第2話 癒しの力の限り(後)


 強い想いを受けて双眸が揺れ、意思が揺れ、

「こんなあたしに。傷物になって、あいつにも来て貰えない、見捨てられたあたしに…」

 瞬時わたしの脳裏に浮ぶ若い男性の姿は?
 そして仁美さんの本当の悲嘆と絶望とは?

「あんたの、これからがあるあんたの唇を」

 仁美さんの言葉をわたしは聞き入れない。
 己に値がないと言う想いは間違いだから。
 わたしの唇等よりもずっと尊い物だから。

「仁美さんはわたしのたいせつな人。特別にたいせつな人。わたしが心を殺された時共に
哀しみ泣いてくれた人。今度はわたしがあなたを支え、助け、力になる。仁美さんは必ず
治る。わたしが治す。心の傷も顔の傷もわたしが全部元に戻す。だから望み捨てないで」

 仁美さんの顔に微かに陰りの色が見えた。

「治る訳ないよ。戻る訳ないよ。一度切れた絆は、戻ってこないんだよ。あいつが二度と
あたしの前に来ない様に、この顔の傷も…」

 確かにこの世には、二度と戻らぬ物もある。失って二度と取り返せない物も。わたしの
両親も妹も失われ、甦る事はない。わたしの幼い幸せも元に戻る事はない。でも、それで
も、

「戻る物もあるよ。全部諦めるのは早すぎる。
 わたしが取り戻す。全部とは行かないけど、痛み苦しみは今更なかった事に出来ないけ
ど、これからの事には何とかわたしが届かせる」

 仁美さんの心が一時の驚きから立ち直るにつれ、冷徹な現実を前に再び閉じて沈み行く。
その心を追いかけて、取り縋って、閉ざされ行く魂の扉に手を挟み込んで、わたしは尚も、

「例えその侭治らなくても、この先どんな事になっても、仁美さんはわたしのたいせつな
人、失いたくない特別にたいせつな人……」

 わたしは、どんなあなたでもたいせつ。
 わたしは、いつ迄もあなたがたいせつ。
 誰がいなくなってもわたしがいるから。

 わたしは最期の最期迄仁美さんを諦めない。
 仁美さんも最期の最期迄自身を諦めないで。

「わたしに、守らせて。身を尽くさせて」

 医師も伯母さんも言葉を挟めず、仁美さんはわたしの訴えに身動きも答えもせず。一体
何分経っただろう。わたしはその哀しみを肌を合わせる事で全て受けると、暫く動かずに。

 漸く微かでも、その唇に確かな意思が戻り、

「あたしには、まだ大切に想ってくれる人がいたんだ……ああ、そうだよ、そうだよね」

 可南子も父さんも母さんも、恵美おばあさんも。そして柚明、あんたもいたんだったね。

「そんな初歩の事も忘れるとは、情けない」

 仁美さんは悪夢から覚めた様な表情で、視線を泳がせつつ双眸から熱い涙を流し続ける。

「心を痛めていたんだもの。大きな傷を受けた時は、大切な物でもつい見落してしまう事
だってあるわ。わたしが、そうだったから」

 わたしも大切に想ってくれる人の存在を忘れ、1人悲嘆に沈んでいた。サクヤさんも笑
子おばあさんも正樹さんも、可南子ちゃんや仁美さんもいたのに。誰の声も聞えなかった。

 多くの励ましに耳を傾けられず。多くの助けに気付けず。その心の闇を一度通り抜けた
から。だからその絶望は他人事ではなかった。

「ごめんよ、柚明。あんたに迷惑かける事になってしまったね。今度はこのあたしがさ」

 可南子の気持を汲み取る余裕もなかった。

 可南子をあんたに縋り付かせたのは、姉であるあたしの失態だよ。あんたが居てくれて
助かった。そうでなかったら、甘えん坊の可南子を受け止める者が誰もいなくなっていた。

 尚気力を戻したと言い切れないその声に、

「迷惑を互いに掛け合うのが家族でしょう」

 温もりを重ね、想いを重ね、生命を重ね。

「困った時は助け合う。年下でも年上でもそれは同じ。支えられる者が支え、余力のある
者が力を尽くす。例え余力がなくても、わたしは仁美さんの為なら叶う限りの力を尽くす。
 恵美おばあさんが言った通り、わたし達は家族よ。可南子ちゃんの前が恥ずかしければ、
いない処ででもわたしがあなたを受け止める。哀しみも痛みも苦しみも、受け止めさせ
て」

 可南子ちゃんも確かに受け止めるから。仁美さんが戻る迄、しっかり代りを務めるから。

「急がず焦らず、良くなる事だけを考えて」

 涙が溢れ出て頬を伝う。哀しみと嬉しさに震えるその心が愛しくて、わたしはその左目
に唇を寄せ、伝う涙を込めた哀しみごと拭い去る。仁美さんはそれを為される侭嫌わずに、

「……どうやら、あんたは可南子だけじゃなく、あたしの姉貴役までこなせそうだね…」

 仁美さんがわたしの為す全てを受けると言ってくれたのは、それから少し後の事だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「癒しの水……ねぇ。あんたが、そんな訳の分らない物を信じるなんて、予想外だよ…」

 仁美さんはわたしの申し出だから今更断らないと言いつつ、水の効果に疑念を隠さない。

 田中医師と佳美伯母さんは仁美さんとわたしの絆を見定め、寄り添う事を認めてくれた。
一度伯父さん達への報告に病室を外し、水の準備を整えて、戻り来た今は夕刻で。この間
サクヤさんは羽様に現況を伝えてくれていた。

『これからが本番だよ。気張って行きな!』

 かくして今は仁美さんの病室に2人きり。

「まあ、あんたも女の子だったって事かね」

 それは果たして落胆の表現なのだろうか?

「可南子は結構そう言うおまじないを、持ち込む方でね。強く信じている訳じゃないから、
次々と新商品に目移りし気を惹かれる。だから余り気にしてなかったけど。あんたは信じ
込むと一途にのめり込みそうで、心配だよ」

 傷を覆うガーゼを外し、羽様の水道水を浸した換えのガーゼを当てる。より傷に密着さ
せる為に、水を消毒液に混ぜて貰った。本当は布も無用で肌を合わせた方が良いのだけど。

 肌にくっついたガーゼを外す痛みと、顔の傷口を生で見られる怯えに、瞬時仁美さんの
顔が歪むけど。わたしは顔色を変えず傷口を換えのガーゼで覆いサージカルテープで止め。
日常の動作の如く滑らかに問題なく終らせる。

「大丈夫、傷痕も残さずに治すわ」「……」

 想ったより傷は深く、奥迄切り裂いている。
 神経も筋肉も、再び繋ぎ直すには時が要る。
 癒しの力の限りを注いでも、一朝一夕には。

「効果が出ないと分る迄は、仁美さんも一緒に信じて。水ではなく、このわたしを。いえ、
仁美さん自身の治ろうとする意思と力を…」

 生きようって、強く想って。

 右手をガーゼの上に当てて癒しを流しつつ、左手は仁美さんの左手を握って同じ事を為
す。仁美さんは身が暖まる錯覚を感じる筈だ。傷の発熱ではなく、赤子の柔肌の様な暖か
みを。

 受け容れる態勢が癒しの効果を高める。生きる気力を強く搾り出せば、癒しは更に強く
効く。わたしの癒しも薬と同じ外部の助けだ。本人の治る気力がそれを生かして使いこな
す。

「あたしはこう見えて意外と脆いからねぇ」

 仁美さんはしみじみと自身を振り返って、

「余り信用に値しない己を、あんたも自身でも見てしまった。信じるなら、あんただね」

 澄んだ瞳が間近なわたしを正視する。年下のわたしを信じ切った、身を委ねた瞳が潤み。

「聞いてくれるかい、柚明」「ええ」

 話に受けて応えつつ、癒しは注ぎ込み続け。

 贄の血の力を無制限に紡ぎ出すと、青い輝きを帯びて周囲を驚かせる。日中なら無意味
に放散され無駄遣いになる。人前で力を揮う為に、肌の下で力を紡いでそれを束ね、掌や
唇に限定して放つ術もわたしは修練してきた。

 日が沈み力の放散には都合良くなったけど。仁美さんだけの個室は、その瞼を塞げば力
も全開に出来るけど。無闇に力を放っても早く癒せはしない。鬼を弾いて退けるのとは違
う。必要な箇所に、必要な分量を、必要な間安定して注ぐ事が、瞬発力よりも持続力が重
要だ。

「あたしがこんな男っぽい性格になったのは、そう望み選んでの話なんだ。元々じゃな
い」

「可南子ちゃんの求めに応える為、なのね」

 甘えん坊でのんびり屋さんで、でも可愛くて心から守りたい、仁美さんのたいせつな妹。

 可南子ちゃんの求めに応える為に、仁美さんは強く頼りがいのある姉になる事を望んだ。
その道を選び取った。陸上部の主将を任されたりみんなの信望が集まったのは、努力の結
果だ。元からそうだった訳ではない。元々仁美さんは可南子ちゃんの姉だけあって、実は。

「あんた、そこ迄分っていたのかい……?」
「今回の事で漸く。わたしも鈍いですから」

 己を失う位の窮地になって、人を気遣う余裕を失って、漸く本当の仁美さんが現れ出た。
そうなる迄気付けなかった。仁美さんはたいせつな人の為に、強くあろうとし続けてきた。

 誰かを守ろうとするその想いの強さ。
 願いに応えようとするその心の強さ。
 人を支える為に己を装い繕える強さ。

「仁美さん、本当に賢く優しくて強い人…」

 仁美さんの頬が染まるのは、癒しの力で血行が良くなり体温が上がった為だけではない。

「止しておくれ。悲嘆に沈んで、可南子やあんたの前で情けない叫びを上げたあたしに」

 肩を竦める仁美さんにわたしは首を振って、

「強い人でも限度を超えれば、叫びは出るわ。強い人にも弱い人にも痛みは痛み、哀しみ
は哀しみよ。人の強さは無限じゃない。強い人にも泣き叫びたい時はあるの。その時は
…」

 遠慮なく心を打ち明けて。当分それが可南子ちゃんに叶わないなら、わたしに。わたし
もまだまだ頼りないけど、全然力不足だけど。力の限り受け止めるから。渾身で応えるか
ら。

「たいせつな人の為なら、身は惜しまない」

 握った左の掌が、ぎゅっと握り返された。
 微かに熱っぽい両の瞳をわたしに向けて、

「可南子の涙を受け、あたしの嘆き迄も受け、あんたの強さこそ、無限じゃないのかい
…」

 夕陽の照り返し以上に2つの頬は赤かった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「お姉ちゃん、元気になれそう?」「ええ」

 病院の食堂で、わたし達は可南子ちゃん達と夕食を取る。伯父さんも可南子ちゃんも事
故直後、顔の傷に我を忘れた仁美さんが印象に濃く、様子を窺うのさえ躊躇っていた様だ。

「可南子ちゃんに、心配掛けてごめんなさいって。それと、立ち直るにはもう少し時間が
掛るから、暫く見守ってと。それ迄の間…」

 叶う限り可南子ちゃんはわたしが支える。

「仁美さんの了承も貰えたから、宜しくね」

「……良かった。ありがとう、ゆめいさん」

 食べかけのカツ丼を忘れ右腕に縋られる。
 身を預けられ二の腕に頬擦りつけられる。
 安心しきった顔に微かに涙が滲んでいた。
 その体重も心も確かに受け止めて応えて。

「余り無理するんじゃないよ、柚明。あんた、仁美に寄り添うだけで手一杯だろうに。可
南子の事は、あたしが引き受けても良いから」

 左隣で、焼き魚定食を口に運びつつサクヤさんがそう言うのに、わたしは素直に頷いて、

「わたしが仁美さんに寄り添う間は、伯母さんや伯父さんやサクヤさんにお願いします」

「わたし達は勿論だけど」「ああ」

 向いに座ってラーメンを食べる伯父さんも、ハヤシライスを食べる伯母さんも、仁美さ
んが少し元気を取り戻せた事に安堵した様子で。

「今晩は家に泊るんだろう?」「それは…」

 サクヤさんに注文されたレバニラ定食を食しつつ、わたしはその勧めにかぶりを振って、

「出来れば夜も、ここにいたいのですけど」

 深夜は無理でも、夜や、朝も早くから添う事を望むなら、町外れのお屋敷に泊るのは望
ましくない。恵美おばあさんが後数日入院するなら、その脇で毛布にくるまって寝られる。
入院患者用のお風呂を使えば身体も清められる。そんな状況も考え赤兎に荷は積んできた。

 伯父さん達は、恵美おばあさんが倒れたので昨晩は病院に泊ったけど、仁美さんの状態
も安定した今晩は家に帰る様だ。可南子ちゃんもずっと病院詰めでは疲れてしまう。明日
も学校は休んで両親と見舞に来る予定だけど。

「わたしは学校を休んで来ています。いつ迄も長居してご迷惑かけられません。居られる
間は出来る限り、長い時間寄り添いたいの」

 いずれ出る話を自ら持ち出して逆に使う。
 敵はいないけど、これは時間との戦いだ。

 田中医師との約束もある。仁美さんの負担にならないとは、医師が見て負担になると思
わない程度を指す。癒しの力は疲れも拭うから本当は夜も寄り添う方が良いけど、それは
言えない。信じて貰えず逆に不審に思われる。夜は九時十時迄、朝も七時以前は無理だろ
う。

