第8話 従妹のために(前)
わたしを乗せた夜行列車は深い闇を貫いて、街へ疾走していた。空は月も星も出ている
刻限だけど、分厚い雲に覆われて全く見えない。車内は無人で、隣の車両にも気配はなか
った。
物音も轍のレールごしに枕木を蹴る震動が、心音みたいにリズムを刻むだけで。車内の
照明はさっき消えた。眠れぬ己を持て余しつつ、物思いに耽って漆黒の窓の外に目線を向
ける。
俯き加減なのは、外の曇天の故でもなければ、車内の暗さの為でもない。己が望んだ出
立にも関らず、先行きに不安を隠せないのは。桂ちゃんと白花ちゃんは勘づいていたのか
も。
今回の結末が後味苦い物になると。
全てを守り通す事は、叶わないと。
出立時点で双子の涙を振り切ってしまった己の心が雷雨なのは当然として。例えわたし
がこの先どう身を処しても、きっと事の末は。痛みを越えて苦しみに耐えても、招く明日
は。
関知に映るのは無数の腕に身をまさぐられる間近な未来。首筋を肩を胸を腹を足を抑え
られ、幾人もの悪意な腕がこの身を蹂躙する。わたしは僅かな抗いも許されず、為せなく
て。
身も心も震わせる像だけど。怯えは隠しきれないけど。それでもわたしは敢てこの途を。
「白花ちゃん、桂ちゃん、ごめんなさいね」
何度口にしたか分らない呟きが又漏れる。
何も見えない窓の闇が2人の涙を視せる。
それは数時間前、羽様のお屋敷に響いた愛しい悲鳴。四本の腕の小さな手触りが、身を
捉まえてくれたのに。その親愛に応えられなかった申し訳なさが胸の奥を灼いて止まない。
『おねいちゃん、行っちゃダメ!』
『ゆーねぇ、どこにも行かないで』
2人は我が侭でわたしを留めたのではない。案じるからこそ行かないでと。双子が不安
を感じたのは、わたしが隠しきれなかったから。素肌の下に隠した微かな怯えを見抜いた
から。その親愛を受けられない事は哀しかったけど。その願いに添えない事は心底残念だ
ったけど。
小学3年の夏迄迄住んでいた街に行くのは、昨秋恵美おばあさんの逝去以来で四ヶ月ぶ
り。
『……柚明。あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?』
経観塚は僻地で情報も遅く、来るにも不便で時間が掛る。あんたより早く着く者が居て
当然なのに。緊急時は常にあんたが最も早い。
『あんたここ数年、妙に人の死別や不幸にタイミング良く訪れている……久夫おじいさん
の時も仁美の時も、恵美おばあさんの時も』
従姉の珠美さんの指摘は真実その侭だった。
良い事も悪い事も行く末が大凡視えて分る。
だからわたしは今から街へ赴かざるを得ず。
故にわたしは今から己を禍の深奥へ投じる。
この闇を突き抜けた向うに、喜びや報いがない事は視えても。心の暗雲を負って踏み込
む成果に、賞賛や謝意が返らないと分っても。
わたしが関る事で結末が少しでも変るなら、変えられるなら。羽藤柚明の最善にはなら
なくても、自身には苦味や酸味に繋っても。たいせつな人に望みうる最善を導けるなら。
わたしは突き抜ける為に、禍の深奥に己を抛つ。
「白花ちゃん桂ちゃん、待っていて。必ず」
あなた達の羽藤柚明として羽様に帰るから。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
不吉な報せの兆は年始から感じ取れていた。微かだった心の痼りが徐々に重くなって行
く。それは年の瀬を羽様で過ごしたサクヤさんが、仕事に出立する日に近づくにつれて段
々と…。
「浮かない顔だね。何か、感じたのかい?」
羽様の住人は人の心の浮動を見抜くし、わたしも懸念を隠せない以上に、隠さなかった。
贄の血の力の修練に伴って、副次的に備わって来た感応や関知は、その進展に沿って精
度も範囲も増し続け、既に笑子おばあさんに視えない範囲迄、感じ取れる様になっていた。
でも万能ではないから、不確かな禍の兆を見極めるには、それが及ぶ怖れのある周囲の
人に、より多く接して繋りを掴む必要がある。話したり触れ合って見聞きした新しい情報
が、予感を補強して禍を見通す助けになるかもと。
「不確かな、禍の気配を感じたのだけど…」
まだ遠い為かその姿が詳細に視えてこない。それは距離の遠さか、時期の隔りか、わた
しへの関りが少し薄いのか。徐々に近づく感じが分るので、そう遠い物ではなさそうだけ
ど。
こんな経験は前にもあった。小学6年の秋、今から2年と少し前に。あの時は、禍の到
来とサクヤさんの訪れの時期が重なって視えて、サクヤさんに禍が及ぶ怖れに心震わせた
っけ。サクヤさんが無事着いても拭えぬ悪い予感に、力量以上に経験に不足していたわた
しは、最後は笑子おばあさんに兆を読み解いて貰って。
結局それは時期が重なっていただけで、禍に首を突っ込むわたしをサクヤさんが助け支
えて関る故で。仁美さんが顔に負った酷い傷を、わたしの贄の力で治す支えに巻き込んで
しまうから、サクヤさんが間接に関った訳で。
今回の感触はそれに少し似ていて少し違う。
サクヤさんの到来でなく出立に重なるのは。
禍はサクヤさんが去る事で明瞭に見通せる。
今回はサクヤさんを禍に巻き込まずに済む。
迷惑をかけず負担にならずに済ませられる。
「サクヤさんの行く手に禍が視えた訳じゃないんだね?」「はい、それはほぼ確かです」
みんなが揃う夕食のちゃぶ台で、笑子おばあさんの問にわたしは頷いた。禍はサクヤさ
んが去った後羽様に、わたしに訪れる。逆に言うと、サクヤさんがいる間は禍が明瞭に視
えてこない。徐々に近づく印象は、発生と言うより、サクヤさんが去る時に向けての様で。
その意味をこの時わたしがもう少し深く考える事が出来たなら、この先の暗転も少しは。
「柚明ちゃんは明後日お友達に逢いに、以前住んでいた町に行く予定だったね」「はい」
それに関る事かも知れない。正樹さんや真弓さんの微かな懸念は、わたしも抱いていた。
冬休みを利用して今度こそ逢おうねと、杏子ちゃんと周到に日程を合わせ、生れ育った
町へ行くと決めたのは年末だった。冬休み終盤の金曜日朝に羽様を出立し夕刻向うに着い
て、日曜日に一日掛けて羽様に戻る。二泊でも実質一緒に過ごせるのは土曜日だけ。それ
でも久方ぶりにたいせつな人に逢えるのは大きな喜びだった。あれから5年半経っている。
小学3年の夏、両親を鬼に殺され、警察に追われて行方不明となったその脅威から逃れ
る為に、遠く離れた羽様のお屋敷に転居して。数日の無断休校の末、遂に別れも告げられ
ず。
以降何度か町には行ったけど、杏子ちゃんとは逢えてない。互いの都合が合わなかった。
杏子ちゃんの部活合宿や家族旅行や。恵美おばあさんが亡くなった昨秋は、杏子ちゃんも
親族の不幸で遠方にいて。手紙や電話で連絡は取れているけど、逢おうとする度すれ違う。
今回こそと入念に打ち合わせ、杏子ちゃん一家の里帰りする正月を外し、部活合宿する直
後も外し、冬休み終盤の週末に照準を合わせ。
でも心の片隅には、今回も逢えないかもと言う不安が燻っていた。今迄も直前になると
どちらかに不都合が生じた。杏子ちゃんに逢えない因が禍なのか、逢えない事が禍なのか。
手際良くはきはきした声。瞼の裏に映るは、やや明るい茶色の髪をショートに切り揃え
た、活動的な女の子の姿で。あの夜の直前に集団下校で手を振って別れた小学3年の姿の
侭で。写真は送って貰ったけど、感応の力は像を見せるけど、心に刻まれた絵は幼い夜の
直前の。
『ゆーちゃんって、呼んで良い?』
町にいた頃は一番のお友達だった。小学校1年から3年迄同じ学級で、わたしのやや珍
しい名を憶えきれず、初めて綽名を贈られた。
『ゆーちゃん、ウチで一緒にゲームしよう』
『ゆーちゃん、今日は公園に遊びに行こう』
『ゆーちゃん、帰らないで。一緒にいて…』
普段はきはきと元気良く、わたしを引っ張って探検に行く杏子ちゃんが、夕刻の別れ際、
いつも寂しそうに手に縋るのが妙に切なくて、哀しげで。徐々に帰って減りゆくお友達の
中、わたしは最後迄繋いだその手を離せなかった。
杏子ちゃんのお父さんは一年の殆どが出張や残業で、一人っ子の彼女はお母さんと二人
が多くて。杏子ちゃんを家に泊りで招いた時、お父さんとお母さんと4人で囲む夕食に、
大喜びした夜お布団で、わたしの隣で涙を流し、
『お母さん、きっと一人で寂しがっている』
あたしがゆーちゃんのウチでゆーちゃんのお父さんやお母さんと、みんなで楽しくご飯
食べている間も、今も、お母さん一人でいる。
『お母さんにも3人以上で夕ご飯させたい』
家族3人が揃う食卓が彼女には貴重だった。杏子ちゃんは、元気に強気を通していたけ
ど、それは寂しさに負けない強がりだったのかも。そしてお父さんの代りは出来ないけど、
食卓を3人以上にする方法なら、わたしにあった。
わたしがお泊りに行った夜は、普段にも増して杏子ちゃんがきらきら幸せそうに輝いて、
それが己の何より嬉しく楽しくて、時を忘れ。人の微笑みを支える幸せを、初めて教わっ
た。わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人。
幼い日々の多くは杏子ちゃんが占めていた。
『また明日も遊んでくれる?』『うん』
『ずっと一緒にいてくれる?』『うん』
遠い夕暮れの約束は果たせなくなったけど。
「関る事で解決できる禍もあります。2年前、仁美さんの顔の傷を治しその心を癒せた様
に。禍に手を伸ばす事で誰かを助けられるかも」
怖れずその正体を見通せば、回避や解決も出来るかも。知らせたり、駆けつけたりして、
禍の発生や悪化を未然に防ぐ事も出来るかも。
4歳になった桂ちゃんの右頬に着いたご飯粒を取って口に運び、口周りを拭うわたしに、
白銀の艶やかな長い髪の人は美しい流し目で、
「禍の正体とやらを見極める迄、居続けようかと思っていたけど。あたしが外して、禍が
確かに視えるのを急かす方が良さそうだね」
「サクヤおばさん……? わたし、そんな」
邪魔者扱いにしてしまっていただろうか?
