第5話 人の世の常(後)


「彼女の気晴らしに一緒に砂浜を散歩とか」

 どうせ行事抜け出して、今から戻っても怒られるんだろう。だったら、少しその辺を歩
いてさ、彼女も心鎮めて、落ち着いてから帰った方が良くはないかい。俺達は見所案内で
きるし、君も一緒に貝拾いとかしてみない?

 誘い方は手慣れていて上手だった。微かに誘われるのも悪い気はしなかった。でも今は、
集団行動の学校行事だ。夕維さんは柔らかな誘いにむしろ、わたしが応じてしまうと怖れ、
一層胸の内に強く顔を擦りつけて背中を締め。その想いに応える方が、今のわたしの優先
だ。

「ご心配有り難う。でも夕維さんは大丈夫」

 夕維さんに抱きつかれている間は動けない。後は彼らに引き上げを促すしかないのだけ
ど、

「本当に、大丈夫?」「ええ、大丈夫よ…」

 切り揃えた黒髪の子は再度問い、答に尚、

「その抱きつきを見ると、大丈夫に思えないんだけどね。さっきの泣き方も気になったし。
帰る事に怯えているんじゃないかな。君たち女の子同士で恋仲な訳でもないんだろう?」

 夕維さんは、帰り難く思っているかも。今迄の経緯を経てみんなの元に戻るのは辛いと。
今の侭わたしの胸に顔を埋めたい様も窺えた。でも、いつ迄もこうしてはいられないし、
ここに居続けては男の子達の誘いを断る理由が成り立たない。夕維さんは彼らの誘いに乗
る積りもない。戻らなければならない現状を、今を保てはしない実情を、感情が拒んでい
る。

「彼女の意思も尊重して、訊いてみようよ」

 切り揃えた黒髪の子は、一見夕維さんの意を尊ぶ様で、今迄まともに返事出来なかった
彼女の返事待ちにして、引き延ばす気だ。この場を去らず、わたし達も去らせない積りで。

「本当の想いを応えて。もう少しここでユメイさんも含め落ち着く迄、散歩とかして時を
過ごした方が良くないかい? ユイちゃん」

 訊ねる為に、夕維さんを抱き留めたわたしの間近に来て、覗き込む様に視線を落す彼に、

「……あ、うっわ、私いっ……ひっ、お…」

 喉が詰まって声を出し難い以上に、夕維さんは再び心乱れていた。本心はみんなの元に
戻りたくなく、ここでわたしと抱き合っていたく、そう返事すると拙い事迄は辿り着けて、
堂々巡りを繰り返し。彼女に返事は返せない。直感で彼らは夕維さんが困った時きちんと
答を返せないと見抜いて、夕維さんを指名した。

「確かな答を出せる迄、暫く居るべきだよ」

 彼らが引き上げるとの選択は除いている。
 お話しでも何でもここに居続ける積りだ。

 それが夕維さんに怯えを抱かせているのに。
 その怯えに分け入って関りを続ける積りだ。
 わたしが応対する他に術はない。拒み通す。

 夕維さんの心を鎮めて整理させ、彼らの誘いを諦めさせる。それでこの場は解決できる。

 わたしは黒髪を切り揃えた男の子を見つめ、かぶりを振ってからもう一度大丈夫と断言
し、

「夕維さんには、わたしが寄り添うから…」

 抱き留める腕の締め付けを強くして、夕維さんに意思を伝えつつ、それを彼らにも見せ。
そうせねば夕維さんを鎮められず、男の子達にわたし達の信頼関係は分らない。間近に男
の子2人が、わたしと夕維さんの抱擁を覗き込む様に怯まず、興味深そうに眺めるに任せ、

「心配は要らない。もうすぐ引き上げるわ。
 あなたもあなた達の処に引き上げて頂戴」

 明言しての促しに切り揃えた黒髪の子は、

「ふうん、残念だな。まあ良いや。じゃ…」

 今晩おいでよ。砂浜で一緒に花火して愉しもう。君キレイだから、きっと花火映えるよ。
ユイちゃん置いてくれば心配しなくて良いし、落ち着いていれば連れてきても。夕食後な
ら行事もないだろう。遠くに出る訳じゃないし、迷う心配もない。ゆっくりお話ししたい
んだ。

「他校の子とトラブルを起こさない様にって、注意されているし、夜の外出は少し怖い
わ」

「トラブルなんか起こさないよ。僕たち君と仲良くしたいだけだし。なぁ」「うんっ!」

 遅くなっても危険な獣もいないし、海水浴シーズンは未だだから他に邪魔な人もいない。

「榊さんや東川さんも来てくれるんだし、余り遅くならないから、心配しなくて良いよ」

 それは今日一緒に宿泊交流に来ている女子の名だった。彼らは他にも誘っていたらしい。
地元のメンバーもこの2人だけではなさそう。わたし達だけじゃないから怖れは要らない
と。

「ダメって断らないで、その気になったら来てみてよ。今夜も明日の夜もここから見える
砂浜に来ているからさ。来なくても恨まないけど、来ないと断言されるのは寂しいから」

 切り揃えた黒髪の子は、夕維さんを尚抱き留めた侭のわたしを正面からまじまじと眺め、

「俺、ヤマダヒトシ」「俺はカワダサトル」

 偽名だと即見抜けた事は顔色に出さない。
 2人とも中学三年で一つ年上らしいけど。

 スポーツ刈りのカワダ君(偽名)は夕維さんを覗き込んで、わたしに縋り付く力を強く
するその動きを愉しむ様に暫く見つめてから、

「ユイちゃんも良かったら、ユメイちゃんと誘い合って一緒に来てよ。歓迎するからさ」

 彼らが漸く引き上げて、わたしに縋りつく腕の力が弱まる。でも、彼らとわたし達の縁
の糸は絡まった。確かには視えないけど、わたしが今夜彼らに会いに行く積りはないけど、
間近な将来にどこかで遭遇すると感じ取れた。

 空は快晴でも、人の嵐はこれからだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明さん有り難う。守ってくれて助けてくれて。私とても嬉しかった。心の底から…」

 胸に頬を当てる感触を好みつつ、夕維さんがわたしに密着して心を安んじる様を、少し
の間見守って、為される侭に任せていたけど。わたしには、為さなければならない事があ
る。

「夕維さんは、先に戻っていて貰える?」
「柚明さん、寄り添ってはくれないの?」

 男の子達とのやり取りを思い出すのに。

「後で時間を見つけて必ず寄り添うわ。今はわたし、逢わなければならない人がいるの」

 わたしの答に夕維さんは事情を察した様で。
 心にも表情にも急速に暗雲が広がって行く。

「朝松さん。あの女に、又振り回されるの」

 私を守り庇う為に来てくれたんじゃないの。
 私を救う為に現れてくれたんじゃないのっ。
 柚明さん、やっぱりわたしより朝松さんを。
 言い募る程に、自身の言葉に心を煽られて、

「応えてっ。私と朝松さんと、一体どっちが好きなの? どっちを真に愛してくれるの」

 私に向けてくれた微笑みは、嘘だったの?
 私を抱き留めてくれた優しさは偽りなの?
 私の愛を受けて返してくれた愛は気紛れ?

「落ち着いて、夕維さん。……心を鎮めて」

 改めて抱き留める力を強めるけど、わたしの胸の内で、その両腕は喉は肺腑は荒れ狂い。

「いやっ、応えて。応えてくれないと、私」

 あの女との関係を納得行く様に説明して!
 瞳から溢れそうな涙と共に弾劾を迸らせ。
 求められたなら、叶う限り応えなければ。

「朝松さんはわたしのたいせつな人。困り事があって、わたしでなければ応じられないお
話しだから、心から力になりたくて、相談に乗っているの。そう、お話ししたわよね?」

 でも夕維さんはわたしの答に納得できず、

「分らないよ。分りたくない。私分らない」

 柚明さんが好んで朝松さんにのめり込んでいるとしか思えない。私を差し置いて朝松さ
んに熱を上げているとしか見えないよ。周りの噂を聞いても怪しすぎる。信じられないっ。

「夕維さん……お願い、分って」「いやっ」

 その涙は今わたしの所為で流されていた。
 その哀しみと怯えにわたしは申し訳なく。

「教えて、保証して、分らせて。朝松さんと柚明さんの関係が唯の友達以上ではないって、
この私に心から納得させて。そうでないと」

 元から抱いている疑念は中々消し得ない。

 抱き合った姿勢で間近に見上げる強い瞳は、疑念に揺れて怯えに揺れて。どんな答を返
しても、受け取って貰えない様子に困惑した時、

「それ、わたしから、保証して良いかな?」

 声と共に場に現れたのは利香さんだった。

 わたしは彼女が間近にいる事は気配で察していたけど、男の子や夕維さんがいる場で利
香さんの所在を明かすと、話が更に錯綜する。夕維さんを帰してからと、思っていたけど
…。

「白川さんがゆめいさんを好きなのは、見て分るから。わたし、白川さんのゆめいさんを
取っちゃう気とかないし。その、わたしはそう言う趣味は持ってないから。好み違うし」

 熱くなり過ぎている夕維さんに対し、利香さんは平静というよりも冷徹に近い無表情で、

「白川さんがゆめいさんと、愛し合うなら止めはしないし妨げもしない。わたしはゆめい
さんとそう言う関係じゃないから。その…」

「口先だけで信じられると思っているの?」

 夕維さんはわたしを心から好いてくれる故、わたしに近づく人はみんなそれに似た感情
を抱くと見ている。自身を基準に人を見るのは、多くの人が陥る落し穴だけど。でもこの
時夕維さんは、我知らずもっと別種の怖れを利香さんに感じていた。それは利香さんの言
葉が嘘ではなく彼女の真だからこそ、苛烈に響く。

「わたし正常だから。女の子が女の子と恋し愛するなんて考えないから。女同士で肌触れ
合わせて愉しいと思わないし、望まないし」

 夕維さんの在り方を異常だと指摘するに近い言い方に、夕維さんの言葉が詰まる。それ
を信じる事・認め許す事は、わたしへの想いも夕維さん自身も異常だと承知する様に思え。

「わたしとゆめいさんは唯の友達。悩み事を相談して応えて貰っているだけの関係。白川
さんがゆめいさんに望む様な、恋や愛の絡みはないの。だから安心して。暫く時間を貸し
てくれるだけで良いの。白川さん、お願い」

 利香さんは待ちきれず、夕維さんに談判に出た。自分の時間に食い込まないでと。恋愛
感情はなく競合関係ではないと分って貰えば、引き留めもなく速やかにわたしとの時間に
入れると。今迄彼女に色々気遣わせ、しばしば予定を崩していたわたしが悪かったのだけ
ど。

「ふざけないでよ。私の柚明さんを、恋も愛もない関係で、貸してなんて物みたいに…」

 逆にそれが真だと感じ取れる故に、夕維さんは憤っていた。自分の大切な物を無価値だ
と言われた様な、自分の恋心を異常だと言われた様な。心を襲う嵐に整理が付けられない。

「柚明さんはあなたなんかに渡さない。鴨川さんにも金田さんにも。私だけの想い人っ」

 数メートル先で佇む利香さんに見せつけようと、この背に回す腕を更に締めつけてから、

「私だけの物になってくれないなら、私が柚明さんを奪い取る。私だけの物に、私がする。
私以外の誰にも目が向かない様に私がする」

 拒まないで、嫌わないで。逃げないで避けないで他の誰も向かないで。私は本気なのっ。
あなたを穢し傷つけてでも奪い取るんだから。

 突如その両手がわたしの胸をむんずと掴み。

「こんな事、朝松さんにも金田さんにも鴨川さんにも、させた事ないでしょう。菊池先輩
にも小野君にも、された事ないでしょう!」

 制止しようと、両胸を掴む小作りな両手にわたしの両手を添えるけど、振り払う事も外
す事も出来なかった。夕維さんの怯えを肌で感じ取れたから。正常ではないと指摘された
想いをわたしに拒まれたら、夕維さんの想いが行き場を失う。暴走の一枚下に怯えが渦巻
く様が確かに視えた。声にも瞳にも表情にも。

 普通ではない血を持ち、異常な力や感覚を持つわたし故に。その孤独を知るわたし故に。
彼女を1人異常の枠に見捨てる事は出来なかった。孤独の闇に置き去る事は出来なかった。
堕ちるなら、せめてわたしも一緒に堕ちよう。わたしは唯両手を添える以上は何も為せな
い。後は夕維さんにこの身を委ねる他に術もない。

 抗いを止めたわたしに夕維さんは宣告を、

「柚明さんを、私が、私の女にしちゃうっ」

 あなたの前で。見ていなさい、朝松さん!

