第8話 想いを込めて明日を織り
前回迄の経緯
寝付けない夜は、涼やかな蔵で独り機を織ると、心も静まり作業も進む中学2年生の夏。
暑さの故の身の火照りではなく。贄の血の力の修練が順調に進み、未来が視えてくる事
への怯えや不安で寝付けないと。わたしの弱さ未熟さを、笑子おばあさんは察してくれて。
少し前迄は修練が中々進まない事に苛立ち、悩みへこんでいたのに。最近は見えてしま
う事が、『力』や護身の技を使って誰かを守り助けた結果が。必ずしも明るい未来を招い
てくれる訳ではないと……漸く悟れ始めてきて。
それでも、羽藤柚明に後戻りする途はなく、立ち止まる訳にも行かないから。誤解と理
解の混交する人の世を、進み行く他に術もなく。
参照 柚明前章・番外編第5話「人の世の常」
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小窓から差し込む月明りの元、わたしは機を織り進む。経糸の間に一本一本緯糸を通し。
面を為し模様を為す迄反復し。完成は尚遠いけど、徐々に形を為す様を見つめつつ、己の
手で完成に導く作業は着実で、わたしは好き。
羽様の古い日本家屋は、周囲数キロに隣家はなく。未舗装の道路に街灯はなく、夜にな
れば付近を通る車もなく。夜更けのお屋敷に届く輝きは月か星か。耳に染み渡るは虫の音
か風の音か、草木の枝葉が擦れる音か。倉には電球もあるけど、月明りで薄明るい以上に、
わたしは暗闇でも障りがなくなり始めている。
母屋では白花ちゃんと桂ちゃんが、愛しい2人の幼子が、父母と安らかな眠りについて。
熱さで中々寝付き難い夏の盛りだけど、今宵は風も涼やかで、深夜に至って気温も下がり。
わたしが寝付けず布団を抜け出し、倉で機を織りつつ鎮めているのは。日中の熱さに火
照った体ではなく、己の内なる焦りや不安だ。母屋から独立して建っているので、抜け出
す時に物音を出さなければ、誰を起こす心配も。
「ふぅ……。あと、もう少しかしらね……」
ペダルを踏んで経糸を上下に分ち、杼をその間に差し入れて緯糸を通わせ、反対側へ届
かせる。筬(おさ)で組み合わせた経糸と緯糸を手前に打って、布にして。その繰り返し。
布は一息で出来る物ではなく、一本一本の糸を寄り合わせる事で、徐々に作られて行く。
各種修練が日々の積み重ねである様に、人間関係が時間を掛けて絆を強め深めて行く様に。
ここ数日は、夜にこの様に起き出して朝方迄作業に耽っているので、その進捗も順調で。
贄の血の癒しを紡げば翌朝に疲れは残らない。オハシラ様のお祀り迄は、未だ一ヶ月弱あ
るから、それ程作業を急ぐ必要はないのだけど。
「熱心だねぇ、柚明」「笑子おばあさん…」
背後に寄り添う人影は、月明りで薄明るい倉の中で、織り掛けの布を見つめて眼を細め。
「考え事をしていて、眠れなかったので…」
「眠れないなら、何かしていた方が良い?」
はい。わたしは頷いて、一旦止めた機を織る手を再度動かす。袋小路に入った時は体を
動かして自身をリセットする。その発想は体育会系の真弓さんに学んだ。今は護身の技の
鍛錬より、来月のオハシラ様の祭祀に合わせ。
「作業は丁寧だけど、少しだけ粗があるね。……ここはこうして、こう……」「はい…」
わたしの手を手で導いて細かな動きを教えてくれる。互いに贄の血を持つ感応の使い手
なので。こうして触れ合い心通わせ合う事で、その感触は手ずからに、より緊密に伝わっ
て。
互いに互いを愛しむ想いを注ぎ合い。触れてくれる感触は柔らかに朗らかで。いつも人
を力づける笑みを絶やさず。この人は幾つ歳を取っても、本当に涼やかに暖かで愛らしい。
「機織りでは、もうわたしがあなたに教えられる事は、そんなにないかも知れないね…」
「いえ、まだまだわたしは、全然未熟です」
機織りは笑子おばあさんに昨年から教わっている。書道に華道、茶道に裁縫、料理に護
身の技の修練や、日々の勉強と可愛い幼子の相手も望むわたしは、日程が過密気味だけど。
隣家が遠く友達の家を訪れ難い事情が、逆に時間を作ったかも。偶々間近に良い師もいた。
機を織る笑子おばあさんは美しくも可愛らしく、糸から布を織り出す様は魔法の様に輝
かしく。お母さんやお父さんとお屋敷を訪れていた幼い頃から、見とれていた。機を織る
女の子はそれだけで憧れる程に綺麗な絵図だし、織り上げた反物も目を見張る出来だった。
各種修練等でわたしの日程がきつい以上に、笑子おばあさんも日々忙しいので。余り手
を広げ過ぎてもと、時間を奪うとわたしは遠慮したのだけど。おばあさんは全てお見通し
で、
『柚明も織ってみるかい?』『え、わたし』
おばあさんは旧家の娘として、茶道や華道、書道や和裁洋裁を一式身につけていて。月
に数回、経観塚の町に教えに行って受講料を得ていたけど。わたしの為にそのお仕事を若
干減らし、機織りを教わる時間を空けてくれて。
気遣ってくれた事も、教えて貰える好意も嬉しいけど、反省すべきか。きっと物欲しげ
な顔だったに違いない。頼めないと割り切るなら、顔色にも気配にも出ない様にしないと。
『わたしは、その……嬉しいけど、有り難いけど、羽藤の家の収入を減らして迄、一銭も
稼げないわたしに、そこ迄して頂くのは…』
少し惑うわたしにおばあさんは朗らかに、
『あなたには出来るだけの事をしておきたいの……この先、時代遅れな機織りの技能が柚
明に役立つかどうかは分らないけど、望んでくれるなら、わたしの全てを伝え残し、あな
たの人生を少しでも実り豊かにする苗床に』
おばあさんがわたしに、裁縫や茶道、華道や書道を教えて、機織りを教えなかったのは、
わたしの今後に必ず生きる技ではないかもと。全てはわたしを想っての判断で。でもわた
しが望むなら、教える事はやぶさかではないと。
『機織りその物だけじゃなく、機織りを通じて伝えられる物があるかも知れない。柚明と
触れ合う時間が増える事は、わたしの楽しみでもあるの。元々可愛い孫娘だけど、最近は
本当綺麗になって。柚明が望んでくれるなら、柚明の為になると思える事なら、わたしは
喜んで、柚明の望みを願いを叶えて満たすよ』
この人は常にわたしを想い。笑子おばあさんの娘のお母さんを喪わせ、孫になる筈だっ
たお母さんのお腹の妹を喪わせる因を作った禍の子を。羽藤柚明を心底愛おしんでくれて。
『わたしの為に。……嬉しい、有り難うございます……笑子おばあさん、大好きですっ』
