。女の子を虐げる酷い事を想定できない。明
言しないと中身が伝わらない。だからわたしは、中学2年の冬に己がされた事を、彼に明
かし。
唇を8人に回され、唾液を喉に流し込まれ、全裸の姿を晒されて。股も無理矢理開かさ
れ、両の乳房に吸い付かれ、殴られ蹴られ身を揉まれ。男女多数の欲情と憎悪に嬲られ穢
され。両乳房の先端も切り落されかけた。女の子の初めてを奪われずに終えたのは、僥倖
だった。
『羽藤、お前っ!』『男の子に告白する際に、この事は明かすべきでしょうか? 隠すべ
きでしょうか? 聞かされた人はどう思うでしょう? 杉浦先輩だったらどう感じま
す?』
男の子は本当に真を知る事を望みますか? 知って尚好きでいてくれますか? 許して
告白を受けて貰えますか? 或いは忌み嫌いますか? 身の穢れは心の絆も断ちますか?
『先輩の、男の子の本音を、教えて下さい』
杉浦先輩にはわたしの事柄だと思って貰う。
男の子一般の本音を知りたいと言うのは口実で、彼の答が欲しかった。騙すとも試すと
も言える非礼な手法だけど。彼の在り方を明示させる必要があった。美咋先輩の立ち聞き
を誘って、彼女に彼の在り方を知って貰う…。
美咋先輩は教諭の脅しの標的にされぬ様に、杉浦先輩に抱く好意をずっと抑え隠してい
て。杉浦先輩も不器用だから、憧れ以上の想いは伝え切れてなく。美咋先輩の真意にも気
付けてなくて。双方が双方を憎からず想っているのに、この侭想いがすれ違うのは哀しす
ぎる。
だからわたしは己の心の傷を露わに見せて。
杉浦孝の応対・在り方を美咋先輩に見せて。
『お前は、辛い経験を経ているんだな……』
『羽藤は、語らない方が良いと、俺は思う』
男の問題じゃない。女の子にそんな傷を語らせる事が罪作りだ。嘘や隠し事を嫌う俺も、
そこ迄明かせとは言えないよ……無理に事実を聞かせて相手を驚かせる必要はないさ。い
つか知られても大丈夫な程、強く心を繋げば。
『心を強く繋げば受け容れて貰えますか?』
彼の左手をこの両手で触れて包み込むと。
その手はすっと引っ込められて頭を掻き。
『そうだな。俺は、受け容れたいと思う…』
杉浦先輩は手を引っ込めた。刺激的に過ぎる話しだから、受け容れ難いのは無理もない。
その上で尚彼はわたしを気遣って。迷いつつ困りつつ、恋人でもない後輩の傷や恥に真剣
に悩んで答を返し。時間を掛けて心を繋げば、美咋先輩の真実も、きっと受け容れて貰え
る。
教諭を倒しても先輩の憂いは払拭できない。
だからその真相を受容する者がいると示し。
わたしがその1人である事は、当然として。
愛しい人の日々を心を確かに包み守りつつ。
わたしが先輩の分迄危難を受けて弾き返す。
格技場を確保しつつ、部員に部活を休ませた土曜日の午前中。わたしは大野教諭の招き
に応じて独り赴き。でも彼の狙いを察した美咋先輩は、先回りして彼に戦いを挑んでいた。
美咋先輩がわたしの剣道部入りに反対したのは。剣道部のみんなの好意や、杉浦先輩を
奪われる怖れや嫉妬は微塵もなく。わたしを想う優しさと焦慮のみ。この人は自身が悲嘆
の淵にあるのに、わたしを案じ庇い守ろうと。
『お願い、大野先生。私が先生から一本でも取れたら、柚明を諦めて』
『柚明は、私の可愛い妹だ。たいせつな人だ。男ばかりの中で育ってがさつな私を、可愛
い女の子だと、優しく綺麗だと言ってくれた』
でも気概で天地は覆せない。正義なら勝てる程に武道も戦いも甘くない。心の在り方が
野獣でも卑劣でも強者は強者だ。一本も取れない。勝負は繰り返す程一方的に優劣が見え。
それを百も承知で、美咋先輩は闘い続け。
勝てなくてもその心を動かせればと願い。
何度打ち据えられても立ち上がり。でも。
大野教諭は慈悲を願える人間ではなくて。
『私は、良いから。私は肌を許すから……柚明に手は出さないで。お願い、見逃して…』
遂に力尽き組み敷かれた美咋先輩の懇願を。
踏み躙り穢そうとする彼をわたしは止めて。
『大野さん。わたしが、あなたを止めます』
『わたしのたいせつな人から今後一切手を引いて。もうその健やかな日々を妨げないで』
わたしは彼の策に乗り、敢て敗れ手錠に繋がれ。教諭はわたしも辱め、その映像で脅そ
うと。優位を確信した彼が、わたしの喪失を何度もリハーサルし、心を折ってから貫こう
とした手順の故に。初めて喪う前に反撃に出られたけど。わたしは全て覚悟で事に臨んだ。
『最後に一つだけ教えて下さい。……あなたは今も、美咋先輩を愛してないのですか?』
『最初が欲情だったとしても、始りが体の関係だったにしても、今あなたは美咋先輩を大
事に想ってないのですか?』
あなたは美咋先輩の初めての人です。美咋先輩の重要な人です。教師と生徒の恋愛は問
題だけど、本当の愛があるなら話は変る。例え体の関係で始っても今心を繋げているなら。
そこ迄至ってなくても、先生が先輩を愛しているなら。先輩を大事に想うなら。でも……。
それは生徒と教諭の愛でもなかった。彼は前の職場でも教え子を襲い、経観塚に左遷さ
れたけど。ほとぼりが冷めれば元の職場に戻る積りで。美咋先輩をそれ迄の無聊を慰める
