第7話 愛人関係



前回迄の経緯

 羽藤柚明は、中学2年生の夏を迎えました。

 利香さんの視えてしまう悩みを解消しつつ、夕維さんと翔君の間に立って。中途半端は
却って拙いと、双方と緊密な繋りを持った為に。部外者や関係者にも多くの誤解を招いた
けど。

 宿泊交流で夕維さんと翔君の絆を結び直せたお陰で、漸く周囲も落ち着いて。わたしに
抱かれた幾つかの誤解は、実は誤解でないかも知れないけど、そこは敢て深く問い糺さず。

 夕維さんが自身の想いに気付いてくれたお陰で、翔君を一番に恋していると自覚した今
なら。わたしも夕維さんの願いに応えてそのお宅を訪ねる事も叶う。でもこの2人は意地
っ張りだから、中々一筋縄ではいかなくて…。

参照 柚明前章・番外編・第5話「人の世の常」


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 中学2年になって三月経ち、夏の日差しが降り注ぐ休日前日の放課後に。音楽室の掃除
を終えて教室近くの廊下迄戻ったわたし達に、と言うよりわたしに、飛びついて来た人影
は、

「柚明さあぁぁんっ……!」「夕維さん?」

 わたしより頭半分背が低い細身の女の子は、躊躇いもなくぽふっと正面からその身を預
け。大きくないこの胸元に、頬を唇を擦り込ませ。柔らかな肌触りは好ましいけど、嬉し
いけど。放課後も未だ早い頃合で、周囲にはこれから部活の翔君を始め、男女複数の視線
があった。

 夕維さんは自身の真の想い人を、羽藤柚明ではなく飛鷹翔だと悟れた後も。相変らずわ
たしへの接し方が、近しすぎる程に近しくて。

 先週の宿泊交流を経て、2人が仲直りしてその恋仲を双方公認した為に。わたしと夕維
さんが女の子同士で恋仲との噂は鎮まって来たけど。夕維さんは熱くなると周囲を見失う。

「どうしたの、夕維さん? 何があったのか、落ち着いてわたしに、ゆっくりお話しし
て」

 周囲の視線や反応は少し気懸りだったけど。
 夕維さんの向う見ずは誤解の源だったけど。

 今は助けを求め縋って来た女の子に視線を合わせ、想いの焦点を合わせ。背の半ば迄届
く長い黒髪と、華奢な肢体と端整な顔立ちは。

「……翔が、翔が私のことを、ちんちくりんのおかちめんこって、広田君達の前でっ…」

 全てを聞かずとも大凡の状況は視えたけど。思いの丈をお話しさせるのが大事な時もあ
る。羽様のお屋敷で幼い双子に対する時にも似て。親密に話しを聞いたと感じて貰う事が
大切だ。激した人は老若男女問わず全て幼子に近しい。

 髪が絡む程近くに唇を寄せ、時に正面から後ろから頬合わせ、間近で見つめ合い。衆目
の前でも前後問わず抱きつかれ、縋り付かれ。夕維さんにはこの密着は日常と化したみた
い。

 心の乱れを鎮める為に、確かに想いを受け止めたと示す為に。背に回す腕に心を込めて。
身を重ねればわたしの力は詳細に事を知れる。心の起伏を精緻に悟れる。これが人の誤解
を呼ぶのかも知れないけど。今はその怖れは承知で、たいせつな人の心を鎮める事を優先
に。

 わたしのセーラー服で、胸元で涙を拭い終えたその顔を、上げる様に促して。唇も触れ
そうな程間近で、その瞳を見下ろし正視して。美子さんも歌織さんも目を見開いていたけ
ど。広田君も翔君も唖然として身動きしない中で。

「そんな事はないわ。白川夕維は羽藤柚明のたいせつな人。明るく元気に正直な可愛い子。
わたしが心から好いた黒髪豊かな愛しい子」

 右手をその黒髪に梳き入れて、言葉を耳に流し込み。その憤慨を肌身に受けて鎮め行く。

 飛びつかれた時に、この場で為された直前拾分程の展開は掴めた。夕維さんの説明が言
葉では巧くなくても。声音や仕草や息遣いや縋り付きの強さで、今のわたしは大凡悟れる。

『いつもいちゃついて痴話喧嘩して、本当に飽きないな、お前達』『な、なんだよっ…』

 夕維さんが今宵の予定確認に翔君に歩み寄ったのを、広田君達が冷やかし。翔君が照れ
隠しに心にもない事を口走った。翔君も夕維さんと同様、意地や勢いで引っ込み付かなく
なる処があり。家も隣で小学校からの幼馴染みは、似た者同士日々諍いと和解を繰り返し。

『勘違いしないでくれ。夕維が俺に付き纏っているんだ。俺がくっついている訳じゃ…』

『冗談! 私が翔に付き纏うなんて。毎日翔が私に付き纏ってきて、迷惑しているのに』

 夕維さんは翔君にも、わたしにしたのと同様に、正面間近に顔を寄せ。翔君もそれが常
なので、正面間近から瞳を言葉を交わし合い。

『お前良くそんな事言えるな。朝も晩も今だって寄って話しかけて来たのは夕維だろう』

『何よ! 柚明さんと仲良くした最近も、呼んでもないのに挟まって来たのは翔なのに』

 主張はそれぞれ一理あるけど、でも全部が正しくはない。お互い突っ込み処は心得てい
るけど、己の穴ぼこは指摘される迄気付かず。

 先月夕維さんが菊池先輩に、その気はないのに翔君に見せつける為に、翔君に助け出し
て貰う為に、告白やキスを望んで引っ込み付かなくなり。翔君不在の中、わたしが挟まっ
て抱き留め助ける羽目になったのも。双方の意地の張り合いとすれ違いの故だ。2人は互
いを水の様に空気の様に欲し合っているのに。

『ああもう、どっちでも良いってば』『どっちが付き纏っているんでも、お互い好き合っ
ている事に違いないんだろ?』『夫婦漫才』

 広田君の声に堀田君や中村君が続くのに。
 夕維さんも翔君も誘われる侭に反発して。

『冗談止めて。何で私が翔なんかと夫婦にならなきゃいけないの』『こっちこそ。夕維み
たいなちんちくりんの、おかちめんこを…』

 勢い任せな翔君の言葉に夕維さんは憤り。
 どっちもどっちみたいな状況だったけど。

 夕維さんはわたしの帰着を待っていた。翔君はもうすぐ部活の練習に行く。夕維さんが
翔君に話しかけたのは今宵の予定確認だった。

 でもほんの僅かな時間で状況は随分変り。
 泣き腫らした瞳が間近でわたしを捉えて。

「翔なんか嫌い。私より背が低くて足も短い癖に。デリカシーの欠片もなくて、失礼な事
ばかり言って。翔より柚明さんの方が好き」

 柚明さんの方が柔らかく滑らかで背も高い。絶対酷い事言わないし。手を握っても抱き
ついても振り払わない。じっくり私のお話しに耳を傾けてくれる。どんなに我が侭言って
も駄々こねても、優しく大人しい。私やっぱり。