お母さんにしていた様に、わたしはその背に手を回し、正面から抱きついて頬を合わせ。
それから一年、手取り足取り教えて頂いて、漸くここ迄来れたけど。オハシラ様の祭祀
を今年はわたしが司る。その巫女装束をこの手で織りなす。それはわたしの幸いだったけ
ど。
「オハシラ様のお祀りの為に、想いを込めなければならないのに、つい雑念が混ざり…」
機織りに集中して雑念を頭から振り払おう。そう想って始めたのだけど、清冽な月明り
を浴びても。胸をよぎるのは日中の人間関係や些事が多くて。機織りに集中し切れていな
い。
おばあさんが来てくれたのも、この心のさざ波を感じてなのか。夜更けに心配を招いた
事が申し訳ない。雑念を拭えぬ侭、大事な祭祀の布を織る非礼がオハシラ様に申し訳ない。
己を制御できない未熟に、俯き掛るわたしに、
「あなたも本当に羽藤の裔なんだね。寝付けなくて機を織る、なんて処迄似て来るとは」
笑子おばあさんはわたしの謝罪を分って受け付けず。にこやかに微笑んで、わざわざ謝
る程の事ではない、自身もやってきた事だと。この背に柔らかな身を添わせた侭言葉を紡
ぎ。
「この様に寝付けず機を織っていた新月の夜だったわ。サクヤさんと出逢えたのは。オハ
シラ様のちょうちょが顕れてご神木に招かれて。……ええ、戦争や時代の先行きが視えな
くて、わたしも雑念に心乱され寝付けずに」
笑子おばあさんもこの様に機を織っていた。
関知の力でも見通しきれぬ不安を胸に抱き。
今のわたしと同じく自身の心を鎮めようと。
今はこのわたしを案じて身を重ねてくれて。
「視えているかい、柚明」「はい、鮮明に」
同じ場の同じ行いが時を越えて重なり合い。
関知の力が導く絵はもう五拾年も昔なのか。
笑子おばあさんは黒髪豊かに綺麗な少女で。
そしてサクヤさんは今と同じく美しかった。
半世紀の時を経ても。艶やかな白銀の髪も、悪戯っぽい瞳も、美しく整った容貌も、抜
群のプロポーションも。わたしが幼い頃から知って今も身近な浅間サクヤのその侭で。幾
つか生じる疑問は素通りする。それは今一番にたいせつな事ではない。わたしや笑子おば
あさんと、サクヤさんの絆に響く事柄ではない。
暫くの間、心地良い感触に身を委ね。月明りの元でお互い、贄の血の感応を交わし合い。
「さあ、今度は柚明の今を、教えておくれ」
「些細な事です。この程度の悩み、笑子おばあさんの前では恥ずかしくて」「良いのよ」
些細な事が大事なの。他人の目にはそう映らなくても。当人には国の興亡より重く感じ
る事もある。時にそれが人の心を生かし殺す。
わたしの背に身を添わせて涼やかな声は、
「今のあなたの悩みは、その血と力に纏わる事でしょう? 同じ血と力を保持していても、
羽藤笑子と羽藤柚明は違うから、解決策を示せるかどうかは分らないけど。せめてその悩
みにわたしも心を添わせたい。あなたの母にも為した事を。あなたの母も必ずあなたに為
しただろう事を。心を開いて視せておくれ」
小窓からわたし達を照す蒼惶の差し込む中。
優しく確かな促しにわたしは小さく頷いた。
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「お早う、朝松さん」「羽藤さん、おはよ」
中学校の校門前で、出逢えたわたしは足を止めて利香さんにご挨拶を。まっすぐな黒髪
をショートに切り揃え、背丈はわたしと同じ位の、細身な体つきに端整な容貌の女の子は。
わたしを一度視界に収めるけど足は止めずに、短く声を返しつつ左に折れ曲がり学校玄関
へ。
霊が視える悩みを解決した後は『利香』と『柚明』から、『朝松』と『羽藤』の仲に移
行したけど。それはわたしの不徳の致す処だ。夕維さんとの関りで同性愛の噂を纏わせた
わたしに、挨拶を交わす仲を残してくれただけで御の字だ。霊を祓い人を癒し、心身に作
用して霊が視える様に・視えない様に導ける異能の者が、傍にいる事を許してくれただけ
で。
元々の関知では、夕維さんも利香さんも懸案が終れば離れ行く末が視えていた。それを
承知で報いを求めず、2人の為と言うよりも、2人をたいせつに想う己の為に、尽くして
きたけど。それでも隔てられるより、今の絆を残せた事は嬉しい。己の関知が、替えの効
かない確定した未来ではないと、思えるから…。
変えられない未来が視えても、意味は薄い。禍や悲しみや傷を防ぎ止められてこそ、関
知や感応に意味が宿る。最近の血の力の進展は、自身でもどこ迄至るか分らなく、やや怖
くもあって。視えた像が全部変えられぬ未来なら。視えない像がその侭真実を示すなら。
だから利香さんや夕維さんとの仲は、繋ぎ止めたかった。己の関知の力を超えたかった。
想いを強く抱けば未来も変えられると信じたかった。
「お早う、下山さん室戸さん」「「……」」
利香さんの後に続く女の子2人、室戸美紀さんと下山香奈さんは、睨む視線の侭無言で
通り過ぎ。室戸さんは少し背が高く黒髪長く、下山さんはやや太めな姿にショートの黒髪
だ。
2人の応対が固いのは、先月の宿泊交流時、利香さん達3人で為した心霊遊びで、恐慌
状態に陥った処に、わたしが助けに入った為か。醜態を見られたと。事態収拾の為にわた
しは先生を呼んだけど。禁じられた遊びに手を出した3人が叱られた因も、わたしの所為
だと。
感応の力も不要に非好意な印象が感じ取れ。
やや遠ざかった処で2人は殆ど声を低めず、
「羽藤さん、まだリカに声掛けて来るのね」
「迷惑だと分ってないのかしら、あの人?」
「分って狙って、声掛けてきているのかも」
「白川さんと飛鷹君が、ヨリを戻したから」
肯定も否定もせず無言を保つ利香さんの。
左右で2人はわたしへの嫌悪を隠さずに。
「向うは諦め、リカと復縁を望んでいる?」
「気持悪いよ、女同士で。ストーカーだよ」
「本当に霊が視える積りでいるって噂も…」
「ノリと現実の境目が見えてないよ羽藤ぉ」
下山さんや室戸さんには心霊は遊びだった。
利香さんの悩みも2人には『気のせい』で。
2人を頼れず利香さんはわたしに相談を…。
わたしはその力の故に、怖れられ遠ざけられたけど。解決に関ったわたしの力を2人は、
利香さんから聞かされても事実と信じてなく。わたしは信じられなくても特に構わないけ
ど。実際、霊現象の多くは気の所為で押し通せる。真に障りのある干渉は千に一つあるか
