第2話 年の瀬の羽様で
前回迄の経緯
羽藤柚明は小学生最後の年の瀬を迎えています。晩秋、わたしの生れ育った町に住む父
方の従姉・仁美さんが交通事故で顔に深傷を負って。妹の可南子ちゃんの電話で事を知り。
仁美さんはわたしと血の繋った従姉で、わたしが両親を喪って悲嘆に沈んだ時に、一緒
に涙を流し、強く抱き締め励ましてくれた人。わたしの特別にたいせつな、助け守りたい
人。
贄の血の癒しを、そうと悟られずその肌身に触れて治す。顔の傷も傷ついた心も。怪し
い迷信を装う事で、それを成し遂げたわたしだけど、せっかく羽様を訪れてくれたサクヤ
さんを、その為に大いに振り回してしまった。
年の瀬の羽様ではぜひその償いと御礼を…。
参照 柚明前章・番外編第2話「癒しの力の限り」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんが羽様に辿り着いたのは、冬の早い日没の直後だった。山に囲まれた経観塚
は冬になると、見渡す限り白銀の世界に変る。中庭を基礎体力作りも兼ねて雪かきし、平
らにした雪上で真弓さんから護身の術の修練を、笑子おばあさんから贄の血の力の修練も
受け。
小学生最後の年の瀬で、既にわたしは冬休み。経観塚の町からも随分隔たった羽様では、
外に出てもお店も遊ぶ処もない。例えあったとしても、拾歳年下のいとこ以上に夢中にな
りたい事はなく。下着を替えて汗を拭く間も、肌を合わせてくる白花ちゃんと桂ちゃんに
応える内に。お料理修練の夕飯準備に入る頃か。
「サクヤおばさん、そろそろ着きそうです」
贄の力の修練の副次効果で、わたしは近しい人の想いや動向が分る様になり始めていた。
不愉快そうな顔とか、悲しみを抑えた声とか、嬉し涙を湛えた瞳とか。見ただけで感じ取
れる事もある。その延長で、何か起こりそうとか誰かが危ういとか、わたしに身近な人の
動向やその心が、何となく分る様になり始めて。
多くは、掛る電話を直前に分るとか、手紙の配達を数時間前に分るとか、客人の来訪を
前日に分るとかの、使えて余り役に立たない技能だけど。電話はそう言えば修練以前から、
掛ってきそうな感じが分った。予め電話の近くに走り寄ったので、ウチに電話を掛ける人
は、余り待たされなくて済んでいたと思う…。
サクヤさんの到着は、午前中に感じていた。日時を約した訳でもなく、風の向く侭気の
向く侭に、自由業のサクヤさんだから、到着迄連絡もない事もしばしばだけど、最近は修
練のお陰で悟れるようになって、それが嬉しい。
居間のちゃぶ台を前に、2人の幼子に懐かれる侭肌寄せられる侭に、正座を崩した女の
子座りしていたわたしの声に、真弓さんも正樹さんも軽く頷いて。贄の血の力を操れる笑
子おばあさんは、既に感じていたに違いない。
「さくや、おばちゃ」「そうよ、桂ちゃん」
この膝に両手を突いて、正面から見上げる姿勢で問うてくれる2歳児に、わたしは微笑
み頷いて。長くお屋敷を外す事もあるサクヤさんだけど、桂ちゃんも白花ちゃんも、白銀
の髪が艶やかな美貌は印象に残っている様で。
「戸口迄迎えに行きたいのですけど。桂ちゃんと白花ちゃんを、お願いします」「ああ」
幼子は冬の外気に当てると体調を崩しかねないので、中で待たせておかないと。特に真
弓さんやわたしについて来たがる2人だから。
正樹さんが右肩に添っていた白花ちゃんを抱き上げて、桂ちゃんに手を伸ばし視線を招
く間に。幼子からすっと身を外し、笑子おばあさんと真弓さんと、待ち人を迎えに玄関へ。
外は既に暗いけど、綿飴の様な雲が低くぎっしりとたれ込めていて、月も星も見えない。
近辺数キロに家も街灯もなく、文明の灯火は羽藤のお屋敷だけ。森と山の暗闇を、突き抜
けるライト輝かせ、目に映える鮮やかな赤い車が前方から、雪のアーチを踏み越えて来て。
それは勇壮にして果敢なる冒険者の踏破行だ。
降り立った白銀の長髪が艶やかな人に逢える喜びに、わたしは待ちかねて、寒さも忘れ、
「お帰りなさいっ! サクヤおばさん」
躍る心を抑えきれず、運転席に駆け寄ってお辞儀する。サクヤさんはわたしが顔を上げ
る前に、長くしなやかな両腕でこの頬を、大きな胸の谷間に引き寄せて身を重ねてくれて。
もう髪をくしゃっと掻き回してはくれないけど、幼子とは違う形で親愛を表してくれて、
「元気に過ごしていたかい……柚明?」
温もりと艶やかな肌触りと胸の弾力が心地良い。肌身に寄せて受け止めてくれる想いが
嬉しい。わたしもその見事な肢体に両腕を回し、言葉よりも密着した両頬でうんと頷くと。
顔を上げて、上機嫌そうな深い瞳を見つめ、
「この前のお礼に、ガチガチの塩鮭を買いました。それと美味しいお酒も。わたしは未成
年だから呑んで選べはしなかったけど、真弓叔母さんに選んで貰ったからきっと大丈夫」
今宵はわたしがお酌したい。良いでしょう。
今迄わたしはお酒の場に余り関れなかった。酒席は夜が多い事もあり、わたしも子供だ
ったから。同席はできても深夜迄話しが進むと、中途で就寝を促されたり幼子の寝付かせ
を頼まれたり。それも決して嫌ではなかったけど、お酒を飲むサクヤさんもわたしは好き
だから。テレビドラマの様に一度お酌してみたかった。
しなやかで美しい大人の間近に寄り沿って、ほんのり頬を赤くさせる甘美な滴を杯に注
ぐ。それはとても魅惑的な行いに思えたのだけど。
今年は特に先月後半に、サクヤさんを大いに振り回して迷惑を掛けた。そのお詫びと感
謝を込めてのお酒だから、わたしがお酌をしてお礼したい。ガチガチの塩鮭とお酒一升は
その為に、わたしの小遣いで購入した訳だし。
サクヤさんは、その想いを分ってくれてなのだろう。瞳を一度だけ瞬かせると微笑んで、
「おやおや。柚明に酌をして貰える様になるのは、もう少し先の事だと思っていたけど」
幼妻に酌をして貰うのも悪くはないねぇ。
この前は首筋に所有権の主張迄されたし。
「柚明も酔わせて一気に頂くのもありかね」
