第2話 癒しの力の限り(前)
一番近い隣家迄数キロ隔たり、静寂と月明りが包む羽様の夜を、人の物音と車の灯火が
乱したのは、十一時頃だった。サクヤさんの赤兎は到着ではなく、出立を前にエンジン音
を低く唸らせ、灯り漏れ出る軒先には幼子の白花ちゃんと桂ちゃんを除く家族全員が揃い。
時々雲の群れに隠れ又顔を覗かせる月明りの下、晩秋の羽様は吹き付ける夜風も冷たい。
「いつでも出られるよ」「はい」
出立するのはサクヤさんとわたしで、見送りは笑子おばあさんと正樹さんと真弓さんだ。
赤兎で一緒に長距離を往くのはあの日以来で。今度こそ夜逃げと言って良い夜半の出立で
…。
わたしの表情は少し硬かったと思う。もっと柔らかな笑顔で、人を安心させるべき処だ
けど。もっと時間を掛けて、みんなに得心の行かせられる余裕があれば良かったのだけど。
「我が侭を通す形になって、ごめんなさい」
特に真弓さんには申し訳ない展開になった。わたしを想う故に、わたしを案ずるが為に
最後迄、夜半の出立に難色を示した真弓さんに、説き伏せてしまったわたしは深々と頭を
下げ。
「……良いのよ。それが正解」
それが柚明ちゃんの真の想いなら。
真弓さんは、わたしの心を受け止める様に、下げた頭ごと、身を繊手で抱き寄せてくれ
て、
「心置きなく、想いの限りを尽くして来て」
肌寒い秋の夜風の中、心と身体が暖まる。
想わずわたしも真弓さんの背に腕を回す。
そんなわたしを真弓さんは包み込む様に、
「わたしへの申し訳なさは感じなくて良い。
あなたを想い案ずるのは好き好んでなの。
あなたが申し訳なく想う事は何もないわ。
今わたしは了承してあなたを送り出すの。
わたしへの後ろ髪等に気を奪われる余裕は、これからのあなたにはない筈よ。後ろは見
ず、目の前の挑むべき事に全力を尽くしなさい」
間近で助けになれないのが、残念だけど。
真弓さんはその事に申し訳ないとの心情迄その美貌に表してくれる。温かで優しい気持
に何か応えたいと想ったけど、それより先に、
「……サクヤが、付き添ってくれるから…」
サクヤさんがいれば大抵の事は大丈夫と言う強く深い信頼が窺えた。サクヤさんと真弓
さんの関係は、そう長くないけど堅くて強い。余人が入り込めぬ絆の深さは、生命をぶつ
け合った経緯の故だろう。サクヤさんが来てくれている時だから、この出立も叶ったのか
も。
サクヤさんを巻き込んでしまって申し訳ないけど。そうでなければ真弓さんは、自身付
き添うと言ったかも。それも嬉しい話だけど、幼子がいる羽様のお屋敷で母の不在は難し
い。この組み合わせが最善か。或いは正樹さん?
「サクヤ……頼むわよ。柚明ちゃんの事を」
サクヤさんを信頼しつつ、尚自身が付き添えない事に不安と申し訳なさを感じる真弓さ
んは、まるで母か姉の様だ。サクヤさんはわたしとわたしを抱き留める真弓さんの間近へ、
「任せときな。あたしはあんたより柚明との付き合いの方が長いんだ。柚明の頑張りもそ
の限界も、強さも弱さも、可愛さも儚さも分っている。……きちんと守って連れ帰るよ」
真弓さんの想いに応え、わたしを愛おしむ声が後方間近の頭上から降る。この身を抱き
締める腕が確かなその約束を受けて漸く緩み、
「その言葉、確かに聞いたわよ」
抱き留めていた腕が解けて、わたしの両肩を抑える感じに変る。それでも名残惜しさを
隠せない真弓さんの左肩に正樹さんの右手が、
「サクヤさん、お願いします。柚明ちゃんも、無理しない様に頑張って」「はい」
迷惑と心配をみんなに残してしまう。
その事は承知での夜半の強行出立だ。
正樹さんも笑子おばあさんも、分って尚微笑み見送ってくれる。わたしを想い、わたし
を案じ、わたしの憂いを少なくと。そこ迄気遣わせている事が、既に申し訳なかったけど。
今は進まなければいけない。この途を選び取った以上、この先にある物を掴み取らねば、
それこそみんなの配慮も無駄になってしまう。絶対失敗に終らせはしない。必ずわたしは
…。
「申し訳ありません。行ってきます」
白花ちゃん、桂ちゃん、暫く行ってくるね。
大事な時に身につけると決めている、白いちょうちょの髪飾りをつけ、笑子おばあさん
から手渡された守りの青珠をしっかりと握り。わたしは晩秋の夜半、羽様の屋敷を後にし
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
良くない報せの予感をわたしは、その日の昼過ぎから感じていた。それが何を示すのか、
いつどこで誰が何に遭うか迄は分らなかったけど、兆す暗雲は拭い去れずに心を占めて…。
それは近親者だったからなのかも知れない。
それはわたしが求められた為かも知れない。
わたしの贄の血の修練が、順調に進み行く事の副次効果らしいという事は、分ったけど。
贄の血の力の修練の進展は、羽藤の血筋が宿し鬼に好まれる贄の血の匂いを隠し、襲い
掛る禍を退ける力や人を治し癒す力を増す以外にも、幾つかの副次効果を伴った。多くは、
掛る電話を直前に分るとか、手紙の配達を数時間前に分るとか、客人の来訪を前日に分る
とかの、使えて余り役に立たない技能だけど。
電話はそう言えば修練以前から、掛ってきそうな感じが分った。感じると電話の近くに
走り寄ったので、わたしに電話を掛ける人は、待たされる事が少なくて済んでいたと思う
…。
徐々にそれらの中に使えそうな、関知とか感応とか呼ぶべき技能が見え始め。何かが起
きそう気がする、誰かに遭いそうな気がする。まだ曖昧で、掴み処がない予感が殆どだけ
ど。
それが今は、余り良くない不安をもたらす兆しとなって心を黒く浸食し……。起る迄何
があるか分らない事が、心に重くのし掛った。それにサクヤさんが重なり合って視えたか
ら。
お父さんやお母さんがいた頃は、サクヤさんは毎年この時期町の家を訪れてくれていた。
自由業のサクヤさんは仕事の調整が利くと言って毎年の様に。経観塚の笑子おばあさんや
正樹さんの近況を話してくれるので、その頃はサクヤさんを経観塚との接点に感じていた。
わたしが羽様に越して以降、晩秋必ずサクヤさんは羽様のお屋敷を訪れてくれる。今の
わたしにサクヤさんは、外界との接点だった。両親の生命を奪った鬼の行方や、警察や鬼
切部の捜査状況、町に住む友達や親戚の近況や安否を、伝えてくれて。他にも世の中の事
を、経観塚や県庁市では知る術もない話や情報も。
それはわたしを豊かにしてくれる。サクヤさんに逢えるだけで嬉しいのに。来てくれる
だけで喜びなのに。長く滑らかな腕に抱かれるだけで幸せなのに。わたしは、恵まれすぎ。
だから、サクヤさんに不安や不吉の影が重なる様を、わたしは看過できなかった。わた
しがそれを視て招いた気がして堪らなかった。感じても正体を掴めず、守りも助言もでき
ない修練不足のこの身が、情けなくも悔しくて。
サクヤさんの来訪は数日前から、良くない兆しと別に関知していたけど。今日の夕刻に
到着する様子が視えたので、緑のアーチの終着点迄1人散歩に出て、待っていたのだけど。
「今日来る話は、誰にもしてなかった筈だよ。近日来ると予想できても、今日この時にあ
たしが来るって、どうして分ったんだい? 毎日何時間も待っていた訳じゃないだろう
に」
白銀の長い艶やかな髪を揺らせ、まつげの長い瞳を瞬かせ、高い位置の運転席の窓から
首を出し、少し首を傾げつつ問う美しい人に、
「良かった。無事に羽様に着いてくれて…」
サクヤさんに何か起るかも不確かだったけど、何か関りがあると感じたから。ここに来
る迄に事故にでも遭ったならと不安で不安で。もっと詳細に感じ取れれば、何に気をつけ
てと伝えられた。防ぐ事も守る事も出来たのに。
予感が外れて良かったと、その時は思った。でも、すぐに何も終ってないとわたしは気
付かされる。サクヤさんは常の如く綺麗で力強いけど、お屋敷は双子の喧噪で賑やかだけ
ど。
わたしの感じた兆しは尚も拭えてはいない。
それは目に見える時を待って伏せたカード。
それは近い未来に尚あり続けて消えてない。
サクヤさんが無事羽様のお屋敷に着いても、心を占める不吉な兆しは尚拭い去れなかっ
た。これから来るという感じが徐々に募っていた。噴火の前に小刻みな地震を感じるのに
も似て。
羽様のお屋敷にいれば不安はない筈なのに。真弓さんもいる。サクヤさんもわたしより
ずっと強い。何も心配は要らない筈だ。なのに、心に滲み出すこの不安は一体何なのだろ
う?
わたしは夕食時、みんなの前で真弓さんの不快を呼ぶ問いを、サクヤさんに持ちかけた。
真弓さんや他の人の答も聞いてみたかったから。持ち込んだ冊子の表紙を見て正樹さんが、
「柚明ちゃんが恐怖雑誌を買うとは珍しい」
わたしが広げたのは、月刊のホラー雑誌だ。心霊写真とか芸能人の恐怖体験とか、霊能
者のお悩み相談とか読者投稿の恐怖話が満載で。脱毛とかダイエットとか、魔法のクリス
タルとか身体を癒す超聖水とかの怪しげな広告も。
羽藤家の面々には霊も鬼も、未知でも怪異でもない。慣れ親しんだ物には特段興味を示
さない感じで、テレビでも雑誌でもその類の番組や特集に好んで目を向ける人は、今の羽
藤のお屋敷には居なかった。わたしも含めて。
わたしもマンガ雑誌やファッション誌は買うけど、偶にサクヤさんが政経面の記事を載
せたり正樹さんがコラムを載せる経済誌も読んだりするけど、ホラー雑誌は殆ど買わない。
にも関らず今回これを購入したのは、サクヤさんにこの場でわざわざそれを見せたのは、
「あっ、八木の奴、こんな形であれを…!」
それがサクヤさんに関る記事だったから。
【Y県M村の村ぐるみ消失の謎! 皆殺しにあった村人の怨念が、今も漂う様を取材…】
今から五十年も前の話で定かではないけど、村一つが夜襲にでも遭ったかの様に焼け落
ち、村人全てが行方不明になる事件があったとか。今もその村人達の無念が霊となって彷
徨うと。
真弓さんが微かに表情を硬くしたのは、それがサクヤさんとのなれそめだから。その真
相をサクヤさんが明かそうとし、真弓さんは隠そうとして、真剣の争いを経た案件だから。
それを今ホラー雑誌で見る事になろうとはと。
和解はできたけど、これはサクヤさんと真弓さんが生命のやり取りをする程の争いの原
因だった。正樹さんを巻き込んで結婚の因ともなり、真弓さんがそれ迄努めていた職を辞
する因にもなった。だからわたしも薄々知って尚、軽々しくは触れない様にしていたけど。
これがサクヤさんの到来と期を同じくして感じ始めた、わたしの不吉な予感に繋るなら。
わたしのたいせつなサクヤさんの身を危うくする怖れを持つなら。問わない訳に行かない。
真弓さんの不快を承知で、敢て広げてそれを見せるわたしに、サクヤさんは苦い表情で、
「それは、大人向けの月刊誌にあたしが持ち込んで掲載が決まっていた、ボツ記事だよ」
真弓さんは美しい顔をやや引き締め、桂ちゃんと白花ちゃんを笑子おばあさんに預けて、
「大丈夫よ、柚明ちゃん。わたしも真実に向き合う用意はあるから。気を遣わなくても」
あなたがサクヤを案じている事は分るから。
そしてこれがその心配を呼びかねない事も。
その不安は確かに拭っておく必要があるわ。
「済みません……」
承諾の後サクヤさんが事情を語ってくれた。ルポライターのサクヤさんは、権力者の不
正や悪行も記事にする。公表を恐れた者がスポンサー等を通じもみ消す事もあると言うけ
ど。
「記事をボツにしろと若杉の圧が掛ったんだけど、八木って編集長が中々骨のある男でさ。
だからあたしも信用して持ち込んだ訳だけど、圧に屈した会社の方針に楯突いた末に、突
然月刊誌からホラー雑誌の別部門へ左遷されて。
ああ、その記事は結局掲載されなかったよ。発刊前夜にそのページだけ差し替えられ
て」
何が何でも絶対載せるって、確かにあたしに約束してくれたけど、まさかこんな形で…。
報道記事としてではなく恐怖特集の形で。
サクヤさんは、困惑と苦笑いを隠せずに、
「やってくれるじゃないかい。上出来とは言えないけど、一応約束は果たされた訳だ…」
「これでサクヤさんが若杉に睨まれるんじゃないかと、柚明ちゃんは気になった訳か?」
正樹さんの確認にわたしは頷いた。この事が、サクヤさんに禍をもたらすのではないか。
わたしが見た兆しは曖昧で、何がどうサクヤさんに関るか否かも不確かなのだけど。この