否かだ。
2人はわたしが利香さんに、夜歩きは良くないとか心霊遊びは危ういと諭したと知って。
利香さんのお母様が、彼女達を窘めた不快に印象が重なった様で『母親でもないのに』と。
利香さんは視える事に怯える一方、廃屋探検や心霊写真を好み、彼女達とも馬が合って。
男の子も含め時折、夜も肝試しに行っており。宿泊交流の夜と言えば怪談話か心霊遊びだ
と。
でもその宿には直接の害にはならないけど、視えて脅かす程の事が出来る霊体が実際い
て。儀式の効果と利香さんの資質が、間近な下山さんや室戸さんにも伝播して、一緒に視
えて。
『いいいいい、いい』『ああ、あああああ』
先に気付くべきだった。全員の資質を探り、危うい人に肌触れ合わせ、力を注いで守っ
ておけば。視えそうな唯一の霊体を先に排除しておけば。守りも攻めも中途半端で一手遅
く。
友達同士の旅先で夜を迎えれば、みんな盛り上がる。怪談話もする。波長が合った年頃
の子に霊が依り憑くのは当然だった。3人の恐慌状態を防げなかったのはわたしの所為だ。
利香さんの相談を受けた頃から『友達を引き抜くのか』との感じで、2人の不満は感じ
ていたけど。夕維さんと翔君と利香さんの応対に追われたわたしは、彼女達迄手が届かず。
事が収まり利香さんがわたしから離れると、彼女とわたしが残せた『羽藤』と『朝松』
で呼び合う仲も、厭い嫌う様を隠さず。利香さんの友達はわたしの大事な人だから、仲良
くなりたく望むけど。利香さんと距離を置く事を条件に残せた繋りなので。誤解や蟠りを
解きに踏み込む事は、約束違反になりかねない。
『羽藤さんは約束を守った。事が終った後もわたしの秘密を保って、助けた事を恩にも着
せず。かなりきつい事を言ったわたしを…』
わたしが、人に秘したい利香さんの心霊の悩みを明かさぬ代り。利香さんも、夕維さん
とわたしとの濃密な行いを秘してくれていた。人前でも誤解を受ける行いは数度為したけ
ど。誤解の種は少ない方が良い。夕維さんは真に女の子同士での愛や色恋を求めた訳では
ない。勢いで発作的に為しただけだ。明かせば他人に誤解を与えるだけで、誰の益にも繋
らない。
利香さんはこの力を怖れつつ、わたしの言動を尚信じてくれて。遠ざかっても完全に絆
を切らず。室戸さん下山さんの噂話に耳を傾けつつ、やや無口に抑制的な反応もその故で。
【成功して報われない事も得心済みかね?】
笑子おばあさんの言葉が今になって重い。
幾ら懸命に関係を繋いでも、関知には極めて濃厚に利香さんとの断絶が視える。今以上
の絆を求め、わたしは自ら破局を招くのか?
己の予覚を乗り越えたと。関知の末路を回避したと。想いを注げば願いは叶うと。結果
を出せた積りでいたその後だから。胸の奥に渦巻く黒雲は不気味だった。この手の及ばな
い処で運命は大きく流れており、わたしの所作は所詮時間稼ぎに過ぎないとの予感を嫌い。
わたしは自身の見通せる力を、その修練の進展を、この手で織りなす明日を怖れていた。
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与えた誤解を解く事も叶わず、胸に抱く想いも伝えられず。身動きを封じられた錯覚で、
暫く生徒玄関に歩み出せずにいる心の水面に。校門から離れた靴箱の影なら聞かれてない
と。ガラス越しにチラチラとこちらを窺いつつも、
『最近は結城さんや篠原さんにも手を出しているって』『何股掛ける積りなのあの人?
鴨川さんや金田さんや白川さんがいる上で』『唯でも女同士の恋愛なんて気色悪いのに』
『放課後の手芸部でも彼女はあんな感じ?』
2人は生徒玄関で間淵景子さんに話を振り、部活での羽藤柚明の行状を尋ね。間淵さん
は彼女達と同じ二組で、わたしと同じ手芸部の。背が低く眼鏡を掛けた、やや太めな女の
子だ。わたしには強面できつい応対を返す人だけど。
思索や心に映る像に注意を惹かれ、目の前が疎かになっていた。前方から走り来る影は、
「ゆめい先輩っ、おっはよぉござぃまぁ…」
手芸部の後輩の難波南さんが、ミディアムの黒髪を揺らせつつ、わたしの元へ走り来て。
元気に小柄で華奢な女の子は、一緒に登校中の小林知花さんを振り切る勢いで、一番に声
を返して欲しくて一着を望み。わたしの目前で急停止してお辞儀の積りだったけど失敗し。
「……あぁすぅっ……ひゃぁ!」「危ない」
少し手前で躓き転ぶ。その像が視えた瞬間、この身は動き出していた。南さんの動きが
突発的だったので、視えた絵も直前で応対に余裕はなかったけど。真弓さんの修練も4年
目に入ったわたしの体は、急の求めにも即応し。
ぽふっ。躓いて前のめりにバランスを崩す。
女の子の柔らかな体を、前に出て正面から。
両腕を背に回し、確かに受け止め抱き支え。
映画の恋人同士の抱擁に近い、絵になった。
「ふぅ。大丈夫、南さん?」「は、はわ…」
転んで膝や掌を擦り剥く等の被害は防げた。
まずその事に安心して胸元に問うわたしに。
南さんは状況を呑み込むのに少し時が掛り。
黒髪ショートな知花さんが先に傍で赤面し。
「南ちゃん、朝から大胆っ」「ふ、ふえ?」
その声で南さんは事を悟って逆に固くなり。
この背に回す両腕の締め付けが強くなって。
大きくない胸の谷間に頬を埋め、腕を絡め。
朝早くから、女の子同士で刺激的な図かも。
「ああっ、ゆめい先輩、済みません、あの」
『人前で恥ずかしい。どうしよぉ怒られる』
漸く身を離したけど、動転して言葉が出ない南さんの、艶やかな黒髪にわたしは右手を
梳き入れて。全く怒ってないよと微笑みかけ。傍の知花さんにも一度瞳を向けて不安を拭
い。
「慕ってくれる事も走り寄ってくれる事も嬉しいけど、足下注意。掌や膝を擦り剥いて埃
や血に汚れては、可愛い南さんが台無しよ」
瞳を覗き込んで語るのは想いを心に響かせたいから。人を慕い好く行いの故に、痛み傷
つくのは勿体ない。女の子の滑らかな肌や肉が破れて血を流す様は、叶う限り見たくない。
両肩を軽く抑えて、想いを込めたお願いに。
「はい、すみません」頬染めつつ答が返る中、
『部活の後輩に迄手を出す気?』『あの女は一体どこ迄鬼畜なの』『手芸部に、女の園に
いるのも己の欲情を満たす為?』『間淵さん、傍で被害に遭った子の話とか聞いてな
い?』
生徒玄関の靴箱の影で聞かれていないと。
利香さんを挟んで言い募る女の子2人に。
