第11話 愛しさの故の
前回迄の経緯
羽藤柚明が中学2年の冬休み終盤に、わたしが視た不吉の像は。街に住む従妹・可南子
ちゃんに迫る危難であると同時に、それを防ぎに挟まる羽藤柚明・自身の危難でもあって。
従妹を襲う危難は、わたしが身を挟めて防がぬ限り、時期をずらせても防ぐ事は叶わず。
身を挟めた己が無事で済む像も視えず。でも見過ごして、自身だけ安泰を貪る事は出来ず。
可南子ちゃんはわたしのたいせつな従妹だ。そして彼女をたいせつに想う人も、彼女が
たいせつに想う人も、わたしのたいせつな人だ。幾ら己が傷を負っても、涙を堪えても、
たいせつな人の安らぎを守る事が、わたしの願い。
そしてそれは唯敵を退ける事では終らない。
参照 柚明前章・番外編第8話「従妹のために」
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人の気配も視線も失せた夜の校舎の闇の奥。
視界を埋め尽くすは長く艶やかな白銀の髪。
時折気紛れに月光が差し込む冷たい廊下で。
一糸纏わぬこの身は愛しい人の腕に抱かれ。
「愛させておくれ、あたしのたいせつな人」
優しくそう語りかけてくれる声が愛おしい。
肌身をきつく締め付ける二本の腕が嬉しい。
この身が折れてしまいそうな程強い抱擁は。
折れそうだったわたしの弱い心を支え保ち。
「嬉しい、サクヤさん。幸せの極みです…」
溢れ出る雫に頬を濡らしつつ暫く己を委ね。
雲間から覗く蒼光に抱擁を照されるに任せ。
男女拾四人の血や汗やヨダレに汚れ、一糸纏わぬわたしを抱く。サクヤさんは青いジー
ンズに白いジャケット、赤のキャミソールで。一見すると、女性にしては見事な体格のサ
クヤさんが、わたしを貪る様子に見えたかも…。
可南子ちゃんとその想い人である宍戸さんを守る為に。羽様から一日電車を乗り継いで、
2人の学校に踏み込んだ冬休み終盤の金曜日。2人に害しようとした者達は、わたしや宍
戸さんより一級上の男女拾四人。彼らに対峙したわたしは、制服も下着も切り裂かれ。こ
の身は多数の腕に囚われて、抗う事も許されず。
殴られ蹴られ抓られて、股を無理矢理開かされ、胸を揉まれ唇も奪われ。男女多数のヨ
ダレや汗に嬲られて。刃で両乳房の先も切り落され掛けた。刃は最後迄行かなかったけど。
代りに男の子達に何度も何度も吸い付かれ…。
女の子の初めてを喪わずに済んだのは僥倖だった。心が折れる寸前迄行った。例えこの
身を貫かれても、子種を宿す事になろうとも。たいせつな人を守り逃がす積りで駆けつけ
たけど。初見である宍戸さんの信頼を得られず、この経過を辿る像は視えた。一級年上の
男女拾四人の悪意に、晒され嬲られるこの結末も。
全て視通せて尚無謀を為したこのわたしに。ヨダレや汗や欲情や悪意に汚されたこの身
に。白銀の艶々な髪の長く美しい人は、ぴったり肌身添わせてくれて。唇も頬も重ねてく
れて。
「あんたは、いつ迄も、あたしの柚明だよ」
放さないと、捨て置かないと。その親愛を受ける資格さえも手放し喪った今のわたしに。
「あたしは、あんたに何度も言った筈だよ」
逸らそうとした瞳を目力で引っ張られた。
逃げようと蠢く体をがっしりと掴まれて。
最も無様を見せたくなかった恋しい人に。
逃げる術もなく裸で向き合わざるを得ず。
でもその瞳には蔑みも怯えも嫌悪もなく。
合わせた肌には躊躇いも惑いさえもなく。
「例え傷物になったって、あんた程可愛い娘はそうそういない。貰ってくれる男がいなけ
りゃあ、あたしが貰ってやるから安心しな」
あたしの想いは、何一つ変っちゃいない。
白銀の髪の人はわたしの瞳を打ち抜いて、
「あたしは、どんな柚明でもたいせつ。
あたしは、いつ迄も柚明がたいせつ。
あたしは、柚明を支え助け受け止めるよ。
だからあたしに、守らせておくれ、柚明」
必死に保ち続けてきた心の枷が抜け落ちた。
この人の抱擁を受ける資格はないと承知で。
この親愛を感触を望み欲する己の弱さを制せられない。歓喜に流される己を止め得ない。
他に誰の目線もない事が、幸いだったかも。何一つ隠せぬ己の肌身より、何一つ隠せぬ
己の弱さ脆さの露わな暫くを知るのは。わたし達2人と、雲間に見え隠れする月明かりの
み。
想いは喉から胸から、瞳からも溢れ出て。
身は愛しい人に、ひしと縋りついていた。
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可南子ちゃんが学校で、部活で虐めを受け始めたのは昨秋だった。着替えや靴を隠され
汚され切り裂かれ。直接害された事はないけど、誰が為すか分らぬ侭に、関れば禍が及ぶ
と他の人も離れ。仁美さんや伯母さんの心配に可南子ちゃんは、一定の嫌がらせは認めた
上で、庇ってくれる先輩がいるから大丈夫と。
先生に言うと告げ口となり、相手を怒らせ、虐めを激化させ、陰湿化させる。逆効果の
怖れがある為に、その先輩も可南子ちゃんも暫く様子を見たいと。仁美さんも伯母さんも
心配しつつ、今暫くその考えを尊重する方向で。
でも、それでは根本的な解決には繋らない。
そしてそれ以上に、致命の危難が迫り来る。
可南子ちゃんを襲う禍を視たのは昨日夕刻。
姉である仁美さんの電話を受けて漸く悟り。
仁美さんは今朝から2泊の合宿に行く前に。
虫の報せか世間話の合間に不安を語って…。
わたしは元々今朝出立の列車で、両親を喪う迄の幼少時を過ごしたこの町に来る予定で
いた。幼友達の杏子ちゃんに会う為に。杏子ちゃんとは小学3年のあの日以降、逢えてな
い。別れも告げられずに転校し、何度か町を訪れた時も、互いの都合が合わず逢えなくて。
今度こそ逢おうねと、周到に互いの予定を合わせていたけど。なぜか関知の力は今回も、
杏子ちゃんと逢える像を映さず。直前迄不確かな禍の影を感じつつ、その実体は見通せず。
仁美さんの電話で概ねが視えた。その禍をわたしが受けて退けなくば、可南子ちゃんと
想い人が、絶望と悲嘆に陥ると。2人を守り庇うには、己が禍に飛び込まねばならないと。
結果自身が無傷では済まない事も。だからわたしは前夜の最終列車で今朝この町に到着し。
「今回もわたし達、逢えないかも知れない」
たいせつな人を2人共心迄掬い上げる術が、他に視えなかったので。羽様の家族には全
てを話さずに来た。女子バレー部の可南子ちゃんに迫る禍を『部活の先輩拾数人』と述べ
て。相手は全員女の子と、嘘なく偽りを印象づけ。
実際には、玉城愛美さんを初めとする女子バレー部6人と、小島裕也君を初めとする男
子バレー部8人の、3年生が合わせて拾四人。年上の男の子が複数いると知れば、真弓さ
んは絶対にわたしの無謀を許さなかっただろう。
男の子は女の子より腕力もあり、筋肉質で体重も重く打たれ強い。真弓さんに護身の技
を教わって5年経ち、素人ではなくなったわたしだけど。この数の男の子相手でも、重傷
負わせず手加減して退ける技量は持てたけど。
わたしも女の子の故に身が軽く、打撃に力を込めるのが難しい。筋肉質でもない細身は
打たれ強さでも男の子に劣る。幾ら巧く戦えても1つ拳か蹴りが入れば危うい。その上女
の子は戦いに敗れると、時に操の危険が待つ。わたしが視た禍も、それに類する物だった
…。
降り始めた雨空の元、学校の可南子ちゃんに届ける傘を預って。狼の罠の奥に踏み込み。
可南子ちゃんが慕う先輩、宍戸伶子さんにご挨拶して。実は部活のない可南子ちゃんに偽
情報を伝えてここへ招いたのは、彼女だった。
隠された運動靴を探そうと。助力して成果を得て、宍戸さんは可南子ちゃんの信を掴み。
2人が空けた女子更衣室で、男女拾四人は従妹の体操着を切り刻んでから、一度姿を隠し。
「先輩、怖い。刃が怖いです。すぐ近くに!