「気にしなくて良いよ。別に拗ねている訳じゃない。唯あたしの存在が、あんたの関知を
妨げているなら……今回は外した方が良い」
サクヤさんは不機嫌そうでもなく平静で。
「元々あたしは明朝が出立予定だったしね」
白花ちゃんの頭に置いた左手を軽く掻き回し、柔らかな明るい茶色の髪を乱して楽しみ。
「あんたが万全に禍に備えて向き合える様に、その正体が知れるのは一刻も早い方が良
い」
瞳にも声にもわたしへの想いが満ちていて。
「あんたも明後日は出立だろう。出る迄により確かに分らないと、その予定にも差し障る。
笑子さんも真弓も正樹も、何が何なのか分らない侭じゃ、あんたを町へは送り出せない」
みんなはわたしが杏子ちゃんと逢う日を楽しみにしていると知っていて気遣ってくれて。
「……すみません。わたしの修練がもう少し早く進んでいたなら、もっと微かな兆しでも、
もっと早くから、確かに見通せたのに……」
わたしは未だに力不足で頼りない。不確定な関知でたいせつな人を振り回し、心配させ。
「あたしに謝る必要はないから、確かに見通して対処しな。ここ数年のあんたの禍は、あ
んたと言うより傍の誰かに降り掛る危害や損失を、防ごうと関って受けた物だ。柚明が人
を守りたく想う気持は分るから、なるべく早く誰のどんな禍なのか見通して、対処おし」
あたし以外の誰かに禍が来るという現状は、あたしにも気持良い物じゃないからね。場
合によっては備中大返しもする。明日夕刻宿を決めて入ったら電話するから、連絡をおく
れ。
「あなたの関知は、鋭すぎるのかも知れない。今尚わたしに、柚明の視た禍は視えて来な
い。柚明の方が禍に近しい以上に、それは修練の遅滞や怠惰ではなく、進展の成果なの。
唯」
笑子おばあさんは穏やかな笑みを崩さず、
「あなたが自身を見失わないで。確かに自身の最も強い想いを胸に抱いて、失わないで」
羽様の家族があなたを支える。あなたが白花や桂を守りたく望んだ様に。サクヤさんも
真弓さんも正樹も、勿論わたしも助け支える。
「未来の不確定な兆に心惑わされすぎないで。未来は日々変りゆく。明日視れば違ってい
る。柚明は変らない確かな絆をわたし達と繋いでいる。大丈夫、柚明は強く賢く優しい子
…」
禍と、己が為すべき事が明確に視えたのは、サクヤさんが出立した翌日木曜日夕刻だっ
た。
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降り立ったホームは小雨の為か肌寒かった。ここから都市圏の朝の電車に乗換え四十分
弱。通勤の人で電車は混み始めていた。通学のない冬休みの朝に制服を着た女の子の姿は
稀だ。経観塚銀座通中の制服も、物珍しかったかも。
混み合って身動きが取り難く、周囲の人に密着し凭れ合う姿勢の中、もそっと太腿を撫
で回す手の感触を感じた。同時にその心中迄視えてしまうのは、感応使いのデメリットか。
人が混み合って傍目に分りにくかったけど。
手はスカートの中に意志を持って滑り込み。
痴漢に遭ったのは、この時が生れて初めて。
移動時混み合うなんて経観塚ではないから。
「……!」『太腿を、這い上がってくる…』
瞬間不吉な像が脳裏をよぎったけど、違う。
これは唯の不快だ。抵抗不能な訳じゃない。
左手が男にしては細い右手首を掴んでいた。
参拾歳代半ばの黒髪切り揃えた細身な男性。背丈は成人男性にしてはやや低いけど、百
七拾センチはある。素知らぬ風を装いつつ、その手から内に秘めた欲情が肌を通じ流れ込
み。
人の多い処では関知や感応が効き過ぎて心乱されるので、わたしは心を閉ざす手前迄力
を抑え、視ない様に努めていた。それでも教室や通学バスで間近に接すると、宴会場や商
店街で雑踏に身を置くと、噂話や人の所作から視えて悟れる像を、完全には止められない。
触れられれば、それはほぼ回避の余地もなく。
目を閉じても電灯の光を熱で感じる様に。
耳を塞いでも音や声を振動で受ける様に。
わたしに為される所作は特に良く伝わる。
好ましくない想いがわたしに伝わり、視たくない心がわたしを肌から浸食する。自身を
しっかり保たないと、相手の欲情に押し流される。気力を折られ相手の意図に押し包まれ、
塗り替えられて、為される侭に従わされる…。
流入する想いと己の内なる怖れに対峙して。
やや細いけど、わたしより硬く太い男性の手首を確かに掴む。見知らぬ人達だらけの中、
自分への害意が確かな大人の男性に、その悪意に女の子が一人で対峙するのは勇気が要る。
己に非がないなら怖れる必要はないと人は言うけど。堂々と相手の非を告発し白日の下
に晒せば良いと人は言うけど。自身より大きく年長な人の害意を受ける事自体が怖ろしく。
その種の欲情を抱かれた己自身が後ろめたく。そんな目に遭わされたと認める事に恥じら
い。
深呼吸して、体と心の強ばりを解きほぐす。真弓さんや笑子おばあさんの修練を想い返
す。怖れや羞恥に固まらず、いつも心は柔らかに平常心を保ち。わたしもいつ迄も無力な
子供じゃない。この位の事柄は一人で応対できる。
流れ込む欲情に負けないわたしの意志を紡いで押し返し、斜め左後ろの男性を正視する。
睨んで見えたかも知れない。先程迄ののし掛る様な高圧的な感触は崩れ、動揺が伝わって。
掴まれなければ、相手の弱気につけ込んで太腿を揉み続ける積りでいた彼が。人混みの
中、羞恥に声も出まいと高を括っていた彼が。一度勇気と冷静さで正面から受け止められ
ると、それ迄の勢いがメッキの様に剥がれ落ち。
他の人は彼の行いに気付いてない。この手を胸の上迄持ち上げ、声に出さないと分って
貰えない様だ。彼は今迄、これ程対処される事もなく、やり放題に女の子を傷つけてきた。
視線が鋭くなるのは、脳裏に視えた幾つかの像の為だ。彼の行いはこれが初回ではない。
男性は前から何度も電車で痴漢を為していた。それも告発の怖れの高い大人は避け、高校
や中学の制服の子、一人でいる小柄な子を狙い。
『女の子の敵……!』
制服の女子は一人だったので、選択の余地なくわたしに来た。良い獲物を見つけたと彼
は幸いに思っていた。それは世の幸いだったかも。こうして彼の所作を暴いて突き出せば、
今後は彼の所行に悲しむ女の子もいなくなる。
多くの女の子の、不快や羞恥や怯えを彼は楽しんできた。抗議できない弱気につけ込み、
下着の中迄手を入れて。そんな卑劣をする筈がないと、スーツ姿でお堅い印象を装いつつ。
わたしは己の怒りより、今迄の被害者の哀しみと苦痛に心震わされ、引っ込め掛る手首
を強く握り締め。わたしより太い大人の男の腕でも逃がさない。もうすぐ電車は駅に着く。
男性は漸く危険を感じた様だけど、もう遅い。この手は放さない。満員電車に逃げ場はな
い。
「あなたがやった事、分っていますね…?」
彼は答えない。わたしの問に視線を逸らし、自分への問ではないと、自分は関係がない
と、わたしの空疎な独り言だと言う様に。この右手首を示して全て晒す瞬間迄否定する積
りか。
でもその手は小刻みに震え出し。怯えが伝わってきた。さっき迄の傍若無人さが欠片も
ない。人は瞬間でここ迄心が入れ替わるのか。悔いるなら最初から為さねば良いのに。こ
の程度の対処で竦む己を見通せてなかったのか。この位の対処をされる事も考えなかった
のか。
周囲の大人はまだ彼の所作に気付いてない。わたしが彼に向けて話しているとも気付い
てない。身体が密着しすぎて、誰に向けて何を話しているか、分り難い状況ではあったけ
ど。
電車が減速し身体が進行方向と逆に揺れる。彼は手を抜こうとあがくけど、しっかり掴
んで放さない。彼の怯えが大きく心も揺らせる様子が分った。でも哀れんで手を緩める事
はしない。わたしは逆にその情けなさに憤って。
こんな相手に何人もの女の子が脅かされたのか。捕んでみれば怯え震えるだけの者にみ
んな泣かされたのか。泣き寝入りを強いられたのか。撫で回される苦痛を堪え忍んだのか。
わたしはこの時怒りに突き動かされていた。感情に心を染められていた。それが平常心
ではなく、感情の極端な起伏で一種の動揺だと思い返せたのは、己の失敗を悟った後だっ
た。
わたしの脳裏に鮮明に視えた関知の像は。
『この人の数日後の……家族の夕食風景…』
娘2人が怒り哀しみ彼を責める姿が視える。小学校6年生と3年生。左で年若い奥さん
が俯き涙する姿も視えた。なぜそんな事をしてしまったのと。悲嘆は罪の露見だけではな
い。彼の職場はその種の非行を嫌う、お堅い処で。彼は駅員さんから警察に引き渡され、
事情は職場に伝えられ、翌々日懲戒解雇されていた。
生活の基盤も瞬時で崩れ、人生の見通しも失い、父や夫としての親しみも信頼迄も喪い。
冷たい食卓を囲むのもあと僅か。収入の道を失い離散する末が視えた。奥さんは娘を連れ
て実家に帰り、彼は日々の糧を求めて町を流離い。二人の娘の心に甚大な傷を残し、奥さ
んに深い悲哀を残し、自身大きな挫折に沈み。
「……」
わたしの内に忸怩たる物が染み出してくる。
彼は自業自得だけど。報いを受けるべきだけど。何の非もないのに生活の基盤を失い悲
嘆に暮れる奥さんと娘さんの像が心を揺らす。 奥さんからは夫を奪い、娘さん達からは
父を奪い。温かな家庭と平穏な日々を失わせる。己の行いが、人の幸せと守りを壊してし
まう。
彼の怯えはその末路を感じた故だった。職を失い、生活の糧を失い、娘や妻の信を失い、
望みを絶たれる。今それに直面して漸く悟り、覚悟ない侭欲情に高揚した己を悔いて省み
て。
『助かりたい。もうしない。もう二度と…』
今更の様に真剣な心が視えて伝わり来る。
もう少し早く、為す前に気付いてくれれば、多くの女の子も傷つけられずに済んだのに
…。
電車が到着しドアが開く。降りる客が動き始める。わたしが降りる駅でもある。彼を引
き渡せば全て終る。例え彼が拒んでもこの手を示して声を出せば。決断は瞬時の物だった。
わたしは掴んだ手首を再度更に強く握って、その向うに怯えて揺れる彼の瞳を強く正視
し。
「娘さんや奥さんの、明日を考えて下さい」
二度とこんな事はしないでと短く告げて。
わたしは彼を引きずり出す事はせず、その右手首を掲げる事もせず、大声で人を呼ぶ事
もせず。手を放して自分一人で電車を降りて。
許した訳じゃないけど。認めた訳じゃないけど。彼の悔恨や反省を受け入れた訳でもな
いけど。わたしのこの手で、罪もない彼の娘さんや奥さんの幸せ迄、奪えはしない。でも。
「……わたし……、……っ!」
真の苦味は、彼を突き出さない事を決めて手を放した瞬間、視えてきた彼の像に。関知
の力はこの選択の末を、更に先の像を示して。
扉が閉ざされ、走り出す電車に感じたのは。
近日彼が、この電車で痴漢を為す姿だった。
彼はわたしが突き出さない事で、告発しない事で。捕まらずに済んだけど。職を失わず
に済んだけど。家族の信も親愛も失わず涙も流させず済んだけど。希望を繋げたその故に。
近日通勤電車の混雑で、別の女の子のスカートに手を入れる像が確かに視えた。助かっ
たなら助かったで彼は胸を撫で下ろし、大事にならなかったから大丈夫だと、同じ所行を。
『わたし……、あの人を見逃した事で、次の痴漢の被害者を、生み出す助けを為して…』
感応の力は、彼の助かったとの安堵しか伝えないけど。今はほっとするだけで、それ以
上考えてないけど。彼は落ち着いて安心できたなら、次の獲物を求める己を抑えきれない。
今迄そうだった様に己の欲情を抑えきれず、小柄な制服姿の女の子を狙い、その下半身
に手を伸ばす。捕まれば職を失い家族離散だと悟っても尚、すぐにその怯えも薄れて忘れ
て。
彼の手に脅かされ、怯え震え涙を浮べる女の子達の姿が視えた。わたしは何と言う事を。
男性の向うに視えた家族の悲嘆に揺らされて、咎もない何人もの女の子に及ぶ害意を悪意
を、止められたにも関らず見逃した。今後に及ぶその害は、彼の所為であると同時にわた
しの。
その非行からわたしは誰も守れない。今後混雑電車で彼が為す非行をわたしは防ぐ術を
持たない。癒す事も慰める事も叶わない。失陥を取り返す策はない。彼を取り逃がした今、
不特定多数の女の子達にわたしは謝る事も出来ない。その唯一の機会をわたしが手放した。
「ごめんなさい。わたし、こんな、まさか」
怒りに心が乱されていた。為すべき事の順序を整理せず、感情に振り回され、目の前の
像に左右された。憤りに振り回された心はその憤りが消失すると、冷静な判断迄失って…。
被害を受けた女の子の苦痛や怯えに同調する余り、己の怒りに振り回される余り、冷静
さが抜け落ちていた。考える事を疎かにした為に、奥さんや娘さんの涙に心を奪われた瞬
間、その憤りも忘れて手を下す事を躊躇して。
大切に想うだけでは、本当に人は守れない。優しさが毒になる事もある。時に厳しい対
処が真の優しさとなる以上に、誰かを守る為には他の者を踏み躙らねばならない事さえあ
る。
掴んだ右手首は、放すべきではなかった。
家族の涙を承知して、告発すべきだった。
「……わたし、本当に愚か者……情けない」
行き過ぎてしまった電車は呼び戻せない。
為してしまった事はもう、取り返せない。
灰色の空は間欠的に滴を地に落し続ける。
無力感と諦めと悔恨と慚愧を胸に抱きつつ、わたしは改札へ蠢く人の群に流されて。迫
り来る禍に判断ミスを許されぬ大事な日にも関らず、その始りはとても苦くなってしまっ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
禍の真相を確かに見通せたのは、昼前サクヤさんの出立を羽様のみんなで見送った木曜