 利香さんも流石に固まって答が返せない。
 胸を掴む両腕をわたしは黙した侭受容し。
 夕維さんは緊張に固まりつつもこの胸を。
 むにっと、むにっと。力を入れて揉んで。

 以前放課後に為した様な、一回きりの所作ではなく、継続的に何度も何度も胸を揉んで。
わたしの心を受け付けず、意志を押し破って。その強さは夕維さんの想いの強さ怯えの強
さ。今は彼女の心の片隅の、既成事実を作ればという思惑より、胸一杯を占める怯えを鎮
める。

 2つの乳房が揺さぶられ揉み潰されて、わたしの心も揺らされて。利香さんの目の前で
ある以上に、夕維さんに為されている以上に、行いその物が恥じらいを呼び全身に熱を回
す。執拗にそれをされ続けると、名状し難い感覚が身体の奥から、呼び覚まされて突き上
げて。骨や神経の奥から痺れる様な奇妙な心地良さ。

 理由はどうあれ、それを防がないわたしは、拒まないわたしは、夕維さんとの共同正犯
だ。揉めば大きくなると言っていたのは、サクヤさんだっけ? わたし、されちゃいまし
た…。

「応えて柚明さん。私は誰? 白川夕維は羽藤柚明の一体何なの? その口から語って」

 答を命じる強い声にわたしは素直に従い、

「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 声音がいつもと違って湿っぽく熱っぽい。

「可愛く少し危うくて、どうしても見捨てておけない小鳥の様な人。軽やかな笑みが良く
似合う涼風の様な人。涙させたくないわたしのたいせつな人。……ふあっ、少し熱い…」

 でも胸を揺らせる手は抑えず、振り払わず。
 その上にわたしの両手も添えた侭外さずに。

「わたしの答の真偽は、あなたが見定めて」

 ふやけた様な今のわたしの言葉に、どれ程の説得力があるだろう? 女の子の感覚に身
も心も押し流されそうになるのを堪え、出来るだけ確かに言葉と意志を紡ぎ出すわたしに、

「じゃ、じゃあ朝松さんは? 朝松利香は」

 尚胸を揉む強い声にわたしは素直に従い、

「朝松利香は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 利香さんがぴくりと反応を見せたと分る。

「わたしを頼って心打ち明けてくれた、可愛い人。物静かで穏やかな野に咲く花の様な人。
みんなと仲良くある事を心から望む、そよ風の様な人。……ふゃっ、夕維さん、ぁあっ」

 ダメ。不正解。私の柚明さんの答じゃない。
 夕維さんの両胸を揉む力が一層強く激しく、

「朝松さんを忘れて! 他の人を全部忘れて。私だけを見て。この想いであなたの心を満
たし尽くして。それ以外受け付けられない迄注いであげるから。もう他の誰も考えない
で」

 私だけを見て。私だけに応えて。もう他の人には応えないで。私だけの柚明さんでいて。

「あなたは私を拒んでない。私の想いを喜んでいる。好いている。それで良いの。その侭
私だけを受け容れて。私だけに染め尽くされて。他の誰も想わなくて良い。想わないで」

 拒めないならいつか陥落する。私はじきにあなたを責め落す。落されて私の物になって。
あなたは私の言う事にだけ、頷けば良いのっ。分った? 私だけ受け容れてその侭落ち
て!

 その想いは言葉のみならず、行いのみならず、感応の力の副作用でわたしに浸透し行く
けど。わたしを染め尽くそうと流れ込むけど。わたしを塗り替えようと蹂躙するけど。で
も、

「夕維さんの想いは渾身で受け止めるわ…」

 その代り他の人を想う事も認めて欲しい。

 両の乳房を強く変形させて爪突き立てる夕維さんの腕を、わたしは絶対に払わず外さず。
でも流されて己を失う事もせず。踏み止まる。めくるめく感触に溺れそうな心を繋ぎ止め
て、

「嬉しい。そこ迄強く寄せてくれる想いが心底嬉しい。この強さも、痛みも、隠した怯え
迄も、わたしを想ってくれる故の物。心から、有り難う……わたしも想いの限りを、返
す」

 胸を掴む2本の腕を掻き抱く。

「尽くせる限りあなたに尽くす。愛せる限りあなたを愛す。あなたの幸せを妨げない限り、
あなたの真の望みに添う限り、わたしはあなたにこの身の全てを捧げて応えるわ。唯…」

 他の人をたいせつに想う事も認めて欲しい。
 他の誰かに身を尽くす事も、許して欲しい。

 利香さんもたいせつな人なの。わたしでなければ力になれない事情があるの。

「わたしに利香さんを助けさせて、お願い」

「どういう事情があるの? あなたと朝松さんの間に、どんな秘密があるって言うの?」

 それも明かさないで分ってなんて。私を省いて大事な話進めている様で嫌だよっ。その
中身は教えてくれないの? 2人で大事なお話しして私に明かしてくれないの? 教えて。

 わたしはそれにはかぶりを振って応えない。利香さんはその様な人だと噂される事を望
まない。夕維さんは激すれば何でも口にしてしまう、秘密を保てないタイプの子だ。秘密
を零れさせ、苦味を噛み締めさせては可哀相だ。

「お願い、分って。聞き分けて欲しいの…」

 あなたへの想いはこの通り。

 この両胸を掴んで揉む夕維さんの手の上から、自身の手で強く夕維さんの手を動かして、
己の胸を揉んで動かして、一層の受容を示し、

「幾ら確かめても良い。あなたはわたしのたいせつな人。あなたの望みは拒まない。あな
たの想いは嫌わない。夕維さんが欲しいだけわたしを捧げる。どこ迄も何度でも。その代
り、わたしが利香さんを想う気持も分って」

 わたしにはみんなが大切なの。誰にも涙して欲しくないの。夕維さんも利香さんも、心
から愛している。夕維さんへの想いを分って欲しい。利香さんへの想いを分って欲しい…。

 肌の上で蠢いていた夕維さんの手が止まる。
 漸く届いた想いが夕維さんの心を醒めさせ。
 真意が伝わった結果解ける絆も世にはある。

 夕維さんの腕が胸から離れる。その身が一歩後ずさり、わたしを見つめる瞳が更に揺れ、

「そこ迄して朝松さんが大切なの……私じゃなく、ここ迄させた私より別の女を大切に」

 い、異常だよ……あなた、普通じゃない!

「関る人を全部大切に想うなんて。男も女も構わないの? 見境ないの? ここ迄させて
尚わたしより朝松さんを選ぶ? あなた朝松さんにも胸揉ませて良いと、想っているの?
 鴨川さんや金田さんや、菊池先輩にも? 塩原先輩とも仲良くお祭りを歩いていたって
言うのは……ふしだら。あなた、淫乱っ!」

 愛する相手は1人だけが人の世の常なら。
 わたしは様々な意味で正常ではないかも。
 わたしを弾劾する瞳は遂に雫を溢れさせ、

「許せない、分らない、認めない。私は柚明さんだけを愛しているのに、柚明さんは私だ
けを見てくれない。私だけを愛してくれない。幾ら強く想いを届けても何も返してくれな
い。酷い、酷いよ。柚明さん、だいっきらい!」

 号泣し走り去る夕維さんを追えなかったのは、それが唐突だった以上に、利香さんに向
き合わねばならない以上に、己に刺さった棘が痛かった故で。最後の指摘は心に辛かった。
わたしは改めて己を異形だと思い知らされた。

 瞬時己への拘りで、目の前のたいせつな人が心の焦点から外れていた。それが申し訳な
くて、悔しくも情けなく。俯く顔を上げた時、目前にいたのは利香さんではなく翔君だっ
た。


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 翔君も夕維さんの唐突な失踪を追えず、場に残された組だ。彼も夕維さんを心配して松
林に入り込み、わたし達のやり取りを見つけた様だ。わたしが気配を感じ取れたのは利香
さんがわたし達の場に踏み入る少し前だった。他校の男の子達との応対を、彼は見ていな
い。

「……翔君、あの」「羽藤、お前……」

 踏み入ってきた翔君の焦点がわたしに向いているので、再び静観に戻る利香さんの前で。

 パァン。男の子の平手が左頬を打つ。

「夕維を涙させる奴は、俺が許さない」

 常になく静かに抑えた声が、逆に彼の想いの強さを伝えてくる。夕維さんを涙させたわ
たしへの強い憤りが、一度に留めて戻し堪えた右腕の震えに窺える。抑えきれない怒りを
尚必死に締め付け、想いを届け分って欲しく言葉を紡ごうとする姿が痛々しい。そうさせ
てしまったのがわたしである事が申し訳ない。

「女には手を上げたくないんだけど、お前は夕維を巡る恋敵だから、男扱いだ。悪いな」

 手を下したのはけじめで、一度で抑えたのはわたしへの思いやりだ。これが男の子なら
彼は平手ではなく握り拳で、当然その回数も。

「いえ、その、ごめんなさい。翔君の大切な夕維さんを、涙させたのはわたしだから…」

 それでも女の子に手を上げた自身に苦々しくて、視線を逸らせる翔君に、わたしは深々
と頭を下げる。彼は本来爽やかで気持の良い男の子だ。彼にこんな苦味を与えた因もわた
しであり、それにも申し訳なくて切なくて…。

「夕維さんにも謝るわ。彼女に想いをしっかり届けられなかったのは、わたしの力不足」

 懺悔するわたしに、翔君は頷き返さずに、

「もう、良いだろう? 羽藤、夕維の事は」

 翔君の意図は感じ取れた。これを良いきっかけに、わたしに夕維さんから離れる様にと。

「夕維は勢い任せだから勢いが止まれば終る。お前が縋って仲を繋ぎ直さない限り、夕維
はどうして良いか分らない。来週には離れているさ。あれだけ周囲もお前も騒がせてと思
うけど、今回はその困った性分が良い方向に」

 お前にも夕維は、一番でもなければ唯一でもないんだろう? これ以上寄り添っても夕
維の心を乱すだけだ。もう諦めて離れてくれ。夕維もお前には本気じゃない。女同士で恋
する覚悟もなければ、それが呼び込む色々な偏見に向き合う度胸もない。その上お前は1
人だけ愛する積りもないと来た。夕維の恋人とはお互いだけを見つめ合う、唯一同士なん
だ。

「悪い奴じゃないと分っているけど、俺は嫌いじゃないけど、夕維にお前は遠すぎるんだ。
やはり夕維は普通に正常に男と恋愛すべきだ。これ以上夕維の心を乱さないでくれ、羽
藤」

 ここ迄引っ張れば分っただろうと、泣いて走り去った夕維さんを前に答を求める翔君に、

「この関係が長く続かない事は分っていた」

 わたしも漸く、翔君と話せる場を持てた。

 利香さんを待たせる事になるけど、今ここでなければ次の機会がいつになるか分らない。

「夕維さんの本当の想い人があなたで、わたしではない事も。あなたに見せつけたくてわ
たしに寄り添っていた事も。諍いの末に引っ込みが付かなく、あなたに寄り添えないから
代りにわたしを求めていた事も、最初から」

 夕維さんとの仲が長続きせず、いずれ終る事は視えていた。それは翔君が言う通り、勢
いの賜物だから。夕維さんはわたしに恋人の男役を求めていた。それは彼女が女の子を愛
する故でも、わたしに真に恋した訳でもなく。翔君に素直に謝って縋れないから、偶々近
くのわたしに来ただけ。偶々わたしが受け止めたから暫く続いただけ。彼女が素直に自身
を見つめ直せばいずれ終る、いっときの熱病で。

「お前、最初から夕維が本気じゃないと分っていて、泳がせて遊んでいたって言うのか」

 驚きに怒りが堪る暇もない侭の彼の問に、

「それは違うわ。わたしは夕維さんを好き」

 例え見せつけでも当てつけでも、寄せてくれた想いは、わたしにはとても嬉しかった…。

 わたしは、利香さんの目線をも感じつつ、

「抱きついてくれた感触は心地良かった。交わした言葉も肌触りも温かかった。好きでな
ければ、人前で胸を触らせたり頬合わせたりしない。嬉しくもないし、恥ずかしいもの」

「ゆめいさん、一応、恥ずかしいんだ……」

「寄り添ってくれた事も間近に接してくれた事も嬉しかった。元々夕維さんは可愛いし」

 だから夕維さんが、望まないキスを間違って望んだ侭、菊池先輩と交わすのを見ていら
れなかった。翔君と仲直りできない侭、又他の誰かを振り回し、見せつけ当てつけに出て
傷ついて、本当に哀しむ姿を見たくなかった。わたしを向いた侭抱き留めておけば、暫く
は暴走しない。少し時を置いて自身を見つめ直し、翔君と落ち着いてお話しして欲しかっ
た。

 そこでわたしは翔君を向いてわたしの問を、

「この数週間、翔君は夕維さんに本気で仲直りを求めた? 真剣にお話望んで声掛けた?
 わたしとの関係どうこうじゃなく、あなた自身との仲直りを夕維さんにお願いした?」

 翔君の答が詰まる。彼にも覚悟がなかった。夕維さんを引き受ける覚悟を固め切ってな
い。彼は夕維さんの為にわたしを、女の恋人を遠ざけようとしたけど、その想いは真剣だ
けど、その後迄を考えてない。代替物だったわたしとの仲を絶たせた、夕維さんのその後
を彼は。

 年中恒例の翔君と夕維さんの痴話喧嘩があの時拗れたのは、翔君が男の子の間で冷やか
されて意地になり、夕維さんに常と違う応対をした為だ。落し処を外された彼女が戸惑い、
不安に耐えきれず、意識の底では仲直りのきっかけを求めて、噂を流し菊池先輩を巻き込
む事になった。あの向う見ずは翔君への助けてというサインだった。せめて翌日に怒らず、
彼女の心細さを分って受け止めてあげたなら。

 その後も翔君は、男の子のメンツなのか夕維さんに謝れず、それを感じ取れた彼女は更
に憤ってわたしに傾き。本当の解決の鍵はわたしにではなく、翔君と夕維さんの間にある。

「あなたは彼女とわたしを切る事しか考えてない。取り上げるだけで何も与えない。わた
しは代りよ。本物に縋り付けないから、本物が抱き留めないから、受け止めないから…」
 本当はわたしが言うべき事ではないけど。