記事の発表がサクヤさんに危険を招くのかも。
明かして拙いと若杉が抑えに掛った真実が公表された。それは反撃を招くかも知れない。
日本経済の柱の一角を占め、鬼切部を束ねる若杉を怒らせたら、どんな事態になるだろう。
わたしはサクヤさんが心配だから。サクヤさんの目的や記事の訴える内容より、今サク
ヤさんの身に降り掛る禍が気掛りだったから。今後何が起るのか、想像も付かなかったか
ら。
サクヤさんから真弓さんへと雑誌は渡され、正樹さんと笑子おばあさんが一緒に読むの
を気に留めた桂ちゃんと白花ちゃんが、2人の両膝に身を預け、身を乗り出して覗き込ん
で。
「……多分、ないわね」
真弓さんの言葉は噛み締める様にゆっくり、
「報道特集としての公表ではなく、ホラー雑誌の一文では記事の重みが違う。その編集長
の意地は認めるけど、逆にオカルト扱いされる事で世の中に与える影響は殆どなくなった。
幾ら『本当にあった』と主張しても、ホラー雑誌の話を真に受けて殺人の捜査を始める
程日本の警察も甘くないわ。折角の記事の信憑性がこれで大きく損なわれた。むしろ若杉
はこの動きを捨て置いたのではないかしら」
「だろうね。大勢に影響なしと捨て置いたか、却って好都合だから見過ごしたか。発刊さ
れて柚明の手元にある事自体が、その傍証だよ。どっちにせよ、これによる若杉の動きは
ない。あたしは元々若杉に睨まれている。そうさね、この編集長が改めて若杉にマークさ
れ、あの業界で日の目を見る芽を断たれた位かねえ」
サクヤさんの苦笑いは、折角の真相が都市伝説に紛れてしまう事への悔しさでもあった。
ホラー雑誌への掲載で、記事はサクヤさんの目的だった巨悪への有効打ではなくなった。
同じ案件でも扱う場所が違えば影響が変ると。だからこの記事が因となって、サクヤさん
に降り掛る禍が新たに生じるとは予測しがたい。相手も敢て動いて尻尾を出す真似はしな
いと。
「若杉もあたしの抹殺は返り血覚悟で挑む必要があると、真弓の一件で思い知った筈だよ。
そこ迄の危険と労力を要して今緊急にあたしを討ち果たす状況にはない。そう言う事さ」
気の抜けた語調で喋っていたサクヤさんは、最後にわたしを正面に収めて居住まいを正
し、
「あたしを心配してくれて有り難う、柚明」
正面から美しい真顔にお礼を言われて、わたしの頬が朱に染まっていく。わたし、お礼
を言われる程の事を、何一つ出来てないのに。
「いえ……わたし、何も役に立てなくて…」
「真剣に心配してくれた想いが嬉しいんだ」
そう言ってくれるのは嬉しいけど。結局わたしは想うだけで、行いでは何も返せてない。
わたしの手元に入る話は、サクヤさんには影響が及ばない程度の話でしかない。わたし
が気付く様な事、気遣える様な事は、とっくに大人の世界では織り込み済みで進んでいる。
サクヤさんがこの事では危険に晒されないと分って、一つほっと出来たけど。今のわたし
がサクヤさんの役に立てる術はやはりない…。
わたしの感じた悪い兆しは、尚その姿を見せてくれない。せめて何が起るかさえ分れば、
防ぎも守りも出来るのに。突破口を封じられ、糸口が見つけられず。自身の無力が恨めし
い。
「そう言えば、余り良くない報せがある…」
サクヤさんのその言葉に過敏な反応を示してしまったのは、わたしの焦りの表れだろう。
「まだ中身は言ってないよ、柚明……?」
「え、あ、は、はい……済みません……」
「いや、別に、謝る程の事でもないけど」
サクヤさんは少し不審そうに瞳を瞬かせて、
「少女連続傷害事件の容疑者が、捕まったよ。柚明、あんたの住んで居た町でさ」「え?」
正樹さんも驚いた顔を向けた。少女連続傷害殺人事件の犯人は、3年半程前にわたしの
住んでいた町で、何人もの女の子を傷つけたあの鬼は、わたしの両親とお母さんのお腹に
いた妹の生命を奪って、行方不明だったけど。
「あの鬼は、真弓叔母さんが目の前で…!」
半年前羽様迄わたしの贄の血を狙って訪れ、桂ちゃんと白花ちゃんの生命も危うくさせ
た。真弓さんが斬ってくれたから、2人とも今元気に夕飯を食べていられるけど。わたし
も生命繋げたけど。でもだから、あの鬼はもう…。
「分っているよ。あんたが白花と桂を守って退け、真弓が斬ったその鬼の事じゃないさ」
ゆっくりサクヤさんが言の葉を紡ぐのに、
「今サクヤは敢て犯人と言わずに、容疑者と言ったわね。つまり、犯人じゃあないと…」
今度は真弓さんが苦い笑みを浮べた。自嘲気味な笑みは、自身のかつての居所と自身の
過去に向けた想いなのか。サクヤさんは真弓さんの理解を織り込み済みで、わたしに向け、
「一種の冤罪、人身御供って奴さ」
少女連続傷害の犯人のあの鬼は、羽様で真弓さんに倒された。だからあの鬼による少女
傷害や殺人は二度とない。でも、鬼や鬼切部の存在が公表されない以上、鬼切部に切られ
た殺人鬼の死も公表されない。贄の血筋の存在を伏せた方が良い様に、鬼の存在も鬼切部
の存在も世の中に伏せた方が良いとの判断で。
「柚明ちゃんは鬼の死を目前で見て、犯人が再び桂や白花を脅かせないと分った。それで、
心から安心できた。わたしもそう。でも…」
町に住んでいる人達に、それは伝わらない。犯人が鬼だった故に、鬼の抹殺も公表でき
ない故に。少女連続傷害犯人が羽様で、あなたと桂と白花を脅かし、わたしに斬られたと
は。
「この侭ではいつ迄も不安が残る。地域住民、子供や親を安心させる為、警察は犯人をで
っち上げてでも掴まえて見せる必要があった」
「余り良くない報せって、冤罪のこと…?」
サクヤさんはわたしの問に真剣な表情で、
「あんたの住んでいた町の地方面では、大きな扱いだったんだけどね。地域が違えば地方
面に載る記事は全然異なる。そうやって地域的には大きく犯人逮捕を報道し、住民の安心
を取り戻す。でも本当は誤認逮捕というか冤罪だから、一面には載せない。話題が大きく
なりすぎない様に。後々に尾を引かない様に。
実態のない噂に基づく風評被害の逆パターンだよ。故意に誤報して安心感を植え付ける。
ほとぼりが冷めた頃に、不起訴処分か無罪判決の記事を小さく載せるけど、みんなに残る
印象は大きな記事の犯人逮捕に伴う安心感」
確かに杏子ちゃんや仁美さんや可南子ちゃんは、それで漸く安心できるのかも知れない。
犯人が捕まってないという事は、どこかで次の獲物を見定め牙を研いでいる可能性を残す。
逮捕か死亡が公にならないと心配は拭えない。
何百人、何千人もの子供や子供を心配する親の想いを考えれば、まともではない方法に
走ってでも安心を与えたいという気持も分る。しかもその危険は実際になくなっているの
だ。
でも、みんなは安心できるから良いとして、捕まった人はどうなるのだろう。罪もない
のに捕まって、拘置所に入れられ、みんなから殺人犯扱いされ、職も失うかも知れないの
に。
わたしの顔色に兆した不納得を、サクヤさんは見抜いたと言うより予測できていた様で、
「柚明の想いは分るよ。でもこの場合、そいつは全くの冤罪って訳でもないんだ」「?」
サクヤさんの苦味は、その捕まった人にも自業自得があり、全くの被害者でもない故だ。
無辜の一般市民が突如権力に謂れのない罪を着せられる、絵に描いた様な展開なら、サク
ヤさんも冤罪告発に動いたかも知れないのに。
冤罪は何もない土壌に生れる事はむしろ少ない。サクヤさんは苦い世の実相を指摘して、
「中学教諭らしいけど、そいつはあの鬼のやらかした少女連続傷害を真似て、それに紛れ、
何度か女子を襲って傷つけていたんだ。模倣犯って奴かね。自分の教え子も襲っていたん
だと。とんでもない男だよ。あんたの両親の生命を奪った他何件かの罪は無実でも、奴自
身の犯罪は立証出来るらしい。確かに冤罪で安心をばらまくのは、気に入らないけど…」
「その他に効果的な方法がない上に、本人が全くの無実でもないとなれば、鬼切部も警察
も報道各社も心情的に結託し易くなるわね」
真弓さんも語りつつその笑みが少し苦い。
単に鬼や己の存在を隠したい鬼切部の思惑の為ではなく、地域のみんなをもう存在しな
い鬼の怖れから解き放つ為に。時に少し事実と違う報道も必要という事なのか。心から納
得できた訳ではないけど、話の流れは掴めた。
大人の世界は一筋縄では行かない。サクヤさんの書いた真実が公表されても虚偽に近い
扱いの一方で、鬼の存在を秘する為の犯人逮捕の嘘が地域住民に安心をもたらし浸透する。
事実が事実として受け止められず、虚偽が事実よりも人々には事実として受け容れられて。
それが世の中やわたしのたいせつな人の平穏無事を保つ。鬼や鬼切部や贄の血筋の存在
の隠蔽が桂ちゃんや白花ちゃんの安全を保ち、サクヤさんが若杉の反撃を受ける心配を遠
のかせ、杏子ちゃんや仁美さんや可南子ちゃんやご両親達を安心させ。世の中は不思議だ
…。
「真実一路なルポライターのサクヤさんとしては、黙過も嫌なんだけど、今回は仕方ない。
これを暴露して収拾の付かない不安や怖れで町が混乱したら、あたしも責任取れないし」
少し不機嫌そうなサクヤさんだけど、サクヤさんに危険な情報ではない事で、わたしの
安心は一つ増す。一つ増した一方で、本命の不安は正体不明の侭で尚拭えてないのだけど。
「良くない報せというのは、サクヤさんの身に降り掛る危害ではないのね。良かった…」
「……柚明?」「柚明ちゃん?」
そこでサクヤさんの身の上を心配するわたしに気付いた正樹さんの問に、わたしは己の
予感を明かさざるを得なくなった。確かに何かあるとも誰がどうするとも視えてないので
口に上らせる物でもないと思っていたけど…。
わたしが嘘が下手な以上に、羽藤家の面々は人を見抜けてしまう。何より人生経験が違
う。隠そうとして隠し通せる物ではなかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
赤兎は夜道を疾駆する。高速道路に乗る迄暫くは、舗装が剥がれていたり凸凹だったり、
急な曲り角に標識も街灯もなく直前迄気付けなかったり、高速で走るのは結構危ういけど。
サクヤさんは獣の勘なのか、道筋を完全に覚えているのか、赤兎は高速道路を行く早さ
とほぼ変らない感じで、闇を切り裂いて進む。深夜でも月光が照す青い薄闇は良く見通せ
る。
「眠くなったら、休んでいても良いんだよ」
前方に視線を向けた侭、助手席のわたしを気遣って掛けてくれる平静な声に、わたしは、
「ううん、大丈夫」
むしろ目が冴えて眠れない感じ。
窓を流れゆく夜を眺め、空の月を眺め、サクヤさんの綺麗な横顔を眺め。運転に集中し
ているサクヤさんは、目の前の何かに集中して一心不乱なサクヤさんは、力強くて美しい。
普段の飄々と自然体なサクヤさんも親しみ易くて好きだけど、こうして真顔で事に挑む
サクヤさんは、普段見かけない所為かその美しさも別物で、視線を奪われて放せなくなる。
そう言えば、こうしてサクヤさんと2人で間近に長くいる事は久しくなかった。羽様の
お屋敷に来てからは、正樹さんや笑子おばあさんや、真弓さんや桂ちゃんや白花ちゃんが
いて、賑やかだった。常に周囲には人がいて。故にこうして2人きりで間近に長くいたの
は、
「あんたを羽様に連れて来た時以来かねえ」
あの時以来だった。家族全てを失って、鬼の脅威が潜む町に贄の血筋のわたしを置く事
は危険に過ぎると、羽様のお屋敷迄サクヤさんがわたしを乗せて運んでくれたあの時以来。
あの時もこの道を通ったのだろう。3年以上前に通ったきりで、詳しく憶えてないけど。
わたしが憶えているのは、サクヤさんがわたしの守りに真剣で、今の様な真顔で赤兎を操
って、夜道を2人視えぬ未来へと走った事で。そして今も又、夜道を2人見えぬ未来へと
…。
月の輝きを受けて、その美貌が躍動的だ。
癖のある銀の髪が、生命持つ様にうねる。
「わたしも、想い出していたの。あの時を」
逃避行にも関らず、あの時わたしの胸は妙に高鳴っていた。両親を失い、それ迄数年を
過ごした家を引き払う暇もなく逃げ出したけど、逆にその故に、唯一縋り付けるサクヤさ
んに己を預けきって幸せで。全てを失った末にサクヤさんだけが残ってくれた感じで、迷
いも躊躇もなくくっついていた。出発が日中という事もあってか、気分は新婚旅行だった。
サクヤさんと一緒なら大丈夫と想えていた。サクヤさんが守り導いてくれると信じてい