日、その夕刻に掛って来た一本の電話による。
それは近親者だったからなのかも知れない。
それはわたしが求められた為かも知れない。
己の心を整理して即座に発つと覚悟を定め。
間もなく経観塚発の最終バスが、羽様を通って隣町に行く。その復路に乗って経観塚の
駅に行けば、経観塚の最終列車に間に合える。お泊りの荷物は準備できていた。問題なの
は、
「いやだあぁぁ!」「ゆーねぇ行かないで」
大人達を説き伏せたわたしを、最後迄放してくれなかったのは、幼い双子の4本の腕で。
2人の瞳を覗き込み、別れのごあいさつをしようとしたのだけど、屈み込んだ時点で柔ら
かな両手に両腕を掴まれて、身を拘束された。
「桂ちゃん? ……白花ちゃん?」
2人はわたしをお気に入りに想ってくれて、学校の宿泊行事やお友達の家へのお泊りに
も中々許しを貰えなかったけど。今宵の反対は、いつにも増して激しく強く。わたしより
も遙かに血の濃い双子だけど、2人共幼くて修練もないので、関知も感応も為せない筈な
のに。
2人共わたしの行く手の危難が視える様に、或いはわたしの怯えを感じた様に。握り続
けてないと奪われ失うと怖れる如く。座り込んだわたしの両手を握って塞いで放してくれ
ず。
「大丈夫よ。日曜日の夜には、戻るから…」
月曜日から3学期が始るので、日曜日の夜には戻らないと学校を休む羽目になる。必要
なら休んででも対処するけど、成功でも失敗でも、金曜日の夜に決着はつくと視えていた。
「おねいちゃん、行っちゃダメ!」
「ゆーねぇ、どこにも行かないで」
いつも瞳を合わせてお願いすると、一度は静まって、お話しを聞いてくれる二人なのに。
抱き寄せて頬に頬を合わせると、後で撤回されるにせよ、一度は許しをくれる二人なのに。
今回だけはやや聞き分けの良い白花ちゃん迄、中々わたしのお話しを聞き入れてくれなく
て。
「お願い、白花ちゃん桂ちゃん。たいせつな人にわたしの助けが必要なの。行かないと」
分って防がず見逃した、己自身を許せない。
行ったわたしの無事は確かに視えないけど。
誰かの力になれる術を持つ、今のわたしに。
たいせつな人の禍を分って看過は出来ない。
「やだやだやだっ、やだぁ」「桂ちゃん…」
『二人は、勘づいているのかも知れない…』
この急な出立を、わたしは自ら望んでも決して欲してない事を。心を奮い立たせるのは、
実は己が震え出しそうだからだと、いう事を。
ここに暖かな幸せは満ちているのに。なぜ寒空の中を遠く迄、自ら禍に踏み込むのかと。
動かなければ良いのにと。人の禍や涙に関らず間近の大事な物を愛でていれば良いのにと。
己の心が、桂ちゃんと白花ちゃんを引っ張っている。二人が駄々っ子なのでなく、わた
しの弱さを二人が察し。ここで安楽を貪りたい己の狡さが、双子を使って己を留めさせよ
うと。わたしが折れそうに見えるから、曲りそうな心でいるから、二人がそれに誘われた。
聞き分け悪くなれば押し通せると感じさせた。
そうさせてしまったのはわたしの所為だ。
可愛い双子を駄々っ子にしたのはわたし。
二人は何も悪くない。悪いのは己の弱さ。
「ゆーねぇ、遠いとこ行ってしまわないで」
白花ちゃんはわたしを説得しようと、この意志を変えようと話しかけてくれる。わたし
を想ってくれる強く賢く優しい子に、心から愛しさを感じつつ、嬉しさに身を震わせつつ。
「おねいちゃん行っちゃやだ。やだやだ!」
桂ちゃんはわたしの膝に身を投げ出して。
瞳にも頬にも唇にも可愛らしさが限りない。どうにかする術を捜す白花ちゃんと、どう
にかしたい想いをぶつける桂ちゃんと。双子の想いは同じ向きだけど、現れ方は微妙に違
う。
「おふろ入れて、絵本よんで、一緒に寝て」
白花ちゃんが右腕、桂ちゃんが左腕に、両手以上に身体中でしがみついて、放さないと。
わたしを心から好いてくれる柔らかく暖かな肌触りは、わたしも手放したくなかったけど。
わたしも抱き留め頬合わせていたかったけど。
「白花ちゃん、桂ちゃん、ごめんなさいね」
「うぅっ、やだやだやだー、行かないでぇ」
「出来るだけ早く帰ってくるから。どうしてもやらなきゃいけない事を済ませたら、すぐ
帰ってくるから。ほんの少しの辛抱だから」
お願い、分って。桂ちゃん、白花ちゃん。
「必ずあなた達を抱き留めに帰ってくるわ」
そう。わたしはたいせつな人の求めに応じる為に、必ず無事に帰着する。早く行くのは、
早く解決し守り助けて、早く羽様に帰る為だ。何度も行かなくて済む様に、見通せた危機
を確かに拭い去る為だ。たいせつな従妹の為に。
「叔父さん、叔母さん……二人を、お願い」
最後に微笑んでくれれば良い。最後に守り通せれば良い。今泣き顔を微笑ませるのに力
不足でも、今寂しさを拭うのに及ばなくても。償いは、後でこの身と心で幾重にも。今は
より急を要し、わたし以外には為せない助けを。
大人の手でわたしから引き剥がされる幼子達が、抗議の涙声を響かせる様が正視に辛い。
「白花ちゃん、桂ちゃん、ごめんなさいね」
たいせつな人がわたしを案じてくれたのに。
たいせつな人がわたしを求めてくれたのに。
小さなその手で、身を捕まえてくれたのに。
応えられない申し訳なさが胸の奥を焦がす。
これから受ける苦難はその罰かも知れない。
二人の涙に心崩されつつ、その悲鳴から逃れる様に、わたしは羽様のお屋敷を出立した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
駅の近くのコインロッカーに着替えの入った荷を預け、更にバスでもう少し。杏子ちゃ
んの家はここから徒歩数分だけど、予定を早め金曜日の朝に着いたのは、寄るべき処があ
る為だ。愛しい涙を振り切って、突き抜ける為に禍に身を投じた以上、避けては通れない。
杏子ちゃんごめんなさい。もしかしたら。
「今回もわたし達、逢えないかも知れない」
折角ここ迄来たのに。間近に来れたのに。
可能な限り頑張るけど。事を終えたら逢いに行く積りだけど。無事に全てを終えたなら、
時間的な余裕はある筈だけど。逢いに行ける状態でいられたなら、迷う事はないのだけど。
この侭彼女に逢いに行きたい。懸案を放り捨て、己の楽しみに走り禍から逃げ出したい。
それが己の楽しみ以上に杏子ちゃんも望む再会だから後ろ髪引かれ。たいせつな人を守り
に行く事が、たいせつな人の喜びを遠ざける。
桂ちゃんと白花ちゃんの涙を振り切って。
羽様の大人達の不安を完全には拭えずに。
杏子ちゃんの望みにも確かに応えられず。
己の苦痛と悲鳴は呑み込み耐えるにせよ。
助けたい人の救いは成功しても苦い物で。
曇天が、己の心の鏡写しに見えてしまう。
人身事故があった為に、電車に少し遅れが生じたけど、朝の9時少し過ぎに訪れたのは、
「お早うございます」「あら、柚明ちゃん」
玄関に出た佳美伯母さんが、わたしを見つめて驚きの声を上げる。今朝ここに来る事は
告げてない。浩一伯父さんは今日もお仕事で、おじいさんもおばあさんも逝去した今、こ
のお屋敷に居るのは伯母さんと、冬休み中の…。
瞬時伯母さんの表情に影が差すのは、わたしが纏う特殊な事情の故だけど、わたしは気
付かぬふりを装い、柔らかに表の来訪目的を。
「友達の家に泊りにこちらに来たのですけど、お正月に来られなかったので、おじいさん
とおばあさんにもご挨拶して、行きたくて…」
「あらあら、それはまぁご丁寧に。可南子」
柚明ちゃんが来てくれたわよ。
家の奥に向けて声をかけつつ、
「仁美は陸上部の2泊3日の合宿についさっき行った処なの。可南子も昼から部活なのだ
けど。上がってお話しして行って」「はい」
電車が遅れなければ仁美さんとも逢えたかも知れない。でも、こうなる像も視えていた。
人身事故の所為とは分らなかったけど、わたしの訪れは仁美さんの出立には間に合わない。
わたし達は今回逢う事は叶わず、すれ違うと。
今回仁美さんとの面会は必須でないし、わたし達は心が繋っている。杏子ちゃんとの関
係と似て、一度や二度逢えなくても、解れたり疎遠になったり断ち切れる様な絆ではない。
「ゆめいさん……ようこそ」「こんにちは」
子供部屋から廊下に顔を出した可南子ちゃんは、顔色がやや疲れ気味だ。わたしが訪れ
るといつもなら、部屋から迎えに駆け出して来てくれるのに、今日はその侭首を引っ込め。
「少し疲れ気味なの。最近色々あってね…」
「仁美さんから、少しお話は伺っています」
言うか否か少し悩む佳美伯母さんに、わたしは事情を概ね仁美さんから聞いたと明かし、
「差し出がましいと承知の上で、可南子ちゃんを元気づけられればとも想って来ました」
「そうなの。いえ、嬉しいわ。ありがとう」
微かにほっとした印象が伝わってきたのは、可南子ちゃんとわたしが仲良しで、元気づ
けられるかもという希望より、今回訪れたわたしの憂いがその程度の物かと感じての安心
で。
中に上げて頂いて、立派な仏壇に飾られた祖父祖母の写真を前に手を合わせる。写真は
ないけど、お父さんとお母さんの位牌もある。お母さんは嫁入りしたし、わたしは子供で
仏壇も持てないから、2人の遺骨もここにある。
『久夫おじいさん、恵美おばあさん、お父さん、お母さん。わたしの、たいせつな人…』
わたしを守ってくれた人、わたしを包んでくれた人、わたしに想いを注いでくれた人…。
これから苦難に挑むわたしだけど、力を貸してとは願わない。生者の世界の事柄は生者
で何とか為すべき物だ。生者が死者に祈る以外基本的に何も為せない様に、死者も生者に
基本的に何も出来ないし、為すべきでもない。
わたしの為に、お父さんとお母さんには生命を投げ出させた。久夫おじいさんや恵美お
ばあさんには終生わたしを気遣わせた。これ以上守らせてはいけない。わたしにそこ迄の
値はない。死んだ後も守ってと願えはしない。それこそ永久に、人生の借金を返せなくな
る。わたしは想いを注ぐ側になる。守り庇う者になる。人の助力を当てにする弱さは抱か
ない。
唯見守ってと。わたしがこれから全身全霊、力と想いの限りを尽くして、禍に立ち向か
う様を見守ってと。わたしだけではなく、みんなの大切な人に迫る禍を、わたしが防ぎま
す。
見守られていると想うだけで心の力になる。勇気が湧く。希望を抱き禍に挑み続けられ
る。傷んでも怯えても、苦しんでも悲しんでも…。
『どうか見守って。そして仮に力を貸してくれるなら、わたしにではなく彼女の方に…』
真に危ういのはわたしではない。禍の標的は己ではない。わたしはそれに自ら関る事で、
苦難を分けて負う事で、彼女の悲痛を減じる。だからわたしは守りではなく禍を欲してお
り、守りはわたしが助けたい彼女にこそ必須で…。
「可南子のこと、お願いして良いかしら?」
迫り来る禍は感じ取れずとも、最近の可南子ちゃんの心の疲れは傍にいれば目に見える。
不安と願いを宿した母の双眸にわたしは、
「任せておいて下さい」
たいせつな従妹の為に役立てる時が来た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
子供部屋で間近に向き合う可南子ちゃんの、背後の窓を埋めた雲は、尚も小雨を続かせ
て。
「ゆめいさん、昨夜お姉ちゃんの電話受けて、あたしの事でかなり心配させちゃった
…?」
可南子ちゃんもまだ事の深刻さを知らない。遠方から慰めに来たわたしに済まなさそう
で。迫りつつある危難を当の彼女が感じていない。
「気にしないで良いのよ。元々来ようと想っていた処だから。……例え来る予定がなかっ
たとしても、駆けつけていたとは想うけど」
昨日夕刻羽様のお屋敷に掛ってきた電話は、合宿への出立を翌朝に控えた仁美さんから
で。
唯の近況報告だったけど。お話しの多くは日々の悩みだったけど。視えたのは仁美さん
の懸念ではなく、彼女も知らないその背景で。
それでも可南子ちゃんと暫く離れる前日に、わたしに憂いを打ち明けてくれたのは。深
刻ではないと頭で考えつつ、心のどこかで仁美さんも、虫の報せを感じていたのかも知れ
ぬ。
「あたし大丈夫なのに。嫌な事はあったけど、頼れる先輩もいるし。ゆめいさんに来て貰
う程の事じゃないのに、お姉ちゃん話大げさ」
「仁美さんもそう言っていたわ。今回来たのはわたしのお節介なの。ごめんなさいね…」
自然と両手に両手を握って持ち上げたのは、愛しむ想いと案じる想いと。活動的に見せ
ようと艶やかな黒髪をショートに切り揃えても、円らな黒目も丸い頬も可愛さが増す。中
学校ではバレー部に入ったと聞いていた。小柄だけど動きの良い彼女は、昨秋からレギュ
ラーも狙える位置にいた。問題は、その部活で…。
「ううん。ゆめいさんが謝る事はないから」
来てくれた事はとても嬉しい。その、元々があたしの為じゃなくても、こうして心配し
て家に上がって、声かけて手も握ってくれる。肌触りと温もりが、あたしを満たしてくれ
る。
お姉ちゃんが顔に大けが負って落ち込んだ二年前も駆けつけてくれた。あたしを抱き留
めて、お姉ちゃんも支えてくれた。心細さも震えも涙も受け止めて、包んで暖めてくれた。
おじいさんが亡くなった時も、おばあさんが亡くなった時も、傍で一緒に哀しんでくれた。
「時にお姉ちゃんより近くて、時にお姉ちゃん迄守ってくれて、いつもあたしの願いを全
身全霊受け止めてくれて。賢く優しく強い人。あたしのたいせつな人。ずうっと間近でこ
うして肌を触れ合わせていたい、綺麗な人…」
あたしの、もう一人のお姉ちゃん。
握った侭の両手に左頬を合わせてくれる。
自覚してないけど、可南子ちゃんは心が疲れていた。元気がない己に気付けない程滅入