妾に考えており。たいせつになど想ってない。
『……あなたをこの侭野放しにすれば、この先何人もの女の子が、酷い目に遭わされる』
『これはあなたを完膚無き迄叩きのめす為に。わたしのたいせつな人を脅かし涙させるあ
なたに、完全敗北を知らしめて、二度と立ち上がれなくさせる為の、羽藤柚明の闘いで
す』
己の痛みや羞恥や悲嘆や穢れで、心挫けたり我を見失ったり出来る類の闘いではない…。
『あなたはもうこれ以上、何も得られない』
そしてもうこれ以上わたしのたいせつな人の何も失わせはしない。もう涙は流させない。
今のわたしに彼を打ち倒す事は難しくない。
問題は唯撃退すれば済む話しではない事に。
『重傷を負わせれば事件になる。目端の利くお前なら分るだろう。骨折や内臓破裂の様な
重傷を相手に残せば、過剰防衛で暴行罪だ』
お前が届くのはここ迄だ。美咋は既に俺に犯されている。全て晒せば俺は破滅だが同時
に美咋の人生も終る。お前は今後も美咋を俺から守れない。美咋の進路は俺が握っている。
唯彼を倒しても先輩の憂いは払拭できない。
だからわたしは敢て己が嬲られた絵を残し。
『これを、あなたがわたしに性的暴行をした証拠として、学校に提出します』
先輩の日々も未来も、心も確かに守り通す。
独りで堪え続けた涙を、肩の震えを止めて。
美しい強さに、本当の笑みが戻り来る様に。
先輩の進学先の担当者は、大会に美咋先輩を見に来る事が既に決定済みだ。教諭次第で
推薦が覆るのは、彼が教員である限りの話し。教員でなくなった彼の意見は響かない。な
ら。
『あなたに失職して貰います。あなたは教職に相応しい人ではない。活計の途を断つ事は
申し訳ないけど。美咋先輩や今後あなたが手に掛ける女の子達を想うなら、こうすべき』
彼は己の墓穴を掘った。彼がわたしに欲情を抱いた事は幸いだった。この身を使って告
発すれば、今後彼の所為で涙する多くの女の子の禍が消える。先輩の人生の憂いが拭える。
『わたしのたいせつな人から今後一切手を引いて貰います。もうその健やかな日々を妨げ
ないで。これは願いではなく、宣告です!』
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
教諭を打ち倒した後、美咋先輩は最初にわたしの無謀を叱り。次にわたしの苦痛を案じ、
最後わたしの無事を喜び。自身より常に他者を想い続け。心配させ哀しませ、涙零させた
事が申し訳ない。謝りつつ無事を伝えたわたしに、凛々しい少女剣士は感極まって唇繋げ。
『柚明。強く賢く美しい、私の愛しい妹…』
強く暖かな情愛の虜にされた。わたしを想う気持が溢れ、密着した肌身を通じて流込し。
先輩自身抑えられぬ激甚な想いに、わたしも戦い終えた脱力感以上に、望んで押し流され。
互いが互いを求め合い、望み合い、欲し合い。無事を肉感を温もりを、伝え合い、感じ合
い。
暫くの後、わたしは先輩を先に家へ帰し。
彼の懐から鍵を抜き取ってその宅に赴き。
先輩を辱めた映像を一つ残さず回収して。
愛しい少女剣士の後々の憂いは全て断つ。
その後休日の職員室を訪れ事実を明かし。
これはわたしが独りで為さねばならない。
剣道部顧問教諭による少女暴行の告発に。
部の紅一点・神原美咋が少しでも関れば。
大人は絶対羽藤柚明だけの案件と見ない。
彼女が望まぬ事実の開示はわたしが阻む。
先輩はこの件に名前も出させず守り通す。
大野教諭もその方が己に有利と分る筈だ。
表沙汰になれば、彼は婦女暴行で逮捕され懲戒免職だけど。表沙汰にならなくば、彼は
逮捕を免れ病気か自己都合退職で、退職金も貰え前科も付かぬ。教諭への情けと言うより。
彼が自暴自棄に陥って、美咋先輩も辱めたと暴露せぬ様に。わたしは彼に与える報いより、
美咋先輩の未来が大事。教職の立場を失わせれば、愛しい人に関れなくなれば、充分だ…。
以降街中でも学校でも彼の姿は見ていない。
剣道部は突然の顧問不在に戸惑いを隠せず。
学校や教育委員会は密かに大騒ぎ(?)で。
公には事実は伏せられ大野教諭は休職扱い。
不祥事隠しと言うより女の子の重大事案は。
被害者の為にも、安易に口外は出来ないと。
わたしも羽様の大人と一緒に、学校へ呼び出され。事情聴取を受け、病院で検査も受け。
本当に無事なのか心配された。置き放しのビデオカメラは視点固定で。彼がわたしを嬲る
絵は撮れても、わたしが彼を倒す絵は残せず。剣道も習ってない女の子が、剣道達人の成
人男性を倒せた結果は、納得が難しかった様で。羽藤の大人はわたしの技量を分るから、
納得を頂けたけど。無謀には心配や叱責も頂いて。
以降2週間わたしは美咋先輩と距離を置き。公に事実は伏せても、少女暴行を告発した
わたしは先生の心配や関心の的だ。わたしと近しいと先輩へ疑念が飛び火しかねない。剣
道部顧問と剣道部紅一点は、最も疑わしく映る。彼は神原美咋の間には何もなく、羽藤柚
明との間にのみ縺れが生じたと。思いこませねば。
先輩も事情は分ってくれて。でもほとぼりが冷めるのを、待ちきれぬ心情も感じたので。