 わたしが寄り添える時間は限られている。
 わたしに与えられた日数も限られている。
 わたしはその間に確かな成果を残さねば。

「そう長い間ではありません。どうかわたしの我が侭を許して下さい。お願いします…」

 一つの成果を示して一つの無理を求める。

 一つ満たされ安堵すると同時に、一つ不安と不審が刻まれる。それは決して相殺しない。
いつか天秤は一気に傾く。わたしはその瞬間に至る前に、伯父さん達が堪忍袋の緒が切れ
る前に、治し終えてここを去る。そうせねば。

 わたしは仁美さんに近づけて貰えなくなる。
 幾ら想ってもこの手を届かせられなくなる。
 癒しの力も励ましも及ばせ得なくなる前に。
 今はこの身が宿す癒しの力の限りを尽くす。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あたしは柚明のお守りだからね。柚明がここに居続けるなら、あたしもそれなりに…」

 赤兎で寝ても良いし。あんたは心配せず想い人に寄り添いな。声の届く範囲にいるから、

 売店で買い込んだ珍味と缶ビールを手に、

「何かあれば叫んでおくれ。駆けつけるよ」
「サクヤおばさん、もしかして地獄耳…?」

「耳が良いって言っておくれよ。鼻程じゃないけど、あたしは人よりも五感が利くんだ」

 その缶ビールで鈍る様な気もしますけど。

「夜の病院で叫ぶのは人に迷惑をかけます」

「あたしを呼ぶ様な緊急事態で人の迷惑は構うんじゃない。責任は大人のあたしが取る」

 病院で、サクヤさんの助けが要る事はない。ここは戦場ではなく、わたしは人を癒しに
来ている。サクヤさんの役目は子供のわたしの傍に大人として寄り添い、わたしが居易い
場を作る事だ。3年半前の鬼の襲撃の様な事があれば、人の迷惑も構ってられないけど。
逆に声を響かせて危険を周知すべきだろうけど。

「癒しの進展具合はどうだい。順調かい?」

「傷は深いけど、仁美さんは若くて強いから。癒しの浸透度合もほぼ想定通り。今日は流
し込んだ癒しへの反応を窺ったり、傷の範囲や深さを見定めるのが主で、本格的な癒しは
明日以降になるけど。レバニラ定食有り難う」

 はーっ。吐く息の臭いが少し気になるけど。

 血を流す訳ではないけど、血に宿る力を紡ぎ続けるには、結構スタミナを使う。血の量
を増せば力も増えるかどうかは分らないけど、配慮は嬉しかった。その、奢りでもあった
し。

「羽藤の血筋は血を増す必要が多い癖に肉食を好まないから。こうでもして勧めないと」

 確かに、嫌いと言う程ではないけどわたしも好んで肉食はしない方だ。野菜とか魚とか。
しかも食が細いと良くサクヤさんに言われ…。

「良く食べ良く寝ないと大きく育たないよ」

 サクヤさんは胸を反らせて悪戯っぽく笑う。
 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

「例えそうしても、多分そこ迄大きくは…」

 はーっ。もう一度今度は溜息を出してみる。

 可南子ちゃん達を見送った後、わたしは恵美おばあさんに数日褥を貸して頂く事と、田
中医師に夜十時迄仁美さんに添う許しを得て。入院患者用のお風呂を使わせて貰い身を清
め。

 月明りの下、仁美さんと2人の夜を迎える。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 仁美さんは一昨昨日の夕刻、年上の男性の運転するバイクの後部に乗っていて、トラッ
クに衝突したと言う。郊外の坂道を上っていた処、対向車線を降りてきたトラックがカー
ブで車線をはみ出し、ぶつかって来たらしい。

 トラックは、ぶつかった前面がひしゃげたけどその重量で衝撃を吸収でき、運転手に怪
我は殆どなかった様だ。でもバイクは大きく弾かれ、2人とも座席を投げ出され。男性の
方は、左腕骨折の他は軽傷だったらしいけど。

 重傷だったのは、仁美さんの顔と心の傷だ。
 取り返しの効かない、繕いの利かない傷に。

 意識は取り戻したけど、仁美さんは気力を取り戻せなかった。面会謝絶の札が下げられ
た直後、バイクを運転していた若い男性が病室に謝罪と見舞に訪れたらしい。自身大ケガ
を負い、漸く歩ける様になっての訪問だけど、

『顔も見たくない! 二度と来るな暴走族』

 娘の心が乱れる程に、傷つけられた直後だ。伯父さんも興奮していたのか。憤りの侭に
怒鳴りつけ、土下座する若者を追い払うと以降現れなくなったと言う。その若い男性っ
て?

「もしかしなくても、仁美さんの恋人…?」

 まぁね。苦い笑みは、仁美さんの中ではまだ恋人一歩手前位の感触だったという想いと、
入院してから一度も訪れてくれない事への…。

「父さんと母さんは、認めそうにないけど」

 この経過を経ては認めたくない心情も分る。仁美さんは両親に若者の事を話してなかっ
た。突然恋人です、怪我させて済みませんでは伯父さんも伯母さんも頭に血が上る。その
上若者は年配の人が嫌う不良っぽい服装や髪型で、故に仁美さんも両親に中々話せなかっ
た様で。

「三つ年上なんだ。高校三年生」

 わたしには六つ年上になる。っていうか。

「仁美さんの恋のお話聞いたのは、初めて」

「そりゃないだろ。小学5年の初恋以来、男と付き合ったなんて3月前からの今回だけ」

 同学年や一つ上の男子は碌なのが居ないし、強気な性格を知るから寄ってこないし。代
りに後輩や同級の女子から、お手紙やらバレンタインチョコやら貰って噂にはなるし。ま
あ、女子に惚れられるのも、可南子を見ている様な物で可愛いから、嫌いではなかったけ
どね。

「碌な男の人だったの……三つ上の彼は?」

 わたしの瞼の裏に浮んだ像は、その……。

「何で付き合っちまったのかねぇ」

 気楽と言うか、突き放したというか。改めて考え込む仁美さんに、わたしも気が抜ける。
緊迫感の抜けた語調はサクヤさんに少し似て。

「あいつに較べれば、碌でもないって切り捨てた同級生にも、まだましなのはわんさかい
た気がする。そうだねぇ、巡り合わせかね」

 後悔はしてないよ。間違いでもなかった。

「気楽になれたんだ。あいつの傍にいると」

 あんたももう分った通り、あたしは強い姉貴を装ってきたからね。学校でも家でも頼ら
れて縋られて相談されて泣き付かれて、いつも気遣い判断し引き受け任される立場でいた。

 頼ってくれる者に応えるのは嬉しい事だし、役に立てるのは望ましいけど。あたしは元
々そんなに強い性分じゃなかったんだ。その事をあたし自身忘れかけて、色々背負い込ん
で、頑張って頑張って、疲れている事も忘れかけ。

「そんな時だったよ。あいつに逢ったのは」

 あいつもそんな大した奴じゃない。学校の勉強に遅れ気味で、そう言う連中でつるんで
不良っぽい装いで出歩いているけど、実は小心者で1人じゃ何も出来ない。独特な服装と
口調で繕うけど、本当は誰ともぶつかりたくなく、強そうな装いを被って人を避けている。

「なれそめで、あいつのワルっぽさと強がりの裏の、人の良さと小心ぶりを見ちゃって」

 あたしも、そうだよって。本当のあたしはそんなに豪快でもなければ、強さに溢れた訳
でもない、唯のあたしだよって。装い抜きに、仮面外して、お互い素の侭の自分を出せる
相手が1人位いても良いよねって、あたしから。

「強がりを抜きに、のんびりだらだらした素の侭の時間を、共に出来る関係だったんだ」

 だから、それを恋人と言って良いかどうか。
 でも、一緒にいると時間が早く過ぎ去って。

 リーゼントの髪型した友達なんて、今迄一度も作った事ないから、親には言えなくてさ。
可南子にだって言えやしない。そもそも縋る妹に応える『強い姉』に疲れたのが始りだし。

「あんたにもこうなる迄話す事になるとは」

 仁美さんは力の抜けた表情で苦笑いして、

「どうだい、仁美姉さんの意外な脆さ。ちょっとはショックだったんじゃないのかい?」

「そうね……でも、それが仁美さんだから」

 わたしはその左頬のガーゼに頬を寄せる。

 意外に想うのはわたしの目が節穴なだけだ。想い返せば仁美さんは、わたしや可南子ち
ゃんを守り庇う為、強さや頼れる姿を見せていた。そうでない仁美さん等想像もしなかっ
た。

 それはわたしが白花ちゃんや桂ちゃんの前では良いお姉さんである様に努めるのと似る。
強さや弱さに関係なく、守りたい人の前で弱音は吐かないし、無理でも大丈夫を装う物だ。

「一層愛しくなりました」「柚明、あんた」

 その仁美さんを、可南子ちゃんももう少し大きくなったら、受け容れてくれると想う…。

 丸く見開いた黒目を正面間近から見つめ、

「わたしにはもう無理に装う事はないから」

 その彼に向けた真心を向けてとは言わない。
 唯わたしにも素の侭の仁美さんで良いから。

 わたしは、頑張って強さを装う仁美さんも、素の侭で伸びやかな仁美さんも全部好き。
両方とも仁美さんの大切な想いだから。わたしのたいせつな人だから。抱く想いは変らな
い。

 全部受け止めるから。喜びも悲しみも痛みも愛も、渾身で受け止めるから。安心して…。

 わたしは、どんなあなたでもたいせつ。
 わたしは、いつ迄もあなたがたいせつ。
 わたしは、あなたを癒し支え助けたい。

「わたしに、守らせて。身を尽くさせて」

 それは今迄わたしが仁美さんにされてきた。
 今はその想いをわたしが仁美さんに返す番。

 仁美さんの身体が、微かに震えていた。
 声だけではなく、魂が震わされている?
 わたし、傷つける事を言ってしまった?
 わたしに向ける瞳も声も、熱と震えに、

「馬鹿……。今迄碌に男子に恋した事がなく、女子に恋されて困ってきたあたしが、本気
で涙溢れさせたのが女子だなんて、年下の従妹だなんて、あたしは最高の馬鹿じゃない
か」

 わたしは言葉を挟まず、仁美さんの混乱も受け止める。それは仁美さんの心の整理を待
つべき物だ。わたしにどうこう出来はしない。わたしは唯仁美さんの肌に触れて、わたし
がどんな結論も受け容れる用意があるとだけ伝えつつ、月明りと共に時を待ち、時を過ご
す。

 わたしは、馬鹿も決して嫌いではない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 仁美さんの顔の傷は相当深い。現代医療では傷口は塞げても、痕を消し去るのは無理だ。
皮や肉を移植しても欠損が目に見えてしまう。それを血の力で賦活させ、筋肉や血管から
再生する。人体が持つ回復力を強く後押しして。

 簡単ではないけど、仁美さんがわたしに身も心も委ねてくれた今なら、不可能ではない。
成功の像も視えて来た。そこに辿り着けば…。

 田中医師は一日に二度回診に来る。他の怪我の様子も確かめ、顔色や肌艶や体温を診て、
何度か張り替えたガーゼの下の顔の傷も診て、

「容態は、良くなっているかな?」

「わたしには良く分りません。癒しの水の効果も、流石に即日は出ないと想いますけど」

 癒しの効果の見通しは口にしない。はったりと思われ信頼を失う以上に、真相に迫られ
る糸口は少ない方が良い。仁美さんにも真相は隠し通す。嘘つきは1人で良い。人に言え
ない真相を抱えさせるのは、心の荷物になる。

 仁美さんが少し不思議そうな声音と顔で、

「痛みも引きました。身も軽い。それと柚明に寄り添われてから、身体が妙に温かいの」

「体温が、平熱よりほんの少し高い様だね」

「何か気分が良いです。柚明に、好きな人に付き添って貰えている所為かも知れない…」

 仁美さんの頬の赤さは、わたしへの熱…?