『聞いてないわ。根拠もなく好奇心で、人の同性愛や霊能を煽る、クラスの誰かの無責任
な噂の他は。まともな手芸部員には迷惑ね』
間淵さんはわたしに見せた強面を下山さんや室戸さんにも向け。答はとりつく島もなく。
不快そうにわたしに瞳を向けてから歩み去り。
『何よ、羽藤さんと仲悪いって言うから不細工でも話し振ってあげたのに』『別に良いさ。
間淵に訊かなくても噂を聞ける人はいるし』
2人が思い浮べている人物は志保さんか。
『大丈夫、利香はあたし達が守ってやるよ』
『羽藤が余りしつこいなら、思い知らせる』
2人の利香さんを大事に想う気持は確かで。
利香さんも2人の友の想いに力強さを感じ。
わたしへの心残りと別に素直な謝意を表し。
わたしへの敵意から話題を逸らす事を望み。
『ありがとう……教室に行こ』『『うん』』
利香さん達3人は二組の教室に歩み去り。
思索や心に映る像に注意を惹かれ、目の前が疎かになっていた。間近に覗いてくる瞳は、
「ゆめい先輩?」「何でもないわ……行きましょう。南さんも知花さんも」「「はい」」
小柄に可愛い女の子2人を、両手に華の状態で、生徒玄関への残り僅かな道を行くけど。
わたしの関知には、知花さんの俯く様や南さんの痛み哀しみ、震え涙する姿も視えていて。
わたしに関った故に、わたしと縁を繋いだ故に。わたしは可愛い女の子に禍を導くのか。
たいせつな守りたい人に、愛らしい後輩達に。絆を求める事が、その人達の悲嘆を招くな
ら。
わたしは望んで断たれるべきなのだろうか。
視える事が必ずしも幸いだとは言い得ない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
教室に入る前から、己が望まれている事は悟れた。わたしは心のさざ波を一旦棚上げし。
ミディアムの黒髪艶やかで、少し背が高い結城早苗さんと、癖のあるショートの黒髪にや
や小柄で闊達な、篠原歌織さんの視線に応え。
「お早うございます、柚明さん」「おはよー、柚明」「お早う……早苗さん、歌織さん
…」
早苗さんの俯き加減な表情が、わたしを視認した一瞬輝いて見えた。努めて平静を装っ
ていた声音が、内実を伴って生き生きと弾み。
『……最近は結城さんや篠原さんにも……』
一瞬頭をよぎる下山さん達の声を、かぶりを振って追い払う。誤解を拭う術が無くても。
その罪と報いはいずれ己に受けるから。或いはその禍や害はこの身に替えて回避するから。
今は唯求められた助けを届かせる事を優先に。
早苗さんは待ち望んでいる。髪に付いた埃を払う仕草の中で自然に触れるわたしの指を。
頬に肩に軽く触れて流し込むわたしの癒しを。それによる霊の祓いと、視える状態の抑制
を。
早苗さんの机の傍に添って、歌織さんの了承を視線で得てから、その両手を両手で握り。
『早苗さんは【女の子の日】で不調なのね。
その影響で、又視える状態がぶり返して。
ケガではないから治す事は出来ないけど』
欠乏した生気を補う事なら叶う。疲れを癒すのと同じだ。不調の根は取り去れないから、
対症療法に止まるけど。不足する度に癒しを注ぎ足す。視える資質にぶれた状態を、視え
ない状態に戻す所作も兼ね。でも日中は肌を触れねば為せないので。この様に額を合わせ
て熱を診つつ、手を握り合わせて力づけつつ。
「有り難う。温かい」「どういたしまして」
夕維さんが翔君と仲を繋ぎ直し、利香さんが悩みを解決してわたしから離れ。わたしに
纏わる同性愛の噂は、鎮まりつつあったけど。
「どう、早苗? 少しは具合良くなった?」
歌織さんが早苗さんに問うのは、これが長引き衆目を集める事を懸念して。女の子同士、
特に羽藤柚明と人前で、親密すぎる絵図は好ましくないと。早く切り上げたい意向を宿し。
「ええ。羽藤さんの優しく暖かな気持が…」
早苗さんは少し心残りな感じで声を低め、
「お陰で余計なモノも視えなくなりました」
早苗さんも利香さん程ではないけど『やや視える』体質で。体も心も不安定な思春期に、
日頃潜む資質が、揺り動かされ覚醒させられ。常の人には視えない物が視えると悩み。教
室や家の隅や暗がりに、実体のない霊体の鬼を。特に対策も不要な雑多で弱小な想いの欠
片を。
恨みや悪意を抱いても、生きた人にその存在を認知させ、何かを為せる霊等多くいない。
生者に熊や獅子を打ち倒す武道家がいる様に、生者を呪い殺す死者も皆無ではないけど。
唯稀に視える資質を持つ人がいて、人に害を為せない程希薄な霊体でも視てしまう事があ
る。
少年少女や若者が心霊を視易いのは、心も体も不安定で波長が合ってしまうから。資質
が揺り起こされるから。大抵はその覚醒も一時的で、じきに収まり視えなくなるのだけど。
宿泊交流時、宿の空気に滅入った早苗さんを力づける為に肌身に触れて、歌織さんも含
めこの力を悟られたけど。早苗さんは羽藤柚明を受け容れてくれて。月一度の不調時には、
触れて癒しを注ぐのがわたし達の恒例になり。
『どうして怖がったり遠ざかる必要がありますの? こんなに優しく強く綺麗な人を…』
宿泊交流の翌週わたしは、歌織さんも含めてお話しを。鬼の話しは秘したけど、羽藤の
血筋が唯視える以上に、人を治癒し霊と語らい時に祓い、人の視える資質を伸ばし眠らせ
る力を宿すと。それは羽藤が竹林の長者だった遙か昔から連綿と繋る、古い古い言い伝え。
忌み嫌われる事は覚悟した。利香さんとの様な細い絆も保てず、拒まれる末も覚悟した。
唯早苗さんの端正な顔が俯き沈む様を見ていられずに、助けたい想いの侭にお節介をした。
でも早苗さんは羽藤柚明の勝手を責めるどころか、怖れるどころか、微塵の疑いもなく。
『柚明さんが悪意のない、強く優しく賢く綺麗な存在である事に疑いの余地はありません。
わたくし程度の者にも真偽の程は見抜けます。お付き合いさせて頂くのはわたくしの望
み』
人に知られたくないその技能を人目に晒す怖れを承知で、わたくしを気遣い助けて頂き。
『有り難うございました。わたくしが柚明さんに返せる物は、殆どないのが申し訳ないで
すけど。今後も柚明さんに望んで頂けるなら、特に大切なお友達としての想いを抱きま
す』
いつも早苗さんを寄り添って守り、話しをリードする歌織さんが、置いて行かれそうに。
早苗さんは元々わたしを心に留めていた様で。むしろこのきっかけを待っていた様で。わ
たしもやや驚かされる展開の中で、歌織さんも、