覗き込まれるとわたしの頬が赤く染まる。
恥じらいはあるけど必ずしも嫌ではなくて。
悪戯っぽい目はどこ迄本気か分らないけど。
サクヤさんに食して頂けるなら、それも…。
「させないわ。2人の婚儀に異議ありよっ」
わたしの両肩を抱いたサクヤさんにお屋敷の玄関から待ったの声が掛ったのはその時で、
「柚明ちゃんを花嫁に奪い去るのなら、まずわたしを倒してからにしなさい、サクヤ!」
歩み出てきた真弓さんが、この首筋を背後から細く滑らかな両腕で絡め取る。繊手を合
わせて胸元迄下ろして包み、サクヤさんから引き寄せて守り隔てて。耳元で良く透る声は、
「柚明ちゃんはわた……桂と白花の、たいせつなお姉さんなの。可愛い少女が虎狼の贄に
される様を、見過ごす訳には行かないわね」
サクヤさんの瞳が一瞬驚きに、次に面白そうに瞬いた。笑みに悪戯っぽさが増してきて、
「へえ……じゃあ、どうするね? 今宵も一勝負してみるかい、こっちで? この前は幸
せに酔わされた所為でやられちまったけど」
今年の内に借りを返しておくのも良いさ。
右手で杯をくいっと口に運ぶ仕草を見せるサクヤさんに、触れた肌から伝わるのは闘志
に近い受容の感触で。涼やかな声は迷いなく、
「何度でも、こてんぱんにしてあげるわ…」
柚明ちゃんは絶対に、渡しませんからね。
いつの間にか、わたしが2人の戦いの賞品になっていて。少年漫画ではお姫様の賞品は
王道だけど、わたしはとても柄じゃないのに。勝負事になった瞬間2人はもうやる気満々
で。
「こりゃあ意地でも勝って奪い取らなきゃ」
柚明、待っていな。今頂きに行くからね。
真弓さんはわたしを一層後ろに強く抱き、
「今宵も返り討ちよ。覚悟なさい、サクヤ」
わたしを挟んで目から火花を散らし合う2人に向けて、お屋敷の玄関からのんきな声が、
「まずはお上がりなさいな。戦いに臨むにはその前に、しっかり腹拵えしておかないと」
2人の決着とわたしの行く末は、お夕飯の後の酒盛りで決せられる事になった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんは毎年晩秋、仕事も私生活も調整し、わたしを訪ねてくれていた。両親と住
んで居た時は町の家に、経観塚に移り住んでからは羽様のお屋敷に。わたしの誕生日を祝
ってくれる為に、わたしの成長を喜んでくれる為に、わたしが大人になる様を見守りに…。
今年はわたしの所為でその好意をフイにしてしまった。サクヤさんが訪れた日の夕刻に、
一本の電話がわたしを生れ育った町へ導いて。従姉の仁美さんが交通事故で顔に深手を負
い、恵美おばあさんはショックで倒れ、伯父さんも伯母さんも手一杯で。妹の可南子ちゃ
んは縋る人を失ってわたしに救いを求め。可南子ちゃんが危うかった。それ以上に仁美さ
んが。
現代医学では顔の傷は完全に消し去れない。
仁美さんの心の傷は医学では拭い去れない。
傷心で仁美さんが手首を切る未来が視えた。
生きる希望を失い魂が光を失う末が分った。
贄の血の癒しなら、傷を治し傷痕も消せる。
わたしが行って癒しを及ぼせば救い出せる。
その顔の傷を、その心の傷を、寄り添って。
癒したい。助けたい。支えたい。守りたい。
贄の血の力を病院や他の人に知られる訳には行かない。桂ちゃんや白花ちゃんの生れ育
つ場所を、奇妙な癒しの噂で騒がせる訳には。従姉妹でも伯父さん伯母さんでも明かせな
い。話しが漏れて報道記者や無関係な人が興味本位に、土足で入り込む様な事は避けなけ
れば。
だから贄の癒しは徹頭徹尾秘さねばならず。わたしは癒しの水という迷信をでっち上げ
て。仁美さんに触れる許しを田中先生や伯父さん伯母さんに頂いて。サクヤさんにはそん
なわたしを支える為に、町迄一緒させてしまった。
幾ら緊急時でも、子供が平日病院に駆けつけても帰される末は目に視えた。誰か大人の
支えが必須だった。だから羽様の羽藤はサクヤさんも含め、全員癒しの水という怪しい迷
信を信じたわたしを、認めて送り出した事に。
それは、サクヤさんや笑子おばあさんに迄愚か者の烙印を押させる行いだった。わたし
1人ではなく、羽様の家族が全員迷信を受容した愚か者ですと。仁美さんの深手を治せて
も、贄の癒しは終生明かせない。誤解は最期迄拭えない。いつか明かせる類の事ではない。
白花ちゃんと桂ちゃんの将来を守る為に、一生封じ隠し通さねば。汚名挽回の機会はない。
サクヤさんは羽様で数日羽根を伸ばす筈だったのに。みんなと愉しく過ごす予定だった
のに。わたしの為に振り回して、愚か者扱い迄させた。お酒と塩鮭で購えない事は承知で、
せめて心を何かで表したくてお酌も願い出た。サクヤさんのお酌は前からの望みだったけ
ど。
サクヤさんはそんなわたしへの誕生日プレゼントに、口紅を買ってくれていた。町から
の帰り、赤兎から降りて月明りの元、『少しだけ大人にしてあげるよ』と。立ちつくすわ
たしに目を閉じる様に促し。何をしてくれるのか胸をドキドキさせたわたしの唇を、すっ
とルージュを走らせ、頬迄赤く染めてくれて。直後に抱きつき抱き留められて、その首筋
に鮮やかなキスマークを記したのはご愛敬です。
「あんた今躊躇ったのは、気付いていたね。
あたしも遂に、柚明に奪われちまったよ」
「少しだけ、大人にさせて貰いました……。
ふふっ、ごめんなさい。今拭き取ります」
流石にこの侭羽様のお屋敷に着いたらサクヤさんも恥ずかしい。何よりわたしが恥ずか
しい。更に血の巡りを多くしつつ、拭き取ろうとするわたしの手を止めて、サクヤさんは、
「これは暫くこの侭付けとくかね」「え?」
羽様の屋敷で笑子さんや正樹にこれを見せつけるのも、悪くはないさね。真弓がどんな
顔を見せるやら、ちょっとお楽しみだねぇ…。
「その反応を前にしたあんたの顔を、酒の肴にするのも良いかね」「サクヤおばさん!」
おっと、拭わせはしないよ。この唇の印はこの身に記されたあたしの物だ。渡した口紅
