第9話 想いを届かせた故の(後)


「経観塚は田舎町だ。犯罪だって多くない」

 警備員の仕事は車両誘導や夜の防犯カメラ監視と巡回や万引き防止だ。強盗逮捕や不審
者尋問の様な事柄は、警備員の仕事じゃない。速やかな警察への通報が、最善の対応なの
に。

「職分を外れ、身なりの少し奇抜な人に職務質問して怒らせ、責任者出せって騒がれて」

 彼が全部悪い訳じゃないかも知れないが。
 警察官気分が抜けてなくて揉め事の種に。

 警官を辞めた時期と言い、旦那の荒っぽい噂と言い、近所の噂やお前の見た幼子への応
対と言い。中学生が割り込んで何とかなる事じゃない。聞き入れて貰えなかったんだろう。

「大人に正面から拒まれた以上、中学生の手に負えない。もう1人で無理はするな羽藤」

 唯でもこの冬から無理し続けているのに。
 予想外の指摘に流石にわたしも固まった。

 冬休みのあの事の詳細迄は知ってなくても。
 沢尻君も佐々木さんもわたしの瞳を見据え、

「冬休み明けに、2日続けて休んだだろう?
 3日目に出てきたお前は、一見普段と変りなく見えたけど、気付かない奴の方がむしろ
多かったけど。少し、様子が違ったんだよ」

 なんて言うのかな。妙に男に積極的なんだ。恋するとか何とかじゃなく、手を繋いだり
肩に触れたりと言った日々の仕草で、誰とは限定せず、男子全般に意図して多く触れよう
と。

 お前は前から噂が出る程、女と近しかったけど。それは別に女限定じゃなく、広田や飛
鷹にもそうだから、気付かない奴が多かったけど。三学期からお前は意図して男に触れに
行っていた。触れて肌に馴れさせたい感じで。

「一年の時の塩原先輩との関りを思い出したんだ。お前はあの一件が終った後、むしろ積
極的に塩原先輩と仲直り求めて行っただろう。話が通じる相手だと自分に言い聞かす感じ
で。羽藤って、嫌いなニンジンを最初に選り分けて全部食べちゃうタイプだからさ」「…
…」

 文彦がお前に付き合い申し込んだのも多分。あいつ羽様小の頃からお前を好いていたか
ら。中学に来て、お前が女と様々な噂纏わせている事に戸惑って、ずっと言い出せないで
いて。

「それが今年2月に入ってから突然動き出し。映画観るとか、ハック行くとか。お前は今
迄も男女の誘いに応じていたけど。あいつは感覚で、お前の様子が変ったと気付いたん
だ」

 わたしは、自身で想っていたよりも人に緻密に気遣われ、心配され、見つめられていた。
それは突発的な異変ではなく日々の心がけだから、変動ではなく常態だから、関知や感応
にも特段引っ掛る事もなく、今迄来ていたと。

「わたしも博人に言われる迄、確かに分らなかったんだけどね。真沙美さんと和泉さんに
は、お話ししたんでしょう? 2人のあなたへの応対も、あの後微妙に違っていたから」

 小さく頷く。その2人に話して沢尻君や佐々木さんに話せてなかった事に、申し訳なく。

「良いのよ。別に、そのこと自体は。誰にもクラス全員への公開は躊躇う話しもあるし」

 どうして打ち明けてくれないのとか、全部話してとか、問い詰める積りはないわ。話す
事が傷口を開いちゃう事もあるし。あなたはそれでもわたしを大切に想ってくれているし、
わたしもあなたを大切に想う気持は変らない。

「鴨でも和泉でも、話せる奴がいて受け止めて貰えているなら問題はない。だから別に俺
も華子も、その事は話題にしてこなかった」

 微妙な案件になればなる程話せる相手は限られる。その枠に入れなかった2人が尚わた
しを気遣ってくれていた事に、嬉しさと申し訳なさに身が竦む。そんなわたしに彼は尚も、

「唯、想像するに今回の相手はその嫌いなニンジンの極めつけじゃないか?」「……!」

 2人の本当の心配は過去ではなく現在に。

「男の子に慣れ親しんで埋め戻す様な何かがあったなら、塩原先輩の時の様に敢て積極に
心を立て直している最中のあなたには、青島家の主人は正に傷口そのものじゃなくて?」

 厳つい姿形、筋肉質な手足、強靱で屈強で。

「俺は塩原先輩とお前の事情は知らないけど。今回はそれにも増して分らないし、教えろ
と迫る積りもないけど」「あなたが嫌いなニンジンを貪る姿は、わたしにも博人にも危う
く見えるの。あなたは未だ無理を終えてない」

 その上尚他人の為に無理を被るのは止めて。
 あなたは常に人の為に無理をこなしてきた。

 今回もそうなら。真沙美さんや和泉さんを庇った様に、誰かの為に傷ついた末の今なら。

 まず自分を守って。あなたはわたし達のたいせつな人なの。博人にもわたしにも、真沙
美さんや和泉さんにも大切な、愛しい人なの。あなたがこれ以上心を痛める様は見たくな
い。

「お願い。わたし達の為に無理はしないで」

 事情を明かさなかったわたしの手を握って、潤んだ瞳で語りかけて。本当に佐々木さん
も沢尻君も、申し訳ない程に勿体なく有り難い。その真摯な想いに、強い情愛に、深い想
いに、

「有り難う。佐々木さん、沢尻君。わたし」

 想いはしっかり受け止めます。叶う限り無理しない。この深い想いを無駄にしない様に。
強く賢く優しく愛しいわたしのたいせつな人。沢尻君も佐々木さんも抱き留めたい程に好
き。

「あなた達に巡り逢えて、本当に良かった」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『無理はしないよ。沢尻君、佐々木さん…』

 無理強いはしない。拒まれなければ良い。
 話し合いは相手の了承を得て進める物だ。

 掃除当番を終えた帰り道、羽様の双子を乗せたバスが目の前を通り過ぎた商店街の裏で。
わたしが人気の少ない道端で、待っていると。

「ゆめ、おねぇちゃ」「おねえちゃ……!」

 渚ちゃんと遙ちゃんが、走り寄ってきて。
 幼子は無邪気で日々愛らしさが限りない。
 その向こうに麗香さんは少し硬い表情で。

 両膝にスカートに纏い付く幼子達を受け止めつつ、今は視線を低くする為に屈みはせず。

「先日は……申し訳、ありませんでしたっ」

 未だ遠いけど直立不動で深く頭を下げる。
 麗香さんの歩み寄ってくる靴音が聞えた。

 幼稚園の帰り道を待ち伏せた。健吾さんの気配がない事は、途中で察せた。本当は彼に
も謝るべきだったけど。今は唯目の前の人に、じっと頭を下げて身動きせずに誠意を見せ
る。

 麗香さんは、わたしの足下で歓声を上げる幼子もいる為か、躊躇い気味に足音近づかせ。
幼子に両手を伸ばし、わたしから離れる様に促して、すっとその侭すれ違って、歩み行き。

「行きましょう」「またねぇ」「あしたっ」

 身動きしないわたしから足音は遠ざかる。

 麗香さんはわたしに張り付く幼子に、快も不快も返さない。2人は帰り道の促しに従い、
母に再び張り付いて。甲高い幼子の声が後方に徐々に離れて行く。2分位経っただろうか。

「受け容れられなくても謝り続ける積り?」

 後方二十メートル位歩み去り隔たってから。振り向かない侭、やや冷淡な声が静かに響
く。

「一体何に謝ってくれるというのかしら?」

 わたしも頭を下げた侭で振り返らず、でも声は良く聞える様にやや大きめに発し。感情
を叩き付ける為ではなく、耳と心に届く程に。

「わたしは酷い女です。麗香さんの心の苦しみを視もせず、目先に見えた事だけに心を揺
らされ、麗香さんを問い詰めてしまいました。麗香さんのお話を聞くと約束しておきなが
ら、己の感情をぶつけてお話しの口を閉ざそうと。
 あんな事を麗香さんが望んで為す筈はないのに。麗香さんも心を痛め続けていたに違い
ないのに。その気持を受け止める事をせずに、心を閉ざさせてしまいました。渚ちゃんと
遙ちゃんを想う上でも、麗香さんの心を確かに汲み取る事が必須でした。なのにわたし
は」

 声音や言葉の繋ぎや大きさや、仕草や視線や身動き全てで、問い質していた。非難を叩
き付けていた。全ては、わたしの失策です…。

 たいせつな人なのに。たいせつな人のお母さんなのに。綺麗で優しい人なのに。わたし
の拙劣な応対が拒絶を導いた。わたしも本当はその苦悩に、一緒に向き合いたかったのに。

「謝りたかったの。許して貰えるか、心を再び開いて貰えるかは、分らなかったけど…」

 一度仲良くなれた人と別れるのはわたしも辛いから。きっと麗香さんも心が痛んでいる。
わたしの所為で痛めてしまった事に謝りたい。彼女の苦悩を受け止め損なった事に謝りた
い。

 一度頭を上げてから振り返り、その背に、

「本当に、心から、ごめんなさいっ……!」

 この想いだけは伝えたかった。この断絶は麗香さんの所為ではなくわたしの所為だから。

 曇天の下、冷やかな声は感情を抑えつつ、

「ふーん。あなた、甘々な位に優しいのね」

 渚と遙を気遣うだけじゃなくて、私迄も。
 渚と遙を寒空に放った母親失格の私迄も。

「心通わせ、受け止めてくれるというの?」

 冷静さを保つ静かな女性の良く透る問に。
 想いの限りを宿すわたしの答と瞼は熱く。

「生意気でも、これがわたしの真の想いです。
 青島麗香は、青島渚は、青島遙は、青島健吾は、みんな羽藤柚明のたいせつな人です」

 例え絆を断ち切られても、いつ迄も麗香さんはたいせつな人。渚ちゃんも遙ちゃんも健
吾さんも皆同じ。己の過ちで迎えた事の末は受け容れるけど、みんなの幸せを願う気持は
変らない。離れても隔てられても拒まれても、わたしが抱く想いは薄れない。消えはしな
い。

 心の限り尽くさせて、守らせて、愛させて。

 わたしが息継ぎに、言葉を止めたその時。
 答は言葉より早く行動で、わたしの身に。

「私は、こういう姉か妹が欲しかった…!」

 気がつくと、こうべを垂れたわたしは麗香さんの細い両腕で、胸に抱き寄せられていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「まだ片付ききってないけど上がって頂戴」

 全てを打ち明ける心を決めた麗香さんに招かれ、先日閉め出された青島家に上げて頂く。
この齢の若夫婦が住むには豪勢な、広いリビングのある一軒家は、会社の借り上げだとか。

 大きなテレビに、座らせて頂いたソファに、木目調のテーブルに、わたしの背丈より高
いリビングボード。でも結構値の張るそれらの家具に、傷や染みの汚れが多い。壁や扉に
も。

「気付いたかしら? 家の中がひっくり返した様な騒ぎの後だって。散らかった雑誌やカ
ップの欠片は片付けて、掃除機も掛けたけど。汚れや染みは拭き取っても中々消えない
し」

 麗香さん1人では綺麗にしきれない。その上掃除する度に散らかし乱してしまうのでは。
それに幾つかの染みは飲料ではなく血の痕だ。袖やスカートで隠してもその痣は増えてい
る。数でも痛み方でも深刻なのは麗香さんの方だ。

「まあ飲んで落ち着いて」「頂きます……」

 わたしに張り付いていた渚ちゃんと遙ちゃんも、コップに入れたジュースを飲みに離れ。

 わたしも視えた像を整理して落ち着こう。

 家に上げて頂いた事で、麗香さんが心を開いてくれた事で、かなり状況は鮮明になった。
今はこの驚きを鎮め、麗香さんの心を受け止められる己を保つ。同じ過ちは繰り返さない。

「今日の夫の帰りは8時位かしら。未だ時間は余る程あるから、ゆっくりして行ってね」

 窓の外は経観塚名物の通り雨が降っていた。前触れもなく突如雨雲が集結して豪雨にな
る。木々や堤を押し流す程激しいけど、長い時間は続かない。雷も伴うので手近な家屋で
凌ぐのが適切か。そう言えば、羽藤が祀るオハシラ様は、雨や雷を司る蛇神様に縁が深い
とか。

「訊いて宜しいですか?」「ええ、どうぞ」

 問い質す口調にはならない様に柔らかく、

「先日寒空の中、外に幼子を出したのは、麗香さんですね?」「……ええ、そうよ……」

 やや力なく目を伏せて応える美しい人に。
 テーブルの上で両手を伸ばして握り締め、

「それは2人を、渚ちゃんと遙ちゃんを健吾さんの拳や蹴りから遠ざけ守る為ですね?」

「柚明ちゃん……貴女、分っていたの…!」

 わたしは静かに頷いて、麗香さんの起伏を受け止める。姿は見せなかったけど、健吾さ
んの気配は感じていた。家の中でテーブルをひっくり返し、物を投げ、幼子や麗香さんに
手を上げていたのは健吾さんだ。わたしがそう悟れたのは、最後にドアノブに、麗香さん
の手に触れた時で。常ならもう少し早く気付いた筈だけど。動揺で力の作用が乱れていた。

 きっかけは些細な事だった。暴れ出す要素は健吾さんの内に満ちていた。活火山は僅か
な衝撃が噴火を招く。麗香さんは健吾さんの加減した蹴りや拳でも、尚幼子には危ういと、
自身で受け止めつつ2人の子供を外に出して。

 あれは避難だった。外は小雨が降り続き肌寒かったけど、彼が静まる迄暫く我慢してと。
幼子達は充分な説明が為されずに、閉め出されたという想いと寒さで泣き叫んでいたけど。
麗香さんは、賢く強く優しい二児の母だった。