「愛は心にも身体にも良く効く薬だからね」

 仁美さんはともかく、田中先生の返事は冗談なのか、本音なのか、その両方か。平日を
潰して二日目は、本格的に癒しを流し込み始めたので、その効果が徐々に現れ始めた様だ。

 左手同士を絡ませつつ、右手は頬に当てて、話しかけ頬寄せたりして癒しを続け。中断
は、医師の回診や互いの食事とトイレ、可南子ちゃん達のお見舞位で。面会謝絶の札は下
げられた侭だ。家族はともかく、友人一般の見舞を受ける程には安定してないとの判断ら
しい。

 サクヤさんは顔の傷が治ってない仁美さんの心情を慮って入室しない。仁美さんは素の
顔を可南子ちゃんに見せない為に表情が少し堅く、まだ心が立ち直れてないとの誤解を受
け入れ。立ち直りきってないのは事実だけど。

「ゆめいさん。お姉ちゃんを、お願いね…」

 お姉さんを案ずる気持と、お姉さんを早く取り戻したい心細さを両方受けて抱き留める。
可南子ちゃんがしっかりする事が、仁美さんの心の荷を軽くする事になると。仁美さんが
していた様に、その目の前で可南子ちゃんに頬を合わせ。それが仁美さんをも安心させる。

 繋げて見えた伯父さんと伯母さんの信頼を崩したのは皮肉にも、可南子ちゃんのわたし
に寄せてくれた信頼の故の申し出だった。

「わたしも、癒しの水をお手伝いしたいな」

 ゆめいさんも一日中じゃ疲れるよ。お水を付けるのならわたしでも良いでしょう。わた
しもお姉ちゃんが良くなる助けになりたい…。

 水が癒すなら寄り添うのが羽藤柚明である必要はない。可南子ちゃんでも仁美さん自身
でも。誰も水を信じない為わたしが寄り添って水を理由に肌に触れ続けたけど、誰かがそ
の話を信じるなら、水を預り患部に付ければ。

 困惑はそこ迄考えが及ばなかった事にある。迷信を素直に受け容れる人の存在は、予想
外だったから。信用がわたしの足場を崩す展開は想定外だったから。言葉も思考も詰まっ
た。この成り行きは、真実を偽装した事への罰か。

「駄目ですっ」「母さんの言う通りだ」

 伯母さんと伯父さんが反対する理由を可南子ちゃんは分らない。わたしを信じ、わたし
の話を受容した可南子ちゃんは、癒しの水を付ける手伝いで、仁美さんを治せると瞳を輝
かせ。伯父さんと伯母さんが水の迷信を信じてわたしに寄り添う事を許したと想っている。
大人の常識の堅さを子供は中々理解できない。

「あなたはお家で、お勉強があるでしょう」

「学校は休んだけど、何もしなくて良い訳ではないぞ。仁美の見舞を済ませたら、仁美を
心配させない様に、しっかり勉強しないと」

 伯母さんも伯父さんも癒しの水を信じてないし、子供にも信じて欲しくなく願っている。
迷信を持ち込むわたしを訝しみ、微かに警戒もして。それは子供を想う親の当然の反応だ。
わたしが真剣に可南子ちゃんと仁美さんを励まして通じ合えたから、心支えたからこの場
にいる無理を許されたけど。そうでなければ、サクヤさんがいてもわたしは門前払いされ
た。

「だって、ゆめいさんは学校休んでお姉ちゃんのお見舞しているよ。一日中寄り添って励
ましているよ。わたしももっとお姉ちゃんの近くにいたい。一緒にいて元気づけたい…」

 でもその申し出は、伯父さん伯母さんとわたしの間に確かに亀裂を生じさせ。生じた亀
裂を実感させ。実感させた亀裂を更に開かせ。心通わす位は認めても、子供の迷信への受
容を許したくない想いは、わたしも分る。心通わせたから逆に危うい。信じ込まされると
…。

 可南子ちゃんにそれを分ってとは求められない。可南子ちゃんは唯、わたしの仁美さん
や可南子ちゃんを大切に想う気持を信じ、お話を受け容れ、お姉さんの回復を願っただけ。

 水を付ければ良いのなら妹の己にも為せる。わたしが水を託して羽様に帰っても良いと
なる。お話を信じた故に辿り着けた簡潔な答に、可南子ちゃんは何故反対されるのか分ら
ない。

「駄目ですっ」「可南子がする事はない」

 今は伯母さん伯父さんの不信が助けだった。

 話を信じられ、受け容れられて、水があれば良いとなった時が最悪だった。わたしが付
き添う理由が消失する処だった。危うかった。明確な理由を告げられず、それを告げる事
がわたしとの決裂になると惑う伯父さんの前で、

「わたしがいる間は、わたしに付き添わせて欲しいの。我が侭だけど、わたしのお願い」

 わたしも可南子ちゃんにそれをさせてはいけない立場だ。伯父さん達への助け船ではな
く、わたしが仁美さんへの癒しを続ける為に、

「滅多に来られないから、来た時は全力で役に立ちたいの。可南子ちゃんは伯父さんと伯
母さんの言う事を聞いて、仁美さんを心配させない様に日々を過ごして」「……はぁい」

 伯父さんと伯母さんが理由を明言できず可南子ちゃんの納得を得られず、わたしが説諭
できてしまう状況も良くはない。迷信を持ち込むわたしへの可南子ちゃんの信頼が篤い現
状は、ご両親には決して良い物ではない筈だ。

 ほっとしつつ、伯父さんも伯母さんも目が笑ってない。わたしは可南子ちゃんに気付か
れない様に会釈したけど、その意思は固まっていた。それはいつか動き出す物だったから、
きっかけがあれば即座に。まず気持が幼く惑わされ易い年少の娘を、一刻も早く遠ざける。

「仁美は取りあえず大丈夫そうだから、可南子は明日から学校だ」「柚明ちゃんも……」

 それも早晩来るのは分っていたけど。非常事態が去れば人の動きも平時に戻る。可南子
ちゃんを学校に行かせると言う事は、もう仁美さんが危うい状態ではないから、わたしも。

「もう少しだけ寄り添う事を許して下さい」

 ひとまずその求めが容れられたのは、これ迄の経緯以上に、可南子ちゃんに癒しの水を
勧めなかった事が僅かに心証を良くした為か。仁美さんは年上だし、心も安定してきたか
ら、迷信に触れてもまだ大丈夫との見通しも窺え。

 伯父さん達も尚可南子ちゃんや仁美さんの心情への気遣いがあり、徐々に隔てる構えだ。
わたしはその思惑に逆らえない侭流されつつ、後もう少し残された猶予の中で為せる限り
を。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「人に言えない重荷を抱えているなら、わたしに言っても良いんだよ。誰にも言わない」

 夜十時以降は、仁美さんに寄り添えない。

 恵美おばあさんの病室に戻ると、おばあさんは起きて待っていた様で、わたしをベッド
に招き寄せ、左腕で軽く腰を抱き留めて労ってくれた。怪しい迷信を持ち込み、伯父さん
や伯母さんの心を騒がせたわたしを。でも…。

 愛しく有り難く想うけど、答えは返せない。
 嬉しく温かく感じるけど、真相は言えない。
 気遣って想って労ってくれても、わたしは。

「有り難うございます。……でも、大丈夫」

 想いの真を受けても、事の真は返せない。

 わたしの突飛で無軌道な所作を、受け容れてくれているのに。見守ってくれているのに。
わたしは唯腕を絡めて抱き返し、気付かれない様に弱めた癒しを注ぐ他には何も為せない。
真の苦味は、心を打ち明けられない己自身に。幾ら感謝しても、答は答の要件を満たさな
い。

 なのにおばあさんは笑みを崩さず頬を寄せ、

「言えない事情があるなら言わなくても良い。唯、わたしはあなたを大切に想っているか
ら。どんな柚明も受け容れるから。言えない事は言わなくて良い。その身と心を預けてお
くれ。気持を休ませて良いよ。柚明が言わなくても、言えない事でも、わたしは全部受け
容れた」

 おばあさんはどこ迄もどこ迄もわたしを。

「仁美と可南子の為に来てくれて有り難う」

 その受容が心を震わせる程に嬉しかった。
 全幅の信頼が身を包み込んでくれている。
 でもわたしはそれに満足に応えられない。
 心の底から想いを答で返したかったのに。

『確か、お父さんの実家もかなり遡ると、笑子おばあさんの血、羽藤の血に繋るって…』

 恵美おばあさんの母方の数代前らしいけど。おばあさんは言い伝えや昔語りで、羽藤の
贄の血の事を微かに聞き及んでいたのだろうか。

「柚明は、とても強く賢く、優しい子だよ」
「恵美おばあさん……わたしなんか、全然」

 恵美おばあさんこそ、本当に強さも優しさも限りない。わたしは支えて貰わないと折れ
そうな己の脆さを知っている。情けないけど、今は支えられてでも仁美さんを助けたいか
ら。

『ごめんなさい……。最後迄、言えないの』

 恵美おばあさんに癒しの真実は伝えられず、想いの真実を暫く抱擁で伝えてから場を外
す。居続けると、恵美おばあさんの優しさに包まれて、心の荷を下ろしたくなってしまい
そう。

 親身になってくれる人にも話せない。たいせつな人だから心に荷を負わせられない。わ
たしは罪深い存在だ。その苦味を噛み締めて、今は尚退く事を己に許せずに。心が重くな
る。

 人気のない窓際で、1人月明りを前に佇み。
 静かな廊下で、漸く心落ち着いた頃だった。

「流石に疲れたんじゃないかい」「大丈夫」

 サクヤさんの声に心が少し軽くなる。己を隠さなくて良い。繕わず装わず素の自分で応
対できる。仁美さんの気持が分った気がした。

 サクヤさんの行動は夜でも差し障りがない。むしろ昼より動き易そう。疲れたか否かの
問には、肯定でも否定でもなく事実のみで答え、

「一日掛けてかなり癒しを浸透させました」

 明日には目立って効果が現れ始める筈です。
 明日も今日位癒しの力を流し続けられれば。

「あたしは、あんたの心の疲れが心配だよ」

 肉体的な疲労は血の力を紡げば拭えるけど、精神的な疲れの方がさ。徐々に浩一さん達
の経観塚への帰りを促す想いが強くなっている。柚明も感じて居る筈だ。あんたの癒しを
誰も知らない。あんたのやっている事を分らない。あんたを病院に迷い込んだ子供としか
見ない。苦味はあんたの心を、徐々に蝕んでいる筈だ。

「出立の前に真弓が話していた『奇跡の超聖水』の前代表・不二夏美の轍を踏む事になら
ないか、あたしはあんたが心配なんだよ…」

 間近で軽く両肩を抑えられる。触れられてもサクヤさんに感応の力はない筈だけど、震
えや感触で心を見抜かれそうで、少し固まる。見下ろしてくる大きな双眸がわたしを映し
て、

「あんたはここでは愚か者だ。幾ら人に尽くして心繋いでも、怪しい迷信その物だ。公正
な人程あんたの話を否定し、子を想う親心があんたを隔てる。あんたは善意に囲まれつつ、
正に善意の故に、結局誤解されて報われず」

「……それは、感じています」

 遠くに住む子供のわたしに、ここに長居する理由はない。休日見舞に来るならともかく、
平日を潰すなんて尋常ではない。サクヤさんにいて貰っても。可南子ちゃんや仁美さんを
力づけても。いるべきではないわたしへの伯父さん達の許容は狭まっている。いつ迄も子
供の想いは通らない。明日も明後日も平日だ。

 それどころか、怪しい迷信を持ち込んだわたしを、伯父さん達は迷惑に感じ。可南子ち
ゃんが癒しの水の詳しい話を求め始めた為だ。それも信じさせたわたしが悪いとは分るけ
ど。

「あと少しだから。あともう少しだから…」

 わたしを支えて、サクヤおばさん。
 わたしも見上げてその瞳を正視し、

「今手を放しては意味がない。もう少し注がないと。あと少しで、顔の傷に癒しが及ぶ」

 心の傷が拭える。あともう少しなの。効果は見え始めている。あと一押しなの。お願い。

 仁美さんの強さに限りがあった様に、わたしの心も有限だ。でも今は退けない。今だけ
は人の助けを借りてでも、やり遂げなければ。

「わたしの為に、力を貸して!」

 見下ろすサクヤさんの顔と、口づけできる位近くで背伸びしてお願いするわたしに、

「……分った、分ったよ。羽藤の血筋に逆らえないのは、あたしの宿命なのかね。全く」

 サクヤさんをもう少し付き合わせてしまう。本当に、ごめんなさい。今度羽様に来た時
は、ガチガチの塩鮭を用意します。それと美味しいお酒も。わたしが呑んで吟味できない
ので、結局真弓さんの好みで選ぶ事になるのだけど。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明ちゃん……もう行く事は止めないから、出立の前に一つ、聞いて欲しい事がある
の」

 諦めの色を見せ、力を抜いていた真弓さんが微かな逡巡の後、敢て語る事を選んだ瞬間、
場の空気が再度引き締まった。非常に大事な、今からわたしが行く案件に関る事なのだろ
う。

 正樹さんが幼い双子を膝の上で寝付かせる前で、真弓さんはホラー雑誌をもう一度開き、

「あなたが今例に出した『奇跡の超聖水』の前代表・不二夏美は、わたしが切った癒しの
力を持つ、鬼だったの。本当、皮肉な物ね」

 それは以前の真弓さんに深く関っていた。

「真弓、あんた……」「真弓叔母さん…?」

「奇跡の超聖水については、知っていて?」

「確か、この団体の代表の不二宗佑という人が触った水に癒しの力が宿り、難病や心霊現
象に悩まされる人に効くと、この雑誌には」

 ホラー雑誌の広告が謳う侭を応えるわたしに、真弓さんは少し気力の抜けた声で頷いて、

「今は唯のインチキよ。今の代表には何の力もない。先代が作った実績と知名度に乗って、
何でもない水を売って、金儲けしているだけ。
 でも先代は違ったの。5年前に亡くなった、と言うより、このわたしが斬った先代は
ね」

「本物だったって、言うのかい? 先代は」

 確か5年少し前に突如行方不明になったって聞いたけど、あんたが関っていたとはねぇ。

 サクヤさんの問に真弓さんは静かに頷き、

「彼女は癒しの力を持っていた。贄の血の持ち主かどうかは分らないわ。彼女は幾つかの
病もその力で治していた様だし。贄の血の力とは由来の違う癒しだったのかも。でも…」

 大事な事は、彼女は元々人の苦しみや痛みを救いたい善意で癒しの力を揮い、『奇跡の
超聖水』を立ち上げたという事よ。柚明ちゃん、あなたの様に。人の為に役立とうとして、
癒しの力を世のみんなに及ぼそうとしたの…。

 想わぬ先達の存在に、わたしは真弓さんに瞳を吸い寄せられた。でも真弓さんはその人
を、斬った鬼だとも言っていた。どうして?