わたしのジャージ裂いた人がすぐ近くに」
隠された運動靴を、親しい先輩と共に探し、見つけて喜べた後だけに。誰とも知れない
敵意だから。形だけは明瞭に残るから。安心の直後の落差に。可南子ちゃんは身も心も震
え。
「大丈夫。私がここにいるから、大丈夫よ」
守ってあげる。庇ってあげる。あなたを確かに支え助ける。可愛いカナちゃん。大好き。
「私を信じ、その身も心も委ねてくれる?」
「はいっ……。れいこ先輩を、信じます…」
「……今は、それを……させないわっ…!」
繋ぐ唇を妨げたのは、嫉妬の故ではない。
驚く2人を生徒玄関近く迄引っ張り走り。
「あなた達、騙されている。2人とも、宍戸さんあなたも、嵌められているの。彼らに」
宍戸さんは、女の子の可南子ちゃんに恋心を抱いていた。無理もない。ショートな黒髪
も愛らしい容貌も。小柄な細身もはきはき素直な応対も。わたしが抱き留めたい程だから。
でも宍戸さんは『女の子に抱く想い』の後ろめたさ故に。嫌われ蔑まれる事への怖れの
故に。想い人に真の気持を告げられず。影で可南子ちゃんのタオルやシャツに手を伸ばし。
その恋心を玉城さん達男女拾四人に知られて。
体操着や運動靴を隠し汚し、悪い噂を広め、可南子ちゃんを孤立させたのは。宍戸さん
と、彼女に助言し協力してきた男女拾四人だった。物を隠す等の間接手段で、誰が敵なの
か分らない状態にして、部活の友達関係を引き裂き。可南子ちゃんの視界に宍戸さんのみ
残る様に。宍戸さんだけが可南子ちゃんを守り庇う為に。時に自ら隠した体操着や靴を探
して信を掴み。
でもそれは可南子ちゃんの為にも宍戸さんの為にもならない。作為で恋を叶えても宍戸
さんに痼りを残す。関係を長く続ける程に罪悪感が棘となって残る。誰の幸せでもない結
末が、宍戸さんも知らぬ男女拾四人の意図だ。
「俺達は、2人の願いを叶えただけだぜ?」
「他の奴らも切り離し『レズかな』も『レズれい』も孤立させ、状況整えてやったんだ」
「異常な奴らはしっかり隔て遠ざけないと」
「病原菌バラ蒔いたら困るでしょ、周りに」
宍戸さんが助言者と、信じ頼っていた先輩男女拾四人の仮面が、この時遂に剥げ落ちた。
「……あなた達は、宍戸さんの想いを歪めて彼女を苦悩させ、可南子ちゃんを哀しませた。
弱味を握って脅し操り、宍戸さんを過ちの方向に押し出した。2人の仲を望むなら他に
方法はあったのに、敢て2人が傷つく様に」
合意でも強奪でも宍戸さんに、可南子ちゃんへの想いを遂げさせ、証拠を掴む。脅され
たら従う他に術のない状況に陥れる。あなたの恋を助けるのは彼らの欲望の為よ。2人を
脅し貪る思惑の為よ。証拠を撮れば彼らは豹変する。宍戸さんあなたも嵌められているの。
「家のお金を盗ませたりカードを持ち出させたり、2人に援助交際でお金作らせる事迄」
彼女達が宍戸さんに関ったのは、好奇心でもなければ好意の故でもない。彼女達は宍戸
さんを、女の子を好いたあなたを、大事になんか想ってない。異常者だと蔑み見下し、悪
意を抱いて利用し操り、罪を為させて嘲笑い。
「だから彼らはあなたに、正面から可南子ちゃんに向き合う様には、一度も言わなかった。
それは普通の想いでないから諦めなさいとも。善意の欠片もなかったから。追い込み哀し
ませ縋り付かせる方向にしか助言しなかった」
蔑み嫌うのは人の趣向だからやむを得ない。確かに2人の想いは普通と違う。でも、気
に入らないからと、他者の想いも行いも歪めて、不幸に陥る様に促すのは、見過ごせなか
った。
「これ以上2人に害を為さないで、お願い」
それを阻む為の介入だった。可南子ちゃんを好いて好かれた宍戸さんが、男女拾四人を
助言者と信じ頼る限り、禍の芽は残り続ける。事前に幾ら話しても、初見のわたしの言葉
に信は薄い。だから敢て囮捜査の真似事をして。
宍戸さんの想いも所作も可南子ちゃんの前で全て明かし、男女拾四人の真意も露わにし。
そうせねば宍戸さんも填められていると悟れない。可南子ちゃんの真の想いも導きたくて。
2人が絆を結ぶには抜き取っておくべき棘だから。人の恋路は促しも阻みもすべきではな
いと承知で。宍戸さんの憤怒はこの身の全てで受け止める。この傷や痛みは天罰なのかも。
たいせつな人を人質に取られ、抗う術を封じられ。その目の前で制服も下着も破かれて。
男女多数の手で嬲られ揉まれ、股も無理やり開かされ。欲情を煽られた姿も写真に撮られ。
殴られ蹴られ唇も両の乳房も吸われ。感応使いのわたしは彼らの悪意や欲情を肌身に分る。
故に己の心迄が蚕食されて闇に呑まれそうで。
心が折れ掛っていた。でも人質の値打ちを、2人の無事を保つには、己の戦意を捨てず
に耐えねばと。必死に己を鼓舞し続け。傷と痛みを受けて堪えて、禍を突き抜け退けた末
に。
「許して。カナちゃんの為だったのよっ!」
「あなたが男子を全員退けられる程強いと知らなかったから。木刀持った杉原さんを素手
で倒せると知らなかったから。今後の事迄も全部考えて助けに来たと知らなかったから」
信じなくてごめんなさい。裏切ってごめんなさい。酷い目に遭わせてごめんなさい…!