の使い途があんたの自由な様に、記された印の使い途もあたしのやりたい放題、好き放題。
「お望みならもっと記しても良いんだよ…」
わたしに残された反撃の方法は、唯一つだ。最早それは反撃と言えないかも知れないけ
ど。
「……許しを、貰えましたから」
わたしはキスマークの付いてない側の首筋に顔を寄せ、唇で触れて想いを確かに届かせ。
夜明け前に羽様に着いたサクヤさんを前に、おばあさんと正樹さんは苦笑いして肩を竦
め、
「サクヤ。そこに座りなさい……切るから」
真弓さんは、なぜかサクヤさんを切り捨てようと。キスマークつけたのはわたしなのに。
お屋敷の中で暫く追いつ追われつした末に、真弓さんはサクヤさんにお酒の勝負を挑ん
で完勝した。わたしも驚いた。真弓さんも酒豪だったけど、サクヤさんが完膚無き迄にや
っつけられる様は初めて見た。今迄の戦績は双方互角で、引き分けか相打ちが多かったの
に。
「やっぱり、長距離運転した疲れですか?」
贄の血の力を空っぽ迄使い切ったわたしは、数日力が使えない。結局眠れず明るくなり
始めた窓の光に目を細めつつ。顔を顰めて横たわるサクヤさんの微かに汗ばんだ額に、濡
れタオルを乗せるわたしの問に苦笑いを見せて、
「先に幸せに酔っちまっていたから」「?」
宵の口から酔わされていたのさ、柚明に。
首筋にキスされて以降、酔いっぱなしだよ。
右手でその首筋を示しつつわたしを見上げ。
視線が合うとわたし迄酔った様に頬が赤く。
「余り幸せすぎると反動が怖いから、小さな禍を招いて被る。一種のおまじないだけどね。
真弓もそれを意識して、半分はあたしへの羨みも込め、呑み比べというよりあたしを呑み
倒そうと、己の3倍近い量注いできたから」
まあ、幸せの対価だと思えば安い物さね。
好いた人に、熱い想いを、肌身に伝えて貰えるってのは、やはり極上だよ。酔って当然。
「でも、次はきっちりお返ししないとねぇ」
そうして迎えた今宵だから。サクヤさんはあの後一度、仕事場の整理や編集部との打合
せに町へ戻っていた。年末年始を羽様で過ごす為に、色々片付けておく事があったみたい。
到着早々のサクヤさんも入った4人の厨房は混雑気味だったけど、真弓さんもわたしも
お料理修練の順調な進展を見せる事ができて。7人での夕食は羽様の大家族ならではの物
だ。
「呑み比べの結果と別に、これは先日のお詫びとお礼です」「ん……じゃあ、頂くかね」
わたしのお酌は今宵の賞品に入ってない。
お夕飯のちゃぶ台で、わたしは美しい人の右隣に添って一升瓶を、サクヤさんのグラス
に注ぐ。水よりも僅かにとろっとした液体を、サクヤさんはくいっと美味しそうに一気呑
み。
「可愛い柚明に酌をされる酒は格別だねぇ」
あっという間に空になったグラスを出されて注ぎ足すけど、ピッチが速すぎる気がして、
「大丈夫ですか? これから真弓叔母さんとの呑み比べが待っているのに」「なあ〜に」
それはそれ。これはこれ。2杯や3杯多く呑んだ位で、真弓に後れを取るサクヤさんじ
ゃございませんって。せっかくの柚明の酌だ。心ゆくまで、愉しませて貰おうじゃないか
い。
2杯目も、くいっと一気に飲み干して、空のグラスを出されるので、3杯目を注ぐけど、
「……真弓叔母さんもどうぞ」「有り難う」
柚明ちゃんのお酌姿、とても可愛いわよ。
サクヤさん程ではないけど、仁美さんの一件ではわたしは羽様のみんなに心配と迷惑を
掛けた。真弓さんには日頃、護身術の修練でも多くお世話になっているし。グラスに注が
れたお酒を、真弓さんはサクヤさんに見せて、
「双方ハンディも言い訳もなしよ、サクヤ」
こちらもくいっと一気に呑み干し。買ってきたお酒、一気に半分迄減ってしまいました。
真弓さんに2杯目を注いだ後、なくならない内に笑子おばあさんと正樹さんにもお酒を
注ぐ。おばあさんは若い頃、かなり呑めたとサクヤさんから聞いた。流石に今は歳なので、
マイペースを保って程々だけど。正樹さんは余り強い方ではなく、先に呑み倒される方で。
サクヤさんと真弓さんが対決モードでお互い以外目に入らない時は、適量を保てるみたい。
「ゆめいおねえちゃん」「はい、桂ちゃん」
普段は幼子にぴったり寄り添うわたしも真弓さんも、今日は移り気なので、桂ちゃんも
白花ちゃんも少し残念そうで不満そう。子供だから分る子供の想いを埋めようと。徳利か
ら杯に透明な滴を満たし。桂ちゃんと白花ちゃんに渡すわたしを、正樹さんが目に留めて、
「柚明ちゃん。それは……酒じゃなく水?」
桂ちゃんも白花ちゃんも美味しそうに、サクヤさんや真弓さんの真似をして、くいっと
一気に飲み干して、次を注いでと杯を出して。わたしは2杯目を注ぎつつ正樹さんに頷い
て、
「砂糖水です。白花ちゃんと桂ちゃんにも、気分だけでも味わって貰おうかなって……」
「ぷはー!」「ふいいぃ」
飲み干した後の声が大人の様で、大人の開放感を真似てリラックスする様が可愛らしく。
真弓さんとサクヤさんはわたしの酌を待てず、互いに注ぎ合っていた。その様を横目に見
て、
「ゆーねぇもっ」「ご返杯? ……はいっ」
白花ちゃんが徳利を持ってわたしに砂糖水を注いでくれる。少し不安定なので、右手で
白花ちゃんの手を支えつつ、コップに注がれた砂糖水をわたしもくいっと飲み干して見せ。
「美味しいわ。有り難う……、白花ちゃん」
「けいも!」「はい、お願いね。桂ちゃん」
その様を見て、自分もやりたいと身を乗り出してくる桂ちゃんのご返杯を受け。桂ちゃ
んに注いで貰った砂糖水を飲み干して。続けて幼子2人の求めに応じて、砂糖水をお酌し
て注ぎ足し。2人とも結構飲みっぷりが良い。
「白花も桂も、酒豪になりそうな感じだね」
「母さん、これ以上羽藤の家に酒豪は要りませんよ。サクヤさんと真弓だけで充分です」
「何言って居るんだい、正樹ぃ。ここに…」
声も身体もわたしの背後に回り込んだサクヤさんが、右腕を絡めこの左の頬に頬合わせ、
「次の酒豪候補が居るじゃないさ、ここに」
それって、もしかしてわたしの事ですか?