学校の外で、衆目のない処でなら。愛しい人の想いを受けて、わたしも彼女を愛しみたく。
今宵は先輩宅にお泊りなので、唯一の家族であるお父様へのご挨拶は、想定もできたけど。
その前に道場に招かれたのは彼女ならではの。
「神原美咋の力の限り全身全霊で迫るから。
羽藤柚明を、私の及ぶ限り識りたいんだ」
剣士がわたしを識る為に剣を以て為すなら。
わたしは愛しい少女を識る為に肌身を以て。
羽藤柚明も、神原美咋を識りたかったから。
「承知しました。わたしも先輩を識る為に全身全霊で挑みます……宜しくお願いします」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「本当に彼女に平服の侭立ち合わせるのか」
武則さんの訝しむ声を背に受けて先輩は。
羽藤柚明の身の心配は不要だと苦く笑み。
「柚明は剣士じゃないし、私が識りたいのは柚明の剣道じゃない。柚明の流儀に防具は不
要で逆に足枷になるし、リーチも破壊力もこれ以上増す必要なんてない。私は剣士だから、
真剣勝負の時にこれ以外の装いはないけど」
柚明はとてつもなく強い。大野の竹刀を躱し、素手で受け、防具の上から打撃を与えた。
蹴られ殴られ組み伏せられても、起き上がって反撃した。このハンディキャップは柚明に
較べ遙かに非力な、私の為の下駄捌かせだよ。
美咋先輩の答は多少の苦味を宿して聞えた。強さを求め鍛えてきた人が、自身にハンデ
ィが要ると認める事に、忸怩たる感触を悟れた。でも剣道初心者のわたしに、有段者の美
咋先輩と、剣道で立ち合う資格等あろう筈がない。大野教諭との対峙は剣道ではなく戦い
だった。
「わたしの護身の技は、平時に脅威に遭う事を想定しています。買い物や遊びに出た先で、
愛しい人が犯罪者や獣や災害に遭った時。この手に武器があろう筈もなく、即手に入ると
も限らない。大事な人を守る為に、いつでもどこでも誰にでも、予期せず即応を迫られる
わたしの技は、無手で為せねば意味が薄い」
わたしの技は、本来誰と競い合う事も想定していません。害意のない美咋先輩と立ち合
う事も同様に。なのでこうして対峙する事が、既に自身の流儀を外れ、護身の技の名に反
しています。でも、今宵は美咋先輩の願いである以上に、わたしが美咋先輩を識りたかっ
た。
「先輩やお父様が、防具の着用をお望みなら従います。わたしの護身の技は季節も天候も
屋内外も問わず、性別も年齢も経験も種目も、相手の数も武器防具の有無も問いません。
わたしは与えられた状況で全力を尽くすだけ」
真弓さんには剣道への対処は教わったけど、剣道自体は対象外で。健吾さんに少し教わ
ったけど、彼も空手がメインだった。剣道の勝負は不慣れだけど。防具着用で身が重くな
ったり動きが制約されたり、見切りの間合が変ったり。そう言う展開を強いられる事もあ
る。
わたしの答に美咋先輩は逆に興味深そうに。
防具着用はお任せと平服の対応を許容して。
「丁度良いじゃないか。私があんたに正規な剣道を一から教えるから、その代りあんたは
本当の羽藤柚明を一から私に教えておくれ」
先輩に剣道を手取り足取り教えて頂く事に。
竹刀の持ち方や素振り、足捌きの基本等も。
剣道でなくても武道を学んでいたわたしは、良い生徒だった様で。短時間でその動きや
思考発想に馴染み、先輩の練習台になれる程に。竹刀の面も何度か素顔に受けた。確かに
痛かったけど額も切れず気も失わず。わたしは木刀や鉄パイプの修練を経た。それらより
真弓さんサクヤさんの拳や蹴りの方が痛くて怖い。
最初は女の子の顔に傷が付いてはと、心配していた武則さんも。本当に大丈夫か手探り
だった美咋先輩も。続ける内に、徐々にわたしの打たれ強さに納得頂けてきて。先輩も面
を外して素顔になったのは想定外だったけど。
これは美咋先輩を師とした剣道修練で、立ち合いではない。剣道の間合やコツ、動きや
感触が掴めてきて。放つ面や突きが入りそうになって来ると、わたしは全て寸止めにして。
一通り汗を流し先輩も体がほぐれてきた頃に。
「もう剣道に順応したかい。大会に出れば柚明は今でも全国級だ……そろそろ、私の望む
立ち合いを受けて貰うよ。体も温まってきた頃だろう。それにあんた、剣道ではなく自分
の流儀なら、私に一撃入れた上で尚私の竹刀を躱しきれるんだろ? 大野に見せた様に」
「技量の違いは参考にしかなりません。腕力や体格の違いが、実戦にどう響くか分らない
様に。実際の処は、やってみない事には…」
「いいね、実戦に即したその考え。やってみようじゃないか。神原美咋がどこ迄あんたに
迫れるのか、及ぶのか、至れるのか……本当の強さとは何なのか……是非やってみたい」
美咋先輩は達人の大野教諭を一年見続けて、剣道の修練で自身が望んだ強さに至れるの
か、理想を見失いかけており。剣道でなくても彼を打ち倒したわたしと対峙する事で、答
を掴み取ろうと。単に強さを競いたい訳ではない。ここは全身全霊で応えなければ非礼に
当たる。
「分りました。ではわたしも全力で挑みます。わたしの修練で使ったルールを、剣道仕様
に修正し使いたいと思います。良いですか?」