「翔じゃなく柚明さんを恋人にしたいっ!」

 夕維さんも、勢い任せに重大な事を口走る。好いてくれる事は有り難いけど。それを言
葉や仕草に示してくれる事は嬉しいけど。人目も忘れて想いを訴えてくれる事は幸せだけ
ど。

「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 明るく元気に正直で笑顔の素敵な可愛い子。
 わたしが心から好いた黒髪豊かな愛しい子。

 わたしは再度左頬を合わせて憤りを鎮めつつ。瞳を広田君達に、その左端の翔君に向け。

「わたしを好いてくれる気持はとても嬉しい。わたしも元気で可愛い夕維さんを好きだか
ら。そう言って貰えると、望みがないと分っていても、心傾いてしまいそう。一番の想い
を返す事も叶わないわたしに、熱く綺麗な想いを注いで貰えて本当に嬉しい。有り難う。
わたしも夕維さんの幸せと守りに身を尽くすわ」

 偽りのない己の想いを確かに伝える。この親愛と夕維さんの好意への感謝を、言葉で仕
草で分る様に。周囲の動揺や疑念への対処は後回し。今は心揺らされた可愛い人を優先に。

「夕維さんは元気な笑顔が素敵な子。涙顔は似合わない。俯く姿はらしくない。女の子は
男の子より小柄な位が丁度良いの。あなたの可愛さも優しさも翔君は全部分っているわ」

 時々照れや恥じらいで、心にもない事を口にする天の邪鬼な処もあるけど。あなたを大
好きな想いは、翔君にも深く根付いているの。夕維さんが好いて恋人に認めた程の男の子
よ。あなたの可愛さに惚れ込んでいない筈がない。

 翔君は、決まり悪そうに俯いていた。それは相思相愛を人前で語られた恥じらいよりも、
勢い任せに夕維さんと言い争って涙させた事への後ろめたさで。その表情は、悪戯が露見
して叱られると察した聡い双子のそれに似て。

「翔君はあなたを心底好いている。誤った道に踏み込みかけたあなたを引き戻しに、わた
しに談判しに来た程に。他校の男の子に迫られたあなたを、駆けつけて助けてくれた程に。
口下手で意地っ張りで、時にその想いを巧く表せないのは、困った処だけど。強く真剣で、
短所を補って余る程に素晴らしい男の子よ」

 愛しさを示す抱擁は弱めず頬合わせた侭。

「翔君の素直じゃない処や勢い任せな失言迄、許し受け容れてとは望まない。そこは彼に
直して貰うべき短所だから。唯、分ってあげて。そんな短所を持ちつつも、飛鷹翔は白川
夕維を、あなたを一番に好いていると言う事を」

 翔君のあなたに抱く想いはわたしと同じ。

「不安に想う事は何もない。素直になれない翔君を叱りつける位で丁度良い。それでも翔
君が素直になれない様なら、わたしに言って。愛しい夕維さんの為に、わたしが彼の口を
こじ開けて、秘めた恋心を何度でも語らせる」

 間近な黒い双眸は微かに潤んで見開かれ。

「翔君……」「……は、羽藤。あのなっ…」

 頬合わせ、背に腕を回し合い、胸を潰す抱擁の侭。わたしはその女の子公認の彼氏に視
線を言葉をやや強く。翔君は目の前で為される女の子同士の抱擁よりも、夕維さんを涙さ
せた罪の意識に、自らの影に既に怯んでいた。

「翔君。今日はわたしが夕維さんを落ち着かせて家迄送るから、部活に行って。その代り
後で夕維さんに、しっかり謝って償って…」

 2人共冷やかしが一つ入るだけで、意地の張り合いの堂々巡りに落ち掛る。双方素直に
謝れず許せない間柄なので。わたしとの絆を翔君に誤解される怖れも失せた今、わたしが
挟まる事に問題はない。それに元々今日は…。

 男女合わせて拾数人の視線の半分は、わたしの女の子同士親密すぎる接し方への疑念か。
言葉の流れを追えば、わたしと夕維さんの仲はお友達の関りだと分ってくれると想うけど。

「わたしは翔君と夕維さんの絆を支えたいの。
 夕維さんの一番の人も間違いなくあなたよ。

 あなたが素直になれば、夕維さんは必ず受け容れ許してくれる。少しの間わたしが夕維
さんを預るわ。憂いなく部活に励んで来て」


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 翔君が、冷やかしも忘れて呆けていた広田君達と共に去り。残った美子さんや歌織さん
達女の子の視線の中で、わたしはもう暫く夕維さんの心を抱き留め続けて。2人はこの絵
図を前に視線を合わせ、肩を竦めて苦笑いを。

「元々悪意に誤解して噂する気もないけど」
「本当に柚明は誰にも全身全霊で羨ましい」

 印象は好意的だったので、特に問もなかったので、弁明はしない。わたしの級友との親
密な触れ合いは、男女問わず真沙美さんや美子さん、歌織さんや早苗さんにも為している。
わたしは人と肌触れ合わす事が嫌いではない。たいせつな人とは肌身も心も重ね合わせた
い。

 夕維さんの落ち着きを見定めて抱擁を解き。帰途を一緒に、今日は銀座通の夕維さん宅
へ。でもなぜかこういう日に限って、様々な紆余曲折がある様で。生徒玄関で遭遇した人
物は、

「羽藤に、白川か。……相変らず親しいな」
「菊池先輩、こんにちは」「あっ……あの」

 夕維さんがわたしの背後に身を隠す。怖い人ではないけど罪の意識があるのかも。結果
わたしが菊池先輩から夕維さんを、庇う様な形で受け答え。これも人の憶測を呼ぶのかな。

 去年初夏の塩原先輩達との一件の後。真沙美さんや和泉さんと共々に、性的暴行の噂を
拭えてなかったわたしを厭わず。菊池先輩はオハシラ様のお祭りに誘ってくれた。でも…。

 関係が短く終ったのは、真弓さんやサクヤさんがしばしば見せる、わたしに近しい男の
子への警戒過剰の故ではない。わたしは男の子を嫌ってないし、彼は悪い人ではなかった。

 彼がわたしを見初めた動機が『性的暴行された女の子』の心の傷を慰めてやる事にあり、
『優しい先輩の僕』に酔いたかった故であり。羽藤柚明を求めてくれた訳ではなかったか
ら。

「叫び声が聞えたんで、近くで少し様子を窺っていたんだけど、大事でなくて良かった」

「心配頂いて有り難うございます」「……」

 紳士的な人だった。菊池先輩は、初回でも2回目でもキスを断ったわたしに、最後迄無
理強いをしなかったし、言葉も荒げなかった。唯、わたしの性的暴行の噂を丸呑みし、否
定しても自分に隠し事は不要だと前提を変えず。

 彼に応え続ける事が、真沙美さんや和泉さんの性的暴行の噂も引きずりかねない。秋を
待たずわたしは先輩に、関係終了を申し出て。僕に君は救えなかったんだねと呟き、先輩
もそれを了承してくれた。最後迄分って貰えなかったという点でわたしも残念な結末だっ
た。