にまっと笑う感触が頬に直に伝わって来る。
「柚明だって、いつ迄も砂糖水呑んでいる歳じゃないよ。そろそろ少しずつ、大人に慣れ
親しんだって良いと、あたしは思うけどね」
きっと柚明はいける口だよ。柚明の母親は正樹、あんたより呑めたし。贄の血の濃さは
呑める体質に比例するってのが、あたしの推論でね。笑子さんも若い頃はかなりいけたし。
『それで行くと白花ちゃんと桂ちゃんは…』
サクヤさんの左手がわたしの口元に伸び。
艶やかな滴が微かに波打って透明に光る。
「どうだい? 柚明。少し呑んでみるかい」
瞬間、呑んでみようかなと言う気になった。
サクヤさんが、とても美味しそうに呑んで。
身も心も柔らかになれる魔法の水。それを。
わたしも口にしたなら、サクヤさんに近しくなれるだろうか。大人に近づけるだろうか。
少しは胸も大きく、背も高くなれるだろうか。わたしの目は丸く見開かれた侭、心は揺れ
て。
心が整理付くよりも早く後方から叱声が、
「させません。柚明ちゃんは未だ小学生よ」
真弓さんはサクヤさんの右後方からこの身を奪い取ると、細い左腕を肩から前へ回して
右の胸を強く抑え、引っ張り寄せて守り庇い。背に感じる柔らかさはサクヤさんより細身
だ。
「あなたは純真な柚明ちゃんを惑わせて…」
この前の首筋へのキスも、真弓さんはわたしを惑わせたサクヤさんが悪いと、わたしに
は徹頭徹尾同情的で。わたしはサクヤさんが好きだから、自ら触れたと言ったのだけど…。
「何だい。酒なら真弓も千羽の家で、神事に関って呑んでいただろう。十になる前から」
「それとこれとは話しが違いますっ」
柚明ちゃんはわた……桂と白花の、たいせつなお姉さんなの。可愛い少女が悪に染めら
れて行く様を、見過ごす訳には行かないわっ。
「それにこの侭柚明ちゃんを悪に染めさせると、あなた桂や白花に迄お酒を飲ませそう」
確かに、サクヤさんならやりかねない気も。悪い遊び教えるのも上手そう。因みに未成
年の飲酒は法律で禁じられています、念のため。
物思いに耽りつつ、真弓さんの滑らかな肌触りに抱き締められる侭に身を委ねていると、
「柚明ちゃんはあなたには絶対渡しません」
何やら、さっきの玄関と同じ様な展開に。
でも、サクヤさんも今度はその侭では終らせず。真弓さんが一言言い終え、グラスから
もう一口呑むその隙に。サクヤさんは両腕で、この身をひょいと持ち上げて奪い返し。右
頬同士がピタと触れ、大きな胸にわたしの胸が潰される。軽々持ち上げられるのは、サク
ヤさんの力強さとこの身が重くない事の傍証で、悪い気はしないけど幼子みたいで少し複
雑…。
右手でわたしの両頬を胸の谷間に抑えた侭、左手を再度ちゃぶ台に置いたグラスに伸ば
し、
「あんたねぇ。柚明はもう唯の子供じゃない。
白花や桂はともかく、この夏にその2人を生命懸けで鬼の手から守り抜けた柚明に、も
う唯の子供扱いは不相応だよ。分っていて目を瞑り続ける積りかい、あんたは。修練では
遠慮なく柚明の柔肌を打ち据えておいてさ」
死の病と別れの寂しさに、怯え震える同級生に最後迄付き添って、身も心も抱き留めた。
生きる望みを失った従姉を、哀しみも痛みも分ち合うから一緒に生きようと救い上げた。
あれは唯の癒しの力じゃない。深く熱く想う心が、贄の癒し以上に心を蘇生させたんだ。
柚明を子供の枠に止めるのはもうおよしよ。柚明は着実に強く賢くなっている。徐々に
でも受け容れないと、結局柚明に無理を強いる。
「白花や桂と違って、四六時中羽様の屋敷で見守る訳に行かない。柚明には柚明の人生が
ある。学校も友達も親戚づきあいも縛れない。むしろ大人扱いして、世の荒波を渡る強さ
を備えた方が、柚明の為になると思うけどね」
サクヤさんはわたしを深く想ってくれて。
「分ってないのはあなたの方よ、サクヤ…」
真弓さんは、サクヤさんのその深い問に。
事実認識はほぼ同じだからこそ逆の答を。
背後から伸びた左手が、サクヤさんの抱擁を瞬間外し、右手一本が軽くわたしの身を絡
め取り。気付けばこの身は再度真弓さんに奪われていた。サクヤさんよりやや小さい胸の
谷間に後頭部を、左手でこの額から押し付け。
「あなたは久しく大人でいるから、成熟しきってない女の子の、心の危うさを忘れている。
柚明ちゃんは確かに強く賢いわ。誰より優しく純真で想いが深い。強大な鬼から桂と白
花を守り戦う勇敢さを持ち、死の病に怯える同級生の心を繋ぎ、生きる望みの消えかけた
従姉の魂を賦活させた。血の力だけじゃない。無私に人に己を捧げ、感謝一つ欲せず求め
ず。尽くせた結果に満足し、届かなかった事に哀しみ悔しがる。人の無理解や誤解や悪意
を全く気にせず、己が負う痛みに目もくれず…」
もう唯の子供じゃない事も、唯の子供扱いでは不相応な事も分っている。でも、だから
こそ彼女は危ういの。唯の子供扱いじゃなく、『特別な子供扱い』でないと、柚明ちゃん
は。
真上に瞳を向けると、真弓さんはわたしに一度視線を落し、両手でこの頬を挟んで抱き。
「柚明ちゃんに降り掛る禍は、普通の子供の禍と質が違う。同じ場にいても贄の血を宿し、
その力を使える柚明ちゃんは、他の子供と立ち位置が違う。濃い贄の血を持つ彼女の危険
は他の子と比較にならない以上に、その優しさと健気さが、危険に踏み込ませてしまう」
間近の誰かが危難に遭えば、柚明ちゃんは必ず己を挟めて助けようとする。己が危険を
負う事を当然に想う。誰かが傷つく事を己の力不足だと考えてしまう。そう言う子なのよ。
逃げて欲しいのに。女の子の柚明ちゃんは、護身の術や贄の血の力で戦えても尚、他人
を守り庇う義務はないのに。彼女は力不足でも危険を承知でも、必ず間近の人を助けに出
る。
「子供扱いでも尚そうなのよ。誰もが子供と見なす小学生で既に、柚明ちゃんは多くの哀
しみや苦しみを引き受けて、心を痛めて…」
今でも彼女は並の大人以上の苦味や辛さに晒されている。子供扱いし全力で守り庇って
いて尚、彼女は優しすぎて誰かの禍を捨て置けず、他人の為にこの羽様から足を踏み出し。
「柚明ちゃんの定めは終生続く。贄の血筋に生れついた以上、濃い血を宿す以上。生れは
取り替えられない。わたしも柚明ちゃんをいつ迄も守れない事は分っている。彼女にも彼
女の人生があり、いずれここから羽ばたいて行く事も承知している。でも、だからこそ」
わたしが守れる範囲にいる間は、この手が届く間は、子供扱いしたい。子供の気楽さを
過ごして欲しい。守られて欲しい。柚明ちゃんは既に桂や白花を、同級生や従姉を守りに、
身を削り心をすり減らして。それが柚明ちゃんの望みだとしても、苦味は苦味、痛みは痛