『私はそっちの方面は全然実感湧かないけど、早苗が良いと言うなら私は良いよ。柚明も
早苗の為を考えて、関ってくれた事は分るし』
歌織さんは視える素養に乏しくて。早苗さんを信じるから、霊の存在を頭で理解しても。
わたしを善意な存在と受容しても尚。早苗さんが羽藤柚明に、全幅の信を置く事にやや不
安そうで。それはわたしへの疑念と言うより、早苗さんを想う故の、性急さへの懸念なの
か。
或いは尚完全には拭えてない、わたしの同性愛の噂を気に掛けているのかも。篠原歌織
は羽藤柚明を好いてくれているけど。その感触は、仕草にも言葉にも気配にも確かだけど。
彼女は早苗さんを誰よりたいせつに想うから。早苗さんに悪い噂がまとわりついては困る
と。
「もうすぐ、ホームルーム始るよ」「はい」
歌織さんの促しは、この親密すぎる関りを、傍の他者に不用意に見せたくないと。早苗
さんに及ぶ累を懸念して。早苗さんもその想いは通じており、歌織さんに短く頷いてから
この手を名残惜しそうに握り締め、瞳を向けて、
「励ましを有り難うございます、柚明さん」
「悪いね、……そしてありがとう、柚明…」
でもわたしを好いてくれつつも、歌織さんの心が宿す、微かな苦味は気に掛る。禍の影
は感じないけど。歌織さんや早苗さんの好意は暖かだけど。この微かな引っ掛りは、羽藤
柚明が2人に関って生じた、わたしの所為だ。
心を尽くせば尽くす程、生じる亀裂もあるのだろうか。水を注げば注ぐ程、その重さで
器の罅が広がる様に。想いが届かないのではなくて、届いたが故に壊れてしまう関係も…。
わたしはこの侭絆を深めて良いのだろうか。
己の為ではなくたいせつな2人の友の為に。
特異な力の所持や行使で、禍や危難を防ぎ止められても。日々の幸せや笑みを支え守る
には、この力はむしろ障害なのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明ならもう気付いていると想うけど…」
「さなちゃんやかおりんとの仲は大丈夫?」
豆電球の明りの下、和泉さんの部屋で布団を並べた夜更け。左に添って身を横たえた真
沙美さんの声に、右に身を添わせた和泉さんも問を連ね。2人を、心配させていたみたい。
期末試験に備えて、お勉強を一緒しようと、夕食もお風呂も褥も一緒して。パジャマに
身を包んで3人で、ふざけ合いつつ肌触れ合わせつつ、想いを交わし合いつつ夜更けを迎
え。
2人とも、わたしの早苗さんや歌織さんとの最近の親密に嫉妬した訳ではなく。むしろ。
「あの2人は、2人だけの世界を保っていて、容易に他人を割り込ませないって聞いた
よ」
ゆめいさんに女の子同士の恋や霊能の噂が出なければ、あの2人こそ女の子同士の恋を
噂されてもおかしくないって、志保ちゃんが。
「銀座通小で弘子さんや美子さん達に、無視されたり靴を隠されたりした時、2年近く2
人で突っぱね続けたって。弘子さん達と仲良くなった私は、避けられても無理ないけど」
海老名志保や朝松利香、榊良枝や東川絵美。弘子さん達に嫌われても、他に友になれる
女の子はいるのに。あの2人は常に2人なんだ。
「ゆめいさんがリカの時の様に、さなちゃんの視える体質を心配して関るのは良いけど」
「あの2人が柚明を本当に受け容れるのかどうか。疎まれ、弾かれるんじゃないかって」
あんたが心ない噂や誤解に怯まない、強い人物だって事は分っている。一度大事に想っ
た人の為には、困難も苦痛も堪えて、助けの手を差し伸べ続ける優しさも。そうして人を
助け守った末に、その相手に怖れ隔て遠ざけられても揺らがされない、愚かな程の甘さも。
真沙美さんは触れそうな程に頬を近づけ、
「だから柚明の優しさが裏切られ、胸を痛め哀しむ様を見るのには、私が耐えられない」
この左胸の上に愛おしむ様に左手を置き。
この左手を細く柔らかな右手で絡め取り。
わたしを覗き込んでくれる瞳は深く瞬き。
この人は本当にまっすぐわたしを好いて。
利香さんと夕維さんに関った少し前にも。
好んで関ったわたしを深く案じてくれて。
『……朝松利香は、絶対あんたを心から受け容れない。……白川夕維だって。……所詮結
論は視えているんだろう、柚明も……』
それにも懲りず、早苗さんと歌織さんに好んで関る羽藤柚明を心配し。和泉さんも右隣
から頬に頬を合わせ、この右腕を左腕で絡め取りつつ右の胸に右手を乗せ。2人はわたし
の身動き取れない様を愉しみつつ、肌身を合わせ想いを添わせ。抑え込まれても女の子に
反撃できない以上に、元より拒む積りがない。
わたしは2人の労りに心からの笑みを返す。想いが返されるか否かは問題ではない。自
身が納得できれば良い。早苗さんと歌織さんが日々の笑みを保つなら、わたしの幸いです
と。
わたしの報いは助けた人の笑みで、救いが届いた結果その物だ。その人から何か返され
たい訳じゃない。友情も信頼も必須ではない。一緒に喜び合う事が叶わなくても意味はあ
る。早苗さん歌織さんが心安らかに過ごせるなら、終った後で遠ざけられても、隔てられ
ても…。
「ま、それが鴨川真沙美が心底惚れた羽藤柚明だから。報われない人助けを好んで為して、
痛みを負って疲れたら。あんたの心は私が癒す。力はないけど、私はあんたから貰った心
に心で報いる。どこでどれだけ損を負っても、あんたの献身はゼロにならない。私にくれ
た想いだけは必ずいつでも返すよ。この様に」
癖のある長く艶やかな黒髪を纏わせつつ。
見事な胸を呼気に揺らせつつ覆い被さり。
左胸を軽く揉みつつ、左頬に唇で触れて。
声音で視線で、強い情愛を注いでくれて。
「有り難う。その想いでわたし、癒される」
真沙美さんは強さを好む人なので、わたしが拒まないと分って押し付けを装う。為され
る侭なわたしの右から、和泉さんがわたしの逃げ道を塞ぐ様に、この右腕を左腕で絡め取
りつつ、この右胸を繊手で柔らかく揉み潰し。綺麗な女の子2人に左右から抑え付けられ
絡まれた絵図は濃密で、思い返せば赤面必至だ。
2人はわたしが拒まないと知って、敢て拒めない様な体勢を愉しんで。わたしを組み敷
いた状況を作って。これ程可愛く美しい人に襲って貰えるなら、奪い奪われる結末も嬉し
いかも。吐息を交え身も心も重ね合わせつつ。
右の耳朶を一度軽く甘噛みしたその唇は、
「あたしは、ゆめいさんに仲間が出来て喜んでくれるなら、さなちゃんやかおりんと絆を