 そんな経緯があるだけに。夕維さんと菊池先輩の間に挟まった時は、わたしが先輩に絡
んでいるとも噂された。翔君との痴話喧嘩が拗れ、味方や同調者を求めて傷ついたと吹聴
して歩く夕維さんに、先輩が接触したのは善意の故だ。多少の自己陶酔があったにしても。

『今回は、違うんだから。私凄く傷ついたの。深く傷つけられたの。翔は絶対、許さな
い』

『キスするよ。優しく紳士な男の子に、心の傷を癒してくれる人に、唇から癒して貰う』

 夕維さんは翔君への当てつけに、助けに来て貰う算段で。本心では望んでいないキスと
告白を、望むと公言し菊池先輩と待ち合わせ。翔君不在の中、感応の力を持つわたしの他
に、彼女の本当の怯えや悔いを察せる人はおらず。

 引っ込みが付かず、イヤもごめんなさいも言えず、竦む夕維さんの前にわたしは挟まり。
夕維さんを抱き留めて涙を嗚咽を受け止めて。限りなく、人の恋路の邪魔に近い情景だっ
たけど。恋人を奪い取るに近い絵図だったけど。

『夕維さんは先輩とのキスを望んでいません。勢いでここ迄来てしまったけど、引っ込み
着かなくなっただけで、彼女の想い人は別にいるんです。見せつけたかっただけなんで
す』

『夕維さんは望まない人のキスに怯えています。身の震えは緊張ではなく後悔の為です』

『お願い。夕維さんの気持を分ってあげて』
『僕には、白川も救う事が出来ないんだね』

 泣き崩れる夕維さんを受け止めて、柔らかな感触と温もりに絡みつかれ、暫く身動きも
叶わず。その様を前に、菊池先輩は苦い表情で尚紳士的に引き下がってくれた。去り際に、

『ところで白川の想い人って、誰なんだ?』

 その問に、想いが溢れ返り喉も胸も詰まっていた夕維さんは、震える声を漸く絞り出し、

『柚明さん……』

 その一言が翔君や菊池先輩を含む周囲に誤解と噂の渦を招き。翔君は何度かわたしに談
判に来て、夕維さんを含めた三角関係は人の注視を呼んで。先週漸くそれも収束したけど。

 夕維さんは未だ菊池先輩に謝ってなかった。筋論では彼の善意を、その気もないのに利
用しようとした夕維さんに非がある。夕維さんはこの件を、有耶無耶にしたかった様だけ
ど。

 わたしはむしろ夕維さんに、この場で確かな謝罪を促す。彼女も自身の非は分っている。
さっきの翔君と同じ、聡い子供の顔を見せる夕維さんの左に添って。間近に触れて囁いて、

「人は間違う事もあるわ。過ちを犯した時は、謝って償って、許して貰うのが最善の方法
よ。謝って願う仲直りには、素直さが大事なの」

 夕維さんは謝罪を受け容れ難い性分なので、親身に接してしっかり中身を伝え切る。理
屈ではなく、あなたを想っての忠告だから受け容れてと、気持に訴える。周囲には頬を染
め瞳を見開き、口元を抑える女の子もいたけど。

 これは完遂する。しないと夕維さんに分って貰えず、菊池先輩との蟠りを解消できない。

「心から謝れば、夕維さんが抱く申し訳なさに整理が付くわ。この侭謝らずに日々を過ご
しても、夕維さんの心が晴れないでしょう」

 面と向って謝る貴重な機会を逃さないで。
 微かに涙ぐみつつ頷く感触が肌身に返り。

「……ごめんなさい。……もうしません…」

「……まあ、いいさ。済んだ事だ……僕も君の真意を分らない侭、過ちを犯してしまわな
いで、君を傷つけずに済んで、良かったよ」

 菊池先輩は少しの蟠りを残しつつ、鷹揚に。
 夕維さんの謝罪を受けてくれたけど、でも。

「その事は良いとして。女同士の恋愛は、同性愛は好ましくないと想う。止めるべきだ」

 菊池先輩の認識は、未だ誤解と噂の渦巻いていた先週から脱しておらず。窘める語調は、

「サッカー部の飛鷹が、幼馴染みの白川の行く末を心配していたと聞いた。恋や愛は男女
の間で成立するのが自然だ。友達同士の仲の良さを勘違いして、道を誤ると悔いを残す」

 その求めにはわたしが一歩前に出て応える。

「ご心配頂いて有り難う。翔君ともお話しして誤解は解けています。夕維さんとわたしは
恋仲ではありません。ご心配は無用です…」

 でもそう簡単に終れないのがこの人だった。

「女同士で色恋の関係なんてどう見ても正常と言えない。早い内に考え直した方が良い」

「大丈夫です。夕維さんとわたしは親密なお友達の関係ですから。夕維さんには翔君が」

 菊池先輩は尚穏やかに真摯な語調を変えず、

「テレビでは色物ネタとして取り上げるけど、真剣に考えてくれる人は殆ど居ない。学校
でも隣近所でも、色眼鏡で見られるだけだし」

「菊池先輩、柚明さんの答を聞いてない…」

 菊池先輩は一度固めた認識を、容易に変えない。それが長所であり短所でも。善意な人
なのだけど。人の答を聞かず、己が語りたい想いのみを語り、彼が納得する迄諭し続ける。

 彼の状況認識のズレは、時に人を掻き乱す。わたしの性的暴行の噂も、鎮まった頃に彼
が再度口に上らせ。未だ何かあったのか、やはり何かあったのかと、人の疑念を再浮上さ
せ。

「菊池先輩。わたしと夕維さんは噂された様な仲ではありません。夕維さんには翔君とい
う恋人がいます。わたしは唯のお友達です」

「女同士での恋愛は、同性愛はやはり歪んでいる。出来るだけ、早く解消するべきだ…」

 通じない話しに夕維さんが、気味悪さを感じてわたしの背中に再度隠れる。どんな答を
返しても無意味と思いつつ、年長者を無視して突き抜ける事も躊躇う心情は分った。でも
逆にこの絵図は、わたし達の緊密さを示して。

「羽藤も去年性的暴行を受けて、男嫌いになる気持は分らないでもない。でもそれで女を
恋愛対象に見るのは不健全だ。一緒に性的暴行をされた金田や鴨川は、決してそうは…」

「菊池先輩」決して声は荒げなかったけど。

 先輩の言葉が止まったのは、わたしが彼の両手を握って、瞳を覗き込んだだけではない。

「金田和泉と鴨川真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人。己を尽くして守りたい綺麗な人」

 激する心を無理に抑えた瞳に意思を込め。

「わたしも和泉さんも真沙美さんも、去年夏の塩原先輩達との一件で、誰1人酷い目には
遭っていません。先輩がわたしの言葉を信じず疑うのは止められないけど。お願いです…。