「終盤マスコミに叩かれていたのは知っているよ。治癒を名目に暴利を貪ったとか、治ら
ないインチキだと訴える会員とか、勝手な医療行為は法律違反とか、幹部の豪遊贅沢が酷
いとか、週刊誌やワイドショーで騒がれてさ。行方不明も、当初は報道陣から身を隠した
んじゃないかって、勘ぐる向きもあったねぇ」

「本人が出なくなってから報道の量が激減し、芸能人の離婚や政治家の汚職で話題も移っ
た様だね。その間に密かに二代目は組織を立て直して、今の形に持ち直してきていたと
…」

 ワイドショーを余り見ない正樹さんも多少憶えている様だ。わたしも大人の話に加わる
には、世界情勢に目を向けた方が良いのかな。

「夏美が居なくなった後の団体なんて、どうでも良いの。あの団体で本当に力を持ってい
たのは夏美だけよ。彼女抜きで団体を運営しても、それは鬼切部の関与する処ではない」

「何が、あったんだい?」

 世に怪しい癒しを謳う団体は星の数程ある。騙したい者と騙されたい者がいて、それら
は下支えされている。根絶は難しい。鬼切部は人に仇為す鬼を切る者で、悪徳商法や詐欺
を取り締まる者じゃない。実際人を治したからと言って、その真偽を騒がれたからと言っ
て。

 若杉や鬼切部が動き出す案件じゃない筈だ。
 サクヤさんはわたしをちらりと視界に収め、

「不二夏美に生じた事が、柚明に起り得ると、あんたは恐れている。それは、何なんだ
い」

「……彼女は、人の世に、絶望したのよ…」

 組織幹部が夏美への癒しの取次に、膨大な金品を依頼人から貪って懐に入れ、豪遊して
いたのは確かね。癒しの水の売上に目が眩み、夏美が力を込める前の、唯の水が売られて
いたのも事実よ。でもそれ以上に夏美に対するバッシングは、病院や製薬業界をバックに
し、誰かを叩いて注目を浴びたい人の思惑による。

 夏美の家族や親族の所在を明かし、抗議文書を殺到させる。暴力団を使って団体幹部を
買収・脅迫し、情報をリークさせる。テレビや雑誌で告発し、悪のイメージを植え付ける。

『私は確かに彼の糖尿病は治した。でもガンは治せなかった。それは言ってあったのに』

『私が治したから職場に復帰出来た人が、その後職場で受けた怪我を私の所為と偽って』

『私が治せないと断った人が、脅迫され金を取られて治らないと、テレビに向けて喋る』

「サクヤが言う様に、世に鬼の様な人は数多いの。例えそんな恩知らずな証言がなくても、
雑誌やテレビは証人を捏造しても、報道を止めない。意図があるから、利害が絡むから」

 夏美の善意で始った奇跡の超聖水は、効果を上げたのに、否むしろその故に、雑誌やテ
レビに非難され。その想いは自らの団体幹部にも理解されず、治し救った人々に裏切られ、
自身の家族や友人を傷つけられ、引き離され。

「善意を叩き折られた夏美は、鬼に成った」

 善意を分って貰えない世間に、絶望して。

「鬼という物はね、生れついての鬼よりも、人のなれの果てとしての鬼の方が、遙かに多
い物なのよ。敵陣に入った将棋の駒が、裏返って別の働きをする駒になる様に……」

 夏美は先行きに絶望し、そう追い込んだ雑誌記者やテレビクルーへの報復に走った。募
る憎悪で自らを鬼に変え、善意を利害で圧殺する世の中へ復讐を。癒したにも関らず証言
を翻し嘘八百並べた会員や、裏切った幹部を。

 行方不明は、報復の為に鬼と化した為なの。でも、鬼切部にはむしろそれは都合良かっ
た。斬った為に行方不明になるより、その前から行方不明だった方が、隠蔽工作は巧くで
きる。

「世間は複雑に絡まっている。善意が効果を上げる事が困る者や嫌う者もいる。柚明ちゃ
んが人を想う気持は分るけど、そんなあなた故に、夏美の哀しみや怒りも分るでしょう」

 サクヤの記事が掲載されて尚事実と扱われない様に、少女連続傷害の容疑者が無実の罪
迄負わされ地域住民が安心する様に、あなたが水の迷信で従姉を騙し癒す事は可能だけど。
あなたが無理解の壁に窒息する怖れもあるの。

「本物の癒しの力を持つあなた故に、無理解な常識人の中で、あなたは心傷つけられる」

 あなたの善意が本当に美しいから。本当に無私だから。無理解な人々に叩き折られた時
がわたしは怖い。仁美さんも家族も医師も誰もあなたの真を知らず、信じず誤解し曲解し。

「わたしは、あなたを失いたくないの…!」

 出来れば行って欲しくない。力を揮って欲しくない。ここで平穏無事に過ごして欲しい。
ここでならわたしが守る事も叶う。庇う事も。あなたが無理する必要も力を揮う必要もな
い。

 本当に真弓さんはわたしを案じてくれて。

「でも、どうしても行かねばならないなら」

 真弓さんは美しい双眸をわたしに注いで、

「心を強く保って。そして折れそうな時はサクヤに縋って。あなたは1人じゃない。わた
しはあなたの助けに一緒に行けないけど…」

 あなたは決して1人じゃない。あなたが招く結果が何でも、わたし達は受け容れるから。
柚明ちゃんとして、このお屋敷に帰ってきて。白花や桂が待つ羽様にわたし達の家族とし
て。

 わたしは、ここ迄たいせつに想われている。
 わたしの、帰りを待ってくれる人達がいる。
 わたしは、この温かい想いにも応えないと。

 必ず全て成功させ、たいせつな人、桂ちゃんや白花ちゃんの待つこのお屋敷に帰り着く。

 たいせつな人がいる限り、戻る場所がある限り。わたしの心は、絶対に叩き折られない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 三日目の昼少し前、恵美おばあさんの病室前でわたしは、閉じた扉の向うから『聞える
声』に身を固くした。お昼を迎える前に恵美おばあさんの様子伺いをと想ったのだけど…。

【柚明ちゃんがあんな迷信を信じる子になるとは想わなかったわ。学校も休んで。お勉強
やお友達関係が、巧く行ってないのかしら】

【サクヤさんも甘すぎる。大人なら、保護者の顔をする位なら、子供の我が侭を抑え諭し、
迷信から目を醒まさせるべきだろうに。子供の戯言を抑えられず引っ張られて来るとは】

 伯母さんと伯父さんが、わたしへの不審を恵美おばあさんに相談していた。病室から漏
れる想念が『聞えて』しまった。それはわたしへの想い故に、壁越しでも聞き取れたのか。

【これも経観塚の笑子さんの影響かしら?】

【3年前のあの時、やはり柚明ちゃんはウチで引き取った方が良かったのかも知れない】

 わたしへの不審は、わたしの行動を許したサクヤさんや笑子おばあさんに迄及んでいた。
愚か者扱いとは、わたしの周囲も家族迄もそう扱われる事だった。わたしは、共に暮らす
たいせつな人達をも愚か者に巻き込んでいた。

 違うと反論も出来ない。わたしは迷信を信じる愚か者でなければならない。サクヤさん
も、それに付き添う大甘な愚か者でなければ。癒しの水の怪しい迷信を、羽様の屋敷は承
知で送り出したと。それは笑子おばあさん迄を。

 わたしだけが愚か者で済む話ではなかった。わたしの家族・守り支えてくれる人も込み
で愚か者にしなければ、事は成し遂げられない。わたしは羽様のみんなも誤解させ貶めて
いた。

 子供の浅知恵で、わたしだけが愚か者なら良いと思っていた。そうではなかった。わた
しは未だに大人の庇護の元にある子供で、身に及ぶ悪評や不評は共に暮らすみんなに響く。
正樹さんも真弓さんも、それを皆承知で送り出してくれた。分ってないのはわたしだった。

 わたしは、本当に愚か者だった。
 沈むわたしの耳に、尚届く声は、

【ゆめいの想いも、分ってあげて】

 伯父さんと伯母さんの不審の想いに棹さしたのは、ベッドの上の恵美おばあさんだった。

【あなた達が娘を案じる気持は分るよ。でも、ゆめいが従姉妹を想う気持も、分ってあげ
て。ゆめいは両親も兄弟もいない。あなた達や可南子や仁美が家族よ。その一大事に黙っ
ていられない気持は、今のあなた達こそ分る筈】

 迷信を分ってとは言わない。ゆめいの想いを分ってあげて。迷信に縋ってでも力になり、
助けになりたいゆめいの想いを。あの子は唯学校や勉強を放り出してきただけじゃない…。

【両親を目の前で奪われたこの病院に、あの時から来た事のないこの病院に訪れた想いは、
尋常じゃない。ゆめいにはそこかしこに奪われた父母の想い出が視えている筈よ。それに
向き合って、敢てここに留まり続けている】

 仁美と可南子の為に。あなた達の娘の為に。
 それは実際仁美と可南子の心を繋ぎ止めた。

 迷信は効果を出さなくても、ゆめいの想いは効果を上げている。サクヤさんの言う通り、
ゆめいが遙々来てくれた意味は確かにあった。例えこの侭、癒しの水が成果を上げなくて
も。

【わたしはその想いを受け止めたいし、あなた達にも受け止めて欲しい。大切な孫だしね。
ゆめいも、いつ迄も居られない事は分っているよ。頃合を見計らって、わたしが話すから。
今はもう少しだけ、見守ってあげて頂戴…】

 恵美おばあさん迄含めて迷信で騙しているわたしに、言える事は何もない。心を騒がせ、
心配させ不安に思わせた事に、申し訳なくて。理解を得られないのはわたしの所為だ。理
解される筈ない話を持ち込んだわたしの所為だ。

 わたしは、伯父さん達を不安に陥れている。それを拭う術もなく、真相を話す事も出来
ず。

 時間切れは近い。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 食欲も湧かず、仁美さんの病室の前迄戻ったわたしは、廊下の隅に若い男性の影を見た。
左手を包帯で吊った、リーゼントの髪型に黒い学生服は、平日日中の病院では良く目立つ。

 若者は、仁美さんを訪ねようとして訪ねられず、引き上げる処だった。面会謝絶の札の
有無に関らず、顔向けできないとの想いがやや丸まった背中に視える。遠くに後ろ姿を見
ただけだったけど、わたしは躊躇わなかった。

「待って……!」

 わたしが追いつけたのは、正面外の駐車場でだった。呼び止められていると想ってなか
った彼は、息の上がったわたしに怪訝そうで。

「お願い! 仁美さんに、逢ってあげて…」
「おお、お前、仁美の、妹か何かなのか?」

 その右手を両手にとって、病院に引っ張り戻そうとするわたしに驚いて、問い返すのに、

「あなたじゃなきゃ駄目なの! 仁美さんに本当に立ち直って貰うには。わたしでは及ば
ないの。勝沼省吾さん、お願い。仁美さんに逢って力づけて、支えて励ましてあげてっ」

 仁美さんの三つ年上の恋人。仁美さんはわたしの三つ年上で、何かと大人で色々と教え
て貰う事が多かった。更にその三つも年上で。小学生から見ると高校生は大人に近い。背
丈も高いし肩幅も広いし、触った感じ腕も太い。

 初対面の人に、挨拶抜きに話に入ったけど。わたしも余裕がなかった。わたしはもうす
ぐ経観塚に帰される。仁美さんの弱さも受け止めて支える人が必要だった。その顔に負っ
た傷を恐れず嫌わず、寄り添う人が必要だった。わたしに及ばないこの先を、見守る人が
……。

「あなたが何度も病室の近く迄来ていた事は、知っています。あなたが今も仁美さんを大
切に想い、事故を申し訳なく想っている事も」

 彼は伯父さんに追い払われた後も、仁美さんが気になって、何度も病室間近迄来ていた。
わたしがここを訪れた早朝、可南子ちゃんと夜間診療窓口で逢えたのも、様子を窺いに来
た彼の後を、気付いた可南子ちゃんが怖々つけていた為だ。その後も仁美さんに間近に接
したわたしは、何度か彼の気配や後ろ姿を…。

 彼は入れなかったのだ。伯父さんの拒絶の為ではなく、仁美さんへの申し訳なさの故に。
彼の運転にミスはなかったけど、仁美さんを乗せていて怪我させた事実は彼を苛んでいた。
全身に酷い怪我を負わせ、顔に深い傷を刻んだ事実は、仁美さんに向き合う心を萎えさせ。

 左腕を吊り、痛みの中で、病室の前迄訪れた想いは、仁美さんを気遣う心は確かだけど。
見かけの怖さや装いが、驚きで抜けた今は素の彼が見える。でも彼は、内心の優しさ故に、
仁美さんに顔を合わせ得ず。今もここ迄来て、

「逢える訳ないだろう。仁美を、ひーをあんな目に遭わせたのは、この俺なんだから…」

 姿を見る事もせず引き上げようとしていた。
 打ち拉がれた仁美さんを見るに堪えないと。
 仁美さんは彼の来訪を待ち望んでいるのに。
 両手で握った省吾さんの右手に、力がない。
 わたしはそんな彼の手首を尚も強く引いて、