た。サクヤさんに身を委ねる事に、己の信を全部託す事に迷いもなく、喜んで己の気持に
従い。
「あの時も、サクヤさんは綺麗で強かった」
女の子への褒め言葉ではなかったかも知れない。でも、サクヤさんの美しさは戦いに臨
む女戦士のそれで力強さを兼ねて映えたから。格好良くて、凛々しくて、付いていきたい
と。
見上げたサクヤさんの横顔から返る答は、
「あの時から柚明は可愛かったよ、本当に」
返してくれる優しさは、嬉しかったけど。
あの頃はわたしは本当に子供だった。サクヤさんにたいせつに想って貰えた事で幸せで。
支えられるだけで、支えようとは想いもせず。サクヤさんの、誰かの役に立ちたいと想う
様になったのは、羽様に住む様になってからだ。
そしてわたしの生れ育った町へ急遽駆けつける今も、サクヤさんの赤兎のこの助手席で。
月の照す夜道を視えない未来へ2人進み行くのはわたし達の定めなのか。わたしは強く綺
麗なサクヤさんの隣に座れる事は嬉しいけど。
「沢山迷惑かけちゃって、ごめんなさい…」
わたしが、サクヤさんを引き回している。
折角羽様に着いた、その夜半に出立させ。
今宵の事も3年前も、わたしの動きに巻き込んだ。サクヤさんは、わたしを守り支えに
関ってくれる。その想いは嬉しいけど。間近にいられる事は嬉しいけど。わたしに必要な
力や強さがあれば、その手を煩わせる事も…。
わたしは、サクヤさんの役に立ててないどころか、面倒や迷惑ばかり持ち込んで。想い
を返せないどころか、守られてばかり。わたしはサクヤさんに較べ非力で、思慮も足りず、
経験もなく、目指す方向にも自力で進めない。3年前この道を反対方向に、経観塚に運ん
で貰えた時からわたしの実情は何も変ってない。
わたしは相変らず子供で、力不足だった。
「そう思える事が、大人の入口なんだよ…」
自身を的確に見つめて不足や未熟を感じ取れる様になれば、大人へはもうあと一息さね。
視線は前を向くけど心はわたしを向いて、
「いつの間にか大きくなっていたんだね…」
誰かの為に役に立ちたいなんて。
真弓と正樹を説き伏せるなんて。
あたしを気遣い、誰かを気遣い。
守ろうと、支えようと、助けようと。
「いつ迄も、子供だと想っていたけど」
サクヤさんの左腕が降りてくる。くしゃっと髪を掻き回す様に強く撫でられる。そう思
ったけど、それは頭には降りず、わたしの右肩に軽く置かれ。くしゃっと強く撫でるのが、
サクヤさん流の愛情表現で、挨拶だったのに。桂ちゃんと白花ちゃんには夕刻そうしたの
に。
肩に触れる手は確かな暖かみを伝えてきて、
「何かに挑むあんたを支え助ける日が来るなんて、まだ少し先の事だと、想っていたよ」
柚明は今回唯守られる訳じゃない。唯支えられる訳じゃない。唯助けられる訳じゃない。
これは柚明とあたしの共同作業だ。今回は柚明が前面で主力を担い、あたしが側面で支
援する。役割が違うだけだ。今柚明が支えられるのは分担の結果だ。為すべき事に全力で
挑んでおくれ。あたしはしっかり支え助ける。
「あんたが守りの安全な羽様を飛び出すのは、昔住んで居た町に戻る為じゃない。昔住ん
で居た町に行って今なすべき事に向き合う為だ。過去に囚われている訳じゃなく今を守る
為に。3年前と違う。あんたは唯庇われるだけの存在じゃない。肩を並べて進む戦友なん
だよ」
「戦友……わたしが、サクヤさんの……?」
ああ。サクヤさんは野性的な表情で頷き、
「一緒に事に向き合える。一緒に困難に立ち向かえる。一緒に成果を分かち合える。守ら
れるだけじゃなく、互いに互いを守り合う」
その言葉は胸に染み渡った。守り合え、支え合え、助け合える。わたしもサクヤさんを。
「真弓の次に頼れて、あたしが心から支えたく守りたく助けたく想う、大切な戦友だ…」
嬉しかった。心の底から、嬉しかった。
3年半前に、赤兎で経観塚に行く長い道のりは、サクヤさんに守られて幸せだったけど。
今宵赤兎でわたしの生れた町に行く道のりは、やはりサクヤさんに守られて幸せだけど。
今わたしはサクヤさんに大切に想われるだけではなく、その信頼を受けようとしている。
守り合う関係に、支え合う関係に認めて貰えつつある。わたしがサクヤさんを助ける事も
了承されつつある。わたしをサクヤさんは大人扱いに。わたしが役に立てるかも知れない。
まだ内実が整ってない己は百も承知で。
まだ力も経験も不足な事は千も承知で。
そう想って貰える期待を裏切れはしない。
その強い信頼には絶対応えて見せないと。
「……わたし、頑張る。想いの限りを、わたしの限りを、癒しの力の限りを尽くすから」
それはサクヤさんの為ではない事だけど。
それでサクヤさんには何の益もないけど。
今わたしに付き添ってくれるサクヤさんの想いに応える術は、事を成し遂げる他にない。
サクヤさんの深い信頼に応えて、きっと必ず。この夜の向うから、大切な微笑みを取り戻
す。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
笑子おばあさんは、全てお見通しだった。
「それはね、柚明……」
贄の血の力の使い手は、今の羽藤家には笑子おばあさんとわたしだけだ。桂ちゃんと白
花ちゃんはわたしより更に濃い血を持つけど、幼子で未修練なので、血に宿る力を使えな
い。正樹さんの血は歴代で最も薄く殆ど一般の人と変らないとか。お母さんが生きていれ
ば…。
わたしはサクヤさんの身を過剰に気遣っていたらしい。サクヤさんがこの時期にわたし
を訪ねてくれる理由を知る正樹さんも真弓さんも、最初はその為だと想っていた様だけど、
徐々にわたしの表情が深刻さを増していった様で、唯の気遣いではないと勘づかれた様で。
胸に収めるには心配の種は育ちすぎていた。不吉な兆しの正体が曖昧な侭、サクヤさん
に重なって視える事に、わたしが耐えられなかったのかも。修練途上のわたしは、最後に
困れば笑子おばあさんに尋ねる他に、術がない。
「不吉の兆しが、あたしの来る兆しと…?」
サクヤさんの問に、わたしは頭を垂れて、
「ごめんなさい。わたし、良くない感じは掴めてもそれが何か分らなくて、サクヤさんに
関ると感じても、何が起るかも視えなくて」
こんな曖昧な兆しでは何に気をつけて良いか助言も出来ない、無意味に混乱させそうで、
言えなくて。己の修練不足が、恨めしかった。もう少し修練に励んで進めていられたなら
…。
「それで心配の種を持ち出して訊ねては…」
正樹さんの言葉に真弓さんが深く頷いて、
「心配の必要がないと分る度に安心する一方、本命の悪い予感が尚分らなくなって不安
に」
様子が変だとはとっくに気付かれていた。
羽藤家の面々には隠し事は効かないのか。
或いはわたしの隠匿が下手に過ぎるのか。
「結局、自力では分りませんでした。自身の感じた兆しを、自身で読み解けませんでした。
笑子おばあさんは感じていますか? サクヤおばさんが来るのとほぼ同時に訪れる禍を」
教えて下さい。わたしはまだまだ未熟です。
みんなが揃う時を選んだのは、笑子おばあさんもいる時を選んだのは、最終的に答が自
身で視えない時は降参して、教えを請う為だ。己が感じた兆しを読み解けないのは情けな
いけど、この予感はたいせつな人に関る。解き明かす手段を選んで手を拱いてはいられな
い。
それ迄話の聞き役に徹し、話に加わる真弓さんやわたしに代って、白花ちゃんと桂ちゃ
んの様子を見守り夕飯を勧めていた笑子おばあさんは、双子を正樹さんに預けて微笑んで、
「答える前に確かめておくけど……柚明は、サクヤさんに降り掛る禍を感じたのかい?」
そこは微妙に違っていた。サクヤさんの来訪は今日夕刻何時頃と、分単位迄把握できた。
でも禍の予感は感じただけで、サクヤさんに関りそうに想えただけで、サクヤさんが禍に
遭う様子や遭った後の様子を視た訳ではない。関るとは感じても、蒙ると感じた訳ではな
い。羽様の地にサクヤさんと禍が同時期に訪れる。その事が両者の密な関係を示して視え
たけど。
曖昧な感触を辿々しく、感じ取れた限りを応えるわたしに、笑子おばあさんは微笑んで、
「正解にもう少しの処迄来ているんだけどね。
柚明が微かに感じている通り、良くない兆しが訪れるのは、サクヤさんに対してじゃな
くてね……柚明、あなたに対してなんだよ」
大人の動きが一斉に停止した。サクヤさんが目を見開いて笑子おばあさんを見つめ返す。
緊迫する夕食の場でおばあさんは唯一平静に、
「サクヤさんはあなたを訪れて来た。同様に、良くない兆しもあなたを訪れて来た。時期
が偶々一緒だったけど、それはサクヤさんに関ると言うより柚明、あなたに関る禍なの
よ」
正確に言うなら、それはあなたが蒙る禍でもないわ。良くない報せだけど、それはあな
たに迫る禍じゃない。あなたの対処次第では、羽様の誰にも禍にならずに済むかも知れな
い。でも、あなたは多分その禍に踏み込んでいく。
わたしはその様も感じ取れるけど、これは多分わたしが羽藤柚明ではないからね。本人
には視えない事、分りづらい事って、あるでしょう。わたしは外から視るから、羽藤笑子
の視点から見るから、あなたの様子が視える。
「この時期に一緒に外から訪れた不吉な兆しとサクヤさん。不吉な兆しはサクヤさんに関
りを持つ。だからサクヤさんに禍が降り掛る。そう答を繋ぐのが正解に見えるのも分るけ
ど。
サクヤさんが禍に関ると言うのは、柚明がそれに踏み込んで行く様を見過ごせず、関り
を持つと言うのが正解ね。時期の一致は偶然。
あなたからはサクヤさんの訪れと予感の訪れは同じく視えた筈。でもわたしから視ると、
2つがあなたに向って行く様が視えた。今のあなたに読み解くのはまだ少し難しいわね」
感じ取れても読み解きには経験の蓄積を要する。もう少しの処迄、来てはいるのだけど。
「わたしの……関る、禍……」
解き明かされて、漸く分った。呑み込めた。己の至らなさを痛感しつつ、事が視えて心
晴れる想いを感じつつ。でもその先にあったのは、サクヤさんではなくてむしろわたしの
…。
わたしの心を占めた悪い兆しは、己が関る禍だから。わたしが足を踏み込ませる類の禍
だから。サクヤさんをわたしが巻き込むから。わたしが関らなければ、関ろうとしなけれ
ば。笑子おばあさんはわたしに降り掛る禍ではないと言った。ならわたしが踏み込まなけ
れば。
「あなたに、それが選べるかどうかだね…」
それが難しいと、わたしも感じている。サクヤさんが禍に関る兆しは、その結果なのだ。
わたしが踏み込まなければ、サクヤさんと禍の関りを感じない筈だ。既に答は視えていた。
わたしはその禍に自ら関り、足を踏み込ませ、サクヤさん迄巻き込んでしまう。でも、で
も。
「わたしが、その道を、選ばなければ…?」
わざわざ禍に足を踏み込ませなければ、サクヤさん迄巻き込んでしまうと分って不吉な
兆しの奥に踏み込む事をしなければ、或いは。
笑子おばあさんは、考え込む顔を見せた。
「定めというのはね、変えられる可能性があっても、敢て変えないから、定めなんだよ」
柚明は決して思慮浅くない。あなたが敢て踏み込む事を選ぶ類の禍に、あなたが踏み込
まない事を選ぶなら、確かに未来は変るかも知れないけど、それは果たして良い変化かね。
一つの禍を避ける事が別の禍を呼ぶ事もある。大の禍を躱す為に敢て小の禍を招く事もあ
る。
「……」
「最善と想って選び取るから、それ以外にないと想って掴むから、それらの織りなす物だ
から、変え得ぬ定めと言うの。変え得るけど、変えない事を最善に想うから、何度その場
に立ち戻ってもその様に為す。だから定め…」
笑子おばあさんは既に感じている。伏せられたカードがめくられる瞬間を。その兆しを。
わたしがその到来を、感じ取っている事迄…。
サクヤさんと真弓さんと正樹さんの視線が集まり来る中、わたしは部屋の隅に歩み寄る。
受話器に手を伸ばした時、電話が鳴り響いた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
赤兎は夜明け直前にその場所に辿り着いた。戻り来たと言うべきかも知れない。この場
所ではわたしの時間はあの夜から止まった侭だ。身が震えたのは、夜風の冷たさの為では
ない。
あの夜の様に、7階建ての建物は今尚無言で建ち続け。ここで過ごしたのは数日だけど、