みだから。せめて羽様の屋敷では子供扱いを。
「柚明ちゃんもじき大人にならざるを得ない。その時に必要となる強さは確かに教えるけ
ど、心を鬼にして叩き込むけど。その代りここはあくまでも、柚明ちゃんを守り慈しむ場
所」
柚明ちゃんは子供です。未だお酒はダメ。
本当に真弓さんはわたしを案じてくれて。
サクヤさんが三度右腕でこの身を奪おうと、今度はわたしの右手を引っぱるのに、真弓
さんも渡すまいとわたしの左手をしっかり握り。どっちもわたしを深く強くたいせつに想
ってくれて、心は揺れて身も揺れて、有り難くて。
「あなたに柚明ちゃんは渡しません。柚明ちゃんに成り代って撃退してあげるから、覚悟
なさいサクヤ」「言ってくれるね。それじゃあたしは柚明の人生を切り開く為に、柚明に
成り代ってあんたを打ち破ってあげようか」
サクヤさんの左手のグラスと真弓さんの右手のグラスが、キンッと言う音を立てて弾け。
2人ともほぼ同時にグラスを空にして。間近にいたわたしに、同時にグラスが突き出され、
「あ、はい。今、次のお酒持ってきます…」
気付けば一升瓶は既に横に転がっていた。
台所へ次を取りに行く背中で聞えたのは、
「僕には、真弓もサクヤさんも同じ事を言い合っている様に聞えるんですが」「そうねぇ。
だからこそお酒もお話しも良く進むのかも」
結局その日は更に数本の一升瓶を空にして、2人とも夜半に時間切れ引分の再試合とな
り。年末の羽様には再戦の機会は幾らでもあった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
翌日は午前中、サクヤさんの赤兎に揺られ、経観塚銀座通商店街へ今年最後のお買い物
に。一緒したのは笑子おばあさんと真弓さんの合計4人。1台に7人が乗るのが難しい事
情もあって、幼子2人は正樹さんとお留守番です。
前の夜にあれだけ呑んだのに、真弓さんもサクヤさんもけろっとしていて、今晩の延長
戦を誓い合っていた。わたしのお父さんもお母さんも、サクヤさんに多少お酒付き合って
いたけど、あんなには呑めてなかったと想う。
大体人のお腹に、あれだけの分量の液体が入る事が理解できない。サクヤさんも真弓さ
んも、体型が変っていてもおかしくないのに。わたしは多分成人してもそこ迄呑める様に
は。
「さて、とっとと積み込んで戻るとしよう」
サクヤさんも含めた7人家族の、正月数日分の食料なので、野菜も果物も箱単位で買う。
牛乳もラーメンも卵も豆腐も三つ以上は買う。だから沢山積み込める赤兎を選んだ訳だけ
ど。
商店街は混み合っていた。田舎の商店は大抵正月は数日休むから。お店も年内に商品を
売り尽くそうと。お客さんも暫く買えなくなるので詰めかけて。満員電車に近い混雑の中、
「卵と牛乳と海苔と」「玉葱に白菜に胡瓜」
笑子おばあさんの元でお料理修練に励んでいるわたしと真弓さんは、お買い物もその延
長で、買い物かごを乗せたカートに次々と商品を運ぶ。おばあさんに寄り添うサクヤさん
がそれらの品物を積み上げて、レジ迄押して。
「持てるかい、柚明」「大丈夫ですっ…!」
芋と玉葱の箱を重ねて持ち上げるわたしを見て、心配そうなサクヤさんの問に、わたし
はふらつかずしっかり運ぶ姿を見せて応えて、
「柚明ちゃんはこの位毎週運んでいるのよ」
普段買い物を一緒する真弓さんは、サクヤさんよりわたしをよく知っていると自慢げで。
買い物袋を下げた笑子おばあさんが、横から、
「最近はわたしが行かなくても、柚明と真弓さんだけで、大抵の買い物は足りていてね」
「それは真弓と柚明じゃなくて、柚明だけで足りるって事じゃないのかい、笑子さん?」
柚明や正樹が、真弓の買い忘れや取り間違えをカバーしているから、順調なんであって。
「白菜とキャベツ間違えたり、すき焼きで牛肉を買い忘れたり、白花と桂の出生届を取り
違えたり。真弓の日常は、あたしも見たから。真弓の買い物は修練だけど、柚明の買い物
は人を監督し補い繕う修練じゃないのかね?」
「そ、そんな事ないわよ」「そうですっ…」
真弓さんが反駁しつつも劣勢で、それ以上言い返しがたい様子なのに、わたしもここは、
「真弓叔母さんは買い物中も、桂ちゃんや白花ちゃんや、みんなの事を考えつつ歩いてい
るんです。ちょっと間違えるのは、物思いに耽っているからで。綺麗で優しく強い人…」
わたしのフォローは、余りフォローになってなかったかも。サクヤさんは真弓さんのカ
バーに入るわたしを興味深そうな瞳で見つめ、
「羽様に来る迄おっとりしたお嬢さん気質だったあんたが、用意周到になってきた事情が
分った気がするよ。それも一つの修練かね」
食品の次は正月に飾るお花を買って、大伴酒店で年末年始に呑み明かすお酒を注文して。
お酒は真弓さんとサクヤさんが朝昼晩で一升以上ずつ呑むので、数と銘柄だけ注文して後
で配達して貰う。門松や注連飾りも購入して。
『羽藤の正月はオハシラ様を祀るのですか』
と真弓さんが問うたのも、もう3年前か。
わたしは羽様に住むのは4年前からだけど、それ以前から正月は父母と共に羽様に来て
過ごしていたので、大まかな事情は心得ている。
『雪深くてご神木には行けないけど、中庭でその方角に折り畳みの祭壇を設け、供え物を
してお祈りするの。真弓さんも見た通り屋敷には神棚もなくてね。違うのはその位かね』
クリスマスを祝う奇妙に、わたしが気付けたのは真弓さんのお陰だった。キリスト教の
祭日は、オハシラ様を祀る羽藤と相容れないかもと。真弓さんが祝っても障りないのかと、
遠慮がちにおばあさんに、尋ねた時に初めて。千羽の家では、キリスト教ではないと、ク
リスマスは祝ってなかったらしい。でも笑子おばあさんは、気にしない気にしないと鷹揚
で。
『この国の宗教観は、とても複雑だからねぇ。クリスマスを祝った後で除夜の鐘を聞き、
御神酒を飲んでご来光を崇める。何宗何教か判然としない辺りが、この国らしいと言う
か』
サクヤさんと正樹さんは鷹揚さに加えて知識を備えていて、意外な背景を話してくれた。
『元々クリスマスはキリスト教由来じゃないんだよ。キリストの誕生日は正確に記されて
ないけど、冬ではない様なんだ。元々この日を祭日にしていたのは、古代ローマでキリス
ト教と競合していた、太陽神を崇めるミトラ教でね。無理にキリスト教に改宗させた後も、
クリスマスを祝いたい民衆の気持を取り込む為に、適当な名目で祭日にしたのが実情で』
キリスト教の人は、知らずに間違った祭りをしている事になる。逆にクリスマスを祝っ
ても、キリスト教に帰依した事にはならない。理屈の上ではそうなるけど。それより何よ
り。