「病室に入って逢ってあげて。仁美さんに声を掛けて、その涙を見て。泣き声を受け止め、
叫びを聞いて。仁美さんの奥に隠れた、誰にも明かさない弱さと脆さを支えてあげて…」

 彼の傷を抉る求めを発していた。初対面でなくても躊躇うべき願いだったかも知れない。
己の罪を、その目で見ろと言うに等しいから。わたしは仁美さんのたいせつな人に酷い事
を。仁美さんの傷を癒す為に、彼の傷に踏み込んで心を苛んで。必死になればなる程、誰
かを想えば想う程、わたしは人を傷つけてしまう。

「仁美さんの哀しみも怒りも苛立ちも受け止めてあげて。わたしでは及ばない。わたしに
は全部を叩き付けてくれない。年下のわたしを気遣って、仁美さんは尚心を抑えている」

 わたしでは本当に仁美さんの支えにはなれない。年下に支えられても仁美さんは嬉しく
想う一方で苦味を感じる。己の弱さを責めてしまう。歳は追い越せない。仁美さんの真の
求めは年上の守ってくれる人だ。弱さも脆さも情けなさも抱き留められる、自然に仁美さ
んが身を預けられる、より大人の人でないと。

 わたしでは届かない。いっときの代役になれても、本当に立ち直らせるには。幾ら心開
かせても、幼い頃から守る対象だった年下の従妹に守られる事に、仁美さんが馴染めない。
その上わたしはもう、長くここにいられない。

「お願いします。わたしのたいせつなひとを、助けられるのはあなたしか居ないの。仁美
さんが頼って縋り付けるのは、あなただけ…」

 仁美さんを支えて。一番辛い今こそ寄り添って守ってあげて。一緒に苦難を乗り越えて。
仁美さんを抱き留めるのは、わたしのこの腕じゃ足りないの。省吾さんの太い腕じゃない
と、仁美さんは本当に身も心も預けられない。わたしがサクヤさんや真弓さんを頼れても
白花ちゃんや桂ちゃんに縋る己を許せない様に。

「傍で心を受け止めてあげて。お願いっ…」
「ダメだよ。俺には出来ないよ。そこ迄…」

 省吾さんは、その髪型や姿には似合わない程弱気な色を両目に浮べて、腰を引き気味に、

「そこ迄ひーを想うあんたが受け止められない心を、俺が受け止めるなんて。俺は、俺の
所為で傷つけてしまったひーが、嘆き悲しむ姿を見るのに耐えられない。怖いんだ、俺」

 俺が誘ったんだ。免許も取って金貯めて漸く買ったバイクに、最初に乗せたいって俺が。
ひーは少し怖がって、でも俺が強く望んだから乗ってくれて。運転ミスがあったかどうか
じゃなくて、俺がひーをバイクに乗せたのに。

「ひーの父さんにも母さんにも、顔向けできない。元からこんな俺がひーの彼氏だなんて、
名乗れる訳ない事は分っていたけど、でも」

 ひーは俺を憎んでいる。恨んでいる。嘆き悲しんで、俺を拒む。どうしてバイクに誘っ
たのと罵ってくる。俺はそれに応えられない。俺は唯、ひーに喜んで欲しかっただけなの
に。

「重すぎるよ。俺には、耐えられないよ!」
「仁美さんそれに耐えているの。今1人で」

 省吾さんが来てくれる事を、心の底で望み。諦めた振りしているけど、わたしに応えて
心奮い立たせるけど、諦めきれてない。あなたが来てくれれば誰のどんな励ましよりも利
く。

「今こそ仁美さんを支えてあげて。仁美さんが一番辛い今だから、省吾さんが必要なの」

 わたしが田中先生に許しを貰うから。
 伯父さんと伯母さんにお話通すから。

「仁美さんを想う気持を見せて伝えて。形にして確かに触れて。仁美さんは省吾さんの優
しさも弱さも分っているけど、尚来て欲しいと願っている。お願い、気持を抱き留めて」

 振り解こうとする手を強く握るけど、彼はその手を更に強く振り解く。本気になった高
校生の腕力は、わたしでは捉え続けられない。

「俺、ダメだよ。やっぱり向き合えない!」

 省吾さんは身を翻し、病院から遠ざかる方向に走り去っていく。人は必ずしも思い通り
にならないと幼子に教えられたわたしだけど。話し始めた時点で結末は瞼の裏に浮んだけ
ど。

 子供の腕力では彼の身を捉えられない。
 わたしの声では彼の心を引き戻せない。
 やはり視えた定めは変えられないのか。

 追っても届かないと分って追って走り出す。
 しかし間もなく足から力が抜けて倒れ込み。

「いたっ……!」

 舗装路面で右の掌と左の膝を、すりむいた。
 掌とスカート下の素足と地面を朱が染める。

 大した出血ではないけど、省吾さんを見失った。追い縋れないのも変え得ぬ定めなのか。
癒しの力を紡げば自身の傷はすぐ治せるけど。この程度の疲れや脱力はすぐ立て直せるけ
ど。

 それ以上に、気配を辿ってでも追いかける事を諦めたのは、彼に仁美さんと向き合う意
思がない故で。彼は確かに仁美さんを大事に想い好いているけど、罪悪感や怯えの方が強
くて、わたしのお願いでは心動いてくれない。心優しいけど、それは己への優しさでもあ
り。

 人には皮を肉を裂かないと助け得ない時がある。外科手術の様に、痛みを乗り越えない
と解決できない場合がある。痛みを全て避けては、潜む病巣に触れられない事も。厳しさ
を伴えない優しさは、危急の時人を救えない。

 わたしが居られなくなる前に、彼に寄り添って欲しかったのだけど。仁美さんの心を支
え、治る喜びを共にして欲しかったのだけど。2人で乗り越えて絆を結んで欲しかったけ
ど。

 彼が病院に背を向けて去る像は視えても尚。今の後ろ姿は視えていても尚。無理と分っ
ても叶わないと感じても、望みを繋ぎたかった。わたしとではなく、仁美さんが大切に想
った彼と、苦難や痛みを乗り越え希望を繋ぐ事を。

 定めはやはり変え得ないのか。或いはわたしが力不足なのか。視えた通りに定めは進む。
傷の治癒も後回しに、わたしは病院へ引き返す。病院でも来るべき定めが迫りつつあった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ああ、柚明かい……あんた、その膝小僧」
「大丈夫です……。わたしは、大丈夫……」

 病室には伯父さんと伯母さんとサクヤさんがいた。ベッドには今誰もいない。仁美さん
は緊急検査に運ばれて行ったと言う。サクヤさんも伯父さん達も、言葉を交わした訳でも
顔色を見た訳でもないから状況を分ってない。この中では昼少し前迄付き添ったわたしが
…。

「ご家族に、田中先生から容態の説明を…」

 年配の看護婦さんが掛けてくれた声に、伯父さんは頷いてからわたしに視線を向け直し、

「仁美は私達の娘だ。私達で容態を聞く…」

 仁美さんの容態を急変させた責任を問う目線が突き刺さる様だ。伯父さんも伯母さんも、
子供がいない状況以上にわたしを遠ざける事への躊躇いを拭い去って。強い隔意が視える。
2人には悪い結果を招く元凶はわたしだった。

「ここ迄やれば充分気も済んだだろう。母さんは夕方退院する。君が病院に居続ける場所
もなくなる。……経観塚に帰った方が良い」

 町外れの屋敷に泊る選択肢を外している。

 とりつく島がなかった。明快にわたしを拒んでいた。これも間もなく来ると分っていた
けど。伯父さんはわたしから視線を上に向け、

「これ以上はウチの問題だ。お引き取りを」

 背後にいるサクヤさんに向けて宣告する。

 サクヤさんはわたしの心情を思いやってか、珍しく惑う様子で、後ろからわたしの右肩
に左手を触れさせつつ、視線を向ける。それにわたしは首だけ振り返らせて斜めに見上げ
て、確かにその綺麗な双眸に向けて頷いてから、

「お騒がせして、申し訳ありませんでした」

 為せる限りの事は、やり終えましたから。
 両膝の前に手を揃え、深々と頭を下げる。

 左膝と右手が血と埃に汚れていて、少し格好が悪い。それが今のわたしの心境と立場を、
表していたのかも。傷も治せず疲れも拭えず。与えてしまった不審や疑念も拭い去れない
で。

 もう留まれはしない。受忍の限度だった。
 仁美さんの容態説明は、わたしに不要だ。
 ここが引き際なのだろう。羽藤柚明には。

「経観塚に、羽様に帰ります」

 サクヤさんはわたしの即断に少し驚いた様子だった。でも、いつかこうなる話だったし、
幾ら抗って泣いて縋っても、伯父さんからも伯母さんからも、最早許しも譲歩も貰えない。

 この像も視えていた。今日来るか明日来るかの違いで、朝来るか昼来るかの差で、避け
られない定めだった。わたしは今迄許容して貰えた事に、感謝の想いを込めて頭を下げて、

「仁美さんと可南子ちゃんに、宜しくお伝え下さい。暫く、来られないと想いますので」

 伯父さんも伯母さんも迷信に憑かれたわたしを、今迄の様に快く迎えない。真相を隠す
為に望んで誤解を招いたわたしはそれを解かない。故にわたしは今後町に来ない方が良い。
法事でも見舞でも、来ても泊らず終電で帰る。泊っても町外れのお屋敷に泊らず、ホテル
か旅館を。それで伯父さん伯母さんの心を安んじるなら。迷信の元凶が居なければ良いな
ら。

 無言の頷きにわたしはもう一度深々とお辞儀をしてから、身を翻し病院の正面出口へと。
サクヤさんと2人で駐車場の赤兎の前迄来て、とうとうわたしの想いの風船が、弾け飛ん
だ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「どれ……傷口を見せてみな」

 赤兎に積んだ薬箱から、左膝と右掌に絆創膏を貼られる。掠り傷だけど、今のわたしは
血の匂いを隠せ、少量撒いてもすぐ乾くから鬼を呼ぶ心配もないけど。サクヤさんに気遣
われ触れて貰えるのが嬉しい。駐車場近くの花壇の縁に腰を下ろし、サクヤさんに間近に
向き合い、わたしは為される侭にそれを受け。

「これで、良かったのかい」「……うん…」

 この擦り傷の事じゃない、仁美の事だよ。

 サクヤさんに念押しされるけどわたしは、

「うん……これで、良かったの。きっと…」

 やや力のない疲れた声だと自身でも想う。

「仁美の容態は、訊かなくても良いのかい? あたしも浩一さん達も運ばれた直後に来た
から、仁美が今どんな様子か掴めてないんだ。あの場で閉め出されてはあんたも状況は
…」

 サクヤさんはそこではっと気付いた様子で。
 あんた、様子が視えたのかい? それも…。

「あんたが必死で縋ったり力になろうと張り付かず、気が抜けているって事は、浩一さん
達に言われる侭に引き離されたって事は…」

 はい。サクヤさんの読みは、正しいです。
 今度は、明るい笑みを浮べられたと想う。

 容態の急変は、悪化ではなく劇的な改善だ。わたしの注ぎ込んだ癒しが傷を再生修復し
始め、現代医療で考え難い事態を迎えて緊急検査になった。完治はまだだけど、傷口を塞
ぐのではなく、失われた体組織を取り戻し、勿論傷口も閉じ、傷痕も綺麗になくする方向
に。注ぎ続けた癒しの力が、本格的に効き始めた。

「じゃあ、田中医師の容態説明ってのも…」

 わたしは良くも悪くも脱力した顔で頷き、

「良くなりつつある事の説明です。田中先生はわたしの同席を期待したでしょうけど、わ
たしは逆に問い質される事を望まないから」

 即席の迷信に深く突っ込まれると、化けの皮が剥がれ、真実の扉を開けかねない。伯父
さん達がわたしを外してくれたのは、良い頃合いでした。今身を引けば、今ここを去れば、
それで終れる。医師の質問や興味の届く処にいるのは好ましくない。それは好転した結果
を見た伯父さん達の質問や興味にも同じ事で。

「でもあんた、折角良くなった状況を前に」

 あんたの行いの成果が漸く見えた今なのに。
 拒まれ、追い返された侭で良いのかい柚明。
 今行けばあんたも迷信の水も功労者なのに。
 サクヤさんの言いたい事も想いも分るけど。

「癒しの力を認めて貰う事が目的ではないの。感謝や労いを欲して出向くのではありませ
ん。
 唯助けたい、役に立ちたい。褒められなくても感謝もなくても、気付かれなくても知ら
れなくても。仁美さんが元気にさえなれば」

 わたしは大丈夫。わたしは誰かの目の届く処で尽くして喜ばれたい訳じゃない。いつの
間にかいなくて、気がつけば話題から消えて、知らぬ間に遠ざかっていて良い。報いは自
身の中にあるから。わたしが分っていれば良い。

「今日か明日に、ここを離れる積りでした」

 来る前からこの末は承知です。迷信で偽装し訪れる以上、快く迎えられない事も、快く
終れない事も。出立の前と同じ言葉の連なりを語るのは、その想いに尚揺らぎがないから。

 わたしは大切な人を取り返したかっただけ。
 わたしは大切な微笑みを守りたかっただけ。
 想いや感謝が返る事を期待した訳でもない。
 わたしが愛したい想いの侭に愛しただけだ。

 わたしは仁美さんに役立てて正解だったし、その為に真実を装った事も、その故に受け
た誤解も苦味も寂しさも、全て承知の話だった。

 サクヤさんの溜息が一つ。問は尚続いて、

「でも、仁美の治癒は道半ばだ。今離れたら、今後の治癒にあんたの癒しは及ばない事
に」

「為せる限りの事は、やり終えましたから」

 わたしは先程の言葉を繰り返しつつ、スカートのポケットから、力を失って青の薄くな
った青珠を取り出し、サクヤさんに見せると、

「今のわたしは、青珠に力も注ぎ込めます」

 癒しの力を貯める事も抜き出し使う事も。
 サクヤさんはそれで事が大凡分った様で、

「あんた仁美の身体に大量に、その場で治しに使う以上に力を注いで、貯めてきた訳かい。
あんたが傍にいなくても、経観塚に帰っても、仁美がその傷を痕迄きっちり治して尚余る
癒しの力はもう、昨日今日で注ぎ終えたと…」

 青珠の分も引っ張り出して注いだと。
 頷いた瞬間、両肩を両手で掴まれた。

「だからあんた、この程度の掠り傷も治せず、自然な止血を待つ他なかったのかい。その
疲れを拭い切れてない顔つきは、血の力を一時的に使い切って、己を癒せなくなった為
と」

 わたし、そんなに疲れた顔していますか?