 言葉にせねば翔君は想いを整理出来ない。
 今宵こそわたし豆腐の角で息絶えるかも。

「わたしとの絆を切るのではなく、もっと強い絆で巻き取って。わたしより強い想いで包
み込んで。わたしに向く想いより強い想いを抱かせて。あなたがわたしから奪い取って」

 正視に翔君が一歩後ずさる。躊躇う声が、

「俺が羽藤から夕維を奪う。取り合う…?」

 そんな、女を巡って俺が女と争うなんて。
 幾ら何でも、それはまともじゃないだろ。
 惑う彼に、わたしは揺らがず正視を続け、

「正常か異常かは、今一番の問題じゃない」

 今大切なのは彼女を誰が抱き留められるか。
 わたしを切るのではなく翔君が強く繋って。
 夕維さんの一番の想い人にあなたがなって。
 否、一番の想い人だと思い出させてあげて。
 飛鷹翔の真の想いを白川夕維に伝える事で。

「それが夕維さんの幸せに、きっと繋る…」

 わたしにぴったり着いてくれる夕維さんは、可愛く元気で、少しの独占欲も含め涼やか
で。手放したくない程愛しいけど、いつ迄も肌触れ合わせ視線を合わせていたいけど。でもっ。

「夕維さんが、わたしを真に恋し愛し一番に想っている訳ではない事は分っているから」

 心の表面が怒り哀しみどこを向いても、心の根は常にあなたを向き続けている。わたし
への応対の一つ一つで、夕維さんは翔君を思い浮べている。夕維さんが本当に女子同士で
恋し愛し合う積りも覚悟もない事は承知済み。今の関係が勢い任せで長続きはしない事迄
も。夕維さんが男の子と恋し合う事が彼女の幸せと言う事も、その相手に誰が相応しいの
かも。

「夕維さんの真の想いの侭に。そして夕維さんの真の望みの故に。その真の幸せの為に」

 一歩踏み出して翔君の両手を両手で握り、

「わたしは夕維さんを今の関係に引き留める積りはないわ。望みは心に抱いても、それは
長い目で見て夕維さんの笑顔には繋らない」

「羽藤お前、最初から分ってその積りで?」

 確認の問に答は返さず、わたしは静かに、

「わたしは夕維さんの想いをきちんと受け止め、返して終えたい。結論は視えているけど、
視えているからこそ綺麗に笑顔で終りたい」

「俺に、夕維を譲る積りだと言うのか…?」

 その言葉は否定して、わたしは首を横に。

「譲りはしない。譲れる様な想いじゃない。
 翔君が言った筈よ、わたし達は恋敵って」

 一番ではなくても唯一ではなくても、白川夕維は羽藤柚明のたいせつな人。彼女を一番
に想う人がいても。夕維さんは物ではないの。身も心も尽くし捧げたい好いた人。譲れな
い。

「だからその心を確かに掴んで奪い去って」

 翔君が変なプライドや意地で手を拱くなら、わたしが夕維さんを放さない。人の世の常
に背いてもわたしが抱き留める。そう覚悟して。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 翔君が苦い表情で歩み去ったのは、そのすぐ後だった。夕維さんを真に抱き留める人は
翔君で、わたしはいっときの繋ぎに過ぎない。わたしの答は翔君の求め以上で、逆に戸惑
った様だけど、彼の求めは満たしているのでお話しは成立に近い。今後も連携はする積り
…。

「ごめんなさい、かなり時間取っちゃって」

 ソフトボールも第3試合に入っただろう。
 早く済ませなければ、捜索されかねない。

 正面から向き合って、その左頬にゆっくり右手を伸ばすのに、髪に触れそうな辺りで利
香さんは、突如ビクッと怯える様に後ずさり、

「……」「ご、ごめんなさい。わたし、その、そう言う趣向とか趣味とかは、ないから
…」

 さっき白川さんにも、言った通りだけど。
 目線はわたしの装いの乱れに向いていた。

 夕維さんを抱き留めた後両手で胸を揉まれ、わたしのシャツは汗ばんだ上に涙や鼻水が
ついていた。わたしは桂ちゃんと白花ちゃん相手にそれが常だけど、厭う気持も分る。女
の子は綺麗好きだし、異常な者には触る事さえ。

「うん……。わたし、汚れちゃっているね」

 夕維さんの愛撫はわたしの奥から熱を呼び、放置して行った。翔君の平手打ちが冷まし
てくれたけど、完全には引けてない。汗が滲んでシャツがべとつくのは、気温の故ではな
い。

 その目の前で夕維さんに抗いもせず、勝手に困り果てたわたしは厭われて当然。強い非
難ではなく、微かな怯えと共に退かれるのが異常な者にお似合いか。経緯を全て見られて
いたと想い返し、今の己の装いを見つめ返し、恥じらいに両腕で身を抱く。今更隠しても
無意味だけど、行為を終えた後で身を清めもせず利香さんに向き合うのは破廉恥な気がし
た。

 でも、今着替えに宿に戻っている暇はない。
 この状態から、事を為さなければならない。
 己の装いに拘るより、目前の人を守らねば。

「わたし、もう利香さんの役に立てないかな? 汚れた身体では力になれないかな?」

 利香さんの視たという物を確かめる為にも、利香さんの現状を診る為にも。贄の血の力
は鬼の力と同様に、陽の光に大きく減殺される。肌を触れ合わせないと日中は力も及ぼせ
ない。

「手を握る事を許して。頬に髪に耳に手を触れる事を認めて。あなたの助けになりたい」

 あなたの感じる怖れが分るから。あなたの抱く怯えを感じるから。背に張り付いて拭い
難い不安が視えるから。わたしに助けさせて。

 改めてその左頬に右手をゆっくり伸ばす。
 掌で耳の辺りの髪に触れ、軽く撫でつつ。

『大した物は憑いてない。でも増えている』

 宿に荷を置きに入った時に、憑いてきた?

 宿にいた物も大多数が、視えなくても害にもならない物だけど。この百倍憑かれても肩
こり程の物だけど。利香さんなら勘づくかも。怯えの元になっても拙いので、いつもの様
に祓っておく。利香さんが最近視えなくなった原因の半分は、彼女に憑いた物やその周囲
にいる雑多な物を、わたしが祓って消した為だ。

 通学路や自宅を全て祓う事は出来ないけど、守りの力を注いで主な物を消しておけば他
の物達も怖れて容易に寄り付かない。密度が減れば利香さん位の感覚なら勘づく確率も減
る。

「いつもと特に、違わない気がするけど…」

 利香さんには視えたと伝えない。彼女が視た感覚も否定し、気の所為と諭す。視た気に
なっただけと告げてそう思いこませ、視えない状態は変ってないと思わせ、視えない気に
させる。気の所為との言葉を、わたしが真に。感応の力を気付かれぬ様に利香さんに及ぼ
し、そんな物等視える筈ないと無意識に囁きかけ、その資質を眠らせる。それが彼女の望
みなら。

「ゆめいさんは、何も視えてないの……?」
「そうね。害になる様な物は視えてないわ」

 宿にいたのは、多くが害どころか常の人に認識もされない微弱な物だ。それは学校にも
野にも山にも、羽様のお屋敷にもいる。利香さんもそれらは殆ど視えてないし、それで生
活に障りはない。本当は祓う必要もない物だ。

 唯一つ予想外が。彼女は視てしまった様だ。視える人には視える位の物が一つ。寝ぼけ
眼に錯覚や悪夢の一つも見せる程度の物だけど。人の血も力に取り込めない希薄な霊体だ
けど。

「本当に……本当?」「ええ、大丈夫よ」

 救いを求める双眸に確かに正視を返す。
 宿に戻れなければ宿泊交流に穴が空く。
 教諭に説明しても理解は求められまい。

 利香さんは集団行動に戻すべきだ。これは差し迫った危機ではない。利香さんにはここ
数日わたしの力を溜る程注ぎ込んだ。それがなくてもあの位の霊体に生身の人は害せない。

 問題は、それを受け止める人の側にある。

「未だ終らないの? 治りきってないの?」

 利香さんの声は落胆と失望と焦りを込め、

「いつ迄引っ張り続けなきゃいけないの?
 いつ迄怯え縋り続けなきゃいけないの?

 もう視えなくなったと、安心していたのに。
 毎日助けを求めるの、もう終りにしたいよ。

 先行きが見えない。わたし早くまともに戻りたいのに。みんなと一緒に廃屋探検も百物
語も高句麗(こうくり)さんも出来る様になりたいのに。未だダメ? いつ迄掛るの?」

 気分は、もう退院させろ薬を減らせと詰め寄る患者に、中々完治を告げない医者だった。
宿泊交流を乗り切って経観塚に戻れば、1週間掛らず彼女が望む元の状況に戻せる。宿泊
交流がなければ月曜に様子を診て終りだった。でもみんなの楽しみだった行事に、大きな
危険もない以上、欠席も求められなかったから。

 あと数日とわたしの見通しを述べる一方、

「そう言う遊びは利香さんに向かないわ…」

 体質迄改善できる訳ではないのよ。只視えなくなるだけ、危険を察する術を一つ封じる
だけなの。利香さんが霊達の目に付き易い匂う存在である事は変ってない。却って危うい。

「そう言う友達が連れてきた物が、あなたに乗り移る怖れもある。そう言う人との関りを、
わたしは勧められない。やむを得ず逢う時には確かなお守りを身につけた上で、他の人を
交えるとか、出来るだけ日中にするとか…」

 わたしの注意書きは煩わしく聞えたかも。
 避けるべきとの勧めが不快に響いた様で。

「視えなくなって尚気を遣わなきゃダメ?」

 その声は今迄の蓄積を全て裏返した様で。
 苛立ちがかなり真っ直ぐわたしに向いた。

「廃屋は普通の人が行く所じゃないでしょう? 高句麗さんも先生に禁止されて元々の名
で呼べずに読み替えた、禁じられた遊び」

 彼女は特にそれに向かないと知って貰わねば。冒険を望む年頃は分るけど、危うすぎる。

「あなたは視えなくなっただけ。視えなくても周囲に彼らが居続ける事をあなたは知った。
その上でその実感がない人達の無謀な行いにあなたは尚付き合うの? 例え害がない物で
も、わたしはそういう嗜好を勧められない」

「女の子同士で愛し抱き合って胸揉ませ合う事は出来ても、廃屋探検は勧められない?」

 利香さんの打ち返しに、わたしが怯んだ。

「白川さんに乳房揉まれて逆らわず一緒に愉しめても、わたし達の遊びはいけないの?」

 どっちが健全か訊いてみたい。その問に、

「あなたの行動を縛る様に聞えたならごめんなさい。たいせつに想えばこその勧めの積り
だったけど……偉そうな言い方に聞えた?」

 幼子に向き合う事が多いので、教え諭す語調だったかも知れない。同年輩と頭で分って
いても。頭を下げて謝るわたしに、利香さんは今迄貯め込んだ物があった様で、今こそと。

「ゆめいさん、まさかわたしと肌触れ合わせたくて、もう治っていても未だだとか、わざ
と治さないでいるとか、そんな事ないよね」

 わたしと近しく居続ける為にとか、わたしの心がそっちの趣向に傾く迄待つとか。そも
そも最初のあれだって、ゆめいさんならあんな事仕組めるんじゃない? わたしの力も眠
らせたり出来る人だよ。わたしの今迄の友達が好ましくない様な、引き離す様な事言って、
わたしの前で散々白川さんとの仲見せつけて。

「わたし正常だから。普通だから。そう言う尋常じゃない力や趣味は、わたしないから」

 わたし傾かないよ。そっちに寄らないよ。
 わたしは正常に男の子と恋し愛し合うの。

 女の子はお友達迄。胸なんか触らせない。
 わたしは普通で霊体なんか視えやしない。
 廃屋で物音に怯えて男の子に抱きつくの。

 わたしみんなと一緒の普通や正常が好き。
 普通じゃない物、正常じゃない物は嫌い!