先輩は竹刀の攻撃を当てれば勝ち。剣道と違って面や胴や小手に関らず、どこでも当た
れば一本です。わたしは素手で先に拾本取れば勝ち。寸止めするので、わたしが一本取っ
ても構わず攻めて下さい。相打ちは先輩の勝ちです。それとわたしが寸止め失敗した時も。
先輩は剣道の動きをしてもしなくても良い。動きや狙いの幅を広げる事を好むか、動き
馴れた自身の流儀に特化して、勝利を望むかは。美咋先輩の瞬間瞬間の判断に委ねます。
わたしはわたしの全力で拾本取りに行きますから。
「わたしはこのルールで、真弓さんサクヤさんから未だ勝利を得た事がありません。一本
も取れない内に拾本取られる。今迄も今もそんな日々の繰り返しだけど、でもわたしは必
ず一本取って、この更に先へ進む積りです」
左手をすっと前に伸ばした構えは、相手との間合を測る以上に、届かせたい己の覚悟と
願いの具現化で。相手への威嚇以上に、動きを見せて相手の注意を引き寄せる意図を宿す。
剣道ではなくてもこれは全力の真剣勝負だ。
美咋先輩も少しの間双眸を大きく見開いて。
それから獲物を見定めた猫の様に瞳輝かせ。
「柚明との間にはそれ程差があるって事かい。いいよ。私も現状に留まる積りはない。幾
ら柚明が強くても、拾本も易々取らせはしない。私も必ず一本取って、この更に先へ進
む!」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「はぁっ、はぁっ、はぁ、はぁ」「ふぅ…」
美咋先輩から四拾本連続で取るのは流石に辛い。でもそれ以上に四拾本取られた先輩の
方が、息が上がって暫く動けず。やや乱れた息を抑えつつ、手を差し伸べて助け起こすと。
「柚明あんた、本当に強い。特に、持久力が。
あんたの打たれ強さや、技量は承知だから。
粘り勝つ積りで、何度でも立ち上がるって。
でもあんた。もう少しの処から、粘り強い。疲れてくれば、息が上がれば、私が一本取
る間に、連続拾本取らなきゃならないあんたが、絶対隙やミスが生じると、思っていたの
に」
「わたしも真弓叔母さんやサクヤさん相手に、数限りなく打ち倒されました……粘り勝ち
は、わたしの思い描く戦略の一つでもあるので」
「あんたの緻密さ丁寧さが、武道にこんな形で反映されてくるとはね。ミスがない。手抜
きがない。憶えた事や為すべき事は、何拾回でも何百回でも几帳面に間違わず繰り返す」
あんたの資質は武道に不向きと思ったけど。
その資質を武道に巧く繋げたじゃないかね。
先輩は、呆れたとも悔しいとも嬉しいとも。
そのどれでもある様な、爽快な笑みを浮べ。
「今日は完敗だ。でも、又機会があったなら、立ち合っておくれ。これは私の願いだ。今
や柚明は剣道でも、段位がなくても実力で私より上だから……次はその胸を借りに行く
よ」
「わたしの胸、先輩程大きくないですけど」
「私はその大きくない胸が好きだよ、柚明」
年頃の女の子特有の笑い声が収まった頃に。
雰囲気を壊さぬ様に黙していた武則さんが。
「そろそろ俺の番で良いかな」「父さん?」
「羽藤さんは次の立ち合いに、今少し休みを取った方が良いかな? 隙はなさそうだが」
「いえ。わたしはすぐでも大丈夫です。人の世の禍は、単独で来るとも限りませんから」
美咋先輩が目を白黒させる中で、わたしは武則さんの求めに応え。わたしは先輩との立
ち合いの最中から、彼の闘志にも気を配っていた。どの局面で打ち掛ってきても対処でき
る様に。彼はわたしの技量を誘い試し見極める為に、敢て闘志を剥き出しにしたのかも…。
「強敵を1人退けた後で、更に強敵が現れる。そう言う展開も想定して、真弓叔母さんと
体力が空っぽになる迄修練した後で、サクヤさんと修練を始める。なんて事もしていま
す」
実際は複数の強敵が、独りずつ襲来してくれるのは僥倖だ。複数同時に敵に回す事も想
定の内。一人の敵と戦う隙を、別の敵に狙われる展開も。どんな状況にも対処できる様に。
「ちょっと父さん?」「先輩、大丈夫です」
「美咋。彼女の想定は年齢も性別も問わぬ」
彼は竹刀を右手に面を被りつつ立ち上がり。
「成人男性相手でも、美咋との対戦で消耗しても。それで不意に来る禍が思い留まっては
くれぬ。襲い掛る犯罪者に慈悲は期待できぬ。どんな時や状況でも対処できなくば、たい
せつな人の守りは叶わぬ。だろう?」「はい」
先輩は、わたしと立ち合う様を通じて羽藤柚明をお父様に見て欲しく、『立ち会い』を
頼んだ積りで居たけど。武則さんは、美咋先輩に続いて自身が、羽藤柚明と『立ち合い』
する事で、自らわたしを見極める考えに傾き。
「美咋が言ったではないか。『父さんにだけは、柚明を見て知って欲しくて。柚明にも父
さんが立ち合う事を、許して貰った』とな」
闘志満々な武則さんと、心配を顔に表す美咋先輩は、さっき迄と反対で。見守る側にな
ると、立ち合う人を案じてしまうのか。当事者であるわたしは、先輩にもそうだった様に、
武則さんにも叶う限り苦痛少なく留める積り。
「ルールは先輩の時と同じで良いですか?」
「俺の技量も君が見れば、その程度の物と言う事か……良かろう。君の見立てが過ちだと、