それ迄のわたしの生を断ち切って今に撚り合わせた場所。わたしが一度全てを失った場所。
駐車場の舗装の上に降り立つと、あの時と違って空気は冷たいけど、人気ない夜の情景
は同じで、わたしが小さくなった錯覚がある。月は西の彼方に沈んでしまって、夜を照す
のは散在する街灯と夜間診療窓口の灯りのみで。
「着いたよ」「……うん」
三年数ヶ月ぶりだった。あの夜警察に保護されて以来、サクヤさんと恵美おばあさんに
迎えに来て貰えて以来、ここに来た事はなかった。来る気になれなかった。来れなかった。
わたしの今を繋ぐ基点になった処。
わたしのそれ迄を断った最後の処。
大切な人を目の前で失わされた処。
5歳の時、わたしの弟を身ごもったお母さんが遂に生めなかった場所。9歳になる少し
前、妹を身ごもったお母さんが交通事故にあって運び込まれ、お父さんと駆けつけた病院。
わたしはここで意識がないお母さんの守りにと青珠を握らせ、結果その守りを外れたわ
たしが血の匂いをかぎ取られ、鬼に襲われた。わたしは家族の全滅と引換にこの身を繋が
れ。
お父さんが生命失った場所。わたしが死に瀕した場所。お母さんが致命傷を受けた場所。
間近の病院に収容されたお母さんとお腹に宿った妹は、遂に生きて出る事が叶わなかった。
昼は一杯に埋まる広い駐車場も、今はがら空きで寂しい。通りから裏の夜間診療窓口に
至るには、広い駐車場を横断し百メートル程歩かなければならない。今は赤兎で至近に降
りたけど。あの時の視点を求めて視線が泳ぐ。
「柚明?」「ん……」
閑散とした駐車場に、幼いわたしの叫びが聞えた気がした。お父さんとお母さんの悲鳴
が聞えた気がした。お父さんとお母さんと、そのお腹に宿りつつ遂に生れる事も名付けら
る事もなかった妹と、幼いわたしの最期の場。
わたしの今の基点で、幼いわたしの終着点。
あの鬼は倒されたけど、逆にその故に幼いわたしの視界にいた人達は殆どいなくなった。
お父さんもお母さんも妹も、その生命を奪った鬼さえも。温かな想い出も痛みも哀しみも。
過去への繋りはどんどん断たれ、細く遠くなっていく。わたしの想い出にしか残らない。
幼い日にいた人で今尚この場に立てるのは…。
「あたしがいるよ、柚明」
両親を失って引き取り手もなく、警察に守られ病院に留まるわたしを迎えに来てくれた、
恵美おばあさんとサクヤさん。わたしの涙も想いも受けてくれたサクヤさん。羽様のお屋
敷迄連れ添ってくれたサクヤさん。常にわたしを想い、わたしを守り、わたしを気遣い…。
サクヤさんがわたしの心中を舐め取る様に分るのは、同じ様な想いを経た所為だろうか。
目の前で過去に繋る全てを失って、その場に再度居合わせ、巡り来た今に、何故か身と心
が震えるわたしを、サクヤさんの腕が伸びて、
「誰がいなくなっても、あたしは居続ける」
軽く肩を抱き寄せられた。夜風の冷たさの中で、それだけがわたしの心も温めてくれる。
「あんたが誰を得ても、誰を失っても、誰と巡り会い断ち切れても、あんたがついの時を
迎える迄、あたしは居続けるから」「うん」
有り難う、サクヤおばさん。わたしもね…。
「……生命ある限り、サクヤおばさんを慕うから。ずっとたいせつに、想い続けるから」
わたしは抱き寄せられる侭に身を擦り寄せ、その脇に頬を寄せ。大きな右胸が頬に触れ
る。温もりが想いとなってわたしに伝わってくる。わたしも暫しそれを受けて、身も心も
委ねて。
本当は立ち止まっては駄目な時だったけど。
ほんの少しの間の感傷だと分っているから。
サクヤさんもそれを許してくれたのだろう。
過去に浸るのは未来に進む為の心の整理だ。
温かな想い出に引きこもる為ではないから。
『この過去を乗り越えて、先へ進まないと』
あの日から来た事のない、再び来ると思ってなかった市立病院。わたしが禍を招いた哀
しみの原点に、3年半余の年月を経てわたしは再度巡り来た。今は禍を祓う為に、今は哀
しみを拭う為に、今度はわたしが助ける為に。ここで繋がれ託された生命を、ここで残さ
れ救われた生命を、ここで少しでも返す為に…。
哀しみの原点はわたしを竦ませるけど。
痛みの記憶は尚わたしを怯ませるけど。
今己の気持に振り回される余裕はない。
ここで今為さねばならない事があった。
わたしはその為に敢てここを再訪した。
退く事もたじろぐ事も、躊躇も迷いも自身に許せなかった。今は進まないと。抱く想い
の限り、為せる術の限り、癒しの力の限りを。
陽が昇り、閑散とした駐車場を照し始める。
それはわたしとサクヤさんだけが迎える朝。
朝の輝きはある者とない者を峻烈に隔てる。
夜に消えた者達は朝には朧な幻も保てない。
彼らはもう想い出の中にしか生きられない。
その故に残された者達は精一杯生きないと。
失ったたいせつなひとへの想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れ
る過去。手放せない。わたしにはこの生き方しかない。幸せを掴めるかどうかは分らない
けど、この先に充足があると信じて進むしか。哀しみの欠片を踏みしめて、その痛みに涙
を流しつつ、過去をしっかり抱いて明日に向う。
わたしは過去への想いを胸にしまい、間近な未来に向う心を固め、己に朝を迎え入れた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ゆめいさん。お願い、お姉ちゃんを…!」
受話器から響く涙声は可南子ちゃんだった。号泣と嗚咽の混交で、言葉では事情が掴め
なかったけど、受話器を通じて届く心の痛みが、わたしの感応の力に作用し事を大凡読み
解かせた。顔を見たり声を聞いたり、書いた文を見たり触れた物に触る事で、人の想いが
伝わったり分ったり。修練の副次効果が役立った。
うん、うん。何度か、言葉に巧くなってないけど視えたその心に浮ぶ想いに、伝わって
いるよと励まして、心折れないでと力づけて。
「分ったわ。出来るだけ早い内に行くから」
力落さないで。しっかり励ましてあげて。
受話器を置いた時点で、笑子おばあさんは状況を把握できていたと想う。サクヤさんと
真弓さんと正樹さんと、何が起ったのか分らない侭わたしを見つめる白花ちゃんと桂ちゃ
んに向き直って、わたしは居住まいを正して、
「仁美さんが、交通事故に遭ったそうです」
仁美さんはわたしの三つ年上の中学三年生、可南子ちゃんはわたしの一つ年下の小学五
年生だ。2人のお父さんはわたしのお父さんのお兄さんで、2人とわたしは従姉妹にあた
る。
わたしが両親と住んでいた頃は、学校は違うけど同じ町だったので、羽様のお屋敷より
行き交いは多かった。艶やかな長い黒髪に姉御肌だけど実は気配りの細やかな仁美さんと、
黒髪を短く切り揃え活動的に装っても末っ子気質の可南子ちゃんと。寡黙だけど心優しい
久夫おじいさんと穏やかな恵美おばあさんと、大柄な浩一伯父さんと細身な佳美伯母さん
と。
家族を失った時共に哀しんで、1人になったわたしを泊めてくれて。一緒に住もうと迄
言ってくれた。贄の血の事情を持つわたしは、羽様に移り住む事になったけど、嬉しかっ
た。
「仁美さんが、年上の男性のバイクの後ろに乗っていて、大型車両に衝突したそうです」
詳しい経緯は分らない。可南子ちゃんも状況を把握できてない様だ。唯バイクは大破し、
仁美さんは身体に幾つか骨折と切り傷を負い、同乗の男性も左腕に骨折を負ったと。相手
方には車の損傷はあるけど、怪我はないらしい。
「仁美さんは生命に別状ない様です。でも」
顔の左半面をかなり酷く切り裂かれたと。
その事にむしろ仁美さんの心の傷が深く。
『励ましても声かけても応えてくれないの。
唯涙を流し続け、ずっと心引きこもって。
わたしもう、どうして良いか分らなくて』
誰にも慰めようのない様子が、言葉の隙間に視て取れた。可南子ちゃんが幾ら取り縋っ
ても、仁美さんの生きる望みを呼び戻せない。
豪放な浩一伯父さんや、溌剌とした佳美伯母さんが言葉を失い俯く様が、瞼の裏に映る。
恵美おばあさんは、ショックで倒れたらしい。羽様にいるわたしに電話が来たのは、相談
できる同年代の親戚が、わたしだけだったから。
『お願い、ゆめいさん、お姉ちゃんを何とか助けて、元気づけてあげて。わたしのお願い
できる人、ゆめいさんしかいないから…!』
わたしのお父さんは5人兄弟の四男で浩一伯父さんは長兄だけど、その他の兄弟にも2
人以上子供がいたけど、皆年齢が離れていた。上は社会人で、下は修学以前の幼子で、し
かも全員同じ町に住んでない。電話でも相談できる、歳の近しいいとこはわたしだけだっ
た。
それは、禍であると同時に天啓でもあった。
傷なら、わたしに力になる術があったから。
心の傷も顔の傷も癒す術が、今わたしには。
「柚明、まさか」「柚明ちゃん?」
サクヤさんと真弓さんが同時に上げた声は、わたしの真意を表情から読み取れた為だろ
う。
「笑子おばあさん、この展開を、分って?」
「流石に具体的な事迄見通せはしないけど」
わたしの視線を受けて、静かに微笑むと、
「あなたの性分を考えれば、大凡は分るよ」
「母さん、まさか……柚明ちゃんを?」
正樹さんの危惧を隠しきれない声に、
「贄の血の力は老いや病には効かないけど」
傷や疲れには効くからね。しかも、ゆめいの血はわたしの倍以上に濃く修練を経て強い。
為せる術を持って、ぜひとも為さねばならない状況が目の前にあって、行けば為せるのよ。
「柚明の想いは、わたしには抑えきれない」
「待って下さい! お義母さん」
柚明ちゃんも。あなたの贄の血の力は……。
「はい。わたしの贄の血の力は成長期で、修練途上です。まだ安定したとは言えません」
真弓さんの危惧はわたしも分る。わたしは数ヶ月前詩織さんに癒しを及ぼす事を諦めた。
病人にわたしの力を及ぼすと、病の素も賦活させるから。成長途上で不安定な癒しの力が、
赤の他人にどの程度作用するか不確かだから。効果が出すぎたり不足だったり、想定外の
副作用が生じる怖れがあると。でもわたしは…。
「事は人の身体に関るわ。あなたはまだ他人の身体にその力を及ぼした事がないでしょう。
贄の血の力の特質や強弱を知悉するには、新薬の治験にも似て、経験の蓄積が不可欠よ」
そうでないと、危うくて他人の身体には。
「わたしはあれ以降、笑子おばあさんに贄の血の力の流し込みを試させて頂いています」
贄の血の力の修練はあれ以後も進んでいる。青珠に力を込める術は完全にした。呪物で
はないガラス玉に、力を注ぐ術もほぼ確立した。人の身体に流して疲れを癒し傷を治す術
も笑子おばあさんの協力を得て進展中だ。今のわたしに無理ではない。数ヶ月前と状況は
違う。
「女子も三日会わざれば刮目して見よ、か」
瞳輝かすサクヤさんの呟きに真弓さんが、
「……三国志?」「赤兎と出典は同じだよ」
正樹さんが肩を竦める様が視えた。わたしの意志が瞬時に固まっていて、覆し難い程強
い事を察している。どの様にして諦めさせたら良いか、困惑している心中が表情に窺えた。
わたしのお母さん曰く『羽藤の血には頑固の血も流れているの。言い出したら聞かない
って言うのは、私の母さんも正樹も本当…』
わたしにもその頑固の血は流れている様だ。それ以前から、わたしは血が濃いと言われ
ているみたいだし。自覚はなかったけど、その。
「仁美さんは赤の他人ではありません。血の繋った従姉です。拒絶反応も少なく効果も現
れ易い筈です。何より贄の血の力でなければ、仁美さんの顔の大きな傷痕迄は消せませ
ん」
顔は女の子の生命です。特に仁美さんは綺麗な人だったから。年頃の女の子の顔が傷つ
いて心平静でいられる筈がありません。顔の傷以上に心が危うい。医療であの傷を完全に
は治せない。痕迄消す事は無理です。そして。
「あんた、視えているんだね……その先も」
サクヤさんの察しは、わたしの瞼の裏に視えた図を見抜いていた様だ。わたしは頷いて、
「仁美さんはこの侭では手首を切ります。病院の人が妨げ助ける図も視えますが、一度で
終らない図迄。可南子ちゃんの話を聞いて見通せたの。死を望む人を生かす事は容易では
ない。それで生命繋げても、心死なせては」
それは可南子ちゃんのお姉さんを失わせる。恵美おばあさんの孫を失わせ、伯父さんと
伯母さんの娘を失わせる。人の喪失はその人を大切に想う人も哀しませる。かつてそれを