結ぶ事は全然良いんだよ。その、リカの本心を見抜けずゆめいさんに話しを繋いだのも」
あたしは特別な血も持たないし、視えもしない。幾ら心を通わせてもあたしは唯の人で、
そっちの方面の話しでは賑やかしでしかない。リカの相談を受けてゆめいさんに繋げたの
は、リカの願い以上に、視えるという共通の力と悩みと孤独を持つ仲間になれると思った
から。
和泉さんの真の苦味は、利香さんの願いがわたしの在り方を否定する物だと察せた故に。
普通ではないわたしに、普通ではない今を拒み普通を願い、普通ではない力の助けを求め。
矛盾に何度か複雑な顔を見せた和泉さんに、わたしは何度か無言で頷いて、受容を示し
た。わたしは自身が普通になれない事は承知済みだから、心配不要だと。心痛める事はな
いと。
『まさか、リカがあんなに視える事や心霊を嫌って拒むなんて。思惑の逆になっちゃった。
治すとか、戻すとか。正常とか、異常とか。自身の感覚を嫌い否定するだけじゃなく、
助けを求めたゆめいさん迄嫌い否定し、微かにその助けに使う力迄も、怖れているみた
い』
普通を望み渇仰し、異なる物を忌み嫌い、拒み隔て。例え微かな絆を残せても、それ以
上は望めない。力の素養は備えていても心の向きで、利香さんはわたしから最も遠い人だ。
『鴨ちゃんが1年の時に同じ2組で視える人だと噂に聞いても、リカをゆめいさんに紹介
しなかった理由が、分ったよ。あたし馬鹿』
役に立とうと思って墓穴を掘る。成功して、あたしなんか忘れる位リカと仲良くなって
くれるなら、それでもあたしは良かったのに…。
『最高に……余計な事を、しちゃったっ!』
最大に傷つける人を引き合わせちゃった。
「あたしなんか忘れる位さなちゃんやかおりんと仲良くなってくれたら良い。あたしはゆ
めいさんが心痛まないでくれる事が最良っ」
あの二の舞は見たくないと。異能を晒して誰かを助け支えた結果、嫌われ隔てられる事
の末は見たくないと。和泉さん自身は異能に怯えず疑念も抱かず。その上で、望んで早苗
さんや歌織さんに関るわたしの成就を心から祈り。わたしが2人と心通わす事を望み願い。
「……有り難う。和泉さん、真沙美さん…」
2人を動かすのは嫉妬でも独占欲でもなく、わたしを案じる強い想いだ。何と純粋に強
く優しい人なのか。この深い愛に応えきれない自身が心底悔しく情けない。一番と言う想
いに一番の想いで応えられない事が申し訳ない。
真沙美さんも和泉さんも、本当に勿体ない程賢く綺麗に愛しい人。羽藤柚明が心底たい
せつに想う、守り支えたい特別な人。でも…。
肌身を合わせれば合わせる程に視える像は。
2人とも、強く賢く美しくなって行くけど。
羽藤柚明が2人と関り合う像は朧に霞んで。
全く視えない訳ではない。数ヶ月後、来年、高校1年生位なら、わたしと関り合う動き
や静止画を、声音や肌触りを頻繁に視る。真沙美さんは、高校は経観塚の外に進学するけ
ど、お盆や正月に帰省してわたしや和泉さん達と逢う様が。和泉さんとは同じ高校のセー
ラー服を着て、肩を並べて語らいながら歩む様が。
でも高校生も、半ば過ぎてからの2人には。
羽藤柚明と関る像が突如全く視えなくなり。
愛しい2人の像はその先も視え続けるけど。
むしろわたしの将来が、幾ら目を凝らしても不鮮明で。羽藤柚明が視えてこない。自身
の先は視えないのか。視える間の2人との関りが、今の絆を深めた結果だと悟れるだけに。
その先の断絶は展開も全く想像が付かなくて。
脳裏に時折映るのはオハシラ様のご神木で。
大木を、下から見上げる視点だけではなく。
ご神木の上から、又は中から森を見る様な。
それはオハシラ様に尋ねなさいと言う事か。
視えた物に不安を抱き、視えない物に不安を抱き。進む事にも退く事にも惑い悩む中途
半端な心境で、わたしはこの侭修練を重ね想いを深め、明日を織り進めて良いのだろうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
その空き家は農地の隅で、落日に照され濃い影を伸ばしていた。東の空には夕闇が迫り、
雑草は好き放題に生い茂り。羽様からも遠く離れた山奥は、風の音と虫の声が届くのみで。
無人の家屋に最早帰る主はなく、迎える客も。
2年前迄、小学6年の夏休み迄、ここに家族4人が数匹の猫と住んでいた。深く熱く想
いを交わし合った、わたしのたいせつな人が。
「詩織さん、こんにちは。二月ぶりかしら」
6年生の夏迄一緒だった、1つ年下の級友。おかっぱの黒髪も大きな黒目も、わたしに
少し似ていた。塞ぎ込みがちで、わたしに似た性癖を持つ、何かと気になってしまう女の
子。
生れつき身体が弱く、1級下で唯1人の女の子で、人と打ち解けるのが下手で。でも可
愛い後輩で級友。わたしが羽様小で最初に名前を覚えたたいせつな人。長期療養の為に遠
くへ去った、再び戻り来る事のない愛しい人。
彼女の優しげな声が空耳の様に心に響く。
『わたしのたいせつな人、羽藤ゆめいさん』
『わたし何も出来ないから。ゆめいさんに何も返せないから。だから、心配で心配で…』
『わたしゆめいさんを好きになれて良かった。
ゆめいさんに大切に想って貰えて良かった。
幸せだよ。わたしとても、とても幸せ…』
心に届く淡い感触は己の回想だけではない。これは今ここで受けた印象だ。微かに感じ
取れるのはこの家に今尚漂う想いの欠片。血の力の修練で備わり始めた感応が、霊を視て
語らい祓いも出来る力が、その存在を悟らせて。
獣の住んだ痕もなく、人の生活感も失せ。
でもこの家は次の住人もいないからこそ。
誰も住まう事なくタイムカプセルの様に。
彼女達が住んでいた2年前が残り続けて。
戸を開けて室内の闇を覗き込む。換気する者もいないので、空気は澱んでいた。わたし
が前に来てから2ヶ月の間、外気と隔てられ。霊的な換気も為されず想いがその侭滞留し
て。
「みんな……。未だ、残っているのね……」
本当は陽が落ちた後の方が良いのだけど。
流石に帰りが夜遅いと家族を心配させる。
護身の技を学び始めて既に4年、多少の危険には対応出来るけど。犯罪者も来ない僻地
だけど。虎穴には、踏み込まないのが最善だ。でも人を誘える場所でもなく、人を誘える
事柄でもないので、独りで来る他には術もなく。
やや傾いだ家は、廊下の右手に詩織さんの部屋が、直進すると居間と台所、奥が浴室だ。