俺の全力で証明して見せよう。行くぞっ!」
武則さんは美咋先輩に似た、直線的で鋭い突きや払いを用い。でもその速さや正確さは、
先輩を凌ぐ。やはり成人男性は腕力も脚力も勝る上に、体が大きいから手足も長く。経験
豊富だから攻めも守りも的確だ。特に最初は、美咋先輩と違って動きを事前に見れておら
ず。彼は先輩との対戦でわたしの動きを観察済だ。
「ぬっ、これを躱すか」「まさかそこから」
それでもわたしは、彼の佇まいや歩みから。
彼の手足の伸びの限界やその速さの限りを。
推察しつつ、実際の動きを初見で見切って。
首筋に鳩尾に延髄に、次々と掌打や手刀を。
寸止めなので美咋先輩の時と同じく、彼は体に痛手なく即座に反撃が来る。それを喰ら
ってしまわぬ様に。壱時間弱立ち合いを続け。
「がぁ、はぁっ、はぁ、はぁっ」「ふぅっ」
美咋先輩から四拾本取った後で、武則さんから更に四拾本連続で取るのは、流石に辛い。
でもそれ以上に、四拾本取られた武則さんは、息が上がって屈み込み。やや乱れた息を抑
えつつ、手を差し伸べ助け起こすと。彼は空いた左腕で、わたしの懐を掴み投げ転がそう
と。
「油断大敵だぞ小娘」「それも想定内です」
わたしは投げ転がされる力に抗わず、自ら飛んで転がされ。逆に勢いをつけて彼の身も
掴んで共に転がし。寝技で彼の腕と首を絞め。セーラー服の懐が乱れてこの素肌が見えて
も、汗だくの男女の肌が密着しても手は緩めない。
「俺の負けだ。放してくれ」「分りました」
腕の力を緩めた頃に先輩が駆け寄って来て。
決着が見えた後の彼の行いに、非難の声を。
「父さん、一体柚明に、何をやって」「済まんな。彼女の強さをとことん試したくて…」
「大丈夫です、美咋先輩。こういう事態も想定の内です。お父様はあの時点で、未だ『負
けた』とは言ってない。形勢は不利でも立ち合いは終ってない。竹刀を取り落しただけで、
息が上がって膝をついただけで。そこから逆転を狙う事は、実戦でもあり得る話しです」
「でも父さんは竹刀も拾わず、助けの手を差し伸べた柚明に、いきなり投げ技なんて!」
「そうされて、倒されるならわたしの未熟。
この立ち合いは剣道の試合ではないので」
柔らかに応えると美咋先輩の答が詰まり。
武則さんは苦笑いと困惑の笑みを兼ねて。
「そう言う事だ。彼女に油断や甘さが見えた気がしてな。本当に実戦に則す武道なら、一
つ忠告が要ると思ったのだが。彼女は卑怯な手や不意打ちにも即応してきた……完敗だ」
なる程、競技用の武道ではなく護身の技か。
相手を倒すより己が倒れぬ事に主眼を置き。
己が生きて動ける限りたいせつな人を守る。
どんな事態や局面や展開にも即座に応じて。
「まこと美咋の婿には勿体ない程の逸材よ」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
立ち合いを終えたわたしは、先輩達に招かれて、住宅街の外れの神原宅に上げて頂いて。
武則さんは、お夕飯を作る間、先にお風呂に入るように勧めてくれて。わたしも美咋先輩
も汗塗れなので、ここはご厚意に甘える事に。
「どっちが先に入る?」「一緒が良いです」
先輩はわたしの即答に一瞬淀み、それから了承の頷きを返してくれて。一緒に脱衣所へ。
「自宅の風呂に、誰かと入るのは久しぶり」
美咋先輩は幼い時にお母様を亡くしており。
父と兄2人の家族では風呂はいつも独りで。
女の子との入浴にも先輩はやや緊張気味で。
「大好きな人と一緒の入浴は、身や心を清めて疲れを拭う以上に、温もりも愛しさも共有
出来ます。お互いを肌身に感じ合う事も…」
浴室に入ると初夏の涼気が心地良く。湯船から届く暖かな湿気も好ましく。この時を愛
しい人と共有できた事も嬉しく。先輩は複数人での入浴に不慣れなのか、やや反応が硬く。
タオルで胸を隠し俯き加減で。女の子同士なら見る事も見られる事も、遠慮は不要なのに。
嫌がっている印象は、感じなかったけど。
不慣れな展開に、手探りな感触なのかな。
「わたしは、2人以上での入浴が常ですから。白花ちゃんと桂ちゃんが、いつも順番待ち
で。冬はお湯が冷めない様に、真弓さんサクヤさんとの一緒も多いし。以前は一緒だった
正樹叔父さんは、最近混浴してくれないけど…」
いいものですよ。一緒にお湯に浸かるのは。
湯船で間近に語りかけると先輩の頬が朱に。
「あんたは、こう言う時は大胆で平静だね」
「美しい人の素肌を間近に見て、全く平静ではいられないけど。見とれて我を失わない様
に、のぼせない様に努めます。出来る限り」
「見とれて我を失う。この私に、柚明が?」
意外にも彼女にはそれは当然の事ではなく。
俯き加減な唇から発された声音は自虐的で。
湯船を上がって、体洗うからと背を向けて。
「私は背も高いし肩幅も広い。体も筋肉質で硬い。偶々それが武道に向いて、剣道が少し
強かったから、物珍しさで人目を惹いたけど、見とれる様な姿形じゃない事は、自分が一
番分っているさ」「そんな事はありません!」
思わず大声で否定を返してしまっていた。