「分った事を、上手に伝える事が出来なくてごめんなさい。渚ちゃんと遙ちゃんの濡れて
震えて泣き叫ぶ様を前にして、冷静さを保てず想いを整理できなくて。わたしが分るだけ
じゃなく、分っていると相手に伝える事が大事だったのに。本当にわたしは未熟です…」

 2人の幼子の愛情はまっすぐだった。抱き留めても麗香さんに叩かれた印象はなかった。
幾度かの閉め出しは健吾さんから隔てる為で。近所の人に誤解されている麗香さんが可哀
相。

「どうやって分って貰おうかと想っていた」

 握り返してくれる手が微かに震えていた。

「どうやって話せば誤りなく伝えられるか。
 どうやって伝えれば受け容れて貰えるか」

 貴女は優しく賢く強いけど。綺麗で物静かで思慮深いけど。でも簡単に理解も納得も難
しい事柄で。夫の、青島家の恥の暴露には尚躊躇もある。己の弁解の様で気が進まないし。

「相談して何とかなる様な事でもないから。
 貴女に助力を願える様な事でもないから」

 幾ら賢く強く優しくても、中学生に解決出来る話しじゃない。それにこれは青島家の問
題、私と夫で乗り越えなければならない話し。

「私こそごめんなさい。せっかく渚と遙を大切に想ってくれたのに。助けに飛び込んでく
れたのに。その想いを仇で返し酷い応対を」

 貴女は何一つ間違った事をしていないのに。
 そこ迄しなくても良い程に尽くしてくれて。

 報いがないどころか、逆に仇で返した私に。
 その上人目の前で頭を下げさせて今に至り。

「結局貴女の優しさと強さに頼り縋る事に」

 子供の親として、大人として情けないわ。
 握る手に強ばり閉じ行く心を感じ取れた。

「そんな事はないです。麗香さんは強い人」

 わたしは麗香さんを、今に向き合わせる。

 今目の前で向き合うわたしが、今の懸案に向き合わねばならない麗香さんを、悔恨の淵
から引き戻す。その元々の強さを思い出させ、導き出して。わたしには麗香さんを救えな
い。

 中学生に大人の悩みは本当に解決できない。麗香さんを救えるのは麗香さんだけだ。渚
ちゃんや遙ちゃんを救えるのも、その母だけだ。だからわたしは手助けに己を尽くす。知
恵も力も及ばなくても、心を尽くし、確かにわたしが受け止め励ますと、その活力を呼び
戻す。

「麗香さんは健吾さんを心から愛しています。
 渚ちゃんも遙ちゃんも心から愛しています。
 そして確かに家族全員に愛されています」

 わたしが及ばない程に母の愛は強く深い。
 わたしが届かない程に妻の愛は深く強い。

「唯誰か1人でも、それを分ってくれる人が必要だった。麗香さんの急所はそこだけです。
人は自身の頑張りや苦労を、誰かに確かに認めて欲しい。分って欲しい。幼子にその理解
は難しく、健吾さんにその余裕はなくて…」

 経観塚に親戚も友人も持たない麗香さんは、1人で抱え込むには大きすぎる悲痛と苦悩
に、破れそうになっていた。パンパンに膨らんだ風船だった。それは麗香さんの弱さじゃ
ない。

「強い人でも限度を超えれば、叫びは出ます。強い人にも弱い人にも痛みは痛み、哀しみ
は哀しみ。人の強さは無限じゃない。強い人にも泣き叫びたい時はあります。その時は
…」

 遠慮なく本心を打ち明けて。わたしも全然頼りないけど、力も経験も不足な子供だけど。
話しを理解して一緒に受け止める者が必要なら。力の限り受け止めます。渾身で応えます。

「たいせつな人の為なら、身は惜しまない」
「……貴女、本当に甘々な位に優しいのね」

 握り合る掌に頬を伝った滴が一つ落ちて。

「2人を雨の中抱き留めてくれた貴女だから。
 虐められっ子の事だけを想う訳ではなくて。
 虐めた側も想う事の出来る貴女だからこそ。

 夫の事を聞いて頂戴。あの人も、とても辛く苦しい想いに耐えているの。私、愛した人
に何も役立てず足を引っ張るばかりで。貴女に聞いて欲しい。分って欲しい。お願い…!

 彼の暴力を教える代りに、彼がそうせざるを得なくなった背景も分って欲しい。私は今
尚深く彼を愛している。別れる積りも逃げる積りも全くない。それは渚と遙には辛いかも
知れないけど。2人を想う時にそれは胸を締め付けるけど。彼も今が非常に辛く危ういの。

 何とか彼に立ち直って貰いたい。見通しも解決策も考えつかないけど、彼を捨てる事は
出来ないの。その想いも分って欲しい。貴女は賢く優しいから、話して理解して貰う事は
きっと、私が抱くこの苦悩を分け与える事になる。貴女にも辛さや悲しさを分ける事に」

 でも、もう私には貴女しかいない。この侭1人で耐え続ける事は無理。貴女の言う通り、
誰か1人でも理解して貰わねば耐えられない。そして1人でも分って貰えれば、耐えられ
る。それが中学生なのは申し訳ないけど。拾歳も年下の、女の子に望む事ではないと承知
で尚。

「貴女に縋らせて。青島麗香を受け止めて」

 両の肩に腕を回されて頬に頬を寄せられた。
 締め付けて、逃がさない程に切実な想いに。
 柔らかで、わたしより豊かな女性の身体に。
 身を預けられ、心を預けられ、囚われる侭。
 頬を流れゆく熱い滴がわたしの頬にも繋る。

 健吾さんに己を預けられず、麗香さんは随分長い間、こんな抱擁が出来ず心満たされず。
その想いの丈を、この身で代りになれるなら。その心細さと疲れを、己で癒す事が叶うな
ら。

 やや大柄な女性の身体だけど、わたしが修練を続けてきたのはこうして人を受け止め支
える為だった。確かに受けて、崩れず支えて。彼女の悲哀も苦悩も体重も肉感も汲み取っ
て。

 信じて己を委ねてくれる麗香さんが愛しい。
 迫り来る全ての禍から守りたいと心底想う。
 強く優しく柔らかで黒髪豊かに艶やかな人。

 肌身に視えた拳や蹴りの像は心の奥に抑え。
 それを為した人への怒りも怯えも心に収め。
 この嬉し涙を二度と哀しみでは零させない。

「大丈夫。わたしは全部受け止められます」

 根拠は言わず、断言する。必要なのは理屈ではなく、実感だった。安心しても良いと麗
香さんが思える事が必要だった。それは今は言葉よりも、肌身に伝えて信じて貰うべきだ。

「こんなに柔らかで華奢なのに。小柄なのに。彼の言う事は今迄正しかったけど、貴女だ
けは今尚信じられないわ。達人級に強いなんて。私に見る目がない事は分っているけど、
幾ら見ても話して触れても貴女に肉体的な強さを感じない。こうして抱き留めても、感じ
取れるのは優しさと柔らかさだけ。綺麗すぎて嘘みたい。嬉しすぎて、私涙が止まらない
…」

「お願いです。わたしに、受け止めさせて」

 ここ迄信じ求められた今が嬉しい。その信頼と求めに応えている今が嬉しい。この身と
心の続く限り、尽くし守り支えたい。互いに肉が食い込む程の抱擁で応え。抱き留めると
麗香さんは、華奢で可憐な大人の女性だった。

 幼子達はいつの間にか床に寝付いていた。

 わたし達は無言で瞳を合わせ、2人をベッドに運んで寝かせ、毛布を掛けて。通り雨も
止んで、空は晴れ渡っていた。日没は間近い。わたしはもう少し麗香さんのお話しを聞い
て、そのお夕飯作りをお手伝いして、それから…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「私が昔虐められていた事は、話したわね」

 暴行から私を助けてくれた人が、彼なの。
 西日が入らず、暗さを増して行く室内で。

 ソファの上で麗香さんの左隣で、その柔らかな左腕を肩に回され、左肩に頬添わせつつ。

「クラス替えや進学で、一時的に止む事もあったけど、高校3年の時にはかなり酷くて」

 麗香さんは、大きめな身体に女性としての成熟も目立つ割に性格が大人しく、虐めの標
的にされていた。傍に支え助ける友達もなく。高校3年の秋、暴行されていた駅裏の空き
地で彼女は健吾さんに助け出され、巡り逢った。

「彼は非番だったけど、私の悲鳴を微かに聞きつけて、空き地迄乗り込んで助けてくれた。
暴行相手はわたしと同級で少年法で守られる。最初は彼に傷害容疑が掛ったの。すぐに嫌
疑は拭えたけど、今度は過剰防衛ではないかと。子供は警察も手を出しにくいのね。教育
的配慮とか何とか、親や学校や弁護士が絡んで」

 私への虐めには見て見ぬふりだったのに。
 幾ら訴えても耳傾けてくれなかったのに。
 入り易い処からは容易く妨げの声が入る。

 それを承知で彼は私を助けてくれた。弱い者虐めは許せないと。漸く巡り逢えた守って
くれる強い人。厳つい姿形でも抱き留めて助けてくれた優しい人。失いたくない愛しい人。

 麗香さんは健吾さんを心底深く愛している。
 一度幼子の眠って動かない様子を確かめて。

「私は彼の優しさに縋り付いた。彼の強さに頼り切った。まともに助けてもくれない先生
や親や友達の中には戻れなかった。感謝は好意へ、好意は恋へ、恋は愛へ瞬く間に変り」

 短大を中退し彼の元に転がり込んだ。その侭同居して、恋人のいなかった彼と結ばれた。
彼は私を、受け容れてくれた。何度も暴行されて既に清くもなかった私を、愛してくれた。

 その嬉しさはわたしが最近実感しただけに。
 瞳を潤ませる想いは己の事の様に感じ取れ。
 麗香さんには健吾さんが救い主だったのだ。

「関係者と過剰に親しくなる事は宜しくない。私は後で知ったけど、彼は職場で様々な圧
を受けていた。一時の情に身を任せるなと。初恋に似て長く続かないと。でも彼は私を守
りたい、愛したいと、確かに選び取ってくれて。私の想いが初めて天に通じた様に想えた
わ」

 両親も、生れた渚を見て遂に折れてくれて。
 彼の両親も、渚と遙を孫に受容してくれて。
 幸せだった。去年の秋迄私達は順調だった。
 暗転は、正にその勤務熱心と正義感の故に。

「暴走族への過剰な乱暴だって、彼の勤めていた署がマスコミに叩かれたの。それ迄暴走
族対策が甘いと書き立てた報道記者が、いざ厳重取締に転じると、今度はペンを逆さまに。
 地域住民の不安の声に、上司の徹底的にやれとの指示に、彼は誠実に応えただけなのに。
彼だけじゃない。多くの署員が危険を怖れず立ち向かったのに。やりすぎはあったかも知
れないけど、ケガさせたかも知れないけど」

 殴り掛ってくる相手に、説諭だけで済ませられる筈もない。麗香さんを通じ、麗香さん
に触れて語りかけた健吾さんの怖れが視えた。剛胆で強靱な彼でも危険を感じる程の情景
が。

 でも報道には幾つかの思惑が常に加わる。
 真実真理ばかりが報道される訳ではない。

 サクヤさんからも幾つか聞かされたけど。
 誰かを叩く為に報道すると言う事もある。
 報道機関も実は民間の営利企業なのだと。

 自分達に都合良い報道は、嘘でも為すと。
 逆に都合の悪い事柄は、触れもしないと。

「大々的な非難の前に弁明は聞き入れられず、『政治的判断』で署全体がマスコミに頭を
下げる事になったの。幹部も一線の警官も処分される事になって。減給や戒告や、免職
や」

 健吾さんが不納得だった背景が理解できた。
 正義が否定された様に想えても無理はない。
 彼がそれ迄貫いてきた生き方を覆す様な…。

「それで、健吾さんは警察官を?」「ええ」

 本来免職には当たらないけど。悪い事はしてないけど。マスコミ対策に誰かを生け贄で、
辞職させる必要が出た。その頃マスコミは暴行被害者の少女と結婚したという彼の来歴を、
引っ張り出していた。見るからに体育会系の彼は、暴走族虐待の容疑者の如く言われた上、
事件被害者を手込めにしたと嘘の報道されて。私の否定の証言は、遂に1行も載らなかっ
た。

 彼はトカゲの尻尾切りの様に、警察を辞めさせられた。署の仲間達は彼が悪くないと分
っているから、何とか生計の途を残そうと警備会社の職を紹介してくれて、この経観塚へ。

「私の所為なの。私が彼に縋って、彼の優しさや勇気に頼って愛を望んだから。彼は警察
にいられなくなった。誇りある職だったのに。心から喜んで望んで勤めていたのに。その
未来をこの私が奪ってしまった。この私が…」

 彼は私に気にするな、お前が悪い訳じゃないと、痛々しい笑みを見せたけど。二度と彼
は警察に戻れない。犯罪と戦い市民を守る事は二度と。彼の希望は私が閉ざした。だから、

「私に彼は救えない。でも今彼を捨てて逃げ去る事は出来ないの。私の所為で、私や渚や
遙の為に、この山奥で警備の職に就いてくれた彼を、ここで見捨てる事は出来ないの!」

 健吾さんの暴力は、どうにも出来ない無力感や悔しさ、悲憤の故で。それらは麗香さん
に拭う事の出来ない物で。正当な成果や行いが評価されず、不当に非難され処分を受ける。
それに個人は抗う術を持たなくて。彼は愛する家族の為に、徹底抗戦を諦めて今を選んだ。
曲げたくなかった正義感をねじ曲げて従った。それがどれ程苦しい物か、悔しく哀しい物
か。

