第5話 人の世の常(前)


 2年生になってクラスが変った和泉さんが、友達と共に1組のわたしを訪れたのは、初
夏の日の1時間目終了後だった。教室入口へ迎えに出たわたしと、左隣に肌触れさせつつ
共に来た白川夕維さんを前に、和泉さんが当惑を見せたのは、わたしの勘の良さでも、女
子同士にしても近しすぎる夕維さんとの関りへの羨みでもなく、本題への影響を危ぶんで
の。

「ゆめいさん、一応、紹介するね。朝松利香さん。あたしは、リカって呼んでいるけど」
「朝松利香です。……は、初めましてっ…」

 緊張でやや硬い言葉と動きで、ストレートな黒髪をショートに切り揃えた、大人しそう
な女の子が頭を下げる。学年全員で六拾人余の銀座通中学校は、1年もいれば大凡の面々
の顔と名前を憶えられるけど、1年でも2年でもクラスが違った彼女とのお話は初めてだ。

 背丈はわたしと同じ位で、体格はやや細身に過ぎる撫で肩。容貌は端正だけど目立たな
い印象がある。大勢に溶け込む事を望み願う女の子か。逆に言うと、そう意識しなければ
大勢に紛れ普通でいる事が難しいと自覚して。常に身構えて何かの発覚を防がねば、誰に
対しても一定の膜を被せて応じねば、危ういと。

 初対面の緊張を薄めたくて、それより彼女が常の人全般に抱く緊張を薄めたくて、わた
しは彼女の両手を両手に取って、確かに繋ぎ、

「こうしてお話しするのは初めてね、羽藤柚明です。……柚明って呼んでくれて結構よ」

 頬を染めるのは、ほぼ初対面なのに親身にすぎる応接の故か。でも、これから込み入っ
た相談を受けるのに、初対面のぎこちなさや警戒心をいつ迄も引きずりたくなかったから。

「あ……、はい。宜しく、お願いします…」

 こういう親密な接し方が『羽藤は女好き』『女に恋し誘う魔女』と言う噂を呼んだのか
も知れないけど。でもそれは従因に過ぎない。わたしの人への応対は一年の頃から変らな
い。先週からの噂の主因は、今迄の蓄積でもなく、今紹介された朝松さんでもなく。この
様を左間近で、肩に触れる程傍に身を寄せ付けつつ、微妙な羨みの視線を送る夕維さんと
の関りで。

「……愛しさと力強さが、流れ込んで来る」

 反応を窺う感じで微かに流した贄の血の力を感じている。常の人でも赤子の肌の温かさ
位は感じて不思議でないけど。朝松さんは…。

「相談の内容は、大凡分ったわ」

 相談内容の承知云々より、相談に来たと察したわたしに夕維さんも朝松さんも驚くけど。
朝松さんの不安を受け止める効果を見込んで、わたしは敢て後先を違えて告げた。和泉さ
んに伴われ、隣の学級のわたしを訪ねた時点で、人目にも相談事に見えて妥当な状況だっ
たし。

 和泉さんは、応諾を予測して彼女を招いた。朝松さんが抱えた事情も、手を握り握られ
た今は殆ど分った。驚きが引き、本当に目の前の人は己が抱く特殊な悩みを分っているの
か、懐疑の色が瞳に浮ぶショートな髪の女の子に、

「詳しい事情は、人目のない処でじっくり伺う方が良さそう。お昼休み、空いている?」

 握った両手は繋いだ侭に、黒目を見つめる。頷きの承諾を受けてわたしはその右隣を向
き、

「和泉さんも付き合ってくれると嬉しいのだけど。既に事情を多少でも聞いている様だし。
それにその、わたし今、ちょっとした噂の渦中だから、女の子とも2人きりなのは、ね」

 わたしはともかく、朝松さんを噂の犠牲には出来ない。そんなわたしの意図を察してか、

「ん、あたしは良いよ。昼でも真夜中でも」

 快く答を返してくれる和泉さんより、むしろ当の朝松さんの方が、及び腰というか申し
訳なさそうと言うか、戸惑いや躊躇が窺えて。それは夕維さんへの気後れとか遠慮ではな
く。

「そのわたし、こんな話、持ちかけて……今迄お話しした事も少ない羽藤さんに、その」

 確かに彼女が抱く懸案は、軽々には他人に語れる物ではなく、話されても普通は答を返
し難いお話だったけど。初めましてこれから宜しくの段階で、明かす話でもなかったけど。

 明かす事で人を遠ざけ、伝える事で誤解を受ける。懸案自体より、それを晒す事で人間
関係が壊しそうな不安も分る。人に軽々に口外できない贄の血の定めを負うわたしにこそ。
その一端を知る和泉さん故に、朝松さんの悩みを知って、わたしにお話しを持ってきたと。

「朝松利香は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 握った両手に軽く力を込めて、心を込めて、贄の血の癒しも微かに込めて。言葉は想い
の全てを伝えきるのに力不足だ。温もりと肌触りと、腕に込めた想いの確かさで怯えを鎮
め。

「和泉さんの大切な人は、わたしにとってもたいせつな人。あなたにわたしが身を尽くし
たく想うのは当然よ。困り事や悩みは遠慮なく相談して。力になれる限り力になるわ…」

 様々な不安を踏み越え、縋ってくれた人に、確かな想いを返したい。悩みを聞いて不安
を拭い、力になりたい。朝松さんや、彼女を案じ話を取り次いだ和泉さんの想いに応えた
い。

「お話の中身が簡単に理解を求め難い、軽々に口外できない案件だって、わたしは分って
いる。それを承知でわたしはあなたの相談を受ける。だから安心して、お話しして頂戴」

 わたしには全てを打ち明けて大丈夫だから。
 わたしはあなたの想いの全てを受け止める。

 一生懸命紡いだ言葉と想いが、初対面の緊張と、それに隠れた人全般への怯えを拭い去
って行く。戸惑いが抜けた柔らかな顔立ちは、

「……本当に、良いの? ……羽藤さん…」

「柚明と呼んで。代りにわたしも、利香さんと呼ばせて貰いたいから。……駄目?」
「……ゆめいさん……」

 背後から注ぐ級友の視線を気にする余裕はないし、懸念の必要も実はそれ程ない。むし
ろ今少し気掛りなのは、利香さんに対抗意識を抱いて不満顔な、左隣に添う夕維さんで…。


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「私は一緒させてくれないの? 柚明さん」

 2時間目終了後に、夕維さんが想いを抑えきれず話を振ってきた。先週の一件以来、彼
女はわたしに密着している。同時にわたしが彼女の視界を離れて誰かに逢う事や話す事が、
気になる様で。寄せて貰える好意は嬉しいし、隠す程の事はわたしの学校生活に多くない
為、女子同士にしても近しすぎる接し方も、今迄は特に拒まず望まれる侭に過ごしてきた
けど。

 この件はそう扱えない。わたしと言うより利香さんの為に。このお話は明かす人を選ぶ。
関りの薄い人を交える事は、解決策を崩し絆を解く。夕維さんの問に向き合い確かに断る。
彼女が欲求を抑え難い様は視えた。断りの意を伝えないと、その場に割って入られる像も。
わたしを想う余り、過ちを犯させては可哀相。

「ごめんなさいね。今回の利香さんの案件は、他の人達に明かすべきではない事柄だか
ら」

 夕維さんは小柄で華奢な女の子だ。背丈はわたしの頭半分程低く、ストレートの黒髪を
背の半ば迄伸ばしている。古風に整って綺麗な顔に意志の強さ、明快さが映えて可愛くあ
り妙に大人びてもおり。その言動も積極的で。

「中身を聞いた訳でもないのに、分るの?」

 訝しむ様に問いかけてくる黒目を見つめ、

「わたしが先週夕維さんの事を察した様に」

 わたしの答に彼女の白磁の頬が朱に染まる。先週の一件に想いが飛んで、目前の案件か
ら心の焦点がずれたらしい。わたしと夕維さんの今の関係を繋ぐ因になり、今のわたしと
夕維さんの噂を招く因にもなった、あの一件を。

 教室の隅で立って向き合うわたし達の近しすぎる様に、級友達の視線は微妙だ。噂を丸
呑みはしなくても、親密な接し方は目に映る。夕維さんにはその誤解を煽る感じもあるけ
ど。

「誰にでも全て話せる訳ではないの。その人との間だけで留めておくべきお話しもあるわ。
お話しに直接関りのない人を不用意に交える事は利香さんを怯えさせ、相談を滞らせる」

 寄せられた信頼に応える事が出来なくなる。
 理解を求め胸の前に両手で両手を握るのに。

「金田さんは交えて大丈夫なお話しなの?」

 声には微かに和泉さんへの羨みが窺えた。
 夕維さんはわたしに関る女の子の全部を?

「和泉さんはわたしにお話しを取り次ぐ前に、利香さんの事情を一部聞いて関っている
わ」

 両の手を繋いだ侭夕維さんの瞳を覗き込み、

「利香さんはわたしと今迄お話しした事が少ないから、緊張を取り除く為にも和泉さんも
交えて3人でお話しした方が良いと思うの」

 和泉さんだけではなく、利香さんだけでもない。2人きりの場ではなく常に3人ですと。
まるで昨年真弓さんに、男の子とお祭りを歩くのに、常に他に誰かがいて2人きりにはな
らないから大丈夫と説明した時にも似て。

「お願い。夕維さんには、分って欲しいの」

 先週の一件以来、わたしの1分1秒に寄り添う事を強く望む夕維さんに今回は外してと。
正面からの求めに夕維さんは悩む顔を見せた。彼女は己の心を偽って嘘を返せる人ではな
い。答は本音で信頼できる。本音の承諾故に取り付けも難航が予想されたけど。曖昧な応
対で成り行きに任せては、夕維さんを暴発に導く。

「夕維さんはわたしのたいせつな人だから」

 彼女に過ちを犯させない為にも、しっかり話して理解を求め、納得して見守って欲しい。
幼子に応対する内に学んだ事前の危機管理と言おうか。傷を繕うより、傷が生じない様に
手を打つ。過ちを事前に予測し回避できれば、多くの涙や苦味を生じる前に防ぎ止められ
る。

 贄の血の力の修練の副次効果として顕れ始めた感応や関知の力は、その為に。贄の血の
力が心や体を癒す力なら、副次効果はその補強として、誰かが傷つく事態を回避する為に。
力の浪費を抑えてより効率的に注ぎ込む為に。力を直に行使せずとも良い状況を導ける様
に。

「じゃあ、私と柚明さんの間で人に明かせない様な事があったら、他の人を交えず相談に
乗ってくれる? 他の人のいない処で、2人きりでのお話しに応じてくれる? 2人だけ
で私の望みに心ゆく迄付き合ってくれる?」

 夕維さんは、恋の告白の事前予約の様に、

「朝松さんや金田さんへの応対以上を、柚明さんが私にもしてくれると期待して良い?」

 頬を染めて、でも周囲に聞かせる意図も込めてしっかり言い切り、わたしの答を求める。
見上げた強い双眸に、わたしも周囲の反応に考慮や視線を割く余裕もなく、正視した答を、

「わたしは、たいせつな人の為には常に全身全霊を尽くすわ。それが和泉さんでも利香さ
んでも、夕維さんでも。何も変る事はない」

「……本当? ……本当に、本当、……?」

 見上げた瞳は信じたい心を宿しつつ惑い。

 わたしは夕維さんの真偽を力の行使も不要に見定められるけど、夕維さんはわたしの答
の真偽が見定められない。その不安を払うには、わたしの真を分って貰うには、わたしは、

「わたしの答の真偽は、あなたが見定めて」

 わたしは握り合った状態から一旦手を解き、夕維さんの右手首を軽く掴んで、己の心臓
に押し当てて、呼気と共に動く肌を感じ取らせ、

「ゆ、柚明さん……?」

「この心が真実か偽りかはあなたが確かめて。わたしはあなたを心底たいせつに想ってい
る。望まれれば何でも何度でも身を尽くす。でも、今回は夕維さんが関る事は適当ではな
いの」

 言葉を紡ぐ度に肺が動き、夕維さんの手に感触が伝播する。思い立ったら周囲を見ず過
激な行動に移る夕維さんも、返しに詰まると言うより心が詰まって身動き取れないでいた。

「お願いだから分って欲しい。あなたが必要としてくれた時には、身を尽くすから。今は、
利香さんの相談に乗って力になりたいの。他の人達には明かしては拙い類の事柄だから」

 心臓に押しつけた夕維さんの掌の上に重ねる力を、更に強く。掻き抱く様に、包み込み。

 承諾を肌で感じたのは、3時間目始業のベルの後だった。真意を伝えて分って貰うのに、
言葉はやはり力不足らしく、不可欠な行いだったけど、血の巡りを多くする。周囲の歌織
さんや早苗さんの頬迄も、染めて見えたけど。

 かくして夕維さんの了承を貰えたわたしだけど、結局昼休みには和泉さんと利香さんの
お話を伺う事は出来なかった。と言うのは…。


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「……羽藤、いるか?」
 四時間目終了後、今から給食という頃合に、2組の飛鷹翔(しょう)君が教室の入口か
らわたしを呼ぶ声を届かせた時、当のわたしよりも周囲のクラスメートを動揺が走り抜け
た。