招いたわたしだから、もう哀しみは見たくない。
仁美さんと可南子ちゃんはわたしが家族を失った時、一緒に哀しんでくれました。鬼が
再び町で動き出した話を教えてもくれました。心を支え助けてくれました。今こそわたし
が支え助けたい。彼女が絶望の淵にいる今こそ、身体と心の傷を癒して、姉妹を救い守り
たい。
やはりわたしには、この選択しかなかった。
選べる途はあったけど、選ぶ途は一つだけ。
笑子おばあさんの言う通り、変え得ぬ定め。
それは近親者だったからなのかも知れない。
それはわたしが求められた為かも知れない。
直接自身に及ばない類の禍を見通せたのは。
深々と頭を下げるのに、真弓さんは反対の想いは変らないけど、決定打がない感じで考
え込む。そこで話を継いだのはサクヤさんで、
「贄の血の力を人目に晒す危険についてはどう考えているんだい? それはあんたの大切
な桂と白花の行く末にも関る。成功できても、真弓の懸念を全て乗り越えて仁美を完治さ
せ心救えたとしても、その成功の故にあんたの癒しの力が、贄の血筋が世に晒されるん
だ」
最大の難問はそこにあった。贄の血の力で仁美さんを癒せれば、成功すれば、その故に、
為したわたしに人々の興味が集まってしまう。失敗が問題ではなく、成功こそが問題だっ
た。
「例え善意でも、事実が知れ渡れば違う反応も出る。世の中は必ずしも善意な者ばかりじ
ゃない。鬼の様な人もいるんだ。それこそ本物の鬼が贄の血を狙って来るかも知れない」
わたしの両親と妹の仇だったあの鬼も、市役所の住民票や警察の被害者情報を盗み見て、
経観塚迄わたしを追ってきた。誰にどこからどんな情報が入るかは今の世の中、想像も付
かない。特に人を癒すなんて物珍しい力を持つ血筋は興味の的だろう。見知らぬ記者に四
六時中カメラやマイクを突きつけられ、付き纏われ、生活に踏み込まれる様も想像できた。
その上で彼らは、取材対象を守りはしない。少し前に詐欺で逮捕寸前の会社社長が、記
者多数に囲まれた中で、暴力団の男に刺し殺される事件が、テレビに生中継で映し出され
た。あれだけ周囲に社会正義を守る、暴力に報道で闘うという人が揃っていて、誰も会社
社長を守ろうとせず、その暴力と闘おうともせず。
報道記者に近い立場のサクヤさんはその事を良く知っている。更に言えばその声音には、
過去の失敗を踏まえた様な苦味さえ感じられ。
「贄の血筋は知られない事で長く安穏を過せたんだ。少しでも違う者を見つければ、人は
よってたかって来るからね。鬼切部の様に権力で口を封じでもしないと、魔女狩りに遭う。
あんたの両親は、幼いあんたにも伏せていた。部外者には誰1人漏らさぬ位の気構えがい
る。優しい心は分るけど、仁美を疑う訳じゃなく、その効果を察する者が出るかも知れな
い…」
皮肉にもその怖れはわたしが力を増し、癒しがより確実になった事で増している。仁美
さんではなく、仁美さんが元気になった事を知った誰かが首を突っ込み真相に迫る怖れが。
詩織さんの時と違い、わたしの生れ育った町は都会で、仁美さんの入院先は市立の総合病
院だ。人目に触れて広まる怖れも増していた。
「羽様のみんなの為にも、あんたの可愛い桂や白花の為にも、血の力を晒すのは拙いよ」
半年前にはわたしが招いた禍で、目の前の2人を死の淵に追いやってしまった。辛うじ
て禍は回避したけど、それもわたしの力で守れた訳ではない。わたしは尚桂ちゃんと白花
ちゃんを、まともに守る力も持たない子供だ。
「病院で寝込む仁美に、どう癒しの力を及ぼす積りだい? 傷を治しに来たと言って受け
容れられない事位、分るだろう。贄の血に宿る特殊な力が効くと、最初に両親や医師に納
得させないと、患部に触れる事も難しいよ」
成功して贄の血の力を悟られるんじゃなく、最初から知らしめないと癒しに取り掛れな
い。軽く触れる程度ならともかく、重度の怪我を治す程に力を流し込むには、長時間傷に
触れ続ける必要がある。隠して為すのは無理だ…。
わたしの子供の考えはどこ迄通じるだろう。
わたしの子供の行いはどこ迄届くのだろう。
「わたしに考えがあります。聞いて下さい」
台所で空き瓶に水道水を入れ、蓋をしてタオルを片手に戻ってくると、ちゃぶ台に置き、
「経観塚には、癒しの水の迷信があります」
正樹さんを、真弓さんを、サクヤさんを、笑子おばあさんを、桂ちゃんと白花ちゃんを
前にして、わたしは即席の伝説を騙り始めた。
「経観塚には疲労回復や美肌に効く温泉があります。昔々この地を訪れた偉い行者様の触
れた泉に、不思議な癒しの力が宿り万病に効くと言う伝説を、わたしも信じちゃいました。
癒しの水を布に浸し患部に付けると、肌荒れや皮膚病や、切り傷にも良く効くそうです」
「……柚明ちゃん?」「柚明、あんた…?」
真弓さんとサクヤさんが、初耳の伝説をわたしが即席で作った意味を分って瞳を見開く。
「わたしは、余り賢い子ではありません…」
わたしは桂ちゃんが飽きて放り出したホラー雑誌を再び手に取って、サクヤさんの記事
とは違うページを開いてみんなに示し、
「だから、ホラー雑誌に載る奇跡の超聖水の体験談も、鵜呑みに信じてしまいます。誕生
石のペンダントが不眠症を治したり、魔法のクリスタルで恋を成就したり。都合の良いお
話を、深く考えずに受け容れてしまいます」
仁美さんが顔に傷を負った話を聞いて、わたしは経観塚の癒しの水の伝説に縋りました。
「少しでも力になりたい。気休めでも構わない。どうか近くで、この水を浸したタオルを
付けて、語りかけて、励ます事を許して…」
それで、仁美さんの具合が良くなって、傷が治って痕が消えても、癒しの水のお陰です。
お医者さんや他の人は別の見方もするのかも。
触ると大ケガが治るなんて話は常識にない。水の迷信を嫌う人は医療の力か、奇跡の自
然治癒か、何か適当に理由を付ける。わたしの信じた癒しの水に目を向ける大人はいない
し、いてもその水は何故か二度と効果を出さない。
一度しか効かない癒しの水はその内疑われ、見放されます。わたしも迷信に騙されて病
院に駆けつけた、気持はあるけど賢くない人で、仁美さんが治る場に唯居合わせただけに
なる。
「何が傷を治したのかは人の解釈に委ねます。わたしは結果が残れば良い。仁美さんの顔
が元の艶やかな肌に戻り、微笑みが戻れば…」
サクヤさんの記事の真実が発表されても信用されない様に、わたしの真実も信用度の低
い迷信に紛れ込ませる。警察や鬼切部が真犯人の死を明かさず模倣犯逮捕で安心出来る事
実を伝える様に、わたしも癒しの力を明かさず仁美さんを治して迷信でその心を安んじる。
仁美さんの傷が治り心を癒せ微笑み戻るなら。
「柚明ちゃんの力が仁美さんを治したと知れては困る。その条件は確かに満たすけど…」
考え込みつつ答を返したのは正樹さんで、
「でもそれは、柚明ちゃんの頑張りを評価されない事でもある。仁美さんも、可南子ちゃ
んも浩一さんも佳美さんも、恵美さんも誰1人柚明ちゃんの力で治ったと知らない事に」
折角力を尽くしても、成功して元気になっても、ねぎらいも感謝もされない。全て巧く
行けたなら正にその所為で、柚明ちゃんは一体何をしに行ったのか、遂に分られない事に。
身体一つで馳せ参じ、現代医療の手の及ばない怪我を治して、心を尽くして救い上げて、
大変な労力と時間を掛けて成功して尚、誰の感謝も返らない。その貢献を誰1人知らぬ侭。
「それに柚明ちゃんは納得できるのかい?」
「それが仁美さんを救い、尚桂ちゃんや白花ちゃんを守る為の必須条件なら、わたしは」
わたしの答に、サクヤさんが口を開いて、
「気持は分るけど柚明。真実に口を噤み馬鹿を装うのは、己を取り繕うのは結構辛いよ」
あんたは自身信じてない迷信で己を偽装しようとしている。信じるに足らないと分って
いて、伝説を信じた馬鹿を装おうとしている。
「でも本当に周囲に馬鹿扱いされる事は、全部見通せて悟れるあんたにこそ、辛い筈だよ。
自分の本当を知られる訳にいかない。隠さなきゃいけない。尽くした事も分って貰えない。
あんたは仁美を助けに行って実際癒し助けて、それを悟られも感謝もされず、何の為に来
たのか不明な侭、ありもしない迷信を信じるお馬鹿な柚明を最後迄演じないといけない
…」
子供どころか大人にだって楽な話じゃない。特に年頃の女の子がピエロになりきるのは
ね。仁美を癒す以上にその方が大変かも知れない。
「巧くやれば成功するかも知れない。でも柚明は本当にそこ迄しなきゃいけないのかい?
一旦向うに行けば途中で投げ出せはしない。隠し通すのに失敗して、贄の血筋の存在を
明かす事の危うさ以上に、あんたが心配だよ」
感謝も労いもない事に耐えられるかい。
成功して馬鹿の印象しか残らない事に。
柚明は終って尚愚者に徹しきれるかい?
サクヤさんの正面からの問にわたしは、
「それでたいせつな人を助け守れるなら」
己の心を問い直しつつ正面から応える。
「癒しの力を認めて貰う事が目的ではないの。感謝や労いを欲して出向くのではありませ
ん。
唯助けたい、役に立ちたい。褒められなくても感謝もなくても、気付かれなくても知ら
れなくても。仁美さんが元気にさえなれば」
わたしは大丈夫。わたしは誰かの目の届く処で尽くして喜ばれたい訳じゃない。いつの
間にかいなくて、気がつけば話題から消えて、知らぬ間に遠ざかっていて良い。報いは自
身の中にあるから。わたしが分っていれば良い。
「あの夜、もしわたしに力があったなら…」
褒められなくても良かった。叱られても罵られても、報道記者に付き纏われても。あの
夜に力を揮えて、たいせつな人を救えたなら。愚かでも人前でも、あの夜に生命救えたな
ら。
「幾ら代償を払っても、わたしは良かった」
鬼を退ける力迄はなくても、せめてこの身に宿る贄の血の力を使えて、傷を治せたなら。
お父さんもお母さんも、妹も助けられたかも。その為にならどんな犠牲も払ったのに。そ
の為にならわたしはどんな苦痛でも受けたのに。
「取り返せないけど、悔しい。どうにも出来ないと分っているけど、分って尚哀しい…」
この想いは消し得ない。あの鬼が死んでも家族は戻って来ない。幾ら修練を重ねても死
者は蘇生出来ない。確定した過去は覆せない。わたしの己への無力感と自責は終生拭えな
い。この血管が泡立つ悔恨と悲嘆は生涯付き纏う。その禍を招いたわたし故に、それで尚
守られて多くの生命と引換に1人残ったわたし故に。
もう二度とこんな想いはしたくない。
まして己に助け守れる力があるのに。
哀しみを拭い痛みを止める術があるのに。
「わたしにここに留まる選択はありません」
笑子おばあさんの言う通りになった。
わたしは望んで禍に踏み出して行く。
それを最善と信じて他に途はないと。
自身の痛みは元々問題ではなかった。
痛む己が今あるのが何故か考えれば。
今から為すべき事だけが問題だった。
禍を招いたこの贄の血を使いこなす事で。
この手で禍を防ぎたいせつな笑みを守る。
託されたこの生命が無駄ではないと示す。
この身に宿る癒しの力の限りを尽くして。
「禍を招いたわたしが生き残り、たいせつな人はわたしに想いを託して生命を失いました。
そのわたしが、漸く人に尽くせる様になったのに、その術を手に入れたのに、誰にも想い
を返す事出来ないなら。涙を拭う術を持って尚役に立てないなら、わたしは何の為に…」
零れそうな涙を瞼で堪える。絶対泣かない。
これから挑む者に涙は不要だ。それは全てを為し終えてから、為す術を失って思い切り
泣き喚いた時に溢れさせるから。だから今は。
「これは運命への復讐戦です。あの夜たいせつな人を失ったあの場所で、今わたしはたい
せつな人を守る。あの鬼は倒せなかったけど、わたしは仇を倒して心満たされる訳じゃな
い。
哀しみの定めを、痛みや涙を、笑顔に書き換える事がわたしの望み。怒り憎しみを仇に
叩き返すのではなく、たいせつな人の笑みを守り取り戻す事こそ、わたしの復讐戦です」
想いの全てを申し述べ、答を待つ。
額を床に擦りつけて、動きを待つ。
成算はあったけど、絶対確実ではないのも分っていた。仁美さんの治癒も、治癒が成功
した上での癒しの隠蔽も、簡単とは言えない。白花ちゃんと桂ちゃんを想い安全策をとる
なら、わたしは動くべきではなかった。でも!