「彼が今の職場に馴染めず、ストレス溜めている事は分っている。警察の頃を忘れきれず、
警備の仕事をはみ出して巧く行ってない事も。でも分っても、私にはどうしてあげる事も
出来ない。家の中を整えて、遙や渚の育つ姿を見せて、彼の帰る場を支える位しか私に
は」

 責められない。彼は悪くない。彼は上司の指示と地域の声を受け危険な仕事を頑張った。
なのになぜこうなるのって、渚や遙に聞かれても答えられない。世の中が悪いと言ったら、
彼が守ってきた世の中を否定する事になる…。

「彼は最近ずっと満たされずに、半年以上鬱屈し続けて。子供には無理して笑顔返すけど、
他の人には殆ど言葉も返さず。お酒が入らなくても、常に彼はやりきれなさで満ちている。
何かに拳を振るいたくて堪らない。せめて私がその気持を受け止めないと。渚や遙は下が
らせて、でも私は最後迄彼の元に添い続け」

 この先がどうなるのか分らない。展望は私にも見えてこない。でも、絶対彼から離れる
事は出来ないの。彼も本当は私や渚や遙を深く愛してくれている。時折見せてくれる温か
な笑みは宝物よ。何とか立ち直って貰いたい。強く優しくまっすぐな青島健吾に戻ってと
…。

「私、誰にもお話しできなくて。自分の親にも彼の両親にも、まだ理解して貰えてなくて。
何か悪い事をして、辞めさせられたのではないかと。後ろ暗い事情があるのではないかと。
この想いを打ち明けられる人がいなくて…」

 健吾さんもそうだけど、麗香さんも苦しんでいた。自身の招いた禍だと、哀しみ悔いて。
理解して貰えない苦衷にも耐えて。それで尚渚ちゃんと遙ちゃんを愛し守り、健吾さんを
支え。母とは妻とは何と強く優しい生き物か。

 でも流石に麗香さんも限界を迎えて。分って貰えない想いが大きな胸にも満ちて溢れて。
言葉や理屈での慰めは届かない。肌身に受け留め分っていると、感じ取らせる事が重要だ。

「麗香さんは、本当に賢く強く優しい人…」

 こういう行いが生意気なのだと想うけど。
 今は唯疲れ果てたこの心を受け止め癒す。
 非難や指摘には後で幾らでも頭を下げる。

「わたしの全てで受け止めます。心預けて」

 麗香さんは、わたしの頬に頬を合わせ、或いはわたしの首筋に頬を添わせ。後半は本当
に泣きじゃくりながら身を重ね。何度かわたしの両の胸に手が触れたけど、拒みはしない。

「あ、その……」「良いですよ、わたしは」

 満足して頂ける大きさではないですけど。

 触れてから、気付いて固まる両の手に。わたしの掌を重ねると、やや慎重に頬も合わせ。
麗香さんに較べれば全然物足りない胸だけど、考えてみれば己の胸に頬寄せる事は出来な
い。

 健吾さんの硬い筋肉質の胸とは違う感触に、渚ちゃんや遙ちゃんの肌に近い感触に、麗
香さんは戸惑いを感じつつ軽く握って。感触を確かめる様に軽く揉まれると、くすぐった
い。

 でも決して不快ではなく、むしろその親愛がより深く確かに感じ取れ、わたしは嬉しく。
女性同士だし誰かに見られている訳でもない。冬以来尚男の子への怯えは残すわたしだけ
ど、女性なら大人でも触られる怯えは拭えていた。

「麗香さんには全然及びませんけど。この程度の胸でも望んで頂けるのなら、わたしは」

 麗香さんは母に縋り付くイメージを抱いたみたい。麗香さんも未だ娘と言って良い歳だ。
年長者の支えが欲しい年頃だった。わたしの胸は到底麗香さんのお母さんに及ばないけど、
想像力で補う元になれるなら。羽藤柚明で届かなくても、麗香さんの心に母の愛を連想さ
せる道具になれるなら。心安んじられるなら。

 体の全てで受容する。心の全てで受容する。
 体と心の賦活に、贄の力を抑えて流し込む。
 満たされ行く様が肌身に分る。目に視える。
 心の疲れが拭われて、軽く柔らかく変じて。
 この弛緩が次への活力を生む。明日に繋る。

 暫く抱き留め続けると、この胸元で瞳を開いて麗香さんはわたしを見上げ、言葉を紡ぎ、

「好き……。健吾の次に、貴女が愛しい…」

 この身を抑えつつ麗香さんは顔を近づけ。
 今度は明確に、わたしが求められていた。
 青島麗香を愛おしむ羽藤柚明が望まれて。
 美しさと無邪気さと真摯さに心が固まる。

 正面から近づく愛情に、たいせつな人が抱くわたしへの確かな想いに、わたしの答は…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 春の日は既に落ち、道路は街灯が瞬く中。
 羽藤先輩。行く手から男の子の声が届く。

「大山君に菊池君に、川井君。藤井君も…」

 こんばんは。今が帰り? わたしの問に、

「卓がこの前行ったハックに凝っちゃって」「今日も行った帰りなんです」「あいつは遠
いから、前の便でバスで帰りましたけど…」

 芹澤君を巡る友人関係は目下順調らしい。

「今度こそ先輩も連れて行きたいって卓が」

 それを伝えてくれるのは彼らの総意でもあると言う事で。わたしは有り難うと微笑んで、

「でも、ファーストフード店は意外とお金が掛るから、頻繁に行くとお小遣いがきつくな
るわよ。今度一緒に行くのは良いとして…」

 誰かの家の台所を貸して貰えたら、クッキー焼いてあげる。ホットケーキでも良いけど。
少しの手間をわたしが引き受ければ、安くて美味しい、沢山の作りたてを。どうかしら?

 笑子おばあさんのお料理修練は和食中心だけど、真弓さんもわたしもテレビのお料理教
室などを参照しつつ、独自の領域を開拓しつつある。子供のおやつは桂ちゃんや白花ちゃ
んもいるので、わたしも射程のど真ん中です。

 実用的すぎるかと想いつつの提案は、予想以上に後輩の男の子達の心を打ち抜いた様で、

「うわぉ、羽藤先輩の手料理?」「ブラボーじゃない? それ」「お、おれ母ちゃん説得
する」「待て、俺の家の方が台所広いし…」

 4人の声が、乱れ飛ぶ様子が微笑ましい。

「今日明日のお話にはならないから、芹澤君も交えてお話ししてみんなで決めましょう」

「「「「羽藤先輩の言う通りにっ!」」」」

「ふふっ、有り難う。みんな素直で可愛い」

 そこでわたしも、時刻を少し気に掛ける。
 羽様行きの最終バスが出る迄もう少しか。

 歩けば弐時間で着けるけど、帰りが遅くなれば羽様の家族を心配させる。何よりも愛し
い幼子と過ごせる時間が減る。護身の術の修練や勉強や、お風呂や寝物語の時間にも響く。

 じゃあまたと、話を終えようとした時に。

「そう言えば、今日の大捕物聞いてます?」

 商店街で万引きの集団が捕まったお話し。

 女性警備員が男子高校生の万引き犯を捉まえたんだけど、そいつが近くの仲間を呼んで。
男子7、8人で威嚇する中に、厳つい体格の男性警備員が割り込んで、次々と張り倒して。

「俺達少し前迄見ていたんです。途中から」

「警察も駆けつけて、傷害容疑に問われる可能性もあると警備員に事情聴取して。警備の
責任者も大慌てで飛び出してきて平謝りで」

「悪いのは万引き犯だし、抵抗の姿勢あったんだし、警備は謝る必要はないと思うけど」

「未成年に暴力って見方されるんだってさ」

「小さな町だから穏便に済ませたいんだよ」

「……羽藤先輩?」「どうかしましたか?」

 わたしの表情も気配も一変していた様だ。
 戸惑い気味な彼らの問には最小限の答を。

「……いいえ、有り難う……助かったわ…」

 事情が視えてない後輩の訝しむ前だけど。
 今詳しく説明する猶予はわたしにもない。

 身を翻し、来た道を駆け戻るわたしを見て、後輩達は何かを察したみたいだけど、今は
その先に関知を及ぼす余裕はない。より危うく、より助けねばならない人に向けて、心を
注ぎ。

 最終バスには、間に合わないかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「健吾さん……落ち着いて、冷静になって」

 後輩と心を繋げて良かった。彼らに逢ってなければわたしは今宵の悲劇を防げなかった。
今駆けつけても防げるかどうか分らないけど。わたしは青島さん一家を絶対見放しはしな
い。手を拱いて幸せが壊れ行く様を見過ごす事は。

 脳裏に映るのは幾つかの絵図だ。同僚の女性を助けに、自身の持ち場を離れて駆けつけ
た健吾さんは、抵抗する彼らに実力行使して。それが良くないと。持ち場を離れ騒ぎを起
こし、人にケガさせた行いは職務を逸脱すると。彼は上司の人に注意を受けて、憤りを募
らせ。

 警察の事情聴取は事実関係の確認で、余りきつくはなかったけど。見て分る事実を更に
聴取される事が、正義を為した彼には不満で。彼がかつてそれを為していた側だったのだ
…。

 それでも警察には逆らえぬ。職場の上司に反駁し職を失えば路頭に迷う。下げたくない
頭を無理に下げ、頭から湯気が出る想いで帰り着き。家に着いた彼を抑えられる物はない。

『麗香……、何だこれは? 何だこれは!』

 麗香さんは室内の各所に花を飾っていた。

 わたしは少し前迄青島家で、麗香さんの夕飯作りや部屋の整理や、諸々を手伝っていた。
1人では為す気にならない箇所も2人ならやる気が違い、3倍以上早く進む。バス時刻も
あるわたしは室内を清掃した処で引き上げて。

 麗香さんはそれで出来た少しの時間的余裕を使い、居間や玄関に花を飾り付けたみたい。
ここ暫く散らかった物の掃除や整理に追われ、インテリアに気を遣えなかったから。健吾
さんに和んで心安らいで欲しいと、心を尽くし。

 健吾さんはもう何があってもなくても爆発する体勢だった。鬱積した憤懣は暴れる他に
発散の術を持たなかった。いつもと違う家の様子を見た瞬間、いつになく伸びやかに柔ら
かに迎える麗香さんを見た瞬間。彼は弾けた。お昼寝から目覚めた幼子の声が、悲鳴に変
る。

『うわああああん!』『おとぉさあぁん!』
『貴男、何がどうなって?』『うるさい!』

 花瓶を壁に叩き付けて、割る音が聞えた。
 盛りつけられた夕食の皿をひっくり返し。
 変えたばかりのテーブルクロスを破って。

『おかぁさんをぶたないで』『叩かないで』

『そう言う事か。お前、そう言う事なのか』

 母への暴力を止めようと、縋る幼子を平手で叩き。麗香さんが倒れ込む脇で悲鳴が続く。

 健吾さんは誤解している。この飾り付けを、家の中の整理の進展を、麗香さんが1人で
動かせずわたしが手伝って動かした植木を見て。最近麗香さんが生き生き日々に前向きで
いる事を。誰かに逢う事を心待ちにしている様を。

『お前、一体誰を家に上げているんだ…!』

『誰って、貴男、一体何を言って、いっ!』

『俺が仕事で居ない間に、どこの誰と浮気に熱入れあげているのかと、訊いているんだ』

 健吾さんは乱された室内の精力的な整頓を、浮気の相手を招く為と誤解して。最近生き
生きしていた麗香さんを、愛人が出来た為と誤解して。彼女1人では為せない部屋の片付
けの早さや重い植木の動かしを、その証拠だと。

 違うのに。誤解なのに。麗香さんが愛する男は健吾さん1人。他にどこのどんな男とも。

『信じていたのに。お前はどんな事があっても俺から離れないと、信じていたのにっ!』

『何を言っているの。私は常に貴男の妻です。貴男から一度も離れた事なんて。いた
っ!』

 吐け。吐けよ。平手の音と一緒に叫びが、

『どこの男だ。どんな男だ。俺が話をつけてきてやる。俺がぶちのめしてきてやる。許さ
ない。俺の麗香を惑わす奴は、俺の愛した妻に罪を教える奴は、俺のこの手でぶっ潰す』

『いたっ、痛いっ。貴男、信じて。私は…』

 貴男以外の男とは最近手も握ってないの。
 浮気どころか、殆ど言葉を交わした事も。

『お願い、止めて。いた、いた痛い止めて』

『おかあさんをぶたなぃで』『うあぁん!』

『邪魔だっ! お前らはどいていろっ…!』

 幼子2人が玄関方向に、吹っ飛ばされた。

 振り払っただけでも、衝撃は幼子の息を止める程で。玄関間近の廊下に転がった幼子は、
座った侭で泣き叫ぶ。助けを求めて泣き喚く。

『貴男止めてっ。子供は、子供は関係ない』

 麗香さんが幼子を気に掛けて玄関方向に這い進むのに。健吾さんは、自身の拳や蹴りを
嫌がって、愛人の処に逃げ出すのかと錯覚し。

『出て行く気なのか。俺を置いて出て行く気なのか。俺の全部を失わせる気なのか…!』

『貴男、そんな。私は唯、渚と、遙をっ…』

『吐かせてやる……浮気相手の名を吐かせてやる。お前を迷わせた憎い奴を、俺の全てを
失わせる悪い奴を、絶対張り倒す。言え!』

『貴男お願い止めて。私はどこのどんな男にも、心も体も奪われてない。落ち着いて…』

 ひいっ! 短い叫びに。ぴしっと叩く音が。
 もう一度、短い叫びに。もう一度叩く音が。

『言え、言えっ、言えぃっ、言えぇぃっ!』

『おかぁさあぁぁん』『うわあああぁぁん』

 幼子の叫びは怒気に反応して鎮まる事なく。
 いつ迄も続くと想えた痛みと叫びの連鎖に。

「止めて下さい。健吾さん……!」「…?」

 不法侵入を承知で敷地に踏み込み、扉を開け放って声を掛け、身を挟める事で終止符を。
わたしは青島家の玄関へ足を踏み入れていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 幾つか視えそうな像はあるけど、今は目前の事に心を注ぐ。この修羅場の収拾が優先だ。
麗香さんと渚ちゃんと遙ちゃんと、健吾さんを救うのが最優先だ。他の諸々は全て後回し。