 並ぶと男子で一番前になる身長は、わたしより夕維さんより低いけど、小柄な身体はバ
ネが利き、1年の時点で既にサッカー部の主力選手だった。短く刈った黒髪に、負けん気
の強そうな顔立ち。想った事を隠せず口に出し、1人突っ走ると言われるけど、爽やかな
男の子だ。夕維さんと家が隣で、幼なじみ…。

「悪いけどちょっと付き合って欲しいんだ」

 逃がさない感じで、右の手首を掴まれた。

 夕維さんは給食当番で今教室を外している。教室に給食を運んでくる最中だ。その隙を
狙ったのか、彼は夕維さんのいない内にわたしを別の処に連れ出そうと、促すより強要を
…。

「わたし、昼休みに利香さんと逢う約束が」
「大事な事なんだ。そっちは後回しで頼む」

 飛鷹君は元々せっかちだけど、今の彼はそれに加えて焦りが宿り。振り解こうかと思っ
たけど、瞳に浮ぶ怖れと手首から伝わる不安に思い留まる。彼の話も急を要する物らしい。

「ここでは、出来ないお話し?」
「みんなの前では、ちょっとな」

 飛鷹君は短く頷いた。知らせた方が良いと思いつつその判断に自信のない様子が窺えた。
万事開けっぴろげな彼にしては珍しく弱気だ。

「付き合ってくれ、羽藤」「……分ったわ」

 言葉尻を捉えれば、お付き合いの申込と承諾にも聞えるやり取りだけど、そうではない
事は聞いた人も分るだろう。承諾の瞬間引っ張る力と右手首を締め付ける力が倍になって、
廊下へと引きずり出されるのに、少し抗って、

「真沙美さん。申し訳ないけど、和泉さんと利香さんに、わたし急用が出来たからお話し
は放課後にって」「分ったよ、ごゆっくり」

『翔の奴、白川から羽藤に乗り換えるのか』
『羽藤に白川を取られた事への抗議だろう』
『羽藤は女子で行くと白川で何人目なんだ』
『菊池先輩と小野君に続き男子では3人目』
『翔も白川も今迄お互いだけだったからな』

 まるでわたしが恋多き人で、初心な夕維さんと飛鷹君を双方惑わせ、毒牙に捉えた様な。

 教室を離れても、飛び交う噂は意識せずとも心に届く。何人かの反応は顔に浮んだ表情
で読めた。それは先週の一件から今日を経て、どう展開するのだろう。七拾五日噂が鎮ま
るのを待つのは、意外と大変な事かも知れない。


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 一部の噂好きな人達には、わたしの中学校生活は、何度噛み締めても旨いするめに似た
味わいらしい。わたしは昨年の塩原先輩との一件以来、努めて大人しく過ごしていたけど。

 正直言って、小野君を通じわたしを祭りに誘ってくれた菊池先輩は、外れだった。容姿
とか体格とか趣味ではなく。彼の動機が『性的暴行された女の子』の心の傷を慰めてやる
事で『優しい先輩の俺』に酔いたかった故で。羽藤柚明を求めてくれた訳ではなかったか
ら。

 紳士的な人だった。菊池先輩は、初回でも2回目でもキスを断ったわたしに、最後迄無
理強いをしなかったし、言葉も荒げなかった。唯、わたしが塩原先輩達に性的暴行された
との噂を丸呑みし、否定しても自分に隠し事は不要だと、その前提を変えなかった。わた
しを気遣う様で、受け容れている様で、わたしを見てなかった。傷を引きずって隠してい
ると思いこんだ地点から、彼は遂に抜け出さず。彼は他人を救える素敵な自身に酔いたか
った。

 彼の想いはわたしにではなく、優しい先輩、全て受け容れる寛大な俺と、自身にのみ向
き。彼は目前にいる者の言葉も魂も見てなかった。わたしが桂ちゃんと白花ちゃんを守ろ
うと焦る余り、和泉さんと真沙美さんの魂を一時見失った様に。そして彼は最後迄それを
変えず。

 彼に応え続ける事が、わたしのみならず真沙美さんや和泉さんの性的暴行の噂も引きず
りかねない。秋を待たずわたしは菊池先輩に、人気のない旧校舎裏で関係の終了を申し出
た。恋仲未満のお友達の段階で挫けた感じだった。

 僕に君は救えなかったんだねと呟き、先輩もそれを了承してくれた。遂に分って貰えな
かったという点でわたしも残念な結末だった。

 その後に引き続いた小野君との付き合いも、噂された様な恋仲ではない。バスケ部一年
のエースで、陽気で容姿も爽やかな小野君は女子にもてる。わたしに声を掛けなくても慕
う女の子は多数いた。小野君とわたしとの仲は、部活の関りで菊池先輩の頼みを断れず、
わたしに引き合わせてしまった彼の責任感の故で。

 わたしに引きずられる必要はないと、わたしは何も傷ついてないから、小野君は好きな
人がいれば自由に付き合って良いのよと促し。円満離別とか、小野君がわたしを捨てたと
か乗り換えたとか囁く人はいたけど、お互いそう言う噂には慣れっこだったから。なので
今も小野君は、わたしのたいせつなお友達です。

 わたしに今、特定の彼氏と呼べる人はいません。中学生に珍しい事ではないと思うけど、
その空席が先週から新たな噂を招いていた…。


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「夕維を、誑かすのは止めてくれ。羽藤!」

 校舎の隣に立つ今は使われてない旧校舎1階の空き教室に、引っ張られ入るとすぐ飛鷹
君は、はち切れそうな想いを叩き付けてきた。彼は出した自身の声の大きさに一瞬驚くけ
ど、

「その、俺は羽藤が女に恋しても男を嫌いでもちっとも構わないんだけど、俺はお前を良
い奴だと思うし嫌ってないんだけど、唯…」

 夕維を惑わせ哀しませるのは止めてくれ。

 2人きりの空き教室は恋の告白にも使えそうだけど、発された声は甘みもなく。気分は、
姫を救いに来た勇者を妨げて対峙する魔女だった。彼の真剣さは焦りを帯びて真っ直ぐに、

「先週羽藤が夕維を助けてくれた事は、俺も感謝している。つまんない言い合いを引っ張
ってあんな事になって、菊池先輩にも羽藤にも迷惑かけた。反省しているよ。でもさ!」

 室内だけでなく見渡せる限り廊下にも人影はない。旧校舎はお昼時も無人で当然だけど。
男女数人が後をつけていると察し振り向くと、気付いた飛鷹君が鬼の形相で彼らを追い返
し。

 既に現時点で噂になるのは避けられないけど、中途半端に話しの一部を聞かれても憶測
を呼ぶだけなので、今は2人きりの方が良い。

「夕維は単純で後先考えないんだ。幼い頃から向う見ずで負けん気で、事の重い軽いは後
から考える。一方的な思い込みや意地の張り合いで、その気がなくても深く考えず、危な
い事や傷つく事もやってしまう。先週の件もそうだっただろう。だから、今回もその…」

 夕維は深く考えずお前にのめり込んでいる。
 女が女に恋する意味を考えず覚悟もない侭。
 この侭では夕維が嘆き哀しむ様が目に浮ぶ。

「これ以上夕維を間違った道に引き込むのは止めてくれ。俺の幼なじみを、その、お前の
世界に巻き込む事は、しないで欲しいんだ」

 彼はわたしに悪意を抱いてない。噂を鵜呑みにしている面はあるけど、それを受けて尚
わたしを隔てず。感謝と好意と、この申し出をする事への苦味迄をしっかり噛み締めて…。

 それで尚夕維さんを想う故に言わねばならないと、大事な想いを強く抱き。己を奮い立
たせる副次効果で、半歩半歩正面からわたしに近づいている事を、飛鷹君は未だ無自覚で、

「お前には、鴨川や金田や、野村や海老名がいるだろう。今日も朝松と話していた。摘み
食いの様に夕維にも手を出すのは止めてくれ。夕維は俺の隣んちで幼なじみだ。捨ててお
けない。男ならともかく、女に惚れるなんて」

 わたし、そんな気持でいた訳じゃないのに。
 でも、飛鷹君の声と瞳は真剣で真っ直ぐに。

「いや、別にお前を否定している訳じゃないんだ。……その、何だ。羽藤には羽藤の、夕
維には夕維の幸せの形ってのが、あるだろう。あいつは普通に恋愛して男と結ばれるべき
だ。俺は夕維が向う見ずに突っ走って後で泣く様な事になって欲しくなくて、羽藤にもそ
れで迷惑かけちゃ申し訳ないと思って、それで」

 あいつはお前に、恋人の男役を望んでいる。
 お前が、女を何度も抱き留めた事を知って。
 お前に男の代りをして貰えると思いこんで。
 先週の一件は実質その巡り合わせになった。

「夕維はお前に惚れて、お前に近づく男女全てをライバルに見ている様だけど、自分が何
番目かの妾だと気付いてない。お前にも夕維は偶々関っただけで、一番でもないんだろう。
そうと気付き落胆する夕維も見るに堪えないけど、叶わない恋は引きずる程傷が深くなる。
今の内に、夕維を解き放ってやってくれ…」

 大体夕維は女の子なんだ。女が女に惚れて、どうなるんだよ。夕維が普通に男に恋でき
なくなるだけじゃないか。お前に責任取れないだろう。今は愉しそうだけど、そんなの長
く続かないよ。夕維は覚悟を決めてお前と、女と付き合っている訳じゃない。どうせ飽き
るか耐えられなくなるかして、お前から離れる。その時お前に深く情が絡んでいたり、傷
つけ合う事になったら、夕維もお前も辛いだろう。

「どうせ実らないなら今の内に切ってくれ」

 キスできる程間近で見上げられ、瞳を打ち抜く視線を受けて。いつの間にか両腕がわた
しの両肩を抑えている。感応が利きすぎると、相手の感情に巻き込まれて自身が疎かにな
る。

 少しでも制御を弱めるとこういう強い想いに押し切られ流入を許す。些か懸念していた
事でもあり、夕維さんを想う様が見て分る彼に、ついわたしの心の扉が押し開かれていた。

「飛鷹君……わたし」「しょう、で良いよ」

 彼の危惧も熱意も肌で感じた。彼が夕維さんを大切に想っている事も。彼がわたしを誤
解しつつ嫌ってない事も。彼女を良く知る幼なじみの故に、真剣にその今後を案じている。

 彼の想いに、わたしの想いを応えようとした時だった。注意が彼に向いて周囲への探り
が甘くなっていた感応の力が、間近にわたしでも彼でもない別の強くうねる感情を感じて、

「翔っ、……私の柚明さんから離れてっ!」

 夕維さんが空き教室の入口に立っていた。


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 夕維さんは全身に不可視の怒りの炎を纏い、

「もう私にも柚明さんにも近寄らないでって、言ったでしょう! 大事な時助けに来ても
くれないで、口先で心配して、本当にわたしを助けてくれた人を遠ざけようと。大体親で
も兄弟でもないあなたが何の権利で、私のお付き合いに文句付けるのよ。好い加減にし
て」

 それもわたしには痴話喧嘩で一種可愛く見えたのだけど。夕維さんは一室に入ってきて、
わたしの両肩を抑えていた飛鷹君の手を掴み、

「私の柚明さんに軽々しく触らないでっ!」

 引き剥がしに掛る。飛鷹君もわたしの肩を掴む事は想定外だったらしく、逆らわずに従
うけど。わたしの彼との密着が許せない様で、その間に自身を無理に割り込ませ、わたし
に、

「柚明さんも甘すぎる。こんな奴に、言われる侭でいるなんて。私の幼なじみだからって、
気遣いなんて要らないの。先週放課後の様に凛として。私あの時の柚明さんに惚れたの」

 見せつける様にわたしに正面から抱きつく。
 間近にその様を見て戸惑いを隠せない彼の、

「夕維、その、だな。俺はお前の行く末を」
「あなたの話なんか聞いてない! 帰って」

 応えは門前払いだ。聞く耳を持ってない。

「夕維、聞けよ。羽藤は女だ。そうして抱きついても、と言うか抱きついたお前にこそ分
るだろう。柔らかで細くて。男の身体じゃない。お前がどんなに気持を寄せても、女同士
じゃ絶対結ばれはしないんだ。ああ、もう」

 夕維さんを傷つけるのが忍びないけど、言わねばならない彼の苦渋が見て分る。夕維さ
んの怒りに弾かれて心の奥に届かないと、分るからこそ必死に伝えたくて苛立ちを深める
様も。そして必死に伝えようとする中身を分りたくなくて、夕維さんは必死に撥ね付けて。

「良いもん、女の子の身体で。柔らかで心地良いから。翔みたいに硬くて小さいのよりず
っと良い。柚明さんが気持を返してくれるなら。これは私の好みなの、もう構わないで」

 お互いにどんどん話しが熱くなって行く。

「お嫁さんになれないんだぞ。ウエディングドレス着れないんだぞ。新婚旅行行けないん
だぞ。子供出来ないし、孫も出来ないし…」

「お嫁さんにはなれるもん。わたしウエディングドレス着ちゃう。新婚旅行も行っちゃう。
子供は養子貰うもん。そうすれば孫だって」

 身を離し振り返って言葉を叩き返すけど、

「お前のお爺さんお婆さんを、夫婦並んで喜ばせる事も出来ないんだぞ。町内の人から色
眼鏡で見られるんだぞ。分っているのか?」

 うう、そ、それは……。急に夕維さんの旗色が悪くなる。祖父祖母が彼女の弱点らしい。
攻め処を心得た幼なじみは、俯き加減になった夕維さんに畳み掛けるけど、それは落し処
を踏み越えてしまう幼なじみ故の失策では…。

「今は良くたって、絶対後悔する。その上」

 俯き加減の少女の上に少年の静かな声が、

「お前は羽藤の本命でもないんだ。それを」

 お前だって分っているだろう、羽藤には。

「それ以上言わないでっ! 柚明さんは…」

 私を、たいせつな人だと、言ってくれた。
 旧校舎裏で先週私を守り庇ってくれたの。
 私の感謝の想いを受け止めてくれている。
 くっついても嫌がらず抱き留めてくれた。
 私が危ない時に姿も現さなかった癖して。

「翔なんて大っ嫌い。二度と顔も見たくない。出て行って! 私達の目の届く範囲から消
えて二度と姿現さないで。声も聞きたくない」

 うあああああああん!