「こんなに綺麗な素肌なのに。可愛く整った顔立ちなのに。豊かで艶やかな赤い髪なのに。
背の高さも肩幅の広さも、鍛えられてしなやかな筋肉も。美咋先輩らしく凛々しく美しい。
剣道部のみんなが憧れるのは、男子や女子多数が憧れるのは、剣道が強いからだけじゃ
ない。曲がった事を好まず弱い者苛めを嫌い、表裏なく信頼できる人だから。強く優しく
美しい、わたしも惚れ込んだ綺麗な人だから」
先輩は長年自身が、女の子と剣道の取り合わせの物珍しさで人目を集めたと思っていて、
自身の魅力に無自覚で。大野教諭に蹂躙されてからは、目標としてきた強さの像も揺らぎ。
自身を獣欲に塗れた無価値な者と蔑み。彼に女と扱われた事が、先輩にはマイナス評価で。
この春から感じていた先輩の微かな硬さは。
今も間近に心許して尚拭いきれぬ強ばりは。
元々自身の女の子を過小評価していたのに。
大野教諭に女と扱われた事は先輩の痛恨で。
獣欲に踏み躙られた事も彼女の心身を傷め。
正当な愛に包まれていたならこんな事には。
ならわたしがまっすぐにこの身を愛おしみ。
愛しい人の心の傷を、叶う限り埋めて塞ぐ。
わたしは美咋先輩の背に肌身を擂り付けて。
羽藤柚明が神原美咋に抱く想いを強く伝え。
「神原美咋は羽藤柚明が恋し憧れた綺麗な人。
強く凛々しく清く優しく清々しい少女剣士。
誰もその魂を闇に沈める事は出来なかった。
誰が蹂躙しても先輩の輝きは失せていない。
先輩はわたしを守る為に果敢に戦い、決して心折れなかった。力や業では敵わなくても、
美咋先輩は願いに向けて、挑み続けていたわ。広い肩幅も高い背も長い手足も愛おしい
…」
わたしが保証します。わたしが惚れ込み愛しているから、間違いない。神原美咋は清く
正しく強い女の子。悲しみを慈しみに変えられる慈悲の人。綺麗に優しく可愛い少女剣士。
「わたしの愛した強い人が、自身を蔑み嫌う事が許せない。わたしの好いた綺麗な少女が、
自身の美しさに気付けてない事が悔しい。美咋先輩の値は何も減じてない。先輩は今も清
く凛々しくて、明日にはもっと可愛くなれる。お願い。これ以上自身を責めるのは止め
て」
先輩の両頬を伝う滴は哀しみの故ではなく。
その硬さがわたしの体温で解れる錯覚の中。
わたしの声が胸の奥に染み渡る様を悟れた。
「私を女の子言ってくれるかい。可愛いと?
男勝りで近寄る女子も多くないこの私を。
あんたは、本当に愚かな程甘く優しいね」
先輩はこの想いを受け止めてくれて。わたしの抱擁を解かない侭緩めると、振り返って。
胸が胸を潰し合う程強い抱擁で応えてくれて。
「最早強くも賢くも清くもないと、思い知らされた私だけど。満足に暴力に抗えもせずに、
組み敷かれ続けてあんたに救われた私だけど。あんたの想いがあるだけで、私は強く支え
られる。今日を明日を生きる気力が湧くよ…」
左頬同士がピタと触れ合って滴に濡れる。
肌身も想いも互いに確かに強く繋げ合い。
「愛させておくれ、私の可愛い妹」「先輩」
お湯よりも肌身の愛しさにのぼせました。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたし達が湯から上がった頃、武則さんは夕餉の食材を鍋の湯に入れ始め。東北地方の
梅雨時は気温も低めなので、賑やかに鍋をつつくのは愉しく。先輩もお兄様の帰郷以来と。
武則さんの顔が綻んで見えるのは。この様に会話の繋る食事が珍しい為らしい。いつも
父娘2人だけな以上に、昨秋以降美咋先輩は家ではそれとなく、まともな会話を避ける様
になり。事情が事情だけにやむを得ないけど。和やかに打ち解けた食事風景は、久しぶり
と。
食べ終り片付けを手伝おうとした時だった。
美咋先輩は武則さんに大事な話しがあると。
重ねられた美咋先輩の繊手の微かな震えで。
わたしは己が神原宅に招かれた真意を悟り。
「……父さん、私さ。去年秋の放課後に…」
先輩は昨秋からの大野教諭との経緯を全て。
今迄先生方にも語ってない中身を明かして。
武則さんにはそれは青天の霹靂だった様で。
何かあるかと訝った事はあったらしいけど。
「あの若者が、そんな裏を隠していたとは」
実力は俺より上でも上手に年長者を立てて。
道場で聞いた噂でも見所があると好印象で。
巧く整いすぎて嘘っぽい感はややあったが。
驚きに声が詰まり気味な武則さんに先輩は。
「柚明に助けて貰ったんだ。大野は私を犯して脅して従えながら、柚明にも同じ事を為そ
うとして。私はせめて柚明だけでも守りたく、大野に挑んだけど、私の力ではどうにも出
来なくて。私の挑戦が全て挫けた後で、柚明が大野を打ち倒し、私を守って救ってくれ
て」
柚明の技量は、さっき見て貰った通りさ。
今迄ずっと、言えてなくてごめんなさい。
「私が父さんに、柚明に逢って貰いたかったのは。柚明を見て欲しかったのは。私の恩人
として、私の身も心も助け出してくれたたいせつな人として。知って欲しかったから…」
今柚明は学校で日々その続きを戦っている。私の為に、柚明は奴を婦女暴行で、柚明へ
の暴行で告発し。その為に何度も先生方の詮議を受け。辱められた映像を何度も検分され