 性的暴行とか女同士の恋愛とか、誤解を招く言葉を人前で使うのは控えて。たいせつな
人に迷惑になる。ここで話された事が、菊池先輩が口に上らせた事が、次の噂を招くの」

 人を諭すのに熱心になる事は悪くないけど。
 周囲に気を配らねば諭す人を更に傷つける。

「わたしと夕維さんの仲は、親密なお友達です。夕維さんには翔君という想いを交わし合
い、双方公に認め合った恋人がいます。わたしはともかく夕維さんに、先輩は失礼です」

 年長者相手でも、きつい人だと見られても、言葉を返さねばならない時もある。声を荒
げはしないけど、威す事もしないけど。窘める視線で見下ろす菊池先輩の瞳を、見つめ返
し。

「羽藤は、白川と同性愛の関係じゃないのか。その、女同士で恋仲だと、噂を聞いたけ
ど」

 漸く認識の入口に辿り着いた菊池先輩に。

「友達同士の冗談やふざけ合いが、噂になったのかも知れません。誤解や先輩の心配を招
いたのはわたしの軽率でした。でも夕維さんに、女の子に恋し愛する嗜好はありません」

 夕維さんがこの半月余り、わたしを好きと公言し、近しく触れ合いを望み、摺り付いて
くれたのは。翔君に見せつける為で恋人の代役で。真に女の子に惚れて好いた訳ではない。
羽藤柚明を恋人として愛し欲した故ではない。

 夕維さんに噛まれて既に治った左胸が、錯覚の痛みに疼く。彼女の真の想い人が翔君で、
彼女の真の幸せが翔君との間にあると知るわたしは。2人の絆を支え守る事が真の望みで
願いだけど。微かに心に鈍痛を感じ。先輩は無自覚に、わたしの隠した傷心を突いていた。


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「そうか。それなら、良いんだ。友達なら」

 理屈や納得よりも半ば気迫で押し切って。
 菊池先輩がやや不本意な感じで去るのに。

 わたしは望まぬ展開に少し肩を落し脱力し。中々人の話しを聞き入れない人だけど。撥
ね付ける様な終りは、わたしの望む形ではない。真沙美さんや和泉さんの名誉に、夕維さ
んの名誉に掛る事柄なので、我知らず憤っていた。

 声を荒げる迄乱れず済ませたけど、注意深い人には心の起伏は見抜かれたかも。瞬間わ
たしも周囲の目線や相手の応対が、意識から抜け落ちて。平常心を保つのは本当に難しい。

 己の至らなさに自己嫌悪を感じつつ。先輩が去ってこの腕に取り縋る夕維さんに、笑み
を返し。己の未熟は後で幾らでも反省できる。最低限、己の激情で人に害や傷を与えずに
済んだ。今は間近な夕維さんの心を乱さぬ様に。

 やや人気の減ってきた生徒玄関で、歩み行こうとしたわたし達の正面に、女の子が1人。
ストレートのショートな黒髪に細身な身体の。

「わたしはともかく白川さんに失礼、ね…」

 届いた声音は冷淡で、少しの隔意を宿し、

「羽藤さんについては、菊池先輩の疑念や窘めや忠告は、当りだったと言う事かしら?」

 二組の朝松利香さんだった。彼女も今の夕維さんには苦手というか不得意な関係だろう。
故に夕維さんは再びわたしの斜め後ろに隠れ。

 利香さんは、夕維さんとわたしの関りが噂を呼んでいた頃『霊が視える』悩みの相談を
受けた仲だ。贄の血程ではないけど利香さんの血筋も、常人に視えない物を視る力を宿し。
心も体も揺れ動く思春期を迎え、その素養が一時目覚めた利香さんは、オハシラ様の祭り
を司る旧家の羽藤を、わたしを頼ってくれて。

『お願い。わたしを助けて。わたし怖い…』

『わたしおかしい? わたしだけにしか視えてないの? 全部ない物を視た錯覚なの?』
『普通でいたい。普通でいさせて。わたし』

 お話しを取り次いでくれた和泉さんも一緒した3人だけの場で、わたしは静かに頷いて、

『おかしくないわ。わたしも毎日視ている』

『仮におかしくてもわたしが一緒。だから安心して良い。あなたは決して1人じゃない』

 震える肩を抱き留めて、震える心を受け留めて。細身を両の腕に包み込み、頬に頬寄せ。

『誰がいなくなってもわたしだけはいるよ』

『あなたの涙だけじゃなく、笑顔を見たい』

 わたしの力は既に、人に及ぼせる程強く確かになっている。利香さんに寄り添い触れて、
彼女に寄り憑く物を祓い落し。同時に鋭すぎる状態に固定された彼女の感覚を、元に戻し。

 でも利香さんは怯えの余り、居ない事を確かめないと気が済まない・安心できない心理
状態にあって。視える迄凝視してしまう為に、その侭ではすぐに視える状態に戻ってしま
う。暫く継続的に肌身に添って、視えない状態が安定する迄、力を及ぼし続ける必要があ
った。

『助けて。わたしをこの怯えから解放して。
 霊を視えちゃうこの体質を何とか直して。

 わたしを普通の女の子に戻して。お願い。
 普通じゃないのは嫌、怖いの、気持悪い』

 皮肉の極みは、利香さんが視える事を嫌い、常ならざる力を厭い、その力を扱うわたし
も怖れた事で。助けに使う力も彼女は怯え疑い。首を挟めたがる夕維さんを、抱き留め説
き伏せ秘密を保ちつつ、わたしは遠ざかりたがる利香さんを、今少し処置の完遂迄と追い
縋り。

『未だ終らないの? 治りきってないの?
 いつ迄引っ張り続けなきゃいけないの?
 いつ迄怯え縋り続けなきゃいけないの?』

『先行きが見えない。わたし早くまともに戻りたいのに。みんなと一緒に廃屋探検も百物
語も高句麗(こうくり)さんも出来る様になりたいのに。未だダメ? いつ迄掛るの?』

【成功して報われない事も得心済みかね?】

 おばあさんの問にわたしは即答で頷いた。
 利香さんはわたしから最も遠い人だけど。

【朝松利香は、羽藤柚明のたいせつな人…】

 この末を承知でわたしは利香さんに関った。彼女の縋る手を取り、支え助ける己を選ん
だ。たいせつな人を、守り助けたいわたしの想いの侭に。身を尽くす事がわたしの正解だ
から。

 この事柄は余人に明かせない以上に、利香さんが他の人に知られたくないと望んでいる。
わたしに四六時中添う事を欲する夕維さんは、わたしが利香さんに心奪われたと疑い。事
情を明かせぬわたしを訝しみ、身を割り込ませ。

『私だけの想い人でいて。私だけを見てっ』

 朝松さんや金田さんの相談も、受けないで。

 柚明さんの全部を私の為に費やして。
 私だけを愛し、私の愛だけを受けて。

 他の人の愛は受けなくて良い、受けないで。

『私だけを愛して。私だけを、私だけを!』

 嬉しかった。諸々の事情はあっても、寄せられる想いは身に余る幸せだった。わたしが
噂を承知で夕維さんを拒まなかったのは、拒絶が彼女の心を乱して暴走を招く怖れ以上に。
大切な人に好いて貰える程に嬉しい事はない。