 想いが破裂し飛び散っていた。心が胸にしまいきれず、声が喉を通りきれず、涙が瞼に
抑えきれず。後はもう理屈も何もなく、再度わたしの胸に泣き顔を沈め、唯号泣を響かせ。

 言葉ではなく最早肌身で想いを伝え合う他に術のない、小柄な女の子を胸に抱き留めて、

「夕維……」「飛鷹君。いえ、翔君」

 今日の処は、ここ迄にしましょう。

 わたしの視線に返してきた彼の瞳は、夕維さんを泣かせてしまった事への悔いに揺れて。

「翔君のお話は、確かに伺ったわ。わたしの答は、今この場では返せなくなったけど…」

 後日機会を設けて、しっかりお返事します。

「わたしも夕維さんをたいせつに想っている。夕維さんを傷つけたくない、いつも笑って
いて欲しい想いは同じ。わたしが翔君に伝えたい想いもある。暫く待って。夕維さんが落
ち着く迄、翔君のお話が心に届く様になる迄」

 今は場を外して彼女に落ち着くきっかけを。

「折角夕維さんを想ってお話ししてくれたのに、こんな形で中断させて申し訳ないけど」

 お願いします。夕維さんを抱き留めた侭で深々と頭を下げられず、お辞儀するわたしに、

「分ったよ。それが良さそうだ。その、夕維、悪かった。俺が言いすぎた。羽藤も済まな
かった。本命かどうかは別として、あんたが夕維を大切に想っている事は分ったよ。じ
ゃ」


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 翔君が空き教室を出ても、夕維さんは泣きやまなかった。他の何も受け付けないと、暫
くはこの身の感触以外は要らないと、耳も目も心も閉ざして。わたしは黙って受け止める。

 感情が激してしまえば、大人も老人も幼子に近しい。受け止めて時を待つ他に術もない。
言葉は溢れ出た想いを伝え分って貰うのに無力な様に、溢れ出た想いに伝え分って貰うの
にも無力だった。荒かった呼気と胸の動きが落ち着き始めたのは、昼休みも終り近い頃で。

「ひっ……ひっく、ひ……い……あっ……」

 嗚咽を抱き留めつつ、先週もこうした事を思い返す。夕維さんも激情が鎮まり同じ様を
思い浮べていた。それを促すは制服越しに伝わる温もりか。締め付け合う柔らかな感触か。

 夕維さんと翔君の痴話喧嘩は日常茶飯事だ。家が隣で同じ歳で、学校もずっと同じだっ
た幼なじみは兄妹に近く、些細な事で言い合いしては意地を張り合い、喧嘩しては和解し
て。わたしも含め周囲は気に留めてなかった。常の事だと夕維さんの愚痴を聞いて流し。
でも。

『今回は、違うんだから。私凄く傷ついたの。深く傷つけられたの。翔は絶対、許さな
い』

 頻りに公言したのは、噂にして翔君の耳に入れ、反省を促したかったのかも。他の人の
同情を引き味方にしたかったのかも知れない。結果、夕維さんを慰めようとする人が現れ
た。

 菊池先輩が2組の松下君を介し、一級下の女子と逢う噂を聞いた時、わたしは兆しを感
じた。噂の発信源を感応と関知の力で辿って、今は2組の志保さんに訊ねた処、夕維さん
の依頼で噂を流したと応えてくれた。放課後に菊池先輩と、旧校舎裏の大木の下で逢う旨
を。

『……夕維さん……菊池先輩……飛鷹君…』

 菊池先輩は善意で夕維さんを癒す気だけど、夕維さんに付き合う意思はない。夕維さん
は噂を翔君に聞かせる事で危機感を煽る積りだ。でも菊池先輩は、彼女の真意や事情等知
る筈もないし、聞き容れる人でもない。翔君はその時放課後他校との練習試合で、校外に
いた。夕維さんは勢い任せに、二つ返事でその日の放課後に菊池先輩と会う事を昼過ぎに
承諾し、一番聞いて欲しい人は噂が届く前に不在に…。

 夕維さんは翔君がいう通り、向う見ずだったかも知れない。男子と逢うと耳に入れば嫉
妬心を刺激され、己を取り返しに来てくれる、助けに来てくれる。思惑が先走って危うく
て。

 菊池先輩との関係で行けば、非は夕維さんにある。その気もないのに翔君の気を惹く為
その善意を利用した。女の子の視点で見ても、菊池先輩少し可哀相かも。でもそう言える
のは、わたしがそれを未遂に終らせた故なのか。

『キスするよ。優しく紳士な男の子に、心の傷を癒してくれる人に、唇から癒して貰う』

 自身でそう言い、志保さんにもそう流させた結果、噂は菊池先輩の耳に迄届き、先輩を
更に乗り気にさせた。菊池先輩を知り、夕維さんを知るわたしは、事を捨て置けなかった。

 彼女の言葉は、翔君の反応を求めて言ってみただけだ。でも全ての人がそう分る訳では
ない。彼女は翔君が割って入って止めると信じた侭、旧校舎裏の大木の下に行ってしまい。

『僕が慰めてあげる。君の心の傷を僕が癒す。大変な目にあった様だね。でも、もう大丈
夫。これからは、しっかり僕が庇い守るから…』

『せ、せんぱい……あ、あの、ですね……』

 夕維さんは何の覚悟も想定もしてなかった。
 夕維さんはこの先の収拾も考えてなかった。
 やる事だけやって、私を助けてと己を抛り。

『本当に僕で、良いんだね? この僕で…』

 菊池先輩はわたしへの時もそうだった様に、最後迄相手の意思を尊ぶ紳士だった。彼自
身の前提は変らなかったけど、同時に彼の相手の意思を尊ぶ処も不変だった。だから直前
でも夕維さんが確かに己の意思で断っていれば。

『わ、わ、私、その……』『良いのかい?』
『あ、あ、あの、私……』『大丈夫かな?』

 今更ながら事の重大さに身が震え、まともな受け答えが出来ず困惑し。その気持も分ら
ないではないけど、確かな答を返さずに現実逃避に身を固くして、動かずに瞳を閉ざせば、

『良いんだね……?』

 了承だと受け取るのも妥当な処か。今迄の経緯があり、彼女はキスを望んでいると先輩
も想っている。逃げない以上、拒まない以上、ここ迄来れば明言して嫌わない限り承諾だ
と。

【いやっ……、怖い……誰か、助けて…!】

 これはもう感応の力がなければ分れない。
 幼なじみでもなければ永遠に読解不能だ。

 望んで求め公言した口づけを、本当は止めて欲しくてされたくなくて泣きたい程に嫌で、
でも、そうと言う事さえ出来ないで硬直して。

『待って下さい、菊池先輩』

 限りなく人の恋路の邪魔に近い展開だった。夕刻には羽様のお屋敷で、豆腐の角をしみ
じみと眺めて感慨に耽った。結果的に、夕維さんの本意ではない唇の喪失を防ぎ、菊池先
輩に冤罪に近い叱責が及ぶのを止めたのだけど。

『羽藤、さん……?』『羽藤、お前、何で』

 周囲に他の視線が隠れ潜む事も承知だった。夕維さんは翔君に知らせに噂を流しまくっ
た。ここに踏み込む事は己も噂の中に置く。でも、

『夕維さんは先輩とのキスを望んでいません。勢いでここ迄来てしまったけど、引っ込み
着かなくなっただけで、彼女の想い人は別にいるんです。見せつけたかっただけなんで
す』

 この侭キスされた後で彼女が悔いて哀しむ像も視えたから。菊池先輩が善意にも関らず
加害者扱いされて中傷される姿も視えたから。翔君と夕維さんの苦味が瞼の裏に視えたか
ら。

『お前、白川の気持が分るのか。一言も口にしてないのに。そんな彼女の気持が分るのか。
彼女は、深く傷ついたと言っていたのに…』

 菊池先輩との関係が微妙なわたしは、2人の恋路を阻む邪魔者に映ったのかも知れない。
夕維さんより、菊池先輩に絡んでいると見られかねない状況だった。疑念を払拭するには、
夕維さんの想いを示して貰う事が必須だった。

『夕維さんは望まない人のキスに怯えています。身の震えは緊張ではなく後悔の為です』

 証拠を、お見せした方が、宜しいですか?

 わたしは菊池先輩から引き離した夕維さんに寄り添い、華奢で小柄な細身を抱き留めて。
それで充分だった。夕維さんはわたしの胸の内に顔を擦りつけて、瞳から涙を零し始めた。

『ひっ……ひっく、ひ……い……あっ……』
『遅くなって、ごめんなさいね。夕維さん』

 本当は翔君が為すべきだけど。夕維さんもそう望んでいたに違いないけど。今は菊池先
輩の納得を貰う為に。キス寸前のこの震えが、緊張ではなく怯えである事を示す為に。他
の誰かに身を委ね安心する夕維さんの姿を見せ。

『こういう事です、菊池先輩』

 夕維さんが先輩の求めに応じてしまった事は過ちです。想い人の気持を引っ張ろうと先
輩を使った事は彼女の罪です。ごめんなさい。

 でも今彼女は先輩の助けを欲していません。先輩のキスで心の傷を癒されたいと言った
のは偽りです。想い人に妨げて貰いたくて噂に流しただけです。それを明かせなかったの
も、素直に謝れなかったのも彼女の過ちだけど…。

『お願い。夕維さんの気持を分ってあげて』
『僕には、白川も救う事が出来ないんだね』

 泣き崩れる夕維さんを受け止めて、柔らかな感触と温もりに絡みつかれ、暫く身動きも
叶わず。その様を前に、菊池先輩は苦い表情で尚紳士的に引き下がってくれた。去り際に、

『ところで白川の想い人って、誰なんだ?』

 その問に、想いが溢れ返り喉も胸も詰まっていた夕維さんは、震える声を漸く絞り出し、

『柚明さん……』

 翔君ではなくわたしの名を告げ。それが先週に始る彼女との濃い関りと噂の起点だった。
翌日、一件を知った翔君が彼女を問い質すと、夕維さんは彼の不在を責めて改めて絶交を
告げ、その足でわたしの胸に飛び込んで。涙混じりにわたしを好きとみんなの前で言い切
り、以降わたしの傍にぴったり寄り添う様になり。

 教室で椅子に座ったわたしの前に崩れ掛り、見上げて顔を近づける様に、キスの意図を
感じてわたしは、逆に抱き留めて頬に頬寄せた。それも周囲には刺激だっただろうけど、
本当に夕維さんは後先考えない。その侭にしたら、彼女は翔君への当てつけでわたしに口
付けた。わたしが良くても彼女が後に悔い残す。拒んでも彼女は号泣して憤りを炸裂させ
るだけだ。

 できた事は前日の如く唯夕維さんの身を抱き留めて、心を受け止める事だけで。今も又、

「柚明さんがいてくれたら、私は翔なんて要らない。男の子なんて要らないよ」「……」

 お願い。ずっと私を離さないで。ずっと。

 気易く頷けはしない。翔君の話しは誤解もあるけど、真実も含んでいる。慕ってくれる
気持が分るから、わたしの言葉に重みが宿るから、軽々に諾否を返せない。唯抱き留めて、
気持は受け止めたいせつに想う心は返すけど。

 5時間目が始まる直前、人気の失せた旧校舎にわたし達を心配して見に来てくれたのは、

「あさまつ、さん?」「あ、白川さん……」

 泣き疲れた夕維さんが振り返った処で、教室の入口に姿を見せた利香さんと視線が合う。
奪いに来たのかという感じで見つめる夕維さんに、後発の弱味か大人しい気性の故か利香
さんは引っ込み思案に口をすぼめ瞳を俯かせ。

 誰もいない一室で女の子が2人抱き合って、片方が泣きじゃくっているというのは、見
る人にはどんな印象を与えるのだろう。言葉のない世界に、わたしは敢て言葉を割り込ま
せ、

「利香さん、ごめんなさい」

 お昼休みの約束を守れなくて。それに加え、

「きちんとそれをあなたに説明にも謝りにも行けなかった。……放課後には時間作るから、
必ずあなたの悩みにはわたしが応えるから」

 今少しだけ、待っていて欲しいの。

 夕維さんがわたしの胸に再度顔を埋める。
 利香さんは遠慮がちに表情がやや硬い侭、

「うん……待っているね……」「有り難う」

 利香さんが歩み去るのと同時に、五時間目の始業を告げるベルが響く。未だ夕維さんの
涙は乾き終えてないけど、わたしは頬に残る涙の筋を撫で付けつつ拭い取り、彼女に教室
へ戻ろうと促し。子供付き合いは中々難しい。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「本当に柚明ちゃんは人が良いというか…」