「精神的な物かと想っていたけど、あんた実際は身体も一杯一杯だったんじゃないかい」

 両肩を固定する腕の力が強くなる。視線がわたしの無茶を叱る様に睨む。サクヤさんの
わたしを想う真剣な気持は、叱責でも嬉しい。心配させてしまった事には、申し訳ないけ
ど。

「生物の身は呪物に似ています。と言うより、呪物こそ唯の物を生命に近い状態に為した
物。呪物に力を貯める様に、自身の内に癒しの力を紡いで貯める様に、生きた人の身にそ
れを及ぼし貯める事も、今のわたしは可能です」

 憶えたてなので効率は良くないですけど。

「わたしは仁美さんをその場で治す為に傷に力を注ぐ一方、全身にも力を浸透させました。
それは身体の各所の他の傷を治し、疲れを拭い、活力を呼び起こし、互いに連動し合って
生命全体を賦活させ、傷を治し疲れを癒す」

 更にそれで尚消費しきれない量の癒しを身体の奥に、内臓や骨や筋肉に注ぎ込み、貯め
込ませ。それは今後徐々に放散されて体内を循環し、残った傷を数日かけて癒すでしょう。

「青珠、持ってきて正解でした。笑子おばあさんは、この事も予測していたのかな…?」

 成し遂げられた笑みを映す様に空も蒼い。
 心を染める程に蒼く突き抜けて瞼に痛い。

「ここに長く居られない事は分っていました。サクヤさんに付き添って貰えても、平日を
何日も潰せはしない。幾ら力を注いでも傷の治癒には時間が掛ります。わたしがいられる
間、出来るだけ長く寄り添う事を望んだのは…」

「仁美に貯まる程癒しの力を注ぐ為だったのかい。あんた、それで自身空っぽにして!」

「休めば力は復します。半年前に両親の仇の鬼と闘った時も、瀕死の重傷を五日位かけて
完治させた後、三日位力が空になりました」

 今即この力が必要な状況なら別ですけど。

「日常生活を送るに差し障りはありません」

 笑顔なのに瞳に差し込む空が清冽に過ぎ、

「でも、幾ら癒しの力の限りを尽くしても」

 届かない事って、あるんですね。

 微かに肩が震えていた。否、震えは心から。
 笑みが歪む。気持が崩れる。瞳が揺れて…。

 肩を抑える腕が解けるのと、わたしがサクヤさんの胸に飛び込むのは、ほぼ同時だった。

「……わたしは、無力です……!」

 沸騰する想いを、抑えきれない。
 自制が弾け飛ぶ。心が飛び出す。
 わたしは元々そんなに強くない。

 サクヤさんの背に腕を回して、ひしと抱きついて、抱き留めて貰って、滴が頬を伝う…。

「傷は治せても、心は癒せない。幾ら踏み込んで受け止めても、わたしは子供で届かない。
 わたしに本当に仁美さんを立ち直らせる事は出来ない! 幾ら想いを受け止めても、相
手がわたしだと年下で、仁美さんは自身を情けなく感じてしまう。歳は追いつけない…」

「柚明、その涙は浩一さんや佳美さんの応対への憤りや真実を言えない悔しさじゃなく」

「自身の力の足りなさが悔しい! 助けたい人の助けに及ばなかったこの結果が悔しい」

 省吾さんを、仁美さんが弱さも脆さも晒け出し、心預けられる人を、わたしは呼び戻せ
ませんでした。子供の腕力では引っ張って来られない。子供の訴えは聞き入れて貰えない。

 サクヤさんも面倒に巻き込んで。折角毎年この時期に、お仕事調整して来てくれるのに。
わたしは、その想いに応えられないどころか。

「サクヤおばさんも笑子おばあさんも、一緒に愚か者にしてしまいました。水の迷信に惑
わされるわたしを野放しにする、同類だと」

 ごめんなさい。ごめんなさい! わたし、

「こんな事になるなんて……。わたしが愚か者になるのは分っていたけど、サクヤおばさ
んや笑子おばあさん迄、たいせつな人迄も」

 その誤解は最期迄拭えない。終生背負わねばならない。いつか明かせる類の事ではない。
白花ちゃんと桂ちゃんの将来を守る為に、一生封じ隠し通さねば。汚名挽回の機会はない。

「恵美おばあさんも田中先生も、あんなに優しくしてくれたのに。怪しい迷信を信じない
侭受け容れて貰えたのに、何も返せない…」

 伯父さんも伯母さんも、唯迷信から子供を守りたかっただけだ。常識外れで理解されな
い事を為したのはわたしの方だ。可南子ちゃんはわたしを信じる余り水の迷信まで受容し
つつあった。それを嘘ともわたしは言えない。わたしはもうあの家に近寄るべきではない
…。

 沢山の想いを返せない侭、真実を伝えられない侭、隠し通す。悪いのは、わたしだった。

「みんなにわたし、謝る事も出来ない…!」

 真実を伝えて、謝る事も出来ない。サクヤさんや笑子おばあさんには謝れるけど、でも。
その他の人には、事実を伝える事が出来ない。

 癒しの力の存在を他の人に知らせられない。白花ちゃんと桂ちゃんの、羽様の家族みん
なの為に、贄の血の力は伏せなければならない。でも仁美さんを何とかして助けたかった
から。わたしのたいせつな人だったから。可南子ちゃんの涙声を捨て置く事は出来なかっ
たから。

 だから水の迷信をでっち上げて、嘘をついて癒しに来ました。でもみんな事情を知らな
いから、知らないから、わたしだけじゃなく、笑子おばあさんやサクヤさん迄を愚か者だ
と。

 どれかを拾えばどれかが落ちる。
 どこかを繕えばどこかが綻びる。

 選べてもわたしはこの途しかなかった。
 これが変えられない定めなのだろうか。

「でも、でもわたし、頑張ったよ」

 届かせる限り、及ぶ限り精一杯。
 癒しの力の限りを、尽くしたよ。

 背に回るサクヤさんの抱き留める腕が尚強く締まり、頬が大きな胸に一層深く沈み込む。

 仁美さんの顔の傷はもうすぐ完治する。
 仁美さんはもう自身の手首を切らない。

 可南子ちゃんはお姉さんを失わない。伯父さんも伯母さんも娘を失わない。恵美おばあ
さんも孫を失わない。わたしは運命をねじ曲げた。3年半前たいせつな物を失ったここで、
今わたしはたいせつな物を失う定めを書き換えた。反動が為したわたしに返るのも当然か。

「無力でも子供でも、出来る限り頑張ったよ。多くの涙を流される前に止められたよ。流
す前の涙なんて誰も知らないし気付かないけど、わたしはそれで良いから。たいせつな微
笑み、守れたよ。みんなの幸せ、取り返したよ…」

【誰かの為に、役に立てる人生を、柚明も】

 わたしは幾ら誤解されても良い。わたしは愚か者でも怪しくても構わない。結果が残れ
ば良い。わたしのたいせつな人の幸せと守りが残れば、わたしは何物であっても構わない。
この守りも支えも、気付かれる必要さえない。

 それがわたしの幸せだから。たいせつな人の幸せがわたしの幸せ。報いは自身の中にあ
るから。守れた事が喜びだから。わたしは…。

「心折られないよ。わたし、不二夏美にはならない。サクヤさんが、いてくれるからっ」
「柚明……」

 きっと彼女には、わたしにとってのサクヤさんの様な人が居なかった。だから絶望して、
鬼に成ってしまったのだ。わたしは鬼にならない。真弓叔母さんの心配は杞憂に終らせる。

「たいせつな人がいるから。守りたい人がいるから。人の心を捨てて復讐に生きるなんて、
出来ない。わたしは今たいせつな人の為に」

 成せなかった事への悔しさはあるけど、自身の力不足への悔しさはあるけど、為せる限
りは届かせたから。癒しの力の限りは尽くしたから。もうこれ以上できる事はない。だか
ら今はサクヤさんの胸の内で、思い切り涙を。

 たいせつな人を愚か者にさせてしまった事への悔いの涙を。取り戻せない過去への涙を。

 サクヤさんはそんなわたしを唯抱き留めて、零れる涙も受け止めて、暫く無言で温もり
を。

 長い抱擁が、密かに定めの筋を替えていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 田中医師と省吾さんが、駐車場に駆けつけたのは、暫くの後だった。この組み合わせも
そうだけど、田中医師が患者でもないわたしを病院の外迄追い求めたのも、尋常ではない。

 田中医師は、仁美さんも交えて伯父さんと伯母さんに検査結果を示し、容態の急激な改
善、傷口が組織から再生し塞がりつつある事を、現代医療で説明が付かないと率直に認め、

『柚明ちゃんは、なぜこの場を外して…?』

 伯父さん達の気まずい表情を問い質した。

 伯父さん達は、仁美さんの視線にも問われて経緯を答えざるを得ず。それを知った時…。

『どうして? 彼女は誰よりも仁美君の回復を願っていたのに。水の迷信を信じるか信じ
ないかは別として、彼女の想いが仁美君の心を繋いだのに。あれ程身を尽くしていたのに。
例え癒しの水が良い成果を出さなくても、その結果には、立ち会わせるべきでしょうに』

 医師の職権は越えていた。田中医師がわたしを外迄追い求めた真因は、水の効果への興
味より、3年半前にわたしのお母さんと妹を救えず、その結末を伝えられなかった事への、
贖罪なのかも知れない。今度こそ最後迄知らせるべき事を余さず伝えると。正面玄関から
走り出た医師は、小学校高学年位の女の子を見かけなかったかと、道行く人に尋ねまくり。

『小学校高学年……黒髪でおかっぱの子?』

 わたしを振り切った後も、やはり逡巡して病院の近くを歩いていた勝沼省吾さんに逢い。
彼はわたしがサクヤさんと駐車場に引き上げる様を、遠目に見ていた。赤兎の間近でサク
ヤさんに抱かれるわたしに2人は辿り着けた。

 この展開はわたしの関知には視えなかった。
 定めとは必ずしも絶対ではないと言うけど。

 わたしの見通す力が未熟なのか、2人の行動が定めの前提を越えていたのか。泣き顔も
抱擁も心の脆さも余さずに見られたわたしは、サクヤさんと共に是非戻って欲しいとの田
中医師の要請を断れず、仁美さんの病室へと…。

 望ましいけど望めなかった流れが加速する。
 退院を控えた恵美おばあさんの目の前で、

「柚明ちゃん、ごめんなさい。緊急検査と聞いて、悪い方にばかり想像が働いちゃって」

「冷静に対応出来なかった。申し訳ない…」
「伯母さん、伯父さん、謝らないで下さい」

 謝られる様な事は、何もされていません。

 伯父さんと伯母さんが、わたしを迎えて頭を下げるのを止める。誤解の因はわたしの方
にある。伯父さんも伯母さんも何も悪くない。でも、多少の無理も聞いてくれそうな状況
に、

「仁美に逢ってやって欲しい。仁美は私達の柚明ちゃんへの対応に気落ちした様子でね」

「寂しそうな目をして口を利いてくれないの。激しく怒るのとも、泣き叫ぶのとも違うけ
ど、わたし達の問いかけを明らかに受け流して」

「仁美さんが本当に求めているのは、わたしではありません……」

 サクヤさんや田中医師の前からは逃げられなくて、一緒に来て貰った省吾さんに、伯父
さんと伯母さんの前に出て貰って、紹介して、

「仁美さんのたいせつな人です。事故に遭わせてしまった事を謝りたいと、何回も病室の
近くに来ていました。どうか仁美さんに、直に謝る事を許して下さい。お願いします…」

 深々と下げた頭をわたしは再び上向かせ、

「仁美さんはわたしより、省吾さんに会う事を真に望んでいます。省吾さんも仁美さんを
大切に想っています。交際を認めるかどうかとは別に、彼の謝罪を受けてあげて下さい」

 わたしへの後ろめたさを抱くなら、それをここで使わせて貰おう。戸惑う2人に向けて、

「す、すんませんでしたっ……」

 逃げられなくて、と言うより漸く謝る場を得て省吾さんが伯父さん達に謝罪する。恵美
おばあさんや田中医師やサクヤさんの前で尚、必死に謝る者を門前払いはしづらい。事故
直後と違って、仁美さんも容態に改善が見込め、伯父さんも心落ち着いていた。謝るなら
今だ。