て。何を為して為されたかの経緯を、何度も何度も問い直されて。柚明は身も心も傷めた
のに。必要不可欠な手続だって事は分るけど、でも。
美しい人は大粒の滴を瞳に溜めて。でもそれは自身の悲痛を思い返しての怯えではなく。
わたしが望んで為した告発の故の心労を案じ。己の為ではなく他者の為に美しい瞳を潤ま
せ。
「柚明が危難に陥って酷い映像を残したのは。
確かな証拠を掴んで大野を失職させる為で。
それは柚明じゃなく私の為だ! なのに」
神原美咋は守られるだけで何も出来てない。
柚明の守りに包まれ真相を誰にも知られず。
操を守り通せた柚明が大人の質疑に晒され。
私は距離を置いた安全圏からその様を眺め。
「今の私はある意味、助けられる前より格好悪い。今の私は戦えてない。柚明の守りに包
まれて身を屈めている……今の私は敗者以下、唯守られる弱者だ。私はこの2週間何もせ
ず、柚明が大野を告発する様を、見ているだけで。
柚明が殴られ蹴られるより痛く辛い状況を、独りで戦い抜いているのに。私は唯見てい
るだけ。これは私の生き方じゃない。私が学んだ剣の途でも、目指した剣士の姿でもな
い」
美咋先輩は、自身が教諭に為された事も。
学校に告げると。その前にまずお父様に。
わたしを見せて事実を伝え、意志を語り。
「私は痩せても嗄れても神原美咋だ。父さんの娘で端くれでも剣士の積りだ。強きを挫き
弱きを助く生き方を、父さんや道場の師範や先輩から、学んで今迄生きてきた。力や技で
勝てない事はあっても、心は絶対折れないと。
柚明が、女の子の恥や傷を知られたくない私の気持を察して。全てを自身に引き受けて、
危難も傷みも羞恥もその身に被って、守ってくれた事は嬉しいよ。肌身に染みる。でも」
柚明への暴行陵辱のみで大野を失職させて。
神原美咋への所業を誰にも報せないのでは。
「私はあんたに守られ放しになってしまう。
人生を年下に庇い通されて終ってしまう」
わたしは先輩が望むなら。学校にもお父様にも、大野教諭の為した事を知られずに済む
ようにと。独りで教諭を告発したけど。わたしへの陵辱のみで彼の罪を問うたけど。でも。
逆に、それが美咋先輩の負荷になっていた。
生涯事実を隠し通し、守られ通す事になる。
隠さねばならない重みを、残してしまった。
隠し通せる状況を、残せてしまったが故に。
先輩は生涯秘密を抱き続けるか否かを悩み。
わたしの気配り等所詮子供の浅知恵だった。
わたしの件と一緒に学校に事実を訴え出て。
一緒に医師や専門の相談員や家族や先生に。
その想いを打ち明け取り縋る様に導く方が。
立ち直りには近道だったかも知れないのに。
いつ迄もわたしは物事を見通す賢さを欠き。
守りたい想いは抱けど最善の結果を導けず。
美咋先輩はその心の強さでわたしの失陥を、埋め合わせてくれた。彼女は勇気を振り絞
り、学校の先生方やお父様へ、大野教諭に陵辱された事を自ら明かす意を決し。神原美咋
を立ち直らせたのは、誰でもなく彼女自身だった。
「柚明と同じ場所に立ちたい。力も技も遙かに及ばず、助ける積りが守り救われ。情けな
いけど。それでも年下の可愛い娘を、1人矢面に立たせてはおけない。本当は私の事柄な
のに。せめて柚明が返り血を浴び心削られて戦うその場に私もいたい。今更な話だけど」
私も生涯隠し通すのはちょっと気が重いし。
打ち明けないと父さんに向き合えないから。
「柚明の配慮を無にしてごめん。でも私は。
柚明に唯守られるより守り合いたいんだ」
人間関係に一方通行はないと、和泉さんも強く語っていた。美咋先輩もそう願うのなら。
後方の安全圏に置いて守るのではなく、戦場で共に戦い守り支え合うのも、一つの選択か。
「正解……それが美咋先輩の真の想いなら」
わたしの考え等視野の狭い子供のお節介だ。
躊躇いなく先輩の確かな想いと選択の侭に。
本当に強く潔く心まっすぐな、愛しい女性。
「ふつつか者ですが、これからも宜しくお願いします。わたし、先輩を全力で支えます」
武則さんにはこの間、幾度か鋭い視線を向けられたけど。彼は美咋先輩の言葉が尽きぬ
限り、妨げはせず耳を傾け。最後にはわたしに深々と黙礼して、今後も娘を宜しく頼むと。
まるで娘を婚約者に奪られる事を認める様に。
「済まなかったな美咋。そんな事になっていると気付く事も出来なくて。俺の不徳だ…」
想いを繋げたわたし達は、揃って台所で洗い物を片付け。美咋先輩と同室の夜を迎える。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
武則さんは来週月曜、職場を早退して美咋先輩と放課後の職員室に赴く。幸い学校側は
わたしの案件も、驚き動揺しつつ、ごく一部の先生方以外は箝口令を徹底し。不祥事隠し
ではなく、女の子の名誉を守る為に事を伏せ。大野教諭を諭旨免職させる方向で動いてい
て。
羽様の家族の抗議にも、不手際を認め真摯に謝り。事の収拾に力を尽くし、誠実に応え
てくれて。先輩が全てを明かしても、きっと酷い結末にはならない。学校も守ってくれる。
神原宅は大きめで、空き部屋もあったけど。