 真弓さんの呆れた声が、羽藤家のちゃぶ台の上に力なく落ちる。笑子おばあさんも正樹
さんも終始表情が穏やかなのは、ここ迄のお話しが日常報告で特段問題でもない為だけど。

 先週の一件は当日夕刻に話したし、以降の夕維さんのわたしへの密着もある程度伝えた。
今日は翔君が正面からお話しを振ってきた為、それと夕維さんの絡みも話すべきだと考え
て。

「まあ、今の処は柚明ちゃんの判断に任せて構わないと思う。子供の世界の話の様だし」

 正樹さんの答は当面問題ないと。去年の塩原先輩の時の様な深刻さはなく、多くの絡み
が女の子となので、真弓さんも見守る姿勢で。翔君も、わたしに想いを寄せた訳ではない
し。

「問題は朝松さんの方だね、柚明」「はい」

 それ迄微笑みを浮べた侭、黙して聞き役に徹していた笑子おばあさんが口を開いたのは、
放課後受けた利香さんからの相談についてで。

 和泉さんも含め放課後、旧校舎二階の日が眩しい空き教室で、机を挟み座って向き合い、

『お願い。わたしを助けて。わたし怖い…』

 利香さんの相談は『視える』事についてだった。人ならざる者達や、かつて生きていた
けどもう生きてない者達の朧な霊が、視える。視えてしまい、聞えてしまい、感じてしま
う。

 実体のない霊体の鬼だけど、敢て応対が要らない程の、悪さも出来ぬ弱小な物だ。視え
る人は自宅でも見かける雑多な霊体の欠片達。

 強い恨みや悪意を抱いても、生きた人に訴えかけて認知させ、何か為せる霊等多くない。
生者に熊や獅子を打ち倒す武道家がいる様に、生者を呪い殺す死者も皆無ではないけど。
唯稀に視える資質を持つ人がいて、当人に害を為せない希薄な霊体でも視てしまう事があ
る。

『今年の春からなの。それ迄も夜は多少視えたり感じたけど、目を逸らしたり朝になれば、
視えなくなっていた。でも最近は。目を向ければどの方角にも視える。昼も日陰や暗がり
に潜むと分る。身近に澱む気配が視えるの』

 抑えられない。わたしもう、怖くて怖くて。

『わたしおかしい? わたしだけにしか視えてないの? 全部ない物を視た錯覚なの?』

 どっちでも怖い。誰にも視えない物を1人だけ視ているのでも、本当はない物を1人だ
け視た積りになっているのでも。わたし病気? わたし異常? わたしみんなと違う?

 幼い頃もわたしは何もない所に何かを視ていたって、お母さんは。幼いわたしは怯える
事も知らず、知らない誰かとお話していたみたい。でも今のわたしは常識人。現代社会と
科学文明を生きる一般人なの。虚空に浮ぶ首とか、半透明な姿とか、顔の形をした煙とか。

 視ちゃいけない物なの。いちゃ駄目なの。
 そういう物をわたし視たくない。助けて!

『普通でいたい。普通でいさせて。わたし』

 脇の和泉さんがここ迄来て見せた苦味を察し、一瞬だけわたしは視線を向けて、大丈夫
だよと、無言で頷いて伝えてから向き直ると、

『利香さんのお母さんやお父さんはどう?』

 落ち着かせる意味も兼ね家族の状況を問う。人は分らない事に直面すると不安が増し、
分る事に心を向けると怖れが鎮まる。視える体質は贄の血と似て血筋に宿る力の発現であ
る率が高い。家庭環境も含め話を聞きたかった。

『お父さんはそういう物は視えない人で、全然信じてくれないの。全部気の所為だって…。
 お母さんに相談したら、お母さんは学生時代に一時期視える様になったって。気をしっ
かり持てば、直接何かして来る物ではないし、その内に収まるから気長に待ちなさいっ
て』

 今は視えないし聞えもしないから、あなたもその内通り過ぎるわ。大人になる途中でぶ
つかる、一つの肝試しみたいな物かしらねと。

『母方のお祖母ちゃんはかなり視える人だったみたい。お母さんはその傍にいたから馴れ
ていて、わたし驚いちゃった。恐がりもせず、犬猫が庭に迷い込んだ様に応えるんだも
の』

 視える人『だった』という過去形なのは…。

『他の人は信じてくれないし、唯一信じてくれるお母さんは今は視えなくて、その内視え
なくなるからって気長に構えているけど…』

 わたしが視ているのは、お母さんが昔視ていた物とも違うみたい。数も形も雰囲気も聞
いたお話しと違うの。お母さんは昼に視た事はないって。わたし昼にも視える。教室でも、
グラウンドでも、この場でも。暗がりや部屋の隅に蠢く影が今この時も。ゆめいさん視え
ている? 感じている? わたしおかしい?

 縋り付く問にわたしは首を左右に振って、

『おかしくないわ。わたしも毎日視ている』

 わたしの平静な答に、むしろ和泉さんが口に手を当てて声を抑え。和泉さんはそう言う
事に縁遠い人だから。全く視えない人だから。わたし達の話を妨げない様に息を止める前
で、

『仮におかしくてもわたしが一緒。だから安心して良い。あなたは決して1人じゃない』

 震える肩を抱き留めて、震える心を受け留めて。机を退けて、身を乗り出し、利香さん
の細い身を両の腕に包み込み、頬に頬寄せて。

『最悪でもわたしがいる。羽藤柚明がいる』

 暗闇に1人残された寂しい心に暖かみを。
 不安に1人落された怯えに確かな感触を。

『誰がいなくなってもわたしだけはいるよ』

 温もりと肌触りで想いを浸透させて行く。

「柚明には全景が俯瞰できている様だね…」

 おばあさんの問いかけにわたしは頷いて、

「大凡は見通せた積りです。わたしの対処で見落しがないかどうかを、見て頂きたくて」

 贄の血の力の行使も、徐々に解禁され始めている。事後報告は必須だけど、行使の判断
は昨年秋からわたしに委ねられていた。慎重を要するのは当然だけど、必要な時には……。

「まずは最後迄、お話しして頂戴」「はい」

『あなたは、お母さんより感覚が鋭いのね』

 利香さんの話を通じ、わたしは利香さんの力の程度も、そのお母さんやお祖母さんの力
の程も推察できた。利香さんが視ている物は、彼女の母が一時期視た物より鮮やかで数多
い。

 この左頬に左頬を当てた侭の利香さんに、

『わたしを相談相手に選んだ理由も教えて』

『あなたが羽藤だから。生前お祖母ちゃんが、幼いわたしが視えすぎて困るなら羽藤に相
談しようかと話していたのを、夢に思い出して。お祖母ちゃんの導きかもって。それに、
ゆめいさんの周囲に月明りの様な青が視えたの』

 心の乱れを鎮める穏やかな色合だったから。
 羽藤はオハシラ様のお祭りを司る古い血筋。
 雑多に視える者達を何とかして貰えそうで。

【かつて羽藤が地域で尊崇を受けていたのは、地主で旧家と言う以上に、贄の血の力で医
療やお祓いに似た事をしていた為なのかも…】

『そしてゆめいさんがみんなに優しく、どんな無理な求めにも、心を尽くす人だったから。
時には危険や困難も踏み越えて、誰かを守り庇う人だったから。今迄付き合いないわたし
がそうして貰えるかどうか不安だったけど』

 だから同じ2組の和泉さんを通じてお話を。

『こんな事、仲の良いお友達でも相談できるかどうか怪しいけど。逢っていきなり視えて
困るのなんて、絶対まともじゃないけど…』

 ゆめいさんに救いが視えたの。ゆめいさんに逢えなかったら、わたし本当にどうかなっ
ていた。物音一つに心が縮む、そよ風一つに身が震える。常に胸がざわめいて収まらない。

『助けて。わたしをこの怯えから解放して』

 霊を視えちゃうこの体質を何とか直して。
 わたしを普通の女の子に戻して。お願い。
 普通じゃないのは嫌、怖いの、気持悪い。

 わたしの背に、両の腕を回してしがみつく。逃がさないと、逃げないでと、1人にしな
いでと。幼子が父や母を求める如き、何もかも注いだ信頼に、わたしは確かに応えて頷い
て、

『大丈夫。相談して貰えた今からあなたは大丈夫。朝松利香は羽藤柚明が守る。あなたは
わたしのたいせつな人。身も心も尽くすわ』

 彼女の肌を通じ魂に血の力を注ぐ。何をしているかは分らないだろうけど、暖かみは伝
播する。傷ついてはいないけど、心の疲れを癒す為に。彼女を想うわたしの心を注ぎ込む。

 和泉さんの前だったけど、暫く身も心も抱き包む。何分位経っただろう。西日が目線に
眩しく、利香さんの息遣いが穏やかになった頃に、ゆっくり身を離してその瞳を覗き込み、

『周りを見回してみて。未だ何か視える?』
『……視えない。いないの? ……違う…』

 一つもいないなんて。さっき迄いたのに。

 利香さんは、眉を潜めて空き教室の片隅を、特に陽の光の当たらない日陰を凝視するけ
ど、

『昼でも暗がりに視えたり聞えたりした物が、全く感じない。さっき迄、ついさっき迄こ
の目に映っていたのに。わたし治ったの…?』

 わたし普通に戻れたの? わたしまとも?

 わたしは利香さんの言葉を応も否も応えず、柔らかなショートの髪に両手を伸ばして触
れ、

『視えなくなった?』『うん……、それに』

 何か、身体がぽかぽか暖かい。西日に当たっている所為かも知れないけど、風邪を引い
た時の寒気の熱じゃなくて、お風呂に入った時みたいな、赤ん坊の肌に触った様な、これ。

『ゆめいさんのお陰? ゆめいさんの力?』

 ゆめいさん何かして、わたしを視えなく?

 説明を求める視線にわたしは微笑みかけ、

『あなたが視えなくなったのは、あなたの視たくないという意思が、正しく働いたから』

 両耳の上辺りのショートの黒髪を両の手で、埃を払い落す様な仕草の後で軽く撫でつけ
て、

『落ち着けば、心も乱されなくなるわ。利香さんのお母さんも今は視えないんでしょう?
 利香さんも望めばそうなれる。大丈夫よ』

 髪から両の手を放し、その両肩を軽く抑え、

『感じない事を確かめる必要はない。澱みそうな処に意識して視線を向ける事も。何か聞
えた気がしても引きずらないで。何か確かな別の物事に気を向けて。趣味とか恋とか…』

 熱中できる事があれば、無我夢中でいれば、その内自然と視えなくなっている。わたし
が、

『暫く付き合うから』『……ゆめいさん…』

 視える視えないより、利香さんが揺らがされない強い落ち着きを保つ事が大切よ。何を
するよりも、まずお話しして互いの想いを繋ぎましょう。信頼は、人の心を安定させるわ。

 今後暫くこうして一緒に時を過ごしたいの。利香さんの事を教えて欲しい。利香さんの
お父さんの事、お母さんの事、お祖母さんの事。

『あなたの涙だけじゃなく、笑顔を見たい』

 わたしは再度その身を両腕に包み、その心をも包み。熱い涙を心臓に受け、互いに暫く
身動きも叶わず。西日より恥じらいより心地良さに頬を染め、わたし達は尚暫くを過ごす。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 視えるというのは、霊との感応の一形態で、互いの波長が合った状態だ。人は普通視え
る様に集中し、心や力を研ぎ澄まし、己をその状態に持っていかなければ視えないけど。
稀にそうせずとも力が発現してしまう事がある。修練がないので多く本人も制御出来ない
けど。

 森に慣れた人が遠くから山菜を雑草と見分けられる様に。牧場主が他の人には違いの見
えない牛や山羊の一頭一頭を区別できる様に。みんなが惑う双子の幼子を白花ちゃんと桂
ちゃんとわたしが一目見て呼び分けられる様に。通常は素養を活かす習熟が要るけど、稀
に偶々視える状態になり、それが固定される事も。

 利香さんの状態は、その偶々の固定だった。
 力の操りには、心の浮沈が大きく作用する。
 幼児期や思春期は、まだ心が安定してない。

 わたしも安定したとは言えない状態だけど、修練の成果は大きかった。力に心が振り回
されるのではなく、想いで力を司る事を学んで。

「柚明ちゃんの感応の力で、朝松さんの制御できない力を操って、視えない様にした?」

 真弓さんの確認に、はいとわたしは頷いて、

「操るというよりも、身に触れて心に触れて、強ばりを血の力でほぐして戻した感じで
す」

 利香さんは外傷もないので、癒しを流し込まれても証しは残りません。赤ん坊の肌の様
な暖かみの流入は、感じていた様です。でも、

「今尚、利香さんは霊に波長が合い易い状態、視え易い状態にあります。処置しても、日
々の在り方が作った彼女の根は簡単に変らない。今の侭では数日で視える状態に戻ってし
まう。彼女を視えにくい状態、視えない事が自然な状態にするには、継続した処置が必要
です」

 毎日少しずつでも関って力を注ぎ、小刻みに修正しつつ、彼女が望む状態に固定させる。

「お話をしたいと言うのは、信頼を繋ぐ為であり、状況を聞き出す為であり、それを名目
に逢って触れて、力を流し込む為でもあると。処置と言わぬ内に処置が進んで行く訳だ
ね」