 わたしを悩ませた物達も普通じゃなかった。正常な人は視えなかった。わたしずっと1
人、正常じゃない、普通じゃないと悩み続け、怯え続けて。漸く元通りに戻れると思った
のに。正常で普通なみんなに戻れると思ったのに…。

 未だ待たなきゃいけないの? 終って尚気を遣わなきゃいけないの? あなたの傍に居
続けて助言受けなきゃいけないの? あなたから解き放たれる日はないの? ゆめいさん
はわたしを助けると言いつつ、実は縛って…。

「……ごめんなさい。少し、言い過ぎたわ」

 利香さんはほぼ全て言い終えた後だった。

「……良いのよ、気にしないで。解決が長引いて、利香さんの想いに応え切れてないのは、
わたしの力不足だから。ごめんなさいね…」

 抱き留めたかったけど、服装が乱れている以上にわたしは今回不適格だ。わたしは利香
さんの、ぼそっと出した謝罪に微笑み返して。

「あなたはわたしのたいせつな人。あなたが望まない事をわたしはしない。あなたが哀し
む事や怯える事をわたしはしない。あなたが怖れ嫌うならわたしが遠ざかる。だから…」

 彼女がわたしの身の汚れを厭うのは当然だ。
 彼女が常でないわたしを隔てるのは当然だ。
 わたしは、彼女の傍にいるべき者ではない。
 それを分った上で。そうなると承知の上で。

「今少しだけ。利香さんの状態が安定する迄で良いの。利香さんの視えない状態が持続す
ると思えた時に、わたしは身を引くから…」

 利香さんとの関係が長くない事も分っていた。視えない事を望む利香さんが、視える状
態を保つわたしの傍にいる事は望ましくない。多分わたしの方が知らず影響を与えてしま
う。夕維さんの事で噂を呼んだわたしと繋った侭だと、利香さんにも噂が及んで迷惑にも
なる。

「ゆめいさん、わたしとの関りの末も…?」

 最初から見通せていたのかと、翔君とのやり取りを想い返して利香さんが、一歩後ずさ
るのは、未来や心中を読まれる事への怖れか。わたしは何もかも見通せる訳ではないけど
…。

「わたしは利香さんを今の関係に引き留める積りもないわ。望みは心に抱いても、それは
長い目で見て利香さんの笑顔には繋らない」

 お友達を望むならお友達で。関りを断つならそれでも良い。困りごとや悩みがあるなら、
その都度相談してくれれば全身全霊で応える。わたしには朝松利香は変らずにたいせつな
人。いつ迄もたいせつな人。一番には出来ないけど、身も心も尽くして守り庇いたい愛し
い人。

「結論は視えているけど、視えているからこそ綺麗に笑顔で終りたい。しっかり守って確
かに救って、長く安心出来る様に終りたい」

 もう少しの間わたしにあなたを助けさせて。

 握る両手は払われないけど、肌の下でも言葉でも利香さんの確かな受容は貰えなかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 第3試合後半に戻ったわたしに、教諭の叱責はあっさりだった。利香さんと夕維さんが
気分を悪くした為、わたしが松林で休ませた。翔君が様子を見に来て、夕維さんと相次い
で戻った。わたしが利香さんと最後に戻ったと。2人が『気分』を悪くしたのは虚偽では
ない。

 地元の男の子の話は言わなかった。トラブルになった訳ではないし。話す事が、東川さ
んや榊さんの予定を塞ぐ密告となりかねない。

 翔君は、夕維さんとまだ話をしてない様だ。翔君も短時間で心の整理は付かなかった様
で。宿泊交流は学年全員勢揃いだ。メンツに拘る翔君が仲直りに本格的に動き出すのは来
週か。

 夏の長い日が海中に没した頃に、わたし達は旅館の広い食堂で一斉に夕食を頂く。夕維
さんはわたしの左隣に座ったので、機嫌を直してくれたのかと想ったけど、そうではなく。

「夕維さん……?」「……知らない!」

 気分は拗ねた幼子のご機嫌とりに近かった。
 わたしに謝らせ寄り添わせる為の隣だった。
 痴話喧嘩とは、こういう事を指すのだろう。

 本当に嫌なら利香さんの様に隔たって座る。
 わざわざわたしが座った後で左隣に座って。
 わたしが声を掛けるのを待って嫌って拒む。

「夕維さん、あのね」「話しかけないで!」

 みんなは、わたしが損ねた夕維さんの機嫌を取り戻す寄り添いと推察する。夕維さんも
仲直りを望むけど、申し出ると自身が頭を下げて見えるのが嫌で、相手に申し出させたく。

「夕維さん、聞いて」「聞きたくないわっ」

 更に言えば何度か申し出させてそれを拒み、渋々受け容れ仲直りしてあげる形が望まし
い。翔君も同じ様にやり合えば、話が拗れる訳だ。わたしは力も不要にその心中を見通せ、
彼女が尚仲直りを望むと分るから微笑ましいけど。仲直りしたいと言えない強情さが可愛
いけど。

「柚明さんが寄り添ってくれなくても、私を望んでくれる人は、男の子にも沢山いるの」

 わたしは常と逆に夕維さんに寄り添う側で。
 夕維さんはみんなに見せつける事を望んで。
 寄り添うは白川夕維ではなく羽藤柚明だと。
 頭を下げ仲直り求めているのはわたしだと。

 縋る側はわたしだと。請い願う側はわたしだと。それが夕維さんの望みなら、願いなら。

 今日わたしは夕維さんを哀しませ傷つけた。
 利香さんに応じる為には仕方なかったけど。
 胸揉ませる迄追い込み涙させたのはわたし。
 叶う限り可憐で小さな憤りを受け止めよう。

「きちんと繋ぎ止めてくれないと、私招かれる侭誰にでもフラフラついて行っちゃうよ」

 何度か拒まれる語りかけを繰り返し、徐々に夕維さんが上機嫌になって行く。次に受容
しようか、もう一度引き延ばして更にわたしに懇請させようか、愉しみ惑い。許したら懇
請は終るから、少し惜しいと2回、3回繰り返し。これを翔君にやり過ぎて拗れた事も…。

「もっと態度に見せて。私に愛を感じさせて。私を望んでくれる人はあなただけじゃな
い」

 右隣の歌織さんが口を挟もうとする浴衣の太股を、大丈夫と抑えて更に十分後。夕維さ
んが条件を示した。わたしが頭を下げて寄り添う姿をみんなに見せつけ、気も晴れた様で。

「お風呂で一緒に、寄り添ってくれるなら」

『夕維さんには、わたしが寄り添うから…』

 松林で地元の子を前にわたし言ったけど。

 みんなが居てもお風呂場で、夕維さんがわたしに何を望むか想像も付かないけど。それ
はわたしが一度確かに口に出した事だ。わたしが頷くと、夕維さんは仕方ないわねと許し。

「出来レースって訳かい。あんた達は全く」

 歌織さんが癖のあるショートの黒髪を揺らせつつ、夕維さんに届く様に声を発するのに、

「柚明さんはみんなとお友達で、仲睦まじくて羨ましいです。白川さんも可愛らしいし」

 歌織さんの右に座っている早苗さんがにこやかに声を挟む。飛び交うわたしと夕維さん
の噂を、知らない筈はないのにどこ吹く風と。ミディアムの黒髪が艶やかで、少し背の高
い早苗さんは、でも今日はやや顔色が冴えない。

「早苗さん体調良くないの?」「ん、ああ」

 微笑みが陰る彼女より先に、歌織さんが、

「ちょっとこの宿の空気が合わない様でね」

 早苗さんも歌織さんも一瞬言い淀むのは、

『早苗さん、【やや視える】人だったのね』

 利香さん迄行かないけど、早苗さんも霊が見える血を微かに宿す。早苗さんは視えはし
ないけど、空気の澱みとか湿気とか気温とか、誰もいなくても視線感じるとか、何となく
気持悪いと察し。宿に入ってからの体調不良は、今日の疲れの故ではなく、感じた心の鬱
屈で。

 その事情はみんなに明かせない。ごく近しい仲の歌織さんのみが知り、他の人には中々
伝えも分っても貰えないという諦めが窺えた。知られたくないという怖れさえも窺えたけ
ど。

「顔色が良くないよ。熱があるのかも…?」

 わたしは早苗さんの間近で屈み、額に額を押し当てて、様子を診る振りで贄の力を流す。
身体と心に癒しの力を。心霊の影響を弾いて余る力を注ぎ、寄り付かせず、結果早苗さん
が何も視えない様に。血の濃さ故か、わたしは何人にこれを為しても力の減少を感じない。

 詳しくお話を聞き、相手に秘密を明かさせる階梯を経るより、速攻で為すべき時もある。
みんなを前に秘密を明かさせる事は、難しい。早苗さんなら大丈夫。わたしの力で役に立
てる。助けられる。様々な意味での危険も薄い。

「ゆ、柚明さん……?」「柚明、あんた?」

 早苗さんは拒む暇もなく、歌織さんは驚きに口を挟むのがやっとだけど。唇を合わせる
訳ではない。わたしは毎朝毎晩幼子相手に額も頬も合わせている。大きな問題はない筈だ。

「熱はない様ね。少し休めば元気になるわ」
「あ、有り難う。その、心配してくれて…」

 早苗さんの頬が薔薇色に染まるのは、力が巡って血行が良くなっただけではない。喜び
も感謝も恥じらいも、真っ直ぐわたしに伝播して分る。わたしの頬迄が朱に、染められる。

「どういたしまして。余り役に立てないけど、早苗さんはわたしのたいせつな人だから
…」

 2人がわたしの為した事の意味を知っても知らなくても良い。わたしは感謝や返礼が欲
しい訳じゃない。不調に苦しむ顔を見たくないだけ。明日も明後日も続く宿泊交流を、た
いせつな人達と愉しく過ごして終えたいから。

「柚明は誰とも仲睦まじくて、羨ましいよ」

 歌織さんが早苗さんの台詞を取って言うと、早苗さんが更に頬を染める。早苗さんの復
調が目に見えて分った歌織さんは、わたしの左手を両手で握り、感謝の想いを伝えてくれ
た。歌織さんにとって早苗さんは大切なお友達…。

「柚明さん、早くお風呂。大欲情するよ!」

 夕維さんがわたしの右手を引っ張って行く。深刻な憤りではないけど、総身で向き合わ
ないと。実はこの時、わたしは気付けていたかも知れない危機の兆しを見過ごしてしまっ
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 脱衣場でも夕維さんはわたしの間近で衣服を脱いで、わたしが浴衣を脱ぐ様を凝視して。

 観光シーズンではない為か一般客も少なく、空き気味の脱衣場も浴場も経観塚の人だけ
だ。時間があれば榊さんや東川さんに、地元の男の子の事を聞きたかったけど、それは叶
わず。

 2組の星野さん達3人が、わたし達にチラチラ視線を送るのは、夕維さんとの噂を耳に
した為と言うより、今の近しすぎる接し方に目を惹かれた為だろう。胸を隠そうとする両
手首を握られて、じっくり間近に正視されて、

「私が揉んでいた胸って、こんな感じなんだ。私より少し小さいかな、同じ位? 綺麗
…」

 半ば無意識に触ろうと伸びる夕維さんの両手から、解き放たれた両腕で胸を抱いて隠す。
流石に恥ずかしい。夕維さんは防がれて我に返った様で、でも防がれた事には不満な様で、

「夕維さん……?」「ちょっと貸して」

 夕維さんは防ぐ間もなく、わたしの脱いだばかりの下着を、伸ばした手にとって広げる。
夕維さんは小柄だけど胸も腰も育ちは良好で、

「同じ位かしらね」「夕維さん……!」

 憤りと言うより恥じらいで、両腕は胸を抱いた侭やや強い声を出すわたしの脳裏に、何
かが届く。何かが響く。視える。聞え感じる。

 嵐の予兆を感じて背後を振り返るわたしに、夕維さんも直感的に何かを感じ取れた模様
で。背後は脱衣場の入口の扉が視えるのみだけどその向う、通路を行った個室の連なりの
奥に。

「行かなきゃ……」「……朝松さんね」

 夕維さんの思い込みがこの時は正解だった。わたしの動きに先んじて、夕維さんは左手
に脱いだわたしの下着を握り締め、右手を伸ばして湯上がりに着るわたしの下着も掴み取
り。

「行かせない……」「夕維さん、お願い」

 夕維さんの瞳は強く、正視に正視を返して。

「柚明さんは私に寄り添ってくれると言った。
 一緒にお風呂入ってくれる為にここに来た。
 朝松さんの事は考えないで。私だけを見て。
 折角仲直り出来たのに。許してあげたのに。

 どうして他の人を向くの? どうして私1人の物になってくれないの? どうして私以
外の誰かを心に置けるの? 愛せるの…?」

 夕維さんは、星野さん達がいる事も今は眼中から失せ、強く強く問いかけ求め迫るのに。

「わたしには、みんなたいせつな守りたい人。哀しませたくない愛しい人。誰かが危うい
時に一番じゃないからと、捨てておく事は出来ない。それが利香さんでも、夕維さんで
も」

 強く強くわたしも正視して答を返すけど、

「いやっ! 行かせない。私がこれを手放さない限り柚明さんはどこへも行けない。誰も
助けに行けない。ずっと私と離れられない」

 今度こそ留められる。しっかり裾を掴んだ。
 天女は羽衣がないと、どこにも行けないの。
 もう聞く耳を持たないと、言い募る視線に、

「夕維さん、お願い」「いやよ、絶対にっ」
「どうしても……?」「……どうしても!」

 想いが届いてくれない事が、哀しかった。
 届いても分って貰えない事が寂しかった。

 憎んで阻まれるのではない。愛してくれて尚通じない。彼女の想いも胸を締め付ける…。

 でも今はより緊急に助けを要する人の元に。
 手段を選べる余裕はない。事は一刻を争う。
 己の装いに拘るより、危うい人を守らねば。

 胸を隠す腕を解き、空いた腕で浴衣を纏う。下着は両方を夕維さんに抑えられているの
で、裸の上にその侭纏う。肌に直に浴衣の生地や風が当たる感触が、少し涼しく心許ない
けど。

 わたしはその姿で夕維さんの背に腕を回し、頬に頬寄せ、その耳元に囁きかける。わた
しも星野さん達の視界にいる事を知って無視し、

「後で必ず寄り添うわ。償いには身を尽くす。だから、今だけ勝手を……ごめんなさい
…」

 わたしは脱衣所から廊下へ駆け出していた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ゆめいさん……?」「先生を呼んで来て」

 廊下で見かけた和泉さんに声を放つけど説明の暇はない。事は急を要している。和泉さ
んは説明が後回しでも動いてくれる。裾を翻し利香さんの居る和室の傍迄来た時、悲鳴が

「「「いゃあああぁぁっ!」」」

 未然に防げなかった。わたしのミスだった。

 利香さんが視えない様に処置しても。力を注いで祓い、依り憑かれぬ様守っても。わた
し達は団体行動だった。早苗さんの様に他にも多少視える人はいる。そう言う人が見つけ
て指差し誘い導くなら、利香さんが感覚を呼び覚まされ、怯えが共鳴するのは自然だった。