「お願いだから痛いことしないで。悪意はなかったの。唯玉城先輩の囁きが、囁きが…」
「寄って来ないで近づかないで触らないで。
お願い、誰か。誰か助けてえぇぇっ…!」
宍戸さんと心通わせる事は、遂に叶わず。
「今日はありがとう。……宍戸先輩はあたしが家迄送るから、ゆめいさんは別に帰って」
「今もゆめいさんが、れいこ先輩に仕返しとか考えてない事は、あたしが分る。大変な目
に遭ったれいこ先輩を力づけ安心させようと、手を伸ばし声かけてくれたと、あたしは分
る。……でも、先輩はまだ心が乱れているから」
ゆめいさんは悪くない。悪くないどころか、本当にあたし、何度も何度も、助けて貰っ
て。
「でも……ゆめいさんは、1人でも、強い」
「人の助けや支えがなくても、1人で男の子多数退けて、危険も痛手も受けて耐えて飲み
込んで切り抜けられる。あたしの助けや支えなんて不要と言うより、足手まといな位に」
分ったの。あたしも強い方じゃないけど…。
れいこ先輩は、あたしが守ってあげないと。
ゆめいさんが間近にいると、れいこ先輩の心が乱れる。ゆめいさんが先輩を憎んでも恨
んでもいない事は、落ち着いたら順々に先輩にお話しする。納得して貰うから。今だけは。
「ごめんなさい。れいこ先輩の前を外して」
可南子ちゃんは、誰かの支えがなくば己を保てない迄に心を痛めた宍戸さんを捨て置け
ない。2人を戦い守る為に、わたしは己の怯みを見せない。戦い守り切れたなら、可南子
ちゃんは宍戸さんに心傾く。この末を承知で、この末を招く為にわたしはここに駆けつけ
た。
「……うん、わたしの事情で、行けなくなっちゃったの。杏子ちゃん、本当にごめんね」
「良いよ、ゆーちゃん。人には色々事情がある物だから。ゆーちゃんが心底あたしに逢い
たかったって事も、それがどうしても出来ない事情がある事も、その声で分ったから…」
あたしは気長なの。ゆーちゃんの気持を繋ぐ為に、一年以上毎週電話し続けたり、スト
ーカー並に粘り強いの。今宵逢えなくてもあたしの想いは変らないよ。ゆーちゃんだって
そうでしょう? あたし達、相思相愛だもの。
視えた像は遂にこの手で変える事能わず。
わたしの判断と選択でこの結末を導いた。
己の欲求より幼友達の望みを叶えられなった事が残念で。羽様の大人の心配に応え切れ
ない己の力不足が悔しい。白花ちゃんと桂ちゃんの涙を振り切った慚愧は拭えず。そして。
「……柚明っ、あんた。その、姿っ……!」
「さっ、サクヤおばさん。……どうして?」
嬉しかったけど。身が震える程嬉しかったけど。今正にその温もりを肌触りをわたしは
欲していたけど。美しい人の視線から、その腕と声から逃れようと走り出し、廊下の端で。
細く長い腕に背後から、何も纏わぬ汚れたこの身をがっしりと、抱き留められて。体か
ら力が抜ける。せめて何か一枚纏っておけば。
「ごめんなさい、サクヤおばさん。わたし」
「穢されちゃった。……もう、サクヤおばさんの綺麗な腕に抱き留めて貰う資格がない」
どんな事情があっても、どんな背景や理由があっても、この身がされた事に違いはない。
下半身の大事な処のみは守れたけど後はもう。
「わたしに、触らないで。サクヤおばさん迄穢れてしまう。この身の汚れが移っちゃう」
サクヤさんの美しさに染みをつけてしまう。
サクヤさんの気高さをわたしが貶める事に。
「わたし、傷物です。もうサクヤおばさんに想って貰える資格もない程、身も心もっ…」
もう真っ白には戻れない。忘れる事も閉じこもる事も己に許せないわたしだけど。でも、
でもその故に、今日の事は心に重くのし掛る。何も識らない子供ではいられない。なのに
…。
締め付ける腕の力はかつてなかった程強く。
声音に宿す想いは感応の力も不要な程熱く。
「人を庇って傷を負うのも。心配させたくないとそれを隠して、涙や叫びを飲み込むのも。
傷を負った自身を哀しむんじゃなく、その傷に傷み哀しむ周囲の誰かを想い案じるのも」
全部あたしの柚明じゃないか。何一つ変っちゃいない。あたしの愛しい柚明じゃないか。
「もしも柚明が唇を穢されたというなら…」
正面から柔らかな唇が、わたしのそれに。
軽く触れ、でもしっかり繋って静止して。
初めてだった。サクヤさんとの口づけは。
心の準備の間合も、頬を染める暇もなく。
想いの奔流に悲哀も傷心も押し流されて。
柔らかで暖かな、強い情愛の虜にされた。
「……全部あたしが、拭い取って清めるよ」
堪えていた筈の涙が、溜めていた筈の悲哀が、一瞬で全部愛しさの涙になって溢れ出る。
「傷みも哀しみも分けておくれ。悔いも穢れも分けておくれ。1人で背負わず壊れる前に、
あたしにも分けておくれ。闇に沈むあんたを前に、己1人清く正しく生きる気はないよ」
あたしは柚明がたいせつなんだ。例え何がどうなろうとも、一番に想う事叶わなくても。
羽藤柚明は浅間サクヤには、換えの利かない唯1人なんだ。想いたいんだ、愛したいんだ。
可南子ちゃんの前でも杏子ちゃんの前でも、桂ちゃんや白花ちゃんの前でも見せられな
い、見せてはいけない嗚咽が漏れる。汚してしまうと分りつつ、両腕はサクヤさんの背に
回り、身も心も艶やかな肌に縋り付いて離れられず。
美しい人の頬が唇がこの頬に擂り合わされ、首筋に繋がれ、胸元に降りて。可南子ちゃ
んに口づけされた左乳房の先へ、右乳房の先へ。滑らかな掌は壊れ物を離さない様に、逃
がさない様に、がっしりこの身を心を固定し支え。感応使いのわたしは為される以上に肌
身に強い親愛を悟れてしまう。親愛以上の想い迄も。吐息を出して漏らす事が勿体ない程
甘く尊い。
服の上から悟れる大きな胸がこの胸を潰し。
恋したその唇が何度もこの唇に頬に繋がれ。
男女多数に嬲られ穢されたわたしを厭わず。
熱く強い慈しみが体より心を温めてくれる。
例え永久に手に入らなくても。わたしには欲し望む事も手を伸ばす事も叶わぬ願いでも。
この愛おしさを心の核に刻む限り、傷つけられても穢されても、羽藤柚明は頑張り抜ける。
夜の闇は全てを優しく包み隠してくれた。
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それからの展開は本当に嵐の様で。わたしは振り落されない様に追随するのが精一杯で。
駅近くのコインロッカーから着替えを取り出し。着替えて可南子ちゃんの家に独り戻る。