武則さんはわたしと美咋先輩の同室を許し。
美咋先輩はわたしとの同衾も迷いなく許し。
2人になった瞬間先輩はわたしに吸い付き。
「怖かった……人生で一番怖い瞬間だった」
電灯を消す暇もなかったので明るい室内で。
抗う事なくわたしも先輩と唇を重ね合わせ。
離れる事を許さない程強い締め付けに添い。
間近な美しい人は想いの強さに溢れ返って。
「父さんに蔑まれるかもって怯えた。叱られるより、失望させ、哀しませるのが怖かった。
清くも強くも潔くもない娘の実態を知られる瞬間に、心は震えて。柚明が居てくれたから。
柚明が柚明の家族や学校の先生に、事実を明かして、大野を告発してくれたから。あん
たがもっと先へ先へ、戦いを進めていたから。私はやっと、後追いする勇気を絞り出せ
た」
あんたが心傷め削りつつ前に進む姿を見て。
私を守る為に自身の辱めを明かす様を見て。
「これじゃダメだって。唯守られて終るのでは生涯悔いを残すって。柚明の戦友になりた
くて、近付きたくて、同じ場所で支え合いたくて。私は漸く心定められた。それでも…」
抱くと言うより絞めるに近い抱擁の強さは。
先輩の緊張の裏返しで、安心と歓喜の故の。
頬を伝い、組み伏せたわたしに落ちる滴は。
悲哀よりその悲哀を共に乗り越えた喜びの。
「最も身近な父さんに事実告げるのに、こんなに心乱されて。ちっとも剣道の修養が活き
てない。平常心は乱れまくり。一体あんたはどれ程凄まじい覚悟で、私を助け守ろうと」
背も高くないのに。手も足も長くないのに。
筋肉質でもなく、見かけは可愛い娘なのに。
どこからそのとてつもない勇気と覚悟は…。
先輩は無意識に、わたしの肌触りや温もりを求めていた。大野教諭に何度も穢された感
触を拭い去りたく。彼より心も体ももっと強く繋る者を欲して。でも暴力で組み敷いた男
性の感触は、怯えとなって肌身に残っていて。
大野教諭と異なる柔らかな女の子の肌身は、尚不安定な彼女を安らがせるのに適してい
る。だからわたしはその肌身の求めに渾身で応え。わたしも愛しい少女剣士を肌身で求め
感じて。
「有り難う、私の前にいてくれて。柚明…」
美咋先輩はわたしに想いを返したく。その為には肌身を持って為す他に術を思いつけず。
歩み出せた成果を喜びを共有したく。今後への不安も鎮めたく。緊密に肌身を繋ぎ続けて。
「それは先輩自身の心の強さです。わたしは、むしろ先輩の強さを信じ切れず、全てを秘
する方向に事を導こうとして。己の浅はかさを思い知らされました。わたしが憧れ惚れた
強い人が、そんな生き方を心から望む筈がないのだと、気付けず気を配った積りになっ
て」
先輩はわたしの言葉を唇塞いで一度止め。
流れ込む愛しさに体が痺れて心が蕩ける。
唇離しても間近に豊かな赤毛の女の子は。
「そうじゃないよ。私が強くあろうと勇気を振り絞れたのは、あんたが居てくれたお陰だ。
柚明の見立ては間違ってない。柚明に救われる迄私は、大野の暴力と奸智に何も抗えず
従わされて。進路を握られたとか辱めのテープ撮られたとかは、本当は理由にはならない。
テープはむしろ柚明が奴の告発に使った位で、良く考えて覚悟を固めれば犯罪の証なの
に」
私に覚悟が、闘志がなかったんだ。大野に穢された時同時に心も折られて、従わされた。
そんな私を甦らせてくれたのが、あんたの強さと愛しさだった。柚明が途を切り開いた
から、堂々告発を始めたから。私の尻に火が付いた。あんたが居なければ、私は今も尚…。
「柚明の読み違いは自身の過小評価。羽藤柚明の影響を、己が読み切れなかった事だけだ。
でも、それ程に強く賢く清く可愛い女の子を、間近に愛し愛される今は嬉しい。あんたと
は、やはり守られる弱者としてより戦友が良い」
美咋先輩とは2週間前の土曜日。大野教諭を格技場で打ち倒した後、服は脱がなかった
けど2人肌身を触れ合わせた。でもあの時は傍に延びて倒れた教諭もおり、為すべき事も
あったので。満足の行く迄想いを通わせ合えず。先輩はあの時からずっと続きを願って?
2週間近しく言葉を交わす事も避けてきた。
美咋先輩を巻き込まない為ではあったけど。
人目を避け、隠れ潜む在り方は潔くはなく。
真実を隠し続けるのかと問い直す事に繋り。
先輩はそれが耐えきれず自身を許せなくて。
漸く叶えた今宵の2人きりは全てを注ぐと。
「柚明の大事な物迄喪わせる積りはないけど、幸い私は既に初めても終えている。性愛で
は漸く私が優位に立って教える側になれるかね。尤もあんたはかなり憶えが早いから。さ
っきの剣道の様に、すぐに追いつかれるかも…」
「先輩、少し恥ずかしい。せめて、電気を」
「暗闇で為すのもいいね。でも今その恥じらう顔を見てしまうと、見えなくなるのが勿体
なくて。もう少し電気はこの侭で」「先輩」
「大丈夫、私も柚明に見られて恥ずかしい」
見事な肢体とその美貌に、思わず見とれ。
凛々しい女の子の笑みに、望んで流され。
「男にも女にも、恋した事のなかった私が。
初めて身も心も惚れ込んだ可愛い女の子」
神原美咋を全て捧げたい。愛させておくれ。
少女剣士との愛しい夜は、始ったばかりだ。