 笑子おばあさんの確認にわたしは頷いて、

「視える事や心霊を彼女は異常と思い、自身のそれも人に知られたくないと望んでいます。
力の噂が漏れ出す怖れは薄いと考えました」

 利香さんは微かでも羽藤の話を聞いています。わたしの力も視ています。わたしは力を
持つ者として相談に応じました。全て隠すのは不適当です。唯羽藤の話を微かに知る位の
利香さんには、贄の血の話はしない積りです。

【誰にでも全て話せる訳ではないの。その人との間だけで留めておくべきお話しもある】

 和泉さんや真沙美さんの時と違う。無闇に他者を巻き込むべきではない。鬼を呼ぶ贄の
血の定めは、知った者が重荷に感じかねない。

「利香さんは普通の人生を望んでいます。普通ではない話を伝える事は、無意味な以上に
彼女の心を乱します。わたしも普通ではない関りを持つのは事の解決迄に限る積りです」

 事の解決に際しても極力普通の関りを装う。
 嘘をつく訳ではないけど事を全て伝えない。
 彼女は全て視える事を望んでないのだから。

 無理に全て視ろと強いるのが酷な時もある。
 誰かがそれを望まないならわたしが代りに。

「成功して報われない事も得心済みかね?」

 はい。迷いなく即答で最短の返事を返す。

 それ以上修飾も不要だった。笑子おばあさんの問も承知で、わたしは利香さんに関った。
彼女の縋る手を取り、支え助ける己を選んだ。たいせつな人を、守り助けたいわたしの想
いの侭に。身を尽くす事がわたしの正解だから。

 おばあさんはわたしの答にやや困り顔で、

「あなたの想う様にやってみなさい、柚明」
「有り難うございます」

 深々と頭を下げて感謝を表すのに、隣で桂ちゃんと白花ちゃんがわたしを真似て深々と。

「桂ちゃんと白花ちゃんが頭を下げる事は」
「感謝を表す姿勢を憶える事は、良い事さ」

 正樹さんは間近の白花ちゃんの頭を撫で、

「心を込めたい時に姿勢が身についていれば、想いを伝え易く分って貰い易い。形から入
るというのは、そう言う事でもあるからね…」

「そう言えば柚明は今週金曜から、学年全員で海沿いの街に、お泊りだったね」「はい」

 笑子おばあさんが微かに感じる懸念は分る。

「心の不安定な人は、普通の人や通常時より、周囲の環境に大きく左右されます。利香さ
ん、曰く付きの公園や旅館で妙な物を拾ったりしなければ良いけど。前後数日は力を強め
に注いで目を配り、過ちがない様に努めます。わたしも一緒なので、何かあれば即応しま
す」

 浮遊霊や地縛霊は怖くない。それを視たり感じたりして、恐慌を来した人の行動が怖い。
彼らの多くは何も出来ない想いの欠片だ。彼らが悪さをして人を破滅に導けるのは、怖れ
や嫉妬や罪悪感を煽って、その冷静さを失わせる故だ。車の運転を誤ったり、刃物の扱い
を間違えたり、階段で足を踏み外したりと…。

 弱い者は、正面から襲い掛ったりはしない。側面や背面を突き、弱点を探り、守り難い
処から中を掻き回す。対処できない状況を作り、誘い込む。罠にかける。常に使われる宿
なら問題ないと想うけど。故郷を離れる以上一定の危険は覚悟せねば。未知の地は異境異
界だ。

 わたしの答に笑子おばあさんも正樹さんも了承を顔に示す。中学校の宿泊交流に大きな
危険や困難はない筈だ。子供に旅をさせる位の信は貰えて自然かも知れないけど。問題は、

「あなた自身が、贄の血の持ち主である事を忘れないで。あなたの流した血が、化外の者
達に力を与えてしまう怖れもあるという事を。
 それと……悪い虫にもしっかり用心して」

 真弓さんの懸念はむしろそっちの方かも。
 正樹さんと笑子おばあさんは苦笑気味で、

「気をつけて行ってらっしゃいな」「はい」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 そう言う訳で今週は、特に綿密に利香さんに添って力を注ぐ必要がある。週末を一つの
山場と考えて事前に用意周到に。その前段に、夕維さんの納得を確かに取り付けなければ
…。

「柚明さん、今日も行っちゃうの」「ええ」

 毎日逢わねばならない事は既に伝えたけど、それでもその場に至ると引き留めたい想い
が兆す夕維さんに、その必要を聞き分けて貰いたくて、瞳を覗き手に手を取ってお願いす
る。

 桂ちゃんと白花ちゃんにも、朝の離別前にわたしの想いを、頬を合わせ伝えて分って貰
うのは日課だったけど、学校でも夕維さん相手に、それは放課後の日課になりつつあって。

 翔君とはあれからお話の機会を持ててない。必要は感じていたけど、夕維さんがほぼ一
日中寄り添って、明言して拒むのでお話しに行けなかった。利香さんに添う事の了承も漸
くなのに、翔君と逢う事の了承迄は今は無理だ。

「どうして柚明さん、あんな奴と逢いたがるの? あんな酷い事言っていたのに。デリカ
シーの欠片もない奴なのに。私を、私を…」

 柚明さんから引き離そうとした奴なのに!
 逢う必要なんてない。話なんて要らない。

 周囲には複数男女もいたけど、感極まった瞳には誰も映ってない。翔君の言う通り周囲
が見えておらず、本当は覚悟もない夕維さんが、無自覚に深みに踏み込む様は心配だった
けど。でも今暫くは、傷口に触れるのは拙い。

 心を鎮めようと揺れる両肩を軽く抑えるわたしに、夕維さんは進み出て両手をわたしの
脇から背に回し、正面から顔を胸に深く埋め。拒まず逃げず、わたしも両手をその背に回
す。少し小さなその身は興奮に肩や胸を揺らす程息が荒く、熱気を帯びて小動物の様に可
愛い。

「私を見て。翔じゃなく、私を見て感じて」

 あんな奴に逢わないで。逢っちゃダメっ。
 私が柚明さんを翔から隔てて守っちゃう。
 嫌うと言うより怯えを思わせる真剣さは、

『柚明さんを、翔に取られそう。取られたくない。柚明さんは、私の想い人。でも柚明さ
んは女の子だから、やっぱり男の子の方が良いのかな……でも、私はイヤ。翔と柚明さん
が結ばれたら、私だけ取り残されちゃうよ』

 潤む瞳に視て取れた。声の裏に聞き取れた。震える肌に感じ取れた。夕維さんはわたし
が翔君に抱いた好意を察している。幼なじみを真剣に心配する翔君をわたしは嫌いではな
い。その好意が恋に変りかねないと怖れ忌み嫌い。でもそれはわたしと言うより翔君への
想い…。

「私だけの想い人でいて。私だけを見てっ」

 朝松さんや金田さんの相談も、受けないで。

 柚明さんの全部を私の為に費やして。
 私だけを愛し、私の愛だけを受けて。

 他の人の愛は受けなくて良い、受けないで。

 周囲の男女の硬直した視線も目に入らずに、

「私だけを愛して。私だけを、私だけを!」

 愛しい嵐を、わたしは拒まず抱き留めて、

「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 嬉しい。諸々の事情はあっても、寄せられる強い想いは身に余る幸せだ。わたしが噂を
承知でこの腕を解かないのは、拒まないのは、それが夕維さんの心を乱し暴走を招く以上
に、嬉しかった為で。大切な人に好いて貰える程に嬉しい事はない。その嬉しさを噛み締
めて、

「でも、わたしのたいせつな人は1人ではないの。ごめんなさい。あなただけに返す事は
叶わない。一生懸命返すけど、叶う限り尽くすけど。和泉さんも真沙美さんも、歌織さん
も早苗さんも利香さんも全てたいせつな人」

 困って苦しんでいる姿を捨てては置けない。頼まれて応えない事を、己に許せないの。
誰かだけに絞れない。他の人を想わない訳には。わたしは、みんなに笑顔でいて欲しいか
ら…。

 他の人を気遣っていては夕維さんの熱情に打ち負かされる。自身の想いをしっかり紡ぎ、
周囲の人の心の起伏は放置して。今は胸の内から首をもたげた夕維さんの涙目を正視する。

「夕維さんはわたしのたいせつな人。だから、想いの限りを注ぐけど。ごめんなさい。他
の人に抱くわたしの想いが、あなたを傷つけるなら。わたしの行いが、あなたを哀しませ
るなら。それは紛れもなくわたしの所為だから。応えられる限り、わたしがこの身で償う
わ」

「……本当? ……本当に、ほんとう…?」

 見上げた瞳は信じたい心を宿しつつ揺れ。
 静かに、でも迷いなく頷き返すわたしに、

「確かめさせて。柚明さんの想いの本当を」

 わたしの両の胸の膨らみに両手を添えて、

「私を本当に、たいせつに想っている…?」

「ええ、間違いなく。あなたはわたしの…」

 声が詰まるのは、わたしの乳房を制服越しに掴んだ細い手に、意思と力が籠もったから。
サクヤさんには遠く及ばないけど、しっかり掴まれればそれなりに動き、感触もあるから。

「……たいせつな人よ、夕維さん。ふぅ…」

 気恥ずかしさに声は揺れたけど、逃げず拒まず受け止める。驚きに硬直していたのかも
知れない。平常心も吐息も乱されて。周囲の反応を見る迄もなく、頬は朱に染まっていた。

 小作りな両手はわたしの両の胸をむにっと掴んで離さずに、周囲の視線も引っ張り寄せ
て離さずに。でもそれを為す夕維さんに、微かな怯えが視えたから。自身が愛されている
か否かを信じられない怯えが可愛い。拒む気にも隔てる気にも、叱る気にもなれなかった。

「逃げないの? 振り解かないの? 嫌がらないの? 気持ち悪いって、隔てないの?」

 みんなの前でえっちな事したよ。女の子の胸を掴んで辱めたよ。私例え好きな人にでも、
みんなの前でこんな事されたら恥ずかしくて逃げ出すよ。泣き出すよ。頬を引っぱたくよ。

 言い募る見上げた目線の怯えを覗き込み、

「わたしは、夕維さんになら、大丈夫よ…」

 間違いなくあなたはわたしのたいせつな人。
 わたしはあなたを心底たいせつに想うから。
 その怯えも確かに受け止めて、想いを返す。

「誰でも何でも受け容れる訳じゃない。でも、あなたにこうさせたのはわたしなの。わた
しが確かな信を与えてないから、あなたが揺れる。あなたが怯える。夕維さんは悪くな
い」

 夕維さんのこれは、愛情の確認だ。子供が悪戯をして叱られたがる様な。反応を呼ぶ事
で愛を確かめ、心の飢えを満たす。翔君の反応を欲して、菊池先輩とのキスを招いた様に。

 本当なら強く叱りつけるべきかも知れないけど。人前を考えなさいとか想いの伝え方を
選びなさいとか、諭すべきかも知れないけど。それは心鎮めてから。今は心をまず安らげ
る。

 両の胸を鷲づかみにしたその手を外さずに、背に回した両腕に力を込めて強く抱き締め
る。

「わたしの想いは確かめられた?」「……」
「足りないなら、未だ良いのよ?」「…!」
「あなたには分って貰いたいから」「っ!」

 言葉を紡ぐ度に肺が動き、夕維さんの手に感触が伝播する。わたしが感じるのと同じ感
触が、同時に2つの掌から伝い行く。夕維さんも流石に身も心も視線も硬直し、時が止ま
って。見開かれた瞳をわたしは間近に正視し、

「わたしはたいせつな人が必要としてくれるなら、いつでも誰にも想いの限りを注ぎたい。
身も心も尽くしたい。己を捧げたい。夕維さんの本心からの望みならわたしは拒まない」

 本当に必要なら、いつでも力になる。支え助ける。使って欲しい。わたしは役に立てる
事を幸せに思うから。だから、その想いを他のたいせつな人に注ぐ事も、許して欲しいの。
わたしを悩みを打ち明けて、相談してくれるたいせつな人に、想いの限りを届かせたいの。

「お願い。わたしの我が侭を、許して……」

 両の胸から外れた拾本の指が、背中に回る。無言で涙を流し続ける夕維さんを抱き留め
て、わたしは和泉さんと利香さんを迎える迄教室内で、寄り添われた侭衆目の中で支え続
けて。

「白川も白川だけど、柚明も本当に誤解され易い行動を取るから。この組み合わせは…」

 真沙美さんの声は、妙に気が抜けていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「相当お熱い処、失礼しますっ」「はい…」

 利香さんは夕維さんとの抱擁を前に声をかける事を躊躇った様だけど、脇の和泉さんは
気にせず終りと始りを告げてくれた。夕維さんとの関りは、利香さんとの関りが始る迄だ。

 心底の納得ではないけど、当面了承を貰えた夕維さんの前を外し、3人で旧校舎に行く。
状況を覗きに来る人も出ると思ったけど和泉さんが目を光らせ阻んでくれた。と言うより、

「あたしはもう外しても、良いでしょ…?」

 元々リカをゆめいさんに引き合わせる役で、ここ迄来てしまうと教室でゆめいさんの後
ろ髪引く白川さん向けの安全装置で。あたしは視えもしないから、傍にいても力になれな
い。

「部活も何日か犠牲にさせてしまったものね。ごめんなさいね」「……良いの? その
…」

 利香さんはわたしの即座の受容と見送る姿勢に、少し戸惑いを感じた様で口籠もりつつ、

「その、まるで用が済んだら終りみたいな」

 彼女は微かに和泉さんに残って貰いたいと望んでいた様だけど、わたしとの2人きりを
微妙に避けたく感じた様だけど。和泉さんは、様々な申し訳なさを弱気に見せる利香さん
に、