サクヤさんは贄の血の匂いを辿ってわたしを捜し当ててくれたけど、その事情は明かせな
いので暫く別行動を願い。可南子ちゃんの家から羽様へ電話して貰い。羽様から『偶々こ
の近辺にいた』サクヤさんの携帯に連絡が入った事にして、保護者代理として訪れて貰う。
わたしの再訪は、可南子ちゃんが帰り着いた直後で。涙の跡も拭いきれず、落ち着き切
れてない従妹の話しを聞いて、動揺していた叔父さん叔母さんを、更に驚かせる事になり。
虐めの正体と今宵の経緯を概ね話し、胸の傷を見せると2人は言葉失って。詳細は後で
聞くからとタクシーで市立病院の夜間診療へ。なのでサクヤさんと合流出来たのも病院で
す。
「私は君と縁がある様だけど……この職の故に縁があるのは、余り幸いではないかもね」
整形外科の田中医師は、再会を喜びつつも、肌を晒すと露わな体中の痣や胸の傷に困惑
し。
あの夜から5年半を経て尚若く、やせ気味の体型に人の良さそうな彼は。一昨年結婚し、
去年娘さんが生れたらしく。故に若い娘の血塗れな姿は、他人事に感じられなかった様で。
診察や応急処置を受ける間に、事情を訊かれ。
「いいえ。元気にお仕事に励む先生に逢えた事も、今宵先生に診て頂ける事も幸いです」
受け答えから、わたしが心にどの程度痛手を被っているのかも、診る意図が悟れたので。
可南子ちゃんと宍戸さんの女の子同士の絆以外の概ねを話し。己は塞ぎ込んでないと伝え。
「大変な目に遭ったね……にしては信じ難い程の落ち着きだ。見た感触では正気を保つの
が困難な程の痛手だが。君は本当に心が強い。
でも、己の内に呑み込み抑えるには大きすぎる傷み苦しみも、世にはある。人は常に強
くある事は難しい。特にその歳ではね。君は自身の脆さ弱さを全て打ち明けて縋れる人が、
傍にいるかね。とても有り難い存在だよ…」
田中先生は、サクヤさんを念頭に置いて喋っている様だった。お父さんお母さんを喪っ
た時も、仁美さんの深傷を治しに訪れた時も、わたしの身に心に添ってくれた人だったか
ら。
『自身より従妹の容態を優先して気に掛けて。
従妹や伯父伯母の心配を招かぬ様に気遣い。
仁美君の深傷に駆けつけた時も【人を想う強さ】を見せてくれた。見た感じ痛々しいが、
彼女の心は見た目より強い。された事から考えて男の私が挟まるのは不適当……堪えすぎ
て心が折れない様に、大人が暫く注意して見守るべきと、サクヤさんに助言しておくか』
消毒し薬を塗って、包帯や湿布に身を包まれて。入院は必要なく静養で良いと言われた。
月曜日に治り具合を診たいとも言われたので、銀座通中の3学期始業式は休むけど。学校
や警察の事情聴取も週末では終りそうにないし。
可南子ちゃんも叔父さん叔母さんも、傷痕が残る事を心配してくれて。大人に見せる前
に治らぬ様に自然治癒を抑えているけど。今のわたしは半日あれば贄の癒しで痕も消せる。
処置も終えた深夜、サクヤさんも一緒に可南子ちゃんの家に泊めて頂き。可南子ちゃん
は叔父さん叔母さんの部屋で川の字になって安眠して貰い。わたしは客間でサクヤさんと。
その艶やかな肌に身を添わせて眠る幸せに。
幼い頃を思い返しつつ心も添わせて翌朝は。
陽が昇って起こされる迄微睡みの淵にいた。
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翌土曜日は午前中やや遅く警察署を訪れて。
少年犯罪を扱う部門に通して貰いお話しを。
宍戸さんが為した事も先輩達が為した事も。
胸の傷も体の痣も恥かしい写真も全て晒し。
彼女と可南子ちゃんの女の子同士の絆以外。
真を語る事で矛盾も破綻もない証言になる。
宍戸さんは先輩達に逆らえず過ちを為した。体操着や運動靴を隠し、可南子ちゃんの悪
い噂を流したのも。その時点で既に彼女の意志で引き返せない状況だった。男女拾四人に
加害者たる事を強いられた。万引きを強要される虐められっ子と同様、宍戸さんは被害者
だ。
彼女が男女拾四人に従って、可南子ちゃんの頬に刃を当て、わたしの抗いを封じたのも。
わたしが男の子多数を退けられると、彼女は知る筈もなく。わたしは所詮他校生で、2人
を常時守る事は叶わない。男女拾四人に抗えばどうなっていたかは、この身が示す通りだ。
「可南子ちゃんは宍戸さんを、今のバレー部で唯一信じ頼む先輩だと、言っていました」
2人の親密さは隠さない。2人が女の子同士で恋心抱き合う事は3人で伏せ。男女拾四
人は2人の仲を、勝手に女の子同士の恋愛と見なし蔑み憎悪して、集団で脅し従わせ操っ
たと。全ては語らず、嘘なく偽りを印象づけ。
男女拾四人は『填められた』と憤ったけど、全て彼ら自身の所作だ。警察も学校の先生
も、この傷を見て言葉を失い。この傷を受ける前なら、写真も何も証拠がなくば。拾四人
が口裏合わせれば、言い逃れも出来ただろうけど。
『あいつらレズなんだ。気色悪い仲なんだ』
『あたし達悪くないもん。正常だもんっ…』
わたしが傷浅く彼らを撃退し告発したなら。
大人達の焦点はその動機・なぜにも向いて。
女の子同士の仲に疑念を抱かれていたかも。
でもこの深傷が詮索の余地を吹き飛ばした。
警察も学校も完全に彼らの言を疑って掛り。
重すぎる罪を逃れたい故の嘘偽りと見なし。
男女拾四人もその保護者と続々呼び出され。事情聴取は別室でも同じ棟なら、わたしは
関知や感応で概ねを悟れる。警察や先生、宍戸さんや男女拾四人と、保護者の印象や応対
も。
ここ迄明瞭な証拠を示せば、加害者側も事実を否定出来ない。警察の事情聴取の手法は、
幼い頃に受けて分っている。警察の人が受け容れ易く・信じ易い事の流れの説明も心掛け。
男女拾四人を独りで退けた事に、多少の疑念を抱かれたけど。傷害の罪に問われる怖れ
は覚悟で全て事実を語り。男女拾四人もそう証言しているし、そこをごまかし偽っても矛
盾が生じて、わたしの証言の信憑性を損なう。
護身の技の公表に消極的なのは己の好みだ。女の子が戦いに強いと知られても嬉しくな
いけど、隠さねばならぬ贄の血の事情とは違う。それについてはサクヤさんも事情を尋ね
られ、尚疑念が拭えなかったのか。署内で刑事さん相手に実演も少し。全力を晒す迄はし
なかったけど、一応素人ではないとの納得を頂いて。別の意味で大人達の瞳が見開かれて
いたけど。
『この娘は男女拾四人の虐待を、己の意志で受けて堪え耐えたのか。人質を取られたとは