真弓さんも正樹さんもわたしを心配に想って反対している。事は桂ちゃんと白花ちゃん
だけではなくわたしの未来にも関ると。笑子おばあさんはわたしの意思を見通し、止めら
れないからやむを得ず認める姿勢で。そして、
「あんたの想いは分ったよ」
垂れたこうべにサクヤさんの声が降り注ぐ。
「失っちゃいけない物を失うのは砂の味さね。
どこかで自身に決着を付けないとならない。
あたしは仇討ちしか思いつけなかったけど、あんたは仇討ち以外で過去に決着を付ける
途を見つけ出せた。あんたは鬼を憎むのではなく運命を憎み、あんたなりの答を出せた
…」
あんたは誰かを守る力を欲したけど、結局仇の鬼の打倒も、その為の力も欲しなかった。
真弓に習う事を欲したのが鬼切りではなく護身の術だったのが、今更の様に納得できたよ。
その気になればあんたは仇討ちも望めたのに。あんたはたいせつな人を奪った仇を憎むよ
り、今守れるたいせつな人に尽くす事を優先した。
「過去を失わせた連中への拘りを捨てきれないあたしには、真似のできない生き方だけど、
あんたらしい良い生き方だと思うよ、柚明」
だからあたしはあんたの想いを支えたい。
「あたしに付き添わせ、支えさせておくれ」
あんたや笑子さんの視た通りになるかね。
「サクヤおばさん……」「サクヤ、あなた」
わたしが顔を上げるのに先んじて声を挟む真弓さんに、サクヤさんは吹っ切れた声音で、
「柚明は、自身と過去への決着を望んでいる。それも仇を倒す報復ではなく、大切な人を
悲惨な定めから救う事で。微笑みを守り取り返し、人に尽くす事で。是非とも叶えさせて
やりたいじゃないか。今更守る物も取り返す物もないのに復讐を捨てきれない鬼より、余
程ましだろう。不安がない訳ではないけど…」
瞬間、自嘲気味な苦い笑みを見せた後で、
「柚明はあたしが支える。成功しても例え失敗しても、最後の最後迄あたしは柚明と共に。
出立も帰着も、あたしと一緒だ。その綺麗な想いが失意に色褪せる事があったとしても」
あたしの全てで柚明の想いを支え守るから。
長くしなやかな腕が、決意に堅くなったわたしを包み込んでくれる。癖のある艶やかな
銀の髪が、わたしに降り注いで身も心も温め。真弓さんと正樹さんが言葉を失う様が見え
た。
今のわたしとサクヤさんの間には誰も入れない。この抱擁には誰も異議を唱えられない。
真弓さんとサクヤさんは生命をやり取りした後で和解した、わたしとは比べ物にならな
い程強い絆を持つけど。正樹さんとサクヤさんは、わたしの何倍もの長い付き合いだけど。
それでも尚、今のこの関りには介在できない。
それは失ってはいけない物を奪われた者にしか分らない。無力感と喪失感と、心を一度
叩き壊された絶望の共有だ。己の中で何かを取り返さねば先が見えない、決着への渇仰だ。
サクヤさんのそれが何かは定かに視えなくても、わたしの想いを受け止めてくれる事が、
3年半前にこのお屋敷でわたしの絶望を抱き留めてくれた事が、わたしにそれを分らせた。
サクヤさんもわたしと同種の喪失を経ている。サクヤさんとわたしは同類で、同胞だった
…。
だからわたしもサクヤさんの様に強くしなやかに美しく生きないと。サクヤさんの様に
時に優しく可憐に純情に、人を慈しめる様に。
わたしも両の腕を背に回し、サクヤさんの想いに言葉ではなく姿勢で、ぴったり抱きつ
く事で応え。桂ちゃんと白花ちゃんがきょとんとしていたのは、嬉し涙が珍しい為だろう。
「青珠を持って行きなさいな。今のあなたは青珠も不要に血の匂いを隠せるけど、力の詰
まった羽藤家代々のお守りは、安全なここを敢て出て困難に挑むあなたにこそ必要な筈」
笑子おばあさんの言葉がだめ押しになって、わたし達は夜半に羽様を出立する事になっ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
朝日が差し込む中、夜間診療窓口を前に暫し立ち止まっていたわたしは背後から両肩を、
不意に強く揉まれてちょっと驚く。サクヤさんの唇が耳元に迫っていて、その声と吐息が、
「いつも心は柔らかく、だろう?」
笑子おばあさんの教えを口にして微笑む。
足取りと表情が我知らず堅くなっていた。
「今のあんたには無理もないけどね。でも」
心が強ばると、身体も強ばる。できる事も失敗する。瞬間の驚きにも柔軟に対応できな
ければ、大事な時にミスを犯す。
想いに心を占拠されてはいけない。想いは強く深く抱いても、目の前の事実に即応でき
る柔軟さを残しなさいと。物思いに耽りがちなわたしには、罪悪感や哀しみに潰されそう
になるわたしには、大切な助言だった。
身体から余分な気負いや力を抜き、サクヤさんに微笑み返す。わたしは過去に囚われる
為に来たのではない。過去を乗り越え今を繋ぐ為に来た。過去に心を占拠されては駄目だ。
過去は深く強く心に抱いても、今為すべき事に必要な柔軟さは、常に己の内に残さないと。
わたしはまだまだ子供だ。学んでも身についていない。こうして一緒にいてくれないと、
どこで足を踏み外すか分らない。だからこそ、
「サクヤおばさんと一緒で、良かった」
「今更おだてても、もう何も出ないよ」
出る処はもう十二分に出ているしね。
サクヤさんは胸を反らせて悪戯っぽく笑う。
瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
「それで出るなら自分自身を褒めています」
「あんたはまだ試す値も充分あるだろうに」
癒しの水より怪しい迷信に、肩を竦めた時だった。間近を通り過ぎて行く影がある。サ
クヤさんより少し背の低い、若い男性だけど。リーゼントという髪型を生で見たのは初め
て。
『左腕を包帯で吊っている。骨折かな…?』
体格はやや太めで、着ている服は黒の学生服で、不良っぽいと言うか。顔は良く見なか
ったけど、絆創膏を2つ以上貼っていた様な。
目前の夜間診療窓口から出てきた処らしい。歩みがぎこちないのは、身体の痛みを我慢
している為か。言葉交わした訳でもなく、ぶつかった訳でもないので、その侭背中を見送
る。
微かに引っ掛りを感じた。その身に漂う焦燥感や罪悪感が、わたしのどこかに何かを…。
今少しここに留まって、関知の探りに身を委ねていたかったけど。遭遇のこの場があの
人との関りを手繰る、最良の場に想えたけど。それでも感触は細くて遠く曖昧で、掴み難
い。
でもその次の瞬間に、そんな微かな感触を、根こそぎ吹き飛ばす確かな気配が、目の前
に、
「ゆめいさん! ……来て、くれたんだ…」
夜間診療窓口から現れた可南子ちゃんが、涙声を隠さずわたしの胸に飛び込んできた。
「来てくれると想っていた。想っていたっ」
間近にいるサクヤさんも目に入らない様で、この胸に顔を埋めて涙を擦りつけ。わたし
の急な来訪が可南子ちゃんの自制を外した様だ。ぱんぱんに膨らんだ、風船の様な心が弾
ける。
『可南子ちゃんの抱く不安や哀しみや焦りに向き合ってくれる人が、いなかったのね…』
仁美さんが受けた心身の傷は、可南子ちゃんも苛んでいた。でも、ショックで倒れた恵
美おばあさんを前に、伯父さんも伯母さんも目が届かなかった。だから可南子ちゃんは思
いを打ち明ける人を求め、わたしに電話を…。
「大変だったね。よく頑張ったね。可南子ちゃん、偉かったよ。誰にも迷惑かけない為に、
泣くのも我慢していたんだね。強い子だね」
わたしが受け止めるから。綺麗な滴は、その想いは、わたしがしっかり受け止めるから。
「……ひくっ、……うっく、えぐぅっ……」
言葉に出来ない想いを、涙と息遣いで、わたしに取り縋る事で解き放ち。その想いは肌
で感じ取れる。身体はどこも痛めてないけど、痛めた心を抱き留めて、力づけて励ました
い。
「お、お姉ちゃん、もう生きていたくないって……。おばあちゃんも、倒れて。ひっく」
可南子ちゃんは仁美さんを頼りにしていた。仁美さんも良いお姉さんだった。仲の良い
姉妹だった。だから、仁美さんがこの状態に陥った時、可南子ちゃんの悲嘆も尋常ではな
い。
頼りに出来る人がいなく、大変な状況に放り出され、両親に縋る余裕もない。その心細
さが胸を締め付ける。先行きの暗さが、嫌な未来図の浮ぶ夜が、耐えられない怯えが染み
渡る。助けを求めてくれた事は、嬉しかった。わたしは、力になりたかったから。何かあ
った時には、わたしは役に立ちたかったから…。
可南子ちゃんの身体と心が、わたしの腕の中で震えていた。寒さの故ではなく、心細さ
の故に。一晩中、眠れなかったのか。その何時間も前から、心は張り裂け続けていたのか。
温もりを確かに抱き留めて、その寂しさも不安も哀しみも痛みも受け止めたと感じさせ。
それで漸く心は静まる。白花ちゃんも桂ちゃんもそうだったし、わたし自身がそうだった。
原因や責任や今後の対処を考えるのは後だ。心を落ち着かせる。まずは全てを受け止め
る。哀しみや不安や痛みや怖れに震える心を抱き留める。わたしがいると、あなたは1人
ではないと、確かに支え守って見放さないと感じさせ。サクヤさんや笑子おばあさんに幾
度も為されたその行いを、今度は為す側になって。
まだ動き出す気配も少ない朝の夜間診療窓口の前で、気遣って沈黙を保つサクヤさんの
見守る中、わたしはたいせつな人の背に腕を回し、その涙顔を胸に受け、頭を撫でつけて。
今ここにわたしの運命への反転攻勢が始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
恵美おばあさんは、仁美さんの悲嘆を目の当たりにして崩れ落ち、その侭病院の一室に
緊急入院していた。重篤な状態ではないので、近日退院できる様だけど。伯父さんも伯母
さんも可南子ちゃんも、共に夜を過ごした様だ。
町外れの屋敷に住む資産家だからではなく、夜遅く倒れた恵美おばあさんは緊急な入院
で同室者を騒がせては拙いと、1人用の空き病室を宛がわれた様だ。個室なら伯父さん達
が一緒に夜を過ごしても迷惑が掛る人はいない。
仁美さんは面会謝絶だと言う。生命の危険は去ったけど、心が不安定で見舞も受けられ
ない様だ。わたしの面会も、伯父さん達からお医者さんにお話を通して貰う事になりそう。
「お父さん、お母さん、ゆめいさんが…!」
明るくなったとは言え、学校も会社も動き出すには早い時刻に訪れたわたし達に、伯父
さんも伯母さんも驚きに目が丸く。最初に返った反応は、ベッドの上の恵美おばあさんの、
「ゆめいかい。わざわざ来てくれたのかい」
年長者独特の、驚く内容を幾つか飛び越してのねぎらいで。わたしに微笑みかけてくれ、
「この朝早く長い距離を大変だったろうに」
サクヤさんも一緒ですか。お久しぶりです。
伯父さん達が戸惑いつつわたしを迎えてくれたのは、大人の同伴があった為か。羽様か
らここ迄来るには、赤兎で走っても半日近く掛っていた。汽車なら乗り継ぎに待ち時間が
要るのでほぼ一日行程だ。子供の思いつきで簡単に行き来できる隔たりではなかった上に、
「柚明ちゃん……君、学校は?」
「休みを頂きました。親戚に不幸あったと」
今日も明日も平日だった。可南子ちゃんも登校日だけど、お姉さんが緊急事態なのでそ
の休みは既に暗黙の了解になっている。でも、実の姉妹でもなく同居もしていないわたし
が、遠い経観塚から見舞の為に、平日学校を休んで迄して訪れるのは、やはり常の事では
ない。
「仁美さんが大ケガをしたと聞いて、心配で居ても立ってもいられなくて。その、何か励
ましたり力づけたり、役立つ事できればと」
夜に発たないと、早朝ここに辿り着けない。可南子ちゃんの電話を2人は今知ったらし
い。恵美おばあさんと仁美さんの事で一杯一杯なので、やむを得ないけど。伯母さんと伯
父さんの戸惑いは、わたしがここに現れた事への。
「柚明ちゃん、それは有り難い事だけど…」
「可南子が、迷惑を掛けてしまった様だね」
「いいえ、迷惑なんてとんでもない」
左で萎縮する可南子ちゃんの肩を抱き寄せ、全然迷惑ではないと姿勢で示す。羽様に掛
った電話の所為でわたしが呼び寄せられ、迷惑した。そう想っているなら違いますと伝え
て、
「連絡を貰えて、頼って貰えて、わたし凄く嬉しかった。沢山お世話になった可南子ちゃ
んや仁美さんの、力になりたかった。励まし助けたかった。だから夜の内に出立しました。
可南子ちゃんの所為ではありません。可南子ちゃんを叱らないで下さい、お願いします」
可南子ちゃんは想いを打ち明ける人がいなくて電話を掛けただけだ。わたしは出来るだ
け早く行くと言ったけど、即座に動くとは約束してない。明言が、可南子ちゃんに責任の