洗濯機を借りて汚れた服を洗う間、2人シャワーを浴びたっけ。初めて上がり込んだ家で、
肌を触れ合わせ体を流し合って嬌声を上げた。
その手を握って寝付かせた後、お兄さんの秀彦さんと居間でお話しして。帰ってきたお
父さんの雅彦さんとお母さんの佐織さんに夕食を勧められ。台所で料理を手伝い、皿洗い
を詩織さんも一緒に手伝って、一緒に布団へ。
彼女達の日々を支えた住処。彼女達の生活を守った住処。彼女達の想いを宿した住処…。
新しい住人がいないから。状況が保たれた侭だから。形が残された侭だから想いも残り。
室内奥の薄闇に佇む、視えるとも視えないとも言い難い、曖昧な人の形に、お辞儀する。
目の前のやや小さな人の形が嬉しさに蠢く。それは目に映る動きより、心で感じ取る物
だ。傍に並んでやや大きな影が3つ。1つ目は体格の良い男の子で、2つ目は華奢な大人
の女性で、3つ目はかなり曖昧だけど成人男性だ。
人に害を為す物でもない、儚く淡い残雪の様な想いの欠片。視える人には視える、鬼に
至らぬ希薄なモノ。本人達はここを去っても、長年の愛着や惰性は心の欠片を、住み慣れ
た場に残す。詩織さん達とて気付いてはいまい。毛髪や爪の一切れの行方迄掴みきれない
様に。
夜になればやや濃密に、輪郭不確かな人の如き姿を取る。手を突き入れればすり抜ける
以上に、生きた人に触れればその生気で逆に彼らが散らされ崩される程、脆弱な物だけど。
「こんばんは。秀彦さん佐織さん雅彦さん」
温度の違う空気が無色透明でも、揺らめいて存在を示す様に。彼らは特段の目的もなく、
ここに滞留し続けていた。敢て言うならここに最期の瞬間迄残り続けたい。住み慣れた家
への心残りが、本人達から零れて残ったのだ。手紙に想いを記す様に、贈り物に心を込め
る様に、時にその動作に願いを刻み込む様に…。
器を失った希薄な想いは大抵、風に晒され日に照され、緩慢に消えゆく物だけど。深く
心繋げた者の来訪が、彼らを力づけ暫く長らえさせる事もある。いずれは拡散し世界に融
け込み無に帰して行く、心の欠片なのだけど。
手前の最も確かな形が詩織さんだ。心残りと羽藤柚明への想いの強さ故か、来る度に一
番喜んで力を増す為に、尚動ける濃さを保ち。佐織さん達も、以前はわたしの訪問に喜び
動きを返してくれたけど、最近は顕れるのが精一杯で動きは殆どなく。来年迄保たないか
も。詩織さんの影も動きや反応が鈍り始めていた。
希薄に過ぎる彼らに、生きた人の気配は濃すぎて既に毒だ。故にわたしも距離を置いて、
弱く癒しの力を届ける。言葉ではなく感応を微弱に保って、相手を灼いてしまわない様に。
「向うの病院の詩織さんから手紙が届いたの。みんなにも、読んであげたいなと想って
…」
詩織さんの想いだから、彼女から零れた希薄な霊にはその侭力となる。喜びであり自身
の想いであり、わたしの癒しも加え、霊体を支える核になる。佐織さん達にも喜びだから、
詩織さん程でなくても霊体を支える力になる。
生きた人に害も為せない程希薄な霊だけど。
家が現況を保ち続ける間は在り続けたいと。
手入れされぬ廃屋や庵でも、風雨や日光から遮られれば多少違う。新たに来る人を拒む
訳でも嫌う訳でもない。来れば黙って消えるだけ。唯在り続ける内は来訪者を前にすると、
出迎えに姿を顕し何とか想いを届かせようと。
『でも遠くない将来に、この残り香も拡散し、世界に融け込んで、消失する。詩織さん
も』
徐々に終りへ進み行く様が脳裏に浮ぶ。備え始めた関知と感応が、確実性の高い未来を
手繰り寄せ。己が織りなす未来はその道筋に添い。関知が現実を導く様な錯覚に囚われる。
「世の中は、移ろい往く物なんだよ。柚明」
背後から肩に手を置いてくれた美しい人は。
図鑑で見た狼の様に艶々な銀の髪を輝かせ。
サクヤさんに詩織さん達の影は視えてない。
この場所が宿す事情でその存在を推し量り。
わたしの気配からこの心の内を察し案じて。
「でも想いを抱く事なら、久遠に叶うんだ。
二度と逢えず、触れる事が叶わなくても」
声音は愛しさと優しさと哀しさを宿して。
「今宵は年長者が1人いるから、帰りが遅くても問題ないよ。あたしは少し離れた処で待
っているから、心ゆく迄語り合うと良い…」
静かな促しにわたしは想わず振り向いた。
夕刻の娘一人歩きを案じて迎えに来てくれたと想っていたけど。それは正答だったけど。
サクヤさんはそれ以上に、みんなに心配を与えずわたしが存分に想いを交わし合える様に。
「想い人との語らいに首を挟む気はないさ」
悪戯っぽく輝く瞳を片目瞑ってニッと笑み。
美しい人は背後を振り向き颯爽と歩み去る。
本当に、強く賢く純粋に心優しく愛しい人。
羽藤柚明が心から恋し憧れた、年上の女性。
でもその故に、身を触れ合わせて今抱いたこの印象を、サクヤさんには悟られたくない。
滑らかで柔らかな肌身で触れて触れられる事にわたしが怖れ怯えていると、知られたくは。
わたしがサクヤさんを厭う筈は、ないけど。
幼い頃から仰ぎ見てきた、近しい人だけど。
その近しさ故に、肌触れ合わせて視えてくる像は、真沙美さんや和泉さんの比ではなく。
結果わたしと関る像が途絶する『視えない未来』も明瞭で。何が起こるかは尚視えぬ侭に。
わたしの未来は朧に霞み。視えないから怖いのか、視えそうで怖いのか。この人の肌身に
添って、視える物・視えない物の全てが怖い。
遙か遠くに仄視える未来に断絶に心震わせ。
報される事・受け止める事にたじろぎ惑い。
羽藤柚明の心の乱れは、サクヤさんの所為でもなければ他の誰の所為でもない。わたし
は自分で紡ぐ力に、己の織りなす所作に、自ら未来に投じた影に、自身に怯え竦んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
愛しい双子に触れ合う程に、愛しいサクヤさんやおばあさんに触れ合う程に。過去が未
来が遠くが視える。好ましい像も好ましくない像も選別なく。心を繋げた人に触れば、否、
傍にいるだけで声を交わすだけで、触れた物を介しても関知や感応が像を結ぶ。それはも
う心を鎖す事に心血を注がねば防げない程に。それは蒼惶の差し込む夜更けであれば尚更
に。
「……怖いです。羽藤柚明が、自分自身が」
背後に添う笑子おばあさんに応えていた。
血の力の修練の遅滞に苛立って、オハシラ様のご神木に独り出向いて拒まれてから5年。