いえ、反撃の力を持ちながら……尋常じゃないぞ。技や力以上に、この娘の心の強さは』
『技量があればこそ、虐待に怯え、独り血路を開いて逃げ走っても当然です。女の子だし。
そこを最後迄踏み止まり、傷を負って尚他人を守り庇う……これは女でも惚れ込みます』
拾数人に及ぶ事情聴取とその証言の照合に、週末を費やし。日曜日夕刻に合宿から帰っ
て事を報された仁美さんは、驚愕の次にわたしを抱き締めてくれた。優しい従姉は木曜日
夕刻の電話がこの今を招いたと、自身を責めて。
「ごめん柚明。私が余計な事漏らしたから」
「自身を責めないで。仁美さんの電話のお陰でわたしは、可南子ちゃんを助けられたの」
わたしのたいせつな可愛い従妹を。わたしのたいせつな人である仁美さんの大事な妹を。
「お礼を言うべきはわたしの方よ。有り難う、わたしにたいせつな人を守らせてくれて
…」
「その為にあんたは傷み苦しんだじゃないか。酷い目に遭ったじゃないか。それは紛れも
なく私の所為だ。可南子の為なら尚更姉である私の責任だよっ。申し訳ない……私はあん
たにどうやって償い、恩を返せばいいのか…」
仁美さんは禍が起こる事さえ知らなかった。
彼女がわたしに謝り償う必要は何一つない。
これはわたしが望んで首を挟めた事の末だ。
「こうして抱き留め、慰めて。わたしの傷みを拭ってくれて。暖かく優しい気持が嬉しい。
わたしは愛しい人の役に立てた事で充分です。その上で、こんなに慈しんでくれるなん
て」
「あんたが平静を保ってくれる事が救いだよ。平気な訳ないのに、心も傷だらけの筈なの
に。私や可南子に、周囲に罪悪感抱かせない為に尚微笑んで。本当に、あんたには敵わな
い」
叔父さん叔母さんや、可南子ちゃんやサクヤさんの前だったけど。仁美さんは躊躇わず。
その柔らかな手はこの大きくない両胸に。
服の上から軽く触れて愛おしむ心を注ぎ。
「その傷は、私の想いを注いだ程度で癒せるとは思えないけど。少しでも支えさせて…」
冬なのに繋げた肌身も心も熱い夜だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
週明けには先輩達もその行いの重みを悟り。これは相手が同性愛者でも何者でも、強姦
未遂と傷害だ。それを察した女の子は中途から、『男の子に脅され』仕方なくやったと弁
明を変え。涙を流し大人の同情を誘う方針を採り。あんな事してなければとの悔いは本物
だけど。
わたしは憎悪にも同情にも、左右されない。彼らの推薦入学が取り消されても、退学が
検討されても。刑事罰や学校の処分で決着ではない。力点は、たいせつな人の日々の安心
だ。
わたしがこの町へ移り住み、常日頃可南子ちゃんや宍戸さんを守り庇う事は、叶わない。
当事者である2人のみならず、その家族も安心出来なければ、本当の解決にはならない…。
月曜日の夕刻少し前、可南子ちゃんの学校の視聴覚室へ招かれた。仁美さんも含む家族
4人とサクヤさんも。室内には先生数人と宍戸さんのお父様が既に居て。宍戸さんは体調
不良で自宅療養中らしい。そこに現れたのは、男女拾四人とその保護者と、弁護士の男性
で。
本来は彼らが被害者宅に赴き謝る処だけど、人数が多いので学校で。宍戸さんのお父様
とわたしと可南子ちゃんが並び、小島君と玉城さんの代表した謝罪を受ける手筈だったけ
ど。
「……ごめんなさいっ。許してゆめいさん」
玉城さんは、期先を制して胸元へ飛び込み。
瞬間、男の子達の反感や焦りを強く感じた。
「悪気はなかったの。あなたが余りに可愛いから、可南子が余りに可愛かったから、つい
意地悪したくなったの。本気じゃなかった」
素肌に怯えが伝わってくる。許して欲しいとの願いが流れ込んでくる。声音も表情も真
摯だったけど、わたしは感応でもその本心を知れる。彼女は自らが為した過ちを悔いて…。
「酷い目に遭わせてごめんなさい。男の子を止める事が出来なくて。私達女の子は無力で。
本当はイヤだったけど、怖かったけどっ…」
濡れた頬を胸に寄せて縋り付き。黒髪長く艶やかな玉城さんの涙混じりな訴えは可憐で。
「わたし達も」「許してっ」「お願い…!」
わたしの答を遮るタイミングで、左右に2人ずつ女の子が抱きついてきて。ベリーショ
ートな茶髪の杉原美里さんを除く女子5人の。お願い許してと、見上げる目線は深く潤ん
で。
金曜日の夜も似た状況が。男の子を退けたわたしを怖れ、女の子5人は抱きついて慈悲
を乞い。両の腕を拘束してから処女膜を抑え、弄び苛んできた。ここでその意図はないけ
ど。
サクヤさんは間近で唖然として言葉を失い。
可南子ちゃんの息遣いに強い憤りを感じた。
「わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。反撃も報復も望まない。今もわたしはあな
た達を憎んでないわ。後はあなた達次第です」
女の子達の本命は羽藤柚明の慈悲ではない。
故にわたしの答も彼女達への慈悲ではなく。
「わたしは人を憎むより、愛したいの……」
女の子達の怯えも悔いも本物であるだけに。
己の感応や同情や憎悪に惑わされない様に。
「坂本君も志賀君も、伊東さんも斉藤さんも皆同じ。罪もない宍戸さんと可南子ちゃん
を哀しませた……二度とわたしのたいせつな人を害さないで。それを守れるなら、あなた
達がこの身に加えた危害はわたしが許せる」
抱きついていた女の子達の腕が一瞬強ばる。
わたしの答の真意の表も裏も悟れたらしい。
女の子は慈悲を願う演出で、大人の同情を狙っていた。先生方や叔父さん叔母さん達の。
暴行の主犯は男の子で、女の子は逆らえず加害者になった宍戸さんと同じ立場だと。少し
でも責任を躱し、退学や推薦取り消しを免れようと。男子を踏み台に自分達は助かろうと。
甘い応対を返せばその助けとなり。激怒し怒鳴り返しても、きつい印象はわたしに残る。
女の子達は可憐な弱者の仮面で、巧く行けば罪一等を減じられ、失敗しても何も失わない。
「小島君達と一緒に可南子ちゃんにも謝って。ここに来られなかった宍戸さんにも、来て
頂いているお父様に。男の子達と全員一緒に」
故にわたしは冷静に、全員での謝罪を促し。女の子も男の子と同じ加害者だと、周囲に
印象づけ。見た目や場の空気に流されない様に。
わたしの姿勢と返答に得心した可南子ちゃんの怒気が鎮まり。サクヤさんは笑みを浮べ。
狡知が蹉跌した女の子に、男の子が溜飲を下げる印象を悟れた。最早彼らは一団ではない。