『何かめでたい事があって祝いたいというなら、一緒に祝うのに何の不都合があるかね』
笑子おばあさんの理屈を突き抜けた一言の方が、一般的な日本人の感性なのかも。
「松に竹に梅に、福寿草。葉牡丹に水仙と」
「椿に雪柳に……。花は大体揃った様だね」
わたしが笑子おばあさんと花を見繕う間に、
「山椒に桔梗に、防風、細辛(さいしん)」
「大黄に乾姜(かんきょう)、肉桂(にっけい)、白朮(びゃくじゅつ)と。他に……」
真弓さんとサクヤさんは、お屠蘇の材料になる薬草を買い込んでいた。お屠蘇は正月行
事なので、わたしも口はつけている。桂ちゃんと白花ちゃんも本当に少量を。でもそれは
サクヤさんに言わせると舐めた程度で、とても呑んだ内には入らないのだとか。重ね重ね、
未成年の飲酒は法律により禁じられています。
帰ったら羽様のお屋敷の大掃除です。大量の荷物を下ろして仕分けてしまい終え、軽い
昼食を摂ると、桂ちゃんと白花ちゃんもお掃除様で汚れても良い『戦闘服』に着替えさせ。
この古くも見事な日本家屋を掃除するのは、7人掛りでも大変だ。女中や下男の住み込
みも想定した作りは部屋数も多く一つ一つが結構広い。埃を払いゴミを掃き出すのも一苦
労。
幼子2人は正直余り戦力になってない。ゴミを掃くとか払うより床や壁と戯れる感じで、
見ていると可愛さ健気さは限りないのだけど。2歳児にまともな掃除は無理だと承知の上
で。みんなと一緒に作業したい2人の気持を受け止め、2人の通り過ぎた後を改めて掃き
清め、2人が転げ回った後を再度綺麗に拭き取って。
「高い処はあたしがやっておくから良いよ」
背丈の違いはこういう時に響きます。額縁の裏や電灯の傘や、タンスの上の日本人形ケ
ースや。椅子を持ってこなければ届きません。
「何とかは高い処に手が届くから良いわね」
真弓さんの言葉は『高い処に上りたがる』の応用型? サクヤさんは怯んだ様子もなく、
きゃっきゃと喜ぶ桂ちゃんを肩車して現れて、
「桂が高い処に上りたがるのは、あんたに似た所為かね? 言われると少し心配だよ…」
何のかんのと言い合いつつ、今晩こそ覚悟なさいと予告し合いつつ、お掃除の手を進め。
夕刻にはあらかたの作業も終えて、4人の混雑気味な厨房で、夕飯作りのお料理修練です。
大晦日の前日の今日は、明日作るおせち料理の下準備も兼ねるので作業も多く、勉強に
なります。羽藤は旧家なので、おせち料理等を入れる入れ物も古風で良い器が揃っていて、
それらを棚の奥から取り出すだけで年末気分。
「一の重は『祝い肴』、二の重は『口取肴』、三の重は『焼き物』、四の重は『煮物』
を」
「正月のおせち料理は、詰めすぎるのではなく、とりやすく彩り豊かに、でしたよね…」
正月料理は和食の集大成の様な物。笑子おばあさんに習うのも今年で4回目だけど、真
弓さんもわたしも全ては憶え切れていません。
頭いもは、人の頭に立つ人間になれる様にとの祈りを込めて。黒まめは、1年の邪気を
祓って、マメにコツコツと暮らせる様にとの。こぶ巻きは、よろ「こぶ」の語呂合わせか
ら。ごまめは、別名「田作り」とも呼ばれており、五穀豊穣を祈願して。なますは、神聖
な色の白とお祝いで使われる紅を大根と人参で表し。
数の子はニシンの卵。「二親」と読んで子宝に恵まれる様にと願う。でも子宝って、わ
たしの場合、未だ少し先の事の様な気が…?
里いもも、子宝に恵まれる事を祈願して…。
結びこんにゃくはむつみ(睦み)合える様にって、これは真弓さんと正樹さんの為の物。
わたしには未だ早すぎる気がしてなりません。
「さあ、昨日の決着をつけようかね、真弓」
「望む処よ。今日こそ思い知らせてやるわ」
「明日の餅つきに響かない位にして下さい」
正樹さんが心配の余り2人の間に挟まったのが、事の始りだったかも。2大怪獣の対決
に不用意に首を挟めた正樹さんが、真弓さんとサクヤさんの3分の1位の量を呑まされて、
1時間経たない内に呑み倒されてしまって…。
「おとうさん寝ちゃった」「うなっている」
笑子おばあさんとお話ししつつ、白花ちゃんと桂ちゃんに砂糖水を注ぐ間に、正樹さん
はちゃぶ台に右頬をつけて意識も朦朧として。
「すみません、つい」「呑ませすぎたかね」
真弓さんもサクヤさんも、少し気を抜くと自分と同じ量を同じピッチで、他の人に注い
でしまう。幼子に左右から手を伸ばされて心配される夫を捨て置けなくて、真弓さんは今
宵はサクヤさんとの決着を諦めざるを得ず…。
「まあ、明日もある話しだからね。正樹も早い内に眠った方が明日に響かないって物さ」
サクヤさんは次はわたしに寄り添ってきて。真弓さんと心ゆく迄呑めず、物足りなかっ
たみたい。笑子おばあさんは桂ちゃんの小用に付き合っていて、他は白花ちゃんだけだっ
た。
「柚明、どうだい。一口飲んでみないかい」
左肩に左腕を、背後から巻き付けてきて。
耳に声と共に温かな息が吹き付けてくる。
柔らかな唇や頬を、首筋の間近に感じた。
「でも、わたし未だ未成年だし、お酒は…」
呑むか呑まないかより、むしろサクヤさんが間近に艶っぽく、お酒で上気した素肌と湿
って温かな吐息にどぎまぎして口ごもるのに、
「御神酒だよ。もうこの時期なら、口にする酒は全部御神酒さ。あたしが許すよ、柚明」
サクヤさんが、とても美味しそうに呑んで。
身も心も柔らかになれる魔法の水。それを。
わたしも口にしたなら、サクヤさんに近しくなれるだろうか。大人に近づけるだろうか。
少しは胸も大きく、背も高くなれるだろうか。目の前で、透明な液体の水面は揺れて輝い
て。
「くいっと呑んでみな。大人に、なれるよ」
わたしが拒む姿勢を見せない事を悟って。
サクヤさんがグラスを顔に近づけてくる。
さっき迄サクヤさんが口をつけていた処。
未だ飲み口が濡れているそこがわたしに。
『お酒より、わたしサクヤさんと間接キ…』
触れて確かに繋って、唇が湿り頬染まり。
他の全てが、一時意識の視野から消えて。
わたしはつい砂糖水の様にくいくいっと。
液体が口の中を、喉を胃袋を満たし行く。
「んっ……、……んっんっ……こっくん…」
未成年の飲酒は、法律で禁じられて……。
ふはぁあ。グラスになみなみあったお酒を、半分位呑んでしまっただろうか。サクヤさ
んは少し意外そうに、でも愉しげな瞳を向けて、
「どうだい、柚明。……大人の味わいは?」
「……辛い。舌も喉も、口の中も熱くなって。ワサビやタバスコの辛さとも違う。でも何
か、とろっと甘い感じもするの。変な気分……」
サクヤさんや真弓さんが感じた甘さより辛さを強く感じるのは、子供の舌の為だろうか。
それで尚感じる甘みは、サクヤさんの唇の?