「気にしないで良いよ。じゃ、ごゆっくり」

 歩み去る彼女の本音は微妙に違う。和泉さんの退場は役に立てない故ではなく、役を終
えた故でもなく。演劇部に戻る以上に、2人きりの場を作る以上に、見るに見かねての…。

 そんな和泉さんが空き教室の戸口を出た処で足を止めたのは、彼女に正面から問う声が、

『どういう事? あなたが外したら、朝松さんが柚明さんと2人きりになっちゃう。2人
きりにならないって言うから、私信じて…』

『どういう事はこっちの台詞よ。あなたゆめいさんを信じて見送ったのではなくて? 約
束破って覗き見ると鶴の恩返しを見るわよ』

 和泉さんの問い返しに夕維さんが詰まった。
 後ろ暗い行いだと夕維さんは自覚している。
 それでも溢れる想いに引きずられた彼女に、

『あたしはあなたの様な覗き屋さんがいると困るから、様子を窺いに来たの。ゆめいさん
には言わないから、ここで引き返しなさい』

 未だ邪魔になってないので、約束は破れてない。妨げられ、未だ約束は破れてないと逃
げ道を示され、夕維さんは漸く不満顔ながら引き返す。そうでなければ、3人の場に夕維
さんは踏み込んで来た。入り込みたい想いを抑えられなかった。和泉さんが先に抜け出て、
夕維さんにあそこ迄問い返してくれて、漸く。助かった。でも、和泉さんのやや苦い呟き
は、

【ゆめいさんは多分、あたしが言わなくても事は悟ると想うけど。知って尚知らない顔で
通しそう。ゆめいさんは、優しすぎるから】

 和泉さんには、わたしも肌触れ合わせ伝えねばならぬ想いはあったけど。でも今は目の
前の人に注ぐ想いを優先し。和泉さんに助けられ夕維さんに空けて貰えたこの機を逃さず。

「加減は良いみたい。視えないでしょう?」
「ありがとう、わたし今とても晴れやかよ」

 暫くぶりに全く視えないの。何もいないの。心が何者にも乱されず、聞えも感じもしな
い。わたし戻ったの。普通に戻れたの。治ったの。

 利香さんは前回と違い、わたしの手を取ろうとしない。己の両手を胸の前で組み合わせ、
気持良く謝意を返すけど、触れ合いを意識して望まず求めず。これで終りねという願いが
窺えた。もうあの状態に戻らないと保証して、完治を告げてと、それで終れると。視線は
わたしではなくわたしの完治の告知の向う側を。

「気の所為だと、利香さんのお父さんが言っていた様だけど、それは半分当たりなの…」

 でも、わたしは彼女の望む答を返せない。

 彼女は未だ安定してないし、前回のあれは利香さんの恐慌を避ける応急処置だ。彼女が
どうなりたいかをきちんと判断する前に、恒久処置は出来ない。深手を負った患者が激痛
の余り『殺して、死なせて!』を口にしても、その侭受けては大変だ。冷静な時に判断材
料と知識を持たせ、自身がどうありたいかを考えて貰い、答を頂く。インフォームドコン
セントが大切なのは、医療の世界だけではない。

「利香さんは、霊の類の視えない状況を探し求める一心で、視たくない一心で逆に不要な
程目を懲らしていた。視えない事を確かめたくて、視える迄己を凝視に追い立てていた」

 全身が聞こうとし、視ようとし、嗅ぎ取ろうとし。綿密に探り続けるに近い状態だった。
素養があれば、そうする内にいつかは視える。あなたの血筋には視える力が眠っているけ
ど、それを目覚めさせたのは利香さんの意志なの。

「自身の実情を知らないと今後も同じ事を繰り返しかねない。本当に安心したく望むなら、
煩わしくてももう少しわたしに付き合って」

 今日即解放がある訳ではないと知って、落胆の色が目に視える。溢れ出ていた昂揚と感
謝が萎んで引いて、微かな疑念と不安に代り。微かにその身が後ずさる。良くない答を口
にしそうなわたしが、良くない兆しに映るのか。

「わたしの、意思? そんな、わたし……」

「日によっては余り視えない日もあった筈よ。でも視えない事に安心したくて、学校でも
家でも通学路でも、隅々迄念入りに眺め続けていると、再びだんだん視えてこなかっ
た?」

 心当たりがあった様で、微かな震えがその身を包む。再び視えてしまうのかと、聞えて
感じてしまうのかと、両腕で己を抱く彼女に、

「大丈夫。暫くわたしがこうして添うから」

 わたしは、座った侭己を抱き、震えて心を閉ざす利香さんを、静かに立って背後に回り、
左右の腕で包み込んで軽く抱き留めて。利香さんの身体には、瞬時怯えの震えが走るけど、

「あなたは暫く視えないわ。その暫くで考えて。本当に視えない事を、あなたは望む?」

 あなたは視えなくなっただけ。気付けなくなっただけ。視える家系・視える資質は本来、
視えないと困る人に顕れる守り。視えないと逃げる事も出来ず、襲われたとも気付けない。

「今の利香さんの感覚はやや鋭すぎるけど」

 それを全部視えなくしてしまって良いの?
 危険を悟って回避したり出来なくなるよ?
 視えなくなる事のマイナス面をも考えて。

「霊能者と迄は行かなくても、視える人・鋭い人っているでしょう? 襲われ易い血筋や、
妖かしに好まれ易い血って言うのはあるの」

 巧く感覚を操れれば、適度に視える様になれる。視たい時と視たくない時を操れる様に。
視える事が幸せと限らない様に、視えない事が幸せとも限らない。利香さんの選択だけど、

「利香さんのお母さんが、一時的に視えて今視えないのは、視える必要が薄いから。血筋
に素養が眠っても、血がそれ程濃くないから。それで障りのない、狙われない程の濃さな
の。
 あなたのお祖母さんが視える人で、視える状態を保ち続けたのは、それを使いこなして
生きる事を選んだ結果よ。危うい場所や時や人を避ける術を手元に残したの。そして…」

 利香さんの血の濃さは、お母さんよりお祖母さんに近い。贄の血の程には匂わないけど、
墓場や曰く付きの公園等で肝試しをすれば持ち帰る体質だ。普通に見て危険な場所を避け、
適当な神社のお守りや誰かの思いを込めた小物で防ぎ攪乱すれば問題にならない程だけど。

「わたしは利香さんの想いを尊重したい…」

 わたしの問いかけに、彼女は即答だった。

「永遠に何も視えなくさせて、視たくない」

 二度とあんな得体の知れない物視たくない。みんな視てない物をわたしだけが視るなん
て。二度と見たくも聞きたくもない。未来永劫何も感じなくなって構わないから、全部消
して。

「視えなくなっても、いなくなった訳ではないのよ。消した訳でも、去った訳でもない」

 虫眼鏡を外しても、バイ菌や虫は周りを蠢いている。見えなくなっただけで、気付かな
くなっただけで、わたし達はそれらのいる世界にいる。一緒の場所を時間を過ごしている。
いる事を知って、視る術を知って、尚完全に視えなくなる事を、利香さんは本当に望む?

 今更目を潰す事を望む? 悔いはない?
 目は閉じたり開いたりも、出来るのに。
 わたしは微かに、促していただろうか。

「だって普通じゃないもの! クラスのみんなが視えないと言っているのに、わたしだけ
視えるなんて気持悪いよ。みんなと同じじゃないとイヤなの、不安なの、怖いの。わたし、
まともに戻りたい、普通に治りたい。人としてあるべき正しい状態に、わたしを戻して」

 お願い、ゆめいさん。わたしを治してっ。
 わたしを正常なみんなの元に、帰してっ。

「正解……それが朝松利香の真の想いなら」

 その願いを確かに聞いてこの身を尽くす。

 わたしは利香さんを抱き留めて、力を流す。
 心の奥に隠れた、もう一つの怯えにも向け。
 今は唯己に出来る限りの想いを彼女に注ぐ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ごめんね、ゆめいさん」「和泉さん……」

 羽様地方の者の中学校生活は、部活も補習も生徒会も、一日数便のバス時刻を見て動く。
最終の一つ前のバスに乗り込んだわたし達は、和泉さんの家の近くで下りて、並んで歩い
て。

「あたし、ゆめいさんに仲間出来ると思って、喜んで欲しくてリカを引き合わせたのに
…」

 あたしは特別な血も持たないし、視えもしない。幾ら心を通わせてもあたしは唯の人で、
そっちの方面の話しでは賑やかしでしかない。リカの相談を受けてゆめいさんに繋げたの
は、リカの願い以上に、視えるという共通の力と悩みと孤独を持つ仲間になれると思った
から。

 和泉さんの真の苦味は、利香さんの願いがわたしの在り方を否定する物だと察せた故に。
普通ではないわたしに、普通ではない今を拒み普通を願い、普通ではない力の助けを求め。

 矛盾に何度か複雑な顔を見せた和泉さんに、わたしは何度か無言で頷いて、受容を示し
た。わたしは自身が普通になれない事は承知済みだから、心配不要だと。気にする事はな
いと。

「分っていたよ。……和泉さん、有り難う」

 俯き加減な焦げ茶色のショートの髪に手を伸ばす。でも彼女は弱々しくかぶりを振って、

「まさか、リカがあんなに視える事や心霊を嫌って拒むなんて。思惑の逆になっちゃった。
 治すとか、戻すとか。正常とか、異常とか。自身の感覚を嫌い否定するだけじゃなく、
助けを求めたゆめいさん迄嫌い否定し、微かにその助けに使う力迄も、怖れているみた
い」

 普通を望み渇仰し、異なる物を忌み嫌い、拒み隔て。それは今は内向しているけど、助
けに添う今は控えるけど、いずれわたしにも向く。利香さんは、わたしから最も遠い人だ。

 そう分ったから、和泉さんはあの場にいられなかった。そう悟ったから、わたしはあの
場を去る彼女を止めなかった。助けを求めつつわたしを怖れ、この手に縋りつつ力に怯え。
その様を和泉さんが見ていられなかったのだ。

「鴨ちゃんが1年の時に同じ2組で視える人だと噂に聞いても、リカをゆめいさんに紹介
しなかった理由が、分ったよ。あたし馬鹿」

 役に立とうと思って墓穴を掘る。成功して、あたしなんか忘れる位リカと仲良くなって
くれるなら、それでもあたしは良かったのに…。

「最高に、余計な事しちゃったっ!」

 最大に傷つける人を、引き合わせちゃった。
 罪悪感に震える肩を、後ろから抱き留める。
 想いを包み、その胸を両の腕で締めつけて。

「和泉さんの想いは届いたわ。有り難う…」

 嬉しかったよ。利香さんがどうであっても、今後の結果がどうなっても、和泉さんがわ
たしをたいせつに想って為してくれた事だから。

 涙は流さないけど、心の慟哭を受け止める。
 わたしの故に負う哀しみは、わたしが拭う。

 抱き留めて想いを通わせる。癒しの力より、癒したい想いを伝えて震える心を解きほぐ
す。わたしの力は、己の血の匂いを隠すより鬼を倒すより、助けたい人の痛みを拭い取る
為に。

 サクヤさんもこの様にして何度もわたしを受け止めてくれた。役に立てず、力になれず、
たいせつに想っても空回りしてばかりのわたしを。抱き留めてくれた。心を包んでくれた。
わたしはあの人程に、胸も度量も大きくないけど、だからこそこの身の全てで受け止める。

「こうなる事も触れた時に視えたけど」

 この先の成り行きも大凡視えたけど。

 わたしはもう少し利香さんを手放さない。
 しっかりとその願いに添って彼女を治す。

 その後彼女がわたしを忌み嫌うと分っても。
 彼女を治すこの力を怖れ隔てると視えても。
 例え和泉さんが止めてもわたしはやめない。

「わたしは何度あの場に戻っても、間違いなくこうしていたよ。和泉さんの紹介を受けて、
利香さんの相談に応じて、力を注いでいた」

 利香さんの窮状は本物だったから。助けを求める瞳は必死だったから。捨て置けなかっ
たから。彼女を救えるのはわたしだけだった。それにやってみる迄結果は分らない。わた
しの力はありがちな未来、ありそうな今後を示すだけで、必ずそうなる訳じゃない。前提
を変えれば導く像も変えられる。わたしが利香さんと絆を繋ぐ未来にも可能性はあるのか
も。

「わたしは利香さんを全力で救いたかった。
 和泉さんの想いには全力で応えたかった」

 結果がダメと出る瞬間迄わたしは諦めない。
 無理と視えても、絆は残せないと感じても。

 わたしの報いは助けた人の笑みで、救いが届いた結果その物だ。その人から何か返され
たい訳じゃない。友情も信頼も必須ではない。一緒に喜び合う事が叶わなくても意味はあ
る。利香さんが心安らかに日々を過ごせるのなら、終った後で遠ざけられても、隔てられ
ても…。

「1年の時、利香さんは視える事に悩んでなかったの。今程視えてなかった。誰も必要を
感じなかっただけ。この春に視える様になったのは、彼女が大人になり始めた副次効果よ。
身体の不安定が心に響いて現状を導いたの」