「羽藤君……君は?」「柚明ちゃん……来て、くれたの?」「「ううわああぁぁあ
ん!」」

 仰向けに倒れた麗香さんとのし掛っていた健吾さんは身動き取れず。幼子2人が助けを
求め、わたしの元に走り寄る。ぽふっと言う軽い衝撃を受け止めて。確かに幼子の涙を叫
びを受け止めて。肌身に分っているよと伝え。

 わたしの目的を分らない健吾さんは、無言で様子を見守って。この夜に、この修羅場に、
部外者が何の用だという目線で。麗香さんはわたしの次が読めず、苦しい息で事を見守り。

 わたしは幼子達の心を鎮め、血の力を軽く流して落ち着かせると、座らせて廊下の壁に
寄り掛らせて。癒しの他に微かに痺れも混ぜ暫く動かない様に。多量に流すと麻酔の様に
危ういので、数分経てば動ける程に量は抑え。

 それから廊下の奥の大人2人に歩み寄り。

「麗香さんを叩くのは止めて下さい。麗香さんの代りにわたしが答えます。健吾さんの問
にはわたしが答えます。どうかこれ以上…」

 組み伏せ、組み伏せられた2人を前に、わたしは正座して手と頭を床につけて頼み込む。

「……」「君は、知って、いるのか……?」

 麗香の浮気相手を。麗香が最近心を傾けていた相手を。麗香に精魂込めて部屋を掃除さ
せた相手を。麗香を惑わせたにっくき相手を。

「誤解よ。貴男、私は決してどこの男とも」

 私が愛した男はこの世に唯1人、貴男だけ。

「うるさい。黙って聞け。彼女は知っている。
 羽藤君、教えてくれないか。その相手を」

 手を伸ばせば届く間合で、見事な体躯に。
 視線で殺す程の気合が満ちて溢れる彼に。

 腹に力を込めてわたしは頷き返す。麗香さんに抱いた誤解を解くには、この答しかない。
彼は疑いを心に抱いている。あると決めて掛っている。ないと信じさせるのは至難の業だ。
麗香さんの潔白が事実でも、届かせ方を考えなければ、殺気立った健吾さんには響かない。

「その人物は麗香さんと最近知り合いました。幼子や中学生の人間関係を一緒に見つめつ
つ、お話しして絆を深め、健吾さんの不在中にこの家に上がり込みました。麗香さんはそ
の人と一緒に家の整頓や掃除を行い、彼女1人で動かせなかった重たい植木を動かしまし
た」

 麗香さんの顔が引きつり青く変じて行く。
 健吾さんの抱く疑念の根拠を知った故に。

「麗香さんはその人を信じ、健吾さんとの馴れ初めや転職の事情も話しました。健吾さん
や麗香さんの辛い悩みを、相談しました…」

 今度は健吾さんの表情が青く引きつって。
 己の苦味も弱味も知られたのかと愕然と。

「その人は麗香さんを愛しています。健吾さんから奪う積りはありませんが、誤解を受け
る行動はしました。今は深く反省し、健吾さんと麗香さんの幸せを心から願っています」

「誰なんだそいつは……早く、その名を!」

「その償いに、今から健吾さんの憤りを全て受ける積りでいます。その拳も蹴りも麗香さ
んには向けないで。麗香さんに罪はないの」

 わたしは尚身動きしない2人に這い進んで。
 仰向けの麗香さんを確かめる様に見下ろし。
 詰問の視線を向けてくる健吾さんを見上げ。

「どうか今この瞬間から、その憤りの全てはわたしに向けて下さい。麗香さんにも幼子達
にも罪はありません。咎人はわたしです…」

 羽藤柚明が青島麗香の愛人でした。

「全て受け止めます。健吾さんを悩ませ苦しませたのはこのわたし。証拠をご覧下さい」

 わたしは硬直した健吾さんを前に、同じく硬直した麗香さんの双眸を見据え、その美貌
に向けて顔を近づけ、柔らかな唇に唇を重ね。

 わたしは人妻を夫の前で奪い取っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 暫くは、誰も動かなかった。わたしが麗香さんから唇を離して健吾さんに向き直っても、
健吾さんも麗香さんも石像となって声もなく。

 健吾さんは疑いを抱いていた。いると決めて掛っていた。ないと信じさせるのは無理だ
った。幾つかの状況証拠は、誰かが麗香さんの心を惹いた事を示している。男性ではない
と理解して貰えば良い。麗香さんが決して不貞ではないと、健吾さんに納得して貰えれば。

「これは二度目です。最初は数時間前にこの室内で。心を開き、多くの内輪の事情を話し
てくれた麗香さんには、代りにわたしの穢れを、弱さも情けなさも頼りなさも伝えました。
この唇が決して清くない事迄含めて。その上でわたしが望んで奪いました。彼女の唇を」

 申し訳ありませんでした。

 正座の姿勢に戻り、頭と両手を床につける。

「健吾さんが言った通り、麗香さんを惑わせ、罪を教え、健吾さんの麗香さんを奪いまし
た。罪は全てわたしに。だからこの身で償いを」

 頭を踏み潰される事も承知だった。胸ぐらを掴まれ殴られる事も蹴られる事も覚悟した。

「健吾さんがご存じの通り、わたしは素人ではありません。麗香さんや子供達とは違って、
少しは痛みに馴れています。憤りを向けるなら、叩き付けるならそれはわたしに下さい」

「……柚明ちゃん、あなた。なんてこと…」

 お願いします。気を取り直した麗香さんが言葉を漏らす脇で、頭を下げた侭言い切ると、

「……くくっ。……はっははははっ……!」

 捨て鉢な笑いが響いた。驚きと怒りが強すぎて、健吾さんはその場に蹲り乾いた笑いを。

「そうか。そうか。君が、麗香の浮気相手か。
 どこのどんな奴かと思っていたら。ぶちのめして何もかも、清算しようと思っていたら。
 男じゃなくて、中学生の、女の子が。はは。

 麗香が俺を捨て、今の情けない俺に愛想尽かせ、どこかに愛人作って逃げる事もあると、
微かに思っては居たけど。それで全部なくなれば、肩の荷下りて爽快かと思っていたけど。

 女の子か。中学生の、女の子か。ははっ。
 俺はそこ迄夫に価しない男だったのかっ」

 この何年かは、確かに幸せだったのに。苦しい事はあったけど、悔しい事もあったけど、
家族を守り支えて暮らして来た。優しい麗香や可愛い渚と遙を過ごした日々は、俺の生き
甲斐だったのに。幸せだったのに。なのに!

「俺は正義じゃなく、家族の為に生きていた。麗香と渚と遙の為に。麗香を最初に守った
のは正義の為だが、出逢えた後はそうじゃない。正義の為に家族を守るんじゃなく、家族
が誇れる男でいる為に正義を保った。だから家族の為なら正義も曲げた。膝を折り曲げ警
察辞めて、職も変えてこの山奥に、移り住んだ」

 それを。それを。それをそれをそれをっ!

「男じゃなくて女だと。事もあろうに中学生だと。ふざけるな。俺の麗香を奪い取る奴が、
まともに働けもしない小娘で納得できるか」

 麗香、貴様一体何を考えていやがる!
 ぴしっ、頬を打つ平手の音が又響く。

「俺はそんなに愛するに価しないかっ。
 俺はそんなにお前に嫌われたのかっ」

 短い悲鳴が出るより早く、二度三度。
 ぴしっ、ぴしっ、ぴしっ。次の瞬間。

「止めて下さい。叩くならわたしを叩いて」

 わたしは麗香さんの上に身を投げ出して。
 叩いた方も叩かれた方も共に哀しすぎた。

「これ以上自身のたいせつな物を壊すのは止めて。健吾さんの憤りは、わたしが受けます。
 理由のある物もない物も、全部拳に変えて蹴りに変えて、わたしに下さい。その代り鍛
錬も何もない麗香さんや幼子に、豪腕を叩き付けるのは止めて。家族を守る為の腕や足を、
その家族を傷つける為に使うのは止めて!」

「お前に何が分るっ。麗香に話を聞いたって、その場にいた訳でもないお前に。俺の憤り
を、簡単に受け止められる積りでいるのか。俺の拳や蹴りを受け止められる積りでいるの
か」

 左肩を掴まれて、麗香さんから引き剥がされた。右腕一本でわたしを捉まえ間近で睨み。

「何も分らない子供の癖に、生意気をっ!」

 言う事はその通りだったけど今は怯まず。
 でも怒りに任せた拒絶や反駁ではなくて、

「分りません。わたしには健吾さんの気持が分りません。愛した家族に、たいせつな人に
手を挙げてしまう気には、わたしはどうしてもなれない。分らない。だから教えて下さい。
その憤りを、哀しみを、苦しみをわたしに」

 青島健吾は、羽藤柚明のたいせつな人です。

「あなたの怒りを受け止めたい。あなたの心を支えたい。あなたを痛みから救いたいの」

 そしてあなたにも分って、気付いて欲しい。

「あなたは今も今迄もずっとたいせつに想われている。ずっと愛され守られているって」

「……何を、言って」

「健吾さんの正しさは警察の人も上層部も分っている。だから不条理で警察を辞めた時も、
生計の途を探してくれた。結果は満足行く物ではなかったかも知れないけど、健吾さんの
周囲の人は最後迄確かに仲間だった筈です」

 今の職場の人達も健吾さんを仲間に受け容れている。頼みにしている。今日商店街で助
けた警備の女性も、健吾さんに感謝している。上司の人の注意は、あくまでも仕事上の話
し。

 ご近所さんも悪い人じゃない。幼子の泣き声に心配して顔を覗かせた。健吾さんの厳つ
い顔形にびっくりして逃げたけど悪意はない。幼稚園の先生も麗香さんの痣を心配してい
た。健吾さんと一緒に来た時は、ほっとしていた。努力すればきっと心を繋げる。親しく
なれる。

「その上家には綺麗で優しい奥さんと、可愛い子供が2人もいて。深く強く愛してくれて。
幸せなのに。喜びは満ちているのに。どうしてその絆を、自身の手で壊してしまうの?」

 どうしてたいせつな人の笑顔を守る手で。
 その笑顔を泣き顔にするの、涙にするの?

 あなたが必死に頑張っている姿は見える。
 苦しみに耐えている事も分った。でもっ。

 一番頑張らなければならない最後の処で。
 絶対守らなければならない大切な笑みを。

 自身で壊してその末に、一体何を望むの?
 分らない。わたしには分らない。だから。

「教えて。その憤りを、苦しみを哀しみを」

 麗香さんや渚ちゃんや遙ちゃんに向けていたその全てをわたしに下さい。お願いします。

「もう自身のたいせつな人は傷つけないで」

 たいせつな人に傷つけられる麗香さんが可哀相。渚ちゃんや遙ちゃんが可哀相。たいせ
つな人を傷つけてしまう、健吾さんが可哀相。互いにたいせつに想い合っている人達なの
に。

 瞬間、健吾さんの右掌が左頬に炸裂した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 健吾さんの憤りは未だ全開ではない。麗香さんや幼子に向けた時もこの位だけど、彼の
本気からすれば未だ遠い。それでも彼の分厚い右の掌は、張り手並の威力でこの頬を打ち。

 柚明ちゃん! 麗香さんの叫びは聞える。
 意識も途絶はしない。この程度ならまだ。
 健吾さんは無言で睨みつつ、左の平手を。

 ぱんっ。やや鈍い音が衝撃と一緒に届く。
 音の鈍さは、衝撃が浸透する一撃の故で。
 真弓さんの鋭さと違い肉や骨に広く響く。

 僅かな間隔を置いて左頬に又右の平手が。
 去って約1秒後、右頬に再度左の平手が。
 ぱんっ……、ぱんっ……ぱんっ、ぱんっ。

 互いに視線は逸らさない。わたしもだけど、健吾さんもカッと見開いた両目を瞬きもせ
ず。

 手を振り続ける健吾さんの前でわたしも。
 防がず叩かれ続け尚揺らがず見つめ返し。

 男性の大きな平手は冬休みのあの時を思い起こさせるけど。口が切れて贄の血が滲むけ
ど。頬は多少腫れても心は挫けない。平手の連打が止まったのは健吾さんの意志ではなく、

「貴男、止めて。柚明ちゃんは、女の子よ」

 麗香さんがその左腕に、体重を掛けて取り縋った為で。振って外そうとするけど、麗香
さんも必死で簡単に外れない。健吾さんはくわっと瞳を見開いて、照準を麗香さんに移し。

「庇うのか。阻むのか。邪魔するのか。お前は本当に俺より中学生の小娘を選ぶのかっ」

 麗香さんは組み敷かれ。馬乗りにされたその上から、綺麗な頬に両の平手が落ちて行く。

 ぴしっ、ぴしっ、ぴしっ。

 短い悲鳴が上がったのは最初だけ。麗香さんはもうそれ迄に、充分痛めつけられていた。
まともに動けない程疲弊していた。わたしを庇いに健吾さんに身を絡めたのが無茶だった。

 防げもせず、意識朦朧と唯夫の怒りを受け続けて、身動き出来ない。その無反応に健吾
さんは苛立ちを。痛いとか苦しいとか、何か反応を見せろと。でももうそれは無理だった。

 麗香さんは鍛錬も何もない。素人の女性だ。叩かれたら意志は萎える。痛みに蹲ればす
ぐには立てない。普通は言葉も反撃も返せない。痛めつければ痛めつける程、脅せば脅す
程健吾さんが望む反応を麗香さんは返せなくなる。唯その心と体を壊す。怖がらせ心隔て
るだけ。

 振り下ろそうとした太い右手の手首を掴む。
 筋肉質な腕をわたしは己の筋力で一時妨げ。

「その拳はわたしに下さいと言った筈です」

 健吾さんはわたしの阻む意志より、阻んだ結果に目を見開いて。尚彼の全力には程遠い
けど、その太い腕を止められた事にやや驚き。麗香さんに馬乗りした侭、猛獣の嗤いを向
け、

「ほう。俺を阻んで麗香を守るか。一応は愛人だな。……俺とやる気か。ならば少しは」

 愉しませてくれるんだろうな、羽藤柚明。
 いずれ立ち合う事もあると思っていたが、

「間男、ならぬ間女としてぶちのめす事になるとは、予想してなかった。遠慮はしない」

 視線に心臓や胃袋を掴まれた錯覚がある。
 触れた彼の心は激越な怒りに染め抜かれ。
 喰い殺される程の闘志を肌身に感じつつ。
 腹に力を込めて自身を保ち、怯えを抑え。

「わたしは元々健吾さんの怒りを受ける積りでした。この罪は謝って許される物じゃない。
麗香さん達を害さないなら、わたしは逃げず防がず抗わず、拳も蹴りも身に受けて償いま
す。わたしへの憤りもそれ以外も。でも…」

 どうしても家族に上げる手を止められませんか? たいせつな人を傷つける己を止めら
れませんか? 止める積りはありませんか? わたしだけで怒りを堪えて貰えませんか?