「日本酒だからね。きっと米の甘みだよ…」
そう言われると、良く噛んだお米の甘みにも通じる様な気が。喉がなんだかとても熱い。
「もう少し呑んでみるかい? 一気に呑みこんで、殆ど舌では味わってないだろうに…」
御神酒を少し口に含むのと違い、ごっくんと呑んでしまった。平常心が乱されて、目の
前のグラスの水面の様に揺れてます。喉が未経験の辛さと熱さで渇いて来て、何か飲み物
を欲していた。水でも砂糖水でも何でも良い。考えるべき諸々を、考える気になれなくて
…。
「んっ……、……んっんっ……こっくん…」
もう一度、サクヤさんが口つけていたグラスに、その箇所に唇を当て。くいっと一気に。
ふはぁあ。今度は呑み干しちゃいました。
「柚明、あんた少しピッチ早すぎないかい」
ありゃ、瓶持ってこないともう酒がない。
サクヤさんが次の一升瓶を求めてすっと身を離すと、人肌の温もりはなくなるけど、な
ぜか身の火照りは鎮まらず。喉が渇く以上に、身体中の血管から熱が溢れてくる。贄の血
の力を紡いだ訳でもないのに、勝手に熱気が湧きだし駆け巡って。わたし、酔っちゃっ
た?
「ゆーねぇ、眠たそう」「白花ちゃん……」
歩み寄って正座の右足に手を付く幼子に。
不思議そうに見つめられ。わたし眠そう?
白花ちゃんの柔らかな頬に頬寄せたくて。
いつもしている事だけど、なぜか今日は。
すりすりと、抱き留めて離したくなくて。
白花ちゃんの求めではなく己の欲求で動き。
白花ちゃんは喜んで受け止めてくれたけど。
「……柚明?」「おねえちゃん、けいもっ」
おばあさんの声と、走り寄る足音が聞え。
目を閉じていても桂ちゃんが、白花ちゃんの反対側から身を添わせ、頬を合わせてくる
様が感じ取れる。柔らかな幼子の頬を両頬に感じ、2つの小さな肩にこの両腕を回して…。
わたし、桂ちゃんと白花ちゃんに身を支えて貰っている? 抱き留めているんじゃなく、
抱き留めて貰っている? 正座していた筈の身が、幼子のいる正面に、崩れて凭れ掛って。
「ゆーねぇ、おねむ?」「おねえちゃん?」
笑子おばあさんが歩み寄ってくるのが分るけど、声や足音は聞えても瞼は閉じて開かず。
身体が怠くて重い。意志が通わない。と言うより意志が生じてこない。筋肉の奥に引っ込
んで、心もその侭夢の世界に引き込まれそう。
「柚明、気に入ったならもう少し……って」
足音というより振動でサクヤさんを感じたけど、わたしは幼子に抱きついた侭床に崩れ。
なぜかみんなの声が少し遠い様な。地面が、と言うより頭の中が揺れている気がする。
そう言えば身体が少し熱くて。それに少し怠い。上下と左右が確かではなく。前も後も揺
れて。
「柚明……?」「ちょっと柚明、あんた!」
おばあさんとサクヤさんの声が上から降って来るのは、寝転んでしまった為か。幼子達
の柔らかな温もりと肉感に、頬擦り合わせた感触を最後に、わたしの意識は一時途絶えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「う……ん……は……はぁ」
喉の渇きで、わたしは意識を、取り戻した。
なぜわたしは床に身を横たえているのかな。
パジャマも着てないし、ここは自分の部屋でもないし。ちゃぶ台があるお屋敷の居間で。
水枕で寝かされ、毛布を掛けられていた。
とりあえずという感じだけど、一体何が?
身を起こそうとすると、頭が痛くて重い。
額に触れようとして、腕の不自由に気付く。両脇に、わたしの腕と胸に頭を挟めた幼子
が寝入っていた。右に桂ちゃん左に白花ちゃん。わたしの体に斜め拾五度位の角度で首を
つけ。
2人ともわたしに身を寄せて寝入っている。動けば起こしてしまう。真弓さん達の寝室
で絵本を読んであげた時がこんな感じだけど…。
両腕なしに首だけを持ち上げ続ける気力がなくて、頭を下ろす。後頭部が強烈に締め付
けられた様でガンガン痛い。それに喉の渇き。炎天下を小学校迄歩いてもこんなに渇かな
い。わたし、何をどうしてここに双子と眠って?
電気は点いていたけど、みんなが揃う居間なのに静かだった。テレビも付いてないけど。
視界の外に人の所在は感じ取れた。静かな息遣いは、笑子おばあさんと、サクヤさんかな。
瞳をずらして時計を見るとまだ遅くはない。幼子は寝付かせる頃合だったけど。冬は毛
布一枚掛けた位では幼子は風邪を引きかねない。これは一時的な処置だ。寝付かせるなら
ここではなく、正樹さん達と一緒の寝室の筈で…。
痛い。考えようとする度に、頭が痛い。
働かせないでと、ストライキしている。
喉は飲み物が欲しいとデモ行進をして。
「目が醒めたかい、柚明?」「……ぁっ」
サクヤさんの静かな声が、わたしの記憶の糸を繋げてくれた。わたし、サクヤさんの飲
み口に唇をつけて頬を染めて、お酒を呑んで桂ちゃんと白花ちゃんを押し倒して、そして。
いたっ。この痛みは、酔っぱらった所為?