 せめて夕食時に気付くべきだった。早苗さんに処置を施した時に。他にもそう言う人が
いる可能性を。全員の資質を探り、危うい人に肌触れ合わせて、力を注いで守っておけば。
又は視えそうな唯一の霊体を先に排除すれば。

 友達同士の旅先で夜を迎えれば、みんな盛り上がる。怪談話もする。波長が合った年頃
の子に霊が寄りつくのは当然だった。1人1人に気を取られ、森全体を見渡してなかった。

「利香さん……? ごめんくださいっ…!」

 ノックなしに扉を開ける。電灯のスイッチが入らず真っ暗な中に、廊下の光が僅かに差
して薄暗い。わたしは迷わず室内に踏み込む。薄闇の中で女の子の気配を幾つか確認でき
た。

「いいいいい、いい」「ああ、あああああ」

『室戸さんと下山さん。高句麗さんの痕…』

 和室中央のテーブルに伏して女の子が2人、泡を吹き気絶している。少し離れてもう1
人。

「利香さん……。気を、しっかり持って!」
 天井を指差しつつ、怯えて逸らせる瞳は、

「で、で出たのっ!」『視てしまったのね』

 既に去った後だけど、わたしの乱入を察し退いた様だけど、気配の残り香を感じる。ほ
んの数秒前迄、確かにこの部屋の虚空にいた。

 視える程でしかない物だけど。人に害をなせない物だけど。天井の木目の染みを利用し、
人の錯覚に付け込み己を認識させた、死した野犬の魂が。怯えさせ心乱しても、取り憑く
事も叶わないのに。尚害意だけを宿し続けて。

 既にここを逃げ去ったそれを、追って処置するのは後回し。相手は何程の事も出来ない、
漂うだけの存在だ。わたしは利香さんの間近に屈んで声を掛け、その身に添う。利香さん
は動転の故か、細い身体を縋り付かせて来て。

「3人で高句麗さんやっていたら、室戸さんが天井に視線感じるって。下山さんがガタガ
タ震えだして。指差す先を、あの染み2つが目で、この染みが口で鼻でって言われる内に、
徐々に模様が犬の顔に見えてきて、動いて」

 突然テレビの電源切れて、電灯も消えて。
 電灯は一度点いたけど、またすぐ消えて。
 月明かりの中、天井の顔が歪んで吠えて。

「悪意が伝わってきたの。喰い殺すって!」

 身の震えを止めて欲しいという様にわたしの浴衣に密着し、この胸の内に顔を擦りつけ。
冷えた身体を抱き留めて、贄の力を触れた肌身に流し込み、心を癒す。下着を身につけて
ないので、頬を何度か擦り寄せられると胸元は生地がずれ、直接頬や瞳が肌に触れるけど。
利香さんは気付く余裕もなく素肌に顔を埋め。誰の視線もなくても羞恥を感じてしまうけ
ど。涙も鼻水も冷や汗もわたしは受けて離さない。この感触が利香さんに安心を与え正気
に戻す。頼り縋られて応えられる今が、わたしの望み。

 ひうっ。逸らしつつ視線を導かれ、天井を向き掛けてわたしの胸に頬を寄せ。ないと確
かめないと安心できないけど、視線を向ける事さえ怖く。居たらどうしようと震えは止ま
ず。たいせつな人の怯えに怖れに、わたしは肌触りと温もりを伝えて、力強く抱き留めて、

「わたしには、何も視えないわ」「え…?」

 事実を伝える。天井を確かに見つめ、左手で利香さんの頬に触れ、静かに正視を促して。

「見つめてみて。どう?」「え、あれ…?」

 幾ら目を懲らしても視える筈はない。錯覚を利用してそう視せただけだけど、今やそも
逃げ去っている。怯えを鎮め、わたしが身も心も間近に添い、その上で確かに何もない天
井を確認し、視えない事を呑み込まされて。

「確かにいた。視たのよ、わたし。あそこ」

 間近に顔を寄せて言い募るのに、わたしは頷きつつ正視して、もう一度頬に頬に頬寄せ、

「大丈夫。もう二度と、あれは視えないよ」

『これから速やかに探し出して、祓うから』

 わたしの対応が不徹底だった。守りか攻めかどちらか為しておくべきだった。夕維さん
に囚われていたのは理由にならない。結局わたしは夕維さんを、振り切って来てしまった。
今更ながら苦味が兆すけど、今はそれを隠し。

「安心して。わたしが、保証する」

 少し落ち着いた様子を察し、腕を解いて身を離す。温かく柔らかな肌触りは心地良かっ
たけど、利香さんの意思が戻れば密着を望まない事は分っている。我に戻った利香さんは、

「ゆめいさん、もしかしてあれを消した?」

 逃げたと言わないのは、彼女の怯えを引きずるから。気配を辿って探し出せば、あの位
の物の消去は容易い。順序は逆でも消した様な物だ。正視して両手を握り、大丈夫と囁く。

 それが利香さんの新たな怯えを呼ぶけど。
 それが利香さんの真の怖れを醒ますけど。

 得体の知れぬ怖い物を、瞬きの間に消せたなら、その力に彼女が怖れを抱くのも当然か。

 わたしは利香さんを正視して言葉を紡ぐ。
 わたしに怯えて心が乱れては意味がない。

「朝松利香は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 たいせつな人は守りたい。大好きな人は助けたい。愛しい人は救いたい。痛み哀しみ傷
つき苦しむ様は見過ごせない。それでわたしが怯えられても怖れられても。隔てられても
関係切られても。あなたが元気に毎日を過ごし憂いなく微笑んでくれれば、わたしは良い。

「必要があれば、いつでも呼んでね。わたし、利香さんの求めになら、必ず応えるから
…」

 逸らされた瞳からも微かに震える肌からも、確かな受容の答は返らないけど。わたしは
答を求めて言葉を発した訳ではない。利香さんの心に届いてくれれば良い。いつか困った
場面で思い返せる様に、心に残ればそれで良い。

「どうしたんだ?」「ゆめいさん大丈夫?」

 和泉さんが、高橋先生と志保さんを連れて一室に踏み込んできたのは、その直後だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしは常になく己のミスに苛立っていた。怪我もなく既に贄の血の癒しを注いだ利香
さん達を、先生や和泉さん達に任せた事はともかく。宿の正面玄関から靴を履いて飛び出
し、夜は無人の公園トイレ迄野犬の霊に追い縋り、蒼い力を直接及ぼし霧散させて漸く。
わたしは相手にではなく己に憤っていたと気付いた。

 この対処は妥当だった。死して数十年経つ野犬だけど、内に心を宿していない。唯死霊
としてあり続ける為に他者を喰らおうと欲し、誰でも良いから死なないかと。生きた魂は
就寝中でも彼には濃厚で直接食いつけないので、自滅させ死なせてから魂の欠片を喰らお
うと。

 錯覚を及ぼし怯えさせる程度の力量なので、今迄実害はなかったけど、その性は凶悪で
説諭も利かず。伝わって来る想いは飢えと敵意だけで。吹き散らす他に術はなかった。で
も。

 相手を消失させて残る苛立ちは、相手への物ではない。これは己自身への。ミスを取り
返したく焦っていた。利香さんを守れず怯えさせた原因は、敵よりわたしの守りの不備に。

 相手がこの程度の物だったから、力で押し切ってしまえたけど。元々問題にならない程
の物の、問題化を防げなかったのはわたしだ。人気もない月夜の元、ベンチに1人腰掛け
て、

「ふう……わたし、いつ迄も未熟。反省…」

 靴下も下着も身につけてない。浴衣だけだ。宿を出る前に一度戻れば自室に着替えはあ
った。利香さんに馳せるにはやむを得なかったけど、抱き留めた時点で緊急性も失せてい
た。夏でも素肌に浴衣では、夜は涼しく心許ない。

 もう事は終えたから、後は帰るのみだけど。
 頭を切り換え、これ以上のミスはない様に。
 思いつつ、ふと松林を眺めると妙に明るい。

『今晩おいでよ。砂浜で一緒に花火して…』

 その言葉が妙に耳に甦るのは。その情景が何度も瞼に浮ぶのは。心に騒ぐ物があるのは。

『柚明さんが寄り添ってくれなくても、私を望んでくれる人は、男の子にも沢山いるの』

『経観塚の中学の子だろう? 君キレイだね。どう、俺達と一緒に海岸で愉しい事しよ
う』

『きちんと繋ぎ止めてくれないと、私招かれる侭誰にでもフラフラついて行っちゃうよ』

『ユイちゃんも良かったら、ユメイさんと誘い合って一緒に来てよ。歓迎するからさ!』

「もしや夕維さん、あの男の子達の誘いに」

『夕維は単純で後先考えないんだ……一方的な思い込みや意地の張り合いで、その気がな
くても深く考えず、危ない事や傷つく事も』

 そうならない様に、夕維さんを今迄抱き留めてきたのに。今宵それを振り解いて利香さ
んに馳せた為に、夕維さんの暴走を導いた? それも部外者である地元の男の子相手に?

 守れる同級生も先生もいない夜の砂浜で。
 胸に焦りが湧き出して来る。感じ取れる。

「……もしそうであるなら、わたしの所為、わたしの力不足。わたしが、しっかり夕維さ
んを抱き留められなくて招いた、事の末…」

 松林の彼方の砂浜を眺めると、向き合うと、関知の力はより確かな像を紡ぎ始め。視え
る。夕維さんがわたしに見せつけに、当てつけに、昼の誘いを思い出し松林を歩み行く後
ろ姿が。

 落ち着いて、柚明。これは緊急を要する事だろうか。要する。夕維さんは向う見ずな事
をして、痛い目も見る女の子だ。その涙を見たくなければ、全速で駆けつける事が必須だ。
一度宿に戻る余裕はあるだろうか。多分ない。

 一つの手順の間違いは次々に連鎖するけど、過ちを取り戻しに動く事が更に良くない結
果を導く事もある。失敗を取り戻そうと足掻く事が次の失敗を招く事も。今一番大切な事
は。今この場から馳せないと、多分間に合わない。

 関知の像が見せるのは、間近な未来の図か、現在進行形か。いつ迄も状況を眺める余裕
はない。馳せようした瞬間、更に明確な像が視え。わたしが関ろうとするから、わたしが
間に合い関れるから、わたしに関る未来として映し出された。足を止めたなら薄れて消え
る。

「夕維さん……今行くから、待っていて…」

 浜風に浴衣を煽られつつ薄明かりの中、わたしは松林を砂浜へ、全力で駆けだしていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 砂浜で焚き火を囲んでいたのは、地元の男の子6人と、銀座通中の女の子が4人だった。
女の子は全員セーラー服、男の子は思い思いに私服姿で。男の子は2人だけ中学3年生で、
残りは中学2年生で。彼らは色々声かけした様だけど、現時点で夜の砂浜に迄訪れたのは、
東川さん達の1グループ4人ともう1人だけ。

「え、ユイちゃんだけ? ユメイさんは?」

 ヤマダ君は切り揃えた髪を揺らせ、夕維さんを歓迎してから、1人だけと気付いた様で、

「私1人よ。何か問題あって?」

 夕維さんはわたしへの当てつけに、己を望んでくれる人は幾らでもいると見せつけたく、
ここ迄来た。男の子達には非常に失礼なお話しだったけど、実は失礼は彼らの側も同様で、

「俺達、ユメイさんに来て欲しかったのに」

 夕維さんは添え物という感覚を隠しもせず。彼らにも遠慮も配慮もなかった。東川さん
達はやや遠くから、視線を送って様子見でいる。

「ユイちゃんも来て良いとは言ったけど、一緒に来てくれれば歓迎するとは言ったけど」

 スポーツ刈りのカワダ君も困り顔で頷き、

「ユメイちゃんが来てくれないんじゃねえ」

 彼らが日中に夕維さんを招いたのは、わたし1人なら及び腰と見ての事だ。彼らは実は
一歳年上だ。整った顔立ちが大人びても背の低い夕維さんは子供に見える。そう言えば東
川さんは背が高いし、榊さんは胸の発育が…。

「ねえ、ユイちゃん。今からユメイさん呼んできて貰えない? 俺達、待っているって」

「外れだけを増やしたって面白味ないだろう。少しは当たりも入れないと盛り上がらな
い」

 夕維さんは思惑を外され呆然と立ちつくす。歓迎されて喜ばれ、男の子と愉しむ最中に
わたしが至り、その様に嫉妬するか悔し泣くか、戻ってきてと懇願するか。夕食時の情景
を今度は彼らや東川さん達の前でやって見せつけ、溜飲を下げようと。その絵図は木っ端
微塵に。

 夕維さんは今回、誰にもここに行くと告げてない。彼らの誘いを知っているのも、わた
しと利香さんだけだ。噂さえ流さず、わたしの勘や読みの良さを頼る感じで1人突っ走る。

「外れってどういう事? 当たりって何?」

 私あんた達の誘いを受けてここに来たのに。私が何かするんじゃなくて、あんた達が私
を愉しませてくれるんじゃないの? その為にあんた達は私に声掛けて、誘ったんじゃあ
…。

「ユイちゃんには、ユメイちゃんと一緒にと誘ったじゃないか。人の話は良く聞こうよ」

「ユメイさんに来て欲しかったのに。その為にユイちゃんも良いよって言ったのに、その
ユメイさんが来ないでユイちゃんだけじゃ」

 でも、彼らの言い分は詐欺に近い。彼らは夕維さんを誘う事で、わたしを巻き込もうと
していた。その為に夕維さんに声掛けた。夕維さんが抱く誤解は、彼らの計算の内だった。