っていた。この状態で禍に直面させる訳には行かない。出る前に元気づけておきたかった。
仁美さんの話では、可南子ちゃんは昨秋から部活で虐めを受けていた。着替えや運動靴
を隠されたり、切り裂かれたり、汚されたり。直接害された事はないけど、可南子ちゃん
を嫌う先輩がいる様で、同級生も関ると禍が及ぶと離れ。仁美さんや伯母さんの心配に可
南子ちゃんは、一定の嫌がらせがあると認めた上で、庇ってくれる先輩もいるから大丈夫
と。
先生に言うと告げ口となり、相手を怒らせ、虐めを激化させ、陰湿化させる。逆効果の
怖れがある為に、その先輩も可南子ちゃんも暫く様子を見たいと。仁美さんも伯母さんも
心配しつつ、今暫くその考えを尊重する方向で。
でも、それでは根本的な解決には繋らない。
そしてそれ以上に、致命の危難が迫り来る。
視えた像に、微かに緊張してしまうのは。
思い描く事さえ躊躇い目を背けたくなる。
彼女が今日夕刻迄に遭う禍の像が確かに。
予定通り今朝経観塚を出立したなら、町への到着は夜遅くだった。禍は、防げなかった。
朝の仁美さんの出立に間に合わなかった様に。それ故に、たいせつな双子の涙を振り切っ
た。
この禍を防ぐ為に、共に受けて退ける為に。わたしが感じた禍の影は、従妹が受ける禍
に自ら望んで関りに行って共に被るからこその。サクヤさんにそれを感じなかったのは、
サクヤさんが去った後でそれが鮮明に視えたのは。
可南子ちゃんに触れて殆ど事が見通せた。
己の緊迫に気付かせぬ様に声は柔らかく。
「伯母さんから、今日も部活に行くって聞いたけど……?」「うん。れいこ先輩と約束し
たの。逃げずにしっかり事に向き合うって」
宍戸伶子先輩。セミロングの黒髪の綺麗な人で、ゆめいさんと同じ年。同級のみんなが
離れた後も気遣ってくれて、声かけてくれて、事に一緒に向き合ってくれる、唯一の人な
の。
脳裏に視えてくる実情は、今は言えない。
言っても信じて貰えないし例え信じても。
「……そうなの?」「うん……そうなの…」
可南子ちゃんを送り出さねば事は動かない。
彼女に危難が待つと分ってそこに行かせる。
償う術もない己の罪深さは百も千も承知で。
彼女を守り禍の根を絶つ術は他にないから。
罰も報いも傷みも危難もこの身で受けます。
どうかわたしに、可愛い従妹を守らせて…。
贄の力を肌の暖かみと共に、心と体の癒しとして流し込む。赤ん坊の肌の暖かみに似た
熱と心地良い痺れに、可南子ちゃんはうっとりと両目を閉じて、心も鬱屈から解き放たれ。
「あたしが今一番頼れて信じられる強い人。
ゆめいさんも逢えばきっと仲良くなれる」
「……そうね。仲良く、なれたら良いね…」
空が少し明るくなって、雨が止んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
可南子ちゃんに直に触れて元気づける事と、より確かに禍を見通す事が、来訪目的だっ
たので。その出立を見送って、尚留まる必要迄はなかったのだけど。少し時間があったか
ら。
「今日はわざわざありがとう。可南子の事は、最近仁美もわたしも気にしていたのだけ
ど」
わたしは居間で、佳美伯母さんに向き合っていた。伯母さんもわたしのたいせつな人だ。
己が与えてしまった不安は、己で拭いたい…。
「いえ。わたしは唯子供同士で向き合ってお話しを聞いただけで、余りお役に立てては」
「それが大切なの。女の子は丁度難しい年頃だから、親が聞き出そうにも中々デリケート
で……って、柚明ちゃんも可南子と一つ違いで丁度その年頃だったわね。ごめんなさい」
つい仁美に話す感覚になって。あなたは物静かで賢い上に、こうしてお話ししていると
年に相応しくない程大人びているから。仁美はともかく可南子には少し、見習って欲しい。
紅茶を口元に運びつつぼやく伯母さんに、
「わたしも中身は子供です。早く内実も整った佳美伯母さんの様な大人の女になりたい」
「まるで、姑が嫁に褒められたみたいねえ」
可南子か仁美が男の子だったら、あなたを是非お嫁さんにってお願いしていた処だけど。
あなたが男の子でも良い。良い花婿になれる。そんなお話を旦那とも何度かしたのだけど
ね。
「わたしが、ですか?」「ええ、あなたが」
伯母さんが本心で言っていると分るから。
恥じらいを隠しきれず、思わず頬が赤く。
仁美さんは強さと脆さを併せ持って綺麗。
可南子ちゃんは純真に無垢で可愛らしい。
双方愛しくてたいせつなわたしのいとこ。
2人には幸せを掴んで欲しい。その為になら己を捧げられる。この身が多少の傷みや苦
難を被ろうと。その想いは確かだけど、でも。
「買い被りです。わたしにそこ迄の値は…」
「そうかしら? 仁美の出掛けた直後に来てくれて、可南子を力づけてくれて。意図して
なくても凄いタイミングよ。わたしも仁美も、可南子があれ程滅入っているとは思ってな
かった。部活に出て行くあの足取りの軽さは久しぶり。大げさに見えたあなたの心配が、
後で正解だと分る。お義母さんが亡くなった時もそうだけど。何かありそうな時、起こり
そうな時に、あなたは先に察して駆けつけて」
お母さんの面影を感じるわね……最近は。
「お母さん、ですか。わたし、似てます?」
ええ。血は争えないって、本当みたいね。
「大人しいだけじゃなく、柔らかなだけじゃなく、底に賢さ強さと優しさを確かに秘めて。
察しの鋭さも動きの素早さも答の軽やかさも。あなたの子育ての相談も受けたけど、今は
そのあなたがわたしの相談に乗ってくれて…」
折れ掛った仁美の心を救って支えて、可南子の涙迄受けて。ご両親を亡くしたあなたを、
わたし達が受け止め包む立場なのに。あなたは賢く強く優しくて。前から可愛かったけど、
近頃は本当に綺麗になって。そんなあなたに。
「こういうお話しをするのは心苦しいけど」
視線が宿す情愛は変らない侭、顔色に少し苦味が視えた。微かに俯き加減から声は低く、
「今回あなたの心配がこの程度で良かった」
経観塚は遠い。あなたはまだ中学生。何度も行き交いできる時間やお金はない。あなた
が唯逢いたくて来る訳ではないと、わたしも漸く分ってきた。娘達を深く想う以上に、そ
の哀しみや苦痛を防ぎに来ていると。わたし達に深い情愛を注ぎ、身を尽くす為に来てく
れていると。結果を手繰って漸く見えてきた。
「そんなあなただからこそ不安に想ったの」
己の来訪が伯母さんの懸念を呼んでいた。
「ごめんなさいね。あなたは仁美や可南子を想って来てくれるのに。禍や哀しみや苦痛を
防ごうと、救おうと来てくれるのに。でもわたしは、あなたを見て禍の到来を知るの…」
あなたには幾ら感謝をしても足りないのに。
あなたが来る事が禍ではないと分っても尚。
「あなたの来訪を前に心が身構えてしまう」
あなたがどれ程禍を見通せているのかわたしには分らない。癒しの水と同じで、敢て問
い質そうとは想わない。あなたの善意は疑っていないし、詮索を好まない事位は分る積り。
「唯、あなたは多分感じているのでしょう」
この様に対面して聞いてくれる事が既に。
わたしがあなたの来訪に怯えている事を。
あなたの来訪に禍の影を感じている事を。
久しぶりに逢える事は、とても嬉しいのに。あなたは何一つ悪くないどころか、この上
なく有り難いのに。あなたが来る事は、あなたが支えに来なければならない禍が間近な兆
で。
「今回あなたの心配がこの程度で良かった」
優しさ故に拭えないわたしへの苦味の故に、心からほっと出来たという声はすぐに沈ん
で、
「そして、ありがとうと、ごめんなさい…」
「……伯母さん、気になさらないで下さい」
伯母さんの話には肯定も否定も返さない。
唯わたしはその想いに己の誠を返したい。
伯母さんは何も悪くない。わたしが禍を防ぎに来る以上、その到来に禍を感じて当然だ。
それが伯母さんの気を重くさせ、身構えさせるのは必然だ。家族を大切に想う伯母さんに
何の非があるだろう。逆にわたしに迄申し訳なく想ってくれる、その優しさが勿体なくて。
「わたしは伯母さんに深く感謝しています」
わたしの様な者を深く強く信じてくれて。
何度かこの心を救い庇い、助けてくれて。
「多くのご迷惑と面倒をおかけして、申し訳ないと想いつつ、恩返しも中々出来ないで」
その優しさだけで充分です。わたしの為に想い悩まないで。わたしは全然大丈夫。むし
ろ家族を心から想い案じる伯母さんが、わたしは好き。これからもそうあり続けて欲しい。
向き合ったテーブルの上で伯母さんの両手を両手で確かに握り。素肌から伝わってくる、
不安も慚愧も確かに受けて。わたしへの怖れも確かに受けて。己の来訪が及ぼし与えた怯
えと苦味なら。全て拭えずとも己の力の限り。
「伯母さんの大切な人に、わたしも身を尽くしたいの……守り支える事を許して。可南子
ちゃんも仁美さんも、伯母さんも伯父さんもわたしのたいせつな人。特別にたいせつな人。
わたしの両親の死を共に悲しんでくれた人」
夕刻起こる禍は伯母さんにはまだ言えない。
贄の血の特異な関知の力を晒せない以上に。
伝えても、信じて貰えないとかでもなくて。
禍は起こさせて退けなければならないから。
未然に防いでは後に尾を引き続けてしまう。
可南子ちゃんを禍の場に往かせて後を追う。
今わたしは知らぬ振りの装いを己に強いて。
禍の根を絶つに必須な行いだけど、可南子ちゃんを危険に晒す。その罪は明かして謝る
術もなく。その上で己の来訪が心を乱し不安を招くなら。日々の幸せや笑顔に影落すなら。
わたしは足繁くここを訪れるべきではない。
窓の外では空が再び暗さを増し始めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
雨が本格的になったのは午後2時半過ぎか。僅かな晴れ間を突いて走り出た可南子ちゃ
んが忘れた傘を、渡す為に伯母さんから預って。わたしは彼女が通う中学校に足を運んで
いた。
「ごめんなさい。雑用ばかり頼んじゃって」
「気になさらないで下さい。ついでですし」
でもそれは杏子ちゃんの家に赴くついでではなく。可南子ちゃんに迫る禍を退けに中学
校へ行くついで。無事に全ての禍を無傷の侭で退けられたなら、予定通り杏子ちゃんの家
に行き、再会を心ゆく迄喜び合う積りだけど。
『そうならない公算が高い。視えた像では』
杏子ちゃんには昨日夕刻、経観塚駅の公衆電話で、或いは逢えないかもとお話しをした。
可能な限り頑張る、逢える様に全力を尽くすと言うと、杏子ちゃんは詳細な事情を問わず、
『あたしは意外と気長なの。待っているから。無理しない程度に頑張ってね、ゆーちゃ
ん』
杏子ちゃんはわたしの逢いたい想いを分っている。彼女がわたしに逢いたい想いを、わ
たしが感じている事迄も。故にそれを妨げる事情も敢て問わず、何かあると察してくれて。
可能性の希薄は重々承知で、己の関知の像にほぼ綻びがないと視えて尚、わたしは杏子
ちゃんを諦められなかった。逢えないと告げる事がその侭逢えない未来を招く様に想えて。
『全身全霊を尽くすから。最後迄諦めない』
『それでこそ、あたしのゆーちゃんだよ…』
だからわたしは今から全身全霊禍に挑む。
たいせつな従妹を確かに守り、禍を退け今後の処置を万全にして、たいせつな友達に逢
いに行く。最後迄わたしは双方共に諦めない。
雨天の為かグラウンドにも人影はなかった。生徒玄関迄来ても、物音も声も聞えては来
ず、校舎は閑散として。玄関から左右と奥に伸びた廊下の内、百メートル奥に進んだ体育
館脇の女子更衣室に可南子ちゃんの気配を感じた。
近くに他に気配はない。先生も部員もいなかった。実は今日学校で部活はない。そう聞
かされて、体操着を持ってきた可南子ちゃんは当惑しつつ、女子更衣室で待たされている。
玄関で、靴を片方持って右側に去るセーラー服が見えた。セミロングの艶やかな黒髪に、
わたしより背丈も高く肩幅もあって。一年生ではなさそう。伯母さんの依頼は手渡す必要
はなく、傘を彼女の靴箱に掛けて終りだけど。わたしは濡れた自分の傘を靴箱に立てかけ
て、靴を脱ぎ来客スリッパを借りて上がり込んだ。
今引き返せば、ここで退けば、わたしに禍は降り掛らない。禍は可南子ちゃんのみ襲い、
わたしは傍で見過ごす事で身の安全を保てる。杏子ちゃんとの五年半の空白を、埋められ
る。
でもその途は、選べない。わたしは……。
『この手で可南子ちゃんを守らせて下さい』
羽様のお屋敷のちゃぶ台で昨夜、両手と額を畳に擦りつけての、わたしの強いお願いに、
『柚明ちゃんに視えたのは、物理的な危険ね。わたしが教えた護身の術で退けねばならな
い程の。それはあなたが行かないと防げない? 柚明ちゃんが向うに行き、危険を負って
妨げないと、躱す事も止める事も叶わない?』
真弓さんの問も尤もだった。起こる禍がそこ迄明瞭に視えるなら、他に手はないのかと。
襲い来る禍が事前に分るなら、警察や先生を呼んで備えられないのか。大人が予め禍を
見通した事を信じないなら、その時その場に導けば良い。禍が迫った時に駆けつける様に
通報すれば良い。事前に知れば回避の術はないのかと。赴くのはともかく、わたしが身を
挟めて苦難を負わねば、防げない禍なのかと。
『可南子ちゃんや仁美さんに危険を伝え備えて貰ってはダメなの? 先生やご両親や警察
を頼っては? 部活を休ませ家の外に出さない手もある。一日位体調不良とか理由はつく。
そこ迄禍が迫っているなら、学校に虐めを明かして相談すべきよ。他に方法はないの?』
真弓さんの弱気は、わたしの申し出には相応の理由があるとの推察故だ。わたしは危険