わたし、大人になれると思って背伸びして。
結局思い切り子供な処を晒しちゃいました。
「今水をあげるよ。ちょっと待っていな…」
病人用の水飲みを持ってきてくれる。桂ちゃんと白花ちゃんを起こさない様にという配
慮より、頭が痛い今のわたしへの配慮みたい。その向うで座していた笑子おばあさんの声
が、
「柚明には、未だお酒は少しだけ、早かった様ですね。サクヤさん」「ん……かもねぇ」
幼子の様に水飲みの先を咥えさせられる。
気遣われる事が、気遣わせた事が申し訳ないけど。今はその事に思い悩む余裕もなくて。
新鮮な水がこの上なく美味しく心地良い。
「ごめんなさい、サクヤおばさん。わたし」
己の分を弁えず、子供なのに。白花ちゃんや桂ちゃんを、巻き込んじゃった。2人にも、
情けない処を見せちゃって。落胆させたかな。軽蔑されたかな。嫌われたかな。わたし…
…。
お酒に酔わされ。サクヤさんに酔っ払った。
頭にズキと来るのは、お酒呑んだバチかも。
或いは、サクヤさんと間接キスした事への。
未成年の飲酒がダメな事を思い知りました。
でもサクヤさんは穏やかな瞳で見下ろして、
「白花も桂もあんたを嫌ってないよ。あんたは意識がなくてもあんただった。正体なくて
も2人に頬寄せて唇をつけるだけで。体重を掛けない様に気を遣ってね。泣き上戸とか怒
り上戸とか酔っ払いも各種あるけど、あんたは抱き上戸、キス上戸かね。人生最初に押し
倒してくれたのが可愛い柚明お姉ちゃんなら、2人も不満のあろう筈もない。むしろ喜ん
で、あんたに抱きつきもっともっとと競い合い」
あんたが気を失ったから仰向けにひっくり返して、2人を離そうとしたんだけど、2人
ともあんたの腕にしがみついて、離れなくて。あんたを枕に寝付いたから一緒に毛布掛け
て。
「寝室は真弓が正樹に手こずっていたみたいだから、持って行けなかったし」「ああ…」
無心にわたしに身を預け、心を預けて眠ってくれる。愛しい子、いとこ。白花ちゃんと
桂ちゃん。わたしの天使。この2人に嫌われなかった事より、この2人に嫌われる様な事
をしていなかった己に、少しだけ安堵しつつ。
「ご面倒掛けて、心配させて、済みません」
せっかくの愉しい大人の時に割り込んで。
愉しいお酒の時間を台無しにしちゃった。
「良いんだよ。あたしが呑ませたんだ。あんたの適量を越えさせたのは、あたしの失態さ。
確かに長く生きすぎると、子供の感覚が遠くてね。真弓の言う事も当たりだったかも…」
今宵はあたしが悪酔いだった。ごめん柚明。
すっと顔を下ろしてきて、額に唇で触れて。
無造作に、人が羨む程の美貌がこの額にっ。
わたし、酒酔いより更に顔が紅に染まって。
桂ちゃんと白花ちゃんを両脇に抱えて動けない以上に、固まっちゃいました。心臓がば
くばく言って鎮まりません。幼子を起こしてしまいかねない程、熱く贄の血が巡ってます。
繋った唇は、数秒の後に離れて上に戻り、
「でもまあ、まともに呑んだ最初にしてはあれだけ呑んでこの程度なら、悪くない。柚明
も結構いける口になると思うよ、あたしは」
酒は慣れだよ。明日にももう少し呑めば。
悪戯っぽい視線で見下ろしてくれた時に。
「そう言う事だったの……? サクヤ……」
どこかで瞳の星が輝く音が聞えた気がした。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「夫の介抱にいなかった間に、サクヤあなた、わたしの可愛い柚明ちゃんに一体何を
…?」
真弓さんは、正樹さんを寝付かせ終えた処らしい。でも、その細い手に下げているのは、
当分使う事もないでしょうと、押し入れの奥にしまい込んだ、鬼切りに使う破妖の太刀で。
静かに抑えた声が間近な嵐を想わせる。サクヤさんもその声が耳に入った瞬間、冷や汗
流し硬直し。わたしの視界はサクヤさんに遮られていたけど、気配はもうびりびりと来て。
背後でも、サクヤさんも危険は把握している。
「ま、真弓。ちょっと待て…」「問答無用」
白刃を振るう。サクヤさんは慌てて飛び退いたから躱せたけど、そうでなかったら……。
「ち、ちょっと待て。待て真弓。あたしの話を聞け。悪気はなかった、事故なんだって」
だから、まず刃を振るんじゃなくて話しを。
ブンッ。躱すサクヤさんに尚白刃は迫って。
「待て、話せば分る」「話す必要はないっ」
「柚明ちゃんの仇!」「仇ってあんたっ…」
柚明はここに生きているじゃないかいっ。
その間も真剣は振るわれて、サクヤさんは二度三度身を躱し。お互いに相当呑んでいる
筈なのに、動きに全然淀みがない。少し呑んだだけで頭痛くして寝込んだわたしと大違い。
真弓さんは、サクヤさんが外したわたしの間近に歩み寄ってきて、屈み込んで覗き込み。
「柚明ちゃん、守ってあげられなくてごめんなさいね。可哀相に。こんなに可愛い子を酷
い目に遭わせ苦しめて。サクヤはやはり鬼よ、狼よ。この仇は、必ず取ってあげるから
…」
あ、あの。わたし、別に仇討ちは望んでは。
真弓さんを、止めようと、想ったのだけど。
言おうとした瞬間、美しく真摯な美貌はわたしの顔に降りてきて、この右頬に唇で触れ。
わたし、今度は真弓さんに酔って心も喉も固まって、何も喋られなくなっちゃいました…。
「サクヤ、そこに直りなさい……切るから」
「切ると言われて、従う奴がいるかって!」
重たい刀を軽々振り回し、居間の中を追い回す。驚いたのは、長い刀を振り回し、それ
から逃げ回るにも関らず、2人は殆ど部屋を乱さず、家具も壁も全く傷つけていない事で。
居間が幾ら広いと言っても運動場ではない。格闘戦をやるには当然狭すぎる。なのにわ
たしや幼子が横たわり、笑子おばあさんもちゃぶ台でお酒を飲んでいるにも関らず、2人
は見事に障害物を躱しつつ、追いかけ追われて。
「未成年の柚明ちゃんに、なんて事するの」
「ちょっと呑ませた、だけだってばっ……」
「それが良くないっ。生命で償いなさいっ」
「幾ら何でも罰が重すぎる。控訴するっ!」
「棄却。わたしの可愛い柚明ちゃんを苦しめ危うくさせる者への罰は、全部鬼切りよっ」
「ちょ、ちょっと笑子さん。微笑んで見てないで、一言窘めておくれよ。一度生命救った
子羊が、今ここでもう一度危ういんだから」
最初はハラハラして見ていたけど。最後迄ドキドキはするけど。刃は数センチとか数ミ
リの処を行き交うのに。互いに本気の殺し合いではない事が、真剣なのによく見えて分る。
真弓さんだけじゃなく、サクヤさんも普通の達人とは、隔絶したレベルの処にいるんだ…。
笑子おばあさんはそんな2人の行き交う様に驚いた様子もなくて、にこにこと笑み浮べ、
「真弓さん、壁や家具に傷をつけない様にお願いしますね。サクヤさんも、大掃除の後で
すから余り散らかさない様にして下さいね」
「分ってますわ、お義母さん。大丈夫です」
「勿体ないから、酒は零さないけどさっ…」
2人はちゃぶ台やテレビの周囲を、縦横無尽に駆け巡り。笑子おばあさんが動かず、い
つも宥めに割って入る正樹さんが不在な中で、
「柚明ちゃん。今サクヤを懲らしめてあげるから、少し待っていてね」「ちょっと柚明、
あんたからも少しは真弓を窘めておくれよ」
「……サクヤおばさん、真弓叔母さん……」
真剣ではなくても2人の諍いを止めたいとは望むけど、わたしも後頭部が痛く、想いも
考えも紡げない。体が重い以上に頭が重くて、水枕から一センチも持ち上げられない。足
音や声や物音に、両脇の幼子が目を覚ますけど。夢現な顔でわたしを見上げ、それで安心
した様で瞳を細め。周囲の雑踏に構わず左右から、胸に柔らかな頬寄せてくるのを受け止
めつつ。
「済みません。わたし今夜は動けません。何とか頑張って生き延びて下さい」「柚明ぃ」
「しっかり止め刺して仇を取るから、見守っていてね、柚明ちゃん」「それも無理です」
今は2人の幼子を抱き留めるだけで精一杯。
尚頭は痛いけど幸せに包まれて、わたし今宵はこの侭沈ませて頂きます。お休みなさい。