心が離れていた。再度徒党を組んで可南子ちゃん達に報復する『集団』には最早なれない。
わたしは玉城さん達を抱き留めつつ、少し離れた男子や杉原さんやその保護者にも声を。
「わたしも含め人は過ちを犯します。人を傷つけ哀しませる事は誰にもある。人の傷み苦
しみに目を向けて。過ちを悟れた時は己の行いを省みて。傷つけ哀しませた人に向き合い。
心から謝り償って、繰り返さない様にして」
償う術も分らない程重い過ちや罪も世にはあるけど。今回は本当に酷い事態は防げて良
かった。可南子ちゃん宍戸さんだけじゃなく、あなた達も。罰や悔いも比較的軽い。あな
た達が今回の件で、人生を誤らなくて良かった。あなた達の家族の傷み哀しみも軽くて済
むわ。
「わたしが可南子ちゃんと宍戸さんをたいせつに想った様に。あなた達を大事に想う人は
いる。今この謝罪の場にも来てくれた。わたしには応えなくても良い。その想いに応えて。
為した事はやり直せないけど、今から先の人生は開けている。立ち直りはいつでも叶う。
この先高校で、女の子や男の子に恋した時に。今度はあなた達が想い人の守りと幸せを願
い、禍や危難から救い助けられる人になって…」
わたしの願いはそれだけですと述べてから。
周囲の唖然たる反応に惑ってはたと気付き。
羽藤家の、今回の一件への最終的な対応は。
未だわたしとサクヤさんしか知らなかった。
「皆さんの退学は多分ないと思います。学校にも警察にも処分は軽くとお願いしました」
宍戸さんは今回の件に忸怩たる想いを抱き。
両親に穏便な対応をかなり強く願った様で。
叔父さん叔母さんは訴訟も視野に入れつつ。
最も痛手の大きかった羽藤の判断に倣うと。
なのでわたしはサクヤさんや羽様の大人に。謝罪と賠償と、今後可南子ちゃん達を害し
ない事を前提に、和解を願い。相手方が弁護士を立てたのは、こういう事案に不慣れな事
と、妥当な線で話しを纏めたい故だ。争う思惑はない様なので。そこは大人同士の話しに
委ね。
学校や警察にも重い処分は望まないと願い。推薦取り消し位なら、一般入試を受ければ
良いけど。退学となれば門前払いされかねない。
彼らは未だやり直しが利く。彼らにもたいせつに想い想われた人がいる。今回の反省や
教訓を生かすなら。初見の人と真っ白な処から良い関係を築いて、実り多い人生を送れる。
わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。反撃も報復も望まない。彼らの幸せの可能
性を摘む事は好まない。守り通せたから、惨劇を防ぎ止めたから、相手にも過ちを犯させ
なかったから。わたしは相手方の幸せも願い望める。強ければ敵を退けた後で守る事も叶
う。
『同性愛者は異常だから何をやっても良い』との熱病の様な思いこみが抜けて冷静になり、
己の過ちに向き合った小島君達の謝罪を受け。
散会の後、わたしは杉原さんの鋭い瞳の招きに応え、人気のない校舎屋上に独り赴いた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
冬の日没は早く、既に校舎屋上は朱に染まっていた。陽当たりで寒さは緩和されている
けど、微風でも空気は冷たく澄んで頬を刺す。
落日と転落防止の柵を背に、ベリーショートの茶髪に細身な杉原さんはやや距離を置き。
表情は影で見えず、声音は平静に呆れ気味で。
「少し話したかったんだ。でも、今の関係で私の誘いに応えるとは、あんたも相当だね」
他の先輩や保護者達が足早に引き上げる中。
彼女は歩み寄ってきて、別の処で話そうと。
怖いなら誰か伴って良いと言って来たけど。
「今のあなたに、害意は視えなかったので」
「害しに来ても防げるから大丈夫ってかい」
杉原さんは声に苦い笑みを混ぜ。左手で髪を撫でつつ歩み寄ってきて。夕日の影で表情
が見えない以上に、眩しくて視界が効かない。
「甘いのか自信過剰なのか用意周到なのか。
胸の傷の具合はどうだい? 痛むのかい」
髪を撫で終えた左手を、この右頬に伸ばし。
この顎に触れ、値踏みする様に覗き込まれ。
「少し。でも大丈夫です。わたしは傷の治りが早い体質の家系なので。この位なら痕も残
らないと思います。ご心配頂いて有り難う」
「傷を付けた私に有り難うって、あんたね」
「今のあなたの心配は、本心だと分ります」
他の女の子と違って、彼女は責任回避に走らなかった。この胸をそぎ落しかけた事実が
重大で逃れ難い以上に。己の過ちに向き合わず他者に責を被せる事を、彼女は潔しとせず。
「……何を甘い事を。だから男にも女にも好い様に嬲られる。こんな華奢な体で前に出て
人を守り。生意気なんだ。虐めたくなる可愛さで、私の木刀を素手で打ち破って尚庇い」
杉原さんは髪も短く男の子っぽく。負けん気が強く言行一致を好み、女の子から恋文を
貰う事も多い王子様で。わたしはその対極にいる。この様に一対一で逢う事を望む真意は。
「そう言えば……私があんたに『借りは必ず返す』と告げたの、憶えている?」「はい」
動きも言葉も淀みなく、ぎこちなさもなく。
為される侭に、頬も唇も触れそうな間合で。
「甘いんだよ、小娘が」「よく言われます」
次の瞬間、この左手は脇腹に迫った刺突を。
彼女の右手の刃の部分を掴み、止めていた。
杉原さんは左手でわたしの顎に触れ、視線で言葉で注意を引き。その隙を突いて右手で、
この左脇腹に偽物のナイフを突き立てようと。先日の敗戦に一矢報いたかったのか。彼女
は剣道に加え小太刀や短刀術も学んでいる様で。予備動作や気配を隠した良い動きだった
けど。
わたしは視界を外れた動きへの対応も学び始めている。この左手は刃の部分をしっかり
掴んで刺突を止め。杉原さんはやや悔しげに。
「あんた、それで刃を防げた積りかい。このナイフは偶々刃の付いてない偽物だったけど。
これが実戦ならあんたの指は落ちているよ」
止めた刃を突き刺そうと力を込めてくる。
それをわたしは柔らかにでも怯まず抑え。
『金曜日の時もそうだったけどこの娘、体重も筋肉も私より少ない癖に、力は負けてない。
柔らかに穏やかでも、油断も気後れもなく』
「これが実戦なら、わたしは刃を掴まず、先にあなたの腹部に掌打を当てました。でも」
今のあなたに、害意は視えなかったので。
そう応えると、杉原さんは突如力が抜け。