『でも、わたしのたいせつな人は1人ではないの。ごめんなさい。あなただけに返す事は
叶わない。一生懸命返すけど、叶う限り尽くすけど。和泉さんも真沙美さんも、歌織さん
も早苗さんも利香さんも全てたいせつな人』

 困って苦しんでいる姿を捨てては置けない。頼まれて応えない事を、己に許せないの。
誰かだけに絞れない。他の人を想わない訳には。わたしは、みんなに笑顔でいて欲しいか
ら…。

 結果わたしは、利香さんと夕維さん双方に疑念を与え、真沙美さんや和泉さんの心配を
招き。賢さや信頼や機微がわたしに満ちてない為に。多くの人の心を乱し揺らせ、涙させ。

『白川さんがゆめいさんと、愛し合うなら止めはしないし妨げもしない。わたしはゆめい
さんとそう言う関係じゃないから。その…』

『わたし正常だから。女の子が女の子と恋し愛するなんて考えないから。女同士で肌触れ
合わせて愉しいと思わないし、望まないし』

 利香さんの言葉に真実を感じた故に、夕維さんは憤った。己の大切な物を無価値と言わ
れた様で、己の想いを異常だと言われた様で。

『ふざけないでよ。私の柚明さんを、恋も愛もない関係で、貸してなんて物みたいに…』

『柚明さんはあなたなんかに渡さない。鴨川さんにも金田さんにも。私だけの想い人っ』

 突如その両手がわたしの胸をむんずと掴み。

『こんな事、朝松さんにも金田さんにも鴨川さんにも、させた事ないでしょう。菊池先輩
にも小野君にも、された事ないでしょう!』

 振り払う事は出来なかった。夕維さんの怯えを感じ取れたから。正常ではないと指摘さ
れた所作をわたしに拒まれれば、夕維さんの想いが行き場を失う。暴走の一枚下に渦巻く
怯えが確かに視えた。声にも瞳にも表情にも。

 普通ではない血を持ち、異常な力や感覚を持つわたし故に。その孤独を知るわたし故に。
夕維さんを1人異常の枠に見捨てる事は出来なくて。孤独の闇に置き去る事は出来なくて。
堕ちるなら、せめてわたしも一緒に堕ちよう。

『柚明さんを、私が、私の女にしちゃうっ』

 あなたの前で。見ていなさい、朝松さん!
 固まって答が返せない利香さんの目前で。
 胸を掴む両腕をわたしは黙した侭受容し。

 夕維さんは緊張に固まりつつもこの胸を。
 むにっとむにっと。力を入れて強く揉み。
 それは夕維さんの想いの強さ怯えの強さ。

 利香さんは、夕維さんがこの胸を揉む姿に、拒まないわたしに衝撃を受け。そこ迄させ
た夕維さんにも申し訳ないけど、利香さんにも。

『ご、ごめんなさい。わたしその、そう言う女同士の趣向とか趣味とかは、ないから…』

『女の子同士で愛し抱き合って胸揉ませ合う事は出来ても、廃屋探検は勧められない?』

『ゆめいさん、まさかわたしと肌触れ合わせたくて、もう治っていても未だだとか、わざ
と治さないでいるとか、そんな事ないよね』

 わたし傾かないよ。そっちに寄らないよ。
 わたしは正常に男の子と恋し愛し合うの。

 女の子はお友達迄。胸なんか触らせない。
 わたしは普通で霊体なんか視えやしない。
 廃屋で物音に怯えて男の子に抱きつくの。

 わたしみんなと一緒の普通や正常が好き。
 普通じゃない物、正常じゃない物は嫌い!

 未だ待たなきゃいけないの? 終って尚あなたの助言を受け続けなきゃダメなの? あ
なたから解き放たれる日はないの? あなたはわたしを助けると言いつつ、実は縛って…。

『……ごめんなさい。少し、言い過ぎたわ』

 この時が来る事も視えていた。視えて尚。

『あなたはわたしのたいせつな人。あなたが望まない事をわたしはしない。あなたが哀し
む事や怯える事をわたしはしない。あなたが怖れ嫌うならわたしが遠ざかる。だから…』

 翔君との仲を確かめ合えた夕維さんとわたしの間柄が、お友達に戻った様に。視えなく
なる処置を終えた利香さんとわたしの間柄も、『羽藤』と『朝松』で呼び合うお友達に戻
り。困り事や悩みがあれば、必ず力になるけれど。唯親密な仲を望まないなら、その意に
従って。

 元々夕維さんも利香さんも、懸案が終れば離れ行く仲と視えていた。それでもわたしは。
身を尽くせる事、助け支え守る事、苦痛を悲哀を悩みを解決し、微笑んで貰える事がわた
しの願いで望みだから。それ以上は余録です。

 利香さんも、クラスが違うのと積極的な人ではない為、話す事は多くないけど。挨拶す
れば応えてくれる位の仲は残せて。唯、物の弾みでも、女の子の愛を望みこの胸を揉む図
を見られた夕維さんには、利香さんは苦手というか不得意で。わたしを奪われると誤解し
ていた頃は、競合意識全開で強気だったけど。

 でも、利香さんは今日はわたしにではなく、夕維さんに話しがある様で。菊池先輩とわ
たし達のやり取りを見届けて、声を掛けてきた。

「羽藤さんは約束を守った。事が終った後もわたしの秘密を保って、助けた事を恩にも着
せず。かなりきつい事を言ったわたしを…」

 だからわたしも、白川さんと羽藤さんの為した事実は人に話してない。あの日の情景を
知っているのは、この場の3人と飛鷹君だけ。あの濃密な関りがあなた達の真実だとして
も。あれは何かの気の迷いで、今の友達関係が真実だと言うのでも。わたしはどっちでも
良い。

「わたしとも本当に唯の友達に戻った。あなたの言葉に嘘はない。でも問題は未だ残る」

 白川さんにとって、羽藤さんはどうなの?
 利香さんは他人に聞えない様に声を低め。

「わたしもあなたも、羽藤さんの本音を肌身に語られ聞かされた。あの応対が全て羽藤さ
んの真意なら。菊池先輩の指摘は、羽藤さんに限っては正当な忠告になるのではなくて?

 女同士の恋愛を、同性愛を望まない今の白川さんは、それも受け容れ望める羽藤さんと、
いつ迄も友達の仲で済むと想っているの?」

 羊が狼と一緒にいる様な物よ。今迄何もなかったけど、それで今後も何もないと、誰に
断言できる? 羽藤さんは己の色情をいつ迄抑え続けられる? 獣を我慢できる? 恋人
ではなくても白川さんが、そうして日々間近に添う中で、いつ迄己の情欲に耐えられる?