「酷い。最初から私じゃなく、柚明さんが目当てだったなんて。私に声掛けておきながら、
私の柚明さんも取ってしまおうとするの…」

 自分に値がないと宣告された事も、気遣われない事も、わたしを取られると感じた事も、
全部想定外だった。彼女の目論見通りわたしがここに来れば、女の子が男の子に心傾く怖
れがあると、今この瞬間迄夕維さんは考えも。

「何だい。本命にされなくて、寂しいの?」

 彼らの側も傍若無人だった。彼らも夕維さんを道具に使って悪びれもせず、彼女を眼中
にない、その連れが目当てだと目の前で公言して憚りもせず。2人揃って女心を踏み躙り。

「大丈夫だよ、ユメイちゃん来ても男女同数だからあぶれる心配ないし」「ちゅー位なら
してあげるから。それで文句ないだろう?」

 彼らの宥めは逆効果だ。女の子は好きな人とのキスでなければ嬉しくない。男の子とて
そうだろう。鳩にパン屑を与える語調に唇を奪われると、夕維さんは己を抱いて後ずさり。

 漸く男の子がこの場を何の為に設定し、女の子を誘ったか実感した様で。急速に身を怯
えが包み行く。頼れる人がいない状況に後悔が兆す。微かに身を震わせる様にヤマダ君が、

「初夏でも夜の浜風は冷たい。焚き火に当たると良いよ、おいで」「その必要はないわ」

 わたしが場に駆けつけたのはその時だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「「来てくれた!」」「柚明、さん……?」

 この距離を走っても、修練を経た身体は言葉が詰まる程息が上がってない。少し汗ばん
で頬が紅潮するけど、夜風の涼しさが心地良く身も心も冷まし行く。場にいた全員が瞳を
見開くけど、下に何も纏ってない事は見えない筈だ。わたしの出現と浴衣姿に驚いただけ。

 夕維さんは興奮した上に緊迫し、まともに話をできる状態ではない。速やかに分け入る
べきだった。わたしの姿を確かめると彼女は、男の子を振り切って、間近に走り寄ってき
て。

「……怖かった!」「もう、大丈夫よ」

 身も心も震えていた。心細さに縮んでいた。夕維さんは勢いの侭わたしの胸に飛び込ん
で、涙顔を擦り付ける。わたしは軽くその背を抱き留めて、確かな温もりと感触を返し。
わたしにはこれは日常なので、違和感はないけど。夕維さんには躊躇いもなかったけど。
問題は、

「おい……」「……ああ」

 話しを中断されて、やや不快そうな男の子の視線で。弐拾メートル程離れた東川さんや
他の男の子達の興味深げな視線も感じ取れる。でもそれらへの対処は後回しだ。夕維さん
は己の心を整理できず表現できず、幼子の様にわたしの胸に縋り付く以外は、何も為せな
いでいた。今はその心を安んじる事を最優先に。

「っく、うっ、いっ……!」「落ち着いて」

 遅くなって、ごめんなさいね。夕維さん。

 夕維さんは興奮と緊張を抑えきれず、わたしの胸の内で嗚咽するだけで、話しも出来ず。
話せる様になったとしても、さっきのやり取りは話して益のある中身ではない。暫くは言
葉よりも肌身で心を安んじる。その顔を右手で素肌に押しつけつつ、視線は目の前の男の
子に。でもわたしの表情は少し硬かったかも。

「夕維さんの震えは焚き火では止められない。今の彼女の震えは心の震え。抱き留めて心
迄包まない限り収まらない。あなた達には止められない。一緒に帰りましょう、夕維さ
ん」

 夕維さんは言葉を返せないけど、わたしの胸の内で小さく頷き、肌身に承諾を返してく
れた。落ち着かせる事を最優先に、抱き留めた侭抱きつかせた侭、夜風に佇むわたし達に、

「ユメイさん、俺達の誘いに来てくれた?」

 ヤマダ君の切り揃えた髪を揺らせた問に、

「ごめんなさい。わたし、夕維さんを迎えに来ただけなの。この集いを邪魔する積りはな
いので、みなさんはその侭続けて下さい…」

「おいおい、そんな殺生な!」「そうだよ」

 ヤマダ君の困惑に、カワダ君も同調して、

「待ちかねたユメイちゃんが来てくれたのに、又お預けはゴメンだよ。一緒に愉しも
う!」

「ユイちゃんが泣き出したのは勘違いなんだ。謝るからさ、ユメイさんも機嫌直してよ
…」

 歩み寄ってくる。他の男の子や東川さん達はやや遠い為に静観していた。男の子2人は、
わたしがここ迄乗り気で来て、夕維さんの涙を前に心を翻したと思った様だ。彼女を落ち
着かせるか1人返してもわたしを留めたいと窺えたけど。最初からわたしにその気はない。

 歩み寄る足音や声が伝わったのか、夕維さんの縋り付く力が強くなる。その怯えを鎮め
る為に、求めと願いに応える為に、わたしはより強い抱擁を返しつつ動かずに。男の子は
その不動をわたしの受容か迷いと取った様で。

 スポーツ刈りのカワダ君が、夕維さんを抱き留めたわたしの右に回り込んで、囁き掛け、

「君達も、いつ迄も女の子同士で抱き合っていたって、しようがないだろう。だからさ」

 声に視線を導かれた隙を狙ってか、ヤマダ君が正面間近に距離を詰め、無造作にわたし
の髪に右手を伸ばす。左耳に届きそうな彼の右手を、わたしは無意識に左手で払い除けて。

「……!」「……ごめんなさい」

 ヤマダ君の笑顔が剥がれて硬直する。わたしの注意は逸らされた様でも、この程度の陽
動には掛らない。応対はやや粗雑だったけど。払い除けてから反応が厳しすぎたと謝罪す
る。でも、彼らの動きも強引に過ぎた。わたしの髪を摘んで驚かせ、カワダ君が夕維さん
を引き剥がし、ヤマダ君がわたしに密着して説得するなんて。反撃を受けても文句は言え
まい。

 わたしがヤマダ君の動きに即応した事にカワダ君が驚き惑って、動きが止まった。この
沈黙と静止は、実力行使を看破された故で…。

「止めた方が良いよ。あんた達」

 傍にいないのでそんな緊迫は分らないけど、暫く押し問答が続いていると察し、声を届
かせてきたのは、焚き火の傍にいた東川さんで、

「羽藤さんと白川さんは、相思相愛なんだ」

 新参が簡単に割り込める間柄じゃないよ。

「誘って断られて盛り下がるより、こっちはこっちで愉しもう。その2人はそっちの世界
の住人なんだから。あたし達とは違うんだ」

 噂を真に受けた、多分に誤解を含む言葉だったけど、そのお陰で彼らもこの場が自分達
だけではないと思い直した様だ。余り強引に事を進めると、焚き火の周囲の雰囲気迄壊す。

「……そう言う仲なの、ユメイちゃん達?」

 カワダ君の問に、夕維さんがぴくりと震え、ヤマダ君の眼が訝しむ感じに変る。夕維さ
んが応えられない事はこの4人の間では周知だ。

「夕維さんは、わたしのたいせつな人……」

 肯定も否定も待ち構えられている。どっちを応えても、話しを引きずりわたし達を放す
積りはない。強引に腕を伸ばす事は控えても、心を斬りつける問で動けなく追い込む積り
だ。

「それ以上、お話しする事は、ありません」

 わたしはそれ以上の話しを拒む意志を伝え、顔を引き締め、声音を厳しく、姿勢を崩さ
ず。

「どういう事だよ? そう言う事なのか?」

 お前ら、本当に女同士で好き合っているのか? (東川)ナルちゃんの言う通り、そう
言う事なんだな? そう取って良いんだな?

 黒白を求めて言い募るカワダ君にわたしは正視を返しつつ言葉は返さない。首を縦にも
横にも振らず。追及自体より語調の強さに怯えてわたしを見上げる夕維さんを、もう一度
左手で胸の内に埋め確かな感触で心を鎮める。

「何か言えよ。応えられないのか」
「まあ待て、2人とも怯えている」

 勇むカワダ君に、ヤマダ君は助け船を装い、

「少し落ち着こうよ。俺達だってまさか君達が、女の子同士で好き合っているとか、本気
で信じちゃいない。……俺達も誤解した侭終えたくない。ユイちゃんもユメイさんも夜風
に当たって冷えただろう。一緒に焚き火に当たってお話しして、身体も心も休めたら?」

 こいつも君達が心配だから気になったんだ。その辺を汲み取って、少し付き合って欲し
い。

「お気遣い有り難う。でもわたし達は大丈夫。
 夕維さんには、わたしが寄り添うから…」

 言葉は善意に読めるけど、瞳の奥が暗い。
 関知が何も告げずとも避けるべき誘いだ。

 ヤマダ君は確信して話を振ってきた。東川さんや他の男の子達の前で、わたし達が白黒
を自白する迄問い質す気だ。わたし達の仲がいかに異常かを煽り、カワダ君と硬軟の役割
分担し、泣く迄責めて救いの手を差し伸べる。わたしはともかく夕維さんは耐えられぬ。
覚悟のない彼女が2人に弄ばれる様が目に浮ぶ。

 わたしは、2人が利用しようとしている他の8人の目線を逆に2人に意識させ、話を切
り上げる。人目の中では強引な事は為し難い。拒絶の意志を、視線に姿勢に声音に強く宿
し、

「心配は要らない。もうすぐ引き上げるわ。
 あなたもあなた達の処に引き上げて頂戴」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月明りが薄明るく地を照す中、わたし達は砂浜を旅館へ帰る。松林を突き抜ければ最短
だけど、修練のない夕維さんは足元が危うい。少し回り道でも、湾曲した砂浜を伝い宿へ
と。

 夕維さんは松林に焚き火が見えなくなる迄、背後を気にし続けていた。今の処彼らが付
けてくる気配はない。わたしは不安を抱かせない様に、一度も振り返らずややゆっくり歩
み。

 漸くほっと一息ついた頃合に夕維さんは、

「柚明さん、下着付けてない」「ひゃうっ」

 わたしの胸を背後から両手で掴んできた。

 浴衣越しだったけど、予期せぬタイミングでの感触にわたしも奇妙な声を上げてしまう。
夕維さんは瞬間瞬間の感性で動く上に、後方やや遠くに気を配っていたわたしは無防備で。

 思わず2人の歩みが止まる。止めた側の夕維さんは、満足というよりもむしろ不満げで、

「これは罰だよ。私に寄り添ってもくれずに、朝松さんを優先して行った柚明さんへの
…」

 むにっとむにっと力を込めて嫉妬を込めて、

「下着も着けずに朝松さんの処に走って何をしたの? 柔らかなこの身体にどこの誰が頬
を寄せたの? 私の元に駆けつける迄に私以外に何人の人を思い浮べたの? 下着も着け
ずに私を抱き留めてくれた事は許すけど…」

「ゆ、夕維さん……ちょっと、待っ、ひぁ」

 心が崩れ、姿勢が崩れ、浴衣が着崩れる。

「この艶姿は誰の為? 朝松さん? 鴨川さん? 金田さん? 結城(早苗)さん…?」

 まさかあの男の子達の為じゃないわよね!

 違うと言って。私の為と、白川夕維の為と言って。言いなさい。じゃないと今度こそ許
さない。この侭朝迄あなたの胸を揉み続ける。

 こうして、こうして、こうやって揉んで!

「私、凄く悔しかった。捨て置かれて哀しかった。だから、奴らの誘いに乗ってやったの。
私をちゃんと見ないとどうなるか、夕ご飯の時も言ったのに、聞きいれてくれないから」

 私、どこにでもフラフラ行っちゃうよ…!