を好まず争いも望まない。わたしの求めはたいせつな人の幸せと守りで、人前で活躍して
感謝される事でもない。その人の安穏と笑みが保たれるなら、わたしはむしろ黒子を好む。
そんなわたしを知る故の真弓さんの問に、
『明日迫る禍を避けるだけなら、可能です』
でもその回避は根本的な解決に繋らない。
躱された危難は次の週末に再び巡り来る。
『相手は同じ学校に通う人です。外部の人じゃない。学校にいるだけでは捕まえられない。
先生や警察が来れば、未然に防げる代り害意も特定できず、叱る事も暴く事も叶わない』
彼らは何食わぬ顔で善意の仮面で応対し。
別に大人の目の届かない処で為してくる。
禍が始ってしまっては遅い。可南子ちゃんが傷つけられている最中に来ても、手遅れだ。
害意が明確に見え、可南子ちゃんが傷つけられる前に防がねば。でも先生も警察も虐めの
話しを何も知らない。突然何人かの生徒を疑ってと待ち伏せの様な所作を求めても難しい。
『大人に唯の見回りを頼んで、可南子ちゃんの禍が回避されても、来週それを頼むのは難
しい。何も起こらなかった末に、今週なかった禍が、来週あると納得させる事は難しい』
回避できれば、なかった結果が実績となる。更に頼み難くなる。相手は時を変え所を変
え、機を窺える。いつか凶行は為される。いつ迄も防げはしない。受けて退ける他に術は
ない。むしろわたしが行って防げる時に為させたい。
『根から解決しないと事は終らない。いつ迄も尾を引いて、危険と不安を残します。可南
子ちゃんに部活を辞めさせる事は、困難です。守り庇ってくれるというその先輩を恃む限
り、仁美さんや伯母さんの勧めは多分、届かない。
更に言えば、部を辞めさせてもその先輩との繋りを改善しないと、危難の芽は残ります。
禍の根を断つには、可南子ちゃんの心の奥の奥迄踏み込まなければならない。伯母さんに
も仁美さんにも相談してない、彼女の本当の悩みを受け止めないと、禍は断ち切れない』
可南子ちゃんとその先輩の絆の奥に、踏み込まなければ。可南子ちゃんが深く心を寄せ、
大切に想い合うに至ったその女の子の深奥迄。
「あなた、見かけない制服ね。他校生…?」
右手の廊下から現れたセミロングの黒髪も艶やかな女の子が、わたしに話しかけて来た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「こんにちは、羽藤柚明と言います。2年生です。宍戸伶子さんですね。従妹の可南子ち
ゃんからお話は伺っています」「あ、ああ」
大人しげな人だった。綺麗だけど、内気さがその印象を平凡に抑え。限られた人以外に
は心を閉ざした感じだった。わたしより背は高く黒髪も艶やかで美人の条件は満たすのに。
硬い表情は初対面の戸惑い以上に、行動の直後だった故か。可南子ちゃんを一人待たせ、
その前を外していた彼女は早く戻りたかった。ここで自分が為した事を、悟られたくなく
て。
「宍戸、伶子です……。カナちゃんがいつも言っていたゆめいさんって、あなたなの?」
わたしに話しを投げ返すのは、己に話しを振られたくないから。その意図は承知の上で、
「可南子ちゃん、お話ししていましたか…」
わたしにお話ししてくれる位ですものね。
もう数歩近づいて。もう少し心も近しく。
「可南子ちゃん、あなたを大切に想っていましたよ。唯一恃みに出来る、強く優しく綺麗
な人だって。守り助けてくれる先輩だって」
正視すると怯えた様に揺れるその黒目に、
「可南子ちゃんを、大切に想ってくれて有り難う。可南子ちゃんはわたしのたいせつな人。
お姉さんの仁美さんや伯母さん伯父さんにとっても大切な、可愛い子。だから有り難う」
その想いだけは間違いないから。
謝意を込めて深々と頭を下げて、
「今からは宍戸さんもわたしのたいせつな人。わたしのたいせつな可南子ちゃんを大切に
想ってくれて、大切に想われた人だから。叶う限りあなたの望みを保ち助け、支えたい。
一緒に可南子ちゃんの笑みを守れたら嬉しい」
よろしくお願いします。手を差し伸べると。
驚きと戸惑いと、淡い善意と後ろめたさに。
かなりぎこちなく、でも握り返してくれて。
右手同士の握手に、わたしは左手も添えて、
「たいせつな人の笑顔を支える為に、お互いに心と力を合わせましょう」「う、うん…」
初対面にしては少し馴れ馴れし過ぎたかも。
でも彼女とは出来るだけ早く心を繋ぎたい。
数分では顔繋ぎ以上の物にならぬと承知で。
己の希望は叶えられない結果が視えても尚。
わたしは失敗の結果が出る瞬間迄諦めない。
「……で、羽藤さん。どうして、ここへ?」
「雨が降ってきたので、傘を預って来たの」
丁度こっちに来ていて、ついでだったし。
それと少し心配なので様子も覗きたくて。
「可南子ちゃん、元気なさそうだったから」
「関係者以外の立入は、禁止されています」
可南子ちゃんの近況に話が及ぶと、彼女の表情も姿勢も一層硬くなるけど、敢て問わず。
もう少しお話しを続けて、心を繋ぎたかった。彼女と心繋げれば、可南子ちゃんもわたし
も危難は躱せる。例え視えた像は動かせずとも。
「わたしは可南子ちゃんと、無関係では…」
「他校生入れてトラブルが起きたら困るの」
拒みたい視線が困惑に曇るのは。左に伸びた廊下の中途、二階に通じる階段の踊り場に、
2人の女子が現れた為で。気配を悟って振り向くと、2対の瞳が見開かれた。驚きは、銀
座通中の制服姿より、わたしの即応への物か。
ベリーショートの茶髪に筋肉質で細身な背の高い子が杉原美里さん。ミディアムの黒髪
に少しふっくらした眼鏡の子が斉藤明美さん。2人共昨秋迄バレー部に所属していた3年
生。会釈する前に接触を嫌う様に上へ去ってゆく。
宍戸さんは、表情も視線も尚硬くなって、
「傘は私からカナちゃんに渡しておくから」
わたしの手からひったくって返事を望まず、奥の体育館へ走り去る。問答無用で押し切
る姿勢に、わたしはそれ以上取り縋る事はせず、取り残される侭、その場に暫く立ちつく
して。
どちらも即追わなかったのは、立入を拒まれた以上に、女の子2人の行く手に禍の核を
感じたから。上の階で、男女拾数人の気配が偵察の帰還を待っていた。自分達の動きを今
少し、気取られたくないと潜む様子が窺えた。
部活は退いた筈の3年生が、冬休み終盤に。可南子ちゃん一人が偽りの部活情報を信じ
て来ただけで、部員も先生も誰も来てないのに。拾数人の意図は今更探る迄もない。それ
より。
今は助けを必須とするたいせつな人の元へ。
雨雲の侭日は傾いて空も暗さを増してきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
視えた像は入り組んで、どの対応が最善か、どの段階で分け入るべきか、かなり微妙で
判じ難い。唯防ぎ守るだけでは禍根は断てない。わたしは暫く成り行きを見守る為に、体
育館傍の男子トイレに身を隠す。女子更衣室の扉に耳を寄せたかったけど、そう望む人は
他にも多数いた。決して好意ではない動機を抱き。
関知と感応を使えば、壁を数枚隔てても少し距離を置いても、人の想いや行いは視えて
分る。一度でも直に触れた者ならばより強く。親しく関り深い者なら直に見聞きするが如
く。
これから可南子ちゃん達の動向を盗み聞く。褒められた行いではない。関知も感応もこ
ういう使い方は好まないわたしだけど。後で事実を明かして謝る事も出来ないわたしだけ
ど。たいせつな人に迫る禍を退ける為に。2人の動向を盗み聴いて機を窺う者達に備える
為に。
女子トイレを避けたのは、相手方もわたしの存在を知って心に留めたから。向うはわた
しの意図や目的は知らない筈だけど。傍に隠れ潜むと怖れ、確かめに入る事は予期できた。
先生も他の生徒もいない時と場を作ったにも関らず、他校生が現れた事は予想外だろう。
探す迄はしなくても、傍にいない事は確かめたい筈だ。男子トイレに女子が隠れるのは意
外だろうし、わたしは掃除具置きの個室に潜んだ。見つかれば逆に弁明出来ない処だけど。
案の定3年生拾数人は、女子更衣室の盗聴前に、傍の女子トイレの無人を確かめに来た。
高い背と、その背の半ば迄届く黒髪が艶やかな玉城愛実さんの指示で、念入りに見て回り。
男子トイレ迄入られた時は、流石に緊張した。
小柄で茶髪が逆立つ坂本俊介君達を促して、四つの大の部屋迄点検させ。掃除具置きの
個室を閉めず、扉の裏に潜んだのが正解だった。女子トイレに較べ、男子トイレの検分は
おざなりで。息遣いを間近に感じたけど、わたしの存在は感づかれず。板一枚の間近から
彼らは女子更衣室と壁一枚の男子更衣室へと移り。
気分はスパイ映画か忍者映画だった……。
『女子更衣室の音を機械で録って聞いている。線を天井に這わせて、男子更衣室の機械で
聞き取れる様に用意して。全て彼らの計画の内。ここでこの時に為す様に、宍戸さんに勧
め』
宍戸さんは、彼らの思惑を分って乗った?
耳を澄ませる彼らの動向は気掛りだけど。
『れいこ先輩、ありがとう。……うれしい』
『何も、礼を言われる程の事じゃないわよ』
今は可南子ちゃんと宍戸さんに集中する。
その可南子ちゃんは歓喜の余り、宍戸さんに正面から抱きついていた。二人だけの一室
故の大胆な行いだけど頬が朱に染まっている。でも、宍戸さんの喜びに微かに兆す苦味は
…。
『更衣室は探したから器具室かも』『はい』
宍戸さんは、部活だと思って来た可南子ちゃんに、2人きりで大事な話しがあると告げ。
校舎に誰もいない今、可南子ちゃんの隠された靴を共に探そうと。大事な話はその後にと。
部活が違う人なら、繰り返す内に不自然な出入りは気付かれる。だからバレー部の誰か
が可南子ちゃんの物だと分って持ち去ったと。容疑者である他の者と探しても信用できぬ
と。
今迄隠された物は約半数が見つかっており、その更に半数は切り裂かれたり泥水やケチ
ャップで汚され。四分の一は使える状態だった。見つかったのは体育館傍、男女更衣室や
トイレや器具室で。だから部員を疑った訳だけど。
発見者は主に宍戸さんだった。悪い噂の立った可南子ちゃんから同級生が離れ、熱心に
探す人は彼女だけだった。一緒に探し、幾つか見つけてくれて。一層その心は彼女に傾き。
『あのシューズ、お母さんにまだ無くしたって言えてないの。前のを無くされて買ったば
かりで、大事にしなさいって言われていたし。きっと見つけられますよねっ。れいこ先
輩』
来た直後に可南子ちゃんを女子更衣室に一人置き、暫く外した不自然も忘れ。宍戸さん
が己の為に、一緒に動いてくれる事に喜んで。気分は、人の恋路を盗み聞きする小姑だっ
た。
『見つかるかどうかは、探してみないと分らないんだから。余り期待しないで』『はい』
返事とは裏腹にその声音はうきうき弾んで、瞳はきらきら輝いて、動きはステップを踏
み。
宍戸さんは可南子ちゃんの前で確かに鍵を掛けてから、連れだって体育館隅の器具室へ。
誰もいない前提の可南子ちゃんはすっかりデート気分か。視ている己が申し訳ない感じだ。
2人が外してすぐ、男子更衣室に隠れていた数人が素早く動く。その動向など知る筈も
ない可南子ちゃんは、宍戸さんの導きで器具室の扉を開き、埃っぽい暗がりを2人で探す。
肩が触れ手が重なるのは、狭くて様々な器具がある処の故か。2人はその狭さを共有し、
密着感を楽しみつつ、共同作業を暫く続けて。
少し経った頃に、抑揚のない平静な声が、
『あったわよ』『え? 本当……やったぁ』
れいこ先輩すごい! しかも今回はシューズ汚されても切られてもいない。良かったぁ。
『先輩ありがとう。れいこ先輩のお陰です』
『偶々よ。でも、見つかって良かったわね』
間近で一緒に喜んでくれる人が好ましく。
可南子ちゃんは宍戸さんの両手に両手を。
胸の前に持ち上げ握り合って見つめ合い。
『はい! どうもありがとうございました』
その瞳が歓喜に滴を溜めて潤んで見える。
『先輩がいてくれなかったら、絶対見つからなかった。あたし、もう見つからないって諦
めていました。探そうって気にも、なれなかった。先輩が促してくれたから、励ましてく
れたから、一緒に探してくれたからあたし』
右頬を握りしめた宍戸さんの両手に寄せ。
『れいこ先輩が、いてくれたお陰です…!』
想いが深く通い合う。強く肌を感じ合う。
その末に視えてくる感情を、宍戸さんのみならず、可南子ちゃんも微かに意識し始めて。
『とにかく更衣室に戻りましょう』『はい』
一件落着と安心し女子更衣室に戻り来た時、可南子ちゃんが異変に気付いた。鍵を掛け
た筈なのに戸がすぐに開く。不審に竦む彼女は、
『物音は、してないみたいだけど』『怖い』
思わず先輩の胸に張り付く。しがみつかれた感じの侭、宍戸さんは一気に戸を開け放つ。
『今は誰も、いないみたいね……』『はい』
女子更衣室はそう広くなく、人が隠れられる作りでもない。一目で見通して他に誰もい
ないと分って、ひとまずほっとした次の瞬間、
『れいこ先輩っ、あたしのジャージが…!』
可南子ちゃんの体操着が引きずり出されて、床の中央に投げ出されていて。持ち上げる
と、
『切り裂かれている……そんな、たった今』
先輩と一緒に器具室行って、シューズ探して見つけて持ってくる迄の、参拾分位の間に。
『ひどい。こんな事する人が、今近くに?』
『カナちゃん、落ち着いて。心を、鎮めて』
抱き留められたのは可南子ちゃんの望みか。
抱き留めたのは宍戸さんの望みだったけど。
『先輩、怖い。刃が怖いです。すぐ近くに』
わたしのジャージ裂いた人がすぐ近くに!