「全部お見通しかい。私に害意があるかないかも。凶器の種類も動きの早さも何もかも」
得心行ったよ。私ではあんたには敵わない。
人は見かけによらない事もあるけどまさか。
「こんな華奢な娘にぐうの音も出ないとは」
害意はないけど悔しさを晴らしたく、彼女はわたしから一本取りたかった。強さを求め
武道にも励んできた彼女が、戦う人に見えないわたしに敗れた事は、ショックだった様で。
刃の部分がプラスチックの模造ナイフを用い、刺突に失敗しても必死に逃げて躱すわたし
を、笑い飛ばす目算で。この経緯を経てなければ、道場等で正式に、勝つ迄挑みたかった
のかも。
彼女はなぜか却って声も表情も涼やかに。
「小娘の体なのに。筋肉も身長も肩幅もない。極めつけに可愛い娘が持つべき胸迄も大き
くない。憎悪も闘志も感じないのに隙もなく」
さっきの愛美への対応で薄々は悟れたけど。
私の話しじゃ借りの返しにはならなさそう。
「それでも一応話すかね。あんたが独りで招きに応じた以上、応えるのが礼儀だろうし」
杉原さんはナイフの偽物をしまい。この顎に触れていた手を引いて、やや離れて正対し。
「愛美に気をつけな。あいつは危ない。武道も何も習ってない、唯のお嬢さんだけど…」
執念深さが蛇なんだ。相手が隙を見せる迄泳がせて、瞬間で懐に入り込んでくる。そし
て人が守りたい処、守り難い処を狙ってくる。
「私も一度、愛美の意向を撥ね付けて。取り巻き達に両腕を抑えられ、愛美に、頬に煙草
を押しつけられた。火は付いてなかったけど、柔らかに穏やかに『これに火が付いていた
ら、どうなっていたか。危なかったわね』とさ」
私も上泉信綱の様な剣豪じゃない。二十四時間あれば隙は生じる。愛美は狙うと言って
から、何もせず数日泳がせた末。軽く身を抑えて私の心を凍らせた。蹴るとか殴るとか抓
るとかも不要に。火の付いてない煙草一本で。
「あんたの強さに似たものを感じるよ。戦いの想定に限定がない。愛美は私に少し譲歩し
て見せたから、従う事を受け容れたけど…」
腕力や武道や気合を越えた、執念深さに私は負けを感じた。上回られた。実際、愛美に
逆らい通せた女は今迄居ない。あんた以外は。
「しかも武道の面でも私を簡単に負かして」
瞬間喉頸を食い破りたい程の闘志を纏わせ。
一度目を閉じて心落ち着かせてから彼女は。
「金曜日は本当に済まなかった。女の子を庇って気丈に逆らうあんたを前に、私も殺気立
って、踏み込んでは拙い処に迄踏み込んで…。
あんたはそんな私を打ち破って尚、復讐も反撃もせず、逆に私を守り庇った。私には酷
い屈辱だったけど、それ以上に恩に報いを返さないと。いよいよ苛立って夜も寝付けない。
さっきの愛美への応対を見ても、あんたは平静に切り返していたから。私の忠告なんて
意味薄いのかも知れないけど。あんたは愛美以上に強靱で賢いのかも知れないけどね…」
可南子と宍戸の今後に、注意しな。数ヶ月、或いは年単位で。女の子相手なら、服や素
肌を裂く程度の軽い傷害の罪で、甚大な恥辱や痛手を与えられると愛美は分っている。愛
美はあんたにも、随分興味を抱いていたけど…。
「あんたは賢く強くても、可南子や宍戸にそれは求められないだろう。忠告したからね」
話すべき事は話したと、この右脇を歩み行く杉原さんに。わたしは右の腕を軽く絡めて。
「お心遣い有り難う。可南子ちゃん達の今後には気を配るから安心して。それとあなたも。
杉原美里さんは、羽藤柚明が守りたい人…」
「あんた一体何を……私はあんたの『女』に傷をつけ、あんたのたいせつな人を傷つけ哀
しませた……どう考えても仲良くなんて…」
瞳の惑いは、驚きと怖れと期待を兼ねて。
「今は過ちを悔いてしっかり謝り、わたしやわたしのたいせつな人も案じてくれている」
彼らは邪悪な物ではない。一時的に善悪の感覚が麻痺し、やって良い事と悪い事の境を
見失っただけだ。酒に酔うのに似て、思想や熱情に目が眩んで羽目を外す事も世にはある。
違う形で逢えていれば、友達になれたかも知れない人と。一度の過ちで決裂して終るの
は残念だ。為した事にはけじめを付けて貰うけど。後はわたしと彼女の自由意志の関りだ。
彼女はもうわたしのたいせつな人を傷つけはしない。例え玉城さんに強いられても。それ
にわたしがその様な事態は未然に防ぎ止める。
「過ちから生じる成果も出逢いも世にはある。過ちに由来するからと、全て切り捨てるの
は勿体ない。どうしても譲れない物はあるけど。時に手放したくない程潔く凛々しい人も
いる。敵対し啀み合う関りで終るのは寂しすぎ…」
不束者ですが、宜しくお願いします、先輩。
頭を下げると、美里さんは暫く瞳を見開き。
この背を抱き締めて、頬に唇触れてくれて。
心なしか足取り軽く颯爽と歩み去って行き。
階段室の扉の向うの物陰で、地獄耳を澄ませていたサクヤさんの苦笑いを微かに感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「私が潜んでいた事には気付いていた様ね」
屋上の給油タンクの影から玉城愛美さんが現れたのは、美里さんが去った直後で。美里
さんは彼女のこの動きを知らない。美里さんの動きを察して先回りして、待っていた様だ。
玉城さんは美里さんの性分を心得ているから。
美里さんに報せると、彼女はわたしを罠に填めた様な状況を前に、己を責める。なので
敢て声を掛けなかった。玉城さんも、わたしに好意を抱く美里さんはいない方が好ましく。
「元々謝罪の場でお涙頂戴して大人の同情を誘い、ここでダメ押しの予定だったんだけど。
結局は同じ結論よね。あなたが私達の重い処分を望まないでくれたお陰で。有り難う…」
女子のみならず男子の処分迄免じてくれて。
あなた本当はあの夜を喜んでいたのかしら。
「ふふふ、図星だったら御免なさい。結局あなたは遠くの空で、『レズかな』や『レズれ
い』の安全を私達に託し、歯噛みする他に術がない。定期的に訪れて、私達の慰み者にな
って貰うのも良いわね。あの夜の続きを本当に最後迄やってあげる。たいせつな人の幸せ
と守りの為なら、耐えられるんでしょう?」
っと、痛い事は無し。少しでもこの身に触れたら傷害罪で訴えるわ。あなたの強さは既
に警察も学校も周知済み。私はか弱い女の子。ここで私が傷を作れば全部あなたの所為に
出来る。その位あなたも承知でしょう。穏便に話し合いましょう。争いは好まないんでし
ょ。