 愉快そうではなかったけど、伯父さんと伯母さんが省吾さんの病室入りを認めたのは、
その少し後の事だった。恵美おばあさんが意外と好意的な事も、要因だったかも知れない。

 恵美おばあさんは人の真を見抜く人だった。人の所作に事情や理由や説明や背景を求め
ず、唯その想いを感じ取れたら全幅の信をくれる。3年半前に両親を失ったわたしを経観
塚に引き取ろうとサクヤさんが申し出た時も、今回わたしが水の迷信を申し出た時も。そ
こに真の想いが宿るなら、人に言えない諸々を込めての申し出なら、その想いを信じ任せ
きれる。

 今は省吾さんの申し出を静かに受け止めて、

「いきなり入ったら驚かせるから、ゆめいが一緒に入ってやると良い。あなたが結んだ2
人の縁だし、仁美はあなたにも逢いたい筈」

 伯父さんと伯母さんは尚省吾さんに好意的ではないので、逆にわたしの付き添いが緩衝
剤になった様だ。サクヤさんに目を向けると、

「あたしは、やっぱりまだ遠慮するよ。治りつつあると言っても、顔に傷がある乙女はや
はり多数に姿見られる事は望まないからね」

 かくして入室はわたしと省吾さんの2人で。

 わたしが望み求めてきた事が実を結び行く。みんなの理解と協力で。癒しの力の限りを
尽くしても、子供の知恵も身体も立場も非力で全然充分とは言えないけど。それでも時に
は、

【決意が、運命を切り開く事があるんだよ
 決意が、及ばない筈の何かに届く事もね】

 想いが届く事も世にはあるのかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ごめんよ、ひー。こんなに遅くなって…」

 ベッドに寄り添い省吾さんはおずおずと、

「俺が言い出して乗せたバイクで、俺が左腕骨折で済んだのに、ひーの方が重傷で、顔に
深い傷を負って。……俺、もう、怖くてさ」

 ひーの父さん母さんに顔向けできなかった。
 謝る言葉も慰める言葉も探し出せなかった。
 仁美さんの左手をその右手で怖々と握って、

「泣き叫ぶひーの顔が瞼の裏に浮んで、哀しみ苦しむひーの声が耳に聞えて俺、怖くて向
き合えなくてさ。小学生に叱られてしまった。苦しいのは俺じゃなくひーなんだって、当
たり前の事言われた。俺、かなり情けないよ」

 一瞬だけ、2人の視線がわたしに向いた。

「来られない時間がひーを更に哀しませると分っていて俺、今迄ひーの前に来れなかった。
俺が向き合うの怖かったから。ごめんよ…」

 田中医師やサクヤさん迄巻き込んだ流れで、漸く彼は逃れられず、伯父さん達とのクッ
ションを得て、ここに来られた。そうでなくば、彼単独の勇気では、伯父さん達に面して
も…。

 巡り合わせの幸運と、言うべき物だろうか。

 省吾さんは己にも厳しく出来ない人だったけど、自身を見つめ返す言葉には真があった。
それを仁美さんに隠さず打ち明ける素直さも。仁美さんは握られた腕を振り解かずに見つ
め、

「省吾が優しくて小心な男だって事は分っていたけどさ。こういう一大事に巧く応対でき
ないタイプだってのは感じていたけどさ…」

 その表情は良くも悪くも力の抜けた感じで、

「本当だよ、こんなに遅くなって。手遅れになってから……、間が悪すぎるよ省吾は…」

 窘める口調が、声が微かに涙ぐんでいる。

「あたしが一番辛い時を脱して、傷が治り始めてから来るだなんて、なんて間の悪さだい。
 傷心と絶望の淵にいる彼女に、寄り添い励ましてこそ彼氏だろう。無理だと分っていて
も、望みがなくても抱き締めて口付け、その心を繋いで救い上げるのが、恋人だろう。絶
対治る、絶対治すと。嘘でもはったりでも」

 その上で治らなくても、どんなあたしでも大切だって包み込んでくれた小学生もいたよ。
流石にあたしも、そこ迄は求めないけどさ…。

 省吾さんの手を握り握られた侭、仁美さんの視線がわたしを向いた。省吾さんの視線も
釣られる様に、ベッドの右側に立つわたしに向く。わたし、恋人の見本になっちゃった?

「良くなり始めてから見舞なんて、誰にも出来るよ。漸く良くなり始めた直後に来るなん
て、意図してないのは分るけど間が悪すぎ」

 相当きつい言葉だけど怒りは籠もってない。

 顔の傷はまだ残っているけど、回復を仁美さんも実感し始めている。表情の安らかさは、
省吾さんが来た為だけではない。彼に見せられる姿に戻れる希望が仁美さんを落ち着かせ。

 省吾さんの前で取ったガーゼの下の傷口は、わたしが見た時より確かに縮小を始めてい
た。

「まあ、あたし程度の女の彼氏なら、それがちょうど良いのかね。あたしが省吾だったら、
やっぱり多分、顔を傷つけた彼女に向き合って謝るなんて、怖くて出来なかったから…」

 自分に出来ない事を人に求めちゃいけない。恵美おばあさんの教えだよ。だから自分に
出来ない事をする人は心から尊敬に値するって。

 仁美さんはわたしと省吾さんを交互に見て、

「あたしは所詮省吾に見合う程度の女だった。そして省吾もあたしに見合う程度の男だっ
た。釣り合いの取れる関係ってのはこの事かね」

 苦味も込めた、でも受容を込めた笑みで、

「もう少し早く、柚明に呼び止められた時に、勇気を出してあたしを見舞に来ていれば、
省吾は一番辛い時から奇跡の回復に寄り添えて、最高のサクセスストーリーだったのに
…?」

 そこで仁美さんの身体がピクと固まった。
 わたしの左手を握る右手が瞬時硬直して、

「あんたまさか、今日省吾を呼び止めに行ったのは、直後にあたしが治り始めるって…」

 あたしを口づけで慰めたり、癒しの水で傷を治したり、今回のあんたは妙に冴えていた。
傷を治す見通しだけじゃなく、いつ治り始めるかも、そこに省吾が付き添えばあたしも元
気づけられて、省吾も勇気づけられて、2人の絆も深まると、あんた何もかも見通して?

 省吾さんの目線も驚きに見開かれるけど、

「そんな事が子供に出来ると想いますか?」

 わたしは彼女の問には肯定も否定もせず、

「わたしは、省吾さんの背中を見て追い縋っただけです。リーゼントの髪型をして左腕を
包帯で吊った学生服を見たら、分りました」

 唯事実で応える。少なくとも嘘ではない。
 仁美さんの双眸はわたしを見定め瞬いて、

「……そう言う事にした方が良いみたいね」

 もう一度脱力感に浸り直す。信じるのでもなく疑うのでもなく、あるが侭を受け容れる。
一見気楽そうに、でも確かな絆を感じさせる強い握りでわたしの左手を掴んで、放さずに、

「有り難う柚明。あんたが、省吾をここ迄引っ張ってくれた。あたしに繋ぎ直してくれた。
省吾迄励まして。あたしの心も繋いでくれた。生きる望みを戻してくれた。顔の傷迄も
…」

 あんたには、今回は迷惑のかけ通しだね。
 そう言ってくれる仁美さんに、わたしは、

「お節介の限りも尽くして、ごめんなさい」

 恋人関係は周囲が促したり阻んだりする物ではない。互いに好き合っていると視えても、
場を整えたり状況を用意する位はしても、抱く想いを勝手に代弁する行いは拙い。それは、
当人の意思と言葉とタイミングで為すべきだ。

「これで2人が巧く行かなかったら、わたしの所為になる処だった……」「良いんだよ」

 仁美さんは、やや力を戻した強気な語調で、

「柚明の訴えから逃げ出す省吾を、あたしは要らない。柚明さえ居れば、あたしは良い」

 2人きりにすべき頃合いを探って、身を引き気味だけど左手を握られ動けないわたしに、

「あたしが惚れた柚明の必死の求めを振り切る様な、振り切って帰って来ない様な男なら、
金輪際要らない。例えあたしを向いてくれる最後の男でも、あたしが心から惚れ込た柚明
を傷つかせ、満足に応えない奴は願い下げ」

「仁美さん?」「ひー……?」

 二つの戸惑う声を前に仁美さんは微笑んで、

「……省吾は、ちゃんと柚明の想いに応えてここ迄一緒に、来てくれたじゃないか……」

 別の意味で、わたしは2人の絆を間一髪で繋ぎ止めたのかも知れない。省吾さんもわた
しも、返す言葉に詰まって互いを見つめ合う。

 仁美さんは右手でわたしの左手を頬に当て、

「柚明はあたしの絶望の奥迄踏み込んで、救い上げてくれた。あたしの痛みも苦しみも承
知で尚生きてと望んでくれた。身も心も抱き留めて、どこ迄もたいせつだと伝えてくれた。
あんな厳しく優しい愛は見た事がない。された事がない。あたしが可南子にも出来ない」

 あたしの辛さにも哀しみにも、どこ迄も寄り添うと。唯生きろではなく、あたしの生き
る苦しみを一緒に受けて分ち合うと。1人じゃないから諦めないでと。心震わされたよ…。

 取り返したい守るべき物の重みに釣り合う迄、あんたは自分自身も躊躇う事なく抛てる。
苦しみも痛みも、喪失も哀しみも、恐れない。大切な物を守りたい想いの侭に、己の全て
を。

「惚れ込んだよ。今迄可南子と同じく守り庇う相手に見ていたけど。妹の様に想っていた
けど。心の強さも人を想う深さも、優しさも厳しさも、全てあんたの方が上じゃないか」

 外そうとしないで。省吾の前でも気遣う必要はない。あたしはここに、柚明に居て貰い
たいんだよ。柚明への想いを省吾に聞いて欲しいし、省吾への想いも柚明に聞いて欲しい。

 意思の宿る双眸が、窓から差し込む赤光に細くなる。でもその唇は閉ざされる事なくて、

「あんたがあたしの惚れた一番だよ、柚明」

 一呼吸置いてから、反対側を見上げると、

「そして、男の中では省吾があたしの一番」

 仁美さんの、確かな真意が紡いだ言葉に、

「ひー……?」「……仁美さん、有り難う」

 省吾さんがどう返すべきか分らずに惑う様を見て、わたしはまず仁美さんの視線を受け、
その右手をしっかり握り返して応えて、次に、

「省吾さん……」

 仁美さんの一番、分け合っちゃいましたね。
 やや高い位置にある、困惑の表情を見つめ、

「わたしは、仁美さんの気持は嬉しいけど…。
 省吾さんは、やはり1人で仁美さんの一番になる事を望みますか? そうであるなら」

 頑張って下さい。わたしは譲りませんから。
 笑みは余裕の故ではなく心からの激励故に。
 仁美さんに想われている事実は否定しない。
 仁美さんの想いをわたしが否定は出来ない。
 その想いが確かに嬉しい自身も否定しない。

 そしてそう想われる限りわたしはそれを受け容れる積りでいた。自ら求めはしないけど、
そう促す気もないけど寄せられる心は嬉しい。拒む積りもないし、勝手に譲れる物でもな
い。

 だから省吾さんが仁美さんの一番を勝ち取れる様に、頑張ってと。仁美さんの単独一番
をわたしから奪える様に、頑張ってと。仁美さんの自然な心が省吾さんの想いに応え、彼
を一番に想ってくれるなら。仁美さんが彼を想い想われる事で、もっと幸せになれるなら、

「それもわたしは嬉しいから。幸せだから」

 子供のできる事に、限りはあるけど……。

「仁美さんも、仁美さんを愛し愛される省吾さんもたいせつに想い、助け守り支えたい」

 省吾さんが答に詰まり目を白黒させている。
 仁美さんは苦笑いしつつ意外と冷静だった。
 故にわたしは戸惑う省吾さんに声と視線を。

 仁美さんの幸せはわたしの幸せ。省吾さんの幸せもわたしの幸せ。2人が結ばれて幸せ
になるならそれがわたしの幸せ。仁美さんの想いは受け止めるけど。想いの限り返すけど。

「それは別に、省吾さんが仁美さんに抱く想いや、仁美さんが省吾さんに向ける想いを阻
む物でも何でもないわ。そうでしょう…?」

 同時に2人好きな人が出来ただけの話だ。
 それはわたしも羽様で二年前から経験中。

 最年少のわたしが言う言葉ではなかったかも知れないけど。子供は怖い物知らずだから。
一番の想いも愛も、独占が自明の理ではない。分け合っても持ち合っても、それが互いに
望む姿なら、受け容れて貰えるなら、幸せなら。

 そう想えるわたしはまだ子供なのだろうか。
 省吾さんが気の抜けた受容の溜息を漏らす。
 仁美さんが苦笑を込めた頷きを返してきた。
 三つの頬を染めつつ夕陽が西に落ちて行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしとサクヤさんは、仁美さんの完治を待たず経観塚へ帰る。伯父さん達は町外れの
お屋敷に泊っても良いと、言ってくれたけど、

「学校、いつ迄も休めませんし……」

 それは決して皮肉ではなく事実だった。明日も明後日も平日だ。いつ迄も空けていられ
ない。白花ちゃんも桂ちゃんも待たせている。伯父さん達の言っていた事こそ、正解だっ
た。