得体の知れない害意だから。誰とも知れぬ敵意だから。形だけは明瞭に残るから。安心
の直後の恐怖だから。可南子ちゃんはその振幅に耐えられず、宍戸さんの胸に頬を埋める。
宍戸さんは小柄な後輩の震える肩を抱き、
『大丈夫。私がここにいるから、大丈夫よ』
守ってあげる。庇ってあげる。あなたを確かに支え助ける。可愛いカナちゃん。大好き。
【可南子ちゃんの怯えを受け止める以上に】
宍戸さんの想いが、前面に滲み出ていた。
可南子ちゃんは抱擁の中それに気付かず。
心細さと怯えを拭う温もりを放せないで。
『あたしも、れいこ先輩の事、大好きです』
いつも庇ってくれて、困った時相談に乗ってくれて、一緒になくされた物探してくれて。
怖かった時にも励まして、抱き留めてくれて。今学校で信じられる人はれいこ先輩だけで
す。
『そう、嬉しい。ありがとう、カナちゃん』
じゃあ。宍戸さんの声が微かに色を変え。
抱き留めた姿勢から後輩の瞳を見下ろし。
『私を信じ、その身も心も委ねてくれる?』
『はいっ……。れいこ先輩を、信じます…』
胸の内に抱き留めていた両腕が、可南子ちゃんの両肩を抑える感じに変った。顔を少し
離されて、何があるのかと見上げる双眸に上から顔が近づき迫り、唇が妙に大きく見えて。
【れいこ先輩の、先輩の唇があたしの唇に】
重なると思えた瞬間。注目の集まる刹那。
「……今は、それを……させないわっ…!」
わたしは女子更衣室の戸を開け放っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
小島裕也君達元バレー部員男女拾数人には、2人がそれを為す瞬間より、為した後が重
要だった。動かぬ証拠を収めるには瞬間である必然はない。最中でも終り間際でも良かっ
た。
瞬間を捉えようと拙速に出て気付かれれば、2人は直前で止めて言い逃れするかも知れ
ぬ。有無を言わさぬ証を撮るには、唇を吸い合う音や喘ぎ声が聞えてから割り込む位の、
衣服脱いで逃げられぬ様を抑える位の遅れが好ましかった。彼らは慎重にそれを為す様を
待ち、わたしはそれを収められぬ様逆に拙速を望み。
故に動かず聞き耳立てていた彼らに先んじ、わたしは2人が行いを為す瞬間止めに入れ
た。少年少女拾数人も、隣室で驚いただろうけど。
「ゆっ、ゆめいさん」「羽藤さん、あなた」
身を添わせつつ唇合わせようとしていた。
その現場を抑えられて身も心も固まって。
声を失う2人にわたしは強く声を発して。
「2人とも来て。この部屋は袋のネズミよ」
彼女達の行いの、是非を問う積りはない。
隣もここで何が起きたか把握できぬ内に。
とにかく今はこの一室を、離れなければ。
ここは死地だ。人気のない学校は今全体がそれに近いけど、とりわけここは逃げ場がな
い。女子更衣室の入り口は一つで、窓は手を伸ばした上に人が通れない大きさで一つだけ。
入口を抑えられたら、逃げ出す術は消失する。
わたしは踏み入って可南子ちゃんの左手を引き。肌を合わせていた宍戸さんにも力を及
ぼし。引っ張って玄関へ馳せる。全力疾走したかったけど、無理をさせると転んでしまう。
後方で感じた拾数人の当惑は、今は捨て置く。
今は唯たいせつな人の助けをこそ優先し。
辿り着けた生徒玄関前で息の荒い2人の、
「どうしてここに?」「羽藤さん、一体…」
漸く動き出した2人の思考は、驚きよりも恥じらいよりも、わたしへの問いを思い返し。
これ以上問答無用で引っ張れない。生徒玄関前の無人の廊下で、わたしは2対の瞳を前に、
「あなた達、騙されている。2人とも、宍戸さんあなたも、嵌められているの。彼らに」
可南子ちゃんも宍戸さんの本当を知らねば。
宍戸さんも自身を取り巻く本当を知らねば。
蟻地獄に落ちて行く2人は、助けられない。
「可南子ちゃんにも宍戸さんにも、真相を知って欲しいの。禍はごく間近迄迫っている」
わたしの登場も唐突で、事を分って貰うには少し掛る。その少しに宍戸さんが挟まった
のは、わたしが彼女の本当を告げる怖れ故か。
「ゆめいさん、一体」「何を言うのあなた」
既に顔見知りな事に驚く可南子ちゃんの視線の問には応えず、宍戸さんはわたしに強く、
「あなたは他校生なの。幾らカナちゃんが大事でも、こうやって学校迄乗り込んで強引に
関りを求めるのは、カナちゃんにも迷惑よ」
彼女は私の大切な後輩。私が助けて守る人。
通りすがりのあなたは来ても役に立たない。
戸惑う可南子ちゃんを背に回して前に出て。
「四六時中を共にする訳でもなく、偶々来ただけですぐ居なくなるあなたが、カナちゃん
に何を出来るの? 余計な騒ぎを起こし人間関係拗らせて、カナちゃんに負担を残すだけ。
実の姉でも従姉でも、今ここの生徒でもなく部員でもない人間に、学校生活の中迄入り
込まないで欲しいし、入り込めはしないの」
カナちゃんはここであと2年以上を過ごす。あなたの手の届かない処で中学生活を続け
る。あなたが幾ら頑張っても、来週始る三学期に、一体何を残せる? カナちゃんを巡る
虐めにあなたは役立てない。気紛れにカナちゃんを巡る諸々に首を突っ込むのはやめて。
それは却ってカナちゃんの為にならない。逆効果よ。仮に今ここで何かできても一過性の
自己満足。
「私がカナちゃんを守るわ。カナちゃんを支えられるのは、同じ学校の同じ部活で心を繋
いだ私だけ。あなたはさっさと帰りなさい」
言い放つその視線は小刻みに震えている。
声音は怖れを敵意で上塗りして隠しても。
苛立ちや怒りを纏ってわたしを拒んでも。
勢いをつけねば崩れそうな脆さが見えた。
そんな彼女への反駁は気が進まないけど。
「今のあなたに、可南子ちゃんは守れない」
双眸に正視を返すだけで、勝負は付いた。
彼女が敗れたのは、わたしにではなくて。
彼女自身、宍戸伶子の中に宿る罪悪感に。
でも問題は、彼女の勝ち負け等ではなく。
「本当を隠した侭の今のあなたに、人のしがらみにがんじ搦めな今のあなたに、可南子ち
ゃんは守れない。救えない。支えられない」
今のあなたは可南子ちゃんを傷つけるだけ。
悲しませ苦しませ、自身迄も辛くするだけ。
真摯な想いを寄せ合う程に、心が重くなる。
「良いの? わたしの口から、明かしても?
あなたの本当を、あなた自身の口ではなく、他の者の口に語らせて、悔いは残らな
い?」
いつか真は明かされる。彼女が今後も可南子ちゃんと関りを望むなら、破綻は必ず巡り
来る。切れる訳ではなく心通わせ続ける限り、間近な禍を抜きにしても真相は隠し通せな
い。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「人を守るという事は、身体や生命と同様に、その人の心も守る事。その人の想いも守る
事。その人の大切な物迄守る事。あなたは可南子ちゃんを守ると言ってくれた。深く信頼
され、身も心も抱き留めてくれた。でも本当にあなたはそれを為せますか? その言葉と
行いに、あなたは今、後ろめたさを感じませんか?」
でも硬い声音と表情は、拒絶を瞳に宿し、
「何をたわごとを。あなた失礼よ。私の言葉を、想いと行いが裏切っているかの様な…」
カナちゃんの悪い噂も、その持ち物がしばしば無くされ、切り裂かれたり汚されるのも、
私が人に頼んで仕組んだ事だとでも言う気? カナちゃんを人から切り離し心細く思わせ、
私だけに縋る様に今の事態を導いたとでも?
「どこに証拠があるのよっ! 誰が見たと」
誰に頼んでそんな企みを為したと言うの?
宍戸さんの背で、可南子ちゃんの瞳が見開かれていく。宍戸さんが全身で激怒して否定
の語調を強めても、素肌と声と視線の震えは、その真相を表していた。そこ迄語る事が既
に、
「見た人がいなければ、その事実はなかった事になるの? 証言がなければ、その行いは
なかった事に出来るの? 誰も見てなくても、誰も証言しなくても、あなたの心に答はあ
る。
あなたが本当に大切に想った人に、あなたの本当を応えられる? 今迄応えてきた?」
宍戸伶子の本当を応えて。あなたが為した行いの本当も、その底に潜む想いの本当も…。
「そうしないと可南子ちゃんもあなたの本当を分らない。あなたに本当の想いを返せない。
あなたの口からたいせつな人に伝えて頂戴」
「ゆめいさん、もしかして、れいこ先輩…」
でも宍戸さんはわたしの重ねての求めに、
「私が何をしてきたと? 言ってみなさい」
この学校に通っていた訳でもないあなたに。
一緒に部活を過ごした訳でもないあなたに。
今日初めて顔を覗かせたあなたに何が分る。
「あなたこそ己の醜い執着に気付くべき。カナちゃんの関心を牽きたくて、誰かに視線が
向かう事を嫌い怖れ。思わせぶりな事言って、揺さぶってカナちゃんの心を引き離す気?
私との親密を妬んで疑いの芽を植える積り?
唯の従姉に過ぎないあなたに、何の権利があってそんな? まるで所有物ね。その視線
も仕草も怪しいわ。女同士なのに近しすぎる。むしろ私はカナちゃんを、あなたから守
る」
余計な口出しも手出しも、出来ない様に。
汚らしい視線も声も、向けられない様に。
帰って。二度とここには寄りつかないで。
「私のカナちゃんに、手は出させないわ…」
朝の痴漢を思い出した。誰の目にも明らかにされる迄、全て晒される瞬間迄、宍戸さん
も真実を否定し隠し続ける積りなのだろうか。
睨み付けてくる視線は、怯えに震えている。それはわたしが向き合う前から根ざしてい
て抜ける事ない罪への怯え。明かさぬ限り終る事ない己の行いへの怯えだ。打ち破る事で
解き放てるなら、それが彼女の救いになるなら。
真相を明かしても、しっかり支え助ければ、宍戸さんも全ては失わない。可南子ちゃん
を大切に想い想われた人を、絶望には落さない。2人にはその後迄責任を負う。だから今
は可南子ちゃんが好いた宍戸さんの、わたしのたいせつな宍戸さんの心の殻を打ち破って
救う。
褒められた行いではない。関知も感応もこういう使い方は好まないわたしだけど。後で
事実を明かし謝る事も出来ないわたしだけど。たいせつな人に迫る禍を退ける為に。この
動向を盗み見て、機を窺う拾数人に備える為に。
心の内で終生謝り続ける事を肝に銘じつつ。
償える筈もない自身の罪深さは承知の上で。
「今日の行いも今迄の行いもあなた一人で出来る事じゃない。ずっと彼らと連携していた。
可南子ちゃんは、悪い噂を流され嫌がらせが始った去秋、虐めで孤立した後輩を気遣って、
あなたが関ってくれたと思っているけど…」
真相は逆だ。宍戸さんが寄り添う為に彼女達は、可南子ちゃんからみんなを引き離した。
宍戸さんとその背後に蠢く男女拾数人は。
可南子ちゃんを孤立させ、心細く想わせ。
唯一人寄り添う事で信頼を掴み心を繋ぎ。
「可南子ちゃん、聞いて。2年の先輩も1年の部員も可南子ちゃんに嫌がらせはしてない。
今の男女バレー部に可南子ちゃんを虐めたり、物を隠した人はいない。唯一人を除いて
は」
宍戸さんの肩越しに、黒目が見開かれる。
「可南子ちゃんは今迄誰にも直接害されてないでしょう? みんなは悪い噂を聞いて関り
を避けているだけ。敵意も害意も抱いてない。
物を隠すだけで、誰がやったか明かさないのは、為した者を知らせない為よ。部員みん
ながあなたを虐めていると錯覚させる誘導よ。同時にバレー部全員の疑心暗鬼も招いて、
可南子ちゃんを案じる余裕をみんなから奪った。
同性愛の悪い噂を流してあなたを孤立させ、頼らせ縋らせ。思い起こして。嫌がらせも
悪い噂もみんなが可南子ちゃんから離れたのも、宍戸さんとの親密の進展に比例してだっ
た」
昨秋あなたに近づいた男の子の悪い情報をいち早く伝えて、離れる様に促したのは誰?