 掴んだ肌身に感じるのは殺意に近い闘志で。
 無抵抗よりも抵抗を踏み潰したく猛る心で。

「俺から、奪えよ。俺を倒して、戦い取ってみろ。でなければ、お前は誰1人守れない」

 わたしの問への答はなく、健吾さんは唯わたしとの立ち合いのみを望んで身を震わせて。
麗香さん達の身代りになっても事は終らない。彼の憤りはもう自身では止められない。暴
力を止める方法は、彼を止める他に最早なくて。

 健吾さんが強靱な武道の達人である以上に。男性の敵意や猛威への怯えは、今尚拭い切
れてないけど。震えを今は己の意志で抑え込み。

「わたしがあなたを止めます。わたしのたいせつな麗香さんと、渚ちゃんと遙ちゃんを危
害から守る為に。わたしのたいせつな健吾さんを、あなた自身の自暴自棄から守る為に」

 わたしは好んで争う訳でもなければ、憎くて戦う訳でもない。わたしの戦いは懲罰でも
反撃でもない。助けたい人を守る為の最低限の実力行使だ。倒して奪う積り等なく、威嚇
さえも好まない。でも今は健吾さんの挑戦を受けて立つ他に、彼に挑み掛る他に術がなく。

「……あなたを、止めます。力づくででも」

 掴んだ侭の健吾さんの右腕が弾け飛んだ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 健吾さんは動けぬ麗香さんから、わたしに標的を再度変更し。その右手首を突如一気に
右下に振って、わたしの体勢を引っ張り崩す。そこに向き直りつつ立ち上がりつつ、左回
し打ちをこの右頬に当てようと。彼にすれば殴ってみた程度だけど、当たれば頬骨が砕け
る。

「……っ!」「うぬっ?」

 でもわたしは右手首は離れるに任せ、彼の右側面に立った体勢は崩さず、迫る左回し打
ちに右手を翳し。ブロックではない。彼の豪腕を受け止めるにはわたしの体勢も万全では
ない。この右手は拳を防ぎ止める為ではなく、彼の動きに追随し導き促す為で。ブロック
を蹴散らす勢いで振り抜く豪腕に、逆に手を添え勢いを足しつつ、この目の前を振り抜か
せ。大きな力を掛けずとも、己を守る術ならある。

 豪腕が起こす風に煽られた訳ではないけど、軽く後退して間合を置く。健吾さんは回し
打ちを、己の体を立たせ、わたしに向き直らせる動きの一環で放った。空振りさせても間
近は危険だ。今の一撃で形勢を決め、ふらついたわたしを捉えて潰しに掛る。その意図を
外され、彼はやや意外そうに、でも愉しそうに。

 後退してなければ、わたしは左回し打ちに続いての左前蹴りで、右肩を粉砕されたかも。

「面白い技だな。その位はして貰わないと」

 全力で潰し泣き叫ばせる気にもならない。

 民家にしては広い廊下だけど、拳や蹴りを振るい合うにはやはり狭い。戦場を移すべき
かも知れないけど、前提に相手の追随が要る。わたしの戦いはたいせつな人を守る為のも
の。彼がここで麗香さん達を虐げるならわたしもここに留まる事に。わたしに戦場は選べ
ない。

 狭い処は動きの幅が限られるので、豪腕や武器を持つ長身な人に対し、避けて躱して勝
機を窺うタイプには厳しいかも。体の大きな人も狭いとその優位を充分に活かせないけど、
動ける範囲を限定し合うと、小柄で身軽な人は選択肢の少なさから詰め将棋の錯覚を抱く。

 健吾さん程の達人が、それを知らない筈がなく。細長い長方形の廊下は、彼の背後のリ
ビングとわたしの背後の玄関に挟まれ、その気になれば数秒で押し渡れる広さでしかない。
対峙の瞬間追い詰められたと見て良い状況で。

 彼は慎重に、でも着実に足を躙り進ませて。
 わたしは身構えつつもじりじり後ずさりを。

 これ程の技量の持ち主に、身の軽いわたしから不用意に近づくのは危うい。逆に言えば、
一撃受けても太い手足に捉まえる事が、体に恵まれた健吾さんの側の勝利への定石だった。
隙を見せれば危うい事は互いに承知で同じだけど、体格の差は勝利への道筋も変えていた。

「悪くない判断だが、じり貧だぞ」「……」
「ここに飛び込んだが運の尽きか」「……」

 それ程後ろにスペースはない。左右に展開できる幅もない。いつかの時点で前に出ねば、
一歩下がって躱す間合も使い果たす。それを健吾さんは促しつつ、彼からの必殺の攻めも
温存し、更にわたしの反撃も叩き潰そうと待ち構えつつ冷静に前へ。予想外の何かがなけ
れば、わたしが打開に動かない限り、この劣勢は覆らない。それは互いの共通認識だった。

「一つ、お願いがあるのですけど」
「聞く位は聞いてやる。一体何だ」

 最早話しは望めない。望み得るのは取引だ。

「わたしが勝てたなら、とは言いません。勝敗に関らず、健吾さんの満足できる戦いを為
せたなら。健吾さんがこの立ち合いに納得できたなら。わたしが健吾さんを満たせたなら。
 その拳や蹴りを、たいせつな人に振るうのを止めて。麗香さんと渚ちゃんと遙ちゃんは、
健吾さんのたいせつな人。わたしにとってもたいせつな人。涙させたくない愛しい人…」

 わたしには好きなだけ振るって良い。この身で代れるなら、立ち合いでも罰でも受ける。

「力の限り、あなたの全てを受け止めます」

 だから家族にはそれを漏れ出させないで。
 家族を愛し守れる健吾さんでいて欲しい。

 わたしが欲しいのは勝利より結果だ。今の彼を止める事以上に、今後の彼を止める事だ。
わたしの勝敗より、このすぐ後も明日以降も、健吾さんが再び家族を涙させる事のない様
に。

 瞬間、健吾さんの瞳に驚きが宿ったけど、

「良いだろう。俺を、満足させられたらな」

 死に物狂いになれ。目前の敵を倒す以外の全てを忘れろ。全神経を戦いにのみ注ぎ込め。
その上でその死に物狂いをこの俺が突き破る。俺の拳が貴様の全力を木っ端微塵に打ち砕
く。

 声音に凶悪な迄の闘志を宿す健吾さんに。

「貴男、止めて。未だ中学生の女の子に…」

 漸く起き上がった麗香さんの声も届かない。健吾さんは振り向かず、声も返さず気合も
緩めず。疲れ切った以上に麗香さんも、彼の本物の闘志を前に竦んで身を挟めない。だか
ら、

「柚明ちゃん逃げて。彼は戦わせたら本当に強いの。華奢な体でまともに戦える筈がない。
大ケガさせてしまう。貴女の砕ける姿は見たくない。私は良いから、渚も遙も何とかする
から貴女は逃げて。もうここには来ないで」

 貴女を招き入れたのは失敗だった。貴女に頼り縋った事も。心開いた事も、愛した事も。
後悔は今更だけど、もう充分よ。これ以上他人の為に傷つかないで。早く逃げ去って頂戴。

「可愛い顔に血を滲ませて、頬を腫れさせて。その上で健吾と武道の立ち合いなんて。必
要ない。私達の為にそんな勝負を受けて立たないで。健吾は本当に強靱なの。貴女が幾ら
頑張っても敵う筈がない。五体満足で帰れない。
 貴女のご家族に、申し訳が立たなくなるわ。その前に私達が縁を切る。今は自分1人の
安全だけを考えて、走って逃げて。お願い!」

 自身の痛みを省みず、わたしなんかの為に。
 麗香さんの強く優しい想いが、心に染みる。

「言う迄もなく、俺に逃がす積りはないが」

「わたしにも、逃げる積りはありません…」

 逃げる事が至難な以上にたいせつな人が危うい今、わたしは己に逃げを許せない。健吾
さんを退けて鎮めるだけじゃない。痛めた体や心を癒し、悲劇を繰り返さぬ様に、不安も
怯えも残さぬ様に、全てに確かに処置せねば。

 目の前の屈強な男性に、その闘志と害意に、未だに身の奥に逃げ出したい震えも宿すけ
ど。そんな自身も奮い立たせて。今に確かに向き合って。己が宿す怯えもしっかり説き伏
せて。

 局面を変えたのは、麗香さんの叫びを耳に入れた幼子の動きで。痺れが抜けた幼子は母
の声に導かれ、わたしの右背後から歩み出て。

「……渚ちゃん、……遙ちゃん……っ…!」

 広くはない左右背後を、それでも最大限動き回っての応戦を考えていたわたしに、足下
の幼子2人は致命的だった。踏みつける訳にも蹴り飛ばす訳にも行かない。それどころか。

「もらったああぁぁぁぁっ!」「はっ……」

 健吾さんは位置関係から、幼子よりわたしの惑いを先に見て動いた。一気に踏み出して、
右正拳突きをわたしの顔面狙って打ち出して。見えたけど、躱せたけど、例え応対可能で
も。

『躱す間合がない。幼子がいる側は勿論、いない側に躱しても健吾さんが踏み出してきて、
格闘に巻き込んでしまう。防いでも躱しても、いつ踏まれるか蹴り飛ばされるか分らな
い』

 どちらかが逃げて、格闘を外すべきだった。
 片方でも、幼子のいる場から身を遠ざける。

 今踏み出してきた健吾さんにそれは出来ず、この軽い身で健吾さんを押し返す事は困難
で。方法は、己が即この位置を外す事だったけど。

『でも、これでは多分……!』

 両腕揃えてブロックする。彼の豪腕は腕でもまともに受けるのは危険なので、これは防
御ではなく顔面への直撃回避で。真の意図は。

「……くぁ、……はっ……!」

 受け止めきれなかった衝撃が、この軽い身を浮かせ後方数メートル、玄関迄吹き飛ばす。
拳が当たる瞬間衝撃に沿って後方に自ら跳ぶ。理屈上は可能でも、実行は至難だけど。健
吾さんの突きの貫通力の半分でも、後方へ飛ばす力に変えて逃し、痛手を最小限に抑えつ
つ。何よりわたしが、幼子達のいるその場を外す。

 果たして三分の一位は受け流せただろうか。
 健吾さんの正拳は予測以上に凄まじかった。

 ブロックした両腕が砕けなかったのは奇跡に近い。実際は彼の貫通力の多くを逃がしき
れず、やや直線に近い感じで背後玄関の扉に叩き付けられた。浮いたと言うより、跳んだ
と言うより、やはり殴り飛ばされたに近いか。

 唯、最低限の目的は果たせた。渚ちゃんと遙ちゃんを、わたし達の攻防のど真ん中から
外すという、絶対為さねばならない事だけは。受け止めてその場で戦うという最悪は避け
た。

 わたしの痛みは問題ではない。わたしの戦いはたいせつな人を守る為だ。その為に傷や
危険が必要なら、幾らでも受ける。たいせつな人を守り通せなければ、わたしの勝利に意
味はない。逆にたいせつな人の笑みを守り通せるなら、わたしは負傷も敗北も了承出来る。

「柚明ちゃん……! なぎさっ、はるかっ」

 麗香さんの声で漸く、健吾さんも傍に幼子がいたと気付いた様だけど。母に向って歩み
行く幼子2人とすれ違い、打ち倒したわたしへの止めに、笑みを浮べつつ歩み寄って来て。

「俺と麗香の間に挟まった貴様が、俺と麗香の間に生れた渚と遙の妨げでぶちのめされる。
皮肉だな。正当な愛の成果が、許されない愛に鉄槌を下す。だが……こんな程度で俺は満
足してないぞ。俺の怒りも憎しみもなっ!」

 目前の敵を倒す以外の事に、目を向けて。
 全神経を戦いにのみ注ぎ込む事が出来ず。
 死に物狂いにならずに小娘が何を出来る。
 俺をここ迄引っ張り出して、これだけか。
 こんな程度で終らせる積りか、羽藤柚明。