「強く賢く甘く優しく、男にも女にも吸い付かれて喘ぎ声出すのが好きな羽藤柚明さん」
背の半ば迄届く黒髪を揺らせ。可愛い顔で淑やかな声で、玉城さんは挑む姿勢を隠さず。
「あなたのお色気たっぷりな写真を、あなたの近所や学校に、バラ撒かれたくなかったら、
言う侭に従って。今の侭学校や警察に軽い処分を願い、可南子達の親もしっかり抑えて」
それが彼女のダメ押しだった。彼女は得々写真の入手法を語る。事実確認の為に弁護士
も学校も警察も写真を持つ。どこかで首を挟めば掠め取る事は叶う。彼女の家は資産家で、
彼女自身が使えるお金もあり。流出させれば、故意でも過失でもその事実で脅して口封じ
出来る。最後はその写真でわたしを屈従させ…。
「今ここで私に土下座して許しを請うのなら。
可南子とあの女は見逃してあげても良いわ。
でもあなたはダメ。私に逆らった選択の末を教えてあげる。一生体に悔いを刻み込む」
あなたは私に触れないけど私は触り放題よ。
音を立ててその右手がわたしの左頬を打ち。
「格闘家は素人とケンカできない。その手足は凶器だから。でもか弱い女の子である私は、
あなたにやりたい放題好き放題に触れるの」
右肩を掴まれて腹に右膝蹴りを入れられた。
素人の打撃だから痛みはそう酷くないけど。
「とっとと跪いて私に土下座なさい。もう」
抗わずに堪えていると右手で髪を掴まれて。
顔を彼女の胸元位に迄引きずり下ろされた。
「ほら早く。私のお人形になるの。あなたの選択肢は今従うか、数分後に従わされるか」
でもその声音や仕草には焦りが感じられて。
「どこ迄も小生意気なんだから。年下の癖に。
良いわ。なら今ここで思い知らせてあげる。
可南子への想いも届かず男に穢された唇を。
今度は女の唇で、この私が穢してあげる」
突然頭を持ち上げられて。唇を重ねられた。玉城さんはわたしを貫く感覚で舌を突き入
れ。揉み合って傷めても拙いので、わたしは不安定な体勢で暫く為されるが侭に。玉城さ
んは数拾秒、わたしの喉に唾液を注ぎ込んだ末に、勝利感と共に唇を離したけど。でもそ
れって。
「どう? 可南子の唇だけは手に入らない侭、男に加えて女に迄唇を奪われた感想は。可
哀想に。あなたは女に迄穢され操を奪われて」
良い気味ね。さぁ良い加減私に従いなさい。
髪を掴みこの頭を揺すって答を迫る彼女に。
「その意向には添えません。……写真を配りたいならどうぞ。羞恥で脅してもわたしが屈
しない事は、あなたも既に知った筈です…」
見下す視線と見上げる視線が絡み合った。
「可南子や宍戸や美里が傷ついてもいいの?
さっき美里から聞いた忠告を憶えていて?
幾ら口先や書面で約束しても。しおらしくしていれば大人は数ヶ月先迄は見ない。部活
で遅くなった帰りや、遊びに出かけた休日や。偶々どこかであなたの想い人は事故に遭
う」
あなたにそれを止められて? 状況は殆ど何も変ってないわ。私は執念深く狙い続ける。
あなたは所詮遠い地で、誰も守れず歯ぎしりするだけ。いい気味ねあなた。そこ迄傷つい
て恥かいて、最後は何一つ守れないのだもの。
「それが玉城さんの……真の望みですか?」
言い募る可愛い女の子の顔を見つめ返し。
わたしは尚この人を心底嫌えず憎めない。
「愛する事より……憎む事が願いですか?」
整った表情に微かに怯み惑いの色が見えた。
それは金曜日夕刻にわたしに何度か見せた。
「わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。
愛しい人に迫る禍は力の限り食い止めます。
学校を休んでも駆けつける。己の恥も傷も厭わない。あなたの打つ手をわたしは全て止
められる。必ず止める。全て説明しなくても、賢いあなたはそれを分っている筈。でも
…」
そうして人に害を為す事は、あなたの真の望み? 阻まれても、成功して人を傷つけて
も、あなたは本当に満足できる? それは所詮他人の禍で、あなたの幸せに繋らないのに。
「あなた自身の幸せは何? 玉城愛美の真の願いは、真の想いは、真の望みは。人を害す
る行いは助けられないけど、あなたの幸せの為になら、わたしも力を尽くす事が出来…」
その先を告げられなかったのは彼女が再度。
髪を掴んでこの唇に、唇を重ね塞いだ為だ。
彼女は再度暫く、舌をねじ込んで絡みつき。
わたしは再度暫く、為される侭に囚われて。
「生意気ばかり。綺麗事ばかり口にして!」
唇を離しても、間近で燃える様な瞳はわたしをまっすぐ射貫いてきて。溢れ出しそうな
憤りは、血が出る程強くこの身を掴み続けて。でもそれで、漸くわたしは彼女の真意を悟
り。
「玉城さんの望みはわたしだったのですね」
彼女がわたしを苛み踏み躙り、屈従させようと拘ったのは。心へし折ろうと試みたのは。
彼女も女の子に抱く恋心を。羽藤柚明に向けて抱いてしまい。その想いが屈折したからで。
整った容貌が、初めて緊迫に震えている。
それは彼女自身も抑えきれない、心の嵐。
ここ迄深く触れて漸く悟れた。それは絶対人に知られたくない、潜めた本音だったから。
玉城さんは常識人で、胸に抱いた女の子への恋心を、わたしへの想いを隠し抑え。わたし
を恋するに足らぬ者だと証したく。自身の未練を断ち切ろうと、わたしを虐げ。でもわた
しはたいせつな人を守り通す為に、心折れる訳に行かず、最後迄逆らい抗い立ち塞がった。
『可愛い顔して大人しげに小生意気言うから、心へし折って身体弄んで捨ててやろうと思
ったのに。何なのよっ。あなた何様の積り!』
『あなたといると異常が移る。女の子が恋し惚れる相手は、男の子と決まっているのっ』
『その強さも優しさも綺麗さも、所詮男の為の物。私達が望んではいけない物っ。絶対に、
絶対に私はあなたになんか、心開かない…』
もう玉城さんの、言葉の答は不要だった。
わたしは間近に震える綺麗な瞳を見つめ。
「わたしには一番に想う人がいます。二番にたいせつに想う人も。ごめんなさい。あなた
の願いには応えられない。あなたの恋心にわたしは等しい想いを返せない。でもその代り、
今のわたしに叶う限りの想いを返します…」
可南子ちゃん達に害意を抱かぬ玉城愛美は。
羽藤柚明のたいせつな守り愛したい女の子。
「人を害する行いは助けられないけど、あなたの幸せの為なら、わたしも力を尽くせる」
年長者の可愛い涙顔をこの胸元に迎え入れ。
愛しさの故の嗚咽がこの胸を静かに濡らす。
寒風はわたし達を熱く繋ぎ合わせてくれた。