 その瞬間、わたしは身の拘束をすっと解き。驚く間もない夕維さんを正視して見下ろし
て、

「夕維さんっ……!」「ゆ、柚明さん…?」

 わたしの瞳には厳しさが宿っていたと思う。桂ちゃんや白花ちゃんにも、真沙美さんや
和泉さんにも、夕維さんにも久しく見せてない、ついさっき2人の男の子に見せた強い気
迫を。

『怒られる……? 私、頬を叩かれる…?』

 後ろ暗さは、彼女がその因を分るが故に。
 責めに出たのは、責められたくないから。
 でもその心底ではむしろ叱って欲しいと。
 激しく叩き付ける愛を己の身に刻んでと。
 目の前の背の低い華奢な可愛い女の子を。

「危ない事はしないで……!」「……え?」

 わたしは両手を伸ばしその背を巻き取り。
 頬に頬寄せ唯強く己の真の想いを告げる。

「あなたを良く見ていられなかったのはわたしの落ち度だけど。償いに身は尽くすけど」

 もっと己を大切にして。白川夕維は掛け替えのない唯1人。わたしや翔君への当てつけ
で愛を試し確かめる為に、簡単に己を抛つのは止めて。もしもの事があったらどうするの。

「そんな事がない様には尽くすけど。努めるけど。わたしは万能じゃない。届かなかった
時あなたは一体どうなるの? あなたは可愛い女の子よ。それを自覚して。わたしはあな
たの求めになら幾らでも応える。必ず応える。だからもう危うい事はしないで。お願
い!」

 肌触りと温もりで、想いを浸透させて行く。
 受け止めるのではなく、わたしから伝える。
 夕維さんは強い流入に心揺らされ瞳見開き。

「好き……柚明さん、愛している。……柚明さんに、愛されている……。私、嬉しい…」

 翔は最近わたしに触れてくれないの。今回だけじゃなく、中学校に入って私への接し方
が何か違う。少し距離を置いて、避ける様な、腫れ物に触る様な。抱き留めて、くれない
の。

「きっと翔は、私に興味がなくなったの…」

 仲直りも求めてくれない。暫く手も繋いでくれない。私にはもう、柚明さんしかいない。

 きゅっと背中を締め付け返す愛しい腕に、

「違うわ、夕維さん。……それは、あなたが中学校に入って女の子になり始めたから。綺
麗になり始めた夕維さんにどう向き合って良いか戸惑い、大切にしたくて困っているの」

 子供の時の様に邪険に扱えない。でも女の子の扱いも未だ分らないから。壊したくない、
傷つけたくない想いが、そうさせているのよ。

 身を触れ合わせているので驚きも掴める。
 わたしは間近に自身の容貌を黒目に映し、

「意地や強がり抜きに、一度彼と向き合ってゆっくりお話しして。翔君は強情だけど爽や
かで良い男の子よ。きっと見直す処がある」

 夕維さんは、全く考えもしなかった発想に瞳を見開くけど、次の瞬間心に兆す危機感は、

「柚明さん、翔を好きなの……? イヤっ」

 わたしの翔君への好意を、恋と勘違いし。

「柚明さんが好きなのは私なの。柚明さんを愛するのも私なの。あなたは私の物。私だけ
を見て。翔を好きにならないで。翔の事は見ないで。私の翔を取ってしまわないで…!」

「夕維さん……?」「柚明さんは渡さない」

 心乱れた侭、夕維さんは言葉を受け付けず、その強い想いを秘めた瞳を真っ直ぐ見上げ
て。

「柚明さんを私以外には行けなくするっ!」

 背を伸ばして口づけされる予感に、わたしが先に動いた。夕維さんを背に回した左腕で、
着崩れした胸元の素肌へ再度押しつけ。キスはいけない。わたしの唇ではなく、夕維さん
の唇の問題だ。それは夕維さんの真の想い人に捧げる物だ。わたしが奪う訳には行かない。

 夕維さんは汗の引いた胸元の素肌に頬寄せた侭、わたしの背に回す腕で浴衣の帯を解き。

「あなたが私以外誰も想えない様にするの」

 砂に落ちる帯を取りに屈む暇もなく、二本の腕が浴衣の内の乳房を2つ直に掴んでいて。
生の手の感触と想いは触れるだけでわたしを揺らすけど、夕維さんは更に左に唇を寄せて。

「身体の関係を先に作っちゃうんだから!」

 左乳房をぱくっと咥えられた。温かくぬるるっとした感触が、わたしの先端を包み込む。
背筋を電流が駆け抜けて、身が痺れ固まった。

 徐々に大きくなっていた胸だけど、サクヤさんに遠く及ばないのは勿論、真沙美さんや
歌織さんにも敵わず、夕維さんより小さい位。肌の張りや艶より、むしろその適度な小さ
さが夕維さんのお気に召した様で、湿った音が。

 ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ。吸い上げる。
 乳が出る筈ないのを分って唇を動かし。

 実はわたしがこれを為されるのは夕維さんが初めてではない。少し前迄桂ちゃんと白花
ちゃんはお風呂場で、わたしの小さめな乳房を咥えるのを喜び、離すと嫌がりむずかって。
何も出ない乳房を咥えて心休まり微笑む姿を、引き離されてむずかり泣き声上げる姿を前
に、わたしは拒めず暫く毎度、お風呂場で両膝に乗せた2人に為される侭で。それももう
今は思い出話だけど。まさか級友に為されるとは。

「夕維さん、ちょっ」「んっんっ、んっ」
「少し待っ、やめっ」「んちゅ、んちゅ」

 舌が撫でる感触も歯が肉に食い込む感触も、幼子と違って確かで強い。やや執拗に長い
気がした。夕維さんの乳房の根を噛む歯が硬い。

「……痛い……、少しだけ、優しくして…」

 拒まなかったのは、その怯えを感じたから。夕維さんは自覚出来ず混乱しているけど、
翔君をわたしに取られる事を怖れている。わたしを繋ぎ止めたい行動の源は実は、わたし
への想いより、わたしを翔君に向かせない為だ。今は受け止めないと、その怯えが増すば
かり。言葉ではなく理屈ではなく。正常ではない形でも、宿した不安を鎮め欠乏を充たす。
身体は緊張に震えても、受容の想いを肌身に伝え。

 夕維さんはわたしの求めに従わず、一層強く食いついて。歯が肌に食い込み贄の血が多
少滲む。暫く痕が残る傷になる。血の力で癒しても朝迄掛る。耐えられない事はないけど。
歯形から溢れ出た多少の血が、その喉に吸い取られる。まるで母乳を吸われているみたい。

 夕維さんにわたしの身も心も共に揺り動かされる。感応の力が肌の下に彼女の想いを流
し込み、わたしを心地良さで浸食する。わたしを困らせて愉しむ夕維さんの想いが愛しい。

 痛みと恥じらいと熱情に心をかき混ぜられ、身を擦り合わせて、2人支え合った侭佇ん
で。夜は感覚が強い上に、感応が間近に効き過ぎ、わたしも暫くは何も感じ取れない状態
だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「女同士で、なんて勿体ない」「全くだよ」

 男の子達の気配を感じたのは、声が届く寸前だった。間近に来る迄、気配に気付けなか
った。絡み合いが濃厚で、心が乱されていた。

 声に正視を返しつつ、驚きと怯えに身が固まる夕維さんを抱く腕に力を込め、不安を鎮
めつつ乳房から口を離させる。その侭胸の内に顔を押しつけ、彼らを視界に入れない様に。

 彼らは松林を突っ切ってきた様だ。人目がある処で為せなければ人目を外れた処で為す。
湾曲した砂浜は、焚き火を松林の向うに隠し、旅館はまだ見えず。当然周囲に、人気はな
い。

「女同士でなんか遊んでないで、俺達と遊んでくれよ。な」「もっと愉しくしてやるよ」

 迂闊だった。こんな行いは旅館では無理だからここで受けたのだけど。ここは彼らの地
元だった。一度振り切った位で安心できる場ではなかった。彼らの執拗さを軽視していた。
あの場を去る時の彼らは、意向も不確かだったけど、わたしはこの展開を怖れていた筈だ。

 一番拙い絵図を見られてしまった。彼らは何故か、わたし達の抱擁に不満と憤りを募ら
せて。確かに正視を返し反応しないと、少しでも気力が弱まると、即座に手を伸ばしてき
そう。夕維さんとの絡み合いを眺められた後で、彼らの視線を見つめ返すのはきついけど。

「そう言う事だったんだ」「お前達、異常」
「どう弁明する積りだい」「応えてみろよ」

 足止め以上に、心を砕こうと構えた問に。
 夕維さんが、ビクと身を震わせ縋り付く。

 答を返し彼女を守るのはわたしの役目だ。
 わたしは極力平静に、事務的な硬い声で、

「あなた達とお話しする事は、ありません」

 逃げずに向き合う姿勢で手出しを牽制する。走って逃げる事は、追いつき捉まえてと言
うに等しい。留まっても夕維さんは緊張に長く耐えられまい。今は刺激をせず隙も見せず
に。

「帰りましょう、夕維さん」「待てよっ!」

 夕維さんを先に促し、追随しようとする2人の前に、わたしが振り向き正対して挟まる。

「送りは不要です。帰って頂戴」「この!」
「夕維さんは振り向かず進んで」「……!」

「ユイちゃんだけ、先に逃がす積りかい?」

 わたしの浴衣の帯を右手に持ったヤマダ君の問に、少し後ろで気配が戸惑い足を止める。

 帯がないのでわたしは常に手で抑えないと、浴衣が浜風に煽られる。返してと求めても
簡単に応じまい。今一番に大切なのは、己の装いではなく背後に庇ったたいせつな人だ。
弱味は見せず強く正視するわたしにヤマダ君は、

「まるで彼氏だな。女の子を抱き留めたり庇ったり先に行かせて残ったり。惜しいよ、ユ
メイさん可愛い女の子なのに。女の子同士の恋愛でもそう言う役割分担ってあるの? 男
役っていうか、麗しのナイト様みたいな…」

「今回はナイト様捕まっちゃう展開だけど」
「男なら興ざめだけど相手はユメイさんだ」

「守って逃がして、1人取り残されて良いのかい? ユイちゃん離れて行っちゃうよ?」

 カワダ君の問は無意味な煽りだ。わたしは夕維さんをここから引き離す為に身を挟めた。
いざとなれば、わたし1人なら何とかできる。

「あなた達はわたしが目当てなのでしょう」
「確かに、ユメイさんだけでも良いけど…」

 ユイちゃんはユメイさんを見捨てて逃げる事に、何も感じないのかい? 男役と言った
って、ユメイさんも華奢な女の子なのに、俺達の中に1人置いて逃げ去って、イイのかな。

 夕維さんの足を、凍り付かせる問いかけに、

「夕維さん、聞かないで。今は自身を最優先に。わたしもすぐ夕維さんの後を追うから」

 一緒に逃げようと促せば、夕維さんも駆け出せた。でも、夕維さんの足では彼らを振り
切れない。わたしが抱えて逃げるのも無理だ。撃退と言うよりわたしは彼らの足止めに残
る。わたし1人になれば逃げる事も無理ではない。

 でも彼らは夕維さんの足を止める問を再び、

「ユイちゃん、俺達がユメイさんと一緒に夜を愉しんでもイイのかな?」「ユメイちゃん、
きっとユイちゃんが去った後で俺達と色々愉しくお話ししてくれると思うんだ。だって」

 そもそもその為に、さっきも砂浜の焚き火迄来てくれたんだし。ユイちゃんがいたから、
面倒見なきゃいけなくなったけど。元々は俺達の誘いに乗って来てくれたんだし。今から、

「ユイちゃんがいなくなれば俺達と夜を愉しく語り明かせる」「イイのかな、この侭で」

 ユイちゃんのユメイさんじゃなくなるよ。

 彼らは夕維さんを逃して人を呼ばれる事を怖れた様だ。ならこの場に留めた方が良いと。
夕維さんの心の隙に入り込んだ問はその足を止めた。わたしが乗り気で、又は乗り気でな
くても力に屈し彼らとの関係を強いられるとの不安に、奪われるとの焦りに、夕維さんは。

「夕維さん、聞かずにその侭進んで頂戴」

「その侭進んで。俺達ユメイさんと」
「ユイちゃんの目のない処で様々に」
「さっき2人でやっていた様な事を」
「愉しませてもらいますか、3人で」
「明日にはもうユイちゃん蚊帳の外」

「柚明さん、イヤ……私、行かないっ!」

 届いたのはわたしの声ではなく彼らの声で。
 足を止めた夕維さんにカワダ君が歩み行き、

「俺にもユメイちゃんを取っといてくれよ」

 動こうとするわたしをヤマダ君が牽制する。

「大丈夫、ユイちゃんにさせていた位の事しかしないから。丁度おっぱいは2つあるし」

 わたしと夕維さんに聞かせる様に応える。

「片方はユイちゃんの使い古しだろうよ…」

 まあ、相手が男じゃないから、許すかな。

 ヤマダ君がわたしに腕を伸ばし捉えに掛る。選択の余地はない。浴衣を抑えていた手を
解いて、伸ばされた両手を両手で掴み、その身を砂の上に投げ飛ばす。はだけた浴衣に瞳
が見開く瞬間、彼の視界は上下ひっくり返って。

「うお」「何だ」「夕維さんから離れてっ」

 即座にカワダ君と夕維さんの間に身を挟む。夕維さんの肩を掴んでいた左腕を右手で弾
く。驚きつつも浴衣の左肩を掴む彼の右手を、両手で掴んで捻り砂の上に転がして。その
場で腰を抜かし座り込んだ夕維さんの間近に屈み。

「夕維さんしっかり」「ゆ、めい、さん…」

 背後で起き上がる2人を気配と音で感じた。砂の上は衝撃が少ないし、わたしも加減し
たので余り痛手はない筈だ。加減しすぎて頭に血を上らせる余力を残したかも知れないけ
ど。

「ちちっ、やるねぇ」「この、いて、やろ」

 夕維さんは心も身体も強ばって走れない。
 男の子2人が起き上がる動きの方が早い。
 動けない夕維さんを背に庇ったわたしに、

「優しくしていれば」「いい気になって!」

 最早好意的な応対は期待できそうもない。

「その浴衣引き剥がして、歯形の痕を晒すよ。君の所行を全て月明りの下に公開だ」「ユ
イちゃんの目の前でユメイちゃんを苛める。ユメイちゃんの目の前でユイちゃんを苛め
る」

 強まる憤りと悪意に、感応の力が呑み込まれない様に気力を保ちつつ、油断なく対峙し。
勝算はあっても、決して優位な状況ではない。今少し、夕維さんが我を取り戻す時間を稼
ぐ。その後はわたしがやはり足止めし夕維さんを。

「絶対逃がさないからな、ユメイちゃん!」

「ユイちゃんも、男の子を良く知ると良い」

「させるかよ。……俺の夕維に手を出すな」

 局面を打開する男の子の声が、挟まった。


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「な、んだ。お前」「誰だっ?」「翔っ!」

 わたしの後に現れた小柄な男の子の憤りに、目の前の2人がたじろぎ驚く。この夜更け
に砂浜に、誰かが介入する事は彼らも予想外か。走り来た故か憤りの故か荒い息に、夕維
さんも応える。腰は抜けた侭でも瞳は意志を戻し。