『彼は、発散できる相手を渇仰している…』

 拳を受けた両腕より、ドアに叩き付けられた背中より、ドアノブが強く当たった右脇腹
に異物感がある。痛みに息が止まった状態か。そこで耳に入ったのは聞き慣れた弐色の声
で。

「羽藤お前っ!」「羽藤、先輩!」

 一番困った情景を彼らに見られてしまった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 後輩4人はわたしの様相を心配してくれて、誰かに相談しようと考えた様で。バス待合
所には、わたしも乗ろうとして諦めた最終バスを待つ、沢尻君と佐々木さんと北野君がい
た。

『ヒロ先輩、まさか』『ああ、羽藤なら…』

 話を聞いて走り抜けた危惧は、3人共有で。わたしはそこ迄無鉄砲と思われていた。少
し不満だけど、結果から見ればほぼ正答でした。

『博人、どうするの』『……そうだな……』

 まず沢尻君は、心配そうな顔つきの後輩4人に、この事を他言無用と頼んだ上で、結果
は明日報せるから、今日はこの侭帰る様にと促した。後輩を騒動には巻き込みたくないと。

『今日はありがとな。後は上級生に任せろ』

 後輩達も青島さんとわたしの詳細は知ってない。何かがあると小耳に挟んだ程度なので、
大丈夫という沢尻君の強い促しで帰途につき。

『華子は羽藤の家に電話してくれ。警察が絡まる話しになる怖れもあるけど、事を小さく
収める芽も残しておきたい。とにかく羽藤の家の大人に、事態を連絡して相談するんだ』

 警察や先生に話しを伝えるのは後回しだ。
 頷いた佐々木さんが駆け去って行った後、

『文彦も今日はバスで帰れ。大事になれば関った全員が叱られる。結果は明日教えるよ』

『ヒロ先輩。俺を一年坊主と同じ扱いにはしないで下さい。青島さんの家に行くんでしょ
う? 無事を確かめに、首を挟みに、羽藤先輩の事を謝って引き取りに。俺も行きます』

 こんな状態になっているとは知らないけど。
 相当複雑に緊迫した場面は予期出来た様で。

『戦いに行く訳じゃない。話しに行くなら1人で充分だ。警察沙汰になるかも知れない話
しに、不要な人数を巻き込むのは賢くない』

 北野君が沢尻君に言葉を返す様を見たのは、逆らう様を見るのは、この時が初めてだっ
た。

『ヒロ先輩。今は俺が羽藤先輩の彼氏です』

 俺の女がトラブルに首突っ込んでいるのに、俺が逃げ帰る訳には行かないじゃないです
か。無事を確かめるのも共に謝るのも、危なければ庇い守るのも、家迄安全に送り届ける
のも。それは唯の同級生がやる範囲じゃないですよ。

『ヒロ先輩が羽藤先輩を心に留めている事は、分っています。それは止めない。唯俺も
…』

 北野文彦も羽藤柚明に恋しているんです。
 小学校5年の、平田詩織の時からずっと。

【羽藤さんの方が綺麗だし、動きも良い。俺、羽藤さんとならチーム組みたい】

【俺も、その、羽藤さんと、仲良くしたい】

 小学校6年の夏、体調を崩した詩織さんを保健室で休ませて、衰え行く身体に、閉ざさ
れ行く未来に怯える彼女を抱き留めたあの時。一緒に授業をすっぽかしたわたしが叱られ
ない様に、邪魔も入らない様に、様子伺いに来てその様を見て、黙して引き上げ『羽藤も
具合悪い』と先生に言ってくれたのは彼だった。

 沢尻君を始めみんなはやや見え透いた嘘を分って承知し、わたしに詩織さんの早い帰宅
に付き添う様に促して。彼女とわたしが絆を繋げたあの夜は、みんなの助けの産物だった。
彼はあの頃からわたしへの想いを抱き続けて。

『先輩が帰るか、一緒に行くかです。俺だけが帰るって選択肢はないですよ。ヒロ先輩』

 2人の男の子が妙に眩しく凛々しかった。
 その彼らが青島宅に着いた時聞えたのは、

「……渚ちゃん、……遙ちゃん……っ…!」

「もらったああぁぁぁぁっ!」「はっ……」

「柚明ちゃん……! なぎさっ、はるかっ」

 幾つかの悲鳴と怒号と、何かが叩き付けられる音と衝撃で。特に彼らが玄関に来た時に
扉を叩き壊す程揺らせた衝撃は、悪い予感を。意を決してブザーもノックもせず、声も掛
けずに扉を開いた2人の男の子の前でわたしは、玄関隅に身を寄り掛らせて口から血を漏
らし、

「……っ!」

 痛みに息が止まって即座に言葉を出せずに、追加の来訪者に苦い笑みを返すのが精一杯
で。

 春の夜はかなり風が強くて雲も早かった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「何が……、一体何があったんだ、羽藤?」

 沢尻君が中に踏み込んで正面からこの両肩を軽く抑え。玄関すぐ外で北野君が左側から
この左二の腕に、左手を添えようとして引っ込める。それは血塗れのセーラー服に怯えた
以上に、この身が触るのも危うく見えた為で。

「ん……ちょっと、いろいろ、あってね…」

 激痛で息が繋ぎにくいと言うより、一言で説明しきれない。健吾さんは沢尻君の背後で、
闘志を滲ませていた。状況が変っても、水入りは少しで、すぐ続けると戦う姿勢を見せて。
その闘志で彼は、2人も脅して追い返そうと。脅しが利かなければ、今の彼は実力に訴え
る。

 ゆっくりお話しできる、猶予はなかった。

 動けない訳ではない。健吾さんが今すぐ止めを刺しに来ても、わたしは絡みついて対応
できる。真弓さんに鍛えられたお陰で、痛みも負傷も動きを縛らない。問題は、事態が健
吾さんとわたしの2人で済まなくなった事で。

「ふん……素人のガキが2人か。どいてろ」

 健吾さんには沢尻君達は、蹴散らす程度の相手でしかない。わたしの呼吸が荒い以上に、
この場を収める為には相手の言い分も聞かねばならないと、沢尻君は首だけ後ろに向けて、

「これは、一体どういう事ですか? 羽藤は一体何をしたと? なぜこんな事になって」

 すぐにどく気はないと、答を求める姿勢に。健吾さんは微かに苛立ちを憶えつつ、初見
の者をいきなり強制排除も躊躇った様で、答を。

「人妻に手を出すからだ。この小娘、中学生の癖に、女の癖に、俺の麗香を夫である俺の
目の前で、キスして盗み取りやがった…!」

 沢尻君も左間近の北野君も表情が固まった。
 驚きで声が出ない2人に、健吾さんは尚も、

「俺の怒りを受ける事も覚悟の上と生意気言うから、本当に受け止められるか、懲罰も兼
ねて試しているんだよ。俺と武道の立ち合いをして、満足させてくれるとも言ったからな。
妻を弄んだ言葉の重みを、確かめたくてね」

「違うわ。柚明ちゃんは渚と遙を助けに、私を助けに、ここに飛び込んできてくれたの…。
 私が巻き込んでしまった。彼女は何も悪くない。早く柚明ちゃんを抱えて逃げて頂戴」

「これは両者合意の上での立ち合いだ。邪魔せず脇にどいて、見守っていて貰いたいな」

 語調は穏やかでも、宿る闘志が大きな身体に満ちて、対峙する者を竦ませる。拒むなら
実力で排除すると姿勢が語っていた。それに脇からでも見て触れて、感じて2人の男子は、

「羽藤、先輩……」「本当なのか、羽藤?」

 気圧されて正面から断り切れず、でもどける訳に行かないと。わたしに真偽確認して時
を稼ぎつつ、己を鎮め事を呑み込もうとして。わたしは尚苦しい息を漸く紡いで、頷き返
し、

「2人の言う事に、概ね間違いはないわ…」

 男の子には相当衝撃なお話しだろうけど。
 展開される絵図も相当な衝撃だろうけど。

 今は詳細を話せる余裕もない。それ以上に関係ない2人を騒ぎに巻き込む訳に行かない。
これはわたしが首を突っ込んだ青島家の事だ。わたしと健吾さん達の間で決着をつけなく
ば。

「危ないから下がっていて」「羽藤お前な」

 沢尻君はわたしを睨み付けて呆れた声を。

「下がるのはお前だ。女の子が、血塗れで」

 でも尚わたしを気遣うと。軽蔑も嫌悪も怖れもなくて。2人とも尚わたしを強く心配し。

「お前がここの奥さんに横恋慕したのでも。
 奥さんか旦那の虐待を止めに来たのでも。
 一目見ただけでこの状況は、やばすぎる」

 文彦、ここは俺が抑えるから。お前は羽藤を連れて先に逃げろ。沢尻君がそう言うのに、

「それは出来ないの。……麗香さんも、渚ちゃんも遙ちゃんもいる。それに健吾さんの想
いは最後迄、わたしが確かに受け止めないと。多少痛くても辛くても諦める事は出来な
い」

「お前何無茶をっ!」「そうだよ、先輩…」

 例え双方合意の上の武道の立ち合いでも。
 こんな狭い所でやる事自体が異常な上に。

「お前で勝てる訳ないだろう。大人の男に」

「勝つ事は必須じゃない……。今は逃げない事が必須なの。彼の全てを受け止めないと」

 彼の全力を出させる。彼が納得行く迄戦う。わたしが彼の満足行く立ち合いを為せたな
ら、今後家族には手を上げないと、約束して貰えたの。漸く許されたチャンス。逃げられ
ない。

 わたしの求めは、荒唐無稽に聞えたかな。

 沢尻君は、把握しきれない程多くの情報を全て解析する事を諦め、今は常識に従う事に。

「文彦。良いから羽藤を連れて逃げろっ…」

 彼氏なら恋人を確かに守れと、瞳で語り。
 健吾さんに立って向き直って正視を返す。
 その肩越しに健吾さんはわたしに視線を、

「恋人達に担がれて逃げ帰るか、羽藤柚明」
「待って。わたしは未だ、応えられます…」

 行かせたい者と留めたい者とが絡み合う。

「早く行け、文彦!」「北野君少し待って」

 北野君の硬い腕に感じる怯えも今は抑えて。
 この身を案じて引っ張る太い腕にも抗って。

「危ないです、先輩」「危ないのは沢尻君」

 今この立ち合いを阻めば、健吾さんは初見の人でも唯では済まさない。わたしが受ける
と向き合った末に、そのわたしが途中退場しよう物なら、彼の想いが行き場を失う。2人
の想いは嬉しいけど、それに今従う訳には…。

「女の子は、黙って男に守られていろっ!」

 沢尻君の厳しい叱声は有り難かったけど。
 北野君の強く深い心配も嬉しかったけど。

「じゃあしっかり守るんだな。この俺から」

 左肩と左腕を北野君に引っ張られたわたしの目の前で。健吾さんは立ち塞がる沢尻君の
左脇腹を狙いすまし。沢尻君は素人だ。うなりを上げて迫る右回し蹴りは防げない。そし
て男の子の沢尻君に健吾さんも遠慮はなくて。

 蹴りが脇腹にまともに入れば内臓も危うい。
 ブロックしても初心者では腕が折れる程の。
 これ以上、己の力不足で誰かが傷つく事は。
 わたしの所為で誰かが痛み哀しむ事はもう。

「させないわ……。だめぇっ!」

 贄の血の痺れを北野君に流して拘束を解く。健吾さんの足と沢尻君の間に身を挟め。わ
たしは背に強烈な蹴りを受け、抱き留めた沢尻君共々に、反対側の壁に叩き付けられてい
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「俺の蹴りより、早いだと……!」

 北野君の拘束を瞬時に振り払えた事以上に、蹴りが当たる前に立ち上がって、沢尻君を
抱き留め庇えた事に、健吾さんは絶句していた。

 でもわたしにはそんな事はどうでも良くて。
 痛みも負傷も勝敗の行方もどうでも良くて。
 今大事なのは一緒に壁に叩き付けられた人。

 わたしの為に危険を被り、わたしの所為で痛みを受け。咎もなく口を切って血を流した。

「沢尻君、大丈夫? しっかりしてっ…!」

「羽藤。お前、無茶、しすぎ、ごほっ……」

 北野君はわたしの痺れ以上に展開に目も丸く固まって、言葉以上に心が整理されてない。
その前で、沢尻君が言葉と一緒に出した血を、セーラー服に受けつつ頬を合わせるわたし
に、

「お前の方が、痛み大きいだろ。直撃して」

 漸く絞り出したけど、息が出来ない程の痛みが肌で触れて感じ取れ。怯えなど感じてい
られなかった。わたしの為に、わたしの所為で、わたしが傷つけてしまったたいせつな人。
今はその想いを受けて確かに強い親愛を返し、

「大丈夫。わたしは全然大丈夫。沢尻君が無事なら、わたしは幾ら痛んでも全然大丈夫」

 例えこの瞬間に健吾さんの一撃が来ても尚。
 自分の事より今は目の前の沢尻君が優先だ。

「ごめんなさい。わたしの所為で、痛い想いをさせて。傷つけたくないたいせつな人を」

 贄の癒しは既に流し込んでいる。蹴りの直撃は防いだけど、衝撃は届いていた。2人揃
って壁に叩き付けられたので彼にはその分も。

 生命には障らないけど。そんな事はわたしが許さないけど。己が招いた事の末が、他の
人に禍を及ぼす。癒すのも治すのも謝るのも当然だけど。人に禍を与える自身が情けない。
この末を防げない己の非力が悔しく呪わしい。