「その男の子が離れた事を使って宍戸さんは、『男嫌いのレズかな』の噂を流した。靴や
体操着を隠したのも、孤立したあなたを抱き留めたのも、縋り付かれる嬉しさ以上に噂の
証を自ら担い、あなたとみんなを引き離す為」
都合が良すぎる。宍戸さんとの進展はともかく、同時期に他の人が皆悉く可南子ちゃん
から離れるのは尋常ではない。それを望む者の作為が窺えた。それで利得を得るのは誰か。
可南子ちゃんの近くでそれを出来るのは誰か。
靴や体操着が男女更衣室や器具室等で見つかるのも必然だ。彼女達が自然に出入りでき、
よく知る処だから。宍戸さんが疑われそうで動けない時は他の人が為し、隠し場所を教え。
「靴や体操着を隠して一緒に探して見つける。孤立させ、頼らせて絆を深める。可南子ち
ゃんの信を掴みつつ、その様を見せたり自ら噂にしてみんなから引き離す。何一つ可南子
ちゃんの為になってない。真に可南子ちゃんを想うなら、例え愛を抱いても人目は考える
わ。
嫌がらせの公表を止め、相手を特定しようともせず、根本的な解決を遠のかせ。可南子
ちゃんの想いを独占しつつ、人間不信に陥れ、孤立させて囲い込み。幾ら口先で繕って
も」
この数ヶ月事は悪化の一方だ。それを促したのも、それを望んだのも彼女なら話は分る。
「あなたは可南子ちゃんの為に真に最善を尽くした? 可南子ちゃんを真に守り助けた?
たいせつな人に向き合って、応えて頂戴」
正視しての問に、その双眸は揺れ動いて、
「どこに証拠があるの? 証人でも居ると?
全てあなたの妄想だわ。作り話も好い加減にして。そんな事で私とカナちゃんの絆を裂
こうなんて、お笑いよ。あなた嫉妬の塊ね」
否定する声音と視線と肌の動揺が、真実を届かせる。可南子ちゃんは最早、確証も不要
に宍戸さんの真実を感じていた。幾ら必死に繕っても、誰を騙し通せても自身は騙せない。
宍戸伶子は知っている。己からは逃れられぬ。それに向き合う様に促すわたしも苛烈だけ
ど。
終らせる。宍戸さんの抵抗を、彼女の苦悩を終らせる。明かす他に術はないと、為した
事には向き合うべきと、諦めて貰う。彼女の真実が何であろうと、可南子ちゃんが彼女を
拒む末を迎えても、わたしが寄せる想いに変りはない。宍戸さんはわたしのたいせつな人。
その人を苛むと承知で、その傷みを彼女の救いに繋げられるなら、わたしは敢て心を鬼に。
「可南子ちゃんの外靴の右は今どこなの?」
宍戸さんは可南子ちゃんを更衣室に待たせ、生徒玄関に来て靴の右を持ち去った。わた
しは丁度その背を見かけ、靴を隠し終えて戻る途上の彼女に遭った。あの動揺も当然だろ
う。
「あなたは保険だと想って彼らの指示に従って、可南子ちゃんの足止めに靴を隠したけど。
彼らの思惑は違う。彼らはあなたに想いを遂げさせたい。可南子ちゃんが拒んでも嫌って
もあなたにそれを為させたい。善意じゃない。あなたの為の協力じゃないの。あなたは踊
らされて、可南子ちゃん迄一緒に陥れる罠に嵌りかけている。彼らは為した瞬間豹変す
る」
最初から宍戸さん、あなたも騙されている。
どうか気付いて。その目を心を、見開いて。
「嘘情報で可南子ちゃんを学校に招いたのも、運動靴を探す為じゃない。宍戸さんは今日
ここで可南子ちゃんに心を明かし、答の諾否に関らず、想いを遂げる積りで居た。可南子
ちゃんが拒むなら、強奪も蹂躙も考えて。それは宍戸さん、あなたを陥れる罠でもある
の」
予め隠した物を見つけるのは簡単だ。誰もいない前提で密着し、共に探して成功を掴み、
心を繋ぐ。開けられていた更衣室の鍵も、切り裂かれた体操着も予定通り。喜びの直後に
怖れと失意に震えて落ち込む肩を抱き留めて。
2人が順調に愛を紡ぐのなら、それを録る。
可南子ちゃんが拒むなら宍戸さんに奪わせ。
諾否に関らず2人を濃く深い関係に導いて。
「その演出の為に、男女拾数人が間近に潜み、あなた達の動向を窺っていた。宍戸さんは
それを承知と言うより彼らの指示に従っただけ。2人が想いを交わす様を音や写真に残す
のは、可南子ちゃんを諦めさせ事を受容させる方便と、彼らは宍戸さんに言ったけど。証
拠録りはその為じゃない。宍戸さんの為じゃない」
宍戸さんも気付いて。愛に保険は要らない。たいせつな人を悲しませ涙させて、己の想
いを通したい? それは本当に宍戸伶子の想いなの? 保険や蹂躙や強奪は誰の為の行
い?
「それで本当に可南子ちゃんの心を手に入れられると、今尚宍戸さんは思っているの?」
心のない関係であなたは満足? 微笑みではなく、可南子ちゃんの涙と苦悩を望むの?
「宍戸さん、どうかその口で本当を語って」
宍戸伶子の本当を応えて。わたしにではなく可南子ちゃんに、あなたの想いの本当も…。
降り続ける雨の中、暗がりが迫って来た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
宍戸さんの身の震えは、怖れではなく怒りの故だ。隠してきた真相を、一番知られたく
ない人の前で明かされて。心の緊張は抜けるけど、声は今迄の積み重ねの崩壊に荒れ狂い。
「ええ……そうよ。あなたの言う通りよ!」
その口から遂に本当が紡ぎ出され始めた。
「何よ、最初から、遭った時から何もかもお見通しで居たんじゃないの。それで仲良くな
りましょうなんて、白々しく手を握って来て。あなた汚い。全て知って知らない顔で、私
が自白する迄問い続け追い込む気でいたの?」
私が為した事を全部承知で、よりによってカナちゃんの前で明かす。酷い。あなた鬼っ。
背に庇った可南子ちゃんの存在さえ忘れ。 宍戸さんは、わたしに強い非難を浴びせ。
「あなたの言う通り、私はカナちゃんの物を隠したわ。玉城先輩達の指南で悪い噂も流し、
見せつけもした。現役部員に疑心暗鬼を植え付けて、カナちゃんとの関りを断ち切った」
全てあなたの言う通り。カナちゃんに頼られたくて、縋られたくて、心細く追い込んだ。
囲い込む為に他の人との絆を切って、疎遠にして。私に傾く程、みんなが離れてゆく様に。
「立証できてあなたは満足? 自白を導いて気分爽快? カナちゃんの前で私の立場を失
わせ、その心を遠ざけられて良かったわね」
私の想いの芽を摘み、カナちゃんの私への信頼を壊して、あなたは大成功。山奥から遙
々ここ迄きた甲斐があったわね。おめでとう。
「私を踏み台にして、私を引き立て役にして、あなたの好きにカナちゃんを貪ると良い
わ」
今日この時に現れたのはその為だったのね。
私が勝負に出た今日彼女の前で全てを暴き。
私を完膚無き迄に砕いてあなたが信を得る。
全て計算ずくだったと。あなた何て悪辣な。
「れいこ先輩、あたしは」「もう、良いわ」
背後から届く声に宍戸さんは力なく嗤い。
「最初からダメだったの。女の子が女の子に想いを抱いても、叶う筈がない。まともに想
いを告げられず、表せず、せめて近しくありたくて、タオルや体操着に手を伸ばしていた。
それを見つけられ、秘めた想いを見抜かれて。カナちゃんにこそ伝えねばならなかったの
に。術はあると、邪な想いも叶える術はあると」
その唆しに乗る前に既に途を違えていた。
頼って喜んで欲しかったのに哀しませて。
縋られる悦びに溺れて大切な人を涙させ。
悔しい。何もかも悔しい。想いをカナちゃんに告げられなかった事も、それを先輩達に
見抜かれた事も、カナちゃんを哀しませるに至った成り行きも、あなたに喝破された事も。
「全部嫌い。全部手詰まり。全部私を遮って。
何一つ思い通りにならない。何も掴めない。
最後の止めはあなた。隠し通す苦味の中で、尚守り続けた私の最後の幸せを。人のしが
らみにがんじ搦めでも、保ち続けた2人の絆を。ふらりと突然現れて全て明かして崩し去
る」
私の本当を、カナちゃんの前で晒し暴いて。
私に残された物はもう彼女だけだったのに。
私の全てを奪い去って己の物にしてしまう。
「カナちゃんを私から守れて良かったわね」
その声は捨て鉢な響きを更に強く匂わせ。
「勝利の後迄見届けてあげる。あなたも執着と欲情の侭に、カナちゃんを抱き留めなさい。
私から奪ったカナちゃんに、私が出来なかった全てを為せば良いわ。あなたもそれが望み
なのでしょう? カナちゃんは、可愛いから。
勝者の感想を聞かせて頂戴、羽藤さん…」
あなたと私は似た者同士、共にカナちゃんを想い合う恋敵。最初の印象は、正しかった。
私が抱いた想いと同じかそれ以上の物を、あなたもカナちゃんに抱いている。歪む程強か
った私の想いと同じ、濃密な愛欲をあなたも。
「今ここに現れたのも、深くカナちゃんや私に関ったのも。親友でも従姉でも、そんなに
強く他人を想える訳がない。奥底にあるカナちゃんへの欲情を、あなたも明かせば良い」
息が詰まった間近の可南子ちゃんも忘れて。宍戸さんは唯わたしへの投げ返しに心を注
ぐ。わたしの本心を引きずり出そうと、わたしが為した事をわたしに返そうと、身を乗り
出し。
「愛しなさい。その身を剥いで、心も剥いで。あなたの想いの赴く侭に、私が遂に届かな
かったカナちゃんへの愛を遂げてしまうと良い。私の望みを奪って己の物にしてこれで満
足?
私の本当を暴いて失わせてこれで満足?」
血走って強ばった敵意を確かに正視する。
害意に近い程の敵意に気合負けせぬ様に。
わたしの助けは宍戸さんも含めてだから。
「不満足よ。あなたの答は、充分ではない」
その憤りも憎しみも、受けて応えねばこの先に辿り着けない。辿り着く術が己にないと
分っていても。心は繋げないと視えていても。
「あなたは本当をまだ半分しか語ってない」
何を言い出すのかと揺れ続ける瞳に向け、
「まだあなたは全て明かしてない。あなたは行いは語ったけど、想いは全然語ってない」
なぜそれを為したのかは明かされてない。
「お願い宍戸さん。あなたの本当を語って」
可南子ちゃんは聡いから、お話し中途で半ば気付いているかも知れないけど、こういう
事は、一度確かに言の葉に乗せて表さないと。
「ゆめいさん……れいこ先輩……あたし…」
何かを言いかける可南子ちゃんに一瞬視線を向けて頷いて、言葉を抑えてそれから再度、
「今ここでなければ伝えられない。今しか機会はない。本当はわたしが挟まるべきではな
いけど、他の時と場を用意するべきだけど」
周囲が促したり阻んだりする物ではないと、重々承知で。想いを告げるのは当人の意志
と言葉とタイミングで為すべきと、分った上で。わたしが挟まって真相を明かした以上、
今でなければ、この場でなければ。彼女は罪悪感と羞恥で、可南子ちゃんに向き合えなく
なる。
「可南子ちゃんを想いつつ、可南子ちゃんの害を招き、怯えを呼んで、人の繋りを断って、
宍戸さんが受ける為に美しい涙を流させた」
悲しませ、怖がらせ、苦しませ、悩ませて。
想いを寄せて想いを寄せられた大切な人に。
あなたをそうさせた心の本当を語って頂戴。
行いの根にある真の想いを可南子ちゃんに。
わたしは宍戸さんを徹底的に打ちのめす事で、その心を解き放つ。全てを明かす事で彼
女の秘めてきた想いも語らせて、告げさせる。今宵こそ、わたしは豆腐の角で息絶えるか
も。
「あなたの想いの本当を打ち明けて。わたしがお邪魔虫な事は分っているけど、申し訳な
いと想うけど、あなたの機会は今だけよ…」
逃げないで。目を逸らさないで。隠せない事も隠しても無意味な事も、もう分った筈よ。
「あなたの行いも想いも全てお見通しなの」
わたしが逆に、宍戸さんを強く正視して。
わたしの言葉の意味を分って怯む彼女に。
「わたしにあなたの想い迄語らせる積り?」
恋敵に想い人への告白を代りに為させる? 宍戸伶子の心中迄も羽藤柚明が語って、可
南子ちゃんに届けてあげないとならないの?