「それって、もしかして……?」

 月のもの、月経、生理。初潮と言うべきか。
 わたしも和泉さんも頬が熱を帯びたと想う。
 思春期のわたし達に身近な話題だったから。

「利香さんは女の子になり始めた。その変化が体や心を揺らせ、眠っていた資質を起こし
たの。その後で怯えに引きずられ、視える状態を固定させたのは彼女の心の問題だけど」

 少年少女や若者が心霊を視易いのは、心も身体も不安定で魂の波長が合ってしまうから。
資質が揺り起こされるから。大抵はその覚醒も一時的で、じきに収まり視えなくなるけど。
視えても彼らが何か及ぼせる訳でもないけど。

「不安や怖れは心に生じる物。拭わないと」

 受け止めないと、抱き包まないと、震えを内側から止められないなら、この身で止める。

「そしてその不安の源が消え、次に彼女がわたしに怯える様であるなら、わたしが引く」

 それで良い。同じ学校には通うけど、困りごとや悩みがあれば相談は受けるけど、そう
でない限り、わたしが彼女に近づかなければ。わたしが微笑みを凍らせる因になるなら外
す。

 わたしさえ納得すれば誰にも傷は残らない。わたしはわたし以外の誰にも傷を残させな
い。あなたの苦味も受け止める。共に噛み締める。だからこれ以上、わたしの為に心乱さ
ないで。

「ゆめいさん、あなた本当に生き方が損…」
「わたしはそれで満たされるの、和泉さん」

 意地でも涙を見せないと涙声の侭向う向きの和泉さんを、わたしは後ろから抱き留めて、

「和泉さんや真沙美さんの様に、みんなに全てを受け容れてとは望まない。望めない事は
分っている。わたしももう子供じゃないもの。わたしは和泉さんや真沙美さんにさえ全て
を話してない。話せない事情を抱えているわ」

 誰にでも全て話せる訳ではないの。その人との間だけで、留めておくべきお話しもある。

「和泉さんの所為じゃない。全てはわたしが望んで選んだ事だから、気に病まないで…」

 陽が落ちた羽様の脇道で、わたし達は暫くの間肌を合わせ心を交え、言葉と言葉になら
ない吐息を紡ぎ、互いの想いに絡み合わせて。

 夜も昼も瞬く間に過ぎ、週末の日は訪れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 年に一度の宿泊交流は、修学旅行のない1年生と2年生限定の行事だ。1年生は金曜日
から経観塚郷土資料館の畳敷き研修室1泊で、2年生は海辺の温泉町での2泊3日で。そ
の中身は徹頭徹尾、団体スポーツの熱い対戦で。

 桂ちゃんと白花ちゃんは、週末を一緒に過ごせない事に最後迄不納得だったけど、これ
はわたしの想いで左右できない。出発前には長い離別の如く2人をぎゅっと胸に抱き留め、
頬に頬寄せ言葉に出せない想いを伝えたけど。この寂しさは他で埋め合わせも利かないけ
ど。

 でもわたしの寂しさは一番の問題ではない。今一番の問題は、幼い双子が抱く寂しさ、
抱かせてしまう寂しさで。2対の瞳に溢れる涙への罪悪感で。後で必ず埋め合わせするか
ら。お話し聞いて、絵本読んで、お風呂も一緒してあげるから。どうか暫くの不在を許し
てと。

 金曜日の朝、泊りの道具等を持って通常通りに登校し、貸切バス2台に先生方と分乗し、
車に揺られ二時間強。潮騒と海鳥の鳴き声聞える公園に着いたわたし達は、荷をバスに置
いた侭初日の男女混成ソフトボールを始める。

 男女混成で1学級2チーム、計4チームで総当たり戦をする。全員3試合行う訳で、求
められるのは素早い進行だ。翌日は男女別に1学級2チームずつ4チームで午前にバレー、
午後はバスケ、最終日は男女別にサッカーを。

 主目的は交流なので、適度な緊迫感と開放感が混ざり合う。空いた時間には気の合う同
士の井戸端会議も随所に見られた。1試合して、馴染んだ頃にお昼という設定も悪くない。

 配られた弁当とお茶を手に、間近の芝生に適地を探す。夕維さんは他の人に関係を見せ
つける様に、わたしの左腕に身を絡めて寄り添うけど、真沙美さんは構わずわたしの右横
に座って弁当を広げ。彼女を慕う桜井さんや美子さん達も一緒になる。真沙美さんを慕う
女子はクラス横断で拾五人近くいるので、わたし達2人がゲストに招かれた様に囲まれて。

 話題は年頃の女子の常で、同級の男の子への批評が多くを占める。目前で1試合目の動
きを見た直後なので、批評はその印象も含め。女の子の間では、わたしの人物鑑定は意外
と好評で、少し判定が甘いと思う人は真沙美さんの見方と抱き合わせるとか。2人が好人
物と口を揃える男の子なら、まず外れはないと。

 わたし達のそれは男の子の姿勢や言動から窺える癖や好みの分析に及び、好意の表し方
や届かせ方、話題の選び方や持っていき方等の推察に及ぶ。喜んで貰えるプレゼントとか、
常日頃の心がけとか、現状の悩みの整理とか。

 その男の子の親密な女友達は唯の親友か恋人か、お友達から始めるべきか最初から恋仲
を求めるべきか、衆目の中で積極的に関係を絡めるべきか人目に知られずに関係を繋ぐべ
きか等、年頃の女の子を悩ます話題は数多い。

 相性占いとか恋愛指南とか人生相談とも言われるけど、大それた物ではない。人の心に
確かな答は出し難いので『わたしならこうするけど』『こういう人は意外な側面がありそ
うだから注意して』位のお話しを、参考に示す程だけど、偶々数回連続で正答だった様で。

 人の本心の読み解きに、力は通常使わない。知りたい時は答を求めて訊ねれば良いだけ
だ。それに大凡の印象や思惑は日々の言動や姿勢に顕れて分る。それ以上に力を使って知
らなければ困る類の案件は日常にそれ程多くない。

 どの男の子をどう思うかという話題なので、私情が絡む。ここでの話が噂になって当の
男の子の耳にも入るし、それを見込んで話す人も少なくないし、みんなの動向を探りに加
わる人もいる。ここで口を開く事が、当の男の子に影響する以上に、女の子の輪の中でそ
の男の子を好き合う同士の関係を微妙に変える。

 思惑の探り合いになりかねない話題だけど、真沙美さんとわたしは何故か、男の子への
人物評をほぼ額面通りに受け止めて貰える様で。わたし達2人は女の子の間では、競争相
手として受け取られてないらしい。志保さん曰く、ネズミはネコと競う気になれないのだ
と…?

 2人で『良い男の子』と一致出来たのは小野君と2組の柳原君。わたしは評価したけど
真沙美さんが保留したのが高原君と沢尻君で、

「高原は言う事は正しいけど、曲げる事を知らないから。1試合目のストライクの判定も、
抗議に時間費やしてかなり掛った。悪い奴じゃないけど、小事に拘って大事を逃しそう」

「博人は逆で何考えているか分らない。飄々と人の話を受け流して、まるで自分の意思を
示さない。集団行事をこなすには逸材だけど、一対一で真剣に向き合うのには適しない
よ」

 プラス面の強調かマイナス面の強調かの違いで、わたしが抱いた印象とほぼ同じだった。

 美智代さんや睦美さんが頷く中、当初は多数への怯えで、左腕に縋っていた夕維さんは、
緊張が抜けると次はみんなに関係を見せつけようと、改めて身を寄り添わせ。多数の中で、
自身の存在感が薄まっていると感じたのかも。

 真沙美さんのわたしの評価への不賛同より、わたしとの親密な言葉のやり取りへの羨み
が、夕維さんを突き動かしたらしい。わたしの肩越しに首を伸ばし、やや攻撃的に夕維さ
んは、

「カモケン君はどうなの? 鴨川さんのナイトを自任している様だけど。彼はいい男?」

 みんなが固まったのは、デリケートな問題だから。真沙美さんは抜きんでた美人だけど、
率直すぎて賢くて、男の子には手強いらしい。憧れだけど手を出し難く、中々恋人候補も
現れない。その因はわたしと言う噂もあるけど、実際は賢也君が目を光らせている為で。
多くの女の子が真沙美さんを恋のライバルに見ないのも、彼女に恋人が出来難い事情の故
かも。

 真沙美さんには賢也君は単なる従兄だけど、賢也君には真沙美さんは単なる従妹以上で
ある事は、誰の目にも明瞭だ。そのお陰なのか、わたしと真沙美さんの関係は今尚『誤解
を呼ぶ程親しいお友達』で通っているのだけど…。

 微妙な話題へ鉈を叩き込む様な問に、周囲を緊張が走り抜ける。怒らせてしまったなら、
誰にも抑えが効かないとみんな危惧するけど、

「少し難ありって処かねえ。早とちりで思い込みが激しくて、最後迄考えずに事に手を付
けてしまう。誰かさんの様な処はあるけど」

 真沙美さんは語調も平静に、夕維さんの瞳をわたしの肩越しに正視して、逆に怯ませて、

「悪い男じゃない。強情だけど一途で、少し融通利かない処はあるけど、嫌いじゃないよ。
恋人としては少し頼りないけど、望むなら」

 そこで一瞬だけわたしに視線をずらせて、

「男の中では一番にしてやっても良いかな」

 この中で、一体何人がその真意を悟れただろう? その侭真沙美さんは言葉を止めずに、

「飛鷹に少し似た処があるかも。あいつも目先の事に集中すると視野が狭まって、人の言
葉が耳に入らなくなるみたいだから。柚明を間に絡めた経緯もどこかで見た様だしね…」

 そこ迄しっかり受けて返せる真沙美さんと、腫れ物に触られた様な夕維さんの硬直は、
対照的だった。翔君の話題を振られた瞬間息を吐き出せなくなって、激情に全身が震え出
し、

「私と柚明さんの仲を引き裂く様な奴の話しなんて、聞きたくない。口にしないでっ!」

 怒声と怒気が、わたしも含むみんなに響く。起伏に前触れがないのできつい。周りの空
気を凍らせてから、己の招いた居心地悪さを見た夕維さんは、松林の方へ走り去り。それ
を。

「少し1人にして頭を冷やさせた方が良い」

 あんたは甘すぎるよ柚明。真沙美さんは追いかけて立ち上がろうとしたわたしを止めて、

「幼馴染みの話題を嫌って逃げている様じゃ、一々憤激されていちゃ、お話しにならな
い」

 背後の美子さんと桜井さんを振り返って、

「私は賢也との事は別にタブーでもないから、話したければ話して良いよ。敢て言う迄も
ないと思っていたけど、余計に気を遣わせていたみたいだね。ああ、勿論柚明との事も
ね」

 私は人の心は縛らない。禁じる積りもない。

 後味悪い空気を真沙美さんが締め括る辺りで午後の再開も近い。バスに積んだ侭の荷を
公園間近の宿に運び込まなねばならないけど。

「やっぱり、夕維さんを放っておけないよ」

 意を決し松林に足を向けかけたわたしに、

「白川とは私が先に話させて貰うよ。さっきの件は、柚明というより私との関りだから」

 真沙美さんは自身の弁当箱を押しつけて。

「悪いけどこれ片付けといて。それから…」

 弘子さんは私と白川さんを午後初戦のスタメンから外して。美子さんは私の荷と白川さ
んの荷も部屋に運び込んでおいて。お願いね

 てきぱき指示し歩み去る。逆に頼まれ事を断りにくい体質のわたしは、巧く真沙美さん
の弁当の空き箱を預けられて、後追い出来ず。


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 午後も海辺の公園で、ソフトボールは続けられる。間近の屋内運動場は、明日の室内競
技で使う。公園の外れは松林が広がっていて、その向うには砂浜に磯舟と民家が点在して
…。

 その松林に少し遅れて、わたしがやはり足を踏み入れる事になったのは、午後の試合開
始直前、和泉さんの少し惑いつつの耳打ちで。

「リカが、ゆめいさんに助けて欲しいって」

 宿に入るの凄く嫌がっているの。さっき、

「荷物を運びに、宿に入った時から青ざめて。余り具合悪そうだから、先生も暫く宿で休
んではと勧めたけど、全力で首を横に振って」

 宿に何か、視つけちゃったのかな? あたしは何も見えないし、感じ取れないんだけど。

 これ以上わたしが関る事に乗り気ではないけど、必死で縋られて振り切れなかった様子
が瞼の裏に浮んだ。利香さんの怖れは本物だ。そして利香さんが視た物は、実はわたしも
…。

「利香さんは?」「松林の向うで待つって」

 出来るだけ宿に近づきたくないんだって。

 付き合ってくれると言う申し出を断るのは、利香さんとの関りが、和泉さんの苦味を呼
ぶ故だけど。間近には午後の試合もある。わたしの行事放棄に、和泉さん迄も巻き込めな
い。