「心配してくれたのに、酷い目に遭わせて」

 本当に、ごめんなさい。そして有り難う。
 そこ迄して守ろうとしてくれた。嬉しい。

 肉が食い込む程の抱擁をしても、怖くない。
 硬い男の子の筋肉を感じても、怯えがない。
 自然に温もりを通わせ、肌触りを感じ取れ。

 今が非常事態だから、痛みの様に棚上げしているのだろうか。さっき迄、この冬からず
っと感じていた、硬い筋肉への、男の子への、暴力への、肌に触れる事への怯えを感じず
…。

「なんで、なんだよ……?」「沢尻君…?」

 それは小学6年の夏に、グラウンドで豪雨の中で交わした、わたし達のやりとりの続き。

『何でなんだよ。何でお前が、お前じゃない奴の為に、そこ迄しなきゃいけないんだよ』

『お前がお前の事で哀しむなら分る。お前がお前の為に苦しむなら分る。お前がお前の所
為で傷つくなら俺も理解するよ。でも、お前が流す涙は全部、他人の為の物ばかりだ!』

「そこ迄して、お前に何が返ってくるんだよ。鴨や和泉はともかく、平田詩織は遠くに去
り、白川夕維はお前を散々振り回し、朝松利香はお前を恨んで。人に関れば関る程誤解受
けて、噂増やして。友も確かに増えたけど、それで済まない損失負って。絶対勘定合って
ないぞ。
 好い加減にしろ。お前をたいせつに想う者の心配や苛立ち、考えた事あるのかよ…!」

 心を痛め、体を痛め。中学生の女の子が血塗れで。お前はどこ迄傷を負えば懲りるんだ。

 睨み付けてくる苦々しい視線を正視して、

「懲りないよ。たいせつな人の為なら、その人の涙を防ぐ為なら、わたしはどこ迄も…」

 届かない事はやむを得ない。不可能は諦める。どうやっても無理な事も、世の中にはあ
ると分る。どんなに頑張っても取り戻せない、及ばない届かない事があるとわたしも知っ
た。

「唯出来る事には全身全霊挑まないと。可能性があるなら、無理じゃない事には、届かせ
られる限り、己の全てを注ぎたい」「……」

「羽藤先輩の無理しないってのは、絶対不可能以外は決して諦めないって意味なのか…」

 違うの? と一度視線を向けると、北野君は不思議な物を見た表情で言葉を失っていた。

「二度と自分を嫌いたくない。後悔したくない。助けられる筈の人を助けられず、哀しみ
苦しむ様から視線を逸らして俯きたくはない。たいせつなひとに愛して貰えたこのわたし
が、自身の咎にも今にも向き合って生きる為に」

 預けられた想いを承けて生きて行く為に。

 みんなを心配させて、心底申し訳ないけど。己の非力が招いた末は謝って尚。羽藤柚明
は最後迄羽藤柚明であり続ける。みんなを心配させない様に、わたし、もっと強くなるか
ら。

「今少し、わたしを見守っていて。お願い」

 明日からも今の健吾さんとの立ち合いも。

「どう考えても無理だ。相手はあの体格だぞ。
 ……まさかお前、あいつに勝てると…?」

「勝利は必須じゃない。わたしは勝つ為に戦う訳じゃない。この立ち合いは彼を倒す為じ
ゃない。彼の想いを充分受け止められれば」

 沢尻君の想いも北野君の想いも確かに受け取った。肌身に感じた。嬉しかった。同じ様
にわたしは健吾さんの想いも受け止めたいの。その為の立ち合いよ。決して不可能じゃな
い。

「わたしの想いも、確かに彼に届けないと」

 沢尻君は暫し痛みも忘れてわたしを見つめ、

「戦いさえ、立ち合いさえもお前は、想いを通わす方法に使うと言うのか? 俺には勝っ
て唯叩き潰す方が、未だ簡単に想えて来た」

 どのみち俺は少しの間、動けない。お前は、動けるんだな。あの蹴りを直撃されておい
て。

「悪かった、余計にお前の足を引っ張って」

 諦めた様に2本の腕がこの身を解き放つ。
 わたしも合わせた頬を離して瞳を見つめ。

「ううん、有り難う。嬉しかった。沢尻君の想いも北野君の想いもわたしの想いを支えて
くれる。わたしに更に力を与えてくれる…」

 北野君も沢尻君もわたしのたいせつな人。
 沢尻君は半ば呆れ、半ば諦め、でも声を、

「全部の人間が、誠に誠を返すお人好しばかりとは限らないんだぞ、羽藤」「うん……」

 だからこそそれが通じる人は大事にしたい。
 助けたい、支えたい、守りたい、愛したい。
 届かせられる限り、己の体と心の続く限り。

「少し待っていて。確かに済ませてくる…」

 振り向くと健吾さんを正視して頭を下げ、

「お待たせしました。お話しの間、攻撃を控えて頂いて、有り難うございます」「彼氏を
庇って動けない貴様は唯の小娘だ。捻り潰しても俺の気は晴れない。全力で逆らってくる
貴様を叩き潰して、漸く俺も勝利に浸れる」

 健吾さんは敢て野獣の如き闘志と笑みを、

「憤りに心が燃えている様だな」「いいえ」

 返事に健吾さんの双眸が訝しむ様に細く、

「彼氏を傷つけた俺が、憎くはないのか?」
「彼を巻き込んでしまったのはわたしです」

 憎いのは、健吾さんではなく己の力不足。

 沢尻君の心配や行動を止められなかったのはわたしの未熟。己の実情を伝えずこの状況
を招いたのはわたしの不明。健吾さんの所為ではない。それは全てわたしの不手際だから。

「わたしの戦いは報復の為じゃない。憎しみを晴らす為に立ち合う訳じゃない。健吾さん
の想いを受けて、わたしの想いを伝える為に。たいせつな人の体を守り心を守り、不安や
哀しみや心細さからも守る為に。想いを通わせ合う為にこそ。わたしは常に、全身全霊
を」

 一瞬だけ健吾さんの瞳が温かな光を帯び、

「なら、俺にその想いを、届かせてみろ!」

「柚明ちゃん!」「羽藤先輩」「羽藤っ…」

 健吾さんの変則な右回し蹴りが脇腹に迫る。

 玄関も廊下も、見事な体格の健吾さんが左右に足を振り回せる広さがない。だから彼は
わたしの左の空間に右足を前蹴りして、それを跳ね上げながらカーブを掛けて回し蹴りに。
コンパクトだけど遠心力で早さも威力もある。元々彼の技量は高いので変速技も並ではな
く。

「ぐぅっ……!」「これを娘の腕で防ぐか」

 左肘を水平に当てて受け止める。肘は体で一番硬い部位の一つだけど、それだけでは防
げないので、わたしは左肘の支えに左掌へ右拳を連結し全力で踏ん張り。普通の達人の攻
撃を防げなければ、とても鬼に対応できない。

 右足が引くと同時に健吾さんの左拳が迫る。
 正拳じゃない。これはボクシングのジャブ。
 威力より早さを重視した、わたし向けの技。

 威力を欠くと言っても彼の筋力と体重なら、当たれば危うい事は同じ。ノックアウトで
はなく、当ててわたしをぐらつかせ捉える為の。

 風を感じつつ、やや前進気味に左に躱すと、待ちかまえた様にそこに彼の右腕のジャブ
が。それをもう一度右に躱すと更に左のジャブが。でも彼は威力より手数を優先したのみ
ならず。

 左のジャブを左に躱すけど、参度目の左腕はその侭戻らず、開いてわたしの右肩を掴み。
彼の意図は、むしろこれか。身を捕捉された。右手も添えて、ぐっと身体を引き寄せられ
て。抱え込まれたこの腹に大きく硬い左膝が入る。

 腹筋に刺さり、胃袋を押し潰す感触が太い。
 痛みというより息が詰まって、身が強ばる。
 弐撃目の右膝にも、痛みより鈍い異物感が。
 参撃目に移ろうかと言う時、漸くわたしの。

「……ぷっ!」

 掌打が左脇腹にヒットした瞬間、健吾さんが飛び退く。膝蹴り予定の左足を前蹴りにし、
両腕でブロックさせて、わたしを引き剥がし。わたしの唇から鮮血が漏れるのは当然だけ
ど、飛び退いて右膝を付いた健吾さんの顔が渋く、その口から血が漏れている様は人目に
も見え。

「せ、先輩?」「向うが退いた」「貴男…」

「とんでもない掌打だな。膝を付くのは久しぶりだ……俺の眼力は正しかった。面白い」

 健吾さんは口から零れた血を拭って舐め。

「愉しませて貰おうじゃないか! なぁ!」

 走り寄る健吾さんに合わせてわたしも進み。
 彼の必殺の右正拳突きにわたしも左掌打を。

「カウンター?」「リーチが違いすぎるぞ」

 健吾さんの動きの伸びの限界迄、見通せば。
 彼の拳を躱し、無防備なその右頬に掌打を。

「ぶふっ!」「当てた……」「いや未だだ」

 健吾さんの左回し打ちがわたしの胴を薙ぎに来る。それはわたしを倒すより、ひとまず
退かせて体勢を立て直したい動きだったけど。わたしは退きはせず、ブロックで防御もせ
ず、その左手首を捉まえ捻りつつ、足払いを掛け。

「投げた……」「あの巨体を」「うそっ…」

 身を翻しつつ彼の見事な体躯を宙に浮かせ、その侭床に投げ落す。頭から落すのが本当
と真弓さんに教わったけど、今は背中から落す。それでもかなりの速度で衝撃だ。特に健
吾さんは体重もあるから、その痛手も甚大な筈で。

「ぐばあぁっ……!」「貴男あぁぁぁっ!」

 健吾さんが投げられる様は麗香さんも初めて見るらしい。実質の決着に、彼女はわたし
を押しのけ駆け寄って。幼子2人も父の元へ。

「貴男っ、しっかり」「「おとぉさぁん」」

 滅多に見ない夫の気絶に、即答がない事に、麗香さんが詰問の視線をわたしに向けるけ
ど。その時健吾さんが意識を戻した。床に叩き付けられた侭、間近のわたしを最初に見つ
めて。

「甘いな……どうして頭から落さなかった」

 投げ飛ばした程度で勝った積りか。続けて関節を極めるか急所に蹴りでも入れなければ。
俺が敗北を認めない限り、勝敗はまだ未決だ。

 尚鋼の眼光を向ける健吾さんにわたしは、

「わたしの目的は勝利ではありません。それに気を失わせてしまっては、健吾さんがとて
も大切な物を見逃してしまいます」「ん?」

 上下反対で健吾さんの顔を間近に見下ろし、

「あなたが苦戦しても痛んでも、仮に敗れても決して見放さず、守り支えてくれる人を」

 健吾さんは強いから、中々こうして倒れないから。だからこの様に心配される事もない。
強靱な人が病に罹りにくく、薬や医師に馴染みが薄い様に。でもそれは、決して心配され
てない訳じゃなく。愛されてない訳じゃなく。

 気付いていないだけで、あなたはいつも。

「ずっと愛に包まれていた。あなたが守り支えた家族は、同時にあなたを守り支えていた。
あなたを心から、たいせつに想っていた…」

 健吾さんの右手に取り縋る麗香さんに、その腹筋に寄り添う渚ちゃんと遙ちゃんに、視
線を移し。健吾さんは暫く眼見開いて瞬かず。

「憤りを拳に込めたい時は、わたしに下さい。わたしは麗香さんと違う形で受け止められ
る。だからどうかもう、たいせつに想い合う者同士で痛めつけ合うのは止めて。人生を分
ち合ってくれる愛しい人を、哀しませないで…」

 渚ちゃんと遙ちゃんにはお父さんもお母さんも揃っている。わたしが二度と手に入れら
れぬたいせつな物を。家族4人が確かに互いを想い合っている。なのにその表し方が拙い
だけで、涙や叫びを生むなんて可哀相。家族の悲痛に心を痛める麗香さんが可哀相。拳を
振るい終えた後の健吾さんの虚しさが可哀相。

 気付いて欲しかったの。身の回りに充ち満ちた幸せを。無造作にある溢れる程の喜びを。

 わたしのこの戦いは想いを届ける為の物。

「青島麗香は、青島渚は、青島遙は、青島健吾は、みんな羽藤柚明のたいせつな人だから。
毎日微笑んで過ごして欲しい愛しい人だから。
 傷つけて、痛い想いさせてごめんなさい」

 上下逆の状態で、上からその左頬に右頬を当て。心を通わせたいと肌身に伝え、癒しを
流す。掌打も投げも相当の衝撃だから、わたしが与えた痛みだから、わたしが軽減したい。

 健吾さんが微かに身と心を震わせていた。
 それは寒気でも怖れでも哀しみでもなく、

「……満たされたよ。中学生に、この俺が」

 惚れ込んだよ。麗香の気持が理解できた。
 心が充ち満ちて、両の瞼から溢れ出して。

「俺には未だ、一番大事な物が残されていた。失った物は多くても、納得行かない事は多
くても、未だ守らなきゃならない物が確かに」

 俺を求めてくれる人は未だ確かにいたんだ。
 それはわたしも一度は見失った道筋なので。
 己の事として理解できる。涙を実感できる。

「失った物に心囚われ、今目の前の一番たいせつな物に愛を伝えられず、愛されている事
にも気付けずに。俺が、大馬鹿者だった…」

 厳つい顔が潤んで歪み、その太い腕が妻や子を抱き留めに伸ばされて。麗香さん達も確
かに豪腕に懐かれて、想いを交わし支え合い。その表情は暗闇を突き抜けた様に吹っ切れ
て。

 贄の癒しが浸透し、体も心も緊張が抜けた健吾さんが疲労で意識も抜けた時。わたしは
己の所行の報いを受ける。傷や痛みや、血塗れの姿を見られた羞恥や、友達を巻き込んだ
苦味以上に。人に想いを届かせた故の代償を。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ケガはいずれも軽傷です。休ませれば…」