一端を持たせる事になりそうなので、即座に動く積りだったけど、返事は敢て曖昧にした。
サクヤさんに迷惑が掛るようなら、翌朝経観塚発の汽車も、考えの内に入れていたから…。
わたしが夜に出立したのはわたしの決断でわたしの責任だ。可南子ちゃんに責任はない。
サクヤさんにかけた迷惑もわたしの所為だし、早朝に訪れてみんなを驚かせたのもわたし
の。
「お騒がせして、済みませんでした」
「いや、ウチは全然構わないけどね。唯…」
「学校を休む事は笑子さんも同意済みだよ」
最後迄言い切れない躊躇いに、わたしの背後から応えたのはサクヤさんだった。伯父さ
んはわたしではなく、大人の答を欲していた。二度目の問は、わたしの答への不納得を示
す。わたしが子供である以上それも仕方ないけど。
大人がいると話が通り易い。汽車で1人で来ていたら、まず羽様に確認が行く。その後
も保護者不在のわたしを気遣わせる。休みが長引かぬ様に早い経観塚への帰りを促される。
今は大人のサクヤさんがその防波堤になって。
「ですがサクヤさん、柚明ちゃんに来て貰っても、仁美は面会謝絶だし、傷も治りは…」
気持は嬉しいけど、別々に暮らす者迄を巻き込む事は良くない。伯父さん達の常識的な
戸惑いに、サクヤさんもそれは承知と頷いて、
「何月も居る訳じゃない。状態が良くなるか落ち着く迄、暫く様子を見守りたいって話さ。
柚明にも柚明の人生があって、学校や生活がある。いつ迄も居続ける訳には行かないよ」
でも仁美も可南子もあんた達も、柚明には身内で大恩人なんだ。大変な状態になったと
知れば、安否を確かめたい想いも分るだろう。
「しかも実際、可南子は柚明に支えられた」
傍のあたしにも気付かず、柚明に抱きついて涙を流していた。余程心細かったんだろう。
「あんた達を責める積りはない。仁美や恵美さんの事で大変だったんだ。唯、事実可南子
は心震わせていた。誰も彼女を受け止められなかった。可南子を抱き止めたのは柚明だ」
折れそうな心を誰知らぬ内に抱き留め守り。
わたしの腕を肩に回され、巻き取られて身を委ね、安らかな顔を見せる可南子ちゃんに、
伯父さん達の目が向いた。可南子ちゃんは微かに頬を染めつつ、離れず逆に頬を擦り寄せ
てきて。可南子ちゃんはこう言う時、結構大胆な子だったのを想い出す。可南子ちゃんは
仁美さんに、普段この様に接しているらしい。恵美おばあさんの声にならない笑みを感じ
た。
サクヤさんはこの場の共通認識を確かめて、
「……柚明が学校を休んで迄して、遙々ここに来た値は、これでもう充分じゃないかね」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしが仁美さんに癒しの水で役に立ちたいと言うと、伯父さんと伯母さんは困惑の顔
を見せた。サクヤさんへの視線も微妙に変る。迷信や子供の戯言に、踊らされて来たのか
と。サクヤさんや笑子おばあさんの判断迄見直す感じなのも、当然の反応だった。わたし
では、子供の言葉では絶対通して貰えない処だった。
「それは……どうかな……」
正面から断らない、即否定しないのは、わたしへの気遣いか、大人のサクヤさんへの気
遣いか。伯父さんは、断る口実を探す感じで、
「仁美の顔の傷は、相当の重傷だから」
確かな効果の出ない物に縋る気にはなれないとの気持と、不確かな物を傷ついた仁美さ
んに及ぼす事への不安が表情に視えた。伯母さんも、どう断れば穏便に済むか探る感じで、
「仁美は今も面会謝絶で、治療の最中だし」
「気持が落ち着いてないんだ。傷の場所が場所だから。骨折や打撲や出血は生命に関る物
じゃないから、逢って話す事はできるが…」
簡単に通して貰えるとは想ってない。迷信を信じた子供の申し出を受けて通す大人はそ
う多くない。しかも今は仁美さんの非常時だ。わたしの申し出はその本丸に関る。判断が
慎重に傾く事は予測出来た。それを承知でわたしは仁美さんに寄り添う許しを求める。理
屈では多分通れない。後は想いを貫き通す他に。
「逢ってお話しする事は、出来ませんか?」
わたしも仁美さんを励ましたい。力づけて、支えて、気力を呼び起こす助けになりたい
の。声を掛けて、手を握って、想いを届かせたい。仁美さんが心も傷ついていると、可南
子ちゃんに聞きました。わたしはその心を癒したい。
「面会謝絶だと言われているから。今はお医者様の判断に従うのが、最善だと想うのよ」
伯母さんの言葉に伯父さんも頷く。癒しの水の話を直接持ち込まれる事を恐れているの
かも知れない。すぐ潰える希望を見せるのは、仁美さんに気の毒だという印象を感じ取れ
た。それも大人の気遣いで妥当な判断だろうけど。
「では、お医者さんに相談をさせて下さい」
例え家族の同意を得ても、病院にも話を通さなければ、癒しの水なんて怪しげな物を入
院患者には及ぼせない。順序が後先なだけで、お医者さんの承諾又は黙認も必須条件だっ
た。当初は、伯父さんと伯母さんの了承を背景に、お医者さんにお願いしようと想ってい
たけど。
伯父さんと伯母さんがお医者さんの承諾を口実にわたしの道を塞ぐなら、わたしは逆に
お医者さんと話して道を切り開く。病院の承諾を貰えば、2人には反対の理由がなくなる。
勿論それも、簡単な話ではないだろうけど…。
「お医者様に、相談?」「柚明ちゃん……」
伯母さんも伯父さんも困惑の色を強めた。
そんな怪しい話は持ち込めないとその顔に書いてある。伯父さんも伯母さんも良い人だ。
信じる信じないは別として、わたしが信じ込んだお話を正面から切り捨て否定する事に躊
躇がある。わたしを傷つける事に迷いがある。その優しさに取っ掛りを見いだすわたしは
…。
「ゆめいさん……本当にその水で、お姉ちゃんの顔の傷は治るの?」「必ず、治すから」
わたしは可南子ちゃんの問に、否定でも肯定でもない答を返す。羽様でみんなに秘めた
想いを見抜かれまくったわたしだから、出来るだけ虚偽は口にしない。問われても、是か
非かではなく、事実を応える。水で治るのではなく、わたしが治すという意味を込めて…。
伯父さんが更に難しい顔を見せた。可南子ちゃんが、癒しの水の話に耳を傾ける様に不
安を抱いた様だ。怪しげな迷信に左右される様な子に育って欲しくない、そんな友達を持
って欲しくないと望むのは親の当然の想いか。
可南子ちゃんを支えた事への感謝と、怪しげな迷信を持ち込んだ悪印象が、心の中で競
っている。わたしの仁美さんへの想いは分って貰えても、感じる危惧は実に常識的な物だ。
伯父さんは、わたしの背後で言葉少ないサクヤさんの見解を求める。子供の意見をその
侭取り入れる訳に行かないけど、簡単には弾けないのも、背後に大人がついているからで。
「サクヤさんは、どう想っているのですか」
「あたしは、柚明が気の済む様にさせてやりたいって感じかねぇ。……正直、その癒しの
水がどれ程効果あるのかは疑問なんだけど」
サクヤさんは、わたしと微妙に違う主張で側面支援を担う。子供が迷信に縋るのはやむ
を得ないけど、立派な大人がそれを鵜呑みにしたのでは、逆に大人としての常識や判断力
を疑われる。サクヤさんの大人としての信頼が失われる事は、サクヤさんの同伴に支えら
れた、わたしがここに居続ける立場をも崩す。
「柚明は藁にも縋る想いで仁美の役に立ちたくて駆けつけたんだ。その気持は分ってやっ
ておくれよ。実の姉みたいな物なんだから」
サクヤさんは、わたしよりやや常識的な立場でわたしの仁美さんを想う気持に理解を示
しつつ、伯父さん伯母さんの信頼も繋ぐ難しい役回りを担う。伯父さんと伯母さんの信頼
が揺らぐ程に、癒しの水を信じてはいけない。わたしの右肩にそのしなやかな左手を置い
て、
「柚明はあたしがここに連れてこなかったら、最後迄羽様で反対されたら1人で汽車に乗
ってくる積りでいたんだ。柚明の財布にある全財産がその証拠だよ。経観塚からここに来
る片道分の金しかないけど……貯金の全部さ」
柚明は全財産を抛っても、帰り道も考えず、仁美に尽くしたいと願った。元気になって
と。例えそれが迷信でも、届かせてやりたいんだ。柚明が為せる限りを届かせたと、限界
迄想いを行動に表したと、自身に納得できる迄さ…。
それで効果が現れれば万々歳だ。もしも、
「効かないなら効かないなりの結果が出る」
それで柚明も気が済むだろう。仁美に元気になって欲しい想いは本物だよ。それが仁美
に響けば、心に良い効果があるかも知れない。家族を失っている柚明は、知った人の痛み
や苦しみを耳にすると、黙っていられないんだ。
「仁美を案じる想いは、柚明もあんた達と一緒なんだよ。その想いを、届かせておくれ」
水の効用より仁美さんを想う気持を前面に出す。気休めでも良いから、藁にも縋る想い
で、駄目で元々位の感じで、とにかく仁美さんに寄り添う事を許して欲しいと。わたしも、
「お願いします。仁美さんを力づけたいの。わたしに叶う事があれば全部したい。わたし
に及ぶ事があれば何でもしたい。わたし…」
手を膝の前に揃え深々と頭を下げお願いを。
癒しの水の効用を信じて貰う必要迄はない。
わたしが仁美さんに寄り添う許しが欲しい。
わたしが仁美さんに抱く想いを信用してと。
わたしが仁美さんを治すから。必ず仁美さんの心を救うから。微笑みを、取り戻すから。
「……もう誰にも哀しんで欲しくないの!」
伯父さんと伯母さんが、困惑に弱った表情を見せる。仁美さんを想う気持が本物だから、
断るに断りがたい悩みが見えて。その脇から、
「……頭を上げなさいな」
声を挟んだのはずっと聞き役に徹していた恵美おばあさんで、目を閉じて考え込みつつ、
「ゆめいの気持も、分らないでもないわね」
お医者様に反対されなければ、わたしは良いと想う。ゆめいの見舞を知ったら、仁美も
元気を取り戻すかも知れない。わたし達で今の仁美を立ち直らせるのは、難しい様だから。
「母さんっ!」「お義母さん」
伯父さんと伯母さんの声に、
「お医者様に相談する位は良いでしょうに」
癒しの水の真偽を問わず、わたしの想いを汲み取って、最後は医師の判断に任せようと。
「久夫さんも生きていたらそう言った筈よ」
「分った母さん。そうしよう」「あなた」
尚も不安そうな声を上げる伯母さんに、
「癒しの水を信じるか信じないかは別問題だ。唯医師に相談はしてみる。仁美は傷その物
より心が落ち込んでいる。可南子の様に、仁美にも柚明ちゃんの想いが届いてくれれば
…」
尚少し、迷信を信じるわたしへの懸念を残しつつ、迷いを残しつつの伯父さんの応えに、
「……有り難うございます」
了承された訳ではない。相談してみるだけで、伯父さんの考えは、お医者さんが拒めば、
却下の決め手になるとの想いも内包し。お医者さんに癒しの水を勧めてくれる訳ではない。
でも、一つ扉は開けた。一歩前には進めた。
そうさせてくれた恵美おばあさんと伯父さん・伯母さんに、心から感謝して頭を下げて。
まだ安静の必要があるおばあさんと可南子ちゃんを病室に残し、伯父さんと伯母さんと、
サクヤさんとわたしはお医者さんの処へ向う。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
医師の説得なんて、一度も為した事のないわたしは、内心かなり緊張していたのだけど、
「やあ、柚明ちゃん、お久しぶり」
整形外科の田中医師は、わたしのお母さんをあの夜の直前に看てくれた若い男性だった。
三年半の月日を経ても、彼の印象は尚若くて、ひょろっとした人の良さそうなあの時の侭
で。
交通事故で担ぎ込まれたお母さんを処置してくれて、駆けつけたお父さんとわたしに応
対して。冷静さを失って詰め寄るお父さんに、
『落ち着いて下さい。生命に別状ありません。意識がないのは眠っているだけです。おな
かの赤ちゃんも、大丈夫ですから』
お母さんの眠っていた病室に案内してくれ、
『眠っているだけです。傷の痛みが出ないよう麻酔は打ってありますが、安静にしていれ
ば傷口もこれ以上広がる事はないでしょう』
そこで幼かったわたしは、意識のないお母さんの手に、守りになればと青珠を握らせた。
『今夜はもう容態に変化はないでしょう。
お疲れでしたらお帰り頂いて、ゆっくり休んでから明日また出てきて頂いた方が……』
運命の別れ道はその直後に口を開けていた。
お父さんとの帰りの途中、夜間診療窓口から出た途端、閑散とした駐車場で鬼に襲われ。
お父さんはわたしを庇って鬼と闘って絶命し、お母さんも致命傷を受けて、お腹の妹と再
び病院に担ぎ込まれたけど、生きて出る事は…。
「君には、謝らないと。サクヤさんにもね」
医師は心のつかえに巡り会えたとの感じで、わたしとサクヤさんを前に挨拶もそこそこ