「和泉さんは試合に参加して。わたしは事情があるので1試合目休むと伝えて欲しいの」

 過剰に心配させて探されても困るし、抜けると自ら先生に申告出来ない。頼むしかない。

「和泉さんを、巻き込む事になるけど……」

 ごめんなさい。色々ご迷惑おかけします。

 深々と頭を下げるのに、和泉さんはわたしの両手を両手にとって、温かな瞳で正視して、

「これはあたしの望みなの、気にしないで」

 あたしはゆめいさんの日常を守りたいの。

 誰かを守る為に一生懸命な、本当にあなたらしいあなたを支えたい。それが望みだから。

 少しでも何かできる事が、ゆめいさんに役立てる事が、あたしの喜びだから。だから…。

 周囲に視線が多少ある事も、お互い承知で、間近に瞳を見つめ合い、握り合う手を放さ
ず、

「あなたにはあたしがいるよ、負けないで」

 込められる気持が、嬉しく切なく温かく。

 和泉さんはわたしの行いが、成功しても絆を残せない事を承知して、わたしにエールを。

 わたしもその強い想いにしっかり頷いて。

「和泉さんがいる限り、羽藤柚明は大丈夫」

 かくして松林に足踏み入れたわたしだけど、入ってすぐ遭遇出来たのは利香さんではな
く、

「柚明、あんた?」「ち、違うのっ!」

 真沙美さんの美貌に浮んだ誤解を取り除く。

 わたしは真沙美さんと夕維さんを追って来たのではなく、利香さんの求めに応じて来た。
それを了解すると真沙美さんは、一層複雑に、

「朝松利香は、絶対あんたを心から受け容れない。それを分って、行事抜け出すリスク背
負って助けに行くとは、あんたも本当に底なしのお人好しで愚か者だ。白川夕維だって」

 所詮結論は視えているんだろう、柚明も。

 わたしはその労りに、心からの笑みを返す。想いが返されるか否かは問題ではない。自
身納得できれば良い。利香さんも夕維さんも最後に心安らかなら、それがわたしの望みだ
と。

「ま、それが鴨川真沙美が心から惚れ込んだ羽藤柚明だからね。報われない人助けを好ん
で為して、痛みを負って疲れたら、私の元に来ると良い。あんたの心は私が癒す。力はな
いけど私は、あんたから貰った心に確かに心で報いるから。どこでどれだけ損を負っても、
あんたの献身はゼロにはならない。私にくれた想いだけは、確かにいつでも返せるから」

 瞳はわたしを正視して心の奥迄覗き込む。

「有り難う。それだけでわたし、癒される」

 いてくれるだけでわたしの心の力になる。
 軽く腕を背に回し合って、頬を合わせて。
 肌を合わせる事が心を合わせる事に繋る。

「行っておいで。暫くは私があんたの不在を取り繕っておく」「有り難う、真沙美さん」

 暫くの後、1人松林を進むわたしに見えたのは利香さんではなく、見知らぬ男の子に声
を掛けられ困惑している夕維さんの姿だった。


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 真沙美さんと向き合った時、彼女と夕維さんの話しの経緯は、わたしに流れ込んでいた。
力を発動させて読まなくても、彼女はわたしに心を開け放ち、視て欲しい姿勢でいた様で。

 拾数分前にこの松林のもう少し奥で。立ち止まった夕維さんに真沙美さんが追いついて、

『何よ、柚明さんと付き合いが長いからって、私との関係にいちゃもん付けて引き離した
いわけ? 翔に私をひっつけて、柚明さんを自分に囲い込もうと大勢に動員かける積
り?』

『そんな子供じみた発想はあんたの物だよ』

 1人になる場面が滅多にない真沙美さんに、挑むなら今が好機と逆襲する夕維さんだけ
ど、

『私があんたに言いたいのは、これ以上柚明を追い込まないで欲しいって事さ。これ以上
柚明があんたの為に、あんたに引きずられ泥沼に落ちるのは、友として見ていられない』

 真沙美さんが一対一で向き合ったのは、本当に手加減をなくする為だ。周囲に聞かせる
事を憚る程の問いかけを為す為だ。真沙美さんはここ数週間腹に溜めていた、思いの丈を。

『柚明があんたとだけ深い仲だと、関係を日々見せつけるのは誰の為だい? あんたは自
分の想いをぶつけ周囲に印象づける事で、柚明を追い込んでいる。柚明が女を愛する性癖
の持ち主で、あんたが恋人だとみんなに噂させ柚明に認知させようと。柚明の答じゃなく、
想いじゃなく、周囲からそうなる様に促し』

 それは柚明の為かい? 柚明が女を愛する性癖の持ち主だと、みんなに印象づける事が。
例えそれが事実であんたとそう言う仲でもそれは衆目に晒す物かい? それは柚明をみん
なと隔て己の物にしたいあんたの欲だ。でも、それで柚明の立場がどんどん貶められて行
く。

 夕維さんの言葉が喉で、想いが胸で詰まる。
 真沙美さんは、言葉を荒げず静かに低い侭、

『柚明の優しさ甘さは尋常じゃない。あんたは柚明が中途半端に人が良く、状況に流され
ていると思っている様だけど、そうじゃない。柚明はあんたの思惑を全部承知して受け容
れている。何もかも見抜いて尚抱き留めている。
 そう言うエゴに近い愛でも、寄せられる想いを柚明は拒まない。あんたは覚悟もなく困
ればすぐ泣いてご破算にする積りだろうけど、柚明はそんなあんたの気紛れを、皿まで喰
らう覚悟だよ。噂が出ても人の目を感じても』

 柚明の優しさに甘えるのは良いさ。好きでも愛しても構わない。私は人の心は縛らない。
柚明が最後にあんたを選ぶならそれでも良い。でも今のあんたの所行は汚い。柚明の想い
を求めるのじゃなく、周囲から関係を認知させようと追い込んで。あんたは己の愛欲の為
に、柚明に泥を塗って穢している。それも承知で泥を塗られゆく柚明は、私が見ていられ
ない。

『柚明の立場を考えて、想いを寄せて頂戴』

 それは暫く様子窺いしていた真沙美さんが、静観の時期は過ぎたとの宣告で。一時の浮
れ気分だと言い逃れできる時期は終りだと。相手を想いつつ気持を寄せてと。それは夕維
さんへの優しささえ感じられる諭しだったけど。

 でも今は、強い語調で告げられた事が夕維さんには悔しくて、得心行かなくて。話の中
身より印象に心揺らされ、憤懣やるかたなく。悔しさに涙が溢れて、みんなの元に戻れな
い。

 双眸に雫を溜めて暫く佇む夕維さんに、語りかける声があったのは、ほんの少し前の事。

「……君、お名前は?」「あ、あのっ」

 黒髪を切り揃えた中学生位の男の子の問に、背を太い樹に寄り掛らせた夕維さんは困惑
し。男の子は夕維さんの背の幹に手を付いて顔が近い。問答の中身より、見知らぬ男の子
に馴れ馴れしく語りかけられ、心が固まっている。視線は泳ぎ、言葉は詰まり、身体は強
ばって。

 地元の子か。身長はわたしよりも少し高く、均整の取れた身体に爽やかな顔立ち。高校
生ではなさそう。傍にもう1人小柄な男の子も見えた。スポーツ刈りで手足も胴も細い子
だ。2人とも学校サボりの故か地元の学生服姿で。

「一緒に、遊ぼうよ?」「そ、そのっ」

 経緯は大凡見えた。2人は周辺を歩く女の子に声かけようと、松林の向うから来た様だ。
宿泊交流は毎年恒例で、この時期週末にこの場所を訪れる事は、地元の者なら承知済みか。

 真沙美さんとのやり取りに悔し涙を浮べていた夕維さんは、事情を知らない人には男の
子2人に迫られ泣かされていたと見えたかも。

「夕維さん……?」「ゆっ、柚明さん」

 夕維さんは興奮した上に緊張し、まともに話をできる状態ではない。速やかに分け入る
べきだった。わたしの姿を探し出すと彼女は、男の子を振り切って、間近に走り寄ってき
て。

「……怖かった!」「もう、大丈夫よ」

 身も心も震えていた。心細さに縮んでいた。夕維さんは勢いの侭わたしの胸に飛び込ん
で、涙顔を擦り付ける。わたしは軽くその背を抱き留めて。気分は幼子をあやす母か姉だ
った。羽様のお屋敷では常の事なので、わたしに違和感はないけど、夕維さんはいつも周
囲の視線や反応は考えず事を為す人だけど、問題は。

「おい……」「……ああ」

 話しを中断されて、やや不快そうな男の子の視線で。わたしと言うより、夕維さんとの
抱擁を目にしてか、二対の双眸が見開かれる。翔君が為せば最高なのだけど。でも男の子
を前に男の子がそれを為すと、険悪になりそう。

 菊池先輩の前で夕維さんを抱き留めた時に状況は似ていた。夕維さんは己の心を整理で
きず表現できず、幼子の様にわたしの胸に縋り付く。今はその心を安んじる事を最優先に。

「っく、うっ、いっ……!」「落ち着いて」

 夕維さんは溜めに溜めた興奮と緊張を抑えきれず、わたしの胸の内で嗚咽するだけで暫
く話しも叶わない。話せる様になったとしても、真沙美さんとの中身は他人には語れまい。

 暫くは言葉より肌身で心を安んじる。その顔を右手で心臓に押しつけつつ、視線は目の
前の男の子に。初対面なので表情は少し硬かったかも。でも、男の子の方は砕けた様子で、

「……へぇ、キレイじゃん」

 切り揃えた黒髪の子が、夕維さんを抱き留めるわたしの正面間近に歩み寄って、無造作
にこの髪に右手を伸ばす。左耳に届くその手を、わたしは自動的に左手で払い除けていた。

「……!」「……ごめんなさい」

 男の子の笑顔が剥がれて硬直する。わたしの注意は殆ど夕維さんに向いていたので、男
の子への応対がやや粗雑だったかも。払い除けてから反応が厳しすぎたと謝罪する。でも、
彼の動きも初対面にしては馴れ馴れしすぎた。反撃を受けても、文句は言えない動きだっ
た。

「ふう、意外と気が強いね」「別嬪なのに」

 夕維さんが数分の間一言も返せず、木の幹に背が付く迄半歩ずつ、後ずさるだけだった
のと較べられた様だ。改めて、視線を向けて、

「こんにちは。彼女に、何かご用ですか?」
「君、その女の子のお友達? それとも?」

 切り揃えた黒髪の子は、問で返して来た。
 夕維さんを胸に抱き留めた侭でわたしは、

「羽藤柚明と言います……中学2年生です」

 遅ればせながら自己紹介して相手を促す。

「こちらは同級生の夕維さんです。わたしのたいせつな人ですが、彼女に何かご用で?」

 視線を落すのは夕維さんの現状把握の為だけど、彼らには『夕維さんを泣かせたのはあ
なた達か?』という無言の問に映ったらしい。

「彼女、ここで泣いていたんだ。俺達が来て見た時にはもうぐずっていた。だから俺達ど
うして泣いているのって、訊いていたんだ」

「可愛い女の子に涙は似合わない。俺達と一緒に愉しい事しようって、誘っていたんだ」

 スポーツ刈りの男の子も、何も悪い事はしてないと、泣かせたのは俺達じゃないと言い。
胸の内で夕維さんがうんうんと事実経過を頷く感触があった。喉は詰まって喋れないけど、
心の方はお話しを聞ける状態に戻りつつある。男の子達は優位に立った積りか彼らの話題
を、

「経観塚の中学の子だろう? 君キレイだね。どう、俺達と一緒に砂浜で愉しい事しよ
う」

 わたし、生れて初めてナンパなる物をされたみたい。幼い頃住んでいた様な大きな街で、
いつか声かけられる日も位に思っていたけど。見かけた女の子に声かけて遊びや食事に招
く事を指すならこれが多分。お話し聞いたら真弓さん、破妖の太刀を持って駆けつけるか
も。

「他校の子とトラブルを起こさない様にって、注意されているから。……ごめんなさい
ね」

 事実だからそれが一番穏当な断りの理由か。夕維さんは遊びどころではないし、わたし
にも他に用がある。初対面で馴れ馴れしすぎる彼らに、少し腰が引けていたのも事実だっ
た。

「俺達が泣かせた訳じゃないってば」

 切り揃えた黒髪の男の子の抗弁に、

「ええ、それは分っているわ。でも」

 わたしもそれには了解の意を示し。

「遊びに行ける状態ではない事も、見て分るでしょう。それにわたし達、本当は未だ行事
の最中なの。抜け出して来たけど、わたしも夕維さんもいつ迄もこうしてはいられない」

 早く戻らないといけない。だからあなた達には付き合えない。それが伝わった為なのか、

「確かに、泣いてちゃ遊べないよな……ところでさ、もしかして彼女泣かせたの、君?」

 わたしに探る視線を向けて、問うてきた。

「彼女も抜け出して来たけど、君も抜け出して来たんだろう。なら無関係じゃないよね」

 その推察も成り立つ。泣かせた当事者故に、その相手に謝りに来たと。わたしに夕維さ
んを泣かせた原因を見つけ、足止めしたい感じが窺えた。取っ掛りを失いたくないと視え
る。

「身体もちっちゃいし、女の子にでも泣かされるかも知れないよね。ユイちゃんならさ」

 スポーツ刈りの子の言葉は、わたしの反応窺いだ。わたしが夕維さんを泣かせたのなら
リアクションがある筈と、そこに食い込んで掻き回して足止めしようと、見定める視線に、

「わたしが直接涙させた訳じゃないけど、関係者ではあるわ。だから、早くみんなの元に
戻さないと。そう言う訳で、ごめんなさい」

 場を切り上げようとするけど、夕維さんが未だ鎮まらないので、歩み去る事は出来ない。
彼らが立ち去らない限り、お話しは終らない。わたしの答に切り揃えた黒髪の男の子は尚
も、

「ユメイさんが女の子を泣かせるとは俺は思わない。キレイな子は酷い事をしない物さ」

 彼女、たいせつな人なんだろ。どうかな?


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