 夫に取り縋る麗香さんの不安を拭おうと。
 左間近でその肩に、軽く触れた時だった。

 振り向いた麗香さんの右掌はこの頬を打ち。
 ぱあぁん。静謐な室内に軽い音が響き渡る。

 動けない沢尻君も北野君も幼子達も固まる。
 間近に向けられるその視線は怒りに燃えて、

「貴女は、大好きだけど……愛しているけど。
 健吾を、私の夫を傷つける者は、許さない。
 私のたいせつな家族を傷つける者は誰でも。
 例え生命の恩人でも、絶対に許さない!」

『私は、夫の気持が今漸く理解できたわ…』

 瞳は愛しさと怒りと、哀しみと申し訳なさに揺れていて。わたしを打ち据えた手も震え。

『夫を取られたくない。夫の心を持って行かれたくない。彼の心を深く汲み、人の苦悩に
も悲哀にも踏み込んで、向き合って抱き留め救い上げる。武道の立ち合い迄受けて立てる。
 他人なのに他人じゃない。想いが深すぎる。中学生とは簡単に男女の仲にならないと想
うけど、危うい。彼が私と彼女の絆に本気で怒ったのも、今になって納得できた。彼も私
の様に柚明ちゃんを愛しそう。そうなっておかしくない。愛しすぎるし彼女は優しすぎる
…。
 健吾を失いたくない。それだけはイヤ!』

 乱れた心を静めるには静謐が必要だった。
 己自身に向き合うには他人は余分だった。
 今、わたしが麗香さんに為せる事はない。

 触れて伝えたいわたしの想いを、麗香さんは怖れていた。撥ね付ける姿勢を崩されそう
で、触れる事を拒んでいた。言葉でも肌身にも今は何も聞きたくないと。1人にしてと…。

 尚わたしへの愛も瞳に視える。尚わたしを望む感触も分る。冷静になる時間が必要なら、
間近なわたしが心を乱すなら。その壁を押し破って想いを伝え求めるのも愛かも知れない
けど。麗香さんには健吾さんがいる。わたしはあくまで繋ぎ役。いっときの代役で充分だ。
それ以上を望めばたいせつな人に不幸を招く。

 夕維さんに翔君が居て、歌織さんに早苗さんが居て、沢尻君に佐々木さんが居る様に…。

「申し訳ありませんでした……失礼します」

 正座から頭と両手を床につき、謝罪を伝え玄関へ。本当は片付けを手伝いたかったけど。
幼子達にも肌触りで安心を伝えたかったけど。

 玄関すぐ外の北野君と目が合った。沢尻君はやや近い玄関で壁に寄り掛って座っている。

「助けに来てくれて有り難う。色々心配掛けて巻き込んで、ごめんなさい」「あ、いや」

 視線を逸らす。血塗れのセーラー服は正視に耐えないだろうか。少し破けてはいるけど、
素肌が見える箇所が刺激的かな。出血も含め。

 わたしは彼に近づいて、両手を両手で胸に持ち上げて、感謝の想いを伝えるけど。彼は
その手をゆっくり、静かに下ろしてほどいて。彼の心がわたしから、離れて行く様を感じ
た。

『俺は結局震えて身動き一つできなかった』

『男子なのに。ヒロ先輩の前で羽藤先輩の彼氏は俺だって大見得切ったのに。情けない』

 忸怩たる想いが苦い表情以上に濃く深く。

『前に立ち塞がる事も出来なかった。青島さんが怖かった。人も殺せそうに見えた。でも、
羽藤先輩はあの人に立ち向かって打ち破った。一歩も動けなかった俺の前で。卓を笑えな
い。これじゃ俺が彼女に守られる恋人の女役だ』

 わたしの行いは男の子のプライドに触れていた。わたしは人の印象や動向を察する力を
持ちながら、相変らず感性鈍く。目の前に明確な結果を示される迄気付けない、分らない。

 北野君は今尚わたしを嫌ってないし、怖れてもいない。唯、己より強い女の子を守るべ
き恋人に持つ事に、否、女の子に守られる弱い恋人という立場に、納得できず飲み込めず。

「ヒロ先輩を、運び出さなきゃ」「そうね」

 拒んで見えてはわたしを傷つけると、北野君は配慮してくれて言葉を続け。視線も敢て
わたしに戻し。意図して為す様がほんの僅かに不自然だ。これが沢尻君がわたしに見た…。

「沢尻君、大丈夫?」「大丈夫じゃ、ない」

「言えてる辺りが大丈夫ですよ、ヒロ先輩」

『俺は結局、青島家の玄関に入れなかった。
 俺が跨いで踏み込むのは全て終ってから』

「本当にごめんなさい。痛い想いをさせ…」

 2人で支えようとするけど、彼は立って動けると助けを断り、歩いて青島家の外に出て。

 郷土資料館で連絡を受け、途中佐々木さんを拾った正樹さんの車の到着はこの時だった。
降りて駆け寄ってきた佐々木さんは、わたしと沢尻君の様子を見て、彼より顔色青くなり。

「怪我もなく終った後で来て、倒れるかよ」
「ヒロ先輩。佐々木先輩は女の子ですから」
「そうね。ちょっと刺激がきつすぎたかも」
「羽藤は今文彦に突っ込むべきだと思うぞ」

 気を失った佐々木さんをわたし達が後部座席で休ませる間、正樹さんは青島家の玄関先
で声を掛けたけど、拒まれて引き上げて来て。

「お詫びは明日以降にした方が良さそうだ」

 警察も病院も出番はない。収拾は内々に。
 明日以降半月位の事の流れは大凡視えた。

 夜も遅いので正樹さんの運転で羽様に帰る。降りる処で止まる迄、佐々木さんは目を覚
ませず、沢尻君の手を握り返して魘されていた。後で事情を尋ねた佐々木さんに、沢尻君
はわたしの戦いの様を省いた概要を、伝える事に。

 羽様小の数キロ手前で3人を下ろす。わたしも車を降りて、今日は心配かけてごめんな
さい、有り難うと両手を握って頭を下げると。

「俺……今日の先輩の事は、話さないから」

 北野君は苦味を隠しきれずとも、尚わたしを気遣って。今迄戦う強さを隠していた事や、
今宵の一件を晒しては拙い事も考えてくれて。

「俺は平穏無事が好きなんだ。これ以上面倒やらかさないでくれよな。これ以上揉めたり
したら、お前じゃないともう面倒見ないぞ」

 沢尻君は同様の苦味もやや薄く、焦点が目覚め直後で心が嵐の佐々木さんに向いていて。
その佐々木さんは、到底納得できない様子で。沢尻君に2回窘められて、何があったのか
の問は引っ込め、後で沢尻君に向ける事にして、

「あなたが血塗れでなかったら、博人にケガさせたあなたを引っぱたいている処よ。その
事は憶えておいて。あなたは本当に大好きだけど大嫌い。博人の心配を分っていながら」

 あなたの向こう見ずが周りの人に、禍を招いているのよ。関係薄い誰かの為に、間近の
人を危険に晒し。あなたは博人の優しさにつけ込んで引きずり回し、傷つけたの。分る?

 答が出ない。佐々木さんの非難は正当だ。

 怒りの真剣さを示す為に、彼女は敢てわたしの握った両手を振り払い、睨んで指さして。

「もう絶対に無理しないと約束する迄、わたしあなたを許さない。本気で反省して頂戴」

 その剣幕に、わたしは唯深々と頭を下げるだけで。沢尻君に宥められつつ3人去って行
く姿を見送り、正樹さんと残りの帰路を行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「叔父さんにも心配掛けて迷惑掛けて、ごめんなさい」「んっ……真弓には叱られるかな。
でも無事で良かった。柚明ちゃんは賢く強いけど、やはり華奢で可憐な女の子だからね」

 正樹さんは血塗れのこの姿も修練などで見慣れている為か、驚きもなく受容してくれて。

「北野君や沢尻君や、健吾さんもそう思ってくれるかな? 健吾さんに掌打当てたり投げ
飛ばしたりして、随分驚かせたと思うけど」

「驚いたとは思う。2人の男の子は柚明ちゃんの強さを全く知らなかった訳だし、青島さ
んもあそこ迄とは思ってなかっただろうし」

 隣で運転する正樹さんの穏やかな語調が心のざわめきを鎮めてくれる。今宵は色々あり
すぎて未だ心が落ち着けてない。桂ちゃんや白花ちゃんにきちんと向き合えるかやや不安。

「強くて隙のない女の子だと思われたかな? 強さや賢さを見せつける嫌味な女の子に思
われたかな? 簡単に映画見ようとかお昼食べようとか誘えない壁を感じさせたかな?」

 沈黙は肯定ではなく、問の続きを促す為で、

「わたし、健吾さんと対峙した時、怖かった。
 健吾さんは本当に強靱で体重も腕力も上で。しかもわたしの技量を見抜けて油断もな
い」

 麗香さんの為に、渚ちゃんや遙ちゃんや健吾さんの為に頑張ったけど。でも絶対退けな
い中で、健吾さんに対峙し続けるのが怖くて。

 あの太い足が、硬い腕が、鋭い眼光が、本気でわたしをねじ伏せに来ていた。修練では
なく、わたしを叩き潰しに。冬休みの時より更に強靱で長くて太い腕や足が、伸ばされて。

「沢尻君と北野君が、わたしを心配して駆けつけてくれた時、わたしとても嬉しかった」

 叔父さんが着いた時と同じ位嬉しかった。

 特に沢尻君はわたしを庇って、健吾さんの前に立ち塞がってくれて。女の子は黙って男
に守られろと、叱りつけてくれて。心強かった。男の子の背中が常の何倍も大きく見えた。

 わたしが冬休みに男の子への怯えを抱いた事も喝破して。でも青島さんの問題が生じる
迄触れないで。この問題を耳にしてわざわざ忠告を。その忠告を裏切ったわたしを、危険
を承知で助けに来て。痛い思いさせ。わたし。

「矛盾している。人を助けられる強さを求め、安心させられる強さを求めて修練始めたの
に。心配されて、駆けつけて貰えて嬉しいなんて。わたしの目指す姿は違う。守る側を目
指しているのに。守られる事は本当は失敗なのに」

 でも、心臓の奥から暖まる程嬉しかった。

「愛される事は男女共に悪い事じゃないさ」

 柚明ちゃんが誰かを想う様に、誰かが柚明ちゃんを想う事もある。助けたく想う事もね。
人は常に守る側で居られはしない。時にはしっかり守られ、気持を受け止める事も良いさ。

 うん。心に染み渡る優しい言葉に頷いて、

「わたし、沢尻君のお陰で、男の子への怯え、なくなったみたい。わたしの代りに健吾さ
んの蹴りを受ける彼を見て、この身を挟めて一緒に壁に叩き付けられて、抱き留めてか
ら」

 必死に彼の無事を祈った。肌を合わせて血の癒しを注いだ。彼を助ける事が全てに優先
した。元々生命に差し障るケガではなかったけど。そう分って尚、彼の身が心配で心配で。

 彼を巻き込んだ己の力不足が、憎く悔しく情けなくて。怯えもその他も吹き飛んでいた。
あの後は健吾さんと戦っても、北野君に触れても、怯えを感じない。抑え込むとか耐える
とかじゃなく、怖くないの。冬休み前と同じ。

 否、違う。同じ目に遭ってももう怯えない。男の子が怖い訳じゃなく、太い手足が怖い
訳じゃなく、怖いのは悪意や害意、敵意だって、心も体も納得できたから。肌身に刻んだ
から。沢尻君の想いが、わたしを癒し救ってくれた。

「男の子に抱いた怯えは、男の子で拭うのが正解だったみたいだね」「うん。そうかも」

 でも多分その強い想いは受けてはいけない。
 わたしではなく沢尻君を深く想う人の為に。
 届かせてはいけない想いも世にはあるのか。

 わたしは今日それに直面した。麗香さんの想いは受けられても、健吾さんの想いは受け
ては拙い。彼がわたしを愛してくれて初めての話しだけど、麗香さんの不安は真剣だった。

 想いを届かせた故の報いは、麗香さんの怯えと混乱だった。わたしは健吾さんに恋心を
抱いた訳ではないけど。だからあの程度で済んだのかも。わたしも恋や愛を交わせる年頃
を迎えつつある。想いを届かせる事、受け止める事はたいせつだけど、届かせてはいけな
い想い、受け止めてはいけない想いもある…。

 わたしは健吾さんを好き、麗香さんも好き。2人が仲良く渚ちゃんや遙ちゃんと日々を
過ごしてくれる事がわたしの願い。それをわたしが壊す様では、わたしの存在に意味がな
い。

 わたしが戦う様を見て北野君の心は離れた。彼は何も悪くないのに、何もしなかった事
に罪悪感を抱き。何一つ彼の所為ではないのに。あれはわたしが望んで承けた事の果てな
のに。

 幾ら言葉掛けて寄り添っても、わたしに彼の心を晴れ渡らせる事はできない。彼はわた
しを尚案じてくれて、深く想ってくれるけど。もう、彼と映画を見たりお昼を食べたりは
…。

 想いを届かせた故の喪失は、苦かったけど。
 夕維さんも、利香さんも、可南子ちゃんも。
 全ては得られない。分っていた積りだけど。
 でもね。正樹さんの左肩に頬を軽く当てて、

「冬からついさっき迄、男の子への怯えはずっと拭えなかったけど、白花ちゃんと叔父さ
んにだけは、感じなかったの」「そうかい」

「叔父さん……大好きだよ。ずっと前から」

「有り難う。僕も柚明ちゃんは大好きだよ」

「良かった……。わたし、とっても嬉しい」

 この想いも、これ以上届かせてはいけない。


「想いを届かせた故の(前)」へ戻る

「柚明前章・番外編」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る