 為せる事は終えた。わたしがここに残っても暫く癒しを紡げない。今から赤兎で走れば、
夜明け前には羽様に着く。明日は少し辛いけど早く帰れば早く真弓さんを安心させられる。

「今度は休日、お見舞に来て良いですか?」
「いつでも来て頂戴ね、歓迎するから……」

 恵美おばあさんより先に、伯母さんがそう応えてくれた。仁美さんの顔の傷が治り行く
事を己の事の様に喜び、今は迷信でも何でもわたしを迎えたい心境になって、危うい程だ。
わたしの両手を両手にとって胸の前で合わせ、

「可南子と仁美の為に、また来てあげて…」

 伯父さんも頷いてくれたのは、最後にわたしが癒しの水に、少し疑念を見せた所為かも。

 田中医師に劇的な容態の改善を前に、癒しの水について少し聞きたいと訊ねて来たけど、

「あの水、あれからどうも効かないみたい」

 わたしは擦りむいた左膝と右掌を示して、

「水をつけても、掠り傷なのに一向に塞がる気配がないの。水が傷口に染みて、少し痛い。
切り傷にも擦り傷にも効くってお話なのに」

 水の迷信を本当に信じる人が出ても拙い為、持ち込んだわたしが若干の疑念を蒔いてお
く。

 田中医師は不思議そうに首を傾げながら、

「やっぱり効いたのは愛の力だったのかな」

 それ以上の追及をしてこなかった。わたしは最後迄彼にも本当の事は言えなかったけど、
彼は騙された振りを受け容れてくれたのかも。

 世間には全部知って尚知らないふりで、敢て受容してくれる人もいる。恵美おばあさん
の様に、心の繋りを強く信じる事で子細を問い詰めない人も。わたしはその懐の大きさに、
助けられ、支えられ、守られて救われてきた。

 仁美さんを救えたのはわたしだけの力ではない。多くの人の支えと助けで、わたしが為
せる状況を作り支えて貰えての、この結果だ。過剰な自信は抱かない様に。増長しない様
に。そして今回誰より一番お世話になった人は…。

「さて、もう一度経観塚へ夜逃げかね」

 病院駐車場で恵美おばあさん達に見送られ、帰り道もわたしを赤兎に乗せて羽様へと進
む。

 毎年この時期に、わたしの為にわざわざ仕事を調整して訪れてくれる銀の長い髪の人は、
面倒に巻き込んだ事に不快のそぶりも見せず、

「折角のお休みを何日も棒に振らせちゃって、ご免なさい。羽様のお屋敷で真弓叔母さん
や笑子おばあさんと、正樹叔父さんや白花ちゃんや桂ちゃんと、愉しく過ごせた筈なの
に」

 わたしが助けを必要とする子供でいるから。
 サクヤさんに、いつも迷惑をかけてしまう。
 わたしが無力な子供である事が、情けない。
 早く大人になって、サクヤさんを助けたい。

 口に出さなくても、顔には出ていたのか、

「まあ、時間ならあたしは飽きる程あるし」

 気にしてないよと流してくれる。わたしはそんな優しくて美しいサクヤさんに甘えすぎ。
運転席の開けた窓から吹き込む風に、つやつやの白銀の長い髪がふわっと踊る。登り始め
た月明りの蒼と疎らな街灯に照されるその生々しさに、視線を奪われ思考を奪われる間に、

「ちょっと車を降りてくれるかい、柚明…」

 赤兎は町外れの、人気のないトイレ併設の駐車場に止まっていた。余り長い間走った様
ではなかったけど、生理現象は止められない。止めるのは車の方なのは当然として、わた
しに車を降りてとは……何か告げる事がある?

 何かの像を紡ぎそうになり、わたしはかぶりを振ってその発動を妨げる。サクヤさんが
今からわたしに為す事を、先に視るのは望ましくない。それはわたしが直に向き合うべき。

 車を降りて、ドアを閉める。駐車場のライトは頼りなく、他に車もいないアスファルト
の薄闇を照すのは、実質蒼い月明り。雲もない中、サクヤさんを蒼く躍動的に染めあげる。

「少しの間、目を閉じておくれ」「……?」

 何を為されるか訊ねたい想いが、全身に見えたと想う。これからそれを為してくれるの
に、数秒を待てずに胸が早鐘を鳴らし始める。無粋に問いたい心を抑え、サクヤさんの行
いに身も心も預けますと、立ちつくした侭静かに瞳を閉じて口も閉ざす。間近な真顔の声
が、

「少しだけ、大人にしてあげるよ」「……」

 大人扱い? わたしに何をしてくれるの?

 左手の指だろう。わたしの顎をくいと持ち上げて固定された。冷たい指の感触に、ピク
と震えたのは緊張の為だ。怖れの為じゃない。大人扱いはわたしの望みだ。怖がる筈がな
い。唯、身体が一本の針金になった様な緊張感が。

 微かな吐息が感じ取れる。間近に覗き込まれている。月光に照されるサクヤさんは瞼の
裏に思い浮べるだけで美しい。強くて綺麗で可憐で優しくて時に厳しくて。何より大人で。

 わたしが大人になれるって、もしかして…。
 心臓が脈打って、緊張が身体を痺れさせる。
 それはわたしの唇に静かに降りて軽く触れ、

「……?」

 触った。触られた。わたしの唇に、それは。
 微かに期待した柔らかな感触ではなかった。

 それは手先の爪なのだろうか。少し硬質な。
 わたしの上唇の右から左に、すっと走って。
 左から右へこの下唇を走って、去って行く。

「目を開いて良いよ」「……?」

 きょとんとした顔を見せたわたしに、サクヤさんは懐から左手で手鏡を取り出して見せ。

 映っていたわたしの顔は、

「ルージュ……わたしに?」

 派手すぎない口紅が、わたしを彩っていた。

「少し遅れてしまったけど、昨日も一昨日もとてもこれを出来る状況じゃなかったから」

 鏡から目を放して改めてサクヤさんを見つめるわたしに、口紅の入った小箱が手渡され、

「十二歳の誕生日おめでとう、柚明」
「……サクヤおばさん、有り難う!」

 そうだった。サクヤさんが晩秋必ずわたしを訪れてくれる理由は。両親と居た時は町の
家に、経観塚に住んでからは羽様のお屋敷に、サクヤさんは仕事も私生活も調整し、必ず
わたしを訪ねてきてくれた。わたしの誕生日を祝ってくれる為に、わたしの成長を喜んで
くれる為に、わたしが大人になる様を見守りに。

 その好意をフイにしてしまったのに。わたしの我が侭で羽様と町を駆け回らせ、面倒を
押しつけ、愚か者扱いまでさせたのに。それでも尚、サクヤさんはわたしをたいせつに…。

「あんたは他人を守れる力と心の強さを身につけた。確かに人を守り、取り返した。半年
前は桂と白花を、その後には平田詩織を、そして今回は仁美と可南子を。あんたは大人以
上にしっかりした、強く優しい女の子だ…」

 長くしなやかな腕がふわりと上から降りる。
 しゃっと髪を掻き回す様に強く撫でられる。

 そう思ったけど、それは頭に降りず、わたしの両肩を軽く抑え。くしゃっと髪を掻き回
して強く撫でるのが、サクヤさん流の愛情表現で、挨拶だったのに。桂ちゃんと白花ちゃ
んには先日夕刻も常の如くそうしていたのに。でも今はそれを不思議に思わない自身が居
て。

「あたしが思っていたよりずっと早く、賢く優しく、強く綺麗になって。僅かな間に…」

 両の肩を確かに抑え、語りかけてくれる。
 サクヤさんには、3年も瞬きの間なのか。

 わたしには、大人に届かない日々は遅々として進まない蝸牛の歩みで、嘆かわしいけど。

「あんたが大人になる日を、あたしは待てる。歩みが止まらない限り、絶望に沈まない限
り、あんたがあたしの柚明である限りいつ迄も」

 だから今は焦らず、もう少し子供の歳月を楽しみな。子供の日々も二度と戻りはしない。
あんたは大人になる事を急ぐ余り、大切な子供の日々を素通りしそうに見えて、気掛りだ。

 人は誰も一足飛びに大人になる訳じゃない。子供の頃の失敗や後悔の積み重ねが、必要
な事もある。何もかも大人の対処を憶えて巧く為そうとするあんたは、却って危なっかし
い。

「もっと子供を受け容れて楽しみな、柚明」

 それは決して悪じゃない。怠惰ではない。あんたの大切な幾つかの約束や誓いに反する
物じゃない筈だ。あんたを更に豊かにする、一見回り道だけど必要不可欠な心の糧なんだ。
人には時に、無駄も回り道も要る。

「あたしが大人のいい女になる迄、一体何年掛ったと思っているんだい? 柚明に3年や
5年で大人になられちゃ、立場がないよ…」

 少しずつで良い。一気に全部は要らない。

「あんたは今、微かにあたしに、別の何かを期待していた様だけど……?」「……っ!」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

 両肩を抑えられ逃げ場がない中、サクヤさんの言葉も視線も吐息も全部身に吹き付ける。
瞳は真正面で、視線を外す事も出来なかった。サクヤさんはわたしより一枚も二枚も上手
だ。

「簡単に全部大人にさせないよ。あたしの可愛い柚明を、簡単に大人にさせて堪るかい」

 大人のあんたも綺麗で放っておけないのは目に浮ぶけど、子供のあんたは今が旬の時期
限定だ。心ゆく迄味わわないと、勿体ない…。

 二本の腕に招かれる侭に抱き寄せられる。
 心臓の高鳴りは羞恥よりも嬉しさの故に。
 体温は月明りの涼やかさを弾き飛ばす程。

 抱き寄せられて間近に見えるのは、艶やかな首筋だ。わたしはその抱き寄せに僅かな逡
巡の後、逆に身を乗り出して顔を首筋へ付け。心を預け、身を預け、わたしの想いを繋げ
て。

「あ……。柚明、あんた……!」

 サクヤさんは身を離してからわたしの企みに気付いた様だ。今のわたしが、さっき迄の
わたしではない事に。子供のわたしなら幾ら抱きついても顔を寄せても全然問題ないけど、

「キスマーク、付けられちまったよ……」

 しなやかな腕に抱き寄せられ、艶やかな首筋に顔を押しつけられ、いつもの様に為され
る侭で。わたしはたった今塗って貰ったばかりの口紅を、鮮やかにその柔肌に記していた。

「あんた今躊躇ったのは、気付いていたね」

 あたしも遂に、柚明に奪われちまったよ。

「少しだけ、大人にさせて貰いました……」

 ふふっ、ごめんなさい。今拭き取ります。

 流石にこの侭羽様のお屋敷に着いたらサクヤさんも恥ずかしい。何よりわたしが恥ずか
しい。更に血の巡りを多くしつつポケットからティッシュを取り出すのに、サクヤさんは、

「こんな悪戯する奴を大人とは言わないよ」

 言いつつわたしの悪戯心とその結末に微笑みを返し、首筋に伸ばすわたしの手を止めて、

「これは暫くこの侭付けとくかね」「え?」

 羽様の屋敷で笑子さんや正樹にこれを見せつけるのも、悪くはないさね。真弓がどんな
顔を見せるやら、ちょっとお楽しみだねぇ…。

 逆にわたしが困惑に固まった。そんな逆襲をしてくるなんて。それって、自爆テロです。

「その反応を前にしたあんたの顔を、酒の肴にするのも良いかね」「サクヤおばさん!」

 おっと、拭わせはしないよ。この唇の印はこの身に記されたあたしの物だ。渡した口紅
の使い途があんたの自由な様に、記された印の使い途もあたしのやりたい放題、好き放題。

「お望みならもっと記しても良いんだよ…」

 ティッシュを持った手は絡め取られて自由が利かず、間近に艶やかな首筋が差し出され。
俯いた顔は多分真っ赤だと想う。理屈はサクヤさんの方が通っていて、腕力では叶わない。
わたしに残された反撃の方法は、一つだけだ。最早それは反撃と言えないかも知れないけ
ど。

「……許しを、貰えましたから」

 わたしはサクヤさんのキスマークの付いてない側の首筋に顔を寄せ、唇で確かに触れて、

「柚明、あんたねぇ……」

 流石にサクヤさんも、そう来るとは思っていなかった様だ。悪戯が過ぎたかも知れない。

 消す事が出来ないなら、どうせ恥ずかしいなら後は同じ。想いを全て形に為す。驚きに
瞳を見開くサクヤさんに身を預け、心を預け。晩秋なのに身体中が熱く滾って湯気が出そ
う。

 帰り着いた後の事は考えない。子供は後先考えない生き物だ。サクヤさんの促しに従い、
わたしは今宵は見通しも心配りもなく、その場その場の想いに正直な、子供心に身を委ね。
そんなわたしの背をしなやかで長い腕が包み、わたしの腕はいつの間にか寄り添う人の背
に。

 サクヤさんの驚きはいつの間にか拭われて、

「まぁ偶には、痛みや哀しみを抱き留める以外の抱擁も、あって良いかも知れないね…」

 それはもう一つの誕生日プレゼント。癒しの力の限りを尽くした、わたしの頑張りへの
サクヤさんからのご褒美だったかも知れない。

 降り注ぐ声音がわたしを満たしてくれる。
 早く大人になりたいと望むわたしだけど。
 その想いは今も抱き続けて変らないけど。
 今少しなら、子供でいるのも悪くはない。


「癒しの力の限り(前)」へ戻る

「柚明前章・番外編」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る