状況は逆転していた。竹林の姫の懸念は正鵠を射ていた。わたしは贄の力の進展に、心の
強さがついて行けずに。自身の力に怯え竦み。
笑子おばあさんが肌身を合わせてくれても。わたしはその感触に怯え竦み。深く交わる
事で進む己自身を怖れ。拒まないけど。孫を案じる愛しい所作を、拒絶は絶対出来ないけ
ど。
この乱れた心の内は全て見通されている。
深夜おばあさんが倉を訪れてくれたのは。
この焦慮を困惑をこの人は察してくれて。
幾夜機を織っても鎮めきれぬ己の弱さを。
「わたしは、もっと強くならないといけないのに。まだ前に進まなければいけないのに」
蒼惶の下、わたしは溢れる想いを解き放ち。
振り向いて、笑子おばあさんの柔肌に縋り。
身を委ね心を預け、肉感を求め肌を重ねて。
「視える事も視えない事も怖い。進む程に視えてくる像も、幾ら進んでも視えない像も」
確かな感触が欲しい。視えない像も視える像も不確かな未来の枝葉だ。わたしは今幸せ
の中にいる。確かな肉の感触で得体の知れぬ不安を鎮めたい。肌触れ合えば浮ぶ像がある
と承知で、その印象も抱擁の肉感で抑えたい。
中学2年生になってと言うより。たいせつな人を守れる強さを望み欲する今のわたしが。
幼子の様に人に縋り付くなんて情けないけど。わたしはその優しい促しに心の枷を外され
て。
でも愛しい祖母は、この未熟を受容して。
「柚明……わたしのたいせつな孫娘、愛娘」
関知の像よりも強く、情愛が瞼を滲ませる。
老いて尚、滑らかに柔らかな肌が心地良い。
「わたしには、羽藤笑子には、あなた程鮮明に未来の像は見通せない」「おばあさん…」
わたしの贄の血は笑子おばあさんより濃く。
修練の成果で力は既に師を超え始めていた。
繊細な操りや経験は尚及ばないけど。わたしは歴代の羽藤も未踏の領域へ踏み入り始め。
「でも、感応の力で、あなたの感応の力の助けも受けて。あなたが視た物や視えない物に、
どれ程心震わせているのかは確かに分るわ」
頬を埋めた胸元から祖母の顔を仰ぎ見ると。
穏やかな笑みはわたしの心を照すお日様で。
「幾ら悩み苦しんでも、怯え竦んでも、決してその歩みを止めず、逃げ出さず投げ出さず。
たいせつに想う誰かの為に、望んで傷む。
柚明は、本当に強く賢く、優しい子だよ」
おばあさんの言う通りだった。わたしは決して退けないし、足踏みも長く出来はしない。
利香さんに怯えられても、下山さんや室戸さんに厭われても。わたしは彼女達を想い続
けたい。どの様に顕し届かせるかは相手次第になるけれど、この想いは決して手放さない。
手芸部の先輩や同輩後輩に抱く想いも同じ。間淵さんも南さんも知花さんも、羽藤柚明
のたいせつな人。縁あって同じ学校に通い詞を交わし想いも交えた、守り支えたい大事な
人。
早苗さんも歌織さんも、異能の力を晒した羽藤柚明を好いて受け容れ。歌織さんは早苗
さんを支えたいわたしの想いを喜んでくれた。この行いが、歌織さんの心に生じさせた微
かな影も。わたしはこの身の全てで受け止める。
半端に踏み止まっても、意味は薄い。2人を真に大事に想う故に、この行いは貫徹する。
せめてその位はしなければ。嫉妬を超えてわたしを愛し励ましてくれた、真沙美さんや和
泉さんに顔向けできない。一番ですと言う強く清く尊い想いに、一番の想いも返せないわ
たしは常に、全身全霊で応える他に術がない。
詩織さんの先行きが感じられても。サクヤさんや笑子おばあさんと、触れ合えば触れ合
う程『視えない未来』が実感されても。幾ら己の影に怯えて心乱そうとも。わたしに引き
返す事は許されない。心鎖す事はもう二度と。
「自身の為なら投げ出した。己の為なら逃げ出して心鎖した。でも、今はもう自分だけの
事じゃないから。この後にわたしより濃い血を宿す、白花ちゃんと桂ちゃんがいるから」
無知と無力でたいせつな人を喪った、幼い夜の過ちは繰り返さない。今の羽藤柚明には
後に続く愛しい2人の幼子がいる。護らせて欲しいたいせつな人に、漸く巡り逢えたのだ。
「答は視えています。幾ら悩んでもわたしの答は変らない。変えられない。わたしは羽藤
柚明です。血の定めを逃れる途を選べない以上、進んで受け容れるのがわたしの正解…」
おばあさんは刻々時を重ね往く。桂ちゃんと白花ちゃんの導きに、その手は恐らく届か
ない。先行きは仄視えていた。羽藤の歴代で最も血の薄い正樹さんも、浅間のサクヤさん
や千羽の真弓さんも、その代役はこなせない。
わたししか愛しい双子の道標にはなれぬ。
二度と心の闇に沈む甘えは己に許せない。
切り裂かれても打ち砕かれても。心鎖す途は選べない。桂ちゃんも白花ちゃんも、この
力を己の物とする日が来る。その所持や行使に怯え惑い、哀しみ傷む時は来る。わたしが
先に乗り越えて、道を切り開いておかないと。
この先行きに禍があるならまず己が視ねば。
わたしの間近に嵐が迫るならこの身で防ぐ。
この力はその為に羽藤が授かった。この生命は後に続く幼子を護る為に預かった。どん
なに暗く厭わしい未来でも、わたしは逃げずに向き合って、絶対に愛しい双子を守り抜く。
「わたしはこの生き方を、変えられない…」
失ったたいせつな人への想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れる
過去。手放せない。わたしにはこの生き方しかない。この先に充足があると信じ進むしか。
わたしは、この途を諦めて引き返せはしない。
「正解だよ……それが柚明の真の想いなら」
寄り添う優しい感触は柔らかに言葉を紡ぎ。
わたしの想いを支え励まし力づけてくれて。
「柚明は、わたしが護るよ。生命の限り…」
わたし達には視えている。おばあさんがいる限り、前途の暗雲は形を取れない。この様
に肌触れ合わす日が続く限り、わたしの幸せは途絶えない。たいせつな家族の笑顔は続く。
断絶は愛しい祖母の末の向う側で蠢いていた。
何がどうなるかは不確かだけど。その故に防ぎ躱す術も同様に不確かだけど。定めの経
糸は見通しきれずとも、緯糸は己の所作が差し込む物だ。明日の模様はわたしが織りなす。
視えても視えなくても明日が必ず来る以上。
選択が叶うならわたしは必ず進み出す方へ。
残された幸せの中で、わたしはたいせつな人を守り通す強さ賢さを身に備える。もうこ
れ以上、誰の涙も流させぬ様に。乱れを鎮め心を整え、わたしは想いを込めて明日を織る。