 わたしは彼らへの対峙を崩せないので、振り返りはしないけど。正直心強かった。有利
や不利を抜きに、わたし争いは好まないから。

「夕維に手を出す奴は許さない! お前ら」

 翔君は夕維さんの元に屈み込んでその無事を確かめて、強い視線を彼らに向ける。わた
しは背後で見えないけど、状況は視えていた。

「あんたもしかして、ユイちゃんの彼氏?」

 ヤマダ君が訝しむのは、夕維さんがわたしと恋仲との前提に立つ故だ。女同士で恋し合
うなら、男の恋人がいる筈がない。カワダ君もやや混乱し、気勢も欲求も削がれた感じで。
そこに『文句あるか!』と翔君の怒声が響く。

「羽藤が、今迄夕維を守ってくれたのか?」

 わたしと夕維さんへの問に、夕維さんは翔君の胸の内で言葉に出さず頷いて、わたしは、

「来てくれて有り難う。助かったわ」

 2人対2人になれただけではない。男の子の持つ威圧感が、翔君の気迫が局面を変えた。

「お前、分っているのか? 色男」「ここにいるユメイちゃんとユイちゃんの関係をさ」

 彼らはわたしと翔君の間に楔を打とうと、

「下着も着けてないユメイさんの左のおっぱいに、ユイちゃんの歯形が刻んであるのを」
「女に女取られたなんてお笑いも良い処だ」

 煽る声に、夕維さんが心を震わせるけど、

「……だからどうした!」

 翔君の憤りは燃え立つ程で、揺らぐ事なく、

「夕維は俺の彼女だ。男にも女にも渡さない。傷つける奴は許さない。羽藤と何がどうな
ろうとも、夕維は俺の守るべき大切な女だっ」

 お前らは夕維を傷つけようとしただろう!
 ストレートな愛情表現が決定打になった。

「……ダメだ、帰ろう」

 先に見切りを付けたのはヤマダ君だった。

 女の子2人なら力づくを通せると思っていた様だけど。女の子同士の仲を揺さぶれば力
づくにもせず言いなりに出来ると思っていた様だけど。カワダ君は尚不平そうだったけど。

 彼らも潮時を感じたのだろう。わたしもそれを感じ取れていた。翔君が現れたあの時に。
今宵の事だけではなく、夕維さんとの、利香さんとの、翔君との数週間の懸案が一つの終
りに向う潮時を。この形で関る日々の終焉を。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 松林に消える2人を見送り終えた頃合に、

「翔遅いっ。何でもっと早く来てくれな…」
「夕維のバカっ!」

 動ける様になった夕維さんの、縋っての抗議が全て発される前に。翔君の短い声に続き。

 ぴしっ。女の子の頬を叩く音を軽く響かせ。

「……危ないじゃないかっ!」

 叩いたその手が彼女をぎゅっと抱き留めて。
 これが男の子の愛情の表し方なのだろうか。
 わたしには為せない、痛みを伴う強い想い。
 互いの身体を繋ぎ合い、心を通わせ合って。

「もう俺を、心配させないでくれ。夕維…」

 夕維さんの心が溢れる。その瞳に堪る涙は痛み故ではなく、怯えでもなく、確かに助か
った今になって初めて感じる心細さと愛しさ。危機を前にして吹っ切れた翔君の想いは強
く、

「お前は俺が抱き留める。お前は俺が守るから。だから俺が守れない範囲に出て行くな」

 肉を締め付ける痛い程の抱擁に、

「う、う、うう。うわあああんん」

 夕維さんより小柄なのに、翔君の身体が夕維さんを、身も心も確かに抱き留め包み込む。
それが飛鷹翔の真の想いで、白川夕維の真の想い。2人の間には、わたしは最早邪魔者だ。

 月明りの下で暫く温もりを交わし合った末、わたしに気付いて視線を向けてくれた翔君
に、

「翔君、助けてくれて有り難う。そしてごめんなさい。夕維さんにも。わたしは力不足」

 砂の上に膝をついて頭を下げる。彼の大切な夕維さんを、わたしは完全に守れなかった。

 あの2人を退ける事は出来るけど。問題はそう言う事ではなく。夕維さんを安心させら
れたかどうか。わたしは彼らを投げ飛ばしても退かせられなかった。平穏を戻せなかった。

 敵を倒すだけで人は守れない。身体や生命を守るだけで人は守れない。守りたい人の心
迄を、不安からも怖れからも哀しみからも守れないと。心から笑みを浮べられる様に導か
ないと。今宵のわたしにそれは為せなかった。

 翔君は、現れて気合いを見せるだけで彼らを退けた。強さとか業とかではなく、男の子
の本気を示すだけで、相手の応対は随分変る。わたしは、睨むだけで敵を退けられはしな
い。

 ヤマダ君もカワダ君もわたし達を恋仲と見てから嵩に掛ってきた。それ迄は馴れ馴れし
くも優しかったのに。翔君の登場はその熱も冷ました。女の子が女の子を守る事は難しい。

 異常な者にはどんな暴虐をしても良いというのは間違いだと思うけど。そうなる人もい
るのは人の世の常か。彼らは異常を嫌い正常を押しつける事で、己を守ろうとしたのかも。
そう為した因がわたしなら、罪はわたしに…。

「男の子には、敵わないね」「柚明さん…」

 彼らが捨てた帯を締め直すわたしの前で、

「羽藤。お前に、見ていて欲しい」「翔?」

 夕維さんが言葉を続けられなかったのは。
 翔君がその唇で夕維さんの唇を塞いだ故。
 わたしの前で見せつけるのは彼の意志だ。
 彼女を抱き留めて放さないとの強い想い。

 彼はわたしから夕維さんを奪い取って行く。
 夕維さんは驚きつつも逆らわず受け容れて。
 男の子と女の子は互いの身と心を委ね合い。
 それが2人の正しい在り方で人の世の常だ。

「夕維は今から俺の恋人だ。男にも女にも渡さない。お前から、確かに奪ったからな…」

 唇を放してわたしを改めて正視する翔君に、わたしも正視を返して頷いてから夕維さん
に、

「おめでとう。想いが届いて、良かったね」
「柚明さん……あの、私、柚明さんに……」

 何かを言いかけようと口籠もる夕維さんに。
 良いのよ。気にしないで。わたしは微笑み、

「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 あなたの幸せが、わたしの幸せ。あなたの喜びが、わたしの喜び。何も思い煩う事なく、
翔君に身を委ねて。そして望んでくれるなら、今後もわたしはあなたの友達よ。そうでな
くてもわたしには、あなたはいつ迄もたいせつ。

「あなたの真の想いの侭に。あなたの真の願いの侭に。あなたの真の望みの侭に。ね?」

「柚明さん……私、その……、ごめんね…」

 ほんの少し胸の奥が痛むのは、左乳房の出血の故でしょう。あの状態で動き回ったから。

 夕維さんの頬を己の頬に押しつけ翔君は、

「悪かったな。俺、お前を誤解していた…」

 それと今迄夕維を守ってくれてありがとよ。
 その声は戦友の健闘を称える様に爽やかで。

「今から夕維は俺の女だ。夕維が与えた非礼や痛みや心の傷は、俺が責任を取る。その」

 夕維が噛んだっていう胸の傷は大丈夫か?

 彼はこの傷を未だ見てないから心配らしい。恋敵の立場が解けたので、女の子扱いに戻
された様だ。気掛りだけど見せてと言えず、口に上らせるのも恥ずかしそうな声にわたし
は、

「乙女の胸に秘めた傷は、詮索しない物よ」

 わたし、たった今恋に破れたの。翔君の所為で。その上尚傷心迄探られるのはやや惨め。

 わたしは彼の、今は余計な配慮を止めて、

「わたしは良いから一番の人に目を向けて」

 今からはあなたが夕維さんに責任を負う。
 わたしから奪い取った、たいせつな人よ。
 彼女を哀しませたらわたしが承知しない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 初夏も宿泊交流も、瞬く間に過ぎ去って。

「結局、事が終ればゆめいさんは用無し?」

 白川さんは翔君とよりを戻し、リカは状態が安定したら柚明さんに寄り付かなくなって。

 バス停から学校迄の通学路で、一緒に歩む和泉さんと真沙美さんにわたしは応えて頷き、

「夕維さんに振られたとか、翔君に振られたとか、利香さんに振られたとか、噂は色々」

「あっさり言うけどゆめいさん、それだけ色々手を尽くして身体張って、誤解されて困ら
されて、泣かれて喚かれて非難迄されて…」

「笑って済ませる話しかい。柚明の女好きの噂は完全には拭えてない。向うから関ってき
て力尽くして解決し、結果向うは恩知らずに去って行き。あんたに残るのは噂の印象で」

 何の実もなく、唯不利益を蒙っただけだろ。白川はあんたに本気でもなく唯振り回した
末に飛鷹の元に戻った。朝松はあんたに助けを求めて叶った末にあんたを怖れて遠ざかっ
た。何の成果も残らない。あんた唯損だけ被って。

「うん。それはこうなるべき物だったから」

 これは人の世の常だ。こうなって終る事も、わたしの望みの範囲だった。夕維さんや利
香さんが、日々を愉しく過ごす基盤を保てれば。わたしは感謝を求めて己を尽くす訳じゃ
ない。

 中学校の校門が近づいてくる。他に登校する人もいるので、声の大きさに気を遣いつつ、

「少し辛い時はあったけど、たいせつな人の幸せの為だと想えば、わたし頑張れるから」

 想いを支えてくれる人も、左右にいるし。

「あんたこうなる事は最初から分っていて」

 でも真沙美さんと和泉さんの呆れた声には、微かに優しさと微笑みが込められて、暖か
く。

「救いようがないから、私が救うよ。柚明」
「ゆめいさんの日々は、あたしが守るから」

 温かで確かな想いに左と右を挟まれつつ、

「最初に視えた像の様に、全く何の絆も残せなかった訳ではないみたいだし」「「?」」

 その中身は話すより見せた方が良いかも。
 丁度登校して校門ですれ違う利香さんに、

「お早う、朝松さん」「羽藤さん、おはよ」

 こちらに首を向けて、少しぎこちないけど確かに声を返す利香さんに、真沙美さんと和
泉さんがやや驚く。異常を嫌い視える事を厭う彼女が、視えない状態が安定し禍が去った
後に、今尚視えて力を持つわたしに声を返す。

「利香さんと柚明ではなく、朝松さんと羽藤で呼び合うお友達の関係は残して貰えたの」

 当初見た像ではそれさえも残らなかった。
 わたしを嫌悪し視線さえ逸らす筈だった。

 何がどの様に分岐に作用し、定めの流れを修正したのかは不確かだけど。結果は変った。

 利香さんは真沙美さんや和泉さんにも軽く頭を下げて、校舎に行く。それを見送りつつ、

「あんたの力だよ、柚明」「わたしの…?」
「力って言うより想いと行いだよ、きっと」

 ゆめいさんの想いと想いを込めた行いが。

「少しでも結末に響いたんだ。あんたの他人の幸せを望み願う想いが、あんた自身の予想
の前提を崩す程強かった。そう言う事だよ」

 声を掛けて貰う間にも、もう一つの証しが、

「柚明さんっ……! 翔が、翔があぁっ!」

 わたしの背に張り付く小さく柔らかな人は、

「昨日私が心を込めて焼き上げたクッキーを、翔が甘ったるいって食べないの。好き嫌い
言わないでって頬を引っぱたいて、それから口も利いてやってない。翔は絶対、許さな
い」

 夕維さんは周囲みんなに聞える声を発し。
 わたしの背にひしと抱きついて頬を寄せ。

 わたしは振り向くと夕維さんを正面から抱き寄せて、頬に頬寄せて、耳元に囁きかけて、

「甘みの入れ過ぎね。翔君は辛党なの。砂糖を入れなくたって2人は充分甘々なのだから。
夕維さんが心を込めてあげれば充分よ。ね」

 相変らず周囲が目に入らず誰にも密着する夕維さんに対し、わたしは周囲を目に入れて
密着する姿勢を変えず、身も心も抱き留めて、

「翔君今朝は朝練で、未だ逢ってないんでしょう? 挨拶して仲直りしていらっしゃい」

 頬を染めて頷く夕維さんを残して、2人に追いつく。周囲は男の子も女の子も、鎮まっ
たばかりの噂を想い返している様だけど、

「柚明はそう言う奴だって分っていたけど」
「相変らず剛胆ですのね。柚明さんは……」

 歌織さんと早苗さんが、呆れと受容を兼ねた苦笑いで迎えてくれる。挨拶を返しつつ歩
み寄り、髪についた埃を払う仕草で早苗さんの頬に軽く触れ、目立たぬ様に力を注ぎ込み。

『早苗さんは今の処安定して問題なさそう』

「有り難う。温かい」「どういたしまして」

 頬を染める早苗さんを横に見て歌織さんが、

「柚明あんた、まさか次は早苗を狙っている訳じゃ、ないだろうね?」「なんのこと?」

 一度とぼけて見せてから訝しむ歌織さんに、

「結城早苗は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 正視には歌織さんを愛しむ想いも込めて、

「しっかり心を繋いでおけば、大丈夫だよ」

 一番に愛されなくても、怯え嫌われても。絆絶たれ、想いを隔てられ、触れ合う事も叶
わず、一緒に過ごした日々を忘れ去られても。

 訪れの果てが何を見せても、きっと大丈夫。


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