瞬間、わたしの左頬を電光が走り抜けた。
宍戸さんは憎悪も凌ぐ怒りに、我知らず右手を振り抜いていて。軽妙な音が廊下に響く。
今のわたしは素人の女の子の平手打ちでは揺るぎもしない。行動を促そうと挑発を意図
したわたしには驚きもない。叩かれた頬も瞳を正面を向いた侭、宍戸さんの凝視を受ける。
様々な想いと滴に満ちた瞳でわたしを睨み。
宍戸さんは可南子ちゃんの両肩に手を掛け。
「私はカナちゃんを好き。愛しているの!」
行いの是非を問う様に、或いは見せつける様に、宍戸さんは一度わたしに視線を振って、
それから改めて、両肩を抑えた間近な後輩に、
「私は女の子だけど、カナちゃんは女の子だけど。とても可愛くて、抱き留めたくて…」
遂に宍戸さんはその想いの本当を明かす。
沸騰する想いを抑える必要も失って漸く。
目を丸く見開く手の内の小さな女の子に。
この数ヶ月語る事も叶わなかった想いを。
「それでも好きだった! 私が、恋したの」
この想いが正常ではない事は分っている。
むしろカナちゃんに嫌われ拒まれるかも。
告白が声も掛けてくれない末を招くかも。
だから語る事も明かす事も出来なかった。
「でも唯の親しい先輩では満たされなくて」
可南子ちゃんは目を見開いて動きがない。
滑らかな黒髪と染まる頬に恐る恐る抑え、
「目の前のカナちゃんは余りにも魅力的で」
縋って貰えた事が嬉しくて、頼って役立てた事が嬉しくて、近しくなれた事に目が眩み。
「あなたの靴やタオルを隠して、抱きしめて、一部は家に持ち帰って。でもそんな行動
を」
引退直前で現役部員とはやや動きがずれていた玉城先輩達に見つかって、問い質されて。
「耳打ちされたのね。宍戸さんの想いを知った彼女は、バレー部の3年生男女数人で有志
を募り、その恋を成就させてあげると。秘密は守るから、対価を条件に関らせなさいと」
「脅された訳じゃない。杉原先輩達は善意で私に関ってくれた。ハックで多少奢ったけど。
隠した運動靴を質に入れたお金も渡したけど。大した額じゃない。助言貰うのに多少の対
価はある話よ。斉藤先輩も伊東先輩も、はした金は目的じゃないって。玉城先輩も私が女
の子のカナちゃんに抱いた恋心が気になると」
先輩達は私のカナちゃんへの想いに関って、成就を見たかった。だから運動靴やジャー
ジ隠したり、噂を流したり、今日も協力してくれた。興味本位でも、多少の奢り目当てで
も。私も誰かに、強く背中を押して欲しかった…。
「私は唆されてカナちゃんを好きになった訳じゃない。誰かの耳打ちで愛を抱いた訳じゃ
ない。行いに助言は貰ったけど、想いは元々私の物。私は私の意志でカナちゃんに恋した。
抱き留めて、頬寄せて、肌合わせたく想った。異常でも間違いでもこの私、宍戸伶子
が!」
言えなかった。今日迄絶対言えなかった。
今日告げようと想っていたのに。カナちゃんを呼び出して、先輩の協力を得て状況整え、
心通わせて告げる筈だったのに。カナちゃんの心を招いて、答を貰おうと想っていたのに。
「こんな最悪の告白になってしまうなんて」
もう受け容れられない事は、分っている。
でもだからこそ最後に真の想いを告げる。
「私はカナちゃん、あなたに恋している…」
深呼吸一つする位の間はあっただろうか。
可南子ちゃんは宍戸さんの予想外な答を。
「れいこ先輩、あたしの、たいせつな人…」
可南子ちゃんは宍戸さんの行いの本当を知って責めず、その想いの本当を知って嫌わず。
静かに澄んだ瞳を返し想いを返し、言の葉も。
肩を軽く抑えられた状態から、身を引かず退かず、その両の手を宍戸さんの脇腹に絡め。
肩を抱かれる事を嫌わず、身を任せ肌を許し。意志の宿った表情で確かに目前の人を見つ
め。
「あたしも、れいこ先輩に恋していました」
抱き留めてくれる腕の感触を、投げかけてくれる視線を、届かせてくれる綺麗な声音を、
あたしは……確かに好いて、望んでいました。
可南子ちゃんは、瞬間わたしに視線を投げかけ、それから間近の宍戸さんを見つめ直す。
「みんながあたしを『レズかな』と噂している事は知っている。孤立したあたしに親身に
接してくれる優しさを、悪い噂で貶め。悪意な人は根も葉もない噂を流す。れいこ先輩に
掛る迷惑が気になったけど、先輩は全て承知であたしに関ってくれると、言ってくれて」
可南子ちゃんは、誰にも相談できなかった。虐めの暴露が宍戸さんに抱く想いの暴露に
繋ると怖れ、宍戸さんが可南子ちゃんに抱く想いの暴露に繋ると怯え。更に言えば、可南
子ちゃんの心配は、虐めが解決してしまう事に。
憂いがなくなれば、宍戸さんが唯の先輩に戻ってしまうと。だから可南子ちゃんも虐め
の公表には消極だった。部活を辞める選択等、宍戸さんとの繋りを絶つ選択等ある筈がな
い。
「先輩はとても優しくて暖かくて心地よくて。たいせつに想ってくれている事は分ってい
た。けどそれだけなのか、それ以上なのか。先輩の想いが確かめられなくて、怖くて。だ
って。
先輩に抱いたこの想いが、普通じゃない事は分るから。あたしが先輩の善意を誤解した
だけなら、二度と声も掛けて貰えなくなると。そう想うと怖くてあたし、踏み込めなく
て」
みんなの噂が怖かった。それを気に病んで、先輩が離れて行くのではと怖かった。今日
ここで、こうして知った本当は衝撃だったけど。先輩があたしに為した事実は驚きだった
けど。その根にあたしへの想いがある故の歪みなら。先輩があたしと同じ怯えに苛まれて
いたなら。
「今後は心配ないですよね、れいこ先輩っ」
「カナちゃん、あなた何を言っているの…」
見上げる瞳は見下ろす瞳を想いで圧倒し、
「不幸な誤解は終りです。あたしとれいこ先輩は、今から始る。ゆめいさんには色々と面
倒を掛けさせて、本当ごめんなさいだけど」
あたしを巡るトラブルはなくなりました。
れいこ先輩は今尚あたしのたいせつな人。
今迄の全てを承知で今迄以上に恋します。
「後先が違ってもあたしは今、れいこ先輩に心からの想いを寄せている。れいこ先輩が同
じ想いを抱いてくれている事も、漸く分った。あたしは今の本当の想いに素直でいたい
の」
一世一代の決意を秘めて、両腕を絡める。
「あたしの想いを、受けて下さい。先輩…」
「本当に、良いの? カナちゃん、あなた」
宍戸さんは困惑気味で、悦ぶ前にわたしの許容を求めて瞳を向けるけど。明確に拒絶出
来ない事が可南子ちゃんには受容のサインで。腕を背に回し、胸に右の頬を預けて瞼を閉
じ。宍戸さんの両腕も、応える様に確かに締まる。
「ごめんなさい。こうなれるなら、正規に受け止めて貰えるなら、余計な小細工に走らず、
私から想いを確かに告げていたのに。とんでもない回り道を。私は恋した人に何て事を」
「大丈夫です。あたし、全部受け止めました。それ程の想いを向けてくれている事にも気
付かず、その想い悩みにも気付かず、あたしこそごめんなさいです。これからは、あた
し」
2人の頬を伝う滴が暗がりの中で輝いて。
抱擁が互いを更に強く締めつけたその時。
廊下の電灯のスイッチが突如点けられて。
複数のカメラがその抱擁を激写する瞬間。
「させないわ!」
決定的な瞬間を収めるフラッシュの前面に、わたしは身を乗り出して、撮影を妨げてい
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
彼らはずっと機を窺っていた。身を寄せ合う瞬間を撮ろうと、話の推移に注目していた。
彼らは逃げ場のない女子更衣室で、2人の行為の最中を狙っていた。わたしが2人を連
れ出した為に想定を外され、困惑を抱きつつ、廊下の奥でわたし達の成り行きを眺めてい
た。
「伊東先輩、斉藤先輩。男子の志賀先輩も」
驚きに固まる可南子ちゃんと宍戸さんの抱擁を背に庇い、フラッシュを浴びる事で2人
を撮らせない。2人の抱擁はキスもなく服も脱いでおらず、唯の親愛だと弁明出来るけど。
噂を纏わせた2人故に通じない怖れはあった。誤解を招く絵は、極力撮らせるべきではな
い。
不意を突いた積りの彼らは、わたしの即応に意外そうだったけど。拾数人の中央で腕組
みしていた小島裕也君は余裕の笑みを保って。
男の子の首魁が彼で、女の子の主導者は、
「撮り損ねちゃった」「ダメだねぇあんた」
激写失敗に苦笑いの坂本俊介君を窘める茶髪のベリーショートな杉原美里さんではなく、
「良いじゃないか。むしろ後ろの2人よりも、彼女の方が残す値がある。きりりと可愛
く」
泣き叫ばせてやりたくなる顔じゃないか。
平静に嗜虐の瞳を向ける玉城愛実さんだ。
最早彼女達には害意を隠す装いもなくて。
「もう何枚か撮ってあげなさい。タダの情報は撮れる時に取り放題に撮って置くに限る」
目を眩ませるフラッシュに右手を翳すけど、宍戸さんと可南子ちゃんを背に庇う為に、
わたしはよける訳に行かない。相手の悪意が感じ取れるので、無闇に撮らせたくはないけ
ど。
「今から酷い様を撮るのだし。整った姿を撮って置く方が、剥いた後の落差を楽しめる」
本当は彼らが動く前に逃げ去りたかった。
でもそれが無理な像も確かに視えたから。
問答無用に引っ張り走るのも限界だった。
2人はまだ迫る危難を肌身に感じてない。
可南子ちゃんと宍戸さんの絆を結び直す時間だから、彼らも許容した。2人の濡れ場を、
或いはわたしとの修羅場を望んで。そうでなければ彼らは時を置かず介入してきた。近辺
に今誰もいない。何があっても声も届かない。
わたしに選べたのは、この途だけだった。
許された時間が僅かでも、為せる限りを。
絆は、宍戸さんと可南子ちゃんの間にだけではなく、わたしとの間にも必須だったから。
己の為ではなく、たいせつな2人にわたしの守りを届かせる為に。例え末が視えていても、
無理な結果が出る迄、わたしは絶対諦めない。
この禍を突き抜けた向うに、喜びや報いがない事は視えても。心の暗雲を負って踏み込
む成果に、賞賛や謝意も返らないと分っても。
わたしが関る事で2人の末が少しでも変るなら、変えられるなら。羽藤柚明の最善にな
らなくても、自身には苦味や酸味に繋っても。
可南子ちゃんと宍戸さんに迫り来る禍は。
退けるか代りに受けるかして防ぎ止める。
「まさかこんな展開になるとは意外だった」
『レズかな』と『レズれい』の絡みは想定したけど、そこに女の恋敵が割り込んで、三つ
巴で女同士で女の争奪戦を見せてくれるとは。
「存分に楽しませて貰ったわ。前菜にしては勿体ない位甘く切ないお涙頂戴の展開にね」
声音は柔らかでも玉城さんの瞳は最初から害意に満ちて。嘲りを滲ませつつ、他の少年
少女迄わたし達への敵意と侮蔑に満ち満ちて。
宍戸さんも可南子ちゃんも明らかな害意に、身を添わせ合った侭戸惑って身動き出来な
い。2人が集団に気圧され呑み込まれてしまわぬ様に、わたしが言の葉を紡いで彼らに応
じる。
「元男女バレー部の3年生の先輩方ですね」
宍戸さんを脅し操り、騙し唆して、可南子ちゃんに害になる動きを為させた人達ですね。
可南子ちゃんを哀しませ、宍戸さんの想いを歪ませ、部員の仲を断ち切った人達ですね。
我知らず、瞳に気迫が籠もっていたかも。
卒業も近い3年生の男子8人女子6人は、
「俺達は、2人の願いを叶えただけだぜ?」
「他の奴らも切り離し『レズかな』も『レズれい』も孤立させ、状況整えてやったんだ」
「2人きりになる様に、2人以外誰もいなくなる様に、2人が怪しい関係を結べる様に」
「異常な奴らはしっかり隔て遠ざけないと」
「病原菌ばら蒔いたら困るでしょ、周りに」
「危ないよと示さないと。みんなに情報流して感染拡大を防がないと。異常な奴は異常同
士で結びつけ、健常者に手を出さない様に」
「あたし達、いい人なんだよ。異常じゃないみんなの為に防波堤を担っているんだから」
男女の声は昂然と、罪悪感の欠片もなく、
「想いが届いて良かったじゃないの」「俺達のお陰で、告白できて良かったじゃないか」
わたしの声はやや硬かったかも知れない。
「……あなた達は宍戸さんの想いを歪めて彼女を苦悩させ、可南子ちゃんを哀しませた」
憤りを抑え込む。冷静さを保たないと。誰かを想う心でも、感情に流されると為すべき
事を見失う。選択を誤り好機を逃す。今朝の失敗をこの局面で再度為しては致命傷になる。
「弱味を握って脅し操り、宍戸さんを過ちの方向に押し出した。2人の仲を望むなら他に
も方法はあったのに、敢て2人が傷つく様に。好意じゃない。それは2人の為でもない
…」
彼女達は2人の為に、或いは宍戸さんの為に今迄影でその行いを支えていた訳じゃない。