に、
「再度担ぎ込まれた君のお母さんを、緊急手術したのも、私だったんだよ。母胎はほぼ致
命傷を受けていて、胎児も取り出して生存できる段階ではなくて。殆ど何も出来なかった。
君の家族を救えなくて、済まなかった…」
わたしは病院から外に出た直後に襲われた。そこで救出され即座に搬送されたなら、医
師はまだ病院にいた筈で、看たのが彼だった事に無理はない。しかし何という巡り合わせ
か。
「麻酔の量は間違えてなかったけど、君のお母さんは動き出した。その結果、殺人犯の刃
に倒れたから。君のお母さんを失わせたから。しかもその後私は君にその事を謝るどころ
か、事実も伝えられなかった。あの殺人犯が指名手配され、捜査情報だから口外しない様
にと、警察から。君もあの後見かけなくなったし」
何も伝えられなかった。私の知っている事は、君の大切な人の最期だったのに。何一つ。
逆に彼がわたしの行方を追う事も出来なくなった。捜査情報だから。犯罪被害者だから。
わたしと田中医師の運命は3年以上交わらず。
「すみません。引っ越したんです。父も母も亡くなったので、祖母のいる山奥の村に…」
でも転居しなくても、ここには来る気になれなかった。わたしが生命を脅かされた場所。
わたしが禍を招いて、家族みんなの生命を失わせた場所。わたしの幼い幸せが終った場所。
想い出が鮮烈に過ぎ、来るに来られなかった。仁美さんの事がなくば、可南子ちゃんの電
話がなくば、誰かを助ける為でなくば、とても。
「元気に育っていてくれて良かった。一目見てすぐ君だと分ったよ。成長はしたけど、印
象はその侭変ってない。可愛くなったね…」
「……有り難う、ございます」
嬉しさは、自身が褒められた事より、わたしが過去とまだ繋っていると想えた事の方に。
まだあの夜以前に過した月日は息づいている。あの時より前にわたしの視界にいた人がい
る。気付かなかっただけで、過去は尚繋っている。お父さんともお母さんとも尚繋ってい
ると…。
「それで、今日はどんな内容で?」
伯父さん伯母さんとわたしの関係を説明し、仁美さんの現状を教えて貰い、それから本
題である癒しの水に、面会謝絶の仁美さんに添いたいとの話に入れたのは、昼少し前だっ
た。
「プラシーボ効果って、知っているかい?」
癒しの水の迷信は、合理の塊である病院や医師に弾かれ、とりつく島もないのでないか。
人当たり良く話してくれる田中医師も、事が職務に関れば応対は変る。そう想い微かに心
身構えたわたしだけど。何とか寄り添うだけでも認めて貰えればと、思い悩んでいたけど。
田中医師は、癒しの水の迷信は最初から信じてないと、言葉に出す迄もない感じでも尚
親しげに、子供のわたしに向き合ってくれて、
「日本語では偽薬と言うんだけどね。偽の薬。薬でも何でもない唯の錠剤や水を、薬だと
言って効くと信じ込ませて与えると、本当に病や傷の症状が改善される事が、あるんだ
…」
病は気からって言葉もある。気持の持ち様で、病や傷の治りは大きく影響を受けるんだ。
心を鍛えれば不死身になれる訳でもないけど。心に希望を持てない人は中々傷が治らず、
遠くの地から見舞に来てくれた従妹に勇気づけられれば、その治りが早まるのかも知れな
い。
「先生、先生は、癒しの水のお話を……?」
伯母さんも伯父さんも、医師に断られるとしか想ってなかった。わたしが駄々をこね無
理を求めるのを、どの辺りで諦めさせようかと目配せしていた様で、この展開は予想外で。
「私は、癒しの水なんて話は信じません。唯、それが話として出回るからには、プラシー
ボ効果が背景にある可能性は、充分あります」
そしてそれは伝播もします。柚明ちゃんがそれを信じて縋った様に、それを仁美さんが
信じ込めば、或いは効果が現れるかも。柚明ちゃんが仁美さんに、強く信じ込ませれば…。
「それなりの効果を見込めるかもってかい」
サクヤさんの返事に、その通りと頷いた。
次の瞬間、田中医師はわたしに顔を寄せ、
「ご免ね、柚明ちゃん。君は癒しの水を信じているんだったね。でも私の立場は、それを
はいそうですかと認める訳に行かないんだ」
微笑みかけてくれる。わたしが癒しの水を信じる事は否定しないと。その上で仁美さん
を想う気持も良く分ると。わたしもそうですと、明かしたかったけど、伝えたかったけど。
それは口にしてはいけない。
それは明かしてはいけない。
真実への扉は禍への扉、開いてはいけない。
わたしは迷信に惑わされる愚かな柚明です。
無理解な人に拒まれる事は想定もしたけど。
ここ迄親身になってくれて尚誤解された侭。
わたしは最後迄田中医師を騙し続ける事に。
「仁美さんに寄り添う事を許して貰えますか。わたし、仁美さんに元気になって欲しい
の」
今は他の想いを振り切って、大切な一つに。そんなわたしに田中医師は2つ条件を示し
た。
「一つは、君が仁美さんと信頼関係を繋ぐ事。そうでないとプラシーボ効果も期待できな
い。逆に仁美さんの心を乱し傷つける怖れもある。仁美さんの心を慰め励まし、治ろうと
いう意欲を呼び起せないとね。絆の有無は、私が見定めさせて貰うよ。二つ目は、その水
だ…」
傷口に浸す以上、病原菌や有毒物質があると拙い。検査させて欲しい。それで問題なけ
れば、治療や検査に差し障らない限り、本人の負担にならない範囲で、柚明ちゃんが寄り
添って励ます事を、主治医の私が了解しよう。
田中医師には、わたしへの負い目や同情があったのかも知れない。一度救ったお母さん
と妹を二度目に救えず、間近でお父さんも失った経緯を知る故に。守られ残ってしまった
わたし故に、誰かを守りたく願うこの想いを。
「……有り難う。有り難うございます…!」
羽様の水道水が、特段問題ないと病院の保証を受けたのは、午後3時過ぎだった。その
結果を踏まえ、伯父さんと伯母さんの消極的な了解も得て、わたし達は漸く病室の前に…。
わたしの取り戻したい人の前に辿り着けた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
仁美さんの病室に入ったのは、田中医師と佳美伯母さんとわたしの3人だった。サクヤ
さんは扉の外で待っている。癒しの力を持たないサクヤさんは中で役に立てる事はないと。
顔に傷を負った女の子は、多くの人に姿見られる事を望まないと。乙女心への気遣いはや
はり乙女の故だ。だから今は最小限の人数で。
伯父さんが入室しなかったのはそれ以上に、顔に傷を負った娘の消沈を見られなかった
為かも知れない。父と年頃の娘の間合は微妙だ。仁美さんは知る限り伯父さんにも親しく
接していたけど、事故を経て悲嘆の淵に沈んだ仁美さんは、伯父さんが見るに忍びないの
かも。
それに向き合う勇気を持つのは母親なのか。最後の関門は、わたしと仁美さんが生きる
気力と信頼関係を確かに繋ぐ事だ。そうでなければ、その心を乱すだけでは寄り添う事も
叶わない。絆の見定めは、田中医師と母である佳美伯母さんが担う。その為の一緒の入室
だ。
入室の直前、数十メートル先の通路の隅に、左手を包帯で吊った若い男性を見た気がし
た。少し気になったけど、すぐ通路を曲がって見えなくなったので、気付いたのは多分わ
たしだけだ。それを確かめる暇も考える間もなく、わたしは入室し仁美さんに向き合う事
になり。
面会謝絶の仁美さんは1人部屋だ。入る前から目覚めていた様で、誰かの来訪を知った
気配は感じ取れたけど、その反応は鈍く遠く。感情の動きが鈍いのは大きな痛み哀しみか
ら心を守る為だ。わたしが以前そうだった様に。
敢て心を内に向け、その感覚を鈍くして。
そうしないと耐えられない程、傷は深い。
「仁美君、元気かい」「仁美、入るわよ…」
動きでも声でも返事がないので、2人は仁美さんを驚かせない様に声で入室を知らせる。
「柚明ちゃんが、お見舞いに来てくれたの」
佳美伯母さんが田中医師とベッドの右側に、わたしが左側に歩み寄る。仁美さんは顔の
他にも手足に裂傷や骨折を負い、生命には別状ないけど、身を起せない状態だった。右手
首は点滴の管に繋り、額には包帯が巻かれ、顔の左半面はガーゼがサージカルテープで留
められて。田中医師がさり気なく点滴の残量や肌の艶を見て容態に異変がない事を確かめ
る。
「柚明が……? まさか、可南子あいつ…」
わたしの名前に反応して視線が意識が外を向く。わたしを視界に収めて、しまったとい
う顔を見せた。この姿を、この消沈を見られたくない想いが顔を見なくても伝わって来て。
双眸が怯えに固まっていた。わたしの視線を受ける事に、惨状を見られた事に悔いが…。
でもその傷には分け入らないと癒せぬから。
でもその痛みは踏み込まないと拭えぬから。
「仁美さん……ごめんなさい」
わたし、来ちゃいました。心配だったから。
来ないでと言われるのは、目に見えたけど。
見ないでと言われるのは、分っていたけど。
「何とかして力に助けになりたかったから」
怯えた様に視線を逸らす仁美さんの間近に歩み寄る。身動きできたら逃げ出したかった
のか。ピクと動いた左腕を、左手で絡め取り、
「わたしの、たいせつなひと。仁美さん…」
握って温もりを通わせ、怖がらないで逃げないでと想いを肌で伝え、右手をその顔の左
半面にゆっくり伸ばす。ガーゼの上からでも、直に触らせてと。撫でさせてと。癒させて
と。
「その傷も、必ず、良くなるから……」
気を落さないで。しっかり治ろうと想って。
もうすぐ触れると想えた瞬間、
「この傷に、手を触れないで!」
仁美さんの悲鳴を聞いたのは初めてだった。
感情の侭に声を発する仁美さんも初めてだ。
冷静で沈着で、目的を意識し相手や周囲を見て、必要に応じ出す声を選ぶ人だったのに。
豪放な装いで人を受け容れつつ、細やかな気遣いの出来る人だったのに。学校でも陸上部
の主将を任される程、自己抑制の利いて統率力のある人だったのに。その眼が潤み震えて、
「お願い。心が痛むの。麻酔で傷は痛まないけど、心が痛いの。その手を伸ばさないで」
傷を確かめたくない。感じたくない。触りたくも、触られたくもない。切って取れる物
でもないけど、せめて知らぬふりを続けたい。治せない傷なら、拭えない痕なら、元に戻
らない現実なら、せめて少しでも目を背けたい。
触れなければ、痛まなければ、見なければ、感じなければ、一体となっていても少しで
も忘れられる。無視できる。なかった事にも…。
見たくない。向き合いたくない。報されたくない。受け容れたくない。拒みたい。
「その目で見て欲しくない。その手で触れて欲しくない。その心から忘れ去って欲しい」
お願いだから、その手を伸ばさないでっ。
泣き出す一歩手前の見開かれた双眸は、いつもの仁美さんからは想像も付かない弱々し
さで。手負いの獣が獣医さんも威嚇して近づけない様な、牙と爪を向けるけど一杯一杯で、
助けないと即折れてしまいそうな。わたしは、
「うん……ごめんなさい。手は、引くね…」
伸ばしかけた右手を引いてから屈み込み、
「「柚明ちゃん?」」
仁美さんの次の声を待たずに、その顔の傷を覆うガーゼの上に口付けて、癒しを注ぎ…。
「柚明、あぁ、あんた……」
手で触れないでと言ったから、唇で触れた。
それを理解できた時は既に遅く、仁美さんは間近で躱す事も逃げる事も叶わず、わたし
の口づけを左頬に包帯越しに受け、驚きに言葉も思考も硬直し、双眸が大きく見開かれて。
田中医師も佳美伯母さんも、驚きに声も出て来ない。わたしは両の瞳を閉じていたけど、
触れた肌から仁美さんの心の動きも表情の変転も己の事として察しれる。微かな喜び迄も。
一分位経っただろうか。唇を付けた侭、瞳を見開くと間近な驚きの眼がわたしを睨んで、
「……柚明あんた、大切なその唇を、与える相手を充分吟味しなきゃいけないその柔らか
な唇を、あたしの傷口なんかに当てて…!」
あたしなんかの為に、傷物のあたしの為に。
もう見向きもされる事ないあたしなんかの。
「うら若い乙女が、なんて勿体ない!」
仁美さんは尚も仁美さんだった。この状態でも尚、わたしの唇を気遣ってくれる。驚き
が瞬時、いつもの仁美さんを引っ張り出せた。わたしはその引っ張り出せた仁美さんの心
に、
「わたしの、たいせつなひとだから」
屈んだ姿勢の侭で、間近な瞳に語りかける。その温もりは頬で受け、心の震えは身で感
じ、
「何とかしてその傷を塞ぎたかった。手で触れられないなら、唇で触れて。顔の傷は塞げ
ないけど、その心の痛みを少しでも除きたい。傷に分け入る事で、仁美さんが何度も痛み
をぶり返すと承知で為すわたしは酷い人だけど。でも、お願い。生きる気力を取り戻し
て!」