「飛鷹君に捧げたい女の子の大事な物を、羽藤さんに奪われちゃうかも、知れないのよ」

 わたしの背から顔を覗かせる夕維さんを覗き込む、利香さんの頬はわたしの間近にあり。
その囁きは耳朶に流れ込む甘美な毒薬の如く。

「白川さんには少し含む処があったから、忠告に加えて、ちょっとしたお返し」「……」

 夕維さんの、或いはわたしの返答は望まず、言い終えると利香さんは足早に去って行っ
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明さん、どうしたの?」「夕維さん…」

 生徒玄関の人影は減っていた。抱き合っている訳でもないので、いつ迄もわたし達に注
目し続ける人もなく。日輪は未だ頭上に高い。

 利香さんの標的は夕維さんだったけど、刃はわたしにも刺さっていた。それも利香さん
の考慮の内か。菊池先輩の周回遅れな窘めで出来た傷口に、塩を塗り込まれた感じだった。

 覗き込んでくる小柄な女の子の黒い瞳に、

「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 夕維さんが望まないなら、好まないなら。
 今日の夕維さん宅の訪問は、取りやめる。

「忌み嫌い厭うなら、いつでもわたしは身を引くわ。わたしは元気で可愛い夕維さんを好
きだけど、一番の想いを寄せる事は叶わない。一番たいせつな人は別にいる。だからわた
しは真沙美さんも和泉さんも一番に出来ない」

 わたしの胸の内を見通す様な瞳に向けて。
 わたしの真を貫き抉る様な視線に向けて。

「夕維さんが望む侭に。羽藤柚明はたいせつな人の幸せと守りを望み願いたい。だから」

 利香さんの語った危惧を夕維さんが感じるなら。いいえ、感じなくても。いつでも夕維
さんが離れたい時に、わたしから離れて良い。わたしが夕維さんの、女の子の大事な物を
奪い貪る事は絶対ないけど、信じてとは求めない。信じるも信じないも夕維さんの心の侭
に。

 わたしの望みは一番には来ない。わたしが夕維さんを踏み躙る事は決してない。でもそ
れと別に、夕維さんがわたしを好まないなら、わたしが傍に添う事に僅かでも惧れ抱くな
ら。

「わたしへの気遣いは要らない。夕維さんの真の想いの侭に……夕維さん?」「……!」

 全てを言い終える前に、夕維さんが動いた。

 小柄な体は再度正面からこの身に打ち寄せ。
 この背に腕を回しつつ胸の内に頬を沈めて。
 百万言の言葉より行動が心を表す事もある。

 夕維さんは人目を憚る事なく強い声を発し。

「柚明さんは白川夕維のたいせつな人っ…」

 私が何度迫って張り付いても、柚明さんは恋人の愛を返さなかった。唇を奪わなかった。
私の為に翔の為に最後迄、大切に守り続けてくれた。その気になれば幾らでも機会はあっ
たのに。頬合わせて抱き留めるだけで。私が他校の男の子の誘いに乗って危うくなった時
も守ってくれて。私の我が侭も勝手も向こう見ずも全部受け止め。支え慰め癒してくれた。

「翔との仲を繋ぎ直せたのも柚明さんのお陰。痛い想いも危ない想いもさせたのに。それ
でも柚明さんは私を大事に、大事に守り庇い」

 夕維さんの想いが肌身を通じて感じ取れる。
 それは分って欲しいと想う故に悟れる想い。

『柚明さんの愛は男の子の愛とは違う。翔は、他校の男の子の誘いにフラフラ付いていっ
た私を、この頬を叩いて怒鳴って叱ってくれた。強く叩き付ける愛だった。その直前に柚
明さんはそんな私をその身で抱き留め、想いを滲ませた声で諭して叱ってくれた。強く包
み込む愛だった。あれが女の子の愛なのかな…』

 胸元から確かな意思を宿す視線で見上げ、

「怖れも怯えも全然無いよ。信じる信じない以前のお話し。柚明さんがいなかったら、私
今頃菊池先輩と勢いでキスして後悔して、翔との仲も大きく裂けて、泣いて困ってどうし
て良いか分らなくて。自分の本当の想いに気付くのに、ずっと大きく遠回りしていた…」

 翔の元に、帰り着けなかったかも知れない。或いは他の人を巻き込んで、もっと酷い事
になっていたかも。柚明さんがいてくれたから。

「恋人じゃないけど、柚明さんになら奪われても良い。翔もきっと許してくれる。柚明さ
んがいて漸く守られた物だもの。柚明さんが奪いたく望んだ時に、私はきっと断らない」

 夕維さんは、羽藤柚明こそが女の子を恋人として愛せると感じて、その嗜好を悟って尚。

「柚明さんの一番にはなれなくても良い。本当はなりたいけど、鴨川さんや金田さんさえ
なれないその一番の人には少し嫉妬するけど。それは仕方ないから。私は柚明さんの傍に
いたい。柚明さんを傍に置きたい。居て欲しい。

 静かで強い柚明さんの傍にいると、心が落ち着いて心地良いの。翔と痴話喧嘩する時と
も違って、温かくて柔らかで安らげるの…」

 柚明さんなら、私を奪っても良いよ。
 でも私、奪われる気が全くしないの。

 夕維さんは再度わたしの大きくない胸の谷間に右頬を寄せ、気持よさそうに瞳を閉じて。

『まるで、○○○○みたい』「夕維さん…」

 わたしの夕維さん宅の訪問は予定通りです。


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「ただいまぁ、あれ?」「お邪魔します…」

 お買い物かな? 夕維さんが呟いた通り。
 玄関は施錠されていて、家に人気は無く。

「入って入って。翔以外のお友達が来てくれるってお話しは、してあるから」「うん…」

 夕維さんには先月から、一度家に来てと懇請されていた。延び延びになったのは、暫く
の間放課後は利香さんに触れて力を注がねばならなかった以上に。夕維さんが勢いでわた
しに迫って哀しむ末が、目に視えていた為で。

 女の子同士の愛を貫く心の用意がない夕維さんは。翔君という本当の想い人を持つ夕維
さんは。受容しても拒絶しても、深く傷つく。

 この間、利香さんの状態把握の為に、割り込みたがる夕維さんに過ちを犯させない為に、
利香さんの宅を数度訪ねていて。それも夕維さんの心を騒がせた。なので翔君との仲を繋
ぎ直せ、夕維さん自身の想いを確かめ直せて。訪れて良い状態になれた今ならと、言う事
で。

「飲み物を持ってくるから、階段を上がって右の、私の部屋で待っていて。柚明さんはジ
ュースが良い? お茶が良い? それとも」

「夕維さん……お願いが、あるのだけど…」

 中学生がお友達の家を初めて訪ねて、最初に仏壇への案内を頼むのは、奇妙かな。でも。

「夕維さんのお父様とお母様にもご挨拶を」
「知っているんだ。……翔から聞いたの?」
「夕維さんと翔君のやり取りを聞いていて」

『お祖父さんお祖母さんを、夫婦並んで喜ばせる事も出来ないんだぞ。町内の人からも色
眼鏡で見られるんだぞ。分っているのか?』

 夕維さんの大事な人は弱点は、祖父祖母で、父母ではないと翔君は分っていた。翔君が
恋人未満の状態でも夕維さんを気に掛けて、時に痴話喧嘩しつつも庇い守り親密だったの
は、唯家が隣同士で幼馴染みだったからではない。

 まっすぐな黒髪長く、勝ち気な瞳の細身な美しい女性と。黒髪を切り揃えた温厚そうな
恰幅の良い男性と。夕維さんはお母さん似か。

 奥の間で仏壇に、夕維さんのお父様お母様の遺影に手を合わせたわたしは、改めて2階
の夕維さんのお部屋に招かれ。ベッドや机に縫いぐるみや小物の揃った、可愛く甘い色彩
の一室は。夕維さんを育む人の想いも感じる。

「交通事故だったの。私は幼くて、良く憶えていないんだけど。その後お父さんの実家に、
この家に引き取って貰って、育てて貰って」

 わたし達には両親がいないという共通点が。
 だから夕維さんはわたしに心許せたのかも。

「入学式の時、柚明さんは保護者にお姉さんが来ていたでしょう? とても若く綺麗で目
に焼き付いたの。お父さんもお母さんも来られない事情があるなら、私と同じかなって」

 少し年の離れた姉妹に見て貰えたみたい。

「真弓叔母さんは、お母さんの弟のお嫁さんなの。綺麗で強く賢く優しい、憧れの人…」

 わたしのたいせつな人で、たいせつな双子のお母さん。可愛い桂ちゃんと白花ちゃんの。

「双子? 男の子と女の子? かわいーっ」

 聞いただけでうきうき目を輝かせる夕維さんに、わたしもつい熱心にその可愛さを語り。
手を顔を拭いて、ご飯を食べさせ、絵本を読んで寝付かせて。お風呂上がり、服も着ずに
走り出す桂ちゃんを追う内に、一枚だけ羽織っていたバスタオルがはらりと落ちて。正樹
さんやサクヤさんの前で、赤面した事なども。

 いつしか日は頬を染める程に傾いていた。


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「柚明さん、あの、胸見せて貰って良い?」

 夕維さんは少しもじもじしつつ、座り込んでいたわたしの右に躙り寄ってきて。宿泊交
流の夜、夕維さんに噛まれたこの左乳房の顛末を気にしていた様だ。頬を染めて声を落し、

「その、私、勢い任せに柚明さんに吸い付いちゃって、噛みついて、痛い思いさせて…」

『意地や強がり抜きに、一度彼と向き合ってゆっくりお話しして。翔君は強情だけど爽や
かで良い男の子よ。きっと見直す処がある』

 夜の浜で彼との仲直りを促したわたしに、

『柚明さん、翔を好きなの……? イヤっ』

『柚明さんが好きなのは私なの。柚明さんを愛するのも私なの。あなたは私の物。私だけ
を見て。翔を好きにならないで。翔の事は見ないで。私の翔を取ってしまわないで…!』

『柚明さんを私以外には行けなくするっ!』

 背を伸ばして口づけされる予感にわたしは、夕維さんを着崩れした浴衣の胸元へ押しつ
け。わたしではなく、夕維さんの唇の問題だった。それは夕維さんが真の想い人に捧ぐべ
き物だ。わたしが奪う訳には行かない。でも夕維さんはその代り、わたしの背に回す腕で
帯を解き。

『あなたが私以外誰も想えない様にするの』

 砂に落ちる帯を取りに屈む暇もなく、2本の腕が浴衣の内の乳房を2つ直に掴んで更に。

『身体の関係を先に作っちゃうんだから!』

 左乳房をぱくっと咥えられた。温かくぬるるっとした感触が、わたしの先端を包み込む。
背筋を電流が駆け抜けて、身が痺れ固まった。

 徐々に大きくなっていた胸だけど、サクヤさんに遠く及ばないのは勿論、真沙美さんや
歌織さんにも敵わず、夕維さんより小さい位。肌の張りや艶より、むしろその適度な小さ
さが夕維さんのお気に召した様で、湿った音が。

『夕維さん、ちょっ』『んっんっ、んっ』
『少し待っ、やめっ』『んちゅ、んちゅ』
『……痛い……、少しだけ、優しくして』

 拒まなかったのは、怯えを感じ取れたから。夕維さんは自覚出来ず混乱しているけど、
翔君をわたしに盗られる事を怖れていた。わたしを繋ぎ止める行動は、わたしへの想いよ
り、わたしを翔君に向かせない為だ。受け止めないとその怯えは増すばかり。言葉でも理
屈でもなく、正常ではない形でも。宿した不安を鎮め欠乏を充たす。受容の想いを肌身に
伝え。

 夕維さんは求めに従わず、一層強く食いついて。暫く残る傷を刻んで。歯が肌に食い込
み贄の血が多少滲み。まるで母乳を吸われている様な情景に。あの時は他校の男の子達が
絡んで来て、翔君も現れて紆余曲折があって。

「その……歯形とか、残しちゃったから…」

 女の子の肌を傷つけた。その蟠りは夕維さんが女の子であるだけに。激情が去った後は
心残りになっていた様で。謝りたいけど中々謝る機会を掴めず。謝りたくない訳ではなく、
謝る中身を人前で語っては拙いと、気遣って。

「謝って願う仲直りには、素直さが大事…」

 己の所作の結末に向き合って謝りたいと。

『心から謝れば、夕維さんが抱く申し訳なさに整理が付くわ。この侭謝らずに日々を過ご
しても、夕維さんの心が晴れないでしょう』

 面と向って謝る貴重な機会を逃さないで。
 ついさっきそう勧めたのはわたしだった。

「その前に、私がやっちゃった事の末を…」

 謝罪は謝る中身を確定させて意味を持つ。
 大きな黒目は、不安を宿して潤んでいた。
 わたしはその願いを拒み通す事が出来ず。

 夕維さんは翔君との恋仲を繋ぎ直せた。わたしに恋していると誤解していた頃とは違う。
女の子同士一緒にお風呂に入る事もあるなら。人に見せられる程素晴らしい物ではないけ
ど。

 わたしはセーラー服を脱いで下着も脱いで。夏でも外気が肌に涼しくて心許なかったけ
ど。両腕で胸を隠したい想いを抑え、羞恥を表に出さない様に息を整えて、間近の女の子
の視線を浴びる。夕維さんが息を呑む様は感じた。

「夕維さんのより小さめで恥ずかしいけど」

「……柚明さん、きれい。それに歯形が全然残ってない。私よりも、ずっと女の子だ…」

 舐める様に見つめられると、頬が染まる。
 血の力で治したので、痕はない筈だけど。

「触って……確かめても良い?」「うん…」

 既に顔を寄せられて、見つめられている。
 触れて確かめられるのも、想定の範囲だ。

 細い右手の親指と人差し指で、左乳房の下の根本辺りをぷにっと摘まれた。夕維さんの
歯が当たった辺りだ。肌や肉を引き伸ばされ、本当に傷痕がないかどうかを、確かめられ
て。

 端から見る人がいれば、身を乗り出した夕維さんに、押し倒されそうに見えただろうか。
気温以上に恥じらいが血の巡りを呼んで熱い。

「わたしの家系は、ケガが治り易くて傷痕が残り難い血筋みたいなの」「そうなんだ…」

 夕維さんは興味津々な感じで、この左乳房の側面の肉を摘み、感触を確かめ凝視を続け。
その侭胸元の素肌にその左頬を、当ててきて。

 夕維さん? 驚きにも心強ばらない様に。
 突き放さず躱さず、受け止めたわたしに。

「滑らかで柔らかで、しっとりしている…」

『懐かしい暖かさ。この感じ、○○○○だ』

 身も心も預けてきて。貪られるとの怖れは微塵もなく。夕維さんは常に自身の想いに正
直だけど。今寄せられた愛しさは、先週迄の激しく詰め寄り掴み取る恋人の想いではなく。

「まるで、お母さんみたい」「夕維さん…」

 幾ら胸が大きくても、自身の胸元に頬埋める事は叶わない。男の子の翔君に、女の子の
胸の感触は返せない。兄弟姉妹もいない夕維さんは、この感触にずっと飢えていたのかも。

 わたしがサクヤさんや真弓さんに肌触れ合わせる事で補い満たされた、女親への想いを。
柔らかな温もりを、滑らかな肌触りや肉感を。

 もう恥ずかしさは沸点を遙かに超えている。
 今更突き放して服を着ても羞恥は変らない。

 そして何よりわたしは夕維さんを想うから。
 夕維さんの幸せと笑顔を望むわたしの答は。

「わたしで良いなら」「柚明さん、嬉しい」

 夕維さんの渇仰が満ちる迄、肌身を添わす。
 女の子同士の恋愛でない事は、双方納得だ。

 でもこの絆はそれよりもっと深く強いかも。
 見上げる双眸と見下ろす視線は確かに繋り。

 わたしは欲された想いを与えたい。たいせつな人の欠乏を満たし安らげ、守り支えたい。
望まれた感触を、この身で伝えて慈しみたい。たいせつな人に身を尽くす事がわたしの願
い。

 求めに応えられる今がわたしの幸せだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「夕維、さっきはごめん……って、羽藤?」

 恥じらいと喜びと夕維さんへの想いに満ちたわたしは、暫く関知も感応もお留守状態で。
家が隣同士の翔君は日頃の感覚で、ノックなくドアを開けて驚愕し、体も視線も固まって。

 わたしは上半身に何も纏っておらず。慌てて夕維さんを抱き寄せ、素肌を隠す。凄い絵
図を見られた。その印象は夕維さんも同じく。

「翔っ。ノックしてって、いつも言って…」

 出て行って。こっち見ないで頂戴、もう!

 憤りでわたしから身を剥がし、夕維さんは手近な縫いぐるみを投げつける。結果わたし
は丸見えになって、両腕で胸を再度覆い隠し。夕維さんはわたしに抱き寄せられて熱くな
り。わたしの素肌を翔君が見る情景にも熱くなり。

「出て行って」「待って夕維さん、翔君も」

 座り込んだ侭胸を隠して動けないわたしの前に、夕維さんが仁王立ちで彼の視界を阻み。
翔君は見ては拙いと目を逸らし、振り返り部屋を追い出されようとしていた処だったけど。

「出て行かないで。この事を弁明したいの。
 こっちは向かず、ドアは閉めて、聞いて」

 階下には夕維さんのお祖父さんお祖母さんも帰って来た。翔君がすぐ帰れば不審を呼ぶ。
わたしと夕維さんの仲はどこ迄言っても恋仲じゃない。傷痕の有無を確かめたかっただけ。

 2人はその侭では恒例の痴話喧嘩になりかねない。ここはわたしが無理にでも話を繋ぐ。

「今制服を着るから。決して女の子同士で乳繰り合っていた訳ではないの……夕維さんは
女親の胸に頬寄せる感触に、長く飢えていた。

 夕維さんを責めないで。そして夕維さんの想いを誤解しないで欲しいの。わたしに寄せ
られた想いは、翔君に抱く想いとは別の物よ。競合しない。夕維さんももう気付いてい
る」

 制服と下着に手を伸ばすけど。身に纏う事が出来ない侭、わたしは再度両腕で自身の胸
を素肌を隠し、2人を鎮めようと声を紡いで。

 翔君は向うを向きの侭ドアを閉め、室内に止まってくれたけど。その故に夕維さんは彼
の背中に意識が集中して、他に注意が届かず。その足下に、気付いて貰いたいのだけど…
…。

 夕維さんの落ち着きを待ちつつ、翔君の背に向けて夕維さんの心情をわたしが説明する。

「夕維が求めていたのは、母親の代りか…」

 翔君は意外と冷静にその話しを受け容れて。
 その方が納得され易かったのかも知れない。

 翔君も夕維さんの両親の事情は知っている。
 女の子同士の恋愛より女親の代替物の方が。
 或いは幼馴染み同士心の底で通じ合うのか。

「でも、同じ歳だろ? 羽藤はそんな求めに応えちゃって、良いのかよ。応えられるにし
ても、夕維の為にそこ迄して、夕維は良いにしても、羽藤は大丈夫なのか? この前も」

 その左胸、食いちぎりそうな程噛んじゃったんだろう。相当な傷だって、夕維も言って。

「振り返っちゃダメ!」「あ、ゴメン……」

 人と話す時の癖で、振り返りかける翔君に、夕維さんの叱声が飛ぶ。でも夕維さんは自
身の足下に気付かず。背中を向け直した翔君は、

「でも夕維が、俺の彼女が与えた傷なら、俺も状況を確かめ、謝らないと」「ダメっ!」

 わたしの返事より先に夕維さんの即答が。
 わたしは今現在夕維さんに守られていた。

「翔はダメ。翔は男の子でしょう。柚明さんに頬寄せるのも抱きつくのも。許さないっ」

 わたしに背を向けた夕維さんは声を落し。
 翔は私の恋人だけど、恋人だけど、でも。

「柚明さんは私の、私の愛人なんだからっ」

 翔君もわたしも暫し言葉を挟めず。でも。

 愛した人、或いは愛された人を愛人と呼ぶのなら、語意は正しいのか。必ずしも男女の
愛のみ差す物でもないと、拡大解釈できれば。

「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 わたしは尚下着も制服も身に纏えない侭、

「夕維さんの求めを満たす事が叶うなら、応える事がわたしの願い。夕維さんの害になら
ない限り、己を尽くす事がわたしの望みよ」

 翔君が許してくれるなら。女の子同士の恋愛ではなく、親密なお友達の『愛人関係』を。

「夕維さんを想い慈しむ事を許して欲しい。
 翔君のたいせつな夕維さんを愛したいの」

 はぁ。翔君の背が心なしか脱力し。その語調は怒りではなく呆れも込めた受容を宿して。

「早く足退けて、羽藤に服着させてやれよ」

 羽藤の下着と制服は、夕維が踏んだ足下だ。羽藤を守りたい気持は分るけど、お前が動
かないと羽藤はいつ迄も上半身ハダカの侭だぞ。

 夕維さんははっと気付いて足元を見て、その上で胸を両腕で隠した侭のわたしを顧みて。

「柚明さん、ごめんなさいっ。い、今っ…」

 わたしも夕維さんも翔君も窓から差し込む夕日を受けて、熱く赤く頬を染められていた。


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